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457 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2011/02/20(日) 02:01:46 ID:3Uc5BD/c0
今回は遅くなって申し訳ありません。玄朝秘史第三部第三十七回をお送りします。
さてさて、一刀と焔耶二人旅も終わりです。しばらくは登場人物が少ない回が続きましたが、
次からは入り乱れる予定です。

★投下予定:
特別なことがない限り、毎週土曜に投下します。なにかありましたら告知します。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。

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玄朝秘史
 第三部 第三十七回



 1.自責


 一刀は猛烈な自己嫌悪に襲われていた。
 焔耶に吐いた暴言を悔いているのではない。あれは悔いるなどという程度のものではない。
 彼の明らかな罪だ。
 自分でもなぜあんなことをしてしまったのかわからないとしても。
 いや、わからないというのは逃げだ。なにしろ、彼はそのことについて既に何回も考えて、結果、自分を外から観察するようにして、己の行動を考察したのだから。それでも、実感は抱けないにしても。
 思い返してみると、あの惨劇を見た途端、吐き戻さなかったのが不思議なのだ。あれだけのむごたらしい現場を、どうして直視できたのか。
 おそらく、あの時に、すでに一刀は己を守るために、自分の感情を強い殻の中に放り込んでいたのだ。それが魁たちの死を経て綻び、爆発し、虚脱状態を抜け出たと思ったら、焔耶に甘えて――そう、あんな八つ当たりをするというのは甘えに他ならない――あの言葉となったわけだ。
 それは一種の防衛機構であろうが、精神の安定を守るために他者を傷つけることが許されるわけもない。
 まして彼は北伐で焔耶の部隊の罪人をその手で処刑し、逃亡兵たちの始末を彼女に押しつけたりもしたのだから、内容的に見てもなおさらだろう。
 だが、いま一刀が己を責めているのは、とてつもなく酷いことをしてしまったことに加え、それを改善しようともしていない自身の怯懦ゆえであった。
 二人はあれ以来、一言も言葉を交わしていない。
 無視されているのではなく、話しかけてみることさえしていないのだ。それでも、これまで二人で旅をしてきた手順に従って、彼らは馬を進め、野営の準備を分担し、体を休めている。無言のままで。
 話しかけてみてどうなるかはわからない。彼女の立場からすれば黙殺するのが当然だろう。しかし、彼はそれを試すことすらしていない。
 この期に及んで、彼は自分が引き起こした事態に対面するのを恐れているのだ。
 なんという卑怯さであろうか。あまりに臆病というものではないか。
 それでも。
 そう、それでも、彼は逃避という己の行動で自らを縛り上げていく。
 地面に直に敷いた布にくるまりつつ、一刀は寝返りをうった。焚き火の向こうに、同じように寝ている焔耶の姿が見える。だが、彼はそれを見つめ続けることが出来ずに目を伏せた。
 彼は彼女に八つ当たりした。自分の無力さを彼女への苛立ちへと転嫁したのだ。それを引き起こしたのはあの無惨な邑の様子と魁たちを死なせてしまったことだが、果たして本当にそうだったろうか。
 一刀は考える。はたしてどうすればあれらの惨劇を防ぐことが出来たろうかと。あるいは、いまもどこかで起きているかもしれない無法を防ぐことは出来るのだろうかと。
 短期的に見れば、もっと早く軍を進めることができたかどうかになってくる。賊を討ち取り、安定を回復させれば、あんなことはなかったはずだ。しかし、そのためには十日ほどは軍の足を速めなければならない。
 それだけの日数短縮は可能だったろうか。
 進軍に関しては、兵たちは出来る限りのことをしてくれている。あれ以上の速度を強いて疲弊させては、軍としての意味をなくしてしまう。
 もし短縮できるところがあったとすれば、一刀が襲われた一件とその後の処理くらいだろうか。あれがなければ、そもそも一刀たちが先行するまでもなく、魁たちと協力することができたかもしれない。
 自責はさらに強くなる。
 やはり、自分のせいなのだ。襲撃者たちがいかに愚かでも、彼らに責任を負わせるわけにはいかない。本人たちは焔耶によって命を奪われているし、そもそも愛紗を保護したのは一刀なのだから。
 だからといって、愛紗に手を貸さないわけにもいかなかった。あの時、愛紗――ひいては蜀は朝廷に圧力を受けていたし、一刀を通じてか、あるいは直接かはともかく、洛陽の支配者たる華琳の力を借りないわけにはいかなかったろう。
 そうなればいずれにしろ魏への反発はくすぶったはずだ。朝廷の謀略を暴いても、混乱しか生じないことを考えれば、さらに対処は難しい。
 では、朝廷を責めるべきだろうか。
 彼らに責任がないとは言えない。なにしろ本来やるべき統治という務めを果たせず、逆にそれを執りおこなおうとしている三国を邪魔しているのだから、迷惑この上ない。
 とはいえ、三国側がそれを利用しているのも事実だ。名目や過去の慣習を役立てるために、朝廷という組織を彼らの側も必要としている。さらに言えば、朝廷が蜀の力を取り込もうと画策した元々の原因は北伐の成功――中途半端な成功にあるであろうことは、以前軍師たちに指摘された通り。
 北伐と言えば、現状の北伐に恋や霞といった強力かつ素早く動ける将を派遣せざるを得なかったのも、ある意味一刀のせいである。
 彼が大返しを決断したことで、前回の北伐は涼州を半ばまで占領するにとどまり、結果、今回の北伐において、一刀が任されている将の大半をそこに注ぎ込まざるを得なかった。それは白眉が発生していなかった当時としては順当な判断ではあったが、戦力を大幅に割かれた状況を発生させてしまった。
 しかしながら、大返しを成功させなければ、そもそも北伐どころではなく、白眉討伐もまた出遅れていただろう。いまの三国が華琳を失えば、大混乱に陥るのは必定だからだ。それは、彼にとっても耐え難い事態である。
 そこまで思考を進めて、一刀は皮肉げに笑みを浮かべる。
 どこまで遡っても、結局の所、一刀と、そして、それ以上に華琳の決断が問題になってくる。
 白眉そのものにしても黄巾と根が同じだとしたら、黄巾の乱の後、張三姉妹を世話――彼の脳裏ではプロデュース――した一刀の責任は大いにあると言わざるを得まい。
 もちろん、現在に限っては彼の自責の念が強く作用しているのだろうが、一方で覇王たる華琳と、その権力の一端を委任されている一刀の様々な決断が、いまこの時の状況を支配しているのもまた事実なのだ。
 そのことを、彼はじっくりと考え始める。
 彼はもう一度焔耶のほうを後ろめたげにちらりと見やった。
 だが、それは先程の視線とは微妙に違っていた。いまや、そこには感謝の念さえ込められている。
 彼は彼女に対して酷いことをしてしまった。しかし、その一方で、こうして考えていることで、なにかがつかめそうな気がしてきたのだ。
 それが果たしてなんなのか、彼自身にもわかっていない。ただ、近づいているという奇妙な確信だけがある。
 彼は眠りに落ちようとする意識の中でも、ひたすらにその『なにか』を捉えようと努めるのだった。


 2.観察


 焔耶は鬱陶しげに髪をかきあげる。
 黒髪の中の白い一房が揺れ、きらきらと陽光をきらめかせる。
 実際の所、鬱陶しいのは髪ではない。刺さってくる視線だ。
 昨日から、時折すがるような視線を飛ばしてくる男は、今日も話しかけてくる様子はない。
 全て無かったことにして取り繕うというような事は彼の性格からしてできないのだろうが、それにしても、少々度が過ぎるのではないかと彼女は思うのだ。
 無言ながら彼女と共に進み続ける胆力はなかなかのものだとは感じている。もっと早くに泣きが入るかと思ったのだが。
 それでも、普段は快活に話す男がずっと黙りこくっているというのは、あまり気分のいいものではない。
 ただ、焔耶は怒っているわけではなかった。
 そもそも怒りを腹にため込んでいられる性質ではない。一度燃え上がらせたなら、もう、それが尾を引くようなことはない。
 もちろん、あの時の屈辱と怒りは凄まじいものであったが、過ぎ去ればそれはもう終わったことだ。
 かえって彼女は一刀に感謝してもいいと思っていたくらいだ。
 あの言葉で彼女は民を救えなかった――無力だった自分を責め続けなくて済んだのだから。
 考えてみるに、自分も男も、生き残りを避難させるという仕事に忙殺されている間は自分の無力さと向き合う必要がなかったのだ。しかし、一度それを終えてみると、考える余裕が出来るだけに、自責の念がわき起こってくる。
 そこで出てきたのがあの言葉というわけだ。
 あれは、もしかしたら、焔耶が吐いていた言葉だったのかもしれない。もちろん、彼女が言うならば、出て来る形は違っただろうけれど。
 おそらく、あの時の二人はお互いを一番効果的に傷つけられる立場にあったのだ。
 だが、いまの男にそれを言ってもわかるはずもない。逆に、彼女が気を遣っているとでも思うだろう。
 なにしろ、まさにいま彼は自分自身を責め続けているのだから。
 だから、黙っていた。なにを言っても、きっと男を苦しめたろう。
 それに少しばかりは彼を反省させてやってもいいのではないか。
 実際、それだけのことをされたのだから。
 焔耶は怒ってはいなかったが、まだ彼に親切に出来るほど落ち着いているわけでもなかった。
 だから、彼女は自分が冷静になるためにも、観察を続けていた。
 死人のように青ざめた顔で隣を行く男の事を。
 いま、彼は後悔している。
 いま、彼は考え続けている――自分がなにが出来たかを。
『自惚れるな、小娘が』
 桔梗に何度も言われた言葉がふいに脳裏に蘇り、焔耶は思わず小さく喉を鳴らしてしまった。不思議そうに目を見張る男に笑みを向けてやって、驚愕の表情を浮かべさせる。
 はっきり言えば、一人でなにが出来るわけもない。
 たとえ彼女より遥かに強い人間であろうと、一度に何ヶ所にもいられるわけではなく、どれだけ政に手腕を発揮する人間であっても、あらゆることが解決できるわけもない。それは、彼も同じだ。
 それでも、やはり、自分になにかできたのではないかと、あと少し早く手を打っていればと思ってしまう。
 そういうものなのだ。
 それを甘さと指摘することも、自惚れと非難することもできよう。
 だが、彼女はそうは思わなかった。
 それは、きっと、彼が心底諦めていない証拠なのだと、そう思う。
 この男は、諦めない。
 冷めているようにも見えるのに、根本的なところで諦めていない。
 きっと、捨ててきたものも、手に入らなかったものもあるはずなのだ。それなのに、どこかで、それら全てを背負って生きている。
 そうそうできることではない。
 彼が、あんなにも多くの女たちに好かれる理由の一端はそこにあるのではないかという考えが浮かび、彼女は苦笑する。そんなことを考えている場合ではないだろうに、と。
 焔耶とて、色々と考えないわけではない。
 敬愛する桃香の理想を実現させるためには、あのような虐殺行為は根絶しなければならない。事態が起きることに対処するのではなく、そもそもそんなことをしようと考える人間が存在しないようにしなければならないのだ。
 一方で、彼女は武人でもある。
 自分の本分は、起きた事態を収拾するため戦うことであることもわかっている。
 桃香の理想は尊いものだし、それを実現すべく働きたいが、しかし、それでも彼女に出来るのは悪辣な賊を討ち、領地を平穏に保つことまでだ。
 白眉のような得体の知れない賊がわき出ることまで防げるわけではない。
 そうなると、朱里や雛里といった頭脳に秀でた人間たちに託すしかない。彼女としてもまだるっこしいことではあるが、それらの人物が動きやすいようにするほうが、よほど物事がうまく行くのだからしかたない。
 彼ほど思索に浸るわけにはいかないのは、そういう理由もあった。
 ちらと彼の方を見ると、再び彼は自分の中の考えに夢中になってしまっているようだった。幸い、彼の乗騎は彼女の馬についてきてくれるので、あまり構わなくてもいい。そうでなかったら、彼女が黄龍の手綱をもっていなければならなかっただろう。なにしろ、乗り手の方は思案に耽溺しすぎてほとんど忘我の状態なのだ。
 もう一度、彼女は彼の事を上から下まで眺めやった。
 よくよく考えてみると、この青年は、下手をすれば彼女の主たる桃香を凌ぐほどの影響力を持つ政治家なのだ。
 現状大陸で随一の権力を持つのは覇王たる曹孟徳であり、その意見を左右できる人間の一人が、この男だ。それを侮るわけにはいかない。
 それなのに、そんなことをまるで感じさせない。
 蜀の頭脳たる二人もそういうところがあるが、あれは体格の部分もあるからどうしようもない。だが、この男の場合、それとも少々違う。
 面白い男だと思う。
 彼女の師が子を産んでやろうと思う相手がろくでもない人間であるはずもないが、それにしても、自分は将たちと並べる器ではないとはよくぞ言えたものだ。
 呂奉先を従え、華雄を動かし、並み居る将を引き連れて大陸を横断するほどの距離を走らせる人間が、器でないとは!
 一刀は本気で言っていたのだろう。それは間違いない。
 だが、思い返すとあまりに滑稽だ。あの時、焔耶は怒るべきだったのではないかと、いまでも思うのだ。
 それにしても、読み切れない。
 弱いくせに焔耶を守りたいと言った口で彼女を人殺しと罵り、それを心底後悔している。その行動だけを見れば、愚かしいと言わざるを得ない。そのくせ、行動や決断は果断で、全体的な方針自体は慎重ときたら、矛盾の塊ではないか。
 だが、それがこの男というものなのだろうな。そう思う。
 天の御遣いというのは、きっと間違っていないのだ。
 彼女はぶつぶつとなにか無心に呟いている男を見やりながら、そんなことを考えていた。


 3.対話


 その夜、一刀は焚き火の側で刀を抜いていた。
 手入れをしようと思ったのだが、刃を見ると彼は顔をしかめる。あの邑で白眉たちに向けてその刀を振るったのは憶えている。しかし、どうやってそれを収めたのか、記憶を辿ってもどうしても思い出せなかった。
 血まみれで鞘に収めるようなことはしていないから、最低限のことは機械的にやったのかもしれないが、それにしても……。
「刃こぼれしているな」
 炎を照り返す刃の、切っ先近く――物打ちに一ヶ所、鍔近くのはばき元に一ヶ所、それぞれ目に見えてわかる毀れがあった。もっと小さなものはさらにたくさんあるだろう。
 そんなことよりも、一刀は声をかけてきた女性を目を丸くして見上げるしかできなかった。いつの間に彼の横に立っていたのか、彼はその気配に気づきもしなかった。
「無茶苦茶に振り回すからだ。打ち手に申し訳ないぞ」
「う、うん」
「しばらく使うな。きちんとみてもらえるまでな」
「わかった」
 一刀は刀を一拭いして鞘に収める。それをその場に置こうか荷物に入れてしまおうか迷うように動いていると、さらに言葉がかかった。
「ワタシと話がしたいか?」
 彼は呆然と彼女の顔を見上げる。ぽかんと口をあけ、どうしたらいいのかよくわからない様子であった。まるで、信じられないような幸運に出会って呆けてしまったような表情であった。
 だが、彼女が苛立ちを見せるに至り、こくこくと熱意を込めて頷いた。
「いいだろう。ただし、謝罪は受け入れない」
「え……」
 一転して青ざめる彼に、彼女は淡々と続ける。
「お前はワタシを侮辱……いや、それ以上のことをした。それは間違いないし、気の迷いだなんだと正当化できるものでもない」
「……そうだな。もし、君が望むなら、真名を返すことも……」
「結局のところ!」
 がっくりと肩を落とし、とんでもないことを言い出す男に、焔耶は大声をあげる。最後まで話を聞けという苛立ちを込めて、彼女は手を大きく振った。
「結局のところ、許すかどうかは、ワタシにかかっているわけだ。だから、ワタシとしては、型どおりの謝罪の言葉などではなく、お前の考えが聞きたい」
「考え?」
「どうせ、考え続けていたのだろう。今回の事や、白眉のこと、これからどうするかを」
 その通りだ。彼はずっと考えていたのだから。
「あ、うん。それは……考えていたけど……」
「だから、それを話してみろ。それがなんであれ見所があるものなら、ワタシの気持ちも和らぐかもしれん」
「……そうか。そうだな」
 焔耶の言いたいこともわかる気がした。一刀があの言葉を放ったのは確かなのだし、それを悔やんでいることも彼女にはわかっているだろう。ただ謝るだけではなんの解決にもならない。
 過去を変えられない以上、未来で彼がなにを出来るか、それを見せる方が正しいやり方だろう。そして、彼女はそれを待つだけの価値があるかどうかを、判断しようとしているのだ。
 一刀にしてみれば、なんとありがたいことか。
 言葉の刃で傷つけておいて、あちらから条件を提示してくれるというのだから。
 だから、彼は話し出した。

「さて、どこからどう話したものかな」
 ぱちぱちと燃える焚き火に折った枝を放り込みながら、一刀は呟く。闇の中で、彼と対面するような位置に戻った焔耶はふんと鼻を鳴らした。
「最初からはじめて最後までいけばいいのだ。お前、義勇軍に会うより前から悩んでいたではないか」
「まあ、それもそうだね。じゃあ、そこからはじめようか。俺はなぜ白眉の乱が起こったのか、考えていた。どのようにして、じゃないよ。なんで起きたか、を。経緯は焔耶だって知っているだろうからね」
 彼女が頷くのに、彼は一度咳払いをしてから話し続ける。
「天師道が唆したのは、まあ、間違いないだろう。それから事が起こった後で、山賊やら不良連中が参加したというのもね。でも、元々は彼らもただの邑人や町人だ。軍人くずれや長いこと賊をやっているのもいるだろうけど、代々賊でしたなんてのは少ないだろうからね。ああ、この際、山越の話は置いておこう。彼らの問題はまた色々とあるから」
「奴らの出自がなにか?」
「俺はさ、不思議だったんだ。軍にとられたわけでもない彼らが、なぜ武器を取ったのかって言うことが。身を守るためならまだわかる。でも、そんな状況でもないのに人々はなぜ武器を取ったのだろうか」
「人が武器をとるのには、いくつか理由があるが、さて……」
 焔耶は腕を組み、己の顎を撫でる。
 彼女自身、武の道で身を立てるために力を欲した過去がある。それは望んだことであると同時に、ある意味でやむにやまれぬ事でもあった。
 しかし、白眉にはそんなものがあるのだろうかというと疑問ではある。
「そう。いくつか理由はある。焔耶のように武人となるためや、軍人として糧を得るためって場合もあれば、食うに困り、追い詰められてってのもある。魁たちのように乱れた世を救おうと義心から立つこともある。そして、もちろん身を守るためにも。でも、白眉は違う」
 そこで彼は言葉を切り、焔耶を真っ直ぐ見つめる。
「いや、違うと思っていた」
「ほう?」
「以前、恋と話をしたことがあるんだ。なぜ戦は起こるんだろうかってね。俺たちは、怖いからだって結論づけた。失うのが怖い。奪われるのが怖い。他人が、自分たちにないものを手に入れるのが怖い。そのために、人々は戦を起こす。自分の心を守るために。
 これまでに見聞してきたことや、魁たちの存在、そして、その戦を起こす心理なんかを考え合わせてみると」
「……と?」
 再び言葉を切る一刀に、もったいぶるなと言いたげに焔耶は先を促した。
「彼らが立ち上がったのもまた、自分たちを守るためなんだよ。俺たちにはそうは見えないんだけれどね。それは、立場の違いに過ぎない」
「どういうことだ? ここ数年、飢饉もなければ大きな戦乱もなかったろう。ああ、いや、荊州ではお前の仕掛けた分割劇があったし、涼州や并州は北伐の影響があったろうが……。それ以外では民に直に響くようなことはなかったはずだろう。黄巾以前に比べても、落ち着いているはずだ」
「そうだね。でも、彼らにとって問題だったのはそういうことじゃないんだよ。彼らはね、焔耶」
 一刀はそこで声をひそめ、ゆっくりと焔耶が聞き間違いようのないようはっきりと単語を区切って発音した。
「彼らは、乱世を終わらせようとしているんだよ」
「はあ?」
 あまりにも驚いたためか、焔耶の返す声は、一拍遅れていた。
 混乱したのか思わず立ち上がろうとする焔耶をなんとか手を振る仕草で押しとどめ、一刀は慎重に言葉を紡ぐ。
「言っておくけど、これは俺の推論でしかないし、そもそも本人たちの中でも形になっていたりはしないと思うよ。でも、俺はそういうことなんじゃないかと思ってる。ええとね、焔耶が言っていた通り、黄巾の以前から世の乱れはひどかった……らしいよね」
 そこで一刀は顔をしかめる。
「これについては俺は記録や又聞きでしか知らないわけだけど、それらから判断するだけでも中央は腐り果て、地方の官は搾取を続け、賊は跋扈して、周辺や漢の土地の中にいた異民族の不満は募っていた。最悪の状況だったようだね」
「戦続きと賄賂の横行する腐った時代とどちらが最悪かはわからんがな」
 言いながら肩をすくめる焔耶は、しかし、どちらがましかという意見をしっかり持っているようだった。
「そうして起こるべくして黄巾は起こった。きっかけは天和たちの煽動とはいえ、大元の不満や不安はいっぱいあったわけだ。本格的な乱世は何進の暗殺やら色々あって始まるわけだけど……最終的には華琳の勝利で事は収まった。三国の連合という形で」
「そうだな」
 渋面を作りつつも、それ以上はなにも言わない焔耶。
「だが、終わってなかったんだよ。彼らにとってはね」
「終わっていない?」
「そう。まだ乱世は続いている」


 4.渇望


「お前の言うとおり、世は乱れているかもしれん。しかし、乱しているのは、白眉だろう。自分たちで乱しておいて乱世が続いていると言われてもな」
 憤慨したような彼女の様子に、一刀は苦笑する。その通り、実際に乱世を作り出しているのは彼らの方なのだ。だが、この場合は少々見方が異なる。
「繰り返すけれど、彼らが意識しているわけじゃないんだ」
「どういうことかわからんぞ」
「うーん。そうだな、動機とかそういうものじゃなくて、そのさらに内側というか……。あくまで割り切れないものを感じて……。いや、違うな。もう少し詳しく順を追って説明するね」
「そう願いたい」
 焔耶の言葉を受けて、一刀は持っていた枝で地面をひっかきはじめる。不格好ながら、この大陸と思えるような地図が、彼の足下に描き出された。
「歴史を振り返ってみよう。元来、この土地は様々な勢力がひしめきあっていた。戦国時代だね。それを秦が統一して、はじめて帝国になったわけだ」
「またえらく古い話を……」
「もちろん秦が主眼じゃないけどね。ともかく、秦は短命に終わり、項羽を経て、劉邦が漢を建てた。その二〇〇年くらい後に王莽が起こした混乱は最終的に光武帝……えっと、劉秀だったか。彼が征した。要するに、この国は統一されて以来、分割という混乱を二度経ている。そして、黄巾の乱以後の動乱が三度目。これはいいかな?」
 かりかりと線を引き、地面の地図を分割していく一刀の様子を眺め、焔耶は考える。彼の言うように考察してみたことはなかったが、歴史自体は知っている。分裂期を取りだしてみれば、そういうことになるのかもしれない。彼女は小さく頷いて先を促した。
「魁によると」と彼はわずかな間だけ苦しそうに顔を歪めた。「分割そのものが、民に不安を与えているらしい。分割と、二重政府……三国と漢という構造がね。俺もそれは理解できないでもない。でも、それだけじゃないと思うんだ。すっきりしないという意味では俺の考えと共通なんだけれど」
 枝を捨て、ぱんぱんと手を払って、一刀は彼女の方へ目を向けた。
「さて、三度の分裂を比較してみると、先の二度と今回では明確な違いがある。悪が打倒されていないことだ。……ああ、うん。そんな顔をしないでくれよ。俺だってわかってるさ」
 怒りと言うよりはあきれ果てたような表情を浮かべる焔耶に、一刀はなだめるように声をかける。そんな男の態度がおかしくて、彼女は苦笑を浮かべた。
「始皇帝はじめ秦の連中はやりすぎな所があったにせよ、どうしようもないほど悪だったわけじゃない。王莽だって世で言われているほどひどかったとも思わない。王朝をのっとることの是非はともかくとして」
「戦など、善悪を決める物ではないからな。もちろん、大義を奉じて戦いに赴くが……」
 それでも負ける時は負けるし、負けたからといってその正義が損なわれるかというと、これもまた違う。実際に、敗北を経ても桃香の理想は色あせてはいないと焔耶は確信していた。
「そう。倒れたものが悪とは限らない。たいていの場合、侵略者にすら義があったりするものだ。でもさ、焔耶。人は物語を、自分に都合のいい筋立てを求めるものなんだよ。たとえば、勧善懲悪とかね」
 臙脂色の瞳が、黒の瞳と視線を交わし、幾度もきらめく。二人は声にすることもなく、いくつもの思いを交わし合った。
「そう……かもしれんな」
 複雑で相対的な事実を、ありのままに受け止められる人間はそう多くない。通常、人は単純明快で絶対的な真実を求めるものだ。
「高祖も光武帝も見方を変えれば悪だろう。大陸をまとめあげるために国を覆し、幾多の人を死地に追いやった。今日で言えば、魏もそうだな。色々と目的も理想もあったけれど、国々を侵略したのは事実だからね。もちろん、やるべき理由があったんだけど。
 だが、俺たちの失敗は、人々に望む物語を与えられなかったことにある。いわば、敵――悪を仕立て上げそこねたってところかな。漢は残しちゃったし、呉も蜀もある。すっきりとした結末とはとても言い難い」
 その論の運びよりも淡々とそれを告げる一刀の姿勢に、焔耶は内心で首をひねる。この男は、本心からこんなことを言っているのだろうか。
 しかし、こんなやり方で煙に巻いたり、嘘を吐いたりする人間ではないことは彼女もよく知っていた。
「つまり、こう言いたいのか。正義が悪を打倒し、この大陸を一つにまとめあげる。そんな夢物語を実現できなかったことが、民に――その少なくとも一部には、乱が続いているように認識させていると」
「うん」
 ためらいもなく頷く一刀に、焔耶は息を呑む。この男は、その推察を心底から言っているのだ。
 それが正しいかどうか、焔耶には判断がつかなかった。
 人が、ややこしい現実よりも、自分が信じるものを求めるという理屈はわかる。
 わかるが、生活をうっちゃってまで、己の中の筋書きを追求するものだろうか。
 納得できないなりに折り合いをつけるのが普通ではないだろうか。少なくとも、以前よりはましな現状となっているはずなのだから。
「しかし、だな。民がそんなことを気にするか?」
「だから、意識はしていないんだよ。明確にはね」
 そこで一刀はなにか思いついたように視線をさまよわせた。
「そうだね、天師道がいなければ、そういったものも掘り起こされずに風化して、消えていってしまったかもしれない。だけど、彼女たちは現れてしまった。張三姉妹と同じように」
「そやつらが……白眉を生み出した煽動者たちが、民の中のそういう機運を引きずり出したと? 奴らの望む『物語』とやらを?」
 疑わしげにねめつける焔耶に、一刀は口の前に拳をあて、少し考えていた。やがて、うまい説明を思いついたようで体を起こす。
「アイドル……。俺の世界で、数え役萬☆姉妹みたいな人たちのことをそう言うんだけどね。元々は偶像って意味なんだよ。崇拝の対象、夢を捧げられる人ってこと」
「む?」
「黄巾党もね、そもそもはそういうものなんだよ。地和たちは、ただ歌って、それを見てもらいたかっただけ。でも、見る側はそこに、自分たちの夢を、希望を、願いを、込める。彼女たちの実像を見るのではなく、舞台の上の彼女たちの演じる姿を見る。自らの祈りを、彼女たちの歌の中に託す。黄巾に参加した人々の心に浮かび上がるのは三姉妹であって三姉妹でない、いわば共通の幻としての三姉妹なんだ。白眉もきっとそうして始まったんだ」
「す、少し待て」
 焔耶は勢い込んで滔々と語る一刀の言葉を遮るように腕を伸ばし、彼の言ったことを理解しようとする。
 幻だと?
 この男は、つまり、人々の夢想こそが、乱を引き起こしたと言っているのか?
「天師道は……白眉は、乱世を終わらせるという願いを受け、それが大きなうねりとなった?」
「うん。そうだ。彼らの中の決着をつけるという意味でね」
 おずおずと口に出した言葉が肯定され、焔耶はさらに思考を転がす。
「つまり、その……奴らは大きな変化を望むわけか? たとえば白眉が大陸中を覆い尽くす状況のような」
「ああ、そういうことだね。彼らの中の正義はそうやって完遂される」
 その言葉に焔耶は柳眉を逆立てた。
「だが、それはあまりに身勝手ではないか。やつらの都合のいい『物語』とやらにつきあわされて、どれだけの……」
「ああ。その通り。彼らを許すわけにはいかない」
 その声のあまりの冷たさに、焔耶は思わず警戒するように眼を細めた。怒気は力ともなるが、この男がそれに支配されたなら、あまりに危険だ。だが一刀は焔耶の様子に苦笑いして答えた。
「俺の目はいまちょっと曇っているかもしれないな。ただし、俺の嫌悪を除いても、彼らは打ち倒さなければいけない。でも、その正体を見誤ったら対処の方法も間違ってしまう。だから、俺は彼らがどこから生まれ出たか考えたかったし、いま話したのが俺なりの結論ってことになる。これが完全無欠な正解とは言わないよ? ただ、今後を考えるにあたって役に立つんじゃないかな」
 焔耶は再び相手の物言いを考えてみる。今度は彼の大胆な推論は置いて、ただ、彼の感情を探ろうと。そこに狂気につながるほどの憎悪は感じられなかった。そのことに胸をなで下ろしている自分に気づき、焔耶は少し驚いてしまうのだった。


 5.展望


「……いまの状況に対するお前の把握の仕方はわかった。だが、その先は?」
「さっきも言ったとおり、白眉は討つ。これはもう間違いようがない。次に、他の民に納得するなにかを与えないといけないと思ってる。三国の平和だけじゃなく、もっとわかりやすいなにかをね。ただ……」
 そこで一刀は申し訳なさそうにため息を吐き、焔耶に向けて頭を下げた。
「正直、そこをまだ思いつかない。せっかく色々と話を聞いてくれたのに、先のことはまるで示せなくてすまない」
「いや、それは……。たとえばだな。曹操に再統一させる、なんてのは考えないのか? 統一というのは、わかりやすいだろう」
「うーん」
 自分の問いに困ったように顔をあげる一刀に、彼女は首を振る。
「まあ、そんなこと、ワタシには話せないな」
「いや、違う」
「気にするな。莫迦なことを訊いた」
「違うんだ。聞いてくれ、焔耶」
 笑って手をぱたぱたと振る焔耶に、真剣な顔でずいと身を乗り出して、一刀は言う。炎を乗り越えて近づいてきそうな彼の勢いに、焔耶は目を見張る。
「俺と君はたしかにいる場所も違うし、これまで過ごしてきた環境も違う。信じていることも、きっと違うだろう。だからといって、それで遠慮したりはしない。そりゃあ、話さないこともあるだろうけどさ。でも、いまは違うよ」
「ふむ?」
「華琳は、君主としてはすばらしい実力の持ち主だ。まあ、俺はもっと個人的にも彼女の事をよく知っているし、大事に思っているけれど、客観的に見ても、その能力は非の打ち所がないだろう。ただ、時期が悪い。いま、華琳が外交的な圧力にしろ、直接的な戦力を使うにしろ、他国を制圧して大陸を統一しても、民は納得しないと思う」
「なぜ?」
 焔耶とて華琳の能力は把握している。ましてや一刀はその華琳の客将であり、恋人ではないか。それなのに、大陸を統一させたくないのだろうか?
 それこそ、白眉を討伐し終えたら、『このようなことを二度と起こさないように』という大義をもって漢もろとも蜀、呉を滅ぼして魏が全国統一に乗り出すのではないかという観測は、既に蜀の一部では存在しているというのに。
「なぜなら、疑問がわくからさ。統一するなら、どうして成都が陥落した時点でそうしなかったのか、って」
「まあ、それはそうだろうが……」
「疑念は下手をすると、悪感情にすり替わりかねない。曹操は俺たちを弄んでいるのか、統一は好き勝手に延期されたりするものなのか、ってね」
「むむ……。意地の悪い話だな、それは……」
「でも、あり得ることだろう?」
 一刀の言うことはかなり飛躍もあるが、そもそもが民の感情などとらえどころのないものを云々しているのだからしかたないのかもしれない。
「そうかもしれんな。しかし、本当に、他になにもないのか?」
「うーん。そうだな。前々から言っている大陸経済圏――この場合の大陸っていうのは、五胡やそのさらに向こうの人々も含んだ……つまりは物と人の大規模な交流だね。これは一つの候補として挙げられると思うけど、正直、民たちには遠い土地の話すぎて、実感が得られるのかどうか疑問っていうのがあるんだ。理解してもらうために教育水準を上げるには、時間がかかるだろうし……。あとは、やっぱり漢をどうにかするか……。でも、これも時期を慎重に考えないといけないね。思うに、この先のことに関しては、俺だけじゃなくて、みんなの考えを……」
 一刀の話を聞きながら、焔耶は考える。
 しかし、本当に、こいつは曹操の再統一を望んでいないのだろうか。
 そんなことはあるまい。
 だが、現状で魏が再び統一のために強硬姿勢を取ろうとしても、目の前の男は反対を唱えるだろう。
 なぜなら、それは民も曹操自身も幸せにしないと、信じているからだ。
 もちろん、人の考えなどというのは変わっていくもので、情勢次第では、あるいは、彼がそれが正しいと判断したならば、彼と焔耶は再び敵対するかもしれない。
 だが、いまはそうではない。
 そのことに心から安堵している自分に気づき、彼女は戦かずにはいられなかった。その動揺をなんとか抑え込み、彼女は細く長い息を吐く。
「よし」
「え?」
 鋭く言った焔耶を、持論から派生する様々な未来図に夢中になっていた一刀がびっくりしたように見つめる。
「お前の考えは正しいとはとても思えないし、あまりに奇矯だが、なかなか面白い。あのことを忘れるとは言わないが、まあ、これまでどおり友として扱ってやってもいい」
 ますます目を丸くして自分を凝視してくる男に向けて、焔耶はふんと大きく鼻を鳴らす。
「お前が望むなら、だが」
「もちろん望むさ!」
「そうか」
 間髪入れず返ってくる答えに重々しく頷き、彼女は荷物をまとめて置いてある場所を見やった。
「では、まあ、酒でも飲むか。ここのところ、窮屈だったからな、お互いに」
「そうだね」
 焔耶の提案に対する一刀の答えは実に照れくさそうなはにかみ顔であった。


 6.合力


「しかし、人を殺し慣れているとはな」
 隣同士に座る形になって酒を酌み交わし、酔いが回ってきた頃に焔耶が唇を歪めて言った言葉は、辛辣な響きを秘めていた。
「悪い……」
「いやいや、お前を責めているわけじゃない。ただ……な」
「ただ……?」
 問いかける男の瞳に浮かぶ恐怖の色を見て、焔耶は己の間違いを悟る。いまさら彼を責め立てるつもりはなかったのだが、そう受け取られてもしかたない発言ではあった。
「いや、悪酔いしたようだ。忘れろ」
 ぱたぱたと手を振って、話題を逸らす。しかし、その後も暗い顔つきの一刀の様子を見て、焔耶は深くため息を吐いた。
「忘れろと言っているのに」
「でも……」
 喉になにかひっかかったような一刀に、しかたないな、と焔耶は小さく呟く。
「きっと、お前自身が、人の死に……慣れてしまったことに憤慨しているのだろうなと思ってな」
 人が死ぬ事、人を殺すこと。
 あの惨劇の舞台で、そのことを意識しないでいられようか。だが、それに慣れている自分に気づいたとしたら?
 顔を青ざめさせる一刀に、焔耶は意地悪い笑みを浮かべてみせる。
「気づいていなかったか? そうではあるまい。見たくなかっただけだ」
「見たくないか……それで八つ当たりしていたらしかたないな」
 焔耶は直接にはそれに答えない。また自分の殻に閉じこもられても困るのだ。
「ワタシはこの手で殺し、血にまみれた己を見て実感するし、お前はワタシを含めた将たちを指揮して、数として死者を認識しているはずだ」
 その言葉には一刀も異論がないようだった。戦で人が死ぬことが避けられるわけもなく、敵であろうと味方であろうと、その死を様々に認識するはずだ。兵であれば目の前にいる敵か、周囲の狭い範囲だけ見ていればいいが、将や、それを動かす人間ともなると、認識の範囲も自ずと異なってくる。
「さて、どちらが楽で、どちらが辛いのだろうな」
「どちらも辛いと……思うよ」
「それはそうだ。しかし、時に思う。ワタシたちは自分の手で、あるいは部下の手で敵を倒す。その中で、仲間が死ぬこともあるし、自分が傷つくこともある」
 一刀の声がかすれていることに、彼女は気づいている。しかし、話しておかねばならぬことのように思うのだ。一刀が己の考えを披露してくれたなら、こちらも心を開くべきだという思いもあった。
「一方で、お前たちのような立場の人間は、それらを……指示した者たちのやったことを背負わねばならない」
「うん」
「それは、とてつもなく厳しいことだと思うのだ」
 彼の顔を覗き込んでみれば、焔耶の言葉にはじめて気づかされたとでも言うようにはっとした顔をしている。そのことになぜか妙なおもしろみを感じる焔耶。
「なあ、なぜ、お前は自分であやつらの首を刎ねた?」
 もちろんそれは北伐における罪人のことだ。あの後も軍規違反を犯す者はいたが、一刀が自ら手を下すことはなかった。最初だから見せしめにという意味はもちろんあったろうが、それだけではないと彼女は思うのだった。
「実感しておきたかったのではないか? 己のなすべきことを」
「それは……」
 一刀の答えは消え入るようで、さらに尻切れだったが、それは答えを言ったのと同じ事だ。
「戦に携わっていない人間は、あるいは末端の兵などは、軍師たちのやりよう――作戦の指示などだな――をみて冷血だの無責任だのと言うかもしれんが、ワタシはそうは思わん。敵を屠るのも、味方を死地に追いやるのも己の指示一つ。そんな状況は、実に恐ろしいことのはずだ。兵たちの先頭で敵を倒し続けている我らよりよほど」
 そこで彼女は酒杯をぐいと呷った。
「朱里や雛里はそういう意味で凄まじい」
「それは俺も同感だな。みんな、すごい覚悟で動いていると思う」
 焔耶は頷く。けれど、彼女の言葉はそれで終わったわけではなかった。
「そして、桃香様は……国の長は、その全てを負うのだ。全てを」
 全てだ。彼女は繰り返す。
 戦の全て、国を動かす全ての責任がのしかかる、王という重責。
 その苦悩を、その苦労を、どれだけの人間が理解しているだろう。そして、どれだけの人間が、それを支えられるのだろう。
「時に思うんだ。ワタシは本当に、桃香様の支えに……そのわずかな一部にでもなっているのだろうかと」
 焔耶の背が丸まる。彼女は空になった酒杯を手に、まるで痛みに耐えるような格好になっていた。
「焔耶!」
 その丸くなった体を引きずり起こすように一刀の体が彼女に覆い被さる。
「わっ」
 手を包みこまれ、優しく、しかし、しっかりと引っ張られて、焔耶は姿勢を戻すしかない。
「な、なんだ?」
 酒杯を放り投げ、両手で彼女の手を包んだ男は、さらに身を寄せて、真剣な顔で口を開く。
「焔耶はさ、桃香に力をもらってるよね? 違う?」
「そりゃ……。当たり前だろう!」
「支えるってのは、そういうことだよ。お互いに力を与え合うってことだよ。焔耶が桃香に助けられているように、桃香もきっと焔耶に助けられているよ。俺が保証する!」
 あまりの熱の籠もった言い様に思わず納得しかけて、焔耶は首を傾げる。
「……保証、できるものか? お前が?」
「ああ。できるよ。だって、俺がそうしてもらっているし、そうしているからね。たくさんの人たちとの間で」
 まじまじと焔耶は一刀を見つめる。男は至極真面目に言っているようだし、たしかに真実なのだろう。彼は多くの人々と支え合い、お互いに高めあい、力を得て、また力を与えているのだ。
 しかし、それを構成するのが彼の恋人たちであることを考えると……。
「ぷっ」
 小さく吹き出してしまった。
「え? あ、あれ? 俺、変なこと言った?」
「いや。桔梗様ならこう言うだろうと思ってな。『女の手を握りながら、他の女子の話とは、なんと無粋な』と」
 笑いの発作に襲われつつ、焔耶はなんとか言う。言い終えてもくすくすという笑いが止まらなかった。
「え? いや、女の子の事だけじゃなくて……」
「本当か?」
「あ、いや、その、主な人は……女性……かな? う、うん」
「だが、まあ、そうだな。きっと、ワタシが桃香様にもらっている力の、その一部くらいは返せているかもしれないな」
 ようやくくすくす漏れ出るのが収まった焔耶は、一刀に向けて、あらためて微笑みかける。その笑顔に彼が心臓の鼓動を高めていることなどまるで知らずに。
「支え合う……か」
 吹き出すと同時に悲愴な心持ちがどこかに行ってしまったことを意識しながら、焔耶は手を包む温もりが気になってしかたなかった。男は手を握っていることを意識しているのかいないのか離すつもりはなさそうだし、彼女もそれを指摘するつもりはない。そのことが自分でも不思議だった。
「ワタシも……支え合う輪の中に入れるだろうか……?」
「え?」
 彼女はその身を前に押し出し、彼が聞き返そうとした言葉をその唇でふさいでしまった。


 7.江陵


「一昨日までは来てた?」
 江陵にたどり着いた一刀たちが真っ先に向かったのは魏軍の屯所であった。江陵の太守は行政の長であるが、現状の軍事活動にそれほど関わっているわけではない。雛里たちが接触をもつとしたら、まずここではないかと考えての行動であった。
 それが図に当たり、愛紗と雛里が実際にこの場に来ていたことが確認できた。しかし、詳細を聞いてみれば、一昨日までは、という条件つきであった。
「はい。最初にお見えになったのは五日前ですが、その後は毎日、午前と夕方に二度ずつ顔を出されておりました。昨日今日は見ていないと、当直の者が」
 屯所の隊長の言葉に一刀と焔耶は顔を見合わせる。
「先に行っちゃったのかな……?」
「わからんが、なんにしろ無事なことは確認できた」
「ああ。よかった」
 わずかに唇の端に笑みをのせる焔耶の様子に、一刀も顔をほころばせる。彼は考えつつ屯所を少し見回した。ここは、一刀がかつていた警備隊の詰め所にそっくりだった。その中で兵たちが行き来している様子を見ていると懐かしささえ覚えるほどに。
「隊長。今日はしばらくいさせてもらっていいかい? 隅のほうでもいいから」
「はっ。もちろんです! では、その間に宿の手配をしておきましょう」
「え? いや、そこまでは……」
 びっくりしたように言う一刀の声を遮って、焔耶が大きく頷く。
「ああ、頼む」
 それに安心したように、隊長は歩み去り、焔耶は目立たぬように彼の脇腹をこづく。
「気さくなのはいいが、仕事はさせてやれ」
「それもそうか」
 一都市の駐屯兵の隊長にとって、一刀は――そして、他国の人間ではあるが焔耶も――雲の上の人間である。便宜をはかろうとするのは条件反射のようなものに違いない。それを邪魔しても、かえって戸惑わせるだけだ。
「ともあれ、今日はここで愛紗たちが来ないか待ってみることにするのか?」
「うん。無闇と探しても行き当たるとは限らないし、手がかりがあるところを動かないほうがいいかと思って。ここからなら、他の街に使者を出すことだって出来るしね」
 二人は屯所の隅に椅子を移動させ、座り込みつつ話し合う。
「悪い手ではないが、既にいないかもしれないな」
「その場合は巴丘を目指すしかないね」
 頷きあい、彼らは雛里たちが姿を現すのを待つことにした。
 だが、残念ながら、日が暮れるまで、意中の二人が現れることはなかった。そして、旅疲れが出た二人は、屯所の一角ですっかり眠り込んでしまったのであった。


 隊長が用意してくれた宿はなかなかのもので、なんと部屋には小さいながら湯船が備え付けられているという豪華なものであった。広さはそれほどでもないので、付加価値で勝負する宿なのかもしれない。
 一刀たちはもちろん、それを利用していた。
「ワタシはまだ慣れていないんだぞ。それを……その、何度も……」
 二人で湯船に浸かりながら、焔耶は対面の一刀をなじる。狭い湯船に入っているため、彼女は一刀の脚の間に座っている。その膚は一部は布で隠されているが、豊かな胸や、腰から尻に至る柔らかな曲線など全てを隠せるわけもない。
 また、彼女自身、自分の中に注がれた物が湯に出てしまうのではないかと不安で体をもじもじ動かしているため、布が湯の中で揺れ、妙に扇情的でもあった。
 一刀の逸物はすでに隆々と立ち上がっており、焔耶もまたそれを意識してさらに蠱惑的に膚を桃色に染めている。
「悪い。焔耶が可愛くって、つい」
「つい、じゃないぞ、まったく」
 責めるような口調で言いながら、その手の片方は、彼の手から離れない。指と指を絡め合ったまま、二人は話しているのだった。それを、両者共意識しているようには見えなかった。
「どうせ、抱く女がいなくて飢えていたのだろう?」
「え? いや、さすがに十日程度じゃそれ程は……」
「そ、そうなのか?」
「うん」
 洛陽にいればほぼ毎日――どころか一日に何人も――女性を相手にしている一刀であるが、少し離れたからといって耐えられなくなるわけもない。そもそも、そんな理由があろうとなかろうと、目の前の女性は魅力的であった。
 なめらかな膚も、張りのある太腿も、鍛え上げられた肩も。
「ちょ、わ、ワタシの膚が敏感なのは、知っているだろう!?」
 彼の手がゆっくりと自分の肩から腕をなでるのを感じて、焔耶は思わず熱い息を漏らす。
「うん。知ってる」
 一刀は当然のように答え、焔耶の膚の上を滑らせる手の動きにさらにひねりを加えていく。
「でも、こんな綺麗な姿見せられたら、我慢出来ないよ」
「こ、この好色魔」
 指の動きの一つ一つに小さな喘ぎを漏らしつつ、しかし、彼女はそれを振り払おうとはしない。無理な動きをすれば湯が漏れるからでは、けしてない。
「否定しない。でも、俺が色を求めるのは、好きな人だからだよ」
「うー」
 そこで、ふと焔耶は意地悪な笑みを浮かべる。
「ワタシが酔って気の迷いでお前に抱かれたとは思わないのか?」
 あの状況なら、そういうこともあり得るはずだ。焔耶はそう思う。なにしろ酔っていたのは事実だし、彼女もそれまでそういうことをしてきたことはない。男の方も明らかな訴えは……いや、それはしていたか。
「思わないよ」
 きょとんとした表情を浮かべた後で、優しい笑みを浮かべる彼の顔を、焔耶は驚いて見つめる。肯定するとは思っていなかったが、こんなにもあっさり否定されるとも思っていなかったのだ。
「な、なんで?」
「俺が焔耶を好きだから」
「い、いや、好きだからって……」
 かっと体中が熱くなる。真っ正直にそう言われてしまっては、もうどうしようもない。
「俺は、焔耶を好きだ。焔耶は、俺を好き?」
 そう訊ねられた瞬間。彼がまさに本心を告げた瞬間。彼女は本当の意味で、自身の感情を理解した。
 ああ、これが……。
「……じゃなかったら」
「ん?」
 聞き返す一刀にはっとしたように思い直し、焔耶は言い直す。
「お、お前を認めていなかったら、抱かれるわけがないだろう!」
 相手はしばらく彼女の事をじっと見ていたが、再び微笑んで問いを重ねてきた。
「俺のこと、好き?」
「わ、ワタシは、色恋などわからん」
「そう?」
「わ、わからない、けど」
 あくまでもじっと彼女の反応を待つ様子に、焔耶は呆れてしまう。こいつはなんと狡い男だ。
 だが、それも、きっとしかたのないことなのだろう。
「たぶん……その。この感情が、いや、なんというか……うん」
「うん」
「好き……だ」
 焔耶は全面降伏した。
 その後、湯船の中で睦み続け、すっかりのぼせあがってしまう二人であった。


 8.捕縛


「さて、どうする。今日も屯所に行くか」
「顔は出しに行くが……その後は、街を一回りしてみようと思う」
「先に馬も載せられる船を手配してもらったほうがいいかもしれんぞ」
「そうだね。それも頼んでおくとしよう」
 朝食を摂り終え、出かける準備をしていると、扉の外から宿の親爺の声が聞こえてきた。
「お客様。兵隊さんがおいでですが」
「あ、はーい」
 一刀と焔耶は二人で扉へと向かう。滞在する限り屯所に顔を出すことは、隊長には伝えてある。それなのにわざわざ兵がくるとなれば吉報か凶報かどちらにせよ重大事だろう。
 がちゃがちゃと手甲を鳴らし、鈍砕骨まで抱えているのはどうなのだろう、と一刀は苦笑するが、指摘したりはしない。油断していいことはなにもない。
 だが、扉を開けてみると、福々しい笑みを浮かべた主人がいるばかり。
「あれ、兵は下?」
 そうやって一刀が廊下に身を乗り出す瞬間まで、焔耶はその気配に気づかなかった。
「下がれ!」
 一刀の首根っこを掴んで引きずり戻そうとした彼女の手が空を切る。彼の体は、くるりと回転させられ、まるで楯とするかのように親爺に抱えられていた。
「え?」
 間抜けな声をあげた口は、背後の男の手によってふさがれる。くぐもった抗議の声は、もう一方の手がのど元に刃を当てたことで途切れた。
「傷つけたくはありません。どうか抵抗なさいませぬよう」
 一刀の足の間に、親爺の足がするりと入り込む。絡んだ足は、小刀の脅しがきかなくてもいつでもわずかな動きで一刀を転倒させるためのものだろう。
「……何者だ」
 焔耶は眼を細め、相手の動きを見つめる。それは素人のものではない。宿泊客から金を脅し取ろうというような単純な企みとは思えなかった。
「さて。お伝えしてよいものかどうか。ただこちらはあなたがたのことはよく存じております。御遣い様に魏将軍」
「ならば、我が武も知っているということだな?」
 正体を言い当てられた動揺も見せず、彼女は鈍砕骨を掲げる。この場所からなら、一歩踏み出すまでもなく男を絶命させられる。一刀を傷つけずにとなると多少難しくなるが、こちらの動きで捌けるはずだった。
「我々はいわば、詐術に長けております。気配を消すことも、仮の姿で忍ぶことも」
 だが、相手のほうもまるで恐怖を感じた様子もない平静な声で続ける。
「たしかに武ではとても敵わない。ここに私一人なら、北郷様を無事助け出すことも可能でしょう。ですが、何人いますかな?」
 言った途端、背後に二つ、にじむように気配が生じたことを、焔耶は振り向きもせずに悟る。どこから出てきたか。移動した様子はまるでなかった。気づかぬうちから、ずっとそこにいたかのように。
「実を言えば、この宿屋全体が我らの手の内でして」
 つまり、宿の親爺の姿をしているのは化けているのでもなんでもなく、それを隠れ蓑に、ずっと以前から、この地に潜んでいたというわけだ。
 現地の駐屯兵に、警戒させることもなく。
「くっ」
 自分たちが見事に罠にはまったことを悟った焔耶が一声唸る。
「どうぞ、武器をお捨てください、魏将軍。悪いようにはいたしません。殺すつもりなら、寝ている間のほうがよほど楽ですからね」
「んーっ。んんん!」
 塞がれた口から、なんとかして言葉を放とうと、一刀が無駄な努力をする。そちらを見やって、彼女はため息を吐いた。
「わかった」
「んー!」
「うるさい。吼えるな」
 なんとか自分の意思を伝えようとする一刀を、焔耶は一喝する。その声は鋭く、けれど、唇には笑みがあった。その表情に一刀は目が離せなくなる。
 まず、音を立てて鈍砕骨が床に落ちる。意図してかどうか、それは床をへこませる勢いで一刀の足下に転がった。思わず親爺の足が一歩下がり、一刀の股から抜けた。
「では、ついてきて……」
「待て、これもだろう」
 焔耶は男の言葉を押しとどめ、鋼鉄の籠手を示す。その様子に、真に屈服したと感じたのだろう。男はゆっくりと満足げに頷いた。刃が一刀の喉を離れ、一刀の脇へ降りる。そこからでも一突きで命を奪えるのだから十分な効果はある。
「ええ。では、そちらも」
 黒衣の将は答えずに、籠手を止めている金具や革帯を外し、手から抜いていく。片腕を抜いた後は脇に挟み込み、もう一方を外していく。慣れきっているであろう動作は、優雅で、そして、威厳に満ちていた。
 二つの籠手をひっかけるようにしてぶら下げた焔耶が、それをはっきりと示しつつ、訊ねかけるようにする。一刀の背後の男は、適当に顎をしゃくった。そこらに捨てろということだろう。
 だから、焔耶はその通りにした。
 しなる鞭のように動いた腕によって投擲された籠手が、背後に立っていた二人に直撃する。声もあげずに頽れる二人。途端、親爺は一刀を引き寄せようとした。それは、人質を確保しておこうという動きだったろう。
 だが、一刀は、なにをやるべきか心得ていた。彼女の動きも表情も何一つ見逃していなかったのだから。
 親爺の腕に緊張が走った途端、彼は体に力を入れ、足を踏ん張った。真っ直ぐに芯の入った体が引っ張られ、その勢いで親爺の鼻面を一刀の後頭部が打った。
 たまらず彼の口から手が離れ、刀は誤って彼を傷つけないようにするかのように大きく逸れた。
 その隙を焔耶が逃すはずはない。
 あっという間に男は組み伏せられ、一刀は距離を取って、鈍砕骨を拾い上げていた。そのまま部屋の奥へ振り向いたが、焔耶の籠手を投げつけられた二人は完全に意識を失っているようで、身じろぎもしなかった。
「さあ、どこの手の者か吐いてもらおうか」
 全体重をかけて動きを封じられ、ぎりぎりと腕をねじりあげられる男。脂汗を流しながら、しかし、親爺は声をあげない。代わりに、口で胸元にあったなにかを引っ張り出そうとした。
「そうはいかん」
 てっきり毒だと思った焔耶がさっとそれを取り上げる。しかし、それは、どこか見覚えのある柄の入った布だった。
「この布は!」
 先に気づいたのは、焔耶。彼女のほうが一刀よりもその布の持ち主とのつきあいが長かったからだろう。それでも次の瞬間には、彼も思い出す。その布が、大きな帽子に巻かれていたことを。
「おわかり、でしょう。我らの許には、すでに関将軍と鳳士元殿がおられるのです」
 焔耶の喉から獣の様な唸りが漏れる。しかし、それは屈服の証に他ならなかった。


「う、動くな!」
「無理言うなよ……」
 二人は暗闇の中、密着し合っていた。抱き合う形で縛り上げられているため、膚がこすれる度に焔耶が妙な声をあげる。それに反応しないよう必死の一刀であった。
 なにしろ、そんな場合ではないのだ。
 縛られた上、袋にひとまとめにつっこまれて、荷物のように運ばれている有様なのだから。
「んっ、くぅっ」
 敏感な膚を持つ焔耶を刺激しないように一刀も頑張ってはいるのだが、なにしろ意図しなくとも、外からの揺れで動いてしまうのだからしかたない。間近な焔耶の顔は光がないために見えないが、きっと真っ赤で、目尻に涙もたまっているだろうと彼は見当をつけていた。
 袋が動かされ、体が硬い床かなにかの面に触れる。
「お、どこかに降ろされたな」
「ど、どこだろうな?」
 彼女が訊ねる声は、実に小さい。二人とも捕まっている相手に余計な会話を聞かせるつもりはなかったから小声で話していたが、それにしても細すぎる。
 一刀は息を一つ吸うと、顔をぐっと動かした。その唇が、彼女の柔らかな頬に触れる。
「な、な、なっ」
「落ち着いて」
 彼は優しく囁く。その声で、焔耶の体のもぞもぞとした動きがおとなしくなったように思えた。
「俺も一緒なんだから」
 それに、と一刀は小さく笑った。
「いざとなったら、楯くらいにはなれるよ」
「……莫迦」
 ちょうどそこで、外から袋に触れられるのがわかった。どうやら、外そうとしているらしい動きが伝わってくる。
 そして、光が二人の目を刺す。
「さあ、ご対面だ」
 だが、明るさに慣れた瞳がそこに認めたのは、あまりに意外な相手であった。
「あわわ……」
「な、なにをしているのです、ご主人様!」
 囚われていると聞いていた雛里と愛紗が、ぴったりと抱きついた焔耶と一刀の姿に目を丸くしていた。

「しかし、なぜあのように二人まとめて縛られて……?」
 なにはともあれ縄を解いてもらい、四人はようやく落ち着いて卓につき、話し始めた。新参の二人が見たところ、彼らが集められているのは牢獄や檻房というよりは、ただの宿の一室に見えた。ただし、窓は閉めきられ、金属の網がかけられていたけれど。
「いや、その、最初はあいつら、俺たちを引き離して、一人ずつ連行しようとしていたんだ。だけど、焔耶が目が届かぬところにやるのはまかりならんと反対してね」
「当たり前だろう。お前たちの安否もわからぬ状態で、こいつまで見失っては、どうしようもない」
 ふん、と鼻を鳴らし顔を赤くする様子になにを感じたか、愛紗と雛里はびっくりしたように焔耶の事を見た。
「それで、あんな風に……」
「まあね。一緒にしておかないと暴れるって言い出されたら、あっちもしかたなかったんじゃないかな」
 ぱたぱたと手を振って、一刀の言葉を振り払うようにしてから、焔耶はじろりと剣呑な視線を愛紗に向ける。
「しかし、美髪公ほどの者が捕らえられるとは」
「ちょうど着替えているところを襲われてな」
 しかたない、というように肩をすくめる愛紗に、雛里が慌てて割って入る。ちなみに、彼女の帽子は当然のように部屋にはない。しかし、それが一刀たちを捕らえる材料にされたことは、焔耶も一刀も言わずにいた。
「そ、それでも、愛紗さんは、すごかったです。素手で何人も吹き飛ばして……」
「厄介だとみた相手に痺れ薬を使われたのだ」
「毒か……」
「それでもその場は動けたが……。それ以上のものを使われた場合、雛里を守り切れないからな」
 忌々しげに頷く焔耶。そのような状況ではいかに武を誇ろうともしかたない。
「あやつら、そういう小細工が得意なようだな」
「ああ。我らが苦手な奴らだな」
 二人は悔やむような、誇るような、微妙な笑みを交わす。しかし、それを聞いた一刀の方は、そんなことより気にかかることがあるようで、ぐいと身を乗り出した。
「その薬はもう大丈夫なの?」
「ええ。すぐ抜ける類のようです。そのあたりは雛里も看てくれましたので」
「そうか。よかった」
 心底ほっとした様子の一刀に、愛紗はくすぐったいような表情を浮かべていた。二人の会話の間に、じっくりと部屋を見回していた焔耶が愛紗に向けてあたりを示してみせる。
「で、逃げようとはしてみたのか?」
「いや、雛里が止めるのでな。私はこの程度の監視ならさっさと逃げた方がいいと言ったのだが……」
「なにか理由があるようだね?」
 皆の視線が集まったのに一度ひるんだ後、雛里は咳払いをして考えを述べる。
「はい。あの人たちは一刀さんたちも確保すると言っていましたから、どうせなら合流したほうがよいだろうと考えたのが一つです」
「ご主人様たちは、江陵に入る前から見張られていたようなのです」
「入る前からだと?」
 愛紗の補足に焔耶が慌てたように立ち上がる。
「はい。ようやく江陵近くに姿を現したと言っていましたから……。その後ももちろんずっと監視していたと思います」
「そ、そうか……」
 がたがたと音を鳴らして椅子に戻る焔耶の首筋が真っ赤に染まっていた。そのことに、雛里は不思議そうであったが、愛紗はなにか感じるところがあったのか、呆れたように天井を見やってため息をついた。もちろん、その前に一刀に一瞥くれるのは忘れない。
「ところで、一つってことは他にもあるの?」
 愛紗の動きに気づかなかったふりを――かなりの努力のもとに――して、一刀は話を続ける。
「はい。もう一つなんですが、あの人たちの正体について、少し気になりまして」
「正体?」
「私が想像しているとおりだとすると、本当に危害が加えられる懼れはないのではないかと……」
 雛里が言い終わる前に、その声は響いた。
「はぅあっ! なんということを!」
「あれ、あの声って……」
 おそらくは階下から漏れ聞こえて来た焦りでいっぱいの台詞に、一刀は首をひねる。彼の感覚を信用するなら、それは実に耳慣れた声であった。
「ですから、確保というのはそういう意味じゃないのです!」
 もう一度聞こえてきて、四人は顔を見合わせる。他の者たちも同じ印象を持っていることがわかって、彼らは揃ってため息を吐いた。
「やっぱり……」
 雛里は納得したように小さく頷き。
「あー、そういうこと」
 一刀は苦笑を浮かべ。
「たまらんな」
 愛紗は再び天を仰ぎ。
「もう少しやりようってものがあるだろう」
 焔耶はぶつぶつと悪態を吐いた。
 そして、どたばたいう音の後に、扉が開く。
「も、も、も、申し訳ありません、一刀様ーっ!」
 転げるように入ってきたのは、長い黒髪をたたえたかわいらしい顔の女性。呉が誇る隠密部隊の長、明命であった。



     (玄朝秘史 第三部第三十七回 終/第三十八回に続く)

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