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688 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/12/25(土) 22:15:18 ID:+3JxktTY0
一壷酒です。玄朝秘史第三部第三十回をお届けします。
三部は元々長い予定だったんですが、三十回かー。ううむ。

現状、前回から引き続いてコンタクト制作中なので、年明けまでは、誤字・脱字が多いかも。
すいません。

投下予定:次回は三十一日、大晦日に投下予定です。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。
・なお、『北郷朝五十皇家列伝』はあくまでおまけです。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
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※なお転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)



玄朝秘史
 第三部 第三十回



 1.北涼


「あー、今日も手応えなかったわねー」
 天幕の中、ふかふかの敷布にひっくり返りながら、そんなことを言うのは雪蓮。白い仮面の女性は、寝転んだ途端、こちらは赤い仮面を被った女性に、これ、はしたないと叱られている。
「動き自体は面白いんだけどねー」
「……恋たちも知らない陣形を使ってくる」
 近くで夕食前のおやつ――羊肉の肉まん――を頬張っていた赤毛の女性が口の中のものを呑み込んで、彼女の独り言にのってくる。
 雪蓮は体ごとごろんと起き上がり、恋に話しかける。
「やっぱり、あれは騎馬が中心なせいかな?」
「ん。たぶん。それと……戦に対しての考え方が……違う?」
 体の中にある感覚を形にするのが難しいのか、恋は首を傾げつつ言葉を選ぶ。幸い、受け取る方の雪蓮も感覚の鋭い方なので、全てとは言わずとも、大まかなところは理解できていた。
「ふーん。あ、翠。ちょっと、ちょっとー」
 ちょうど天幕に入ってきた人物に声をかける雪蓮。この軍団の実質的な司令官、西涼の錦馬超に。
「どうした? なにかあったか?」
 馬の尻尾のようにくくった髪を揺らして近づいてくる翠。その後には彼女の従妹、蒲公英も着いてきている。
「あのね。このあたりの人間って、変な戦い方するよね、って話なんだけど」
「あー、まあ……騎馬、特に騎射中心の連中だからな」
「それだけではのうて、おそらくは生き死にに関する考えが違うと見たがの」
 酒杯を傾けつつ話を聞いていた祭が口を挟むのに、翠は腕を組んで考え込む。
「ここいらの人間ってのは、羌にしろ漢人にしろ、それ以外にしろ、兵って感じじゃないからな。軍っていうよりは、部族とか、仲間とか……生きていくための集団って言えばいいのかな?」
 そこで翠は弓をひく仕草をしてみせる。
「生きるために狩りをするのと同じように、戦をする。そのあたり、感覚は違うよな」
「生きるためのものなら、死ぬのは避けるわよね」
 それにしては、臆病には見えなかったけれど、と雪蓮が不思議そうに訊ねるのに、蒲公英が首を振る。
「そこらへんの感覚が違うんだよねー。命は財産なんだよ。自分の財産であると同時に、部族や仲間たちの財産なの。だから、無駄にはしないんだけど、それだけじゃないんだよ」
「蒲公英の言うとおり、命は財産だけどさ、名声もまた財産なんだよ。あの部族は強いって噂は、それだけで価値がある。なにしろ、それでびびってくれれば、戦わずにすむんだからな。要はその時時で、なにが大事かを感じ取ってるんだ。狩りでも戦でも、そういう判断をいかに素早く下すかが、指導者の善し悪しに繋がる。ここいらの連中だと、へまをしたら、容赦なく指導者から引きずり下ろされるし」
 翠の説明を、それぞれ頷く三人。その中で、恋は確認するように訊ねた。
「馬も……そう?」
「うん、そうだよー。馬も羊も、大事。でもねー。あんまりこだわる人はいないかな?」
「ここいらの気候じゃ、家畜も人も、死ぬときは死ぬ。だから、あんまり手をかけすぎてもしかたないし、無駄になる。そのあたりの割り切りとか切り替え方ってのは独特かもしれない」
 馬も人も、仲間であり、友でもある。しかし、それを大事にするあまりに労力をかけすぎれば共同体全体に害を及ぼしかねない。その兼ね合いにおいては、腰を据えてじっくりと何が大事かを考えている暇はない。一瞬一瞬の判断が、部族全体の利益につながっていくのだ。
「ふうむ。判断の基準が違うわけじゃな。それに対するこちらは戸惑ってしまうな」
「そのあたりは臨機応変にかなあ。戦場の動きでもそうだけど……」
「私、そういうの得意ーっ!」
「恋も、得意」
 蒲公英は二人の言葉を受けて、天幕の向こうに居る華雄や麗羽たちのほうを見やる。あちらはあちらで何も考えずに進軍するのが大の得意と来ている。
「うん、ある意味ふさわしい人選かも」
「なに、その含みのある言い方」
「え? いや、他意はないよ!?」
 ほんとにー? 本当だってばー、などとわいわいやりとりをしているその横で、一心不乱に書簡を読んでいる人物がある。小柄な体に黒い帽子をひっかけた少女軍師は、唐突に上半身ごと体を起こす。
「わかったのです!」
 大声で叫んだせいで、天幕中の視線を一身に受けるねね。その視線の圧力に、彼女は思わず後じさる。誰も威圧するつもりなどないのだが、なにしろここに集っているのは大陸でも一流どころばかりだ。
「どうしたの? ねね」
 その中でも群を抜く、しかし、ねねにとっては最も親しい恋が横にいたねねの頭を軽くなでる。その動作に安心を覚えたか、ねねは胸を張り、手に持っていた書簡を高く掲げた。
「烽火を使った連絡の、よくわからなかった部分が判明したのですよ!」
 自信満々に発表したねねの言葉は、蒲公英の呆れたような表情に迎えられた。
「ああ、複雑すぎて間違いが多くなってろくに伝達手段になってない、あれ?」
 しかし、雪蓮は首をひねる。
「荊州の時は役に立ったんでしょ? あの伝え方」
「あの時は成否いずれかしかありませんでしたからな」
「いまは、長い文章を送ってますから」
 雪蓮の疑問に、祭と斗詩が答え、斗詩はふうとため息を吐く。
「話だけ聞くと、便利そうなんですけどねえ」
「アニキってたまに天の国の常識で判断するからな」
 烽火による炎と煙、鏡の反射を用いた長距離伝達の仕組みは一刀の発案で考えられたものであるが、なにしろ目測で、かつ、訓練も行き届いていないため、現状では実用的とは考えられていない。現時点で信用できる情報は、『作戦を続行せよ』や『帰還せよ』等の特別に定められた短い命令くらいのものであった。
「伝達内容を早馬による書簡で補うようでは、本末転倒ではないか? その書簡だけで十分ということになるではないか」
「うるさいのです!」
 華雄の指摘にぶんぶんと書簡を振り回して抗議するねね。
「まだ実験段階のものにけちをつけてもしかたないのです! この戦においてはあくまであれは補助的なもので、暗号の試験なども行っているのですから、今後使えるものにしていけば……。違うです、いまは内容の話なのです!」
「で、なんだって?」
 翠が促すのに、ねねは気を取り直したのか、書簡を振る手を止め、胸を張る。
「いま、中原では『白眉』とかいう連中が暴れているとのことなのです! おそらくは黄巾と同じようなものだという推測も添えられていたです」
「ほう……」
 さすがにその報せに、場の空気ががらりと変わる。黄巾の乱を端緒として戦乱の世を駆け抜けてきた武将たちの目の奥で、なにかが光った。
「あたいらのいない間に、そんなのが出てきてるんかよ」
「華琳さんも都にはおりませんし、いい機会と見たのでしょうかね」
 猪々子がふんと鼻を鳴らし、麗羽が蔑むように言い放つ。
「それで、わたくしたちにはどう動けと?」
「それが……急がずしっかりとやり遂げてくれ、とだけ。少なくともねね宛てのものにはそうあったのです。他はわかりませんが」
 ねねの言葉に、皆の視線が二分する。前線司令官である翠と、名目上の北伐総司令たる、麗羽へ。
「あたしのほうにもないなあ」
「わたくしにもありませんわね。……ありませんわよね、斗詩さん?」
「あ、はい。なかったはずです。会いたいってのは一刀さん個人の話で……あ、いえ、な、何でもっ」
 真っ赤になってわけのわからないことを言い出す斗詩を放って、皆は軍議の時の表情になって話し始める。
「まあ、一番戻しやすいねねと恋に言ってこないなら、私たちはしっかりと涼州を平定するのが先ってことね」
「いいのかなー。結構な人数、こっちに来ちゃってるけど」
「心配はいらんじゃろう。言うても三国の主力は皆残っておる」
 最初のそれとは違い、今回の北伐において、三国それぞれの武将は各国もしくはその近辺にいる。連れている兵はともかくとして、将という意味で言えば遠征に出ているのは、身軽な立場の者ばかりであった。
「前のように大返しすることも可能ではあろうがな」
「どんだけかかると思ってるですか。へぼ主とはいえ、借金まみれにするのは忍びないですよ!」
「距離もあの時より……どうなんですかね。ああ、でも、道の問題がありますか」
 そんな風に意見が出ていく中で、雪蓮が面白そうに唇を歪めつつ、その顔を金髪の女性の方へ向けた。
「で、どうするの。北伐総司令さん」
 麗羽はすぐには答えず、ねねに問いかけた。
「華琳さんはいつ頃都に?」
「予定通りなら戻っているはずですよ。なにしろ、この手紙も一月前のものなので細かいところまではわかりません。もしかしたらもっと早く呼び戻しているかもしれませんし」
「我が君と華琳さんが都に揃って居るのでしたら、何も心配することはありませんでしょう。わたくしたちはわたくしたちのやるべき事をやり通せばよろしいのではなくて?」
 もっとも、と麗羽は、笑い声をたてる。
「心情的に言えば我が君の元へ一刻も早く駆けつけたいという人もたくさんおられるでしょうけれど」
「たくさんって全員でしょ」
 にしし、と笑うのは蒲公英。その言葉に顔を赤くする者あり、けろりとした顔の者あり、艶然と微笑む者あり。
「ふむ。旦那様に喜んで迎えてもらうためにも、一分の隙無く平定する必要があろうのう」
「……恋、がんばる」
「そうねー。頑張りましょうか」
 その声を受けて、翠がずいと前に出て腕をあげる。
「よし、明日からも頑張ろう。そうして、平定しきって、安心して戻ろう。涼州の果ては遠いけど、たどり着けないわけじゃない。まずは敦煌だ!」
「応!」
 全員のやる気一杯の声が天幕にこだました。


 2.懊悩


 その日、謁見の間はがらんとしていた。
 軽く百人以上を収容できるその場所には風が吹きすぎ、人の熱気はまるで感じられない。
 そして、ただ一つの人影は、玉座にある。
「愛紗ちゃん……。愛紗ちゃんのいない宮殿は、こんなにも広くて寒いよ……」
 脚を抱え込むようにして座って呟くのは、もちろん、この国の女王桃香。彼女は視線をふらふらとさまよわせ、そのかわいらしい顔を暗い影に彩らせている。
「……桃香様、なにをなさっておいでで?」
 たまたま通りかかり、見つけたのであろう。開いたままの扉から早足で入ってきた女性が、心配半分呆れ半分の様子で声をかける。手にぶら下げた酒瓶が、ちゃぽちゃぽと音をたてていた。
「え? 桔梗さん? んーと、ひとりぼっちごっこ」
 振り返り、迫力の胸を揺らす女性の姿を認め、慌てて脚を戻す桃香。彼女は軽い調子で笑い声をたてた。
「は?」
「いやー、ちょっと、しんみりしてみようかなと思って。誰も居ないし」
 桔梗はその答えに絶句していたが、小さく頭を振って立ち直る。淡い色のかんざしが彼女の動きにつれて揺れていた。
「それは、そうでしょう。皆、荊州か漢中に出張る準備をしているのですから。桃香様ご自身はもうよろしいので?」
「荷物は詰めたよ? あ、そうだ、あの本入れておかないと!」
 自分でもまるで忘れていたことだったのだろう、びっくりしたように桃香は立ち上がり、桔梗が声をかける間もなく部屋を出て行く。
「まったく……」
 その背に手を伸ばしかけ、思い直したか、がしがしと頭をかく桔梗。
「自虐の笑いに出来るだけ、お強くなられたと言うべきか」
 それは、女王として必要なことではあると思う。しかし、桃香という一人の女性を思うと、同時に寂しくも感じる。
「ま、わしのような武人が思い悩んでもしかたなかろうが……」
 それでも悩ましい表情は変わらない。彼女は無性に手に持つ酒を呷りたくなった。
「愛紗もあの方も罪なことよ……」
 誰にも聞かれぬ呟きが、謁見の間を吹きすぎていく。

「ねえ、雛里ちゃん」
 成都を発った馬車の中、同乗する少女軍師に向けて、桃香は話しかける。
「はい、なんでしょう」
 大きな帽子のつばを押さえながら、雛里は顔をあげる。
「やっぱり、愛紗ちゃんが抜けたのは大きい?」
「そう……ですね。元々洛陽にいただけでもかなり……。その後の顛末で、軍の士気の面では、かなりの打撃です」
「そう……」
 半ば予想していたことではあるが、はっきりと軍師たる雛里から告げられると、やはり堪える。軍の筆頭である愛紗が抜けて士気が落ちないわけはないし、軍以外でも彼女の存在感は大きかった。まさに支柱を失ったと思っている者も多いことだろう。
「幸い、益州については現状、比較的治まっています。前線の荊州には鈴々ちゃんがいてくれますから、実際の戦闘が行われているところでは、士気の低下の問題はないと思います」
 がたごとと揺れる馬車の振動に身を委ねつつ、桃香はさらに訊ねる。
「文官さんたちは?」
「……その、なんというか、もう蜀はだめだと思っている人も、ちらほら……」
 ぐぅ、と奇妙な音が桃香の喉から漏れる。その大きな目が閉じられるのを見て、雛里は苦しそうに声を押し出す。
「白蓮さん、翠さん、蒲公英ちゃん、それに愛紗さんと続いてしまいましたから……」
 次々と中心的な人物たちが去っていく。
 それだけを見れば、たしかにその組織の将来を疑いたくもなるというものだ。
「翠ちゃんたちは、どちらかというと、いい要素だと思うんだけどなあ」
「……なかなかそれを理解してくれる人ばかりとは……」
 目を開き、意識して明るい声で言おうとする桃香に、雛里も苦笑を浮かべて応じる。
「うーん」
「それと、今回の荊州のことについてですが……その、漢中に……」
「どうかした?」
 言いにくそうにしている雛里をのぞき込もうとして、その途端、大きく馬車がはねる。転がりそうになった桃香は慌てて席に戻った。
「その……北郷さんが、愛紗さんを連れてきますよね?」
「うん」
「それを嫌がらせかと疑う人たちも……います」
「えー?」
 驚きの声をあげる桃香であったが、その言葉にじっくりと考えてみると、わかるような気もしてきた。
 今回の愛紗の出奔に関しては、桃香たちのような近しい人間はともかく、世間では様々な意見が――時に無責任なほど先鋭的になって――飛び交っている。愛紗が一方的に裏切ったと見る者もいれば、一刀が愛紗を無理矢理奪ったのだと見る者もいる。
 その中でも北郷一刀に悪感情を持つ者たちからしてみれば、今回の漢中への愛紗同行は、感情を逆撫でするようなものだろう。彼らにとって、一刀は鼻高々蜀に乗り込んでくるように見えるはずだ。そう、まさに獲物を見せびらかせに来た狩人のように。
「ただ、普通に考えれば、北郷さんがそんなことをしても、得はないとわかるはずなのですが……」
「感情的になっちゃう人も……いるよね、たぶん」
「はい……」
 桃香たちが、積極的にそれを止めることは出来ない。落ち着くように言っても火に油を注ぐだけであろう。
 桃香は考える。
 自分には何が出来るだろうかと。
 王として、義姉として、そして、一人の『桃香』として。
 がらがらと車軸の回る音と、時折小石をはじくのか、固い音が小さく響く中、彼女は長い間無言であった。
 それから、彼女は雛里を見る。帽子を押さえながら、桃香を見つめているその碧の瞳。きっと、彼女もまたたくさん考えているのだろう。軍師として、蜀の頭脳として、何を成すことが出来るのかと。
 桃香はそんな少女の姿を見て、大きく頷いた。
「雛里ちゃん。私、決めたよ」
「はい?」
 そして、いぶかしむ雛里を他所に、桃香は馬車を止めるよう命じるのだった。


 3.遭遇


 その集団と行き当たったのは、一行が長安を出て漢中へと向かう途上の事であった。
「なんだか、俺、長安から西に出る度に厄介に突き当たるような。いや、気のせいだとわかってはいるんだけどさ」
「一刀は別にどこにいても同じじゃないの?」
 許攸のことを思い出してだろう、男がぼやくのに、横で黄龍に横座りしつつ、爪を整えていた女性が至極当然のことのように訊ねる。その様子に一刀は情けなさ全開の顔つきになった。
「俺は好きで厄介ごとに首を突っ込んでるんじゃないよ、地和!」
「はいはい」
 一刀の抗議は地和によって軽く流される。その様子を恨みがましく見上げていた彼のところに、戦闘用の鎧を身につけながら近づいてきたのは流琉。
「どうします、兄様」
「んー、そうだな。二千だっけ」
「はい」
 生真面目な声で頷くのに、一刀は頬をなでる。先遣に出した斥候隊からの報告によれば、漢中から涼州方面へ向かう街道から少し離れた場所を移動中の一団があるらしい。その数、およそ二千。とても軍に所属するとは見えぬ格好で、隊列もろくに組まずに進んでいるという。
 その報せを受けた一刀たちは即席で陣を組みあげて、事態を把握しようと努めているのだった。いまも彼らの周囲では人々が忙しそうに動いている。のんびりしているのは一刀の鞍を占拠している地和くらいのものだった。
「白眉でしょうか」
「まあ……そうだろな。あるいは白眉に追われて逃げ出した人たちっていうこともありうるけど……」
「難民かあ。いやだよね、そういうの」
 相変わらず爪をいじりながら、ぽつりと独り言のように言う地和。根無し草であることの辛さを、身に染みてわかっている者の、諦めに似た声であった。
「うん。俺たちが乱世を終わらせたのは、そういう人たちを出さないだめだったはずなのにな。……ところで地和。車に戻りなよ」
 車というのは展開すれば小型の舞台となる数え役萬☆姉妹の特製車輌だ。これはなにしろ図体が大きいので、陣の後方に置いてあるが、前方に存在するという二千が、偵察を出すようなまともな軍なら、遠くからでも見えることは間違いなく、それだけでこちらの居所や規模が知れてしまうような代物であった。
「えー、あそこうるさーい」
「もう少しだけ我慢してくれよ」
 ぶーぶー文句を言う地和に一刀は軽く頭を下げる。彼女達の劇場車輌には、いま、三姉妹の他に美以とその子供達が同乗している。いつの間にかどこかに走り出してしまっていたなどということを避けるためにも、現実的な安全のためにもそこに預けておくのが一番なのだ。分厚い木材の組み合わせで作られる巨大な車は、火矢で射かけようともそうそう燃えあがるようなものではない。
 しかし、舞台装置が複雑に畳みこまれた内部は広いわけもなく、駆け回る元気な猫耳っ子たちはさぞうるさく感じられることであろう。
「うー」
「頼むよ。美以たちだけじゃない。三人も安全なところにいてほしいんだ」
「あーもー、しかたないわね。一刀がそこまで言うなら我慢してあげてもいいわよ」
 どきりとするほど真剣な顔で告げられ、満更でもない風な笑みを浮かべる地和。彼女は一刀に抱き留めさせて黄龍から下り、明らかに人目を意識した優雅な歩き方で車に戻っていく。
「兄様は……こういう時でもまるで変わらないのはいいことなのか悪いことなのか……」
「あ、あの流琉さん?」
 一刀の顔を見ながらむくれたような流琉と、慌てたような一刀に、その時、兵の列を割って近づいてきた人物があった。長く伸びるまとめられた黒髪を一振りし、愛紗は彼らに話しかける。
「ご主人様」
「お帰り。どうだった?」
 自ら所属不明の集団を見極めに出ていた愛紗はこくりと小さく頷く。
「残念ながら、村人には見えません。武器の持ち方が違います。あれは守るためではなく、攻めるために持っている者の動きです」
「やっぱり白眉……。でも、数はたいしたことありませんし……」
 二千という数はそれなりのものだが、流琉は五千の親衛隊を連れている。さらに、一刀の率いる母衣衆も含め、五千の兵が後詰めや輜重、三姉妹の護衛を担当している。せめて同数の軍でもなければ、この陣容に抵抗することは敵わないであろう。
「そうだな。俺たちで捕まえて、後始末は長安に任せるとしようか」
「はい、兄様。私もそれでいいと思います」
「じゃあ、そうしよう」
 そうして、彼らは白眉に対することとなった。

「これが……白眉」
 馬の上から、部下である親衛隊の兵たちと、白眉の集団のぶつかり合いを見やりながら、流琉は呟く。一対一ならば、もちろん単なる暴徒である白眉に対して、親衛隊の兵士が負けるわけがない。ましていまは親衛隊の数だけでも敵に倍する。
 戦場で優勢が崩れるわけもなかった。
 しかし、おかしい、と流琉は思う。
 あまりにちぐはぐだ。
 たとえば無闇に連携のいい五人組が、兵士三人を相手にいい勝負をしているところもあれば、武器を構えることも出来ずに、最初から逃げ回っているやつもいる。
 全体として、自軍が優勢なのは変わらなかったが、妙に脆いせいでつられて突出しすぎている部分や、逆に数十人がひたすら前進してきて列が割れかけている箇所もある。
 規律正しい魏軍の中でも精強を誇る親衛隊のこと、戦線が混乱しきるということはなかったが、妙に混沌とした状況で、まさに乱戦といえた。
「右を開けているのに、そちらから逃げる者が少ないですね……」
「そこまで気が回らないのさ。いや、見えていないと言うべきだろうね」
 同じように戦場全体を観察している一刀に話しかけると、彼ははたと額を押さえる。
「あれ……ちょっと待てよ。もしかして、流琉って、黄巾の時は軍にいなかったんだっけ?」
「あ、はい。季衣に呼ばれたのがその後ですし」
 流琉が華琳に仕えるようになったのは、反董卓連合前のこと。となれば、黄巾はいても残党だけだ。その頃まで活動していた黄巾残党は、黄巾というのは名前ばかりで、元々どこかの賊をやっていたか、小軍閥のなれの果てといったところだったはずだ。
「そうか……それじゃ、こういう相手はそんなに経験ないのか」
「村に流れてきた……盗賊さんを追っ払ったりはしてましたけど……」
 一刀は顔を引き締め、再び周囲を見回す。たしか、この人は黄巾の前から華琳殿の側にいたのだったな、と彼が戦場を鋭い目で見つめている様子を見て、愛紗はそんなことを考えている。
「流琉、俺が口を出してもいいか?」
「あ、はい」
 流琉に許しを得た一刀はそれまでの半包囲を解き、平押しに押すよう指示を変更する。一方、母衣衆はじめ騎馬の兵を少し離れた地点にやり、積極的に逃げる連中を捕縛させる手筈を整える。
「愛紗」
「はい」
「悪いけど、こっちに向かってくる元気のいい連中を捕縛してきてくれないか? 母衣衆を十人つけるから、確保は彼らに任せて」
「わかりました」
 そこで彼女は気遣わしげに付け加える。
「あの、ご主人様は流琉の側を離れませんよう」
「ははっ。わかってるさ」
 青龍偃月刀を振り立てて勇ましく戦場に向かう愛紗を見送り、指揮を続けつつ、流琉は一刀に訊ねかける。
「愛紗さんが捕まえてくる連中が首謀者ですか?」
「いや……ううん、まあ、そうかな。この連中の中で、いまこの時は、ということだけれど」
「はあ……」
 よくわかっていなさそうな流琉に、白眉……というよりは、民衆が暴徒と化した場合にどんな人間が中心となるかや、どう対処すべきかを、黄巾の乱の頃の経験を基に話してやる一刀。
「そういうものですかあ……」
「軍を相手にしている感覚は持たない方がいいね。元々はただの庶人だし」
「……ただの人なら、暴れ出したりはしませんよ」
 流琉は珍しく責めるような口調で抗議する。それからおし黙ってしまった彼女を見て、一刀は唸りをあげた。
「うーん」
 流琉の言うこともわかる。黄巾の乱にしろ、現在の白眉にしろ、全ての人間が蜂起するわけではない。いや、大半の人々は被害を受ける側にいる。
 だからといって、この暴動に関わる人間が特別なのかというと、それもまた違うと、彼は思う。
 彼らは本当に、そこら中にいる、ただの庶人なのだ。
 誰かの息子であり、娘であり、隣人であり、商売相手であり、あるいは誰かの思い人である、そんなただの人々。
 たしかに彼らは一歩踏み出してしまった。苦しむだけではなく、武器をとり、他者を襲う、そんな道へ踏み出してしまった。
 しかし、それはただ彼らにきっかけが訪れたからに過ぎないのではないだろうか。そう一刀は思う。
 官が腐敗しているから、税が重いから、あるいは歌姫に唆されたから。
 きっかけを得ることがあれば誰でも暴発する、そんな土壌が、いまも世の中には存在している。
 彼らを特別だと思うことは、そのことから目を逸らすだけだ。
「ただ平和にしただけじゃ、だめなのか? まだなにか……必要なんだろうか」
 軍の圧力に逃げ散りはじめた人の群れを見ながら、彼は暗い顔で自問する。
 その答えは、まだ見えない。


 4.一掃


「さて、と」
 華琳は居並ぶ面々の顔を見回しながら、そう切り出した。そこにいるのは、隻眼の姉と冷静さを常に纏う妹の夏侯姉妹に、猫耳のような頭巾を被る筆頭軍師、力自慢の親衛隊長と、眼鏡の奥に冷徹なまでの理知を感じさせる天才軍師。
 風や流琉、霞に三羽烏はいないまでも、昔からの部下ばかりが揃っている。最近では珍しい光景に、彼女はふと微笑んだ。
「大掃除を始めましょうか」
「どこか汚れているのですか? 華琳様がなさらなくとも、私が!」
 勢い込んで立ち上がる春蘭。その横で桂花が鼻で笑った。
「違うわよ、莫迦。あの莫迦が愛紗を連れて都を離れたことだし、董承派を一掃しようってことでしょ。そうですよね、華琳様?」
「ええ、その通り」
 胸を張る桂花と、しょぼんと座り込む春蘭。実際の動きではあなたの力を借りるわよ、と沈んでいる武人を慰めて話を進めようとしたところで、董承派とはなにか秋蘭に聞いていた季衣が大きな声をあげた。
「ああ、愛紗ちゃんをいじめてる奴らだね!」
 しん、と場が静まりかえる。全ての視線が赤毛の少女へと向かった。
「……あんた、その話、誰から聞いたの?」
「え? 愛紗ちゃんからだよ。なんか知らないけど、迷惑をかけたって、いーっぱいごちそうしてくれたんだ」
 桂花がようやく訊いたのに、幸せそうな笑顔で答える季衣。その様子からして、よほど満足する食事だったのだろう。
「どういう話だったのか、詳しく言ってくれる? 季衣」
「あ、はい。ええとですね、朝廷の人たちがいじめてくるから、守ってもらうために兄ちゃんのところに来たって、それだけですけど」
「そのこと、誰かと話したか? 季衣」
「兄ちゃんには訊きました。そうなの? って」
 華琳と秋蘭、立て続けに訊ねられ、季衣は小さな体をさらに縮こめる。
「あの……ボク……」
「それで、一刀はなにか言っていた?」
「ううん。ちょっと笑ってましたけど」
 季衣の答えに、華琳は面白そうに微笑む。その笑みは、同時に季衣を安心させるためのものでもあったろう。
「そ。まあ、いいわ。ともかく、他所では口にしないでね」
「わかりました!」
 優しく言われて、こくこくと頷く季衣。その様子にもう一度微笑みかけ、華琳は皆の顔に視線を戻す。
「それでは、本題に入りましょうか。下ごしらえはもう十分?」
「そのあたりは詠殿がしっかりと」
「今回の件はあの莫迦の決めたことですし、任せた部分もあります」
 二人の軍師が取り出してくる覚え書きに目を通し、先ほどとはまるで違う薄い笑みを浮かべる金髪の覇王。その様には、見る者をぞくりとさせるような凄艶さがあった。
「さすがは十常侍を相手に宮廷を泳ぎ切った人物というべきかしら。よくやるわね、詠」
「我々では取らないであろう手もいくつかありますが」
「でも、悔しいけど有効ではあるわ。特に、華琳様のお膝元で陰謀を巡らせて無事でいると考えているような輩には」
 華琳は、詠が施した策と、桂花、稟の提言を聞き、実際にどう進めていくかを詰めていく。それが一段落したところで、秋蘭が疲れたように呟いた。
「それにしても、困りますな。このような奴らがのさばっているとは……」
「ある程度はしかたありますまい。帝の権威を利用しているという意味では我々も同類です」
「そうは言っても、この国が保っているのは華琳様のおかげだろうに」
 春蘭が憤慨したように言うのに、稟は冷え冷えとした口調で首を振った。
「仲間内で些細な陰謀ごっこをして悦に入っている内はほうっておけばいいのです。邪魔になるなら潰せばよいことです。今回のように」
「ううむ。しかし、面倒だろう……」
「姉者の言うとおり、面倒なのもあるが、それよりも心配なのは、今後どこまでそれを続けられるかだな。華琳様がいるうちは問題ないだろうが、しかし……」
 語尾を濁すのに、猫耳がぴこぴこと動いて反応した。
「子供たちの世代となると、考えるところはあるわよね」
「いっそ除いてしまうか?」
 剣呑な光を目に宿らせて春蘭が発言するのに、再び稟が首を振る。
「残念ながら、それだけで解決するものでもないのですよ」
「まあ、あいつらは結局は官僚にすぎないわけだからね。帝の権威が華琳様……あるいはその御子様たちの権威に変わったとしても、おかしなことを企むやつが出て来る可能性はあるのよ」
 いまよりは私たちがやりやすくはなるかもしれないけれど、と桂花は付け加える。
「魏の官僚でも腐敗しないとは言い切れない……か。殊に世代を重ねれば。難しいところね」
 部下たちの議論を聞いていた華琳が腕を組んで体重を椅子の背に預ける。彼女としても、その問題にはずっと頭を痛めているのであった。
「それを防止するために、いくつも策を練ってはいますが、しかし……」
「時代が変われば、考え方も、起きる出来事も変わってくる。いま定めたことが、五十年後、いえ、十年後でも通用するとは限りませんからね」
「制度を完璧にしても、人が腐る。型破りの人を見いだすには制度が邪魔をする。どう均衡をとればいいか。課題ね」
 まとめるように言うのに、皆が頷く。こういう風に言うときは、いずれ華琳がそれについて考えを聞いてくるとわかっているのだった。こういったことの苦手な春蘭と季衣はことに追い詰められたような真剣な顔つきであった。
「それはそれとして、まずは、いま、変えるべきものを変えるとしましょう」
 華琳は手を打って侍女を呼び、事前に用意させていたものを持ってこさせる。卓の上に置かれたそれは、季衣の目線を超え、春蘭たちの視線の高さまで積まれた竹簡の山であった。
「うわ、すごい分量ですね!」
「白蓮に送る書類よ」
「全部ですか!?」
 華琳がなんでもないことのように言うのに、季衣は目を白黒させる。
「幽州牧への就任と、州境の改訂文書ね。前者はともかく、境を北に伸ばすのは大事(おおごと)だから大量の文書が必要なのよ」
 桂花の言葉に、春蘭の目が細まった。
「北……烏桓でしたか?」
「そう。烏桓の住む地も幽州として、かなりの土地を含めるわ」
「西に翠、東に白蓮。我が魏の抑えとして置きますか」
 秋蘭は一番上に乗っていた竹簡に描かれた、改訂後の州の概略図を見ながら言う。それはかなりの広さを持つ行政区画であった。面積だけで言えば南部の諸州に匹敵する大州となるだろう。
「そのほうが便利だからね」
「しかし、背いたりはしないでしょうか。あれらは華琳様に忠誠を誓っているわけでもありますまい」
「それを使いこなしてこそ、でしょう。それに、あの二人は義理堅いからね」
 当然の懸念に、華琳は自信に満ちた笑みを見せる。それを見て、秋蘭はわずかに苦笑し、春蘭は頼もしげに笑った。
「ああ、それと」
 華琳はさもいま気づいたというような風情で最後に付け加えた。
「一刀を悲しませるようなことは出来ない二人よ」


 5.不在


「え? 桃香さん、いらっしゃらないんですか?」
 蜀との会談の席は、そんな流琉の驚きの声で始まった。
「はい。本来の予定では漢中にて我々や北郷さんたちと合流予定だったのですが……」
 申し訳なさそうに言うのは、この場をまとめる位置に座った淡い髪の少女――蜀の大軍師、朱里だ。その横でさらに申し訳なさそうにしているのは、蜀の頭脳のもう一人、雛里。彼女は本来桃香についてこの場に来ているはずの人物であった。
 この場に他にいるのは、一刀とその護衛役の愛紗、蜀の将たる星と焔耶。そのうちの星が口を開いた。
「雛里を置いて、一人で荊州に行ってしまったそうな」
「しゅ、しゅいましぇん。その、馬車で話している間に、なにか決断された様子で、その……」
 あわあわと事情を説明しようとする雛里に一刀と流琉は目をやり、次いで視線をあわせて目配せをしあう。
「まあ……君主の決めたことには逆らえないよね」
 肩をすくめ、どこの王も大変だ、と呟く。ちいさな笑いが一同に広がった。
「で、荊州での協力についてはなにか言っていたかな?」
「はい。荊州に関しては協力するとのことで、その、こちらでの細かい打ち合わせに関しては、『一刀さんと愛紗ちゃんに任せておけば、大丈夫だよ』と」
 明らかに桃香その人の言葉をそのまま伝えようとしたその様子に、一人、卓から離れて壁にもたれていた愛紗の体がはじかれたように起き、わなわなと震え出す。
「わ、私の名前も、あったというのか?」
 信じられぬものを見るように雛里を見つめる愛紗。しかし、それに対する少女は帽子で顔を隠そうともせず、わずかに唇にあたたかな笑みを浮かべて、こくりと頷いた。
「はい」
「なんと……桃香様……」
 うめくように、彼女の喉から言葉がまろび出る。
「私を……私の名を……まだ……」
 噛みしめるように言うその眼の端に浮かんだものに関しては、皆が気づかぬふりをした。

「ええと、じゃあ、成都には桔梗が残って、桃香と張将軍が益州東部から荊州中心部に向かっているってことでいいのかな?」
 愛紗が――皆に背を向けて顔を拭い――落ち着いたところで、朱里が説明をはじめ、それに一刀が確認を返す。
「はい。そういうことになります」
「まずは桃香様の合流を優先させますが、呉、魏の動きに遅れるようなことはないと思います」
 朱里が頷き、雛里が詳細を補足する。一刀と流琉はそれに対して揃って頷いた。
「さて、荊州封鎖の件については、我ら蜀が益州の州境、呉が同じく揚州及び交州の州境に兵を置いて、北は州境ではなく、漢水まで下るということでよろしいでしょうか」
「そうですね。宛のあたりまで来られると、後の対処が大変ですし……」
 皆は荊州の地図を睨みながら、今後の計画を話し始める。その中で、焦れたように質問を飛ばしたのは黒髪に入った白い一房を揺らす焔耶であった。
「実際にはどのあたりが主戦場になる?」
「荊州で大都市と言えば、北部の宛を除けば、一に襄陽、二に江陵。やはり、これらには近づかせたくないところです。被害もそうですし、都市部で白眉が人を集めることも避けねばなりません」
「となると、やはり江水を渡らせぬのが吉か」
 朱里が大都市の場所を示すのに、星が長江の流れを指でなぞりながら言う。襄陽と江陵は共に漢水と江水の間にある。また、荊州の人口もその辺りに集中していた。その地域に入らせるのは得策とは言えなかった。
「ですね。呉の主力も巴丘にありますし……やはり洞庭湖あたりでとどめるのが」
 洞庭湖は荊州中央部にある巨大な湖で、昨年の国境画定の協定では、その水は三国共有の資産ということになっている。国境の問題や、地理的条件から行っても、このあたりで敵を討つのが理想的であった。
 朱里はそのまま続ける。
「現状、白眉は三国の管轄地域を縫ってその居所がわからぬようにしておりますが、それには洞庭湖の湖上を船で移動する手段も大いに活用されているらしい……と明命さんが最近掴んだようです」
「呉軍には巴丘にそのまま居てもらい、我が蜀の軍は湖を挟んだ武陵に展開。魏軍は漢水周辺を押さえた後、江陵まで下って、その後の展開を睨むというものを提案します」
 武陵は洞庭湖に南西から流れ込む元水(※)あるいは元江の畔の地名である。湖の東北に流れ出る江水の畔にある巴丘とはちょうど対岸にある形となる。
「私の軍が漢水を固め、春蘭さまの軍が江陵から江水まで下る。魏としてはそんな動きになりますか……」
 雛里の提案に、流琉も地図を確認しながら、軍の動きを頭の中で組み立てる。
「最終的にどこで合流するかは、流動的にしておくってことかな?」
「はい」
「ふむ」
 一刀もまた各軍の動きを想像する。星や焔耶もまた同様にしているようで、目がせわしなく動いていた。
 一刀は、そこで、後ろを振り返った。
「愛紗はどう思う?」
「え、わ、私ですか!?」
 話の流れの中に身を置いてはいたものの、参加はしていなかった愛紗は唐突に訊ねられ、素っ頓狂な声をあげる。いまの彼女に発言できるようなことがあるとは思ってもいなかったのだ。
「ああ、それはそうだ。桃香様のご指名でもあるからな」
「か、からかうな、莫迦」
 にやにやと笑う顔を隠すように、白い袖と手を口元に持っていく星に思わずそう言ってから、彼女はこほんと咳払いをする。
「ええと、私の意見ですか……。そうですね。万全を期するために、長沙あたりの呉軍も増強しておいてほしいところですか。洞庭湖近辺で敵を討つなら南に抜けられても困りますから」
 長沙は同じく洞庭湖に注ぐ湘水沿いの都市で、洞庭湖の南にあたる。白眉を囲むなら必要な措置であった。
「呉は山越のこともある。無理はさせられないが……南側も重要だなあ」
「長沙は重要地点ですからある程度兵はあると思いますが……」
 一刀と雛里が言うのを見ていた流琉は、遠慮がちに口を挟む
「まずは、魏、蜀両方から要望を出してみます? あまり強い調子じゃなく」
「そうですね、そうしましょう」
「あ、そうだ、ところで、数え役萬☆姉妹のことなんだけど……」
 そんな風に話が進んでいく中、なにか見られているように感じた一刀はそちらへ注意を向ける。そこでは、愛紗が琥珀色の瞳に強い感情をのせて立っていた。
 感謝という名の温かな視線を、一刀は微笑みで受けとめるのであった。

※元江のゲンは本来は「さんずいに元」

 6.道行


 南鄭の町は相変わらず人が多いな、と一刀は思う。以前にここに来たときは祭りの最中であったから特別だとしても、いまこの時も洛陽と同じくらい人がいるように見える。もちろん、町の規模が桁違いではあるのだが、密度としては変わらないように思えるのは、それだけここが栄えている証拠であろう。
 五斗米道の信者たちが漢中から各地に移住しつつあるというのに、これだけの人々が集まるというのは、ここが変わらず重要な交易拠点であるからだ。益州から中原に、あるいは漢水を伝って荊州へ。そして、その逆の流れでも、人々はこの町を通過する。
 そんな人に溢れた街中を、一刀は一人の女性と連れだって歩く。
 だが、彼女は城を出てからずっと黙っていた。不機嫌だとかいうのではなく、特に彼と会話する必要を感じないだけであろう。それは承知している一刀であったが、やはりなにも喋らないのも退屈になってきて、隣を歩く黒ずくめの女性に訊ねた。
「なあ、どこに行くんだい」
「目的地は特にない」
 さらり、と予想外の答えを返す焔耶。彼女はどう見ても重たそうな鈍砕骨を軽い杖でもつくように地面に時折あてながら歩いていた。動作は明らかに軽いものだというのに、触れるだけで、路面に落ちた石が土に埋もれて真っ平らになる。
 ただ振っているだけではすぐに道路が穴だらけになってしまうから、そのあたりも加減してやっているのだろう。
「へ? いや、だって見て欲しいものがあるから、着いてきてくれってことだったんじゃあ?」
「ああ。なんでもよかったんだ。お前を愛紗から引き離すのが目的だからな」
「焔耶?」
 足を止めいぶかしげに訊ねる一刀を、彼女は少し前からじろりと睨みつける。
「莫迦が。なんだその眼は。ただ単に、星に頼まれたまでだ。話す時間を作ってくれとな。大元は軍師殿かもしれんが、ワタシはそこまでは知らん」
「ああ、そういうことか……」
 焔耶の言うことに納得して、一刀はたたっと彼女の横に戻った。言われてみれば、星たちのほうも、愛紗に積もる話があるだろう。朝廷への対策や彼女の今後を考えると、あまり妙な話をされても困るが、孔明さんが把握しているなら大丈夫だろう、と彼は安心する。
 しかし、と一刀は首をひねる。
「それはいいんだけどさ、そのこと、俺に言っちゃってよかったの?」
「お前の場合、隠し事をすればなにか気を遣って余計なことをしでかしかねん。はっきり言えば、適当な時間まではワタシの側を離れようとはせんだろう? 面倒がなくていい」
「まあ、それはそうだ」
 焔耶の言うことも尤もだ。彼女にしてみれば、星の頼み通りに一刀が愛紗から離れている時間が出来ればいいわけなのだから。妙な演技をしてぼろが出るよりは、さっさと打ち明ける方が合理的だ。
「それで、なに? 俺は焔耶とデートしたらいいの?」
「はぁあっ!?」
 頭の上から抜けるような声が飛び出て、焔耶の手が思わずその武器を取り落とす。ごず、と鈍い音がして、巨大な金棒が地面に突き刺さった。
「あ、デートって知らないよね。ごめん、ごめん。ええとね……」
「それくらい知っているわ! あの小悪魔娘がさんざんお前とでーとだなんだと浮かれていたからな。ワタシが言いたいのは、なんでそこででーとなどと言うのか、という……」
 ただでさえ巨大な武器を持って歩いている焔耶のこと。元々周囲から注目を浴びてはいたが、そうして一刀に向けて叫んだことで余計に視線を集めてしまう。彼女はそれに気づき、慌てて鈍砕骨を持ち上げると、途中からは声を落として唸るように詰問した。
「えー、だって、かっこよくてかわいい女性と一緒に過ごすなら、デートだろ」
「なっ」
 焔耶の手から再び鈍砕骨が滑り落ちる。今度こそ、彼女は人目もはばからず彼を怒鳴りつけた。
「おま、お前はなんという……。だから、さんざん言われるんだぞ、色々と!」
「まあ、そのあたりはしかたないね」
「くーっ」
 肩をすくめて何でもないように言う一刀に、妙な悔しさを覚えて歯ぎしりする焔耶であった。

 あまりに道行く人の興味をひきすぎて人だかりが出来てしまったので、二人はひとまず言い合いを止め、そそくさとその場を離れた。
「……本気で訊いてもいいか?」
 また並んで歩き出し、しばらく無言でいた焔耶が真剣な声で切り出した。
「うん、なにかな?」
「まだ足らんのか?」
「んー……」
 言いたいことはわかる。しかし、一刀はどう答えるか考え込まずにはいられなかった。
「じゃあ、こっちも真剣に答えるから、聞いてくれる?」
 一刀が言うと、焔耶はこくりと頷く。その妙にあどけない仕草に、彼はどきりとさせられたものの、なんとか抑えつけて言葉を選び始める。
「あのさ、デートって言ったのには、たしかにちょっとふざけた部分はあった。けれど、それは、そういう風にふざけあったりして仲良くなりたかったからなんだ。それで、その仲良くなりたいっていうのは、下心だけじゃない」
 焔耶は素直に聞いている。口を挟むつもりはないようだった。
「俺は北伐でも、この間の許攸の件でも焔耶には色々と世話になっているし、恩義も感じてる。まあ、それはおいおい返していくとしても、焔耶のことを知りたいと思うし、いろんな交遊を重ねていきたいと思ってる。簡単に言えばまず友人になりたい。だから、まあ、デートって言ったのは、要するに俺にとって、今日こうして焔耶と過ごせるのは歓迎だってこと」
「ふむ……。いや、待て」
 焔耶は手甲をつけた手を突き出し、制する仕草をする。
「なんだかごまかされそうになったが、お前の言葉を仔細に考えてみると……下心も含まれていると、そういうことではないのか?」
「まあ、まるでないとは言わないよ」
「おい」
「いやいや、ちょっと待ってくれよ」
 手甲が握りしめられると共に彼女の内にみなぎっていく剣呑な雰囲気を感じ取り、一刀はぶんぶんと手を振った。
「ないとは言わないさ。でも、それが発展するかどうかは、それこそ友として過ごした後の話。どうなるかは俺にだってわからないよ」
 それに、と一刀は続ける。
「俺だって、別に男女関係にならない、女性の友人だっているんだぜ?」
「……何人くらい?」
 拳を作るのはやめたものの、今度は疑うような視線を飛ばしてくる彼女に、一刀は再び手を振る。
「え、いや、だから、いるよ? 韓浩とか荀攸とか鳳徳とかさ!」
「その三人だけだろう、どうせ」
「え、いや、そんなことは……って、あれ……うん?」
「……本当にそうなのか」
 突き刺さってくる同情の視線。それに堪えきれず、一刀は泣きたくなった。
「い、いや、そんなわけは! いや、でもな……。ええと、あれー?」
「はぁあ……」
 大いに悩みはじめた一刀を見て、焔耶は盛大にため息をつく。
「もういい、お前が女好きなのはよくわかった」
「そんな、もう諦めた、お前には失望した、みたいに言われましてもですね」
「いちいち、うるさい。ほら、行くぞ」
 よくわからない事を言い出す一刀を引っ張って、町外れに向かう焔耶であった。


 7.問答


「でも、ちょっと意外だったな」
 街の中心部を抜け出し、城壁の辺りまで来たところで一刀はそれまで話していた北伐の話題を一段落させて、しみじみとそう言った。
「なにが?」
「いや、結局、俺、下心を否定してないだろ? だから、もっと怒るかと思ってた。不埒なことを考えるなとかって」
「まるでワタシが怒り狂うのが当然のように言うな、莫迦。だいたい、恋だのなんだのは、ワタシにはよくわからん」
 切り捨てるように言い放ち、焔耶はしかし、彼のことを強く睨みつけた。
「それよりも、ごまかすな」
「え?」
「質問に答えてないだろう。いや、ワタシが疑問に思っていることに対して気を回して答えたということくらいはわかっている。だが、ワタシはこう訊いたのだぞ。『まだ足りないのか』と」
「ああ……」
 焔耶はこう言いたいのだろう。それだけ女を作って、まだ、欲求が持てるものかと。
「ワタシは恋だの愛だのはわからん。しかし、だ」
 彼女は鈍砕骨を持ち直し、右手で左斜め前方を指さす。そこには一組の男女が歩いていた。服装からして旅人などではなく、この町に住む住民だろう。
「たとえば、あそこに二人連れがいるな? あれはいわゆる恋人同士だろう。夫婦かもしれん」
「ああ、そうかもね」
「もし、あの男が裕福で、何人も妻を持っても生活が成り立つとして、だからといって、十人も二十人も恋人や妻をつくると思うか?」
 一刀は口をつぐんだ。
 彼女が言いたいことは理解できる。しかし、それに答えることは、彼の生き方について答えるのと同じことだ。そう簡単なことではない。
「もう一度訊くぞ? まだ足りないのか?」
「あのさ、焔耶」
 いつの間にか、焔耶が示した男女は姿が見えなくなっている。城壁の外に出たか、あるいは賑やかな区域に行ったか。
 一刀は城壁の外、街道の方へ顎をしゃくった。
「南鄭から少し離れたところに、俺が提案した方式を実験している田畑があるんだ。そこに行かないか」
「おい」
「その道中、ゆっくり考えて、その答えを言うよ」
 怒りを募らせようとする焔耶を一刀は手を挙げて遮る。その真剣な顔つきを見て、焔耶も吐き出しかけた言葉を呑み込んだ。
「わかった」

 門を出て、どれほど経ったか。一刀は口を開く。
「どう説明しようか、ずっと考えていたんだけど」
「うむ」
「たぶん、そこらへんが、俺は壊れてるんだと思う」
「なに?」
 一刀の言葉が理解できないというように、彼女は眉をひそめる。
「遠回りになるけど、根本的なところから話すよ」
 一刀は舌で唇を湿らせ、話を続ける。
「俺は、天の御遣いだなんて言われているけど、本来は、君たち――国家を担う人々の間にいられるような人間じゃない」
「どういう意味だ?」
「三国の王はもとより、軍師や将軍たちと並ぶような男じゃないってことさ。現実には御遣いっていう虚名を華琳が支えてくれているから、こうしていられるだけだ。能力はもとより、元々、器が足りていない」
「いや、しかし、それはどうなのだ? 現にお前は……」
 特に重々しい宣言でもなく、淡々と言う一刀の様子になぜか圧倒されたように、焔耶は口を挟む。
「そりゃ、まあ、色々やってるよ。さっきも言った通り、華琳が後ろにいてくれるし、このところ、名目上は俺のところに身を寄せてる人が増えたから」
 一刀は月や恋、美羽たちを始め、いくつもの名前を挙げる。最後には愛紗の名前も。
「でも、俺がいま言ったみんなを含めて、いろんな人の力を借りて成し遂げてるってことくらい、北伐に参加した焔耶なら知ってるだろ?」
「それはそうだが……。しかし、上に立つ者というのは……」
「うん。だからさ、俺は人をまとめるのは、そこそこ出来るみたいなんだよ。仕事を割り振ったりとかね」
 そして、一刀は笑う。
「でも、やっぱり、足りない」
 焔耶の口が凍りついた。
 なにかを言いたいのに、言ってはいけない。
 そんなことを思う自分が不思議でならない焔耶。
「補おうとあがいてはいるし、こんなこと口に出すべきじゃないってのもわかってはいるんだけどね」
 一刀は声の調子を変え、彼女から視線を外して言葉を続けた。
「そこで焔耶の問いへの答えになるけれど」
「う、うん」
「俺がみんなに力を貸してもらっているのは、実際に表に出ていることだけじゃない。俺の決断や考えをまとめる、その奥底……そういうものも支えてもらってると思うんだ」
 わずかな沈黙。焔耶は喉につかえているものを吐き出すように言った。
「心、というわけか?」
「そんな綺麗な言葉にできるかはわからないけれどね」
 彼の視線が戻る。真っ直ぐに彼女の瞳を射貫いてくるその瞳。
「ねえ、焔耶。一人の女性を愛するってことは、とても恐ろしいことだよ。その人の人生に、ほんの少しでも触れ、変えていくってことは……けして一人だけじゃない。この世に生きる様々な人たちに影響を与えるほど重大なことだ。
 でも、俺は止められない。だって、それはとてもすばらしいことなんだ。その人を知ることで、そして、その人に俺を知ってもらうことで世界が広がっていく。
 それは、きっと、とんでもなく大事なことなんだと思う」
 一刀は焔耶に近づいたりしていない。並んで歩いたその距離を保っているはずだ。
 それなのに、彼の姿が彼女の視界の中で膨れあがる。その瞳に呑み込まれてしまうような気がするのに、視線が外せない。
「俺がそれを、どんどん重ねていて、とてもこの身にふさわしくないくらい欲していることは確かかもしれないけど、でもね、足りてるとか、足りてないとか、そういうことじゃないんだよ、焔耶」
「ああ……ああ、たしかにお前は壊れているのかもしれん」
 ようやくもぎはなすようにして顔をよそに向け、押し出した声はすっかりかすれている。
「そんなことを大まじめに、しかも、この世を揺るがす大事のように語る男なぞ、そうそうはおらんだろうからな」
 笑みの気配。彼が自分の言葉に笑っていることを感じ取りつつ、彼女は前を向いたまま言った。
「一つ忠告してやる」
「ん?」
「他の奴にそんなことを話すなよ」
「そうだね」
 わかったよ、と一刀は頷く。
「じゃあ、二人だけの秘密だ」
 その言葉を聞いた途端、自然にため息が出ていた。
「桔梗さまの言っていたのがよくわかるよ」
 彼をちらっと横目で見やり、焔耶は実に複雑な表情でこう言い放つ。
「お前は危ない男だ」
 男のほうは自分がけなされているのか、褒められているのかまるでわからず、不思議な気分でそれを受け止めるしかなかった。


 8.理由


「しかし、あの実験田とやら、うまくいくのか? なにやら、道具が放置されていたぞ?」
「う、うーん。真桜が試作品を片っ端から送ってるらしいから……中には失敗もあるんだと……」
 一刀の世界の農法を試している田畑を見て回るのは、なかなかに刺激的で、二人で見て回っているうちにすっかり辺りは暗くなってしまっていた。焔耶は疑わしげに言っているものの、彼女もかなり興味津々といった様子だった。
「多少失敗するのはしかたないが、それにしても魏というのは……」
「焔耶?」
 奇妙に途切れた言葉に彼女の方を向くと、黙るよう手で示される。身を固くして腰の刀の柄に手を置く一刀。
「いるぞ」
 焔耶の言葉に目を凝らすと、薄闇の中に、灯りが一つ見えた。手元に掲げているのだろう。その灯りが照らす鎧姿がぼんやりと浮き上がって見える。ゆっくりと近づいてくるにつれ、その鎧の形が判別できるようになり、一刀はほっと息を吐いた。
「ああ、なんだ、蜀の兵士さんじゃないか」
 柄から手を放し、体から力を抜いた時、二つの声が彼に飛ぶ。
「莫迦!」
「死ねえぇっ、北郷一刀!」
 灯火が投げつけられ、目が眩んだ一刀に、人影が走る。その手に煌めく白刃を、目つぶしをくらった一刀は見ることが出来ない。
 だが。
 がきん、と金属同士が打ち合う音がした。
 そして、飛んできた灯火をはたき落とし、ようやく視界の回復した一刀が見たものは、一人の男に馬乗りになった焔耶の姿であった。
 近くには一刀が落としたろうそくと、はじき飛ばされたらしい小刀が落ちていた。
「なぜ、なぜ邪魔をなされますか、魏将軍!」
 うつぶせになって押さえ込まれている兵士は苦鳴をあげつつ、その合間に叫ぶ。
「こいつのせいで、雲長さまがぁっ!」
「……関羽隊か……」
 呻いて、焔耶は首を振る。一刀は、さらに組み敷く体に力を加えようとしている彼女に声をかけた。
「焔耶、そいつを放すんだ」
「お前に命じられる覚えはない。これは、蜀の……」
「違う。他にもいる」
 途端、焔耶は体で押さえつけていた男の首を手で掴む。細い悲鳴をあげ、男は動きを止めた。
「殺してはいない。失神させた」
 跳ね起きて一刀の横に立つ。男はそれに応じる余裕もない。地面の上でじりじりと燃え続けているろうそくの灯りの届く範囲のさらに向こうに、多くの人の気配があった。
「こいつは囮か」
「そのようだ」
 焔耶が襲ってきた兵を押さえている間に、彼らは二人をすっかり囲んでいた。普段なら気づかぬはずもないが、いかに焔耶とて一刀を守り、暴れようとする男を取り押さえている間では注意もそれようというものだ
「周到なことだな」
 じわじわと輪を狭め、近づいてくる人間たちを見て、焔耶はぎりと歯を食いしばる。おそらく、最初の男を近づけるよりはるか前から、二人を見張っていたのだろう。そう思わせるだけの完璧なる包囲であった。周囲一周、全てに殺気が満ちている。
「こいつを背負って、なんとか強行突破を……」
 いや、無理か。彼女は首を振る。
 時折鈍く鋼が光を反射するのが見える。すでに武器は抜かれ、包囲を突破するにはそれなりの代償が必要となる。彼女一人ならともかく、彼を守りつつでは難しそうであった。
 それでも、相手が普通の兵ならば、なんとかなっただろう。
 しかし、『完璧な』包囲である。
 囲んだ相手が逃げる道を逃さない包囲は、自らの被害を一顧だにしない者のすることだ。通常の戦法ではない。
 つまり、彼らは死兵だ。
 死ぬ事を恐れない兵相手に、ひるんだ隙をついて逃げるなど通用しない。
「本当に蜀の人かな?」
「なに?」
「いや、蜀の……愛紗の部下を装ったどこかの刺客なら、逆に問題が少ないなあ、と思ってさ」
 こいつはそんなことを考えていたのか、と焔耶はあきれかえる。
「残念だが、見知った顔がある」
 これは本当だ。ようやく見えてきた男たちの幾人かに、見覚えがあった。赤壁以前からの古参さえ見受けられる。
「……そうか」
 一刀は言いながら真桜の打った刀を抜いた。だが、途端に焔耶に肩をこづかれる。
「莫迦。武器をしまえ」
「で、でもさ」
「こやつらはな、死ぬ気だ。全員でワタシを足止めして、最後の一人がお前を刺せれば、それでいいと思っている。そんな奴ら相手に離れられて、守れると思うか?」
「焔耶……」
 動こうとしない一刀を、焔耶はもう一度つつく。
「お前はワタシが守る。いいな?」
「わかった」
 男は刀をすっと鞘に戻す。
 そこで、はじめて兵たちが口を開いた。
「文長さま。退いてはくれませんか」
「阿呆」
 最後まで言い切る前に、焔耶はぶうんと鈍砕骨を振るう。
「退くのは貴様らのほうだ」
「そやつは、関将軍を……」
 さらに言いつのろうとするのを遮って、
「愚か者どもめが!」
 大音声が空気を揺らした。
「こやつが誰だかわかっているのか。漢の九卿、魏の客将、呉の跡取りの、そして、厳将軍の子の父! なによりも、あの曹操の愛人だぞ」
 ごぶん。
 そんな音をたてて、鈍砕骨が大地に突き立てられる。一歩も退くつもりがないことを、その姿勢は明らかにしていた。
「そんな人間をお前たちが傷つけてみろ。我が蜀が、玄徳様がどれほどの害を被ると思っている!?」
 しかし、その口上も、彼らには届かない。
「か、関係ない!」
「そうだ! 関係ない! そいつがいなくなれば、雲長さまは自由になれるんだ!」
「我ら、関羽さまのために!」
「関将軍万歳!」
「淫魔に天誅を!」
 口々に熱っぽく唱える度、彼らの興奮が高まり、緊張が募っていくのが如実に感じられた。
「その愛紗が一番迷惑すると、なぜわからん……」
 ちらり、と彼女は横で彼らの非難を受け止めている男の顔を見た。張り詰めた表情はしているものの、憤激したりする様子はない。これはこれで助かるな、と彼女は思う。
「よし、わかった」
 鋼が組み合う音が小さく鳴る。
「もはや問答無用。蜀に仇成す輩として、貴様らを討つ」
 それは、地に突き立てられた鈍砕骨が焔耶の手により構えられた音だった。
「あいつだけを! あの無道者だけを狙え!」
「雲長さまを返せ!」
「将軍を押さえろ!」
 興奮して叫びをあげながらも無闇とつっかかってくるでもなく、一歩一歩着実に近づいてくる兵たちの姿を見て、挑発にものらんか、と心の中で舌打ちする焔耶。その数を把握して、彼女は一刀に告げる。
「捨て身の五十人。戦場で二百相手にするよりきつい。まして弱っちい奴を守りながらだからな」
「……そう、だろうな」
「ワタシの背中にぴったりついてこられるか?」
 囁くように言うのに、一刀は間髪入れず頷いている。
「そうするしかないなら」
「出来るんだな?」
「やってみせるさ」
「よし」
 彼が自分の背につくのを感じ取り、焔耶は構えていた鈍砕骨をさらに高く高く掲げる。
「同じ軍に属した者への最後の慈悲だ」
 空気を押しつぶすように金棒を振り回し、彼女は宣言する。
「一人残らず、この場で殺してやる」


 血、血、血。
 そこは血にまみれていた。
 鼻が曲がりそうな血臭の中、立っているのは二人。
 はあはあと荒い息を吐きながら、自分の得物に体重を預けてようやく立っている焔耶と、それ以上に汗だくで彼女の傍らに立つ男。
 その二つの体はどこも血でどっぷりと濡れている。血と汗が入り交じり、二人ともひどい顔であった。
 しかし、そこに、一刀の血は一滴も含まれていない。
「だい、じょうぶか」
「あ、ああ……」
 どちらが訊ねて、どちらが答えたか。それも定かではないほど、彼らの息は切れ、声も嗄れていた。
「よくついてきたな」
「動き、すぎて、吐き、そうだよ」
 うげ、と実際に息を詰まらせて、一刀は首を振る。血と汗と、おそらくは涙と鼻水までまじった液体が飛んだ。
「それだけ話せれば、上出来だぞ」
 一度大きく息を吸い、それを吐き出した後、焔耶は体を起こす。平静とはいかないまでも、それなりに息が戻っていた。
 彼らは血と内臓と引きちぎれた肉片の入り乱れる中を、歩き出そうとして、ふと声がするのに気づいた。
「なぜ……なぜ……」
 それは、血だまりの中、いくつかの折り重なった死体の上に倒れている一人の男の口から漏れているようだった。
「不運だな。生きのびてしまったか」
「なぜ、そやつを……我らの敵を……守る……の、です……」
 焔耶が近づいていくのに、一刀は何も言わない。言葉を発する気力がないのか、蜀の問題だと思って口を出さないのか。
 あるいは、彼女のしたいようにさせたいのか。
「なぜ? だと」
 焔耶は瀕死の男の髪をつかみ、ぐいと顔を引き起こす。
「お前たちは関係ないと言ったな」
 その顔をのぞき込み、言い聞かせるように彼女は言った。
「そうだ、関係ない。こやつが何者であるかなど。ワタシがこやつを守るのに、なんの理由もいらん」
 死んでいった仲間たちに教えてやるといい、と焔耶は言った。
「北郷一刀は、ワタシが真名を許した、我が友だ!」



     (玄朝秘史 第三部第三十回 終/第三十一回に続く)

北郷朝五十皇家列伝


○荀家の項抜粋

『荀家は荀ケにはじまる皇家である。荀ケは荀子十一世にして、時の政道を批判し『神君』と呼ばれた祖父荀淑の血を引いており、他の荀家の血筋の人間と共に、世に出ようとする時点でそれなりの名声を築いていた人物と言える。
 ただし、祖父荀淑の血統が、十一世離れる荀子まで一気に飛んでいるのは、かえって系図の怪しさを物語る。実際に荀子の血を引いているとは考えにくい。
 さて、荀ケは当初、後に同じく皇妃となる袁紹に仕え……(中略)……
 家祖である荀ケその人からして曹操への忠節は広く知られていたところであり、世上では愛人関係もあると噂されたほどであるが、その子孫である代々の荀家の者も、曹三家、殊に曹宗家に対する忠誠に関してはぬきんでているとされていた。三家のうち宗家に対しての比重が高かったのは、上家の廃太子である丕との親交を荀ケが拒絶し続けた事ともなにか関係しているのかもしれないが、詳細に関しては不明である。
 この例だけではないが、曹家集団の内部の関係については謎が多い。皇家の集団の中でも多くの家を含む大規模な一群であったため、この集団については古くから専門の研究がなされているにも関わらず、その結束の強さと秘密主義が相まって……(中略)……
 しかしながら、王朝開闢より四百年の時を経て、荀家の忠節の誇りを揺るがしかねないとんでもない事態が起こる。
 すなわち、北郷朝を中華王朝から転落させ地方政権となさしめた、趙、楚の二国のうち、趙の皇帝として荀家の末席に連なる人物が担ぎ上げられたのである。
 一般にどれだけ認識されているものかはわからないが、北郷朝から北方を奪った趙、南方に拠った楚、その両者が皇帝として戴いた人物は、ごく薄い繋がりながらも北郷の血を引く者であった。
 後に楚では、現実の実力者――軍閥の首領たち――と皇帝家の婚姻が繰り返されることで、最高権力者の名目と実質が融合していくこととなる。
 一方、趙では、当初祭り上げた皇帝が登極三日で足を滑らせて死亡。慌ててその妹を帝に据えるものの、これも数日後に寝室で冷たくなっているのが発見される。さらに、その甥を至尊の座に登らせたが、これは皇帝となる儀式を行った当日、百官に食事を振る舞う席上、満座の中で血を吐いて死んだ。皆と同じ皿から取り、酒を回し飲みしていたというのに、である。
 不可解ではあるが、疑うことなく毒殺であった。
 医師たちが先に死亡した姉妹の遺体を調べると、これも毒を盛られていたことが判明する。だが、いくら調べても、どの人物に対してもどうやって毒を摂取させたかは不明のままであった。そして、誰がそれを行ったのかも。
 それなのに人々は噂した。あれはきっと荀家の手によるものだろうと。
 事実がそうであったかは、いまもわからない。しかし、荀家の者は、帝国を――ひいては曹三家を裏切る人間を輩出するくらいならば、それを排除することを厭うわけがない。それが人々の認識であった。
 ここに至り、趙は北郷の血脈を用いて皇帝をたてることを諦め、元来の勢力内から帝を選ぼうとしたが、それに伴って内紛が発生する事態となった。これが、ついに長安を獲れなかった理由として常に挙げられる、趙建国当初の経緯であり……(中略)……
 さて、このことは、一つの事実を物語る。すなわち、いかに抵抗があることが予想できようとも、諸皇家が築き上げてきた四百年の血の重みとそれに伴う権威は、排斥よりも利用することを考えさせるほど強力なもので……(後略)』

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