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619 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2011/12/24(土) 23:17:40 ID:bKdEQnOg0
さて、久しぶりの本編ですが、今回、少々短めです。タイトルに則した話としてまとめるなら、ここで切る
べきかな、と。(最近、出来る限り余計なものを削りつつ密度をあげたいと考えているのもありますが)
比較的政治絡みの話が多いですが、楽しんでいたけると幸いです。
なお、今回はゲーム中で存在を示されてはいても直接には出てこない人物が三人ほど出てきます。
オリキャラ嫌いな方はご注意を。

★次回予定
次回、第四部第八回『百花繚乱』は、12月29日に投下予定とさせていただきます。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。
・現状、玄朝秘史の掲載場所は私のサイトとこの外史まとめサイトのみです。投下告知を避難所にて行って
おります。それ以外の場所でのファイル配布などは行っておりません。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0705
※転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)



玄朝秘史
 第四部第七回『起死回生』



 1.再会


 涼州の南東部。
 長安の西方、蜀と魏の境となる場所に、五丈原はある。
 北郷一刀がその名を聞けば、けして朱里を近づけないであろうその土地の一角に、小さいが深い谷が存在した。いまは五丈原の北を流れる渭水がかつて削ったものであろう。
 その集落は、その谷の入り口にこぢんまりと存在していた。遠くから見れば、岩肌にへばりつく苔のように見えたかもしれない。
 その谷を目指し、進む一群があった。多くの馬と、それに乗った戦士たち。その中央に掲げられる旗印は、馬。
 西涼を治めることとなった馬家の軍勢であった。
 このあたりも涼州に含まれるが、彼女の支配域からは外れる。まして、本拠地である金城へ帰るのには長安から西北に向かえばいい。蜀を目指すのでもなければ、わざわざこのあたりに来る必要はなかった。
 その異常を感じ取る者がいたかどうか。
 谷の前に広がる土地をかつての豊かな畑に戻そうと悪戦苦闘している村人のほとんどは興味すらわかぬようであった。
 戦乱の時代に荒れ果てたらしいその土地は――三国の争乱が終わった後の頑張りか――半分ほどはすでに耕地としての体裁をなしていたが、まだまだ荒れ地に近い。誰が来ようと――それが野盗の群れでもない限り――構っている暇はないのだろう。
 だが、中に一組、そろそろと目立たぬように立ち去ろうとしている夫婦がある。倒木をどかそうとしていた初老の男女は、道具を置いたまま、まるで昼休みでもとるかというような態度で軍勢とは逆の方角に歩き出していた。
 そこに、矢のように黄鵬が走った。
 荒れ果てた大地に脚をとられもせず、とてつもない速度で駆けさせたのは、操る主の腕でもある。その手綱を握るのは、後ろでくくった栗色の毛を垂らす、その名も高き錦馬超。
 大きな馬体に阻まれ、そして、なによりも、翠と一緒に黄鵬にまたがる女性の姿を見て、夫婦は動きを止めた。
 見慣れぬ衣装に身を包んではいても、そこにいるのは紛れもなく彼らの娘であった。
 するり、と黄鵬の背から彼女が降り立つ。汚れるのも気にせず、彼女はそのままそこに膝をついた。夫婦は、身じろぎも出来ず、ぽかんと口をあけて、娘の行動を見守るしかない。
「母様、父様……」
 深々と頭を下げた後で、彼女は涙に濡れた顔をあげる。
「月が、戻って参りました」
 その言葉に、父母の顔もくしゃりと歪み、彼らは死んだとばかり思っていた娘に駆け寄ると、彼女の体を強く抱きしめ、体中を確認するようにぺたぺたと触っては、大声で天地の神々に感謝の祈りを捧げるのだった。
「お姉様、泣いてるのー?」
 こちらは詠を乗せてやってきた蒲公英が、黄鵬の手綱を持って親子の再会を見つめている従姉に声をかける。
 翠は――もはや再会する両親を亡くしてしまった彼女は――詠が降りるのに手を貸してやっている蒲公英に向けて、精一杯の憎まれ口を返した。
「お前こそ、鼻声じゃないか」
「だって……だって……。ううぅ……」
 声を押し殺し、二人は泣く。
 その横で、詠もまた嗚咽を堪えきれなくなりながら、なけなしの理性を振り絞り、一刀の発言に端を発した議論について思い返していた。

「一度、董卓を起たせるというのもありかもね」
 死んだはずのことになっている面々が生きていることを示すべきとした一刀の意見の中で、華琳は月についての話をそう切り出した。
「なんのつもり?」
 もちろん、詠は眉を顰める。だが、それをなだめるように華琳は微笑みを浮かべた。
「再度、表舞台に出すなら、衝撃的に復活させる方がいいということよ。もちろん、月次第だけれど」
「そりゃ……うーん。でも……」
 華琳の視線になにか思うところがあったのか腕を組み、考え込む詠。その様子に、一刀が心配そうに口を挟んだ。
「華琳、飛躍しすぎじゃないか? 月を表舞台に出すにしても、どういうことをやらせるつもりか、まず説明してくれないと……」
「まったく、あんたは察しが悪いんだから」
「おいおい、桂花。さすがに、この顔ぶれでそんなこと言われても、当たり前としか思えないぞ?」
 桂花の悪態に、一刀はしかたないというように手を広げてみせる。魏の三軍師に華琳、詠、音々音、冥琳と雪蓮、それに七乃。二人してお菓子をぱくついている恋や美羽はともかくとして、頭の回転で言えば一刀など話にならない顔ぶれだ。
「む……」
 彼の反論に一つ唸り、桂花は諦めたようにため息を吐いて説明を始める。
「じゃあ、莫迦なあんたに解説してあげるけど、涼州の東部ではね、北伐に巻きこまれなかった涼州諸侯が、そのことでかえって自身の地位の低下を危惧しているのよ。北伐で下った者は明確に所領を安堵されているけれど、涼州東部は昔、うちが組み入れたままだからね」
「ただでさえ我が魏と蜀に挟まれていたのに、仲や西涼まで出来て、その地位を確認できていない、というところでしょう」
「つまりですねー、月ちゃんに元々の地盤である涼州東部の平定をお任せしたい、ということなのですよー」
 桂花に続けて稟と風が補足するのに、雪蓮がこともなげに言い放つ。
「平定といっても、実際には軍を動かす必要もないわけよね? 豪族どもがちょっと心配してるって言っても、基本は落ち着いてるんでしょ?」
「ですねー」
「とはいえ、月殿が元来の領地である東部涼州より起ち、一刀殿との婚礼に上洛するとなれば、それだけで、東部の諸侯は彼女が自分たちの代表だと認めることになろう。実際、土豪などというものは、上洛さえ恐れる者がほとんどだからな。目立つ者にやっかいなことは任せようとするはずだ」
 江東の地の豪族たちを相手にしてよくわかっているのか、冥琳は淡々と述べる。彼女の言い様は極端であったが、董卓という名前に影響力があることは間違いない。
「涼州の西は翠、東は月がきっちり押さえて、中央と渡りをつけることを豪族達に納得させられれば……動揺も収まる。そういうこと?」
「そうね。その、納得させるのはボクの役目だけど……。ま、涼州軍閥の大半は顔見知りだから、なんとかなるわ」
 一刀が考えをまとめるように言うのに詠は頷き、しかし、強い意志を込めた瞳で、周囲を見回す。
「とはいえ、月の意向が大前提よ。月がしないというなら、ボクもやらない」
「そこはもちろんよ。ね、一刀」
「うん。ところでさ、それを実行するとしたら、一つだけ気にかかるんだけど」
「なにかしら?」
「東部涼州の話とはいえ、翠たちの顔をつぶすことにならないのかな?」
 一刀の心配は尤もなものであったが、華琳はそれを予期していたようにすぐさま答えた。
「当然、翠たちにもいっしょに上洛してもらうわよ。月と翠、二人並ぶのが重要なんだもの」
「ふむ」
 結局、後から来た翠たちもその案に賛成し、月も多少遠慮はしていたものの、元の名前に戻るのを拒否することはなく、今日のこの日に至るのであった。

 月が故郷に戻るにあたって、彼女の父母が隠れ住んでいる場所を探そうという一刀の提案は詠にとっても願ったり叶ったりであった。
 彼女自身も気にかけて時折探ってはいたものの、いまの一刀の手配ならば魏の諜報網を利用できる。
 そして、名を取り戻すとなった今、月と両親の再会を阻むものはない。
 両親の居場所を結納代わりといって差し出す彼の行為は少々芝居じみている気もしたが、この光景を目に出来る幸せに比べれば、そんなのはどうでもいいことだ。
 それよりも、と彼女は喜びに泣きくれる家族の姿を見ながら、ぎゅっと拳を握る。
 今度こそ、ボクは失敗できない。今度は、月を幸せにしてみせる。
 親友を再び上洛させることとなった智謀の士は、心の中でそう誓うのだった。


 月たちが涼州で活動を開始したのとほぼ同じ頃。
 宮中で麗羽が大将軍の官位を返上した。
 辞する理由をまとめた中で、彼女は、『徒党を組み、洛陽を攻めたこと』を掲げ、『董相国を討ったのは間違いであった』とはっきり結論づけた。
 そして、『臣の過ちを示す為、天は近々明確な証を示す』と述べた。
 その意味を、朝廷の人々が理解するのはしばし後のことになる。


 2.麒麟児


 事は静かに進行していった。
 まず、麗羽の下野に続き、華琳が丞相位を下りた。表向きの理由は体調不良――妊娠――によるものであったが、それが新王朝への布石であることは、誰の目にも明らかであった。
 なにしろ、その後、魏に属する者たちが、続々と官位を返上し始めたのである。九卿に連なる者たちはもちろん、将軍位を持つ者たちも順次、官職を離れ始めた。
 それは北郷影響下の人々にも波及し、既に空いた大将軍に続き、左将軍、右将軍など、多くの官が空席となった。
 涼、幽、仲の公や、魏王などはそのままにあったものの、それらわずかな例外を除けば、ほとんどの官位が宙に浮いた。
 これら重要な官位が空いてしまっては、国としての運営が成り立たなくなるのではないかと不安になる者たちが当然出て来る。
 しかし、結論から言えば、何ら支障はなかった。
 元来、都にいる者の大半は魏と漢朝の二重の指揮系統下にあり、実際にやってみれば、魏側の組織だけで事足りたのである。否、かえって円滑に動いてしまうことさえあった。
 朝廷側は恐慌に陥った。
 官位こそは、彼らが握る最後の武器であり、魏、呉、蜀の実力者たちを引き寄せる餌である。
 それが否定され、突き返された。
 ましてや、その状態でも、混乱は生じない。
 もはや、漢朝の権威に意味はないのだと、彼らは思い知らされたのであった。
 それでも、生き残りをかけて、彼らはあがいた。
 各地の実力者に、空いた官をばらまこうとしたのである。
「ふむ、すごいぞ、穏。私は司徒、お前は司空にしてもらえるそうだ」
 馬を乗り潰す勢いでやってきた勅使から受け取った書簡を眺めながら、蓮華は字面だけは楽しそうな台詞を、まるで面白くもなさそうな口調でのたまった。
「へぇ」
 それを受ける筆頭軍師にも感動の様子はない。
 司徒と司空と言えば、三公である。丞相の空いた現在では最高位の官を下されると聞いても、彼女たちはなにも動じることはなかった。
「で、受けるんですか、蓮華様」
「莫迦を言うな。そもそも、私は華琳が丞相を下りたことを『知らん』」
 ひらひらと書簡を振りながら、蓮華は呆れたように言った。
「三公が廃され、丞相がそれを担っているというのに、改めて三公に任じられても、なんのことかよくわからんとしか言いようがないだろう」
「はあ。そ、そういうことにするわけです……ね」
 控え目に主の言うことに頷く亞莎。部屋の中にいる三人の中では彼女だけが驚いたような感情を表に出している人物であった。
「朝廷はなにを考えているのだ。華琳に見捨てられたからといって、私に擦り寄ってなんになる? この建業の地から洛陽に命を下せと? 無茶を言うものだ」
「まあ、しかたないですよー。あちらさんも必死ですからー。ともあれ、受けないようにするしかありませんよねー」
 穏の宥めるような口調に、蓮華の表情からようやく険が取れる。彼女は顔を掌で覆い、こめかみを揉みながら、なにか考えている様子だった。しばし後、手をどけた頃には、穏やかな表情に変わっていた。
「……そうね。二人で考えて、丁重だけれど意味のない返事を出しておいてもらえるかしら。もっと詳細が知りたいとかなんとか。まずは出来る限り引き延ばして」
「わかりました」
 その一件が終わったという証のように、蓮華は書簡を脇に退ける。そこで腕を組み、再び疲れたような顔つきに戻った。
「……さて、それはともかく、どう、反応は?」
 蓮華たちが江水を越える頃には、既に新王朝の噂は建業にまで達していた。帰国したばかりの蓮華たちにもその反響は聞こえてきた。
 婚儀のことを考えると早々に再び旅立たねばならない蓮華たちは急いで各地の有力者たちとも連絡を取り、国としてどう対処すべきかの考えをまとめようとした。
 だが、そんな思惑をあっさり吹き飛ばす事態が起きる。
 ある朝人々が起きてみると、建業をはじめとする諸都市に、いくつもの高札が立っていたのである。
 そこに書かれていた文は以下の通り。
『我が妹たちへ告げる。
 北郷に一人、呉に二人。いずれが滅びても、孫家の行く末に障りなし。我ら姉妹、存分に覇を競わん。
 孫伯符』
 そこに記された署名に、誰もが目を疑った。
 江東の地では、文字をろくに読めぬ者でさえ、孫家親子の名に限っては読むことが出来る。さらに文字が読める者が内容を読み上げると、人々は驚愕に身を震わせることしか出来なくなっていた。
 市中が騒然とし、建業においては、軍まで出て騒ぐ人々の収拾に努めねばならなかったほどだ。
 そも、誰一人気づかれずに高札を、いくつもの都市で同時に立てるとはどれだけの実力であろうか。
 報告が続々入るに連れ、呉上層部は、これを行った者の正体を一人に絞る。
 事ここに至り、蓮華は各地の混乱を鎮めるため、小蓮、思春、明命を送り出さざるを得なくなった。それら三人から地方の反応も入ってきているはずだ。
「あれが姉様の発案なのは間違いないと私たちにはわかるけれど、果たして民たちはどう受け取ったのかしら」
 聞きたくないという思い半分、それでも聞かねばならないという義務感半分。蓮華は苦々しげにそう訊ねた。
「その、性質の悪い悪戯だと思っている者が半分、雪蓮様が生きていると知って喜ぶ者が半分。ただし、そのほぼ全員が書かれた内容に困惑しています」
「そりゃそうですよねー……」
 亞莎の報告に、げんなりした様子で穏が同意する。その死が偽装であったと知っている彼女たちとて困惑しているのだ。
 事態を把握していない豪族層、庶人たちにとってはますますわけのわからない出来事であろう。
 それでも、江東、江南に生きる限り、孫策の名は無視することは出来ない。
 人々はなんとも収まらぬ気持ちのまま、日々を過ごしていることであろう。
「あれ、一刀が許したと思う?」
 詳しい報告を読み終えた後で、蓮華は胸の前で手を組み、遠くを見るような目つきで、ぽつりと呟く。穏はそれに首を傾げて見せた。
「……どうでしょうねえ……。一刀さんって人を驚かせるのは好きですけど、こういうのはちょっと……。それに、この件でいまだに冥琳様の手の者が各地にいると知れちゃったわけですけど、そんなことをこちらに知らせて利はありませんから……」
 同日に複数の都市で同一の文が高札に掲げられたのは、間違いなく呉内部に協力者なくば出来ないことである。となれば、雪蓮にせよ冥琳にせよ身を隠しながら、それを知る配下の者も確保していたということであろう。
 やる気になれば、いくらでも呉内部の情勢も探れたし、他の工作も可能であったろう。
 こうして、派手に知らせたりしなければ。
 今回の事で、既に実行者の目星はつけられており、監視がつけられている。工作員としての価値はなくなったに等しい。
「許しがなくともやるかしら?」
「そこなんですよね。雪蓮様が果たして一刀さんに従っているのか、あるいは……」
 そこまで言って、穏は口をつぐむ。口にしない方がいい、と彼女は判断し、蓮華もまた苦笑してそれを認めた。
「あの、よろしいでしょうか」
 亞莎が張り詰めた顔で二人の会話に割り入る。二人は同様に頷いて、亞莎に発言を促した。
「どうも浅学な私めには雪蓮様の意図が読み切れないのですが、果たしてあのようなことをしてなにか意味があるのでしょうか? 生きている事を劇的に明らかにするというのはありそうなことと思いますが、姿を現さずにやってもそれほどの衝撃があるとは思えません。いえ、衝撃的ではありますが……しかし」
 所詮、それは悪戯と変わらぬほどのことである。けして、本格的な衝撃ではない。それこそ、全土が沸き立つほどのものでは。
「一方で、あの文章は挑発であることは明白です。しかし、英雄たる雪蓮様が唐突に姉妹である蓮華様達に挑んでこいと言ってきても、庶人としては狼狽するしかないのではないでしょうか。あるいは無理に一刀様が書かせたと、反感を覚えることもありえます。もちろん、いまはそんな状況ではなく、しばらく後、冷静になってからの話、ですが、あとはその……」
「あれはね」
 自身も困惑し、それ以上言葉を紡ぐのが難しくなっている様子の亞莎に、蓮華は手を振って優しく声をかける。
「私一人を焚きつけているのよ」
「え?」
「孫呉全軍を率い、挑んでこいとあおり立てているの。出来るものなら、自分を打ち倒してみせろとね。そして、そうでないのなら、黙っていろとね」
 言って、くすくすと彼女は笑った。巻きこまれた者たちには実に申し訳ないが、彼女は姉のやりようが、本当におかしくてしょうがなかった。
 まるで話に聞く母様のやり口のようだ、と。
「まったく、あの人はいつも無茶なことを私に振るものだ」
 そう微笑む蓮華の顔は実に獰猛で、亞莎と穏は思わず身震いしてしまうのだった。


 3.覚悟


 洛陽を早い内に退散した蜀勢は、しかし、長安を過ぎてからは、ことさらにゆっくりと進行し、かつて北伐において縁のあった地域などに積極的に立ち寄りながら帰国していた。
 後から都を出たもののさっさと自国を目指した呉勢が建業に着くよりも遅く漢中に入ったくらいである。
 これらの行動は、魏、辺縁部の切り崩し工作と思われるが、実効力を期待しているのならばあまりにあからさまであり、決意表明や、国内の意識を強めるために行われたものと見るのが正しいであろう。
 少なくとも一刀たちはそう見ていた。
 実際は、どうであったかといえば、大筋ではあっていると言えよう。実は、蜀領内に踏み入れる前に首脳部の意識を統一させることこそがその目的であった。
 そして、漢中に至り、彼女たちは、今後の政略を決定するに至った。
「そろそろ、結論を出しましょう」
 桃香が顔を引き締め、そう言うのに、一同は重々しく頷いて同意する。主の意を受けて、愛紗が立ち上がって口を開いた。
「まず、一刀殿の野望……はるか彼方、五胡の住まう地域よりもさらに広い、この土地の続く限りの大陸制覇などという行為については、皆、従えないということでいいだろうか?」
 ほとんどの者が同意の仕草をする。桔梗だけはしゃらりとかんざしを鳴らして皮肉っぽく笑った。
「ま、希有壮大な企てではあるが、さすがに話にも聞いたことのない土地まで兵を引き連れて戦えというのは無理があろうな。少なくとも、国を作る時点で掲げるものではあるまい」
「たしかにな。それと共通するのだが、各国の軍権を奪うという話も、性急すぎるということでよいだろうか。そもそもの考えそのものにも反感はあろうが……。焔耶、そこは大丈夫か?」
 愛紗は不機嫌そうにしている焔耶に話を振る。軍権の問題に関して最も強硬な姿勢を貫いていたのが彼女であったからだ。
「武人としては承伏しかねるが……。しかし、王朝を統一するというのならそれもしかたないだろうし、そこで争うより、やり方を再考させるほうが、あの男や周辺には効くのではないかというのにはワタシも賛成だ」
「鈴々も、お兄ちゃんには考え直して欲しいのだ」
 どう言っていいのかわからないという表情で、しかし、懸命に主張する鈴々に同調するように微笑み、愛紗は次に進む。
「さて、根本的な部分ではあるが、そもそも漢朝を廃し、北郷一刀を帝とする新王朝を開くということについては、その……あまり反対がなかったように思うが……」
 沈黙が落ちた。
 誰も話を進めないのに、それまで黙っていた朱里がしかたないというように声をあげる。
「正直なところ、漢朝に関しては、皆、期待を持てないでいると思います。大なり小なり、不満に思うところもあるでしょう。もちろん、昔からあったものですし、変えなくていいと思っている人も多いかと思いますが、といって、変わるからといって憤りを感じるようなものでもない、というのが本音ではないでしょうか」
 大逆と取られておかしくない発言ではあるが、それは皆の心に合致していた。なにしろ、三国の争乱を引き起こしたのは、結局の所、漢朝の力の無さなのだから。いまさら漢朝に義理立てしてまで反対という者はいなかった。
「ただし、朝廷勢力は一刀さんたちと本格的に敵対するとなった時には味方にできるかもしれません。そのあたりは後で考えましょう」
 確認するように朱里が言ったところで、愛紗はこほんと空咳し、唇を湿らせて続けた。
「それでは、まとめさせてもらうが、我々は、北郷王朝の誕生を阻止したいわけではなく、その方針を変更させたい。大まかな方向性はこれでよいと思うのだが、異論ある者はいるだろうか」
 ぐるりと顔を見回す愛紗。彼女が一つ頷いて
「では、その方策に……」
 と話を進めようとした時、手を挙げる者があった。
「ちょっと待って、愛紗ちゃん」
 桃色の髪を揺らしながらぴんと背筋を伸ばしてそう言う桃香を見て、愛紗は彼女に会釈して腰を下ろした。代わりに桃香が立ち上がり、皆の注目を一身に浴びる。
「みんな、もう一度訊くよ。本当に、一刀さんたちと対決する気はある? 私への義理とか、忠節とか、そんなの必要ないよ。本気で、その気がある? よく考えて欲しいんだ」
 桃香は切々と皆を説得するような口調で続ける。彼女自身が一刀との対決を忌避したいかのような口調であった。
「一刀さんのやることは、そりゃあ、ちょっと乱暴なところはあるよ。それに反発を覚える人たちがいるのも事実。でも、その反対する人たちの考えっていうのは別に固まっているわけじゃなくて、ただ変化があるのを恐れてるって人も多い。結局は一刀さんの理想が正しいってこともありえるんだよ。そのことをよく考えてほしいんだ」
 彼女は身振り手振りを交え、人目を惹きつける話し方で、懸命に話す。それは、一刀の擁護のようにも聞こえた。
「たとえば、華琳さんは私や雪蓮さんと政のやりかたは違う。でも、魏は繁栄しているし、安定してもいる。厳しい部分はあるけれど、あれはあれで正しいと思う」
 なんだか少し悔しそうに、彼女は言い、そして、小さく笑った。
「一刀さんの国は、それに倣うことになるだろうね。きっと、もっと大きな形でその秩序を作ろうとしてくる。そこから漏れてしまう人、放り出されてしまう人がいないとは言わないけれど、そんな人たちも救う事を考えて、一刀さんは、いろんな政策……この世界ではまだ見慣れないけれど、あの人は知っているものを導入しようとしている。その努力は間違いないものだよ」
 額に汗する勢いで言いつのる桃香の様子に、しわぶき一つ漏れなかった。皆、彼女の主張に一心に聞き入っている。
「政治は、結果で評価されるのは知っているし、あの人の努力なんてみんなのほうがよく知っているかもしれない。でもね、結果だけでいえば、一刀さんは北伐を成功させ、白眉を討ったことを忘れないで。あの人は楽土を目指している。あの人なりの楽土を」
 そして、と桃香は一度言葉を切って、躊躇うようにその後を続けた。
「私たちが余計な事をしなければ、なんの諍いもなく、王朝が交替するかもしれません」
 机の下に隠れた桃香の拳がぐっと握られる。そのことに気づいたのは、隣に座る愛紗と反対側の朱里くらいのものであったろう。
「それでも、敵対する気が、ありますか?」
 沈黙。
 しかし、それはけして気まずいものではない。戸惑いを含むものでも無い。
 手に汗握り、皆の返答を待つ桃香自身は気づいていないかもしれないが、その場に流れているのは温かな感情であった。
「桃香様」
 おずおずと、しっかりと、細い声が彼女の名前を呼ぶ。臆病な少女が軍師の顔というよりは、友人としての顔で彼女を見つめ微笑んでいることに、桃香は気づいた。
「私たちは、桃香様の目指す楽土を、目指したいんです」
 その場にいる誰もが、雛里の言葉を支持した。


 4.計画


「皆の意識が固まったところで、今後の計画について話しましょう」
 朱里が進行を代わり、議論は続いていく。否、これはもはや軍議であった。それだけの緊張が、皆の態度にある。
「まず、我らの目的は、先程愛紗さんが言ったとおり、北郷王朝自体を潰すことではなく、その方針を転換させることです」
 そこで、朱里は残念そうに首を振る。実に残念そうに。彼女の首元の鈴がちりちりと音をたてた。
「しかし、話し合いだけでどうにかなるほど、一刀さんの意志は弱くありません。このあたり、皆おわかりのことと思います」
 朱里がにやりと微笑むのに釣られ、どっと起こる笑い声。そこには苦笑するような響きが強い。
「つまり、どこかの時点では我らの意思をはっきりとぶつけることが肝要です」
「要は実力行使に出る必要があるということよな?」
「その通りです。そして、その時機は二つ」
 桔梗の指摘に頷き、朱里は手を前に突き出し、ぴっと指を二本はね上げた。
「北郷王朝が出来る前か、出来た直後か、です」
「でも、朱里ちゃん。一刀さんの国が出来る前に戦をしかけたとして、それは華琳さんに敵対することになって、あんまり意味ないんじゃないかな?」
「その通りです。ですから、出来る前にするのなら、兵を使う行動ではありません。ええと、この先は、雛里ちゃんが……」
 既に色々と検討していたのだろう。具体的な戦術を考えたらしい雛里に解説を譲り、朱里は場所を移った。
 雛里はぺこりと皆に会釈した後、小さいながら通る声で話し始める。
「出来る前の時機でいうならば、私たちが婚礼に向かう時、それ以外にありません。一刀さんに近づける貴重な機会。その折に……」
「ま、まさか、暗殺っ!?」
「ち、違います! 違います!」
 顔を青ざめさせて素っ頓狂な声をあげる焔耶、それに対して必死でぶんぶんと手を振って、雛里は否定した。
「そんなことが出来るか、この阿呆」
「いたっ!」
 ごちん、と桔梗に殴られて、焔耶が涙目になる。雛里はすーはーと息を整えてから、さらに焔耶を叱ろうと口を開きかける桔梗を制するように声をかけた。
「あ……でも、その、そこまで的外れというわけでもなくて……。ええと、拉致します」
「拉致ぃ?」
「はい。一刀さんをこちらの質として、魏と交渉しつつ、一刀さんを説得する、ということになると思います。うまくいけば……ですが」
「うまくいかないように聞こえるが?」
 雛里の様子を見ていた愛紗が、その表情から察して訊ねると、雛里はそれを肯定する。
「これを空論としないためには、絶対的に手数が足りません」
「手数だと?」
「一刀さんを人質にするためには、兵は無用です。いえ、邪魔です。少数精鋭で運び出し、突破する。これが最善です」
 いかに婚礼といえど、必要以上の兵は連れて行けない。魏の都で数を頼みに出来るほどの兵を連れていけば、即座に戦となるだろう。
 で、あればこそ愛紗たちが突破する他はない。
 至極当然の話を、雛里はしていた。武将たちもそれには納得の様子であった。
「しかし、そのためには武将の数が足りないんです」
「むう? そうか?」
「はい。たとえば、愛紗さん、鈴々ちゃん、星さんに一刀さんを任せ、焔耶さんと桔梗さんで陽動して、紫苑さんを中心に私たちが都を出られたとして……」
 すらすらと仮想の計画を、雛里は説明していく。
 いざという時の備えに、桃香一行が逃げるだけの手立てはあること、ただし、さすがに護衛に一人は割かないといけないこと、陽動や攪乱のために誰かを出す必要があること、など、それぞれを順序よく彼女は語った。
 聞く限りでは、成功するのではないかと錯覚するほどの企てであった。だが、それは、敵のあまりに桁違いの武力を考慮に入れていないためだ。
「万が一――ほとんどあり得ないことではありますが――翠さんや白蓮さんが私たちへの義理立てから追撃を諦めてくれたとしても……。そうですね、五人ならば、恋さん、華雄さん、雪蓮さん、春蘭さん、霞さん……上から数えてもこれくらいは出てきます。さらに、まだまだ魏勢だけでも数多くいるのはご存じの通りです」
 雛里が口にした五人だけで、愛紗、鈴々、星、桔梗、焔耶の五人は倒されぬまでも、本気で戦わねばならなくなる。簡単に抜ける相手ではないし、ましてや、人質を連れてとなれば、その難度は跳ね上がるだろう。
 なにより、一刀を人質に迫っても武器を捨てないであろう者も多い。いずれも、そのほうが結局は一刀の命を救うという――非情ともとれる――判断を下せるだけの胆力を持っている武人たちだ。
「呉勢を味方と出来たとしても……厳しいな」
 あちらは足止めに徹する内に兵を集められるのに対して、こちらは早急な突破の必要がある。そして、華琳や秋蘭のように全体を見て指揮できる者も、あちらには数多くいるのだ。
「はい。ですから、これは現実的ではありません」
 雛里が断言する。彼女は、兵を損なわず、一刀を捕らえるだけで済むこの計画をとことんまで検討し、そして、不可能だと断じたのだろう。
 そのことがわかった一同はそれに異を唱えなかった。
 実際、なにか対案の思い浮かぶ者もいなかったのも事実だ。
「考えるに、円滑に一刀さんの帝国を成立させることこそ、我らの目論見に合致します」
「ほう?」
 興味深げにあがる声を予想していたというように、雛里は淡く笑みの形に口角をあげてみせる。それから、彼女は表情を引き締め、厳しい顔つきで言い切った。
「はっきり申し上げまして、現状では、魏という国に……華琳さんの率いる国に、我々ではかないません」
 声にならぬ無念の声が、誰かの喉から漏れる。だが、否定の声は、楽天的な鈴々の口からすら発せられることはなかった。
 雛里はそんな仲間たちの様子を眺めながら、今度は力づけるように、一音一音をしっかり放つ。
「しかし、国作りも途中の北郷一刀率いる国家ならば、つけいる隙はあるのです」
 魏と北郷王朝。同じように見えて、しかし、その実は違う、と彼女は主張する。
 一刀がそれこそ華琳の傀儡であったなら、その体制は変わることはないだろう。しかし、当の華琳にそのつもりはなく、桃香たちもそのことを知っている。
 となれば、実際に事がなったとき、人々は戸惑うはずだ。
 形だけではなく、本当に自分たちの長が変わるとなれば。
「一刀さんの登極は、魏の幹部勢、それに我々や呉は認めるかもしれません。しかし、魏の一般兵や官僚たちまでそれに従うでしょうか?」
 そこで、雛里は小さく首を振る。
「一刀さんは、天の御遣いとして人気がありますから、従う割合の方が多いかもしれませんね。しかし、全てとは考えがたいんです」
「それはそうだろうな……」
「まして、一刀さんが帝となれば、おそらく軍制の大幅な変更があります。部隊単位での離合集散もあるでしょう。こうなれば、連携の精度は、必ず落ちます。いかに魏の精兵といえども」
 それに、と彼女は付け加える。
「同様に、間違いなく官制にも変更があります。こちらは、一刀さんの性格を勘案すると、下手をすれば、軍制をはるかに凌ぐ規模であるでしょう」
「あるねー。絶対ある」
 うんうんと熱心に――期待すら込めている表情で――頷く桃香。
 彼女が一刀の政策を支持しているのか、それに敵対する勢力の長なのか、どちらなのかよくわからなくなる光景であった。
「その時、混乱は起きます」
 彼女がそれ以上言わずとも、皆わかっていた。
 その時こそが、彼女たちの出番なのだと。
「国としての体裁が出来上がるその前に、混乱が収まるその前に、一撃を加えるんだね」
「そうだよ、朱里ちゃん」
 熱っぽく言う朱里に、あくまで冷徹に、雛里は答える。その冷え冷えとした瞳を見れば、口にするより遥かに多くのことを考えているであろうことは容易に窺える。
「いまの段階で一刀さんの邪魔をするのは得策ではありません。いえ、いまそれをしようとする勢力があるなら、その力を保ったままこちらに取り込むこと。それこそが、我らの取るべき道なのです」
 彼女は静かにそう宣言した。


 5.漢朝


 涼州に董の旗が翻る。
 朝廷にその報を伝わった時、それに対して驚きを示す者は数少なかった。
 皆が皆、月が身を隠し、名を捨てて北郷一刀の下にいるなどと知っていたわけではない。高位の者ほど、かえってその事を知らない比率は高かった。
 なにしろ、下働きの女の顔など意識にも残らない者たちである。たとえ、直に話をしたことあっても、彼女がかの董卓だなどと思う者は数少なかったに違いない。
 では、なぜか。
 単純に、出仕している人間の数が減っていたのである。
 朝廷に群がっていた群臣は、いまやその衰退を見て取り、大半が己の邸に引きこもり、事態の推移を見守ることにしていたのであった。
 もちろん、そんな卑怯きわまりない処世術を一刀や華琳が許さないであろう事など、意想外のことである。
 さて、そのような経緯があったおかげで、彼女は考えてもいないほど簡単に、その場所へ張り込むことが出来た。
「何者か」
 がらんとした広間に、若者のようでもあり、老人のようでもある、嗄れた声が響いた。玉座に一人座り、酒杯を傾けている人影が発した音であった。
「常山の趙子龍、ここに」
 太い柱の陰から、そんな声がする。しかし、薄暗い広間の中で、その姿は闇と一体化して、見て取ることは難しい。
 玉座の上の人物も目を凝らそうとした様子だったが、無駄だと悟ったか、彼女の存在を忘れたかのように酒杯を傾ける。
「何の用かお訊きにならぬので?」
「たいていの者は勝手に話す」
 吐き捨てるように言って、影は黙る。その錆びついたような不快な声が再び発せられないのに焦れたように、彼女は闇から一歩踏み出した。
 白を多く使った美しい着物に身を包む女の姿が現れる。意志の強い瞳が、だだっ広く寒々しい広間の中で、闇を払うように輝いた。
「涼州の地より、董と馬の旗がくつわを並べて上洛することはご存じか?」
「知っておる、知っておる」
 くけけ、と笑い声とは思えぬ息を吐いて、玉座の人物は酒杯を投げ捨てた。ぴしゃんと酒がこぼれ、ついで、杯が粉々に砕けた。
 星はその無惨な光景に眉を顰めつつ、彼の言葉を待った。
「なんと、まあ、恐ろしき世よな!」
 それは両手を掲げながら、そんな呪詛のような言葉を吐く。まるで水中で溺れているかのようなゆらゆらとした、奇妙な動作であった。
「あの董卓が蘇ったか。あの大人しげな顔で恐ろしい事をしてのける女がな!」
「それ以上言わぬがよろしかろう。この子龍、あれの友なれば」
 星のぴしゃりとした物言いに、ふん、と鼻を鳴らす音。
「漢朝に幕を下ろした食わせ物が、再び涼州より立ち上がり、真の終幕を導かんとするか」
 彼女の忠告を気にした風もなく、その人物は続け、再び、くかか、くけけ、きゅるきゅると喉から異音を発した。
「それもまたよし!」
 喘鳴のように、大音声を発するそれ。だが、まるで迫力などは感じられない。星はいっそ哀れなものでも見るかのような表情でその動きを見つめていた。
「だが、貴様は朕にまだ生きよというか」
 趙子龍、と名を呼ばれた時、びくりと彼女の体が震えた。まるで、怒りでも感じたかのように。
 しかし、星はそんな様子を一瞬で押し隠し、口元を隠すように袖を持ち上げる。
「はっきり言えば、陛下が必要というわけではありませんが」
 あからさまに笑みを刻む口元を、彼女ならば完全に隠し切ることもできたろう。しかし、揺れる袖先からは、その玩弄するような笑みがちらちら覗いていた。
「しかしながら、反北郷を掲げるには、ちと我らだけでは足りぬのですよ」
 それから、彼女はその場で膝を突き、礼を尽くしてみせる。
「畏れ多い事ながら、利用させていただきましょう」
「ふん、趙子龍、思ってもないことを舌に乗せる奴よ」
 じぃと彼女の拝礼を見つめていた瞳が逸れる。その途端、満面の笑みを浮かべた星の顔があがった。
「いえいえ、なにをおっしゃいます。臣は、漢朝の皇統には敬意を払っているのですよ」
 それはとりもなおさず桃香への敬意であり、目の前の帝当人に向かうものではない。それを隠そうともせず、星は艶然と微笑む。
「しかし、劉皇叔をはじめ、こぞってあれに嫁ぐというではないか。それは?」
 本気で取り合う気になったものか、話し声が先程より聞き取りやすくなっている。さすがにこの時ばかりは、星もにんまりと笑むのを自重した。
「夫をたしなめるのも、妻の役目ならば」
「はんっ」
「それに、婚礼のおかげで大手を振って我らは都に訪れ、そして、去っていけるというものです。敵となるかもしれないとわかっていても、あの方は我らを受け入れざるを得ない」
 莫迦にするように挟まれた息を無視して、星は続けた。重要な企みを漏らすように、もったいぶりながら。
「警戒はしましょうが、しかし、それをかいくぐる術がないではないのですよ」
 玉座の主は再び彼女を舐めるように見た。その笑みを、その姿を、その身体全体が発する気迫を。
「ふふは」
 ついに、漢帝国の頂点に立つはずの男は、そんな声を漏らして、膝を打った。
「面白い! 面白いな」
 一人で笑っているらしい男を、星は見やる。まるで敵をみるかのような硬質の瞳で。
「よかろう。その企み、のってやるわ」
 光武帝より代を重ねること十四代。漢朝皇帝劉協はついに、しわがれた声で、彼女にそう請け合うのだった。



     (玄朝秘史 第四部第七回『起死回生』終/第四部第八回『百花繚乱』に続く)

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