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938 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 23:31:57 ID:+RpQAYJY0
いけいけぼくらの北郷帝番外編『北郷一刀の消失』後編をお送りします。
最初に書いておきますが、今回のお話と、その中での人物たち、特に一刀さんの行動に関しては、
賛否両論あるものと思います。無印をプレイして以来やりたかったテーマなので書き手としては
後悔もないのですが、読む方には鬱々とした展開と受け取る部分があるかもしれないことを警告
させていただきます。
なお後編ですので、すでに外史まとめサイト様にて掲載していただいている前編を読んでから、
お読み下さい。(前編は ttp://koihime.x0.com/ss/b019_730.html にあります)

◎注意事項
・番外編のため、絶対に読まなければ本編のストーリーがわからなくなる、という性質のものでは
ありません。作中の登場人物や物語をより掘り下げるためのものとお考え下さい。
・魏ルートアフターの設定ですが、一部、二部と進んできておりますので、まずは、そちらをご覧
いただけると幸いです。今回は番外編ですので、普段とも雰囲気が違います。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・恋姫キャラ以外の歴史上の人物等に関しては、名前の登場はあるものの重要な役割はありません。
・呉勢以外の一刀の子供が出てきます。
・Up板にてメールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでもお気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL →  http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0452

そういえば、北郷帝では初の季節ものですかね。イベントごとにあわせてネタを考えるというのが
うまくないのでこれまでやってきませんでしたが、さてさて今回はどうだったでしょう?
さて、こうして番外編も終わりましたので、そろそろ本編再開となります。本編につきましては、
第三部第一回を、2010年1月2日投下予定です。
皆さん覚えてますでしょうかね、華琳さんと一刀さん達が叛乱軍に囲まれている状況からスタート
ですよ、はいw
それでは、またお会いしましょう。



いけいけぼくらの北郷帝 番外編
   北郷一刀の消失[後編]



 1.初心


 肩に手を触れられて、彼女の意識はぼんやりと戻り始める。
「すまないが、言われた時間になった」
 声もかけられて、ようやく明瞭になる意識。視界がいまだぼんやりとしているのは、単純に眼鏡を外しているからだ。
 栗色の髪の女性は体を起こし、手探りで寝台脇を探ると眼鏡をかける。頭を一つ振って眠気を完全に払拭すると、そこにいるのは常に毅然とした態度を崩さない魏の軍師の一角、郭奉孝こと稟だ。彼女は起こしに来てくれた華雄に頭を下げる。
「いえ、ありがとうございます」
「疲れは取れたか?」
 言われて目をつむり、自分の体の状態を確認する。肩がこっている感じはあるが、これはいつものことだ。
「あなたの刃の前に出るには不十分ですが、これからやることには十分ですね」
 軽い笑い。彼女の目の前にいる武将は細い体ながら、天下無双の武芸を身につけている。華雄の前に立ちふさがるのならば、飛将軍と謳われる呂布こと恋なみの武勇を身につけなければなるまい。一方、稟は頭脳はともかく武芸には秀でない。だからこそ、こうした冗談も許されるのだろう。
「解決したら丸一日は余暇をもらいたいものですが」
「魏の軍師殿にそんな余裕があるか?」
 先ほどと同じように笑いを混ぜながら返される。実際の所、ないだろう。昏睡状態に陥っている面々の目が覚めれば、その間に滞った国事の後始末に追われることは確実だ。そして、失敗したのなら……。
「少し待っていて下さい。衣服を替えます」
「ああ」
 考えが暗く沈みそうになるのをあえて無視して、事務的な行為に意識を集中させる。肌の露出の多い武官が部屋を出て行くと、さっさと身支度をしてしまう。
 少し離れた小さな寝台で寝息をたてている阿喜を、起こさないように抱き上げる。華雄に起こすのを頼んだのは吉と出たようだ。彼女の足音は、武術に優れた武将たちでも聞き取りがたいという。赤ん坊に気づかれずに近づくなどお手の物だろう。
 いま、ぐずられてしまうと、立ち去りがたくなる。
 はふぅ、とよくわからない寝息を吐く阿喜に微笑みかけ、そっと戻して部屋を出る。名残を惜しむように視線が追ったが、なんとか引きはがして扉をくぐった。
「よいのか?」
「ええ」
 張三姉妹が準備を整えてくれているはずの堂院に向かう道すがら、稟はふと華雄に話しかけた。
「あなたの主は実に不思議な人ですね」
「ん? ああ、あれはな。しかし、そちらのほうがつきあいは長かろう」
「ええ、もちろん。けれど、いつまで経っても不思議だという気持ちが尽きないのですよ」
 華雄は言葉にせずに、同意の笑みを返してくる。その笑みの獰猛さが、稟には心地よい。
「私は、華琳様を尊敬し、愛しています」
 なんでもないことのようにするりと話す。以前の稟を知っている人間であれば、鼻血も吹かずそうすることに驚いたことだろう。
「昔は、それだけの当たり前のことすら、口に出来ませんでした。けれど、一刀殿のおかげで……」
 華雄は口を挟まない。興味がないというわけではない。ただ、口を挟んではいけないことだろうと、彼女なりの感覚で悟っていた。
「ふふ。あの方は大まじめに、皆を愛しているのですよ。すごいと思いませんか?」
「なんと言っていいのやらな」
 魏の面々に比べればずいぶん遅れて愛される一員となった華雄としては、くすぐったくもあり、誇らしくもある。本当になんと表現すればいいのかよくわからなかった。
「でも、あれを見ていて意地を張っているのが莫迦らしくなりましてね」
 歌うように彼女は言う。夏の空を、美しい鳥が高い鳴き声と共に横切っていく。あれは大瑠璃。青き美しき鳥。
「自分でも認められるようになったのですよ。華琳様を愛している。そして、一刀殿を愛している、とね。無論、彼との間の子の阿喜も」
 その言葉を、華雄はじっと咀嚼するように聞いていたが、ふと横を歩く女性を見て、呟く
「悪くない」
 と。それに対する稟の笑顔は、とても清冽なものであった。
「北伐の軍、だいぶ負担がそちらにいってしまったようで」
 不意に話題を変える稟。すでにその顔は軍師の表情を貼り付けている。
「私は、ただこれしか知らん。それに、あやつが起きてきた時に兵が弱くなっていたではたまったものではなかろう。だから私がやっている。それだけのことだ」
 肩をすくめ、常に携帯している武器の柄をぽんぽんと叩いてみせる。
「お前たちのように、今回の問題に関して働けるものならよかったのだろうがな。武しか知らん私では、ただ邪魔になるだけだろう。だから、これに逃げているだけだよ、私は」
 自嘲気味に頬をつり上げる華雄に、稟は淡々と普段と変わらぬ声で言う。
「いいえ、違うと思います。あなたは、出来ることを誠実にやり遂げようとしている。それは、すばらしいことです。そして、なによりも、あなたは皆が……華琳様や一刀殿が戻ってくることを疑っていない。それは、強さです」
「ふふん。ただ、単純なだけだろう。それに、それは恋たちとて同じことだろうさ」
 とはいえ、と彼女は続ける。
「まあ、そう言ってくれるなら、素直に受け取っておくとしよう。……礼に一つ、言ってみようか」
「はい?」
「たまには難しく考えない方がうまくいくものだぞ」
 稟はおし黙る。そうして、彼女たちが目的地についたところで、彼女はぽつりと呟いた。
「きっと……そうですね」


 2.慟哭


 切れていたはずの発泡酒を買い込んで部屋に帰る間も、ずっとその幻影は彼の後を着いてきた。車内で話しかけられた後はずっと無視を決め込んでいるのだが、いっこうに消えてくれない。
 疲れているのだろうか、と一刀は思う。今日の労働で肉体的な疲労はもちろんあるが、そんなに追い詰められるほど精神的にすり減った覚えはないのだけれど。
「今日の幻影はしつこいね。薬もらうべきかな」
 部屋に入って、ようやくのようにため息をつきながら呟く。さすがに外で反応するようなまねはしたくなかった。
 一方の稟は、それほど広くもない部屋の中を興味深そうに見回している。もしかしたら、外でもそうだったのかもしれない。後ろに着いてくる彼女の事を努めて無視していた一刀には、事実はわからなかった。
「いや、そんなこと気にしてる場合じゃない」
 断ち切るように言って部屋着に着替え、こたつの上でノートパソコンを立ち上げる。今日中に上司に簡単な報告のメールを送り、詳細な報告書は明日提出せねばならない。さて、詳細なものを作ってから要約するか、メールを書き上げてそれに肉付けするか……と考えていると、隣に座って液晶画面を覗いていた稟が問いかけてくる。
「それは……よくわかりませんが、いまやらねばならないことですか?」
「ああ、仕事だからな」
 幻影相手に普通に答えてしまうのもどうなのかなと思いつつ、部屋で独り言を言うくらい、別に問題ないだろうと結論づける。
「ふむ。では、それが終われば私の話を聞く気にもなるでしょうか」
「さて、どうかな。でも、いずれにせよ、こっちを先にするのは確実だな」
「そうですか……」
 寄り添うようにして画面を覗き込んでいた稟が離れる。立ち上がって何事か考えている様子の彼女から目を離し、仕事に集中しようと座り直す。
 ぱちん、と指を鳴らすような音がした。
 その途端、まばたきをするように一瞬視界が暗くなり、慌てて目を戻した画面には、先ほどまでにはなかった文章がずらずらと書き連ねられていた。それはどう見ても、さっきまで自分が書こうとしていた報告書そのものだ。
「何をした!?」
 画面をスクロールさせ、その文書の最初から最後までを確かめてみても、しっかりと書き上がり、メーラーを確認してみれば、上司へのメールも送信済みになっている。
「私はただ、場面を進めただけにすぎませんよ」
 戸惑いながらキーボードをいじっている彼の対面に座り直した稟が、さも当然のように言うのを聞いて、一刀の指の動きが止まる。そのまま彼は顔を上げ、彼女をまっすぐに見つめた。
「……場面?」
「ええ、ですから、夢の中の場面を」
 ほら、と窓の外を指さす稟。見れば、窓の外はすでに日もとっぷりとくれている。冬のまっただ中とて帰宅時点でもかなり暗かったが、さすがにこれほどではなかった。壁の時計を見てみれば、もう八時をまわっている。パソコンを開いてから、三時間は軽く経っている計算だ。
「あなたはその……なんだかよくわからないですが、それで仕事をし、それなりの時が経った。そういう場面に進めただけです。芝居なら一度舞台を暗くしたりするところですかね」
 呆然と彼女を見る一刀に、稟はひとつ眼鏡を押し上げながら繰り返す。
「これは、夢ですから」
 もう一度、彼は目の前の書類と、メーラーを確認する。何度見直しても、それは書き上がっていたし、どの時計を見ても同じだけの時間が経過していたようだ。念のためネットを通じて時計をサーバの時刻と同期させてみても、それは変わることはない。
 彼は乾ききった唇をなめて、なんとか声を絞り出す。
「……だが、こう考えることも出来る。俺は仕事を終えた後で妄想に入り、君に不思議なことを見せられたと言うことに……」
「……どうしました?」
 唐突に途切れた声に心配げに身を乗り出す稟。一刀はぱたぱたと手を振って体の力を抜き、ノートパソコンを閉じた。
「いや、言ってて莫迦らしくなった」
 それからこたつを出て、パソコンをしまい、台所に向かう。冷蔵庫から発泡酒を二本取り出し、天板に置いて行く。
「話を聞いてほしいって言ってたっけ?」
「はい。一刀殿の力が必要なのです。それが皆を……」
「あー。稟のことだからわかってると思うけど、俺にも把握できるよう最初から説明してくれな。ともかく話だけは聞いてみるから。これが幻想だったとしても、仕事もこうして終わっている以上、つきあってみるのも楽しいだろう」
 プルタブを引いて泡があふれ出る缶を呷って喉を潤すと、稟は一刀のその行為と目の前の缶を見比べて目を見張る。
「これは……保存容器ですか? しかも発泡する液体の……。さすが天の国ですね。いえ、一刀殿の記憶を元にした天の国、か」
 言われてから、彼女の前にも缶を一つ置いていたことに気づき、幻影を前に何してるんだろうね、と彼は自嘲を漏らすのだった。


 3.魏帝


 洛陽の宮殿の一角には、貴人のための棟がいくつもある。
 たいていは皇族が住まうものだが、そうでないものも存在する。その棟もその一つであった。中にいるのは相当の人物であるのか、建物の周囲にはかなりの数の兵が配されていた。
 曹魏の主、華琳はその兵たちからの敬礼に答礼しつつ、棟の入り口へと向かう。そこには壮麗な扉と、それにしっかりとかけられた重い閂を抜く兵たちの姿があった。
 ずらりと取り囲む彼ら警備兵は、中の人間を守っているのではない。中の人間が外に出ないよう、誰かが連れださないよう見張っているのだ。
「出るときは合図するから、閂はかけておきなさい」
「はっ」
 兵に指示を下すと、一人開かれた扉の中へと歩を進める。背後で扉が閉まり、しっかりと閂が通されるのを音で確かめてから、さらに中へと進んだ。
「桃香、どこかしら?」
 華琳の言葉の通り、ここに幽閉されているのは、桃香――かつての蜀の王、劉備その人であった。
 彼女は、二度目の成都陥落以来、この建物の中に軟禁され続けている。
「あ、華琳さーん、こっちですー」
 声をしたほうへと向かう。部屋に入ると、大きな机に藁やら布やらが散らかった中心にいる桃香を見つけた。長い幽閉の中でも彼女は衰えるでもなく、昔通りの明るい雰囲気を纏っている。
「なにをしていたの?」
「えっと、沓を編んでるんです」
「沓」
 鸚鵡返しに呟く華琳。たしかに言われてみれば、桃香の手元には、なにか沓のようなものが形をなしかけているし、机の脇には、何足かの大きさの違う沓が揃えられていた。
「愛紗ちゃんたち、ずっと遠くでみんなを守って戦ってるから……少しでもなにか力になれれば、と思って」
 かつての蜀の将は名目上は魏の将として吸収されたが、その大半が辺境での防備の任につけられている。異民族相手にいつ終わるとも知れない小競り合いを続ける、厳しく実りのない任務だ。
 そうやって辺境で戦っている面々に何かを贈ってやりたい、と考えた結果がこれなわけか。華琳は少々呆れつつ、散乱した材料を眺めやる。
 うがった見方をすれば、そういうもののやりとりを通じて、暗号文でも交わしている可能性はある。だが、華琳はもしそうであったとしても、それを止めるつもりはなかった。二度の敗北を経験した劉備陣営が、それに屈することなくもう一度挑んでくるのならば、それはそれでいいと思っているのだった。
 あ、そういえば、お茶も出さずにすいません、と慌てて水場に向かう桃香。その背を見ながら、それなりに元気そうね、と結論づける華琳。
 茶が出そろい、机の上もあらかた片付いた後で、おずおずと桃香が切り出した。
「あの……華琳さん。帝位に登られたとか……」
 軽く肩をすくめてみせる華琳。その通り、彼女はいまや魏帝国の初代皇帝であった。実質的に言えば曹魏が三国を征服し、和平が訪れた時点でこの国の最高権力者は紛れもなく曹孟徳であったのだが、それを形式的にも補った形となる。
「蓮華が皇帝を自称し始めたから、こちらも仕方なくね」
「蓮華さんが……」
 呉の国主の名を聞いて、複雑そうな表情を浮かべる桃香。それもそのはず、彼女をはじめ蜀が蜂起した時、呉は共に魏に対して兵を挙げる予定だった。そのための根回しが孫策と周瑜、つまりは蓮華の姉であり当時の国主である雪蓮と、筆頭軍師であった冥琳を通じてなされていたのだ。そして、それを魏の諜報網はしっかり捉えており、再び二国を相手に戦い、逆に侵攻するだけの準備は整えてあった。
 だが、蜀が決起するのと時を同じくして、雪蓮と冥琳は行方をくらませた。彼女たち二人は魏、呉両国の必死の捜索によっても未だに見つかっていない。東方へと海をこぎ出したと言われているが、実際のところは誰もつかんでいなかった。蓮華に謀殺されたという説もあるが、華琳はそれを検討するにも値しないと一蹴していた。
 ともあれ、代替わりとそれに伴う混乱を理由として、新たな国主孫権こと蓮華は蜀と行動を同じくすることを拒否した。呉はあくまで三国の協定を守るとして、蜀の軍事行動を妨害までしたのだ。最終的に成都に攻め寄せるときには、呉から魏軍へ軍師や将兵が派遣されてきたほどだ。
 これが決定打となって蜀は滅び、大陸には北の魏と南の呉が並立することとなった。まんまと荊州全土を手に入れた呉は、それからも領土を堅持する姿勢を崩さなかったが、ここに来て帝国を自称し始めた。本格的に魏へ対抗するつもりか、箔づけで国をまとめるつもりか、魏の首脳部はその行動の理由を分析しきれていなかったが、なんらかの手は打たざるを得ない。それが華琳の皇帝即位であった。
「……戦になるんでしょうか?」
「どうかしら。もちろんお互い皇帝だなんて認めていないわけだけど、五胡への対策を考えると、いま消耗するのもね。ただ、あちらが折れないなら、戦はいずれ起きるでしょうけど」
 折れるだろう、と華琳は見ていた。呉にとって重要なのは国を維持することで、大陸を制覇することではない。特に蓮華の性格を考えればその傾向は顕著だ。帝位を返上するということはないだろうが、国としては呉が魏に従うというような適当な落としどころを持ってくるはずだ。
 その過程で小規模な軍事衝突が起こる可能性はあるが、それが燃え上がることはないだろう、というのが彼女の予想だった。
「華琳さん、お願いがあるんですけど」
 しばらくの沈黙の後に、桃香が切り出した。華琳は手をふる事で、続けて、と意志を示す。
「私の言葉を書き留めた本を焔耶ちゃんが出してくれるって言うんです。それを許可してもらえないかと……」
 魏延こと焔耶はかつての蜀将の中で唯一、洛陽にとどまり桃香と自由に接することを許されている。ほぼ毎日なにくれとなく旧主の面倒を見ているのが焔耶であった。
 だが、魏延と言えば蜀の将の中でも武闘派であり、熱狂的な劉備信奉者でもある。本来ならば真っ先に辺境に隔離されるべき将のはず。そんな彼女が桃香の側に置かれている理由はただ一つ。
 彼女が内通者であったからだ。
 当初から呉との連合による魏への反抗という大戦略に疑問を持っていた焔耶は、呉の離脱が決定的になった段で魏からの接触を受け、戦をなるべく犠牲を出さずに手仕舞うべく動き始める。
 その条件は、自分を除いた全ての蜀将の助命。そこにはもちろん桃香も含まれていた。
 彼女の働きがあったからこそ桃香はいまこうして幽閉されながらも生き続けられているのであった。
 無論焔耶には裏切り者の汚名がつきまとっているのだが、そのことを焔耶も桃香も口にすることはなかった。
「本、ね……」
 少し考えて華琳は頷く。
「いいわよ。ただし、どこで書き取ったかなんて話は伏せてもらうわよ」
「あ、はい。ちゃんと、見本を出してもらうつもりですから……」
「では邪魔する謂われもないわね。でも、本……ねえ」
 おそらく、稟や桂花は反対するだろう。劉備の人気は益州及び徐州を中心にいまだ根強い。生きながらえさせているだけでも危険なのに、余計な事をさせないほうがいいと言い出すに決まっている。二人を閨でどう納得させてあげようかしら、と華琳は楽しみにしている。だが、その沈思黙考を桃香は別の意味にとったのか、顔容を引き締めて語り始める。
「私たちは負けました。けれど、それは私たちの理想が負けたことを意味するわけではないと思うんです。軍事力だけで測れないものも、きっとあると思うから。それを、私は華琳さんたちに示すことが出来なかった。でも、敗れてわかったことも、こうしてずっと一人でいてわかってきたこともあるんです。まだうまく形に出来ているかどうかはわからないけれど、でも……」
 懸命に語りかける桃香に、魏の覇王は目を細める。愉快そうに、頼もしそうに。
「つまり、軍事行動ではなく、思想で挑もうというのかしら、この曹孟コに」
「……そう思ってくれても構いません」
 華琳の強い視線を受けても、桃香は目をそらさなかった。獰猛な笑みはますます深くなる。
「相変わらずおもしろいわね、あなた」
 それだけ言うと華琳は立ち上がり、出口へと向かう。彼女は部屋を出る直前で、振り向きもせずにこう言うのだった。
「楽しみにしているわよ、桃香」
「はいっ」
 蜀王の嬉しそうな声を背に、魏の帝王は歩みを進める。
 現実へと。


 4.夢

「ふうん……」
 稟の話を一通り聞き終えた一刀はとっくに空になったアルミ缶を振り振り気の抜けた声を上げた。
「ここにいる俺は、稟たちのいる世界で眠った俺が見ている夢だ、と」
「はい。術を試してみたところ、風は夢を見ていませんでした。おそらく、風は華琳様を封じ込める最後の障壁として、夢も見せず……いわば、固めているのでしょう。一方、一刀殿はこうして夢を見ている。つまり、鍵はあなたとなります」
「あー、そこまで話を進められても。まず俺は夢であることを納得していないんだけど」
 真剣な顔でたたみかける稟をおさえるようにして、一刀は釘を刺す。
「信じられないのは、それだけ枷が強いのでしょう。おそらく一刀殿は……」
「まるきり信じないと言ってるわけじゃないんだ。だが、それにしても……」
「はい。なんでしょうか」
 彼は少しためらい、稟が手をつけなかった缶を手にとって一気に呷った。すでにぬるくなっていたが、喉を湿らせる役には立つ。口の端についた泡を乱暴にぬぐい取った。
「俺は華琳に拾われて、稟たちと一緒に三国を統一した。そして、君たちの世界から弾き飛ばされ、ここに戻ってきた。ここまではいいんだ」
 対面の稟の表情が曇る。彼女が幻影でないのならば、それは置いて行かれた記憶となる。けして愉快なものではないだろう。
「……はい。け、けれど、あなたは一年後に戻ってきて下さった!」
「それから?」
 一刀の探るような慎重な視線に、稟はなにかひっかかりを覚えた。目の前の男が、ずいぶんと傷ついた目をしているのはなぜだろうか。
「ええ、それからは、あなたは主に他国との関係を維持発展する役を与えられました。一刀殿提案の大使制度が根幹ですが、それ以外にも多数の食客を抱えて、華琳様の手助けを……」
 語れば語るほど、稟はなぜか焦燥を覚えていた。深く深く沈んでいく男の目が、気になってしかたない。
「なにより……私に阿喜を授けて下さった」
 沈黙。
 一刀は何事かを言いかけて、けれど何度か呑み込んで、最後に笑みを浮かべた。
「幸せな筋書きだ」
 皮肉でもなんでもない。ただ、そう思っているという風に彼は言う。
「俺にはそちらのほうが夢に思える」
「一刀殿……」
 稟の呼びかけも耳に入っていないように、どこか遠くを見ながら、男は呟き続ける。
「俺は、帰ろうとした。君たちの世界へ帰ろうと本気で願った……。けれど」
 その後に続く言葉は語られることはなかった。
 稟は、一人の男が、涙を流さずに泣く様を知った。
「そうだな……。協力するよ、稟」
 どれほどの時が経ったろうか。稟は、目の前の男の意識が自分に戻ってきたことを知って、ようやく肩の力を抜いた。妙に緊張していたのか、体がきしむような感覚があった。
「たとえこれが狂気の入り口だったとしても……。俺は、稟、君たちの力になりたい」
「一刀殿」
 感謝を表すのに、ただ名を呼ぶことしか出来ない自分がもどかしい。一刀はそれに安心させるように破顔して見せた。
「といっても、どれだけあてに出来るかわからないぞ? 稟が言う『戻った』後のことは曖昧な部分が多いしね。それでも?」
「はい。一刀殿にしか出来ないことです」
 まっすぐにぶつけられる信頼に、彼は頭を軽く振る。なにかを振り払うように。そして、彼は姿勢を正し、稟にしっかりと向かい直す。
「さあ、どうすればいい?」
「では、眠って下さい」
「寝る?」
 意外な事を言われて、一刀は首をひねる。稟の説明によれば、ここは夢の中。その中でさらに眠れと言うのか。たしかに空きっ腹にアルコールを流し込んだので、眠気がないわけでもないが。
「この夢の中で一刀殿が夢を見ることで、他の方々の夢に干渉します。そうして、順々に起こしていくことで、華琳様と一刀殿の覚醒までたどり着けば、こちらの勝ちです」
 稟の言う理屈はよくわからなかったが、ともかくその真剣さは伝わる。ここは言うとおりにしよう、と一刀は寝室に入り、ベッドで布団にくるまることにした。稟はその後を着いてきて、ベッドの脇に座り込んだ。ちょうど一刀の顔を覗き込む形だ。
「あの……」
 しばらくして、目をつぶっていた一刀が目を開いて、申し訳なさそうに話しかける。
「なんでしょう?」
「いや、そうやって見られてると、なかなか寝にくいわけでして」
「ああ、これはすいません」
 気づかなかった、という風に頭を下げ、ベッドに上がる稟。そのまま狭いところを縫うように体を動かす稟。
「え?」
 あれよあれよという間に頭を持ち上げられ、気づけば揃えた膝の上に乗せられていた。そのまま子供をあやすように頭をなでられる。
 なんとも言えない温もりと、柔らかさ、それに髪を梳く指の心地よさ。
 そんなものに包まれた上に、子守歌のような優しい歌声が降ってくる。
「これが幻影だったら、俺は妄想のスペシャリストだな……」
 そんな事を呟きつつ、一刀は意識が闇に沈んでいくに任せるのだった。


 気づけば戦場だった。
 兵の怒号、干戈交わる音、そして、多数の将兵が巻き起こす土煙と、それに混じる死の臭い。一度でも戦場に出向いたことがあるならば、血と乾いたなにかが混じったような独特のその臭いをかいで、戦場であると判断できない者はいない。
 稟も当然それに気づいていた。
 だが、戦場だとして、どこであろうか。おそらくは本陣の天幕であろう場所の中にいた彼女は、中央の卓に置かれた地図を見つけると、即座に事態を把握した。
「……官渡」
 地図の上に配置された部隊の名前を確認していると、大きく開いた入り口から天幕に入ってきた桂花に話しかけられる。
「どうしたの、稟」
「ああ、いえ……少々確認したいことがありまして」
 答えると、ふんといつもの調子で鼻を鳴らされた。
「あんたも心配性ね。公孫賛軍の勢いはたしかに予想以上だけど、取る戦術や兵の数は予想の範囲内でしょ。堅実というか、つまらないというか」
「公孫賛という為人がそうさせるのでしょう」
「そうね。でも、天の御遣いとかいうのもいるし、なにより趙雲と呂布がやっかいだわ」
 桂花に適当に合わせながら、稟は状況を探ろうとする。だが、次の言葉を発しようとした時、急激なめまいのようなものに襲われ、彼女の意識は暗転してしまうのだった。


 稟の視線は膝枕をしている一刀とばっちり合っていた。お互い、頭の中でいまの出来事を思い返しているのがわかる。
「……一刀殿に、この場で目覚められてしまうと、干渉が出来なくなるのですが」
 乱れた息を整えながら言う稟。さすがに二重の夢に干渉するのは、術者に負担をかける。実際の肉体の方はどれほど汗まみれだろうか、と思いつつ、彼女はそれを一刀に告げる気はなかった。
「いや、ごめん。でも……びっくりしちゃって」
 一刀の方は目を丸くしてきょろきょろとあたりを見回している。どうやら夢の間を移動したことがかなりの衝撃であったらしい。
「まあ、実演としては意味があったということでしょうか」
「うん……。なんていうか、半信半疑だったのが、かなり傾いたよ」
「いまは、白蓮殿の夢に入り込むのを狙ったのですが……。それは成功したと見ていいでしょう。ただ、どうやら、それぞれの役割、つまり夢の中の私や一刀殿と入れ替わってしまうようですね」
 私は華琳様の本陣にいましたよ、と状況を説明するのに応じ、一刀も答える。
「俺はなんか子龍さんに主、なんて言われちゃってたな。あ、あと風がいたよ」
 風がいなかったのは、敵側にいたからか、と稟は納得する。どうやら、それぞれの夢で歩む道が違ったらしい。
「あれは……官渡だったか。すると、袁紹軍の代わりに公孫賛軍ということ? 本来とは逆に公孫賛陣営が北を支配してるのか」
「おそらく。となると私たちが協力というのは厳しい状況かも知れません。たとえ、官渡の場面でなくとも、敵対する陣営にいるとなると……。なんとかして白蓮殿に接触して、起こしていただきたいのですが、どうでしょう。出来そうですか?」
 青年は彼女の膝の上で眉間に皺を寄せた。
「わからないな。でも、なんだか、さっきより格段にはっきりしているんだ」
 彼はそう言って、腕を持ち上げる。その指が、掌が稟の頬に触れようとする。直前で拒否されるのを恐れるように一瞬びくりと止まったが、稟の柔らかな視線を受けてそのまま進む。彼女の頬を包む彼の温もり。彼の指に伝わる彼女の肌の柔らかさ。
「曖昧だった部分の記憶が、はっきりしてきてる。俺が……君たちの世界にいたってことが……」
 頬に触れる手の上に、稟の手が重なる。彼女の唇を淡く彩るのは、笑み。
「帰りましょう。皆を起こして」
「ああ、帰ろう。稟」
 そうして、二人は再び夢の世界へと没入していく。


 5.河陽宮


 洛陽の対岸にあたる地に、壮麗な都が築かれていた。
 名を河陽宮。河陽、すなわち、河の北を意味するその都こそ、いまや華北全土を支配する公孫賛――燕王が治める北の都。
 官渡で敗れた曹魏は、河水を渡らないこと、を条件として存続を許された。実質的に戦の前に状況を戻すその協定に曹操陣営は首をひねったものの、これも公孫賛の甘さであろうと受諾した。だが、彼女たちが気づいていないことがあった。すなわち、金城より北の涼州も、公孫陣営のものとなったことである。
 これに後から気づいた曹操は歯がみしたものの、明確に協定が結ばれている上、敗戦で疲弊した状態でなにが出来るわけでもない。涼州を放棄した曹魏は南方に進み、漢中から益州を領有する。また、袁術の支配を脱した孫家は江東を中心に呉を建国した。
 ここに華北を支配し、膨大な数の騎馬軍団を抱える公孫燕、中原と益州を支配し、屯田制で多くの兵を養う曹魏、南方で肥沃な土地と精強な艦隊を持つ孫呉の三国体制が成った。
 燕はここ河陽宮から洛陽を睨んで、帝を擁する曹魏に圧力をかけると共に、南に船をやって頻繁に呉と交易を行っていた。一方、曹魏は益州に埋没する塩と銅を盛んに掘り出し、貨幣経済を作り上げるのに腐心し、呉はひたすら生産力の向上に努めていた。
 いま、大陸には危ういながらも均衡が成立し、平和な時が流れている。
 これも華北の巨大な勢力、すなわち袁家を吸収し、余計な戦禍が広まらぬよう努力した公孫賛の行動のたまものであった。
 その燕こそが三国で最も大きな武力を持ち、矛、金、米の三すくみなどと言われるうち、矛を担当しているのは皮肉としか言いようがない。
「……だが」
 現在までの状況を概観して、白蓮は玉座の上で呟く。
「これでいいのだろうか」
 いま、玉座の間には誰もいない。一人で考えたいと部下を全て遠ざけた結果だ。もし、優秀な軍師勢や将たちに何事かもちかければ、彼女たちはその秀逸な頭脳や行動力をもって、白蓮が予想もしていなかった成果を上げてしまう。それはもちろん喜ばしいことだったが、まだ漠然とした考えに過ぎないものをあれよあれよという間に形になされてしまうと、なんだか置いて行かれたように思うし、申し訳なくも思ってしまうのだ。
 だから、彼女はたまに一人きりになる必要があった。
「平和を目指していた。そうだ、私はこの乱れた世を糾したいと思っていた」
 考えをまとめようと、ともかく浮かんできた想念を言葉にしてみる。赤い髪の女性は、後ろで縛った髪の毛をしっぽの様に振り振り、考えを進める。
「たしかに、現状、三国が均衡し、平和は保たれている。大きな目的はかなった。それはいい。それはいいんだ」
 しかし、彼女の顔は曇る。
「だが……私は王になりたかったか?」
 問いに答える者はいない。それに答えられるのは、問いを発した本人だけであるが、実際にその本人自らがどう思っていたのか自信がなかった。彼女は玉座から立ち上がり、段を下がって、かつかつと音を立てて歩き回る。
 彼女は玉座の間を何周かしてから立ち止まると、自分が身につけている白銀の胴鎧を見下ろした。
 そこに刻まれたいくつもの傷を指でなぞっていく。うん、と彼女は一つ頷いた。
「私は、やはり王の器ではないな」
 だが、それでもやるしかない。そういうものなのだろうか。王というのは……。
 考えがぐるぐると回り始め、まるで前進しなくなった時、扉が開いた。
「誰も入ってくるなと……一刀殿?」
 厳命したというのに入ってくるというのはきっと急用だろう、などと考えて、あえて閂をかけていない、人のいい白蓮であった。
 だが、彼女は入ってきた青年の姿を見て、少し不思議そうな顔をする。というのも、急な出来事であったなら彼は息せき切って駆けつけるはずだからだ。普通の風情で入って来るというのに違和感があった。
「すまん、邪魔するつもりじゃなかったんだが、話があって」
「うん、なんだ?」
 旗揚げ当初から苦労をともにしてきた盟友である彼の言葉は、なにがあっても大事にしなければいけない。そんな建前以上に、白蓮は彼の言葉を必要としていた。
「その、急に言われても信じられないと思うんだけど、実はこの世界は夢なんだ」
「夢」
「うん、夢。白蓮が見てる夢だ」
 凄絶な表情で目をむく白蓮を前に、一刀はさて、どうやって説得すればいいだろう、と考える。ともかく直球でぶつけてみたわけだけれど、疑い深くはない白蓮といえども、そうそう楽には……。
「はぁあああああああ」
 大きく一つため息をつくと、白蓮は跳ねるようにして近づいて、一刀の手を取った。
「いやよかった。そうだよな! 夢だよ、夢」
「えっと……」
 一刀の両手をとって、勢いよくぶんぶん振る白蓮。さすがに英傑の力に抗しきれるわけもなく、一刀はされるがままにするしかない。肩がかなり痛いが、抜けたりしないだろうな。
「……なんでそんな嬉しそうな……?」
「だ、だって、一刀殿。わ、私が華北の支配者で、洛陽にも影響を及ぼしてるんだぞ? ありえないだろう? そうだ、夢か。夢ならありだな!」
「……いや、まあ、麗羽の領地を丸呑みにすれば華琳でも手こずる相手になるのは確実なんじゃないかな。麗羽の時だって、まともに来られたら負けてたかもしれないくらいだし……」
 一刀は浮かれている白蓮がきちんと理解しているのか自信が持てず、どう話を動かせばいいのか戸惑った。
 白蓮ってこんな性格だったっけ……。
 そうだったような気もする。
「まあ、そんなことは関係ないだろう、夢なんだから、な」
「あー、うん」
 乳色の霧のようなものが、一刀の視界の隅で揺れる。それは徐々に範囲を広げ、ついに玉座の間を覆わんばかりになっていく。だが、そのことに白蓮は気づいた様子はなく、一刀の戸惑いはさらにひどくなる。
「そうかー、夢かー。だいそれた夢みちゃったなー」
 その言葉を最後に視界の全ては乳白色に覆われ、そして、全てが静止したような奇妙な感覚が……。


「……あっさりいっちゃった」
 目覚めた一刀はまた短時間ですが、失敗ですか? と訊ねる稟に、少々呆然としつつ、事の顛末を説明する。
「……白蓮殿の性格でしょうか」
 彼女が疲れたように呟くのもむべなるかな。
「次行くか?」
「いえ、時間をおきましょう。また、明日訪れますので」
「え、あ、おい……稟?」
 答えを求める間もなく、稟の姿はかき消え、先ほどまで温かな膝の上にあった頭がぼすんとベッドの上に落下して、一刀は再び呆然とするしかないのだった。


 張三姉妹が手をつないでつくった三角形の中央で結跏趺坐の姿勢を取っていた稟が、姿勢を崩し、倒れ込む。三姉妹が静かに紡いでいた歌が途切れた。
 床に沈み込もうとする体をなんとか手で支える稟の顔から、ぼたぼたと汗がしたたり落ちていく。うずくまった彼女の背から湯気が立ちのぼった。あまりの発汗と発熱に、天和たち三人はむわっとした熱気を感じるほどだった。
「はぁっ、くふっ……」
 稟の口から唾液と胃液がまじった粘液が吐き出される。彼女自身はそれを止めようとしているのだが、体中を走る悪寒に阻まれてうまくいかない。
「だ、大丈夫?」
 三人が助け起こそうとするのを手を伸ばして止め、切れ切れの声で質問した。
「誰か、目覚め、ませんでしたか?」
「えっとねー、白蓮ちゃんと星さんが、お医者さんのところに連れて行かれたよー」
「そう、ですか。少し、休み、ます。あなた方も……」
 天和の言葉を聞き、表情を和らげた稟は、そのままゆっくりと床に崩れ落ちた。


 6.三重帝国


 仲―夏―涼三重帝国の都、長安は活気に満ちていた。
 たしかに戦は続いていたが、それもこの都に人間にしてみれば遠い場所の出来事に過ぎない。魏軍との函谷関での戦は散発的なものでほとんど進展がみられなかったし、南方の戦線は西は梓潼、東は白帝城まで進んでいる。都が置かれてから改めて補修された長大な城壁の内側に位置する長安の人間に、危機感を持てと言うほうが難しかった。
 そんな活気に溢れた都の風景を、都でも最も高い望楼から眺めやる二人の女性の姿があった。
 どちらも豊かな金髪を蓄え、金糸に銀糸をふんだんに使った豪華な衣服に身を包んだ優美な女性たちだ。両者共背の高さは同じくらいで、均整のとれた体つきに豊かな胸が目立つ。その美しい顔つきは双子と言われても納得してしまうくらい似通っていた。
 彼女たちこそこの三重帝国を治める三帝のうち二人、袁家の主、袁紹と袁術――麗羽と美羽の姉妹である。
「麗しい都じゃの」
「十年かけて袁家の都にふさわしく整備したのですもの。当たり前ですわ」
 十二年前、長安に至った彼女たちは、この都で隠れ潜んでいた董卓たち――月と詠に行き当たった。袁家の一行に加わっていた華雄が主の生存を知って大泣きしたり、無実の罪で攻め寄せ滅ぼしたことを謝罪する麗羽に、当人を除く全員が目を白黒させて驚いたりと色々あったが、彼らはこれをなにかの宿運と判断し、再起をはかった。
 かつての部下たちを密かに長安やその周辺に呼び寄せ、曹魏の支配がゆるんだ涼州を徐々に浸食する。そうしてついに十年前、この都において、麗羽、美羽、月の三人を一度に帝に据え、独立を宣言したのだ。
 元々長安や涼州を領有していた魏はもちろん、長安側から漢中に侵攻された蜀もこれに反応し、三国の同盟に参加していた呉も兵を送ってきたが、董卓軍に復帰した呂布の奮戦によって函谷関はついに一度たりとて陥落することはなく、逆にかつて使い潰された沮授、田豊、審配といった軍師たちをもしっかりと使いこなす三重帝国によって漢中が支配圏に組み込まれ、一度は成都の直前まで攻め上るといった事態が引き起こされた。
 それから十年。
 戦は始まっては終わり、終わっては始まったが、もはやほとんど儀礼的なものと化して、奇妙に平穏な日々が続いていた。
「麗羽よ」
 表向きは従妹ということになっている妹の呼びかけに、姉は目線だけで応じて見せた。
「思い通りに行き過ぎとは思わんか?」
「望み通りにいってご不満?」
 つまらなそうに返すのは、その質問が不快なのか、それとも、別の何かが原因なのか。
「ふん。主とてそうではないのか? 自分の生活程度ならいちいち望まない方向にいかれては困りものじゃが、国の成り立ちまでそううまくいくものではなかろう?」
 麗羽はしばらく答えず、どこか空の彼方を見つめていたが、くるりと体を回し欄干にもたれかかる。向き合う麗羽と美羽の顔がまるで鏡で映したようで、奇妙な光景を作り出していた。
「ま……そうですわね。わたくしたちを立派な王よ、救い手よと崇めてくれるのはありがたいですけれどね……」
「一刀はどうだったのじゃろうな」
 不意に言った言葉に、爪をいじろうとしていた麗羽の動きが止まる。
「……それは、どちらの?」
 かすれた声で問いを絞り出す。その様子を愉快そうに笑い、美羽はさも当然のように言ってのける。
「麗羽が我が君と仰ぐほうに決まっておろ」
 北郷一刀という男には、切っても切り離せぬ異名がつきまとう。
 すなわち――天の御遣い。
 天の国からやってきたという一人の男。この世界にただ一人の天人。その名には、当然のように期待がまとわりつく。
 この乱世を救ってくれ、と。
 俺たちの苦しい生活をなんとかしてくれ、と。
 ひもじさを忘れさせてくれ、と。
「四世三公やら、帝やらよりよほど重いじゃろ、あれは」
「しかも、あの方には、頼るべき親族も、譜代の臣下もない」
 それが時に足枷になるとはいえ、協力してくれる人間というのは大事なものだ。身一つで勝負するのは、あまりに不利な条件であると言えよう。
「あやつが一角の人物であることは知っておる。じゃが、いや、それだからこそ、か。御遣いだなんだと言われることが、あやつにとってどれほどのものであったか」
 元からそれほどの者でもなかったのなら、諦めることも出来たろう。あるいは周囲が限界を悟って手助けをすることもあったろう。
 北郷一刀の――おそらく本人だけはまるで気づいていない――不運な点は、期待に応えるだけの潜在的な能力を兼ね備えていたことにある。それでも、潜在能力は潜在するもの。すでに顕れ自由になるものとは異なり、学び、伸ばし、育てていく必要がある。それは、どれだけの努力を彼に課し、どれだけの落胆を彼に味あわせただろう。
 北郷一刀はそんなことはけして意識しない。彼はただ、自らに出来るだけのことをやるつもりで、それを事実こなしているつもりなのだ。
 だが、それが傍で見ている者の目にも同じように映るかというと、また別の話となる。
「妾はそんなことを最近よう考える」
 じっと美羽の言葉を聞いていた麗羽は、思い出したように付け加える。
「あの方のことを口にするのも久しぶりですわね」
「忘れたと言うか? ふん、莫迦らしい。主が一刀のことを忘れるわけがなかろ」
「美羽さんもね」
 その時、望楼の階段を上ってきた頭がひょっこりと覗いた。黒髪に整った顔の壮年の男性。彼こそは、先ほどまで何度も名前が出ていた、北郷一刀その人だ。
「嬉しい話だね」
「か、一刀さん」
 気まずい空気が流れる。なにしろ、彼女たちが話していたのは、『この』一刀ではないのだから。姿も性格も似ているが、しかし、彼そのものではない。
 彼は、夢の中の住人なのだから。
「待ちゃれ」
 目を細めて一刀の事を観察していた美羽が、麗羽の慌てた動きを押し止める。そして凝視を続けていた彼女は、不意に大きく叫んだ。
「ねえ様、よく見るのじゃ。あの目を。あの瞳を!」
「目?」
 その言葉に彼女も一刀を改めて見直す。そして、その目がまん丸く、まるで望月のように丸く見開かれる。
「ああ、我が君! わたくしの我が君!」
 駆け寄る二人を抱き留める一刀の姿を、長安を、世界を、光が全て包んでいく。


「真の一刀殿を認識するのが鍵かもしれません」
 今回の流れを聞いた稟がそう呟く。今日は膝枕ではなく、添い寝だった。言葉を吐く度に息がかかってくすぐったくも甘い。
「そういうものか」
「問題は……一刀殿が既にいなかったり、大きく存在が変わったりしている場合ですね」
 こつこつと小さく眼鏡のつるを叩く稟。
「申し訳ありませんが、そのあたりを調べに一度戻ります。では、また明日」
「ああ」
 今日も答えを聞く前に消える稟の姿。ぱさり、と彼女にかかっていた部分の布団が落ちる。その空隙を見つめつつ、一刀は苦り切った表情を浮かべた。
「……ずいぶん無理してるな、ありゃ」


 7.綻び


「幸い、袁家の二人は同じ夢を見ていたようですね。袁家に関わる面々が一気に目覚めました。やはり血縁でしょうか。残るは華琳様たちと、涼州勢となります」
 並んでベッドに座り、説明をしている稟の横顔を一刀はじっと見つめている。その横顔はかつて夢――いや、異世界であるあの世界で見たのと同じように怜悧で美しい。けれど、巧みにそれに隠された表情や、気を抜いた瞬間に見せるものを、彼は見逃しはしなかった。
「稟」
「はい?」
「実際、どれくらいきついんだ?」
「なんのことでしょう?」
 さらりと吐いてから、しばらくの間稟は一刀の視線に耐えていた。だが、彼の手が彼女の膝の上の手に重なったところで、その目が伏せられる。
「……一刀殿には隠せませんか。ですが、お気になさらず。おそらく、二、三年寿命が縮む程度です。すぐに影響があるわけでもありません」
 一刀が息を呑む。何でもないことのように言うことが、その深刻さを余計に感じさせた。しかし、だからといって止めろとは言えない。言えるわけがない。
 彼女が無理をしてでも救う対象に自分が入っているというのならば、なおさらだ。
「どうすれば、少しでも和らげられる?」
 だから、彼は次善の策を取るしかない。
「干渉の回数を減らすことですか。しかし、袁家が一気に目覚めさせられたので、回数は自然減ります」
「……そうか」
 脳内で言葉をいくつも選び、それでも口に出来たのは、そんなつまらないことでしかなかった。
「華琳は最後なんだろ? すると、詠と翠か?」
「いえ、こちらもおそらく片方でよいでしょう。この場合、同じ夢にいるというのではなく、呪いの対象としての意味合い上ですね」
 曹操を封じ込める呪いに用いられた象徴は黄巾の乱当時の四方の諸侯。本来は董卓が収まるべき場所に、賈駆と馬超がいた。両者を使わざるを得なかったと言うことは、そのどちらかが崩れれば、もう片方も呪いを保つわけにはいかないというわけだ。
「……となると詠かな。月のこともある」
「そうですね。では、そのように」
 本来の対象である董卓を知らぬままに取り込んでいる呪いがなにかのきっかけで暴走しても困る。詠の方を優先させるのは妥当な判断だ。まして一刀との関係の深さを考えれば、詠や月を選ぶのが当然とも言える。
「稟」
 ベッドに潜り込む一刀は、自分の手を握ってくれている女性の名を呼ぶ。その青い瞳がわずかに揺れるのを、彼は見つめている。
「無理をするなとは言わないけれど、俺にもちゃんと負担させてくれよな」
 答えはない。
 けれど、彼女が小さくこくりと頷くのを確認して、彼は夢の中へと落ちていくのだった。


 漢の尚書令賈駆は、このところ強烈な違和感に苛まれていた。
 その原因はわかっている。皇兄陛下こと、弁皇子……いや、北郷一刀だ。
 流星となって天空より降り来たった彼を保護したのは、十常侍によって拉致――彼ら自身は逃がしたと主張するだろう――された帝を探索していた霞であった。
 彼女が見つけた馬車の残骸の近くに放り出されていた人影は三つ。すなわち、光り輝く『ぽりえすてる』を身に纏った北郷一刀と、帝である劉弁と、その妹であり陳留王の劉協であった。
 だが、ここで大きな問題が発生する。
 いかなる理由かはわからないが、帝とその妹が連れ去られた馬車は見るも無惨に破壊されていた。その破壊に巻き込まれたか、発見時点で既に大けがを負っていた皇帝劉弁が、収容後間もなく息を引き取ってしまったのである。
 この時点で洛陽の都は掌握していたものの諸侯の支持まではとりつけていなかった董卓勢力にとって、この事態は致命的であった。他勢力によって皇帝弑逆の汚名を着せられることはほぼ間違いなかったからだ。
 そこで、詠たちは決断した。
 たまたま劉弁に顔立ちの似ていた一刀を劉弁の身代わりとして立てたのである。
 その後、全てを承知して一刀を兄と呼んでくれた劉協に帝位を譲ったのは、真実から目をそらせる方策に過ぎない。身代わりとして王宮でのんびりと過ごしていてくれればいい一刀が、積極的に彼女たちに協力するようになるとは思ってもいなかったけれど。
 そんな経緯で生まれた贋弁皇子であったが、帝であった人物が位を降りて一部将として戦闘の矢面に立っているというのは民をひきつけるものらしく、董卓勢力への兵と民の流入を促した。
 この効果によって、袁紹をはじめとした諸侯の大同団結によって作り上げられた反董卓連合をもはねのけた彼女たちは、帝と相国である月を中心にして、乱れに乱れた大陸の秩序を回復することに成功しかけている。
 いまだに独立して動いている国はあるが、それもこの調子ならばいずれは平定し、一体となった漢帝国を復活させられるだろう。
 それはいい。予想以上にうまく事は運んでいる。
 だが、昨今彼女が感じている違和感は、そういう政略や軍略とはまるで別次元のものだった。
 それは、弁皇子を見る度に感じる、なにか『嫌なもの』。
 もしや裏切りかなにかを直感がかぎつけたか、と調査してみても、そんな事実はあるはずもなく、ただ、彼女の嫌悪感には根拠がないと突きつけられるばかり。
 霞などからは、それは恋やろー、とからかわれたりもしたが、けっしてそんなことはない。ありえない。
 恋というのは、もっと……。
 そこまで思考を至らせて、詠はぶんぶんと頭を振る。
「なに考えてるの、ボクは。恋なんてしてことないくせに」
 だが、本当にそうだったろうか。ならばなぜ、恋をするという事を思う度に胸に甘くも切ない気持ちが広がっていくのか。無性に誰かの指を、唇を、抱擁を求める衝動が生まれてくるのか。
「……ないはず、よね?」
 自問しても、答えは出ない。自分の根幹がなにかあやふやになってしまったかのような、気持ち悪さだけがこみ上げてくる。
 その時、部屋の扉が叩かれる。のっくとかいう天の国の風習だ。
「はーい」
 反射的に声を上げてしまい、しまった、と後悔する。
「詠、ちょっと問題があって」
 案の定顔を覗かせたのは、悩みの根源、皇兄陛下こと弁皇子だ。詠は渋面をつくって対応した。
「今日はボク、お休み」
「そういうわけにはいかないだろ。俺も詠も休日なんて……」
 近づいてきて、事態の深刻さを訴えてくる弁王子。彼はけして、無能なわけではないし、詠たちに迷惑をかけているわけでもない。たまに甘さがたたって、降将の待遇をよくしすぎるところはあるが、それも人気につながるのだから一概に責めることは出来ない。
 そう、詠に彼を嫌う要因などないはずだった。
「じゃ、行こう、詠」
 彼の手が詠の腕に触れる。自然、意識は彼のその手に集中し、詠の視界も狭まる。
 その瞬間、彼女は確信した。
 コノ、指ジャ、ナイ。
「触るな」
 手を振り払い、身を縮こませる詠。翡翠色の編み込んだ髪が揺れて弁皇子の腕を打つ。
「え、いやだな、詠。どうしたんだよ。いつもつんつんしてるけど、今日は……」
「触るなって言ってんの、この贋者がっ!」
 音を立てて椅子から立ち上がり、彼とは逆の壁際に移動する。
「に、贋者ってそりゃあ、俺は皇兄なんかじゃないけど、それはみんな承知の……」
「違うっ!」
 違う、そんなことじゃない。
「あんたは贋者よ!」
 詠は声を限りに叫ぶ。じりじりと、彼の腕が届く範囲を避けながら、彼女は壁沿いに少しずつ移動する。部屋の真ん中近くでぽかんと口を開けている男は、その動きに気づいていない。
「あんたは北郷一刀じゃない!」
「なに言ってるんだ、俺は、正真正銘……」
 詠は、彼が何を言おうと、聞くつもりはない。ただ、その男が触れられる範囲から出ることだけを考えている。言葉はそのために計算して投げつけているに過ぎない。
「あんたは……あんたは、ボクのご主人様じゃない!」
 最後にそう言い捨てて、彼女は扉をくぐり抜け、足に力を込めて駆けだした。
「お、おい、ちょっと、詠!」
 後ろでなにかわめいている声がする。だが、そんなことは構っていられない。
 詠は駆ける。
 逃げなければいけない。月を守らなければいけない。一刻も早く、この世で一番大事な少女を連れて、逃げなければならない。
「誰か、誰か、助けて」
 焦慮が背を押す。恐怖が足を動かす。
「んー、詠、どしたんー?」
 霞がのんびりと訊ねかけてくる。その声に少し歩調をゆるめかけて、けれど、詠はさらに加速した。
 違う、あれも贋者だ。捕まってはいけない。
 逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ。
 陳宮の脇をすり抜ける。呂布を迂回して、華雄を置き去りにする。
 相国の執務室で書類とにらめっこをしていた月の手を取り、走り出す。
「え、詠ちゃん、どうしたの? なにか起きたの?」
 事態がわかっていない月は、驚きながらも詠の導きに従って走ってくれる。けれど、どこへ行ったらいいのだろう。
 そこら中にあいつらは溢れている。だったら、助けを求めるべきは――!
 彼女は、最後の救いを求めた。
「助けて! 一刀っ!」
 鋭い声は、どこまで届いたろうか。不意に突き当たりに現れた人影がのばした腕に、彼女たちは絡め取られる。
「こっちだ、詠、月っ!」
 ああ……。
 詠は自らを抱き留める腕を見つめて息を吐く。
 そうだ、この指だ。
 彼女はとてつもない安心感と共に気を失った。


 目を覚ますと、周囲ではぱたぱたと人が動いている気配があった。眼鏡をかけていない状況でも、ここが自分の部屋でないことがわかる。寝ている間に移動させられたのか? と疑問に思いながら体を起こす詠。
「あ、詠ちゃん」
「月?」
 頭にかんざしをさした衣装も胸も派手派手しい女性と話をしていた月が振り返る。月はともかく、なぜ桔梗がいるのだろう。しかも、それ以外にもいくつもの寝台が並び、何人もの人々がその周囲で忙しそうにしている。
 一体ここはどこなのだろうか。
「詠には月から事情を説明した方がいいかの?」
「あ、そうですね」
「では、わしは翠の様子をみてこよう。落ち着いたら声をかけてくれ。一応、医者に診てもらうことになっておる」
「はい」
 桔梗が部屋の別の一角へと立ち去った後で月から大まかな事情説明を受けて、あれがただの夢ではなかったと知った詠は仰天する他なかった。だが、その後に小声で付け加えられた月の言葉にはさらに驚愕させられることになる。
「寝起きのあれは、皆には言わないでおくね」
「ちょ、ちょっと待って、ボクなんか言ったの?」
「黙っておくよ、詠ちゃん」
 にっこりと笑って、ないしょね、という月はかわいらしかったが、それでごまかされるわけにもいかない。
「そ、そりゃないでしょ、なんて言ったか教えてよ!」
 少し困ったように上目遣いになる月。
「んー、言っても怒らない?」
「怒るわけないでしょ。あの……でも、言わないでくれるんだよね?」
「もう、詠ちゃん。言わないってば」
 月は楽しそうに笑うと、体ごと詠の耳元に寄せると、こう囁いたのだった。
「ありがとう、ご主人様、って」


 8.孤高


 銅雀台の奥、謁見の間には、二つの影があった。
 一つは白亜の座にある老境に入りかけた女性。かつて太陽のように輝いていた黄金の髪は、すっかり色が抜け落ちて、いまや硬質の銀を宿している。引き締まった体躯は節制のためもあってか衰えを見せていないが、その手の甲や首筋には長年の年月を感じさせる皺や固さが存在した。以前は笑みをたたえても遙かに鋭かった面貌も、いまは柔和なものだ。
 もう一つはその女性の脇に控える人物。年齢は主よりも若いようで、いまだに快活な雰囲気と強靱さを漂わせている。なによりその背後に置かれた巨大な武器が、彼女の剣呑さを明らかにしていた。
「流琉」
 曹魏の創始者、先帝曹操が親衛隊長に酒を注がれながら声をかける。
「はい」
「あなた、私に仕えて何年になるかしら?」
 曹操自らが醸造した酒を注ぎ終えて、彼女は瞑目しつつ答える。
「かれこれ三十五年になりましょうか」
 三十五年。
 それは、この時代の人間にとっては、真に長い時間だ。
「霞は去り、真桜と凪が市井に戻り、稟と秋蘭が逝き、桂花と風も逝った。残ってくれているのは、あなたと春蘭、季衣、それに沙和だけね。といても春蘭も私と同じくよぼよぼだけど」
「曹丕様たちが……」
「ふん、あんな莫迦息子たち。親類だからと養子にしてみたけど、帝の器ではないわね。王がせいぜいだったわ」
 そう言いつつも、華琳は帝位を養子とした丕に譲っている。しかしながら、それが苦渋の決断であったこともたしかだ。彼女はついに嗣子を産まなかったし、幾人もの縁者の優秀な子を養子としてみても、なかなか彼女の眼鏡にかなう人物は現れなかった。曹丕が二代皇帝に選ばれたのは、多分に消極的な理由からだった。
「まあ、丕も邪魔になる昂を暗殺するくらい肝が据わってると言えば言えるんだけれど。でも、それを私に知られているあたり、まだまだ脇が甘いわね」
「曹昂様は惜しいことを……」
 流琉がその顔に悲痛な色を乗せて呟く。華琳は手を伸ばして、流琉の腕を軽く叩く。
「流琉。たしかにあれを亡くしたのは残念だと思うけれど、あなたが気に病むことはないのよ。丕の動きは事前に警告を与えていたのだし、それでも自らの身を守れなかったのだから」
「それはそうなのですが……」
 曹魏の親衛隊長という立場からすれば、皇子の暗殺を防げなかったことは、彼女にとって大きな汚点なのだろう。華琳は申し訳ないと思いつつ、仕方ないとも思う。国を任せる人間を過保護にするわけにはいかない。
 弟に殺されるという警告を読み取れなかったか、それとも信じられなかったのか。曹昂が身を守ることを怠ったのは確かだ。この点、曹丕が狡猾さで勝ったとも言える。
 しばらくは無言で杯を傾けていた華琳だったが、次に杯を満たしたところで、流琉の持っていた酒瓶が空になった。
「次もこちらを? それともお食事にしましょうか」
「いえ……ああ、そうだ、ちょうどいいわ。波斯から流れてきた酒があったでしょう。あれを持ってきてちょうだい」
「はい」
 流琉が酒蔵へと立ち去った後、誰もいない謁見の間を見渡して、華琳は一つため息をついた。
「風、私は日輪たり得たかしら?」
 四年前にこの世を去った側近に語りかける。果たして彼女が望んだように大陸を照らす日輪となり得ただろうか。たしかに呉も吸収して三国を統一は出来た。しかし、それは本当に民への穏やかな日差しとなったろうか?
「あの頃の混乱に比べればずいぶんましだとは思うけれどね、そうでしょう、稟?」
 この場に郭嘉が居れば、きっと辛辣な意見を言ってくれたろう。華琳はそう思いつつ唇の端を持ち上げた。あるいは、桂花がそれに対して自分をたたえる言葉を重ねてくれたろうか。
「全く、年を取ると、昔のことばかり思い出してだめね」
 とはいえ、既に政治の世界から完全に退いた隠居の身としては、それくらいの慰みは許してもらいたいところだ。本当なら生き残っている側近を常に侍らせておきたいところだが、それをすると帝国の官僚たちに、実際の権力は未だに華琳と古い世代にあるのだと受け取られかねない。曹丕が基盤を固めるまでは邪魔をするつもりはなかった。
「一刀がいたら……」
 その想像を口にするのは、久方ぶりだ。だが、ずいぶんと年月が経ったからこそ見えるものというのもある。
「もしかしたら、日輪の上で広々と存在する天のように受け止めてくれていたかもしれないわね」
 そこで、彼女はその気配に気づいた。流琉のものではけっしてない、他の何者か。彼女の腕が剣をとり、まっすぐにその誰かの影へと向かう。
「何者かっ」
「まったく、どれだけ買いかぶってくれるんだか」
 柱の裏から唐突に現れるその姿。
 懐かしい、けれど、一日たりとて忘れたことはない、その底抜けに優しい瞳。
 白く輝くぽりえすてる。
 それは……!
「あ……あ、あ……」
 からん、と音を立てて華琳の手に握られていた剣が床を転がる。そのまま駆け寄り、しかし、華琳は涙が流れ続ける己の顔を覆うようにして体を反らす。
「華琳は年齢を重ねると、ますます魅力的になるんだな」
「お、おばあちゃんをからかうんじゃないわよ!」
 一刀はゆっくりと華琳の体を抱きしめる。かつては柔らかで、しなやかだった体は、たしかに少しだけ固く、骨っぽくなったような気がした。それでも、それは、彼にその行為をためらわせるようなことはけしてなかった。
「からかってなんかいないよ」
 華琳はその言葉を吟味するように彼の顔をじっと見つめていたが、不意に得心したように頷いた。
「迎えに来たのね」
「ああ、そうだ。俺の可愛い女の子」
 その台詞に、華琳はくすくすと笑い、肩を振るわせた。そのまま手を彼の首に回し、よりお互いを引き寄せる。
「偽りの日輪は、もう終わり、ね」
 そうして、彼女は朗らかに笑った。


 9.クリスマス・イブ


「そうですか、華琳様もうまく行きましたか」
「たぶん、だけどな」
 体を起こす一刀に、ほう、と息をつく稟。華琳まで解放できれば、あとは一刀当人を残すのみ。安堵の息を吐きたくもなるだろう。
「普段はここで戻るところですが」
 稟は少し考えた後で、ベッドに腰掛けている一刀に告げた。
「今回ばかりは一度戻るより、このまま一刀殿をお起こしするほうがよいかと思います」
「そのあたりは稟の判断に任せるよ」
 実際、どうすれば目を覚ませるものか、一刀にはよくわからない。これまで皆の夢を巡った感触で大部分の記憶は補強されているし、華琳たちの世界に戻ることにはなんの異存もないが、その方策はさっぱり思いつかない。
 他の者たちの例を参考にするなら、稟が接触してきた時点で目覚めていなければおかしい。しかし、それが起きていない以上、なにか別の要素が必要なのだろう。
「その前に、少しよろしいでしょうか?」
「なに?」
「この世界をしばし見て回るわけには行きませんか?」
「どういうこと?」
 稟の提案に、疑問を呈する一刀。術を行使している稟自身の負担を考えると、はやく事を済ませる方がよいのではないかと思ったのだ。
「この世界は、一刀殿の夢ですが、それはつまり天の国の記憶を形にしていると言うことでもあります。言葉だけでは理解できないことが、ここでは観察できるわけです」
「ははあ」
「もちろん、一刀殿自身が見たことがあっても構造はよく知らないものなどは、中身のないはりぼてとなっているか、つじつま合わせが行われていると思いますが」
 稟の言いたいことはわかる。一刀自身が理解している事柄なら夢とはいえ記憶通り再現されているはずで、それを見聞することは彼女の知的欲求を満たすことになるだろう。軍師の任になにか役立つものもあるかもしれない。
「それに連続で術を使うよりは、少しこちらになじませてからのほうがいいと思いますし」
 きっとそれはあまり重要な理由ではないだろう、と一刀は踏んでいた。だが、さすがにあまりに余裕がない状態でそんなことを言い出したりしないだろうし、稟が望むことなら協力したいところだ。
「じゃあ、そうだな……外を歩こうか」
 それから彼はカレンダーをちらりと見て、こう付け加えた。
「ちょうど今日はクリスマス・イブだ」


 大通りまで歩く道すがら、一刀はクリスマス・イブについて稟に説明する。三国志の時代だと、仏教ですら部分的にしか伝播してきていない。キリスト教が東アジアの端に流入してくるのはまだ先のことだ。だが、イエスは中東で生まれ死んだろうし、ローマではキリスト教が発展している頃だろう。
「人が多いですね」
「お祭りだからね」
 遅い時間だというのに、街中は賑やかだ。カップルをはじめとする人々が行き交い、それを当て込んで飲食店や様々な店舗も普段の閉店時間を延長して営業している。さらに、木々はイルミネーションで飾り付けられ、夜とは思えないほどに明るい。
 一刀は稟が疑問を持った事について一つ一つ説明を加えていく。彼女は中でもイルミネーションに興味を持ったらしい。これだけの光を発することが出来れば、夜間の作業や軍事作戦に使えると思ったようだ。しかし、それを成し遂げるまでにかかる努力を考えると一朝一夕に行くわけもない。参考になるのだろうか、と彼は少々不安に思うのだった。
「なあ、稟」
 ピザ屋の店先で回転している飾りに稟が夢中な間に周囲の人々の群れを眺めていた一刀は、その人並みに連想させられたことを彼女に訊ねてみる。
「ここにいる人達は、俺の分身ってことになるんだろうか?」
 絶句する稟。そんなことは考えてもみなかったのだろう。彼女は腕を組み直し、眼鏡を押し上げて周囲を見渡す。
「そのあたりは……確実には……」
「他の夢にしてもそうだ。華琳や麗羽たちが夢を見ていたのはわかる。でも、そこにいた風や稟といった人物たちは、ただの舞台装置に過ぎなかったのかな?」
「難しいですね。こうして術にかけられたものではなく、毎晩見る夢でさえそういうことを考えることは出来るわけですし」
 こうした思考実験は稟も得意とするところだ。不意を突かれた動揺から立ち直ると、彼女は彼の言葉についてじっと考え始める。
「確かに、そういう精神的な攻め方もあるね。ただ、俺は、ある人から外史っていうのを……」
「なんです?」
 奇妙に途切れた言葉に不思議そうに声を上げる稟だったが、一刀の方は口ごもったまま、中途半端な笑みを浮かべた。
「いや、なんでもないよ」
 彼は、とある人物から、外史という存在について聞いていた。それは並行世界だとかそういうものですらなく、この世界も華琳たちの世界も物語の世界だとするような話で、それを発した人物を信じたか信じないかが、この世界にとどまったか、あの世界へ戻れたかの分岐点であったことを、彼は出し抜けに思い出したのだった。
「外史、か……」
 小さく呟く声を誰も聞き取りはしなかった。稟はコンビニの店頭に引き出された中華まんの保温器と、それを売っているサンタ店員に興味を移していたし、もちろん、イブの夜を楽しんでいる人々は他人に構う暇などないのだった。

 さらに大通りを進み、駅前の広場に至った。そこにはひときわ大きな木が立っていて、クリスマスツリーとして飾り立てられていた。そこにつるされた飾り付けの意味などを訊ねてきていた稟だったが、しばらく何事か考え込むようにすると、真正面から一刀に向かい合った。
「ん?」
「少し話をしていいですか?」
 ああ、もちろん、と頷くと彼女は、なぜだかほんの少し悲しげな様子で語り始めた。
「子を奪われた母がいたとします」
 それから少し首をかしげて、彼女は言葉を選ぶ。
「そうですね、賊では死んでしまっていることが多いので、奴隷商人にでも捕らえられたとしましょう」
 このイブの騒々しい夜の中で奴隷商人などというと現実離れして聞こえるが、それが彼や彼女にとってはけして荒唐無稽な存在でないことを、一刀はよく知っていた。事実、最初に稟たちに助けられなければ、一刀はとっとと売り飛ばされていただろう。
「母はその子が生きていることを知っている。ならば、母はどうするでしょう?」
「そりゃあ……行方を突き止めて、出来れば取り返そうとするだろうな」
「その通り。その母は必死で子を取り戻そうとするでしょう。いかなる手段を使おうと、どんなに自らを傷つけようと」
 きらり。
 彼女の顔を隠すように、眼鏡がイルミネーションの七色の光を反射した。


「がっ」
 一声上げて、細い体が痙攣する。栗色の髪が跳ね、かけていた眼鏡が甲高い音を立てて床に落ちる。彼女を囲んでいた三人が揃って身をかがめ、跳ね回る体を優しく抱き留める。
 天和、地和、人和の三人に抱きしめられた稟はしばらくの間体を震わせていたが、やがて、その動きも収まり、苦しげにうめくだけになった。
 その目が見開かれ、焦点が合う頃には、彼女の周囲には華琳や春蘭をはじめとした多くの武将たちが集まっていた。
「稟、大丈夫?」
 代表して華琳が訊ねるが、ぱくぱくと口を開くだけで、答えはない。月が慌てて水を汲んで持ってくるのを受け取って、華琳は人和たちに場所を譲ってもらい、水を飲ませようとする。
「しばし……お待ち、を……」
 稟は華琳の動きを避け、天和たちの手からも離れて体を起こした。その途端、胸に灼熱を感じ咳き込んだ彼女の口から吐き出されたのは、暗い色をした血に他ならない。
「稟っ」
「水を……」
 竹筒を受け取ろうとする稟に対して、華琳はあくまで彼女を抱き寄せようとする。だが、稟は淡く微笑んだ。
「汚れ、ます」
「愚か者! 忠臣の血を汚れと思う王がいるものか!」
 稟の抵抗などものともせず、彼女を抱き寄せて、竹筒を口元にあてる華琳。稟はむさぼるように水を飲み込み、ついに全て飲み干してしまった。
「出来れば、もう、少し……」
 先を争うようにいくつもの竹筒が出される。それを見て、さすがに華琳は苦笑を浮かべる。
「さすがにそんなにはいらないわよ、ねえ、稟」
「ええ」
 稟も力ないながらも爽やかにそう言うのだった。

「一刀殿の夢からはじき出されました」
 ようやく呼吸が落ち着いたところで、稟は華琳に説明を行う。外れた眼鏡は戻したものの両者共血にまみれたままなので、まるで戦場のようであった。
「そう、あとは風と一刀だけだというのに……」
「風が目覚めていない? そんなはずは……」
 稟からの視線が届くように、武将たちが場所を開ける。その先に確かに寝台で眠り続ける一刀と風の姿があった。
「これは……風を利用した罠を仕掛けていたか」
 その事実を確認してがっくり、と肩を落とす稟。その拳がぎりぎりと握りしめられて、色を失うほど。
「申し訳ありません、これを予想できなかった私の落ち度です」
「莫迦言わないで。あなたがいなければ、誰一人目覚めることは出来なかった。罪は全てこの呪いをかけた者自身にある。あなたが自分を責めるなんてお門違いもいいところよ」
 同意のさざなみが流れる。この場にいる誰もが、稟の尽力を認めて、感謝していた。彼女を責めることなど、誰一人許しはしないだろう。
「それで、これからどうするべきかしら? 私たちが出来ることなら、なんでもするけれど。まずは稟の体調を戻すのが先決かしらね」
 主の言葉を吟味するように稟は考え込んでいたが、その顔が上がった時には彼女の面貌には決意が充ち満ちていた。
「いえ、急ぐ必要があるでしょう。時間をかければ、より強固になるは必定。しかし、いまですら、私だけでは足りません」
 郭奉孝は、まさに血を吐くように、言葉を吐き出した。
「……阿喜に頼ります」


「袁家のお二人を見ればわかるとおり、血縁というのは強い。呪術の世界でもどんな象徴より重視されると言っていいでしょう。しかも、一刀殿は阿喜の名付け親でもある。名前と血、なによりも強い絆をもってすれば、再び一刀殿の夢に接触できるものかと」
 血のついた衣服を取り替えた稟は、誰に問われるともなく、そう説明を行う。そのこと自体、自分を納得させるためであろうとは思っても、その事を口に出す者はいない。
 そして、阿喜を抱いた紫苑が現れた時、その隣には同じく木犀を抱いた桂花の姿があった。
「私は、阿喜を、と」
 驚いて声をうわずらせる同輩に、桂花は一つ肩をすくめてみせる。
「一応、あんなんでも木犀の父親だしね。あんまり認めたくないけど……。それに、一人より二人のほうが負担もないでしょ」
「その通り、戦力は集中させねばな」
 後ろから声をかけるのは、自らの娘を抱いた桔梗。その豊かな胸にきゃっきゃと戯れる千年をあやしながら、彼女は進み出る。
「あら、桔梗も連れてきたの」
「千年も父を呼びたかろうと思ってな」
 二人の母親を、もう一人の母親は呆然と見返すしかない。
「あなたたちは……」
 そこへ、華琳が静かだが鋭い声をかけた。
「稟」
「はっ」
「まさか、郭奕を死なせるようなことをするつもりだったわけではないでしょう? 名付け親の一人として、そんなこと許さないわよ?」
「ええ、それは。たとえ私が死のうとも、阿喜にそのようなことはさせません」
 主の叱咤に、自分も死ぬつもりなぞありませんが、と稟はようやくいつもの自信に溢れた笑みを取り戻す。
「ならば、木犀や千年にもそこまでの負担はかからないし、より一刀に近づける。違う?」
「その通りですね」
 稟はすぅと大きく息を吸うと、まっすぐ背を伸ばした。
「これより、風と一刀殿を取り戻しに参ります」
 彼女ははっきりと、そう宣言した。


 10.終焉


「子を奪われた母がいたとします」
 彼女は、確かめるように問いかける。
「そうですね、賊では死んでしまっていることが多いので、奴隷商人にでも捕らえられたとしましょう」
 諭すように、語りかける。
「母はその子が生きていることを知っている。ならば、母はどうするでしょう?」
「そりゃあ……行方を突き止めて、出来れば取り返そうとするだろうな」
「その通り。その母は必死で子を取り戻そうとするでしょう。いかなる手段を使おうと、どんなに自らを傷つけようと」
 にぃ、と彼女は笑う。一刀はその笑みを不吉なものと見た。
「あなたは先ほど、夢の中の世界はどうなるのだろう、と仰りましたね」
 唐突な話題変換に違和を覚えつつも、彼は首肯する。
「消えるのですよ」
 吐き捨てるような言葉は、あまりに彼女の印象とは違っていて、一瞬彼はそれを認識できなかった。
「……なに?」
「消えるのです。なにも残さず、誰にも省みられることなく」
 小鳥のさえずりのように、軽やかに歌うように、彼女は言う。
「その夢の主人公を奪われて、夢は死に絶えていくのです」
 笑みを刻むその唇のなんと赤いことか。眼鏡の奥から見つめる瞳の、なんとおぞましいことか。
「それは当然でしょう? 物語の主人公を失って、その物語が生きていけるはずがない。もしそれが続くとすれば、それは、新生した別の物語なのですよ」
 当たり前のことのように、理解しがたい事を語る。その姿に、一刀は戦くしかなかった。
「終端から再び始まるのならば、それすなわち、突端ならば」
「……誰だ?」
「はい?」
 ほとんど彼女の言葉を無視して、彼は問いかける。
 愛しい人の姿を持つ、何者かに向かって。
「お前は誰だ?」
 その言葉に、彼女は笑った、からからと吠え猛るように笑うその声が、彼の頭を揺らす。それは、とてつもなく不快な体験であった。
「誰でしょうねー?」
 ゆらり、と陽炎のように揺れる。かつて、何度も彼が見たように、幻だと断じた時のように、彼女の姿はゆらめく。
 そして、そこに代わって現れるのは、人形のようなものを頭にのせた、茫洋とした雰囲気を漂わせる背の低い少女の姿。ご丁寧に棒つきの飴をなめている姿は、見間違えようのない程cこと風のもの。
「なっ」
「実は、風は風に見えて風であり、稟ちゃんでもあるのですよー。そして、華琳様であり、凪ちゃんであり、真桜ちゃんであり、霞ちゃんだったりもするのですよー。おにーさんのアニマといえばわかりやすいですかねー?」
「あに……ま?」
「誰にでもなれますよー? やっぱり華琳様がいいですか? それとも雪蓮さん? ああ、まだ手を出していない星ちゃんとかどですかねー?」
 違う、これは風じゃない。風はこんなあざけるように人をからかわない。彼女はもっと……。
「ええ、わかりますよー。もっと優しくしてほしいんですよねー。毒の中にも優しさを。でもね、残念。夢だったんですよ、おにーさん。おにーさんの活躍もなにもかも夢」
 その言葉は、北郷一刀の胸を打ち抜いた。
「ゆ、め……」
「ちょっと寂しいけど、現実はなかなかに厳しいのですよ。それでいいじゃないですか」
「だいたい、にーちゃん一度諦めたんだろ? それが順当。常識ってもんよ」
「そもそも、三国志の武将たちを女に変えた世界なんて……あると思いますか、おにーさん」
 くふくふ、と笑いながら、彼女は続ける。そう、程cは男のはずだ。曹操も、それを支えた武将たちもまた。
「こうして話してるのも、幻に過ぎないと、心の底ではわかっているのではないですか?」
 一刀は答えられない。その不安がないと、彼には言い切れなかったから。
「そして、これも夢なんですよ。だから、ちゃんと目覚めてください、おにーさん」
「目覚める先は……現実か」
 しかし、どの?
「そですー。風も稟ちゃんもいない、本当の現実」
 風が腕を振る。それに応じたように、彼らの傍に、イブの町並みの中から幾人かの人物が寄ってきた。
「及川? 不動(ふゆるぎ)先輩!?」
 それは彼にとっては懐かしいとしか言いようのない人達だった。学友であり、先輩であり、後輩たちの姿。
「かずぴー、なにしてんねん。はよ帰って来」
「北郷。血迷うでない。おぬしのいるべき場所はここであろう」
 彼らは口々に彼に呼びかける。それは、華琳たちや、稟の呼びかけとどれほど違ったろうか。
「かずぴー、心配せんでええ。一晩ぐっすり眠ったら、なんもかんも元通り。明日はクリスマスや。寂しい同士、ケーキでも食うか?」
 及川が学生時代と変わらぬ笑顔でそうのたまう。そうだ、こいつはクリスマスやバレンタインのイベントの度に彼女を作ろうとして、最初はうまくいくのに肝心のイベント当日にはふられていたんだっけ。
「ええ、なにもかも元通りですよ。あんな外史はなかったことになっておしまいですよー」
 何人もの人達が、彼の親しい人々が彼を取り囲む。肩を叩かれたり、あるいはただ言葉をくれたり。そのことに何とも言えない暖かさを感じながら、一刀の思考のどこかは、しっかりと醒めきっていた。
 ひっかかる。
 夢でもいい、幻想だろうといい。
 だが、それ自体が矛盾しているのは、どういうことだろう?
 そのことに気づいた途端、彼は大声で笑い出した。周囲の人々がぎょっと動きを止めるほど強烈な笑い声が、イブの空に消えていく。
「ありゃ、おかしくなっちゃいましたー?」
「はっ。そんなわけないだろう」
 風を装った何者かが焦るように言うのに、楽しそうに答える。その顔は、評議の場でまさに風や稟を相手に論陣を張る時のように冴えて澄み切っていた。
「ちょっと迂闊じゃないかな?」
「えー?」
「突端だとか外史だとか。これが夢だというのなら、そもそもそんな話を出す必要がどこにある? 幻想で押すか、外史でいくか、決めておくべきだったんじゃないか?」
 彼女は答えない。飴をがじがじとかじりながら、ただ、ねめつけるように彼を見上げてくる。その沈黙こそが雄弁に語っていた。
「あるんだろ。あの世界も。ここと同じように」
 ここが夢だというのも眉唾だ。幻だというなら、及川や不動先輩こそが幻であろう。そもそも、高校時代と変わっていないなんてことがあるか? そして、いま、まるで動かずに二人の会話を聞いているのはなぜだ?
「あの人に言われたことを思い出したよ。俺があの世界に戻ることで、この外史は消えるかも知れないってね」
 はぁ、と贋の風と宝ャが揃って肩を落とす。
「おにーさんは頭の回転がよすぎですねー。そです。おにーさんが要なんです。唯一の主人公というわけではありませんけれど、おにーさんがいないと保てない、そういう外史なんですねー、ここは」
「だが……」
 とてつもない重責を負わされた一刀は、なんだか現実感がないままに、問いを重ねる。ここで訊いておかなければ、彼は再び混乱の中に落ちてしまいそうだった。
「あちらはどうなる? 華琳たちの世界は」
「気にする必要がありますかねー?」
「……消えるんだな」
 暢気な答えに、彼は確信するしかなかった。否定ですらないその答えは、肯定と受け取るしかない。
「俺が戻らなければ、あちらも、消えてしまうんだな」
「……おにーさんは関わりすぎましたからね」
 でも、と明るい声で彼女は続けた。
「あそこは、元々華琳様が死ねば、衰えて自然消滅するさだめなんですよー。こちらとでは話が違……」
「違わないっ!」
 彼女の言葉を遮って、彼は叫ぶ。思いの丈を込めて、彼は愛する少女の姿をした者にたたきつける。
「あちらの人口は、いま、一億か? 二億か? 数は問題じゃない。いま、こちらにどれだけの人がいようと……」
「六十八億ですねー」
「……なに?」
 関係ない、と言い切るにはあまりに凄まじい数字であった。
「約六十八億。正確に言えば、六十七億九二〇八万九二七一。ああ、いま三人生まれて一人死にました」
 一刀はまじまじと、飴をなめ続ける少女の顔を見つめる。その表情がまるで変わらないのを受けて、彼は空を見上げるしかなかった。
「ああ、華琳。雪蓮。二人の決断の重みが、いま本当の意味でわかったよ」
 暗い空は答えてくれない。イルミネーションの光に侵された空では、天命を示す星すら見えない。
「考えるまでもないでしょう。家族も友達もこちらにはたくさんいるんですよー。対してあちらは帰らないでもすぐさま消えるわけじゃない。華琳様という主人公がいる以上、おにーさんの存在は必須であっても、絶対ではないのですよー」
 だが、それでも。
 それでも、華琳が死ねば、消えるのだという。
 しかし、六十八億だ。六十八億の人生を、彼一人が左右できると……。
『おぎゃー』
「なんだ?」
「はい?」
 その声は、空気を伝って聞こえるのではなかった。
 その声は、耳を通して聞こえるのではなかった。
『おぎゃっ、おぎゃっ、おぎゃーーーーー』
 それは、彼の体を震わせて聞こえてきた。
 あれは、千年。少し最後をのばすのが癖。
 これは、木犀。控えめながら、リズムよく泣き続けるのが特徴。
 そして、その二つを支えるように聞こえるあの元気な声は、阿喜の泣き声以外のなにものでもない。
 赤ん坊の泣き声は悲しみの声ではない。
 それは、呼びかけ。
 母を、父を、庇護者を求めるただ一つの欲求充足手段。
「あの声が聞こえるか?」
 聞こえるわけがない。この外史に所属しない者の声が、目の前の存在に聞こえるはずがない。そのことを半ば確信しながら、彼は訊ねた。
 案の定風の姿をした『それ』は、戸惑うばかりの風情。
「すまない。俺は、阿喜たちの父親なんだ」
 一刀の声に周囲が途端にざわついた。
「一刀!」
「かずぴー!」
「北郷!」
 かつて親しかった人々が口々に呼びかける声は、体の芯を振るわせない。血のたぎりを呼び寄せない。そこに流れるのは、子供たちが懸命に彼を呼ぶ声だけだ。
「そして、華琳や風や稟たちが大事なんだ」
「ああ……」
 風の姿が霧に包まれる。及川が、不動先輩が、かつての学友たちや会社の同僚が白い霧に包まれて、風巻くように、一カ所に集まっていく。
「そちらを選んだのですね」
 そして、その霧は、最初にそこにいたはずの稟の姿に結実する。
「悪鬼と誹られ、修羅と罵られようとも」
 彼女は穏やかな笑みを浮かべた。辛そうに、悲しそうに。けれど、どこか仕方ないというように。
「ならば、これも一つの結末」
 彼女は大きく腕を広げる。抱きしめるように、受け止めるように。
「せかいの、おわり」
 あどけない少女が、始めて見たものを評するように、彼女は唱える。
「消えていく。ニューヨークが、ロンドンが、アレクサンドリアが、ハノイが……」
 消えていく。
 全ての命が。
 全ての思いが。
 ありとあらゆる希望も。
 いかなる種類の絶望も。
 不幸も幸福も安らぎも苦痛も後悔も愛情も憎悪も憐憫も無関心も怒りも飢えも満足も悲しみも野望も決心も覚悟も誓いも苛立ちも酩酊も。
 明日への願いも。
 全ては途切れ、ここで朽ちていく。
 死よりもむごい運命へとたたき落とされていく。
 完全なる消滅。
 生きていたという証も全て消え去って。
 その数、実に6,792,089,274人。
 六十八億の夢を踏みにじり、
 六十八億の命を贄として、
 六十八億の魂を背負い、
 彼は往く。
 全ての罪業を負って、北郷一刀は往く。

 その時、世界の多くの人々はクリスマスを祝い、新年の歓びを祝っていた。
 妙なる歌声が、天へ登っていく。

Glorious now behold Him arise,
King and God and Sacrifice;
Alleluia, Alleluia,
Earth to the heavens replies.

Star of wonder, star of ni-ight,
Star with royal beauty bright,
Westward leading, still proceeding,
Guide us to Thy perfect light.

 消えていく。
 その歌声も。
 救い主に捧げる祈りも。
 その全てが砂のように崩れ去っていく。

 そして、ただ一つのクリスマスの奇蹟は、いま、ここに。
「一刀殿! お手を!」
 空間を断ち割って、彼女は現れる。栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。黒手袋の腕は、彼を目指して限界まで伸ばされている。
「稟!」
 彼はその腕をがっちりとつかみ、しっかりと指と指を絡ませ合ってから、背後を振り返った。
「あなたをなんと呼ぶべきかな」
「この姿を借りた女性の名で呼べばいいでしょう」
「じゃあ……」
 少しためらって、彼は言う。
「さようなら、稟」
 本物の稟の手をしっかとつかみ取りながら、彼は言う。
「ええ、さようなら。お行きなさい。ただ、願うのは、私たちを忘れないでくれること」
 『それ』は、本当に透明な表情を浮かべた。
「私たちの呪いをどうぞ、北郷一刀。私たちの祝福をどうぞ、天の御遣いよ」
 笑みではない。怒りではない。そこに浮かんだ表情は。
 それを呪いと言おう。
 それを祝福と名付けよう。
「胸を張って進みなさい。あなたの帰るべき場所へ」
「ああ」
 謝罪は出来ない。その必要がない。その意味がない。
 そして、許されない。
 彼は選んだのだから。
 だから、一刀は歯を食いしばり、漏れそうになる声を殺して、ただ繰り返す。
「さようなら」
 だが、ふと、彼はなにかに気づいたように、かすかに頬をつり上げた。
「そうか……そういうことか」
 そこに必死の形相の稟が手を引きながら語りかける。
「一刀殿、お早く。長引けば阿喜たちに負担がかかりかねません!」
「ああ、すまない、稟。でも一言だけ言わせてくれ」
 そうして彼は向き直り、深々と頭を下げた。
「さようなら。そして……ありがとう、母さん」
 かくして、天空より劫火が降ることもなく、大地が割れて地獄が現出することもなく、聖なる夜は終わりを告げる。
 永遠の、終わりを。



 それでも――。
「ただいま、みんな」
 物語は、再び紡がれ始める。


                  (『北郷一刀の消失』完)

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