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182 名前:岡山D ◆V9q/gp8p5. [sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:45:34 ID:hQ5WfG260
本当にお久しぶりです、岡山Dです。

 懲りずに又投下させてもらいます。
 [広がる輪]です。
 以前も書きましたが、本当に山も谷も無いです。


注意事項
 ・この作品は、魏ルート・アフターであり、萌将伝は含まれておりません。
  ですので、萌将伝と食い違う場面が多々ありますがご勘弁ください。
 ・キャラ同士の呼称や一刀に対しての呼び方が本編と違う場合が有ります。
 ・ストーリー上オリジナル設定(脳内妄想)が有ります。
 ・関西弁や登場人物の口調など、出来るだけ再現している心算ですが、
  変なトコとかが有ったらゴメンナサイ。
 ・18禁なシーンに付いては期待しないで下さい。

 以上についてはご容赦のほどを。
 
 
 SS初心者なので、至らぬ事も多いかもしれませんが、よろしくお願いします。
 もし、感想・批評などございましたら、避難所の方へお願いします。
 
 本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL→http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0697



広がる輪
    もしくは
      蓮華もあちら側の人


  話は少し遡るが、襄陽を出立した朱里達は予定通り江陵を経由し成都に向かっていた。
  経由地でもある江陵は現在関雲長こと愛紗が太守を務めている。実際は江陵の太守だけではなく、荊南の蜀領の治安維持や開発
 の監督も行っている為、一太守と言うより都督に近い。そんな江陵に到着した朱里達は愛紗に洛陽でのあらましを報告し(主に北
 郷一刀の話題に終始していた)、数日間逗留した後今後の蜀の方針を話し合う為、愛紗を伴って成都に向けて出立した。
  その道すがら、愛紗は魏や洛陽の現状など政治的なもの以外の話を朱里達に尋ねていた。その中で愛紗が驚愕したのは、麗羽の
 変遷だけではなく、璃々が帝と短時間とは言え直接話をし、尚且つ内宮の庭で共に遊んだと言う事実であった。未だ古い価値観か
 ら抜け出しきれていない愛紗にとって、それは十分彼女を驚かせていた。
「しかし、何の前触れも無く陛下に謁見できる華琳殿や御遣い殿にも驚いたが、璃々が直接陛下にお会いしたとは……」
  そんな溜息交じりの愛紗に併走していた紫苑が答えた。
「ええ、私も璃々が一刀さんに連れられて帝の宮殿に行ったと聞かされた時は驚きましたわ。しかもただ着いて行ったと言うだけで
 はなく、直接会って話をし、しかも一緒に内宮の庭を見たなんて聞いた時は流石の私でも気が遠くなりましたもの……」
  そう言って紫苑は自分の前に座っている璃々の頭をそっと撫ぜた。急に頭を撫ぜられた璃々はキョトンとしていたが、紫苑と目
 が合うと笑顔を返した。
「ふむ、璃々はこの先大物に成るやも知れんな。ひょっとすれば、ひょっとして……」
  星の呟きに白蓮が反応する。
「ひょっとすればってどういう事だ?」
「ん?ひょっとすれば璃々が将来の陛下の……」
「星ちゃん、あなたまで風さんの様な事を言わないの」
  星が全てを話し終える前に紫苑が口を挟む。
「いや、少々無責任ではあるが例えばの話、そうなれば蜀と漢室との繋がりは一層強固なものとなる。桃香さまも陛下からは伯母上
 と呼ばれ華琳殿や一刀殿程では無いにしろ信任は厚い。しかしその漢室の後ろ盾は曹魏だ。となると逆にあれらが漢室を利用して
 裏から我らを……等と言う事も……」
「それは……」
  星の言葉に紫苑は困り顔で言葉を濁す。理屈では判るが、愛娘を政争の具に使われる事については簡単に納得できる紫苑ではな
 い。
「そんな顔をするな紫苑。あの桃香が璃々をそんな事に使う訳がないだろう」
「そうだぞ、星。例え話でも言っていい事では無かろう」
  白蓮が紫苑を気遣い、愛紗が星をたしなめる。愛紗に睨み付けられた星が少々焦った面持ちで答える。
「だから無責任な例え話だと前置きしただろうに……。それにわたしとしても桃香さまがそのような事をなさる様な方では無い事ぐ
 らい弁えている。だが我らの動きを封じる為にあの三軍師達がこのような事考えていないとは言い切れまい」
  そんな星の言葉に白蓮の馬に同乗している朱里が答えた。
「どうでしょう。三国で覇を争っていた時ならまだしも、今更そんな事をする必要は……。正直今ならそんな手の込んだ事をしなく
 ても、華琳さんや桂花さん達ならば直接言ってくるでしょうし、そんな事をして一刀さんも何と言うか……。今回の訪問した感触
 からすれば、あちらの要求なり要望をただ唯々諾々とこちらが受け入れる様な事は華琳さん達は望んではいないかと。ならば益々
 そんな手は使わ無いでしょう」
  続いて雛里が口を開いた。こちらは愛紗の馬に同乗させてもらっている。
「だと思います。風さんが言っていた様に、お兄さまが大人ばかりの中で暮らしている陛下を慮っての事で他意は無いかと」
  朱里と雛里の言葉を聞いた紫苑に笑顔が戻る。そして目の前の一刀に貰った首飾りを弄っている璃々を愛おしそうに眺めている。
「そうね、あんなに璃々を可愛がってくれた一刀さんですものね。璃々は一刀さんの事好きだものね……」
「うん。璃々おじさんの事大好き!」
  紫苑の問いかけに璃々が笑顔で答える。そんな璃々を見ていた星の顔も随分穏やかな表情になっていた。
「まぁ、一刀殿の影響力は彼女達にとって良くも悪くも絶大ですからな……」
  そんな彼女達の話を聞いていた愛紗がおもむろに口を開く。
「なぁ……先日から気に成っていたのだか……、皆御遣い殿の事を『一刀さん』だの『お兄さま』だの親しげに呼んでいるが……」
  怪訝そうな顔で尋ねる愛紗に星が答える。
「ああっ、一刀殿に見えた我ら皆あの御仁と真名の交換を済ませておるからな……。おおっ、そう言えば頑なに真名を守り通した方
 が約一名……」
  そう言って星は白蓮に目配せをしながらニヤリと口端を歪めていた。
「いいじゃないか、そんな事……。わたしの真名なんだから」
「その割りに切欠を見付けられず右往左往しておられた様だが……白馬長史殿」
  星の言葉に白蓮が顔色を変えた。
「何だよ!気が付いていたのなら気を使ってくれても良かったじゃないか……」
  言葉が終わりに近付くにつれ段々声が小さくなり、最後は目尻に涙を溜め白蓮はいじけて横を向いてしまった。
「ん?白蓮どうかしたのか?」
  そこに隊の後方の確認に行って戻って来た翠が星に尋ねる。
「いやいや、白蓮殿はやはり白蓮殿であったと確認したところだ」
「はぁぁ……?」
  訝しげに頭を捻る翠を尻目に、星は前を向いて声を上げて笑っていた。



  成都に到着した愛紗達一行を出迎えたのは蜀の国主たる劉玄徳こと桃香の抱擁だった。この桃香の抱きつき癖はもう少しどうに
 かならぬかと愛紗は思う。これが蜀の臣下にだけならまだしも、この国を訪れた華琳や雪蓮、そしてその臣下達にも行うのには愛
 紗も困り果てていた。だが愛紗はこうして戻ってきた折、桃香の抱擁で迎えられるのが嫌いではないのも事実であった。
「みんなお帰り〜。そしてお疲れ様。お風呂の用意が出来てるからみんな旅の垢を落としてよ」
  そんな桃香の気遣いに感動している愛紗と焔耶を尻目に、皆三々五々動き始める。
「紫苑、長旅ご苦労であったな。で、どうであった天の御遣い殿は?」
  桔梗の問い掛けに紫苑は妖艶な笑顔を返す。
「ええ、予想以上……、いえ驚愕だったわね。璃々の事も気に入って可愛がってくれていたし」
「ほう……、それは重畳。これは三国会談での楽しみが増えたというもの……」
「いえ、三国会談では魏の子達の監視の目が厳しいでしょうから……、そおねぇ……天の技術の指導とでもかこつけてこちらに呼ぶ
 のが賢明ね。会談とは違って何人も随伴する訳にはいかないでしょう」
「なる程……、それが良いのう」
  そんな二人を見た白蓮は後に「その時の二人は飢えた虎と狼が群れからはぐれた小鹿を狙っているかの如くの眼をしていた」等
 と震えながら語ったという。

  一方こちらでは蒲公英が翠を出迎えていた。
「どうだったお姉様、北郷さんたんぽぽが言う通り格好良かったでしょ」
「えっ?ああ、そっそんなでも無かった様な……」
  そう言って翠は横を向いてしまう。そう言いながらも翠の頬が少し赤らんでおり、どう見ても挙動不審な物言いの翠を見ていた
 蒲公英はある物に気付いた。
「ねぇ、お姉様。その髪留めどうしたの?」
  蒲公英の問いに内心「しまった」と翠は思っていたが、既に遅い。本当なら成都に到着するまでに元の髪留めに戻す心算であっ
 たが、一刀に貰いそして一刀から良く似合っているといわれた事が嬉しくて洛陽からずっと着けていたのだ。
「こっ、これは洛陽で……てっ手に……入れ……」
「ふ〜ん……。でもそれってどう見てもお姉様の趣味じゃないよね……」
「そっそんな事は無いぞ。わっわたしだってお洒落の一つや二つ……」
「本当にぃ〜」
  真っ赤な顔で慌てふためきながら話す翠を蒲公英が疑惑の眼差しで見詰めている。そこにひょっこりと璃々が顔を覗かせた。そ
 して悪意のかけらも無いイイ笑顔で話し始めた。
「それはねぇ〜、洛陽でおじさんに貰ったんだよ」
「うわっ、璃々!ダメだって……」
「へっ?」
  璃々の言葉に翠と蒲公英がそれぞれ反応した。そしてそんな事はお構い無しに璃々は話を続ける。
「璃々もねぇ〜、これおじさんに貰ったんだよ」
  そう言って一刀に貰った首飾りを嬉しそうに蒲公英に見せる。璃々自身、見せ付けよう等という気は全く無く、ただ嬉しかった
 事を伝えたかっただけであり、悪意が無い為尚更性質が悪い。
「ねぇ、璃々ちゃん。『おじさん』って北郷さんのこと?」
「うん、そうだよ」
  そう言って璃々は自分の首飾りを蒲公英へ見せた事に満足したのか、今度は他の者へ向かって走っていった。そしてそんな璃々
 の後姿を見ていた蒲公英が翠の方へ振り返り口を開く。
「何で?!璃々ちゃんはともかく、何でお姉様がそういうの貰う訳?説明してよ!」
「いや……あのな、これには色々と込み入った事情が……」
「込み入った事情って何?」
「いっいや、一刀殿にな……」
  蒲公英が翠の発した言葉に敏感に反応した。
「ねぇ、何でお姉様が北郷さんの事一刀殿って呼んでるの?……もしかして真名の交換をしたの?北郷さんに何かされたの?何かイ
 ヤラシイ事しちゃったの?」
  そう興奮気味に話す蒲公英の脳裏にはあの砦での出来事が思い出されていた。
「ばっバカ!大声で何て事言ってんだよ!」
「うわぁぁぁ、お姉様否定しないんだ。やっぱり何かイヤラシイ事したんだ……」
  蒲公英の追求に対して上手く事情説明が出来ない翠。実際は蒲公英が考えている様な事は皆無なのだが、翠が真っ赤な顔でおた
 おたしている為蒲公英の追求が段々とエスカレートしていく。翠にしてみれば、『鐙』の件を他の人間に話してよいのか判らなかっ
 た為、確信部分が話せず蒲公英への返答がぼやけていたのが原因だった。一刀の迷惑に為らない様にと義理立てしている乙女な翠
 である。実のところ、『鐙』の件に関しては既に朱里に話がされており、話しても問題は無かったのであるが。
「ああ、もうお前面倒くさい。洛陽のお土産無しな」
「あっ、ウソ、嘘!初心なお姉様がそんな度胸有る訳無いじゃん。だからお土産頂戴」
「それはそれで腹が立つなぁ……」
  そして翠から洛陽の土産を奪う様に受け取った蒲公英は其の場で荷を解き始めていた。

  そんな翠と蒲公英の会話を少し離れた所で桃香と呆れ顔の愛紗が眺めていた。
「全く……。城の者も見ているというのに……」
「あはは、二人とも久しぶりなんだから嬉しいんだよ。あっ、朱里ちゃん朱里ちゃん」
  洛陽から持ち帰った荷物やら書類・竹簡の類の整理を城の者達に指示していた朱里に桃香が声を掛ける。
「はい?何でしょう、桃香さま」
  城の者への指示を一旦切り上げ、朱里は雛里を伴って桃香の元へ近寄っていった。
「詳しくは後で聞くけど、とりあえず朱里ちゃん達の北郷さんの印象を聞かせてよ。洛陽ではお話が出来たんでしょ?」
「はい、予定にゆとりも有りましたのでかなり多くの話をする事が出来ました」
「うん、うん、それで?」
「わたしの印象としては、要注意人物と言う認識に変わりはありません」
  朱里の言葉を聞いた愛紗の眉間に皺が寄った。
「やはり警戒しておいた方がいいと言うのか?」
「ああ、愛紗さん深刻に考える必要はありません。しかし、一刀さんの一挙手一投足を注目すべきでは有りますが」
「どういう事?」
  小首を傾げた桃香が朱里に尋ねた。
「詳しくは一刀さんの許可も貰っているので後で皆さんにも話しますが、一刀さんの常識の多くの面はわたし達と共通していますが、
 かけ離れた面も有ります。そして一刀さんの持っている天の知識はわたし達の考えの及びも着かないものが多々有ります。その一
 つ一つを私達で精査する必要が有ります」
「うう……、何だか聞くのが怖いね」
「しかしそれは華琳殿や魏の軍師達が……」
「はい、しかし魏がこれは必要無いと判断しても、蜀にとっては有益なものかも知れません。それは呉やそして五胡においても同様
 です」
「しかしそんな事を魏が許すのか?確かに今は三国が鼎立しているが、我々は事実上の敗戦国だぞ……」
  そう言った愛紗の顔は苦虫を噛み潰したような顔に成っていた。そんな愛紗に朱里は笑顔を返した。
「一刀さんは今の三国の状態を肯定的に考えておられます。それは口にこそ出されませんが、華琳さんや軍師の皆さんも共通してい
 る様です。考え方の違う三国が鼎立しているのは意味が有ると。勿論この大陸の平和と安定・発展が第一条件ではありますが」
「ふむ……、しかし……」
  まだ全てが納得できない愛紗が不安そうな声を漏らす。
「確かに以前の魏のやり方を見てきた愛紗さんが不安に思うのも無理はありません。もし機会が有れば……、いえ絶対に愛紗さんや
 今回洛陽に行かなかった皆さんも今の魏を洛陽をその眼で見て、そして一刀さんと話をするのをお勧めします」
「おっ、お兄さまはお優しい方です。心配は無いと思いましゅ……あわわ、噛んじゃった……」
  今迄三人の話を聞いていた雛里もそう口を開いた。
  洛陽に向かう前の何か影の有った朱里と雛里とは違い、打って変わって晴れ晴れとした顔で話す二人を見た桃香は自然と顔が綻
 んでいた。
「二人とも今回の洛陽行きは意味が有ったんだね」
「はい!」
  二人は声を合わせて返事をする。そしてペコりとお辞儀をして二人は桃香達の元を離れて行った。そんな二人を桃香は微笑みな
 がら、愛紗は呆れた様な笑顔で見送っていた。
「二人とも変わりましたね。いや、元に戻ったと言うべきですか?」
「ううん、変わったんだよ。北郷さんと話が出来て本当に良かったんだね……、もう心配は要らないね」
「そうですね」
「だから愛紗ちゃん……、北郷さんは朱里ちゃん達の、いや蜀にとっても恩人なんだから、今迄みたいに親の敵みたいな言い方しちゃ
 ダメだよ」
  突然桃香からそんな事を言われた愛紗が狼狽している。
「しかし、碌でもない噂には事欠かない人物でしたし……、わたしはそんな顔で話してましたか?」
「そうだよ、眉間にしわ寄せて、眉毛なんて吊り上げちゃって……、天の御遣いだ等と得体の知れない者って」
  桃香の余り似ていない少々大袈裟な愛紗のモノマネを見て、愛紗は今度は真っ赤な顔をしてうろたえ始めた。
「そっ、その様な事覚えがありません!」
「そうだよ、こーんな顔してさぁ……」
「とっ、桃香さま!」
  そうしてじゃれ合い始めた仲の良い義姉妹であった。

  一方、月と詠を見つけた星が二人の方へ近付いていった。
「おお、月、詠。ここに居たのか」
「星さん、朱里ちゃん達の出迎えご苦労様でした」
「お疲れ様。どうだった?天の御遣い殿は?」
  星に声を掛けられた二人が口々に星に労いの言葉を掛けた。
「ああ、中々の御仁であった。いや予想以上かな。あの折それを見抜けなかった自分は未熟だったとしか言い様が無いな」
「ふーん、そうなんだ」
  星と詠が話しているところに月が割って入る。
「あのう、星さん。北郷様に……」
「おお、ちゃんと伝えておいたから心配するな。しかし、残念な事も……、一刀殿は二人の事を直ぐには思い出せなくてな」
「へう……、そうなんですか……」
  星の言葉を聞いた月はシュンとして俯いてしまう。そんな月を見た詠が口を開く。
「月、そんな事気にしなくていいよ。別にいいじゃん、あんな奴に覚えられて無くったって」
「でもぉ……」
  月を慰めている詠の顔にも少々残念そうな表情が見て取れる。そんな二人に星が明るい顔で話を続けた。
「いやいや、そう落胆するな二人とも。少し話をしたらちゃんと一刀殿は事細かに思い出したからな。それに二人とも成都の城で元
 気に暮らしていると言ったら喜んでいたしな」
  星の言葉を聞いた月の顔がパッと明るくなった。詠の方も露骨に顔には出さないが、表情が明るくなっている。
「へう、そうなんですか……。良かったね詠ちゃん」
「べっ、別にわたしはどうでもいいわよそんな事……。それと星、事細かにってどういう事?」
「ん?それは直接一刀殿に会って話せば良かろう、次の三国会議はここ蜀で執り行われるのだからな」
「そうですね。その時に御遣い様にはお会い出来ますね」
  そう言った月の顔は実に朗らかな良い笑顔であった。
「(なる程、風達が一刀殿に月と詠の正体やその後の顛末を教えなかったのはこの為か……)」
  そんな月の笑顔を見た星は心の中で一人納得していた。



         〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜



  場所は移って、ここは江夏。丁度一刀達が宿を引き払って沙和の土産を買っていた頃、江夏の街を歩く二人の女性が居た。
「蓮華さま、無理に街の視察は今日でなくとも……」
  一人は呉の将、甘興覇こと思春。
「いいえ、思春。姉様からここを預かったからにはその期待に答えなければ……」
  もう一人は呉の国主孫伯符の妹、孫仲謀こと蓮華。今はお忍びなのか普段の衣装ではないが、その特徴的な髪の色が災いしてか
 余り変装に成っていない。察しの良い江夏の者達等は蓮華に気付いていた。勿論、孫権の名を口に出すような無粋な者は居ないの
 だが。
「しかし蓮華さま、余り根を詰めて身体調子を崩しては……」
「ありがとう思春、心配してくれて」
「いえ、もったいないお言葉です」
  そうは言うものの、思春の顔が晴れる事は無い。常に側に居る思春ではなくても今の蓮華が無理をしているのは誰の眼から見て
 も明らかに感じられる。
「でも、こうして街を視察するのは好きだし、良い気分転換にもなるわ。それに魏では将だけでなく軍師達や稀に華琳でさえお忍び
 で街を視察すると聞いたわ。蜀も同様にね。それに町の雰囲気を肌で感じるのは良い事だと思わない?」
  そう言って蓮華は思春に微笑み掛ける。そんな蓮華の顔を見た思春はこの融通の聞かない生真面目で一本気な主に仕える事が出
 来て良かったと感じる。しかし、蓮華は雪蓮に対して必要以上に意識し過ぎているとも思春は感じていた。それは他国の君主達に
 対しても同様であった。
「蓮華さまのお仕事に対する意気込みや民に対するお気持ちはこの甘興覇常々頭の下がる思いで御座いますが、くれぐれも御自身の
 御身体を御自愛下さいませ」
「ええ、でも亞莎がこちらに来るまでは頑張らないと……。魏は襄陽を蜀は江陵の開発を本格化している。なのにここ江夏が見劣り
 する様ではね……。そう言えば思春、穏や明命から何か連絡は有った?」
「はい、穏さまからは予定が変更に成ったという知らせが届いてからは未だ何も。明命からは北郷と夏侯惇以下数名の部下達の足取
 りが郊外の視察に出てからここ数日は掴めないと言って来ました。襄陽に放ったあれの部下がどうやらまかれた様です」
  思春の話を聞いた蓮華の顔色が変わった。
「まさか気付かれたのか?」
「いえ、それは無いかと。明命曰く、ただ純粋に付いて行けなかったのだろうと。自分が行けば良かったと後悔しておりました」
「ならば良いが……」
「はい、細作共を鍛え直さねば成りません。あれらの移動は騎馬が中心だったというのも有るのでしょう、騎馬の技術に関しては一
 枚、馬の質に関しては二枚も三枚もあちらが上です。忌々しい事ではありますが……」
  そう言った思春が珍しく悔しそうな表情を顔に出しているのを見た蓮華は少し可笑しかった。そんな思春の顔を見た蓮華の顔が
 和らいだものに変わっていく。
「まぁ、明命の事だから直ぐに見付けるでしょう。……天の御遣い北郷一刀か。どの様な男なのかしらね」
「興味がお有りになるので?」
「ん?無いと言えば嘘になるわね。まぁ、姉様程ではないけれど……、祭がやたらと褒めていたと聞けば気にもなるでしょう」
「それは確かに。祭さまがあの男に何を見たのかはこの甘興覇には慮る事は出来ませんが……。あの男に関しては他愛の無いものか
 ら碌でもないものまで噂だけは聞き及んでおりますが……」
  急に話を止めた思春を不思議に思った蓮華がそちらに顔を向ける。思春は人ごみのある一点を凝視していた。
「どうかしたの思春?」
  そう声を掛けられた思春は蓮華の方に向き直し口を開いた。
「蓮華さま、そこの茶屋で暫くお休み下さい。少々野暮用を思い出しました」
「えっええ……、判ったわ」
  先程までとはがらりと変わった雰囲気で話す思春に面食らいながらも蓮華は言葉を返す。理由を聞こうと思った蓮華であったが、
 思春の只ならぬ雰囲気に言葉を飲み込んだ。
「直ぐに戻って参りますので」
  そう言って思春は周りに目配せをする。どうやら蓮華に気付かれぬ様辺りに配下の者を伏せていた様だ。例え呉の統治下である
 街とはいえ蓮華を一人にする等有り得ない。
  蓮華が茶屋に入るのを確認してから、思春は人ごみに中へと消えて行った。

  蓮華は思春に促された様に茶屋に向かった。思春の指摘通り江夏に着任してからはかなり無理をしていた為、疲れが溜まってい
 るのは事実であった。何時も自分を心配してくれる思春の手前、強がっていただけである。茶屋に入ると店の者に茶を注文し、奥
 まった席に着いた蓮華は辺りを見回して誰もこちらを気にしていないのを確認すると、大きな溜息を吐いていた。
「(こんな事で根を上げていてどうする孫仲謀。こんな事ではここを任せてくれた姉様に合わせる顔が無いではないか)」
  そんな事を思う蓮華であったが、一人になったという安心感からか気の緩みか、顔には濃い疲れの色が浮かんでいた。
  そんな蓮華に近付く影が一つ。蓮華は疲れからか気付くのが遅れ、気が付けばそれは蓮華の直ぐ隣に立っていた。それは右手に
 何かを携えており、それを蓮華に近づける。いきなりの事に蓮華は身構えるが、その右手の物は蓮華の目の前の机に置かれた。
「お武家様、どうやらかなりお疲れの様子。そんな時は手っ取り早い栄養補給に甘い物を召し上がるのが一番です」
  そう言って右手の物を蓮華に近づける。それは見るからに甘そうなお菓子であった。
「あっああ、すまない。そなたは……?」
「これはとんだ御無礼を。申し遅れましたが、私は濮陽で商いをしております史忠と申します。以後お見知り置きを」
  そう言って一刀は深々と頭を下げ礼を取った。そしてその姿を見て落ち着いたのか蓮華が口を開いた。
「我が名はそん……」
  蓮華が名を名乗ろうとしたのを一刀は途中で遮った。
「皆まで申されますな、貴方様の事は存じ上げております。その姉君と同じお美しい御髪を見れば察しの良い者なら気が付きます。
 勿論この茶屋の者達も……」
  そう言われた蓮華が驚いた様子で周りを見渡す。そんな蓮華と眼が合った店の者は苦笑いをしながら頭を下げていた。
「そうか、上手く誤魔化せていると思っていたのは私だけか……。まあいい、既にばれているとしてもこれ以上人目についても何だ、
 そこに座ってくれ」
「では失礼して」
  そう言われた一刀は蓮華の対面の席に腰を掛けた。そして改めて皿のお菓子を蓮華に勧めた。
「先ずは栄養補給成されませ。その様なお顔を街の者に見せていては皆不安がります。ああ、勿論そのお菓子には変な物等はは入れ
 ておりませんのでご安心を」
「ふっ、そうか……そうだな、そうさせてもらおう」
  そう言って蓮華は皿のお菓子を手に取り口に運び始めた。そのお菓子を一口口にしたところその味が気に入ったのか蓮華に笑顔
 が戻り始めていた。そんな蓮華をニコニコとした顔で眺めている一刀に気が付いた蓮華は、少々顔を赤くしながら慌ててそれを飲
 み込んでしまった。そして一つ咳払いをしてから口を開いた。
「史忠とやら、そなたから見てこの街はどう写った」
  歳相応な顔からこの街の主の顔に成った事を残念に思いながら一刀は答えた。
「はい、一言で言えばよい街です。活気も有りますし、呉の物以外にも様々な地方の物も店に並んでいます。この街に着いたばかり
 の時は警備の方達が少々物々しいと感じましたが、数日で気にならなくなりました。今では呉に守られているという安心感が有り
 ます。それはこの街の者達も感じている事かと」
「そうか、他の国から来たお前にそう言われるのは私も嬉しい。しかし、警備はそんなに物々しいか?ここの警備体制は建業だけで
 なく、洛陽のものも参考にしているのだが……、洛陽よりも物々しく感じるか?」
  洛陽の警備体制を参考にしていると聞いた一刀は自分達のやり方が波及している事に内心喜んでいた。そう聞けば警邏の間隔や
 街に配備されている警備の者達の位置が洛陽のそれとよく似ていた。しかし、蓮華の言う様に洛陽ではここ程物々しさは感じない。
 警備の人員は街の規模で比較してもずっと洛陽の方が人数も多いに関わらずである。そんな事を考えていた一刀は一つの事を思い
 付いた。
「それは警備の方々の意匠によるものかと」
「意匠?」
「はい、ここの警備の方々は呉の軍と同じ鎧を見につけておられます。有事の場合なら問題は有りませんが、今の平時の場合は少々
 威圧感があるやも知れません。洛陽では軍と警備隊では意匠が違うはず」
「なるほど……」
  その後も蓮華と一刀は他国の者から見たこの街の印象について話を続けた。
  しかしそんな中、蓮華は不思議な感覚を感じていた。今日ここで出会ったばかりのこの男となぜこんなにも気さくに話せている
 のだろうかと。確かにいきなり話しかけられた時は警戒もしたが、この男への警戒心は直ぐに薄くなり、今は以前からの知り合い
 のような調子で話している。気を抜けば普段思春や明命と話す言葉使いに成りそうにもなる。そんな思いを蓮華はぼんやりと感じ
 ていた。
  これについては、一刀の元来の人当たりの良さと、華琳も認める人垂らしの才能、そして帝をはじめとした朝廷の高官達との会
 話等をしている経験値の高さもあるのだろう。何時までも相手から警戒されていては、その相手の内面をうかがい知る事は出来な
 い。華琳をはじめとする海千山千の人間達に比べれば、一刀にとって蓮華は良い意味で話し易い部類の人間であった。一刀の正体
 を知らず只の商人だと思っている蓮華とは勝手が違う。
「そうか……、まだまだ先は長いな……」
  そう言って蓮華は天井を見上げ、眉間に皺を寄せながら又溜息を吐いていた。
  そんな蓮華の顔を見た一刀は、星の言っていた孫仲謀の人物評の一説を思い出した。
  星曰く、「蓮華殿は一言で言えば生真面目な方でしょうな。うちの関雲長と良く似ているところがあります。国主の妹と一家臣
 では責任の重さは違いましょうが……。ですが、己の味方であったり、親しい者・近しい者への情の厚さは並々ならぬものが有り
 ますな。これは呉の者達全てにも当てはまります。その分思考が内向きに成り易い嫌いもありますが……、その辺りを良く気を付
 けねば痛いしっぺ返しを喰らいますぞ御遣い殿」
  そう言ってニヤリと笑った星の顔が印象的であったが、一刀はその時も今も余り気に止めてはいなかった。
「まぁ、何でも一人で抱え込まぬ事です。焦らず慌てず、周りの人間や部下達を使いこなす器の大きさを見せるべきかと」
「しかし……、洛陽や魏の他の都市を間近に見れば焦りもする……」
「魏の良い所や、自分達にも都合の良い所を取り入れる事はよろしいのですが、魏呉蜀それぞれのやり方や違いが有ります、全てが
 洛陽や魏と同じに成っては意味がありません」
「ふむ……、確かに。それもそうだな……。史忠、貴様にそう言われて少し楽になった、礼を言う」
  そう笑顔で話す蓮華に一刀も笑顔を返す。その時、蓮華が何か思い付いた様な顔に成り、口を開く。
「そうだ史忠、お前私に仕えぬか?」
「はっ?」
「商いを辞める訳にはいかぬと言うのなら、こちらに来た時に相談相手になってくれれば」
「いやいや、呉には周軍師様をはじめとした優秀な軍師様方が居られるでしょう……」
「お前の話を聞いていて、呉の者だけではなく外部の者の意見を聞くのも必要だと感じた。どうだ?」
「いえ、しかし……手前の様な者を……」
「何だ、器の大きなところを見せろといったのはお前ではないか」
「いやいや、そういう意味で言ったのでは……」
  そう蓮華に詰め寄られている一刀であったが、何か表が騒がしい事に気付く。それは蓮華も同様で、怪訝な顔で通りの方を見詰
 めていた。
  そこに一人の男が汗を拭きながら店の中へと入って来た。一刀はこれ幸いにと声を掛ける。
「表が騒がしい様ですが、何かありましたか?」
「いえね、甘将軍が何やら大立ち回りを……」
「思春が!?どう言う事だ!」
  その男の言葉に蓮華が反応した。蓮華は余程驚いたのか真名で呼んでいる事に気が付いていない。そんな蓮華を見たその男は一
 瞬ギョッとした顔に成ったが、直ぐに表情を元に戻し再び話し始めた。どうやら蓮華の正体に気付いた様だ。
「いっいえ、この一つ向こうの通りで旅装束の女相手に甘将軍が大立ち回りをしているみたいで……。しかもその女、荷物を抱えた
 まま将軍の攻撃を器用にかわしているんですよ」
「思春の攻撃をかわしているだと……、何者なのか……」
  二人の話を聞いていた一刀はいやな予感が頭に浮かんでいた。いや、確信していた。
  そしてその直後、そんな一刀が聞きたくない知らせを春蘭の部下がもたらしていた。



  暫く前、春蘭は服飾の店で数着の服の前で頭を捻っていた。季衣や流琉以下の臣下の者達の土産は以外にすんなりと決まったの
 だが、華琳や秋蘭と自分の為の物を決めかねていた。せっかくなので呉の意匠の服を買おうと言うまでは良かったのだが、それを
 選ぶ段で迷っていたのだ。
  呉らしい意匠の服は総じて露出が多かったのが原因の一つであった。
  以前から呉の面々の服装は露出が多いと感じてはいたが、いざ自分や華琳が着るとなると躊躇いが有った。
「う〜ん、わたしや秋蘭が着るのはまだしも、華琳さまにこの様なモノを着せても……大丈夫か?」
  春蘭は頭の中で選んだ服を華琳が着たところを想像する。春蘭が華琳に選んだのは、現代風に言えばドレープホルターのセクシー
 なカクテルドレスで、背中は大胆に開いており、超ミニなスカートは流琉張りのローライズであった。
「(華琳さまがこれをわたしや秋蘭の前で恥らいを見せながら着ておられるのは……うん、イイ!)」
  そんな事を考えている春蘭の顔はだらしなくにやけていた。傍から見ればかなり気持ち悪い。店の者も顔を引き攣らせながら苦
 笑いで春蘭を見ていた。
「(それにこっちをわたしが着たら一刀も喜ぶかな……)」
  今度は自分用に買おうとしていた服を見詰めながらそんな事を考える。春蘭が自分や秋蘭に選んだ服は雪蓮や冥琳の服にも負け
 ず劣らぬ程露出度が高い物であった。背も高く、体形も良い春蘭や秋蘭が着ればかなりの迫力である事は間違いない。
「ええいっ、どうせ私事でしか着ぬものだ、これに決めよう。おいっ、この三着を貰うぞ!」
  そう言って精算を済ませる春蘭。勿論、買った服に合わせた下着や小物も忘れていない。
  そして春蘭は皆の土産の入った包みを抱え、上機嫌で一刀との待ち合わせの場所に向かっていた。

  そんな春蘭を店に入る前から後を付けていた者が居た。甘興覇こと思春であった。
  蓮華と通りを歩いていた時、思春は信じられないものを眼にした。自分の少し前を魏の夏侯元譲が横切ったのだ。着ている物は
 何時もの春蘭の物ではなく、商人の妻君等の着る旅装束であり、髪方も違うし、あの特徴的な眼帯もしていない。しかし、思春は
 確信していた、あれは夏侯元譲であると。どんなに服装や姿形を変えようと、あんな氣配の持ち主は夏侯元譲しか居ないと。
  思春は蓮華に茶屋に行く様に勧め、辺りに伏せていた警護の者達に目配せをしてから春蘭を追って行った。しかし、自分の勧め
 た茶屋に北郷一刀が居るなどとは思春は露程にも思っていなかったであろう。後日その事を聞いた思春は人を殺せる程の視線で一
 刀を睨んだと言う。

  春蘭の後を付けていた思春であったが、ここまで人通りの多い場所に春蘭が居た為仕掛ける事が出来ずにいた。そして春蘭の数
 件の買い物に付き合わされる羽目に成ったのだが、遂に春蘭が人気の無い路地へと入っていった。
  思春はこの機を逃す事無く、春蘭との距離を詰め、そして声を掛けた。
「おい!こんな所で何をしている」
  この様な所で急に声を掛けられた春蘭は今迄通り史忠の妻夏胡蝶の笑顔で振り返る。
「はい、何でしょう……」
  振り返った春蘭は声を掛けてきた者の顔を見た瞬間、固まっていた。
「こんな所で何をしているのかと聞いている!夏侯元譲!!」
「げっ、げぇぇっ……、甘興覇!」
  声を出した後春蘭は後悔した。しかし後の祭りである。
「やはりそうか……。なぜ江夏に貴様が居る。理由は!」
  今更とも思った春蘭ではあったが、何とかこの場を切り抜けようと考えていた。
「どなたかと勘違い成されてませんか甘将軍。私は濮陽で商いをしております史忠の妻で夏胡蝶と申します」
  春蘭は苦し紛れに演技を続ける。それを聞いた思春は露骨に険しい顔付きに成る。
「この期に及んで未だその様な戯言を……、大人しく付いて来てもらおう」
  そう言いながらも思春は躊躇無く鈴音を抜いた。そもそも相手が素直に言う事を聞くとは思っていない。そして間合いを詰める
 為、ゆっくりとにじり寄る。逆に春蘭は間合いを開けるため後ろに下がる。春蘭も小刀程度は隠し持っているが、思春相手では余
 り意味が無い。それに他にも数人の手練れの気配を春蘭は感じていた。
「(これは……、流石に甘興覇相手に誤魔化しきれんか……)」
  春蘭がそう考えていると、思春が少し遠目の間合いから切り込んで来た。それを春蘭は後ろに飛んでかわす。思春はそのまま二
 度三度と続けるが、間合いが詰め切れていない為春蘭は全てかわしてしまう。
「ほう……、夏胡蝶とやら、中々やるではないか」
「人妻としての嗜みですわ」
「ふざけるな!!」
  春蘭はそのまま人通りの多い方へと駆け込んで行く。そこまで行けば思春も諦めるかとも思ったのだが、そんな事はお構い無し
 に思春は突っ込んで来る。春蘭の演技に腹が立ったのか、それとも既に思考が戦闘的に変わっているのか手を緩める気は無い様だ。
  同時に思春の配下の者達も慌てていた。あの思春の切込みを一度ならず二度三度と全てかわす者等、孫伯符や黄公覆そして周幼
 平以外に見た事等無かった。しかもその相手は得物すら持たず、荷物を抱えたままなのだ。その為、思春の配下達は春蘭を包囲出
 来ずにいた。
  それを感じた思春は益々険しい顔に成る。逆に春蘭はその包囲出来ていない方へと流れて行く。春蘭を誘導する為にワザと作ら
 れた穴では無く、春蘭に動きを合わせる為にどうしても思春達は後手後手に成ってしまっている。一方春蘭の方も余裕が有る訳で
 はない。得物も無く思春を相手にしているだけでは無く、これ以上騒ぎが大きく成り時間が経てば江夏の警備隊も現れるだろうし、
 一刀との合流も難しくなる。
  そこに予期せぬ乱入者が現れた。騒ぎを聞き付けた蓮華であった。
「思春!何事か!!」
  蓮華の声に一瞬思春の視線と意識がそちらに向かう。その時春蘭は蓮華の後ろに一刀と左右に別れ人混みに消えていく部下達を
 見た。
「いけません、蓮華さま。こやつは……チィッ!」
  その時、蓮華や思春に向けて何かが投げつけられた。普段であれば得体の知れない物なら手を出さず避けてしまう思春であった
 が、この時ばかりは後ろに蓮華が居た為手に持っていた鈴音で反射的に切りつけてしまう。
  それを切りつけた瞬間、もうもうと白い煙が辺りに広がった。その煙には香辛料が混ぜられているのか何か軽い刺激臭と共に眼
 にも沁みている。蓮華を筆頭にその周りに居た町の者達も咳き込んだり目に涙を溜めていた。
  その煙で視界を失い、結果的に後悔した思春であったが、その時屋根の上から男の声が聞えた。
「はぁーはははははっ!甘将軍、いくら仕事熱心とは言えこの様な人混みの中でか弱い女性相手に大立ち回りとは感心しませんぞ!」
  思春が声のする方を見れば、屋根の上に先程まで追っていた女と何処から現れたのか男の姿が見える。二人とも顔に布を巻いた
 だけの簡単な覆面らしきものをしている。
「何がか弱い女性だ!貴様達そこを動くな、今直ぐ……」
「貴様達!何者だ!!」
  思春の話を遮るように蓮華が声を上げる。煙の影響か蓮華は涙目であった。


  騒ぎを聞いた蓮華が茶屋を飛び出した時、一刀は春蘭の部下から現状を聞く。これが賊相手の大立ち回りなら放って置いて、ケ
 リが付いた頃におっとり刀で掛け付ければいいのだが、ここは江夏で呉の者達相手ではそうはいかない。かと言って今更名乗れる
 訳も無く、どうしようかと考えていた時、先日璃々から聞いたある事を思い出した。
「(これで誤魔化すか……)」
  そう考えた一刀は懐から幾つかの玉を取り出す。それは真桜謹製の煙幕弾。以前蜀の面々相手に使った物を改良し、小型化した
 物だ。
  以前の物とは違い、煙幕の拡散が広範囲に広がる様に改良され、尚且つ微量の香辛料が混ぜ込まれており、視界を奪うだけでは
 なく眼や鼻に刺激を与える様になっている。元は暴徒鎮圧用や護身用に作られたもので、真桜に言わせればもっと威力の有る物も
 作れると言っていたが、暴徒鎮圧用では余り威力を強くすれば使用後に突入する味方も被害を被ってしまう。それにゴーグルらし
 き物はは直ぐにでも用意出来たが、マスクの開発が遅れた為に今の威力に抑えられていた。
  一刀はそれを部下達に渡し手順を説明する。そして部下達と共に現場に向かうのであった。

  現場に着いた一刀達は手はず通り二手に別れた。そして蓮華と思春の真横に回った部下達は同時に煙幕弾を彼女達に投げつけた。
 一刀は思春の側に回った者は必ず蓮華が思春の真後ろになる位置で投げるように言っていた。様々な訓練や経験を積んでいる思春
 といえども、後ろに蓮華が居れば避けずに切りつけるか弾くであろうと思ったからだ。蓮華は馬鹿正直にそれを切り付ける様な気
 がしていた。幾らなんでも得体の知れない物を思春や蓮華が素手で掴むとは到底思えなかった。煙幕弾は安全弁を外せば案外軽い
 衝撃で弾ける仕様になっている。
  一刀の思惑通り蓮華と思春の二人は煙幕弾を切りつけ、辺りはもうもうと白い煙に包まれていた。部下達にはもう一つずつ足元
 にも投げつける様に言っていたので、辺り一面真っ白になっていた。
  それを確認した一刀は覆面用の布を持って春蘭の方に向かい、お互い布を顔に巻き付けるとそのまま側の建物の屋根に上がって
 行った。

「貴様達!何者だ!!」
  蓮華の問いに一刀が答えた。
「はぁーはっはっ!我等は華蝶仮面!!」
  一刀の答えに蓮華の表情が険しいものに成った。一方の思春の方は露骨に表情を変える事は無かったが、右の頬が引き攣ってい
 た。かなり頭にきているようだ。
「何!華蝶仮面だと!貴様達あの女を何処にやった!」
「なっ、貴様等何を言っている……蓮華さまそれは……」
  蓮華の答えに流石の思春も表情を変えていた。
  蓮華と思春の反応は真っ二つに分かれていた。一刀は蓮華と話していた時と、春蘭は思春と対峙していた時と服装は変わってお
 らず、ただ覆面を付けているだけである。蓮華はこの場所に到着した時多少なりとも春蘭を見ていた筈であったが、覆面をして華
 蝶仮面と名乗っただけで別人として認識したらしい。
  「孫仲謀は天然なのか……」等と少々失礼な事を考えている一刀であった。

  華蝶仮面の事は襄陽への道すがら璃々から聞いていた。身振り手振りを加え興奮気味に話す璃々や翠そして鈴々とは対照的に、
 死んだ魚の様な眼で遠くを見詰めていた朱里や、無言のまま涙目で朱里の手を握っていた雛里や、やや苦笑いの混じった微笑で皆
 を見ていた紫苑が一刀には印象的であった。同じ話題が襄陽で出た時は、切々と詠う様に華蝶仮面の活躍を語り続ける星と、呆れ
 た様な目で星を見る白蓮が居た。
  その後、襄陽の街に出没した華蝶仮面を目撃した一刀は璃々ちゃんはともかく、何故翠達が気が付かないのか雛里に尋ねた。朱
 里は「もう関わりたくないんです……、忘れたいんです」と言い残し、走り去ってしまったからだ。
  雛里は事の顛末を詳しく一刀に伝えた。雛里から蜀でも劉玄徳や関雲長も気が付いていないと聞かされ、一刀は「それでいいの
 か?」等とも思ったが、雛里の「賈文和曰く、彼女達はあちら側の人々なんだよ」と言う言葉に何故か不思議と納得出来た気がし
 ていた。
  劉玄徳や関雲長への印象を改め、彼女達との対面が色々な意味で益々楽しみに為った一刀であった。

  涙目のまま蓮華は護身用の剣を抜いて一刀達を睨み付けている。
「又お前達か!建業に続いてここにまで現れるとは……、何が目的か!!」
  蓮華の台詞を聞いた一刀は思わず脱力していた。
「(おいおい、呉の領内にまで出没していたのか……。仕事熱心だぞ華蝶仮面)」
  そう心で思った一刀であったが、どうやら蓮華の物言いからは歓迎されていないらしい。まぁ、使い方に依ってはありがたい存
 在であろうが、その街の警備隊が軽く見られる様にでも成ったら為政者としては黙ってはおれまい。
  呉の臣下達にとっては華蝶仮面の出没以上に、似た様な仮面を手に取り自分達もそれに加わろうとした国主と宿将を止めるのに
 手を焼いた方が大事であったのだが。
「我等はここ江夏の民の暮らしや治安の検分に参っただけ、他意は無い」
「何をぬけぬけと……!貴様達の方が余程騒ぎの元であろうが!!」
「あっははっ。検分したところ、我々の杞憂であった様だ、太守殿は実に良く治めておられる。依って今日のところは失礼する。だ
 がしかぁし!民が心健やかに暮らせぬ様なら我等何時でも現れるであろう!では孫仲謀殿、おさらば!!」
  そう言い放った後、一刀は持っていた煙幕弾を足元と地面に向かって投げつけた。一旦は治まりかけていた白い煙幕が再び辺り
 一帯を覆っていった。その煙が治まる頃には一刀達は其の場から消えており、一刀達が立っていた場所には「眼の痛みは清水で濯
 げばたちどころに回復す」と書かれた紙が置かれていた。



  街中の騒ぎから逃れた一刀達は夏口に伏せさせておいた配下の者と合流した後、日が暮れるのを待っていた。あの甘寧の様子か
 ら自分達の正体が恐らく露見しているであろうと推測出来たし、そうなればあのまま見逃されるはずは無く、捜索隊が編成されて
 いるであろう事は容易に推測出来る。ならば目立つ昼間に逃走するよりも、捜索網が広がりきった頃合が良かろうと考えたからだ。
  そして日も暮れ、一刀達は行動に移ろうとしていた。
「なぁ、まだ何時もの服に戻ってはいかんのか?それにこの覆面も……」
  そんな春蘭の問いに一刀が答える。一応、配下の者達も一刀達と同じ様な皆覆面を付けている。
「ああ、とりあえず国境を越えるまではこのままで居てくれ……」
  そんな話をしている一刀達に話し掛ける者が居た。
「ほう……。貴様達が向かうのはどちらの国境だ?蜀か?それとも魏か?」
  一刀達が声のした方に振り向けば、そこに一人立っている者が居る。甘興覇こと思春であった。
「ふむ……、仕事熱心ですな甘興覇殿。このまま見逃してくれませんか」
「貴様に気安く字を呼ばれる筋合いは無い。だが、あの様な騒ぎを蓮華さまの治められている街で起こされて、ただ逃がすわけにも
 いかん」
  一刀に対して思春は表情を変える事無く答えた。怒るでもなく、笑うでもなくほぼ無表情で話す思春を見た一刀はこれはかなり
 怒っているなと感じた。
  思春にしてもこのまま大事にしても呉と魏の間で意味が無い事は判っている。実際ここ数日で呉の重要施設の周りで不審な人物
 等は報告されておらず(騒ぎの後、思春自ら警備の者達に問い質した)、本当に彼等が民の暮らしや町並みを検分していたであろ
 う事は思春にも察しが付いていた。だが「何故正式に彼等は視察を申し込まず、彼等自身が忍び込むような事をしたのか」と言う
 疑問よりも、彼等が起こしたあの街中での猿芝居の方が頭にきていた。
「では、どうしろと?」
「先ずはその覆面で隠した顔を見せてもらおう」
  そう言った思春の雰囲気がガラリと変わる。それは一刀でも感じられる程に。そして春蘭は自分達を取り囲む気配に気付く。包
 囲されるまで気付かなかった自分の不甲斐なさを後悔したが、今更である。布に包んで隠していた七星餓狼に手をかけ様とした時
 それは起こった。
  「ぎぃやぁぁ……」「うわぁぁっ……」「ぐはぁぁっ……」と、一刀達の後方で声がした。一人は其の場に崩れ落ち、一人は一
 刀達の頭の上を通り過ぎ思春の前に放り投げられた。
  そして最後の一人はそのまま掴まれている様だ。その掴まれている者は他の二名と同じ様に気を失っているのであろうか声を立
 てる事も無く引き摺られている様な音がしている。その音が一刀や思春たちの方に近付いて来た。
  この異変に思春達だけではなく、一刀達も警戒し身構える。すると暗闇の中から捕まえられた思春の部下の姿が現れた。
「貴様!何者か!!」
  思春の張り詰めた声が飛ぶ。思春に気付かれる事も無く、一瞬で彼女の部下三人を沈黙させた相手である。思春が必要以上に警
 戒し、緊張するのも頷ける。
  そして気絶したまま掴まれている部下の後ろから声がした。
「ある時は洛陽の美しき踊り子。またある時は魅惑のランジェリーショップの雇われママ。しかしてその実態は……乱世に舞い降り
 た一匹の蝶!美と正義の使者、華蝶仮面二号……推して参る!!」
  そう言って貂蝉……元い、華蝶仮面二号が姿を現す。その姿を見た思春は蓮華ですら見たことの無い様な驚いた顔をしていた。
「何だ……、この化物は……」
「誰が一目見ただけで九族皆呪われるような化物ですってぇぇぇぇっ!」
  そう言って華蝶仮面二号が思春に向かって突っ込んでいった。
「(いやいや、そこまで言ってないぞ……)」
  そして冷静に心の中で突っ込みを入れる一刀であった。

  華蝶仮面二号が真っ直ぐ思春に向かって突っ込んでいく。すると思春の部下の一人が思春の盾になる位置に位置取った。そこに
 華蝶仮面二号は未だ掴んだままの部下をその部下に向かって投げつける。投げつけられた部下は思春の脇に投げられた部下共々倒
 れこんだ時、今度は他の部下が左右から華蝶仮面二号に飛び掛る。それを華蝶仮面二号は回し蹴りと掌打で沈黙させた。
  そのまま今度は思春に向かうかと思われ思春も身構えたが、華蝶仮面二号はすっと一刀の横に退いた。
「お久しぶりねん、ご主人さま。無事にご主人さまを届けたでしょ、褒めて、褒めて」
「こちらに送り届けてくれた事には感謝しているが、それについては少し話が有る……」
「あらん……、誘ってくれるの……。でも、今はご主人さま達は引いてちょうだい。この先に余り人に知られていない脇道が有るか
 ら、そこを進めば国境まで一本道よ。狭い道だけどご主人さま達なら大丈夫よ、脇道に入ってしまえば追手は無いわよん。後で落
 ち合いましょう」
「わかった。くれぐれもやり過ぎるなよ」
  そう言って一刀達は馬を走らせた。
「まっ、待て貴様等!」
「駄目よんっ、ご主人さまの邪魔をしちゃぁ。幾ら甘寧ちゃんでもネ」
  そんな華蝶仮面二号の言葉に思春が反応した。
「どういう事だ……」
  思春は抜いた鈴音を構えながら華蝶仮面二号に問い掛ける。周りの思春の部下達も逃げた一刀達よりこちらを警戒していた。
「でゅふふ、時が来れば話せるかも知れないわね。あらあらダメじゃないそんな怖い顔しちゃぁ、折角の可愛い顔が台無しじゃナイ。
 でも、愛しい人を逃がす為に身を挺して敵を防ぐ……。いやぁぁん、わたしって健気……。ねぇそう思わない?」
  そう言いながら筋骨隆々な身体を身悶えさせている華蝶仮面二号の肩越しに段々と小さくなっていく一刀達を見ながら思春は舌
 打ちをする他なかった。

  一刀達は華蝶仮面二号に言われたとおりに馬を走らせる。そして言われた脇道を確認したと同時に呉の兵の集団も見えた。
  脇道まであと少しという所でその集団と対峙した。
「呉の兵は真面目で優秀だな……」
  思わず一刀の口から出た言葉に春蘭が言葉を返す。
「何を悠長な事を……」
  実際は一刀が思っている程優秀ではなく、本来思春の指示通り辺りの警戒をしながら国境へ向かっていたら未だ彼等はここには
 居ない筈であった。思春の指示通りならもっと時間が掛っており、彼等は未だ国境付近に居た筈である。思春の指示通り捜索をし
 なかった為、予定より早く国境に着いてしまい、そのまま折り返した為この場で一刀達と出くわしたのだった。この後の事態を考
 えれば只不運だとしか言えない。
  彼等は有無も言わさず一刀達を先に進まさぬ様に包囲する。対した全員が覆面をし、所属を表すものを何も持っていないとなれ
 ばそうする他ない。
「仕方ない、ここはわたしが……」
  春蘭がそう言い終らぬ前に、今迄居なかった者が口を挟んだ。
「貴公等が手を出す事はない。ここは私に任されよ」
  そう言って声の主は己の得物に手を伸ばそうとしていた春蘭の右手を掴んだ。春蘭にすら気配すら感じさせず、彼女の真横に急
 に現れた事に一刀達だけでなく後の兵士達も驚いている。
「何者だ?」
  春蘭の問い掛けに声の主は落ち着いた口調で返した。
「怪しい者ではない……」
  「(いやいや、その現れ方、その出で立ち……怪し過ぎるだろう……)」等と一刀や春蘭以下其の場に居るもの全てが思ったが、
 流石に口に出す者は居なかった。
「我が名は卑弥呼。古き友の頼みにより貴公等に助太刀いたす」
  そう言う卑弥呼に一刀が言葉を返した。
「その申し出、今は有難く受けさせてもらう」
  一刀の言葉を聞いた卑弥呼が視線を一刀に向けた。
「ほう……、いきなりの申し出を躊躇無く受けるとは中々肝が据わって居るな。なるほど、アレが執着するのが判る気がする。それ
 に良く見れば中々に良い男の子ではないか……。では私が道を開く。貴公等はそのままアレが言った手筈通りに」
「了解した。卑弥呼殿、くれぐれも穏便に」
「任されよ」
  そう言ったとたん卑弥呼は一気に呉の兵達との距離を詰める。その卑弥呼の突進に呉の兵士達も身構えるが、交わった瞬間数名
 が空を飛んでいた。そしてそこにぽっかりと穴が出来た。
「行かれよ!」
「恩に着る、卑弥呼殿!」
  そう言って一刀達は卑弥呼の作った穴に馬を走らせる。そんな一刀達を止めようとした兵達を制した卑弥呼が兵の槍を掴んだま
 ま一刀達の後姿を見送っていた。
「ダーリンとは又違う良き男の子との新たな出会い……。そして中々に燃えるこの展開、儂の小さなお胸がドキドキしておるわ」



  そこから先は華蝶仮面二号の言う通り、追手も伏せている兵も無く問題無く国境を越える事が出来た。ここまで来れば幾ら頭に
 きている思春でも追っては来ない。
  そんな状況に安心した一刀が顔の覆面をとった時、何時の間に着替えたのか春蘭は何時も通りの格好に成っていた。
「何だ春蘭。もう着替えちゃったの?」
「あっ、当たり前だ。あんな格好で襄陽に戻って沙和にでも見られたら有る事無い事どんな噂が立つか判らんからな……」
  そんな少し照れたような顔で答えた春蘭。その横に居た部下の一人が不意に横を向いていたが、一刀の気に止まる事はなかった。
「そろそろあいつ達も……」
  そう呟きながら一刀は馬から降りて国境の方に目をやる。その時、ヒュッと風を切るような音と共に貂蝉と卑弥呼が一刀の元に
 降り立った。今は貂蝉も蝶の仮面を外している。
「ご主人さま〜!お久しぶりねん!」
  そう言って貂蝉が一刀に抱き付き頬ずりをしようとする。
「ああ、貂蝉。さっきは危ないところで……!?ええい、問答無用で抱きつくな、懐くな、気持ち悪い」
  そう言って一刀は抱きつこうとする貂蝉を手で制する。そんな事はお構い無しに貂蝉は続けている。暫く続けていたところで卑
 弥呼が仲裁に入った。
「そろそろ止めよ貂蝉。我等には余り時が無いのだからな」
「んもうっ!卑弥呼のイケズ……。私とご主人さまのスキンシップを見て焼もち焼いちゃったの?」
  そう言って貂蝉は意外と素直に一刀から離れ、一刀達の方に向き直した。そして貂蝉の顔を見た春蘭が声を上げた。
「ああっ!お前は!!」
「何?夏侯惇ちゃん……。ダメよ、私の魅力に惹かれても。今の私は身も心もご主人さまのモノ……、出会うのが少し遅かったわね
 ん。嗚呼、同性まで私の魅力で魅了するなんて……、私は罪なオ・ン・ナ」
  そんな貂蝉の小芝居に一刀はうんざりした顔で見ていた。そして貂蝉を指差したまま震えている春蘭に声を掛けた。
「春蘭どうかしたのか?コイツは見た目はこんな奴だがイイ奴だぞ……、春蘭?」
「コイツは前に……」
  春蘭はそう言ったところで一刀を見た瞬間、日の暮れた現在でもはっきり見える程真っ赤な顔になってそれ以上何も話さなく成っ
 てしまった。そんな春蘭を一刀・貂蝉・卑弥呼の三人が不思議そうな顔で見詰めていた。

「で、時が無いってどうしたんだ?こちらでゆっくり出来ないのか?」
  そんな一刀の問いに貂蝉が少し困った様な笑顔で答えた。
「ええ、そうなの。今回はご主人さまの様子をちょっと見に来ただけ……、直ぐに行かないと」
「そうか……、華琳達に紹介したかったんだけどな」
「残念だけどそれは又今度ね」
  そう本当に残念そうに答える貂蝉。そして続けて卑弥呼が話し始めた。
「全てが落ち着くまではもう少し時間が掛りそうなのだ。それにダーリンの様子も見ておきたいのでな」
  卑弥呼の話を聞いた一刀が何か思い出したような顔で答えた。
「ああ、ダーリンって華佗の事だったか、出合ったら宜しく伝えておいてくれ。お前達には世話を掛けるな……、改めて礼を言う」
  そう言って頭を下げようとした一刀を卑弥呼が制した。
「いやいや、これは我等が好きでしている事。貴殿が気に病む事は無い。ダーリンには伝えておく」
  そんな会話をしている二人の間に貂蝉が割って入って来た。
「そう言えばご主人さま、少し話が有るってなあに?」
  貂蝉の言葉を聞いた一刀の顔が険しいものに変わっていく。
「ああ、こちらに俺を送る時安全に送るって言ったよな」
「ええ……」
「じゃあ何で俺はあんな空中に放り出されたんだよ!死ぬかと思ったぞ」
「本当に?」
「ああ」
「空中に?」
「そうだよ!」
  貂蝉は顎に指を当て、卑弥呼は腕を組み考えていた。
「おかしいわね……」
「ふむ、我等はちゃんと洛陽の南三里の地点に送り届けたはずなのだか?」
  それを聞いた一刀はその場で「はぁ?」と一声発した後、だらしなく口を開いたまま脱力していた。
「何で洛陽の南三里が洛陽の遥か北方の空中になるんだよ……、荷物はちゃんと届いたのに……」
  そんな一刀の言葉に、貂蝉はこれ以上無いと言う程の作り笑顔で答えた。
「あら、逆じゃなくて良かったって思わないと。ご主人さまが洛陽の城内で、荷物が空中だったらそれはそれで大変な事に……。ポ
 ジティブシンキングよご主人さま!」
「やかましい!時間が無いんだろ、早く華佗の所に顔を出しに行けよ!」
「もうっ、ご主人さまったら照れちゃって……。大丈夫、私は何時までもご主人さまのモノよ……、うふっ」
「おい、誰が誰のモノだって……?」
  やさぐれた表情の一刀のかなりささくれ立った言葉が貂蝉に向けられる。
「ああん、心配しないでご主人さま、浮気の一つや二つ大目に見るから……。私はそんな小さな事でささくれ立つ様な器の小さなオ
 ンナじゃないから」
「いいから、サッサと行けよ!」
「ううんっ、じゃあ又ねご主人さま。行くわよ卑弥呼」
「おう、では北郷殿又会う日まで壮健でな」
「ああ、今回は助かった。ありがとう」
  礼を言われた卑弥呼が頬を赤らめている。
「(儂には心に決めた男の子が居るのじゃが……、ときめいてしまうの)」
  そんな事を思っている卑弥呼に貂蝉が声を掛ける。
「ちょっとアナタ何をご主人さまを見詰めてるの!早く行くわよ!!」
「ではな、北郷殿」
「ああ」
  そう言って二人は走り出した。そして一瞬で凄まじい速さになるとその先でヒトのモノとは思えぬ掛け声と共に空へと駆け上が
 り、光の尾を引きながら夜空へと消えて言った。
「相変わらず出鱈目な連中だな……」
  その光景を見ながら一刀は呟く。そしてそれを現実として素直に受け入れている自分が不思議でもあった。

「さて……、俺達も襄陽に帰ろう。そろそろ沙和も限界だろうし……」
  そう言って一刀達は襄陽への帰路に就いていった。


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