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14 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2011/06/30(木) 22:02:56 ID:Uy9mL1Kk0
おまけが先になってしまいましたが、北郷朝五十皇家列伝の残り五家分をお送りします。
本編第三部第五十三回はもう少しお待ち下さい。
五十皇家列伝はこれで終わりですが、再開後及び第四部ではまた別のおまけを考えております。

URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0665
※転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)


北郷朝五十皇家列伝


○賈家の項抜粋

『賈家は初代相邦賈駆からはじまる皇家であり、後に幾代にも渡って董家と通婚し、董家集団に数えられる。
 賈家の家祖賈駆は、王朝の初代宰相として、輝かしい功績を打ち立てるが、個人的な部分では不運にみまわれることも多かったと伝えられる。その最たるものが、長い間、子に恵まれなかったことであろう。
 翻って、太祖太帝は登極以前から多くの子を成している。郭家の郭奕をはじめとして――南蛮関連の子らは出生順がいまひとつ明らかではないので除外するとしても――数年のうちに複数の子供を作っており、その中には孫世家の孫登なども含まれ……(中略)……また婚姻後も順調に子は増え、曹操に至っては、常に懐妊していると揶揄されるほどであった。
 その五十人近くの妻の半数は結婚三年ほどで子を産み、残りのほとんども、彼の登極から六、七年後には出産を経験している。
 そんな中で唯一人、十年を超えても子供が出来なかったのが賈駆であった。
 帝の最側近としての激務、人臣の中では最高位にあることの重圧……妊娠に至らなかった理由は様々に推測できる。しかし、事情はどうあれ、事実は事実として重くのしかかる。一女性としてのみならず、皇妃として、すでに計画されていた皇家を立てることを考えねばならなかった彼女の苦悩はいかばかりであったろう。
 後の世に、この時期の彼女の苦悩と悲哀を取りあげた哀歌や悲劇が数多く作られたのもわかろうというものである。
 ……(中略)……このような事情の下に、玄武十二年には、董卓の次子を養子にもらい受けるという話が検討され始めた。
 しかし、これについては当人の意思に基づいて取りやめとなる。その経緯が不透明であることから、各皇家間の勢力争いや、相邦という立場と皇妃という立場の相剋など、様々な憶測が生じているが、実際の所は不明である。結局の所、賈駆自身と、太祖太帝の関係の中で結論が出されたのであろうと言う他はない。
 さらに一年半後、めでたく賈駆の第一子が誕生したことにより、これらの問題は解決されることになる。最終的には彼女は三人の子を遺すことになり……(中略)……
 その後の賈家は前述の通り、董家と緊密な関係を作りつつ、長安においてその勢力を保ち、皇帝も数多く輩出することに……(後略)』


○典家の項抜粋

『典家は、典韋にはじまる皇家であり、東方植民を推進した八家のうちの一つである。典家は東方大陸の北大陸側に留まった家の中では最も南方を勢力圏としている。つまりは、南大陸との連結部、いわゆる東方大陸中央部をその根拠地としており……(中略)……
 かように典家は北大陸南端の平定に大きな役割を果たしたのであるが、これらの活躍について、典家の人間自身が記した家伝の一部が、十年ほど前に発掘されている。
 これはいわゆるピラミッド型墳墓に収められたとある人物の副葬品として発掘保存されたもので、当時の家伝の写しであると考えられている。(典家は、これを肯定も否定もせず、学術研究に関わるつもりはないと示している)
 この人物は、典家の一員の中でも重要な人物であると推測されるが、典家が不干渉を貫いていることにより、いまだ特定されていない。ともあれ、ここではその人物を『彼女』と記す。女性であることは、埋葬の様子と骨の鑑定で判明しているからである。
 さて、発掘された文書のうち解読されたものによれば、元来東方大陸の植民は典家が根拠地とするような地域まで進む前に一時休止する予定であった。おそらくは、肥大化した領土に支配力を満遍なく及ぼし、国をまとめようとしていたのであろう。しかし、ある事情によりそれは覆される。南大陸との連結部における、『太陽神』の出現によって。
 民の上に君臨し、多数の生贄を求めるというその荒ぶる神を退治するため、典家は他家の力を借りることもなく進軍し、ついに典家の主たる『彼女』と太陽神の一騎打ちにまで持ち込んだ。
 一騎打ちは三日三晩続き、ついに『彼女』が抱き取った太陽神の腕をへし折って、決着が付いた。これにより悪神は逃げ出して海中に沈み、典家による大陸連結部の支配が定まったのだという。
 いかにもな伝説である。しかし、少々おかしくはないだろうか。
 そもそも、この時代より遥かに前から、各皇家は自分たちの事蹟を記し、本国へ送っている。それらは多少の誇張が含まれるものの、中華本土に伝わる史書の作法に従って、実に簡潔明瞭に事実が記されているものである。その『事実』が一方的な視点によるものであることは否めないが、それらの史料は少なくとも実際に起きた事の痕跡を留めているはずである。
 このような荒唐無稽な伝説が入り込む余地はないし、典家のみが華美に彩った伝説を残そうとしても、他家の史料とつきあわせれば、その虚飾は明らかになってしまう。
 では、なぜこんな伝説が記され、さらに副葬品として丁重に収められたのであろうか。
 実は、この伝説は、伝説に非ず、真実だったのではないかという説がある。
 というのも、この地方では、『神の降臨』は珍しくはあっても、けして例のないことではないのである。たとえば、太祖太帝が生きていた頃にも、天空より星にのってやってきた神が現れたという事例が壁画や石碑などから読み取ることが出来……(後略)』


○程家の項抜粋

『程家は、程cにはじまる皇家であり、大きなくくりでは、曹家集団に属する。主に司法の世界で活躍する人材を輩出することで有名であり、時代が下ると自然科学、ことに宇宙科学の分野でもめざましい活躍を見せ始めている。かの有名な太陽探査計画は、程家の注力がなければけして……(中略)……
 さて、北郷朝は王朝として実に珍しい生前継承であり、次の皇帝の治世にも先の皇帝が残っていた。下手をすると先々代の皇帝すら存命していた。なお、三代前の皇帝が生き残っていた例が一件だけある。文帝は九十二歳という長寿を誇ったため、昭帝の治世の最初の三年を見ることが出来た。しかしながら、さすがにこれは特異すぎる……(中略)……
 権力の集中する皇帝という地位において、前代の権力者が存在しているという状況は厄介な事態を引き起こしかねない。皇帝本人がやりにくいと感じる程度なら問題でもないが、当代の皇帝を無視して引退した帝が実権を握るような事があれば、これは大問題である。
 人は一度握った権力をなかなか手放したがらない。それ故に通常の王朝では死亡継承が行われるのだ。さらに言えば当人が望まなくとも、周囲の実力者たちが自分の地位を守るため、これまでの皇帝を中心とした体制を維持しようと望む場合も大いにあり得る。
 生前継承の仕組みを考案した曹操以下の知識人達は、こうした事態を予見し、それを抑制するための役目を程家に与えた。
 ただし、他の抑止力――刀周家の弑逆権、郭家の弾劾権、董家の後宮統治(いずれも名称は仮称である)――と違い、程家のそれは公的な許可や根拠があるものではなかった。いわば、家訓のようなものであり、曹操たちの『期待』でしかなかった。
 しかし、帝国治世を通じて、程家はよくこの役目を果たした。時に優しく、時に激しく、彼らは引退した皇帝のわがままを諫めた。
 ……(中略)……おそらく、最も苛烈だったのは、先に名の出た昭帝の時であったろう。それまでは宮廷での公開討論までもつれこめば、かつての帝は己の非を悟って自ら身を退いたものであった。しかし、昭帝はそれをしなかった。あるいは、それは、いつまでも死なない文帝のことを身近で見てきたが故の事かもしれなかった。
 彼女は自分の周囲にかつての側近を侍らせ、それらが提案する政策を、当時の皇帝――恭帝――のものとして通そうとした。帝の傀儡化を、彼女は狙っていた。
 この時、司法の長、廷尉の地位にあった程家の主、程石は敢然とそれに立ち向かった。彼は司法の長として、帝の出す法令の適用をことごとく拒否したのである。甚だしきは、それらの法令に従おうとした部下を処罰することすらあった。
 彼が拒否した法令が昭帝の意向であることは、誰の目にも明らかではあったが、形式上は恭帝から正式に発布されたものである。法を司る身でありながら、それを拒否することは許されることではない。
 ついに恭帝直々に問いただされた時、彼はこう述べたといわれる。
「臣は臣の判断で陛下の法をえり好みしているのではありません。太祖太帝以来の理(ことわり)に従い、自らの責務を果たしているばかりです。どうぞ陛下も己の職分を果たされますように」
 そして、その場で彼は倒れ、ついに帰らぬ人となった。詰問される前に、既に毒を呷り、己の体に刃を通し、もとより戻らぬ覚悟をしていたのであった。
 これにより心打たれた恭帝は、昭帝の圧力をはねのけ、親政を開始する。程家の硬骨はこうして報われることに……(後略)』


○顔家の項抜粋

『顔家は顔良に始まる皇家であり、いわゆる麗袁家集団に属する。同じく麗袁家に属する文家の家祖文醜が個人の武勇――というよりはその猪突ぶり――を伝える逸話に彩られているのに比べて、顔良は個人的な武勇や突出した活躍はあまり伝わらない。しかし、彼女が投入された戦役はいずれも成功に終わっており、堅実な成果を上げていたことは……(中略)……
 北郷朝成立後、彼女は主に西方経営に配された。これは、袁長城の発案が主、袁紹であったことに関わっていると思われる。
 知っての通り、袁長城は敦煌――西涼の支配地域の西端――の先では一本になり、その壁の幅は急激に増大する。もはや分厚いというのでは足りない程の太さとなっているこの部分から先は、長城の中――壁の内側にこそ、住居が存在している。
 さらに、壁はところどころで途切れ、上部が回廊(と、その下を通る水路)でつながっているものの、下部は開いており、通行を阻害する役には立たない。
 いわゆる、古代の『長城』とは似て非なるものとなっているのである。
 では、なぜこのような建築物が作られたのか。
 西涼の領域において、長城は内と外を分けるものである。内側は外に比べれば手厚い庇護が受けられる代わりに商税がかかり、自治も行われる。ある意味で、区域を示す境界である。
 しかし、さらに西方、顔家の支配下にある長城は、境界でもなければ、敵に備える設備でもない。
 それは、目印である。
 水が少なく、草木もまばらな沙漠地帯で、ここには水があり、食糧があり、人がいるのだと示す為のものであり、遊牧生活を送る人々に安息を与えるための場所である。
 人々はそこに集い、そして、再び各地へ散る。
 そうすることによって交易は促進され、人々の生活は潤っていく。それが最終的にこの土地を支配する顔家の富となるという図式。それを作り上げるために、顔家は膨大な費用を投じて長城を築き、その中に水路を通し、遥か西方へと続く道を作り上げたのである。
 この人口の『道』によって富は東西を行き来した。時に略奪の対象となり、時に敵対部族に打ち壊されたりしながらも、顔家は粘り強く袁長城を経営し、麗袁家、文家に対して支援を続けて、ついに麗帝国の礎を築くに至る……(後略)』


○楽家の項抜粋

『楽家は楽進にはじまる皇家であり、東方八家の一つである。
 楽家は東方八家の中でも中心的な家の一つであり、後に『帝国』が成立したおりには、岱輿帝国の主に治まり、各皇家に支えられながら、東方大陸の北半を支配するに至った。
 ……(中略)……さて、ここで、『帝国』の成立について触れてみよう。太祖太帝の御代から時は流れ、皇家の面々はその軍事力と経済力を背景に、世界中に散らばり、さらに各地で様々な勢力を築き上げていた。その中でも本土の北方に位置する麗袁家や、東方の大陸を丸ごと支配下においた東方八家のように、その面積や経済力だけで見れば本土を凌ぐ巨大国家となった集団もいくつか存在した。
 一般には、それらの諸国家も、早い段階から後世の帝国の名を冠して呼ばれるため錯覚しがちであるが、いかに強大な国家となろうとも彼らはあくまで王を名乗り、帝を名乗ることは無かった。それは、本土におわす帝こそが皇家の中心であり、敬すべきものであるという、まさに血に刻まれた意識からであった。
 だが、張家が西進の果てに東ローマ帝国を滅ぼし、その帝冠を受けると、事態は変化せざるを得なかった。
 中華本土の『帝国』と、Imperiumは異なる概念であったが、それでも、皇家の人々は、その出自故に、第三ローマ帝国を帝国と呼ぶ他無かった。そして、それは、『帝』の並立をも意識させることとなる。なお、帝国と異なり、Imperiumは皇帝の存在を必然としないが、元来『帝国』から生まれた意識は、皇帝を所与のものとしており……(中略)……
 ここで、皇家の面々及び中華本土の知識人達はある一つの発想の転換を生み出す。公も王も遥かに超えて、それらを統べる皇帝がいる。その皇帝が複数存在し得るのならば、皇帝を統べるさらなる上位存在を生み出せばよいのだと。
 かくて地上に存在するありとあらゆる『帝国』を統べる『泰皇帝』が誕生する。
 この名称については、始皇帝の故事に遡ることは明らかである。かつて秦が中華を統一した時、王たるを超えるために、あらたな名称を考案させた。その時に提言されたのが、天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の三皇の内、最も権威あるとされた泰皇であった。これを下敷きに……(中略)……
 かくして、後に帝国十指として知られる十国――南朝、第三ローマ帝国、麗帝国、中黄、玄真、レムリア、三皇帝国、瀛州、岱輿、員喬――がまとまって、『帝国』として成立する。後に、異姓帝国たる二国を加え……(後略)』

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