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434 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2011/05/04(水) 21:28:23 ID:VjbB8mW60
玄朝秘史第三部第四十五回をお送りします。
今回、時系列順に行くか、話の盛り上がりをとるかを考えて、後者にしたため、微妙に時系列順になって
いません。
実際の出来事の順番から言うと、1〜5節は時系列順で、5節の間に6節が起きている感じです。
まあ、起こっている地域も遠く離れているので、あまり変な感じはしないかもしれませんが、気になる方
もおられるでしょうから注記しておくことにしました。

★投下予定:
46回は5月8日(日)を予定しております。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。
・現状、玄朝秘史の掲載場所は私のサイトとこの外史まとめサイトのみです。投下告知を避難所にて行って
おります。それ以外の場所でのファイル配布などは行っておりません。

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玄朝秘史
 第三部 第四十五回



 1.忠義


 話は少し遡る。
 華琳たちが洛陽に帰還した頃、荊州では兵の一団が南下を続けていた。大きな戦の後には生じる緊張感の欠如は、この部隊に限ってはありえないだろう。なにしろ率いるのは関雲長に趙子龍なのだから。
 彼女たちは兵を率いて、一刀のたてた予定通り南蛮へと向かっているのだ。
 だが、当の一刀はいまはその集団の中にいない。彼と流琉、それに母衣衆の面々は、巴丘へ挨拶に回り、後で追いつく予定であった。
 それがただの儀礼的なものでなく、子供が生まれるのを間近に控えた父親の心情が混じっていることも、愛紗はよくわかっていた。
「父親か……」
 面白い人だ、と彼女は思う。あれだけの若さで、とんでもない数の子を持っているとは。
 ただし、その母となる人物たちの個性が強く、名声もまた高いため、彼の子供というよりは、それぞれの女性の子供という印象が強いのはしかたのないところだろう。結果、彼の女好きの面だけが強調されることになっている。
 実際には子供の顔を見に毎日天宝舎に通うくらいなのだが。
 ただし、これも受け取り方は様々だろう。
 宮中の人間などは、子供を育てるのに自分で動いたりしない。乳母に任せるのが当然だ。一方で、庶人は家族で育てるのが当然であり、時に隣近所、皆で育てるような形にもなる。関わり方は生まれた家や地域によって大いに異なる。そのため、彼の行動を、実に子煩悩だと見る向きもあれば、それほど密なものではないと感じる者もいる。
 愛紗の立場はどちらかといえば後者であるが、子らへの愛情を疑うつもりはない。ただ、実際に彼を見知っていた自分でさえ、側で知るまでは色々と先入観を持っていた事を考えれば、世上でのとらえ方も様々だろうと想像するだけだ。
「私もいつかは……」
 この手に赤子を抱くことがあるだろうかと想像し、それを成すに至る行為が連想される。
 予想外にたくましかった体と、それに翻弄されていた自分の姿が脳裏に浮かびあがった。さらには膚の温もりと彼の息の熱さまで思い出してしまい、彼女は真っ赤になってぶんぶんと頭を振る。
「な、なにを考えているのだ、私は!」
 思わず声が高くなってしまったらしい。近くを歩いていた兵が呼ばれたと思ったのか顔を覗き込んでくるのに慌てて対応する。
「少し前を見てくるとしよう」
 兵たちが了解するのに、彼女は足早に前へ進む。火照った頬を空気が流れて冷ましてくれるのをどこかで期待していた。
 彼女は行軍を続ける兵たちをぐんぐん追い越していく。
 彼らは全員徒歩であった。なにしろ目指すのは南蛮だ。馬はかえって邪魔になる。ただ一人、雛里が騾馬に乗っているのを別にすれば、輜重の荷車を引く牛たちがいるくらいだ。ちなみに母衣衆の乗騎は既に春蘭率いる魏軍と共に洛陽に戻されていた。
「桃香様たちはいまどのあたりだろうな」
 愛紗は呟いて、意識を別のところへ向けようとした。桃香と焔耶は春蘭と共に洛陽へと北上しているはずだ。馬があり、かつ、荊州でも人が多い地域のため、道もしっかり整備されていて、同じ日数でもこちらよりはだいぶ距離を稼げるはずだ。
 ただ、州刺史の司馬徽をはじめとして、行く先々で彼女たちと話をしたがる人間がいるはずで、そのあたりきっと大変だろうと彼女は苦笑する。
 それでも魏軍は数多くいるし、焔耶もいる。安全という意味では心配はなかった。
 ただ一つ北行組で彼女が意外に思ったのが詠だ。てっきり、一刀についてくると思ったのだが、魏軍と一緒に洛陽へ帰るという。
「へ? そりゃ、帰るわよ。月にもしばらく会ってないし、心配じゃない」
 実際に、自分たちとともに一刀と同行しないのか、と訊ねた時の詠の答えがそれであった。愛紗は兵たちの行軍の具合を見回りながら、その時のことを思い出す。
 そう、訊ねられた詠は、実に心外そうな顔をしていたっけ……。
「いや、しかし、詠はあの方の軍師であろう?」
「さあ? どうなのかしら」
 今後の打ち合わせにと彼女の天幕を訪れた愛紗に対して、茶を用意しながら、詠は小首を傾げた。もちろん、愛紗としては南蛮に共に行くつもりであったから、その話をするつもりであったのだが、詠が北に戻るとなれば、それはそれでまた話し合っておくべきことはある。
「忠勤を尽くすつもりはないということか?」
「忠誠心という意味ならば、それはないわ。言っておくけど、嫌ってるとかそういうことじゃないわよ。単純に、あいつにそれを求められていないからよ」
「……む?」
 ぶしつけと思いながらも訊ねたことに否定なのかそうでないのかよくわからない解答をされ、愛紗は眉間に皺を寄せる。その前に茶杯を置き、詠は両手で包むように自分の杯を持って口につける。
「あいつの預かりって意味ではあんたも同じなんだけど……。あんたや華雄や恋は自らあいつに仕えることを誓ったでしょ? 各人、色々と事情はあると思うけど」
「まあ……そうだな」
「一方で、ボクやねね、それに冥琳なんかは微妙なところなのよ。特に、月と雪蓮、冥琳は死んだことになってるし。ボクもそうだったけど、最近はもう本名で動いてるから、ちょっと違うわね」
 愛紗は彼女の言葉の意味を考え、喉を湿らせてから、訊ね返した。
「本来の主が一刀様に従っているから、その流れで従っているだけだと?」
「うーん。それもちょっと……違う、とは言い切れないけれど、でも……」
 あるいはその煮え切らない態度が彼女のかんに障ったのだろうか。いや、そもそも、最初から苛ついていたのかもしれない。
「ただ利用しているだけというなら、その態度はあまり感心せんな」
 その言葉に詠が目を丸くする。当の愛紗は思った以上に鋭い声音になってしまったことを意識していた。
「利用……。うん、利用はしているわね。なにしろ、月を守るためにはあいつに頼るのが一番いいと判断したのはボクだもの。桃香たちのところを出て、自分たちを守るのに、ボクたちはあいつを利用している。月を守るために、あいつの立場を、あいつの権力を、あいつの思いやりを利用していると言っていいでしょうね」
 言葉を連ねる度に、詠の声音は冷たく硬くなっていく。それはそうだろう。それだけの攻撃的な言葉を吐かせるようなことを、自分は言ってしまったのだから。愛紗は謝罪を舌に乗せようとして、しかし、詠の表情に言葉を詰まらせた。
 彼女は笑っていた。実に楽しそうににんまりと。眼鏡の奥の瞳も、また。
「でも、ボクはそれを恥じたりしない。だって、そういう約束だし、それに、きちんとあいつに力を貸しているもの。それを言うのなら」
 詠はくすくす笑いながら、彼女の瞳を覗き込んだ。
「あんただって、あいつを利用しているじゃない」
 愛紗は目の前の女性が怒っているわけではないことを、その様子でようやく理解した。あるいは怒りを通り越してしまったのかもしれないが、少なくとも詠は怒りを理由に彼女を追い詰めようとしているのではない。
 そこにあるのは、なにか期待する心だ。その向かっている先は、愛紗か、あるいは……。
「ボクはそれでいいと思うわよ。あいつは頼ってもらうことに喜びを感じているし、ボクたちも、頼りっぱなしなだけじゃなくて、それなりのことをきちんと返していっているつもりなわけだし。あんただってそうでしょ?」
「それは、そうだ。しかし、私は」
 なにか反論しようとして、愛紗は自らの舌が痺れたように動かないことに気づく。
 いまは彼に忠義を尽くしている主張するか? だが、元々は緊急避難であり、一事の仮の宿だと思い定めていたことも事実だ。詠の言うように、一刀が彼女に力を貸すことを喜んでかどうかはともかく納得していたのも確実だ。
 そもそも、詠が月を守ると誓っているように、愛紗も共に歩むべき人物として桃香を最上としていたのではなかったか。
「結局の所」
 愛紗の沈黙をなんと受け取ったか、詠は小さく肩をすくめる。その動作になにか疲れたところがあるように思うのは考えすぎだろうか。
「あいつがはっきりしないのが悪いんだけどね。そろそろ逃げ回るのも限界に来ているって気づいているのかいないのか」
「そうはっきりさせねばならぬことばかりでもあるまい」
 詠の言いたいことは、なんとなくわかる。だが、彼の立ち位置が曖昧だからこそ詠も、そして、愛紗も救われた面がある。それを否定するわけにはいかないだろう。
 その返事は、どうやら予想外であったらしい。詠は一瞬驚いたように愛紗のことを凝視すると、再び面白そうに笑った。
「たしかにね。いまの状況が居心地いいのも事実だし。互いに頼りあって、それが地位ではなく、単なるお互いの関係であるというのは……でも」
 そこまで言って頭を振る詠。三つ編みがふるふると揺れた。
「なんか恥ずかしいこと言ってるわね、ボクったら」
 愛紗は答えなかった。きっと独り言のようなものだったろうと思うから。その代わり、一呼吸した後で彼女は別の事を言った。
「そうだな。詠たちのことを云々したのは余計なお世話だったかもしれない。だが、そう、私は――いまの私はあの方に仕える身だ。我が力の及ぶ限り、忠勤を尽くすつもりでいる」
 うん、と詠は素直に頷いた。その動作がなぜか奇妙にしっくりとくるもので、愛紗は不思議な安堵を覚える。
「それはそれでいいんじゃないかな」
 その時、ふと思ったのだ。あるいは、詠の態度が癪に障ったのは、自分の彼女に対する嫉妬も混じっていたのではないかと。
 だが、当の詠はそんな愛紗の感情の動きには気づいた様子もなく、愛紗の返事にどこか嬉しそうに頷いている。
 二人はしばし、茶で喉を潤し、次の話題を探そうとするかのような沈黙が落ちた。詠はふと思い出したように、おずおずと切り出す。
「ただ、ちょっと……。そうね、これは、単なる友人の忠告として受け取って欲しいんだけど」
「うん?」
「なにかを殊更に強調する時ってね、かえってそれが欠如しているか、あるいは失われようとしている時なのよ」
 責めるでもなく、嘲るでもなく、彼女は淡々とそう指摘する。
「いまのあんたにはやるべきことがあるし、あいつも側にいる。そこまで不安に思わなくてもいいんじゃない?」
「そう……だな」
 その言葉を呑み込むのは、なかなかに苦労した。自分でもなんと表現して良いのかわからぬものが胸に詰まっていたから。しかし、愛紗は小さく首を振り、後ろにくくった黒髪を揺らして、それをなんとか押し込んだ。
「一つ訊いていいだろうか?」
「なに?」
 自分のことから逃れるように、愛紗は詠に訊ねる。
「もし、あの方が、一刀様が、その……」
「ボクの立場をはっきりしろと求めて来たら?」
 濁した言葉を明瞭に告げられて、愛紗は頷くしかない。詠はしばし考えるように視線をさまよわせ、そのまま愛紗と目をあわせることなく言った。
「さあ、どうなるでしょうね。こればっかりは、月もボクもわからないわ」
 でも、と彼女は続ける。
「そうね。待ってはいるんだと思うわ。きっとね」
「待っている?」
「あいつがそういう決断をするに足る……人になる時を」
 視線を戻し、真っ直ぐ愛紗のことを見つめながら、彼女はそう言ったのだった。
 回想は、そこで途切れる。その後はもう本当に打ち合わせの話となって、特に思い出す必要もないことだ。愛紗は、詠との会話を反芻するように思い返しながら、辺りの風景を見回した。
 一刀たちと合流するはずの元水の畔にはまだ遠い。だが、いまのところ、白眉の残党に邪魔をされる気配もなく、明日か明後日には予定通りついていることだろう。
 そうして、彼女たちは南蛮を目指す。
「私には待つ時間はない」
 行進の列の中央部分に戻りながら、愛紗は呟いた。
 不安と、詠は言った。
 だが、それは不安ではなく、喪失への懼れではないか。
 古い立場を失い、新しい自分を得た。
 そして、また、新しい己を捨て去り、本来の道へ戻る時が近づいてきている。
 その時を迎えたいのか、そうでないのか。
 いまの愛紗にはそれが断言できない。そのことが、実にもどかしく、そして、同時に胸の詰まるような切なさを呼び起こすのだった。


 2.密林


 星がからかいに来ない。
 一刀たちと合流し、南へと行軍を進めるうち、愛紗はふとそんなことに気づいた。
 前後に広がった部隊の様子を話し合う時に顔をあわせはするものの、それ以外の時にも、ふらりと現れるのが彼女の常だったはずだ。しかし、今回は姿を現さない。
 順当に考えれば雛里についているということになるだろうが、趙子龍はそんな殊勝な人間ではないだろう。
 となれば、理由は一つ。
「よほどメンマに心奪われているのか」
「めんま?」
 近くを歩いていた一刀が繰り返す。彼がそこまで側に寄っているとは思ってもみなかった愛紗は少々動揺しながら返事をする。
「ああ、いえ、星のことです。なんでも南蛮には南蛮大麻竹とかいう、伝説のメンマの材料があるのだとか」
「へえ。メンマ作りが好きなの?」
「作るのが好きと言うよりは、メンマの全てが好きといいますか、病気と言いますか……」
 兵たちが前方で倒木をどかしているのにあわせて愛紗たちは足を止め、汗を拭きながら話を始める。膚に浮く汗は、ずっと歩き続けているからというだけではない。むっとする熱気が周囲を覆っているからだ。
 果たしてここが南蛮の領域と言っていいのかどうか、愛紗にはいま一つわからなかったが、気候的にはそう違わない。かつて攻め入った密林よりは木々の間が広く、兵を進める苦労は少ないが、それでもいま懸命に兵たちが倒木をかついでいるように、邪魔な草木を切りひらき、あるいはどかして進まなければいけないのは同じだ。
「いずれにせよ、目当ての竹を見つけて、メンマを作るつもりでしょう。あるいは、成都に竹を植えることを考えているかもしれませんが……」
 そんな推測を話していると、先頭にたって倒木を動かしていた――というよりも彼女に限っては破壊していた――流琉が作業が終わったと伝えに来た。歩みを再開しつつ、愛紗と一刀はそれまで話していたメンマのことを流琉にも伝える。
「伝説っていうからには美味しいんでしょうか?」
 興味津々という様子で愛紗を見つめる流琉。軽装の流琉はこの暑さでもそれほど汗をかいていないが、虫や草木での傷は大丈夫なのだろうかと愛紗は心配してしまう。
「おそらくは」
「へえ……。兄様」
「ああ、後で聞いてきたらいいよ」
 料理は自分の職分だと考えているらしい流琉が期待の視線を向けるのに、彼は鷹揚に頷いてみせる。
「はいっ」
 嬉しそうに返事をしてから、流琉はふと愛紗のほうを見る。
「愛紗さんは、最近は料理の調子はどうですか?」
「う、ま、まあ、少しは腕が上がったと思うが……」
「また食べさせて下さいね」
「う、うむ」
 暑い最中だというのに背に冷や汗が流れるのを感じつつ、愛紗は返す。料理に関しては、正直なところ自信がなかった。だが、まさかさらに冷や汗を倍加させるような声がかかろうとは。
「それ、俺も食べたいなあ」
「か、一刀様!?」
「だめ?」
 玩具を取りあげられた子供のような表情で問いかけるのは反則ではないだろうか。
「う……き、機会がありましたら……」
 赤面しつつ彼女が言うのに、にっこり微笑みかけ、一刀は表情を引き締めて別の話題に移った。
「食べ物と言えばさ」
「はい?」
「兵糧は大丈夫かな? それと水」
 ちらと背後を見やりつつ、彼は訊ねる。兵たちの群れの後ろには兵糧を運ぶ牛たちがいるはずだ。
「水は兄様の言いつけ通り元水で綺麗な水を汲んで、それを運んで来ましたけど、そろそろ……」
 流琉が申し訳なさそうに言う。煮炊きで水を一番使っているからだろうか。
「もう足りない?」
「いえ、無くなるより前に悪くなってしまうと思います」
「兵糧についても同じです。糒(ほしい)はまだ大丈夫でしょうが、他はもう駄目になりかけてます。腐ってしまう前に食べてしまうしかありません」
「この陽気じゃなあ」
 流琉と愛紗の報告に、一刀は肩をすくめる。日差しは木々の間をくぐっているおかげでその光量を減じているが、その分なにか閉じ込められたような熱気が空間に満ちている。木々と草との匂いが濃密に漂い、地面は苔と泥が入り交じる。
 こんな場所で、食べ物や水が痛まないはずもない。
「しかし、現地調達は……どうなんでしょう」
 流琉の視線の先に、茸の群生が見える。それは、赤から紫にかけての微妙な色合いをしており、とても食べたくなるような代物ではなかった。
 外見はともかく、毒があるかどうかがわからない以上、手を出せない。他の植物も、北方にはないものがほとんどで、安全なものを見分けるのは難しいだろう。獣や魚の類はまだ見慣れたものが多いが、それにしても数多くいる蛙や蛇は毒を持つ可能性が高い。
「うーん」
 一刀は少し考えている様子だったが、愛紗と流琉にもう一度詳細を確認した。
 兵糧の残りを早い内に食べてしまったとして何日保つか、持参してきた水が使えるのはいつまでか。薬品の類は十分か。そのあたりを聞いてから、彼は、うん、と決意したように頷いた。
「よし。ここは一つ雛里と相談したほうがいいと思うんだが、どうだろう?」
「そうですね。備えておくにこしたことはないでしょう」
「私も賛成です!」
「じゃあ、そうしよう。……流琉を連れていって大丈夫?」
「はい。こちらはお任せ下さい」
 しっかりと愛紗が請け負ってみせるのに、一刀は安心したように頷いた。


 3.熱病


 兵たちの列を外れて、雛里がいるはずの先行する一団に向かって歩いていると、周囲の物音が余計に意識された。
 それまでは兵たちに囲まれ、その歩く音や鎧がたてる音に紛れてあまり注意を向けていなかったが、森の中はなかなかに賑やかだ。
 鳥の鳴き交わす声はぎゃーぎゃーとまるで子供が騒いでいるようだし、蛙の類がたてる音は低く地を這うように響く。木々の間を風が抜けるのか、あるいは動物が移動しているのか、ばさばさと枝が揺れる音が聞こえるし、時には猿のものらしき吼え声も聞こえる。
 そして、周りから漂う圧倒的な森の匂い。ありとあらゆるものが混じり合ったようなその匂いは、密林の匂いとしか言い様がない。
 周囲に緑と茶の色が多すぎるせいか、空気すら緑の色がうつっているように感じられた。
「こんなところで美以たちは暮らしているんだなあ」
「どこの森も、奥まで入れば変わらないような気もしますけど。もちろん、洛陽とは大違いですが……」
「まあね。でも、ここまで暑くない。暦だけで言えば、いま、冬だぜ」
「それは確かに。だから、南蛮の人たちはいつもあんな格好なんでしょうか」
 流琉も露出度でいったら美以たちと変わらないどころか、勝ってるんじゃないか、とは思っても言わない一刀であった。
 雛里たちの一団は思っていたよりも近くにいた。つまり、あまり先行できていないということだ。一刀たちは訪れた用件を告げると、本格的に話し合いを始める前に、そのことを訊ねてみた。
「どうして、あまり進めていないかですと?」
「うん。なにか障害でもあった?」
 星と一刀、二人が話すのを、雛里は帽子を強く引き寄せ顔を隠しながら聞いている。その態度が申し訳なさそうなものであるのに気づいて、一刀は殊更に優しく声音を作った。別に責めに来ているわけではないのだ。
「いえいえ、そういうわけではありません。ただ、こちら側からは詳しい地図はありませんからな。しかたないところでしょう」
「そうか、普段は成都から南下?」
 恐縮している様子の雛里に対して、星はいつも通り余裕たっぷりの態度でそう答える。一刀はそれでだいたいの理由を悟った。
「……はい。そうです。ですから、おおまかな場所はわかっても……」
 その答えに、一刀は何か引っかかるものを感じた。普段通り、おずおずとした調子の言葉のどこに注意が向いたのか、彼自身よくわからずにその違和感を抱いたまま話を続ける。
「そうか。それはしかたないよね。多人数で移動となると直線ではいけないだろうし」
「私一人なら、すぐにでも美以たちのところへ行けるのですがな」
 星は身振り手振りで木の上をこう飛び移りましてな、と説明してみせる。たしかに、彼女ならそれくらいやってもおかしくないと一刀は思っていた。なにしろ仮面をかぶって、屋根の上から現れるのを常としているくらいだ。
「そうなると、時間がかかるのかな。さっきも言ったとおり、水と兵糧の件をどうにかしないといけないと思うんだ。それに、風土病も怖い。俺たちはともかく、兵たちは戦疲れもあるだろうしな」
「なんだか、私たちが疲れないみたいな言い方ですね、兄様」
「いやいや、そうじゃないけどさ。でも、兵よりは体力あるだろ? 俺とか雛里はちょっと怪しいけど」
 流琉が悪戯っぽく指摘するのに、一刀もまた明るく返す。その一方で視線をさまよわせていた雛里が少々沈んだ声で言った。
「……たしかに、私もなにか考えなければいけないとは思っていました。ただ、美以ちゃんたちと合流できれば、食糧に関しては解決できると思いますので……」
「それはそうですね。それこそ、将一人と直轄の兵少数で先に行かせてしまうというのもありなんじゃないでしょうか」
「うむ。それは悪くないな。しかし、戻ってこられるかどうか。こちらも移動しているとなると、再会するのも難しくはならないか」
「あ、そうですね。それでは、居残りの部隊でも……」
 雛里の発言をきっかけに、星と流琉が案を出している間、一刀はじっと雛里のことを見ていた。先程から彼女は視線をあちらこちらに動かしている。それは何かを考えている人間がやる仕草によく似ていたが、一刀にはなにか気になった。先程の違和感が尾を引いていたのかもしれない。
「それにしても、水の確保が難しいですよね。この地域の水は毒泉から出るという話もありますし……。でも、南蛮に暮らす人たちが飲んでるとしたら、大丈夫なんですかね?」
「いやあ、あれもあれでなかなか。それこそ異境の地からやってきている兵たちの体を考えれば、やはり水にも注意すべきかと思うが……。どう思うかな?」
 話に加わっていない雛里と一刀に対して、星が口元を隠しながら視線をやる。一刀は一息吸うと、来る前から考えていた答えを告げた。
「うん、それに対しては俺にも考えがあるよ。濾過装置を作ってやれば、毒水って言われるものでも漢人が飲んでも大丈夫なように出来ると思う。ただ、それを作るとなると、大がかりになるから、どこかでしばらく留まることも考えに入れないといけない」
 そうなればそうなったで、予定はかなり変わって来る。しかし、水や食糧が心許ない状況で行軍を続けることを考えればそのほうがましであることは間違いない。
 とはいえ、実際にそれらの行動を選択するのならば、皆の意見を聞いておくことは必要となる。黙り続けている雛里に対して、皆の意識が集まった。
 だが、騾馬の背で揺られ続けている雛里は答えることはしない。この場合、なにも言わないのは現状の意見に反対とも思えるが、そういう態度でもない。
 皆が不思議に思う中、それでもふらふらと顔をあちこちに向けている雛里に、星が焦れたように声をかけた。
「軍師殿」
「……はっ? へ?」
 そのふわふわとした声と、顔を向けるのもおぼつかないような反応で、一刀は確信した。
「ちょっと失礼」
「兄様!?」
「おやおや?」
 騾馬の上に手を伸ばし、流琉が素っ頓狂な声をあげ、星が面白そうににやついている間に、小さな体をさっと抱き留める。それに対して声をあげることもせず、雛里はぼうっとした顔で彼の腕の中に収まった。
 額に手を当てる必要などなかった。抱え上げている彼女の体はどこもかしこも熱かったから。
「ひどい熱だ」
「えっ!」
「なんと……」
 低く抑えた声で告げると、あわあわとどうしていいかわからないような奇妙な動きをしていた流琉が驚愕に棒立ちになり、白い衣の女性は口惜しげに唇を噛んだ。
 だが、一刀としては、それに構っている暇はない。
「星。すまないが、一時的に俺が取り仕切る。いいかい?」
「非常時のようです。それがよいでしょう」
 一瞬だけためらい、星は大きく頷く。その臙脂色の瞳が轟々と燃え上がるように見えた。
「よし、じゃあ、星、まずはこの辺りの兵をまとめてくれ。それからここに天幕を」
「承知」
 一刀が言うなり、彼女はその体を翻して素早く動き出している。星の鋭い命によって、兵たちの動きが止まり、彼らを守る様な態勢へと移行していくのがわかる。
「流琉、愛紗のところに行って、一緒に全軍が数日……いや、十日は過ごせる場所を探すか切りひらくかしてくれ。時間がかかるようなら、連絡を」
「はい」
 一刀は腕の中の雛里を見る。彼女は朦朧としているのか、周囲の言葉を聞いても反応はしていない。ただ、助けを求めるように男の顔を見上げていた。安心させるように笑いかけ、一刀はさらに流琉に頼んだ。
「それから、薬をこちらに届けさせてくれ。医療の心得のある者がいたらそれも」
「わかりました!」
 風のように走り去る小さな背中を頼もしげに見送り、再び彼は腕の中の少女の顔を覗き込んだ。
「……さて」
 彼の腕の中、既にその小さな女の子は意識を失っていた。苦しそうな息をか細く響かせながら。


 4.看病


「ひとまず……落ち着きましたか?」
 夕暮れが近づく頃、陣を形成したという報告に来た愛紗は、小型の天幕の中央で眠る雛里の姿を見て、声をひそめた。
 額には汗が浮かんでいるものの、息は整っている。膚が紅潮していることからして熱はあるのだろうが、そこまでひどい状況には見えなかった。
 その横に座り、彼女の様子を看ていた一刀が笑顔で頷く。
「うん。だいぶましになったよ。何度か目もあけてた。ただ、俺が誰かとかはわかってなかったみたいだ。朱里と間違えたりしていたよ」
「そうですか……」
 暗い顔で愛紗は頷く。当人はそこまで意識していないかもしれないが、そもそもが整った顔立ちの女性だ。多少の憂鬱そうな表情でも、かなりの強烈さだというのに、今回はことさらにどんよりとしていた。それを吹き払うように一刀は明るい声を出す。
「それにしても、軍の中で一番医術に詳しいのが当の雛里だから、看た人間が遠慮すること遠慮すること。ともあれ、まずは熱を下げるのが先決みたいだ。ただ、やっぱり体力が……」
 二人は小さな体を見下ろし、それぞれに小さくため息をついた。
「疲れもたまっていたのでしょう。我々がもっと気をつけてやるべきでした」
「うん。反省だね。でも、いまそれを言ってもしかたないから、置いておこう」
 それから、一刀は愛紗の耳に口を近づけた。
「あのさ、一つ困ったことがあるんだよ」
「はい?」
 囁くような声とともに、雛里にかけていた布の一部をめくる一刀。そこには彼の服の裾をぎゅっと握る小さな拳があった。まるですがりつくようなその手を見て、愛紗は目を細める。
「移ってからは女性に任せようと思っていたんだけど……」
 これを振り払って誰かに預けるのは躊躇われる、と一刀は言う。それに愛紗も同意した。
「側に誰か居て欲しいのでしょう。最初に気づいた一刀様に頼るのも当然です」
「そ、そういうものかな」
「ええ、そうですよ。他の誰かではいけません」
 きっぱりと言い切って、愛紗は微笑んでみせる。その信頼感溢れる表情に、一刀は思わず赤面していた。
「じゃ、じゃあ、やっぱり俺が看病を続けるか……」
「それがよろしいかと」
 さすがに世の人も、病身の少女に手を出すとは考えないでしょう、とは言わないでおく愛紗であった。
 それからは二人無言で雛里の額の汗を拭ってやったり手を握ってやったりしていた。そうする内に、天幕の扉が叩かれ、白い着物がずいと入ってくる。
「牛の用意が出来ました。この天幕ごと車に乗せられます」
「そうか。わかった。じゃあ、移動する前に、これからどうするか話をしておきたい。狭いけど入ってくれるからな」
 半身を差し入れて報告する星を招く一刀。
「いいでしょう」
 小型の天幕の中に寝床を作ってあるだけに、四人が入るといかにも狭い。結局、愛紗と星は立ったまま語らうことになった。
「さて、これからですが」
 天幕の出口を塞ぐ形で立つ星が口を開く。彼女も愛紗もその目は一刀に向かっている。この場の中心が彼であると示す意図が如実に感じられた。
「うん。ひとまず雛里が快癒するか、まあ、動けるくらいになるまでは、俺が引き続き指揮を執る。そのほうが混乱がないと思う。いいだろうか?」
「ええ、それは」
「雛里が倒れている以上、そうするのが妥当でしょう」
 二人の承諾を得て、一刀は大きく頷いた。決意を強めるようにしっかりと息を吸い、言葉に力を込める。
「よし、じゃあ、俺の方針はこうだ。まず、星。星には少人数で美以たちのところへ向かってもらう。彼女たちの協力も必要だと思う」
 同意の仕草を示す星。一刀もそれに答えて言葉を続けた。
「次に残った俺たちは、愛紗と流琉が見つけてくれた場所で雛里の看病をしながら、星が戻ってくるのを待つ。これが大方針」
「ふむ」
「残って待つ俺たちだけど、兵たちも病気にかかる可能性がある。雛里の様子からみると単なる熱で、疫病だとは思えないけれど、慣れない環境で弱っている兵士もいるはずだ。それをみつけてきちんと治療、あるいは予防しないといけない」
 まずは自己申告を募ろうと思う、と一刀は告げた。ある程度一箇所に留まるとなれば、多少の体調不良でも気軽に言いやすくなるだろう。なにしろ置いて行かれる心配はないのだ。
「そのために、綺麗な水と、食糧が必要だ。さっき星たちには話したのだけれど、水の濾過装置を作ろう。これは流琉に担当してもらおうと思ってる。それと同時に食べられそうな獣と魚を入手する。こちらは愛紗に頼む」
「周辺警戒をしつつ、猟をするわけですね」
「うん。魚や獣ならなんとか見分けられるはずだ。流琉もいるからね。それから、俺は看病をしつつ、本陣に留まることになる。どうだろうか?」
 彼の提案を聞いて、愛紗と星は目配せを交わす。そのあたりは戦友のあうんの呼吸であった。
「悪くない案かと思います。雛里を見ている人間は必要ですし、星ならばきっと美以たちの所にたどり着けるでしょう」
「そうですな。北郷殿が知恵を出し、全体を指揮し、我らがそれぞれに動く。正しい形でしょう」
「よし。じゃあ、夜になる前に本陣へ移動しよう。星は夜が明けたら出発してくれ」
 ほっとしたように一刀が言うのに、二人が答え、そのようになった。


 夜も遅くなると、雛里の熱はまたぶり返した。
 彼女の調子がよくなったならば、隣接して設置された――まさにつなげて作られているので、布一枚隔てて位置することになり、なにかあれば駆けつけられる――自分の天幕に移ろうと思っていた一刀は予定の変更を余儀なくされた。なにより、服の裾を握って離さない指をひきはがしたりするようなことは彼には出来なかった。
 とはいえ、彼にも出来ることと出来ないことがある。寝る前にと様子を見に来た流琉に雛里の服を着替えさせ、汗を拭くのを頼んで、しばし彼は天幕の外でたたずんでいた。
「女の子、なんだよなあ」
 一刀は呟く。
 女ではない。あくまでも、女の子だ。
 それは雛里が病躯のために気弱になっているだとか、体の発育がどうとかいうこととは関係ない。単純に年齢的なものとして、まだまだ雛里という人物は少女と呼ぶのがふさわしい。
 それでいて、彼女は一国の軍師でもある。その背に負うものは、公的に見れば一刀以上のものがあるはずだ。
 一刀とて、彼女と同年代の少女たちが、それぞれに重責を担っていることを知っている。そして、それだけの力があり、今後もそれを発揮するであろうことを知っている。
 それでもなお、その手に抱いた小さな体を思うと、なんだか不思議な感慨を抱いてしまうのだ。
「ま、それを言ったら流琉だって、女の子なんだけど」
 いままさに雛里の面倒をみているはずの流琉のことを思い出し、彼はなんとも言えない気分になる。
 彼女たちの活動を否定する気もなければ守ってやるなどと大言壮語するつもりもないが、それでも一人の男として彼女たちを、そして、さらに次の世代を守っていかなければならないと思う。
「そういえば、華琳はもうあれを読んだろうか?」
 まだだろうと思う。いくら北方の方が道が整っているとはいえ、江水をこえ、さらに北上して洛陽に至るまでは距離がある。まして魏軍がかなりの数いるのだから、足を速めるにも限界というものがあるだろう。
 だが、いつ華琳が一刀の書状を読むにしても、それは問題ではない。
 彼はそこに自らの志を込めたのだから。
 全てを守りたいという思いを。
 ねっとりとした熱気が層をなして体にのしかかるような、そんな風の無い夜を感じながら、一刀は改めてその思いを強くしていた。
「兄様?」
「あ、流琉。終わった?」
「はい。それで、あの」
 天幕から出てきた流琉は、遠巻きにある篝火の灯りに照らされた彼の顔を見上げながら、おずおずと切り出した。
「もしよかったら、私、兄様の天幕にいましょうか?」
「ああ、それはいい。是非頼むよ」
「はい!」
 流琉がそう元気よく答え、二人はそれぞれに天幕に入る。
 すると、雛里の腕が、何かを探すように動いているのに一刀は気づいた。彼女の目は瞑られているし、なにか目的があるようにも見えない。おそらくは無意識の行動なのだろう。あるいは単純に体の中の熱を逃すための動きなのかもしれない。
 一刀は痛ましい思いで彼女の横に体をすべりこませた。愛紗の言うように、側に人がいるほうが安心だろう。せめて、安らげるようにしてやりたかった。
 だが、彼が添い寝をする格好になると、雛里の手は吸い付くように彼の服の裾へと動いた。きゅうとそれを掴む指に力が籠もり、そして、安心したような笑みが彼女の頬に刻まれた。
 小さな呟きが聞こえたような気がして、一刀はそっと体を動かし、彼女の口元に耳を寄せる。
 ぜーぜーいう息の合間に、彼女は何度もこう繰り返していた。
「……か、あ……さま……」
 と。


 5.回復


「な、なんというご迷惑を……」
 雛里がなんとかまともに話せるようになった時、事態を把握しての第一声はそれだった。
 この間に美以たちと連絡をとった一刀たちは彼女たちの協力によって南蛮領を通過し、ほぼ密林を脱出しようかというところであった。
 美以たちは故郷の地で一刀を歓待できないことを残念がったものの、雛里――と南蛮の風土病に罹った幾人かの兵――の体を優先してくれて、病人を運ぶ籠を作り、それを象に乗せて運ばせるということまでしてくれた。
 おかげで病人に負担をかけることなく成都までたどり着けそうであった。
 ただいくつかの問題は残った。
 その一つは、一刀の甲斐甲斐しい看病ぶりを愛紗たちから聞かされた雛里が、それ以来彼と顔を合わせる度に赤面して
「あわわ……」
 と呟くことしかできなくなってしまったことである。
 しかたのないところだ、と一刀も思っていたし、周りも苦笑しながら受け入れていた。熱は下がったとはいえまだ無理の利かない彼女が、成都につくまでは指揮を一刀に任せることに賛同したため、実務上問題がなかったからだ。
 時間が解決するであろうと、一刀も、そして、おそらくは雛里も考えていた。
 ただし、もう一つは少々深刻であった。
 星が――あの星が――真面目に働いていたのである。
 雛里が抜けた穴を埋めるべく、蜀の兵たちを指揮し、きびきびと報告し、象と、それに乗る病人と南蛮兵のために森を切りひらく面倒な作業にも積極的に参加した。
 たしかに重要な時に手を抜くような人間ではない。しかし、彼女を知る者ほど、その働きぶりは意外に思えた。
 少なくとも愛紗は目を疑った。戦の時ならばともかく、このような時はかえって余裕を見せるのが星という人間ではなかったか、と。
 そして、愛紗は彼女をしばらく観察した結果、結論づけた。
 星はふさぎ込んでいるらしい、と。
「そんなに南蛮大麻竹が手に入らなかったのが残念だったのかな」
 星が大まじめに働いているのは、どうやら彼女がなにかにしょげていて、その反動であると見て取った愛紗は、一刀に相談を持ちかけていた。
 成都までもう数日というところであった。
「……どうでしょう。いまのところ、やるべきことはやってくれているので、文句も言えません」
 働いているのに文句をつけるわけにはいかない。それが、なにかの代償行為であったとしても、しっかりやってくれているのだから。
 だが、愛紗には拭いがたい違和感がある。なにか大変なことでも起きないかと不安でもあった。もはや、成都までなにがあるというわけでもないのに、だ。
「うーん。この行軍でなにかあったんだとしたら、俺もなにか手を貸してやりたいなあ……」
 一刀も程度の差こそあれ、なにかひっかかるものは感じていた。それについてどう言っていいものかはわからないが、少なくともこの南蛮行で協力してくれた礼くらいはしたい一刀であった。
「もしよろしければ、一刀様も一度お話ししてみてくださいませんか? これに関しては成都についてからでもいいのですが……」
「そうだね。機会を探ってみるよ」
 そこで一刀はふと考える。星が酒好きであることを思い出したのだ。
「ああ、そうだ。桔梗に成都のいい酒屋を聞いて、そこに星を誘うのはどうだろう?」
「喜ぶと思います。……が、あまり喜ばせすぎても問題な気もしますが……」
「はは」
 とにかく今日明日になにかできるわけでもない。
「まあ、まずは注意してるくらいかな」
「そうですね。変に腫れ物のように扱ってもいけませんから」
 うん、と頷き、彼は話が一段落したと見て、己の天幕の中を見回した。荷物の中にある酒瓶に目が行く。
「どう、俺たちも一杯やる?」
「……そうですね、今日はもうなにもありませんし」
 既に蜀の領内。しかも、成都までそう遠くない場所である。白眉全盛の時分でも荒れていなかった地域でもあるし、飲んだからといって問題はないはずだった。
 だから、二人は思いきって久しぶりの酒を楽しんだ。
「なかなか美味いですな」
「華琳の造った酒だしな」
「なんと、華琳殿の!」
 舌にまろやかで、すっきりと抜けていく香りを持ったその酒を、愛紗は思わず覗き込む。ひたすらに透明な酒は、恐ろしいほど丹念に醸造を重ねた結果であろう。
「本当は戦勝祝いに飲むつもりで持ってきたんだけど、色々あったからさ」
 愛紗はなにも口にしない。ただ、一刀が持ち上げる酒杯に己のそれをあわせるだけだ。
「酒は詩を釣り、憂いを払う……。はて、誰の言葉だったかな」
「詩作でもしますか?」
「いや、聞くほうが好きだな」
 そんなことを言いながら、二人は杯を重ねる。なにを語るでもなく、なにを求めるでもなく、ただ、差し向かいで飲み続けた。
 ふと、なんでもない話題のように、それは切り出された。
「もう三日もすれば、成都についてしまいますね」
「そうだな」
 三日、そう、三日だ。あるいは四日かもしれないが、大した問題ではない。
「……そうしたら、私は一刀様の臣ではなくなる」
 一刀は答えない。それは否定か、あるいは肯定か。
 彼が酒を呷り、そして、杯を置く姿を見つめて、愛紗はもう一度訊ねた。
「違いますか?」
 いつの間に、彼女はくくっていた髪を解いたのか。長い黒髪は彼女の体を包むように広がり、その柔らかな感触を触れずとも伝えてきていた。
「うまくいけば、そうなるはずだ。ただ……ずれちゃってるかもしれないけど」
「そうですね。雛里のこともありました」
 予定で言えば、南蛮滞在はかなり短縮されている。病人を連れている事による遅れと相殺しても、当初の目論見を外している可能性は高かった。
「しかし、少なくとも私を蜀に置いて行かれるご予定のはず」
「うん。約束を果たすよ」
「ありがとうございます」
 愛紗の頭が下がる。下がりきる前にその瞳に見えたものを、一刀は気のせいだと思い込もうとした。
 けれど。
「本当に、ありがとうございます」
 その声が、湿っていることを、彼は感じ取ってしまった。だから持ち上がった彼女の顔が涙で濡れていても驚きはしなかった。
「でも、いまは」
 ずい、と彼女の膝が前に進む。もはや一刀の前に置かれていた台は他所に追いやられている。
「いまは、あなたが私のご主人様」
 倒れそうになる体を、力強い腕が包み込む。無敵の関雲長に非ず、ただの女と化した肉体を、彼の腕が引き寄せる。
「もう一度、私にしるしを下さい」
 そう願う彼女の唇はふさがれ、服は一気に剥がれた。
 彼女の望みのままに。


 6.守護


 ――時はわずかに遡り、洛陽。
「守護、ですか」
 王佐の才と称えられる知恵者、荀文若は怒っているようでいて笑い出しそうな、実に複雑な表情で、主の言葉を繰り返した。
 ぴこぴこと猫耳型の頭巾を動かす彼女に視線が集中するのに、ふんと鼻を鳴らす。
「なんたる傲岸、なんたる不遜!」
 鋭い声が走り、しかし、すぐにすました表情で、彼女は声を落とした。
「目の前にあいつがいたら、そうなじるところですが、いまはやめておきます」
「そうね。まずは内容の方を聞いてちょうだい」
 芝居がかった桂花の態度に小さく笑いを漏らし、金髪の覇王は話を続ける。
「そもそも一刀がなぜそんなことを言い出すに至るかの過程もまたここに記されていたわ。白眉という民衆叛乱に接して、なにを見、なにを考え、なにを得たかがね」
 そこで彼女は言葉を切り、反省するように首を何度か振った。
「どうも、私は、あれから必要以上に泥臭い戦の現場を見せる機会を奪っていたみたい」
「おにーさんは、基本的には皆の連絡役というか、指示して回る役目でしたからねー。戦をしていない時に兵士たちと接することは多くても、敵を間近に見て膚で感じるというのは、少なかったかもしれません。北伐は、総指揮官ですしねー」
「一刀殿の役割から言えば、へたにそれを知ってしまうと考え方が歪む可能性もありましたが……。今回は良い方に働いたということでしょうか」
「さあ、そこが……微妙ね」
 風と稟が言うのに、華琳は奇妙な笑みを浮かべて応じた。決して手放しで賛成するという雰囲気ではなかった。
「一刀曰く、民には正義を示すべきだ、と言うわ」
「正義、ですか」
「そう、理想と言い換えてもいい。民にわかりやすく、それでいて実効力のある理想を示すことが、国のためでもあり、民のためでもあると」
 当の一刀がいくつもの回り道をしながら到達した結論を、華琳はこともなげに言い、そして、軍師たちもすぐに理解した。それによく似た例はすでに彼女たちも経験していたからだ。
「しかし……いまさらそれを言うということは、蜀のような甘い言葉だけではないのですよね?」
 桃香が示し、一国を立てるに至った理想とは、庶人の希望、期待、願いをかきたて、そして、結局の所それに見合うものを与えられない甘言の類だと、桂花たちはみなしていた。実地で――力で切りひらいてきた華琳のやり方とは真っ向から敵対する概念だ。
 乱世の時代にそれを身近で見てきたはずの男がいまさら口にするにはおかしな話であった。
「甘言のようでもあり、事実甘言なのでしょうけれど、実現すれば、それはたしかに正義だと思える事ね。一刀が示す正義とは――簡単に言えば、あらゆる戦を終わらせること、だそうよ」
 その言葉に対する反応は綺麗に三分した。
「戯言です」
「おやおや」
「ほう?」
 桂花は忌々しいと言わんばかりに吐き捨て、風は呆れたように額を押さえ、稟は眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。
 華琳はそんな三人に苦笑しながら、なだめるように手を振って示す。
「あらゆる戦を終わらせるためにはどうすればいいかということも、一刀はきちんと書いているわよ。実に単純で明快だわ。私に世界を獲らせるんですって。この大陸どころか、一刀の故郷たる列島、その遥か先にあるもう一つの大陸まで。書面にはこの星を獲る、と書いてあるわね」
「星……?」
 風が小首を傾げるのに、稟が目を瞑ってなにかを思い出そうと眉に皺をよせる。
「一刀殿に聞いたことがあります。この大陸どころか、全ての大陸、海まで含めて一個の球体の上にあると。それを惑星と呼ぶとか……」
「……要するに、ありとあらゆる地を華琳様の支配下に置くと?」
 桂花がまとめた言葉を聞き、場に一拍の間が開く。その間、誰も発言せず、そして、それが故に一刀が示したという言葉の意味が皆の心の底にまで染み渡った。
「そんなことが出来るんですかねー」
 冗談のような口調で、しかし、風は普段とは微妙に異なる声音で言う。つきあいの長い稟でようやくそのことに気づく程の余裕の無さで。
「出来るかではなく、やるのだそうよ。私で出来なければ子が、子が出来なければ孫がやればいい、と」
「無茶苦茶な!」
「……おにーさんの子供でもありますよね、それって」
 桂花の憤慨にも、風の驚きにも華琳は答えない。
「そして、これすらも最終目標ではないのよ」
「……はい?」
 ただ一人静かに聞いていた稟すらついに驚きを隠せなくなる。
「実は逆なの。ある目的があって世界を一つにし、それを推進する材料として戦を無くすことを目指す。まあ、どれも理想の内なんでしょうけれど」
「戦を無くすことを名目としてあまたの戦を起こし、世界を一つにして、その上で備えるなにかがあると?」
 その理想とやらに潜む矛盾――すなわち戦を無くすために、平地に乱を起こし続ける結果となること――を指摘しつつ、稟はそう訊ねる。この大陸でも指折りの三つの頭脳すら、そんな大がかりなことまでして、さらに成し遂げる目的など思いつかなかった。
 ある意味で当たり前であろう。彼女たちが知り得ないところにこそ、それはある。
「この世界の外から来たるもの」
 歌うように、彼女は言った。
「一刀のような存在」
 雷に打たれたかのような衝撃を、三人は受けた。意地の悪い笑みが華琳に浮かんでいたところを見ると、彼女もまたそれを知ったことで驚きを味わったに違いない。
「天師道はね、一刀と同じ『天の御遣い』だったそうよ。ただし、彼女らが来た天は、一刀が来た天とは違う」
「別の……天」
「これから、いくつもの世界からの『天の御遣い』がやってくる可能性がある。そのために、一刀は備えなければいけない。私と共に」
 華琳は改めて、一刀の書いた書面の最後の部分に目を落とした。
 ――華琳、かつて君が桃香たちの蜀を攻めた時、なんと言ったか覚えているだろうか。
 大陸の守護者となろうと、兵たちに語ったことを覚えているだろうか。
 華琳。俺は、この世界の守護者になることを自らの責務とする。
 どうか、俺と共に、この世界を、この星に生きる人の営みを、俺たちの子らが作る歴史を守って欲しい。
「あいつじゃなければ」
 天を仰ぎ、桂花は叫ぶ。なにかに助けを求めるように、彼女は手を伸ばした。だが、その指は折り曲がり、まるでかぎ爪でなにかをひっかくかのようにも見えた。
「あいつでなければ、妄想だと切り捨てられるというのに!」
「別の世界……。私は見ています。そう、私も、華琳様も見ているはず。夢の世界のあの方を、夢の世界の自分を」
 眼鏡の軍師はうつむき、そして、眼鏡で表情を隠す。
「おにーさんも大法螺をふけるようになったと褒めてあげたいところですが、あんまりにもかけ離れすぎて、信じるしかないのが癪ですねー。あるいは、狂いましたかね?」
 三者三様の言葉に、華琳は答えない。他の軍師たちもなにも言おうとしない。それが独り言にしかすぎないと、誰もがわかっていた。
「どう思う?」
 皆の興奮が収まったと見た華琳が、書状を置き、三人の前をゆっくりと横切りながら問いかける。
 顔をあげぬ稟を通り過ぎ、宝ャを顔の前に抱きあげるようにしている風の前を過ぎ、そして、彼女は三人目の前で止まった。
「阿呆だと言ってやりたいです。一言に切って捨ててやりたく思います。けれど、それでも……」
 猫耳頭巾をはねあげて、柔らかな砂色の髪を振って、彼女は呟く。全ての感情を押し殺した、軍師としての純粋な助言を与えんと。
「あれはいまだ至らぬまでも、その一歩を踏み出しました」
「ええ、そうね。……遂に」
 魏の覇王は微笑まなかった。ただはらはらとその両の目から落涙していた。
「遂に、遂にこの時が」
 一度うつむき、片手で目を押さえた後で、彼女は顔をあげた。
「桂花、稟、風!」
 その目にもはや涙はない。頬にひく筋だけが、その証。だがそれすらも、すぐに消えていく。
「はい!」
「はっ!」
「はいー」
「千年の祭の担い手は玄武とする!」
 名を呼ばれるごとに跪いた三人は、その宣言に揃って平伏する。
「人、至りて神となり」
 郭嘉が言祝ぐように朗々と声をあげる。
「神、封じて皇となす」
 それに和するように、程cが重なる。
 一人、荀ケのみが、その唱和を破壊するように冷たい声で告げる。
「なれど、いまだ彼の人はその座に及ばず」
 沈黙。
 けれど、それはただ否定するだけのものではない。
 沈黙の中から、覇王の声が立ち上がる。
「選択がなされ、それが天命にかなうかどうか。答えが出るには、時と、そして、いくつかの働きかけが必要ね。そう、あなたたちの」
 そこで華琳は微笑んだ。
「頼りにしているわ」
 花のように麗しく、太陽のように温かな笑み。
「全ては華琳様のために」
「この大陸の安寧のために」
「日輪に照らされる民のために」
 金髪の覇王に軍師たちが応え、そして、時代の歯車は大きく動き始める。



     (玄朝秘史 第三部第四十五回 終/第四十六回に続く)

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