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16 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/09/12(土) 17:54:16 ID:yV0/hfR70
いけいけぼくらの北郷帝第二部北伐の巻第五回をお送りします。
今回はいつもより少し短いですが、軽く修羅場ですかね。

◎注意事項
・魏ルートアフターの設定ですが、第一部、第二部と進んできておりますので、まず、そちらをご覧
いただけると幸いです。
・エロあり。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・歴史上の人物等の名前は出るものの、セリフはありません。呉勢以外の一刀の子供も出てきます
・『北郷朝五十皇家列伝』は読まなくても本編を読む上ではなんら支障がありません。また、妄想
(暴走)成分が過多です。お気をつけください。
・専用up板では、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでもお気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL →  http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0407

それではまた次週。

>>6-7
何故HOIネタw



いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第五回



 『北伐』。
 それは、北方に存在する政権を征伐する戦いだ。
 いわゆる漢土と呼ばれる地域は、東西に長大な大河が横たわる地理的性質上、東西よりも南北に分かれやすい。また、北方の国家はたいていの場合、黄河流域をその根拠地とする。そして、河北、中原は歴史的に古くから栄え、文化的な中心でもある。そのため、南方の国家は北方のその地域を手に入れることを渇望し、北伐といわれる軍事行動を起こすことになるのだ。
 俺の世界で最も有名だったのは、諸葛亮による魏侵攻──五度に亘る北伐だろう。
 だから、当初、北伐と言われても、ぴんとこなかった。俺にとってそれは蜀が暴発する可能性の象徴に過ぎなかったのだ。
 しかし、考え方を変えれば、これはしっくりと収まる。
 すなわち──華琳は、漢土のみならず、この大陸全土を見据えて、その位置関係を把握しているのだと。
 そのことに気づいた時、俺は震えた。
 恐怖で?
 否──感動で。


 翠たちと華琳の会見、俺の西涼建国の提案と、北伐の衝撃──ついでに翠に勝手に話を進めるなとこってりしぼられた日──から二日後。
 俺は自分の子供たちの養育棟に足を踏み入れていた。華琳が話してくれたところによると、正式名称は天宝舎とかいうらしい。
 一階にはいくつもの子供たちのための部屋が用意されていたが、一番感心したのは、階段室だ。
 それは、廊下の突き当たりにあり、一見すると壁にしか見えない。しかし、たしかにある把手を所定の手順で動かすと扉が開き、階上へと繋がる階段が出現するのだ。
「子供の間は二階には来られないようにしたほうが安全でしょ」
 俺を連れて幅の広い階段を先に進みながら、華琳はそう説明してくれた。ただ、華琳さん、あんまりさっさと進まれると、見上げた時にどうしても服の裾の奥に見える下着が気になるのですが。
「まあ、器用な子はそれでも見つけてしまうだろうけど、それはそれで歓迎することじゃない?」
「それもそうか。でも、あれを自力で見つけるのは厳しいだろう。大人だって知らなければわからないぞ」
「あら、子供の観察眼を莫迦にするものではないわよ。大人の方が、よほど先入観から騙されがちよ」
 足を速めて、階段を登り切るあたりで華琳に並ぶ。彼女はいつも通りその金のくるくるを揺らしながら、二階への扉を開ける。
 開放的だった一階と違い、二階の部屋はそれぞれ扉や仕切りが用意されており、母親たちの個人的空間を尊重するように作られていた。といっても、所々に開口部が設けられ、閉塞感を抱かないよう注意されているのがわかる。さすが、華琳自らの設計だ。
「二階は、母親たちの空間。一階のように遊び場はないけれど、そのかわり、色々な設備があるわ」
 きょろきょろ見回していると、華琳が先に立って案内してくれる。
「重臣たちのための棟だから、会議のための間も、もちろん、ある」
 たどり着いた部屋の扉を開けると、すでに部屋の中には、風と稟が待っていた。
「さ、どうぞ」
 促されて部屋に入る。部屋の中で目を引くのは大きな卓と、その上の地図だ。だが、席に座ってみれば、その地図が卓の上に広げられているのではなく、天板自体に彫り込まれていることに気づかされた。近くで見てみれば、山脈はうっすらと盛り上がった立体仕様で、その精緻な彫り込みに驚く。
「この部屋は魏の側近中の側近しか使えないことにしてるの。まさか養育棟の中で重要事項を話しているとは思わないでしょうし、間諜除けにもちょうどいいわ」
 言いながら、華琳は部屋の隅で火にかけられたお湯を見に行っている。あの様子だと、お茶を淹れるつもりだろう。
「でも、他国の……たとえば桔梗もいずれ、ここに入るんだろ?」
「ええ。でも、彼女はわきまえているもの。桔梗が変に探ったりとかすると思う?」
 茶葉をいくつか手にとり選びながら、華琳がなんでもないことのように答える。
「まあ、ないな」
 それでも晴れない俺の顔をみたのか、風がにゅふふと袖で口を隠しながら笑った後で声をかけてくれる。
「心配しなくても、共通で使える部屋もありますし、だいじょぶですよー」
「そっか、ならいいけどな」
「ああ、なんだ。変なこと心配しなくてもいいわよ。他国の人間だからって、一刀の子を産むのだから、仲間外れとかはないわ。政治向きの話では立ち入れない場所もそれぞれにあるでしょうけど、それはしかたないことでしょう?」
 相変わらず、振り向くことなく、華琳は茶を淹れようとしている。部屋に、うっすらといい薫りが広がりつつあった。
「そうだな、変なこと気にしすぎた。すまん」
 それまで、ゆったりと椅子に座っていた稟が、腰掛けなおし、眼鏡をくいと上げる。郭奕を産んだ直後に比べると、かなり血色も良くなり、顔つきは普段の稟に戻ってきているような気がした。
「心配といえば、郭奕──阿喜は下で、桂花と桔梗が見ていてくれているはずです。自分たちの時の予行演習だとか言ってますが」
 稟は苦笑しながら、ちょっと誇らしげでもある。桂花や桔梗は、母としては後輩になるからな。ちなみに、阿喜は郭奕の幼名だ。かわいらしく、縁起のよさそうな名前を考えて稟に言ったらそれはいいと喜んでくれた。
「ああ、見てきたよ。紫苑もいたし、祭も置いてきたから、大丈夫だと思うよ」
 璃々ちゃんが、寝てる郭奕がぴくりと動くたびに、ふわー、とか、ふぉー、とか小声で興奮してたのはかわいかったな。
「ごめんなさい。本当はこんなにはやくあなたをひっぱりだすつもりはなかったのだけれど」
「いえ、北伐に関しましては、私が立案者ですから、こればかりは」
 茶を淹れ終え、俺たちに配り始めた華琳の謝罪に、稟は軽く首を振る。その後で、すっと伸びる指。その先には、一階と繋がっているらしい金属の管がある。
「それに、伝声管もあります」
「そですねー、でも、はやめに済ませちゃいましょー。できたら、阿喜ちゃんが寝てる間にー」
「そうね。じゃあ、はじめましょうか。稟、お願い」
 指名されて稟が立ち上がろうとしたのに、華琳はそれはだめだと首を振る。しかたなく、稟は姿勢を戻し、座ったまま話をはじめた。
「五胡と言われる北方の部族のことはご存じかと思います」
 五胡──つまり、北方の異民族の総称だな。南方の百越と同じようなものだ。
「これはあいまいな概念で、たくさんの異人、というほどの意味でしかありません。具体的には……そうですね、現状で問題となる、鮮卑、羌、烏桓、匈奴だけわかっていてもらえばいいでしょう」
 俺は卓に彫り上げられた地図を見て、大まかに指を差す。
「烏桓が北東、羌が北西……鮮卑と匈奴は北の方としか知らないな」
「それで充分です。現在最も盛況なのは鮮卑で、烏桓から羌に至るまでの北部を覆っています。匈奴はかつてはまさに北方の覇者でしたが、武帝の遠征や、その後の分裂、権力闘争に破れた一派の遥か西方への逃亡、鮮卑の興隆などにより往時の力はありません。とはいえ、いまだ侮れない勢力ではありますが……ただ、匈奴には親漢派が多いのも事実です」
「それだけ長い間色々やってきた相手ってことですねー。お互い手の内がわかってるので、その裏返しで信頼も生じてくるです」
「ふうむ」
 長い間関わりあっていく中で、その相手の性質を知り、尊敬するということもあるだろう。逆に知っているからこそ、嫌われるということもある。幸い、匈奴相手では漢の辺境を守る人々の行動は良い方向に働いているということか。
「さて、我らの北伐は、計画では三度行う予定です。その三度の北伐で、羌、烏桓、匈奴を服属させ、鮮卑の主要な部分を支配下に組み入れます」
「鮮卑は全部じゃないんだね?」
「あまりに北に広がっているので、そのあたりまで追い詰めるのは得策ではないという考えです。また、各部族の中でも、我らに敵対する者達の逃げ場所としても機能してもらいます」
 さすがに細かいところまで考えているな。もちろん、そういう風にうまく動くよう、稟たちが仕向けるのだろうけれど。
「まあ、最終的な形はまだ流動的ね。まずは一次、二次でどれほどの戦果を上げられるかも重要だし」
 華琳が稟の予測に対して現実的な補足を行う。そういえば、せっかく淹れてもらったのにお茶を飲んでいなかったな、と気づいて口に含んだ。それだけで、清冽な薫りが鼻に抜ける。苦みの中にわずかに感じる甘みとあいまって、頭が冴え渡るような気がしてくる。
「大前提として、我々が北伐を行う理由は三つあります。第一に良好な関係の断絶、第二に略奪の激化、第三に大連合体の樹立の可能性です」
 稟が指おり数えつつ、問題点を挙げていく。
「まず、五胡はつねに略奪を行うわけではありません。あちらの側に余剰物資がある場合、こちらの農産物などと交換するといった交易を行うことのほうが多かったのです。もちろん、町の人間が特に必要としていない場合でも押し売りまがいに押しかけてきたことはありましたが、それとて武力を背景としたというほどのものではありません」
「街の人々も、ちょっと迷惑だけど、隣人だししかたないか、という程度の感覚だったと思いますー」
「はっきり言えば、略奪は彼らが飢えた時、しかたなく行っていたことなのです。あくまで彼らから見れば、ですが……。
 さて、黄巾の乱少し前から、漢の体制は緩み、各地の治水工事などが行われず、また気候変動が多くあったり、群雄たちが割拠したりしたせいで河北、中原の生産力が落ちました。これは、五胡に分け与えるものがなくなったことを意味します。
 この時期から、一部を除いて彼らとの間に交易が行われなくなり、略奪一辺倒になってしまいました。幸い、我らは戦乱の時代を経て、いま、再び生産力を取り戻しつつありますが、一度途切れた関係を取り戻すのは生半な努力ではままなりません。
 また、これは第二の問題とも関わるのですが、彼らが略奪の手軽さを覚えてしまったということもあります。追い詰められなければやらなかったことが常態化して、感覚が麻痺してしまったというのもあるでしょう。
 もちろん、こちらとしましても、略奪行為が行われるとなれば、それなりの対処をして撃退します。これによって被害を受けた五胡たちは、この被害を穴埋めするために、強力な集団で略奪を行うこととなります。こうして略奪は激化をたどっているのです」
 そこで一度言葉を止めた稟は、俺の頭に情報がしみ入るようにか、茶を手にとって少し間を置く。
「だからといって、略奪に来られたら撃退しないわけにはいかないもんなあ……」
「そのとおりです。最後に、これは、先程言った『より強力な集団』ということと根は同じなのですが、こちらが戦乱を終えたことで、彼らの方でも反応が生じています。まがりなりにも魏、呉、蜀という三つの国家によって統治がはじまったことにより塞内は安定し始めていますが、安定すれば、防備はより固くなりますからね。
 これに対抗するために、遊牧諸部族でも連合をつくる動きが起こるだろうと私は推測しています。その兆候などの細かい分析は後ほど一刀殿にも資料をお渡ししますが、私自身の計算では八年以内、風の考えでは五年以内に、強大な連合体が北方に立ち上がるでしょう。帝国と言う名を冠してもいいほどのものが」
 それは恐ろしい推測だ。遊牧部族が大同団結した国家は、総じて強力かつ巨大になる。ペルシアを膝下にくだしたスキタイしかり、世界帝国をつくりあげたモンゴルしかり。
 そして、五胡の眼から見れば、この世界の中原世界は群雄割拠を終え、華琳という覇者によって統合されていると映るだろう。農耕により膨大な生産力を持つ塞内と渡り合うため、遊牧民たちが強大な同盟や連合をつくろうとするという筋書きは充分ありえるものに思えた。
「豊かな国を狙うために、より強力な軍団が、略奪ではなく、本格的な侵攻をはじめる可能性があるってことですねー」
「かつての匈奴再び、か」
「その匈奴と呼ばれるものも、あくまで匈奴という部族を中心とした諸部族の連合で、いまは独立している鮮卑や烏桓もまたその配下にいました。今度はどこが中心となるかまではいまだはっきりしませんが、こちらが手を打たなければ、確実にそれは誕生するでしょう」
 稟の視線が地図から上げり、俺の視線と絡み合う。眼鏡の向こうの瞳に込められた力強さはなにを意味しているのか、すぐにわかった。
「だから、いま、というわけだね」
「そうです。漢土と北方、草原の世界を繋ぐには、いましかありません」
「簡単に言えば、塞内、塞外なんて言葉をなくしてしまうのが目的よ。彼らもまた、我らのうちに引き込んでしまえば、困ったときは援助できる。定住している人々を襲ったりしなくてもね」
 華琳の顔を窺う。しれっとした表情の覇王の言葉は簡潔だが、しかし、真実を示してもいる。それが、こちら側の勝手な言い分であることを充分に承知した上で。
 俺は華琳と稟を見直し、そして、相変わらずぼーっとしている風を見て頬を緩めた。
 彼女が真剣な顔をしていないのだから、大丈夫。なんだかなんの根拠もなくそう思ってしまう。
「さて、では、第一次から第三次に至る計画について、説明していきましょう」
 俺が一つ頷いた後で、稟の説明が再びはじまる。
「簡単に言いますと、第一次で痛打を与え、第二次でそれを押し広げ、第三次で支配を確定させます」
「つまり、侵攻する土地自体は、一次から三次までほぼ同一なんですー」
 風が大雑把に指し示すあたりを注視する。北は……広い。中原だ河北だと言っているのがばからしくなるほど広い。そのことは地図にも表れていた。
 待てよ、と俺は考える。この地図、よくできすぎているな。
「二次で少し広げますけれどね。しかし、基本的には第一次北伐において、進めるところまで進んで……」
「あ、ちょっと待って」
「はい?」
 説明する稟を押しとどめ、華琳に確認する。
「この彫られた地図って、俺が渡したのを参考に?」
「ええ、もちろん。私たちの地図では、こんな北の果ての地形が詳しくわかるものはないもの」
「そっか……」
 深く頷く俺に、華琳がいたずらっぽく微笑む。
「ちなみに、彫ったのは私」
「華琳が自ら?」
「せっかくの職人を口封じに殺したりするのは嫌だもの。でも、地形を頭に入れるのは為政者として当然のことだし、楽しかったわよ」
 まあ、華琳だからな、彫刻の才くらいあるだろうと素直に思ってしまう。
「おかげで、図上演習が何度もできました。我々の計画はその結実でもあります」
 ちら、と横目で華琳のことを見る稟。その頬が少し赤く染まっているが、鼻血を噴くことはない。以前を考えると、稟も鍛えられたものだな。
「さて、第一次北伐以後ですが、一次で確保した都市や水場を拠点に、第二次北伐でそれらをつないでいきます。第三次北伐は、反対派を放逐するための総仕上げとなります」
「つまり、最も大事なのは第一次か……」
 そこでつまずくと、その後がどうしようもなくなる。華琳たちのことだから、準備を怠ったりはしないだろうが、それでも、激戦が予想される。
「では、第一次北伐の詳しい説明に移ります」
 言いながら、稟は地図の上に、粘土細工の兵のミニチュアをぽん、ぽん、ぽん、と三つ置いていく。
「第一次北伐では、軍を三つにわけます。左、右、中央です。中央軍は魏軍のみで構成、左軍は蜀軍と魏軍の連合軍、右軍は魏、呉の連合軍です」
 そのうちの一つ、旧都許昌のあたりに置いた兵をこてん、と倒す。
「ただし、実際には右軍はほとんど動きません。郷士軍中心の、後衛部隊です」
「へえ」
「理由があるのよ、一刀」
 華琳が手を伸ばし、倒れた兵士を拾い上げ、洛陽の位置に置き直す。その白い指がゆっくりとその兵士の形をなぞって動く。
「呉軍約十二万は一度洛陽に集まるけれど、そこで──もちろん、偽装だけど──雪蓮死去の報が届くの。急遽本国に戻る蓮華は、その十二万を連れて建業に入城するってわけ」
「ああ……蓮華に継がせるためのお膳立ての一つか」
 また派手な話だ。十万を超える軍を動かすだけでも相当の苦労だろうに……。蓮華の円滑な継承というのは、雪蓮と冥琳にとって、それだけのことをするだけの価値があるということなのだろう。
「そのかわり、呉からは、糧食をたっぷり安価で提供してもらうことになってますねー」
「一応は表面上の取り決めを破ることになる穴埋めってことか」
「それでも、益は出る値つけです。さすがに呉としてもそこまで損をするつもりはないでしょう」
 風の言葉に少し安心する。あんまり無茶をやると、呉の体力を削ってしまってよくないだろうしな。
「軍事的には、先の遼東征伐を見て、その近縁にいる烏桓が恭順を申し出てきているため、東方はわざわざ軍を動かす必要がないというのもあります。戦わずとも降ってくれるというものを、無駄に刺激する必要はありません」
 それはそうだ。しかし、猪々子は手応えがなさすぎると言っていたが、烏桓に鳴り響くほどの戦だったのではないか。一体どんなに激しく打ち破ってきたのやら。今度、詳しく訊いてみよう。
「そういうわけで、右軍は凪が中心となり、呉から供出される糧食と合わせて、他の二軍に補給を行います」
 補給作業というのは非常に重要なわりに、地味で面倒なために敬遠されがちだ。しかし、水と食べ物がない軍はどうやっても動かない。律儀な凪なら、この地道な作業をしっかりやり遂げてくれるだろう。納得の配置と言える。
「中央軍は華琳様、春蘭、蜀から戻る予定の秋蘭、季衣か流琉どちらか一人が将軍として率います。率いる兵数は約三十万」
「まさに曹魏の本気だな」
「ですが、実は中央軍の侵攻経路である匈奴、鮮卑の一部は、以前から調略を進めています。具体的には、一刀殿が消えてから、すぐに」
 稟が中央軍を示す粘土兵をまっすぐ北に向けて動かす。その眼鏡が反射して彼女の表情を隠す。それと共に、部屋の温度が急に下がった気がした。風と華琳が目線を外している気がするのは何故だろう。
 なぜか、俺はその時蛇に睨まれた蛙のような心持ちになっていた。
「そ、そうなんだ」
 震えながら答えると、稟の雰囲気が一変し、普段の表情に戻る。
 い、いまのは一体なんだったんだろう。
「ですから、ほとんどの部族に関しては、戦闘は行われないか、行われても儀礼的なものです。しかし、だからこそ、華琳様や夏侯の両将軍に大軍団を率いて出てもらわねばならないのです。いくら実際に強くても、名前がない将軍の少数の兵に負けたでは、服属する部族達の面子がつぶれます」
 なかなか難しいものだ。とはいえ、行軍するだけで相手が折れてくれるなら、そのほうがいい。お互い被害を出すのは恨みを残しかねないからな。また、実際にそれだけの兵力を揃えて行軍することで、魏の力をはっきり示すことができる。三十万の兵を長駆させるのは、本当に大変なのだ。
「大兵力と看板武将の出陣は、戦闘のためというよりは、戦闘を回避させたり、相手を納得させたりするためか」
「はい。調略がそこまで進んでいない部族であっても、他の部族の状況や、大軍団を見ることで諦めてもらいます。二年の調略によって、魏の精強さ、華琳様の投降者への慈悲深さは五胡の間に深く静かに浸透しています。ある程度の線を越えれば、雪崩を打って支配下に降るでしょう」
 そして、稟は三つ目の兵士を手にとり、涼州にそれを置いた。
「ですから、第一次北伐の最激戦地は、左軍の担当範囲、北西の羌と鮮卑を降す任務となります」
「左軍は蜀と合同……。西涼か」
「はい、そうなりますねー」
 その時、カンカンカン、とくぐもった金属音が連続して鳴った。
「伝声管ね」
 稟が慌てて伝声管の蓋を開けると、途端に、その中から桂花の大声が響いてきた。
「ちょっと、稟、おりてきて! 郭奕が泣いてて、紫苑が言うにはどうやらお腹がすいてるらしいのよ」
「すぐ行きます」
 ぱたり、と伝声管の蓋を閉じ、すっと立ち上がる稟。胸のあたりを押さえているのは、郭奕のことを考えて、胸が張っているからだろうか。
「では、華琳様……」
「ええ、行ってらっしゃい。お腹いっぱい飲ませてあげなきゃね」
 その言葉を受けて、稟は部屋を出て行く。部屋を出た途端に、ばたばたと足音が急に激しくなるのはご愛嬌ということで。さすがに、あの広い階段で転ぶことはないだろう。手すりもついていたことだし。
 彼女の足音を聞きながら、部屋にいる面々は皆優しい笑顔を浮かべていた。


「お父さんは行ってあげなくていいの?」
「うーん、行ってやりたいけど、抱き上げたりしかできないしな。気を遣わせるのも悪いだろう」
 そもそも、母親と乳児の間に父親が入り込む隙ってそれほどないのだよな。もちろん、眺めていたり、抱いてあやしたりはしたいし、するけれど。
「じゃあ、稟が戻ってくるまでに、少し話をしておきましょう」
 華琳が再び淹れてくれたお茶を飲みながら、彼女の言葉を待つ。魏の覇王はなんでもないことのように、常と変わらぬ笑みで続けた。
「あなたの官位のことだけど」
「ああ、朝廷との手打ちの条件とかいう」
「今年の正月から、あなた、大鴻臚だから」
 聞き慣れない単語に戸惑う。一応、将軍の序列はなんとなく覚えているのだが、文官の名前までは覚えきれていない。
「だい……こうろ?」
「九卿の一つです。服属した異民族や諸王の宮中でのお世話が名目上の役目ですが、要するに各勢力の調整係ですね」
 どうも聞く限りかなり格式ある官のようだ。たしか、九卿って、三公に次ぐ要職じゃなかったか?
「無官の俺がいきなりそれか」
「一応、あちらも今回は帝まで出てきたし、ある程度もっともらしいものをもらわないといけなかったのよ。でも……」
 彼女は俺の瞳を覗き込むようにして体をぐっと前に傾ける。その頬に刻まれた笑みの恐ろしいことよ。
「正直、あなた、気にしてないでしょ?」
「……まあね」
 なにしろ、俺の身近には大将軍の麗羽がいる。大将軍は──丞相がいるいまは微妙ではあるものの──漢の政治を思うようにできる最高権力者のはずなのだ。帝でさえその顔色を窺わなければならない存在、それが大将軍だ。
 ただし、そこに実情が伴っていれば、の話だが。
 いまの麗羽にそんな権力基盤はなく、魏という国を背景に権力を握るのは、目の前にいる可愛くも恐ろしい魏の覇王、曹孟徳に他ならない。
 この場合、華琳が丞相の地位を握っているのはその実態を形式で補完しているに過ぎないのだ。
 だから、俺が大鴻臚という職をもらったとして、なにか裏付けがなければ、それはただのお飾り。いや、却って邪魔になりかねない肩書きだ。
「大事なのはそっちじゃなくて、実際にあなたにやってもらわなければならないことのほうね」
 ぐっと前のめりになっていた華琳の体が戻り、くるくると丸まった金髪が軽く揺れる。
「四鎮将軍による鎮守府及び現行の大使の監督。今後の大使制度の見直し。北伐後に服属した部族の処遇。九卿の中で大鴻臚をもぎ取ってきたのは、それらをやらせるためよ」
 華琳の説明は、成都で秋蘭から聞いたものと良く似ているが、さらに広い管轄のように聞こえる。大使制度自体、元は俺の提案でもあるし軌道に乗るまで面倒を見ろということだろうな。
「できる?」
 微笑みながらの問い掛けは、真剣かつ鋭いものだ。俺は肚に力を込めると、彼女の問い掛けに負けないよう言葉をしっかりと吐き出した。
「ああ、やってみせる」
「なんだ、兄さん、覚悟決まってきたじゃねえか」
 いきなりの宝ャの反応にびっくりするが、その下の風も、また華琳も満足げな笑みを浮かべているところを見ると、俺の言葉は間違ってはいないようだ。
「ん……なんていうかな、任されたものは受け入れようと思ってたんだ。それは、俺を信頼してくれるってことだからね。もちろん、俺だけの力じゃとてもじゃないけど難しい仕事だ。だから、俺は、自分のできない部分は、俺のことを助けてくれる人達の力を借りてやり遂げようと思う」
 南鄭でのあの人の言葉を思い出す。しかし、いま思い返すとえらい格好をしていたな、あの男性。あそこだからよかったものの、洛陽や他の場所で会ったら驚くよな。
「ふうん、ようやく人を使う気概が出てきたってところかしら」
「そですねー。そろそろおにーさんも『天の御遣い』っていう看板だけじゃなくて、そゆのも覚えてもらわないと困りますからねー」
 おもしろそうに笑う華琳に比べて、にやりと悪者笑いをしている風の評は辛辣だ。しかし、どちらも期待してくれているのがわかる。俺は、本当に幸せだな、と感じる。
「まあ、あなたの下には優秀な人材が多くいるわ。それを使いこなしてみなさいな。誰一人腐らせたりしちゃだめよ。そんなことしたら、私が容赦なく引き抜くから」
「ああ、祭や詠たちだけじゃない。華琳本人はもちろん、三軍師も目一杯使わせてもらうさ」
 その言葉に、華琳は目を丸くする。
「あらあら言うようになったわね」
「ですねー」
 そう言って、華琳と風、二人の少女は笑いあうのだった。

 
「しかし、すごいな。こんな計画が動いていたとは……」
 稟がまだ戻ってこないので、詳しい計画書をもらい、ぱらぱらとそれをめくってみる。それだけで、どれだけ大規模で考えられた計画かがわかってくる。この計画書は普段は稟が保管していて持ち出し厳禁だそうなので、じっくり読むにはまたここに来るしかないだろう。
「なにを言っているの一刀。あなたの大陸経済圏の試案も、北伐を決定させた要因の一つだっていうのに」
「え、そうなのか?」
 しかし、あの案は、試案を華琳たちの下に送ったのでも、たった三、四ヶ月前に過ぎない。その後、本格的に北伐を推進させたのだとしたら、皆はどれほどの素早さで計画を立て、それを実行したというのか。いや、元の案はそもそも進んでいて、俺の案が最後の一押しだったと考えるべきか。
「特に支配後の関係についてはおにーさんの案が影響を及ぼしていますねー」
「北方安定のためには、五胡を討つ必要はたしかにあった。けれど、それをどう服属させるかは、定まっていなかったのよ」
「たとえば、あちらの代表者を地域ごと、部族ごとで決めて貢納だけを求めるという、昔ながらの方式もありえましたが、おにーさんの試案を読んだ華琳様が、より一体化を求められたのです」
 風の流し目は余計なことをしてくれた、というようにも取れたし、逆によくやったものだ、と称賛が籠もっているようにも思えた。おそらく、両方あるのだろう。進んでいた計画を方針転換するのはかなり面倒な作業だからな。
「一体化、といっても、大事なのは、違いを残すことよ。一刀の案ならば、税の徴収は最終的な売買にのみ着目すればいいから、遊牧も農耕も気にする必要がない。これは大事なことよ。なにしろ、五胡に中原式の生き方を押しつけても反発を招く上に、そもそも、北方の地じゃ農耕生活は難しいわ」
「それはそうだ。討ったはいいが、余計悶着を起こすようになったら、たまったものじゃないしな」
 内烏桓なんかは、その失敗した政策の象徴みたいなものなのだよな。減った働き手の埋め合わせとして彼らを漢の領土に連れてきてはみたものの、生活習慣は違う、異民族差別はあるで、ろくな結果にならず、結局叛乱という形をとるしかなかったのだから。
「だから、私たちは、五胡を服属させても、彼らの生活には一切触れないつもり。もちろん、支配の拠点となる都市はそれなりに造るけれど。それは、彼らに交易の場所を提供することにもなるし、お互いに益があることだから、そこまでの反発は出ないでしょう。こちらで水場を独占しないよう注意しろ、と稟には言われているわ」
「水場はあちらではかなり重要だそうだからね。牧草地とかも避けないとだめだろうな」
「ええ、そういった生活様式の違い、民族の違い、言葉の違い。全てを残したまま、道をつなげる。それが可能となった、と私はみたわけ」
 俺は、自分自身の発案がきっかけとなり、北方と中原が結ばれることに、心動かされずにはいられなかった。きっと、華琳はもっともっと遠くを見据えている。この時、俺はそう確信したのだった。
「おにーさんの案にとって不可欠な街道の整備や安全確保を条件にすることで一定の自治、武裝を認めて、向こうの支配機構を丸ごと呑み込むってことも考えてるんですよー」
 それは悪くない手だ。魏国内では、屯田を行う郷士軍に街道整備と保安を任せているが、北方の広い沙漠地帯でそれを行うのは難しい。それよりは、風の言う通り、あちらの確立した仕組みを呑み込むのがいいだろう。
 それももちろん、選別しないといけないのだが。
 彼女たちの話を理解し、一度息をついた後で、訊ねた。
「話は変わるんだけど、一つ訊いていいかな?」
「ええ、いいわよ」
「魏は、直接被害を受ける場所柄わかるけど、呉と蜀の利はなんだい?」
「あなたは、どう思うの?」
 即座に問い返された。このことは予想していたので、俺なりに考えたことを述べてみる。
「呉は第一回に関してはわかる。雪蓮たちにとって円滑な継承はまさに悲願だろうからな。だが、二次、三次までつきあう理由がいまいちわからない。呉は特に五胡とは無関係のはずだから。蜀は、まあ、北方の圧力が減るのはありがたいだろうし、北方への影響力が増えれば閉塞感も打破できそうだけどね」
「うーん、十点満点なら、七点ですかねー」
 また微妙な点数だな、風。
「まあ、前提情報が足りないから、そうなりますよー」
 だから、勝手に人の心を……。
「まず、蜀の利点は、一刀も言う通り、北方の羌が弱体化することによる北西山岳部の安全確保ね。次に、あなたが示した西涼王国。まあ、これは最初の話し合いだと飛び地を与えることになっていたのだけれど、どうやらその必要はなくなりそうね。呉については、蓮華へ継承するための動きを静観したというのも大きいのだけれど、一番は商業的な利益ね」
「簡単に言うとですねー。北伐全体、そして、その後の占領地に対する食糧供給について、包括契約を結んだのですよー」
 風の言葉は、要約されすぎていてよくわからない部分もあるが、なんとなく呉が今後長期間に亘る大規模な売買契約を結んだことは想像できた。
「おそらく、占領地の経営がうまくいくには、十年、二十年かかるでしょう。その間、北方へ送られる食糧について、買い上げを約束したのよ。もちろん、量については変更が何度かあるでしょうけれど」
「ははあ……。少なくとも食糧を売りつける部分では独占交易権を得たわけか」
「実際には、途中に統治に入る部署が入りますから、暴利はむさぼれませんが、安定した需要は見込めますね。それに呉側が応えられるかどうかは、今後次第ではありますが……。江南は土地が肥えていますからねー」
 二人の話を聞いて、ようやく納得する。呉と蜀にも利があるとすれば問題ない。呉、蜀にあまりに負担をかけるような征伐行では、成功するものもするまいと思っていたのだ。
「ただ、言っておくけど、翠の問題も含めて、蜀のことは、いまやあなたにも大きく関わるわよ。このあいだの西涼建国の献策、なかったことにするわけにはいかないもの」
「ああ、わかっている。翠たちとしっかり話すと約束するよ」
「ならいいわ」
 大きく頷く俺を、少しだけ不安の籠もった期待の眼差しで見ながら、魏の覇王は同じように大きく頷いて見せた。


「すいません、阿喜がようやく寝てくれたもので」
 しばらくすると、稟が戻ってきた。上着が変わっているのは、授乳の時に汚れでもしたか。
「気にしちゃだめよ。無理を言ってるのはこちらなんだから」
「はい、ありがとうございます。左軍の話でしたね」
 稟は先程と同じ位置に戻ると、どこまで話したか、頭の中で思い返そうとするように、涼州に置いた兵士のミニチュアで地図をこつこつと叩いた。
「大枠では第一次から第三次まででほぼ同じ地域を支配圏とすると言いましたが、左軍だけは異なります。というのも、この地域の五胡に関しては、調略が進んでいないからです。地形調査等は進んでいるのですが、部族との連絡がなかなかつきませんで……」
 申し訳なさそうに頭を下げる稟に、華琳が手を振って気にするなと示す。
「馬騰さんの豪族連合がなくなって、この地域の五胡──羌や鮮卑や蛮と交渉できる手づるがなくなっちゃったんですねー」
「はい、ですから、まず、第一次で最低でも馬騰の豪族連合と同程度の影響力を回復します。できれば、上回るものを。次に調略を開始し、第二次、第三次で羌の本土を呑み込む、というのが西方における方針です。羌の南方にいるテイについては、反応次第というところですか」
 他の地方に比べると、かなり力押しでいかなければいけないというわけだな。
「ですから第一次における左軍の侵攻予定地域は、敦煌まで。第一次北伐においては、涼州を完全に手中に収め、また、各部族がお互いに連絡を取れないよう、寸断することも目的となります。羌と鮮卑が連合をつくることは防がねばなりません」
 鮮卑は北、羌は北西にいる。これらを斜めに切り裂くように分断するのが涼州であり、第一次北伐の占領対象というわけだ。
「左軍は他の軍と異なり、騎兵中心の編成とします。歩兵ではなく、強力な騎兵を投入し、遊牧諸部族の弓騎兵たちに対抗する予定です」
 ふんふん、と頷く。騎兵のすさまじさは俺も知っている。なにより、あの移動速度と、突破力は歩兵では太刀打ちできない。とはいえ、羌や鮮卑といった遊牧民たちは、生まれたときから馬に乗っているような連中だ。果たして、騎兵偏重の編成にしても対抗しうるのかどうか。このあたり、羌の戦法を良く知る霞や翠の協力が不可欠だろう。
「これを率いるのは……」
 稟が一拍ためたところで、華琳が手を上げた。
「そこから先は、私が言いましょう」
 その言葉に一礼し、稟が深く腰掛けなおした。
「一刀、左軍大将はあなたよ」
 予想していた、と言えば嘘になる。だが、なぜか俺はそこまで驚きを感じなかった。
「張遼隊が五千、馬一族の涼州騎兵五千、白馬義従二千に、烏桓突騎八千」
 華琳が淡々と強力な騎兵隊の名前を挙げていく。
「大陸でも精鋭中の精鋭たる騎兵が二万、それに魏、蜀の歩兵三万五千。数は少ないけれど、遊牧諸部族の主力である騎兵と真っ向からまともに抗しうるのはこの軍だけね。歩兵十万以上に匹敵する攻撃力かしら」
 風と稟という軍師二人がおし黙る中、華琳と俺は見つめあう。お互いに相手の真意を測るように。
「俺である理由は?」
「騎兵部隊は精鋭だけに我が強い。その将軍もまた。ただの武将を頭に据えてもしかたない。だから、あなた」
 はぁ、と大きく息をつく。溜め息ではなく、大きく息を吸うための予備動作。
「本気だな?」
「もちろん。断るならいまだけよ」
「わかった、引き受けよう」
 大鴻臚といい、この任といい、本当にいろんなものを乗せてくれるものだ。だが、その根底には、彼女の信頼があると思えば、踏ん張ることができる。
「一刀……」
「二言はない」
 華琳が再び問い掛けようとするその優しさを、俺はわかっていながらはねのけた。そうすることで、はじめて一歩踏み出せると思ったからだった。


「おま、えが、大鴻臚、とはなっ」
 体の上で艶めかしく蠢く黝い髪の女性が、そんな呆れたような、喘ぎまじりの声を出す。彼女が落とす尻が俺の太股にあたり、ぱつんぱつんと音を立てる。尻の質感、上下するたびに俺のものを絞り上げるような体内の心地よさ、彼女の弱いところをえぐるたびに上げる普段はけして聞けぬ嬌声。全てが俺に快楽を送り込んでくる。
「やっぱり、驚くものかい?」
 彼女の腰の動きをサポートするために細い腰に腕を置き、その肌の熱さを心地よく感じながら、俺は訊ねる。見上げる先で、小振りな乳が揺れている。その鴇色の先端が、固く充血しているのが触れずともわかった。
「あたりっ、んんっ、まえだっ。九卿と面識を持つなぞ、昔は考えも……しなかったっ、あ、あ、あ、あ……」
 それまで規則的に上下するか、回転するか、その複合運動をするかしていた腰が急に止まる。それを無理矢理俺の腕で動かすと、切なげな顔がさらに切羽詰まった表情へと変わっていく。
「面識どころか、繋がっているよ?」
「この、莫迦っ」
 真っ赤に染まった顔が俺を憎々しげに見下ろす。けれど、その顔は俺が腰を何度か突き上げるうちにとろけ、柔らかくなっていく。
「ま、まあ、いい。最近、んっ、ようやく、この快楽というやつも味わい方がわかって……きたことだしなっ」
 そう言いながら、彼女は体を落としてくる。俺の胸に軽く手を当て、上半身を支えていたのだが、もうそれが無理だと悟ったのかもしれない。抵抗することなく、彼女の体が俺の胸にのしかかってくるのを楽しむ。顔が近づき、その唇が俺の顎をかすめる。思わず、片腕を離し、頤を引き寄せて口づけた。じゅるじゅるとお互いの体液を交換しあい、舌を絡ませあう。
「ぷはっ。昔は……ふぅう、肉の快楽に溺れる人間がいるという話も……あぁっ、阿呆のする話、とおもって、いた、が……」
「溺れたらだめだけどな」
 言いながら、ゆっくりと突き上げる。彼女も体勢的に抜けてしまうのを恐れてか、上下動はゆったりとなっていた。それに合わせて、彼女の中を存分に味わう。動くたびに、その解かれた髪が、俺の肌の上をうねる。
「お前は人を斬ったことがあるか?」
 不意の質問に驚く。間断なく漏らしていた喘ぎすら押さえたその質問に、俺はなんと答えていいかわからない。
「いや……あまり……」
「そうだろうな。お前のような立場だ。そうそう前線に立つものでもあるまい」
 一瞬、重ねている肌が急に熱を失ったかのように思った。彼女は食いしばるようにして、言葉を吐き出す。
「最初は、嫌なものだ。誰しもな。だが、百を斬り、千を斬る頃には、もはや心がざわめかなくなる」
 俺の腕をつかむ指に力が込められる。ぎりぎりと絞るように掴まれた腕が悲鳴を上げたくなるほどの痛みを訴えてくるが、声を出すことだけは耐えた。
「そして、いつしか、獣が現れる。己の中の闇い目をした獣が。血に餓え、全てを呑み込まんとする獣が。そして、それをおさえきれなくなったとき、人は狂う」
 長い髪が覆っているせいで、彼女の表情を窺い知ることはできない。ただわかるのは、彼女の吐く息が、温度を取り戻していることと、その肌が、先程と比べ物にならないくらい、熱く熱く燃え上がり始めていることだった。
「これも同じようなものだ。己の中の獣を御せなくなれば……破滅が待っていることだろう」
 ぬらり、と舌が俺の胸を這う。俺は、彼女の体を強く抱きしめながら、こう答えるしかなかった。
「そうかもしれないな」
 その後は、二人とも、もはや長々と言葉を発することはなかった。口から漏れるのは、悦楽の証と、お互いの名前。真名を呼ぶ俺の声に、彼女が息も絶え絶えに、一刀、と小さく呟く。常は決して声に出さないその名前を。
 そのことに興奮して、俺は彼女を無茶苦茶に突き上げる。その乱暴な行為に応えて、彼女は下品な水音を立てながら、俺に挑みかかるように体を動かす。
 そんな風にして、俺たちは高めあい、貪りあい、己の中の獣と一体になりながら、呑み込まれないぎりぎりのところで、愛を交わしあうのった。

 体を、心地よい倦怠が包んでいる。半ば眠りに入った意識は、まだ彼女の中に埋もれたままの陽根が伝えてくる心地よさまで、まどろみの材料としている。
 すでに彼女は意識を手放しているようだ。まだ、絶頂の余韻が解けないのか、時折痙攣するように体が震えるのが、伝わってくる。
「一刀ー、寝てしまったかしら? 明日の昼、明命が発つ前に、少し相談しなければいけないことがあるので、起きてほしいのだけど。それにしても、不用心よ……」
 夢見ごこちに、蓮華の声が聞こえる。遠くから、俺を呼ぶ声。
 蓮華……?
 いや、待て、蓮華だ! 蓮華がいる!
 一気に意識が覚醒した。蓮華の声はまだ続いている。そして、明らかにこの寝室を目指している。明命が引き継ぎを終えて帰国するのに合わせて、何事か相談しに来ている。
「おい、思春、おい」
 慌てて、体の上に乗っかったままの女の体を揺さぶる。彼女が動いてくれないと、俺自身、彼女の重みで動けない。そもそも、まだつながりあったままだ。
「ふにゅ……?」
 だー、だめだ。
 先程まで愛しあっていた彼女──思春は完全に正体を失っている。ここから意識を戻すには、刺激を与えるよりなにより時間こそが必要だ。まずは、蓮華を足止めして、こちらに入ってこないように……。
 と、そこまで考えたところで、足音が戸口のところまで来ているのに気づく。
「寝ているのなら、しっかり戸じ、ま、りは……」
 最後の賭けよ、と握った布は体にかけるのに間に合わず、手でひっぱるだけの形。目を丸くした蓮華は戸口に立ち、俺と思春をしっかりと見ている。あの角度からだと、繋がっているところがばっちり見えてしまっているはずだ。
 その瞬間、俺の上で思春がすっと起き上がった。俺の手に握られた布を二人の体にばさりとかける。
「蓮華様」
「あ、え、う……」
 頬を紅潮させ固まってしまっている蓮華に、体に布をまきつけた思春が静かに告げる。
「そちらの部屋でお待ちください。着衣を整え、すぐに参ります」
「思春、わた、私……」
「しばし、お待ち、下さい」
 音節ごとに区切った力強い言葉に、こくこくと勢い良く何度も頷いて、蓮華は逃げるように、元の部屋に戻っていく。いや、実際逃げだしたいよな。
 その間に思春は寝台をおり、体をぬぐっている。
「ししゅ……」
「北郷、息を吸え」
 彼女の言葉の迫力に、言われるまま、大きく息を吸う。
「吐け。また吸え。吐け。吸って、吐け」
 彼女に従って、三度吸い、三度吐いた。それで、酸素が脳にまわったか、ようやく自分の心臓がばくばくとすさまじい勢いで鼓動を打っていることにも気づく。
「よし、落ち着いたな?」
「あ、ああ」
 少なくとも、自分がパニックに陥りかけていたことを認識できるくらいには。見れば、思春はすでに普段通りの服をまとい、肌に浮かんでいた紅も引き始めている。
「ならば、私は先に行って蓮華様に茶でも出しておく。お前はしっかり汗をぬぐい、服を着て、後から来い」
「わかった」
 思春の力強い言葉に反論することもできず頷く。そうして、彼女が出て行き、服を着込みながら、俺はこれが世に言う修羅場っていうやつなのかな、とか思うのであった。


 ここ、俺の部屋だよな。
 息苦しい空気が渦巻く中、俺はそんなことを思っていた。
 何と言う居心地の悪さだろう。俺の部屋で、これほどまでに緊迫したことがあったろうか。あ、いや、寝室で命を狙われましたね、そういえば。
 三人は無言で、卓についている。それぞれの前には思春が淹れてくれた茶があったが、手を着けているのは俺ばかりで、思春と蓮華は先程から目配せをするばかりで、なにも動こうとしない。
「ええと」
 ようやく意を決して言葉を発しようとした途端、蓮華が妙に早口で思春に問い掛ける。
「思春と一刀は、その……そういう仲、ってことよね?」
「蓮華様が男女の仲のことを仰っておられるならば、その通りです」
「そ、そう」
 やりとりの後、主従は共に黙り込んでしまう。思春が口数少ないのはいつものことだが、しかし、いまはさすがに普段のそれとはまるで違う気がした。
「い、いつから?」
 珍しく、思春が逡巡する。俺が答えようと口を開こうとすると、すごい勢いで睨み付けられた。
「呉を発つ前からです」
 そこから、彼女は息を吸うと一気呵成に言葉を放つ。
「疑われておられるとは思いませんが、無理強いされたわけではありません。また、何事かこやつと取引のようなことをしたこともありません。隠すつもりは毛頭ありませんでしたが、しかし、喧伝するつもりもありませんでした。蓮華様へのご報告が遅れましたことは責められるべきでしょう。こやつと通じることが呉にとって不利になると我が主が思われるならば、この場にて関係を絶つことに否やはありません」
 そこまで言って頭を垂れる。まるで死刑宣告を受けるのを待つ囚人のように。
「わ、私がそのようなことを命じると、そう言うの?」
「御立場を考えれば、私を罰するのが適当かと。こやつはいまだ、政治的には敵に近い立場にありますれば」
 蓮華は腕を組んで考え込むと、俺の方を横目で見ながら思春に問い掛ける。
「私に、雪蓮姉様や、冥琳をも罰しろとでも?」
 跳ね上がる思春の顔。珍しく、そこに動揺の色がある。
「私はそのような……。しかし、蓮華様の側近という私の立場を考えれば……」
「くどい」
 一言に切り捨て、次いで、彼女は俺にまっすぐに向かいなおす。
「一方的に思春を責めるつもりはない。男女の仲を無闇と裂こうとも思わん。だが、その相手が政治的にどうこうではなく、男として思春に足る人物なのか、それは主として、友として確かめねばならん」
「蓮華様……」
 蓮華は、ん、ん、と何度か咳払いをすると、顔を引き締め俺に語りかけてきた。
「北郷一刀。しばらく過ごしてみて、お前が評判よりは随分まともで能力もそれなりにあり、また、おかしな野心を持たない人物だということは承知している。それでもなお、私には雪蓮姉様や冥琳がお前を選んだ理由がわからない」
 正直、自分でもよくわからない。俺にわかるのは、自分自身が彼女たちをこれ以上なく愛おしく思っていることくらいだ。
 そもそも、人を愛するのに理由が必要なのかどうかはこの際置いておく。
「おそらく、思春に聞いたとて、私は納得しないだろう。ましてや、一刀自身にそれを語らせようとは思わない。私が聞きたいのは覚悟のありようだ」
 思春と俺に何度か視線をやって、孫呉の姫はそう言い切った。
「覚悟……か」
 さて、なにを話せばいいのだろう。そう惑っていると、蓮華の方で問いを用意してくれた。
「たとえば、魏の曹操もまた一刀の愛人だろう。あるいは、子を産んだ郭嘉もまた。そのような女たちと比べて、思春を軽んじないでいられるか?」
「ん……そりゃ、華琳は俺を拾ってくれた恩人だし、共に戦ってきた仲間だ。郭奕は可愛いし、産んでくれた稟に感謝はしている。けれど、だからって、誰が一番なんてことはない。俺にとって、愛する人達は、みな比べようもないくらい大事なんだ。信じられないかもしれないが、愛することに関して、誰かを他の上に置いたり下に置いたりってのは、俺にとって考えられないことなんだ」
 もちろん、仕事や公的な立場はまた別だよ、と一応付け加えておく。そのあたり、姫として生まれ育ってきた蓮華がわからないはずもないだろうけれど。
「公的な立場といえば、思春は国が違う。それでも?」
 どう説明したらいいだろう。
 俺にとって、国が違えども、仕える君主が違えども、この地のことを考えて行動する人物は皆仲間に等しいということを示すには。
 そのまま言葉にしては、きっと、空々しく聞こえる。
 だから、俺は胸に宿る感情を、別の言葉に宿して放っていた。
「俺は、世界を越えて戻ってきた」
 衝撃を受けたようにのけぞる蓮華。考え込むように眉間に皺を寄せ、思春と視線を交わしあう。しばらくどこか上の方を睨み付けるように見つめていたが、なにか納得したのか、ふっと表情と雰囲気が和らいだ。
「あなたは……」
 蓮華が何事か言おうとした、ちょうどその時。
 扉が音を立てて開き、そこから、三つの影が転がり込んできた。
「ちょっとーーー! 一刀、どういうことっ!?」
「しゃ、小蓮様、お待ちを、どうかお待ちをっ」
「明命、ぬしも落ち着け」
 小蓮、明命、祭の三人がもつれあうようにして倒れ込むのを、俺たちは呆然と見ている。その中で、ばたばたと暴れる小蓮が叫んだ。
「袁術を抱いたって、どういうことよっ!!」
 痛いほどの沈黙が部屋に満ちる。
 甘かった、と俺は皆に気づかれないように嘆息する。
 修羅場とは、こういうことを言うのだ。


「シャオには後にしようとか言っておいて、袁術は抱くっておかしいよ……って、あれ、お姉ちゃん? 思春?」
 わめき散らした後で、ぽかーんと口を開けている蓮華と思春に気づいたらしい。そのお姉さんが、ぷるぷる震えているのも気づいてください。小蓮さん。
「小蓮のみならず、袁術だと……!?」
 振り返った彼女から、刺すような視線がやってくる。その紅潮しきった顔が、以前、呉の宮廷で糾弾された時より、何倍も恐ろしいのは何故だろう。いからせた肩の背後に、めらめらと燃える怒りの炎が見えるようだ。
「あのような小娘を相手にしたというのか」
「ま、まあ、美羽を抱いたのは事実だが……」
 彼女の腕が振り下ろされる。卓がばんっと大きな音を立て、ゆらゆらと揺れた。
「北郷、貴様を見直そうとしていた自分が愚かしくてたまらぬ。思春。この男のどこがいいのか知らないけれど、私は友としてあなたを祝福することはできないわ」
「蓮華、さま……」
「失礼する」
 そう言い捨てて、つかつかと去っていく背中に、誰も声をかけることができなかった。
 しばらく後、はっ、と気づいたように腰を上げる思春に、もつれあう明命とシャオを解きほぐした祭が振り返る。
「思春、ぬしはやめたほうがよい、と忠告しておこう。呉を出たこの身にできるのはあくまで忠言でしかないがな。いま行っても売り言葉に買い言葉、こじれるだけじゃろう」
「ならばどうしろと……」
 ぎり、と奥歯を噛みしめる音が聞こえたように思うほど、その声は悲痛だった。
「明命、おぬしが行ってやれ。ここは儂が」
「はっ。それでは、一刀様、失礼いたします」
「ああ」
 ぺこり、と元気よく頭を下げて出て行く明命。そのいつも通りの姿を見て、俺はようやく普段の心地に戻れたような気がした。
「さて、どうなっておるのですかな?」
 扉をしっかりと閉めた祭が向き直る。シャオは俺の隣に座って、不機嫌そうな顔で見上げてくるばかり。思春は思春で顔をうつむかせて無言を貫いている。
「あー、うん。蓮華はこれまで知らなかったんだけど、思春と俺との仲が知れてね。俺が思春に足る人物かどうか、その覚悟はあるか、という話をしていたところだったのさ」
 祭が、蓮華の席の茶杯を素早く片づけ、皆の前に新たに杯を置いていく。シャオの前の茶杯以外は、酒杯だ。そこに俺の秘蔵の酒を取り出して注いでいく祭。手際いいのはいいが、毎度隠し場所を変えているのにすぐに見つけ出すのはどういうことだろう。いや、別に飲まれるのが嫌なのではなく、最近は祭が見つけられるかと遊んでいるだけなんだけどな。
「えー、お姉ちゃん、思春と一刀のこと気づいてなかったのー?」
「なっ、小蓮様は気づいておられたというのですか!?」
「あったりまえじゃなーい。船旅の様子見てて気づかないほうがおかしいよー」
 驚く思春に対して、小蓮はあっけらかんと答える。思春は、少し考える素振りで訊ねる。
「特に無理に隠そうとは思っていませんでしたが、普段の行動で、そのような兆しが読み取れるものでしょうか?」
「簡単じゃ、思春。距離じゃよ、距離」
 椅子に座るなり早速酒を呷りながら、祭が指摘する。
「距離?」
「そうじゃ。人と人は、その親しさで、お互いにとる距離が決まる。たとえば、道端でたまたま会うて話すだけでも、その位置取りでお互いの関係がわかるものじゃ。もちろん、これを意図的に行うような者もおるがな」
 心理学用語でいうパーソナルスペースってやつかな。まあ、親しくない人があまりに近くにいるのは、落ち着かないものだからな。
「ましてや、ぬしは武人。信用しておらぬものを、その内懐に入れるわけがなかろう。ぬしの動作は、旦那様を信頼しきっていることを示しておるわ」
「し、しかし、公務においてはこやつは曹操の側近。それを尊重しているだけで……」
「そんな違い、女の子だったらだいたいわかるよー」
 反論してみるものの、シャオに笑い飛ばされて、思春は少しショックを受けたような顔をしていた。
「そ、そうですか……。しかし、蓮華様は……」
「お姉ちゃんは思春と近すぎてわかりにくかったのかもねー。……単純に鈍いだけの可能性もあるけど……」
 さすがに後半は小さい声だ。蓮華が人の心の機微に疎いとは思えないが、多少堅物の感があるから、恋愛やそういった関係に関してはあまり鋭くないことはあるかもしれない。気づいていても無意識に否定していたりな。
「で、小蓮様が乱入して、権殿はすっかりお冠で出ていってしまった、と」
「うん、一応納得してくれそうだったんだけどね」
「まったく、権殿も早合点がすぎる。袁術を抱いたという言葉だけでそれとは……。あのあたり、やはり熱情の血筋か」
「袁術にまで、と呆れられるお気持ちはわからないでもないが……」
 うう、思春さん。そんな刀を抜きたそうな目で俺を見るのはやめてください。
「あ、それよ。どういうこと、一刀」
「どういうことって言われてもなあ」
 一人一人に対する態度を口で説明しても理解されないであろうことはわかっている。なにより、その時の空気というものが理解されないだろう。
「シャオには、二年や三年待てって言っておいて、袁術は抱くってのはおかしくない? 季衣や流琉の時は戦時だからしかたないって納得したけど、いまは違うでしょ」
 実はいま現在は準戦時体制なのだが、まあ、美羽を抱いた時点でそんなことを意識していたわけではないのはたしかだ。
「貴様、小蓮様に手を出す予約をしていたのか……」
 あれ、思春さん、そこに食いつくの?
 彼女の手が本当に刀の柄にかかっているのを見て、俺は震え上がらずにいられなかった。自分のことではともかく、孫家の人間に関わることで彼女を怒らせたら、言い訳なんか聞いてもらえそうにないからな。
「小蓮様も思春も落ち着け。そのように男を責めるのは、よい女とは言えませんぞ」
 憮然とする思春と小蓮を見て、祭は苦笑を浮かべる。
「小蓮様。袁術が、旦那様に迫った折の話は聞かれたか?」
「えっと、季衣たちの話だと、はじめての月のものが来たとかなんとか」
 なんで季衣はそんなことまで知っているんだ。
 そう疑問に思いつつ、その答えを知っている俺は、嘆息するしかない。
 美羽が話したんだろうなあ……。
「儂は与り知らぬことじゃが、袁術とて実際に初潮を迎えたは、随分前の話じゃろうて。少なくとも昨日今日という話ではありますまい。じゃというに、そのことを言うた意味が、小蓮様にはわかりませぬか?」
 小蓮は祭の言葉の意味について考えているようだったが、どうしても答えが見つからなかったようで、何度か顔色を変えた後でむくれながら問い返した。
「……どういうことよ」
「袁術は、自分が大人であるということを、孕んでもよいという意志を言葉にすることで示してのけたということじゃ」
「でも、そんなの、シャオだって……!」
 激昂する小蓮を、祭はまあまあとなだめる。俺は口を挟めないな、と酒を飲みながら眺めているしかなかった。
「よろしいか? 大事なのは、初潮うんぬんではないのじゃ。それは子供と大人の境を示すものでもなんでもないのじゃからの。ただ、欲望のままに抱いてくれと言うではなく、己の全てを相手に捧げてもよいという強烈な意志、それこそがその境を決めるのじゃ」
「そんなの……」
「考えてもみなされ。袁術にとって、袁家の名と血こそが誇るべきもの。その袁術が、己の血脈に、この世界では伝統など少しもない旦那様の血を入れたいと言う。そのことを決意するに、どれほどの胆力がいったと思われます」
 祭の言葉は正しいだろう。麗羽にしろ、美羽にしろ、とてつもない名族であり、そこに無名の俺の血を入れることは、それまでの常識からすればおぞましいとも言える行為のはずだ。もちろん、抱いたからすぐに子供ができるとは限らないが、そのことを覚悟していなかったとは思えない。
「無論、袁術を愚かしい小娘と思うて、その決意の意味を侮るも、小蓮様次第。じゃが、それでは、己を子供と白状しているも同然ですぞ」
 もはや、小蓮は口を開かない。ただ、その大きな目の端に、ほんの少し涙を溜めながら、彼女の言葉を聞いている。
「この祭、赤壁にての心残りといえば、儂の知る手練手管を小蓮様にお教えできなかったこと。生まれ変わり、いま、それをお教えしておる。じゃが、生かすも殺すも小蓮様次第。ただ、旦那様が小蓮様を嫌っておるのでないくらい、聡明な小蓮様ならおわかりのはずじゃ。大事に思うが故に、手折るをためらう男の心もありまするぞ」
 際の言葉を噛みしめるように、何事か小さくぶつぶつと呟いていた小蓮は顔を上げると、俺をじっと見つめてきた。
「一刀……」
 その手がさっと動き、俺の前にあった酒杯をかっさらうと、一気に傾け、なみなみと注がれていた酒を飲み干してしまう。
「しゃ、シャオ?」
「小蓮様っ」
 俺と思春が慌てる中、小蓮がぷはーっ、と息を吐く。
「シャオ、絶対、一刀にシャオのこと認めさせてみせるから。一刀から抱きたいって言わせてやるんだから! 覚悟しててよね! って、このお酒おいしっ」
「おお、その意気、その意気」
 小蓮の宣言は、こちらを見ている思春の痛いほどの視線が無ければとても嬉しいものだった。そして、きっとその時は近いだろうという予感もまたあった。
 だが、なぜかそのことに一抹の寂しさを感じているのも事実だった。
 あるいは、俺はこの娘に、大事な大事な姫君に、子供でい続けてもらいたいのかもしれないな。
 二杯目をねだって思春に止められている彼女を目を細めて眺めながら、俺は身勝手にもそんなことを考えていた。


「さて、小蓮様のほうはこれでよいとして……」
「あー、お姉ちゃんはだめだよ。しばらくは怒りっぱなしだと思うよ」
「まあ、そうでしょうな」
 結局、小さめの酒杯を用意され、それに注がれた酒を舐めるように飲みながら言う小蓮に、祭が同意する。思春は一人黙って酒杯を傾けている。
「姉様よりましだけどね。姉様ったら、怒ってるのに笑うでしょ。怖くて」
「王ともなれば、それが必要なこともありますからな」
 酒杯を空にした思春に、祭がすかさず酒を注ぐ。
「まあ、飲め、思春」
「飲んでおります」
「そうじゃな」
 そんな風にじゃれあっている二人を見ながら、俺は誰に問い掛けるでもなく呟く。
「しばらく待つしかないか……」
「蓮華様は、頭で理解しようとなされておるために、戸惑ってしまうのでしょうな。しばらくすれば、得心することが出来ましょう。心配めさるな」
 まったく、と祭は呆れたように続けた。
「人を嫌うは勝手に理屈がついてくるが、人を好くのに理屈なんぞいらんというに」



        (第二部北伐の巻第五回・終 北伐の巻第六回に続く)



北郷朝五十皇家列伝

○董家の項抜粋
『董家は董卓からはじまる皇家である。暴虐不遜の魔王と言われた彼女が……(中略)……
 北郷朝は、歴史上の専制国家の中でも後宮の害が少なかった王朝であると言われている。それは、北郷朝に特異な皇帝選抜機構のために、後宮が皇帝の後継者を育成する場とはならず、ただの皇帝の家庭でしかなかったことが大きい。これにより、前皇帝の妃、あるいは皇帝の母が後宮から権力を振るうという図式は排除されたものの、皇帝自身が寵姫に操られ、その縁戚を重用する外戚の害を招く可能性は残存した。
 通常、皇妃となる人間でも、能力があればそれ以前に宮廷において官位を取得しているものである。北郷朝においては先帝の不慮の死などによるあまりに幼年での即位というのは考えにくいので、皇妃も皇帝登極の時点ではそれなりの年齢が予想されるからである。
 よって、皇妃となってから官位を与えられることや、極端に高い官位を与えることは禁じられていた。(もちろん、最終候補の三名のうち天子とならなかった二名が皇妃となっている場合は除かれる)
 だが、それでもなお外戚の害は懸念された。
 これを抑制したのが、鳳家によって行われた後宮教育(詳細は鳳家の項目を参照)と、董家が代々その長を務めた、メイド隊(@)の存在である。
 メイド隊は、その業務自体は通常の女官と変わりなかったが、宮廷の典礼百般に通じ、一般の女官より教養高く、また武術の心得もあり、護衛としても仕える皇妃をよく守った。後宮の平和は、曹魏の親衛隊から転じた後宮警護隊と、このメイド隊によって保たれていたと言っていいだろう。
 しかしながら、この部隊は後宮において皇妃の身の回りの世話をすることをその目的としながらも、組織としては後宮に所属せず、皇族会議直轄を貫いた。
 皇族会議が、あまりに目にあまる皇帝の妃への傾斜を認めた場合、皇族会議は皇帝をまず諫めようとする。これがはねのけられ場合、選帝皇家による弾劾もありえるが、原因が主に皇妃側にあると考えられた場合はメイド隊がその皇妃を「処置」することになる。
 例を挙げよう。十一代真帝の時代、後宮には千玉という市井から上がった美女があった。真帝の十二年、千玉にのぼせ上がった皇帝は諫言をものともせず、彼女の兄を大将軍の地位につけた。
 その布告が出ているちょうどその時刻、千玉は自室で毒を飲まされ、殺害される。そのことを告げられた真帝と千玉の兄である大将軍は、祝いの酒杯を取り落としたという。その後、千大将軍は三日で職を辞し、真帝は後宮に閉じ込められて朝議に出ることを許されず……(中略)……
 このように、刀周家が皇帝を弑したてまつる権限を与えられていたと同様、董家には度が過ぎて政治に干渉する皇妃を排除する権限が与えられており、その刃は刀周家よりもしばしば……(中略)……
(@)これは、女威討や明弩など何種類もの字を宛てられているが、おそらく「メード」「メイド」の音写であろうと言われている。ただし、本来の意味は失われて久しい。また、この単語と西洋のmaidとの類似を指摘する研究者もいるが、その成立年代を考えると……(後略)』

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