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230 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/09/20(日) 20:40:44 ID:0yTdysxH0
いけいけぼくらの北郷帝第二部北伐の巻第六回をお送りします。

◎注意事項
・魏ルートアフターの設定ですが、第一部、第二部と進んできておりますので、まず、そちらをご覧
いただけると幸いです。
・同衾あり。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・歴史上の人物等の名前は出るものの、セリフはありません。
・呉勢以外の一刀の子供が出てきます。
・『北郷朝五十皇家列伝』は読まなくても本編を読む上ではなんら支障がありません。また、妄想
(暴走)成分が過多です。お気をつけください。
・Up板にてメールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL →  http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0411

今回のあるシーンにはとある小説へのオマージュが含まれています。
その作品を読まなければわからない部分やオリジナルキャラ要素などはありませんが、念のため。
それではまた次回。



いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第六回



 別れというのはやはり、切ないものだ。
 たとえ、それが一時的なものに過ぎなくとも。
 蓮華たちへの引き継ぎを終え建業へと帰る明命を、呉の皆と華琳たちとで見送ったあと、城内を歩きながら、俺はなんとなくもの悲しい気持ちになっていた。
 見送りの最中、一言たりとも蓮華が口をきいてくれなかったこともその原因の一つかもしれない。おかげで、昨晩なにを相談しにきてくれたのかさえわからない始末だ。
 だが、そんな呉の面々との問題はあるものの、仕事は進めなければいけない。大鴻臚としても、北伐左軍大将としても、早急に翠をはじめとした蜀勢と話し合いを持たなければならなかった。
 そんなわけで、俺は感傷的な気分を引きずりながら、蜀の面々を探していた。桔梗は養育棟にいるのはわかっているが、できれば臨月に入るというこの時期、彼女を煩わせたくはなかった。
「うーん、どこにいるんだろう」
 大使執務室に行ってみたら、みな昼食に出たままか洛陽を視察に出るかしていると言われてしまったので、まずは城の中を探しているのだ。もし城内にいないとすれば見つけるのは難しいから、夜まで待とうと考えていた。
「ここにいるぞーっ!」
「ええっ!?」
 明るい声に驚きながら振り返ると、オレンジ色の小さな体が元気に廊下を走ってくるところだった。彼女の服が、キュロットのような形になっているのは、馬にのりやすいようになのかな。
「走っちゃ危ないよ、馬岱さん」
「はーい。北郷さんは、なにしてるの?」
 素直に走るのをやめ、横に並んできたので、そのまま歩きだした。
「ああ、翠たちを探してたんだ。馬岱さんもね」
「お姉様? お姉様なら、あっちの庭にいるよ。たんぽぽ、荷物置きに行ってたんだ」
「そっか。じゃあ、悪いけど、馬岱さん。案内してくれないかな」
 そう言うと快く頷いてくれたが、その後で首をひねって足を止めてしまう。
「んー、その馬岱さんってなんかなあ」
「そうか。じゃあ、馬将軍?」
「そうじゃなくて。たんぽぽって呼んでいいよ」
 てっきり失礼だと思われているのかと思ったら、逆だったらしい。あっさりと真名を預けてくれる彼女に驚いてしまう。
「いいのかい? 真名だろう?」
「うん、なんか、聞くところによると、北郷さんってば、みんなの恋人なんでしょ?」
 みんなの恋人、というのは新しい表現だな。だが、魏の種馬なんてのより百倍はましだ。
「しかも、あの霞姉様まで恋人なんでしょ。たんぽぽ、お姉様より馬がはやい人なんていないと思ってたけど、霞姉様と絶影はもしかしたら、お姉様を負かしちゃうくらいすごいんだもん、びっくりしちゃった」
 どうも、たんぽぽは霞の下で鎮西府の仕事をしている内、霞のことを尊敬するようになったようだな。たしかに騎馬を操るのに長けた馬一族の人間に、騎将として憧れの存在となりうるのは錦馬超、神速張遼、白馬長史くらいしかいないだろう。
「まあ……霞はすごいな。翠といい勝負ができるだろうね」
「そんなわけでー、お姉様も霞姉様も真名を預けてるし、それだけみんなの信頼を集めてるならいいかなって思ったわけ」
「そっか、ありがとう、たんぽぽ。俺のことは一刀でいいよ。真名がなくてごめんな」
「はいはーい。一刀兄様かお兄様って呼ぶねー」
 お兄様か。くすぐったいが嬉しいな。でも、そこまで親しいわけでもないのに、いいのかな。そう思ってたんぽぽを見下ろすが、彼女は大きな目でこちらを見つめ返してくるだけだ。
 もしかしたら、ふざけ半分かもしれないけれど、それでも、まあ、いいか。
「じゃ、案内するねー」
 俺は、蒲公英の後に続いて翠たちがいるという庭に向かって歩きだした。落ち込んでいたはずの気持ちは、いつの間にかすっかり立ち直っていた。


 俺たちは、邪魔をしないよう、その光景を眺めていた。だが、俺の姿に気づいたらしい二つの頭がこちらを向いてしまう。片方は大きなリボンがついていて、もう一人は、頭の両側に髪を結い上げている。流琉と季衣だ。
「あ、兄ちゃ〜ん」
「兄様〜!」
「季衣おねーちゃん、流琉おねーちゃん、動いたー」
 大樹の根元によりかかるようにしている璃々ちゃんが指を差し、二人はなにかを思い出したかのように固まる。
「あっ」
 だるまさんがころんだの最中に俺に手を振った二人は璃々ちゃん鬼によって捕まってしまった。

「悪いな、季衣、流琉」
 璃々ちゃんのところへ行って紫苑と手をつないでいる季衣たちに合流する。どうやら、紫苑は捕虜をまとめる役をやっているらしい。捕虜を解放する時は、繋いでる手を手刀で切る方式かな?
「もー、兄ちゃんのせいで捕まっちゃったよー」
「すまん、すまん」
 謝って頭をなでる。気持ちよさ気に首をすくめる季衣。
「しかし、すごい面子だな」
 璃々ちゃんが鬼をやっているから紫苑がいるのは当然として、季衣に流琉、翠に麗羽、斗詩、猪々子、美羽に七乃さん、沙和に天和までいるぞ。みんな、璃々ちゃんがだるまさんがころんだを言い終えると、奇妙な格好で静止している。
「最初は、紫苑さんたちと、お昼ごはんを食べに行ったんです。洛陽を案内がてら」
「ええ、翠ちゃんたちも一緒に案内してもらったんですの」
 紫苑も洛陽には何度も来ているだろうが、やはり、一時的な滞在と、大使として住むのでは勝手が違う。この街の隅々までよく知っている季衣たちは、案内に一番向いているだろう。少々、食関連に偏るけど。
「そのあと、腹ごなしに遊ぼうってことになって、だるまさんがころんだをはじめたら、昼休みでちょうど暇だったらしいみんなが寄ってきて」
「それで、武将がいっぱい集まった、と」
 俺はその光景を見渡す。
 世間では有名な武将、豪族として知られている面々が大まじめな顔で、璃々ちゃんのいる場所に近づこうとそれぞれに工夫をこらして移動している。麗羽はだるまさんがころんだが続く限り走り続けて、声が終わると同時に無理矢理な格好で静止しているし、七乃さんは美羽を抱えるようにして運んでいたりする。天和と沙和はそこまで本気というのではないのか、余裕を持って進んでいる。翠がすごい勢いで飛ぶように進んでいるのはさすがというべきか。
 麗羽や美羽なんて、もう夢中なのだろう。彼女たちの明るい笑い声が響いている。
 ちなみに紫苑に確かめてみたところによると、髪の毛に関しては揺れていてもいいらしい。そうじゃないと、麗羽と美羽、それに翠も揺れが収まらずにすぐ捕まってしまうものな。
 話そうとしていた翠も、いまは変な体勢で固まっていた。とてもこれじゃ話し合うのは無理だ。
 まずは紫苑と話しておくか。
「紫苑。少し話していいかな」
「ええ。わたくしは璃々の代わりに手をつないでるだけですから」
 たんぽぽ、流琉、季衣の三人は、三人で何事かきゃっきゃと話している。たんぽぽはまだよくわからないけれど、季衣と流琉は案外気を遣う性質なので、俺たち二人が話しやすいよう配慮してくれているのかもしれない。
「ありがとう。北伐の件、聞いたよね」
「国を出るときに、華琳さんから直に言われない限りは開けてはいけないと言われた書簡があったんですが、そこに詳細に記してありましたわ。いずれにせよ、しばらくしたらわかる話だったようですわね」
 紫苑は相変わらず笑みを浮かべたまま話を続ける。口を手元に持っていく余波で、その大きな胸がぶるん、と震えた。しかしすごいボリュームだな。桔梗は妊娠したせいでさらに膨らんでいたけれど、紫苑は璃々ちゃんを産んだとはいえ、それもだいぶ前のはずだしなあ。
「蜀からは、翠ちゃん、たんぽぽちゃんの馬一族と、ひな……いえ、鳳統と魏延の四人が、まさに一刀さんが率いる左軍へ参加することが予定されておりますけれど、わたくしとしてはこれは少し考え直した方がいいのではないかと進言するつもりですわ」
「人選がまずいのかい?」
 軍の性格上、翠とたんぽぽは欠かせないのだが、そこを変更されるとなかなか厳しいことになる。
「ええ、他はともかく、軍師の鳳統の出陣はどうか、と……。大将が一刀さんということを考えると……」
 その言葉を聞き、俺が自分との関係のことかと考えたのが、顔に出ていたのだろう。紫苑はその穏やかな顔に浮かんだ笑みをさらに深めた。
「いえ、そうではないんです。一刀さんのことは心配していませんわ。それよりも、鳳統が出てくる、という事態が問題と思ってますの」
「どういうことかな?」
「鳳統と言えば、諸葛亮と並び立つ軍師。それが出陣するとなれば、もちろん、蜀の代表となります。大将である一刀さんとて、その発言を無視できないでしょう。それはお互いの国益を考えれば正しいことですが、軍という組織の中でやるには危険すぎますわ」
「意志統一の問題か。……まあ、たしかにね」
 紫苑がこくりと頷くのに対して、こちらも頷いて見せる。
「ええ。それに、一刀さんのところには詠ちゃんもねねちゃんもいますし……軍の大将にあまり多数の助言者がいるというのも……」
 詠や陳宮を連れて行くかどうかは、まだ本決まりではないのだけどな。ついてきてくれるものなら、連れて行きたいが。このあたり、しっかり話し合わないといけない。
「蜀としては、武将を出し、戦働きをするだけで充分だとわたくしは考えます。政治的なことは、戦が無事終わってから、あるいはそことは別の場所で華琳さんたちと折衝すればよいことですし。さらには、鳳統を国外に出すことで、政務上での負担を諸葛亮一人にかけるというのも避けるべきかと思っておりますわ」
 紫苑の言うことももっともだ。軍を動かすことはもちろん政治に絡むわけだが、陣中でまでそのやりとりをする必要はない。そんなことをしていたら、勝てる戦にも負けるだろう。
 ただ、実際のところ、紫苑の本音は最後の部分なのかもしれない。いま、蜀本国には士元さんを外に出すだけの余裕がないと見ているのではないか、俺はそんなことを思った。
 西涼王国の建国が本決まりとなれば、主役は翠たちに移る。そこに無理をして軍師をねじ込む必要はないと考えるのも当たり前だろう。
「となると、士元さんの代わりに誰か出してもらうことになるか、蜀からの歩兵は文長さんだけに任せるか……」
「ええ、そのあたり、是非星ちゃんとお話しください。あちらも話がしたいと言っておりましたから」
 子龍さんか。俺は、懐から書き付けを取り出すと、そのことを書き留めておく。案件が多くなると、こんがらがってしまうからな。そういえば、蜀では軍権の最高責任者は誰なのだろう。やはり、関将軍あたりだろうか?
「いずれにせよ、蜀の中での話もあるし、あまり口出しするわけにはいかないけれど……兵がこちらに合流する前に取り決めをしておきたいね」
「そうですわね。ただ……」
「ん?」
 声を低めて、紫苑は続ける。何故だか、日の高い遊び場が、少し陰ったような気がした。
「あくまで個人の感想として聞いていただきたいところですが……。戦自体に必要があるのかどうか、いま一つ」
 目を細め、璃々ちゃんを見る視線は愛おしさと憂鬱が半ばしている。
「もちろん、三国の首脳部が決めたことです。従いはしますが、少々疑問も残ります。まだ、戦乱の時代が終わって、二年あまりしか経っておりませんもの。たしかに、北方の脅威は理解できますし、放っておけないこともわかりますが、しかし……」
 最後は消え入るように曖昧だ。頭では納得できても、心では納得できないことってあるものな。彼女の瞳には、娘と、それと遊んでいる大人たちの姿が映っている。
 たしかに、こうして群雄たちが覇権のことなど忘れて遊んでいられる時間が得られたことは大事なことだ。そこに乱を起こすのは、暴挙なのかもしれない。だが、それでも。
「平和を築くために戦を起こし、戦を終わらせるために戦を続ける。俺たちの行く先はどこだろうな」
 まあ、地獄かどこかだろう。それはそれでいい。後に少しでもいい世界を残せるならば。いや、それすらも傲慢か。
 いつの間にか、季衣と流琉、それにたんぽぽが黙って俺の顔を見上げていた。
 響くのは、璃々ちゃんのだるまさんがころんだと、それに興じるみんなのきゃーきゃーわーわー言う笑声ばかり。
「ただね、いまじゃないと終わらないからな」
 心配そうに俺を見上げてくれる三人の『妹』たちの頭を、感謝を込めて順繰りになでていく。たんぽぽはいきなりなれなれしいかとも思ったが、嫌がる風も無く、俺の手が動くとくすぐったげに首をすくめた。
「終わらない?」
「俺たちの世代で終わらせるためには、いまじゃなきゃ、ね」
 郭奕たちの時代には、せめて一時とはいえ平和であってほしい。そのためには、少なくともこちらが優勢であり、攻め入る気はなくすほどの戦果は上げておかねばなるまい。
 その答えに、紫苑は改めて手を上げて口元を隠す。その指の間から、たしかな笑みが見えていた。
 季衣たちの会話が再開される。安心してくれたか。
「西涼を建国するというお話に関しては、興味深いと言わせていただきますわ。わたくし個人としても、蜀の大使としても」
「それは、翠次第だけどね」
「たしかに。自分に利があるからとすぐに動く翠ちゃんじゃありませんしね。それでも……我が蜀としては飛び地を支配するよりは随分ましな選択かと思いますわ」
 領地経営というのはなかなかに大変なものだ。ましてや、その領地が他の国の領土を挟んで飛び地となっているとなれば、その苦労はさらに増す。離れているということは、物理的距離だけではなく、心理的距離を考慮しなければならない。飛び地を任された者がその地で自立するようなことがないよう、しっかりと手綱を握るのはなかなかに難しい。特に今回の場合、間に挟んでいる魏が強国であるからなおさらだ。
 それよりは、強い影響下にある独立勢力のほうが制御しやすい。
 俺たちは遊びに真剣な翠の姿を二人で見つめる。くくった長い髪が、元気に揺れている。
「一つ、お訊きしても?」
 不意の質問は、これまでに比べても段違いに密やかなものだった。俺も、声を低くおさえて答える。
「ああ、もちろん」
「この中で、どれほどが一刀さんのお手つきですの?」
 あー。そういう質問ですか。たしかにこれは、小声で話すべきだな。
「翠とたんぽぽ以外はみんなかな」
「あら」
 艶然と微笑んでいた彼女は驚いたように呟くと、武将たちが戯れている中庭をぐるりと見渡す。そうして、紫苑は目を真ん丸に見開いてこちらを見て、こう言うのだった。
「まあ」


「"びすけと"というのは、お菓子ではないのですか?」
「うん、まあ、俺の世界じゃそういう風に発展したけど、元々は保存を考えたものなんだよ。二度焼きで焼き締めて水分を飛ばすことで、日持ちするようにしたんだっけかな」
「そうなのですか……。では、甘く仕上げる分を、保存が利くように材料を変えてみるのもいいかもしれませんね。乾燥果実を使って、栄養を保てば、もしかして……」
「えー、ボク甘いほうがいいなー」
「季衣、いまは、兵の携行食に応用できるか話してるんだから、季衣が普段食べるのは別だよ」
「でもさ、兵のみんなだってさー」
 捕まったままの流琉たちと、新しい携行食の可能性を語っていると、とてとてと近づいてくる人影があった。
 特徴的な赤毛に、ぴんと跳ねた二本の髪の毛。
「あら、恋ちゃん」
 そこにいたのはまぎれもなく呂奉先こと恋であった。なぜか、じーっと俺たちを見ている。
「どうしたー、恋。おいしそうな話をしてたから、つられてきた?」
 冗談まじりに問い掛けると、ふるふると首を振られた。どうやら、いまはお腹はすいてないらしい。時間的にお昼は終えたところだろう。
「ん、なにか用? 月か詠が呼んでるとか」
「……違う」
 これにも首を振られる。すっと指が伸び、だるまさんがころんだを唱えている璃々ちゃんを指さす。
「ああ、そっか。遊びたいのかな?」
「うん」
 そうだな、紫苑との話も一段落したところだし、ここは一つ……。
「璃々ちゃん」
「なあにー?」
 ちょうど、斗詩が動いたのを指摘した後の璃々ちゃんが振り返る。頭のリボンがその動きに連れて、大きく揺れる。
「俺と恋も参加していいかい? たんぽぽもどう?」
「うん、途中からでいいなら、たんぽぽもー」
 俺たちの提案に、璃々ちゃんはきょろきょろをあたりを見回し、最後に紫苑に助けを求めた。
「んー、どうしよう。お母さん」
「いま一番後ろなのは……天和さんね。天和さんより、五歩後ろからはじめるってことでどうかしら?」
「いいよー」
 そういうことになった。
 季衣と流琉からは、ずるいとか言われたけど。

「だる〜ま〜……」
 俺は一歩一歩慎重に進んでいた。璃々ちゃんは子供ながらに──いや、子供だからこそ、この遊びの特徴を捉えていて、唱える速度の調節の仕方や調子の外し方をよく心得ていた。
 実際、あの後、猪々子と天和が捕まっている。
 きっと今回は途中で転調するだろうと予想して、早めに足を止める。
 そこに、やつが降ってきた。
「ちんきゅーいーなーずーまーっきーーーくっ!」
 腹部に思い切り衝撃。たたらを踏んで、それでもなんとか転ばずに耐え切った自分を褒めてやりたい。いや、力のままにふっとばされると、周りの誰かに当たりそうだったので、耐えるしかなかったのだが。
「ふっ、甘いな、陳宮。この鋼鉄の腹筋がーっ、うう、いてぇ」
 はい、痛いです、ほんと痛いです。勘弁してください。痛みを紛らわせるために叫んでみたが、痛いものは痛い。
 蹴ったほうの陳宮はふふん、と腰に手を当てて威張り顔だ。そこへ猛然と走り寄ろうとして、美羽と七乃さんに無理矢理に止められている麗羽から声が飛ぶ。
「我が君になにをなさいますの、このちんくしゃっ!」
「ちんくしゃとは……」
 咄嗟に麗羽の罵声に応戦しようとしたところへ、璃々ちゃんがとことこと寄ってくる。
「ねねおねーちゃん、邪魔しちゃ、めっ」
「え? あ、いや、ちがうです、ねねはそんな……」
 無言で集まる非難の視線。麗羽までじとーっといやな視線を送っている。
「ねね、邪魔、だめ」
 止めは恋の言葉で、ついに陳宮は進退窮まった。
「ちがうですーーっ」

 そんなわけで、陳宮共々、捕まってしまうことになりました。
「うう、なんで、へっぽこ主と手をつないでなければならないのですか」
 小さい手を握っていると、陳宮が愚痴愚痴と恨み言を述べ始める。しかし、本当に小さいな。年齢はともかく、背丈だけなら季衣より小さいか?
「邪魔しなければいいのにー」
「だから邪魔したわけでは……このへっぽこがですねー」
「いいから、騒がない」
 天和に抗弁しようとする陳宮を諫める。さすがにこれ以上邪魔するのは璃々ちゃんに悪い。いや、蹴られる覚えもないけれど。
「だいたい、呑気に遊んでる場合ですか。しかも、こんなにたくさんの武将たちが」
「ごめんなさいね、うちの璃々が……」
「り、璃々を責めてるわけではないですよ、ただ、この緊張感のない武将たちがですね……」
 憎々しげに言って、紫苑にまた痛いところをつかれる陳宮。あんまりヒートアップさせてもいけないので、やんわりと言っておこう。
「璃々ちゃんにしろ、紫苑にしろ、これから一年あまりはこっちで暮らすんだ。こうして、城の中で触れ合う面々と遊んで、親交を深めておくのもありだと思うよ。普段、酒宴やなにやらで大人たちがやってるのと同じさ」
「そう言われればそうかもしれませんわね。お酒の席で密談するより、こうしてお日様の下で動くほうが、よほどいいかも」
「あたいもこういうほうがいいなー。あ、でも、御馳走食べるのもいいよな」
「ボクもいっちーにさんせー」
 季衣と猪々子の反応に、斗詩と流琉が顔を見合わせ、苦笑する。そんなみんなの反応を見て、陳宮も思うところあるのか、ようやくおとなしくなる。
「まあ、そう言われれば……。しかし、捕虜から開始とは」
「そりゃあ、乱入するから」
「お前が悪いですよー」
「はいはい」
 ぎろり、と見上げられるのを適当にいなしつつ、それでも俺は、本当におもしろい子だなあ、等と考えていた。
 ただ、だるまさんがころんだに熱中しながらも、こちらにちらちらと送られてくる恋の視線だけが気にかかる。
 果たして彼女は、俺を見ていたのか、それとも陳宮を?


 なんと麗羽が紫苑のところまでたどり着き、捕虜を解放したところで、翠とたんぽぽを連れてゲームを抜けた。陳宮と恋が参加したのだから、人数的には問題ないだろう。
「まあ、しかし、みんな呑気なもんだな」
「お姉様だって本気で遊んでたくせにー」
「そ、そりゃ、そうしないと璃々に悪いだろ」
「どうっかなー」
 二人を連れて、誰もいない庭を歩いていく。普段は園丁を含めて誰かしらいるものだが、先程人をやって、人払いを頼んだのだ。
「で、一刀兄様、お話ってなにー?」
「西涼……か?」
 無邪気に問い掛けるたんぽぽに対して、翠は予想していたようで、その表情は硬い。
「ああ。北伐の話は聞いたろう?」
「紫苑からな」
 頷く翠の揺れる髪の房を見ていたら、その横で勢い込んで頷くたんぽぽにも同じように揺れる尻尾があることに気づいた。ほとんど色違いと言っていい服装といい、この従姉妹は良く似ている。いや、似せているのかな。
「たんぽぽたちも参加予定なら早めに教えておいてくれてもよかったのにねー」
「まあ、そのあたりは朱里たちにも考えがあったんだろう。それはいい。それで、魏の条件は?」
 簡潔な翠の物言いには苦笑するしかない。しかし、それこそが話したかったことであることも事実だ。俺は足を止めると、翠に向かって体を向けた。
「またずばりと訊くね。わかった。はっきり言おう。華琳からの提案は三つある。蜀の将のまま北伐に参加し、その後は一切涼州に足を踏み入れることをやめる」
「ちょ」
「蒲公英、口を挟むな。最後まで聞こう」
 思わず口を開くたんぽぽを叱責する翠の目は真剣で、じっと俺だけを見つめている。その眼力に、俺は立っているだけで精一杯だ。
「魏に降り、涼州牧兼護羌校尉となり、涼州に責任を持つか。あるいは漢の臣下として、西涼公と鎮西将軍を兼ねて、西方を代表する諸侯となるか。この三つだ」
 たんぽぽからの疑念の篭もった視線が和らいだところで肩をすくめてみせる。
「もちろん、一つ目を選ぶとは俺も華琳も思っていない。だが、後半二つとなると、蜀を抜けるのは前提条件になる。それは覚悟しておいてくれ」
「鎮西将軍って、霞はどうするんだ?」
 決定を先のばしにするためか、ただ単に疑問に思ったのか、翠が訊ねてくる。
「鎮東将軍に横滑り。鎮東府単独じゃなくて、鎮東鎮北府として、北東方面に開府させるのがいいんじゃないかって話になっているね」
 実際、東は今のところ治まっている。霞を鎮東将軍に据える意味は、東方鎮撫だけに限るのではなく、辺境を守る責任者の一人として定めることにあるのだろう。
「お姉様が鎮西将軍になると、鎮将軍三人とも、馬術の上手い人ばっかりだねー」
「まあ、辺境支配に、騎兵が主体の軍を置いておくのは妥当なところだと思うけどね。範囲も広いし、相手も騎馬だしな」
 なによりも、白馬長史の名前や、張遼の名前が辺境の部族たちに響いていることが大きい。
「ああ、そうそう。霞は魏を抜けるよ」
「なんだって!?」
「へ!?」
「翠が蜀を抜けるんだ。霞も漢の将軍に戻った方がいいだろう、という判断さ。まあ、それはこれから俺が説得するんだけどね」
 どこでどう話がついたのかわからないが、そういうことになったと華琳から聞かされている。現実的には、霞が魏の影響下から抜けることはないだろうが、それは翠とて同じだろう。一応の名目というものは通しておかないといけない。
「四鎮将軍って元々かなり官位が高いんだろう? それを特定の勢力に拠らせておくのはあまり良いことではないという感覚もあるんだろう」
「ふーん、でも、なんていうか、みんな動いていくんだねー」
「その時その時にあったやり方をしていくしかないさ。義理や建前や、色々あるからな」
「めんどくさいけどしかたないかー」
 たんぽぽの真っ直ぐな感想に苦笑する。正直、俺も同じ気持ちだ。とはいえ、形式を整えることでその実質を受け入れやすくなるなら、少しくらい面倒でもやらなければいけないことというのはあるだろう。
「涼州牧に、西涼公か……」
 黙って考えていたらしい翠がぽつりと漏らす。まだまだ冷たい風が吹いて、彼女の栗色の髪を巻き上げる。きっと涼州の風の冷たさはこんなものではないのだろうな。陽の光を受けてきらきらと輝く茶の錦糸を見ながら、ふと、そんなことを思った。
「ねえ、お姉様」
 たんぽぽが明るい調子で声をかける。翠は目線だけを動かして彼女の方を見た。
「こないだはちょっと急でびっくりしちゃったけど」
 たんぽぽの笑みは変わらない。真っ直ぐで、ほがらかで、遠慮のない温かな笑顔。そして、そこに込められた絶対の信頼。
「お姉様が決めたことなら、たんぽぽはもちろん一門衆はみんな従うよ」
「お前……」
 二人の作り出す空間に、なぜか自分がとてつもなく場違いなところにいるのではないかと思ってしまう。
「よし、決めた」
 だから、翠がこちらを見て、決意を込めて言葉をつむいでくれてようやく俺はその空間の中に再び戻ることができたような気がした。
「あたしが西涼の面倒を見るよ。鎮西将軍と西涼公、それを選ぶ」
「わかった」
 翠は三番目の提案を呑んだか。そうなると、これからやるべきは、確実に西涼を建国させるべく動くことだ。それには、もちろん、北伐の成功が絶対条件となる。
「ただし、二つ条件がある」
「ん?」
 翠は再び歩きだしながら、なんでもないことのように言った。
「あたしの故地で兵を集めることを許可してくれ」
 彼女に追いつこうと少し早足で横に並んだ俺は、その言葉に考えてしまう。
「金城……のあたりだっけ」
「そう。もう一つはその金城も西涼の領域に含むこと。金城以西を領域としてくれれば、あたし自身は鎮西将軍として長安に居留するので構わない」
 翠の提案は、実に軽く言われたものだが、実際にはかなりの重大事だ。現在は魏のものとなっている元来の領地で兵を集めるということは、本来、絶対に許されないことだ。それは、魏の権益を真っ向から侵すもので、そんな行動をとれば、自立の機を窺っていると思われてもしかたない。
 金城を含めろというのも、また厳しい。金城から長安は、騎兵の足をもってすれば、それほどの障害とならないほど近いのだ。その代わりに、自分自身は人質として長安に留まってもいいと言っていることを考えると叛乱や自立の意志は感じられないが……。
「金城でかき集めれば、あと数千は騎兵を増やせる。もちろん、蜀にいる部下も全部連れてくるけどな」
「それは……ありがたいが……しかし……」
 金城で多くの兵を集めるとなれば、たしかにそこを含まざるを得ないのもわかる。とはいえ、そこまでやって、華琳が許すだろうか、いや、それ以前に……と頭の中がぐるぐるまわり始めていたところに、ちょいちょい、と袖を引く手があった。
「お兄様、一刀兄様」
 俺たちの後ろを歩いているたんぽぽが小声で話しかけてくる。
「なんだい?」
「お姉様の言ってるのって、別にたんぽぽたちの発言の比重を上げようとか、国が出来た後の権力確保とか、まるで考えてないと思うよ」
「そ、そうなの?」
「うん。お姉様、そんな難しいこと考えられないもん」
 驚く俺に、あっけらかんと言うたんぽぽ。それはそれで困るのだけれどな。いや、王は指針さえ出せれば問題ないか。駆け引きなんて慣れもあるしな。
「蒲公英。余計なことを言って、一刀殿の判断に干渉するな」
 翠の鋭い声は硬質だ。彼女は、綺麗に刈り取られた木々を見て、なにを思っているのだろうか。涼州の景色は、洛陽の庭とどれほど違うのだろう。
「てへっ。怒られちゃった」
 ぺろっと舌を出すたんぽぽはいかにも可愛い。彼女とて今後の人生を左右しかねない一大事、気にかからないはずもないが、それでも全て翠に委ねているのだろう。
「だが、もちろん、叛くつもりはないぞ。ただ……いや、未練かもしれないな……」
 ごにょごにょと呟く声。それを聞いて、俺はようやく決心した。
「金城には黄河が流れていなかったかな?」
「ああ、まさに城郭を両断してるな」
 ということは、両岸に発展したのが金城なのだな。俺は腕を組んで、なんとか脳裏に地形を思い浮かべた。
「じゃあ、金城の街以外は黄河を境とする、というのは?」
 自然の境界線を、政治的な境界線とすれば、理屈づけもしやすい。
「うん、いいんじゃないか」
「わかった。じゃあ、その二つは俺が責任を持って華琳を説得する」
「そっか、うん。あたしは、紫苑たちに蜀を抜けること言ってこなきゃな」
 少し寂しそうに頷きあう従姉妹たち。これに関しては、俺はなにも言えない。お互いにやるべきことをやるしかないだろう。
「それで、集まる兵はどれくらいになるんだ? 蜀に残した兵も加えて」
 そうして、しばらく三人で無言のまま庭を散策した後で、俺は彼女に問うた。そして、得られた答えは、俺の予想以上のものだった。
「涼州に残った知り合いにも連絡をつけて……。そうだな、一万ってところかな」


 華琳を訪ねた後で月たちの部屋に入ると、なんともいい香りが漂ってきた。どうやら、おやつの時間に行き当たったらしい。
「あ、ご主人様、いらっしゃいませ」
「なんだ、あんたも来たの」
 月と詠に見事なまでの温度差で出迎えられる。あんたも、というのは華雄も同席しているからだろう。恋はともかく、華雄がおやつをというのは珍しい。これまでに二、三度はあったけれど。
「詠の分のおやつを取ったりしないよ」
 卓の上には湯気のたつ饅頭が山盛りで置かれている。とてつもなくおいしそうだ。
「莫迦。誰がそんなことを心配してるのよ!」
「恋ちゃんの分を考えてつくりましたから、ご主人様が食べるくらいなら、大丈夫ですよ」
「そっか、ありがとう、月」
 ぱたぱたと動いて、俺に茶を淹れてくれた月の言葉に甘えることにする。卓につき、饅頭を手にとり、まだ温かいそれにかぶりつくと、少し固めの皮の下から、果実を練り込んだ餡が出てくる。果実の味が混じりあって、くどくない程の甘みを与えてくれた。
 うーん、おいしいなあ。
「それで? 用件はどうせ北伐でしょ」
 甘味の幸せに浸っていると、詠が饅頭片手に問い掛けてくる。
「ああ、やっぱり聞いているか」
「私ですら聞いているくらいだからな」
 華雄がいかにも面白そうに呟く。正式発表は先の話のはずだが、将軍級の人間にはすでに情報が行っているらしい。そのあたり、どういう情報網なのか、俺にもよくわからない。だが、実際、俺自身もいつの間にか知っていた、ということはあるものだ。
「一応、話しておこうか」
 そう言って、北伐の概要、俺が左軍大将であること、そして、その涼州を中心とした侵攻作戦こそが一番の激戦となるであろうことなどを簡単に話していく。既に聞いていたにしても、まとまった情報を得るのはこれが初めてなのか、詠はじめ三人は饅頭を食べながら、熱心に聞き入ってくれた。
「それで、その占領地は西涼国にするわけね」
「うん。昼に翠と話してね。北伐後は黄河を境界として金城以西を領土とする西涼公につくことを了承してもらったよ」
 まさかあっさりと華琳が翠の出した条件を呑むとは思わなかったけど。あの後に訪ねた華琳は説得しようと意気込んでいた俺の勢いなど気にした風も無く、好きにしなさい、と許可を与えてくれたのだ。ただ一つ、兵を集めるならば、蜀を抜けてからにしろ、という確認をしただけで。
 それだけ現状の安定を誇っているのか、あるいは、翠をおさえてみせろと俺に言っているのか。
 いずれにせよ、信頼と共に与えられた譲歩だ。いい結果を導くしかない。
「涼州がそれで安定するなら良いのですが……」
「錦馬超っていう看板はなかなかのものよ。翠に統治は期待できなくても、そのあたりは補う人材がいるでしょ」
「名前だけで治まることもあるからな」
 心配そうな月を詠が慰め、華雄が一人納得するように頷く。なんとなく、その光景に俺は安心する。
「名前と言えば……。色々考えたんだけど、董卓の名前は今回は出さずに済ませようと思うんだ。いいかな、月」
 俺の言葉に、月はなんだかほっとしたような笑みをもらした。
「私は、いまが楽しいですから」
 その言葉に嘘はないだろう。かわいらしいメイド服姿で微笑む月の姿は、とてもさわやかだった。
「月は戦に出ずに、洛陽で守将になる季衣か流琉を助けてあげてほしい。まあ、桂花と稟も残るはずだから、なにもないとは思うけど」
「はい。わかりました」
「で、ボクは?」
 不機嫌そうな口調で問い掛けてくる詠に、俺は一つ息を吸う。これを了承してもらえなければ、かなり不利になる。そんな申し出をするために。
「軍師として同道してほしい」
 ふんっと大きく鼻を鳴らされた。呆れたようにぱたぱたと手を振る詠。その様子に、俺は硬直してしまう。
「莫迦。そうじゃないわよ。賈駆の名前は出すかって話」
「え、あ、いや、それは……その前についてきてくれるかどうかってのが……」
「だから、あんたは抜けてるのよ。当然ついてくわよ。そうじゃなきゃあんたの補佐なんて誰もできないでしょ。ボクがいないでどうすんの」
 予想もしていなかった言葉に、安堵の息を吐くのも忘れ、彼女の早口の言葉をただ聞いているしかない。
「あんたがいなくなると、ボクと月はとてつもなく困るの。あんたは蜀はじめ、月を利用しようとする奴らから守るための防波堤なんだから。死んだり、失脚されたりしたら大変なのよ」
 詠の言葉に、月がくすくすと笑い声を上げる。詠の言葉は一面真実であるだけに、俺にはなにも言えない。
「詠ちゃん、ほんとはもっと大事なことがあるくせに……」
「な、なに言ってるのよ、月。月の安全以上に大事なことなんてあるわけないでしょ!」
「ふふ……」
 慌てる詠に対して、月の方は余裕たっぷりという風情。この二人は、こうなると、詠に勝ち目はないんだよな。
「そうか、よかった。よし、これで負けないな」
 ようやく、詠が参加してくれるということを心底から理解できた俺は、思わず喜びからそう口走ってしまう。そうして、またしても、詠に鼻で笑われた。
「単純ね。ボクだけで勝てるわけないでしょ」
「いや、負けないって言ったのさ。負けない、だろ?」
 微笑みながら言うと、しかたないというように溜め息をつく不世出の軍師。
「……まあ、いいけど。ところで、最初の質問に答えてないわよ、あんた」
「賈駆の名前は……できれば出してしまおうとも思うんだけど。月とはちょっと違うだろ?」
 おそらく、詠なら、賈駆の名前を伏したままでも、表沙汰にしてもどちらでも有利に運ぶ方策を考えていることだろうと思う。しかし、そろそろ賈駆の名前も復活するべきだろう。董卓の名前はあまりに重すぎて、まだだと判断したが……。
「まあね。わかったわ。涼州相手ならボクの名前も通用するからね、存分に使わせてもらうわ。この賈文和の名前をね」
 にやりと口の端を持ち上げるその笑みを、頼もしくも恐ろしく感じる俺だった。

「華雄は烏桓を率いて欲しいんだ」
「ああ、承知した」
 華雄の答えはあっさりとしたものだった。その飄々とした、自信たっぷりの態度に頼もしさを覚える。
「ありがとう」
「なにをいまさら」
「うん、でも、ありがとう」
 改めて礼を言うと、それ以上言うなとでも言うように饅頭をぱくつく華雄。一つ丸ごとかみ砕いて呑み込んだ後、彼女はしかめっ面をした。
「ただ、訓練は激しくなるな。烏桓は精強なだけに、率いる私との一体感をどうつくるか……」
「そうだね、そのあたりは翠や霞たちを除いた全体に渡っての急務だ。烏桓のことは、白蓮に訊くべきだろうな」
 そこまで言って、大事なことを忘れていたことを思い出す。以前、異民族のことに関して稟と話していた時に思いついたことを、ここで訊ねておくべきだろう。
「あ、そうだ、詠」
 おやつを食べ終えて、お茶を飲んでいた月と詠が揃ってこちらを向く。そのタイミングがあまりに一緒で、ちょっとおかしくなってしまうが、それをおさえて質問する。
「軍師としての詠に、一つ聞きたい」
「なに?」
「この戦、一切の略奪を禁じても、勝てるか?」
 戦争において、略奪を禁じるのは難しい。幸い、現在の曹魏の軍は訓練が行き届いているから、現地の住民を襲ったり町を荒らしたり等ということは避けられるが、敵軍が集積している物資は軍が接収して余裕があれば部下に配分するし、敵兵の死体から鎧や武器、金品などを拾うことまで禁止するのは困難を極める。
 一切の、というからにはそういう行為まで禁ずるということだ。
「本気? まさか、甘っちょろい気分で言ってるんじゃないでしょうね」
 詠の覗き込むような視線を受けて、軽く肩をすくめてみせる。
「道義的問題じゃないんだ、詠」
「ふーん?」
「焦土作戦をとられれば勝てないってことさ」
「しょうどさくせん、ですか……?」
 月がよくわからない、というように首をかしげる。ああ、言葉としては確立していないか。
「要は、城やその周りを全部焼き払われて、建物も打ち壊され、水に毒を入れられて、完全な荒野に変えられて逃げられたら、対処が難しいってこと。さすがに水源が使えなくなるようなことはしないとしても……。田畑の作物を刈り取って、既にある食糧を全て焼き払うくらいはしてもおかしくないだろ?」
「まあ、それは……ありうるかもね」
 城内を完全に打ち壊された場合、せっかく拠点を落としても何ひとつ手に入れられないこととなり、兵たちの落胆も大きくなる。それが続けば精神的負担も大きくなり、士気への影響もばかにならない。
 ついでに言えば街に民が残されていた場合、それを収容する必要もあり、さらなる負担を強いられることもありうる。
 果たして民の怨嗟を招いてまで、そこまでのことをやるかどうかは怪しいところだが、農耕民が多数派ではない農耕─遊牧混淆地帯では拠点をあっさり放棄してしまうという戦術も取りうるのだ。警戒しておいて損はない。
「蜀や呉を相手にするときは、それほど気にする必要はなかった。なにしろ、蜀も呉も、農業が主力だからな。城市とその周囲にいる民たちや田畑を犠牲にしてまでそんな作戦を行うはずがない。もし、相手の城で補給物資を手に入れられなくても、本国からの輸送経路は定まっているし、さびれていたとはいえ街道もある。最悪、民の恨みを買っても、その地で畑や田から刈り取る手もあった。だが、今回その手は通用しないだろうと思うのさ」
 俺の言葉を聞いて、詠は考えをまとめるようにこつこつと卓を叩き始める。
「たしかに、畑の数が南方とは段違いだしね。蓄えられている食糧を奪って行かれたら、それだけでどうしようもないでしょうね。そもそも、野にいる羌や鮮卑たちは天幕ごと全ての財産を持って去っていくでしょうし。たしかに対策が必要ね」
「でも、詠ちゃん。輜重隊をぞろぞろ連れて行っても……襲ってくれって言うようなものじゃない?」
「そちらに割く警備の兵が多く必要になるな。しかたないとはいえ、少々遠い」
 月や華雄の指摘ももっともなもので、詠はこつこつと音を鳴らしながら、考え続ける。
「稟たちはなんて?」
「必要な分は供給するとは言われているよ」
 だが、どこまで要求できるかは難しいところだ。全体の人数で言えば華琳の中央軍のほうが遥かに物資を必要とする。大軍だけに、しっかりと補給経路も計算されているだろうが……。
「結論を出すには、少し考える必要があるわ。もちろん、ボクも補給のことは考えていたけど、一番厳しい条件で考え直すことにする。稟や風、ねねとも相談させてもらいたいし。そうね、霞や翠達とも話したいわ。まず、参加武将を確定させて。蜀も参加するんでしょ。そっちとの調整がどうなるか、華琳に確認してほしいところね」
「ああ、わかった」
 確認事項を書き留め、詠にその経過を報告することも約束する。
「じゃあ、考えておいてくれるか」
「任せなさい。ボクを誰だと思ってるの。あんたなんかじゃ思いもつかない解決法を示してやるわよ」
 そう言ってメイド服で胸を張る軍師賈駆の姿を、頼もしく微笑ましく見守る俺たちだった。


「とにかく、参加武将を確定させて、その連中をしっかり集めなさい。いい、しっかり、よ?」
 と詠に念おしされたこともあり、今回北伐に参加することになる面々一人一人と話し合うことにして、城内を探し回っていた。部屋に呼び出せばすんなりと会えるのだが、そうするのはなんだか失礼な気がしたのだ。
「とりあえずは……っと一人目みっけ」
 指さすと、護衛に付いてきてくれた華雄がそちらを見て目を細める。
「ふむ」
 その視線の先にあるのは、剣を振るう白蓮の姿。
 踏み込む勢いと共に剣が空気を切り裂く。引き戻された切っ先が、茜色に染まりつつある天を指すと共に、踏み込んだ足が戻り腿が高く上がる。再び左右に振られる剣。その振られる先に、切り倒される敵のイメージが幻視できるような気がした。
 その動きはいずれも流麗で所作の一つ一つがきびきびと行われていた。
「剣舞みたいだ」
「たしかに、型通りで美しい。だが、それだけ、とも言えるな」
「さすが辛いな」
 俺から見れば、白蓮も武の達人。その剣尖の鋭さは、感嘆の対象だ。だが、華雄は遥かその先を行っている。俺からすれば信じられない程の高みにいる人間から見れば、あの剣舞さえまだまだというところなのだろう。
「筋が悪いというわけではないがな。そも、あれの本領は馬上だろう」
 そんなことを話しながら近づいていくと、白蓮のほうが気づいたらしい。剣をおさめ、汗を拭いてこちらに歩み寄ってくる。
「ああ、華雄に一刀殿」
「精が出るね」
「鈍らせるわけにもいかないからな」
 にっこりと笑いかけてくれるのを嬉しく思っていると、腕を組んだ華雄が口を開いた。俺は思わずどきりとする。まさか、あけすけな批評をするんじゃないだろうな。白蓮って、結構そういうの凹んじゃう性質だと思うのだけど。
「一ついいか?」
「ん? ああ」
「長柄は使わないのか? 馬上で使うなら長柄のほうがよかろうに」
 華雄の指摘は俺の思ったのとはまるで違っていて、こっそりと安堵の息をつく。
「ああ……うん、私は、ほら、自分の軍を率いていたあとは、桃香のところだったろう? あそこは、愛紗……えっと、関羽に張飛に趙雲、呂布と強者がいたからな。私自身は指揮に専念することのほうが多かったんだ」
 それで剣か。
 たしかに、武将同士の戦いで前面に出て戦わないのならば、攻撃的な武器はそれほど必要ない。自分の身を守れれば充分として、攻撃範囲は狭いものの使い勝手がよく、指揮権や王権の象徴となる剣や刀を使うという選択をするのもわかる。実際に指導的立場にある麗羽や雪蓮、劉備さんは剣を使っているはずだからな。
 従う部下にしても、己の部隊の将には戦うより、指揮に注力してもらうほうが安心だろう。
 これが恋のようなとてつもない武勇をもつ将ともなると、逆に将軍自ら前に出てその力を示すことで部下を鼓舞する方がよかったりもするのだが。
「しかし、そうだな、今後はそうも言ってられないな。久しぶりに矛か偃月刀でも使うか……」
 矛は斬ることと刺すことどちらにも使えるが、偃月刀は基本的になぎ払う武器だ。やはり、馬上で使うには、振り下ろし、なぎ払うという動作の方が便利なのだろう。刺突は強力だが、動き回る馬の上からではなかなか難しいものだ。そういえば、翠とたんぽぽはなにを使っているのだっけ。
「霞に相談してみたらどうだ?」
「それがいい。たしか、真桜が打った偃月刀の予備があるはずだ」
 おや、そうなのか。俺はただ単純に霞なら馬上で使う武器のことには詳しかろうと思っただけだったのだが。
「霞や愛紗が使ってるやつだろう? 私なんかが扱えるか?」
「たしかに、使いこなせぬ武器を使えばかえって命とりとなるが、そこは振るってみて判断すればよかろう。下手な武器を使って折れてしまった、割れてしまったではたまらぬ。その点、霞も使っている真桜の武器なら信用できるのではないか?」
 たまに爆発するけどな、と言いたくてたまらなかったが、ここは我慢。実際、武器はそんなことはないからな。なにかの機構がついていると、おかしなことが起こる可能性が格段に高まるけど。
「それもそうだな。じゃあ、それは聞いておくよ」
 後に聞いたところによると、霞のところにあった予備というのは、飛龍偃月刀の改良品として試しに作ってみたら関羽の青龍偃月刀よりもかなり軽く出来てしまったため、霞からダメ出しされた物だったらしい。破壊力で言えば重い方がいいので、あの真桜も素直に作りなおした結果が現在の飛龍偃月刀なわけだ。だが、白蓮にはその軽さがあっていたらしく、譲り受けて白龍偃月刀と名付けたとか。振るった時の威力は青龍偃月刀や飛龍偃月刀より落ちるのかもしれないが、戦場で使うには充分すぎる物のようだ。
「それで、なにか話があったんだろう?」
 汗もひいたらしい白蓮が訊ねてくる。ふと見ると、彼女が背にした空が真っ赤に燃え上がり、まるで彼女の髪と同じような色合いをしていることに俺は気づいた。
「ああ、北伐の軍を起こすのは聞いていると思うけど……」
 ひとしきり、北伐の概要を説明し、左軍の陣容もまた説明する。そこに、白蓮を必要としているということも。
「つまり、私に騎兵を率いて参加しろということだな」
「うん、そうしてくれたら嬉しい。白馬義従の戦闘力は是非欲しいし、それに、烏桓も華雄や恋に任せるにしたって、白蓮の意見を聞きたいし……」
「鎮北府の開府はどうする?」
「ああ、それは、鎮東鎮北府として開府することになるかもしれないから……そうだね、まずは北伐後かな。北伐後の領地経営にも鎮将軍は関わるだろうから」
「そうか、了解した」
 重々しく白蓮が頷いたところで会話が途切れ、沈黙が落ちる。迷っているのだろうとしばらく待っていると、奇妙な空気が流れ、華雄と白蓮が揃って首をかしげる。
「一刀殿?」
「ええっと、あれ? その、北伐には参加してくれるのかな」
 その言葉にさらに首の角度が傾く白蓮と華雄。あ、実はこの二人、瞳の色がそっくりだな。どちらも綺麗な深い琥珀色だ。
「え、あ、ああ、もちろん」
「先程了解したと言っていたではないか」
 あらら、そうだったのか。華雄に指摘されてようやく気づく。
「いや、ごめん。こっちが受け取り損ねたみたいだ。じゃあ、よろしく頼むよ、白蓮」
「ああ」
 ようやく普通に戻った空気の中、軽く頷いてから、彼女は小さく笑った。
「でも、おかしなやつだな、一刀殿は」
「え?」
「手勢を連れて参陣しろと命じれば済むことじゃないか」
 いや、それは、と言いかけて、華雄がくつくつというおなじみの笑いの後で口を挟んできた。
「こやつは、そういうことが出来んのだ。まだまだ甘い」
「へぇ……」
 不思議そうに俺を眺める白蓮。そして、俺は四つの琥珀の瞳に見つめられ、なぜかだらだらと脂汗を垂れ流すのだった。


 その後、麗羽たち三人と祭に参加を快諾してもらい、あとは霞、恋、陳宮、それに子龍さんと相談だな、と確認をしてから、床に就いた。
 昨晩、遅くまで思春と祭につきあわされていたせいか、今日、皆をまわったのが案外堪えたのか、夜具をかぶり目をつぶっただけで、体が寝台に沈み込むような感覚を覚え、意識が途切れた。
「……さま」
 夢か現か、どこかで柔らかい声がする。思い切って呼びかけているのに、なかなか届かない。そんな声。
「……主人様」
 呼ばれているやつは早く反応してやればいいのに。そんなことを思う。なぜなら、その声に篭められた感情は、あまりにも……。
「ご主人様」
 不意に、意識がクリアになり、耳に聞こえていた声がはっきりと認識される。明かりを落とした部屋の中、俺にのしかかる影一つ。
「ご主人様、起きた」
 総身に走った悪寒は、その声から正体を悟った途端一瞬で去り、代わりに襲ってくる驚愕と混乱。
「な、え、恋?」
「うん」
 俺が動こうとすると、影法師のような恋はおとなしく寝台の脇に立つ。俺は上半身を起こし、彼女に対した。明かりはないが、なんとかこの距離なら顔は見えるか。微妙な表情は読み取れないな。
「恋、お話ししにきた」
「あ、朝になってからじゃだめだったのか?」
 ん、と恋は少し考え込むようにしていたが、ふるふると首を横に振った。
「……朝、人たくさんいる」
 どうやら、人に聞かれたくない話題らしい。俺は恋に断って一つだけ灯火を入れ、寝台に腰掛ける。恋もよかったら座るよう促すと、一つ頷いて、同じ寝台の上に腰掛けた。いや、椅子があるからそっちでもよかったのだが……。
「それで話って?」
 恋はしばらく小さな炎の揺らめきを眺めながらためらっていたようだが、顔を上げて俺を見つめてきた。
「ん……ご主人様、ねねと仲悪い?」
「え? そんなことはないと思うけど……って、ああ」
 不意の質問に驚いてしまう。どうやら、恋は陳宮が俺にちんきゅーきっく──はて、彼女はどこでキックなんて単語を知ったんだろう?──を繰り出してくるのが気にかかっていたらしい。
「そうだな、仲が悪いってことはないよ。陳宮は、呉につれてけなかったろ? それで一人置いてかれて、ちょっと拗ねてるんだよ」
「でも、蹴ったりするの……よくない」
 うん、俺も非常に良くないと思います。本気で危ないからな、あれ。まだ小さくて軽い陳宮だから耐えているが、これ以上きつくなると耐えられる自信がない。
「まあ、陳宮だって軍師だ。頭じゃあ理解しているはずだよ。あの頃、月たちを守るためには俺に同道させるのが一番だった。そのためには恋が俺の護衛って触れ込みでついてくる必要があったし、恋の家族の面倒を見る人間も必要だった。陳宮だって、自分が残らなきゃいけなかったってことはちゃんと理解しているんだよ」
 ただ、理解しているからといって、鬱憤が溜まらないかというと、それはまた別の話だ。そのことをどう説明すればいいだろう。俺は考え考え言葉にしてみる。
「んー、なんて言うかな。頭では理解していても、心では納得できないことってあるんだ。頭と心が別々というか。恋だって、心は急くのにどうしてもおなかが減っちゃう時ってあるだろ? それは体と心が別々の時。陳宮は、俺に対しては頭と心が別々に反応しちゃってるんだろうね。しばらくしたら、落ち着くさ」
 後は単純に、恋と仲がいい相手に対して嫉妬のようなものを感じているのはあるだろうけれど。そのあたりは、これからゆっくり解決していけばいい。
「頭と心……体と心……」
 考え込む恋の頭に手を乗せて、ぽんぽんと軽く触れてやる。振り払われることはなかったので、その赤い髪の柔らかな感触を堪能する。
「俺は、恋とも陳宮とも仲良くやっていきたいと思っているよ」
「ん、わかった」
 ならいい、という風に頷く恋の頭から手を離すと、あ、と小さく呟くのが聞こえた気がした。
「……もひとつ、訊いていい?」
「ああ、もちろん」
 見上げる恋の赤い瞳に、灯火の光が反射する。それはゆらゆらと揺らめいて、いつもと違う恋の真剣な表情を映し出していた。
「さっき、頭と心と体が別々になる時があるって言った」
「うん、言ったね」
「恋も最近、そういうことがある」
 どうやらかなり真剣な相談のようだ。俺は身を乗り出して、彼女の言葉を聞く。なにか気にかかることでもあるのだろうか。あるいは、恋を悩ませるようなことがあるのだろうか。
 もしかすると、戦が近いことが彼女の懸念なのかもしれない。飛将軍とまで言われた呂布だ。戦の匂いをかぎつけていないはずがない。
 だが、彼女が口にしたのは、あまりに意外な言葉だった。
「遊んでて楽しいのに、ご主人様のこと見てたくなる」
 今日の昼間の視線。あれは、陳宮と俺の仲を心配していたのだろうと先程の話で考えたが、どうやらもう一つ意味があったらしい。
「でも、見てると、胸のあたりが苦しい」
 そう言って、彼女は自分の胸に手をあてる。
「苦しいのに、目がはなせない。もっと近くに行きたくなる。……よくわからない。恋、おかしい?」
 天下の武人の顔が不安そうに歪むのに、俺は慌てて否定する。
「いや、おかしくはない。うん、おかしくない。ありえる話ではある……」
 そう、ありえない話ではないのだ。なにしろ、目の前にいるのは、呂奉先という武名の前に一人の可愛い女の子なのだから。
 だが、その一人の少女が俺に……?
「……よかった」
 心底ほっとしたように呟く恋の存在感が急にひしひしと感じられて、俺は身じろぎもできなくなる。
「恋、おかしいと思って、紫苑と桔梗に相談してみた」
 よりによって……。俺は心の中で頭を抱える。
 恋としてみれば、陳宮はもちろん、詠や月ではあまりに近しくて、心配させてしまうか、迷惑がかかるとでも思って、蜀にいた頃の知り合いを頼ったのだろうが……。
「そしたら、ご主人様とちゅーしてみればわかるって言ってた」
 ずい、と近づいてくる恋。距離がほとんどなくなり、彼女の鼻が俺の首筋に触れてしまうくらいだ。ふんわりと香る彼女の甘い匂いにくらくらしそうになる。
「ちゅーしたらわかる?」
 さらに近づいてくる体を、はねのけるわけにもいかず、けれど、あまりの刺激に耐えかねて、彼女の肩に手を置く。
「ある意味では、わかる、かな」
 少し体を離し、真っ直ぐに恋の目を見つめて、ゆっくりと話す。
「でも、恋。ちゅーってのは、本当に大事な人とすることなんだ。確かめてみるとか、そういう理由ですることじゃないんだ」
 もちろん、そういう理由でする人もいることだろう。あるいは、自分で気づいていても、認めたくない気持ちを行動で示すことで納得するなんて面倒なやり方を取る人間もいる。
 だが、今回の場合、恋はまるでそういう知識がない。そこにつけこんで口づけを奪うのは、なにか違う気がした。
 たとえば、これが、恋をけしかけることとなった桔梗や紫苑なら、また違うのだろうが。
「……」
 恋は顔をうつむかせて小さく呟いていた。その声を聞くために耳を近づかせてみると、彼女はその言葉を繰り返した。
「ご主人様、恋、大事じゃない?」
「いや、それは違う!」
 咄嗟に大声になってしまった。間違いなく、俺は、彼女を大事に思っている。そのことははっきりさせておかなければいけない。
 それが恋慕なのか、あるいはもっと違う感情なのかはわからないけれど。
「俺は恋のこと大事に思ってるよ」
「恋も、ご主人様、大事」
 再び上がった顔は、とても真剣だ。
 なにしろ、あの恋の眉根に皺が寄っている。俺はその顔を見て、抵抗を諦めるしかなかった。
 そのまま、体ごと引き寄せて唇を合わせる。目を真ん丸に見開いた彼女と視線を交えながら、恋の柔らかな唇を貪る。
 体中の感覚が一点に集まったような錯覚。繋がったその場所から交換される二人の体温。
 それは、わずかで、それでいて随分と長い時間。
「ちゅー……?」
 唇を話すと、恋が不思議そうに訊ねてきた。
「うん。そうだよ。どう?」
「余計に……変になった気がする。でも……」
 重ねられた二つの手。彼女は、自分の心臓のある場所にその手を置いてみせた。
「ここが、おなかいっぱいになった」
 胸がお腹一杯、とはまた恋らしい言葉だ。俺は思わず微笑んでしまう。すると、それを見上げていた彼女がぽつり、と呟いた。
「なんか……眠くなった」
 え?
「一緒に寝る」
 疑問に思うがはやいか、彼女の手が俺を掴み、寝台の上にどさりと寝ころがる。俺はすっかり彼女に抱きしめられる形だ。
 いや、これは、俺が抱き枕代わりにされてるのか?
「おい、恋……」
 もがいて脱出を試みるが、がっちりと恋の力で押さえつけられ、動くこともできない。しかも、頭の上ではすでにすーすーと規則正しい寝息が立てられている始末。
「まあ……いいか」
 とりあえずは、まあ、いいか、俺はそう思う。
 お互いの胸にある感情がなんなのか、俺にも、そして、恋にもわかっていないだろう。
 だが、いまはそれでいいのだ。
 これからゆっくり育てていけばいいのだから。
 そうして俺はぎゅっと掴まれている恋の力に抗することなく、その柔らかな体に埋もれて、眠りの国へと落ちていくのだった。


 さて、結局一晩を一緒に過ごした──といっても本当に一緒に寝ただけだが──恋に、陳宮と共に北伐への参加をとりつけたことで、残すは霞と子龍さんとなった。霞は魏を抜けるという大事なので、確実に話す時間を取ろうと今日の昼に会う約束を既にしている。
 すると、あとは子龍さんだけということになるが、あの人は、本当に神出鬼没で、どこにいるのやら。朝の時間なら、蜀の人達と一緒にいるかと使者を出してみたのだが、既に早朝にはどこかに出かけていたらしい。
「……恋、知ってる」
 猛然と朝食をたいらげた恋が言う。俺のぶつぶつ呟く恨み言に反応したようだ。
「え?」
「星の居場所」
「いまいるところがわかるの?」
 どうやら、恋は子龍さんの居場所がわかるらしい。彼女は、んー、とどこかあらぬ方を見てから答える。
「……この時間だと、市に見回りに出てる」
「市ぃ?」
 なぜ子龍さんがそんなことをしているかはさっぱりわからなかったが、なにはともあれ恋の言葉に従って、俺は街へ出る用意をはじめるのだった。

 実際に市に来てみると、恋の言った意味がよく分かった。
 そこでは、華蝶仮面とチンピラとの大立ち回りが繰り広げられていたのだった。
 だが、それも、方々から駆けつけてくる警備隊によって終幕を迎えようとしていた。チンピラを叩き伏せ、台詞とポーズをばっちり決めてから、華蝶仮面は大きく飛び上がり、どこへともなく消えていく。その挙動は素早く、俺にはどこに行ったかもわからない。
 だが、恋にはその動きが見えていたらしい。
 すっと上がる指が、一つの路地を差している。
「……あの裏」
「ん、急ごう」
 周囲に群れる野次馬を縫って、路地裏に向かう。いまは、人々の意識は捕縛されるチンピラ達と、野次馬を解散させようとする警備隊に向かっているので、俺たちの行動を咎めようとする人間はいない。まあ、いたとしても、警備隊には俺の顔は知れているはずだが。
 狭苦しいその路地裏にたどり着くと、ちょうど子龍さんが仮面を外そうとしているところだった。
「子龍さん」
 一瞬、ぎくり、と体が震えたように思った。
 だが、その指はかえってゆったりとその仮面を胸元に収め、彼女はこちらに優雅に振り返ってみせる。
「これはこれは。まずいところを見られてしまったようですな」
「いや、仮面のことなら、南鄭で初めて見た時から気づいていたよ」
 それまで余裕の表情だったのが、一瞬にして焦りに包まれた。子龍さんのこんな顔初めて見るな。
「それは……。さすが、と言うしかありませぬな」
 いやいや、なんで気づかれないと思うんだ、あれで。
「あの関雲長たちでさえ気づかないというのに。いや、恋には最初から気づかれておりましたが」
「……恋も、前、ちょうちょ、つけてた」
 恋まで華蝶仮面やってたことあるのか。そして、関将軍は気づかないのか。色々とすごいぞ、蜀。
「まあ、別にばらしてまわったりはしないよ」
「それは助かります」
 そう言うと、表情が目に見えて和らぐ。俺は路地を出て歩こうと彼女を誘った。
 すでに野次馬たちが三々五々解散しはじめている脇を何食わぬ顔で歩く俺たち。
「しかし、この街の警備隊は素早いですな」
「何人かで組にして連絡がすぐに行くよう組織したからね」
 警備隊は俺が任されていただけあって、様々に実験をしたからな。うまく行かなかったものもあるが、しっかりと根付いたものもある。俺がいなくなった後は凪が引き継いだわけだが、郷士軍の運営で忙しいはずの今でも彼女はたまに街中の警邏を担当してもいる。その勤勉さと責任感には頭が下がる。
「それに、数が違う」
 事件の処理に走り回る隊員のうちに顔見知りを見つけて、手を振る。あちらは気づくと直立不動だ。若い隊員の間では俺のことが妙に伝説化している感がある。沙和が教練の時に景気づけに語っているせいもあるかもしれない。
 仕事に戻るよう身振りで示し、二人と共に歩を進める。
「特に郷士軍が出来てからは、軍と訓練が一本化されたからね。所定の数を供給できるようになったんだ」
 俺が隊長をしていた頃は、各部署の充足率が十割になることは、まずなかった。せいぜい九割といったところだったろう。それが、軍と敷居がなくなることで、充足率はほぼ十割を実現することとなった。平和になって、軍の人間を避けるようになった事情があるにせよ、喜ばしいことだ。
「それにしても……いや、さすがは帝都洛陽というべきでしょうな」
 子龍さんが称賛した洛陽の街は、天子のおわす帝都であり、魏の都でもある。そのどちらの比重が大きいのか、俺にもよくわからない。民にとっては、それはほとんど同一の意味となっているのではないか。
 道を行く人々の動きを眺め、そんなことを思う。
「今日は子龍さんと話をしに来たんだ。紫苑に言われてね」
 華蝶の騒ぎの余波もないあたりにまで来たところで、本題を口にする。雑踏の中だが、俺たちの会話を聞き取れる人間はあまりいないだろう。なにしろ、子龍さんも恋も武器を携えているから、自然と人が距離を取る。
「ああ、北伐参加の件ですな」
 子龍さんは通りがかりに屋台の肉まんを三つ買い上げ、一つを俺、一つを恋にくれる。ありがたくいただいて、はむはむと熱いそれを頬張りながら歩く。
「簡単に言いますと、鳳統の代わりに私が参加するのではいかがか、というお話ですよ」
「ほう」
「紫苑が懸念するようなややこしいこともありますが、なにより、戦場は涼州。その地を良く知る錦馬超や賈駆を差し置いて鳳雛が出張るほどのことはありますまい。と言って魏延は──私が言うのもなんですが──まだまだ危なっかしい。翠たちは主力ですから、お守りなどさせている余裕はありません。となれば、私あたりが適任であろうと」
 子龍さんの言は、筋が通っているように思える。羌相手となれば、翠やたんぽぽの経験と、賈駆の知識が物を言う。そこに立場的に上の士元さんを据えるよりは、子龍さんのようなそつなくこなせる人を置いておいたほうが、なにかと都合がいいだろう。
 だが、士元さんを送り込むことで立場を上にしておきたいと思う人達も本国にはいるだろう。そのあたりと衝突したりはしないだろうか。
「それで、蜀の人達は納得するのかな? 子龍さんが参加してくれるとなれば心強いけど……」
「そこは、左軍の大将である御方に一筆書いてもらえば、桃香様を説得するのもたやすくなるというもの。いかが?」
「俺の一筆か……」
 悪くない落としどころかもしれない。ごり押しと言われない程度の『要請』にしておけば、反感を招くこともないだろう。
「うん、わかった」
 よろしく頼む、と頭を下げる。
「重畳、重畳。実を言いますと、北郷殿の指揮の程、見てみたい気持ちもありましてな」
「おやおや」
 子龍さんの流し目は、本気なのか戯れているのか、奇妙な色をしていて、俺は冷や汗が背を流れるのを感じていた。
「あまり過度に期待しないでくれよ」
「まあ、実際に見せるのは北辺の民に、ですかな」
「そうだね。まあ、彼らにとって、羌や鮮卑と俺たちと、どっちが迷惑なのかはよくわからないところだけれど」
 戦を起こす大義はあっても、これは侵略に他ならない。戦というものはそういうものだし、ましてや、華琳は覇王だ。そのことにいまさら疑念をさしはさむつもりはないが、そうであるという事実だけは忘れてはいけない。
「錦馬超が彼らの希望となりましょう。それを裏切らぬことです」
 子龍さんの言葉に、ぎり、と奥歯を噛みしめる。俺は、随分と翠に重荷を背負わせてしまっている。
「肝に銘じる」
 短く言うと、それまでの雰囲気を振り払うように子龍さんが明るく言葉を放つ。
「では、私は、文をいただいたならすぐにでも蜀に発つこととしましょう」
「あれ、桔梗の出産まではいるんじゃなかったの?」
「いやいや、その桔梗から頼まれているのですよ。劉玄徳の字のうち、一字を子の名としてもらい受けられないか、という願いを書きつけた書簡を届けてくれ、とね」
 桔梗に、名前を考えようかと言ったら、あてがあるからしばらく待ってくれ、と言われたのはそれだったか。そうすると、厳玄か厳徳になるのだろうか?
「それに、うまく行けば私も北伐に派遣され、再び洛陽に来ますからな。赤子の顔はそれまで楽しみにしておくということで」
「そっか。じゃあ、頼めるかな。文面は紫苑や桔梗とも相談することにして……。そうだな、明日には渡せるようにしておくよ」
「お願いします」
 話がまとまったところで、ほっとして彼女に笑みを向ける。子龍さんからも艶然とした笑みが返ってきて、俺たちは二人で微笑みあう。そこに、つんつん、とひっぱられる感覚があった。
「……ご主人様」
「ん? どうした、恋」
「……あれ、おいしそう」
 指さす先には、いま揚がったばかりの胡麻団子を並べていく屋台がある。香ばしい香りがここまで漂ってくる。たしかにおいしそうだ。
「んー、そんなに食べて、お昼ごはん入るか?」
「……大丈夫」
 こくこく頷く恋。まあ、彼女は大丈夫だろうな。俺と子龍さんは先程の肉まんもあって、危うい気がするが……。軽く体を動かせばいいか。
「じゃあ、今度は俺が出すよ。子龍さんも食べるよね?」
「ええ、ありがたく頂戴いたしましょう」
 そうして、俺が胡麻団子を注文していると、その後ろで動く気配があったので振り返る。そこには子龍さんが恋を捕まえて、なにか耳打ちしている光景があった。
 そうして何事か囁かれている恋が、妙に赤くなっているのが気にかかった。
 一体、なにを言われたのだろうな?


「ええで。じゃあ、これからうちは一刀の部下やな」
 腹ごなしにと、恋相手に──恋自身は無手の上に手加減とも言えないくらい、慎重に力を抜いてもらって──練兵場で軽く鍛練をしていたら、昼に会う予定だった霞が現れた。ちょうどいいと、魏を抜けて、鎮東将軍として働いてくれないか、と話した途端の反応がこれだった。
 なんとも軽いのは霞ならではにしても、その言い様には少々ひっかかる。
「いや、そりゃ、大鴻臚の役職としては鎮将軍を監督することになってるけど……。あ、あと北伐でも俺が大将だな」
 北伐への参加も共に了承してくれているから、そのことだろうと納得する。しかし、突きたてた飛龍偃月刀にもたれかかるようにしている霞は、それをぱたぱたと手を振ることで否定した。
「ちゃうちゃう。魏の配下から、北郷の下に移るっちゅうこっちゃ」
 その言葉の意味を理解して、俺は棒立ちになってしまう。
「そ、それでいいのか?」
「ええんちゃう? なにしろ、昔の仲間もたんとおるし。なあ、恋」
「……ん」
 こくりと頷く恋の動作は常と変わらないが、その唇がほんの少しだけ持ち上がっている。その笑みは明らかに霞を歓迎していた。
「考えてみれば、以前の董卓軍再結成か」
 董卓に賈駆、呂布に陳宮、張遼と華雄。六人がこの洛陽で再び集まるというのは皮肉でもあり、幸いでもある。あれだけの戦乱を経て、死者がいないということは。
 まあ、董卓はいまだに死んだことになっているのだけれど。
「せやせや、古巣に戻るだけや。どうせ、これからも大将との仲はかわらへんのやろ」
「まあ、実質的にはな」
 なにしろ、華琳は魏の頂点であると同時に、漢の丞相でもある。各国の武将が漢の将軍である以上、そして、それ以前に、魏、呉、蜀という三国が漢の権威を前提として成立している以上、誰であろうと華琳に従わないわけにはいかないのだ。もちろん、それに抗することはできるが……。霞がそうするとは思えない。
「せやったら、漢の将軍なんか一人でやるより、月っちたちと一緒の方がええに決まっとるやん」
 霞は、すっと真っ直ぐ立つとその顔を引き締めた。凛然と立つその姿に、俺は思わず震えが走るのを感じていた。
 ただ、真っ直ぐ立っている、それだけなのに、彼女のその姿のなんと美しいことか。それは、千人、万人を畏怖させる、一人の武人の姿。
「一刀の下なら、うち、なんも文句ないで」
 深い緑の瞳が、俺を貫く。
「ありがとう、霞」
 俺は、何故、こんなありふれた言葉しか返せないのか。そのことがもどかしくてたまらなかった。彼女に対する感謝は、こんなものでは表現しきれないというのに。
 だが、俺が他の言葉を探している間に、彼女はふにっと力を抜き、猫のような笑みを見せて、その体を俺にすり寄せてきた。
「あー、でもぉ。うちも『ごしゅじんさまぁ』って呼ぶほうがええか? ん?」
「お、おい、霞」
「いやちゃうやろ? なあ、ごしゅじんさまぁ」
「そりゃ、いやじゃないけど、一刀がいいよ、一刀が」
 腕を俺の首にかけて、さらにしなだれかかってくる霞。恋が呆れているのか驚いているのかよくわからないような顔で見てるぞ。
「えー? でも、恋たちはご主人様言うてるやんかー」
「と、とにかく、あれだ……そうだ。お昼でも食べに行こう、な、霞、恋」
 そうやって無理矢理ごまかして、霞の腕をすり抜ける。
「一刀のいけずー」
 霞の恨み言を背に、俺は厨房に向けて駆け出すのだった。


 厨にはたまたま月と詠、陳宮という三人がいたので食事を作ってもらい、天気もいいということで、庭に卓を出して一緒に昼食を摂ることになった。なぜだか知らないが、いつの間にか麗羽たちと祭、それに白蓮まで加わっている。恋のことを考えて分量を作ったとはいえ、猪々子もいるし、大丈夫だろうか。足りなければ、また厨房から持ってくるか。
「ほほう、かつての董卓の軍が全て旦那様の下に集うことになりましたか」
 話の中心はどうしても霞の移籍のこととなる。
「ふむ、これで背後を気にせず戦えるな」
「まーた、猪突する気かいな。あんたと恋と二人とも突っ走られたら、うちじゃ止めきれへんからやめてくれるか」
「……恋、ご主人様守る」
「あー、それがいいかもね。こいつ弱っちいもんね」
「弱いですー。なんで魏軍にこんなのがいるか、真剣に疑問に思ったこともあったです」
「詠ちゃん、ねねちゃん、そんな風に言うのはよくないよ……」
 和気藹々と話す六人を俺は微笑みながら眺めている。途中、少々胸に刺さる発言があったが、そこは大きな度量で気にしないでおくのが男というもので……。
 いや、まあ、実際弱いけどさ。この面子の中なら、軍師の二人を除いたら最弱だけどさ。
「おーっほっほっほ、白蓮さんといい、わたくしに負けた連中ばっかりですわね」
「また、姫。自分が話題の中心に出たいからってそういうことを言っちゃだめですってば」
 金髪を振り立てて高笑いを放つ麗羽は、斗詩にたしなめられても、まるで止める気がないようで、さらに高笑いを続ける。猪々子は気にもせず、月の手料理を食べ続けている。
「負け組ですわ、負け組!」
「う、うう……」
 見事に白蓮にダメージがいっているし。詠と陳宮は顔を赤くして怒りをこらえている。うん、ここで挑発に乗ると、余計話がこじれるから、さらっと流して……。
 そう願っていたのだが、さすがに耐えきれなかったらしい詠が、持っていた箸をばしんと卓に叩きつけた。
「ちょっと、ボクたちはそこの白蓮と違って、あんたに負けたわけじゃないわよ! あんたの尻馬に乗った連中が多かっただけでしょ! 訂正しなさいよ!」
「ううう……」
 詠、白蓮に追い打ちかけるのはやめなさい。
「それをまとめあげられた、わ・た・く・しの力こそが重要ですのよ。負けて蜀に逃げた軍師さんは黙っていらして」
「ぬぐぐぐ……」
 あまりの怒りに詠が言葉も出せないでいる。ちなみに、陳宮は激昂しようとしたところを、恋に止められている。すばらしいぞ、恋。
「儂は元はといえば孫呉の軍なのじゃがなあ」
 ゆったりと酒杯を呷りながら、祭がからかうように言うのを、麗羽は冷然と受け止めた。
「あら、孫策さんだってわたくしではないですが、袁家の下にいたじゃありませんの。孫堅さんにだって、随分資金を援助していたはずですわよ。袁家のお金を、ね」
「そ、それはそうじゃが……堅殿への援助など、ぬしはまだむつきもとれない頃の話ではないか。そのような古い話むしかえさんでも」
「ですが、袁家の風下には変わりはありませんわよ」
 袁家といっても孫呉が関わっているのは美羽の家の方なのだが、血筋的には麗羽も関係者と言えなくもない。ただそれを言うと、四世に渡って三公を輩出した袁家に関わっていない豪族なんて、ほとんどいないことになるのだが。少なくとも黄巾の乱以前の漢では袁家の影響力は絶大だったわけだし。
「じゃ、そのお偉い袁家様が、どういう末路を辿ったか、覚えてないわけ? その後、白蓮みたいに働いたりもしなかったくせに……」
「白蓮さんは、しかたなく逃げたんじゃありませんの、わたくしたちは……」
「そも、赤壁ではですね……」
「じゃが、官渡においては……」
「だいたい、建業まで攻め寄せられて……」
「うう、どうせ私は……」
 話はだんだん熱狂を帯びていく。ついには、皆で黄巾の乱以降の戦いを一つずつ挙げていくほどになっていった。
「いい加減にしろ」
 ぎゃーぎゃーと言い合う面子を眺めていた華雄が、明らかに怒りの篭もった低い声で一言言うと、それまでの騒ぎが嘘のようにぴたりと静まる。論戦に参加していた者は皆、驚いたように固まって華雄を見ていた。
「負け組というなら、みな負け組ではないか。もちろん、私もそうだ。ここにいる中で負けなかった者など、一人しかおらぬではないか」
「せやな。負け知らず言うたら一刀だけちゃう?」
 同じく一歩引いて眺めていた霞が指摘する。指名された俺は肩をすくめるしかない。
「華琳と一緒にいたからさ」
 これはもう間違いようのない事実だ。覇王の側にいたから勝利を味わえただけで、俺自身が強いわけでもなんでもない。そこを勘違いすると痛い目にあう。
「それに、勝ち負けなんて大した問題じゃない。そう教えてくれたのは、他ならぬ麗羽じゃなかったっけ?」
「あ、え……それは……」
 俺の問い掛けに、目に見えて動揺する麗羽。あの麗羽が縮こまろうとするなんて、信じられるだろうか。いや、実際には膨大な金髪のせいで、ボリュームが小さく思えることがないのだけれど。
「まあ、詠たちもわかってやってほしいんだけど、麗羽だって本気で負けたからどうとか言ってるわけじゃないんだ。友達と懐かしい話をする時ってあるだろ? あれと同じで、みんなとじゃれあいたかっただけさ。」
「あ、あの、我が君」
 俺になにか言いたそうな麗羽の顔は真っ赤だ。こっぱずかしいだろうが、恨みを残すようなことがないよう、きちんと説明してやらないとな。
「アニキってたまに酷いよな」
「しかたないよう、麗羽様単純なくせにわかりにくいし……」
 あなたたちのほうが酷いですよ、猪々子さんに斗詩さん。
「まあ、そんなわけだから、白蓮も落ち込んでへたりこんでないで、ちゃんと座ってご飯を食べよう」
 そう言って、俺は、地べたで庭草を抜き続けている白蓮の手を取る。
「うう、わかったよぅ」
 彼女が席に戻ったところで、俺は皆の顔を見渡す。ずらりと並んだ武将たちは、みな、宝物と言えるくらい大事な人達だ。
「過去はある。それは俺たちを形作ってくれる、貴重な経験だ。だけど、それを生かすべき先は未来だと思う。過去がつくってくれたいまを、明日を楽しもう。そして、いまは、こうしておいしいものをみんなで食べよう」
 俺は、取り分けられた鶏肉の炒めものを箸でとって食べ始める。それを見ていて、皆もまた箸を進め始める。
「ま、まあ我が君がそうおっしゃるなら……」
「しかたないわねー」
「酒もいかがかな、旦那様」
 ぶーたれたり、微笑んだり、無言でばくばくと食べていたり。皆、それぞれに重要なことやどうでもいいことやいろんなことを話しながら、食べ、かつ飲んでいた。
 これこそが、俺の守るべきものなのだろうな。その光景を見ながら、そう思った。
 大切な人達、たわいのない会話、かけがえない時間。
 そして、俺は、その守るべき者たちを率いて戦いに赴く。守るために戦い、共に生きるために死地へ向かうことも命ずる。
 なんという矛盾、なんという不合理。
 だが、それこそが、俺がいま生きている世界なのだ。
 ……たとえ、それを了承できなくても。


 左軍の陣容が定まってから二週間ほどが経った。その日も詠たちと羌を仮想敵とした訓練計画をどのように練ればいいかということについて話し合っていると、祭が部屋に駆け込んできた。
「旦那様っ」
「なにかあったか?」
「はい」
 祭の言葉に、部屋の空気が一瞬にして緊張したものに変わる。武官達は重心を移動させて、いつでも動けるような体勢に移っているのがわかる。
「いえ、軍や政治のことではありませぬが、これはこれで一大事。桔梗が産気づいたようじゃ」
「え」
 部屋の緊張した空気は、一転、別のものに変わる。喜びと不安が半々の、何とも言えない期待に満ちた空気の中、俺一人が立ち上がり、手に持った書類をばらばらと落としている。
「いまは、紫苑がついておる。産婆もおるし、ひとまずは問題ないじゃろうが、儂も産室に行くつもりじゃ」
 声が出てこない。なにか喉につまった感じなのを、咳払いして無理に押し出す。
「あ、ああ。頼む、祭」
 その声に、祭は踵を返し、走り去っていく。その背を見送りながら、俺はまだ呆然としていた。
 稟の時は、なにしろ絶影のすさまじさに魂が半分抜けたような状態で、さらにはもう産室に入っていて、直に会うこともできないと告げられたから待つしかなかったが……今回は事情が違う。
 たしか、陣痛がはじまっても実際に生まれるまでは、しばらくの時間があるはずだ。その間、俺にもなにかできるに違いない。
 しかし、惚けた頭では、なにをすればいいか、思いついてくれない。
 しかたなく、俺は部屋の中で最も頭が切れるだろう少女に問い掛けていた。
「ど、どうしたらいいかな、詠」
「男ができることなんてほとんどないわよ。そうね、なにかしたいなら、お湯やそれにひたした清潔な布は間違いなく必要になるし、じゃんじゃん沸かしたらどう?」
 さすが詠だ!
 俺は、今まで座っていた椅子の後ろに回り込み、それを掴むと、そのまま大きく振り上げた。
「わ、我が君?」
「ご主人様、なにを!?」
「……ご主人様?」
 恋が俺の肩に手を触れている。それだけで、俺の腕はまるで動かなくなっていた。それでいて、手の力は失われないから持ち上げた椅子は落ちない。
 すごいな、恋。でも、いまは邪魔なんだ。
「お湯」
 恋を振り返り、一言告げる。困ったような表情を浮かべ、詠のほうを見やる恋。
「アニキ、なにをするつもりだよ」
 猪々子が言わずもがなのことを訊いてくる。しかたなく、俺は、自分で持ち上げている椅子から少しだけ指を浮かせ、指さしてみる。
「薪。お湯。沸かす」
 それを聞いた面々は一斉に顔を見合わせ、なぜか疲れたように溜め息をついた。いったいどうしたのだろう?
「華雄……。一刀んこと、裏の薪割り場に連れてったって」
「ああ、そうだな。ほら、その椅子を置いて。薪割り場に行こう。たくさん木があるぞ」
 今日はみんな冴えてるな!
 言われて、俺は椅子を元に戻し、華雄を連れて、薪割り場に走り込んだ。
「斧の使い方はわかるな?」
「ああ!」
 手頃な長さに切り揃えられている木材から一本を選び、台に乗せる。斧を木の繊維の方向にあわせて、落としていく。四等分にした薪を脇に積むと、次の木材を華雄が台の上に用意してくれている。
「ありがとう! さすが華雄だな!」
「気にするな」
 華雄は優しい!
 俺にはもったいないくらいいい女だ!
 華雄の助けを借りて、俺は、薪を作っていく。途中で暑くなったので、服を脱ぎ、上半身は肌着姿で薪割りを続ける。
 いつ頃だっただろう。月が肉汁たっぷりの饅頭をつくって持ってきてくれた。一緒に持ってきてくれた冷たいお茶を竹筒から飲みつつ、作業を進めた。気が利いたことに、月は汗を拭う布まで何枚か持ってきてくれていたので、たまにそれで体の汗をぬぐう。
 本当に、みんな、今日は冴えまくりだ!
 木材を起き、木目を見て、斧をあて、重さのまま下ろす。
 そんな作業を続けていると、不意に祭の声がした。
「どうしたのじゃ、これは」
「祭、どうしたんだ。桔梗についてくれてたんじゃないのか」
「ええ、じゃから、その桔梗が先程無事に赤ん坊を産みましたでな、こちらにおられると聞いたので報せに参りましたが……」
 彼女は、俺の周りを見回して、なぜか奇妙な顔をしている。華雄がくつくつと笑っているのは、なぜだろう? いや、きっと、あれは子供が生まれたのを喜んでいるんだな!
「よし、すぐに行こう!」
 駆け出して、二人がついてこないのに気づく。振り向くと、半ば呆気にとられたような顔で祭が俺のことを見つめていた。
「……大事ないのか?」
「ああ、舞い上がっているだけだろう。話を聞いてからずっとああだった」
 なにか小さい声で話している。その時、俺は大事なことを思い出した。きっと、彼女たちはその事を指摘しようと待っていてくれたのだ。
 なんて考えてくれているのだろう。ありがたくて涙が出そうだ。
「忘れていた! 薪だ!」
 駆け戻り、目の高さまで積み上がった山に手を伸ばし、薪を取り上げる。
「うむ、そうだな」
「さ、旦那様、桔梗とかわいい赤子が待っておりますぞ」
「ああ!」
 薪を腕一杯に抱え、再び駆け出した。
 俺と桔梗の大事な大事な子供に会うために。



        (第二部北伐の巻第六回・終 北伐の巻第七回に続く)



北郷朝五十皇家列伝

○鳳家の項抜粋

『鳳家は鳳統にはじまる皇家であり、後に周家から七選帝皇家を引き継ぐ家系であるが、それまでは、主に教育に関わる仕事を代々生業にしており……(中略)……
 中でも有名なのは、鳳家による後宮教育、皇婿教育であろう。これらの教育が実施された機関は、後世まとめて西門大学と呼ばれる。これは、襄陽にあった頃、鳳家が西門近くに館を構えたことから来ているのだが、実際には、襄陽、洛陽、建業において開かれたこの機関は、初期には鳳大学と通称されることが多かったという。場所の変遷は鳳家の基盤の移り変わり以上に、後宮が置かれる都市の移り変わりが大きく影響した。通例、西門大学は後宮内において開かれたからである。
 西門大学における教育は、鳳家自身が編んだ著作によって進められたが、それは、八代恭帝の頃に十五部百二十巻附図十八巻という大部の著にまとめられた。
 一部から八部までは、他の皇家でも行われていた一般教養が主であり、庶人からすれば考えられないほど高度な内容ではあったが、同時代の学識者たちにとってはその内容は一般的なものであった。
 すなわち、一から三部まででは、神話を含めた歴史、中華本土の地勢、各種言語を扱う。四部、五部で北郷朝各皇家の歴史とその支配地域の詳細な歴史と地勢、西方で優勢だったペルシャ語、トルコ語、ソグド語を扱う。七部は特に東方大陸の習俗、経済などに関して解説する。八部は皇家の支配外の西方地域などに関する情勢が扱われる。
 また九部はおもに大学の建築物、規則などが書かれたもので、教育のためのものではなく、教育者自身へ向けた覚え書きのようなものである。
 鳳家の後宮教育の真骨頂は十部以降のものであり、その内容は以下の通りである。
・十部は秘中の秘として、その内容を明らかにされない。
・十一部は前半部を同じく明らかにされない。後半部分三巻は主に健康を保ち、身を護るための歩法について記されている。
・十二部は陰陽部と言われ、房中術と内丹の基礎概念が記される。非常に道教的傾向が強く、学問の書といよりは、教典に近いと言われる。
・十三部は散逸している。
・十四部十二巻は閨房の実践的な房中術、すなわち性技術を扱う。
・十五部は散逸している。
 このうち、十部、十一部前半は秘伝であり、鳳家の人間と、後宮教育を受ける皇妃、皇婿しか知ることはないと言われる。だが、おそらくはそこに含まれるのは後宮、宮中における儀礼に関わる理論と実践であると推測されている。専門分野の研究者にとっては垂涎の的であろうが、一般には興味を惹かない類のものである。
 それよりも注目されるのは、散逸している十三部と十五部である。あわせて十二巻になる両者には、十四部を補追、発展させた内容が書かれていたと言われる。
 十四部は主に挿入後の性技術が描かれているが、それに対して、十三部はいわゆる前戯を含んだ男女の興奮の高め方が描かれていたことが、他の資料から明らかである。だが、それ以外にも陰萎の男性の治療法、不感症の解消法などが記されていたという。
 十五部はさらに重要で、この部には十二部から続く陰陽理論の集大成とも言える、男女の誰もが極みのさらにその先に至れるという、性技巧の極致があったと言われている。それは、単純な肉体的な技巧に留まらず、心身を合一させ、その精神をも揺さぶり……(中略)……
 なお、この散逸したというのは、あくまで鳳家の主張であり、実際には、鳳家の当主によって秘密裏に継承されているという説もまことしやかに……(後略)』

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