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拙作の第三話です。

今回から改行による文章の整形をやめています。
複数の方からメールで「テキストビューアーだと読み辛い!」と御指摘があったので、
試験的にそちらに合わせることにしました。
しかし、ブラウザで見ると酷い有様ですね……どちらが良いのでしょう。
私自身は青空文庫を読むときに利用しているソフトで校正しているのですが。
まあ、とにかく、読んで頂ければ幸いです。
それでは。



天遣帰歌
第三話「幕間」



 酒杯の中で燭台の炎をゆらゆらと反射する白乾児。
 注がれた酒を眺めながら、俺は「そういえば、これも歴史の齟齬だよな」などと考えていた。この白乾児は蒸留酒であり、中国大陸に蒸留技術がもたらされたのは三国時代よりも後のはずだが、外史の街では白乾児が堂々と売られている。つまり、それは蒸留技術が普及しているいう証左であり、改めて考えると強烈な相違点である。
「どーかしたのかあ、ほんごぉ?」
 間延びした声とともに春蘭の顔が俺の視界を遮る。
 微妙に焦点のズレた瞳、朱色に染まった両頬、アルコールを含んだ吐息、相当に怪しい呂律。上半身を頼りなく傾け、俺の左肩に全体重を預けている。完全なる酔っ払いだ。春蘭は泥酔すると猫(だと思い込んでいる虎)になるのだが、引っ掻いたり拗ねたり威嚇したりといった特徴が行動に現れていないので、まだ若干余裕があるらしい。
 閑話休題。
 春蘭の殺人未遂事件(被害者は俺)から約二時間が経過した現在、俺達は陳留城三階にある広間の床に座って酒を飲んでいる。誤解だと納得した春蘭が「ならば、これまでのことを説明しろ」と主張し、城まで連れて来られたのだ。太守である徐公明さんと自己紹介を交わした後、食卓で酒杯を傾けながら消滅以降の体験を説明していたが、説得時の「天の国に連れ戻された」という嘘を訂正する際に春蘭が再度暴走(嘘つきました→やはり華琳様を捨てたんだな→首を刎ねてやる……という見事な連続コンボ)して食卓が崩壊。結果、こうして床で酒杯を傾けることになったのだった。
「それにしても、不思議な話ですね」
 正面の人物が素直な感想を口にする。
 艶やかな黒髪を朱色の帯で束ね、純白の袍を身に纏った女性。陳留の太守、徐公明さんだ。年齢は春蘭と同じくらいだろうか。清楚な雰囲気と白袍が巫女を連想させる、魏の将軍には珍しいタイプの美人である。
 床に行儀良く正座した彼女が更に言葉を続ける。
「その銀色の世界に五年間も御一人で?」
「ええ、そうなりますね」
「得体の知れない世界に五年間ですか。想像すると寒気がします」
「よく平気だったにゃあ……わらひには絶対無理だあ」
「俺だって無理だよ。たぶん、正気を保っていられたのは、あの世界の所為だと思う。眠気や空腹、精神の磨耗。そういった負荷を無効化する作用があったんじゃないかな」
 あるいは、あの世界での俺は精神だけの状態だったのかもしれない。精神体、魂魄、星幽体、アストラルボディ……要するに幽体離脱みたいなものだが、そうなると話はオカルトの領分だ。出てくる単語もかなり胡散臭い。そもそも、俺自身はあの世界のことを余り気にしていないのである。根本的な疑問……俺が外史に出現した理由は相変わらず不明なのだ。算数を理解していない人間が高等数学の方程式を前にしているようなもの。推測や洞察でどうにかなる問題ではない。考えるだけ無駄なのだ。
「負荷を無効化…………」
 案の定、公明さんは渋い表情だ。
「詳しくは俺も解りませんよ。常識が通用する世界ではありませんでしたから。あちらにいるときに多少考えはしましたが、移動すら碌にできない状態ですからね。時間の無駄でしたよ。正直、こちらに帰ってこられただけでも僥倖です」
「そうですね、未知の世界を思索しても仕方ありません。無事の帰還を喜ぶだけでよしとしましょう。……それで、北郷殿はこれからどうなさるおつもりですか」
 公明さんが真っ直ぐに俺を見詰めながら問いかけてくる。
 俺の真意を測ろうとする怜悧な視線。
「正直、帰ってこれるとは思ってませんでしたから、具体的には何も考えてませんね。とりあえずは華琳に会って相談するつもりです」
「ふむう……それなんらがな」
 俺の膝枕を堪能しながら器用に酒を飲んでいた春蘭が口を開く。
「華琳様のおられる業城まで、どうやって行くつもりなのら?」
「ああ、そのことなんだけど、馬と数日分の食糧を分けて貰えないか? 出発の準備をしようにも無一文だし、ちょっと困ってたんだよ」
「まさか、ひとりで行くつもりか?」
「そのつもりだよ。護衛に兵を借りるわけにもいかないだろう」
「むむ、それはそうらが、しかし……」
 過去の経緯はともかく、俺は華琳の許を五年間も離れていたのだ。公的には部外者同然の人間を曹魏の兵が護衛するのは少々無理がある。天の御遣いという立場を利用すれば可能だが、戦が終わった以上、肩書きに頼った行動は控えるべきだろう。
「う〜ん……わらひも明日には出発しないといかんしなあ」
 春蘭が膝枕の上で煩悶する。
 元々、彼女は華琳の命令で許昌へ向かう途中らしい。中継地である陳留に到着したのが今日の日没間際。直後、春蘭の来訪を事前に把握していた梁さんから俺の所在を知らせる書簡が届いたのだという。
「そう言えば、俺が帰ってきたこと、華琳には知らせたんですか?」
「いいえ、早馬は出していません。将軍が御知らせするな、と」
「あれ? そうなんだ?」
 意外な返答に視線を向けるが、春蘭は頷いただけで理由を語ろうとしない。だが、俺は何となく沈黙の理由を察していた。たぶん、俺の再消滅を危惧しているのだ。
 五年前の消滅について、俺は何かしらの結論を掴んだはずだが、その記憶は再出現とともに失われ、真相は依然として不明。つまり、数秒後に再び消滅してもおかしくない状況なのである。知らせておいて再会前に消滅したのでは華琳を落胆させることになる……その可能性に春蘭は気付いたのだろう。
 自然、五年前の体験が脳裏に甦る。
 色彩と輪郭が失われ、塗れた水彩画のように滲む視界。肌を撫でる夜の冷気、草木の匂いを含んだ微風、頭上から降り注ぐ月光、踏みしめる草の感触……あらゆるすべてが否応なく奪われ、異物として世界から切り離される感覚。あれを再び経験することになるのだろうか。銀色の牢獄へ戻ることになるのだろうか……。
「どうぞ」
 酒杯に二杯目が注がれ、思考の淵に沈みかけていた意識を現実に引き戻される。
 顔を上げた俺に、公明さんが小さくかぶりを振って見せる。子供を慰めるような、あるいは罪人を許すような仕草。どうやら随分と酷い顔をしていたようだ。
 彼女の気遣いに感謝しながら白乾児を一息で飲み干す。
 咽喉を焼くアルコールは、萎えていた心を力強く蹴飛ばしてくれた。


(第四話へ続く)


[あとがき]
 随分と時間がかかってしまった……。
 実は二週間くらい前に書けていたんですが、前話の誤字脱字の訂正や表現を修正なんかをやっているうちに最終話のオチが気になってプロットを練り直した結果、この第三話を書き直すことになりました。全然違う展開になっただけでなく、内容自体も蛇足的な話になってしまい、開き直って章題に「幕間」とつける有様。拙作を待って頂いた方々には申し訳なく思ってます……。
 さて、次話には魏ではなく蜀の人間が登場する予定です。
 巧く動き回ってくれると良いのですが。
 それでは。

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