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204 名前:華雄曰く、[sage] 投稿日:2011/07/20(水) 04:03:53 ID:oQk76FxE0
ようやく上がりました
筆の遅さに嫌になります

http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0673

宜しければお目汚しください



 一刀が古代の中国と思われる世界に放り出されて十日余りが経っていた。
 甘寧に仕事を覚えるまでの期限として切られた三日間は瞬く間に過ぎた。
 一刀に与えられた仕事は降ろした積荷を運んだり、船着場や倉庫の掃除と言った雑用が
殆どだった。
 集落では主に老人や子供が手伝うような作業ではあるが、それでも現代社会に育ち安穏
と暮らしていた一学生にとってはかなりの重労働だった。
 しかし慣れぬ作業に戸惑い、幾度も周りからどやされたりもしたが決してめげる事無く、
与えられた仕事の全てをやりきった。
 ──何処の馬の骨とも分からん奴が──
 ──あんなひ弱そうな孺子に何が出来る──
 ──どうせ一日と持たずに逃げ出すさ──
 当初はそんな風に一刀を嘲笑っていた水夫達も、そのひたむきな姿勢を目の当たりにす
ると徐々に彼を受け入れ始めた。
 元来陽気で豪放磊落な江東人にとって、一刀の前向きさが好ましく映ったのだった。
 こうして十日も経つと、一刀はすっかり彼等に仲間として受け入れられていた。
 それと共に船に乗る機会も増え、今では若い水夫達に混じって甲板掃除や小舟での漁に
参加させてもらえるまでになっていた。
 そんなある日の事である。
「北郷の様子はどうだ?」
「あっ、お頭!」
「お疲れ様です、お頭!」
「甘寧様、どうも!」
 様子を見に来た甘寧の姿を認め、水夫達が口々に声を掛けた。
「北郷の奴なら、ほらあの通り、しっかりとやってまさぁ」
 一刀の次に若い痩せぎすの男が指差す方に視線を向けると、仲間と談笑しながらもてき
ぱきと仕事をこなす一刀の姿が目に入った。
「ふん。中々様になってきているようだな」
「まだ十日かそこらだってのにあの調子なんですからねぇ。全く大した奴でさぁ」
「ああ、そうだな。だから何時までも油売ってやがると、お前ェなんざすぐに追い抜かれ
ちまうぞ、楊」
「うげっ、趙明さん!す、すいやせん!」
 浅黒く日焼けした大柄な男に横から声を掛けられ、楊が慌てて仕事に戻る。
「ったく、ちょっと目を離すとすぐにサボりやがって……。で、どうしたんです?北郷に
用ですかい、お頭?」
「うむ。北郷も大分我等に馴染んできた様だし、そろそろ『仕事』に就かせてみようかと
思ってな」
「もうですかい!?うーむ……」
「反対か?」
 唸って考え込む趙明に、甘寧が訊ねた。
「いや、反対ってこたぁねぇんですが……あの野郎、妙に性根が真っ直ぐなところがあり
やしてね。正直俺達の『仕事』受け入れる事が出来るかどうか……」
「ダメならそれまでだ。どの道いずれはやらねばならんのだからな」
「まぁ、それもそうですねぇ。分かりやした、やらせて見ましょう。──おーい、北郷!」
 野太い呼び声に、一刀がすぐさま駆け寄ってくる。
「何ですか、趙さん?──あ、甘寧さん、こんちは」
 一刀が軽く手を上げて挨拶すると、甘寧が小さく頷き口を開いた。
「そろそろお前には私達の本当の『仕事』に加わってもらおうと思う」
「本当の『仕事』……?」
「入ったばかりのお前がこんなに早く『仕事』に就くとはな。思春嬢ちゃんにも見所があ
るって認められたってこった。大した奴だぜ、お前はよぉ。がはははは!」
「はぁ……?」
 豪快に笑う趙明とは対照的に、一刀は事態が飲み込めず怪訝な表情を浮かべる。
「まあ詳しい事は見れば分かる。我ら錦帆賊の真の姿がな」
 そう言うと甘寧は一刀に背を向けた。
 しかし、
「あ、あの、ちょっと!」
 立ち去ろうとした甘寧を一刀が呼び止めた。
「何だ?」
「実はもう一つ気になってた事があるんだ」
「ん?」
「さっき趙さんが呼んでた思春嬢ちゃんって甘寧さんの事だろ?時々そういう呼び方して
るけどさ、それってあだ名か何かなのか?」
「!!」
 その瞬間、辺りの空気が凍り付いた。
 甘寧に至っては珍しく表情を強張らせ、一刀を睨み付けていた。
「え?あれ?」
 周囲の雰囲気に気づいた一刀が、戸惑ったように辺りを見回した。
「手前ェ!!」
「うわっ!?」
 いきなり楊に胸倉を掴まれ、一刀が目を白黒させる。
「何を勝手にお頭の真名を呼んでやがんでぇ!」
「え?ま、真名?」
「おうよ!お頭の真名はなぁ、趙さんの様に先代の頃から仕えてる数人の古株にしか許さ
れてねぇんだぞ!?それを手前ェはちっとばかしお頭に目を掛けられてるからって調子に
乗りやがって──」
「待て!」
「え?お、お頭……?」
 拳を固め、今にも一刀を殴り飛ばしそうだった楊を甘寧の声が止めた。
「北郷、お前は確か最初に自分が別の世界から来たと言ったな」
「へ……?あ、ああ、うん。言ったよ。ここは俺の居た世界とは明らかに違う」
 未だ戸惑いの色を顔に浮かべながらも、一刀ははっきりと頷いた。
「ならば問う。お前の居た世界とやらに真名はあったか?」
「いや、無い。って言うか、そもそも真名ってのが何か分からない」
「そうか」
 そうして甘寧は目を閉じて暫し黙考した。
「お頭、そんなでまかせ信じるんですかい?」
「良いからお前は黙ってろ」
「…………へい」
 趙明に窘められ、楊が渋々口を引っ込める。
「真名と言うのはな、私達にとって魂そのものとも言うべき文字通り真の名だ。これを他
人に預けると言う事は、自らの命を預けるに等しい。だから肉親や心から認めた相手など、
特に近しい人間にしか呼ぶ事を許さない。逆に言えばそれ以外の人間が勝手に他人の真名
を呼ぶ事は、決してしてはならないのだ。もしその禁忌を破ればその相手に殺されても文
句が言えない程に大切なものなのだ」
 淡々とした説明ではあったが、甘寧の言葉は一刀にその重要性を悟らせるに充分だった。
「そ、それじゃあ、俺がさっき甘寧さんの真名ってのを呼んでしまったのって……」
「ああ、本来なら私の手でその頸を刎ねているところだな」
「ご、ゴメン!」
 一刀がガバッと頭を下げた。
「俺、そんな大切なものだって全然知らなくて、本当にゴメン!」
「そんなに縮こまらなくても良い」
 思いがけず柔らかな口調で言葉を掛けられ、一刀がハッと顔を上げた。
 甘寧の顔からは先ほどの険が消えていた。
「この国の者なら誰でも知っている事を知らないと言うのは、むしろお前が別の世界から
来たと言う話に信憑性を感じられる。ならばお前の国に無かった禁忌をこの場で犯したか
らと言って処断するのも酷だろう。いくら郷に入っては、と言ってもな」
「ですがこいつが知らないフリをしてるだけって事も考えられますぜ?」
「それこそそんな行動を取る意味が分からんな。即刻斬り捨てられるかも知れないような
危険を冒す理由が何処にある?──とは言え、大目に見るのは今回だけだ。これに懲りた
なら、お前も──」
「うん、分かった!」
「なっ!?」
 言葉を言い終わらない内に眼前間近まで詰め寄られ、甘寧が思わず仰け反る。
「俺もその真名を呼ぶのを許してもらえるほどに認められるよう頑張るよ!」
「は?」
 一刀の言葉に呆気に取られた様子の甘寧だったがやがて、
「……フッ、ククク……そういう意味ではないのだがな。まあ精々頑張って見るがいい」
 楽しそうに笑うと、甘寧は今度こそその場を後にしたのだった。
 
「ふぁああぁぁ……。何にも見えないな。それに風が冷たくて結構肌寒いや」
 朝靄の残る早朝、一刀は甲板から身を乗り出して辺りを見回しながら呟いた。
「あまり乗り出し過ぎると河に落ちるぞ」
「え?あ、おはよう甘寧さん」
「眠そうだな?」
「まあ、何時もより大分早く起きたからなぁ。でも大丈夫。こう見えて寝起きは良い方だ
からさ。……ぁふ」
 そう言いながらも再度小さな欠伸を漏らす。
「フッ、精々目を覚ませておけよ。寝惚けて河に落ちても助けてやらんぞ?」
「は……はは……」
 一刀がバツの悪そうに頭を掻く。
 と、その時だった。
「おーい!獲物が見えたぞ────っ!!」
 見張り台に立っていた男が声を上げた。
 途端に船内には緊迫した空気が張り詰める。
「獲物?魚の群れでも見つけたのか?」
「お前にはこの船が漁船に思えるのか?」
 甘寧が呆れ顔で問い返した。
「え……?それってどういう……」
「黙って見ていろ」
 訳が分からない様子の一刀の言葉を遮り、前方の靄を睨み付けた。
 やがて靄の中から大きな船が姿を現した。
 その姿を認めると、甘寧は腰に結び付けられた紐を解いて目の前にかざした。
 先端には大きな鈴が付けられている。
 甘寧が鈴を振ると、『チリーン、チリーン』と澄んだ音が響き渡った。
 そして鈴を鳴らしたまま、ゆっくりと船の方へと船体を寄せていく。
「よし、やれ」
『応っ!!』
 充分に近づいたところで甘寧が下知を下すと、水夫達が喊声を上げて動き出した。
 渡し板で船を繋ぎ、次々と相手の船へと乗り込んでいく。
「北郷、お前も来い」
「わ、分かった」
 甘寧に促され、一刀もその後に続いた。
「…………え?」
 目に飛び込んできた光景に、一刀は言葉を失っていた。
 それは仲間の水夫達が手に手に武器を持ち、相手の船の船員や乗客達を威圧している姿
だった。
「我等は錦帆賊だ。この水域は我等の縄張り。通るのならば通行料として積荷の一割を差
し出してもらおう。大人しく言う事を聞くなら無駄な血は流さないと約束する」
 甘寧の言葉に、威圧されている側の船員達が何故かホッとした表情を浮かべる。
 しかし目の前の光景に衝撃を受けていた一刀には、その変化は見て取れなかった。
「お、おい、甘寧さん!?」
「何だ?」
 血相を変えて掴みかかる勢いの一刀を、甘寧が冷たく一瞥した。
「何だって……そっちこそ何をしてるんだよ!?」
「積荷の接収だ。我等の縄張りを通らせるのだ。通行料を取るのは当然だろう。何処の領
土を通るにしても通行税の徴収を受ける事を、貴様とて知らぬわけではあるまい?」
「それはそうだけど……」
 厳密には一刀のこれまでの生活で、通行税などと言う物を支払った経験は無いのだが、
その程度の知識は学校の授業などで得ていた。
「け、けど、こんなやり方……。これじゃまるで盗賊か何かみたいだ」
「それの何が問題なのだ?」
「え?」
「我等は元よりこの長江を根城とする江賊の一派だ」
「コウゾク……?」
 聞き慣れない言葉に一刀が首を傾げる。
「山の中に拠る賊徒が山賊なら、海に拠るのが海賊。我等はこの長江に拠っているから江
賊と呼ばれるのだ」
「それじゃあ本物の盗賊じゃないか!」
 思わず一刀が声を荒げた。
「皆あんなに良い人ばっかりなのに、何でこんな事してんだよ!?」
「何故、だと?」
 甘寧がスッと目を細めた。
「そうだよ!こんな事してちゃダメだ!盗賊なんか続けてたって何時かは討伐されてしま
うだろ。そうしたら処刑されちゃうかも知れないんだぞ!?それよりも皆で真面目に──
がふぅっ!?」
 不意に甘寧が一刀を思い切り殴り飛ばした。
 もんどりうつ一刀にツカツカと歩み寄ると、倒れた彼の胸倉をグッと掴み上げた。
「お前がどんな世界から来たかは知らんが、利いた風な口を挟むな」
「ぐっ……!」
 首を締め付けんばかりの勢いに、一刀の口から苦悶の声が漏れる。
「何故こんな事をしているかと訊いたな?良いだろう、教えてやる。それは他に生きる術
が無いからだ。誰もが初めから盗賊などに身を堕としてるとでも思ってるのか?懸命に働
いて作った作物は重い税で殆ど取られて行く。残った僅かな貯えは野盗が根こそぎ奪って
いってしまう。血を吐く思いで娘を妓楼に売って得た金さえも役人に賄賂として要求され、
断れば重罪人として死ぬまで牢獄暮らしだ。そうして帰る所も失くしてようやくここへ辿
り着いた人間に、お前はどう生きろと言うのだ!」
「……確かに俺には皆のしてきた苦労は分からないよ。俺の居た世界は平和で裕福で、戦
争とか飢えとかって話も聞いてはいたけど何処か遠い世界の話で……。でもこれだけは分
かる。奪われたからってより弱者から奪い返すってのは違う。みんな奪われて苦しんでき
たんだろ?何で奪う方に回れるんだよ!」
「お若いの。少し落ち着きなされ。あんたは少し誤解をされておる」
「え?誤解って……。でもあなたは……?」
 甘寧の迫力にも怯まず言い返す一刀を宥めたのは、略奪を受けている筈の商人だった。
 孫娘らしき幼い少女を連れた身なりの良い老人は、盗賊に囲まれていると言う状況にも
全く恐怖を感じていないように見えた。
 尤もそれは老人だけでなく、他の船員や乗客達も剣を突きつけられている割には随分と
落ち着いた様子を見せている。
 また、錦帆賊側も本気で彼らを押さえつけるつもりは無い様で、その証拠に乗客の子供
達などがちょろちょろと動き回っても全く気にしていないようだった。
「確かに甘寧さんには荷物の一部をお渡ししておるが、それはわし等商人にとっては決し
て一方的に不利益を被っていると言う事ではないのじゃよ」
「……どう言う事ですか?」
「この長江には昔から幾つもの江賊達が住んでおっての。中にはそれはそれは酷い輩もお
るのじゃよ。積荷を根こそぎ奪い取るなどマシな方で、乗ってる人間全員身包み剥がれた
挙句に皆殺しにされて船ごと沈められるなんて出来事も少なくなかった。じゃが甘寧さん
達は積荷のたった一割払うだけで縄張りを通る間の護衛までしてくれるんじゃよ。お陰で
この水域はわし等商人が安心して通れる貴重な場所となったんじゃ。今や長江に響く鈴の
音は、軍船や他の江賊達にとっては黄泉路に誘う死の音色と恐れられておるが、わし等に
とっては水神様の守り声みたいなものじゃて」
「……それはあなたがその通行料を払うだけの余裕があると言う事ですよね?」
「ん?確かにそれはそうじゃが──」
 老人の答えを聞くと、一刀は改めて甘寧に顔を向けた。
「甘寧さん、これまで積荷を奪った相手って、皆このお爺さんの様に素直に通行料を払っ
てくれたのか?」
「……いや、中には抵抗を見せる者達もいたな」
「そういう時ってどうした?そのまま通した?」
「そんな事をすれば誰も我等に通行料など払ったりしなくなるだろう」
「なら力ずくで奪ったんだよな?」
「……(こく)」
 甘寧が無言で頷いた。
「結局そう言う事なんだよ。抵抗した人達にとってその荷物がどうしても渡せない大切な
物だったのかも知れないし、一割を支払う余裕すら無かったのかも知れない。そんな人達
からも強引に積荷を奪ってきたんだろ?時には傷付けたりもして。そんなの──俺は絶対
認めない」
 ギリッと歯軋りが聞こえそうなほどに歯を噛み締めて甘寧が一刀を睨んだ。
 荒くれ者の江賊達ですら身を縮こまらせるその眼光を、しかし一刀は真っ向から見返す。
 暫し睨みあう二人だったが、やがて甘寧がプイッと顔を背けた。
「……ならば船を降りるんだな」
 そして静かにそう言い放った。
「これまでの誼だ。街に近い船着場までは乗せてやる」
「……うん、分かった。助けてくれて、ありがとう」
 一刀はヨロヨロと立ち上がって答えると、甘寧に向かって頭を下げる。
 と、一刀は誰かに裾を引っ張られているのに気づいた。
 見ると商人の連れた少女だった。
「え、何?」
「あの、これ」
 少女は一刀に何かを差し出していた。
 それは一刀の携帯であった。
「あれ?あ、そうか、さっき殴られた時にポケットから落としたのかな?」
 一刀の言葉に少女がこくこくと頷く。
「そっか、ありがとう」
 礼を言いながら少女の頭を撫でる一刀だったが、彼女の目が一点を差しているのに気づ
いた。
「このストラップが気になるの?」
「すと……らぷ……?」
 それは以前に一刀がゲームセンターのクレーンゲームで取得した熊のプラスチック製ス
トラップだった。
 独身OLの部屋に熊の着ぐるみ姿で押し掛けて居候した中年男と言う少々変態じみた設
定のゆるキャラストラップを一刀は何の気なしに取り付けていたのだ。
「あげようか?」
「いいの!?」
 一刀が言うと、少女はパッと表情を輝かせた。
「はい、携帯を拾ってくれたお礼だよ」
「ありがとう!──お祖父ちゃーん!」
 大喜びで祖父の下へ駆け寄る少女の姿を見ていると、たった今甘寧から訣別を告げられ
寂しさも幾分軽くなり、
(さあ、これからは何とか自分で頑張っていかないとな)
 と、前向きに気分を切り替える事が出来た。
 そして翌日、一刀は船を降り、甘寧達に別れを告げたのだった。
 
「早いとこ仕事見つけなきゃなぁ」
 甘寧達と別れて三日、とある街中をぶらつきながら一刀は独りごちた。
 唯一の所持品であった携帯を売って当座の宿代程度は手にしたが、早晩その金も尽きる
のは目に見えている。
 何か収入を得る手段を見つける事は急務であった。
「今にして思えばあの携帯もかなり買い叩かれた気はするけど、俺にこの世界の相場なん
て分かるわけ無いしな。まあ、どの道バッテリーも大した保たないし、切れたらそれまで
だから仕方ないか。──と、それより仕事仕事」
 とは言えいきなり雇ってくれと言われて雇う人間などはそうそう居ない。
 ましてやこの時代の人間からは奇異に映る格好をしている一刀では尚更である。
 手当たり次第にあちこち飛び込んで仕事を貰えるよう頼み込んでみるものの、断られる
こと十件を数える頃には流石の一刀も意気消沈していた。
 そうして肩を落とし、俯いて歩いていると、
「きゃっ!?」
「わっ!──す、すいません!」
 誰かにぶつかってしまい、慌てて顔を上げた。
「っ!」
 相手の姿に一瞬息を呑む。
 それは長身の女性だった。
 眩いばかりの美貌を薄紅色に輝く髪が彩り、この辺りの人間に多い褐色の肌は成熟した
完璧な曲線を描いていた。
「ん?何?」
 天女と見紛うばかりの美しさに目を奪われていた一刀だったが、怪訝な表情を向けられ
て我に返ると、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめん!俺、よく前を見てなくて!」
「あはは、ちょっとぶつかっただけだから大丈夫よ、そんなに畏まらなくっても」
 必死な一刀の様子がおかしかったのか、女性は快活な笑い声を上げた。
「どうしたの、雪蓮?──ん?この子は?」
 そこへ眼鏡を掛け艶やかな黒髪を靡かせた女性が近寄ってきた。
 理知的な雰囲気を纏った彼女は、性格こそ先の女性と正反対に思えたが、絶世のと冠す
るに値する美貌を持っているという点で二人は共通していた。
「ああ、冥琳。何でも無いわよ。ちょっとぶつかっただけ。──えーと……」
「北郷一刀。北郷が姓で一刀が名前だよ。字とかは無い」
「ふーん、なら一刀って呼んで良いかな?袖摺り合うも何とやらって言うものね。それで
私の名前はそ──」
「祖茂だ。そして私は朱治と言う」
 友人の言葉を途中で遮り、眼鏡の女性がそう名乗った。
「ちょ、ちょっと冥琳!?」
 祖茂と紹介された女性が何やら非難めいた声を上げると、朱治が彼女を引っ張り耳元で
何事かを囁いた。
(何処の誰とも知れない人間に、いきなり本名を名乗ってどうするの?ましてやここは呉
の領土ではないのよ?少しは自分の立場と言うものを弁えて頂戴)
(えー?あの子、そんなに悪い子には見えないんだけどなー)
(それでも、よ。貴女は私達にとって掛け替えのない玉なのだから)
(はいはい。もう、心配性ねー、冥琳ったら)
(誰の所為でこうなったんだか……)
「あ、あのー……?」
 置いて行かれた感のある一刀が恐る恐る声を掛けた。
「ああ、すまん。こちらの話だ。それより連れが迷惑を掛けたな」
「ちょっとー!私は何もしてないわよー!」
「俺がよそ見しててぶつかったんだ。悪いのは俺の方だよ」
「ほう、そうなのか?」
「何よー、いきなり私の事を疑ったりしてー。冥琳ってばひどーい」
「ふふっ、許せ。何しろ普段が普段なものなのでな」
「ぶーぶー」
 祖茂の上げた抗議の声を、朱治が笑いながら受け流す。
 そんなやり取りからも二人の親愛の強さが伺えた。
「ははっ、祖茂さんと朱治さんって仲が良いんだね」
 思わず笑い声と共にそんな感想が口をついた。
「だって私と冥琳ってば愛し合っちゃってるんだもーん」
「まあ、腐れ縁と言う奴だ」
「またそんな言い方するー!」
「あははっ」
 二人のじゃれ合いに再び一刀が笑みを零す。
「ほら、冥琳の所為で笑われちゃったじゃない」
「ごめん、ごめん。二人を見てたら久し振りに明るい気持ちになったもんだからさ」
「んー、そうなの?そう言えばさっきは何だか難しい顔で歩いてたみたいだったわね。ね、
良かったら訳を聞かせてくれない?もしかしたら何か力になってあげられるかも知れない
わよ?」
「お、おい、雪蓮!?」
 急に何を言い出すのかと、朱治が慌てた声を出した。
「まあまあ、良いじゃない。これも何かの縁よ。さ、そうと決まったらこんな所で立ち話
もなんだし、何処かお店にでも入りましょ」
「え?いや、あの、俺は──」
 祖茂は強引に話をまとめると、一刀の答えも聞かずに腕を曳いて歩き出した。
「やれやれ……。本当、サボる口実を見付ける事に懸けては天才的なのだから……」
 朱治がそう嘆息するのが聞こえ、一刀は苦笑するしか無かったのだった。
 
 三人が適当な店を見つけて入ると、昼時を幾許か過ぎていたせいか他には五・六人の男
達の集団が酒盛りをしている以外は客が居なかった。
 いかにも荒くれ者と言った風体の男達は、入ってきた一刀達をちらりと一瞥するも、す
ぐに話に戻った。
「空いてて丁度良いわね。さ、その辺に座りましょ。──おばちゃーん、私この海鮮焼き
そばと豚の角煮、それとお酒ねー!」
「こら、雪蓮!お前、戻ったら仕事が残っている事を忘れていないだろうな?」
 席に着くなり採譜を広げて注文する祖茂に対し、朱治が厳しい顔つきで言葉を投げる。
「大丈夫よー。一杯くらいで酔ったりしないもーん」
「一杯で済んだ例が無いでしょう、貴女は……」
「良いから冥琳も飲みなさいって。どの道まだ時は来ていないんだし」
「私はお前と違って今の時点でもやる事は山積しているのだがな」
 ぶつくさと文句を言いながらも杯を受ける辺り、半ば諦めているようにも見えた。
「大目に見るのは今だけだぞ。いずれ時が来たら断酒してでも働いてもらうからな」
「やーよ。お酒止めるなんて私に死ねって言うのも同然よ」
「お前と言う奴は……」
「はは……大変だね、朱治さん」
「本当にな」
「ちょっと、一刀まで何よー」
 プックリと頬を膨らます祖茂の様子に、一刀達から自然と笑みが零れた。
「そう言えば先ほど何やら悩んでいる様子だったと聞いたが?」
 一頻り笑い合った後で、朱治が一刀に水を向けた。
「え?ああ、そう、実はさ──」
 一刀は大まかな事情を二人に話した。
 尤も甘寧達の事はぼかしていたが。
「ふぅん、それで仕事を探しているのね?」
「うん、そうなんだ。でも中々見つからなくて」
「まあこの辺は労役も少ないし、働き手を取られる事があまり無いから人でも足りている
のだろうな」
「うーん……。ねぇ、冥琳。私達の所で何か仕事あったかな?」
「何?……やれやれ。まあ兵士なら何時でも募集はしているな。とは言え我が軍に入れる
には少々頼りない気がするが」
「いや、俺も戦うとかはちょっと……」
 値踏みするような視線を向けながら言う朱治に、一刀が慌てて首を横に振る。
「何よぉ、いい年した若い男がそんな事でどうするのよ?」
「そう言ってやるな。何処の貴族の子息かは知らんが、とても戦場に立った事がある様に
も見えんのだからな」
「貴族なんかじゃないって。戦った事が無いのは事実だけど」
「そうなのか?だがその様なキラキラと光る着物は今まで見た事が無い。他国の事情がど
うかは知らんが、少なくとも庶人が着れる様な服とも思えんが」
「確かにこっちじゃ珍しいかも知れないけど、俺の居た世界じゃごく普通の素材だよ」
「一刀の居た世界?何それ、どう言う事?」
 一刀の言葉に興味を引かれたのか、祖茂が身を乗り出してきた。
「ああ、実は──」
 一刀は自分がこの世界に来た時の様子を彼女達に話して聞かせた。
「白い流星に乗って現れた、ねぇ」
「尤もこれは俺を拾ってくれた人に聞いた話で、俺自身はよく分からない内にこの世界に
放り出されていたんだけどね」
 一刀の話を聞き終えた祖茂は、顎に手をやり何やら考え込み始めた。
「どうした、雪蓮?確かに面妖な話ではあるが──」
「ねぇ冥琳、貴女も管輅の占いは知っているわよね?」
「管輅だと?あの天の御使いが現れて天下の大乱を収めるとか何とかと言うあれか?」
「そう、それ」
「その管輅がどうしたと言うのだ?」
「似てると思わない?」
「何が──あっ」
 何かに気付いた様に朱治が一刀の顔を見た。
「そう。一刀に、よ」
「いや、確かに一致する符合はあるが、しかしあれはあまりに眉唾な……」
「でも庶人の風評に乗せるにはこれ以上の素材は無いと思わない?」
「しかしこの男が本当の事を話していると言う保証も無いのだぞ」
「うーん、保証ねぇ……」
「えーと、一体何の話を……?」
 置いてけぼりにされた一刀が恐る恐る口を挟んだ。
「ねぇ、一刀。貴方の事をもっとよく聞かせてくれない?」
「俺の事?」
「うん。例えば貴方が他の世界から来たと言う証拠みたいな物が無いかとか──」
『わははははは!!』
 再び身を乗り出してきた祖茂だったが、その言葉は大きな笑い声にかき消された。
 見るとそれは、一刀達よりも先に飲んでいた男達の物だった。
 どうやら良い具合に出来上がって声が大きくなってきたらしい。
「んもぉ、煩いわね。場所、変えましょか」
 そう言って祖茂が腰を上げかけた時だった。
「それにしても本当に鈴の音を鳴らしたら近寄ってくるなんてな」
 一刀の動きが止まった。
「一刀?」
 訝しげな祖茂の声にも答えず、一刀がゆっくりと男達に顔を向ける。
「楽なもんだったぜ。毎回あの手で行きたいもんだな」
「けどあんまり派手にやって錦帆の奴等に気付かれたらどうする?流石に縄張り荒らしを
見逃してくれるとも思えねぇぞ?」
「なぁに、そん時ゃあいつ等もやっちまって俺達が奴等になりすませば良いのよ。あんな
良い狩場がすぐ近くにあるってのに指咥えて見てる手は無ぇだろ?ほら、あんなガキでさ
えこんなお宝懐に入れてたんだぜ?」
 男の一人がそう言いながら取り出した物に、一刀が目を見開いた。
「木でもねぇ、土でもねぇ。玉や璧とも違う。今まで見
た事ねぇぜ、こんな物はよ。一体何で作ってあるってんだ?」
 男が指先にぶら下げている小さな熊の人形。
 それは紛れも無く一刀があの少女に上げた携帯ストラップだった。
「ったく、あのガキ、ぎっちり握り締めてやがるもんだから折角のお宝に血が付いちまっ
たぜ」
「おい、こんな場所であまり物騒な話は──ん?何だ、手前ェは?何を見てやがんだ!」
 一刀の視線に気付いた男が凄んだ。
「それ……何処で……手に入れたんだ……?」
 男の言葉を無視して一刀が掠れる声で訊ねた。
「ああ!?んなの手前ェに関係あんのか!?」
 ストラップを持った男が声を荒げると、他の男達もガタガタと立ち上がり一刀を睨む。
「それは……俺があの子に……あげたんだ……」
「あぁん?手前ェ、あのガキの知り合いかよ。なら残念だな。今頃魚の餌にでもなってる
ぜ。クックック」
「殺……した……のか……?あんな……小さな子……を……?」
「だったらどうする?役人にでもチクるか?言っておいてやるがな、俺達の頭はこの街の
領主様の甥っ子でよ、他所の船の一隻や二隻沈めたところでお咎め無しってわけだ」
「それともお前が相手するか?それなら身包み剥いだ後で、あのガキと同じ場所に沈めて
やっても良いぜ?」
「尤も俺達としちゃあ、手前ェみてぇな小僧よりも、そっちの姉ちゃん共に相手してもら
う方が嬉しいけどな」
「違ぇねぇ!ギャハハハハ──ッ!!」
 男達が口々に言って下品な笑い声を上げた。
「お前等ぁぁ──ッ!!」
 一刀が激昂して拳を振り上げる。
 しかしその手は振り下ろす前に後ろから掴まれた。
「良いわよ」
 一刀の腕を掴みながら、祖茂が艶然とした笑みを浮かべて言った。
 だがその目は全く笑っておらず、一見華奢なその手に掴まれたままの腕も全く動かす事
が出来なかった。
 ずい、と彼女が一歩前に踏み出す。
「おうおう、マジかよ?こんな上玉が相手してくれるなんてツいてるぜ!」
 男達が一気に色めきたった。
「おい、雪蓮。他領で目立つ真似は弁えろと──」
「悪いけど却下よ。一刀を見殺しにする訳にはいかないし、そうでなくともこいつ等生か
しておいて良い輩ではない」
「雪蓮……。ふぅ、随分とその少年が気に入ったようね」
「ええ。この子は私達にとって大きな力になると、私の勘が言ってるのよ」
「──良いわ。ここは貴女の勘を信じましょう。それに、後半は私も同意だものね」
 言って朱治も男達を睨み付けた。
「何をごちゃごちゃ言ってやがんだ?それともそっちの姉ちゃんも相手をしてくれるって
のか?」
「いいえ、相手をするのは私だけよ。尤も無料でと言う訳にはいかないけどね」
「何だ、随分色っぽい姉ちゃんだと思ったが妓女だったのか?まあ良いや。これだけの上
玉は中々見ねぇからな。幸い今は懐も暖かいし、たっぷり弾んでやるからその分楽しませ
てくれよ?」
「別にお金なんて要らないわよ」
「へ?なら何が──」
「代償はお前達の命」
 その言葉と共に光が一閃し、男の身体は首から上を失っていた。
 一刀も、そして男達も一体何が起きたのか分からず動きが止まる。
 一瞬遅れて斬られた男から血が噴き出し、その場にくずおれた。
 それで我に返った男達が慌てて剣に手を掛ける。
 しかしその時には既に祖茂が大きく踏み込み再び剣を一閃していた。
 男達には断末魔を上げる間すら与えられなかった。
 ドサドサッと首の無い身体が倒れる音だけがその場に響く。
 その時なってようやく一刀の頭に事態の成り行きが染み渡ってきた。
 頭と胴が泣き別れとなった幾つもの骸とむせ返るような血臭が店内を埋めている。
 胃の内容物が逆流するのを一刀は感じた。
「うっ……うぷ、うげぇぇ──ッ!ゲホッ、ゲホゲホッ、うえっ、おふっ、おぉえぇぇっ、
ゴフッ、ゴフ……ハァハァ……うぅぷ、ゲボッ、ゴボ、おおぇ……ハァハァ……」
 先ほど食べた物を全て戻しても嘔吐は止まらず、胃液だけを吐き続ける。
 そのまま暫しの時間が過ぎた。
 やがてようやく落ち着いたのか、一刀が顔を上げた。
「ちょっと一刀、大丈夫?んー、この程度で吐くなんて、意外と精神的に弱いのねぇ」
 祖茂が心配半分呆れ半分と言った様子で声を掛けた。
「ハァハァ……。──ご、ごめん、でも、もう大丈夫だから」
 涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃの顔で、しかししっかりと一刀が頷く。
 そして最初に斬られた男の死体に近付くと、その手からストラップを抜き取った。
 拳にしっかり握り込まれていた所為か、幸いにも男の血は殆ど付着していなかった。
 だがその代わり、乾いた茶色い汚れがこびり付いている。
 その汚れが何を意味しているのかに思考が辿り着き、強い憤りで一刀の身体がブルッと
震えた。
「二人とも、そろそろ場所を移そう。このままここに留まっていてはやがて役人が現れる
だろう。いくら相手がゴロツキ風情とは言え、捕まったりしては少々面倒な事になる」
「そうね。──おじさん?」
「ヒッ!?」
 祖茂が顔を向けると、店主が怯えた様に体を竦めた。
 あまりの状況に、これまで身動き一つ取れずにいたのだ。
「騒がせて悪かったわね。これは迷惑料よ。店を片付ける足しにして頂戴」
 口止め料も込みなのだろう。
 彼女はかなりの金額を店主に渡すと、一刀と朱治を伴って店を出た。
「さーてと。それじゃあ一刀はひとまず私達と来ない?」
 しかし一刀は祖茂の申し出に対し、首を横に振った。
「ごめん。嬉しいけどちょっと先にやる事が出来た」
「やる事?」
「うん。目を……覚ましてやらなきゃならない奴が居るんだ」
 そんな一刀の顔を見定めるようにしてじっと見つめていた祖茂だったが、やがてフッと
表情を和らげた。
「そっか。それじゃ仕方ないわねー」
「色々世話になったのに勝手言ってゴメン」
「いいの、いいの。また縁があったら逢えるでしょうしね」
「うん。祖茂さんも朱治さんも、本当に色々ありがとう」
 そう二人に頭を下げると、一刀は駆け出した。
「あーっ、ちょっと待って一刀!」
「えっ!?」
 呼び止められた一刀が後ろを振り返る。
「私達も謝らなくちゃならない事があるの!私、本当は祖茂なんて名前じゃないの!」
「ええっ!?」
「ちょ、ちょっと雪蓮!」
 その告白に一刀も驚いたが、それ以上に朱治が慌てていた。
 だが彼女は構う事無くスッと息を吸うと、朗々と名乗りを上げた。
「我が姓は孫、名は策、字は伯符!呉の王にして、いずれ天下に覇を唱える者よ!」
 と、急に茶目っ気のある笑顔を浮かべ、「今はまだ南陽太守袁術の客将と言う身分だけ
れどね」と付け加える。
「まったく雪蓮、貴女と言う人は……」
「良いのよ、冥琳。私ね、何だか一刀には嘘を吐きたくないの。気に入った、ってのも勿
論あるんだけどね。でもそれだけじゃなくて、何だかあの子がこの先の私達に大きな関わ
りを持つ存在になるような気がするのよ。──まあ、只の勘なんだけどね」
 そう言って孫策が片目を瞑った。
「だからと言って敵地で名乗る事も無いでしょうに……。とは言え、主君が名乗りを上げ
たと言うのに臣下である私が偽名で通すわけにもいかないわね。──北郷、私の名は周瑜、
字は公謹だ。いずれまたお前と私達の道が交わる事もあろう。その時を楽しみにしている」
 最後の言葉は柔らかな笑みと共に投げ掛けられた。
 だが一刀はそれよりも二人の名に大きな驚きを感じていた。
(孫策に周瑜だって……?あれが小覇王に美周郎……。ハハッ……これはまさしく三国志
じゃないか。甘寧が出てきてもしかしてとは思ったけど……)
 現代にもその勇名を轟かす英雄達との邂逅に、一刀は身体の奥底から何かが沸き起こる
のを感じていた。
「改めてありがとう、孫策さん、周瑜さん!きっとまた逢おう!」
 そう二人に向かって叫ぶと、一刀は今度こそ走り出した。
 それが、希代の英雄孫策と北郷一刀の出会いだった。
 
 朝から日暮れまでの間、僅かな休憩時間以外ひたすら川沿いに歩き続けること丸二日、
両脚の筋肉がパンパンになってもはや前に進む事すら至難となってきた頃、一刀はようや
く見慣れた楼船を視界に捉えた。
 船を川岸に泊め、水夫達が何やら作業をしている。
 そして甲板から彼等を監督する甘寧の姿も見えた。
「甘寧さーん!」
 声を張り上げながら最後の力を振り絞って一刀が駆け寄る。
 相手もこちらに気付いたらしく、作業の手を止めさせると自ら船を降りてきた。
「……ハァハァ……、良かった……ハァハァ……やっと、逢えた。……ハァハァ……」
「どうした、北郷。今更何の用だ?」
 息を切らせる一刀に甘寧が訊ねた。
 声は静かだが、その目は一刀を鋭く睨みつけている。
「ハァハァ……江賊を……辞めさせに来た……ハァフゥ……」
 一刀の言葉に甘寧の表情が険しさを増した。
 目にも留まらぬ速さで剣を抜くと、一刀の首筋にピタリと当てる。
「貴様、この間の事を忘れたのか?仲間だった誼で一度は見逃した。だが、私にも怒りを
抑える限度と言うものがあるぞ」
 しかし一刀は怯む事無く彼女の顔を見返すと、ポケットからゆっくりとストラップを取
り出した。
 甘寧が訝しげな表情を浮かべる。
「何だ、それは?」
「俺があの女の子にあげたものだ」
「……………………。む、そう言えば……」
 暫し逡巡していた甘寧だったが、やがて思い当たったのかそんな呟きを漏らした。
「だが、それなら何故貴様がそれを持っている?あの商人達にまた会ったのか?」
 その問いに一刀は首を横に振った。
「これは……ある男達が持っていた。そいつ等があの子を殺して奪ったんだ」
「何?」
「そいつ等も江賊で、あの子達が乗ってる船を襲い、荷物を奪った後で、皆殺しにして船
ごと沈めたって、言ってた」
 一刀の声が怒りで震えていた。
「私達と別れた後で別の江賊に襲われたと言うのか?それは不幸だったと思うが、それで
私達に江賊から足を洗えと言うのは筋が違うな。同じ江賊とは言え、我等は我等だ。そん
な外道共と同一視されるのは不愉快きわまる」
「そいつ等がどんなやり方で船を襲ったか知ってるか?」
「やり方、だと?」
「そいつ等は、獲物を見付けると鈴を鳴らして、無防備に近付いてきた船を、襲ったんだ」
「!!……なん……だと……?」
 一刀の言葉に甘寧の顔色が変わった。
 遠巻きに見ていた江賊達もあまりの事に言葉を失っている。
「それでも……それでもお前達はそいつ等と関係ないなんて言えるのかよ!?」
 一刀が吼えた。
「確かに殺したのはあんた達じゃないさ!皆が無闇に人を殺すような人間じゃないって事
も知ってる。だけど、この事態を引き起こした一因は必ずあんた達にもある!通行料なん
て口実で積荷を奪って、自分達の縄張りの中だけ守って、すぐ近くにそんな非道い奴等が
居るのに自分達とは関係ないって見てみぬフリをしてた!みんなが最後まで守ってあげて
いれば、あんな子供が死ぬ事なんて無かったんじゃないか!?中途半端に期待させるだけ
なら、最初から何もするなよ!守るなんて言う奴がいなければ、少なくとも警戒だけはで
きた!逃げるって言う選択肢はあったんだよ!」
 この世界に生きていれば普通に幸せな日々を送る事が何より難しいというのは子供でも
知っている。
 皆が官匪の圧政や賊徒による略奪等、理不尽な暴力と隣り合わせの中で精一杯生きてい
るのだ。
 一刀の言葉は無知な理想論とも捉える事が出来る。
 だが無知ゆえの純粋な怒りがあった。
 そしてその怒りが──
「……確かに半端だったな」
「……え?」
「縄張りなんて小さな世界に拘った所為で、あの船の者達を死なせ、自分達の誇りすら穢
してしまった。お前の、言うとおりだ」
 甘寧達の中に息づく侠の心を動かした。
「あの辺りを根城にしている江賊と言えば、宋の一味だったな?」
「へい、宋の黒蛟賊の縄張りですぜ」
「よし。──全員、乗船しろ!我等の誇りに泥を塗った下衆共に報いを与えるぞ!!」
『おおおぉぉぉぉぉ────っ!!』
 喊声が辺りを包む。
「何を呆けている?貴様もさっさと乗れ」
 彼等の勢いに呑まれかかっている一刀に甘寧が声を掛けた。
「お、俺も?」
「当たり前だ。それとも私達の心を焚きつけておいて、自分はトンズラするつもりか?」
「……いや、一緒に行くよ」
「フッ、それで良い。──よし、船を出せ!!」
『おおおぉぉぉぉぉ────っ!!』
 再び勇壮な雄叫びが戦場に響き渡った。
 
 甘寧は何故か船をゆっくりと進めさせ、目的の場所と思われる水域に到着したのは翌日
の朝方だった。
 朝靄のかかる川面を冷たい川風が撫でる。
 ひんやりとした空気は船員達の心身をも引き締めるのか、彼等の動きは何時にも増して
機敏に見えた。
「そろそろだな……」
 舳先から前方を睨みながら甘寧が呟いた。
 と、ほぼ同時に靄の中から大型の楼船が姿を現した。
 水蛇を模した船首と黒く塗られた船体が禍々しい雰囲気を放っている。
 その舳先には肥った禿頭の男が立っていた。
「これはこれは。どっかで見た顔だと思ったら、錦帆賊の甘寧じゃねぇか。断りも無しに
他人の縄張りに入って来やがって一体何の用なんだ?」
「それは貴様がよく分かっているのではないか、宋?」
「さぁて、なぁ?もしかして俺の女にでもなりに来たのか?胸の辺りがちぃっとばかり貧
弱だが、お前ぐらいの別嬪なら大歓迎だぜ。毎晩ヒィヒィ啼かせてやらぁ」
 言って部下と共に宋がゲラゲラと下品な笑い声を上げる。
「手前ェ、お頭になんて事を──!」
「構うな」
 激昂する部下を片手で制すると、甘寧は宋に向かって問い掛けた。
「宋、貴様最近鈴の音を鳴らして私達の船になりすまし、近寄ってきた獲物を狩っている
らしいな?」
「何の事だか分からねぇなぁ〜?」
「フン、しらばっくれるのならそれでも良い。だが私も貴様の醜い面は見飽きた。ついで
に豚狩りでもして長江の掃除をしてやろうと思っているんだが」
 甘寧の罵倒に宋がこめかみを引き攣らせた。
「口の利き方に気をつけろよ、小娘?手足を斬り落として手下共の肉便所にしてやっても
良いんだぜ?」
「自分で犯らずに手下任せか?まあ、貴様の粗末なモノでは肉に埋もれて女も抱けんか」
「殺れぇっ!!」
 怒りで顔を真っ赤にした宋が手を挙げると、敵船から一斉に矢が射掛けられた。
「うわっ!?」
 空を覆う勢いの矢の雨に一刀が思わず頭を抱えて身を竦ませる。
 しかし次の瞬間、突風が巻き起こり、矢は一刀達に届く前に失速して次々と水面に落ち
て行った。
 たまにパラパラと船に届く矢もあったが、すっかり勢いを失ったそれらは仲間達の手で
簡単に打ち払われていく。
「何ぃっ!?」
 思わぬ光景に宋が目を見張った。
「この時間、この水域は我等の方を風上として強い風が吹く。自分の縄張りの特徴すら覚
えていないとは、毛も知恵も無い頭だな。それとも姑息な手段にかまけて、風の読み方す
ら忘れたか」
 次々と浴びせられる甘寧からの痛罵に、宋の顔色がくるくると変わっていく。
 つるりとした頭には、怒りの為に青筋が網目の様に立っていた。
「おのれ、甘寧ぃぃっ!俺を本気で怒らせやがったな!手前ぇら全員、八つ裂きにして魚
の餌にしてくれるわっ!!──野郎共、船を錦帆の奴等にぶつけろ!直接乗り込んで一人
残らず皆殺しにしてやれぃっ!!」
 宋の号令で漆黒の船が一直線に突っ込んできた。
「迎え撃てっ!」
 甘寧の合図で今度は錦帆賊の側が矢を放つ。
 追い風に乗った矢は、普段に倍する威力を持って次々と敵の身体に突き刺さった。
 だが怒りに駆られた宋は、手下がバタバタと斃れていくのを気にも留めず船を進める。
「全員、衝撃に備えろ!」
 敵船が間近に迫り、甘寧が仲間に注意を促した。
 直後にドォンと言う衝撃が船体を襲う。
「うわっ!」
 堪らず一刀が尻餅をついた。
 そのまま勢い余って船の端まで転がっていく。
「わああぁぁぁ──っ!!……え?」
「だから備えろと言っただろう、莫迦者が」
 船縁から一刀の身体が飛び出すかと思われた瞬間、甘寧が彼の身体を抱き止めていた。
「あ、ありがとう」
「礼など言う暇があるなら身を守る事を考えろ。どうせ戦いでは役に立たんのだろう?」
「ああ、情けないけどね」
「フッ、いずれは私が鍛えてやるさ。──趙、北郷を守ってやれ!」
 小さく笑みを漏らすと、甘寧は前方にいる趙明に声を掛けた。
 既に船に乗り込んでいた敵の尖兵を相手にしていた趙明は、その言葉に頷くと手近な敵
を河に放り込んでから一刀の傍まで駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫だって!趙明さんって甘寧さんの次に強いんだろ?そんな人が抜けちゃった
ら大変じゃないか!」
「余計な心配をするな。我等錦帆賊があんな雑魚共に後れを取ると思うのか?」
 言われて一刀が戦場となった甲板に目を向けた。
 確かに見慣れた男達の方が相手よりも数段動きが良い。
 力任せに剣を振り回す敵兵に比べ、錦帆賊の兵達は相手の動きをよく見て、確実に手傷
を負わせているようだった。
「奴等はこれまで弱者を蹂躙するような真似しかしてこなかった。時に官軍ともやり合う
我等が、そんな輩にやられる筈も無いだろう」
 甘寧がそう言う間にも、味方の兵が次々敵を斬り伏せていく。
「さて、部下にばかり働かせるわけにもいかんな」
 独りごちる様に言うと、甘寧自ら戦線へ向かって駆け出した。
 接敵するや否や、銀閃が走った。
 一瞬遅れて血煙が舞う。
 鮮やかな紅に目を奪われ、視線を戻した時には彼女の前に居た敵は倒れていた。
 その後も銀と紅が交互に踊る。
 圧倒的な武だった。
 全身を返り血に染めた甘寧は、その美貌故に凄惨さを増していた。
 それを目の当たりにした敵兵達に恐怖が広がる。
 一人二人と後退りをしだすと、すぐに全軍が算を乱して壊走を始めた。
 勝負が決した、そう思った時だった。
「手前ぇら、そんなゴミ共相手に何を手間取ってやがるぅぅ!!」
 怒声と共にグシャゴシャッと嫌な音が響き、何かが二つ一刀達の居る方へと飛んで来た。
 それは人の身体だった。
 一人は味方、一刀ととも仲の良かった若手の水夫である。
 首がおかしな方に曲がってピクリとも動かない。
 そしてもう一人は敵の兵だった。
 顔の半分がグチャグチャに潰れ、眼窩からは眼球が飛び出している。
 明らかに生きては居ないだろう。
 無残な亡骸に一刀は胃からこみ上げる物を感じていた。
 何とかそれを飲み込み、先ほどの怒声の主へと目を移した。
 宋が暴れていた。
 両手にそれぞれ大振りの狼牙棒を持ち、当たるを幸いと敵も味方も関係無しに殴り飛ば
している。
 巨体に見合った膂力を誇っているようで、宋の攻撃が当たると大の大人が枯れ木の様に
吹き飛ばされ、物言わぬ骸と成り果てていた。
「屑でも一軍を束ねる頭目と言う訳か」
 甘寧が宋に向かって一歩前に出た。
「貴様ら、下がっていろ」
 彼女の言葉に宋と対峙していた部下がサッと身を引く。
 更に敵の兵達も巻き添えを恐れて距離を取った。
「宋よ、貴様の下衆な血で我が刃を穢したくはなかったが、これ以上部下に傷を負わせる
のも忍びない。この甘興覇直々に引導を渡してやるから光栄に思いながら地獄へ逝け」
「小娘ぇぇっ!叩き潰してのしイカにしてやるぅぅ!!」
 ブンブンと唸るほどに武器を振り回して宋が突進してきた。
 掠りでもすれば骨の一本も折れるであろう攻撃に対し、甘寧は構えも取らず無造作に踏
み込んだ。
「貴様ごときでは、この私に擦り傷一つ付けられん」
 言葉と共にチリンチリンチリンと、三度鈴の音が鳴った。
 宋の両腕が落ち、首が舞う。
「鈴の音に誘われて黄泉路へと旅立つんだな」
 宋の身体は両肩と首から血を噴き出しながら走り続け、そのまま船上を飛び出して大河
の中へと落ちて行った。
 頭を討たれた黒蛟賊の残党は戦意を失い、武器を投げ捨てて降伏した。
 甘寧は当初彼等の首を打とうとしていた。
 しかし一刀は──
「敵とは言え、降伏した相手を殺すのはどうかと思うんだ。それよりもしっかりと鍛え直
して弱い人達を守る手伝いをさせたらどうだろう?」
 と、主張した。
 甘寧は「甘い。何時寝首を掻こうとするか分からないし、今更更生するとも思えない」
として一刀の意見を退けようとした。
 だが一刀の粘り強い説得に根負けし、ついに趙明を彼等の指導係として性根を叩き直す
と言う条件で受け入れた。
「全く貴様は奇妙な男だな。一見貧弱で頼りないが、妙に頑固で腹の据わった所がある。
惚けている様で時に知恵を働かせる事もある。今まであまり見た事が無いな、お前の様な
奴は」
 そう言って笑った甘寧の横顔は、それまで一刀が見た事も無い程に柔らかく、暫し見惚
れる程に美しかった。
 しかしその微笑も長くは続かなかった。
 甘寧は不意に表情を引き締めると、一刀へと向き直った。
「さて、この先私は──いや、錦帆賊はこの長江を統べる。弱い者を食い物にするような
外道は討ち滅ぼし、我等と同じ様に侠を掲げる者達に対しては懐柔し、仲間に引き入れる。
そうして誰もが安心してこの河を旅する事が出来るようにしよう。だから北郷、貴様も自
分に出来る限りを以って私に力を貸せ。良いな?」
「……うん。うん、分かった!俺に出来る事なら何でも言ってくれ!」
「良い返事だ。だが私の人使いは少々荒いぞ?その言葉、後になって悔やむなよ?」
「分かってる。これからも宜しくな、甘寧さん!」
「思春だ」
「……へ?」
「これからは思春と呼べ」
「あ、いや、でもそれって真名……だったよな?」
 一刀が戸惑うように問うと、思春は小さく溜息を吐いた。
「察しの悪い男だな。その真名を貴様に預けると言っているのだ」
「あの、けど、良いの?俺なんかに大切な真名を預けたりして?」
「貴様はこの私に進むべき道を変えさせたのだぞ?それほどの相手に真名を許さぬと言う
ような道理はあるまい?」
 一刀は自分を見据える思春の顔を見返した。
 視線が交錯する。
 やがて一刀は大きく頷いた。
「分かった。大事な真名を預けてくれた事、絶対に後悔させない様に頑張るよ。だから、
改めて宜しく、思春」
「フフッ、ならば精々期待させてもらおうか」
 再び浮かんだ微笑は、先ほどのそれより更に魅力的なものだった。
 
 同刻、壁上から彼等の様子を見下ろす人影があった。
 褐色の肌に薄桃色の髪を靡かせた人影は愉快そうに笑みを浮かべた。
「フフフッ、一刀の事をつけて来たら、面白いものが見られたわね」
「随分とあの少年に興味を持ったものね、雪蓮?」
 もう一つの人影──周瑜が半ば呆れた様に孫策へと言葉を返した。
「まあ、ね。きっと一刀は私達にとって、孫呉にとって大きな力となる。そんな予感がす
るのは確かね。でも今面白いと言ったのは別の事」
「別、とは?」
「賊なんてものはすべからく獣よ。でも獣共の全てが餓えた溝鼠と言う訳ではないみたい。
中には誇り高き虎も居る。ならばその虎の牙、孫呉の役に立てられると思わない?
 そう言って孫策は笑みを深くしたのだった。

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