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643 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2011/08/27(土) 23:13:12 ID:jYIprM5c0
蓮華「ところで、華琳が登極というのはありえないの?」
穏「いやー、さすがに華琳さんが書いた本の注釈で、それをやるのはちょっと……」
前回描かれなかった部分でこんな会話があったとかなかったとか。
さて、そんなわけで、玄朝秘史第三部第五十六回をお送りします。
うーむ、進展しているのかいないのか。

★九月の投下予定
九月以降、勤務シフトが変わって土曜投下は難しくなりそうな気配です。
毎週日曜の昼間、ということになるかもしれません。ご了承下さいませ。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。
・現状、玄朝秘史の掲載場所は私のサイトとこの外史まとめサイトのみです。投下告知を避難所にて行って
おります。それ以外の場所でのファイル配布などは行っておりません。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
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玄朝秘史
 第三部 第五十六回



 1.秘密


 肩から首筋に何本も刺さった鍼を、男の指が慎重に抜き去っていく。最後の鍼を取り去った所で彼が声をかけると、診察台にうつぶせになって白い首筋を露わにしていた女性が身を起こした。
 その様子に、部屋の隅で控えている女性親衛隊員二人が小さくため息を漏らす。按摩による結果といえど、ほのかに上気するその姿は、同性でも見とれるような美しさがあった。
「ふう……。肩は少し楽になったみたいね」
 体を動かしてもいいと言われた彼女は、腕をぐるぐると回してみる。次いで、自分の手を首の後ろに回し、いまは束ねて頭の上にまとめている黄金の髪の生え際までゆっくりと揉んでいった。
「うん。首もなかなか」
 納得したように呟き、髪を束ねていた布を引き抜く。潰れているくるくる髪をふんわりとなるように手櫛でなでつけ、普段通りの髪型に戻ったところで、魏の女王は満足げに頷いた。
「本体はどうだ?」
「いまは気にならない程度ね」
 こつこつ、と華琳は己の拳でこめかみを叩いてみせる。その奥には、彼女を長年悩ませる頭痛という病が住み着いている。男――五斗米道の後継者、華佗もまた内側まで見通すかのような視線で彼女の頭部をじろじろと眺めやった。
「本当はもっと根本的に病魔を滅ぼさなければいけないんだが……」
「だいぶ軽くなってきているし、効果は出ているからいいんじゃないの。医者のほうが焦ってどうするのよ」
 苦々しげに言う華佗に、肩をすくめる華琳。男はなおも彼女の体の中を透視するかのような目を向けていたが、しばらくして小さく頷いた。
「それもそうだな」
「で、あっちのほうはどうなの。さんざん私の体をいじくりまわしたからには、きちんと答えなさいよ」
 主の意味深な言葉に、親衛隊員たちがびくりと体を震わせる。だが、それよりも露骨に反応したのは、華佗その人であった。
「そういう人聞きの悪いことを言わないでくれ。夏侯惇将軍に殺されかかるのは、二度とごめんだ」
 呆れたような口調ながら、はっきりと大きな声で言い放ち、彼はいくつかの煎じ薬を華琳に渡す。華琳のほうはおどけた調子でさらに言いつのった。
「あら、この膚に触れたのは事実でしょう?」
「診察だ、し、ん、さ、つ」
 華佗の反応に、ふん、と鼻を鳴らす華琳。ふと彼女は真面目な顔になって、道具をしまい始めている彼に訊ねた。
「これは単純な興味から訊くのだけど、あなた、女性に興味ないわけ?」
「診察台の上の患者に対しては、診察以外の興味は一切無い」
「ふうん。徹底しているのね。まあ、よい職人というのはそうでなくてはいけないのかもしれないわね」
 淡々と答える華佗に、華琳は感心したような風で漏らす。
「だいたい、体を見る度に興奮する相手に治療を頼みたいか?」
「まっぴらごめんよ」
 明るく笑って、彼女は診察台となっていた寝椅子から立ち上がる。執務机に落ち着いたところで、改めて彼の方を見た。
「で?」
 華佗も執務机の前に進み、彼女と正面から対する。その表情はいつも通り真剣そのものだった。
「ああ、さすがにまだ確定とは言い難いな。兆候はたしかにある。だが……いや、この段階で医者として言うべきは、経過を観察しないと断言はできないということだけだな。申し訳ない」
「そう……」
 落胆と安堵のないまぜになった複雑な表情で、彼女は顔をうつむけた。わずかな間を置いて、その顔があがる。彼女は静かに医者に訊ねた。
「もし、予想通りだったとしたら、政務にどれほどの影響があるものかしら」
「難しいところだな。症状の出る時期にも、出方にも、かなりの個人差がある」
「それを類推することは?」
「残念だが、俺の知識にはない。年齢にもよるというが……そう極端な年齢というわけでもないからな」
「となると、ひとまずは待つしかないというわけね?」
 華琳が結論づけるように呟くと、華佗も大きく頷く。
「いまのところはな。しばらくは俺も都にいるから、いつでも呼んでくれ。言うまでもないだろうが、温かくして規則正しい生活をすることが理想だ。その立場では難しいかもしれないが、かえってそのほうが効率がいいことも多い。考えてみてくれ」
「ふむ。まあ、適切な助言ね。ありがとう。それと、こちらも言うまでもないことだけれど……」
 皆まで言わず、華琳はそっと手を払う。その様子に、華佗も言いたいことを理解したようだった。
「ああ、患者の秘密を無闇と言いふらす趣味は俺にはない。安心してくれ」
「そうそう、うちにも医者がいるけれど、それにも言わないでおいてちょうだい」
「信用できないのか? 余計なお世話かもしれないが、医術の心得があって、信用出来ない者を身近に置くのは避けた方が良いぞ」
 さすがに眼を細め、警戒するように声を落とす華佗。それに対して華琳はわかっていると言わんばかりに意地の悪い微笑みを返した。
「いいえ。信用は出来るわ。私には逆らわないだろう、という程度の信用は。ただ、知っている者を私が把握しておきたいだけ」
「ふむ」
 彼は頷き、そして、宮殿の侍医たちに示す予定だった処方を華琳自身に渡すべく書き直し始めた。華琳にも薬の心得があると彼も知っていたが、医者同士で通じる書き方をしていたため、それを平易になおそうというのであった。
 その最中、彼はちら、と部屋の隅に立ち続ける忠実な親衛隊の二人を見る。
「つまり、あそこの二人は話を聞いてもいい連中に入っている訳か」
「ええ。もちろん。あなたたち」
 華琳が手招きすると、きびきびとした動作で近寄ってくる二人。華佗がその様子を見て、犬が尻尾を振りながら駆け寄ってくるのを連想したのは、彼女たちの全身から喜びがあふれ出ているからだろうか。
 もう一つ、彼女たちが近づいてきたことで、彼は気づいたことがあった。彼女たちは胡人だ。膚の様子や目の形からして、かなり遠方の出身だろう。
「口を開けてご覧なさい」
 華琳の命に従い、二人の女性は口を開いてみせる。そこに、あるべきものはなかった。
「なっ」
 根元から切り取られた舌の残骸を見つめ、華佗が思わず声をあげる。そうした奇異の目には慣れているのか、二人は身じろぎもしなかった。
「これは……?」
 華琳に言われて二人が口を閉じて、ようやく華佗が訊ねるのに、華琳はふんと鼻を鳴らす。
「私のところに来たときには、すでに無かったわ」
 まさか、私が切り取らせたと思っているのではないでしょうね、と言外に非難を込めて華琳が見上げるのに、華佗はわずかに申し訳なさそうに苦笑する。口外させないために行われた処置かと疑ったのは事実だ。
「まあ、この娘たちには私手ずから読み書きを教えたから、意思疎通は可能なのだけれど」
 こくこくと嬉しそうに二人は頷く。その動作に、華佗は妙に安心した。
「耳を聞こえなくさせたり、こうして舌を取ったり喉を潰したり、そういうことをして、有用な奴婢だと売りつける連中がいるのよ」
 華琳は淡々と説明する。それを当の二人も顔色を変えたりせずに聞いている。そのことに感心しつつ、しかし、華佗は華琳の語る無惨な所行にあからさまな嫌悪の表情を隠せなかった。
「もちろん、そんなことをする外道は摘発の対象。この娘たちはそこで保護したの。城で使ってみたらなかなか頑張ってくれたので、親衛隊に引き上げたわけ。ちゃんと育てれば有能な人間を、無能が使い潰しかけてたわけよね。許せないことだわ」
 ただ才があったというだけではないだろうと華佗は思う。話すことの出来ぬ奴隷として売り飛ばされ、ろくでもない場所でひっそりと生を終える、そんな運命から救いだし、生きる術をくれ、読み書きまで教えてくれた恩人に報いるため、彼女たちは死にものぐるいで努力したに違いない。だが、もちろん、この目の前の曹孟徳という人物はそのことをよく知っているのだろう。それもまた華佗にはわかっていた。
「……色々とあるのだろうな」
 だから、彼は複雑な表情でそう言うしかなかった。
「そうね。闇は深く、没義道ははびこる。でも、それをどうにかするために、私たちはいるのよ」
 そう宣言する覇王が見つめるのは、おそらく、遥かに遠い地平。そんな彼女の様子を眺めつつ、医者である彼は、彼女の抱える秘密がよい形で結実することを祈るのであった。


 2.謁見


 宮城の奥の奥、差す光さえなぜだか暗く感じるような、そんな重厚な作りの宮。その廊下に、一人の女性が佇んでいた。
 何かを待つようにしている彼女の顔つきは普段通り穏やかに見えるが、よく知る者が見ればわずかに不安が混じっていることに気づくだろう。
 見つめていた奥の大扉が開くと、女性はその場に膝をつく。その動きで、短い黒髪が揺れた。
 大扉からは、儀礼的な武装で身を固めた兵たちに囲まれて、一人の女性が進み出る。裾を引きずらんばかりの雅やかな服は、金糸銀糸で彩られ、さらには一色ずつ染め上げられた衣が幾重にも重ねられて多色の層を成し、その荘厳さを引き立てている。そんな服の上に自慢の金髪をながしているのは、大将軍袁本初。彼女は跪いた自らの腹心に気づくと、途端にそれまでの仏頂面を笑顔に変えた。
 十数人の兵たちと共にしばらく進み、ある一線――それは、儀礼に詳しい人間から見れば明白なものだ――を超えた途端、犬でも追い払うかのように、麗羽はしっしと手を払う。兵たちはそれに応じたか、あるいは儀礼上の行動が済んだからか、彼女から離れていった。
「いかがでしたか、謁見は……」
 近衛の兵がいなくなったところで斗詩が心配げに近寄っていく。麗羽は再び憤然とした表情をその美しい顔に乗せた。
「全く、失礼してしまいますわ。急に呼び出しておいて、袁家もこのところ色々と不如意であろう、だなんて」
「はあ……。それはどなたが?」
 並んで歩き出す二人であったが、麗羽の衣装が格式張ったもののため、少々歩みは遅い。
「さあ?」
「さあ、って麗羽様……」
 呆れたように呟く斗詩に、麗羽はふふんと小さく笑って見せる。
「あの場にいたのですから、要するに陛下の意でしょう。だからといって、失礼なことには変わりありませんけど」
「で、あの、その、なんとお答えに?」
 普段の言動からすれば、きちんと答えられたのかと彼女が心配するのも当然であろう。しかし、麗羽の態度は自信に満ちあふれていた。
「この通り、臣の身は大将軍として京師にあり、陛下の御意を叶えるべく、命と機を待っております。我が従妹も同じくお側近くにて、いつでも微力を捧げんと控えております。なんぞ不自由なことがありましょうや」
 麗羽は物々しい台詞を一気に言い放つ。すらすらと言葉が出てくる様は、斗詩でさえ感心するほどだった。
「われら袁家累代の地は、いまは丞相閣下が治めて、御国のため役立っております。自惚れと言われましょうが、臣の目には袁家に零落の兆し……」
「兆し一つ見えませぬ。いやぁ、実によい啖呵でしたー」
 麗羽の言葉に重なるように、笑いを含んだ声が響く。二人がそちらを向けば、人形を頭に乗せた背の低い女性がてこてこと歩いてきていた。
「あら、風さん」
「風さんもいらしたんですか?」
「まー、一応、風も九卿ですからねー。たまには陛下のご機嫌も伺いませんとー」
 飄々と答える風。その言葉に、麗羽が小首を傾げる。頭飾りがしゃらりと鳴った。
「我が君は九卿であった折、陛下と顔を合わせた覚えがないと仰っていたような……」
「あれは、陛下の方が避けてらしただけですよー」
 それから彼女は口元を隠し、くふふ、と笑った。
「とはいえ、風も毎回みんなに無視されちゃうんですけどねー」
 なんででしょうねえ? と首を傾げる風に、どうしてでしょう? と同じように首をひねる麗羽。その様子に、いや、それは華琳さんの意を受けて来ているからですよね、とはつっこめない斗詩。
「でもよー、痛快な啖呵はいいけど、言質を取ったってことになって、実際に命が下ったらどうすんだよ、姉ちゃん」
 宝ャが風の頭の上から警告でもするかのように言うと、麗羽は明るい声で笑う。
「もちろん、粉骨砕身働かせていただきますわ。ただし、わたくしはいまではお金も兵もない、我が君預かりの身。いかに働きたくても、力及ばぬことも多々ありますけれど」
 ごまかし以外の何物でもないのだが、実際そういうことになるのだろうな、と斗詩も思う。風も半ばは納得した様子だったが、さらに重ねて訊ねてきた。
「たいていはそれで済むと思いますけど、たとえばおにーさんを誅せよとでも言われたらどうしますかー?」
「我が君が謀叛など起こすはずがないのですから、そのような命、必要ありませんわよ?」
「いや、それ、従ってませんよ、麗羽様……」
 さすがにぼそりと呟く斗詩の言葉を、麗羽はからからと笑い飛ばした。
「そもそも、華琳さんがわたくしを大将軍に留めている意味を考えなさいな。朝廷の愚昧な方々からしてみれば、わたくしはそれこそ落ちぶれたとはいえ名族。落ち度もないのにそう簡単に首はすげ替えられない。といって、わたくしが素直に言うことを聞く人間でないことも、とっくに承知している。きっと、地団駄を踏みたい気分でしょう。そうして、あの方々に歯がみさせて面白がってるんですわ、華琳さんは」
 それが実際の狙いであったかどうかはわからない。だが、効能としては間違いのないところであろう。加えて、大将軍の変更を画策すれば、丞相がいる現状では大将軍など必要ないと華琳の手で大将軍位を空けたままにされる可能性もある。
 朝廷としては意のままになる人物をつけたいところであろうが、そうもいかないのが実状であった。
 そもそも、このような会話を、朝廷権力にほど近いこの場で交わすことが出来るのも、そんな事情があってのことだろう。
 だが、常識人たる斗詩としては色々と心配になるのだろう。声を落とし、びくびくとした様子で訊ねていた。
「でも……変、ですよね。いきなり麗羽様……というか、大将軍を呼び出すなんて」
 大将軍は全ての将軍の上位にあたる重要な地位であるが、実際には軍権を握るというよりは、政治的な力を持つことの方が多かった。帝の側近くで補弼の任にあたる外戚が大将軍を担うことが多々あったためである。
 その大将軍を急に帝が呼ぶとなると、たいていは政変を意識する。実権をあまり伴わない麗羽といえど、当日に召し出されことなど、これまでなかった。
「少々おかしな感じではありましたね。でも、斗詩さんはなにをそんなに怯えていますの?」
「何進さんのこと考えて、心配だったんですよぅ」
 暢気な主に対して、斗詩は顔をくしゃりと歪めて言い放つ。
 実は、この時、猪々子が都にいない。北方から戻ってくるはずの白蓮や霞、凪や沙和を迎えに真桜と共に出向いているのだ。さらに保護者たる一刀も都を出ている。実に危うげな状況であった。
 とはいえ、猪々子が都にいたとして、彼女も斗詩も官位が低すぎて謁見の場に同席することはできない。もし朝廷側が不穏なことを考えていれば阻止するのは難しかったろう。
 だが、そんなことを示唆されても、麗羽は泰然としていた。
「いまわたくしを暗殺したところで、なんにもなりませんでしょう?」
「なりませんねー。華琳様とおにーさんへの嫌がらせ以外には」
「その嫌がらせがあり得るから怖いんじゃないですか……」
 近頃、華琳と麗羽の関係は急速に好転したが、朝廷側が二人の個人的なつきあいの変化を知っているとは限らない。以前のように反目し合っていると思い込んでいれば、麗羽を始末しても華琳が激怒するようなことにはならないだろうと考えることはあり得るのだ。
 それを懸命に説明した斗詩は、麗羽に
「あら」
 とだけ答えられてがっくりと肩を落とす。主の落ち着きぶりは歓迎すべきことなのかもしれないが、少しは注意してほしいと思う彼女であった。
「それを見極めに風もあの場にいたんですけどね」
「そうだったんですか!?」
「ええ、まあ」
 丞相たる華琳を頂点に、魏の面々もまた朝廷に重要な地位を占める。普段は朝議に顔を出さないとはいえ、列席を求められれば断れるはずもない。
「実際、どうだったんです?」
「んー」
 斗詩の問いかけに、風は棒つき飴を取り出し、ぱくりとくわえてから、二人にも同じものを勧める。遠慮しかけた斗詩も、麗羽がさっさと受け取ってなめはじめたので、結局手に取った。
「いまひとつわかりませんねえ」
 ぺろぺろと三人して飴を舐めながら、彼女たちは進む。壮麗な宮を出て、屋根のかかった通路を歩く彼女たちを冬の日が明るく照らしていた。
「ただ、ちょっと変なのは事実ですねー……。焦ってるんでしょうかね?」
 ぼそりと呟いた後半は、誰の耳にも届かない。飴をくわえつつ不思議そうに彼女を覗きこんだ袁家主従に、彼女は安心させるように語りかけた。
「まあ、心配しなくていいですよ。さっきのことで、麗羽さんは風たち……華琳様への対抗馬には使えないってわかったと思いますから」
 と実に意地の悪い笑顔を浮かべながら。


 3.軍師


 部屋に入って最初に気づいたのは、自分たちが割り当てられている部屋と雰囲気が違うということだった。桃香、鈴々、朱里に割り振られているのは、どれも同じ構造の客間だ。一方、雪蓮と冥琳が過ごしているらしいこの部屋は、それよりもわずかに大きく、なにより、生活感があった。部屋の主は長いこと戻っていないようだが、その存在はたしかに感じられる。
「少し感じが違いますね」
 ちりちりと鳴る首もとの鈴をいじりながら朱里がそう切り出すと、闇色の面を被った女性は豊かな黒髪を揺らしながら振り返った。
「ああ、ここは秋蘭の部屋だ。都で当人が使っていいと言ってくれたのでな」
 冥琳の言によれば、華雄が使っているのが春蘭の、一刀が使っているのが華琳の部屋であるらしい。なるほど、と朱里は納得して、導かれるまま卓についた。
「ところで、なにかお話があるとか?」
「うん? ああ、そうそう」
 冥琳が勧める酒に、形ばかり口をつけて促して見るものの、仮面の女はなんだか歯切れが悪い。沈黙が続くに至って、さすがの朱里も不審げな表情を見せた。
「いや、すまんすまん」
 朱里の反応に一つ笑ってから、冥琳は酒で唇を湿らせて話し出す。
「一刀殿と紫苑から頼まれてはみたものの、なにから話せばよいか、少し考えてしまってな」
「一刀さんと紫苑さんから?」
 朱里は内心で驚いていた。一刀の意向というのは理解出来るが、紫苑がなにを頼んだというのだろうか。
「うむ、それぞれ別口でな。ま、きっと根は同じだろうと考えてはいるのだが」
 指を一本顎に当て、しばし宙を睨んでいた視線が、すいと朱里の元へ降りる。仮面の向こうに垣間見える澄んだ碧の瞳を見つめ返しながら、彼女はこれから始まるであろう問答を楽しみにしている自分に気づいた。
「よし、こういう切り口で行くか。我らは仕える主もその手法も違うとはいえ、同じ軍師だ」
「そうですね」
「その立場から訊くが、蜀では次代の育成は順調かな?」
 朱里はその言葉に思わず首を傾げた。
「次代、ですか」
 そんなことを言い出した意図はなんだろう、と彼女は考える。蜀の誇る大軍師の脳裏には幾通りもの可能性が浮かび上がるものの、どれも決定打に欠ける。なによりも、相手の曖昧な立場が、断定を難しくさせていた。
 慎重な態度で迂闊なことを答えようとしない朱里に小さく笑って、冥琳は続ける。
「知っての通り、私と雪蓮は隠居の身だ。一刀殿からちょっとした仕事を請け負って口に糊している立場だ」
 荊州へ出張ってきたのも『ちょっとした仕事』に含まれるのだろうか、と考え少々複雑な気分になる朱里であったが、口を挟むことはしなかった。
「そのような立場になると、色々と見えることがある。おそらくは、呉にいたままでは得られなかったであろう視点だ」
 つまりは、蜀という国に属する朱里にも見えないと言いたいのだろう。それが何なのか、朱里にとっても興味はある。彼女は、冥琳が話すのに任せ、しばらくは聞くのに徹することとした。
「我々は、五十年先、百年先を考えて動く。様々な布石を打ち、おそらく、百の内七十は花開かぬであろう種を播く。だが、実際の所、五十年先、それが実った姿を見ることは、ほぼない」
「それはそうですね、死んじゃいますから」
「うむ。それを見届けるのは、次代、さらにその次の世代の役割だ」
 そこで、冥琳は笑った。何か楽しいことでも思い出した少女のように。
「逆に言えば、我らは我らの前代、さらにその祖が播いた種が花開くのをいままさに見ていることとなる。我らの父祖の実りを我らは受け取っているのだ」
 その理屈は朱里とてわかる。だが、そこからなにを導きたいのか、彼女にはよくわからなかった。先を見据えて動くことは当たり前のことであり、いまさらその価値を云々する必要などあるのだろうかと。
「文台様を直に見、雪蓮の側に仕え、蓮華様が王となるのを見ている私だからこそ言えることかもしれん」
 そこで冥琳は仮面を外した。漆黒の鬼面を卓に置き、懐から眼鏡を取り出す。ゆっくりとそれをかける姿を、朱里は見つめていた。わざとらしい演出ではあるが、効果はあるな、などと考えながら。
「朱里よ。我らが自ら成せる事など、時の流れの中では、ほんの些細なものだ」
「……はい?」
「かねてより伏龍鳳雛と並び称され、若くして世に出た二人には意識しづらいことかもしれんが……。いかに国家を動かす身とはいえ、一人で背負うことなど、小さい小さい。同じ世代の友たちと重荷を分けるというのでも狭すぎる。連綿と続く人の流れの中にこそ、我らの希望はあるぞ」
 そこで一息吸って、冥琳は言った。
「正直に言おう。私から見ても、貴殿はちと焦りすぎだ」
 と。
 驚いたような表情を見せた朱里の口がすっとすぼまる。子供のような不満の表れは一瞬のことで、彼女はすぐに笑顔を浮かべた。
「焦って……ますか」
「違うか?」
「……そう、ですね。百年先を例に出されれば、たしかに」
 そこで彼女は笑みをしまう。そうして、自らの意見を開陳した。
「しかし、冥琳さん。この大陸が動いた月日を、あなたも体験しているはずです。たった数年で、時代は大きく動いた。それと同じ事が、歴史上何度も起きています。平穏な百年が続いた後、たった数ヶ月でがらりと世界そのものが変わることさえある。たとえ、王朝の変転などなくても」
 話しているうちに、少しずつ、朱里の中になにかが構築されていく。それは、表面で話している言葉の論理だけではない。その奥にあったものがばらばらになって、再構成されていく。
「そして、それを成すのは、そこに至る日々だということも私は知っています。堤を決壊させるのは、最後の一突きではありません。それまでに貯められ、渦を巻く水に他ならない。その一滴をそこに導くため、我々は十年を作り、一年を企てるのではありませんか」
 すう、と息を吸う。彼女は再び微笑みをたたえて頷いた。
「そうですね。最近の私が視野を狭めてしまっていたというのには同意しましょう。それをあるいは焦りと言われても、しかたないかもしれません。しかし」
 きっぱりと、彼女は言った。自分でも思ってみなかった言葉が、体の中からあふれ出ようとしていた。
「しかし、私は、私が追うべき重みを、次の世代に放り投げるつもりなどありません」
「ほう」
「仰るとおり、幸いにして私たちは――私も雛里ちゃんも若くして世に出ることが出来ました。この頭脳の最盛期はまだまだ続くでしょう。次代を育てることは当然ながら、私たちに出来ることは、まだ、ある」
 面白がるように、感心するように、冥琳は彼女の事を見ている。その余裕ぶった態度に苛つくこともなく、朱里は言葉を放ち続ける。しばらく鈍っていたなにかの動きが、急激になめらかになり、さらに加速していくのを、彼女は感じていた。
「先達としてのご意見はありがたく受けます。でも……そう、私の内にある焦りは、誰にも分けるつもりはありません」
 分けてやるものか。
 この痛みを、この悲しみを、この絶望を、この希望を。
 これを共有するのは、まさに理想を共にする者たちに限られるべきだ。
「この痛みは前に進むための痛み。いたずらに誰かと共有するのではなく、ただ、己の中で燃やし続けてこそ育まれ、いつか燃えさかる炎なのです」
 自分の心臓の上に掌を置き、自負するように、朱里は告げる。
「しけろうとしていた種火を吹き起こして下さったことには感謝します、冥琳さん。それに、一刀さんにもどうかお礼を」
 そこでさらに勢い込んで何かを言おうとする朱里。
「ですが……」
 ところが、そこまで言いかけて、彼女は言葉を呑み込む。照れたような笑いが、その顔に浮かんでいた。
「いえ、余計な事は言うべきではないでしょう」
 そう言って朱里は立ち上がる。もう一度礼を言って立ち去るその姿を、冥琳は声もなく見送った。
 扉が閉まってからだいぶ経ってから、彼女は丁寧な仕草で眼鏡を取り、闇色の仮面をその端正な顔に被せた。
「若いな……と祭殿なら言うであろうか。いや、いかんいかん。思考が年寄り臭くなっているぞ」
 そこで苦笑して、彼女は独り言を続ける。
「ま、これで依頼は果たしたと言えよう」
 一人納得したように言った後で、くすくすと笑う。楽しそうに、実に楽しそうに。
「だが、一刀殿。火の点いた孔明は、怖いぞ?」
 私に焚きつけさせたのを後悔しないことだ、と彼女は空想の中の一刀に向けて呟いた。


 4.意義


「ええとね、最初の頃、漢が存続できたのは匈奴のおかげとか、劉邦さんの志とかはいまさら論じてもしかたないと思うんだ。まあ、私としては、色々と驚きではあったんだけど」
 桃香による漢王朝への評はそんな風に始まった。
「初期は統一出来ていたってことだけで、恩恵はあったろうからね」
 匈奴帝国に事実上臣従することによってもたらされた漢王朝の安寧と発展は歴史的事実としては興味深いことだが、流石に四百年も前の事である。いま考慮することではないだろう。
「うん。そうなると、やっぱり直接の問題は、光武帝以降だと思うの。新を倒して、この国をがらっと変える機会があったのに、結局民じゃなくて、官吏のほうを向いちゃった」
「まあ……仕方ない面はあるよね」
「でも、ちょっと極端だったよ」
 混乱の時代に大陸を統一した人間が、国家を支える機構の担い手である役人たちを頼るのは当然である。だが、問題は、それをあまりに重く用いすぎたことであろう。帝国を支える国家機構はそれ自体が権力を持つ巨大な組織と変じ、主であるはずの帝を利用するものへと変化した。
 これには理由がある。そもそも光武帝劉秀は、地方豪族としても微弱な存在でしかなかった。時勢に乗って大陸を支配したものの、彼を支える強力な連合体は引き連れていた軍と役人以外に存在していなかった。だからこそ、彼とその側近は、国家の機構を作り込み、それを動かす官吏に頼らざるを得なかったのである。
「さらに加えて有力な地方豪族が中央の官吏と結びついて親戚の網をつくっちゃった」
「名族ってやつだな。麗羽みたいな」
「まあ、麗羽さんや美羽ちゃんのところは極端だけど……」
 中央で高官を歴任し、力をつけた者たちは娘を皇后とし、外戚となって権力を握る。外戚はさらに名を高め、地方の有力豪族はそれにあやかろうと血縁を結ぶ。そうして、大陸中に血縁を持つ豪族たちが溢れる。何代にもわたって有力な官吏を輩出する名家が多数出現するわけだ。
 桃香はため息をついて話を続ける。彼女自身話している内容に辟易しているような様子であった。
「しばらくしてからの皇帝はみんな子供の頃に即位させられてかわいそうな面はあるけれど、それが外戚と宦官の争いを激化させたのも間違いないよね」
「……幼い皇帝は操りやすいからなあ」
 外戚は幼帝を操り、年を経て成長した帝は自らで政務を執りおこないたいと望んで、外戚の排除を画策する。そこで帝が信頼できるのは、幼い頃より身の回りの世話をしてもらっていた――いわば生活を共にしてきた宦官たちだ。そうして、宦官が外戚を排除するための争いが起こり、うまくいけば宦官の専横が始まる。
 だが、宦官の天下も盤石ではない。次の帝になれば、あっという間に新しい外戚がのさばってくるのだ。
 あるいは、それを避けるため宦官が外戚を排除しておいて、自ら別の勢力を後ろ盾として招き入れる場合もあるが、たいていは自滅の道を歩む。たとえば、月の時のように。
「歴史を見てみると、結局、帝の周りは、ひたすら権力闘争を繰り返しているんだよ。まるで民のことなんて考えずに。ううん、正直言うと、政治のことをまともに考えているとは思えない。たまに事態を憂えてきちんと働く人がいたからなんとかなってただけって印象を受けちゃうんだ」
「全部が腐ってたわけじゃないだろうけど。どうしても、目立つ記録を読んじゃうから印象としては、きついかもしれないね」
 複雑な表情をしている桃香を見ながら、一刀は考える。そうは言っても、彼女もまた、現実の朝廷の無力さを目の当たりにしてきている。現在の朝廷の有様を見て、うまく機能していた時期もあると言ってもろくな説得力はないだろう。
「それでね、やっぱり、そういう状態はいいものじゃないと思う」
「うん。それは同意だな」
 結論づけるように言う彼女に、一刀は同意する。その反応に桃香は嬉しそうに微笑んだが、すぐにしょぼんと萎れてしまう。
「でもね、どうしたらいいかっていうのは、あんまり思い浮かばないんだ」
 悔しそうに言う彼女に、一刀は腕を組んで一つ唸る。桃香はさらに顔をうつむかせて続けた。
「現状維持でもいいかなー、って思うんだけど、でも、それも消極的かな、って思うんだ」
「うーん。でも、いまの三国ならそうそう間違った方向にはいかないだろうし、朝廷には象徴として存在しておいてもらって、華琳や桃香や蓮華……それに、俺たちが頑張るってのでもいいとは思うけどね?」
 それから、彼は少し苦笑い気味に付け加えた。
「実際のところ、華琳だって、直接手を出してはいないわけだしね」
 現状、朝廷は華琳によってほぼ無力化されてはいるが、あくまでそれだけだ。形式的には華琳が丞相となり、帝を主と仰いでいる。儀礼的に奉り、保護しているだけで、根本的にどうにかしているわけではない。
 だが、半ば桃香を慰めるように言った言葉に、彼女は猛烈な勢いで食いついた。
「そこも実は不思議なんだよね」
「え?」
「なんで華琳さんは朝廷をそのままにしてるのかな?」
 まじまじと一刀は桃香を見つめる。疑問と期待が混じったような表情の彼女は、実に心のこもった目で彼の事を見返してきた。
「ええと……そうだな。潰すには余計な手間がいるから、じゃないかな。呉や蜀が反発する可能性だってあるし。いや、桃香たちがっていうよりは、各地の豪族たちがって言うべきかな」
 彼女の真剣さに釣り込まれたように必死で考えた一刀の答えは、しかし、桃香の実に微妙な表情で迎えられた。
「うーん。納得できないなあ」
「そ、そう?」
「だって、最初の頃はわかるよ? それこそ、まだみんなと戦っていた頃は、朝廷を潰したらそれを理由に敵に回る勢力も出ただろうし、相手の士気をあげる要因を与えるしで、悪いことの方が多かったと思う」
 指を振り振り桃香は言う。白い袖に刺繍された金の翼のような模様が、ひらひらと一刀の目の前で揺れた。
「でも、いまは……ねえ?」
「まあ……な」
 益と害とどちらが多いのだろうか。一刀は考える。そして、華琳はそれをどう計っているのだろうとも。
 正直、ある日、いきなり、あれ潰すことにしたから、とか言い出してもおかしくはないなと思いもするのだった。
「そのあたりは、今度、華琳さんに訊いてみるしかないかなあ。教えてくれるかどうかはわからないけど」
「機嫌が良ければ教えてくれるんじゃないか? 朱里と一緒にお菓子をつくって持っていくとか?」
「あ、それいいかもねー」
 冗談のような掛け合いに、二人は笑う。実際にはどちらも本気なのだが。
「ねえ、一刀さん」
「なに?」
 卓の上に出した拳をもじもじとすりあわせていた桃香が、決心が付いたような表情になった。
「もう一つ、訊いてもいいかな?」
「うん、いいよ」
 即答する一刀。桃香はそれに元気づけられたように訊ねた。


 5.処


 そうして、桃香が訊ねたことは、予想外でもあり、どこか覚悟していたことでもあった。
「じゃあね、その……華琳さんの政のこと、どう思ってる?」
「華琳の?」
「うん」
 男はしばし顔を傾け、天井を眺めた。その時、そこに星々が描かれていることに、初めて彼は気づいた。乏しい知識の中で星座のいくつかをなぞった後、一刀は答える。
「俺は華琳は正しいと思うよ。たしかに、ちょっとやり方が強引なところはあるけれど、彼女は正しいことを目指している」
 何ごとか言おうとする桃香を押しとどめ、彼は言葉を続ける。
「誤解されるといけないけど、彼女が間違わないと言っているわけじゃないんだ。華琳も間違える。でも、周りにいる人間が……俺たちが正せるはずだ。その仕組みも度量も、魏には備わっている。ただ、戦という手段を使うのを躊躇いはしないから……わかってもらえない場合もあるってのは理解している」
 沈黙。その後に発せられた桃香の声は、実に優しかった。
「華琳さんを信じてるんだね」
「うん。信じてる。盲信するつもりはないけれど」
「実は、私も華琳さんは正しいと思う。華琳さんのやり方は強権的だけど、効率的でもある。最終的に犠牲になる人が少なくなるよう、華琳さんは最初に強いことをする。それはわかってる」
 そこで、一点彼女は眉を曇らせた。悲しそうに、あるいは、誇るように。
「でも、私にはそれはできない」
「……うん」
 そうだろうなと彼は思う。それでいいのだろうと一刀は思う。
 華琳は桃香と違うし、桃香は華琳と異なるのだから。
「華琳さんは正しい。でも、華琳さんの正しさじゃ、こぼれ落ちちゃう人がいる。華琳さんの考えだけで、この大陸を一杯にするわけにはいかないって思うの」
「まあ……選択肢が多いほうがいいってのはわかるよ」
 これはこれで彼の本心ではあったのだが、どこかに躊躇いの徴が見えたのか、桃香は笑顔で小さく首を振った。
「一刀さんに別の考えがあるのはわかるよ。ううん、それを認めるのが、きっと、私のやり方なんだと思う」
 でもね、と彼女は告げる。ぽわぽわとした普段の雰囲気などかなぐり捨てた、狂おしいほどの情熱を持った女性がそこにいる。彼は目の前の相手に畏怖すら感じていた。
「華琳さんにしても、一刀さんにしても、その考えが行きすぎたら、止めなきゃいけない。……そんな風に思うの」
 そこまで言って、びっくりしたように、彼女は目を見開いた。
「あれれ? なんか一刀さんと話してたら、私のこれからの立ち位置とか見つかっちゃったかも!?」
 言葉こそ軽い調子だが、そこに込められた驚きと喜びは本物だ。いま話したことが彼女の新しい答えの全てではないだろうが、今後の彼女を左右する一部であることは間違いないと思えた。
 一刀もまた嬉しそうな顔でその様子を眺めていた。いまこの時、実に重要な出来事が起きているのだと、彼も理解していたから。
「ねえ、一刀さん」
「ん?」
 わき上がった歓喜と興奮の収まったらしい桃香が再び彼に呼びかける。彼女は身を乗り出し、声をひそめて彼に耳打ちした。
「今晩のこと、華琳さんに話していいよ」
「それは話しておいてくれっていう遠回しの催促? それともただの許可?」
 一刀もまた小声で返す。瞬時に脳裏に走った様々な心情を込めて。
「後ろの方かな。一刀さんが話すべきと考えているなら、話して欲しい。でも、私から言うのはなんか違うと思ってる」
「ふうん」
 彼は彼女の言葉をじっくりと考え、悪戯っぽく指を口元にあてた。
「じゃあ、話さない」
「秘密にしておく?」
「そうだね、二人の秘密だ」
 あは、と桃香は笑う。
 ふふ、と一刀は笑う。
「一刀さん」
 密やかな笑いが収まったところで、桃香はまたも彼の名を呼ぶ。
「王様って大変だね」
「うん」
「王様って大変だよ」
「うん」
 がたごとと音を立てて、桃香は椅子を移動させる。卓を四分の一周しようとするところで、一刀の側も椅子を動かして、二人の肩口が触れあうほど近づいた。
「甘えさせてくれる人くらい、いてもいいよね?」
 声は聞き取れないほどに低く、艶めいていて。男の手は思わず、熱を持ったその体を抱き寄せる。
「秘密だよ?」
 己の胸に身を埋める女に向けて、彼は甘やかな声でそう囁くのだった。



     (玄朝秘史 第三部第五十六回 終/第五十七回に続く)

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