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509 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/12/18(土) 22:31:20 ID:q6paUiPg0
こんばんは、一壷酒です。玄朝秘史第三部第二十九回をお届けします。
今週はコンタクトが割れて大変でした。
現在は、コンタクトをつくってもらっている最中なので、なんとかモニタのコントラストあげたりして
しのいでいますが、万全とは言えないので、年明けまでは、誤字・脱字が多いかも。ごめんなさい。

投下予定:12月は、毎週 土曜日夜 に投下予定です。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0601
※なお転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)



玄朝秘史
 第三部 第二十九回



 1.努力


 北郷一刀真人間化計画は、まず愛紗本人による厳重な監視活動から始まった。一刀はそれに少々困ったような顔を見せつつも口に出して文句を言うでもなく、彼女の行動を制限しようともしなかった。
 朝、月たちと一緒に一刀を起こしに来てから、彼が床に着くまで彼女は一刀の一挙手一投足を見守る。宮中のどこに行くにもついていけたのは、愛紗自身が前将軍という官位を持つが故の事であった。
「んー? 愛紗?」
「なんでしょうか」
 午前中の、大鴻臚としての勤めを終えたところで廊下を歩いていた一刀は、数歩離れて後ろをついてくる女性を振り返って訊ねる。
「次もついてくるの?」
「はい。私が立ち会うのが問題ですか? 廊下か別の部屋で待つのでも構いませんが」
「いや、同席するのは構わないんだけどね。次、紫苑との会談なんだよ」
「あ……」
 気遣わしげに言う男の台詞に、愛紗は固まる。しかし、彼女は少しの間うつむいて考え込んでいたものの、見つめてくる男の心配げな表情を認め、決意したように頷いた。
「いつまでも逃げ回っていてもしかたありますまい。ちょうどよい機会です。共に参りたいと思います」
「ん」
 軽く頷いて体を戻す一刀。その何気なさに愛紗はなんだかほっとする。
 北郷一刀という人物にとってみても彼女は腫れ物の様なもののはずだが、それを感じさせない彼の態度は彼女の気持ちをずいぶんと軽くしていた。
 紫苑との会談は急務でもある白眉についての対策からはじまり、涼州方面における北伐の進行具合に関する報告へと進んでいった。
「では涼州は問題ないと考えてよろしいのでしょうか」
「うん。遠すぎて詳細はわからない部分もあるけどね。わかる限りでは順調だよ。まあ、あの顔ぶれで手こずる相手がいるものなのか疑問だけど」
 一通り報告した彼に紫苑が確認するのに、肩をすくめて見せる。蜀の大使はその答えに上品な笑い声をたてた。
「あの面々を負かす軍が現れたなら、たしかにそのほうが問題ですわね。心配なのは皆、我が強いことですけれど……」
「多少のぶつかりあいはあるだろうけどね。敵がいる間は大丈夫さ。雪蓮なんか、未経験の相手ばかりで楽しくてしかたないみたいだよ」
 代わりに祭が大変みたいだけど、と一刀は少し前に届いた手紙の文面を思い出して続ける。王という立場を離れた天性の武人の手綱をとるのは、なかなかに難しいようであった。
「では、ひとまずそれはよいとして」
 一刀の言葉に再び笑みを見せていた紫苑は、しかし、すっと表情を無くして、部屋の隅に控えている愛紗に目をやった。
「関将軍のことですけれど」
 静かに話を聞いていた黒髪の女性の体に力が入る。しかし、紫苑の視線はすぐに彼女から離れて、対面に座る男に向かう。
「そろそろ、公式に一刀さんから、一言二言あってもよろしいのではないかと思うのですけれど」
「……それは、桃香か孔明さんからの『要請』?」
「いいえ、わたくし個人の判断ですわ。国元はまだ事態をはかりかねているようですし」
 紫苑は密勅のことも、長安に誰がいたかも知っている。おそらく内心ではほぼ現実と乖離しない推測をしているはずだ。しかし、もちろん、彼女も愛紗本人もそのことに触れるわけにはいかない。まして一刀がなにか訊ねるわけにもいかない。
「そう……。謝罪ではないんだよね?」
「あら、一刀さん。なにか謝らなければならないことをなさりましたの?」
 艶然と微笑む紫苑の姿に、彼はしかたないというように肩をすくめ、腕を組む。
「そうだな。俺はあくまでも愛紗の意思を尊重して自らの下へ迎え入れた。無理強いはしていないし、今後するつもりもない。ただ、彼女が俺の下にいる限り、俺は彼女を全力で守る。ちょっかいを出すならそのつもりで……。といったところかな?」
 それは、桃香たちへの言づてであると同時に朝廷への宣言でもある。聞きようによっては挑発とも取れるそれを、しかし、紫苑は嬉しそうに受け止めていた。
「たしかに承りましたわ」
 下げる頭と共に『愛紗ちゃんをよろしく頼みます』と聞こえてくるような紫苑の所作であった。
 そうして、終わった会談の去り際、全く外交儀礼というやつは……などとぶちぶち呟いている愛紗の傍らに、たおやかな影が寄った。
「慣れるしかないわよ、愛紗ちゃん」
 それは彼女の愚痴に対するものか、あるいは別の意味が込められていたのか。ぽんぽんと軽く肩を叩く紫苑の仕草は、とても温かなものであった。
 横をすり抜けていくその背に、思わず愛紗は深々と頭を下げそうになり、周囲を気にして小さく頷くだけで済ませた。
「さて、一段落したし、お茶にでも行こうか?」
 二人の様子を眺めていた一刀は、しばしの沈黙の後、そう切り出す。だが、くるりと振り返った愛紗の顔は、軽く怒りを含んだ渋い表情に覆われていた。
「なにを仰いますか。次の仕事まで間があるのでしたら、ちょうどいいです。鍛錬と参りましょう」
「えー? でも、風呂の用意してないしなあ」
「冬でもあるまいし、汗をかいても拭っておけば風邪などひきません。風呂は寝る前にでも入られればよろしい」
 一刀の抗議を封じ込め、ぐいぐいと引っ張っていく愛紗であった。


「出陣する前に春蘭から聞いたのですが、こちらに来た当初、字が書けなかったというのは本当ですか?」
 書類の整理を手伝ってもらっていた愛紗に訊ねかけられ、一刀は顔をあげる。
「んー。それは正確じゃないな。書けないどころか、読めもしなかったしね」
「読み書きともにですか」
 何気なく話題を振った愛紗であったが、驚きに思わず彼と彼の作った書類の間で眼を往復させる。そこには十分に上手な、読みやすい字が連ねられている。
「うん。まあ、俺にとっては外国の言葉だしね。話すのはなんでか知らないけど通じたんだけどさ」
「はあ」
 曖昧に頷いておく愛紗。天の国のことや彼がどうやってこちらに来たのかなどについては、いまひとつわかっていなかった。
「とはいえ、あの華琳だからな。無駄飯ぐらいは置いてもらえるはずもなく。必死で勉強したさ」
 大変そうではあるものの、なんだか楽しそうに述懐する一刀の姿を見て、愛紗は真剣な顔で頷く。
「後から慌ててやらなくて済んだのはよいことでしたね」
「うん。機会をくれたのは、ありがたい話だよね」
 愛紗は机の上を見直す。彼の書き上げた竹簡と、彼が決裁すべき書類がうずたかく積まれていた。
「ご主人様は、勉強熱心でおられる」
「必要に迫られれば、ね。それにここで暮らす以上、なにかしないと。俺は武人でもないし、これくらいしか出来ないんだよ」
「そう。仰るとおり、お仕事もきちんとこなされている」
「ま、まあ、それなりには?」
 急にそんなことを言われて思わず彼はびくつく。基本的に、いきなり褒められるのはなにかある時だと経験則で知っている一刀であった。
「これだけ働いていて、どうやって女性と遊び興じる時間をつくっておいでなのです?」
 まっすぐに問いかけられ、一刀は、うぐぐ、と黙る。責めているわけではない。純粋に疑問に思っている様が、余計に彼を追い詰めていた。
「そ、そこらへんは、華琳を見習ってですね……」
「ふむ」
 愛紗は腕を組んで考え込む。沈黙に耐えきれなくなった一刀はおずおずと声をかける。
「あの……」
「ご主人様」
「はい?」
 気づいているのかいないのか、呼びかけを遮るように返ってきた声に、一刀は目をぱちくりさせる。
「明日は顔を出すのが遅れます。よろしいでしょうか?」
「そりゃ、別に構わないけど」
「ありがとうございます。では、こちらはさっさと片付けるとしましょうか」
 腕まくりをせんばかりの勢いで言われ、彼女が何を考えついたのか訊ねる機会を逸する一刀であった。

 翌日、彼女は宣言通り、午後も遅くになってから一刀の執務室に現れた。
 ちょうど冥琳との打ち合わせが終わったところで、仮面の女性が立ち去ってから、一刀は愛紗を近くに呼び寄せた。
「今日はどうしたの?」
「色々と調べ物をしてきました」
「なにを?」
「ご主人様と華琳殿の市井での評判などですね」
「はい?」
 一刀の驚きの様子には構わず、愛紗は淡々と続ける。
「世間では、華琳殿も女色の欲が強いほうだと評判です。しかし、ご主人様ほど否定的なものではないし、彼女の評価の中核をなしているわけでもない」
「そりゃ、華琳は三国統一の覇王だからな。そっちの評価がまずあるだろうね」
「はい。そうです。彼女を語るには、まず覇王という部分は欠かせない。女好きという部分はその前ではかすんでしまっています。しかし、ご主人様は、違う。はっきり言いますと、彼女ほどの功績がない」
「そりゃそうだ」
 正直、そう言われても当然だとしか思えない。
 華琳に並ぶ功績など、この時代の誰も持ってはいない。三国を建てたそれぞれの王、雪蓮や桃香でも、やはり一歩劣ると言わざるを得ない。それは、戦乱の世で勝ち抜いた者にしか宿りようのない権威だ。
「もちろん、華琳殿のようなことを成し遂げるのは数世代、いいえ、数十世代に一人でしょう。それに匹敵しろなどとは申しません。しかし、近づくことは可能なはず」
「いや、どうかなあ……それは」
「ご主人様は華琳殿を見習って時間を作っていると仰いましたよね?」
 彼女の話を聞いてなんとも言えない表情になっている一刀に、愛紗は確認し、彼が頷いたところでおもむろに懐から一枚の紙を取り出した。
「見習うならば、徹底的に参りましょう。華琳殿に一日の過ごし方をまとめていただきました。それを参考にご主人様のお仕事をあてはめ、作った予定がこれです」
 愛紗が机に広げた紙に目を通した一刀はひぇっ、と小さく声をあげた。
「ちょ、ちょっと、なんだ、この量。華琳には出来るかもしれないけど、俺には無理だって! しかも、詩作の時間とか、演奏の時間とかあるぞ!?」
「はい。ありますね」
 一刀の悲鳴のような言葉はさらりと肯定される。
「すぐには出来なくても、それが出来るようになるための稽古の時間と思っていただければ。幸い、ご主人様のところには、月や詠、冥琳といった各分野に精通した、達人とも言える人間もいることですし」
「いや、そうは言っても……」
 もう一度一刀はその予定表を見る。はっきり言って、殺人的なきつさであった。これをやり遂げてなお桂花たちをからかう時間まである華琳は偉大すぎる、と一刀は尊敬をあらたにする。
「私とて鬼ではありません。この一日分をこなした上でなら、いくら女性と戯れても文句は言いません。それでも何か言う者がいれば、この私がご主人様の成し遂げたものを見せつけてやります!」
 愛紗は自信のこもった笑みで言い放つ。実にいい笑顔であった。
 たぶん、飴と鞭とか考えているんだろうけど、ちょっとさじ加減を間違えてますよ、愛紗さん、と思いつつ口には出せない一刀。
 あまりに実現性の薄い目標は、人のやる気をかえって削ぐだなどと、この笑顔を前にどうして言えようか。


 2.反響


 宮中の庭の一つには、人工の川が流れている。河水の姿を模したそれは、河水そのものから水路を引いているものの、途中いくつものため池を通るためか濾過されて黄色い濁りはなくなっている。
 そこにたくさんの果実が入った竹籠を浮かべ、畔に座ってお茶をしているのは魏の覇王と、袁家の蜂蜜姫、そしてそれに常に付き従う七乃の三人。
 茶菓子は流水で冷やした果物というわけだ。
「のう、華琳よ」
 桃の果汁でべとべとになった手を水の流れに浸して洗っていた美羽が、とてとてと華琳の横に戻ると、傍らの女性の顔を見上げた。
「何かしら?」
「妾たちを呼び戻したのは一刀であろ?」
 華琳たちに遅れること数日、美羽と七乃は涼州より帰還していた。袁長城周辺の責任は一手に真桜にのしかかることになるが、いまは涼州よりも中央にこそ美羽たちの力の生かしどころがあるという一刀の判断であった。
「そのようね」
「では、なぜ一刀と会えんのじゃ。せっかく戻ってきたというに、軽く報告をしたくらいで、あとは放っておかれとるぞ。このようなことこれまでなかった!」
 ぷう、と頬を膨らませて不満を表明する様はまるで子供のようだ。しかし、けして無邪気な子供の面だけで言っているのではないことを、華琳は知っている。なにしろ、一刀は色々な面で美羽に『なつかれて』いるはずだから。
「一刀が忙しいというのはあるけれど、理由はそれだけではないわね」
「むう……」
「失敗したとかそういうのでもないと思うんですけどね。北伐の前線は遠すぎて私たちにはどうしようもなかったですし、長城は順調にできあがってましたし、美羽様は大人気でしたし」
 そもそも、へまをしたからって冷たくあたるって人でもないですけど、一刀さん、と七乃はいつも通りの笑顔で言う。焦りや不快の影はそこにはない。
 この女の心底は読みにくいけれど、おそらく、見当はつけているのでしょうね、と華琳は彼女から新しく淹れた茶杯を受け取りつつ考える。
「も、もしや」
 なにか恐ろしいことを想起したのか、美羽の目が大きく見開かれ、わなわなと震え出す。蜂蜜色のやわらかな印象の金髪がその小さな体の動きにつれてふるふると揺れる。
「わ、わら、妾たちのことを嫌うてしもうたのでは」
「ないわね」
「ないない」
 即座の否定が二つ重なり、美羽の目に溜まりかけていた涙もひっこむ。きょとんとした顔で見つめてくる彼女に、華琳は優しく微笑みかけてやった。
「そもそも一刀に女を嫌うなんて出来るかどうか怪しいものよ。飽きることも――これは、女だけではないようだけど――なさそうだし。まあ、それに安心して女を磨くことを怠るわけにはいかないけれど。ともかく、あなたが嫌われたとかではないわよ」
「しかしじゃな、現に……」
 言いつのろうとする美羽に、華琳はぱたぱたと手を振ってみせる。
「いま一刀に会えないのはあなたたちだけではないし、それに、会おうとしないわけではないわ。あれの意思で時間をつくろうにも出来ないのよ」
「どういうことじゃ?」
「いま、一刀の日程をたてているのは、愛紗なのよ。それで、一刀はみんなと遊ぼうにも遊べないわけ。白眉の件があって、そもそも時間が限られているというのもあるけどね」
 華琳は、一刀の予定の組まれ具合について大枠は予想出来ていた。というのも参考にと愛紗が華琳自身の予定を聞いてきたことがあったからだ。
 春蘭や桂花たちを相手にする時間を除いて、それでも中程度の忙しさの時のことを話してやったのだが、あの通りにやっているなら、一刀はこなすので精一杯のはずだ。誰かと添い寝する程度なら出来ても、これまでのように皆に気を配るなど出来ようはずもない。
「関羽が一刀の下についたとは聞いておる。じゃが、それがなぜ一刀の行動を縛るのじゃ? 詠あたりが予定をたてるというなら、まだわかろうというものじゃが……」
「そもそも一刀さんがそれに従っているというのも変な話ですよねー」
 二人の言うことも尤もだとばかりに頷いてから、華琳は口を開く。
「ここで言うべきことでもないから詳細は言わないけれど、愛紗が一刀の所に来るにあたっては事情があってね。それもあって、一刀は愛紗に同情的で、あまり強いことは言えないのよ。ただ、一番の理由は彼女の邪魔をしたくないってところだと思うわ。せっかく自分の所に来てはじめて積極的に動いてくれたのだから、しばらくは任せてみよう。そんなところでしょうよ」
「な、なんじゃそれは」
「さっすが一刀さん。甘々ですねー」
 あきれ果てたように呟く美羽と、まるで笑っていない瞳で口調だけは楽しそうに言う七乃。そんな二人を面白そうに見比べて、華琳はさらに続ける。
「現状、愛紗は一刀の評価を改善しようと懸命なの。まあ、悪い評判の主なところは女性関係だから、それを遮断しようという意図でしょうね」
「あれだけ孕ませておいて、いまさら遅すぎませんかあ?」
「まず無理ね」
 魏の女王はあっさりと愛紗のがんばりを否定する。
「人の噂なんてものはいい加減なものでね。酷いもののほうが楽しいから、多少改善されたって訂正されたりしないものよ。そもそも、一刀の行状とそのままにつながっているわけでもないしね」
「そりゃそうですよねー」
「だいたい、いま関係を慎んだとして、子供たちは? それも構わないでいたとしたら、余計に悪評が立つわよ。甲斐性なしってね」
 それに、と華琳はにやにや笑って付け加える。
「もし、もしもよ」
 何度も念押しし、彼女は言う。
「あの一刀が、女性関係を整理して、一人……いえ、子を持つ母だけに絞りますとでも言い出してご覧なさい。血の雨が降るわよ」
「そ、それは……」
「お、恐ろしいのじゃ」
 袁家主従はその光景を想像したのか、がたがたと歯の根も合わぬほど震え始める。そもそも、目の前の女性が率先して一刀を血祭りに上げそうだとでも考えたのかもしれない。実際、彼女の持つ大鎌は、首をはねるのにとても便利そうだ。
 そんな二人の様子を楽しそうに眺めた後で、華琳は慰めるように声をかけた。
「まあ、もう少しだけ待ってあげなさい。じきに解決するわ」
「関羽さんが諦めるからですかぁ?」
「いや、一刀が音を上げるのではないかや?」
「いいえ」
 両者の推測を否定して、華琳はからからと笑う。
「そろそろ、いい頃合いなのよ」
「頃合い?」
 美羽がかわいらしく小首を傾げるのに、華琳はそっと押し出すように囁いた。
「誰かが爆発する、ね」


 3.選択


「にーぃちゃんっ」
 明るい声に文字を追う目を外し、振り向いてみれば髪を両側に結い上げた少女が笑いかけていた。
「おお、季衣。どうした」
「んー。特に用事が無くてぶらぶらしてたら、兄ちゃんたち見かけたから。月ちゃんもこんにちはーっ」
「はい、こんにちは」
 一刀の横に立ち、彼が書を読み進めるのを手助けしていためいど姿の女性がにこにこと楽しそうに答える。秋の――つい先日、季節は秋に移った――風が吹きすぎる四阿で四書五経を読み、様々な議論を行っていた二人であった。
「季衣ちゃん、お茶でも飲んでいきますか?」
「わー、いいの?」
「さっきご主人様に淹れたところですから。お茶菓子もすこしだけなら……」
「やったーっ!」
 喜色満面の季衣は一刀が数冊の本を広げている卓に近づくと、彼が両腕を広げているのを認め、さらに喜びの色を強くした。いそいそとその膝におさまる季衣。一刀の膝は彼女の特等席であった。
「お勉強?」
 季衣はごそごそとお尻の位置を調整する。一刀の鼻孔に彼女の髪の香りが広がった。お日様の香りだな、と一刀は思う。
「まあね。一度読んだ本だけど、もう一度しっかり読んで、内容を論じられるようになろうと思ってね」
 儒学をはじめとした諸子百家の書物、孫子に代表される兵法書。それらを月や冥琳、詠の力を借りて読み通し、理解し、さらに読み直して何かを得ようとしている一刀であった。
 もちろん、これも愛紗の組んだ予定の内だ。
「すごいなー。ボク、一度でもたいへんだよー」
 月の出してくれたお茶菓子を頬張りながら、季衣が言うのを、一刀も月もほほえましく見ている。しかし、そうして彼女が動く度、なにか違和感を覚える一刀。
「んー、季衣。背、のびた?」
「うん。少しね。服がきつくなってたからなおしてもらったよ」
 多少のなおしで済む範囲ながら、大きくなったと言うことだろう。一刀は彼女の頭が揺れる位置に抱いていた違和感に納得する。
「そのうち、こうしてのせてやれなくなるな」
「えー」
 わずかに寂しげに呟いた声に、強い抗議の声があがる。
「そんなのやだよ」
「そうは言っても、あんまり大きくなったら、無理だろう」
「うー」
 季衣はうなり声をあげ、口の中のものを呑み込んでから、宣言する。
「じゃあ、ボク、大きくならない」
 いや、それは無理だし、華琳にでも聞かれたら大変なことになるぞ、と思う一刀であったが、口に出したりはしない。口にすればその途端、華琳が現れるんだ、絶対、と妙な確信を抱いていた。
「でも、季衣ちゃん。春蘭さんと並べるくらいになったら嬉しくないかな?」
「春蘭さまと? あー、それは……いいかも! 手足が長くなると体を動かすのも有利そうだし」
 月に言われ、背の高くなった己と、あこがれの存在である春蘭が並んでいる図を想像したのか、ぱっと顔を明るくする季衣。
 ちなみにその春蘭はいまは洛陽にいない。華琳と共に帰還してすぐに冀州へ派遣されたのだ。季衣がぶらぶらしていられるのも、春蘭がいない現状で、いざという時いつでも動けるよう待機を命じられているからであろう。
「どっちだよ」
「うーん。悩むなあ」
 彼女は一刀の上で腕を組んで考え込む。実際には体の成長など自分では制御できるわけもないのだから、ここで悩んでもしかたないのだが、真剣に考えようとする季衣はとてもかわいらしく、一刀も月も口を挟むつもりは毛頭無かった。
 二人はにこにことあたたかな気持ちで彼女を見守っていた。
「ご主人様!」
 急に響いた声に、三対の視線が走る。その先には庭を横切り、彼らのいる四阿にずんずんと進んでくる愛紗の姿があった。
「勉強については月たちの独擅場と任せておいてみれば、もうこれですか! 私が目を離した途端に!」
 途中からはねるような歩調になり、あっという間に四阿に達した愛紗は、背に垂らした髪の房を振りながら、男を叱りつける。
「え? は?」
 叱られるほうは急な出来事にうまく反応できていない。他の二人は怒声の激しさに身をすくませていた。
「ですから! そのように女性(にょしょう)と!」
 どうやら季衣を膝にのせているのが問題らしい、と気づいた一刀は弁明を開始する。
「いや、ちょっとしたお茶の時間でね」
「お茶のついでに女の膚を味合わねばならないという法はないでしょう。しかもこんなところで」
「ええっ? 何を言っているの? これはそういうやましいことじゃないよ?」
 本当に誤解しているのか、あるいは腹立ち紛れのものか、愛紗のとんでもない物言いに、一刀は大慌てで否定する。その時、彼の膝から急にそれまであった重みと温もりが消えた。
「ごめんね」
 彼の膝から滑り降りた季衣はとても暗い表情で、緊張のためか頬がひくついていた。謝る声もまた普段とは大違いの暗い調子であった。
「ごめんね、兄ちゃん」
 繰り返した少女の目に、見る間に盛り上がるのは、涙の粒。それを見せまいとするように、季衣は素早く身を翻した。
「季衣!」
 慌てて立ち上がり、その名を呼んだ時には、もう小さな体は脱兎の如く駆け出している。その背を追おうとして踏み出した足を、強烈な叱咤が留めた。
「ご主人様っ!」
 彼はそれを発した黒髪の女性の顔を見、そして、すでに遠い季衣の背を見た。
 ふっと笑みが刻まれる。
 愛紗が天宝舎で遭遇し、ついに何も言えなかったあの笑みと同質な、しかし、何かが決定的に違う、そんな表情だった。
「悪い、愛紗」
 一声告げて、彼は駆け出す。あの天下の美髪公が手を伸ばそうとして、その服の翻る端にも触れられぬ、そんな素早い決断であった。


 4.一針


「ご、ご主人様!」
 愛紗はもちろん、その後を追うつもりだった。その進む先に大きく手を広げ、足を踏ん張って立ちはだかるめいど姿さえなければ。
「愛紗さん、お話があります」
「月。どいてくれ。私はご主人様を……」
 四阿は四方に開けている。いかに月が彼女の進む方向に割り入ったからと言って、何も退いてくれと頼む必要はない。愛紗自身が何歩か避けて動けばそれで済むはずの話であった。
 それなのに、彼女は小柄な女性に向けて退くように告げた。
 それが意味するものは。
「お話が、あります」
「月……」
 動けなかった。
 なぜだかはわからない。彼女が武威で負けるわけがない。まして、気迫で縮こまるようなことがあるわけがない。
 けれど、愛紗の体は動いてはくれなかった。無視できぬ真剣さが、その声にはあった。
「私たちだけならば、我慢出来ます。でも、魏の人たちの邪魔をするというなら、話は別です」
 月がその手足を戻し、普段通りの姿勢に戻って、しかし、彼女の前から退くことはなく話し始めた後でも、愛紗は動かない。もはや一刀を追う意気は挫けていた。
「愛紗さんも人との別れというものを経験していると思います」
「それは、まあ……」
 愛紗も、そして、月も戦乱の時代を生き抜いてきた人間だ。生別も死別もいずれも経験していて当然であった。
「亡くしたのならば諦めることも出来る。いえ、諦めねばなりません。あるいは捨てられたのなら、憎むことも出来る。忘れることも出来る。けれど」
 張り詰めた表情で、一言一言を彼女は噛みしめるように言う。
「けれど、消えてしまったなら。気持ちはどこへ向ければいいんでしょう」
 消える。
 それは、一刀のことであろう。突然現れ、そして、またいきなり消えてしまった天の御遣い。
 噂でしか知らない話ではあるが、華琳はじめ、魏の面々の反応を見る限り、真実と考える他ない。
「天から来て、天へと帰る。そんなのは、この世でもご主人様だけでしょう。でも、そんな人と友になり、大事に思い、愛してしまったなら」
 月はぎゅっと目をつぶる。
「きっと、そんな別れは辛すぎます」
「月……」
「魏の人はそんな別れを経験してきているんです。……ご主人様がいない一年の間、中には狂気の縁に立った人もいると聞きます」
 目を開き、いっそ優しいとも思える口調で、彼女は続ける。
「愛紗さんが一生懸命やっていらっしゃるのはわかります。ご主人様のためを思う気持ちも感じます。でも、このままじゃ、ご主人様にとって本当に大事な物を失うような結果を招きかねない。そうも思います」
 深いえんじ色の瞳が、愛紗をまっすぐに見つめる。しばらく後、それは銀の髪に取って代わられた。月が深々と腰を折っていた。
「愛紗さん。せめて魏の皆さんとご主人様の時間を削るのはやめてもらえませんか。この通りです」
「ゆ、月」
 慌てたようにうめき、しばらく天を仰ぐ愛紗。目を戻しても、月の姿勢がまるで変わっていないことを認めて、がっくりと肩を落とす。
「うー。わかった。だから、顔をあげてくれ」
 拗ねたような愛紗の声に、微笑みつつ姿勢を戻す月であった。

「愛紗さん」
 改めて二人で卓につき、月の淹れた茶を楽しみ始めたところで、再び声がかかった。
「あのですね」
「ん?」
「これまでのようなやり方じゃなくても、ご主人様と一緒に歩くことは出来ると思いますよ?」
「なに?」
 言われて、愛紗は考え込む。
 一緒に歩く。
 たしかに、人に仕えるというのはそういうものなのかもしれない。
 彼女は自分がいつかは桃香たちのところに戻ることを考えていたため、一刀の側に合わせることを怠っていたのかもしれない、と自分で分析する。
「む、まあ、それは……わからんでもないが」
「焦りすぎるのはいけませんよ。何ごとも」
 その言葉に、思わず愛紗は目を見開く。驚いたような顔つきの彼女を、月はにこにこと見返していた。
「そうか……。そうだな。焦って……いたか、私は」
 月は答えない。それが自問のようなものだと、彼女もわかっていたのだろう。
「ありがとう、月」
 しばらく後、愛紗はそう呟いていた。
 もちろん、月は笑顔でそれを受け取ってくれた。
「間違っていたとは思わんが、そうだな、少々乱暴にすぎたか」
「次は、愛紗さんもご主人様に歩み寄るようにしてみたらどうでしょう?」
「……ふむ。私の理想ばかり押しつけてもしかたない、か。一理あるな」
「やっぱり、ご主人様のことをよく知るのが大事だと思います。……あ」
 ぽん、と手を打った月を、愛紗はどうした? と覗き込む。
「いいことを考えました」
「ほう」
「愛紗さんも一緒にめいどをやってみませんか?」
「……は?」
 あまりに予想外の言葉に、愛紗の思考は止まる。
「いやいやいや。無理だろう。そんな服が着られるわけがない!」
 人の目を惹くひらひらとした服装を改めて見て、自分が着ているところを想像でもしたか、彼女は真っ赤になって否定する。
「大丈夫ですよ。雪蓮さんと冥琳さん用の替えがありますから。少しなおすくらいなら、私でも出来ますから……」
「い、い、いや、そうではなく!」
「じゃあ、早速行きましょうか」
「な、月、なにをする。こ、腰を押すな。わわっ」
 お茶を片付け、盆に載せた月に後ろから押され、振り払うわけにもいかずに連れて行かれた愛紗は、この後、見事にめいど服を着せられ、一刀に似合うと褒められるに至り、『私まで口説くおつもりですかーっ!』と大噴火したりするのだが、それはまた別のお話である。


 5.冀州


 洛陽で一刀真人間化計画が発動されている頃、冀州の駐屯地では、かわいらしい、けれど張りのある声が響き渡っていた。
「お前たち、今日はよくやったなのー! しかし! 敵は明日も明後日も現れる。貴様たち蛆虫が死に絶えても、永遠にだ! 生き抜きたければ、けして気を抜かず、魏軍魂をその身に宿らせ続けろなのー!」
「さー、いえっさー!」
 完璧に揃った声が、怒濤のように押し寄せる。その圧力に負けることなく、この駐屯地の司令官、そばかすを少し気にする沙和は激しい内容を吐き続ける。
 罵倒混じりの訓示はやがて終わり、彼女は解散を命じる。
「では、くそったれなお前たちにありがたい休養をくれてやるの! 粗末なものぶら下げて女抱きに行ったりせず、とっとと寝床で目を瞑れ! いいかーっ」
「さー、いえっさーっ!」
 ひときわ大きい声がこだまし、兵たちはそれぞれの天幕へと引いていく。その動きは全体として見れば整然としているように見えたが、仔細に観察してみれば、足を引きずる者あり、うつむいて進む先を確認せねば歩けぬ者あり、と疲労や不調を感じさせずにはいられぬものであった。
 そんな光景を一段高い場所から眺めながら、沙和は心の中だけでため息を吐く。
 元々この軍は北伐の補給のために編成された部隊だ。しかも、前線からは遠く、洛陽から各地に向かう物資や人員を、前線近くで実際に補給活動をしている部隊に受け渡す、そんな任務を担うはずの隊であった。
 当然、兵もそれに見合う人員が配置されている。戦慣れしていない新兵や、前線では耐えきれないと判断された老兵など、はっきり言えば弱兵の類である。
 だが、そんな彼らが直面したのは物資輸送を襲ってくる賊であり、どこからともなくわき出てくる白眉の群れであった。
 輸送隊の護衛人数は急激に増え、積極的な出撃も十日に一度、三日に一度、ついには連続出撃も珍しくなくなった。
 幸い、白眉の集団はろくな装備もなく、訓練もされていない農夫くずれの連中が多かったし、いかに弱兵とはいえ組織化された魏軍の敵ではなかった。しかし、それを繰り返し続けるとなると……。
「本当は凪ちゃんの部隊と合流できればいいんだけど……」
 直属の部下に見張りを命じ、自分の天幕に戻りつつ、彼女はそんなことを呟く。凪の隊は前線に直に出ることも想定されているため、精強な兵を揃えている。親衛隊や夏侯姉妹の部隊にはとても及ぶものではないが、合流できれば心強い。
 とはいえ、軍全体の動きは沙和が深く関与できるものでもない。まずは命じられたことをこなし、ここを守り抜くのが先であった。
「あとは華琳様待ちなのかなー」
 この時点では華琳は洛陽についているのだが、沙和がそれを知るには少々時間がかかる。ともかく、華琳か一刀の判断を待つしかないと心に決め、彼女は天幕の扉代わりの布をくぐる。
「なんだ、しけた顔してるなあ」
 天幕に入った途端かけられた声に、彼女の体が硬直する。誰もいないはずの場所で彼女を待っていたのは、あまりに予想外の人物であった。
 黒髪を長く伸ばした女性の片眼は蝶の眼帯で覆われている。赤の服の上につけられた印象的な鎧を見るまでもなく、夏侯惇その人の姿に違いなかった。
「春蘭さま!」
 驚きの声をあげる沙和の目に、春蘭の背後からひょっこり現れる小柄な姿が見える。飴を咥えたその姿に、ますます目を丸くする沙和。
「風もいるのですよー」
 頭の上にいつも通り宝ャをのせた彼女は、にゅふふと笑う。
「な、なんで二人が?」
「援軍だ」
「援軍なのですよー」
 異口同音に言われた言葉の意味が頭の芯まで染み渡った途端、沙和の顔がぱあっと明るくなった。

「じゃあ確認するけど、兵は明後日か明明後日に到着。春蘭さまは冀州の状況を確認して一度洛陽に戻る。風ちゃんはここに残るってことでいいのー?」
「はいはいー」
 二人の話を聞き終えた沙和が確認するのに、風が軽い調子で頷く。
「うむ。私は華琳様に報告せねばならないからな。その後は華琳様の判断次第だ」
 冀州の白眉に対する策として、まずは春蘭率いる三万と、風が派遣されてきたと言うことらしい。春蘭は実際の戦況を観察し、風の意見も携えて都に戻るが、部隊は風の指揮下で残されることとなっている。
「春蘭さまは南にいかされるかもしれませんけどねー。華琳様自らが北にお出ましになる場合は、ということですが」
「そのあたりも含めて、まずは調べてみないとな。どうだ? 実際のところは」
 春蘭に水を向けられ、沙和は頬に手を当て、考えをまとめながら答える。
「んー。正直、呉や蜀を相手にしてきた経験からすると、手応えはない相手だと思うのー。特に春蘭さまたちの部隊なら、あっという間だと思うな。でも、昔を思い出してみると、黄巾よりは強いような気がする……かな? 強いっていっても、逃げ方のうまさって意味だけどー」
「鬱陶しそうですねえ」
「それと、やっぱり数が多いの。二、三万のやつらが、五、六集団はあるの。最近は三日に一度は新しくわき出てくるって話を聞くし……。もちろん、一度追い払ったのが別の場所で再集結してるってのがほとんどだけどー」
「ふうむ」
 春蘭は苦々しい顔で頷く。
「誰かに率いられているわけではないから、追い散らしても効果は薄いか。黄巾の再現だな。しかも逃げるのもうまくなっているとなれば、厄介だ。といって、殺し尽くすのは勘弁だしな」
「おや、春蘭さまでもお嫌ですか」
「おいおい。私をなんだと思っている。殺人狂ではないぞ。ろくに訓練もされていない、戦人とも兵士とも言えない連中を斬っても嫌な気分になるだけだ。もちろん、華琳様がご決断なされれば別だが……」
「黄巾ですら自分の軍に取り込む判断をなされた華琳様です。いまは踊らされていても、基本的には自らの民として考えられているでしょう。そういう乱暴な手はとらないでしょうねー」
 風の言葉に、春蘭と沙和は共に頷く。
「まあ、なんにせよ、私も直に当たってみるとしよう。沙和。明日は出撃の予定は?」
「今日がなかなか大変だったから、明日はお休みの予定だったのー。それに、春蘭さまの部隊を受け入れる準備をしなきゃだし」
「むう、それもそうか」
 不満そうに唸る春蘭に、なだめるように風が声をかける。
「まずは連れてきた直衛の数十騎と一緒に偵察に回られたらどうですかねー。風も沙和ちゃんに色々細かいことを聞いて報告書をまとめるつもりですしー」
「ではそうするか。沙和、しばらくの間だが、よろしく頼む」
「こちらこそよろしくなのー」
 小さく頷き返す隻眼将軍の姿に、なんとも言えぬ安心を覚える沙和であった。


 6.大会議


「皆、待たせたわね」
 夏侯姉妹を引き連れて彼女がその席に着いた途端、部屋の空気は一変した。それまでも漂っていた緊張が純度を増し、人々に自然とその背を伸ばさせる。
 謁見の間に居並ぶのは魏の幹部だけではない。呉、蜀の両大使、一刀の下へ身を寄せている面々、長安公演を終えた数え役萬☆姉妹、そして、なんと南蛮大王の美以までが出席している。
「愛紗のお膝は久しぶりなのにゃー」
「そ、そうだな」
 もこもことした美以を膝にのせているのは愛紗。彼女はもちろん、詠や冥琳、美羽たちと一緒に一刀の側にいるわけだが、そのことに美以はなんの疑問も抱いていないらしい。
「さて、それでは始めましょうか」
 金髪を軽く揺らして華琳が玉座から宣言し、大陸の今後を決める会議が始まった。
「現在、三国は白眉と呼ばれる暴徒たちにより騒乱に巻き込まれているのは、皆知っていると思うわ。また、昨年から続く北伐も遂行中ね。そういうわけで、各地に軍や賊が入り乱れる結果となっている。
 まずはその現況を把握し、皆で認識を共有するところからはじめましょう」
 言うと、彼女は目配せし、それを受けた稟が立ち上がる。彼女の手によって、卓の上には大きな地図が広げられた。大陸全土を示す地図だ。
「では私から各地の現状を説明させていただきます。北伐の状況に関しては、一刀殿や詠殿から補足が入ると思います。また、南方の情勢に関しましては両大使より詳しい話を伺わせていただきました。感謝いたします」
 稟が頭を下げるのに、紫苑と諸葛瑾が揃って返礼する。
「まずは北から行きます」
 言いつつ、稟は地図の上端を指さす。
「幽州には鎮北将軍公孫賛が、白馬義従を率いて駐屯しています。これは元来、呉から海上輸送される物資の確保と、輸送を任とする北伐の一部隊です。しかしながら、その幽州では現在大規模な白眉の発生が確認されております。公称で言えば五万の集団が、五つほど。実際には一集団は二、三万といったところでしょうか。
 白馬義従は烏桓相手に戦ってきた精悍な兵ですから、圧倒されることはないでしょうが、輸送任務に割く力はどうしても減っています」
「司令官が律儀なおかげで、なんとか最低限度は内陸に届いているといったところね。幽州でだぶついてる分は、白眉の被害にあった現地の住民に分けるしかないでしょう」
 詠が手を挙げて稟を補足する。稟は同意するように頷いたが、次いで眉をしかめて地図の右端を見た。
「しかしながら、今後はそれも難しいかもしれません。幽州の混乱に乗じて、韓、穢、倭がなにか動こうとする気配があります。烏桓は公孫陣営についているので大勢には影響ありませんが、東の防備にも気を配る必要が出るとなれば厄介です」
 その言葉に、猫のような耳がぴこぴこと動く。きょろきょろと動いていた頭は、結局望むものを見つけられなかったようで、そのまま上を向いた。
「カンってどこにゃ?」
「ずっと遠い国だな。この地図には……載ってないか。あの端のさらに向こうだ」
 見上げられた愛紗が答えてやると美以はわかっているのかいないのか、ほへー、と妙な声をあげる。
「元々幽州の東の側には白蓮とはまた別の公孫氏がいてね。独自の勢力を築いていたの。それがいたせいで、その向こう、楽浪郡、帯方郡といった地方や、半島の諸国についてはなにもわからなかったのよ。同様にあちらもこちらのことはわからなかったでしょう。
 けれど、白蓮がそこを平定したことで、わずかながらも人の行き来が増え、情報も伝わりやすくなった。それで、こっちの混乱を聞きつけて、自分たちの勢力をなんとか伸長させようとしている奴らがいるってわけ」
「ふむにゃ」
 華琳の詳しい説明に、いたって真剣な顔つきで頷く美以。実際に理解しているのかどうかは怪しいところだったが、彼女にしてみれば、真摯に相手をしてくれることのほうが重要だったかもしれない。
「そこにも、美以たちみたいなのがいるのかにゃ?」
「大熊猫って意味の部族はいたと思ったけど、どうかしらね」
 部族の名に、動物の名前が入るのはそう珍しいことではない。それは、各部族が信仰する精霊を意味するからだ。だからといって全てが、美以たちのように文字通り体現までしているかどうかはわからない。
「ともあれ幽州はそこまでにして、并、冀、青州に移りましょう」
 稟が再び指を振り、華北の三州を指す。
「青州は白眉についてはそれほど害を受けておりません。これは青州で黄巾が活発だったのとは対照的です。実際にはその活発な諸集団は張三姉妹によって我が軍に吸収されたわけですが」
「ばりばりの数え役萬☆姉妹派で、他になびかないってことね。それと、乱を起こそうにも中核の世代が、うちに来ていると」
「そんなところでしょう」稟は桂花の意見に同意して、指を動かす。「しかし、その西隣の冀州では幽州と同じく大規模な白眉の乱が発生しています。こちらも、二、三万の集団が、五、六。現状、北伐軍の後方支援を行うはずの于禁軍が対処しています。物資輸送に関しては、最低限しかこなせていませんね」
「冀州には我が隊と風を置いてきた。少しは楽になるはずだぞ」
 まさに冀州から帰還したばかりの春蘭が発言する。彼女が戻り、冀州の報告をしたからこそ、この会議が開かれたと言っても過言ではない。
「正直、白眉は、黄巾そのものだな。ただ、昔のように、膨れあがってくれん。ちまちま叩いていかねばならんのは厄介だ」
「少しは学んでいるんでしょうね」
 春蘭の報告に、桂花が忌々しげに舌打ちする。卓の隅で、天和たちが身を縮めていた。
「次に并州ですが、正確にはその州境よりさらに北に鎮東将軍張遼が駐留しています。昨年北伐中央軍が切りひらいた地ですね。主に鮮卑を睨んでのことで、正直この軍は動かせません。また、并州自体は比較的白眉はおとなしく、おそらく冀州からの影響を絶てば、終息すると思われます。現在、郷士軍筆頭、楽進率いる一軍が幽州を支援し、幽冀の白眉が連携しないよう東進中です」
「鮮卑の様子は?」
「大規模なものはない。ただ、こちらが動けば、あちらも動く。俺も霞は動かせないと思う」
 華琳の問いに一刀が答え、華琳も頷く。
「そもそも白眉のような集団に、精鋭騎兵を当てるのはちょっとね。霞は張り付かせておきましょう」
 その点、白馬義従はその部隊の性格に合わない任務をこなしているわけだが、なにしろその場にいるのが白蓮だけなのでしかたない。
「では、涼州に行く前に中原ですが、このあたりはさすがに魏の膝元。我が軍の中核がいることもあり、白眉もおとなしいものです。それなりの暴動は起こっていますが、各地に置かれた兵でなんとかなると思われます」
「最終的な目標は京師だろうけどな」
 一刀の推測を誰も否定しない。ただ、賛同の声もなかった。
 声をあげるまでもないと思っているか、あるいは、口に出したくもないのか。
「さて、涼州ですが、知っての通り、北伐涼州方面軍を錦馬超が率いて西進中です。また、袁長城と呼ばれる拠点を建築している工兵部隊もあります。そして、この涼州では白眉は起きておりません。一件も、です」
 その言葉に、一部を除いて、皆が疑問を抱いたようだが、稟はそれに答えることなく、次へ進む。
「呉の領域に関してですが、まず、揚州では山越の一派が越王を称し、乱を起こしています。現状、呉では孫尚香殿を中心に討伐行を行っておられるとのこと。なお、各地の白眉と連携しようとする動きが見られる模様です。なお、山越の実数は……」
 稟が言いよどむと、諸葛瑾が申し訳なさそうに首を振る。どうやら、呉でも掴んでいないらしい。実際、山越のどの部族が乱に参加するのかも流動的なのだろう。
「不明のようです。さて、交州は現状大きな混乱はなく、益州は荊州に接している最東端以外は落ち着いているようです。また、南蛮も……」
 そこまで言ったところで、不意に美以が手を挙げた。
「ちょっと聞いて欲しいのにゃ!」
「なんだい?」
「みぃたちはそろそろ南蛮へ帰りたいにゃ!」
 さすがにその答えには、優しく問いかけた一刀も、地図の傍らの稟も虚を突かれた。稟は眼鏡を押し上げつつ、玉座に座る華琳を見上げる。
「どういたします?」
「いいんじゃない? 南方は乱れていないようだし、このまま美以たちが戻って、さらに落ち着くなら大歓迎よ。まさかこの機に乗じて攻め寄せて来るなんてことはないでしょうし」
 からかうように言った華琳に、美以は愛紗の膝の上でぴょんぴょんはねながらこう答えるのだった。
「みぃたちは子育てで手一杯なのにゃ!」
 場は、あたたかな笑いで包まれた。


 7.方針


 華琳の脇に退いた稟に代わり、今度は一刀が地図の横に立つこととなった。
「ええと、まず、稟が説明してくれたのに補足を」
 言いながら、一刀は地図の中央、荊州のあたりを指さす。
「彼女が言わなかった荊州。ここには白眉の本隊と思われる大集団が存在する。これまで各国は数万の白眉がいることは認識していたようだけど、それが複数いることはわかっていなかった。白眉に国境を越えて移動されると、追跡が難しくなるからね。彼らはそれを知っていて、うまく利用していたんだろう」
 荊州には州の境と、三国の国境、二つの境界があり、さらに州刺史と三国それぞれの権力が錯綜している。それを利用して、白眉は巧妙に荊州の集団を隠蔽していた。
「おそらく、総数は十万から三十万」
 一刀の言葉に、場がざわつく。最大数の三十万はなかなかの数だ。鎮圧するにしても、かなりの犠牲を強いられかねない。
「少々幅がありすぎませんこと?」
「あちらがわざと隠しているからね」
 紫苑が軽く眉をひそめて指摘するのに、桂花が肩をすくめる。
「さっき稟や春蘭が話してくれた中にあったけど、幽州、冀州の集団は二、三万から増えていない。実際にはもっと集まってもいいのに、それ以上集まろうとしない。あんまり大きくなると、まともに指揮する人間が必要になって自壊しかねないからだろう」
「一方、各国からの情報を基に分析したところ、荊州の集団は各々五万程度になるよう、たまに寄り集まっては分裂しているようなのです」
 稟が告げた内容をはじめて聞いた諸葛瑾、紫苑の両大使が揃って息を呑む。
「荊州には、五万を指揮できる人間が複数いて、しかも全体の統制を取る者もいる……と考えてよろしいのかしら」
「たぶんね。本隊だと判断したのもそのせいだ。その正体は……」
 そこで、一刀は黄巾の本質と白眉の正体を語る。大陸を脅かす大規模叛乱が、芸人集団によって導かれ、組織され、荒らし回るようになったと聞いて、初耳の諸葛瑾はもちろん、あらかじめ聞いていた紫苑も顔をしかめる。何度も聞かされている愛紗ですら、未だに耳を疑いたくなる情報である。受け入れがたいのも当然だろう。
「それに関連して、涼州に関しては美羽たちが歌って回っていたおかげで、白眉が入り込めなかった、と一刀は言いたいわけよね」
「もちろん、北伐の軍がいたことも強く影響しているだろうけどね」
 華琳と一刀の会話を経て、しばらく沈黙が落ちる。各人が地図を眺め、何ごとか考えている様子だった。それぞれに得た情報を咀嚼しているのであろう。
 そこで、諸葛瑾の手が挙がり、結局の所、魏としてはどんな方針を採るのか、と説明が求められる。
「うん。簡単に言うと、州単位で分断して、州内部で殲滅する。これが基本方針」
 言いながら、彼の指は地図の上で荊州の州境をなぞり始める。
「たとえば荊州なら荊州だけで孤立させる。幽州、冀州も同様だ。揚州に関しては呉の内部だし……」
 皆の視線が諸葛瑾に集まり、首が振られる。その仕草からは揚州に関しては手出し無用という意味しかくみ取れない。
「ともかく、それぞれの州境を封鎖し、内部で孤立した白眉を鎮圧する。その途中、美羽と七乃さん、それと数え役萬☆姉妹で慰安公演を行い続ける。軍で抑えつけ、歌で誘うってわけだ」
「……というものをこの北郷が考えてくれてね。私もそれを支持することにしたわけ」
 玉座から立ち上がった華琳は、軽い歩調で階(きざはし)を下りると、一刀の横に立った。
「荊州に関しては、各国に既に要請が行っているはずだけれど?」
「ええ、それについては……しかし、荊州にそれだけの数がいるとなればこちらも予定以上に注ぎ込む必要がありそうですわね。改めて桃香さまにお伝えしますわ」
 同意するように諸葛瑾も頷く、彼も事態を重く受け止め、本国へしっかりと伝えるつもりのようだった。
「荊州の本隊は三国の協力で封鎖、撃滅するとして……」
 一刀の傍らに立った華琳の視線が、自軍の幹部たちの方へ向く。それに力を得たように、春蘭、秋蘭をはじめとした武人たちが討議を始めた。
 冀州についてはそれほど問題がない。洛陽からそこまで遠いわけでもなく、どれだけの兵力を向かわせるかも、現地の沙和、風の判断を参考に出来る。
 だが、幽州となれば、話は変わってくる。
「幽州については難しいな。冀州を避け、青州から兵を回すか、しかし、それにしても、邪魔が入られると……」
「でも、冀州のほう……西側に追い立てると、合流されちゃいますよね?」
「そうだな」
 秋蘭と流琉の会話に、一刀が口を挟む。
「それについては案がある。といってもこれは俺じゃなくて冥琳が考えてくれたものなんだけど……」
 彼はちらと発案者の顔――といっても半分以上仮面で隠れているが――を見やり、彼女が発言しそうにないのを受けて、改めて話し出す。
「さっきも言ったとおり、基本方針は州ごとに白眉を分断し、その中でひとまとめにして対するというものだ。だから、凪には冀州白眉と分断するように動いてもらっているし、白蓮もそうしてもらう。逆にして、青州とかに流れられても困るからね。だが、秋蘭が指摘したとおり、東にあまりに行かれると援護もしにくい。そこで、援護する方向を変える」
「方向?」
「呉に海上から支援してもらうのさ」
 つまり、現在は物資輸送に使っている船団から、沿岸より援護してもらう形になる。そこまで白蓮たちが追い詰める必要はあるが、船という機動性を持つ呉軍の支援を受けられるのは心強いことは間違いない。
「可能なの?」
 華琳の問いは、一刀ではなく、冥琳に向けたもの。さすがにこれには彼女も腰を上げて答えを返した。
「物資輸送の船はそもそも軍のもので、戦船と変わらない。兵も輸送任務にあてられているだけで、歴戦のつわものだ。あとは将をあてがってやれば、十分力になろうさ」
「呉としてはどう考えるのかしら?」
「華琳殿」
 諸葛瑾に向かった視線を遮るように、冥琳は腕を鞭のように振り下ろす。
「将を派遣するとなれば、最適は興覇。いま、あやつが建業を離れられるかどうか。大使の一存では約束できかねようさ」
「それもそうね。諸葛瑾、悪いけれど国と連絡を取って、相談してくれるかしら。諾否どちらにせよ、なるべく早く蓮華からの返書が欲しいわ」
 諸葛瑾は頷き、仔細を書き留める。その途中、彼は仮面の女性に向かって小さく頭を下げた。だが、冥琳は当然それに答えることはしない。彼もそれを期待してはいなかった。
「さて、それじゃ、美羽たちと、三姉妹の動きだけど……」
「袁家主従が北、数え役萬☆姉妹が南よ」
 一刀の声に、即座に華琳の決断の声が飛ぶ。そのあまりの素早さに、議題を持ち出した男は目を白黒させた。
「ちぃたちは構わないけど、理由はー?」
「簡単よ。孫呉では美羽の評判はすこぶる悪い。さらに、去年一刀がやらかした国境画定の策に使われたおかげで、蜀でもあまり芳しい評価を聞かない。まして、荊州にやるなんて以ての外よ」
「あー、まあ、それはしょうがないのじゃー。あれはなかなかの見物じゃったがのう」
 蒸気駆動の戦車に乗って荊州を巡った美羽はなんでもないことのようにそう言った。
「さらに言うと、一刀は荊州封鎖の責任者として、蜀、呉の協力をとりつけるため、南に向かわなくてはならない。となれば、数え役萬☆姉妹の世話も一緒にやってもらうのが都合が良いでしょう」
「それは構わないけど……公演に軍をぞろぞろ連れて行くわけにはいかないよなあ?」
 尤もな疑問に、華琳はにやりと笑った。これもまた、用意されていた答えなのだと、彼は彼女の笑みを見てそう思う。
 そして、金髪の女王はこう言い放つのだった。
「あなたには、大陸でも有数の武力がついているじゃない」
 と。


 8.旅立ち


 魏の女王を探していた一刀は、彼女の姿を庭の一つで見つけた。
 その視線の先では巨大な鉄球と、これまた巨大な円盤が盛大な音を立ててぶつかり合っている。ちょわー、だの、はあぁ、だのと気合いのこもった声もあがっていた。
 どうやら華琳は季衣と流琉の試合を見守っているようだ。
「華琳」
 近くまで寄って声をかける。金の髪が揺れ、淡い笑顔が彼の方を向く。くるくると丸まった金の髪は陽光を受けてきらめき、白い頬にはわずかに朱。やわらかさと鋭さを同時に感じさせる碧の瞳は覗き込めばどこまでも沈み込んでいきそうな。
 そこに急に陽が差し込んだかのような輝きを感じて、男は思わず息を呑んでいた。
「予定はたった?」
 訊ねられ、はっと正気に返る。しばらく見とれてしまっていたらしい。
「あ、ああ、うん。これ」
 持ってきた竹簡を彼女に手渡す。それに一通り目を通し、華琳は顔をあげた。
「呉には詠をやるのね」
「冥琳は微妙すぎるからなあ……」
「まあね」
 荊州封鎖及び幽州援護を呉に要請するための名代を、彼は詠に頼んでいた。他に動けるのは冥琳だが、呉と彼女の関係は複雑すぎて扱いにくい。
「そして、あなたは三姉妹と共に漢中に入り、漢水を下って荊州に入る、と」
「うん。愛紗を連れて行くのは吉と出るのか、凶と出るのか……」
「吉にするのよ、あなたが」
 楽しげに笑みを見せる華琳に、一刀は肩をすくめる。
「そう言われると思った。……それで荊州には誰をやるか決まった?」
 魏からも当然のように荊州を封鎖し、白眉を討つ軍が派遣される。それを指揮する者を、華琳はもう決めているはずだった。
「ええ。春蘭を行かせるわ。あなたが荊州に入る頃に」
「春蘭か。じゃあ、北には秋蘭か」
「いいえ、私よ」
 ふむ、と一刀は頷く。北は北で、冀州、幽州と大変な状況であるから、華琳自らが出るというのも悪くない選択だ。華琳は中央で全体の指示を出すという手もあるが、魏の王はやはり前線に立つ方が似合う。
「気をつけてくれよな」
「私を誰だと思ってるの? それに……」
 華琳は彼から視線を外し、庭の方へ顔を戻す。それにつられて、一刀も二人の少女たちの戦いへと注意を移した。
 そこではいましも巨大円盤――伝磁葉々が大鉄球――岩打武反魔を吹き飛ばし、その勢いに引きずられた季衣が地面に倒れ伏している所であった。
 今回の勝負は流琉の勝ちと決まった様子。
「ご、五十勝四十九敗……。九十九本勝負は、わ、私のか、勝ち……」
 肩で息をしながら流琉が宣言する。地面で大の字になったまま、季衣は負けたーっと悔しそうにわめいていた。
 九十九本勝負って……とあきれかえる一刀。
「さて、私を守ってくれる者が決まったようね」
「あ、はい。私が勝ちました」
 華琳と一刀が、大穴がいくつも開いた庭に入っていくと、流琉が姿勢を整えて二人に対する。季衣もころんと回って土の上に座り込む。
「では、季衣が私についてきなさい」
「へ、ボクですか?」
「え? 華琳様?」
 驚きの声をあげる二人を前に、華琳は命を続ける。
「流琉は一軍を率い、春蘭に先駆けて漢水周辺を制しなさい。具体的には一刀についていくのよ」
「兄様に? え? はい」
「季衣は私と一緒に北に行くわよ」
「はーい、わっかりましたー」
 二人がそれぞれの役割を理解したところで華琳は振り返る。質問することを期待されているのだろうな、と一刀は彼女に声をかけた。
「流琉は俺と一緒に行くの?」
「ええ。美以たちをなにもなしで放り出すわけにもいかないし、三姉妹だって警護は必要でしょ。あなたはそれこそ愛紗に守らせればいいけど、うちからも人を出さないわけにはいかないからね」
「そうか。ありがとうな」
 守るべきは三姉妹だけに留まらない。美以たちにしてもミケ、トラ、シャムの母親たちだけで、あれだけの子供たちを守りきれるかどうか。せめて益州で蜀の軍と合流するまでは魏軍としても保護してやる必要があった。
「あなただけを守らせるわけじゃないんだからね。そこを忘れちゃだめよ」
「うん。じゃあ、よろしくな、流琉」
「はい、兄様!」
 元気な声が返ってくるのに思わず微笑む一刀。そんな二人を見て、華琳は安心したように微笑んで、歩き出した。
「一刀」
 数歩行ったところで振り向き、彼女にとっても唯一無二の名を呼ぶ。
「北は任せなさい。冀州も幽州も、それに涼州も面倒をみてあげるわ」
 それ以上、華琳は何も言わない。ただ、じっと彼のことを見つめてきた。その眼に宿る力にきちんと向き合うため、彼はしっかりと大地に立つ己を強く意識した。
「わかっている。南はなんとかして……ここに戻ってくる」
 それは、誓約。
 どんなことがあろうとも。
 たとえ世界を隔てられようとも。
 彼はここに帰って来る。
 いかなるものを失おうとも。
「ええ。洛陽で会いましょう」
 そして、覇王と御遣いは、お互いに挨拶を交わし、歩き出す。
 全てを手に入れるため。
 大事な人の傍らで生きるため。



     (玄朝秘史 第三部第二十九回 終/第三十回に続く)

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