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917 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2011/09/24(土) 22:36:40 ID:2BSNdpfA0
玄朝秘史第三部第六十回をお送りします。予定より早い分には、まあ、いいでしょう、ということで。

第三部終わりーっ。
今回でようやく時間が序の部分に戻りました。長い回想でありましたw

ついでに、この世界では西暦は流行るはずがないけど、ローマ建国紀元なら使えるとようやく気づいた。

★次回予定
次回、第四部第一回は十月八日に投下予定です。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。
・現状、玄朝秘史の掲載場所は私のサイトとこの外史まとめサイトのみです。投下告知を避難所にて行って
おります。それ以外の場所でのファイル配布などは行っておりません。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

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※転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)



玄朝秘史
 第三部 第六十回



 1.演習


 隊伍堂々行進する兵の列。彼らが持つ槍の穂先が朝の澄んだ空気の中でぎらりと光る。磨き上げられた鎧は鈍い光をたたえ、兵たちの興奮と緊張に染まる顔を照らし出す。
 男はそんな光景を眺めやり、隣に立つ女に問いかけた。
「なあ、稟」
「はい?」
 部隊が集結していくのを彼の隣で確認するように見つめていた軍師は眼鏡を押し上げながら彼の方を向く。
「今日は……新年の天覧演習だよな?」
「そうですね、元日の記念天覧演習です」
 元日は、例年新たな官の人事が発表され、各人が各々の官位を賜る日であるが、なにしろ今年は漢中王、西涼公、仲公、幽公と王侯級の官位が多数出されている。毎年の閲兵式が天覧演習に置き換わるのも頷けるような年であった。
「うん。なら、俺の居場所はあっちじゃないかな?」
 一刀は手を振り、右の方を指す。その示す先には、丘のような地形を模した土盛りの上に設けられた観覧席。まだ時間が早いためそこに人影はないが、尤もな疑問であった。
「ふふっ」
 実に軽やかに笑って、稟は拳を手にあてる。
「大将が観覧席に座っていてどうするのです?」
「いや、参加するなんて聞いてな……大将!? 俺が?」
「はい」
 あまりのことにぽかんと口をあける一刀に対して稟はあくまで冷静に話を続ける。男は一度ぐるりと辺りを見回し、忙しく働く兵たちや、さらに遠巻きに集まりつつある部隊の数々を見て、ようやく動き出す。
「ちょっと待ってよ。春蘭と秋蘭だろ? 大将は」
「秋蘭さまは南皮から戻ってきたばかりですから、華琳様が一刀殿を代わりに立てようと」
「だから、俺は全くそんな話を……」
「昨夜思いつかれたので」
「急だなっ!?」
 思わず大声をあげてしまい、本陣周辺の兵の注目を浴びてしまう。なんでもないと身振りで示して、一刀は別の方、敵方の陣を見やった。
「もう一つ疑問なんだけどな?」
「はい。なんでしょう。この隊の軍師は私の役割ですので、なんでもお訊き下さい」
「うん、それは心強いよ。ありがとう。それでね、なんだか妙な旗が見えるんだけどさ。あっちに」
「ああ、張旗は張飛隊か張勲隊、馬旗は馬岱隊ですね」
「……うん。なんで? ついでにこっちにも白蓮とかいるよね」
 公孫の旗を翻すのは、白馬に乗った集団と、より軽装の精悍な人々。白馬義従と烏桓の混成集団であろう。
「漢中王、西涼公、仲公、幽公、それぞれから参戦していただいているというわけですよ。本来、公の方々は華琳様や帝と共に観覧席最上段を占めるはずなのですが、白蓮殿は、任せられる将がいないというので、ご当人が参加です」
「……そう。それで、あちらは、春蘭、鈴々、凪、蒲公英、七乃でいいのかな? 軍師役は風?」
 多少の動揺を残しつつ、一刀は確認する。まずは状況を把握するのが優先であった。
「その通り。こちらは、一刀殿、私、季衣、流琉、沙和、真桜、白蓮殿という顔ぶれで」
「それって釣り合い取れてるかぁ? 騎馬の部隊は、同程度として、春蘭と鈴々って……。こっちの将が少し多いくらいで止められるのかなあ」
「春蘭さまはともかく、燕人張飛がねじこまれたのは、貴殿の事情だとか伺っていますが……。たしか、一度は他の蜀将に決まっていたはず」
「え?」
 意外な言葉に、稟のほうを向く動きが大げさなものになってしまう一刀。一方で、稟はあくまで淡々と続けていた。
「遺恨をそのままにしてはいけないとかなんとか。なにかは知りませんが」
 一刀は改めて、自陣の周囲の旗を確認する。そして、小さく息を吐いた。その顔つきは、妙に嬉しそうでもあった。
「まったく……華琳も気を遣ってくれちゃって」
 季衣と鈴々、そして、一刀との話をどこからか聞きつけて、この場を設けたということだろう。いきなり演習に放り込むのは乱暴だが、華琳らしいとも言えた。あるいは、武人にはその武を披露する場でなにか示すのが手っ取り早いと、そう言いたいのかも知れない。
 この状況を利するのも、無難にこなすのも、彼次第。
「なあ、稟」
「はい?」
「これって勝ってもいいんだよな?」
 突然、妙に気合いの入った言葉が飛び出たことに驚きもせず、彼女は唇の端をわずかにつりあげた。
「ええ、もちろん」
 不敵な表情を張り付け、彼女はそう頷くのだった。

「で、たいちょ、どういう感じにするん? まだ白蓮はんは来てへんけど、部隊は揃ってるで」
 まずは兵を整列させた後、華琳たちお偉方が現れる前に、今回一刀配下となる将たちが集まってきた。その中で、真桜が最初に彼に指揮の方針を仰ぐ。
「まず、色々と確認しなおす」
 一刀が落ち着いた声でそう言うと、居並ぶ将はどこか安心したように頷いた。彼女たちとて、いかに気心の知れた相手とはいえ、急に指揮官が替わって多少の不安はあったのかもしれない。
「華琳たちがあの観覧席に入って開始の合図があったところで、お互い十里下がって部隊を展開、もう一度合図があったら進軍開始。これでいいんだよな?」
「はい。ただし本陣は、十里以上下がってはいけません。観覧の関係上、出来ることなら、五里程度前進するのを推奨されていますが、前進は強制ではありません」
「つまり、本陣が逃げ出すようなのはだめ、と」
 段取りを確認し、一刀は考える。これは、ただの演習ではなく、見せるための演習だ。自ずと現実の戦場とは条件が変わってくる。
『あくまで、規則の中でどう競うか、よ』
 一刀は頭の中でそんなことを囁く華琳の幻に皮肉っぽく微笑んで、思考を巡らせる。
 見せるため、といっても、実際に観覧席から戦場の全てが見渡せるわけではないし、その必要もない。こちらからの報告に基づいて、桂花あたりが図上で模型を動かし、皆の前で軍の動きを解説する役割を果たすはずだ。
 観覧席から見えないところで動いたとしても、図上で再現したとき鮮やかな作戦機動であるならば、それは演習の目的に合致する。
「軍の編成は?」
 彼は一度考えを脇に置き、稟に問うた。周囲の諸将も真剣な面持ちで彼女を見つめる。
「各軍、一万。そのうち騎兵が二千。歩兵の割り振りは自由です。ですが、我が方には親衛隊二千が配属されています。春蘭さまが指揮するとなれば、あちらの軍の士気は自ずと上がります。親衛隊投入で、そのあたりの釣り合いを取るということで」
「騎兵はそれぞれ白蓮さんと蒲公英さんが指揮するとして……。あちらの割り振りはどういう感じなのでしょうか?」
「流琉はどう考えます?」
 訊ねたはずが訊ね返され、流琉は慌てて考える。
「え? ええと、その、春蘭さま三千、凪さん二千五百、鈴々さん二千五百くらい……ですかね?」
「妥当なところでしょう」
 うん、と大きく頷く稟。その様子に流琉はほっと体の力を抜いた。
「しかし、私はもっと異なる可能性を考えています」
 皆の注目を浴び、稟は言葉を続ける。
「本陣に楽進隊二千を残し、夏侯惇隊、張飛隊、馬岱隊、あわせて八千で、こちらに突撃を敢行。その時の編成は、先陣の張飛隊二千、夏侯惇隊四千」
 大胆な稟の見通しに、誰もが息を呑む。しかし、ある意味で春蘭の無茶になれている諸将は立ち直るのも早かった。
「無茶苦茶なのー。でも、それだと、沙和たちが普通に部隊指揮してたら、春蘭さまの隊の止めようがないかも。案外いけてる策?」
「春蘭さまだしねえ。風ちゃんも、こういう催しだと、基本、楽しければいいって感じだし……」
 沙和と季衣が顔を見合わせ、しかたないとでも言いたげに感想を述べる。たしかに、鈴々と春蘭が大軍を率いて突っ込んで来たら、その破壊力は計り知れない。
「そう。風は天覧演習ということを重視して、見栄えのよい策を取ろうとするでしょう。それが春蘭さまの思惑と合致すると……というのが我が読み」
「ふうむ……」
 兵数が同数である以上、極端な有利不利は作りがたい。あえてそれを指向しない限り。
 しかし、春蘭ならば、風ならばやるかもしれないという稟の言は一刀にとっても納得いくものであった。
 一刀はしばし腕を組んで動きを止めていたが、季衣と流琉の二人に向き直った。
「なあ、季衣、流琉」
「なあに、兄ちゃん」
「はい、兄様」
 打てば響くとはこのことか、という反応で、二人は元気に答える。一刀は淡く微笑みながら、彼女たちに訊ねた。
「俺を守ってくれるかい?」
「もちろんだよ!」
「全力で」
 気負いと誇りと興奮と、そして、来たる戦闘への期待。すべてがないまぜになった表情で、彼女たちは約束する。
 男は、それを信じた。
「よし。相手は春蘭、鈴々、凪と手強い連中が揃ってる。だけど、そこで守りに入ったら、負けだ。ここは攻める戦をする」
「望むところです。細かい策はお任せあれ」
「おっしゃ、いっちょやったろかー!」
「凪ちゃんたちを驚かせちゃうのー!」
 口々に吼え、彼女たちは戦を始める。


 2.反転


 演習開始後、春蘭は騎兵全員を含めた八千五百の兵を引き連れて、一刀たちの陣に向けて進軍を始めた。
 五百の差はあれど、ほぼ稟の予測通りであった。
 しかし、前方に放った物見からの報告を受けると、春蘭始め将たちはいずれも動揺した。
「なに? 敵の本陣が消えた?」
「どこに行ったやら。少なくともまっすぐ前方にはいませんねー」
 複数の報告を総合して、風がのんびりと告げる。すでにそんな態度に慣れている春蘭はともかく、鈴々は少々いらだっているようでもあった。
「むー! 逃げちゃったのか?」
「いやー、さすがにそれはないでしょ。偵察も開始後からしかできなかったから、その隙にどこかに移動したんだと思うよ。陣を動かすのは禁止じゃないんだし、斜め前に出してたら、こっちに気づかれず動けたかもしれないよね?」
 憤然と言う鈴々をなだめるように馬上の蒲公英が言い、ひょいっと鞍の上に立って、辺りを見回す。手綱を支えに危なげなく立つ様はさすがであった。
「うーん、さすがに見えないか。なんもなければ見えるんだろうけどなー」
 演習場は都の郊外に設定されているが、所々にずっと昔に廃棄された邑や、以前の演習で用いられた柵などが放置されたままになっている。作戦活動を行う上で様々な状況を再現するため、あえて放っておかれているのだ。
 それらが彼女の視界を遮り、草原育ちの目も相手の陣をとらえることはできなかった。
「動かしたというのはありそうな話だ。北郷はどうも変なことを考えつきやすいしな。よし、ともかく、八方に偵察を出す」
 大将たる春蘭の命による再度の偵察隊の派遣は、ある意味で空しい結果となった。ほとんどの者は対象を見つけることが出来ず、進軍方向右手側――南方に向かった隊はいつまでたっても帰ってこなかったためである。
「あちらか……よし、すぐに向かうぞ」
「じゃ、たんぽぽたちが先に様子を探っておくね」
 部下たちに合図し、蒲公英も馬首を巡らせる。それを見て、春蘭は獰猛な笑みを浮かべた。
「うむ。いけそうなら一当てして、相手の出鼻をくじいておいてくれ」
「了解だよーっ!」
 元気よく応じて、蒲公英はじめ、西涼の騎馬隊は走り去るのだった。
 結果として、蒲公英は一刀たちの陣を視認したものの、それにちょっかいを出すようなことは出来なかった。
「あやー、おにーさん、どれだけ本気ですか……」
 本隊に先んじて呼ばれた風があきれ顔で漏らす。その視線の先には、急ごしらえながら堅牢な防御陣地があった。ゆるやかな曲線を描いて掘られた空堀と、その土を利用して築かれた土塁。堀はせいぜいが人の腰あたりまでの深さでしかないが、幅は人の背丈ほどもあり、土塁は人の肩ほどの高さがあった。
「これ、ぐるっと?」
「うん。っていっても円を描いてるんじゃなくて、三角形かな。へこんだ三角。角のところは、ちょっと拡張されてるよ」
 風を前に乗せて、蒲公英はゆっくりと馬を進める。相手の矢が届かないところを、彼女たちはぐるりと巡る予定であった。当たれば死亡扱いになるし、鏃の代わりに先を布で丸めた矢とはいえ、当たれば痛い。
「堀の深さはそれほどでもないけど、あの土手とあわせて馬の足は止められちゃうよね。兵も足止めされたら、その間に上から槍で突かれるし……。まあ、その分、あっちから打って出てくるのは難しいかもしれないけど」
 蒲公英が難しそうに唸る間、風は陣をさらに観察している。三角形の頂点となる部分はより深い堀が設けられ、土塁もさらに高く盛り上げられて、櫓として築かれているようであった。そして、蒲公英が言うとおり、全体としては辺の部分がへこんだ三角形を成している。
「へこんでるのは、どの部分に敵がかかってきても、矢を射かけやすいようにですか。考えましたね、おにーさん」
「しっかし、すごいよねー。さすがは魏軍って感じ?」
 蒲公英の称賛は、しかし、風の苦笑いで迎えられた。
「いえいえー、さすがに短時間でこれだけのことが出来るのは、魏軍でも限られてきますよ。今回は、真桜ちゃんと沙和ちゃんがいたのが原因でしょうね」
 真桜の土木技術はおそらく大陸一だし、沙和は兵を奮起させるのにかけては、魏軍の中でもかなりのものだ。この二人が本気を出したとすれば、目の前の陣地の有様は理解出来る。問題は、彼女たちを本当の意味で本気に追い込むのが大変なことであるが、そこは一刀がなんとかしたのだろう、と風は語る。
 そこまで演習でやるおにーさんの気合いの入りようが一番の驚きですよ、と彼女は笑った。
「ただ……全軍は入りませんね、この陣地」
 一巡した後、風は呟いた。外から見ていると、兵の頭が土塁の上から時折覗くだけで、詳しくはうかがい知れない。だが、その面積から考えて、一万の兵と馬二千を収容出来るとは思えなかった。
「んー? ああ、そうかも。じゃあ、ここにたんぽぽたちをひきつけておいて、本陣を陥とすつもりってこと?」
 こくり、と風は頷く。蒲公英からその表情は見えなかったが、なんだか頭の上の宝ャの揺れ方が常とは微妙に違うような気がしていた。
「これはまずいかもしれませんねー」
 彼女の言葉には、わずかに焦りの色があるように聞こえた。

「ふむ。それで、風はどうすべきだと思うのだ?」
 やってくる本隊を待つことなく、風と蒲公英、それに麾下の西涼騎兵はわずかな見張りだけを残して元来た道を引き返していた。本隊と合流し、それまでよりはゆるやかに敵陣に向かいつつ、将たちは馬上で軍議を行う。
 そこで、本陣には限られた兵しかおらず――風の見立てでは、多くて五千――既に別の部隊が攻撃に出ているであろうことや、陣地の状況を風は説明する。
「いずれにせよ、あの陣地攻略に騎馬の兵は役に立ちませんよー。蒲公英ちゃんはこのまま本陣に取って返すべきでしょーね。春蘭さまたち本隊が選択できる道は二つ。一つはこのまま大兵力であの陣地を叩き潰すこと。もう一つは、兵を戻し、相手の攻撃部隊を粉砕した後、ゆっくりと陣地攻略にとりかかるやり方ですね」
「でもでも、蒲公英たちはともかく、歩兵がおいつけるのかー?」
「本陣を風たちに見つからないようずらしておいたやり方から考えて、敵の攻撃部隊はかなりの遠回りをして本陣に向かっているはず。いまからまっすぐ戻れば間に合うでしょう」
 鈴々がぶんぶんと手を振って問いかけるのに、風は空中に指で相手方の軍の予想される動きを描いてみせる。土煙を立てて移動する軍を隠すとなれば、それなりに距離が必要となる。彼女の予想も尤もであった。
「それで、どうするのだー?」
 鈴々は既に見え始めている敵陣と、何ごとか考えているらしい春蘭の顔を見比べて訊ねる。春蘭は首を一振りして、黒髪を背にゆらした後で、呵呵と笑った。
「風、お前、どちらかといえば後者がいいと思っているのだろう?」
「ええ、まあ。風は臆病ですからねー」
「私が呑むと思ったか?」
「まー、なんというか、風も軍師っぽいことしておかないとまずいですし?」
 魏軍の二人の遣り取りを、蒲公英と鈴々は目を丸くして見つめている。どこでどう意思疎通が成ったのか、風と春蘭は揃って意地の悪い笑みを見せた。
「よし、決めた!」
 途端、春蘭の乗った馬が、蒲公英たちの脇をすり抜け、兵の群れもすいすいと縫って、先頭へと走り出す。
「蒲公英、本陣を頼むぞ! 私は、このまま北郷の陣を一呑みにしてくれる!」
 いつの間にか抜いていた七星餓狼を高々と振り上げて春蘭は宣言する。直轄の兵たちが鬨の声を上げ、春蘭が走り出すのに合わせて、突撃を開始する。
「要は、相手より先に陥とせばいいのだ!」
 その声に、鈴々も嬉々として従って走り始めた。


 3.衝突


 演習場にいる兵たちと異なり、観覧席の面々は高い場所にいることもあって、戦場の有様をよく見渡すことが出来た。また、位置的な問題のみならず、参加していないが故の気軽さで、視界が広がっていたこともあるだろう。
 だから、翠は白蓮が開始後に移動して潜んでいる場所を知っていたし、蒲公英の部隊が向きを変え、自陣に戻ろうとするその行く手に、まさに白蓮たちが横合いから襲うのに適した場所があることもわかっていた。
「あー、もう、そこでそのまま戻ったら敵の思うつぼだろ、蒲公英ーっ!」
 頭を抱え、栗色の髪を振る西涼公を不思議そうに眺めるのは、横に座る仲公――心配性の七乃に無闇矢鱈と重ね着をさせられているせいで、まるで膨れたぬいぐるみのようになって椅子に座っている美羽だ。
「しかし、どちらが勝つかはまだわからぬであろ? 西涼騎兵と白馬義従、いずれもすばらしい騎兵じゃと聞くぞ?」
 横を向くだけでもうんしょうんしょと声をかけながら、美羽は訊ねかける。声をかけられて、その様子を見てしまった翠は笑いを誘われつつ、顔をあげた。
「そんなの関係ないんだよ。そりゃ、蒲公英と白蓮でやりあって、蒲公英に勝って欲しいとは思うけど、やりあう時点で蒲公英は大負けなんだよ」
「なんでじゃ?」
「わかんないのか? あそこで白蓮とやりあったら、勝てたとしても、間違いなく半数は喰われる。いや、下手したら、勝っても数十しか残らないとかありえるな。白馬義従は強いし。それでな、それだけ減らされたら、本陣に加勢するっていう元々の目的からは脱落なんだよ」
「ほー……。つまり、あそこで白馬義従に捕まってしまったら、それで終わりなのかや?」
 なんとか翠の言葉を理解したらしい美羽は、小首をかしげようとして、髪がひっかかって奇妙な姿勢になってしまっていた。
「戦場全体からしたらそうなるな。兵を温存できたとしても、足止めされたら……」
 大きく手を広げ肩をすくめる翠。はああ、と彼女は大きくため息を吐いた。
「今回はしかたないでしょう」
 少し離れた席で朝廷の大官たちと言葉を交わしていた――というより、幾人かの人物に絡まれていた――金髪の覇王が、人を振り切って、二人に近づいてきた。
「それに、白馬義従と烏桓突騎、西涼騎兵の激突は期待されているものよ」
「まあ、それはわかってるけど」
 ぶすっとした顔で、翠は華琳に答える。その様と、必死で絡みついた髪を取ろうとしている美羽の姿を見て、華琳は鈴のように喉を鳴らす。
「蒲公英と白蓮には見所を提供してもらう。それでいいのじゃないかしら。戦場全体の流れについては、先に攻めた春蘭側が後手に回ってしまっているのが痛いわね」
 すすっと音もなく近寄ってきた桂花が、華琳の言葉を補足するように続けた。
「しかし、西涼の部隊を戻し、北郷の陣を攻めた春蘭の判断も責められるべきものではありません。騎兵のようにいつでも素早く行き先を変えることを要求される兵種と違って、歩兵は一度来た場所に戻すとなると、それだけで士気が落ちます。人間、誰しも無駄なことをさせられたと思えば、気合いが抜けるもの。精兵たる我が魏の兵でそれを表に出す者はいないでしょうが、どこか緩む部分が出て来る。それを、あの女は膚でわかっているのでしょう」
「んー、まあ、それはあたしも理解してるけどさー。それにしても……」
 蒲公英の不用心さが気にくわないのだろう。翠はまだ不機嫌な様子であった。見えている者には自明であっても、当人にはわからないことというものはあるものだ。実際、蒲公英とて通常の偵察は出している。ただ、それが自陣側――目指す場所――に偏っているため、白蓮の部隊は補足されないだけで。
「だいたい、あっさりとあの莫迦の陣が破られることだってありえるわよ?」
 ふふん、と桂花は鼻を鳴らす。その得意げな表情はともかく、言っている内容には同意なのか、華琳も小さくそれに頷いた。
「ん? どういうことじゃ?」
 ようやくゆったりと曲線を描く髪の毛を服から引っ張り出せた美羽が眼を細めて一刀の陣を見る。それで兵の数が計れるわけもないと知っている桂花は薄く笑った。
「あの万年発情男、かなりの兵を敵陣に向けてるのよ。自陣にいるのは、三千、いえ、二千五百程度かしら。たぶん、風も予想してないくらい少ないわよ」
「そうね。その程度でしょう。春蘭と鈴々の突撃を止めるには、心許ない数ね」
「んー? 一刀殿は時間稼ぎに徹する気だろ? 堀と土塁まで組んでるんだし」
 桂花と華琳の話を聞いて、翠が疑問を口にする。桂花はこれにもあっさり答えた。
「城を攻めるには三倍の兵力というけれど、下手をしたら、その条件は既に満たしているし、そうでなくても、堅城でもないただの土の陣なら、倍で十分。まして蜀のちびっ子とうちの暴力女の突破力は決して侮れるものじゃないわ」
「ふむ。結局は読めぬというわけじゃな」
「そうね。そして、うまくいったほうの騎兵は、自軍のために時間稼ぎが出来たと評価されるわけ。実際のぶつかりあいとはまた別に」
 華琳は演習を行う兵たちを眺めながら、近くに用意されている杯を手に取りかけ、しかし、なにかに気づいたようにそれを戻した。
「さて、どうなることやら」
 直前の奇妙な行動をごまかすでもなく、彼女は楽しげにそう呟くのだった。


「はぁーはっはっは! 大層な堀を掘ったものだが、一箇所でも埋められれば役に立つまい。悔しかったら止めてみろーっ」
 春蘭は、一つの辺にびっしりと兵を張り付け、土塁の陰から攻撃してくる一刀側の兵たちと交戦しつつ、ある一箇所――彼女が大剣を振るう背後――で堀を埋めるという作戦に出ることにした。当然ながら、発案は風である。
 これにはまず春蘭が突出し、敵の将を誘って指揮を弱体化させる必要がある。敵の兵が乱れてこそ、自軍の側は安心して堀を埋められるというものだ。
 だから、まず、彼女は空堀を走り抜けて土塁に飛び移り、七星餓狼をふるって挑戦の雄叫びをあげたのだ。
「おっしゃ、止めたるでーっ!」
 ぎゅるぎゅると回転する刃の音を響かせて突き出されたのは、螺旋槍。全てを掘り抜き、天をも衝く巨大な螺旋。
「はっは、真桜一人で私を止められるか?」
 相変わらず露出の激しい格好で螺旋槍を上に突き出す真桜を見下ろして、春蘭はがっちりと大剣で相手の得物を受け止める。彼女と沙和が部隊を指揮しているのは見ていたから、この攻撃は予想されていたものであった。
「いやー、さすがに無理ですわー」
「ならば、どうする。さっさと沙和を呼ぶがいい」
 回転する刃を軽々と弾き返しながら、春蘭は挑発する。だが、真桜は涼しい顔で打ち込みを続けた。
「んー、沙和と二人がかりでも無理やろなあ。せやから……」
「なに?」
 春蘭が聞き返したところで、螺旋槍が三度突き上がる。さすがにその質量に耐えられず、七星餓狼が弾かれたところに、巨大な円盤が飛来した。太極を示す図の描かれた大円盤こそ伝磁葉々。
「私が止めますっ!」
「なんとっ! 流琉まで残っていたのか!」
 なんとか円盤も受け止めたものの、さすがの攻勢に体勢を崩し、突き固められた土を踏みしめながら、彼女はただ一つ残った瞳を見開く。
「流琉、沙和、真桜だと!? これは!」
 二人の武器を受けながら発した言葉は、驚愕に彩られていた。
 一方、同じ頃、春蘭側本陣では、二人の武将が辺りに目を配りながら、言葉を交わしていた。
「ねえ、凪さん」
「なんですか、七乃さん」
 二人は、こんもりとした丘のような地形の頂上に立ち、周囲を見回している。一刀たちが地形を自ら変えたのに対して、凪たちは己に有利な地形を探し当て、利用していた。
「この本陣の旗を奪われたら負けなんですよね?」
 二人の背後に立つ旗は、字は書かれておらず、ただ青に染まっていた。これが、今回の勝敗を決めるものであった。
「そうですね。さすがに春蘭さまから旗を奪えというのでは、演習自体勝ちが無くなってしまいますし」
「まあ、それはそうですねー。でも、さすがに手薄じゃないですかね。本陣」
「春蘭さまが隊長の旗をもぎ取るまで耐えればいいわけですから」
 七乃の心配に、凪は苦笑する。本陣の責任者として任じられた彼女としても、兵力が少ないことは重々承知していたが、春蘭の武力もまたよくわかっていた。対する一刀がどう出るかはわからないが、春蘭に四千もの兵を与えれば、生半可なことでは止まらないという確信が、本陣の寡兵を容認させているのだった。
「理論的にはわかるんですけどねー。そりゃ、大軍で一気に攻めるのが早いのは当たり前ですし」
 それでも納得しそうにない七乃の声に答えて、凪はさらに続ける。
「それとですね。隊長は慎重なんですよ」
「ああ、そうかもしれませんね。一刀さんは偵察とかよくやる印象かも」
「だから、春蘭さまの兵力を見誤ることはないと思うんです」
 さすがに一刀なら、八千五百の兵を見逃すことはないだろう。そうであるならば、まず防御を重視するはずだ。こちらに割く兵は、それほど多くあるまい。凪はそう確信していた。
 だが、凪の予想はその視界に現れた敵軍の姿によって、あっさりと覆された。
「む、むう」
 それを見つけた時に漏れた凪の声がそれを如実に表している。彼女は、焦っていた。
「予想以上に兵が多いですね」
 淡々と告げるように見える七乃の声も、実に低い。彼女が見るところ、そこには五千を超す兵が進軍してきているように見えたからであったろうか。
「はい……。それより……旗が見えない?」
「見えないですねえ?」
 そう、その部隊には旗が見えない。
 一刀であれば十の旗、他の者であってもそれぞれの旗を示しているはずだ。いかに急な指名であった一刀といえど、洛陽の倉庫には十の旗の用意は存分にある。それなのに、彼らは旗を掲げていない。
 否、一つだけ。
 部隊の中央にぽつんと翻る、小さな旗がある。
「あれは……稟さま!」
 そう、そこに翻るのは、郭の旗、音律でも奏でるように部隊を操る軍師がそこにいた。
「さあ、郭奉孝の戦を始めましょう」
 稟は眼鏡を押し上げて、その表情を隠す。
 そして、凪が稟の姿を目にした頃。
 鈴々も風の助言に従い、春蘭と同じ作戦をとっていたが、こちらでは部隊の指揮を執るのは一刀であり、鈴々の丈八蛇矛を受け止めるのは、巨大な鉄球であった。
「へっへーん。兄ちゃんには指一本触れさせないかんねー、ちびっ子!」
「がー、邪魔するな、春巻き!」
 蛇矛を土塁の壁に突き刺し、それを使って土塁の上に立つに至った鈴々は、左右上下から襲ってくる鉄球を弾き返していた。岩打武反魔を放つ季衣は土塁の下にいて、下方から鉄球を打ち上げてくるのだが、彼女は手元の鎖を器用に操ってその挙動を変化させていた。下方向から来るはずの鉄球が、時に鎖が伸びて上方から襲い、時に鎖がたわんで斜め右からやってくる。
 そんな変則的な動きを、鈴々は持ち前の運動能力と勘ではじき返し、さらにその合間に攻撃を織り込んでいく。
 それでも、足場の確かさで言えば、鈴々のほうが危うい。二人の技倆差はそこに吸収されていた。
「むー。ちゃんと戦えなのだ」
「戦ってるよーだ!」
 丈八蛇矛に鎖を絡ませ、鉄球を絡め取ろうとする動きに、季衣は抵抗しない。かえって蛇矛と鉄球が共に鈴々の重しになるのを歓迎するように笑みを浮かべた。それを一瞬早くかぎつけ、鈴々は丈八蛇矛を引く。鎖が蛇矛の表面をこすり、きゅるきゅると嫌な音を立てた。
「なんのつもりなのだ?」
「なにって?」
 ぶうんと音を鳴らして季衣は岩打武反魔を振り、自らの手元に戻す。
「なんで、引き延ばすのだ?」
 鈴々はいぶかしむように訊ねる。その蛇矛もどこか頼りなげに揺れていた。季衣はそれを聞いて、しばらくの間考えるようにしていたが、ふと思い出したように手首を返し、大鉄球を放り投げた。
 突然のことながら、鈴々は十分にそれに反応し、自らのはるか手前で鉄球を打ち落とす。
「だって」
 季衣は自分の得物が弾かれたことなど意に介さず、結い上げた赤毛を振って、軽やかに笑った。
「これが、ボクの戦い方だもん」
 その時、冬空に、白い煙が上がった。三本の煙の塔が天空に描き出され、決着がついたことを周囲に明らかにする。
 誰もが、その煙を見上げた。
 ある者は呆然と、ある者は喜びをもって。
 天覧演習は、終わったのだった。


 4.本当


 杯が回る。
 既にどの杯に誰が口をつけたのかなどまるでわからなくなり、ただ、酒が満たされた杯に手が伸びる。伸びる手は四本。杯は、その倍ほどの数もある。酒瓶も幾種類か転がっているところを見ると、注がれている酒が違うのかもしれない。
「いやあ、正月はいいのう」
「いくらお酒を飲んでいても文句を言われませんものね」
「ふん。文句を言われようが、いつでも飲んでいるだろうに」
「つきあいで飲まねばならぬのがちと面倒か。去年はまだ千年が乳離れしておらなんだ」
「ああ、それは大変よね」
 人の話を聞いているのかいないのか、会話なのかそうでないのかよくわからない言葉の応酬。ある者は舐めるように、ある者はかぱかぱと杯を呷り、酒を飲む。
 そんな部屋の戸を叩く者がいる。
「どちらさまかしら?」
 千鳥足というにはまだしっかりとした足取りで部屋の主が向かい、空けてみれば、そこにいたのは、赤髪に虎の飾りをつけた少女であった。体の前に大きな瓶を抱えている。
「桔梗がここにいるって聞いて、お酒をもってきたのだ」
 その言葉に室内の四人がそれぞれに笑みを浮かべる。実に嬉しそうなのが三人。またかとでも言いたげなものが一人。
「酒を? それはありがたいのう」
「でも、どうしたの鈴々ちゃん? 桃香様からの下さりものかしら?」
 これは喜んでいる側の二人。近づいてきた桔梗と紫苑の大迫力の体に挟まれて、鈴々は目を白黒させる。なにしろ、はちきれんばかりの乳房が目の前で四つも揺れているのだ。その様子を卓についたまま微笑んで見ているのは、赤い鬼面の女と、この中では妙に膚が出ている衣装の女。祭と華雄であった。
「ううん。今日の演習のことで……」
 鈴々のこの言葉が、桔梗に渋面を作らせる。
「ふん。あれしきのことで、気を遣うな。そもそも、口を挟んできたのは主ではなく、魏側であろう」
 当初新たな漢中王配下として参戦を予定されていたのは桔梗であった。しかし、前日になって鈴々に替えてくれと要請が来ていた。そのことを気にしたのだとしたら、気の遣いすぎというものだ。
「うん。その華琳からお詫びにってお酒が届いたのだ。それで、鈴々が桔梗に持っていってやるのがいいってお姉ちゃんたちが言うのだ」
 鈴々が自分の顔より大きな瓶を持ち上げて言うのに、桔梗は相好を崩してそれを受け取る。
「おお、おお。華琳殿からの遣わしものか。ならば遠慮のういただいておくとしよう」
 舌なめずりせんばかりの勢いでその瓶を持って卓に戻る桔梗とは対照的に、鈴々は再び戸の方へ向かう。それを見て紫苑が首を傾げた。
「あら、鈴々ちゃん、どこへ行くの?」
「ん? 部屋に戻ろうかなって」
「なにか用事でもあるのか?」
「ううん。ないよ。あとは寝るくらい」
 華雄の問いかけに首を振る鈴々。それに対して皆が破顔した。
「ならば、そう急いで去る必要もないじゃろ。のう」
「そうよ、そうよ。せっかくの差し入れ。鈴々も味わっていけぃ」
「わかったのだ」
 そういうことになった。

「ちょっといい?」
 鈴々がそう切り出したのは、華琳からの酒を皆で味わい、そのすばらしさを褒め称えるのが一段落した頃であった。よい酒が入って上機嫌な四人に、鈴々はおずおずと当たる。
「なにかしら?」
「相談があるのだ」
 ふっと華雄が笑う。それは鈴々の言い出す様子があまりに深刻に見えたからかもしれない。
「この酔っ払いどもにか?」
「お主も一緒じゃろが、この華雄め」
「なんだ、その言いぐさは。罵倒を思いつかぬほど耄碌したか」
「なんじゃと。お主、儂とそう変わらぬではないか」
「ふんっ。文台と競っていた頃の私を忘れたのか。幼子のようなものだったではないか」
「おお、おお、そうじゃったそうじゃった。随分早熟で、後は衰えるばかりであったのう」
「ほう、いまの私を試してみるか? ん?」
「おう?」
 ごりごりと音をたてそうな勢いで額と仮面をつきあわせはじめる二人の姿に呆気にとられる鈴々。その耳に小さく囁いたのは紫苑であった。
「あの二人はいつもああなのよ。気にしないでね」
「……蒲公英と焔耶みたいなもの?」
「そうそう」
 くすくすと笑って、彼女は姿勢を戻す。その頃には桔梗が一声かけ、あっさりと華雄と祭は元の椅子に戻っていた。
「ええと、いいのか?」
「ええ、どうぞ」
 他が口を挟まぬうちに紫苑に促され、鈴々は話し出す。格闘大会をきっかけに季衣と喧嘩をしていたこと、それは一刀の仲裁によって解消したものの、その一刀に一方的に文句を言うような形になったこと。そのこと自体については謝りたいものの、疑問が残っていること。そんなことを。
「なにやら、謝りに行く勇気が出ぬとかいう単純な話ではなさそうじゃの」
「んーとね」
 祭がひとまずまとめるように言うのに、鈴々は考え考え答える。
「春巻きの戦い方ってのを、お兄ちゃんは説明してくれたのだ」
 それについて、鈴々は――彼女とは相容れぬものであることもあって――うまく説明できていなかったが、経験豊富な四人は難なく理解していた。
「それで、今日の演習で、実地で示してくれたと思うのだ」
 ああ、と誰かが漏らす。それで桔梗と鈴々が入れ替わり、一刀が急遽抜擢されたのか、と。その事情まで鈴々が察しているかどうかは四人にはわからない。
「鈴々にはあんな戦いは出来ないのだ。時間稼ぎをするなら、もっとやり方があると思うし……」
「それはそうだろうな。そもそも得物も違う。あの鉄球は兵をなぎ払い、安全地帯を作り上げるためにこそある。個人と武技を競うためには不向きだ」
「あるいは、敵を絡め取るため、じゃな」
 華雄と祭が杯を傾けながら言うのに、鈴々は頷く。二人のように冷静に分析は出来ずとも、自分とは違うやり方というのを意識させられたのは間違いなかったから。
「なんというか、鈴々にはわからないものだけど、違うんだってのはわかったのだ。それって、お兄ちゃんが本当のことを言ってたってことだよね?」
「そうなるわね」
「そもそも、あの方がお主相手にわざわざ嘘をつくようなことはあるまいがな」
 紫苑と桔梗の言にも、鈴々は頷く。今度の頷きは、さっきよりも重々しいもののように、皆には見えた。
「で、ね」
 彼女はうつむき、表情を隠して続ける。
「そうだとしたら、鈴々がお兄ちゃんにぶーぶー言ってたもう一つも、お兄ちゃん、間違ってなかったのかなって、そう思って」
「もう一つというと、なんでも認めてしまうのはどうか、というお話だったかしら」
「うん」
 鈴々は勢い込んで言った。
「だって、本当と嘘は違うはずなのだ。本当がいくつもあったら……おかしいのだ」
 四人の大人たちは顔を見合わせる。誰もが複雑な表情をしていた。けして鈴々を莫迦にするというのではなく、けれど、どう答えていいのかわからないというように。
「ええとね、鈴々ちゃん。それはとっても難しい話で……」
 恐る恐るという風に言い出す紫苑。まるで壊れ物に触れるかのような仕草で宙に指をさまよわせながら、彼女は優しい声で鈴々に語りかけようとした。
「いや、待て紫苑」
 だが、鋭い声でそれを遮った者がいる。仮面の奥で瞳を爛々と燃やす祭が手をあげて紫苑を制していた。
「子供だと侮ってはならん。いや、子供だからこそ、ごまかしてはならんぞ」
「……そうですわね」
 紫苑はどうぞ、という風に仕草で示し、頭を下げる。それを聞いていた鈴々が顔をあげた。
「うー、鈴々は大人なのだ」
「ならば、話を聞け」
 鈴々の幼い反発をばっさりと切り捨て、祭は身を乗り出す。その体が、急に膨れあがったような感覚を覚える鈴々。ここに丈八蛇矛があれば、きっとその柄を握っていたことだろう。
「よいか、鈴々。『人を殺してはならん』というのは正しいか?」
「う、うん。無闇にしちゃいけないのだ」
 それまでの落ち着いたというよりはだらけた態度から突然に迫力を増した際に、鈴々は圧倒されつつ答える。
「じゃが、儂らは人殺しじゃ。揃って人殺しじゃ。この宮殿にいる者のほとんどは人殺しじゃ。旦那様も人殺しじゃ。桃香殿とて戦を命じている以上、人殺しじゃ」
「それは……でも……」
 鈴々の反駁を待って、仮面の女は一度口を閉じる。しかし、困ったような表情の少女はそれ以上続けられなかった。
「では、儂らは悪か?
 それとも、悪人相手ならよいのか? 敵ならば善人であろうとよいのか? 喰うためならばよいのか? 生きるためなら許されるか?
 どこから本当でどこからが嘘じゃ?
 悪人を生かしておいてよいのか? 人を殺してはいけないという『本当』を守るために、むごい行いをする獣どもを生かす『嘘』を重ねるのは、果たして義か?
 なにが嘘でなにが本当じゃ?」
 一気にまくしたて、祭は体を戻す。どさり、とその尻が椅子に納まった。
「祭殿の言、どう思う、鈴々よ」
 黙ったままの鈴々に促すように、桔梗が声をかける。しかし、彼女はそれからもしばらく黙った後、結局、ため息のように言った。
「……みんなは、どう、思うのだ?」
「答えはあるかもしれんが、それはお前には意味のないものだろうな」
 肩をすくめて華雄が言い、
「わからんから訊いたのじゃ」
 無念だとでも言うように祭が天を仰ぎ、
「鈴々が教えてくれればよかったのだがな」
 これも残念そうに、桔梗が漏らし、
「わたくしには答えられませんわ」
 と悲しそうに紫苑が締めくくった。
 沈黙が落ちる。
 泣きそうな顔で四人の顔を見比べている鈴々。拒絶するでもなく、ただ、黙ってそれを見守っている大人たち。
 結局、鈴々が再び顔をうつむける前に、祭が声をかけた。
「儂らも答えは知らん。ただ、己が選ぶべき行動については知っておる。儂は悪人ならば、殺す」
「主命が下れば、殺す」
「殺すべき敵ならば、殺す」
「璃々の未来を汚す者は、殺しますわ」
 四人がそれぞれに言うのを、鈴々は聞いている。誤魔化されているようにも思うし、一方で、真剣きわまりない彼女たちを疑うべきではないとも感じている。その矛盾に、少女の精神は混乱に陥っていた。
 華雄に声をかけられるまで硬直してしまっていたくらいに。
「さっきお前は、自分が子供ではないと言ったな?」
「う、うん」
「ならば、大人として振る舞え。疑問に思ったことは、己でひたすらに考えてみろ」
 そこで、華雄は皮肉な笑みを浮かべてみせる。
「たとえば、本当は一つしかないというのは、お前の思い込みに過ぎんかもしれんぞ。そこを、疑え」
 くい、と酒を呷る華雄。それに合わせて酒杯を乾した祭も、鈴々に向けて助言するように優しい声で言う。
「そして、考えてもわからぬならば、訊くべき相手に訊くことじゃ。このような老いぼれどもではなく、な」
 それに、他の二人が続いた。
「酔いどれであることを除いても、ワシらは少々その手のことには向いておらんからな」
「そうね、もう少し世代が近い方がいいかもしれないわ」
「なんと、儂らが老人の如き言い様じゃ」
 老いぼれと自分で言っておきながら、祭は紫苑の物言いに文句をつける。はっと吐き捨てるような笑いが起きた。
「いや、年齢を一気に引き上げているのはお前だろう」
「なんじゃと。四人の中では、お主は年齢の高い方ではないか。どさくさ紛れになにを言うか」
「無理矢理半分で分ければそうかもしれん。が、普通に境を入れるなら、お前と、他の三人の間であろうが」
「なんじゃ、その自分勝手な境は。どうせなら、こう分けるべきじゃろ、敗残の将と、国を建てた将、とな」
「ほう、文台のもとにさっさと行きたいと見える。せっかくだ、手助けしてやろうではないか」
「出来るか? ん? 堅殿に髪を切られてぴーぴー泣いておったくせに」
「いつの話やら。ご老人は昔話が多くて困る」
「ほぅ?」
「んぅ?」
 再び額をこすりあわせるようにして対峙する祭と華雄。それを肴に桔梗と紫苑は杯を重ねる。
「まったく、大人げないとはこのことよ」
「いいかしら、鈴々ちゃん。ほんとーは大人なんていないのよー? みーんな子供が大人の皮を被ってるだけですからねー?」
「うわ、紫苑よ、いつの間にそんなに飲んだ」
「酔ってないわよー?」
 あっという前によくわからない状況に陥る酒宴。先程までの雰囲気はどこにやら、鈴々に考える暇すら与えずに、酒の席は混沌とし始めていた。
 これらのことを思い返し、全てが真面目な話の照れ隠しであったと彼女が気づくのは、後年のことであった。


 5.大人


 翌日、様々な儀礼の合間を縫って、鈴々は一刀に会いに行った。事前に連絡などしていないからいなければ仕方ないと思ってのことであったが、幸い、彼の姿は執務室にあった。
「いま、忙しい?」
 扉に半身を隠して、部屋を覗き込むようにしながら訊ねると、男は嬉しそうに笑って彼女の事を手招きした。
「いや、そうでもないよ。どうぞ、いらっしゃい」
 部屋に入ると、一刀自らお茶を淹れ、鈴々の前に差し出してくれた。
「実を言うと、今年は酒宴が少ないんだよね。まあ、きりがないから、ありがたいんだけど」
 西涼や仲の成立により、祝うべき事は増え、宴の口実となりそうなことは格段に溢れている。だが、それら全てにつきあっていては、三国の重鎮が英雄豪傑揃いとはいえ身が持たない。華琳が引き締めを行い、祝宴の数を制限してくれたのは一刀にとってもありがたい限りであった。
「今日は謝りに来たのだ」
 しばらく椅子の上でもじもじしていた鈴々が、意を決してすばりと切り出す。
「謝る?」
「うん。この間……お兄ちゃんを、その、責めたでしょう?」
「ああ、うん」
 一刀がそれを聞いて納得したように頷く。その表情があまり怒ったりしていないことに、鈴々はほっとして、言葉を一気に吐き出す。
「鈴々、あの後色々考えたんだけど、ちょっとだけ考え方が変わったのだ。お兄ちゃんのやり方がわかるっていうんじゃなくて、わからないことがわかったっていうか……ええと、うんと」
 鈴々は自分の言葉がうまくまとまらないのを怒るようにぷうと頬を膨らませ、それから、なにか思いついたように勢い込んで言った。
「鈴々が決めつけるには早いことだってそう考えるようになったのだ。それで、あの時はお兄ちゃんに言い過ぎたって思ったのだ。ごめんなさい」
 鈴々はばっと頭をさげる。一刀は座っていた机を回り込んで、彼女の肩にぽんと手を置く。ゆっくりと体が戻り、一刀の笑みを鈴々が見上げる形になった。
「……お兄ちゃん?」
 鈴々はか細い声で言い、不審そうに眉を顰める。彼女が見る男の笑顔はたしかに謝罪が受け入れられたと確信する優しいものではあった。
 しかし。
「なんでそんなに寂しそうに笑ってるのだ?」
「そんな顔してた?」
「うん」
 驚いたように応じる一刀。彼は自分の頬に指で触れ、そして、今度は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「いや、鈴々も大人になっちゃうんだなあって」
「よくわからないのだ」
 囁くように、詰め寄るように、鈴々は訊ねる。その真剣さに、一刀は胸を打たれた。
「いや……。うん、あのね」
 どう説明するか。彼は考えながら自分の机に尻をのっけた。
「子供の頃は、大人は世界の全部がわかってるものだと思ったろう?」
「うん」
「でも、違うんだ。大人は経験と知識として知っているだけで、わかっているわけじゃない」
 その二つの違いを、どう説明すればいいだろう。一刀は考え、しかし、その必要がないことを悟った。自分を見る少女の表情で。
 彼女は、一刀が以前に話したことを、一つの『わからないこと』として『知って』いるのだから。
「わからないことをいくつも抱えて、その疑問に身を焼かれながら、進んでるものなんだよ。大人ってのは」
 俺もまだまだ偉そうなことは言えないけどな、と一刀は照れたように言った。
「だから、俺にも鈴々に大人の世界を示すことは出来ない。いつまでも出来ないかもしれないね。俺は俺なりの疑問を抱えて、それをなんとかしようとあがいているだけだから」
 男の言葉に、少女は腕を組み、考え込む。しばらくしてから、ふと、何かを思い出したかのように顔をあげた。
「紫苑が変なことを言っていたのだ。大人っていうのは、子供が大人の皮を被ってるだけだって」
「ああ、言い得て妙だな。さすがは紫苑。そうだね、きっと、みんなそうなんだよ」
 うんうん、と一刀は頷く。その様子を、鈴々は小首を傾げて見上げていた。
「そうなの?」
「ああ、そうさ。みんな、大人っていう殻……いや、鎧を着ているだけで、中身はそう変わらない。鎧を作ってるのは、さっきの『わからない』って疑問だったり、矛盾だったりするね。身を守るための鎧が重いから、子供より素早く動けない。でも、その代わり、ちょっとだけ、遠くが見える」
「背が高いから?」
「それもあるかもね」
 鈴々の発想を、一刀は笑ったりしない。ただ、優しい表情で受け止めた。再び、彼女は思考の中に沈んだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
 沈思黙考を終え、再び鈴々は訊ねる。なんだか、自分で出した結論が嫌そうな顔でもあった。
「もしかして、子供扱いっていつまでもされるものなの?」
「あー、まあ、相手の歳が離れていたらそういうことも多いね。でも、なんで?」
「昨日、五人で話してたけど、紫苑が年齢の話をしても全然怒ってなかったのだ」
 鈴々の他の四人の顔ぶれを聞き、一刀は納得したように笑う。
「ああ、そりゃ、祭と華雄に桔梗じゃな。その四人の中だと、下手したら紫苑が最年少じゃないか」
 それなら、若輩扱いされることもあるだろうね、と一刀は告げる。けして、侮るわけではないが、祭あたりから見れば、みんな小娘に過ぎないだろうと。
「そっかー……」
 なんだか釈然としない彼女に、一刀は笑いかける。
「歳をとると、若い人を守りたくなるものなのさ。だって、自分がやってきた道だからね」
 鈴々だって、小さな子供を守りたくなるだろ? と一刀は付け加えた。
「でも、鈴々はそんなに弱くないのだ」
「そうだね」
 ぷぅ、と鈴々は頬を膨らませる。一刀の間髪を容れない答えに、かえって素っ気ないものを感じ取ってしまったのだ。
「本当に思ってる?」
「当たり前だろ」
「でも、春巻きに続けて負けたよ?」
「強くたって負ける。それに、大会や演習なんて負けたほうが勉強になることは多いかもしれない。付け加えておくと、昨日俺たちが勝てたのは、八割方稟のおかげだよ」
 じろじろと一刀の顔を睨みつけるようにして、鈴々はその言葉を確認する。彼はその眼力に負けず、にこやかな顔を保ち続けた。
 ふう、と鈴々はなにか根負けしたかのようにため息を吐く。それから、気を取り直したように、真剣な顔で彼を見つめてきた。
「でも、やっぱり、鈴々は、大人になりたい」
「そんなに急がなくてもいいんだよ?」
「なりたいのだ」
「うーん」
 あくまで主張してくる鈴々に、一刀は少々困り顔になる。一方で、鈴々は何か探るような目つきで彼を見ていた。
「春巻きや流琉は、お兄ちゃんが大人にしてあげたんでしょ?」
「え? そういう意味? いや、まあ、うん……」
「だったら、鈴々も」
 仲間はずれになるのは嫌だ、とでも言うようにあっさりと彼女は言う。一刀はそれに苦笑で答えるしかなかった。
「いや、それは、ほら以前にもあったじゃないか。ちゃんと中身を理解するまで延期って約束で……」
「聞いてきたよ?」
「は?」
 あやすような彼の台詞を遮った鈴々のかわいらしい声に、一刀の体が固まる。
「紫苑たちに、全部聞いてきたのだ」
「はい?」
「だから、閨ですること、全部聞いてきたのだ。小蓮にも負けないくらいたたき込んだって、太鼓判おしてくれたのだ」
 かくん、と一刀の顎が落ちた。あわあわと体を震わせた後、彼は大声をあげる。
「なにしてくれちゃってるの!?」
 だが、そんな彼を無視して、鈴々は仕入れたばかりの知識を披露する。
「ちなみに、華雄が、『女は胸ではない。女の魅力は腰から脚だ! 男の目を惹きつけるにはそこだ!』って力説してたのだ」
「あの人もなに言ってるの!?」
「だから、全部知ってるのだ」
 うんうん、と鈴々は自信ありげに頷く。
「う、うん。いや、そうだね。それはそうかもしれないけど……って鈴々?」
 落ち着いて反論を展開しようと深呼吸をしていた一刀は、鈴々にぐいと引っ張られて体を傾けてしまう。
「ええと、桔梗から、この部屋から寝室への行き方も聞いたのだ」
 そのまま、とてもかなわない力で引きずられ、どうしようもない彼は、転ばないようにと鈴々について歩くしかなかった。
「いー女は、男を導いてこそ、なのだ」
「それ、誰の教えーっ!?」
 そうして、二人は閨へと消える。
 後に、いくらなんでもあれは情緒に欠けていたのではないか、と鈴々に漏らした夫たる人物は、渾身の力で殴られて昏倒したりすることになるのだが、それはまた別の話であろう。


 6.開幕


 巨大な鉄の扉が、四人の前にあった。
 その前に立つ彼女たちの姿がまるで小人かなにかのように見えるその巨大な扉は、普段使われるものではない。通常は、横手の小さな扉を使い、特別な儀礼にしかこの大扉は使われない。しかし、今日はその大扉を開くことになっていた。
「皆、集まっております」
「そう、ありがとう」
 閉ざされた鉄扉に指を滑らせ物思いにふけっていた華琳に、桂花が声をかける。その声に、彼女は体を起こし、三人の軍師たちに対した。
「桂花」
「はっ」
「稟」
「はい」
「風」
「はいですー」
 名を呼ばれた順に跪き、主に答える軍師たち。華琳は金の髪を振りながら彼女たちを一人一人見つめ、甘やかな声で囁いた。
「止めるなら、これが最後の機会よ?」
「我が智謀、全て華琳様のために捧げております。そして、なによりも、誤った道を歩んでおられるとは考えておりません」
 迷うことなく答えるのは桂花。稟も風もそれに同意らしく、口を閉ざしたままであった。
「漢を滅ぼしても?」
「なにを滅ぼそうとも」
「戦乱を再び起こすことになっても?」
「乱は、終わってなどおりません」
「幾多の犠牲を出しても?」
「我らの道は既に犠牲者の骨で白く埋まっておりますよー」
 くすくすと華琳は笑う。嬉しいような、嘆くような複雑な声で。
「あなたたちは、本当に残酷ね」
「華琳様の軍師ですから」
 答えは三人共に揃っていた。そのことに、軍師たち自らが顔を見合わせている始末。金髪の少女はさらに声高く笑った。
 一つ大きく首を振って、彼女は笑いを収める。真っ直ぐに前を向いたところで、扉が軋みをあげた。まるで彼女の意志を感じ、その巨体をのけぞらせるように。
「曹孟徳の道を貫くため、大陸の安寧のため、日輪輝く天のため、いまこそが機」
 そは覇道に非ず。
 そは王道に非ず。
 曹孟徳の道は、ただ彼女のためにあり。
「行くわ」
 扉が開き、彼女の前に、道が出来た。



「……とまあ、こんな感じだと思うわ」
 長い長い時を経たような気がする。
 詠が話を終えると、部屋の空気が弛緩したような気がした。聞いている最中、それだけ皆が緊張していたということかもしれない。
 腰に手を当てて、どう、と皆を見回す詠に答え、白面の女性が元気よく手を挙げる。
「はーい。せんせー、自分と月さんを美化しすぎだと思いまーす」
「へぅ……」
「誰が先生かっ。だいたい、あんたたち、いつの間にかまぎれこんどいてよくそんなこと言えるわね」
 黒白対照的な仮面を被る二人を睨みつけ、詠はきつい口調で言い放つ。雪蓮はしれっとした顔でその勢いを受け止めていた。冥琳と月が困ったように視線を交わす。
「ぶー。そんなこと言ったって、私たちが教えなきゃ、呉も確実に帝位の件について知ってたってわからなかったでしょー?」
「……偉そうに言っているが、呉でそれが知られていたと、こやつが知ったのは、今日の昼食の席だがな。どうやら、城内で密かに広まっているらしく、蓮華様が確認しにきてのことだ。聞かされた我々の方がびっくりだったが」
 含み笑いで冥琳が告げる。城内で既に知られているというのに、沙和、凪、真桜が顔を見合わせていた。
「ふーん。まあ、正式な発表前に圧力かけて、皆を試してるんでしょうね。こいつが受けなければ、世迷い言で済むしね」
「……済むのか?」
 かすれた声で、一刀が訊ねる。自分の声に驚いたように、彼は慌てて茶を口に含んでいた。
「さあね? それはあんた次第でしょ」
 意地悪く笑って、詠はひらひらと手を揺らす。
「孫呉の元王様がご注進に及ぶってその事実も、あんたがどう受け止めるかによるわよね」
「やだなー。そういうのじゃないわよ。ただ、まあ、ねえ? 面白そうじゃない?」
「やれやれ」
 きゃらきゃらと笑う雪蓮と呆れたように言う冥琳の姿をじっと見つめ、一刀は何かを考えるようにしていた。誰も、それを邪魔しようとはしない。
「……華琳に確かめなければいけないことが、いくつかあるな」
 ぼそりと彼が呟くまで、どれだけの間、沈黙が部屋を支配していただろうか。長い話のせいもあって、部屋に射し込む冬の陽には既に朱の色が混ざりつつあった。
「それでは、隊長、お着替えを」
 いつの間にか、沙和と真桜と三人で用意していたらしい。凪が掲げ持つのは、白く輝く『ぽりえすてる』。
「ん」
 文句も言わず、彼はそれに着替え始める。月や詠も手伝って、ぱりっとした姿が出来上がった。
「雪蓮」
「ん?」
「これ、預かっておいてくれ」
 腰から抜き、卓の上に置いていた刀を、彼は滑らせる。それはくるくると回転して、雪のような面を被る女の前に到達した。
「私が……ね」
「ああ」
 思わせぶりな流し目を、一刀はしっかり受け止める。毒気が抜かれたように、雪蓮は刀を取りあげ、抱きしめるようにしてみせる。男は小さく笑った。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
 全員の声が和し、それに背中を押されるように、彼は気負いも感じさせない足取りで部屋を出て行くのだった。


     (玄朝秘史 第三部 終/第四部に続く)

 第四部予告


 後の世に言う帝国暦元年。
 あるいは、羅馬建国紀元九百六十六年。
 当時の暦で言えば建安十八年。


 その八月。
 三国最後の戦が、始まる。

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