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730 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/12/20(日) 20:56:42 ID:Ep3AXpri0
お久しぶりです。一壷酒です。
しばらくぶりの投稿ですが、いけいけぼくらの北郷帝番外編『北郷一刀の消失』前編をお送りします。
時系列的には、第二部北伐の巻第九回の後半、雪蓮と冥琳の死が洛陽に伝えられるしばらく前のお話
です。世間的には冬真っ盛りですが、作中では夏ですw
第三部への橋渡しとして、一刀さんの一人称では描けない物語を挟んでみました。
楽しんでいただければ幸いです。

◎注意事項
・魏ルートアフターの設定ですが、一部、二部と進んできておりますので、まずは、そちらをご覧
いただけると幸いです。今回は番外編ですので、普段とも雰囲気が違います。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・恋姫キャラ以外の歴史上の人物等に関しては、名前の登場はあるものの重要な役割はありません。
・呉勢以外の一刀の子供が出てきます。
・Up板にてメールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでもお気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL →  http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0451

後編については、予定日を確実には言えない状況ですが、なるべくはやめにお送りしたいと思います。
では、またお会いしましょう。



いけいけぼくらの北郷帝 番外編
   北郷一刀の消失[前編]



 1.東京


 もう今年も終わりか。
 街中に溢れるイルミネーションを見上げ、人通りの少ない街路を歩きながら、北郷一刀は独りごちる。いまはまだクリスマスの飾り付けだが、もう少しすれば新しい年を祝うものにマイナーチェンジすることだろう。いずれにしても華やかで、きらめいた夜は続く。
 そういえば、このところ星をあまり見ていないな。彼は闇を退けるように輝く飾り物の星を見つめながら、そんなことを思う。東京の空は明るすぎて、星を見るのには向いていない。
「洛陽では……」
 思わず口にして、その内容よりも、吐いた息の白さに驚く。周囲の誰も彼を注視していないことを確認し、それから、彼は一人、頬に笑みを刻んだ。
 皮肉げに、寂しげに。
「莫迦だな、俺は」
 さっきより、少し足を速める。
 吐いた言葉自体に、おかしな部分はない。なぜなら、彼は河南省洛陽市に行ったことがあるのだから。
 夢の世界ではなく、この現実で。
 それでも、気をつけないとな。
 今度は心の中で呟く。
 変なことをぶつぶつ話していると会社の同僚に噂でもされたら大変だ。奇人扱いならまだいいが、精神に問題があると疑われたら大事になる。
 現在でも日本社会では、精神の病に関しての風当たりが厳しい。出世できないくらいは覚悟しているものの、馘首されるのは困る。
 そして、彼がそうやって危惧するには根拠があった。
 彼には精神科への半年の入院歴があるのだ。しかも、それを偽装している。
 田舎のことでもあり、彼の親族の力によって、精神科ではなく肺結核で隔離されていたということにカモフラージュされたのだ。
 就職時、それが問題視されなかったのは幸いだった。現実、問題となるのは偽装のほうだろうが、偽装がされておらず、一年間の大学休学期間の原因が精神科への入院だったと明らかだった場合、それなりの商社であるいまの会社に入れているのか、そのあたりは彼にもわからない。建前と実情が乖離しているのはいつものことだからだ。
 はたして、親族が自分のことを思ってくれたのか、それとも一族の外聞そのものを気にしていたのかは、この際関係のないことだ。
 とはいえ、精査されればその程度のごまかしはすぐばれてしまう。入社三年目の若造相手に会社がそこまでするかどうかはわからないが、気をつけるに越したことはない。未だ不況の影は色濃く、無駄な従業員を雇っている余裕など、どんな大企業にもありはしないのだから。
 でも、あの夢のおかげで、いろんな技能を身につけようとしていたのは、いい影響だったかもしれないな。大学時代さっぱり遊べなかったけど……。
 駅に近づき、さすがに人通りが増え始めたので、ペースダウンする一刀。
 彼は、大学時代のほとんど――一回生後半からの、『結核』による休学時期を除く――を、学業とバイトと語学などの勉強に費やした。
 バイトは。資格学校や語学学校に通ったり、夏期休暇中の短期留学に行ったりするための費用稼ぎであり、それで作った資金で彼は手当たり次第に学んだ。
 おかげで中国語にも英語にも堪能になり、専門的なものから雑学まで、かなりの知識を得た。まだまだ買い手市場だった就職を乗り切れたのは、それらの知識や経験のおかげだったと言っていい。勉強はしたものの、余計な資格を取っていなかったことも有利に働いたのは皮肉なものだ。
 必死でそれを得ようとしていた動機は、いまの彼からすれば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないものであったけれど。
 そんなことを考えていたからだろうか。
 駅の明かりの下に入った時、改札の向こうに一人の少女の姿を、彼は見た。
 栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。大きめの縁なし眼鏡をくいと上げる黒手袋のその仕草。なによりも、真剣でただひたすらに物事を見極めようとするようなその凛然とした表情。
 街を歩いていれば、目を引かずにはいられないような美少女が、そこにいた。
 だが、彼女を見ているのは、彼一人。
 彼一人、なのだ。
「お前は、幻影だ」
 コートの中の定期券を探すふりをして立ち止まり、少女が向けてくるひたむきな視線をにらみ返す。怒りとも悲しみともとれる真剣な表情を浮かべ、ぎりぎりと歯を食いしばる一刀。
「幻影、なんだ、稟」
 声になっているのかいないのか、本人もわからない呻きをその少女の姿に向ける。
 すると、一瞬、その顔に悲しそうな表情を浮かべると彼女の体は透け始め、ゆらゆらと陽炎のようになって消えていった。
 ふう、と一つ息をつき、定期入れを取り出す。
「さて、さっさと帰るか」
 終電とは言わないが、いまから電車で帰ると、彼の住む地域のバスはそろそろ終わってしまう時間だ。ぐずぐずしている暇はない。
 彼はもう一度頭を振って先ほど見たものを振り払うと、駅の改札へ向かうのだった。


 2.魏都洛陽


 目を覚ますと、涙を流していた。
 寝台の上で体を起こし、濡れた頬に触れる。確かに濡れていることを確かめてから、魏の覇王曹孟徳は儚げな笑みを浮かべた。部屋の入り口の気配を感じ取り、掛け布で軽く顔を拭う。
「あ、華琳様。起きていらっしゃいました? おはようございます。お湯持ってきましたー」
 言葉通り、湯気をたてる桶を手に持って部屋に入ってきたのは、親衛隊長の一人である季衣だ。昔のころころとした子供っぽさはすでになく、すらりと伸びた背は華琳の身長を超え、季衣自身のあこがれの対象である夏侯惇――春蘭に近づこうとしている。背と同じように女性らしく成長した体つきを見ると、彼女の主である華琳は、ほんの少しだけうらやましく感じる。ほんの、少しだけ。
「おはよう、季衣」
 洗顔のための湯を持ってきてくれた彼女に朝の挨拶をして寝台から下り、身支度を調える。
 服を用意して差し出してくる手つきも、以前に比べてだいぶしなやかになった。元気さは相変わらずだが、それを動きには表さない術を、この親衛隊長は確かに学んでいた。
「あなたも、大きくなったわね、季衣」
「そ、そうですか? あははー」
 照れているのかしきりに笑い声を上げる季衣に、ふと訊ねる。
「成都攻略から……何年だったかしら、季衣?」
「ええっと、成都を落とした時って一度目のですか? 二度目のですか?」
 ああ、そうだった。成都は二度陥落したのだった。他ならぬ、この自分の手によって。
「一度目からだと?」
「えっと、八年です。二度目からだと三年ですね」
「そう。では、一刀が消えてから、もう八年か」
 言った途端、季衣の顔からはあらゆる表情が消え、その体は一切の動きを止めた。
 それは、魏の王宮で最大の禁忌。
 あらゆる重臣たちが避け、全ての側近たちが忘れ得ぬ名。
 三国が平定された時、すなわち第一次成都攻略戦が終わった晩に天へと帰って行った、天の御遣いこと北郷一刀。
 一刀はもういない。
 あの晩、そう告げた主の表情を、季衣は一生忘れることはないだろう。おそらく、それは家臣たる身ではけして見てはいけない顔。幼い頃からのつきあいである春蘭、秋蘭の夏侯姉妹以外は、まさに北郷一刀しか見たことのなかったであろうそれを見てもなお彼女に声をかけられる者など一人もいなかった。
 そして、戦乱の時を共に駆け抜けた男、彼女たちが愛した北郷一刀は禁忌となった。
 だから、その名前が出た途端硬直してしまうのはいたしかたないことだった。淡く微笑む華琳の姿を見て、ようやく、季衣は動くことができるようになる。
「そ、そうですね。兄ちゃんが……いなく、なって、ひっく、から」
 言葉を紡ぐにつれて涙声になるのは抑えようがなかった。気づけば、華琳の腕の中に飛び込んでいた。ふんわりと受け止められた腕にすがりつき、胸に顔を埋めて、わんわんと涙を流す。
「ごめんね、季衣」
 頭をなでる手はとても優しい。かけられる声もまた。
 けれど、季衣はそのせいで、余計に泣きたくなってしまうのだった。その手の持ち主もまた、心の中で涙を流していることを知っているから。
「これまで泣かせてあげられなくて」
 季衣は我慢できずに、華琳の体を強く抱きしめて、さらに声を上げ続けるのだった。

「落ち着いた?」
 ひとしきり泣きわめいた後で、虚脱したように寝台に倒れ込んでいた季衣の視界に、ひょいっといった感じで現れる金髪の主人。季衣は、その時、自分が華琳の寝台を勝手に占領していることに気づいた。
「あ、す、すいません」
「いいのよ。ほら、朝食を持ってきてもらったし、食べましょう」
 彼女の言葉通り、いつの間にか卓には食事が山盛りだ。それに眼を輝かし、いそいそと椅子に座る季衣。未だに彼女の健啖家ぶりは衰えていないのだった。
「それにしても、急にどうしたんです? 華琳様」
 二人で食事に手をつけながら、口に美味しい餃子を運ぶ合間に訊ねる。あまり掘り返したくはないが、何事かあったのなら、聞いておかなければならない。
 それに対する華琳の答えは明確であり、謎めいてもいた。
「夢を見たの。夢を……ね」
 それ以上、彼女は何も言おうとせず、そんな時に訊ねるのが無意味と知っている季衣は黙り込んで食事に集中し、それでその話は終わりとなった。


 3.帝都洛陽


「ん……?」
 竹簡に書き留める手を止め、翡翠色の髪をした少女は呆然としたように顔を上げた。普段はきつめに結ばれている口元が、何事か言いかけたようにゆるんでいる。
「えっと……」
 筆を置き、眉間をさする。その表情がみるみるうちに険しくなっていく。
 彼女自身にもさっぱりわからないのだが、いま、自分がなにを書いていたのかわからなくなったのだ。そもそも、なんで自分はこんなところで、書き物をしているのだろう。
 見回せば、そこは彼女の執務室だ。うず高く積まれた書物と書類に囲まれた、彼女の城。
 洛陽の城内の一角、見慣れた風景……のはずだ。
 それを確認しても、なんだか現実から遊離したような感覚が取れず、仕方なく彼女は自問自答する。
 ボクは誰?――漢の尚書令、賈駆。字は文和、真名は詠。
 いまはなにをしている?――目下の懸案事項、反董卓連合の対処。
 よし、大丈夫。
「なんだったのかしら。めまい?」
 言いながら、座っていた椅子から立ち上がる。ゆっくりと体を伸ばすと、機嫌のいい猫のような声が漏れ出てしまう。
「うーん」
 少し歩くことにしようか。仲間たちに色々と話をしなければいけないというのもある。
 詠は髪と服を整え直し、墨と筆をしまって、廊下に出る。しばらく行ったところで、誰かを捜しているのかきょろきょろとあたりを見回している女性がいるのを見つけた。胸に巻いたさらしと袴の上に羽織をひっかけただけという簡素な格好だが、その均整のとれた女性らしい体躯も相まって、なんとも言えない色香と迫力を醸し出しているその女性こそ、張文遠。彼女の仲間であり、頼れる武将だ。
「霞」
 その女性の真名を呼ぶと、ん、と少女のほうを向き、ほっとしたような表情になった。
「ああ、ちょうどよかったわ、賈駆っち。華雄が自分も出せってうるさいねん。どうにかしたって」
 とてとてと軽い歩調で寄ってきて、いきなり切り出す霞。詠はそれに呆れたように手を振って答えた。
「だめよ。あんな猪、関を守る将として派遣できるわけないでしょ。月の護衛と洛陽の守備じゃ不足かとでも言ってやりなさい」
「いや、もちろん、華雄かて月っちや帝を護るんはそれはそれで栄誉に思ってると思うで。ただ、ほら、武人っちゅうのは戦いがあれば……」
 わかるやろ? と目線で訴えてくる霞。実際、彼女もうずうずしているのだろう、と詠は当たりをつける。
 しかし、実際のところ、いまはまだ華雄や霞まで出す段階ではないのだ。それよりも、これ以上兵を集める時間がない以上、いま居る兵を鍛え上げてもらわないと困る。
「それはわかるわ。でも、決戦はまだ先。まずは恋たちに任せるべきよ。あちらも呂布と見れば本格的には来ないし、そんなところに行っても華雄だって望んだ活躍はできないでしょ」
「まあ……理屈はわかるんやけど……」
 名にし負う張文遠がもじもじと居心地悪そうに呟く姿を見て、詠は深くため息をつく。お手上げ、という風に手を広げ、次善の策を取ることにする。
「わかったわよ。ボクが直に説得するわ。ああ、あとあいつも呼んでおいて」
 そう言った途端、霞の目つきが鋭くなり、身を乗り出して耳打ちしてきた。
「開かれた場所で『あいつ』はあかんとちゃうか」
「はいはい。じゃあ、皇兄陛下をお呼びして」
「呼んだか?」
 背後から響く男の声に、詠は自分の心臓が跳ね上がるのを感じたように思った。
「うわっ。どっから出てくるのよ。脅かさないで」
「はいはい。ツン子ちゃんは厳しいなあ」
 振り向いてみれば予想以上に近くに立っていた青年が、詠が言ったのとまるきり同じ口調で、はいはい、といなしたのを、彼女自身は気づいていただろうか。
「ツン子言うなっ」
 詠は少し背伸びして、その男の額を指で弾く。ばちんっ、といい音がした。
「いだっ」
 額を抑えてうずくまろうとする青年は、真白く、きらきらと輝く衣服を身に纏っている。天から下されたというその衣服に袖を通せるのは、広い天下でもただ一人。前代の皇帝、廃帝弁こと弁皇子その人だ。現在では、皇兄陛下、と呼ばれることも多い。
 だが、そんな仰々しい肩書きと、彼女たちの前で痛みに悶絶している青年を結びつけるのはなかなかに難しい。彼はたしかにそれなりに整った顔立ちをしていたが、貴種の発する威厳や堅苦しさとはまるで無縁だったから。
 とはいえ、間違いなく彼は弁皇子であるのだ。
 ――少なくとも表向きは。
「ともかく行くわよ。ったく、なんでか知らないけど、あの猪武者、あんたの言うことなら少しは聞くんだから。ほら、はやく」
「え、どこ行くの? ちょ、ちょっと詠〜」
 痛みから回復する間も与えられず、彼は袖を引っ張られ、歩き出すことを強制される。それに対する抗弁は端から無視された。
 ぎゃーぎゃーわーわーわめきつつ進む二人の後を追いながら、霞は楽しそうに呟くのだった。
「相変わらず仲ええこっちゃ。あれで気づいとらんあたり、罪作りやなあ、かずっち」


 4.国難


 磨き上げられた硬木が敷き詰められた廊下に、規則正しく靴音が響く。夏のはじめとはいえ、王宮の奥深くには、その暑さも忍び込んでは来ない。ひんやりと静まりかえった中を、人の歩む音だけが響き渡る。
 せわしなくはなく、かといってのんびりと言った風もなく、ごくごく几帳面に一定の間隔でその音はいくつもの廊下を通り過ぎていく。
 そして、いくつかの扉を通り抜け、最後にひときわ大きな扉の前に至って、ぴたりと止んだ。
 その後、しばらくはなにも音を立てることなく、その少女は扉の前に立っていた。
 栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。大きめの縁なし眼鏡に触れる黒手袋に包まれた指は、少々力ない。なによりも、ひっしと前を見る鬼気迫る表情が、彼女の余裕のなさを表していた。
 この曹魏を代表する三軍師の一人、郭嘉こと稟は自らを戒めるように、きゅっと唇をかみしめると大きく息を吸った。
 ふぅ……。
 小さく息を吐き、扉に手をかける。音も立てず開いていくとはいえ気配を感じ取ったか、室内の人間の視線が来訪者へ突き刺さる。
 見つめる眼は七人分。
 曹操の筆頭軍師桂花、同じく軍筆頭の春蘭、郷士軍の長である凪、呉から大使として派遣されている思春、これも蜀からの大使弓将紫苑、いまは名を変えているがかつては董卓と呼ばれた月、同じように名を変えて黄権と名乗っている祭。
 全ての視線が何かを求めるように彼女を射ている。
 だが、室内にある人影はそれだけではなかった。
 並べられた寝台に横たわるのは、曹魏の三軍師の残る一人である風、美羽と麗羽という二人の袁家の主、白馬長史こと白蓮に、月の親友であり西方の謀士と謳われる詠。西涼の錦馬超こと翠。
 そして、この国の王にして、漢の丞相曹孟コこと華琳と、その盟友にして天の御遣い、北郷一刀。
 八人もの国家重鎮が揃って床についていた。
 もちろん、尋常な眠りではない。
 去ること三日前、涼州から帰ってきた美羽と七乃の主従をねぎらうために行われた宴の終わり頃に、八人は一斉に意識を失ったのだ。一人、二人なら酔って寝てしまったで済む話だが、これだけの人数で、しかもその中に曹魏の主が入っているとなればただ事では済まない。
 即座に医者が呼ばれたものの、呼ぶ医者呼ぶ医者が、全て同じ答えを返した。
「皆、眠っておられます。ただ、起こすことが出来ません」
 と。
 そうして、出席者全員に箝口令が敷かれ、医者たちは王宮内に軟禁された。
 それから彼らは眠り続け、いかなる刺激――たとえば、桂花が一刀を踏んづけてみたり――によっても目を覚ますことはなかった。
「これだけ集めるなんて、なにかわかったの? 稟」
 猫耳頭巾の軍師が物憂げに問いかける。いまや、魏の国政を一手に引き受ける身となった桂花は、心労からか、純粋な疲労からか、かすかに青ざめた顔をしていた。
「ええ、少し。……それよりも、表の方はどうですか」
 一方で、主を含めた九人の昏睡を解く方法を探す役割を負い、書物の山の中に籠もっていた稟が訊ね返す。この役割分担に桂花は当初難色を示していたが、華琳が居ない状況で筆頭軍師まで姿をくらませたでは宮廷が立ちゆかない。
 実際、政治経済ではなく、雑学と言えるような類の知識に関しては大陸中を旅して回った稟のほうが上で、その意味で、この配役は適任であったろう。
「なんとかやりくりしているわよ。死にそうだけど」
 死にそう、というのは比喩でもなんでもない。主たる華琳、それを支える三軍師の二人がいない上、こういう時にそれらの穴を埋めるべき北郷一刀の仕事まで抱え込んでいるのだ。許容量を超えないほうがおかしい。
 実際に、桂花はいくつかの計画を一時停止せざるを得ないでいた。もちろん、そんなことを、他国の人間が居るこの場所で漏らす彼女ではない。
「北伐の軍は他の将軍たちで回している。蜀、呉勢は問題なかろう」
 こう答えるのは軍の代表である春蘭だ。彼女の視線はすでに稟を離れ、寝台の上の華琳に向かっている。ともすれば衝動的に揺り起こそうとする自分を押さえつけるように、体の前できつく腕を組んでいる姿は、普段の快活さを知っている面々からするとあまりに痛ましいものであった。
「呉は問題ないな」
 呉からの大使である思春が答える。壁に寄りかかり、首に巻いた布で表情を半ば隠している彼女は、部屋にいる全員を静かに観察し続けていた。
 呉は洛陽に駐在している三人ともが無事であった。かつて呉に所属していた祭もまた無事である。それをもって呉を疑う声は、未だ出ていない。
 だが、時間の問題であろう、と思春自身は考えていた。
 魏は愚か者の集まりではないが、主を危険にさらされて、いつまで冷静でいられるものか。
 己の心情を殺してでも、暴発の時を見定める必要が、彼女にはあった。
「蒲公英ちゃんが長安から戻れば、もっと楽になるのですけれど。西涼の兵や、白馬義従は昔のよしみで私たちに従っていてくれますが、長引けば……」
 翠の寝台の横に座っている紫苑が、蜀を代表して発言する。蜀もまた直接の被害は受けていないが、元々蜀にいた人間は三人も倒れている。彼女の曖昧な語尾が示す不安は、その部屋にいる誰もが共有しているものだった。長安の鎮西府に出向いている蒲公英にはすでに使者を立てているが、帰京にはさらに日数を要することだろう。
 気まずい沈黙を払拭するように、凪が普段通りの落ち着いた声を上げる。
「市井は特に問題ありません。噂になっていることもないようです」
「まだ三日とはいえ、動揺が伝わっていないのは喜ぶべきことじゃな」
 宮中でも極秘とされていることだが、人の口に戸は立てられない。ひょんなことから世間に悪い形で広まってしまうような事態は出来る限り避けたかった。
「ありがとうございます。では、私の報告に移りましょう」
 その言葉に、部屋の中の空気がぴぃんと張り詰める。皆の期待を込めた視線に怖じ気づくこともなく、彼女は懐から乾燥した草のようなものを取り出す。
「なんだ、それは」
「端的に言いますと、この香草が原因の一つかと」
 その言葉に息を呑む一同。その中で、一番早く反応したのは桂花だった。眉間に皺を寄せ、低い声で呟く。
「華琳様と北郷の毒味が両方とも見落としたの?」
 華琳の食事は、華琳自身か流琉、あるいは稀に月が作る場合以外は、常に親衛隊でもある流琉か季衣のどちらかが毒味をする。流琉は料理の知識で、季衣は食べる方の知識と動物的勘で毒をよく見分ける。彼女たちがいないときは、ずっと昔からしていたように春蘭か秋蘭がそれを行う。
 一方、北郷一刀の料理は彼つきのメイドが毒味をするのが通例であった。月は食事を作るのがもっぱらだが、詠は長年月の側に仕え、毒味にも慣れている。見分ける眼も確かなものだ。
 そのどちらもが見落とすなど、本来ありえないことである。
「へぅ〜」
「月殿。あなたが責められているのではありませんよ。そもそも、単体では毒ではありませんから」
「どういうことかしら?」
「これは、呪術に用いられる薬草です。もちろん大量にとれば害になりますが、食事に混入されたくらいの量では、倒れたりはしません」
 疲れたように言葉を吐き出す稟に、凪が応じる。
「あの晩の料理に入っていたなら私たちも食べているわけですし、たしかにそれだけでは華琳様や隊長たちだけが倒れる理由になりませんね」
「ええ。つまり、この草を触媒に、現在昏倒しておられる方々に対してまじないが行われているということでしょう」
 部屋の中に、沈黙が落ちる。いま聞いた話をどう消化すればいいか戸惑っているのか、ほとんどの者が目配せをしあっていた。
「そのようなこと……ありえるのか?」
 思い切って訊いたのは春蘭。彼女の場合、その話を疑っているというよりは、それでどうなる、ということに興味があるようだった。
「実際に、それを信じている者たちはいます。そして、この状況を見れば……効果もあるということでしょう」
「少し詳しく話してくれる?」
「ええ。これは私と風、それに星の三人で、当時白蓮殿の支配下だった地域の北端あたりに行った時に聞いたまじないによく似ているんです。昔のことですし、断片的な話だったので、私も思い出すのにだいぶかかりました」
 そこで一度眼鏡を直し、彼女は続ける。
「簡単に言いますと、人を深い眠りに落とし、そのまま夢の中に封じ込める術です。そのうちに体は萎え、最終的には死に至ります。ただし、ゆっくりと」
 誰かがほぅと息をつき、皆の視線がそれぞれに眠る人々の顔に向く。まだ三日目ということもあって、病み衰えた様子はないが、それも時間の問題だろう。水を飲ませるのも、食事を摂らせるのも眠ったままのこの状態では、不自由がつきまとう。
「公孫賛殿がかつて治めていたあたりというと……烏桓か」
「たしかに北方の民の流れを汲んでいると思われます。烏桓に恨みをもたれている白蓮殿も被害者の一人であり、どうしても結びつけがちですが、といって烏桓がしかけたと断定するのは早計です。金で請け負う類の者もおりますから」
 思春の推論の言葉がそれ以上進まぬうちに釘を刺す稟。結論に飛びつきたいのはわかるが、この呪いの話にしてもまだ推測の段階なのだ。変なところに飛躍されても困る。
「本来は、風がもっと詳しいのですが……正直、私は馬鹿馬鹿しい話だと思っていましたから、あまり詳しくは聞いていなかったのです」
 その言葉の端々に、悔しさがにじみ出る。そこに紫苑が音もなく近づいて、そのたおやかな手を肩にのせた。
「自分を責めるものではないですよ。星ちゃんはどうなのかしら?」
「……そうですね。いまはまず解決法を探さねば。星はあの折は烏桓に潜り込んでいたので、これについて聞いているとは思えませんが……耳ざといあやつのことですから、噂くらいは聞いているかもしれません。訊ねてみましょう。それと、張三姉妹が、道術の中になにか対抗するものがないか調べてくれています」
「そうね、書庫もいくらでも使ってちょうだい。私は手一杯でとてもじゃないけど手伝えないわ」
 言った後で、桂花は少し考えるようにうつむいて、覚悟したように顔を引き締めた。
「筆頭軍師として、風の部屋を探ることを許します。なにか書きつけでもあるかもしれないし。起きたらぶつぶつ言われるでしょうけど、文句は私が引き受けるわ」
 稟が感謝するように頭を下げる。そこに勢い込んで春蘭が口を挟む。
「我々も聞き込みに回ろう。まじないを仕掛けたやつを探すのも手だろう?」
「いえ、軍を動かすのはまずいわ。それよりも町中をよく知る凪たちに任せるほうがいいわ。これまで通りにね」
「はい、お任せ下さい。春蘭様」
「む、むぅ」
「あんたは、軍をまとめてるだけでいいのよ。こういう時に軍に動揺されたらたまらないからね」
 でも、華琳様がぁ……と少々情けない声を上げた後で、他国の者がいることを思い出したのか、慌てて居住まいを正す春蘭。さすがにそのことを笑う者はいなかった。
「……仕方あるまい」
 しゅんとした春蘭を他所に、皆がそれぞれに考えつくことを口にし始める。
「そうじゃ、華侘の居所は? 洛陽に顔を出す頃じゃと。いや、まじないというなら医者の領分ではないかもしれんが、あの華侘なら……」
「そうね。この間はいなかったのだけれど……探してみてくれる? 洛陽近くにいなかったら張姉妹を通じて漢中に訊けば、行き先の見当くらいつくでしょう」
「蜀、呉の大使方を通じて、このような症例についての話を蒐集してもらうよう各国に要請するのは」
「ふむ。そのあたり、大丈夫でしょうか?」
「承った」
「わかりましたわ」
 そうして、いくつかの提案が出され、役割分担が終わり、皆に解散の空気が流れ始めたところで、春蘭は視線を稟のほうへ向けた。
「ところで、稟よ」
「はい?」
「お前、この三日、寝ていないだろう。まずは休め」
 あら、と小さな声を上げたのは桂花だった。それを口に出すのか、という意味だろうが、それ以上は何も言わず、同じように稟を見つめていた。
「そういうわけには……」
「華琳様のことを思うのは私も同じだ。だが、お前にまで倒れられるわけにはいかん」
 そこで、隻眼の将軍は肩をすくめて見せる。
「そりゃあ、お前にわたしの体力があれば、四日でも五日でも徹夜できるだろうがな。こればかりはとりかえられんだろう?」
「そうよ、春蘭なんかと体を取り替えたら、頭の方まで引っ張られてだめになるわよ」
「そうそう、頭のほうも……って、おまえなぁっ」
 まぜっかえす桂花にくってかかる春蘭。その様を見て、稟は呆気にとられたようにしていたが、やがて小さく笑みを浮かべる。
「まあ、事実頭を働かせるためには眠りも必要じゃ。限界が来る前に体力を戻しておくのも肝要じゃと思うがいかに?」
「そうね。手分けできる部分は私たちもお手伝いするわ。阿喜ちゃんのお世話もね」
「我々に出来ることならなんでもお言いつけ下さい」
 口々に協力を申し出る面々に、最初は辛そうな顔を見せていた稟だったが、不意にまだじゃれている春蘭と桂花を見て、表情を変えた。
「ありがとうございます。悲壮ぶってもしかたありませんね。では、今日のところは阿喜の顔をみてから眠りをとることに……」
 そこまで言ったところで、唐突にぽすん、と軽い音がした。
 皆が音の出所に目をやれば、詠の寝台に寄りかかるようにして倒れ込んでいる月の姿があった。
「月ちゃん?」
 紫苑が駆け寄り、規則正しい息の調子を確認してから、体を抱き上げるようにして起こす。けれど、その間にも彼女の腕の中の月は一切の反応を示そうとしなかった。
「看病疲れ……?」
「いえ、違う……これは……」
 周りに集まった人々は、一様にぞわりと背筋がおののくのを感じずにはいられなかった。
「一番恐れていた事態です」
 詠の横に寝かされた月の体を子細に検分して、稟がそうして小さく震えた声を押し出したのはしばらく後のことだった。
 そして、彼女は告げたくもないことを、皆に告げねばならなかった。
「まじないが……感染し始めたようです」


 5.黄河のほとり


 こんもりとした丘の上。草が生えそろった場所に腰を下ろして、火を焚き、食事を摂っている一団があった。
 人数は六人。女性ばかりの中に、一人だけ男性が混じっている。
「しばらくは、この河水ともお別れかー」
 丘から少し北側には、雄大な河が流れていた。あまりにゆっくりで、水面が動いているのかどうかもよくわからないほど大きな河。皆はそれを眺めながら温めた食事をぱくついていた。
 そのおかげか、一行の中で一人、くるくると綺麗に巻かれた膨大な量の金の髪を持った、ひときわ目立つ華美な女性が、己の首筋をなでながら顔を青ざめさせていることに気づく者はいない。
「ここから先は、北に大きく曲がりますからねー」
「でも、いいの? 西にばっかり行って。たしか、南の楽園がどうとか」
「いいんですよー。だって、あんまり東から南に下ると、孫策さんたちの領地になっちゃうじゃないですか」
 白と青を基調として、そこに金の縁取りをつけたなかなかに派手な服を着た女性――張勲こと七乃と、きらきらと輝くぽりえすてるの北郷一刀が並んでいると、妙に光を反射して目立つ、と二人の会話を聞くともなく聞いていた猪々子は思う。だが、実際には彼女が主たちとおそろいで着けている金の鎧のほうがよほど目立つことに、猪々子自身は気づいていなかった。
「ああ、呉か……。そりゃだめだな」
「はい、だめですよー」
「でも、劉備さんたちのところだからいいってわけでもないんですけどねぇ」
「まあ、そのあたりはおいおいですねー。赤壁の大敗で、魏の支配も西の方はがたついてきてるって話もありますし、五斗米道の漢中は、それはもういいところみたいですから……」
 顔良こと斗詩のもっともな疑問に答えてそこまで言ったところで、あれ? と首をひねる七乃。
「えっと、お嬢様。孫策さんの名前を出しても怖がらなくなったんですね?」
 言われてひょいと顔を上げるのは、とろけた蜂蜜のような美しい金髪を持ったかわいらしい少女。張勲の主にして、袁家の主の一人、袁術、すなわち美羽だ。
「え? ああ、うむ。まあ、の」
 美羽の答えはなんだか上の空と言った風で、受けた七乃のほうはそれをまだ恐怖が残っているためと判断した。もっとあからさまに怯えてくれたらかわいいんだけど、なんだか意識が飛んじゃってるようだとつまんないなー、と彼女は臣下としてはあるまじき事を考えていたりするが、いつものことである。
「麗羽さま、もうお腹いっぱいなんですか?」
 斗詩がまるで食が進んでいない己の主に気づき、声をかける。手に持った焼き魚をぼうっと見つめる金髪の女性は、何か自分の中にあるものに夢中でいるのか、斗詩の呼びかけにも全く反応を返そうとしない。
「麗羽さま?」
「え、なにかしら? もう出発?」
 惜しげもなく手にしたものを放り投げ、立ち上がる麗羽。その様子にしばらくは何を言っても無駄と判断したのか、小さくため息をつく斗詩。
「あー、もう出発ですかー?」
 猪々子がそれに反応して、自分の荷物のほうへと寄り始めると皆も立ち上がり、周囲を片付け始める。斗詩はその様子に目を丸くしていたが、自分が問いかけたのがきっかけで動き始めてしまったのを了解したのか、慌てて皆と一緒に荷造りをしたり、火の始末をしたりし始める。
 そんな中、一番多くの荷物を抱え上げようとしている一刀の傍によって、ひょいと一つの小振りな背嚢を手に取る麗羽。それもまとめて持とうとしていた一刀は驚いて麗羽のその行動を見ていたが、さらに彼女がそれを背負い始めるのを見て、限界まで目を見開いた。
「ひ、姫が荷物を自分で持ったー!」
 猪々子たちも気づき、驚愕の叫びを発した。七乃などは空笑いの表情のまま固まってしまっている。
「あの、麗羽さま、どうかなさいましたか?」
「どうか? なにかおかしいかしら? たまには持ってみようと思ったまでですけれど。わがき……いえ、なんでもないですわ」
「そ、そうですかー」
「まあ、たまにはいいですよね、たまには」
 きっ、と強い視線で見つめられ、猪々子と斗詩の二人はごまかすように笑い声を上げる。気まぐれには慣れっこなだけに、あまり突っ込むと理由もなく不機嫌になることもよく知っているのだ。
「助かるよ」
 一刀のそんな声に、ふん、と一つ鼻を鳴らし、麗羽はさっさと歩き出す。準備の終わっていない皆がそれに慌てて続こうとする中で、一人、袁術だけが、従姉の背中をじっと見つめていた。
「……我が君、じゃと?」

 その夜、森の中での野営中、美羽は麗羽を連れ出した。一行の天幕を設置した場所から少し離れた大樹の元に袁家の二人は座り込んでいた。心配した七乃がついてこようとしたが、このあたりには獣も人もいないと顔文の武将二人が請け負ってくれたおかげで、二人きりになれたのだ。
「こんなところに連れてきて……髪に枝が絡むじゃありませんの」
 くるくるとまとめられた髪の中に入り込んでしまった葉っぱを取り除きながら、ぶちぶちと文句を言う麗羽だったが、美羽のほうは先ほどからずっと渋面を作り続けている。
「麗羽ねえ様」
「な、なんですの」
 その声の勢いに常ならぬものを感じたか、麗羽の体がびくっと震え、鎧から解放された大振りな胸がぷるんと震えた。そんなことには構わず、美羽は言葉を続ける。
「おぬし、曹操めが勝ち、妾もおぬしも洛陽で一刀に従っておる世の流れを知っておるであろ? ぬしが一刀を我が君、と呼ぶ世のことを」
「美羽さん? あなた……」
 探るような視線。その視線の奥に、すがるような期待が渦を巻いていることに、美羽は少々たじろぐ。
「うむ、妾もそれを知っておる。じゃが、こうして流浪しておる流れも知っておる。ようわから……むぐっ」
 いきなりがっしと肩をつかまれ抱き寄せられて、美羽の声が途切れる。麗羽はぎゅうと従妹の体を抱きしめながら、聞き取れないくらいの早口で言葉を吐き出し始める。
「わ、わたくしもわけがわかりませんの。いつの間にか我が君とさすらっている事に。しかも、いただいた首輪までっ……! 猪々子さんや斗詩さんは、さっぱり覚えていないようですし、もしかしたら、皆でわたくしをかついでいるのではないかと思ったのですけれど、美羽さんがそう言うのならば、そうではなくて……」
「お、落ち着いてほしいのじゃ。こ、こら、落ち着けというに」
 ぎゅうぎゅうと絞り上げてくる腕の中で体をねじってなんとか抜けだし、わぁわぁわめく麗羽をなんとか落ち着かせようとする。そのうちに、藪の向こうから声がかかった。
「姫ー? なんか大声聞こえましたけどー?」
 猪々子の心配そうな声と、剣であたりの枝を払いはじめる音を聞きつけ、ようやくのように麗羽も声を潜める。
「な、なんでもありませんわ。もうしばらく放っておいてくださいまし」
「あーい、了解しましたー」
 がさがさと立ち去っていく音に、二人揃ってほっと力を抜く。
「それにしても……」
「一体どういうことなのじゃろ?」
 そうして端から見ると大きさこそ違えそっくりな顔つきの二人は顔を見合わせ、お互いに、これはあてにならぬと大きく息をつくのであった。


 6.南皮


 あまりの眩さに目がくらんだ。
 手をかざしてみれば、だんだんと視界と意識が戻ってくる。
「……ん? あれ?」
 立ちくらみでも起こしたか?
 彼女は自問して、己の姿を確認する。普段通りの戦装束を身につけて、石畳の上に立っている。騎馬に適した武装のため重武装というわけではないが、使い慣れたその装備に包まれているのは安心できる。
 次いで周囲を見渡せば、地平線まで続く大地が見えた。そして、その大地を埋め尽くすように居並ぶ兵の数々。だいぶ高いところに立っているようだ。つくりから見て石造りの城壁の上だろう。城壁の上には見知った顔が並んでいて、これもまた彼女を安堵させた。
 さきほどのくらみは、ぴかぴかに磨き上げられた、あの鎧の群れにやられたのかもしれないな。彼女は城壁の前に整然と並んだ、数万を数える兵たちを見下ろし、そんなことを考えた。
 しかし、戦の前のようだが、なんの戦だろう。記憶がどうもあやふやだ。
「どうした、白蓮」
 隣に立っていた男に、不意に声をかけられる。未だにこの人物に声をかけられると、なぜだかどきりとする。
「ああ、えっと、なんだか呆っとしてな。一刀殿」
 そう答えると、相手の男――北郷一刀は、苦笑いを浮かべて見せた。
「おいおい、どうしたんだ? いつも通り一刀って呼び捨てでいいのに」
「主、緊張からかしこまっておられるのを、そう揶揄するものでもありますまい」
「いやいや、星ちゃん。おにーさんも緊張してあえて軽口を叩いてるんですよー」
 次いで含み笑いをしつつ声をかけてくるのは、常山の昇り龍こと星に、軍師である風。これも見知った顔だし、一刀と気安く話すのも頷ける相手だが、二人の言葉のうちにあるものが、彼女の意識にひっかかる。
「ああ、そういう部分もないではないかなー」
 星から主と語りかけられた男が、見ると心安らぐ笑顔で答える。
 ……主、だと?
 何かがおかしい。
 何かが。
 だが、それが何なのか、白蓮にはわからなかった。
「ふむ。なにしろ決戦だからな」
 決戦。そうだ、決戦だろう。これだけの軍を揃え、趙雲と公孫賛に、軍師たる風と、天の御遣いをつけているのだ。生半な戦ではあるまい。
 だが、誰と戦うというのか。
「兵は……よく訓練されているようだな」
 混乱した思考をひきずったまま、兵たちを眺めやる。先ほどから一切の隊列の乱れはない。戦場での一糸乱れぬ動きはもちろんだが、こうしてただずっと集中し、待ち続けることが出来る兵は強い。白蓮はそれまでの経験からそう判断した。
「ああ、そりゃあな。星も詠も一生懸命やってくれた。詠は留守番を引き当ててぶーたれていたけどな」
「しかし、本城を開けるわけにも行きませぬからな」
「それに月ちゃんもいますしねー。結局は詠ちゃんが残るしかなかったのですよー」
 皆がしている会話も、よくわからない。登場してくる月や詠は、董卓や賈駆のことだと判断できるのに、彼女たちが城にいるとかなんだとかいう話に現実味がない。
「いずれあたるであろう相手の手柄を削ろうと、洛陽に一番乗りして董卓確保に動きましたが……。大当たりでしたな」
「うん。詠はすごいね。でも、それ以上に、無実の月たちを犠牲にせずに済んだのは本当によかったと思うよ。洛陽を追い出す形になっちゃったのは残念だけど……」
「月ちゃんたちのためにも今日を勝って、虜になってるっていう呂布将軍を助けないといけないですねー」
「うん、そうだな」
 三人はそれぞれに頷きあう。そこに確かに存在する熱意をしっかりと感じ取れるのに、未だに白蓮の意識にかかった霞は晴れない。
「さて、そろそろお動きなされませ、白蓮殿」
「え、わ、私?」
 星から促され、残りの二人の視線も後押しするように集っているのに気づく。
「はは、どうされました、白蓮殿。兵たちがお言葉を待っておりますぞ」
 かつて幽州の太守として乱世を糾さんと立った女性は、城壁の上で戸惑っているように見えた。白馬長史と謳われる戦場での勇姿に比べると、その様子はいかにもおかしい。彼女はおずおずと提案してみる。
「え、えと、星。お前がやるわけにはいかないのか」
「またものの私が出陣の号令など出来るわけがありますまい」
「陪臣とも微妙に違うけどな。星は白蓮の盟友である俺の臣下なわけだから」
 楽しそうに笑う常山の昇り龍。そんな二人の様子を、眼を細めて見つめるのは一刀だ。一方で、宝ャを頭に乗せた風は少々心配そうな顔つきだった。
「そもそもなんでこんなに兵が……」
「白蓮様ー、しっかりしてくださいよー。いまから袁紹軍最後の根拠地、南皮を落とすのですよー」
「え、ええええええっ!!」
 幽州に名高い白馬長史にして、いまや華北の大半をその手中に収めた公孫賛の驚愕の声が、高く高く空に響き渡った。


 7.金城


 一人の少女が、大きな屋敷の中を走る。太陽の光に透けるような茶の髪は後ろでまとめられ、彼女の体が躍動する度に、右へ左へ上へ下へと揺れ動く。その様はまるで颯爽と大地を走る馬の尾のようだった。
 すらりと伸びた足がしっかりと床を踏みしめ、飛ぶような一歩を生み出す。かなりの速度だというのに服が乱れることもなく、裾もそれほど翻ることがない。腰の重心がまっすぐに進む、すばらしい走りだった。
 だが、それを苦笑いで見つめる壮年の男がいた。とはいえ、苦みと笑みとどちらが強いかと問われれば誰もが後者だと断言するだろう。
「これ、翠。家の中でそのように」
「義父上」
 少女は流れるような動作で、その男の前に進む。歩調がゆるんだのは、注意されたからと言うよりは、目当ての相手に行き当たったからかもしれなかった。
「袁紹から遣いが来たんだ」
 ずばりと言い放ち、手に持っていた書簡を掲げてみせる。それにちらと目をやり、義父と呼ばれた男は笑みをおさめて、真剣な顔つきになった。義父と呼ばれたとおり、この男は少女の母――西涼を束ねる馬騰の再婚相手だ。馬騰の長子である馬超の、二人の妹たちの父親でもある。
 名を、北郷一刀。
 十五年前、天より降り来たったと言われるその男は、天の御遣いとして知られていた。
「……棟梁殿は、いまは眠っておられる」
 西涼の棟梁である翠の母は、このところ床に臥せることが多くなっていた。これまでも夫である一刀は馬騰の補佐役として働いてきたが、馬騰が病を得てからは余計にその役割が重くなっていた。
「うん、わかってる。まずは義父上と相談しようと思って」
 翠の返答は沈みがちだ。それでも気力を振り絞ったのか、言葉の最後はずいぶん元気なものだった。それを頼もしく思いながら、一刀は書簡を受け取り、目を通す。
「ふん……。反董卓連合、か」
 君側の奸、董卓討つべし。
 洛陽に入った董卓が無道の行いをしているとして袁紹が呼びかけた檄文を、北郷一刀は鼻で笑って見せた。だが、実際にその檄文は各地の有力者に送られており、それなりの効力を発揮するであろうことも、彼にもわかっていた。
「どうする? 涼州の諸侯としては、月たちに協力するよな?」
 翠も一刀も、もちろん馬騰本人も董卓として知られる少女のことを知っていた。董卓の根拠地は彼女たちがいまいる金城からそう遠くはない。そして、翠は董卓と真名を交換するほどの仲だった。
 だから、当然の反応として、こんな連合が出来るとしたら、それに対抗してこちらも軍を送ろう、というのが翠の言い分だった。
「協力、な」
 だが、一刀はそれに即座に同調はせず、一拍おいた。もう一度書簡を吟味するように目を落とし、静かな声で語り出す。
「たしかに同郷の者たちを攻めるというのは気分が良くない。そもそも董卓たちがここに書かれているような悪逆非道の行いなどする人間ではないのはよく知っているからな。しかしな、翠。協力といってもまっとうに援軍に行くだけが力になることでもないぞ」
「どういうことだ?」
「涼州としては、天子様が勝手なやつらに壟断されるのは困る。董卓たちならばそのようなことはするまいからと洛陽に入るのを構いはしなかったが、今回連合を作った連中がどうなのかは、我々にはわからない」
「そんなこと知らなくても、やっつけてしまえば関係ないだろう」
 義理の娘の言葉に苦笑しつつも、一理はある、と一刀は思っていた。ただし、それは本当に対抗すべき相手ならば、だ。有象無象の集まりに敵対することであえて相手の結束を強めてやる義理はない。
「それにしても相手を知らないというのは危険だぞ」
「……つまり?」
「いったんは反董卓連合に参加すると見せて、翠と蒲公英には諸侯の動向、その人となりと度量を探りに行ってもらう。一方で俺と棟梁殿で軍を南下させ、長安を窺う」
 連合のほうへはそれほど軍を出す必要はないだろう、と一刀は踏んでいた。なにしろ袁家の膨大な私兵がいるだろうし、涼州から関東まで長駆させようというのだ。兵が少ないと文句を言われる筋合いはなかろう。
「長安……」
「ああ。連合が洛陽まで達せないようなら諸侯なぞ構う必要はない。董卓たちを長安から支援し、涼州連合をもって反董卓連合をはねのける。だが、もし洛陽まで達するとなれば、その勢いは侮れない。その時は、長安を董卓たちと帝を迎えるための拠点として使う」
 複雑な表情を浮かべる翠に対して、一刀は淡々と言葉を連ねて行く。
「もしものことがあれば、翠。お前が月たちを救い出すんだ」
 もちろん、董卓たちがうまくやってくれれば、連合の軍を挟撃することも可能だろう。
「……そのために、連合の中に入れっていうのか。なんか……そういうのあたしは……」
「俺とて策を弄したいわけではない。あれが万全なら、堂々と正面から袁紹を討ち取ってやりたいところだが……」
 あるいは、この目の前の少女が、馬家の棟梁として独り立ちしてくれれば……とまで考えて、一刀は頭をふった。翠は十分によくやってくれている。いつまでも子供扱いをするのは不誠実というものだろう。
「うん、ごめん。義父上」
「いや、いい。それに、最後に決めるのは翠の母上だからな。どちらの意見も聞いてもらおう。ただし、持論を披露するのに興奮しすぎるのはなしだぞ?」
「わ、わかってるよぉ」
 二人はひとしきり笑いあう。その後、彼らは馬騰の判断に必要な意見を簡潔にまとめるべく話し合いを続けるのだった。


 8.軫憂


「星が倒れるとはな」
 我が子を寝かしつけて、隣室に入るなり呟いた桔梗の言葉を、紫苑は困ったような苦笑いで受ける。同じように寝入った璃々を置いて、二人で少し狭い部屋に移った。
 養育棟の中は夜特有の静けさに満ちていたが、この部屋はさらに静かだった。蜀の人間のために用意された会議用――つまりは密談用の部屋であるからだろうか。
「月ちゃん、七乃さんに猪々子さん、そして、星ちゃん」
 紫苑がこの二日間に異常な眠りに落ちた人々の名を挙げていく。最初の八人に加えて、すでに十二人もの人間が目覚めぬ眠りに引き込まれていた。
「蒲公英はこちらに戻さず、西涼の騎馬隊を、長安まで送ることになったらしいの。名目は行軍訓練として」
「ええ、次は蒲公英ちゃんが危ないだろうということで。さすがに洛陽にいなければ大丈夫じゃないか、ということらしいわ」
「実際はどうだか……。妖術がどう効くかなぞ想像もつかん」
 いらついたように言って、桔梗は酒瓶の栓を抜く。紫苑があうんの呼吸で取り出した杯に酒を注いでいく。
「うがって考えれば、自作自演の可能性すらありうるわ。この機を突いて他国が――たとえば我が蜀が策動を始めれば……」
「魏は堂々たる大義名分を手に入れ、再侵攻を行える、か」
 二人は杯を取り、ゆっくりとなめるように酒を飲む。酔いたいが酔いすぎるわけにもいかない。そんな飲み方だった。
「もちろん、考えすぎだとは思うけれど、軽挙は慎むべきよ」
「まあ、軍師殿たちもそれくらいはわかっておろう。それよりも……そのような謀ではなく、文字通りの凶事であった時の事よ」
 二人とも、本気で謀略を疑ってはいない。もしそうであれば、いっそ華琳一人で構わないのだ。彼女一人が倒れただけで、国家機構の柔軟な動きは阻害される。
「……困るわね」
「うむ」
 困る。困るのだ。
 いま、魏が崩壊すれば、それにつけこむどころではない。戦禍が飛び火しないよう備えねばならないし、大動員した北伐の軍がどこへ向かうかもわからない。
 それ以上に、親しい人々を、戦でもないのにこのような形で失うというのは、彼女たちにはとうてい容認しえることではなかった。
「千年が物心つく前に、死なれるなどたまったものではない」
 吐き捨てるように言うのは、桔梗。ぐいと酒を喉に落とし込む様は、不吉な言葉を流し去ろうとするようにも見えた。
 一方の紫苑は眉根を寄せて、静かにほおづえをついている。
「心情的にも、政治的にも、あの人たちが去ってしまうなんて事態は避けなければならないわ」
「どうする? わしらには妖術を操る知恵も術もないぞ」
「これまでどおりするしかないでしょう。なんとかする術を持っている人を支えるのよ」
 沈黙。
 杯を干し、それに酒を注ぐ音だけが、部屋に満ちる。
「のう、紫苑」
「なあに?」
「己が無力だと思いはしないか? 今回の事だけではないぞ。我らは武将。戦うための人間よ。だが、この時勢、いくさびとなぞ求められておらん。北伐など規模が大きいだけで、そう長く続くものではなかろう」
 紫苑は目を丸くする。目の前の相手とも長いつきあいだが、このような愚痴を吐くことがあろうとは思ってもみなかった。どうやら今回の事件はいろいろな所に影響を与えているようだ、と、彼女は己の中の要注意事項を書きつける部分にしっかりと刻み込んだ。
「なにもまた戦が起きてほしいなどと思うわけではない。ただ……」
 言葉にならない言葉を、酒で飲み下す。その様子を見て、紫苑は体を起こすと、ふっと暖かな笑みを浮かべた。
「わたくしには璃々が、あなたには千年ちゃんがいるじゃない」
 ゆっくりと、説得するのではなく、ただ事実を語りかける。それは紫苑にとってはあまりに自明のことで、あえて賛同や理解を得るものではないから。
「子を育てるというのは、戦ばたらきと同じくらい誇るべきものだと、わたくしは思っているわよ」
「紫苑……」
「なにしろ、次の世界は璃々たちが作るのですもの。わたくしたちはそのための舞台を用意してあげる。それが務めではなくて?」
 ふむ、と考え込むような声。だが、すぐに持ち上がった桔梗の顔は実に晴れ晴れとしていた。
「そうさな。ああ、そうよの。よし、そうと決まれば飲もうぞ」
「もう飲んでるじゃないの」
 空元気なのかそうでないのか大きな声を上げる桔梗に、しかたないわね、という風に紫苑は微笑むのだった。


 朝、目を覚ます。ごく普通のことが、こんなにも嬉しくなるものだとは思わなかったな。
 思春は寝間着を脱いで身支度を調えながら、そんな風に思った。解いている長い髪をまとめようとする時に、つい手に取った紐を見つめて動きが止まってしまう。赤を基調に黒の紋が編み込まれた紐は、今は覚めぬ眠りに封じられたある人物から彼女に贈られたものだ。
 何事もなかったようにその紐で髪をしばり、一つ頷くと部屋を出る。
 執務室に向かうと、ひらひらの服を振り立てながら、いらいらと部屋の中を歩き回る小柄な影がすでにあった。
「小蓮様。今日はお早いですな」
 孫呉の末妹は朝が弱いというわけではないが、そうそう早いうちに仕事に出てくるような性質ではない。最近は武術の鍛錬などに熱心だが、書類仕事に関しては相変わらずあまり得意というわけでもないようだ、というのが思春の見立てであったのだが、今日はどうしたことだろう。
「眠れなかったの」
 半ば予想していた答えであったので、彼女は逆に安心した。今日は真面目にしようとしたのに書記官たちがいなかった、などということが――たとえ気まぐれでも――あっては、文官たちの出仕時刻を速めざるを得なくなる。
「そうですか。それでは今日の勉強に身が入りませんぞ」
 自分の席につきながら冷静に指摘すると、たたたっ、と走り寄ってこられた。
「思春は一刀のことが心配じゃないのっ!?」
「……個人の感情を優先させる時ではありますまい」
 返答までに間があったのは、一体なぜだったろう。あの思春が、孫呉の姫に対して軽く目をそらしているのは?
「それよりも、あの面々が、目を覚まさなかった時……」
「三国は大変なことになるでしょうね」
 声は開いたままの扉の方からやってきた。その柔らかで、けれどどこか芯の通った声の持ち主は、桃色の髪を揺らしながら、部屋の中へと歩み入る。
「蓮華さま」
「お姉ちゃん」
 扉をしっかりと閉め、蓮華自身の机につくと、思春が茶を淹れに立ち上がる。
「戸を開け放して言い合いをするものではないわよ」
「申し訳も……」
「でもさー」
 二人のそれぞれの反応に、くすりと笑ってから、彼女は真面目な顔に戻る。
「とはいえ、私はそこまでの心配はしていないわ。皆、必死で解決法を探しているもの。私にはなにもできないけど……。でもね、思春、希望を失ってはいけないわよ。小蓮も無駄に焦らないの」
「……はっ」
「理屈はわかるよ。理屈はさ」
 そこで思春が淹れてくれた茶を三人で口にする。南方の土地で生まれ育った三人だけに、夏にこそ熱いものだ、とわかっているのか、それなりに熱い茶をぐいぐいと飲んでいく。
「ただ、今回の事態はともかくとして」
 一息ついたところで、蓮華が会話を再開する。この三人だと、小蓮が騒いでいる時以外は、蓮華が主導する形になるのが自然だった。
「私、今回倒れた面々やそこに集まった人たちを見ていて思ったのだけれど」
「はい」
「一刀ってほんと手を出し過ぎよね」
 思春がさすがに予想外だったのか目をむく。
「お、お姉ちゃん?」
「あ、違うのよ。これは真面目な話なのよ」
 反応に戸惑ったのか、蓮華が頬を染めて、ぱたぱたと手を振る。
「呉や蜀の面々にまで女を作る。そのことを一刀本人はそう重大に考えていないけれど――いえ、愛情の面ではなくてね。でも、これは実際大事ではないかしら」
「そりゃあ、政治的にはねぇ」
 姉が会話をどこに持って行くつもりかまだよくわからない小蓮は一応無難な反応を帰しておく。一刀とは和解したと聞いたはずだったのだが、またぶり返したのだろうか、と内心ひやひやしているのだが、表に出すわけにもいかない。
「だいたい、華琳の性格を考えると、親しい魏の仲間たちにはともかく、呉の面々や蜀の人間にまで一刀を共有させようとするものかしら?」
「たしかに色々と問題を誘発しかねませんね」
「たとえば、この間まで呉にいたから、その間は華琳たちの目も届かないけれど、魏に居る間は間違いなく華琳たちの存在を無視できないし、そもそも明言されなくともそういう雰囲気を感じ取ったら、一刀本人が自重すると思うのだけど」
 進んで女を泣かせるような男には見えないし、と褒めているのだかなんなのかよくわからないことを、彼女は付け加える。
「冥琳たちは洛陽にいる間だっけ」
「北郷本人は、ただその相手を見ているだけでしょうが……。たしかに、孟徳殿たちがその先を考えないはずがない」
「そうなのよね……」
 蓮華の声が途切れて、視線がどこか宙に走ったところで、小蓮が焦れたように切り込んだ。
「要するにお姉ちゃんは華琳はじめ、魏の面々が計画的に他国の有力臣下にまで手を出すよう促していると言いたいの?」
「そこまで明確な方向付けかどうかはわからないわ。そもそも、そんなことして得があるものかしら?」
「他国との協調関係の構築なら別の手段でも構わないはず」
「一刀を鍛えるため、とか」
「華琳がそこまで不満に思う男を側に置くかしら?」
 その言葉に、三人ともになにか思うところがあったのか、期せずして
「うーん」
 とうなる声が重なる。しばらくして思春がなにか思いついたように口を開いた。
「たとえば……」
 だが、その言葉はどんどんと扉を叩かれる音で中断させられた。彼女はそのまま立ち上がり、扉を開ける。その先に、顔を青ざめさせた稟が立っていた。
「奉孝殿」
「なにかあったの?」
 蓮華と小蓮の姉妹も扉に向かってくる。そこで、稟は息を一つ吸って、こう言うのだった。
「祭殿が起きてこられません」
と。


 9.横浜


 疲れた。
 北郷一刀は座面にだけ暖房の効いた座席に座り込みながら、思うともなく思った。休日午後の湘南新宿ラインは比較的空いていて、こうして座れるのが幸いだった。横浜方面から帰るならば東海道線でもよかったのだが、あちらは常に混んでいるのが困りものだ。
 今日は日曜日だというのに、彼は後輩が引き起こしたトラブル解決のために早朝から横浜の港湾倉庫に出向いていたのだった。会社に顔を出しても誰かいるわけでもないので直帰できるのだけが不幸中の幸いというところだろうか。
 報告書だけは書かなければならないが、家でぬくぬくしながら書けるから、まだましというものだ。
 ホームで買ったスポーツドリンクを流し込んでいると、視界の隅のボックス席が丸ごと空いていることに気づき、揺れが少ないところを狙って移動することにした。ロングシートより開放感はなくなるが、一人でぼうっとするには他と隔絶している感があっていい。
 鞄を網棚に乗せて、ボックス席でゆっくりと体を伸ばす。朝から重い物を持って何往復もしたからか、腕や腿の筋肉がぴくぴく痙攣していた。
「ま、これもお仕事だよな」
 独りごちる声に応える者はもちろんいないが、そんなことを期待しているわけではない。
「そういえば、またあの夢をみたな」
 今朝、電話でたたき起こされる前に見ていた夢を思い出す。
 懐かしい、あの夢。
 おそらくは自分の妄想でできあがった夢の世界。
 それでも、それは彼にいくつかのことを教えてくれていた。
 よく、社会の歯車にはなりたくない云々という主張があるが、一刀があの夢で学んだのは、よくできた歯車になるのは本当に骨が折れるということだ。
 そして、実際には社会で活躍しているように見えるのは影響力のある重要な歯車であり、そういう歯車にはとんでもなく重い回転と素早い回転の両者が求められているという事実だ。一刀はそこまで重要な歯車になれる自信はとてもなかった。
 なにしろ、人に必要とされるというのは、それだけでとてつもなく大変な出来事なのだから。
 まずは会社の歯車になろう、と一刀は思って働いていた。彼でなくともいいかもしれないが、誰かはそれをやらねばならないのだから。
 幸い、彼が所属している会社は、この不況の中でも多少のサービス残業はあっても、死にそうなほど追い詰めてくることもないのでなんとかやっていけそうだ、と彼自身思っていた。
「夢、ですか」
 問いかけは、対面の座席からやってきた。天井に向かっていた視線がそのまま落ちて、その声の主を見つめる。
「私たちは、夢ですか?」
 栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。大きめの縁なし眼鏡をくいと上げる黒手袋のその仕草。なによりも、真剣でただひたすらに物事を見極めようとするようなその凛然とした表情。
 だが、いまはその相貌に、ほんの少しだけ悲しみの色が乗る。
「ああ、夢だよ。稟」
 一刀は微笑みを崩さぬままに答えた。
「これも夢なんだ。きっとね。俺は一人で電車に座っていて、心の中で君との会話を妄想している。特に誰も迷惑をかけることのない、一時の罪のない夢ってわけさ」
 あるいは、ぶつぶつ一人で呟いたり、変なジェスチャーをしたりしてるって避けられているかも知れないね、と肩をすくめて彼は続けた。
「ふむ。では、夢ではないことを証明するにはどうすればよいでしょうね?」
「無理だろう。なにしろ、君が話すことが出来るのは俺が知っていることだけだ。それは、君が俺の妄想の産物であることをけして否定しない」
「私がいまあなたの手助けを必要としていると言っても、ですか」
 その言葉に一刀は固まってしまう。
 かつて、夢の中の人物たちは、彼に何度も語りかけてきた。
 帰ってきなさい、と華琳は命じた。
 一刀に会いたいんや、と霞は吐息のように漏らした。
 兄様、新しい料理を覚えたんです、と流琉は涙声で告げた。
 だが、助けてほしいと、手を貸してくれと言った者はいただろうか。
 そして、こんなことを言ってのけた者は、いただろうか。
「一刀殿。夢を見ているのはあなたのほうなのです」


 10.歪む世界


「末端が、感染源となっているのです」
 ずらりと揃った三国の重鎮たちを前に、郭奉孝はそう告げた。
「月殿が倒れたのは、間違いなく詠に引きずられてですし、七乃殿、祭殿は美羽から、猪々子は麗羽殿から、星は白蓮殿からでしょう。呪いの周辺部分から、関係の深い者へ飛び火していっているのです」
「末端……?」
 よくわからない、という風に声を上げたのは誰だったのか。いずれにせよ、それは誰もが訊ねたい疑問であったろう。
「ここから話すことは、呪術に関わることが多く、象徴や迷信がまじったものです。疑問を持つこともあると思いますが、そういうものだ、と思ってお聞きいただきたい」
 稟はそう言い置くと、紙のように白くなった顔つきで話を続ける。
「まず、風の部屋にあった日記から、この術の情報が得られました。それによると、この術は呪いの対象とそれをさらに強化する生贄で構成されます」
 生贄という言葉の語感に、悪寒を感じない者はいなかった。
「生贄は術の対象を囲い封じ込めると共に、呪いを感染させます。そうして、呪いにかかる者が増えれば増えるほど、中心……このまじないの本来の対象はより強く、深く呪いに引きずり込まれていくことになります」
「いやらしい術よね」
「呪いですからね」
 地和の言葉に苦笑いを返し、稟はさらに続ける。手に持った紙に、四つの名前を書き出していく。
「さて、今回の場合、公孫賛、袁紹、袁術、賈駆の四名が生贄……末端であることが推測されます」
「北郷の場合は? 後で倒れた全員、そやつからの可能性があると思うが……」
「一刀殿は、血縁者が倒れていません。もし一刀殿が末端ならば、真っ先に阿喜たちが眠っているでしょう。赤ん坊なので眠ることは多いですが、お腹を空かせればちゃんと起きていますから」
 思春の疑問に答えた後で軽く笑みを見せて、彼女はいたずらっぽく呟く。
「それに、一刀殿や華琳様が末端だった場合、おそらくすでにこの国は崩壊しています」
「そ……そうだな」
 冗談のように言っているが、それは事実だろう、とその場にいる誰もが思った。
「さて、この四名を考えると、一つの象徴が浮かび上がります」
 稟は紙に書いた名前をそれぞれ線で結んでいく。なぜ書くときに紙の四方に配置したのかと疑問に思っていた者もそれを見て納得した。
「黄巾の乱あたりのことを思い出していただきたい。北に袁紹、東に公孫賛、南に袁術、西に董卓。中央に存在するのは……。陳留の曹孟徳」
「つまり……華琳が呪いの中心ということ」
 沈黙が訪れる中で、蓮華が言いにくいことを言葉にする。それに小さく頷くのを見て、誰かが悲しげにため息をついた。
「ちょっと待って? 月ちゃんは最初に倒れてはいませんわよ?」
「はい、そこは簡単です。一般的には『董卓』は死んでいるために、その部下であった賈駆、そして、同じ涼州の馬超が身代わりとして用いられたのでしょう。馬騰がいれば当時の状況を再現するに十分でしたがこれもいませんから、部下と娘の二人でちょうどいいと考えたのでしょう」
「しかし、その仮定ですと、風様と隊長が余ってしまいますが……」
 指折り数えていたらしい凪が手を開いて訊ねる。
「人を呪わば穴二つ、という言葉を聞いたことがありませんか?」
「なんとなく……」
「呪術というのは使う人間にもそれなりの代価を要求するものなのです。死を願えば、術者にも死をもたらす。それが呪術の本質です」
 ぎらり、と稟の眼鏡に光が反射して、表情を隠した。そのままで彼女は静かに言葉を続ける。
「しかしながら、そんな危険な術ですから、それを逃れようと考える者も出ます。その場合に用意するのが己の身代わりであり、術をいつでも解けるようにするための鍵です」
「鍵」
「いわば安全弁ですね。そういう存在を呪いの中に入れておくのです。そして、それを用いることで術を破ることも可能です」
 おお、と一同はざわめいた。それは、久方ぶりに聞く善い報せであった。
「じゃあ、風とあの莫迦のどっちかがそれなのね?」
「片方が鍵、片方は目くらましのための偽装でしょう」
「どちらがどちらか、わかるものなのか」
「わかりません。ですから」
 そこで稟は手に持っていた紙をくしゃりと握りつぶした。
「私が夢の中に入り、それを探りあて、皆を起こします」




                   (『北郷一刀の消失』前編・終 後編に続く)

おまけ:Q&A

寄せられた質問の中で、必要と思われるものにお答えします。

Q:相変わらず蜀の扱いが悪い気がします。
Q:魏ルート後なのに魏キャラの扱いが悪いような。
A:両者ともに、「これから」です。
 第三部からは一刀さんの視点を離れ、彼が居ない場所での魏、呉、蜀三国の武将たちの動きがクローズアップされていくと思いますので、どうぞご期待下さい。特に蜀キャラはキーになってきます。

Q:この世界での一刀さんは、どれくらい強いの?
A:この質問に関しては、個人の戦闘に関することだと解釈して、お答えします。
 名前のあるキャラクターの中では下から数えて五番目くらいです。(ただし璃々等の子供たちを除く)原作ゲーム中にあるとおり、一般人相手なら多少は活躍できます。元々一刀さんがやってきたのは剣道と剣術なので、長柄の武器や馬などが使用される実戦では分が悪いのです。
 一刀さんより明らかに弱い、というのは朱里、雛里、桂花、風の軍師四人くらいのものだと考えています。
 軍師の中でも、稟はゲーム中にそんな描写はないのですが、あの性格からしてなにか護身術を身につけていてもおかしくないと判断して入れていません。詠は地上では一刀さんに負けるでしょうが、馬上では間違いなく勝ります。音々音は単体でのちんきゅーきっくも脅威ですが、張々を使われると一刀さんに勝ち目はありません。
 月、美羽、麗羽の君主組は一通りの武芸を身につけているので、鍛えてきた期間的に一刀さんは及びません。
 微妙なのは張三姉妹くらいでしょうか。ただ、彼女たちは現況では戦場に出ることすらないでしょうから、不明です。
 もちろん、これらは今作品の中での立ち位置なので、他には通用しない話です。

Q:まだ一度も出てきていないキャラが……。
A:鈴々は第三部第三回あたりで出てきます。愛紗はもう少し先ですが、両者共に活躍予定ですのでお待ち下さい。

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