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119 名前:清涼剤 ◆q5O/xhpHR2 [sage] 投稿日:2013/10/12(土) 22:04:44 ID:tqnLAzow0
どうもこんばんは、清涼剤です。
お久しぶりです。色々あって中々SSが書けずにこの体たらく。
申し訳ないです。

さて、何はともあれ
無じる真√N:87話をお送りいたします。

短いです。
その代わり、次週の土曜日ごろにまた投稿をいたします。

(警告)
・アブノーマルな描写が入ることもあります。
・18歳以上向けのシーンも時折あります。
・資料を元に独自な考えで書いています。
・話の流れも同様で資料を元にアレンジを加えています。

以上の点に思うところがある方は読む際にはよくご注意ください

メールアドレス、URL欄にてメールフォームなどご用意してあります
ご意見、ご感想のある方は、お好きな媒体から、お気軽にどうぞ

ttp://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0768



 「無じる真√N87」




 彼女と自分は、これまでは一人。
 二人で一人。血を分けた姉妹、肉親以上の繋がりがあると信じて疑わなかった。
 ここまで、ずっと二人でやってきた。
 最初は小さな勢力どころか、群雄の一角、その下で働く食客だった。
 自分も共に歩を踏み出した。
 歩みから早足になり、そして駆けだした。
 成長の余地で言えば他の諸侯よりもあった。だから、常に全力で走らないと追いつけないくらいだった。
 後ろを顧みることもせず彼女が走り、自分もそれに続いたものだ。
 風で切る風が気持ちよかった。
 広大な長江に浮かべた船で浴びる風が気持ちよかった。
 舳先から夕日の放つ寂しげな光を反射して煌めく水面を共に見つめた。
 満月の日は、空に浮かぶそれを一緒に見上げた。
 あらゆる景色を分け合った。
 あらゆる感情を共有した。
 辛い時は励まし合った。
 喜びを分かち合った。
 怒りの炎を互いに滾らせ。
 哀しいときは半分こ。
 楽しい時間は彼女と共に。
 幸福なときは笑い合い。
 苦しいときは支え合う。
 彼女と自分はそうしてきた。
 ずっとずっと。
 幼い頃から共にあった。それが普通のことだった。
 いつだって隣には彼女がいた。
 雨上がりの空に燦然と輝く太陽のような微笑みを自分に向けてくれた。
 そんな彼女の笑みも今はない。
 今彼女は口元には笑みをたたえているが、哀しげな瞳から零れる深層の感情が全て打ち消してしまっている。
 さぞかし無念なのだろう、目指した夢へ届かぬうちに道が潰えてしまって。
 呪っていることだろう、無力となった己の不甲斐なさを。
 心配しているのだろう、巨星が堕ちた後の国のことが。
 申し訳なく思っているのだろう、自分の半身を置き去りにしてしまって。
 もどかしくて仕方ないのだろう、触れることも触れられることもできなくなった現状が。
 きっと恨んでいるのだろう、彼女を殺した者を。
 やはり自分も同じような憤りを覚えている。
 彼女を殺した者を許すことはできない。
 敵を取りたいという想いを抑えるのすら厳しい。
 なにより、自分には彼女を守ることができなかったことが悔しかった。
 自分が情けなかった。
 ああ、嘆かわしい。
 後悔は自己嫌悪を呼び、自己嫌悪は後悔を深める。
 堂々巡り。永遠の回廊のようにぐるぐると続く。
 心の底に暗い気持ちを沈殿させながら。
 彼女こそが国の魂の顕現。彼女の髪と肌こそ、王族の象徴。
 だが、そんな彼女を守れなかったのが自分だった。どこまで救いようのない愚者。
 そんな愚者は、これからは独り。

 †

 夢を見ていた。
 内容はよく覚えていないけれど悲しい夢だった気がする。何故か嫌に臨場感があって、まるで見てきたかのようなそんな感覚。
 一刀は顔にそっと手をやる。触り慣れた感触がそこにはあった。そうして現実の顔に触れることで現実を実感する。
 そうしないと、窓から入ってくる朝日の神聖さすら感じる光もあってか今見ている世界が幻であるかのような錯覚すら覚えそうだった。
 ゆっくりと、一刀は顔を手でなぞり、頬にいきついたところで軽く頬を叩く。
「んっ、こりゃ現実だな……よかった」
 頬に走る痛みから北郷一刀という人間がちゃんといることを確認し、彼はほっと息を吐く。
 手のひらはじっとりと汗を滲ませている。心臓もバクバクと脈打っている。一刀は緊張のようなものを自分の体が感じていたらしいことにようやく気がついた。
「あれは……」
 一刀は夢の内容をなんとか膨大な記憶の海から発掘しようと言葉にしてみようとするが口からは一言も出てこない。
 腕を組んで暫く唸った後、ふと我に返ってみた彼は自分が寝台の上で横になっていることをようやく自覚した。
「そういえば、俺はいつから寝てたんだっけ」
 上体を起こそうとして腕をついた瞬間、肩に針を突き刺したような痛みが走り一刀は顔をゆがめる。
「っ……そうだ、思い出した」
「お目覚めになりましたか?」
「あれ、月?」
 寝台から顔をそらして横を見ると、メイド服に身を包んだ小柄な少女の姿が目に入ってくる。董卓だ。
 微笑みを浮かべている董卓だが、その小さな手は、桶に入れられたままになっている。どうやら手ぬぐいを濡らしているところだったようだ。
 彼女によって、桶から手ぬぐいが取り出される。白い細腕が精一杯の力でそれを絞り、小さな滝のように水が滴り落ちていく。
「いつから、そこに?」
「ふふ、ずっといましたよ。ご主人様の看病は私の役目ですから」
 春の日差しのような暖かな笑みを浮かべながら董卓が手ぬぐいで一刀の顔を拭く。
 一刀はくすぐったさに顔をゆがめながら彼女の手を取る。
「ん、いいよ。自分でやるから」
「え?」
「いや、だからさ。自分の顔くらい自分でふくって」
 手ぬぐいを持ったまま停止している董卓の手を一瞥すると、一刀はそう言う。
 董卓は手ぬぐいをぎゅっと握りしめると、雨に打たれて震える子犬のような顔をする。
「へぅ……。ダメ、ですか?」
「あ、いや。うーん……じゃあ、頼むよ」
「はいっ」
 一転して満面の笑みを浮かべると、董卓は再び一刀にあてた手ぬぐいを動かしていく。
 董卓の腕から与えられるくすぐったさを堪えながら一刀は部屋を見渡す。
「あれ? そう言えば、ここってもしかして鄴の俺の部屋か? よく考えたら月もいるし」
「そうですよ、ご主人様。今、お気づきですか?」
 くすりとおかしそうに笑う董卓に一刀は頬を掻く。
 一刀の目元を丁寧に拭きながら董卓が耳元で小鳥のさえずりのような声で語りかける。
「ご主人様は気を失われてからずっと寝込んでいましたから、仕方ないですね」
「そっか……どれくらい経ったかわかるかな?」
「そうですね。白蓮さんの話からするとおおよそ二週間ほどでしょうか」
「二週間……」
 董卓の言葉を反芻しながら一刀は自分の肩にそっと手をやる。包帯が巻かれているため傷口が塞がっているかはよくわからない。
 この箇所を矢が掠めた。貫かれたわけではないから傷自体はそこまで深くはないはずである。
「でもよかったです。ご主人様が毒で逝ってしまわれなくて」
「ごめんな。心配させちゃったみたいで」
「いえ。ご無事だったからいいんです」
「そっかそっか。ありがとうな、月。看病も月がしてくれてたみたいだしな」
 董卓の頭を優しい手つきで撫でながら一刀は微笑む。
 彼女も手ぬぐいを桶の水に浸からせながら微笑み返す。
「そうでもないんですよ。皆さん、ご主人様が心配だったようで何度もお見えになられて」
「へえ、皆きてくれたのか」
「ご主人様は愛されてますからね。当然ですね」
「はは。そう言われるとちょっと恥ずかしいな」
「嫌われているよりはいいと思いますよ?」
「そうだな。さて、と……」
 一刀は上体を起こした姿勢のまま寝台の上で方向を変えて床へ足を下ろす。
 まだ足下がおぼつかない感じがするものの、直立することにはなんら問題はなさそうだった。
「おっとと」
「あ、ご主人様。ご無理は……」
「大丈夫。久しぶりに目を覚ましたからさ、ちょっと外の空気を吸いに行きたいなって思っただけだよ」
 心配そうな顔をする董卓を手で制すると一刀は上着を羽織って扉の方へと向かう。
 やはり、一歩一歩踏み出すのにも多少違和感が生じる。
「よく長いこと入院してた患者には歩くことすらリハビリがいるっていうけど……少しわかった気がするな」
「ご主人様、せめて肩を……」
 そう言うと董卓は、一刀の腕を取って自分の肩へと回させる。
 一刀の体重の一部を背負い込む形になり董卓が「んっ」と息を漏らす。
「月、あまり無理はしなくてもいいんだからな」
「だ、大丈夫……です。ご主人様のためならこれくらい」
「俺のためでもだよ」
「それに、ご主人様の温もりを感じますから」
 頬を紅色に染め上げながら董卓が言う。
「はは……そ、そっか」
 一刀は苦笑しながらも董卓に感謝の言葉を述べると外へと出る。
 そのとき、ふと思った。
「そう言えば月と会うのも久しぶりか。なら、多少の触れ合いはあってもいいよな」

 †

 許都、その軍議の間には曹操軍の諸将が一堂に会していた。勇猛果敢な武将、機略縦横な軍師たちが居並ぶ様はまさにそうそうたるものである。
 彼らは主の到着を待たずに熱弁を交わし合っていた。前の戦において生じた損失と今後のことについてである。
 西涼での一件や徐州奪取を受け、公孫賛軍を討つことを目標と定めて行われた徐州争奪戦。そして、公孫賛軍の本拠である鄴が存在する冀州侵攻。
 その二つの戦がありながら、どちらも結果は振るわなかった。
 それでも冀州侵攻軍は完全に押し出されたということはなく、設けた拠点の保持に成功した。そのことだけが今回の戦における唯一の収穫と言えるだろう。
 そんなこんなの芳しくない状況を憂えているからこそ、彼ら曹操軍の軍議は一層ギスギスとした空気の蔓延する事態となっているのである。
「あのバカを失ったのは本当に痛手よ……」
 曹操軍の軍師の中では古株と言える少女が歯をぎりっと鳴らしながら唸る。
 彼女は荀ケ、字を文若という。
 その荀ケの言葉に小柄の少女が寂しさの混じった口調で堪える。
「そうだよねぇ……春蘭さまはボクたちの中でもすごく強かったんだもん」
「そら抜けた穴は大きくもなるっちゅうもんやなぁ」
 ふぅとため息を零しながら特徴的な言葉遣いでそう言ったのは李典。字は曼成。
 曹操軍きっての発明家に武将といった二足の草鞋を履いている少女である。
「春蘭さま一人で一体兵卒何人分に相当するか……考えたくもないで」
「まったくだわ。我が軍は大損害よ! 大人しく撤退していればまだしも……」
「そうは言っても、状況が状況なようですし」
 鼻息荒い荀ケを、荀ケと同じく軍師である郭嘉が眼鏡越しでもわかる鋭い瞳をゆっくりと伏せながら宥める。
 不機嫌な荀ケとは裏腹にあまり感情を表に出すことなく冷静な口調で彼女は続ける。
「相手があの呂布だったという報告も受けていますし、春蘭さま以外では殿の役目すらまともに務められなかったでしょう」
「それはまあ、そうかもしれないけど。でも、あんたもわかってるでしょう? 損害は戦力的な意味だけでないというのは」
「みんな結構落ち込み気味だもんね。特に華琳さまや秋蘭さまは……」
 荀ケの言葉に許緒がため息を零しながら頷く。そう言っている彼女自身も本当のところは相当な傷を負っているはずである。
 再確認をしたことによるものか、場の空気が一段階重苦しくなったように感じられた。
 許緒たちの言葉には郭嘉も同意せざるを得ないだろう。
「そうですね。しかし、それをいつまでも悔いていては華琳さまの覇道の行き先も曇ってしまう」
「言われなくてもわかってるわよ。ただ、それとこれとは」
「そこまでよ、桂花」
 荀ケの言葉を遮るように軍議の間へと曹操が現れる。
 彼女は諸将の中央を真っ直ぐに悠然と歩き、自分の特等席に腰を下ろして改めて全員を見やる。
「どうやら、未だに前の戦のことを引きずっているようね」
「そのようなことは……いえ、一部の者は今もなお影響を受けたまま」
「気にしなくていいわ、稟。それより、報告を」
 頭を下げる郭嘉を手で制すると曹操は諸将の言葉を待つ。
 一礼し、まず荀ケが話し始めた。
「では、報告を致します。屯田兵の調整や涼州兵の調練が順調なこともあり、前の戦にて失った戦力の補填は行えるかと思われます」
「そう……。とはいえ、あくまで元に戻せる可能性がある、という程度のようね。次」
「はっ、では私の方からご報告を」
 刃のような瞳を一層研ぐようにして郭嘉が曹操を見る。
「荊州に放っていた斥候によれば、我々が公孫賛と事を構えるのを見た上で劉備が益州攻略に乗り出した様子」
「へぇ、あの甘い娘が自ら侵攻を始めたのね」
「ですが、どうにも進軍は鈍行な様子で」
「牛歩のようにのっそりとしているのかしら。まあ、なんとなく理由は想像がつくけれど、どういった訳があるのかしら?」
「元々劉璋の敷く政治は民にとって幸少なきもの。故に民は劉備を受け入れ、そして劉備は力以上に徳を用いて治めようとしているようです」
「なるほど。ねじ伏せるよりも民の心を掴むことを優先していると。まあ、あの娘なら選ぶ道でしょうね。それで、劉備軍の状況は?」
 郭嘉の報告に一瞬だけ頬を綻ばせた曹操だが、すぐに顔を引き締めて尋ねる。
 背筋を張った状態を崩さず郭嘉は発言を続ける。
「益州攻略に人員を主に割いているようで荊州は多少手薄な状況かと。守りとして将などを配しているようですが、本軍と比較すれば打ち破るのにそう苦労はないかと思われます」
「そうなると……公孫賛への攻撃を諦めれば少なくとも荊州の一部は奪れそうね。ならば戦力状況的にも荊州攻略については一応視野に入れるとしましょう」
「はっ。では、荊州攻略に関して最善を尽くしましょう」
 曹操の発言に軍令を取って堪える郭嘉。彼女の返事に満足したように頷くと曹操はまた部屋中を見渡す。
「他は誰か」
「では、私の方から」
 躊躇いもなく真っ直ぐ曹操を見つめながら手を挙げたのは夏侯淵だった。
 いつの間に来ていたのか郭嘉にはさっぱり分からない。
「秋蘭ね。春蘭の件もあったわけだけど、もう大丈夫なのかしら?」
「姉者を失ったことには未だ思うところはあります。しかし、華琳さまの道具であると誓った日より姉者も私も覚悟はしていたこと。故に華琳さまの歩みの妨げになるつもりはありません」
「秋蘭、あんた……」
「すまんな、桂花。いや、皆の者全員だな。誠に心配を掛けた、私はもう大丈夫だ。華琳さまもご迷惑をお掛けいたしました」
「ふ、構わないわ。それでは秋蘭、貴女の話を聞きましょう」
「はっ。西方へと諜報に出していた斥候より入った報告によれば漢中の五斗米道が劉備の益州侵攻に多少なりとも動揺を来しているとのこと」
「ほう。漢中……五斗米道ね。それで? それがどうかしたのかしら?」
 まるで試すような視線を夏侯淵に投げかけたまま曹操が尋ねる。
 曹操は夏侯淵の話そうとしていることを先読みしていて、その上で彼女の立ち直り具合を推し量っているような、そんな風に郭嘉には見える。
「荊州だけでなく、ここは漢中という地とそこに住まう五斗米道を掌中に収めるべきではないかと。幸い涼州の統治も進み、駐屯している将兵を大きく動かすことも可能となりました故」
「なるほど。荊州侵攻と漢中侵攻、どちらも可能だと言いたいのね」
「はい」
 曹操の言葉に夏侯淵は静かに頷く。本当に気持ちの整理を付け落ち着き払っているように見える。
「それで? 漢中攻略は誰が適任だと?」
「無論。この夏侯妙才自身の武を持って制するつもりです」
 夏侯淵はどこまでも真っ直ぐな言葉で曹操に対している。何故だろうか、郭嘉はそこに畏敬の念を抱かずにいられなかった。
 自分の知っている夏侯淵とは少し違うのだろうかと郭嘉は思った。
「わかった。よいでしょう、秋蘭は漢中攻略の総指揮を任せるとしましょう」
「御意」
 夏侯淵が軍令を取る。その様子を見て曹操がその美しい顔に微笑を称える。
「本当に大丈夫みたいね。ならば、よろしく頼むぞ」
「お任せあれ。華琳さまのご期待に必ずや応えてご覧にいれましょう」
 それからいくつかの報告などを交えて軍議は進んでいった。税収や戸籍などの内政の話や賊軍や反乱の鎮圧のことなどは特筆するほどのことはなかった。
 一通り話を聞き終えたところで曹操が不適な笑みを浮かべる。郭嘉のよく知る覇王の顔である。
「なんにせよ、私たちの現時点での方針は漢中及び、手薄となっている荊州の二点攻略よ」
「冀州の方はやはり放置ということで?」
 郭嘉は念のため曹操にその話題を振っておく。一応曹操の口から言わせておくのが大事だからである。
「今暫くは力の蓄え時ですから、漢中と荊州に集中しましょう。冀州は拠点に滞在している風に一層の注意をさせるとしましょう」
「御意。防備は固めつつ、富国強兵にと務めまさせると致しましょう」
「よろしく。では、これにて軍議は終了。皆の尽力を期待する」
 そして、曹操軍の軍議は閉幕した。
 これからの動きはこれでよい、と郭嘉は思う。
 今暫く公孫賛軍との関わりも恐らくはないと判断できる。何しろ公孫賛軍もまた、曹操を攻める余裕などないはずなのだから。

 †

 長い間の気絶期間より現実へと戻ってきたものの、北郷一刀は静養していた。共に鄴へと足を運んでいた華佗から大事を取って数日は休めと言われてしまったからである。
 ただ、彼にとって幸いだったのは部屋に籠もったままでいろとは言われなかったことだった。
 静かに室内でじっとしているというのも初めはいいものだが、直になれてしまい飽きてくる。そのため、もしもずっと床に伏せているようにと言われたりしたら、と一刀は暗い気持ちになっていたのだが。
「むしろ、散歩くらいはしてもいいかもしれないな。幸い、肉体の損傷はない。それに病は気からと言うが、あながち嘘でもないからな。時には外の空気を吸うなりして精神を落ち着かせるべきだよ」
 華佗からは診断の際にそのようなことを語られた。
 その言葉を受けて一刀は今、実際に庭園へと足を運んでいた。
 庭師によって綺麗に整えられた草木がとても清々しい空気を一刀へ視覚的に伝えてくれている。砂利を敷き詰めた小径を踏みしめる感触が心地よい。
 度重なる戦などに忙殺されていた心が今は本当に安らいでいた。
「はぁ……本当に帰ってきたんだなって感じがするな」
 一刀は庭園のあちらこちらへと目を配る。久しぶりの光景。長らく見ていなかった庭園の姿が本当に懐かしかった。
 決意を固め、信頼できる者たちと行動を開始してからずっと鄴へと戻ってくることはなかった。
 劇的な変化はないけれど、それでもどこか違っているようにも思える。一刀はとても不思議な気分になっていた。
「あ、アニキー!」
「もう、お体の方はよろしいんですか?」
 庭園に設けられた東屋へと足を運ぶと二人の少女がいた。文醜と顔良だった。
 非常に活発で男勝りな性質を備えているのが文醜で、彼女と比べると大人しめであり良識的なのが顔良だった。
「ああ、もうバッチリ。一応まだ静養中だけどね」
 一刀はそう言って開いている椅子へと腰掛ける。
「それで、二人は?」
「ここでお茶するところだったんだよ」
「よろしければ、ご主人様もご一緒にいかがですか?」
 顔良が笑顔を浮かべながら尋ねてくるのに対して一刀は快く頷く。
「お邪魔じゃなければご相伴にあずかるとしようか」
「それではお茶をお入れしますね」
 茶器を用いて顔良が手際よく新しいお茶を用意していく。茶器を持つ彼女のしなやかな指に目を奪われているうちに、顔良は作業を終え、一刀へと湯飲みを渡してくれる。
「どうぞ」
「ん、ありがとう。あちち……」
「なんだぁ、アニキ猫舌なのか?」
「ふふ、熱いですから慌てないでくださいね」
「ああ、ゆっくり冷ましながら呑むよ」
 顔良と文醜に苦笑を浮かべながら一刀は湯飲みへと息を吹きかける。
 お茶を冷まそうとするときって不思議と上目になるよなぁ、なんて思いながら幾度か息を吹きかけた後、彼は湯飲みに口をつける。
「あぁー。生き返るなぁ」
「アニキ……なんかじじくさい」
「何を言うんだ。熱いお茶をのんだときと熱めの風呂に浸かったときは声を上げる者と相場は決まってるんだぞ」
「な、なんですか、それ」
 熱弁をふるう一刀に顔良が乾いた笑いを零す。
「というかさ、それが余計にじじくさいんだっての」
「ぐぬぬ……わびさびというものがわからんとは」
「むむむ、ただじじくさいだけなのを高尚な言い方すんなよな」
「まあまあ、二人とも」
 犬と猿のように睨み合う二人を宥めようと顔良が顔の前に出した両手を前後させる。
 仲裁を受けた一刀がすぐさま顔を顔良へと向ける。
「斗詩はわかってくれるだろ?」
「バカ言うなよな。斗詩に限ってそんなばばくさ……いや、でも意外とばばくさいところもあるからなぁ。例えば……」
「ちょっ、文ちゃん!」
「いや、悪い悪い。口が滑った」
 席を立つ勢いで顔良が睨み付け、対する文醜は苦笑を漏らしながら頭を掻く。
「もう。ひどいよ、文ちゃん」
「そうだぞ。斗詩はこんなに可愛いというのに、よりにもよっておばさんはないだろう」
 一刀の言葉に顔良がぴくりと一瞬だけ小さく跳ねる。その一方で文醜がち、ち、ち、と立てた人差し指を左右に振る。
「わかってないなぁ、アニキは。そりゃ、あたいだって斗詩は可愛いと思うさ。でも、そういうところも含めての斗詩なんだよ」
「なるほど、それは一理あるのかも知れないな」
 指を立てる文醜に、一刀は腕組みをして深々と頷く。
 顔良が「えっ」と目を丸くして、顔を勢いよく一刀の方へと向ける。彼女の凜々しさよりは美しさを感じさせる瞳が一刀をきっと捉える。
「ご主人様も納得しないでくださいよ」
「いやな。確かに俺はまだ斗詩のことを全て知っているわけじゃないなと」
「だろう? あたいの方がアニキよりも斗詩とのつきあいは長いし、深いからな」
「くう……羨ましいぞ。猪々子」
「へっへーんだ」
 自慢げに胸を張る文醜。ふくよかな膨らみは見当たらない。
「ちっぱいの癖に」
「胸は関係ないだろ! 胸は!」
「いやいや、猪々子はちっぱいだから狭量なんだ。斗詩を見習え、あのはちきれんばかりのおっぱいは茫洋な荒野のごとき寛容さの現れに違いない」
「ちょっ、ご主人様。何を!?」
 急な一刀の発言に顔良が自分の体を抱くようにして胸を隠しながら僅かに背を向けるように姿勢を変える。
 若干頬を赤くしているのが可愛いなと一刀は思った。
「むむむ……」
 文醜が人差し指と親指を直角になるように立て、その間に顎を挟み込むようにしながら顔良の乳房に視線を注ぐ。
「凝視しないでよ、文ちゃん!」
「いや、なんか。相変わらず見事なもんだからさぁ。つい」
「ついじゃないよ……もう」
 更に胸を隠すような姿勢をとる顔良だが、腕で圧迫された胸は一層膨れあがり強調されている。
 本人は気づいていないようなので一刀は素知らぬ顔で視線だけ胸元に向けながらお茶をすする。
「何を盛り上がっていらっしゃるのかしら?」
 東屋の中へと優雅な足取りでしゃなりしゃなりと女性がやってくる。
 この時勢の割に非常に艶のある美しい髪をぐるぐると渦のように巻いていて、いかにもお嬢様といった様子である。
「お、麗羽じゃないか」
 一刀が先ほどまで見ていた顔良のそれに劣らぬものを持っている女性、袁紹、字は本初だった。一刀は口もと綻ばせながら、袁紹へと片手を広げてみせる。
 袁紹は彼を一瞥すると、一瞬で視線をそらす。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと斗詩さん?」
「どうかしましたか、麗羽さま?」
 今にもつかみかかりそうな勢いで詰め寄る袁紹に顔良は両手を挙げて当惑した様子である。
「どうしたもこうしたもありませんわ! ど、どどどど……どうして一刀さんがここにいるんですの!」
「ちょっ麗羽さま……お、落ち着いて」
「落ち着けるわけがないでしょう! もう、なんでこう……」
「いや、だから意味わかんないんで落ち着いてくださいよ、麗羽さまってば」
 見かねた文醜が顔良に助け船を出す。すると、袁紹はくわっと表情をこわばらせて今度は文醜に詰め寄る。
「じゃあ、代わりにお答えなさいな。どうしているんですの。あの、お、と、こ、が!」
 最後の数文字を強調するような言い方をしながら袁紹は文醜の胸元を掴んで揺する。
「あばばばばば」
「さっさと答えてくださりませんこと!」
「あば? あばばばばばば!」
 ぶんぶんと袁紹に振り回されて文醜が青い顔をする。
 流石にまずいかと一刀は手にしていた湯飲みを卓へと置いて袁紹の腕を掴む。
「おいおい、麗羽……その辺にしておけって。猪々子が壊れる」
「ひっ! な、なにをするんでしゅのー!」
 袁紹は捕まれている自分の腕を見て悲鳴を上げるや一刀を突き飛ばして東屋を出て行く。
 取り残された一刀は突き飛ばされた際に椅子に躓いてひっくり返っていた。
「な、なんだったんだよ……一体」
「大丈夫ですか、ご主人様?」
「らいじょうぶかぁーアニキィ」
 顔良の手助けを受けながら立ち上がる一刀に文醜が心配するように話しかける。彼女は目を渦巻きのようにしてレロンレロンになっている。
「いや、むしろお前が大丈夫か。猪々子」
「あたいは大丈夫だぁ」
「まあ、そのうち治るか。しっかし、麗羽のやつ……どうしたっていうんだ」
「それは恐らく」
 顔良がぽつりと漏らした一言を聞き逃さず一刀は彼女を見る。
 だが、続きを待ったものの、どうにも口から出てきそうにはなかった。
 一刀と顔良が乱れた辺りを元に戻し、文醜がまともになったところでようやく場は落ち着きを取り戻したのだが、結局お茶会はお開きにすることになってしまった。
「それでは、私たちは麗羽さまを追いかけますので」
「なんか邪魔しちゃったみたいで悪かったな」
「いえ。そんなことはないですよ。また今度改めてご一緒しましょう」
「気遣い、ありがとうな」
 にっこりと微笑んでくれる顔良に一刀は片手をあげながら頭を軽く下げる。
「まあ、アニキが悪いってわけじゃないしなぁ。結局はアレのせいだろうし」
「斗詩も言ってたが、なんのことだ?」
「文ちゃん」
「いっけね。すまねぇ、斗詩」
「はぁ……。ご主人様」
 佇まいを直して顔良が一刀をじっと見据える。一刀もその視線に応える用に背筋をピンと伸ばす。
「これはきっと麗羽さまご自身が言うべきこと、解消すべきことだと思うので申し上げられません。ごめんなさい」
「そっか。いやまぁ……別に事情があるならしょうがないさ」
「まあ、それはそれとしてだけどさ。麗羽さまっていえば」
 文醜が話題の切り替えを行う。
「ん?」
「いや、そういやアニキとどっか行きたいみたいなことをだな」
「ああー。言ってたね。麗羽さま」
「へえ、あの麗羽が俺とねぇ」
 どうにも一刀の袁紹に対する印象とそりが合わず、想像がしづらい。
「確か取り寄せたあれが関係してたと思うけど」
「あれ?」
「アニキがいきなり鄴からいなくなっちまったときに麗羽さまが取り寄せたものがあってさ。その取り寄せた時にアニキの名前を麗羽さまがこぼしてたんだよ」
「それは俺がいなくなったからじゃなくてか?」
 小首を傾げながら一刀は聞き返す。
 いまいち彼にはぴんとこない。とにかく、自分が不在の間にあったことのようだということだけは理解できた。
「ご主人様がいなくなった時か直前の頃だから……恐らく違うと思いますよ」
「そうなのか。それじゃあ、本当に俺を連れて行きたかったのか」
「まあ、何にしても。そのうち麗羽さまの方から誘いがかかると思うから覚悟はして置いた方がいいと思うぜ」
「ん。ありがと。一応覚悟はしておくよ」
 なんだかまるで処罰をうけるみたいだなと、一刀は内心思った。
 それから少し話をした三人だったが、つい雑談に花が咲いてしまっていることに気がついた顔良が「あ、そろそろ行かなくちゃ」と言って東屋を後にした。
 それに続くように駆け出そうとする文醜が一度足を止めて東屋に残っている一刀の方へと振り返る。
「あのさ、アニキ」
「ん?」
「麗羽さま……あれで、意外と悪い人じゃないんだ。だから」
「大丈夫。嫌ったりしてないし、なんだかんだ好きだよ、麗羽のこと」
 一度首を縦に振ると一刀は口を斜めにする。
「そっか、そりゃ良かった。んじゃ、またな!」
 嬉しそうに太陽のような朗らかな笑みを浮かべると、文醜は片手を挙げて東屋から駆けだしていった。
 上機嫌な犬みたいに跳ねるような走り方で去って行く少女の姿を見送ると、一刀は茶器を片付け始めるのだった。

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