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155 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2012/02/19(日) 23:58:03 ID:MrH3IMdA0
こんばんは、一壷酒です。遅くなりました。玄朝秘史、第四部第十五回『先憂後楽』をお送りします。
今回も少々短めです。
なかなか仕事も忙しいので、一週間だとこの長さくらいが限界かなって感じなのですが、この長さで一週間に
一回投下か、1.5から2倍の長さで二週に一度投下のほうがいいか迷うところです。
読者の皆さんはどちらがいいのでしょうね。

なお、次回は25日土曜日を予定しています。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。

 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。
・現状、玄朝秘史の掲載場所は私のサイトとこの外史まとめサイトのみです。投下告知を避難所にて行って
おります。それ以外の場所でのファイル配布などは行っておりません。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
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※転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)



玄朝秘史
 第四部第十五回『先憂後楽』



 1.協力


 荊州最北端は豫州潁川郡、許昌のある地域に接するが、東方の平野部にある山地と、西方の大山塊――巴蜀地域と中原を隔てる延々と続く山々の連なり――があるために、瓶の細首のような地形を有する。
 その隘路の出口を押さえるのが宛城である。そして、この荊州北方でも重要な都市から南に百六十里下れば新野。新野のさらに南西百八十里余りで樊城、襄陽の襄樊地区に至る。
 つまり、新野は荊州の北の出口たる宛城と、荊州最大の経済地域である襄樊の中間にあたるというわけだ。
 襄樊に物が運ばれるにせよ、人が通るにせよ、あるいはその逆方向に行くにせよ、新野は便利な中継地点となる。また、軍事的にも両者を睨むのに都合が良い。事実、州の治所をここに置くことも多々あった。
 魏政権においては、実際の政権運営では北方に比重があり、呉蜀への備えとしては樊城そのものが利用されるために新野はそれほど注目されてはいなかったが、それでも重要な土地であり、人々が行き交うのに向いた場所であった。
 その新野の城の郊外に、この時、大がかりな舞台が作り上げられていた。
「みんなーっ! ありがとー!」
 その中央でにこやかに手を振るのは、この大陸一番の歌姫集団、数え役萬☆姉妹の長女、いまや皇妃の一人である天和。
 それに応じるのは、舞台の前から何十列に渡って並ぶ、幾千もの人々である。彼らの歓声は、まさに地を揺らしていた。
「一刀の奥さんになっても、天和はみんなのこと大好きだよーっ!」
「うぉおおおおおーーーっ!」
 腹から吐き出される叫び。多少は複雑な心情が込められているのは感じられたものの、そのほとんどは祝福の意を示しているように思えた。
 現実問題として、三姉妹の北郷一刀との婚姻が明らかとなり、実際にその姿が洛陽での婚儀において皆にお披露目されたことによって、数え役萬☆姉妹の信奉者の数はそれなりの割合で減じた、と姉妹の頭脳である人和は冷静に評価していた。
 歌姫と信奉者の間には疑似恋愛的な空気が漂いがちであるが、彼女たち三人が人妻となるという事態はそれを許さない。たとえ白眉の乱まっただ中のあの日、彼女たち自身が一刀との関係を明言していたとしても、法的にも確立してしまうのとではやはり違う。
 だが、その報せを聞きつつも彼女たちを慕い続ける者たちの傾倒具合はさらに強いものとなっているであろうとも彼女は予測していた。
 今日、実際に舞台に立ち、今は舞台袖で次の出番待ちをしていた人和は、吹き飛ばされかねないと錯覚するほどの圧力をもって押し寄せる歓呼の声を聞き、その予測が間違っていないと確信するに至った。
 人々はこうして集まり、彼女たちを喜びの声をもって迎えている。それは、姉妹が彼らを喜ばせる確固たる芸をもつ演者として認められたということでもあるのだ。
 彼女はくいと眼鏡をあげつつ、観客たちの姿を見つめた。そして、彼らから発する熱を舞台上で受ける姉の姿も。
「人和」
 生まれた時から聞き慣れた声が彼女の名を呼ぶ。人和は視線を逸らさぬまま、その声に答えた。
「ちぃ姉さん」
 観客席から見えぬように意図的に光を遮られた舞台袖の闇の中から現れたのは、地和。姉や妹と同じく、白やいくつかの淡い色によって基調となる黒色を引き立たせるよう工夫された衣装を身につけているが、彼女の場合はなぜだか実に健康的な印象を与える。
 長姉のそれが時に艶めかしく、時に落ち着いて見えるのや、末娘の装いがかわいさを引き出す形に作られているのと同様、それは地和という人物のために作られた衣装であり、彼女が着こなすことで、さらなる美しさを引き出しているのだった。
 そんな地和もまた舞台上で笑顔と歌声を振りまいている天和の姿を見ながら、妹の横に立つ。姉の変わらぬ人気に満足げな笑みを浮かべた後で、彼女は声をひそめて妹に囁いた。
「連絡あったよ。五斗米道の人たち、予定通り漢中から出たって」
「こっちが用意した船や食糧、役立ったみたい?」
「うん。十日くらいしたら合流出来るんじゃないかなって」
 人和は姉の言葉を吟味するようにしばし黙り、そして、こくりと頷いた。
「そう。冥琳さんと張魯さんの計画通りね」
「張魯のおっちゃんの思惑にうまくはまったって言うべきだと思うけど?」
 感嘆の声を放つ妹に、地和は半ば呆れたように呟く。
 五斗米道教団の漢中からの脱出は、けして蜀漢の成立だけが原因というわけではない。根底には、漢中やその周辺地域にとどまらず、大陸中に五斗米道を広め、教団と己の影響力を強めたいという張魯の意思がある。
 これまで、その願いに対して魏は消極的な協力しかしてこなかった。蜀との関係を慮ったためというよりは、華琳としては宗教団体に肩入れする必要を感じなかったためであろう。
 だが、蓬莱朝はその方針を積極的なものに変更し、ひそかに漢中脱出のための支援を行っていた。船や食糧といった直接的なものはもとより、五斗米道の信者たちに『天女』と崇められる数え役萬☆姉妹の新野をはじめとした荊州北部における大々的な公演も策の内であった。
 とはいえ、天和たちは最初から一刀のことを助けるために各地で公演することを考えていたし、儒が本流の漢が漢中に移動してきたことを張魯が懸念し、信者たちの拡散を急ごうとしていたのも事実である。
 色々な動きをまとめただけで、そこまで感心することでもないだろう、と地和は思うのだが、人和はきっぱりと首を横に振った。
「冥琳さんたちはそういうのも含めて考えて動いてるからすごいの。それに、時の運というのも大事」
「そりゃそうか」
 地和は妹の言葉にびっくりしたような顔つきになったが、ふと表情を和らげた。
「ちぃたちだって、あの本があったにせよ、時流に乗ったのは確かだもんね」
「……うん」
 懐かしむように、悔やむように、人和は頷く。その横顔を眺め、地和もまた頷いた。なにか、覚悟を新たにするように。
「それじゃ、次はちーちゃんの出番だよー! みんな、まったねー!」
 舞台の上では天和が歌い終え、観客たちに手を振っている。その視線が自分と交わるのを感じて、地和はもう一度頷いた。
「じゃ、行ってくるね」
「うん。お願い、ちぃ姉さん」
 そう言い交わし、地和は歩を進める。戻ってくる天和とすれ違いざまに手を打ち合わせ、彼女は爽やかな笑顔で舞台の上に立つ。
「はーい。みんな、待ったかなー? みんなの妹、地和ちゃんだよ!」
 指を伸ばし、大きく振るだけで、会場は揺れる。それだけの仕草で、天和の歌に聴き惚れていた人々の空気をあっさりと彼女は変えていた。
「三人での歌と、姉さんの歌が続いて、みんなも声を出すのに疲れただろうから、ここからしばらくはちぃのお話だよ。気軽に聞いててね」
 温かなざわめき。先程までの気合いの入りようとは違う、穏やかな空気が流れる。その空気の中で、軽やかに舞台全体を歩き回りながら、彼女は話していく。
「みんなも知ってると思うけど、ちぃたちもいまや皇妃様だよ、皇妃様。苦節うん十年……はないけど、まあ、それなりに苦労して旅芸人やってきたわけだけど、まさか、自分が帝の奥さんになるとはねー」
 笑い声と冷やかすような調子のかけ声。そんな声を軽く笑顔で受け止めて、彼女はさらに続ける。
「いやー、ほんとね、色々あったんだよ、色々ね」
 言いながら、彼女は観客たちを眺め渡す。人々の顔は、舞台の上からはそこに立ったことのない者には予想出来ないほどはっきりと見えるものだ。幾千もの顔の中に、彼女は馴染みの顔をいくつか見つける。
「だってさあ」
 それらの顔の来歴を思い返し、にやり、と彼女は笑った。
「この中には、黄色い布を巻いてた人もいるんじゃないかなーっ?」
 会場が、ざわりと蠢いた。数え役萬☆姉妹の正体が張三姉妹、即ち黄巾の首領であることは、公演に来る者たちにとっては公然の秘密だ。
 だが、それは、たとえ皆が知ってはいても公的には無視しているからこそ、成り立つものだろう。それを地和自らが口にするとは。
「んー? どうしたのかなー?」
 全てをわかっている顔つきで、彼女は言う。その言葉で、かえって聴衆の声は落ちた。多くの者が固唾を呑んで次の言葉を待っている。
「そうでしょー? 黄巾だった人も、それを討伐する義勇軍に参加してた人も。ううん。白眉の一員だった人だっている。そういうものじゃない? いろんな過去を抱えて、みんなはここにいる。ちぃたちも、そう」
 ついにしわぶき一つ無くなった。決定的な事を彼女が口にするのではないかという恐怖がいくつもの顔に浮かんでいた。
「人間、誰だって間違ったことをしちゃうことってあるよね」
 いつもの軽い調子ではない。彼女たちの公演を何度も見たことのある観客たちは、一様にそう感じ取った。
「ちぃたちもそう。全てを手に入れようとして、間違ったことをしちゃった」
 ぺろっと小さく彼女は舌を出した。そのわずかな茶目っ気が、張り詰めた空気を緩めた途端、さらに真剣な口調で彼女は続ける。
「だから全てをなげうって、出直そうとした。その時支えてくれたのが、夫である一刀なの」
 もはや、彼女は動いていない。舞台の真ん中に立ち、観客たちをじっと見つめながら、話している。
「黄巾だろうと、白眉だろうと、どこの教えを信じていようと受け入れてくれる。そんな人。少なくとも、そうあろうとしてる」
 ほっとした雰囲気が会場を覆い始めた。黄巾の首領であることを直接に告白するのではないと彼らも理解したのだ。
「そりゃね、一刀だって人間だから、受け入れられないこともあるだろうし、怒ることだってあるし、女好きだし、ちぃたち以外にもでれでれするし、そこら中で惚れられてくるし……って、あ、ちょっと話ずれちゃった」
 小さな笑いが起きる。緊張がさらに緩んだところで、ずばりと彼女は告げた。
「ともかくね、一刀はすごい人。ちぃたち三人にとっては間違いなく、そう」
 そうして、彼女は歌うように言う。自らの心情をその美しい声に乗せて。
「ちぃはね、難しいことはわかんない。政がどうとか、元からある仕組みを壊すことがどうとか、そんなのはやってみなきゃわからないって、そう思ってる。そして、北郷一刀という人は、それを、任せられる人だとも」
 そこで、一歩彼女は前に踏み出した。大きく手を広げ、皆を抱きしめるかのように笑顔を向ける。
「でも、それにはみんなの協力が必要。そうでないと、出来ることも出来なくなっちゃうの」
 寂しげに、実に寂しげに彼女は懇願する。
 あなたの力が必要なのだと。あなたたちの力が要るのだと。
 それは、事実であるが故に力強い。
「ちぃはね、せっかく皇妃様なんて立場になったからには、とっても立派な帝のお妃様がいいなって思う」
 そこで、彼女は舞台袖に向けて視線を飛ばした。
「ねえ、みんな」
 舞台に現れる残る二人の姉妹の姿に、会場の熱気が高まる。その時、彼女はひときわ高く声を放った。
「ちぃたちを、立派な皇妃にしてくれるーっ!?」
 もちろん、その問いに否定の声など返るはずもなかった。


 2.研修


「……は常にかかっていないということでいいのですか?」
「……うね。基本的に……」
「ここまで入れるのは皇妃の人だけだから、鍵をかけなくていいはずだし……」
 夢と現の境目で、そんな声を聞く。
 誰の声だろう。
 そう意識したことで、北郷一刀の意識にかかるもやの大半は霧散した。自分があたたかな寝台の中にいて、いまが朝だということも彼にはわかる。
 だが、まだ目を開く気にはならない。
 彼は、貴重な朝の時間を、もう少し眠りと目覚めの間で楽しむことにした。
「中に入ったら、まずは食事をここに置くこと」
 声は、部屋の中から聞こえる。この声は詠のものだ。
「ふむふむ」
 これは音々音。
「次にするのは、誰かいないか確かめること……かな。今日は……いないね」
 三つ目は月の声。それに続いて扉が閉まる音がした。きっと、朝の用意に来てくれたのだろう。
 ねねが来ているのはなぜだったか、と彼はぼんやりとした頭で考える。間違っているという感覚がないことからしてなにか理由があったはずだが、まだ明晰とは言い難い意識は、その記憶を呼び出してくれない。
「誰かというと……女ですか」
「まあね」
「しかたないですね。それもお仕事みたいなものだもの」
 詠の呆れたような調子と、月の困ったような声。月の口調が、詠を相手にしているときと、他の面々に対する丁寧なものの間を揺れ動いているのが面白かった。
 音々音は洛陽時代からの仲間であり、恋を通じて部下でもあったために、月にとっては気安い部分もあるのかもしれない。
「まあ、そうですね。でも、どうやって判断するですか? 声をかけてしまっては気まずいと思いますが」
「ええ、もちろん、声はかけないわ。判断方法は、いくつかあるけど、まず、香りね」
 一瞬、声が途切れる。誰かが息を呑む音がした気がした。
「か、香りというと、あの、房事の後特有の……」
「違うわよ! なに言ってるの。だいたい、それじゃあ、毎日でしょ!」
「あ、そうですね。では……?」
 不思議そうな声。ねねは疑問を素直に口に出来るのがいいところだ、と一刀は思う。まだ他の面々と比べて年若いということもあるのだろうが、それでも普通の人間とは比べものにならないくらいの知識と知恵を持っている。それが依怙地になることもなく他人に教えを乞えるのは、実にすばらしい資質だと思う。
 もちろん、周りが凄まじすぎるというのもあるけれど。
「ご主人様は香木や香油の香りがお好きだけど、あまり強いのはお好みではないので、残り香が離れていてもわかるほどのものをつける人はいないの。だから、もし扉を開けたところで香りが残っているようなら、それは……」
「おー! そういうことですか。それはたしかに判断がつきますね」
「まあ、たいていのやつは問題ないと思うけどね。特に武官連中は」
「なぜです?」
「あんた、恋や華雄が寝てるとき近づいたことあるでしょ? あいつら、気配を察して起きるのよ」
 うんうん。彼女たちは氣を察するからな、と彼は詠の主張に内心同意する。
「恋さんや華雄さんのようにすぐに動けるほどに反応する人は少ないけど、ほとんどの人は半分眠りつつも、声を出して存在を知らせてくれるので……」
「あ、そういうことですか」
「そ。だから、その時はさっき言った様に食事を置くまではやった後で外に出て……。そうね、しばらくしてから戻ってくるか、急いでるなら扉を強く叩くことね。二人とも起きればなんとでもなるし」
「ふむふむ。了解したですよ」
 話を聞いていると、なんだか月と詠が音々音になにごとか教授しているように聞こえる。それを意識した時、一刀は思い出した。
 彼が帝となったと同時に、個人的な秘書としての役割を月と音々音が受け持つことになったのを。実際にはそれは尚書という部門全体のことなのだが、具体的には尚書左僕射と尚書右僕射、つまりは月とねねが行うことになる。
 そして、それは、『めいど』業をも含むのだ。
 つまり、いま行われているのは音々音のめいど修行ということになる。
「じゃあ、あいつを起こしましょうか」
「わかりました」
 そうして三人の気配がゆっくりと寝台まで近づいてくる頃には、一刀の意識は完全に明晰なものとなっていた。そして、同時に悪戯心が生まれる。
「ご主人様」
 柔らかな月の声。いつも彼を気遣ってくれる妻の声に答えたい気持ちをぐっとこらえ、彼は寝返りを打つ。
「うーん」
「……起きませんね」
 ねねの囁き声が耳にくすぐったい。彼女はめいど修行に熱心なのか、身を屈めて一刀に顔を近づけているようであった。
「あんた起こしてみなさいよ」
 詠に促され、ねねの指が一刀の肩にかかる。恐る恐る引っ張るその動きに合わせて、再び彼は寝返りを打った。
 それに次いで、ねねの指が触れたところをぽりぽりと掻く。
「ち、ちんきゅーきっくの出番ですか?」
「そこまでしなくてもいいわよ」
 声を震わせながらも物騒なことを言うねねに答える詠の声が、足元の方へ移動している。上掛けをはぐつもりだろうか、と思っていたら、なにかしばらく布をいじっていただけで、もぞもぞとした動きは去っていった。
「みゃあ」
 みゃあ?
 唐突な声に目を瞑ったままの一刀は疑問に思うが、すぐにその答えはねねたちの会話で知れた。
「おや? 恋殿の……ああ、違いますね。秋蘭のところの猫ですね」
「うん。猫ちゃん、よくご主人様のところに潜り込んでるの」
「ふむふむ」
 どうやら寝台にいつの間にか入り込んでいた猫を引きずり出したらしい。そういえば、なにか湯たんぽのような温かなものが足元にあると思っていたら、猫だったのか、と納得する一刀。
 そんな彼の耳に、詠の平板な声が響く。
「どーん」
「ぐふっ」
 腹に走る衝撃と共に吐き出される苦鳴。慌てて起き上がる一刀の体の上を爆弾代わりにされた猫が駆け上り、なんと頭の上に収まった。
「にゃう」
 器用に男の頭の上に立つ黒猫が優雅に一声鳴く下で、一刀は腹を押さえて抗議する。頭の上に乗った重みのせいで、首をぐらぐらさせながら。
「ひ、ひどい起こし方するなよ!」
「狸寝入りなんかしてるからでしょ。それともねねに蹴らせる方がいいの?」
「くっ、ばれてたか」
「当たり前よ、莫迦」
「にゃーご」
「ご主人様は、たまにこういうお茶目なことをするの」
「勉強になります」
 一刀と詠の二人がじゃれ合うような言い合いを続け、猫が朝ご飯を催促して鳴く側で、月はこの日のためにあつらえられためいど服を身につけたねねに柔らかな声でそう教え聞かせるのだった。


 3.諮問


 北郷一刀が帝位に登ると、彼を交えての会議は御前会議となり、また、彼の意見は帝国全体の意見として認識されることとなる。
 自然、彼が深くつっこんだ議論を交わすということは難しくなってくる。そのために月や音々音がいて、当然彼女たちは彼女たちなりに意見をくれる。
 だが、それでは見方が偏ってしまうのではないかと危惧した一刀は、正式な朝議の後、毎日、軍師や意見のある人間と議論を戦わせることにしていた。
 相手は、基本的に二人。
 一人は日替わりで交替するが、もう一人は行政の長、相邦たる詠と決められていた。
「あー、なんで相邦なんてなったのかしら、ボク」
 一刀を待つ部屋の中、ただでさえ行政府の長として忙しい詠がそんなことを愚痴る。
 そもそも、軍と相邦府を除く他の部門の長は三国の王で構成されている。実質お飾りである大将軍の麗羽はともかく、なぜ、相邦などという重責を自分が、と思う気持ちがあってもおかしくはないだろう。
「そりゃ、あんたが相邦って官位を思いついたからでしょ」
 その愚痴をふふんと華で笑い飛ばすのは、今日の相談役である桂花。彼女はいつも通りの猫耳頭巾を被り、詠と並んで座っていた。
「思いついたとかじゃなくて随分昔からあった官位であって……」
「それはわかってるわよ。ただ、いまさらそんな埃の付いたかび臭い官位を引っ張り出したのは、あんたの提案でしょ?」
「それはそうなんだけど……」
 言われて、詠はしばらく前の事を思い返す。
 そう、あれは、皆で――本当に、皆で――新しい組織についてや一刀の登極の儀式についての仔細をまとめようとしていた時のことだ。
 官僚機構についての大まかな案がまとまったところで、皆で一刀をからかっていた時であったか。
「登極のことだけど、一刀が恋を倒した後、『俺に逆らう者はいるかあっ!?』って見得を切るのはどうかしら」
「無理だよね! しかも無茶苦茶悪人っぽいよね!」
「恋、がんばる」
「がんばらないで!」
 雪蓮が言うのに恋が本気なのかどうなのかまるで読めない表情で言えば、次に華琳が楽しげに笑う。
「ああ、そうだ。月を倒して、『董卓は俺が倒した〜』ってのは?」
「いや、もうあきらかに悪逆皇帝ですよね? か弱い女の子いじめてる図ですよね?」
「が、がんばります」
「月ものらないの!」
 そこで、詠が割って入ったのだ。
「ねえ、一つ面白いこと思いついたんだけど」
 前々から考えていたことではあるが、冗談とはいえ月をだしにされて話を変えたかったという感情面での要請もあったことは確かだ。
 だから、彼女はさも面白そうに言って、場の注目を集めた。
「政の実行機関として丞相府を置くって予定になってるけど、この丞相って名前をね、ちょっと変えたらどうかと思って」
「名前?」
「うん。新しい王朝は漢を否定するって意味をこめてね。相邦ってのはどうかしら? 相国の昔の呼び名で、漢では劉邦を憚って使わなかった役職」
 当の王朝ならばともかく、前王朝の創設者の諱を避ける必要はもちろんない。だが、それをすれば、蜀漢はもちろん、領内に残る漢朝勢力を怒らせることになるのは間違いない。敵を作るのだから、そこまでやれと彼女は主張したいのだった。
「いいのではないか? お遊びのようなものだが、案外頭の古い連中には効くものだ」
 そう賛同する冥琳の言葉に皆も異論は持たず、結局彼女の提案は取り入れられた。問題は、彼女がその地位につけられたことだ。
「あんたか音々音か七乃かってなったら、あんたしかないでしょうよ」
「それもそうなんだけど……」
 桂花の呆れたような物言いが、詠を回想から引き戻す。
 相邦――初期の案では丞相――に並ぶ地位は、三公が三国の王、大将軍は軍の実権をひとえに握る人物への嫉視を無くすためにあえて麗羽と既に決められていた。残りは魏、呉、蜀の三勢力に関係しない人物から出すのが望ましい。
 三軍師はもちろん無理だし、冥琳も孫呉に関わりが強すぎる。残るは桂花の挙げた三人しかいない。そして、相邦は政を実際に動かしていく地位なだけに即戦力が求められた。
 名称を提案した詠はうってつけの人物であったのだった。
「ま、月に任せるつもりもなかったし、しかたないか……」
 月を相邦に置き、詠が補佐するという形もあったろうが、正直なところ、月を一刀の側から引き離す――というほどのことでもないのだが――のは気が引けた詠であった。
「さて、そんなこと言ってる間にあの孕ませ皇帝が来たみたいよ」
「あ、うん」
「やあ、待たせてごめん」
 そうして男が現れ、桂花も詠も居住まいを正すのだった。
「最初に言っておくけど、漢中が空になったところで、短期的には蜀にろくな打撃はないわ」
 その日は現状についての分析を、桂花が述べることから始まった。
 彼女は、漢中からの五斗米道教団の脱出の影響を大きく見積もり過ぎないようにと主張するのだった。
「そうなのか?」
「ええ、そう。だって、益州から兵も人も動かせばいいんですもの。荊州の兵を動員させるかは、孫呉次第だけど……。それでもまずは益州ね」
「そう簡単に益州から呼べるものかな?」
 一刀は首をひねる。人が居なくなったからといってすぐに補充できるものだろうか疑問に思うのは当然だ。なにしろ、益州に元々居た兵や人物たちにもそれなりの役割が課せられているはずなのだから。
 それに対して眼鏡を押し上げ、わざとらしい丁寧な口調で彼に訊ねかけるのは詠。
「一つ訊きますけど、皇帝陛下? 南蛮大王に指図して、蜀漢の背後を騒がしくさせるとかお出来になりますか?」
「……無理だな」
 その質問で、一刀は理解する。一刀の心情的に、美以たちを積極的に関与させ、桃香たちの邪魔をさせるなど出来るはずもない。実際にそういった外交努力をして実現出来るかどうかという以前の問題であろう。
 そして、そのことを朱里や雛里が読めないわけがない。
「となれば、南への警戒は最低限でいい」
「肥沃千里と言われる蜀本国から漢中に兵を引き抜けるわけ」
 桂花と詠、二人に言われて、一刀は頷く。
「それはしかたないな」
 それから、彼は慎重な口調で付け加えた。
「そうそう、実際、美以たちは巻きこまないよう、出来る限り注意してくれないか。今後のことを考えても、余計な対立は残すべきじゃないだろう」
「了解、気を配るわ。でも、白蓮や翠は無理でしょう。どうやったって巻きこむわよ?」
 詠の指摘は尤もなもので、涼州、幽州の軍事力は蜀漢や孫呉にとって頼もしい味方となり得る。切り崩しを計らないはずはなかったし、そのような話を実際に一刀も白蓮たちから聞き及んでいる。
 だが、やはり、美以たちと比べると少々事情が異なるように思うのだ。
「まー、お気楽猫連中とは違うもの。しかたないでしょ」
 それは桂花も同じ意見だったらしい。そう言って小さく一つ肩をすくめてみせる。
「お気楽、ね……。お仲間だからよくわかる?」
「これは違うわよ!」
 じろじろと見られ、頭巾の猫耳をかばうように頭を押さえる桂花。その遣り取りに一つ微笑んでから、一刀は言った。
「まあ、白蓮たちはどちらにつくとしても熟考の上だろう。そして、土地の民の支持も必要だ。美以たちにしても、桃香たちが仲間とするのはいい。でも、俺が後ろから手を回すようなことをして恨みを買って欲しくはないってだけさ」
 異論はないのか、桂花も詠も一つ頷くだけだ。
「さて、話を戻すと、漢中からの大量流出について、中長期的には問題も出てくるわね。漢中は巴蜀の中でも特に豊かな土地だから、空いた土地に来たいって奴はそれなりにいるでしょう。でも、だからってすぐさま漢中における物流が元に戻るわけじゃない」
 桂花はそう言ってひらひらと手を振って見せた。
「十年単位で見れば、経済的打撃は積み重なっていくでしょうね」
「つまり、影響はすぐにではなく、後々に大きいわけ?」
「ええ。もちろん、うまくやれば漢中の重要性は薄まらないでしょうし、かえって増すかもしれない。五斗米道教団っていう集団がいなくなって自由にできるってことでもあるから。ただし、そうはならないかもしれない」
 そこで彼女はしかめっ面になって、悔しそうに漏らした。
「さすがにそこまでいくと断定は出来ないわ。考えられる事態をいくつか挙げろというならまとめられはするけど」
「そうだな……。必要かな?」
 ちらり、と一刀は詠に目をやった。華琳が妊娠して大きな動きが難しい状況下では、桂花の負担は大きい。その状況で別の事までさせるかどうか、彼としても迷うところがあった。
「そりゃ、十年二十年先って、そこまでいくと面倒を見るのはボクたちってことになるわけだから、色々と可能性を指摘しておいてもらうのはいいことよ」
 詠の言葉に驚いたような表情を浮かべる一刀であったが、すぐに感慨深げな表情になって頷く。
「そうだな」
 彼はもう一度深く頷いて、こう言った。
「そうするために俺たちは動いてるんだからな」
 漢中はもちろん、益州や蜀全土どころか大陸全土を掌握する。そのために一刀たちは動いているのだ。友を敵にしてまで。
「でも、あんた。さっさと桃香や蓮華たちを片付けなさいよね」
 詠と彼の遣り取りを見ていた桂花が、不意に鋭い調子でそう彼を叱咤した。
「そうしないと、崩れるわよ」
「……そんな状況かな?」
 桂花の言葉に込められた暗い響きに、思わず一刀は眉をはね上げる。桂花はしかたないというような表情になって、詠と一刀に向けて指を振った。
「あんたの考えによれば中央政府と地方政府は分けられる。そのために官僚組織も大幅に弄った。でも、それについて今後の成り行きをしっかりと考えたことある?」
 それはあるだろう。そんなことは桂花もわかっている。それでも、彼女は指摘せずにはいられなかったのだ。
 王佐の才と言われる人物として。
 そして、華琳に従い、北郷一刀という人間を帝位にまで押し上げた軍師として。
「いままでは華琳様が魏領の全てを握り、その下に役人たちがいた。今後はそれは地方政府となって、あんたはその上の枠組みとなる別の組織を指揮する。大陸全土を統括する新しい組織を育て上げる間、華琳様や私も中央に協力する。そういう予定よね?」
 桂花の言葉に、一刀と詠は揃って頷く。最終的には地方政府と中央の関わりは比較的希薄なものにしていくつもりだが、国家を創り上げる初期の内は地方の実力者にも積極的に関わってもらわないわけにいかない。
 だからこそ三国の王たちをそれぞれ三公に配し、その部下たちにも官位を与えたのだから。
「出来ることなら、草創期の数年の間に組織を分離したいわね」
「そこよ。最初の内はいいわよ。ともかく皆一丸となってやればいいのだから。でも、そうはいかなくなる。それこそ十年は経たぬうちに地方政府との分離を果たせなければ理想が叶わなかったとなって失望を呼ぶし、中途半端な状況で分離してもそれは同様」
 詠が一刀に代わって語る理想の日程をばっさりと切って、桂花は続ける。
「つまりは、残務処理の年数を考えて……そうね、二、三年のうちに蜀、呉を平らげなければ、この先、大幅な修正を強いられるでしょう」
 彼女はため息を一つ吐き、なにか戸惑うように首を振った後で、こう彼に告げるのだった。
「大国魏を継いだからといって、安穏としてたら、しっぺ返しを食うわよ」
 心配そうな表情と、警告の緊張をその顔に同居させながら。



     (玄朝秘史 第四部第十五回『先憂後楽』終/第四部第十六回に続く)

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