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61 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2012/09/12(水) 23:56:12 ID:77VHfYhg0
こんばんは、一壷酒です。
玄朝秘史の第四部第二十三回『英雄談義』をお届けします。

今回も短いですが……まあ、ここしか切れないな、と。
物語を描く方としても、色々思うところはありますが、この世界ではこういうことになります。はい。

次回投稿は9/25を予定しています。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。

 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。
・現状、玄朝秘史の掲載場所は私のサイトとこの外史まとめサイトのみです。投下告知を避難所にて行って
おります。それ以外の場所でのファイル配布などは行っておりません。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
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※転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)



玄朝秘史
 第四部第二十三回『英雄談義』



 1.策


「またお相手願えますか」
 そう声をかけられて、明命は目を開ける。
 どんなに短い時間でも眠りに落ち、体を休められるのは、将軍としてはもちろん、間者としても最低限もっていなくてはならない技術だが、それに巧みなはずの彼女でさえ、なんとなく頭が重く感じられる目覚めであった。
 ぶんぶんと頭を振って眠気を振り払い、彼女は天幕の中央に据えられた卓へと向かう。そこには襄樊地域の地図が広げられ、地形を示す為の木の塊や、兵を示す駒などが並べられていた。
 明命に声をかけ、彼女を起こした亞莎が、卓の向こう側に回る。その亞莎の背後には軍師を補佐する士官たちが並んでいた。同様に、明命の麾下となる士官たちが上官の周りに集まってくる。
 そして、卓についた明命は、状況を観察し、自ら打つべき一手を考え始めた。
 そう、ここでは模擬戦が繰り広げられているのだ。彼女が睡眠を取る前もしていたことだ。
 隣の天幕では、穏と思春が同じように模擬戦を行っていて、穏と亞莎は時折意見を交わしては入れ替わる。彼女たちが新しい策を考えている間が、明命と思春の睡眠時間なのだ。
 亞莎率いる呉軍の新戦術に、明命率いる蓬莱軍は苦戦させられたが、各地の城砦――連結すれば襄樊地域全体を覆うことになる城壁の一部――に籠もった蓬莱軍の、一撃与えては城砦に戻るやり方で呉軍は徐々に兵を削られ、最終的には明命たちが勝ちを収めた。
 結果を確認した亞莎は、一つ頷くと、自らが行った作戦の根幹とその動きの目的などを明命に教授する。そうして攻守を入れ替えて、再び模擬戦が始まった。
 先程自らが受けた攻撃を、明命なりに咀嚼して、亞莎の蓬莱軍に対する。戦況の経過そのものは大差なかったものの、亞莎側の士官のうち二人が率いる部隊が突出したのを利用して、呉軍が勝利をもぎとった。
 結果を再び確認し、動きの再現をしている最中に、一人の士官がよろめき、膝を突いた。控えていた兵が青ざめた顔つきの彼を連れて天幕を出る。代わりに、待機していた士官が天幕へと招き入れられた。
 彼女たちを支援する士官たちはこの一晩のうちに、何人も入れ替わっている。それだけ、精神と頭脳を酷使する行いなのであった。
 それはそうだろう。
 明命も亞莎も、模擬戦を本気で行っている。
 自分の言うことを間違わずに聞いてくれる駒を用いての勝負で一手しくじるのは、実戦においてはいくつもの失敗を招き寄せることと同じことだ。そして、その失敗は、即座に千を超える損害を生むだろう。
 地図を読み、相手の手を読み、自らの動きを決める。その一連の動きに、幾千、幾万の命がかかっているのだ。心も頭もすりへるような一戦一戦であった。
 明命は士官の入れ替わりの合間に、対面の亞莎の顔を窺った。
 ろうそくの灯りを受けているというのに真っ白に見えるその顔には、びっしりと細かい汗が浮かんでいる。それを拭う間も惜しんで、彼女はきつい視線で盤上を見つめていた。
 明命にせよ、他の将たちにせよ、武力や指揮の力はもちろんのこと、それを支える桁外れの体力と気力を誇るが故に将となっている。その明命でさえ、途切れ途切れの睡眠で疲れが取り切れていない。
 それなのに、亞莎と穏は、これまで一睡もしていないのだ。
 回転する頭脳の働きを少しでも鈍らせるのは嫌だとでも言うように、軍師二人はこの問題にかかりきりになっていた。
 呉軍をもって蓬莱軍に勝てるかという主君の問いに答えるために。
「よし、もう一度です」
 なにか納得がいったのか、うんうんと小刻みに頷いて、亞莎が申し出る。明命はなにも言わずにこくんと頷いた。
 攻守を取り替えて五度ずつ、十度。亞莎や穏が策を見いだす度に、彼女たちはそれを試し、うまく行きそうだと見れば、さらに何度も検証を繰り返す。
 そうして最も勝利に近い道を見つけ出す。
 それが、亞莎と穏の、そして、明命や思春の務めであった。

 軍師二人が身命を削るほどの勢いで策を練り込んだ、その翌朝。
 北郷一刀とその妻、蓮華が会談を予定しているその日。
 呉大帝孫仲謀は、側近たる猛将から前夜の結果を手渡されていた。
「穏と亞莎は」
「しばし、休息させております」
 竹簡を開きながら、半分以上布で隠された思春の顔をちらりと見やる蓮華。
「あなたも休んだ方がいいわね、思春。といっても会談までのわずかな間だけど」
「蓮華様こそ」
「私のはただのくまよ。化粧でごまかせるわ」
 思春の指摘に、蓮華はひらひらと手を振ってそんなことを言う。その言葉通り、蓮華の目元にもうっすらとくまが生じていた。
 模擬戦に参加していなかった蓮華がなにを思って睡眠時間を削ったのか、思春にはわからない。
 だが、彼女は孫呉の当主にして、帝である。
 将たちに任せたのとは違う気がかりがあり、責務があるのも当然のことだ。
 そして、戦だけに集中していればよい自分たちよりもそれはよほど大変なことであるのだと、思春は確信していた。
 そんな感慨を他所に、蓮華は穏がよこした報告を読み進めている。
「百戦して、八十五敗か」
 それは、『最も勝率の高い策』を用いての敗戦の数。彼女はさらにその詳細を読みながら、複雑な表情を浮かべた。
 どちらかといえば、憂いの強い、けれど、それを導き出した臣下を誇るような、そんな表情。
 一方で、思春は鋭い視線で蓮華を見つめた。
「百やれば十五は勝てる、ということでもあります」
「百の内十五に万の命を賭けよと?」
「蓮華様の御下命ならば、江東の民の全ては、喜んで命を差し出すことでしょう」
「……だからこそ、よ」
 意気軒昂な思春の物言いに苦笑しつつ、蓮華はくるくると竹簡をまとめなおした。それを手に持ったまま腕を組み、竹簡の先端を頬に軽く押しつける。
「相手が一刀でなければ、挑むのも悪くはないかもしれんな」
 しばらく黙った後で、そんなことを独りごちる。自らにかけられている声ではないと判断し、思春は主の思考が進展するのを見守った。
「蓬莱にとって、これは帝としての初陣。見事な勝ちを収めねば意味がない。そう普通は考える」
 軍事行動は、結局は政治活動の一環、あるいはその手段にすぎない。帝が最前線に出て来るなら、その政治色は一層濃くなるはずだ。
 孫呉、蜀漢を滅ぼすとまでは行かずとも、見事な一撃を与える。そのことで始まったばかりの蓬莱の国の歴史に輝かしい業績を刻む。
 これが普通に考えられる意図であり、そのためには、やはり見栄えのする行動がよしとされるだろう。
「そうであれば、我々はその隙を突ける」
 無理のある行動は、隙を作る。まして、配下にすばらしい将たちが揃っているにしても、北郷一刀の指揮能力はまだまだ発展途上だ。蓮華が言える話ではないが、たとえば、雪蓮や華琳が全軍を率いたときとは、やはり違うだろう。
 となれば、多少は勝率を上げられるかもしれない。
 百の内十五が三十になれば、検討の余地はある。
 しかし、と蓮華は首を振るのだ。
「一刀はそんなことを恥と思わん。泥臭くとも勝ちは勝ち、だ」
 ふっと笑って、彼女はどこかあらぬ方を見やる。その脳裏には、前日見聞した城砦、いや、城壁群が浮かび上がっている。
「だからこそ、なりふり構わず、あの壁を立てているのだからな」
 二つの都市を覆うほどの城壁。
 一戦するだけならば、そんなものを建設する必要はない。
 もちろん、孫呉との戦だけではなく、今後の都市の発展を見越してのことではあろうが、それにしても……。
「ならば、どういたします」
 そう問いかける思春の姿に、蓮華は時が迫っていることを知った。思春にしても主の思考を邪魔するのは気が引けただろうが、一刀との会談の時間は既に決められている。準備を考えれば、そうそうゆっくりとしているわけにもいかなかった。
「……まずは一刀と会おう」
 蓮華は立ち上がり、その髪をゆったりと振った。
「賭けるかどうかは、その後決めるとしよう」
 そう、決然と言い放って。


 2.会談


「やあ、いらっしゃい。蓮華」
 先程まで乗っていた愛馬から下り、にこやかに両手を広げながら自分を見つめる男の姿を見返しながら、蓮華は柔らかな笑みを浮かべる。
 それは夫に会えたという単純な喜びを示すと共に、彼女の心に浮かび上がった別の感情を隠す役にも立っていた。
 彼の後ろに、襄陽の城壁――いや、いまとなっては旧城壁だろうか?――を背にして立つ女性たちを見る蓮華としては、様々な感情を抱かざるを得ない。
 金の目立つ鎧をつけ、これまた黄金のような髪を垂らす、派手派手しい麗羽。その横に立つ、これも金の鎧を着ける二人の武将、斗詩と猪々子。鎧など一切纏わず、豪奢な装いで自信満々に立つ美羽や、それをにこにこと眺めている七乃などの袁家勢はいい。特に気にするものでない。
 だが、武器も構えず、ただ立っているだけだというのに、とてつもない存在感を漂わせる華雄と恋の二人組はどうだ。美しい銀の髪と、燃え上がるような赤の髪。その二つの頭が、ただ並んでいるだけだというのに、蓮華の背には怖気が走る。
 彼女たちは自分を睨んでいるわけでもない。警戒しているわけでもない。腰には儀礼用の刀しかなく、愛用する長大な武器は両者ともに携えていない。
 それなのに、蓮華は彼女たちを恐怖する。その個としての圧倒的な力を知る故に。
 さらには、その周囲にいる、三人のかわいらしい侍女。あれは、けして侮っていい存在ではない。可憐ではあるものの、珍奇とも言えるめいど服に身を包むのは、董仲穎、賈文和、陳公台なのだから。
 その外見に油断して、彼女たちの政治的、軍事的才能を無視するわけにはいかない。
 だが、なによりも彼女の心を掻き乱すのは、向かって左側に立つ三人だ。
 三名の内、二人がそれぞれ赤と黒の仮面を被っているのは、あるいは蓮華の心情を慮ってのことかもしれない。
 小さな頃より……否、生まれた時から共にあった二人は、師であり母であり姉に等しい存在であった。
 けれど、そう、けれど。
 その二人を従えるように立ち、蓮華と同じ色の髪、同じ色の瞳を堂々と晒す人物こそは、正真正銘血の繋がった姉である。
 名を、孫伯符。孫呉の英雄にして、かつての国主。
 にこやかに自らを出迎える雪蓮に対して、蓮華はどんな感情を向けていいのか、本当によくわからなかった。
 ともあれ、心と体にたたき込まれた礼儀作法は、内心の混乱とはまるで関係なく働いてくれる。彼女はほとんど自動的に夫たる人物に対しての挨拶を済ませていた。
 今日は建前としては呉の帝として来ているわけではないし、一刀も蓬莱の帝として迎え入れているわけではない。そのため、格式張ったやりとりもそれほどなく、蓮華とそれに随伴した一行はそのまま酒宴に招かれた。
 彼女はその申し出を受けつつも、少々の変更を願った。
「少し、一刀と話せないかしら?」
「二人きりという意味よね?」
「ええ」
 詠が眼鏡を煌めかせて訊ねるのに、ゆっくりと頷いてみせる。
「部屋を用意するから……」
「出来れば、歩きたいのだけど」
「それはさすがに護衛をつけませんと」
 斗詩が思わずといった様子で口を挟むのに、蓮華は腕を組んで考える振りをしてから、用意しておいた条件を提示する。
「ならば、二十歩先をそちらの護衛に歩かせればいいわ。こちらは二十歩後を思春に歩かせるから」
 蓬莱側の面々が顔を見合わせて同意を示すまで、しばし待つ。蓮華の後ろに控える穏たちは蓮華が言い出したことでもあり、異を唱えようとしない。
「では、私が行こう」
 結局、一刀が大きく頷いたことで蓬莱側の意思決定はなったらしく、その中で、華雄が声を上げた。
 その人選を確認するように一刀が視線を合わせてくるのにこくりと頷く蓮華。
「華雄よ。いかに権殿が堅殿に似ていようと、血迷って切りつけるでないぞ」
「阿呆」
 そんな昔なじみの遣り取りに小さく笑いながら、思春と華雄の二人が離れるのを待つ。
「どうしたの?」
「城に入る前に話しておきたかったの」
「まあ、気取らずに話すにはいいかもしれないな」
 一刀は当初は怪訝そうにしていたものの、蓮華が柔らかな口調で話しかけると納得したようだった。気持ちよさげに風を受けながら、ゆっくりと彼女の横を歩く。
「不思議なものね」
「なにが?」
「私たちは、二人ともに初代の帝だけど、建国の王ではないでしょう?」
「ああ、たしかにね。俺は華琳から、蓮華は雪蓮から受け継いでいるわけだ」
 なんだか感心したように、一刀は応じる。そのあまりにいつもと変わらぬ様に、蓮華はくすくす笑いたくなるのをおさえ、内心でだけ笑っておいた。
「その二人が夫と妻となり、こうして国境の城外を歩いている」
「うん」
「不思議じゃない?」
「不思議な縁だな」
 二人は言い合って頷き合う。
 なんでもない会話だが、なにか大事なことを示しているような、そんな空気が二人の間に流れていた。
「そういえば、荊州には水鏡先生がいるわよね?」
 しばらく、周囲の風景を眺め、あそこの工事は少し遅れているようだとか、水を漢水から引くのが大変だとか話し合ったあとで、蓮華はそう切り出す。
 ちなみに、工事についての情報などは重要な軍事機密なのだが、蓮華は指摘するようなことはしなかった。そんなことが多少漏れようとも、城壁の工事自体に問題はないと、一刀は判断しているのだろう。たとえ、その情報を基に呉軍が攻めてきたとしても。
「ああ、俺も話がしたかったんで、ちょうどこの城に呼んであるよ。会う?」
「ええ、ぜひお会いしたいわ」
 明命に調べさせてあった情報を確認し、蓮華は声を弾ませる。
「出来れば、今晩語り合わせていただけるとありがたいのだけど」
「んー。人をやっておくから、そっちから申し入れてくれるかな?」
「わかったわ」
 そこで足を止め、蓮華は明るい笑顔を彼に向ける。
「ありがとう、一刀」
 一刀は彼女の花開くような笑顔に面食らったように口をすぼめ、小首を傾げた。
「なんだ、これを頼みたかったの?」
「ええ、そうよ」
「ふむ」
 顎先を一つ撫でて、彼は悪戯っぽく片眼を瞑って見せる。
「蓮華がなにを話したいのか、実に興味深いけど、これ以上首を突っ込むのはやめておいたほうがよさそうだな」
 朱里と雛里の師である司馬徽を通じて蜀漢と連絡を取る、などということを一刀は恐れていない。なぜなら、呉には朱里の兄、諸葛瑾がいるのだ。桃香と連携を取るなら、彼を使えばいいだけのことだ。
 だから、純粋に彼女たちが何を話すのかに興味を持ったのだが、それでも、ここは遠慮した方が良いと、彼はなんとなく感じていた。
「なんだか、とても大事な話みたいだ」
「ええ、とっても、ね」
 蓮華が真剣に頷くのを見て、彼は自らの判断が間違っていなかったと確信するのだった。


 3.英雄


 後世の立場から見れば、蓬莱朝成立当初の孫仲謀の行動については謎が多い。
 そもそも呉が帝国となり、孫権が登極したことさえ一般には知られていないほど、この時期の彼女の行動は曖昧な形で伝えられている。
 それは、蓬莱朝が支配力を強めていく中で、太祖太帝に対立する立場にあったことをなるべく公にはしたくないという心理が、孫家の血を引く者たちに生じていたためであろう。
 その中では珍しいことに、この襄樊における会談と、その後の司馬徽との論議については、はっきりと伝えられている。
 ただし、会談において、両者が交わした言葉――詩歌のやりとりなどもあったようだ――については公的な記録が残っているものの、水鏡先生との語らいについての資料は実に少ない。
 おそらくは当時においてもその内容は極秘とされ、当の二人以外には語られることがなかったのであろう。
 ただ、わずかに漏れ伝わるところによれば、二人は『英雄』について夜を徹して語り、論戦を交わしたという。


 翌朝、蓮華の姿は、襄陽の城壁にあった。
 彼女の見つめる先には、現在も工事が進む城壁群がある。いずれは連結され、襄陽と樊城を一つの城と化すそれらまで、この城壁からはそれなりの距離がある。
 一刀はあそこまで住居や市を伸ばすつもりだろうか、あるいは、田畑も囲い込むつもりであろうか。
 そんなことを考えながら、彼女は早朝の空気を胸一杯に吸い込む。
「冥琳」
「はっ」
 彼女の背後には、二人の人物が立っている。
 一人は呉の筆頭軍師、陸伯言。
 もう一人は、その師、美周郎こと周公謹。
 共に軍師であり、共に麗しい体躯を持つ二人であるのに、一人はぽやーっとした雰囲気を保ち、一人は眼鏡の奥に表情を全て隠して、触れれば切れると思わせるような空気をまとっていた。
「かつての主筋として、そして、なによりも友として訊ねる」
「なんなりと」
 たとえ、いま、彼女が蓬莱に身を寄せているとしても、かつての絆が断ち切られたわけではない。冥琳は言葉通り、なにを訊かれようと答えるつもりであった。
 ただし、蓮華の問いかけは、彼女の予想からは随分外れていたけれど。
「北郷一刀は、百年、二百年の後、この地の民に、英雄として記憶されていようか?」
「まず間違いなく」
 それでも、冥琳は間髪を容れず答えている。
「魏の連中が目論んでいるよりは、華琳殿の影響は残りましょう。しかし、北郷一刀の名が忘れられるようなことはありますまい」
「そうか」
 答えた冥琳に向き直ることもなく、蓮華は頷く。
 その瞬間、彼女は幻視した。
 その城の内に漢水そのものを抱え込んだ、巨大な都市。
 そこでは、船が、馬が、人々が行き交う。
 東から、西から、そして、遥か大洋の彼方から来た人々が、物を売り、言葉を交わし、杯を酌み交わす。
 ああ、そうか、と彼女は思った。
 この風景を形作る人は、たしかに英雄と呼ばれよう。
「昨夜、私は司馬徽と問答した。英雄とはいかなる人物のことを言うのかとな」
 その唇に微笑みを刻みながら、彼女は続ける。
「彼女の説も、あるいは古今の知恵者の言うことも、納得できるものだった。だが、私はこう思う」
 幻の都市を歓迎するように大きく手を広げる。幻視は途切れ、そこにはまだがらんとしている空間が残されたが、それでも、彼女は喜びと共に腕を掲げ続けた。
「力なき民のため、勇をもって動ける者こそが英雄であると」
 そう。
 私も勇気を奮おう。
 英雄にはなれぬかもしれないが、英雄に憧れた者として。
「穏」
「はいー」
「呉に、私に従わぬ者はどれほどいる?」
 その問いに、穏はしばし考え、意味ありげに首を傾げて言った。
「んー。『どんなことでも』聞く人は、半分くらいですかねー」
「十分だ。よし、兵を返せ」
「戻すんですかー?」
 さすがにこれには少し驚いたのか、大きく目を見開き、穏は聞き返す。
 連れてきた兵はたしかに決戦のためのものではなく、威嚇が主な目的のものではあるが、あっさりと退かせるとは彼女にも予想外であった。
「そうだ。あの兵は残りの半分に、私の意を通すために使う」
「わかりました」
 短いが、強烈な意思の籠もった命に、穏の口調が変わる。その横で冥琳が片眉をはね上げていたが、そんなことに構う余裕もなく、穏はさっさと足早に去ってしまった。
 残った蓮華はくるりと振り返る。しかし、彼女の視線は冥琳に向かわず、まるで見当違いの方へ向いていた。
「出てきませんか、姉様」
「あら、ばれてたの」
 蓮華の顔が向くほうでそんな声がする。蓮華とどこか似た声に続いて、ひょいと物陰から現れたのは、彼女と同じ色の髪と膚を持つ女性の姿。
 城壁の見張り台の合間に隠れていた雪蓮はぱんぱんと衣服の埃をはたきながら、軽い足取りで近づいてきた。
 蓮華が呼んでいたのは穏と冥琳の二人だけだったのだが、雪蓮が潜むことも、蓮華の予想の範疇であった。
「さすがにわかります。長いつきあいですから」
「そうねー」
 蓮華にとって、雪蓮以上につきあいの深い人間などいるはずもない。雪蓮は愉快そうに笑って、彼女の横に立った。
「で、決めたの?」
「ご期待には添えません」
 目を伏せる蓮華。そのまつげが小さく震えていた。
「いいのよ、蓮華。あなたが考えて、あなたが決めたのなら」
「ならばそうします」
 元気づけるように雪蓮が言うのに、蓮華は顔をあげた。
 その途端、冥琳が思わず、じりと後じさっている。
 雪蓮は身動きこそしなかったが、妹の発する気合いの強さに、内心舌を巻いていた。
「孫将軍」
 鋭い声が彼女に呼びかける。その呼び方を認識するや否や、雪蓮の膝が折れた。
 ああ、なんという光景か。
 孫策が孫権に対して跪き、礼を取るとは。
「孫家の主、江東江南の支配者、呉大帝孫仲謀が、蓬莱の帝に恭順の意を示さん。疾く案内せい」
 堅苦しく、尊大とさえ言える口調で、彼女は告げる。
 南方の民の全ての誇りと、全ての命を背負うその言葉に、雪蓮の頭は自然と垂れる。
「はっ! 孫伯符、喜んで露払いつかまつる」
 見守る冥琳の目に、大きく涙が盛り上がり、音もなくその頬を流れ落ちた。
 孫堅、孫策、孫権、三代にわたる孫呉は、ついにこの時、国としての形を無くした。
 この日、孫呉は蓬莱に降ることを約し、この時より、孫仲謀の新たな戦いの日々が始まるのだった。



     (玄朝秘史 第四部第二十三回『英雄談義』終/第四部第二十四回に続く)

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