[戻る] [←前頁] [次頁→] []

251 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2011/02/05(土) 23:03:30 ID:UxB7v/5I0
一壷酒です。なんとか土曜日更新に戻せたかな……?
寒いので、皆様病気には気をつけましょう。うちは私以外風邪で倒れることが多いです。
一人だけ元気な私。

さて、今回こそはハートフルストーリーだよ! 前半はちょっとあれですがw

★投下予定:
特別なことがない限り、毎週土曜に投下します。なにかありましたら告知します。
◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・サイトに関連地図のページをつくりました。参考になるかもしれません。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0612
※なお転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)


玄朝秘史
 第三部 第三十五回



 1.対決


 静寂が満ちた。
 一刀はその、銀にも見える灰色の毛皮を持つ巨犬が何の音も立てないのに気づいた。ばねを秘めた柔らかそうな足が草を踏みしめるのはもちろん、他の犬たちが漏らしている呼吸音さえ、それからは感じられない。
 まるで値踏みを終えたかのように座り込み、じっと二人を見つめてくる様は落ち着き払っていて、余裕さえ感じさせる。
「ある意味……」
 焔耶がそうして口を開くのを、一刀はぼんやりとした頭で聞いていた。どうすればいいかと思考を巡らしてるせいで、他への注意が散漫になっていた。
「ある意味で簡単な話となったな。要はあれを倒せばいいのだろう」
「それは……そうかもしれないけど……」
 群れの頭分を潰せば、それに従っていた犬たちは、少なくともこの場は退くだろう。ただでさえ野生動物の狩りの成功率は低い。最も強い統率者を倒すほどの相手に危険を冒して挑む意味はない。その点、人間よりもよほど計算が働くのが動物というものだ。
 だが、と一刀は考える。
 人が獣――ことに肉食獣に勝つのは非常に難しい。草食獣を狩る時でも、人は道具や数の利を使って遠距離から追い込むものなのだ。近接戦闘で打倒できるものかどうか。
 それでも、犬でなければ、これほどまでに一刀が不安になることはなかっただろう。焔耶ほどの英傑であれば、獰猛な獣でも打ち倒せるはずだった。実際、季衣や流琉は熊を狩るくらいなのだから。
 だが、対しているのは世にも巨大な犬であり、ここにいるのは犬が苦手な焔耶であった。
 一刀は彼女の事を横目で観察する。轟々と燃える炎を背にした焔耶の頭の白い部分が、夕暮れの空のような茜色に煌めいていた。その顔は決然として怯懦の色は微塵もない。得物を手に屈んだ姿は、まるでたわめられたばねのようで、跳ね上がり、その力を解放する瞬間を待ちわびているように見える。
 その様子は、彼女が何の恐れも抱いていないのだと、一刀に信じさせてしまいそうなほどであった。
 いや、実際に、彼女は恐怖していないのかもしれない。だが、一刀は彼女の首筋、その後ろが赤く染まっているのを見た。それは、炎の照り返しなどではないだろう。
 恐怖は押し込められているかもしれない。
 不安は見ないようにしているかもしれない。
 ためらいは、振り払えるのかもしれない。
 それでも、その重圧が、動きをわずかに遅らせ、踏み込みをほんの少しだけ浅くすることはないだろうか。
 うん。
 彼は心の中で頷くと、それまでに考え付いた打開策を全て捨て去ってしまった。
 一刀は決意した。
「焔耶」
「ん?」
「あいつを倒すにしても、まずあいつに挑む資格をあいつ自身と、周りに認めさせなきゃいけない。魏文長の名前は通用しないしね」
 言われてはじめて気づいたかのように、彼女は顔をしかめる。
「それもそうか。では、結局、その……」
 ひらひらと頼りなげに手をひらめかすのに、一刀は小さく首を横に振った。
「いや、そうじゃないと思う。群れの連中は追い返せば済むだろう。要は部下をひるませて、頭首が出てこざるを得ないようにするってわけさ」
「具体的には?」
 焔耶は機を窺うためにこちらを見つめている灰色の巨大な塊をにらみ返すようにしながら一刀に先を促す。
「最初の計画通りだよ。あの頭目は火に向けて仲間を駆り立てられるかもしれない。けれど、実際に一頭一頭を強くできる訳じゃない。突っ込んできた時に火を投げつければ、弱気を見せるはずだ。そうすれば、奴が出て来るしかない」
「雑魚は火を使って寄せ付けず、あいつを打ち倒して完全に追い払う。そういうことか?」
「うん」
 まるで二人が打ち合わせるのを待っていたかのように、その時、それが吼えた。
 轟と空気を振るわせるのは、吼え声と言うよりは、なにか重い岩石が崩れる音のように思えた。
 弾かれたように、闇の中から駆けだしてくる四つ足の獣たち。
 瞬間、焔耶の体が硬直したのを、一刀は見逃さなかった。
「焔耶は適当な枝を燃やして、俺の後ろに並べてくれ。俺が投げる」
 一刀は言いながら、手近にあった石ころを拾って投げてみる。見事に避けられてしまったが、一匹の足をよろけさせ、足並みを崩すのには成功した。
「いや、ワタシは……」
「議論している場合か!」
 何か言い返そうとする彼女を遮って鋭く叫ぶ。焔耶は一つ舌打ちすると、炎の側に駆け寄り、木ぎれを突っ込み始める。また、火の中から顔を出している小枝を、一刀の背後に放り投げていった。彼は上体をひねって掴むと片っ端から投げつけていく。燃え上がる炎が彼の手を焦がし、木肌に残ったとげが掌を刺したが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
 火の粉が後を引き、闇の中に軌跡を描いて、いくつもの木ぎれが飛んでいく。その様子に犬たちは見るからにたじろいだ。
 速度を上げようとしていたところで急な制動がかけられ、木の枝が落ちたあたりでうろうろと円を描き始める。一刀たちに向けて牙をむき、恐ろしげな唸りを向けてきたが、彼の投げた木片が赤く輝きながら鼻先を通り過ぎると、明らかに顔をそむける。
 一刀は犬たちの動きに構わず、せっせと火の塊を投擲し続ける。一本の枝がくるくると回転して飛び、茶色い毛並みの犬の鼻面にひっかかるように当たった。
 きゃんと甲高い悲鳴をあげ、犬は首をめちゃめちゃに動かし火を振り払ってくるりと向きを変えた。そいつが逃げだそうと後ろ足に力を込めた時、再び巨犬が吼えた。
 逃げようとしていた赤犬が戸惑ったように頭目を見る。他の犬たちも燃えさしが草をぶすぶすと焦がしているのを見て、指示を仰ぐように注意を向ける。
 なにかの確信を持っているかのように重々しい吼え声が再度響く。それに後押しされたかのように、犬たちが再び一刀たちに向きなおろうとする前に、彼は叫んだ。
「焔耶!」
「なんだ?」
「太いのを一本放り投げられるか?」
 彼女は燃え上がる炎の中心に位置する木組みと、そこから外に突き出ている枯れ木の幹を見て、
「行く!」と短く告げた。
 先端が炭と化して、黒と赤の炎の柱のようになった幹をずるずると彼女が引きずり出す間、一刀はさらにめったやたらに燃え棒を放る。火の勢いそのものより、彼の動きによって作られた弾幕に野犬たちはうまく前進できない。
「頭を下げろ!!」
 低く空気を切り裂く音をたてながら飛んだ大木は、横に転げるように避ける一刀の頭上を、そして、二人が作った柵をさらに越え、走り寄る犬の前で一度大きく跳ねた。
「ぎゃんっ!」
 たまたまその先には不幸な薄汚れた毛の犬がいた。木の重みに押しつぶされ、哀れな泣き声をたてる犬の毛と肉が焼ける嫌な匂いと音が広がった。
 山犬の動きがぴたりと止まる。くうんくうんと情けなく鳴き交わす十五頭ほどの犬のうち、半数ほどはじりじりと後退を始めたほどであった。焼ける木の下でばたばたともがく動きが力無く、悲鳴が切迫したものになるに連れ、その波は拡大していく。
「よしっ!」
 その光景を見た焔耶が思わず嬉しげに腕を振り上げる。
 その時であった。
「いぃえええええぇっ!!」
 刀を抜き放ち、高く――まるで天を突くように高く右方に掲げる蜻蛉を作り、びりびりと空間を振るわせる猿叫をその口から発する男の姿に、焔耶は目を疑うしかなかった。


 2.挑戦


「な、なにを!」
 焔耶の慌てぶりをものともせず、一刀は再び挑戦の叫びを高らかにあげる。
「ぃえええええええぃっ!!」
 それに答えるのは、野太く、伸びやかな声。聞く時節が違ったならば、美しいとさえ思ったであろう吼え声。
 それは、紛れもなく、応戦の了承であった。
 その証拠に、見よ、犬たちが下がっていくははないか。
 たった一頭、巨大な灰色の犬だけを残して。
「動くな」
 地面に置いていた鈍砕骨に飛びかかる焔耶を、一刀は押し殺したような調子で一喝する。
「貴様!」
 その声音に、思わず焔耶は激昂する。男が咄嗟の思い付きや気の迷いではなく、最初から自身で挑むつもりだったことを、その落ち着いた声が暴露していた。
 だが、そんな彼女にも、もはやその巨犬と男の間を邪魔することは出来ないとわかっていた。
 魏文長は武人なのだから。
 彼女が獲物を持ち上げながらも、それを必要以上に構えずに下がっていくのを感じ取りつつ、一刀は思考の枠を狭めていく。
 視線の先に存在する、灰色の犬――奇妙に澄んだ瞳をした存在と、自分の二つだけに。
 途端、吹き寄せるように感じたものがある。
 それは、これまで一度も持ったことのない感覚だった。
 殺気ではない、もっと根源的な欲求。
 目の前にいる存在にとって、北郷一刀は餌であり、狩るべき者に過ぎないという厳然たる事実。
 その恐ろしくも冷静な感覚が、一刀の背筋を冷たくする。
「刀は抜くべからず。一の太刀を疑わず」
 剣術を学んだ時に伝えられた精神を口にしながら、彼はにやりと笑う。
「お前は、最初から爪も牙もむき出しだ。こっちが刀を抜くのは許してくれるよな」
 それは、あるいは人間としての最低限の矜恃であったかもしれない。
 そんな自分の心の動きを面白がりながら、一刀は考える。
 彼と相手の間には、焔耶と二人で作り上げた倒木による柵がある。それを乗り越えてもう一度助走をつけて向かってくるほどの距離は、ない。
 まして相手は柵の内側はこちらの縄張りと考えているであろう。下手にそこに足を踏み入れて危険要素を増やすとは思えない。
 ならば、下方からの攻撃は不可能。足を奪われ、動きが制限されたところで命を絶たれる恐れは無くなる。
 そうなると、敵の狙いは一つ。
 その脚とばねを生かして、彼に飛びかかり、肩を前脚で押さえ、喉に牙が来る。
 ならば――。
『一の太刀を疑わず』
 そこで一刀は考えるのを止めた。
 やるべきことは、少しでも早く、万分の一秒でも早く、刀を打ち込むこと、ただ一つ。
 彼は学んでいた。
 華雄から、春蘭から、愛紗から、華琳から、凪から、思春から、雪蓮から、恋から。
 けれど、その時、彼を動かしたのは、かつてたたき込まれた祖父の剣術であり、学生時代に打ち込んだ剣道の理であった。
 獣が跳んだ。
 その疾走は、最初から跳躍であるかのように一歩一歩があまりに幅があった。そして、躍り上がった時には、すでに柵を越えていた。
 轟。
 吼え声が一刀の耳朶を震わせる。襲いかかるように飛んできたその声は空気の塊となって彼の髪を打ち振るわせる。
 だが、彼はそれを聞いていない。
 獣の前脚が振られ、彼の首を刈り取ろうと迫るのも、もう一方の爪が刀に挑みかかろうするのも、見ていない。
 ただ、彼はそいつの腹を見ていた。
 己の刃を打ち下ろすべき場所を。
 獣が跳び来たる先に、人が踏み出す。だが、その足は通常考えられるより遥かに前に向かっていた。
 ぞぶん。
 鮮血がはじけた。
 水音を発するほど多量の血が、一刀の体を覆う。
 地を這うほどに低くうずくまる彼を飛び越した獣の残したもの。
 それは、ぼとぼとと彼の体の上と背後に落ちたいくつもの臓物と、なにかを諦めたかのような、小さく悲しげな吼え声だけであった。
 胸から下半身まですっぱりと断ち切られた灰色の影は、その勢いのまま、燃えさかる火の中に突っ込んでいく。
「ぐぉんっ!」
 炎に落ちたそいつがたてたのは、そんな一声だけであった。
 熱い血潮に塗れつつ、彼は思わず微笑む。
『一の太刀を疑わず』
 もしかしたら、自分の名前は、そのあたりに由来していたのかもしれない、と。

 犬たちの退きようは実に迅速なものであった。事の成り行きに目を見張っていた焔耶が気配に目を向けた時には既に群れは闇の中に戻り、切なげに鳴き交わす声が離れていこうとしていた。
 ぱちぱちと火が爆ぜ、その中で大きな影が踊るように動く。すでに命はないだろう。純然たる物理的な反応が、それを動きと見せているのだ。奇妙にねじれたその蠢きようは生ある者たちをひどく冒涜しているような、そんな奇妙な思いを抱かせる。
 肉の焼け焦げる匂いに、元から興奮していた馬たちが恐怖のいななきをあげた。
 そんな中で、一刀はゆっくりと身を起こした。彼の体にまとわりついていた臓物が、ばしゃばしゃと落ちていった。
 駆け寄ってきた焔耶に、彼は笑いかける。汚れきっているというのに実に満足げな笑顔であった。
 わなわなと震える彼女が何かを言う前に、口を開く。
「結果、出しただろ?」
「こ……」
 爽やかな笑みを浮かべていた顔は、焔耶の喉にひっかかったような声に怪訝そうな色を帯びる。
「こ?」
「この底抜けの阿呆がぁっ!!」
 闇に落ちた森の枝葉を、焔耶の怒声が揺らした。


 3.燭


「機嫌なおしてくれよ」
 身を切るような冷たい水で体を拭っていた――浴びるには水量が足りなかった――一刀は、背後で小さな焚き火を馬たちと囲んでいる焔耶に話しかけた。
 彼女はずっと――一刀たちが作った簡易な木の砦を出て、ちょろちょろと流れる湧き水の横で野営の準備を終えるまで、むっつりと黙り込んで、本当に必要な一言二言しか口をきこうとしなかった。
 いまも口の中で何ごとか言うだけで、一刀の耳に意味ある言葉は届いてこない。
 彼は小さくため息を吐いて、汚れた布を湧き水に浸した。
「冷たっ! なんでこんなに冷たいんだろうなあ……」
 そんなことで悪態をついてもしかたないのだが、一刀は言わずにいわれない。すると、思ってもみなかった声が応じた。
「湧き水だからな。雪が染み入ったものが出てきているのだ。冷たくても綺麗なのだから、文句を言うな」
 多分に険を含んだものであったが、会話をしようとしてくれるだけで彼には嬉しかった。再び綺麗にした布で、体を拭っていく一刀。
「ともかく水があったのはありがたかったな。あそこに居座るわけにはいかなかったし」
 馬たちは怯えきっていたし、血の臭いと死体が焼ける匂いには耐えられそうになかった。あの場に残るのはさらに余計な危険を背負い込むことになりそうだった。
 焔耶はそれには答えず、ぽつりと呟く。
「勝算はあったのか?」
「ん……」
 彼女の問いかけに、彼は一つ息を呑んでから続けた。
「あるにはあったよ。何しろ真桜の打った刀は切れ味が抜群だし、なにより……」
「細かい話はいらん」
 ぴしゃりと言って、焔耶は続ける。
「そうか、勝算はあったか」
 それから彼女は再び黙りこくってしまったので、あたりには木々がこすれたり、動物が漏らしたりする音しか残らない。
 体を清め、綺麗な――少なくとも血にまみれてはいない――衣に着替えた一刀は、彼女の横に座り、焚き火にあたる。夜の冷気が強くなる時分であった。
「ごめん。なにも言わずに心配かけて」
「心配などと……ワタシは」
 頭をさげる一刀になにか言おうとして、けれど、言葉が見つからない様子の焔耶。彼女は不機嫌そうに鼻をひくつかせて黙ってしまった。
「じゃあ、相談せず、ごめん」
「……相談されてもどうせ口論となって、意見がまとまらないのがおちだったろうがな」
「それでも、ごめん」
 なおも頭をさげようとする彼を、焔耶は押しとどめる。
「なぜ、あんなことをした」
 独り言のようにそう言うまで、しばらくの間が開いていた。
「ワタシが負けると思ったか?」
「いや」
 彼はすぐに首を横に振る。
「焔耶は勝ったろう。最終的にはね。でも……守りたかったんだ、焔耶を」
 探るような視線。それを受け止め、一刀は微笑む。
「それに、大事な人を守る時の俺は、なかなかに強くなれるんだぜ」
「なっ」
 途端に焔耶の顔が朱に染まる。それは小さな焚き火の照り返しではけしてない。
「どさくさまぎれで口説こうとするな!! この色狂い!」
「えー、だめー?」
 冗談めかして返す一刀の肩をこづく焔耶。そうしてひとしきりふざけあってから、男は顔を引き締めた。
「でも、本当にさ」
「ん?」
「本当に、傷ついて欲しくないんだよ。武の道を愚弄する訳じゃないよ? ただ、苦手なものを克服するのは余裕がある時でいいと思うんだ」
 それに、あの場で焔耶が戦っても犬への苦手意識は消えることなく、かえって嫌悪や忌避の心へと繋がっていったろう。そういう事態はあまり好ましいとは思えなかった。セキトや張々を邪険にする焔耶の姿など、彼は見たくもなかった。
 臙脂色の瞳が彼の言葉の裏を見ようとするように揺らめく。彼女はそこになにを見つけたか、険しかった表情をわずかに緩めた。
「まあ……よかろう。余計なお世話とは言わないでおこうか。なにはともあれお互い怪我一つ無く切り抜けられたわけだからな」
「うん」
「だが、二度とするなよ。武はワタシの領分。お前のそれはまた違うはずだ」
「わかった。約束するよ」
 しっかりと頷く彼の事を、うさんくさげに焔耶は見つめる。だが、その表情は不意に悪戯っぽいものに変わった。
「莫迦。できぬことを約束するな。どうせお前はまたやる」
 一刀はその決めつけに意表をつかれたように背筋を伸ばし、目を見開く。だが、さまよった視線は結局対する相手のもとへ戻っていった。
「あー、えーと、じゃあ、しないように努力する」
「……しかたない。いまはそれでよいか」
 やれやれとでも言いたげに肩をすくめる焔耶に、一刀は笑いかける。
「そもそも焔耶がいて、俺が手出しをしなきゃいけないような状況は、なかなかお目に掛からないと思うよ」
「まあな」
 彼女はひらひらと手を振って、少し開けた場所を示す。
「ひとまず寝ておけ。朝は近いが、少しでも体力を取り戻しておいた方が良い」
「焔耶は?」
「見張っておこう。あやつら以外にこのあたりを縄張りにしている獣はおるまいが、万が一というのもあるからな」
 薪に拾ってきた枝をぽきりと折って火に放り込み、焔耶はなんでもないことのように言った。
「それじゃ悪いよ」
「お前とは鍛え方が違う。それに、明日はお前が最初に見張りをすればいい。それで五分だろう」
「んー。わかった」
 男はしぱしぱと目をしばたかせて答える。その様子からして、体はかなり眠りを求めているようだった。
 準備をして寝転がった途端に寝入ってしまった一刀の平和な寝顔を眺めながら、焔耶は独りごちる。
「何が守りたい、だ。弱っちいくせに」
 火の世話をしながら、彼女の手は、膝にのせた鈍砕骨をいじっている。その声音は、棘のあるものでありながら、どこか穏やかでもあった。
「大事な人、か」
 消え入りそうなほどか細い声を聞く者は、誰もいない。


 4.際涯


 針の先で天球をひっかいたような細い月が空にかかっていた。
 冴え冴えとしたその光が照らし出すのは、熱い風が漂白したかのような白茶けた石で築き上げられた城――漢土の終わりを意味する場所、玉門関。
 そして、それに対するように設営された大天幕の数々。
 いま、その天幕群の外れ、平たい岩の上で、深い杯を傾ける人影があった。
「いやあ、それにしても彼の玉門関をこの目で見ることができようとはのう」
 褐色の膚とそれにかかる銀の髪。豊満な体を楽しげに揺らすのは祭。普段つけている赤い鬼の面を外し、にこにこと酒を飲んでいる。
「思えば遠くへ来たことよ……」
 その見つめる先は、果たして何処か、あるいは何時だろうか。
「なにをまた年寄り臭いことを」
 背後から声をかけたのは、いつの間に現れたのか、足音も立てずに近づいていた華雄。祭は振り返りもせず杯を高く掲げた。
「おお、華雄。一杯つきあえ」
「うむ」
 彼女は素直に頷くと、ひらりと岩の上に飛び乗る。金剛爆斧を岩にたてかけてから、彼女は祭の差し出す杯を受け取った。
「ん? えらく豪勢な杯だな」
 それはだいぶ深い形の、銀の杯であった。表面には狩りをする風景だろうか、鹿や猪らしき動物の姿と、それを追う馬上の人影が美しく刻まれていた。持ってみればずしりと重い。
「うむ。かつて堅殿にいただいたものを、冥琳が呉の儂の館から持ってきてくれてのう」
 祭は革袋から酒を注ぎつつ説明する。その酒のぬめるような赤い色に、華雄はぎょっとする。
「堅殿に売りつけた商人によれば、この玉門関を通って、はるか西より来たったものじゃとか。本当かどうかわからぬが、と堅殿は笑っておったが、儂は真にそうじゃと思うておる。この地で使うのにはふさわしかろう」
「ふむ。文台が、か」
「この酒も遥か西の地よりのもの」
 葡萄酒という奴じゃ、と続ける祭に、疑わしげにその赤い水面を見ていた華雄はぐいと杯を呷る。
「ずいぶん軽いな」
「気をつけろよ。その飲み口のおかげで、旦那様も権殿もべろべろに酔っ払っておったからのう」
「ふうん」
 思い出し笑いをする祭の様子に、華雄は再び杯に口をつける。今度は少し慎重に。
「あちらはよいのか?」
「ああ、陽関には恋たちを置いてきた」
 敦煌の北西にあたる玉門関に対して、南西に位置するのが陽関である。西方への道は、北と南のこの二つの関所が押さえているのであった。華雄と恋、それに音々音は南方に向けて兵を進めていたのだが、華雄一人は夕刻、北行する本隊に合流していた。
「あちらはそれほど重視されていなかったようだからな。あまり人がいてもしかたない。公台が調査して、いずれ建て直すか拡張しないととか言っていたな」
 華雄は思い出すようにしてそう告げる。祭はその様子に一つ頷いた。
「いずれにせよ、涼州もこれで全て征したわけじゃ」
「そうだな」
「終わりあたりはなかなかに力押しじゃったなあ」
 しばらく前の戦闘を思い出し、祭はからからと笑う。彼女の言うとおり、北伐の最終段階では、交渉を駆使することもなく、立ちはだかる敵を叩き潰すやり方をとっていた。
「しかたあるまい。このあたりでは錦馬超の名も効果が薄い。今後の統治のためにも我らの武威を見せつけておくという方針は理解できる」
「それにしても、じゃ。錦馬超や策殿も大したものだが、主ら二人の暴れようときたら」
 華雄は露わになった肩を軽くすくめる。
「暴れてもいいと言われればな。それに、用兵では伯符には敵わんよ」
 そこで彼女は生真面目な顔つきになって言った。
「個人の武を高め、強くなるのは、そう難しいことではないぞ。限界などないと悟ればそれで済む」
「はっ」
 一言鋭く叫ぶようにする祭。
「簡単に言うてくれるわ」
「だから簡単なのだ。だいたいお前、文台が己の限界など考えていたと思うか?」
「それは……ないな、ありえんわ」
「だろう?」
 眉をひそめて考え込む祭に、くつくつと喉を鳴らして華雄は杯を傾ける。
「とはいえ、先も言ったとおり、用兵では雪蓮のほうがよほど上。あれの戦い方はとてもまねできん」
「あの方は兵が好きじゃからのう」
 しみじみと祭は言う。自身が育て上げた孫家の姫の戦いぶりについては彼女が一番よく知っているだろう。
 それは、一言で現せば苛烈。
 一分の隙もなく組みあげた隊伍を、損害をものともせずに敵にぶつけ、粉砕する。多数の兵の犠牲で、さらに数倍する敵を屠る。それが雪蓮の戦であった。
 しかし、その途上で犠牲を出すにしても、最終的には彼女のやり方が死傷者を最小限にするのだ。膠着状態を作ることなく、相手の志気をくじき、戦線そのものを支配するために。
 その意味で、雪蓮ほど効果的に『味方の兵を殺す』将はいないだろう。
「結局はあのやり方が兵を守れるとわかってはいても、それを実行できる者はなかなかに少ない。まして、実際に兵がついてくる者は稀少だろう。あれをやって兵が喜んで死にに行くのは、あやつだからこそだろうな」
「厳しく、そして、優しいお方じゃ。儂の誇りよ」
「うむ。文台もあの世で鼻高々であろうさ」
 二人はそれぞれに嬉しそうに微笑み、杯を打ち合わす。澄んだ音が響き、不意に華雄は何かを思い出すかのように小首を傾げた。
「文台か……。思えばあの頃は惜しかった」
「惜しいとは? 堅殿に勝てそうじゃったということか?」
「いやいや。いかに強くなるのが可能だとて、やはり時は必要だったろう。そうではなくて」
 華雄は言葉を探すようにしばし杯に唇をつけて、なめるようにして酒を味わう。
「己の……本分と言えばよいか? 文台との戦やあれこれで、それに気づく機会もあったろうに、とな。気づけなかったおかげでえらく遠回りをしたような気がしてならんのさ」
「遠回り……のう」
「文台と戦っていた時はよかった。文台を止める剣であればよかったわけだからな。しかし、その後がいかん。官軍の将も悪くないが、ふさわしい働きの場ではなかった」
 少なくとも私には、なと華雄は続ける。
「なんと言えばいいのかな。結局の所、私は戦場そのものを操るような器ではないのだ」
「良将にして猛将と言われた女が何を言う」
「それさ」
 我が意を得たりとばかりに、華雄は身を乗り出す。
「それがいかん。それでのぼせあがって、器でもない重責を背負って、結局、恋や詠にも……月様にも迷惑をかけてしまった。それが、遠回りということさ」
 淡々と言う様に、祭はいっそ感心する。華雄はゆらゆらと酒杯を揺らしつつ考える。
「そうだな、千人を指揮するのはいい。数千でもよかろう。全員とはいかぬまでも、その中核たる者たちの顔も、名前も、性向も覚えていられる。だが、万となるといかん。私には荷が重い」
「ふうむ。要は戦いやすい場所において、身軽な立場で突撃させろと言うわけじゃな?」
「うむ。その通り」
「ならばこそ、旦那様の剣であるいまが心地好いと」
 これには彼女は答えなかった。ただ、空になった酒杯を祭に突き出し、なにもかも了解したような笑みを返すばかり。祭もまた彼女に酒を注いでやりながら、笑みを浮かべた。
「不思議な縁よのお。かつて戦った主とくつわを並べるのも、共に遥か西方に来ておるのも、そして、なにより我ら二人、生きて旦那様と共にあるとは」
「そうだな、不思議なものだ。だが、私はなかなかに気に入っているぞ」
「儂もじゃ」
 再び二人の杯が打ち合わされ、涼やかな音は、星の光ふる空へと吸い込まれていった。


 5.里


 その谷間に出たところで、焔耶はゆっくりと周囲を見回した後で足を止めた。引かれていた馬もそこで止まり、いななきとともに一つ身を震わした。
「ん、どうした?」
「見知った……というほどでもないが、そういう場所に出たのでな」
 彼女は手をあげて岩の多い谷間の先を指さす。
「この谷を行けば途中で川が顔を出す。そこからさらに進めば平地のはずだ」
「おお。あとどれくらい?」
「街道に出るだけなら一日もかかるまいな。それよりも」
 焔耶は谷の先を機体込めて見つめる一刀の視線を遮るように体を差し入れた。
「どうする?」
「え?」
「街道に出るのではなく、山地の中を南下してから東に出る手もある。正確には南西に向かって、そこから川を江陵まで下ることになるだろう。このあたりからなら、なんとか道も見当が付くし、白眉に行き当たらんだろうから、そちらのほうが早いかもしれない」
 焔耶はさらに仔細にその経路を説明する。彼女によると、大きめの川が山から流れ出るあたりに邑があり、木材や山の幸を江陵に輸送するための船が行き来しているのだという。金をはずめばなんとか馬も乗せられるはずだということであった。
「たしかに、早いといえばそっちのほうが早いかもしれないな……」
 一刀は彼女の説明と頭の中の地図、そして、これまで過ごした日数などを勘案する。結局、彼は首を横に振った。
「やっぱり、愛紗と雛里が心配だ。なんとかするとはわかってはいるんだけど、一応は彼女たちの消息を探ってみたい。それに、軍に行き当たれば、連絡もつけられるしね」
「ふむ」
「焔耶はどう思うの?」
「いや、ワタシはどちらでもいい。こうなったら江陵、巴丘目指して早く行ったほうがいいとも思うが、雛里たちのことも案じられるしな」
 それに、いい加減、色々と補給もしたい、と彼女は言った。
「じゃあ、街道を目指そう。これまで以上に気をつけて進むことにして」
「そうだな。また白眉に足止めを食らってもたまらん」
 二人で黄龍たちの足を痛めないよう慎重に道を選びつつ進み始めると、一刀が小さく唸った。
「ああ、でも」
「ん?」
「焔耶と二人きりで山を行くのもなかなか楽しかったから、ちょっともったいなかったかな」
 呆気にとられたように自分を見つめる女に向けて、彼は悪びれもせず笑みを浮かべてみせる。
「阿呆」
 そっぽを向いて毒づいた焔耶の顔は、自分でもよくわからない情動に彩られていた。

 その日、午後遅くには街道に出ることが出来た。そこから南下していくと、街道脇に多くの田んぼが現れた。そして、向かう先に邑らしきものが見えてくる。
「あの邑は泊まるところあるかな?」
「いや、どうかな。あれを見ろ」
 邑の中心、家々を囲む土塀のある場所に続く道に、丸太が転がされていた。さらに、その背後には、土盛りがされている。明らかに侵入を防ぐための処置であった。
「よそ者を入れるつもりがないようだ」
 焔耶の指摘に見回してみれば、塀の外側に位置する家畜小屋の間にも柵が作られ、邑全体が一つの防塞と化している。村の入り口にあたる門にも急ごしらえの補強がなされ、土塀の上には見張り台のようなものが作られていた。
 もちろん軍事の知識のある一刀や焔耶からしてみれば稚拙きわまりないものであったが、この土地の人々の意思は如実に伝わってくる。
 ただでさえ邑は土塀で囲まれているというのに、ここまで他者を警戒するとは。世の乱れに対する不安を感じずにはいられぬ光景であった。
「たまらないな」
「あまり見るな」
 ため息を吐いてさらに見回そうとする一刀を焔耶が止める。
 たしかに、刺激するようなことをすべきではないだろう。彼らは別にこの邑の人々を脅かしたいわけではないのだ。
 駆けるでもなく、けれど、少しだけ黄龍たちを急かして、彼らはその邑を通り過ぎる。しばらく行ったところで一度だけ焔耶が振り返り、疲れたように首を振る。
「街道脇の村落なら、旅の宿を貸すのもいい稼ぎになるだろうにな」
「苦渋の決断ってわけかな」
「そうかもしれん」
 二人はその後、言葉少なに馬を進めた。
 夕方近くになって彼らは街道脇の丘を見つけ、野営することにした。
 その丘の裏側は田んぼとして整備されているようで、まっすぐなあぜ道がのびていた。高くなった丘から見渡す限り、きっちり区分けされた水田が広がっている光景は、なかなかに見物であった。
「よく手入れされた田んぼだな」
 夕暮れの中、かなり遠くまで整然と連なる田んぼを見ながら、一刀は微笑みさえたたえて言う。だが、それに対して返ってきたは焔耶の苦い声であった。
「荘園だろ」
「え?」
「荘園だよ。そうでもなきゃ、あんなに広々と綺麗に作れるものか」
 馬たちの休息場所をつくってやりながら、焔耶は吐き捨てる。一刀はその言葉にもう一度丘から見える農地を見やった。
 たしかに、整然としすぎている。広大な土地を計画的に区分出来る者でなければ、これを成し遂げることはできないだろう。所有する土地が小さく、そして、各々の家で差がある個人ではこれは不可能だ。
 そうなると、大土地所有者の豪族しかない。
 豪族を否定するわけではない――なにしろ、彼らがいたからこそ地方の開発が進んだという側面もあるのだ――が、なんとなく微妙な気分になってしまった一刀はそちらから目を逸らすようにして焔耶を手伝いにいくのだった。

 翌朝、まだかなり早い時間に目を覚ました一刀は、視界が乳白色に覆われていることに気づいた。目をこすり、それが寝ぼけている彼の感覚が彼自身を騙しているのではないことを確認してようやくその正体を悟る。
「霧か……」
 あたりは霧の中に沈んでいた。
 それほど濃いものではない。日が昇れば晴れてしまうだろうと思えた。
 横を見れば、黒い上着にくるまるようにして焔耶が眠っている。彼は彼女を起こすまでもないとそっと体を離した。
 小さないななきが聞こえて、彼はそちらに低く声を返す。
「いや、まだ出発じゃないよ、黄龍」
 音を立てぬように帯刀して、彼は歩き出した。なにか目当てがあったわけではない。ただ、朝の散歩のような気楽な感覚であった。
 だから、急に近くから声が聞こえてきた時、あまりの驚きに一刀は棒立ちになってしまった。
 それが功を奏したのかもしれない。
 声の主は一刀に気づくこともなく、霧の向こうで会話を続けていた。
「よう。なんだ、今日はえらい大荷物だな」
 しわがれた低い声が話しかける。それに応じるのは、最初の声より若い声であった。
「ちょっとここからおさらばなんでね」
「ほおう? 逃げるのか? やめといたほうがいいと思うがね」
「違うよ、おやじさん」
 地に伏せるように姿勢を低めた一刀は言い交わす二人の声に耳をそばだてる。
 どうやら、農地に出てきた農夫同士の会話のようだ。いや、ここが荘園だということを考えると、小作人同士と言うべきだろうか。
「お姫(ひぃ)さんを逃すんだとさ」
「なんだって?」
「物騒だからさ、奥様の実家の方にやるんだと」
「ははぁ。そんで、荷物持ちか」
「俺だけじゃねえけどな」
 会話から判断するところによると、白眉の被害を避けるために、豪族の家族を避難させようとしているのだろう。その随行に選ばれたのが若い方の男というわけだ。
「そりゃあ難儀なこって。しっかし、逃げたってなにが変わるっていうのかね」
「さあね」
 霧の向こうで若い男が肩をすくめるのが見えるような口調であった。
「かわりゃしねえってのにな。黄巾も白眉も、官軍も」
「ふん。官匪に比べりゃ、黄巾やらのほうがなんぼかましだろ。やつらぁ、金や飯を出せばどっか行きやがる。居座ってるやつらよりゃましさ」
「そらそうだ。首くくるほど絞りとっていかないしな。なぶり殺しがせいぜいか」
 けらけらと二人は笑う。自分が死ぬ事を、なんとも思っていない風情だった。
 恐怖を感じていないのではない。気にしていないのだ。無関心、と言ってもいい。
 その口調に、一刀は衝撃を受けた。
 だが、その次のしわがれた声が発する言葉は悲嘆に満ちていた。
「兵に連れていったりもせんからな」
 霧の向こうの会話が途切れる。
 一刀は息が詰まるような気持ちになった。
「すまんな。おやじさん」
「いや、お前が悪いわけじゃねえ。うちの息子にゃ運がなかっただけよ。お前が帰ってこられたのは、天が味方してくれたんだろう」
「そうだな。そう思うしかねえな」
 そうして交わされる会話も乾いている。破れかぶれでもなく、ただ、それが常態ででもあるような気軽さ。
「そろそろ行かんと」
「ああ、元気でな」
「また会えるといいな」
「さあて、それはどうかな」
 二人はまた笑い合い、がちゃがちゃと何かを移動させる音がする。一刀は体を地に近づけたまま、小走りで二人から離れた。
「ん? なにをやっていた?」
 野営していた場所に戻ってみれば、焔耶が体を起こして訊ねかけてきた。
「いや……用足しだ」
「そうか」
 彼女は一刀の言葉を疑うことなく、出発の準備をし始める。それに倣って黄龍の世話を始めながら、一刀は一人、先程の会話を反芻していたのだった。


 6.軫念


 邑の中心部にある建物を出てきた黒髪の女性が残念そうに首を振る。それを見た大きな帽子をかぶった少女もまた残念そうに頷いた。
 この場所で待ち合わせをしていた雛里は、愛紗と並んで歩き出しながら、小さな声で話し始める。
「そうですか。一刀さんたちの行方はつかめませんでしたか」
「一応、教団の人間に言ってきたから、魏にも伝わると思うが……」
 そう言った後、愛紗はくくった髪を揺らしながら後ろを振り返り、出てきた建物を珍しげに眺める。それは、彼女にとっては見慣れたものであったが、この地で見かけるとは思ってもみなかったものだ。
「しかし、こんなところに五斗米道の義舎があるとはな」
「襄陽などには義舎はありますが……」
「それは知っているが、しかし、なぜ、この邑に? 熱心な信者がいるのだろうか」
 ここは江陵から馬でも一日かかるほどの場所にある邑だ。江陵に近いこともあり、他の邑に比べれば洗練された開放的な雰囲気があったが、それでも、都市と言うにはあまりに小さい。
 五斗米道の本拠、漢中の近隣ならともかく、荊州の中心部で義舎を見つけるのに向いているとは思えない土地であった。
「あれは、江陵の商人が建てさせたものらしいんです」
「ほう? それが熱心な信者なのかな?」
「五斗米道の信者なのは間違いないようですね」
 そこで少女はさらに声を潜めて、愛紗に耳を寄せるよう仕草で示す。愛紗は歩きながらぴったりと彼女に寄り添った。
「ただもう一つ狙いがありまして……。ここには近隣の邑や山地から来た人が収穫物を買い取ってもらえる買い取り所があるんです。その商人の」
「ふむ?」
「江陵まで行けば、もちろんそれらは売れますが、そもそもそこまで足を伸ばすのが大変ですよね。なにより、江陵はそれなりの都市ですから、誰に売るかというのも難しくなってきます」
 大規模な都市には商人の数も多いが、それだけに海千山千の強者も増える。そんなところに、鄙びた邑から出て行って、駆け引きをするのは難しいという者もいることだろう。
「しかし、この邑の買い付け所なら、そんなことは問題にならないし、義舎でたらふくご飯が食べられます。だから……」
「わざわざ江陵まで行くこともない、か」
「無論、全員が江陵に行かなくなるわけではありませんが、一定の効果はあるみたいです」
「信者としての箔もつくし、儲けにもなるか」
 うまいことを考え付くものだ、と愛紗は感心する。
「だから、色々と情報が集まってくる場所でもあるんです。なので、期待していたんですが……」
「焔耶たちより先行してしまっているのかもしれんな」
 事実、彼女たちの方が一刀たちに比べれば二日は先行しているのだが、それを知りうるわけもない。
「大丈夫……ですよね?」
 不安げに声を揺らす軍師に向けて、愛紗は安心させるように微笑みかける。
「焔耶がいるのだ。身体的な危険はあるまい」
 それに、と彼女は真剣な声で続ける。
「ご主人様は実に責任感が強い。お互いに守り合うだろうさ」
「そうです、よね」
 ほっと安心の息を吐く雛里から視線を外しながら、彼女は思う。
 一つだけ危惧することが、あるにはある。
 さて、しかし、それは本当に危機と言えるのかどうか。
 美髪公はそんなことを考え、皮肉げな笑みをその唇にのせるのであった。


 愛紗に心配を――様々な意味で――されている当の本人は、その同時刻には黄龍の背でじっと前に続く道を見つめていた。しかし、その瞳は本当に道を視認しているのだろうか。それにしてはあまりに虚ろではないか。
 彼の意識が散漫なのは、またがられている黄龍にも伝わっていた。その背で手綱を握っている友が果たして本当にこの道をまっすぐ進ませたいのか、黄龍には確信がもてない。
「おいっ。いい加減にしろ!」
 一刀のぼんやりとした状態は、そんな大声で破られた。
「えっ!?」
 隣を進む馬上から腕を掴まれ、一刀は驚愕の声をあげる。
「な、なに?」
「なに、だと!?」
 柳眉を逆立てる焔耶の調子の強さに、ぽかんと口をあけて驚きの表情を作る一刀。そんな彼の様子に、焔耶はさらに激昂した。
「ずっと声をかけていたのに無視し続けていただろうが!」
「え? うわ、ごめん!」
 顔を青ざめさせて一刀はあたふたと頭を下げる。
「無視していたんじゃないんだ。考え込んじゃってて!」
「なにをだ?」
「えーと……」
 ぎりぎりと絞られる腕の痛みを努めて無視しながら、一刀は考える。
「説明は難しいな」
「おい」
「いや、焔耶を侮ってるとかそういうんじゃないんだ。まるで結論が出ていないし、出るとも思えない話で……」
 焔耶はしばらくの間続けて彼の腕を握っていたが、急に手を離し、ふんと鼻を鳴らした。
「少しは真面目に進め。戦場とまでは言わぬが、乱れた土地を行っているのだぞ」
「うん、ごめん」
「武器もちゃんと構えていろ」
「うん」
 一刀は素直に持っていた棒を握り直し、警戒の構えをとる。
 その様子に満足したのか、焔耶は馬の足を速めた。一刀も遅れまいと黄龍に合図を送り、彼は嬉しそうにだく足で走り出した。
「なあ、焔耶」
 進む速度が再びゆったりとなった時に、彼は彼女の名を呼んだ。
「なんだ?」
「一つ頼みがあるんだけど、いいかな?」
「言ってみろ。中身を聞いて判断する」
 前を向いたまま、彼女は言い放つ。その視線は周囲を油断無く捉えていた。
「じゃあさ」
 一刀は棒を握る手にぎゅっと力を込めて言った。
「俺に稽古をつけてくれないか。今日の夜でも」


 7.自問


 焔耶はじろじろと一刀の全身を見回し、最後に彼の瞳を覗き込んでから、うん、と頷いた。
「夜とは言わず、いまやってやる」
 さすがにそれは予想外だった一刀は首を振る。
「いや、先を進めた方が……」
「腑抜けたまま進んでもろくなことはない。いまだ」
「……ん、わかった」
 一刀の返事を待つまでもなく、焔耶はそれにふさわしい場所を選ぶべく、馬を駆け出させていた。
 それは、街道からしばらく馬を走らせたところにあった。森の入り口とも言える場所で、若木を後ろにして、下生えが広がっている。二人は馬を木々の間に休ませ、得物を持って対峙する。稽古ということで、一刀は刀を外していた。
「お前はこっちを使え」
「え? って、わ! なんとか……持てる、か?」
 軽々と放り投げられたのは焔耶の金棒。一刀は慌てて自分の棒を投げ捨ててそれを両手で受けた。落下の反動がずしりと腕に響くが、取り落とすほどではない。
「いまのなら使えまいが、まあ、そちらならなんとかなるはずだ」
 一刀が落としたほうの棒を拾い上げに行きながら、焔耶はにやりと笑う。
「それにどうせめちゃくちゃに振り回したい気分なのだろう?」
「……わかる?」
「それくらいはな」
 彼女は元の位置に戻ると、それを構える。さすがに元から棒を使うだけあって、様になった構えであった。
「さ、無駄口はもういい。来い」
 焔耶の声に、一刀はその腕の金棒を振りかぶった。

 北郷一刀は何者か。
 天の御遣い?
 ――莫迦を言うな。
 一刀の心の声は、焔耶の打ち込みを受け、その隙になんとか己の打撃を放ちながら、自問自答する。
 華琳に次ぐ魏の実力者?
 ――あれは天の御遣いと同じく、あやふやなものだ。
 華琳の客将?
 ――その通りだが、少々曖昧だ。
 父親?
 ――それは間違いない。
 では、そこがとっかかりだ。
 明らかにこちらのほうが重く、硬いはずなのに、渾身の力を込めて打ち込んでみても、感じるのはさらに激しく跳ね返される力。一刀は痺れる手で焔耶の攻撃を受け止めようとする。
 北郷一刀は子供たちの父親である。この世界で生きる子供たちの保護者であり、責任者である。少なくとも彼らが独り立ちするまでは。
 それを前提に、彼はたくさんのことを思い出す。
 白眉との戦い。それから想起される黄巾の戦いと張三姉妹。
 自分を襲ってきた、愛紗の部下たち。愛紗を保護することになった、朝廷の策動。
 難民たち。逃げようとする豪族と小作人。
 収穫をはやいうちに確定させ、あるいは全てを閉め出して安全を図ろうとする人々。
 ぐるぐると彼の考えは周り、焔耶の手の中で空気を切り裂いて、棒が回転する。
 北郷一刀は父親である。
 その当人の食い扶持は、そして、子供たちのための衣服や食べ物や住む場所はどこから出ているか。
 直接的には華琳だ。
 しかし、その背後には?
 北郷一刀は、種を播き、土を耕し、なにかを生み出すだろうか?
 北郷一刀は、狩りに出、漁に従事し、獲物を獲ってくるだろうか?
 北郷一刀は、ものを輸送し、同業者と交渉し、人々にそれを届けられるか?
 北郷一刀は、一体何を成しているのか。
 彼は、生かされている。彼の子供たちは生かされている。
 彼の命を、生活を支えているのは、農夫たちであり、商人たちであり、それをとりまとめる豪族だったり、官吏だったりする。
 北郷一刀は、この国の頂点近くにいる。自分でも恐ろしい話だと思うが、それは事実だ。そして、それが故に、彼の生は、国の全てに支えられ、そして、それを支えるために捧げられるべきなのだ。
 彼は、華琳を信じている。
 少女としての彼女も、覇王としての彼女も。
 華琳は三国を征し、人々を守ろうとした。それは間違っていなかったはずだし、実際、結果を見ても悪くなかった。彼女を補佐する人々が不断の努力を続けたからこそのことではあるが――少なくとも、漢の人間が認識できる範囲での――大陸に平和は訪れたと言っていいだろう。
 だが、それでも白眉の乱は起きた。
 それはなぜだ。
 彼らが天師道に唆されたのは、ほぼ間違いないだろう。
 けれど、そう、けれど。
 アイドルにたぶらかされ、煽動されただけで、民が乱を起こすだろうか。武器を手に持つだろうか。
 人々が苦しみ、不安に思い、涙に明け暮れるような事態になるだろうか。
 違う。
 それは違うと彼のどこかが言っている。
 ならば、俺たちは間違っていたのだろうか。
 民たちに平和をもたらすやり方が間違っていたのだろうか。三国を覇業で制することが、誤りだったというのか。
 それもまた違う。
 華琳と同じ解答を、雪蓮は出さないだろう、桃香も、月も、麗羽も、白蓮も、美羽も出さないだろう。
 それでも、それは間違いではない。ただそれぞれのやり方があるだけだ。
 ならば――。
 焔耶の武器がすくい上げるように彼の体の内側から持ち上がってくる。それをたたき落とそうとしながら、彼は必死で考える。
 これを弾いても、それを利用して彼女は一刀の脳天を狙うだろう。その打ち込みを防ぐ術を彼は持っていない。
 足りない。
 彼は結論づける。
 どうしたらいい。どうしたらいい。
 足りないものを埋めるのは、なんだ?
 答えは……出ない。
 出ないままに、彼の握る鈍砕骨は焔耶の攻撃を打ち落とし、予想通り、彼女の手の内でそれが回転する。
 そうか。
 彼は、脳天をあえて外された打撃を肩に受けながら、悟っていた。
 足りないものはたしかにある。
 彼が、人々にもたらすべきものは確かにある。
 だが、そこにたどり着くには、まだ自分自身がはるかに足りていないのだ。

「少しはしゃんとしたか?」
 苔の絨毯のようになった地面に大の字になっている一刀の顔を覗き込み、焔耶は訊ねかける。彼は逆さに向いた彼女の顔を見上げながらゆっくりと息を整える。
「ああ……お、おかげさまで」
 打ち込まれた箇所に走る鈍痛をこらえながら、一刀はこくと頷く。さすがにまだ起き上がる気力は沸いてこなかった。
「頭の中がすっきりしたよ」
「だろうな。お前は自分を痛めつけたいという顔をしていた」
「わかるもんなんだね」
 情けない顔で言うと、焔耶はふふんと得意げに笑う。
「お前がわかりやすすぎる」
「そうか」
 何度か大きく息を吸い、骨がきしむほどではないことを確認して、彼は笑いかける。
「でも、ありがたいよ。色々とわかったからね」
「そうか、答えを得たか」
 彼女は一刀の棒を彼の横に突き立てつつ、楽しげな表情を浮かべる。素直に彼を祝福してくれているのがなにより一刀には嬉しかった。
「まあ、いつか気が向いた時にでもワタシにも聞かせてくれ」
「うん。焔耶にも聞いて欲しい。そういう話だ。でも」
「でも?」
「俺が得たのは答えじゃないんだ」
 不思議そうな表情で首をひねる彼女に、一刀は思わず手を持ち上げようとして我慢する。
 その滑らかな頬にいきなり触れたりしたら、さすがに彼女も怒るだろう。一刀と焔耶はまだそこまで親しくない。
 彼は、そこまで考えて、自分がその一線を踏み越えたいと思っていることにどきまぎしてしまう。
「いまの俺には答えが出せないのさ。そういうことがわかった」
 動揺を隠そうとするように、彼は饒舌になる。
「わからないって、わかった」
「は?」
「つまりは、歩き続けろってことさ」
 その言葉に、焔耶はなにを思ったか体を起こす。彼女の顔が視界から消えるのを、彼は寂しく感じた。すぐ側に気配は相変わらずあるというのに。
「ふぅん」
 頭の上から降ってきたそんな声は、感心と呆れの両方の感情がこもっているような気がした。
「だからさ」
 そう言って彼が起き上がろうとしたのと、
「お前は……」
 と焔耶が身を乗り出したのは、ちょうど同じ瞬間であった。
「ひゃあんっ」
 彼の顔が、やわらかで重みのある、まるで熟れきった水蜜桃のような感触すら覚えるなにかに包まれ、信じられぬほど艶っぽい声で、焔耶が身をよじる。
 事態に気づいた一刀が全身のばねをつかって体を回転させ、まるで壁にはりつくやもりのような格好で地面に四つ足で立ったのと、焔耶が地に落ちた鈍砕骨を握るのもまた同時。
「こ、こういうことをしでかさんと気がすまんのか、この好色漢がぁ!」
「ご、誤解だーっ」
 金棒を思い切り振り上げる黒衣の将軍と這うように逃げる男の声に、二頭の馬が呆れたようにいななくのだった。



     (玄朝秘史 第三部第三十五回 終/第三十六回に続く)

 [戻る] [←前頁] [次頁→] [上へ]