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180 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/11/27(土) 20:28:34 ID:xciLSgZ+0
こんばんは、一壷酒です。玄朝秘史第三部第二十六回をお届けします。
今回、二十六回前半部分は23日に投下しておりますが、一回分全部をテキストでアップしておりますので、
既読の方は第六節(6.勅)からお読みいただければよろしいかと存じます。『6』を検索すればすぐにみつかるかと。
それにしてもよく考えると、前半はただ会議してるだけですよねw 必要な部分ではあるのですが。
いやあ、それにしても一刀さんの件は伏線回収まで長かったw

なお、12月は毎週土曜日に投下予定です。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
 なお、『北郷朝五十皇家列伝』はあくまでおまけです。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0592
※なお転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)

まとめサイト管理人さまへ
変則的投下となりましたが、26回分をおまとめいただく時には、今回のものを使って下さい。どうぞよろしくお願いいたします。



玄朝秘史
 第三部 第二十六回




 1.白眉


「遅いですねえ、おにーさん」
 舐めていた飴を口から外し、背の低い女性は、ぼんやりとした口調で、ため息のようにそんな言葉を吐く。
「また鼻血でも出させたか」
「いやらしいことでもしてるんじゃないの」
 皮肉げに呟いたのは、暗黒色の仮面をつけた背の高い女性であり、ふんと鼻を鳴らして吐き捨てるのは翡翠色の髪を揺らす険の強そうな女性だ。その様子に残った一人の女性――腕を組んで壁にもたれかかっていた秋蘭が宥めるように声をかける。
「まあ、姉者も桂花もまだなのだ。そう焦ることもあるまい」
「あの二人は宮城内にいるのがわかってますからねー。でも、おにーさんの場合、なぜか動く度に騒動を起こしかねませんからー」
 風の言葉に、笑いのさざめきが広がる。皆、それぞれに思うところがあるのだろう。当の一刀は、会議の時間が迫ってきたというので、兵の調練をしているはずの稟を呼びに行っているだけだというのに、さんざんな言われようであった。とはいえ、それも気遣いの裏返しであるのだろうけれど。
「ところで、あいつが戻る前に確認しておきたいんだけど」
 笑いが治まったのを見極めて、詠が口を開く。彼女はその前に仮面の女性に目配せし、冥琳のほうが小さく頷いていた。
「はいー?」
「この集まりに、ボクたちが呼ばれた理由をはっきりさせてくれない? あいつの知恵袋としての役ならそう振る舞うけど?」
 今日の会議は、このところ頻発している各地の暴動や叛乱についてのものだ。それらに対してなんらかの策をこうじることに協力する――つまりは彼女達の頭脳を役立てる――ことに詠も冥琳も否やはない。ないのだが、しかし、立場というものがある。
 風や秋蘭、後から来るはずの桂花や春蘭、それに一刀や稟は、要するに魏の重鎮である。それは客将という立場の一刀でもそう変わるものではない。
 対して、詠や冥琳の立場は実に心許ない。一刀の預かりというのは確かだが、それ以上の裏付けはないし、ましてや魏の内国事情に口を出せる謂われは全く存在しない。
 もちろん助言を求められれば発言はするし、相談にのることもある。それでも、立場の違いというものを意識しないわけはない。
 はっきり言えば、気にしていないのは一刀くらいのものなのだから。
 時期も区切られた対外遠征である北伐での活動はともかく、魏の内政にも深く関わりかねない今回の事態において、どこまで踏み込んで良いのか、それを詠は訊ねているのだった。
「んー。そんな堅苦しく考えなくともー」
「普段ならね。華琳がいるなら、最終的には彼女が判断するわけだし、そこまで気にはしないけれど。でも、いまは違うでしょ」
 もっともだ、と秋蘭が小さく同意する。
「まあ、おにーさんの手助けをしてほしいのは事実ですけどね。でも、風たちとしては、詠ちゃんたちの率直な意見も聞きたいのですよー」
 のほほんと風が言うのに、仮面の位置でもずれたのか、微調整をしつつ冥琳が確認するように問いかける。
「つまり、何を言ってもよい、と」
「正直ですねー、猫の手も借りたいくらいなのですよー。美以ちゃんたちのことではないですよ? 被害状況の報告がどれだけいってるかわかりませんが、風としてはなりふり構ってられないというのが本音ですかねー」
「そんなに? たしかに北伐の物資輸送の邪魔もされているけど、組織だった様子はないし、一つ一つはたいしたことのないものばかりじゃない?」
 詠の反論に、飴をくわえた軍師はにやにやと笑み崩れた。
「もー。詠ちゃんったらとぼけちゃってー。そんなたいしたものじゃないのが、潰しても潰しても出て来るって、そのことが問題なんじゃないですかー」
「ま、それはそうね。たしかに異常だもの」
 意地の悪い笑みで応じる詠。その様子を眺めていた秋蘭は、まったく軍師というやつは、と呆れていたりする。
 そんなことを話しているところに、広間の扉が音を立てて開いた。
「まったく、休む暇もないわ」
 ぶつぶつと文句を言いつつ入ってきたのは、大きな耳のように両側が突き出した頭巾をつけた筆頭軍師、桂花。その横を同じように早足で歩いていた隻眼の武将が、ふと遠いところを眺めるような表情になって言った。
「なんだか、えらく昔のことを思い出すな。ほら、黄巾党の頃の」
「まあ、あの頃は、いまほど人も……いえ、支配の及ぶ地域の広さから言ったらいまのほうがよほど手が足りないかしらね」
 桂花はそう言うと小さくため息を吐いた。
「黄巾、か」
 二人の交わす言葉を聞いて呟く冥琳の台詞は、暗い響きを帯びていた。

 稟を連れた一刀が戻り、部屋の中央に卓と地図が用意される。その地図を見渡すのに最も適した場所――魏の玉座は空であったが、桂花たちはそのことを感じさせず、普段通り高い位置からの視線を遮らないように立ち、動いている。
「華琳様が旅立たれてから約一ヶ月。魏領内での暴動、叛乱、賊の襲撃はあわせて四十件ほど。春蘭の出撃だけでも十回を超えるわ。たいていは兵を出すだけで収まる程度なのが救いかしら。起きている場所は見ての通りよ」
 桂花は地図に置かれたいくつもの目印――機の人形を指さしながら説明する。それらの人形は魏領全体に広がっていたが、それでも何ヶ所か集まっている場所があった。
「幽州で八件、冀州で六件か……。それと、北伐の輸送隊が襲われたのも何件かあるよな」
「そうね。でも、まだ報が届いていないのもあると思うわ。特に北伐軍はそれぞれ遠く離れているから」
 一刀の指摘を、詠が補足する。皆の視線がいくつもの人形と、それらが置かれている地点を往復していた。
「最大はやはり許攸の?」
「ですねー。時期だけを見ればあれが呼び水になったとも思えます。でも、風はあれは他のとちょっと違う気がするんですよねー」
「あれだけが意図がわかりやすいですからね。かつて許攸は孔融と共に華琳様を討とうとした。失敗し、姿をくらまし、再び華琳様が都を離れ、引き連れる軍が少ない機会を狙う……。一刀殿を襲ったのが元々の予定にあったのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ魏の中心部を討とうという明確な意図が感じられます。しかし……」
「その後に続くものにはそういった明らかな目的が感じられない、か」
 秋蘭が稟の濁した語尾を引き継ぐように呟くと、隣にいた春蘭が首をひねる。
「実際の所、各地で暴れている他の連中は、何が不満だというのだ? 私が討伐に向かったやつらも実に口がかたくてな。なにもわからなかったのだが」
 呆れたように手を広げながら言うのは、華琳の治世に不満などあるわけがないと信じ切っているからだろう。現実的に不満が爆発するほどのなにかがあるわけでもない。
「そこよね……。一体何が原因かわからないのも多い。風たちが言うとおり、許攸はたまたまきっかけとなっただけで、他とは別物と考えるべきかもしれないわ。意図が読めない限りは……」
「そもそも治安がそう悪いわけでもない。苛烈な政もなされていない。どさくさまぎれで出没している賊連中はともかく、他は意図があるのかどうかすらわからん……か。各々につながりはあるのだろうかな?」
「それについてですが、一つ気になることがあります」
 冥琳の疑問に答えるように、稟は懐から一つの竹簡を取り出す。
「これによると、最近冀州で起きた三件では共通して、眉を白く染める者が多かったとのこと。これは沙和からの報告ですが、以前春蘭さまからも同様のことを聞いた覚えがあるのですが?」
「おお、そうだそうだ。男どもがなんの化粧かと気色悪かったぞ」
 稟に視線を向けられた春蘭は顔をしかめてそう答える。彼女のあたった連中は、眉を白く染めている者もいるという程度であったようだが、最近、沙和が出動したものでは、ほとんどが白い眉であったらしい。
「仲間内の符牒かしら? 黄巾の布みたいに」
「なにかの象徴を定めることは、仲間意識を高め、士気を高揚させ、さらには戦場で識別しやすいといった実際的な利点もある。我らが軍の部隊で旗を用いてやっているのと根は同じだな」
 詠が興味深げに首をひねり、冥琳が解説を加えるのに、一刀が暗い顔つきになる。
「しかし……それが共通しているというのは……」
「なんらかの連携があるか、もしくは根底に流れる共通の目的などがあるということだな」
「一連の暴動は一つの動き、と見るべきでしょうねー」
 沈黙が落ちる。それは、秋蘭と風がまとめたその推測を、否定できる材料がなかったことを示す。
「困ったな。華琳様ご不在のこの時に」
「いいえ、かえってありがたいわ」
「なに?」
 大型犬のような低い唸りをあげる春蘭の言葉を、桂花はさっぱりとした顔で否定する。不審顔の春蘭に猫耳軍師は説明を加えようとはしなかったが、他の軍師たちが口を開く。
「桂花の言うことも一理あります。これだけの暴動がなんのつながりもなく、ただ自然発生的に起き続けるほうが、よほど問題ですから」
「なにか、あるいは誰かが裏にあるとしたら、それを叩くことで解決できるかもしれませんからねー」
「たしかにな。姉者、こう考えればよい。いくつもの敵を潰すよりは、一度に一箇所に集まった烏合の衆を潰す方が楽だろう? なにも関わりがなければ集めることも出来んが、もしなんらかの繋がりがあるのなら、うまくやれば一網打尽に出来るかもしれんのだ」
「ふむ……。そう言われればわかる」
 春蘭が妹の言葉にうんうんと頷き納得の色を見せるのを他所に、軍師たちはすでに話を進めている。
「それにしても、白く染めた眉ねえ」
「黄巾よりは、光武帝が降した赤眉軍に倣っているのかもしれません」
「ああ、そんなのあったわね」
「赤眉はたしか、漢朝の血筋とはいえ独自に皇帝を擁立していたな。さすがに此度はそのようなことはないと思うが……」
「わかりませんよー。いまの状況ではありえませんが、数がまとまると厄介ですからねー」
「そこね。こういう乱ってのは、ともかく数が問題よ。黄巾にしても……」
 そんな風に議論が進んでいる間、部屋の中で唯一の男は何ごとか考えているのか、こつこつと額を己の拳で叩いていた。
「白……か」
 そこで彼は声を大きくして場の注意を惹く。
「あのさ。白蓮から報告が届いたんだよ、今朝」
 取り出したのは一通の書状と、一切れの紙片。どこかに貼られていたものなのか、少々染みの出来た紙片を地図の上に置いたところで、全員の視線が集まった。


 2.来訪



「……これ……」
 書かれた八文字を読んで詠が思わず漏らした時、広間の扉がどんどんと叩かれた。
「……人払いはしてあるはずだけどね」
「ふむ。ともかく、開けてみよう。姉者、頼む」
「わかった」
 皆が視線を交わし合い、結局、長い黒髪をふりたてて、隻眼の将が扉へと向かった。開けてみれば、詠と冥琳以外には見慣れた顔があった。わずかに洛陽に残った親衛隊の将校の一人だ。
「申し訳ありません!」
「何ごとだ?」
 重鎮たちのいぶかしむような視線を受けて、将校はばっと頭を下げる。しかし、彼女は春蘭が焦れて怒鳴りつける前に顔を戻して報告する。さすがに普通の兵とは違って、彼女達とのつきあいをわきまえている態度であった。
「実は数え役萬☆姉妹の三人がいらしてまして」
「ん? 洛陽にくる予定はなかったはずだけどな。人和から連絡もなかったし。……ええと、俺、見落としたりしてないよな?」
「ないわよ」
 不安になったか、詠にこそこそと訊いてみる一刀。数え役萬☆姉妹の三人はなかなか一箇所にいないため、一刀としても会える機会をなるべく逃したくない。手紙のやりとりでそれはしっかり把握しているはずだが、このところ忙しかったせいで間違えたとでも思ったのであろう。
「おそらくお忍びかと。しかし、都のどこかでばれてしまったようで、人の群れが三人を追いかけはじめ、かなりの数を引き連れて逃げ回ることになった模様で」
「ど、どうなったんだ?」
「姉妹は宮城に逃げ込んだので我々が無事保護しております。ただ、集まった群衆が……百五十を超えるほど。騒いではいませんが、いつまでも散りません。それで、その……どのようにしたらよいかと」
 無事の報にほっと一息吐く一刀と対照的に、春蘭は将校の言葉に呆れたように叱りつける。
「莫迦か、お前は。我らにはかるまでもない。さっさと追い払え」
「いや、待て姉者」
 将校を押しのけ、扉を閉めようと力を入れる姉の背に、秋蘭が声をかける。その注意は春蘭に向けていたが、視線は軍師たちのほうを向いている。春蘭は不思議そうに皆のほうへ振り返る。
「現在の不穏な情勢下、派手に兵を使って追い散らすのは避けたいところですね」
 稟が言うと、将校は、配下の親衛隊ではなく、詰め所の警備隊を呼びにやっていることを付け加える。
「まあ、悪くない判断ね」
「そっちのほうが城下の人達の相手は慣れてるからな」
 桂花と一刀がそう口にすると、ようやく将校は春蘭の叱責で縮こまっていた体を伸ばした。
「さて、どうしますかねー」
 宝ャを振りつつ風が言うのに、ふふん、と笑って見せる仮面の女。
「歌でも歌ってやればいいさ」
「え?」
「城壁の上からでも、一曲披露してやればいい。突発的な出来事だ。それで満足しないようなしつこい連中は少ないだろうさ」
 その間に警備隊を展開させて、円滑に群衆を解散させるよう手筈を整えればいい、と冥琳は説明する。その案に皆が納得して、桂花が代表して将校に指示を下した。
「三人のところにいって、準備するよう言ってきて。後から北郷を行かせるから、警備隊の指揮と三人の世話は彼に任せたらいいわ」
「了解いたしました!」
 将校は早速駆けだし、一刀も机から離れていこうとする。それをぴこぴこと頭巾を動かして呼び止めたのは桂花であった。
「待ちなさい」
「ん?」
「終わったら、三人も連れてきて。それと、その間に読んでおくから、報告書おいてってよ。白蓮からの」
「ああ、悪い。そうだった。……でも、なんで三人を?」
 体を戻し、無意識に懐にしまい直していた書簡を机に置いてから、男は不可解そうに訊ねかけた。だが、彼女の答えは実に明らかなものであった。
「……忘れたの? あれらは黄巾の首領だったのよ」


「ええと……さ」
 超突発縮小公演を城壁で開いて一息ついた張三姉妹は、居並ぶ顔ぶれを見て、早速その場から逃げ出したくなっていた。
「ちぃたち、ものすごい場違いじゃない?」
 皆、個人的にはつきあいのある人間である。しかし、三人は彼女達の仕事の時に見せる顔を認識する機会をこれまでそれほど持っていない。自分たちも高揚している祝宴などとは雰囲気が違いすぎた。
「いえいえー。いまから説明しますねー」
 なだめるように言って、ざっと説明を加える風。各地で起きている暴動と、それがなんらかの連携を持っていることについて把握した三人は、ようやくと言ったように納得する。
「私たちの時と……同じようなことが起きてるってこと?」
「そういうこと。今回の白眉……ああ、こいつらのこと、そう呼ぶけど構わない?」
 人和の質問に答える形で話しだした桂花は自ら口にした名称について皆の顔を見回し、反対がないのを確認してから先を続ける。
「ともかく、まだ目的もよくわからないけど――実はこの点もあんたたちと同じなんだけど――妙な動きが出てきているのはたしかなの。それに乗じて賊どもがうごめきはじめているところもね」
「わ、私たちは今回はなにもしていないよ!」
「わかってるわ。ただ、こういう妙な動きをする連中については、内側にいたあなたたちの意見も聞いておきたいってこと」
 慌てる天和に呆れたように手をひらひら振り、桂花は一度口を閉じた。
「これらの乱が一連の大きな動きであるならば、首謀者の影の見えない広域一斉蜂起となる。たしかに黄巾と似ているからな」
 冥琳が指摘するのに、人和は眼鏡を押し上げながら小さな声で答える。
「別に私たちはあえて姿を隠していた訳じゃないわ。ただ、皆が口をつぐんでくれていただけ」
「三人のファン……おっと……信奉者は熱狂的だからなあ、いまも昔も」
 感心したような一刀の声に、思わず顔を見合わせる歌姫三人。そのうかない表情が、男の心にひっかかりを覚えさせた。
「この文言にしても、黄巾を意識しているのは確実ですからねー」
 白蓮から送られてきた紙片をひらひらと振りながら言う風。三姉妹も彼女からそれを受け取って、書かれている八文字を読み取る。
「これってー、私たちの時代はもう終わりで、次は白眉だよ、ってこと?」
「そう受け取れますね。ただ、別の解釈も可能です。五行説によれば、黄色は土徳、白は金徳。火徳の漢王朝が存続している状況で土徳やまして金徳が出て来るのは本来おかしいのですが、すでに漢朝に天命はないとみなし、それを受け継いでいるのが現在の三国体制だと無理矢理に想定するならば、これは、まさしく革命の宣言ともなります。もちろん、言っているとおり無理のある話なのですが、実際に成し遂げてしまえばなんとでもなるものですからね」
「ほへー」
 確認するように問いかけたのに立て板に水の如く五行による王朝交替の理論を稟に述べられ、目を白黒させる天和。
「と、ともかく、そいつらがちぃ達……というより、黄巾党の行動を強く意識して色々と暴れているってのは確実なのね?」
「そうね……。手本とされているのは間違いないわね。どこまでかはわからないけど」
 地図や報告書をはじめとして、様々な資料を繰っていた手を止め、詠が結論づけるように言うと、天和たちは額を寄せ合い、小声で何ごとか相談し始める。もしかして、だの、でも、など時折漏れてくるが、その内容まではわからない。
「ちょっと。内緒話はやめなさいよ」
「まあまあ。でも、何かあるのなら教えてくれないかな? 今回の事ではまだはっきりわかっていることが少なすぎる。まずは何でも検討していかないと」
 きつい声をあげる桂花をなだめ、優しく語りかける一刀。彼だけは普段とまるで変わらないことを、三人はふと意識した。
「あの……。もしかしたらまるきり関係ないかもしれませんけど、私たちが一刀さんのところに来たのは……」
 そうして、人和は自分たちの人気の低迷と、彼女達自身がつきとめたその原因と思われる事柄について説明を行う。
「おにーさん関連の話は置いておくとしても、天師道とやらは気になりますねー」
「我が方と癒着しているというのもあまりよい噂ではありません。事実を妙に歪められて印象づけられるとたまりません。一刀殿のほうはご本人にどうにかしていただくとして」
「普段なら芸事は自分たちでなんとかしろと言うところだけど、この時期に、というのは怪しいわね。この莫迦が足ひっぱってるのはたまらないけど」
「うちの軍師たちは本当に仲がいいなあ!」
 三者三様にとげとげしい言葉を浴びせかけられて、一刀はやけくそのように言い放つ。
「で、その天師道とやらが今回の首謀者か?」
「いや、まだ何の根拠もない。一度起きたことだから、二度あることがないとは言わないが……」
「あれ、でも」
 姉の疑問に答える秋蘭の言葉を遮るようにして、春蘭はかわいらしく小首をかしげる。
「お前達は大変用心の書とやらがあったからあんなにおおごとになったのではなかったか?」
「太平要術だ、姉者」
「ああ、それそれ」
 いつものやりとりをしている夏侯姉妹をよそに、張三姉妹のほうは肯定の頷きを見せる。だが、それに待ったをかけた人物がいた。
「ちょっと。なにそれ?」
 詠が不機嫌そうに声を挟むのに、一刀はいま気づいたというように手を打つ。
「あれ? ああ、そうか、詠や冥琳は知らないのか」
「風たちも細かいところは知りませんけどねー」
「えっ!?」
 一刀は驚いて皆の顔を見回していく。
「あ……。あの頃華琳の所にいたのは、俺と春蘭、秋蘭に桂花だけなのか。この中じゃ……」
「古い話だからな」
 言い交わす一刀の顔にも、秋蘭の唇にも、温かな笑みが乗る。
「懐かしがっているところ悪いが、説明してもらいたいところだな」
「あ、そうだった」
 苦笑まじりの冥琳に促され、一刀は話を始める。最初の出会いから黄巾の乱までの流れを彼が話し、桂花や秋蘭、それに時折春蘭が補っていく。
「ふうん。要するに、その書が黄巾の乱には必要だったってわけ?」
「大きな動きを起こす時に必ず要るってわけじゃないと思うけど……。それこそ華琳様たちならともかく、私たちのようなただの芸人が大陸中を動かすには必要だとは言えるでしょうね」
 けれど、あの本は燃えてしまったし……、と人和は続ける。
「天師道は白眉と関係ないのか、それとも……。知られていない写本があったって可能性は否定できないにしても……」
 一刀は皆の疑問を代弁するように言ったつもりだったが、それに対する桂花の発言はその場にいる誰にとっても予想外であった。
「あるわよ」
「へ?」
「正確には、写本ではないけどね。異本というべきかしら。太平青領書っていうんだけど」
 それはかつて干吉という人物が太平要術の書を元に、独自の解釈を加えて書きあげたものであるらしい。干吉の弟子が朝廷に献上し、現在は帝直轄の保管庫に収められているのだという。
「ただ、華琳様はあまりに不純物……つまりは干吉の創作部分が多すぎて、原本の形を留めていないって言って、興味ないみたいだったけど」
「つまり、不完全な写本や異説を載っけたものは、世間にもまだ存在しているかもしれないってことですかね」
「そうそうあるものじゃないでしょうけどね。でも、一つ例がある以上、ないと考えるのは危険でしょ」
 風と桂花の会話を聞き、地和は思いきり顔をしかめる。
「むむむ。じゃあ、やっぱりそうなのかな。怪しいとは思ってたんだよねー」
 その様子に、一刀は他の二人の方に顔をむける。
「天和や人和もおかしいと思うところあるの? その、ええと、天師道に」
「一気に人気出たから……ちょっとはやすぎるとお姉ちゃん思うな」
「勢いがあるのはわかるけど、私たちが太平要術で知ったやり方に似ているのは確か」
 芸事に関しては、彼女たちのほうが間違いない。軍師達もその判断を受け入れて考え始める。
「しかし、それでも、白眉の中心が天師道と考えるにはまだ危うい。まずはもっと詳しく教えてもらいたいですね」
 稟の求めに応じて、三姉妹はありったけの情報を吐き出す。
「落雁、閉月、沈魚……」
 聞き終えた皆は内容を吟味するように黙っていたが、一人、風だけは天師道の三人の名前をぶつぶつと唱える。
「どうした、風」
 寄ってきた男のことを上から下までじろじろ眺めてから、彼女は言う。
「ちょうどいいのです。おにーさん、ちょっとお使いを頼まれてくれませんかー」
「ん? いいよ。何?」
「みんなに見せたいものがあるのですが、風よりおにーさんのほうが足がはやそうですから、取ってきてもらおうかと」
 場所はちゃんと指示しますよ。と安心させるように語りかけ、早速それがある場所を説明しようとする。しかし、一刀の方はそれを聞き終える前に動いていた。
「取りに行くのはいいんだけど」
「わわっ。なにをするのですかー」
 慌てた声をあげたのは、彼の腕が彼女の肩と膝の後ろに回り、ぐいと持ち上げたから。
「こっちのほうが簡単だろ? 一緒につれていくほうが」
 小さめの体を軽々と抱き上げ、その胸に収めながら、一刀は笑いかける。
「おにーさんは時々無茶しますね」
 顔を真っ赤にしながら、風はか細い声をあげるが、けして暴れたりはしない。
「さ、いこうか」
 一刀は彼女を抱き上げたまま、さっさと広間を出て行く。後にはあっという間のそのやりとりに声をあげることも出来ず、硬直した女性達が残されていた。
「なあ、秋蘭」
「やめろ、姉者」
「でもな……」
「大丈夫だ」
 不満げな姉に対して、妹は錆びついたような不穏な声をたてる。
「皆が同じ事を思っているからな」
 広間は、無言のまま、冷え冷えと沈んでいく。

 さすがに戻るときは一刀に抱えられたままの入室ではなかった。それでも突き刺さる視線を受けて、風も一刀もたじろいでしまう。
「み、みんなに見せたいというのはこれなのですよー」
 なんとか気を取り直した風が地図の上に広げたのは、一枚の絵であった。場所は川辺だろう。下部に大きな水面が描かれている。夕刻の風景を切り取ったのか、雲間にはかすかな月が見え、空の端を鳥の群れが横切っている。
「荊州で暴動が起き、それ自体はすぐに鎮圧されたのですが、その時に、役所の壁に泥を使って描かれていた絵の写しがこれです」
「描き写すなんて気が回る奴がいたのね」
「月と雁の群れ、それに川……魚、か」
 皆は絵を観察して思い思いに声をあげる。もちろん、それらが意味するものは、誰もがわかっていたはずだ。
「変な表現の仕方するもんね」
「いいえ、ちぃ姉さん。字が読めない人相手にはかえって効果的かも」
 そういうもん? と地和は首をひねる。だが、その横で天和はぷうと頬を膨らませて手を大きく広げる。
「お姉ちゃんみたいに変な想像図描かれるよりましだよー」
「姉さん、あれまだひきずってるの!?」
「ああ、もううるさい!」
 わいわいと騒いでる三人を一喝して、桂花は声を強める。
「敵は白眉。そして、これはまだ不確定ではあるけれども、黄巾の乱と同じように天師道という集団に煽動されているかもしれない」
 皆はそれぞれに頷く。ある者は過去をつきつけられたようで複雑な心境だったし、またかという気持ちを持つ者もいた。また、ある者は敵がはっきりしたことを歓迎していた。
 しかし、全員に共通していたのは、なんとかせねばならないという、そんな焦燥感。
「そういう前提にたって、これからの対策を考えるわよ」
 力強く彼女は告げた。


 3.大権


「さて、一連の暴動がそういうものだとすると、いま、呉や蜀で起こっているいくつかの乱もそのつながりだと考えるべきでしょう。こうなったら、華琳様に一刻も早く帰ってきてもらうのが一番いいと私は考えるけど、どうかしら?」
 魏の国内での対策も、三国をまとめて大陸全体の安寧をはかるためにも、華琳は欠かせない人材だ。いかに北方の安定が重要だからといって、中央が荒れている時に彼女が都を離れている状況は好ましいとは言えない。覇王を呼び戻そうという桂花の提案は至極真っ当なものだと言えた。
「でも、匈奴の方を切り上げて、というのはちょっとまずくない? 余計な反発を招きかねないわよ」
「私も、即座の帰還は反対ですね」
 詠の懸念に、稟も同意する。
「匈奴は誇り高い部族です。ましてやすでに華琳様は行幸の日程を進められている。ある集団には顔を出したのに、こちらにはまるで来ていないでほったらかし、などとなったら、彼らの意地と誇りを傷つけます。余計なことをせず、このまま進めるべきでしょう。ただし」
 そこで稟は言葉を切り、思案深げにその眼鏡の奥の瞳を揺らす。
「予定を早めることは可能かと思います。出迎えの人間を送り、なるべく速やかに戻ってこられるようはかる……。三日滞在の予定を一日でこなしていただいたりですね。かなり厳しいことにもなりますが、華琳様と親衛隊なら無茶というわけでもないでしょう。それに、どうせ使者を送って明日戻ってこられるというものでもありません」
「実際、どれくらい違うのだ?」
 秋蘭が訊ねるのに、元々計画をたてた一刀が視線を宙にさまよわせて考え込む。
「そうだなー。とんぼ返りで馬を急かして、十二、三日。稟の言った様になんとか旅程を縮めて、二十日ってところだろうな。予定だとあと……ええと、四十日くらいだから、半分にはなるかな?」
「なんだ、そう変わらないではないか」
 詠にも確認して、一刀が答えると、春蘭が呆れたように肩をすくめる。
「その数日でもかなり変わるんだけど……。とはいえ、無用な軋轢を生むよりはましか……。出迎えを送り、お戻りになるのを急いでもらうこと自体に意見は?」
「華琳殿が帰還するのを邪魔されてはかなわない。ここは最高戦力をもってあたるべきだと思うが」
 今日の支配地域からの帰途、洛陽と華琳一行の間で暴動が起こり、両者が分断されるようなことがあれば、これは一大事だ。そんなことがないよう配慮しておくべきであろう。
 冥琳の発言で、部屋中の視線は一箇所に集まる。すなわち、魏武の大剣のもとへ。
「ん? 私か? 華琳様をお迎えにあがるなら喜んでやるが?」
「その間、都が手薄になるけど、こいつならなんとしてでも華琳様をご無事で連れ帰るであろうこともたしかなのよね」
「おう! 任せておけ」
 いまにも剣を抜いて駆け出しそうな彼女を、秋蘭が袖を引っ張って落ち着かせる。その様子に一つため息を吐いて、桂花は確認する。
「じゃあ、夏侯惇隊を派遣して華琳様に出来る限り早くお戻りいただく、と。これでいいかしらね?」
 誰もが肯定の意を示し、沈黙を保つ。しかし、そんな中、すっと一つの手が挙がった。
「あら、風、反対?」
「いえー。春蘭さまに向かってもらうのは大賛成なのですが」
「じゃあ?」
「いちいち、こうやって同意を得るようにしてやっていくのはどうでしょうね。華琳様がお戻りになれば解消する問題ですが、それまではここにいる人間でやっていかないといけないわけで」
 まだるっこしいですよ、と風は言う。
 現在は筆頭軍師の桂花がまとめるようにして議論を進めているが、彼女も一同の中で飛び抜けて地位が高いというわけではない。いまのように意見が合う時はよくとも多数の意見の中から一つを選び取る時が来たら、反発を買ってしまうおそれもある。そこで賛同を得るべく意見のすりあわせを繰り返していては、時間も足りないし、なにより実効的な活動が出来なくなるかもしれない。その点を、風は指摘しているのだった。
「白眉が黄巾とおなじようなもので、その増加……あるいは膨張の仕方も似ているとすれば、即応できずに後手に回って、手詰まりになりかねない。せめて誰か意思統一をはかれる代表者を選んでおこうって、そういうことかしら?」
「さすが朝廷のぐだぐだを間近で見てきた詠ちゃんですねー」
「あんまり見てて楽しいものじゃなかったわよ」
 風の軽口に、苦笑いで答える詠。
「でも、その意見にはボクも賛成。華琳が戻ってくるまでの臨時措置として強い権限を持つ人間を決めてもいいんじゃない?」
「二十日間程度の暫定的な代表……。そうね、必要かも」
 桂花の呟きに、闇色の仮面をかぶった女性と、勝ち気そうなめいど軍師は強く口を引き結ぶ。一刀は彼女たちの動作には気づきつつも、その意図までは察することが出来ず、不思議に思いつつ口を開いた。
「桂花をその任にあてる?」
「いいえ、私じゃだめね。軍から不満が出るわ」
「じゃ、春蘭……は出ちゃうから、秋蘭か」
「おいおい。いくら私が文官と仕事をすることもあるからといって、彼ら全てに命令を下せるほどの立場になれるわけがないだろう」
「え、じゃあ、誰を? 他にいないだろ?」
 助けを求めるように視線を走らせた先、たたずむのは風と稟。
「そもそも秋蘭さまでは、軍内の権限でも春蘭さまに及ばないですからね。まして桂花ちゃんでは軍のおさえになりようがありませんし」
「非常時だからこそ、無用な越権は避けるべきでしょうね」
「いや、だからさ。そんな事言っても……」
 困ったように言う一刀を見つめ、稟と風は揃ってにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「いるんですよ」
「……え?」
「軍においては秋蘭さまを凌ぎ、春蘭さまに匹敵。政においては桂花と並ぶ、そんな人物が」
「まさかっ!!」
 顔をこわばらせて叫ぶ詠を、冥琳が腕を掴んで止める。
「誰なのー?」
 重苦しい雰囲気にすっかり置いてけぼりにされていた張三姉妹のうち、天和が無邪気に訊ねる。ただし、訊いた後で妹たちに、空気読みなさいよ! と叱られていたが。
「北郷だぞ?」
「……は?」
 軽い調子で言う春蘭に、一刀が困惑して硬直する。一方、詠は頭痛でもするかのように額を押さえていた。
「ははっ。冗談きついな」
「いや、だからお前なんだって」
「冗談にしておきたいわよね、ほんと」
 笑い飛ばそうとする彼に、言いつのる春蘭と、苦虫をかみつぶしたかのような表情の桂花。そして、それを否定しようとしない風、稟、秋蘭。
 彼らの顔を順番に眺めて、一刀は呆然と呟く。
「聞いてないぞ」
「言ってないもの」
「いやいや、ちょっと待て」
 相変わらず渋面で言う桂花に、一刀は大きく手を振ってみせる。
「二人あわせた分くらい権限あるっておかしいだろ。華琳じゃあるまいし」
「そう言われても、その華琳の嬢ちゃんが決めたことだしなあ」
「ああ、外交権限はないので安心して下さい。あくまで魏国内の話ですよ」
 諦めろといわんばかりに声をかける宝ャと、まるで慰めにならないことを告げる稟に、一刀は顔を赤くしたり、青くしたりしている。
「本人には知らせないよう、華琳様が厳命したのだよ。……こんな時でもなければ、な」
 ぼんやりと、一刀は秋蘭の言葉を聞いていた。その意味が理解できるようになった時、彼は背筋を冷たいものが走るのを感じる。
「それって……。とんでもない事態が起きた時に、華琳の代理たることを期待されてる? この俺が?」
 こくりと頷く秋蘭の横で、なにを当たり前のことを、という表情の春蘭。稟、風、桂花と三軍師の顔に目線を動かしても、同じように同意の仕草だけが返ってくる。
「あんた、驚かないのね」
 ひそやかな声で、詠が冥琳に訊ねているのが聞こえる。なにかを責めるような声に応じる女性の声はほんのわずかに笑いを含む。
「いやいや、驚いているさ。まさか、一刀殿が魏の最高権力者に次ぐとは。どうやっても思いもよらんだろう?」
「……呉はつかんでいたのね? ったく……」
 一刀は動けない。
 つきつけられた重み。その裏にある信頼。そして、自分のあまりの不甲斐なさ。
 しかし、彼の混乱に構っている暇などあるわけもないと言わんばかりに、桂花は訊ねる。
「で、どうするの?」
「どうするって……」
 なにを問いかけられているかはもちろんわかっている。答えるべきだともわかっている。
 だが、彼の口から言葉が出てくれない。
 おそらくここで目をつぶり、これまで通りの合議制をとったとしても、すぐに瓦解するようなことにはならないだろう。不具合はあるかもしれないが、極端な失敗とまではいかないはずだし、もしあったとしても、華琳が戻れば十分挽回できることばかりだろう。
 しかし――。
 そんなことを考えていることさえ甘えだと、彼は知っている。
「俺は……」
 彼の答えに皆の注目が集まった時、再び広間の扉が音を立てた。


 4.覚悟


 時は少し遡る。
 一刀達が会議を始めた頃からずっと、広間の直上、宮城の屋根の上には二つのうずくまる影があった。
 どちらも筋骨隆々としたその影は、諸肌をあらわに、その体を惜しみなく見せつけている上、どう見ても似合わぬ下着のようなものに身を包んでいる。
 そんな怪人が二人、屋根に張り付くようにしているのだ。
 正直、見つけた者がいれば、悪夢かと己の精神を疑う光景であった。
「あらん。ご主人様たちったら、独力で白眉と天師道の関わりをつきとめちゃったわ」
「いまは確証はなくとも、時間の問題であろうな。こういうことは、目星が付けば早い」
 しかも、彼らは野太い声で、かわいらしい――と思い込んでいる――口調で会話を交わしている。
「わたしたちが忠告することなんて、なにもないわねん」
「この様子では、白眉を率いる娘たちが外史の突端だという話など、する必要もなさそうだな」
「そうねん。知らなければ知らないでいいことだし。あの軻比能もまた天の御遣いだった、とかね」
「うむ」
 二人は少々残念そうに、しかし、どこか誇らしげに語り合う。
 その話の内容からして、屋根の上にいるというのに広間でのやりとりをしっかりと把握しているらしい。当然のように防音対策はしてあるというのに。
「しかし、外史を潰すのではなく、厄介払いのように、突端の発生をねじ曲げ、特定の外史へ導くなど……。かえって問題を大きくしているのがわからんのか。あの大莫迦どもは」
「うまくやってるつもりなんでしょ。しっぺ返しが来るなんて思わずに、ね」
 上着――といっても前は全開だが――をつけているせいでほんの少しだけ露出度が少ない方の怪筋肉が吐き捨てるように言うのに、皮肉げに答える、もう一つの筋肉。
「だが、あまりに無理矢理な改変は、他もいびつにしかねん。大事になる前に……なんとかすべきだろう」
「そうねん。わたしたちも、少し骨を折るべきかしらん」
「うむ。儂も久しぶりに腕をふるおうか」
 二つの影は大きく頷き合い。強い意志を感じさせる視線を交わす。そして、二人は立ち上がり、屋根の上に仁王立ちとなった。
「ご主人様、しばらくは見守ってあげられなくなるけど、がんばってねん」
 万感の思いを込めた言葉が口から漏れ出る。それで、二人は消えるはずであった。不幸な兵の一人が、たまたま空を見上げることが無ければ。
「ば、ば、ば、ばけものーーーーっ」
 それらを見事に現す単語を叫び、兵は危険を知らせるべく、大きく叫びながら駆け去っていく。
「むっ! よい感じで別れを告げている場合ではないようだぞ!」
「あらん、見つかっちゃったー」
 そうして、洛陽の宮城に阿鼻叫喚の宴が訪れる。


 再び顔を出した親衛隊将校を見て、春蘭はまたか、というような顔をした。
「度々申し訳ありません! しか、しかし、今度は、ば、化け物が!」
「熊でも出たか?」
「いえ、熊どころの騒ぎでは! 筋肉の塊が!」
 要領を得ない説明ながら、将校はいかに凄まじいものが宮城に侵入してきたか、なんとか表現しようとする。
 彼女が話す像を脳裏に描き、一同はぶるりと体を震わせた。その中で一人、一刀だけが棒立ちになっていた。
「と、ともかく、私たちでは歯が立ちません!」
「しかたないな。行ってやるか」
 面倒そうに、しかし、どこか楽しそうに言って剣をとる春蘭。彼女にしてみれば、会議などよりは体を動かす方がましなのであろう。皆も、彼女に任せておけば大丈夫だと確信していた。
 その背に、一刀が声をかける。
「春蘭」
「なんだ?」
「適当にいなしておけよ? たぶん、そいつら悪いやつじゃないから」
「ははっ。お前はいつもおかしなことを言うなあ。まあ、待ってろ。さっさと片付けてくるからな」
 ぶんぶんと七星餓狼を振り出て行く彼女を見送り微笑みを浮かべる一刀の様子を観察して、詠が眉をはねあげる。
「……あんた、なんか急にすっきりした顔になってない?」
 壊れ物に触れなければならない時のような慎重な態度で訊ねる詠に、彼は安心させるように笑って見せる。その顔は晴れやかで、なによりも、その背に鉄の芯が入ったかのようにすっと伸びた体には、自信と意気が充ち満ちているように見えた。
「思い出したのさ」
 はっきりと、響く声で彼は言う。彼女達の会話に注目していない一同も、その声に引き寄せられるように彼を見た。
「約束を、ね」
 詠はなにも言えなかった。
 まるで気圧されたかのように。
「あのさ」
 彼は詠に語りかける。冥琳に告げる。稟に風に秋蘭に桂花に、張三姉妹に声を放つ。
「白蓮の報告書を見た人にはわかってると思うけど、白蓮ってば、最後にこんなことを書いていてくれたんだよね」
 彼は該当の部分を、照れくさそうに読み上げる。
 すなわち『どんなことがあろうとも、自分は北郷一刀に従う者である。自分自身の配置も、実兵力の移動もその指示に従う』と。
「これはさ、要するに、白蓮が群雄として割拠することはもうないって宣言だ。彼女は鎮将軍で開府を許されていて、幽州は故郷でありかつての勢力地。混乱が起きたら真っ先に独立できる立場だ。それが、そういうことはしないと明言した」
 その場にいる者たちは、彼が何を意図してそんな話をしているのかはわからない。けれど彼の真剣な表情を見、声を聞いて、口を挟める者など一人もいなかった。
「かつて、黄巾の乱が起きた」
 ぎくり、と三人の姉妹が体を震わせる。しかし、彼女達に優しく微笑みかけ、一刀は話を続ける。
「でも、それを鎮める力が中央にはなかった。だから、朝廷は各地の有力者たちをあてにせざるを得なかった。華琳や麗羽や、白蓮をね。そうして名目と実力を兼ね備えることになった地方の力持つ者たちは、群雄となった。彼女たちを解き放ち割拠させたのは、黄巾の乱、それに乗じて起きた何重もの混乱、そして、それらへの対応にことごとく失敗した朝廷に他ならない」
 でも、と彼は強く言った。
「白蓮は、そんなことにはもう二度とならない、と誓ってくれた」
 彼は書簡をぎゅっと握りしめる。
「それは、黄巾とその後の混乱を繰り返すつもりはないということだ。二度と繰り返したくはないという思いだ」
 彼はゆっくりと皆を見回す。いくつもの瞳に浮かぶ思いは、共通している。
 白蓮と、そして、彼自身とも。
「それに答えるにはどうすべきか」
 ぎゅうと拳を握りしめ。
「かつての朝廷の二の舞は、演じられない。だから」
 震える指先を隠しながら。
「俺は、華琳が帰ってくるまで、彼女に代わって力をふるわせてもらう」
 彼は宣言する。
「……そう。じゃあ、進めましょう」
 桂花の言葉に、体中を走るのは武者震い。
 喉がひりつくのはきっと声を嗄らしたせい。
 じっとりと背を流れる汗は、彼の体の熱を流し去ってくれるものだ。
 全ての重圧を都合良く受け取って。
 北郷一刀は、宣言する。
「ああ。はじめよう」


 5.託宣


 どことも知れぬ雑踏の中、頭巾を深く被ったその影は詩を詠じるように囁いていた。
 男のようにも女のようにも、若々しくも、歳ふりた老人のようにも聞こえるその声で。
「さてもさても、面白や。
 乱が英雄を呼び、傑士が乱を呼ぶ。
 大局に歯向かい破滅を迎えた者が、
 何の因果か再誕した時、
 新たな危難が世界に生まれるも必定。
 それがこの世界に、なにをもたらすか。
 もはやこの管輅にも読めぬぞ、北郷一刀よ」
 声は、人々のざわめきの中に埋もれていく。
 それを発する人物と共に。


 6.勅


 数え役萬☆姉妹が城壁でその美声を響かせ、人々を沸かせているちょうどその頃。
 蜀の大使執務室は、それとは対蹠的な重苦しい雰囲気に包まれていた。
「これは……参ったわね」
 優美な短刀の鞘から垂れ下がる絹を手に、その優美な顔貌を曇らせるのはこの部屋の主、蜀からの大使、紫苑。
「見なかったことにする……わけにはいかんか」
 その対面で同じように困った顔つきでいるのは、美髪公の呼び名も納得の美しく長い黒髪を後ろでくくった愛紗。
「無理ね。これだけど……」と彼女は鞘をいじってみせる「最初から、手に取れば外れるよう細工がされているもの。修復しても跡が残るよう計算されているわ。跡も残さない仕事を頼んだら、時間がかかりすぎて、やはり見たのだろうと言われるでしょうね」
「……無理か」
 はぁあ、と大きくため息を吐き、がっくりと肩を落とす。その様子を眺めて、紫苑は慎重に訊ねた。
「そんな風に言うって事は、一刀さんを討つつもりはないってことかしらね?」
「当たり前だ。私は自殺志願者ではないし、なにより桃香さまや蜀の民に迷惑をかけるつもりなど毛頭ない」
 愛紗はなにを莫迦なことを訊く、と肩をすくめながら答える。
「どんな手段を使ったとしても、彼を殺害すれば様々な方面に恨みを買う。まず生きてはおられまい」
 さらりと彼女は言う。
「私の首で済めばまだまし。華琳殿の気性を考えれば、益州まるごと火の海になってもおかしくない」
「他国の将が、魏の都でその客将を討つ。戦にならないほうが不思議ね。勅を理由に納得できるような情勢でもない……」
 憂い顔で紫苑は暗澹たる未来を描き出していく。
「そもそも勅の一言で華琳殿たちを黙らせるだけの力を持つなら、わざわざ北郷殿を討てなどと命じるまでもない。彼らごと除いてしまえばいいだけの話だからな」
「朝廷側もなにを考えてこんなことを命じたのかしら。やぶれかぶれになったわたくしたちが華琳さんや蓮華さんと組んで、漢朝を終わらせるとは考えなかったのかしら?」
「おいおい」
 憤慨したあまりか過激な意見を吐く紫苑に、愛紗はなだめるように声をかける。これは逆の構図なのではないか、と内心疑問に思いながら。
「それだけ朝廷にとって邪魔なのだろう。北郷殿が……いや、華琳殿が、かな。なにしろ勅が出るのもこれで二度目だ。以前のは偽勅ということで処理されてはいるが」
「白蓮さんの時ね。結局、あの時は追放ということになってしまったわね」
 理不尽さに対する怒りと悔しさに覆われていた紫苑の顔が苦々しさと、己を責める色に変わっていく。
「誰もそんなことは望んでいなかったが、それでも……」
 愛紗の言葉もまた苦い。
 共に戦い、共に国を築いた友を追放することがどれほどの苦痛か、わかる者がいるものだろうか。まして当の本人は遠く離れた地で戦っている最中に、だまし討ちのようにそれを宣告しなければならないなど。
 しかし、彼女達はそれをせざるを得なかった。
 任官の延期、書類の不備を理由とした街道改修工事の中断、蜀側の任命を無視するような現地官吏の登用……。
 明確な敵対とは言い難い、しかし、国家機構の歯車を徐々にずらしていくそれらのいやがらせは、重なれば耐え難い重圧となっていく。実際にはそれすらも華琳たちの監視の目をくぐり抜けた『手ぬるい』ものでしかなかったというのに。
 現場に徒労しか与えない状況が続き、それがいつ終わるともわからない、そんな日々。彼女達は苦渋の決断を下さざるを得なかった。
 守るべき民の為に、愛すべき友を捨てることを。
 ふるり。黒髪が一つ揺れる。彼女はぐっと拳を握り込んだ。
「私一人ですむだろうか?」
 張り詰めた顔で吐き出すように言う彼女に、一度驚いた顔を見せて、紫苑は静かに思考の海に沈む。
「いいえ。だめだと思うわ」
 きっぱりと紫苑は告げる。
「二度はないでしょう。桃香さまもお許しにならないわ。まして愛紗ちゃんだもの」
「し、しかし……」
 顔を歪めうつむく愛紗。まるで何処か怪我でもしたかのようなその苦痛の表情に、紫苑は相手がもはや覚悟していることを知る。大事なもののために、それを捨てることを。
 だが、蜀の方でも彼女を失うわけにはいかないのだ。政治的にも、感情の面でも。桃香を中心とした三義姉妹の誰かが失われることは、蜀にとって大打撃となる。
「あのね、愛紗ちゃん」
「ん?」
 不思議そうに顔をあげる彼女に、紫苑はゆっくりと語りかけるのだった。
「わたくしと桔梗は、一度白蓮さんと話したことがあるの……」


 それは、一月もまだはじめの頃、正月の祝宴が頻繁に開かれている時期の事。宴の一つに出終わったのか、庭で酔い覚ましにたたずんでいた白蓮を見かけた桔梗が、寝る前にもう一杯と紫苑との酒席に引っ張ってきたことがあった。
 当然のように浴びるように飲まされた白蓮は、酔いにうかされた口調でこんなことを言ったのだ。
「思うんらけろ、あの密勅を受けたのがわらしでよかったよなあ、ほんろ」
「……なに?」
 ろれつの回らぬ口調ながらしみじみと呟くその様子に、桔梗が眉をはねあげる。
「たとえば桔梗らったとするらろ? そしたら、桃香は絶対桔梗を守り抜いたろ。そうしたなら、蜀はもっと辛い立場になってたんじゃないかな。もしかしたら、朝廷と決定的に対立して……んー? あれ、でも、それならそのほうが、かえって話は早かったかも? でも、桃香に帝を……」
「ちょ、ちょっと話がずれてるんじゃないかしら」
 なにかまずい台詞が出てきそうだと、紫苑は思わず口を挟む。
「あ? ん、ああ、そうらった。ともかく、わらしらから桃香は切り捨てられたんらと思うんらよ、うん」
 にへら、と笑いながら言い切る白蓮に、桔梗と紫苑は思わず顔を見合わせる。言いたいことはいくつもあった。しかし、追放した側の二人が何を言えるだろう。
 だから、紫苑はこう訊ねるしかなかった。
「なぜそう思うのかしら?」
「ん? 簡単なことら。わらしは桃香にとっては姉のようなものらからな」
 にゃふっ、と笑い声なのかため息なのかよくわからない音を彼女は発する。
「二人は知らないかもしれないけどなー。桃香は元々わらしを頼って旗揚げしたんだぞー」
「いや、それは知っておるが……」
「たしかにさー、麗羽にあっさりやられて流れ着くしかない不肖の姉かもしれないけどさー。でもさー、昔はほんっと、お姉さんぶれたんだよー」
「昔なじみというのはそういうものなのかもしれないわねえ……」
 人生経験豊富な二人だからこそ、白蓮の言うことは良く理解できた。人というものは、年を経れば、大きく変わる。しかし、心の中の像というものは、かなりの割合で一番古い印象に依存する。
 桃香と白蓮が学んだ学舎では、まさに白蓮が姉として振る舞っていたのだろう。そして、その関係性は、いまでも形を変えつつも生き残っているのかもしれない。
「でもさ、他の……お前達も、星も愛紗も鈴々も……それに蜀の民も桃香にとっては妹や弟みたいなものなんらと思うよ」
「あら、桃香さまたちはわたくしたちのお姉さんなの?」
「年下の姉とは面白いの」
 からからと弓将二人は笑う。しかし、そこに流れる感情はとても温かなものだった。
「うん。だからさ」
 うんうんと白蓮は頷く。なにか自分だけで納得するように。
「桃香は、絶対に妹たちを見捨てない。でも、わらしらからなんとでもなるって、たぶんそう思ってくれてたんだと、思うんら」
 そうして彼女は照れ隠しのためか、おどけてこんなことを言うのだった。
「ほら、わらしは流浪するのには慣れてるから」


「なるほど、と思ったのよ。たしかに桃香さまとのつきあいで、彼女に勝る人はいないし。それに白蓮さんの勢力が麗羽さん達に責められた時、愛紗ちゃんたちが動かなかった理由も頷けるわ」
「いや、あの頃は我らも手が回るような状態では……」
「そうであっても、よ。桃香さまは、白蓮さんがどうにかすると心のどこかで思っていらしたんじゃなくて?」
 言われて愛紗はかつてのことを思い出してみる。あの頃、彼女達は与えられた徐州の地を統治するのに四苦八苦していた。北へ援軍を派遣するなどとても無理だったし、なにより慣れない地にいて、まだ情報網が完全ではなかったために、状況把握が遅すぎた。それでも大恩ある白蓮が攻められていたのだ。普段であれば、ぎりぎりまで可能性を探るだろう。
 まさに桃香がそう望むために。
 しかし、そこまでのことはなかったはずだ。桃香に強く言いつけられた覚えもない。それが信頼の裏返しであったとすれば……。
「白蓮殿だったから、というわけか」
 当面の問題に立ち戻って、彼女は結論づける。自分では駄目だと。
「そういうことね」
「となると、ただ突っぱねるだけでは無理だな。なにか手を考えないと」
「朱里ちゃんや雛里ちゃんの知恵を借りるのが順当なのだけど……」
 そこで紫苑は首をひねる。
「はたして本国に知らせるのがいいことなのかどうか。いえ、知らせたことを朝廷に悟られていいものかどうか……」
 本国に知らせないわけにはいかないだろうが、しかし、それをすれば愛紗の行動は蜀全体の意向と受け取られる。出来るならば桃香に迷惑をかけたくないと愛紗が考えるのもわかる紫苑としてはどうすればよいか迷うところであった。
「どうせ朝廷側は私の動向も紫苑の動きも見張っているだろう。うかつには動けんが、さりとていい手は思いつかんな」
「そうね、こうなると……」
 そこで彼女はあることを思い出し、ぱっと顔を明るくする。
「そうだわ。一ついい手があるわ」
「なに?」
「あのね……」
 愛紗は紫苑に誘われるまま、その耳を彼女に近づけ、そこに囁かれる内容に意識を集中させていく。


 7.視察


「いやあ、ありがたい。子瑜さんの護衛に誰をつけるか、えらく困っていたんだよね。兵はこうして手配できたんだけどさ。ほんと、雲長さんがいたら百人力だよ」
 言葉通り騎兵たちに囲まれたただ中で、北郷一刀は愛馬黄龍の背からそう声をかけた。
「いえ……。私も長安視察には興味がありますから」
 受けるのは、同じように馬を進める関雲長。彼女は、呉の大使として長安視察に赴く諸葛瑾一行に同道しているのだ。
「いやあ、本当にありがたいよ」
 にこにことして言う一刀。彼は大鴻臚として、諸葛瑾を長安まで案内する必要があるらしい。本来は彼と諸葛瑾の護衛に春蘭を予定していたらしいが、隻眼の将が北方に旅立ってしまったために、愛紗の同道をこんなにも歓迎しているというわけだった。
 のんきなものだ。
 そう思ってしまうのは酷だとわかっている。それでも、愛紗はなんとなく苦々しく思ってしまう。
 けして一刀が悪いというわけではない。彼女を悩ませているのは一刀本人ではないのだから。
 まして、勅を受けた愛紗がどうやって切り抜けようかと頭を悩ませていることなど知るわけもないのだから。
 たとえ――。
「ねえ、一刀ぉ。稟が腹筋鍛えろとか言うんだけど。ちぃたちに筋肉なんていらないよねえ?」
「発声にも体のつくりは大事です。筋肉は声を出すための力ともなりますし。もちろん、武将方のようにまで鍛える必要はありませんが」
「歌唱指導に熱心なのはいいんだけど、馬車でまでやらなくてもいいんじゃないの?」
「と、ともかく、皆さん、お茶どうですか? さっきの休憩で竹筒に詰めてみたんですけれど……」
「おー。風はもちろんいただきますよー」
 そう、たとえ、馬車から身を乗り出したり、馬を走らせたりする華やかな女性たちに囲まれていたとしても。
「ずいぶんと賑やかなことで……」
「あー、うん。なんか、いま、俺ってば魏の最高責任者らしくてさ。補佐するためにみんなついてきてくれてるんだよ。ああ、数え役萬☆姉妹は公演だけど」
 そのあたりの事情は愛紗も知っていた。現在大陸を襲っている騒乱が一つの根を持っているらしいこと、それがもしかしたらとある芸人の信奉者集団かもしれないこと、そして、華琳が戻るまで、一時的に北郷一刀が魏の王権――に近いもの――を代行すること。それらは正式に大使たちに通達され、本国にもいずれ伝わるはずだ。
 さらに、白眉と名づけられた叛徒の集団に対して、魏は全力をもって対処するという姿勢を打ち出した。その司令塔となっているのは、現在彼女の横を進む男であるはずだ。
「しかし、そんな状況なら、北郷殿は洛陽を離れるべきではないのでは?」
「欲を言えばそうなんだけどね」
 彼は肩をすくめて答える。彼らにしても考えた結果であろうとは愛紗も予想していたが、いまひとつ納得できなかったことだ。
「予定を崩すのは逆効果だと思ったのと、長安の様子も知りたくてね」
「長安?」
 すでにあった予定を、あえて断行するというのが効果的なのは理解できる。しかし、一刀本人が同行するまでの理由がそこにあるのだろうか。
「長安を、というより涼州の様子を知りたいのよね」
 いつの間にかぴったりと馬を寄せていた詠が、愛紗の疑問に答える。彼女も、一刀の補佐についてきている一人だ。
「実は涼州では白眉らしい暴動が起きてないのよ」
「もちろん、それは北伐の軍が入っているからというのもあるだろうけど、それ以上に、漢中からの五斗米道信者の移住と、美羽たちのがんばりが作用しているんじゃないかと俺たちは考えたんだ」
「……袁家の方々?」
 二人の説明に愛紗は眉をひそめる。あの二人にそれほどの内政手腕があったろうか、と驚く彼女であったが、それ以上のことを彼は言い出した。
「うん。彼女達は涼州入りしてからは慰問で公演を連日行っているからね」
「慰問、ですか……」
 彼の説明によれば、袁家の主従は数え役萬☆姉妹と同じく、涼州各地、特に袁長城と呼ばれる建築物の建設現場を集中的に巡って歌唱公演を行っているのだとか。それが治安維持に一役買っていると、彼は主張する。
 愛紗にしても袁家の当主の片割れがかわいらしいのは知っている。だが、それが簡単に平和を導いてくれるなら世話はない。そんなことが現実に起こるなら、南蛮兵を大陸各地に派遣すればそれだけで治まってしまうではないか。そんなことを思う彼女であったが、男は本気のようだった。
「五斗米道はともかく、そちらは人心安定に本当に影響が?」
「あるんでしょうねえ……」
 確かめるように訊ねる愛紗に、ぼやきのように言うのは、認めがたい、というように頭を振っている詠。
「ボクたちには信じにくいことなんだけど、黄巾の実態ってのはそういうもんだったようだから……。煽動が出来るなら、逆に収めることもできるわけよね。白眉も似たようなものなら、美羽たちがその抑止に役立つってのも理解できないでもないわ」
「にわかには信じがたいところですが……」
「黄巾の本隊は華琳が封じ込めちゃったからな。実態が伝わってないんだよね」
 一刀はしかたないといように苦笑して、先を――長安の方角を見つめる。
「ともあれ、それもいまの時点では仮説に過ぎないからね。実際に、長安で涼州の様子も窺おうってわけさ」
「涼州に近いってだけで、その空気が感じられるかどうかは怪しいところだけど、情報を仕入れるには悪くないでしょうからね」
「本当は金城あたりまで行ってみたいんだけど、さすがにそこまでは離れられないからな」
 そんなことしたら、洛陽の桂花たちに『なんのためにあんたに集約させたと思ってるの!』って八つ裂きにされそうだし、と彼はぶるりと体を震わせて言う。恐怖に震えているはずなのに、どこか楽しげなのはなぜだろう、と愛紗は横目で眺めずにはいられない。
「でも、もし涼州の安定が俺たちの予想通りなら、白眉に対して、政、軍、芸を揃えて対抗することが出来るかもしれない。数え役萬☆姉妹とそれを補完する美羽たちで」
 いまだ彼の言う方策が有効とは思えない愛紗であったが、目の前の男が真剣にその問題に取り組み、答えを出そうとしていることだけは認めざるを得なかった。
「やはり……」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
 思わず口から漏れていた独り言を聞きつけられ、彼女は慌てた様子で馬を早め、長安についてからの予定を話し始める二人から少し前に出る。そうして、目だけで彼らの様子を観察しつつ、彼女は心の中で呟く。
 やはり、斬れぬ。
 民の安寧を考える男を斬る刃は持っていない、と改めて思う愛紗であった。


 長安につくと早速諸葛瑾と随行する呉の文官たちによる町や役所の視察が行われていく。かつての都であり、ここ最近ではしばらく鎮西府が置かれていたこともあって、『都から離れたもう一つの都』の手本として学ぶことは多数あるようだった。
 しかし、愛紗はその一行には参加せず、一人、夜を待っていた。祝宴が終わった頃にあてがわれた部屋を出て、呉の大使――諸葛瑾に用意されたはずの部屋の戸を叩く。といっても、諸葛瑾は大使ということもあり、三部屋が割かれている。ここにいるとは限らない。
 返事はない。それは予想済みだ。
 しかし、彼女が声をかけて何ごとか囁くと、戸は開いた。
 なにかを警戒するようにゆっくりと。
「愛紗さん」
 男のものではありえない、高い声が漏れる。
 そこにいたのは、夜闇にもきらきらと輝く淡い色の髪を持つ少女。
 諸葛は諸葛でも、諸葛亮。本来ここにいるはずの男の妹――朱里であった。


 8.密談


「もう兄君には?」
 さっさと部屋に入り、壁際の卓につくと、わずかな灯りをつけ、二人は声を潜めて話し出す。本来、朱里はここにいないことになっている。気づかれることは避けたかった。
「ええ。祝いの言葉を伝えました。こっそり来たので、少しだけですけどね。部屋まで使わせてもらって、逆に迷惑になってないといいんですけれど」
 兄に就任の祝いを直接伝えるために忍んできた少女は淡く微笑む。
 呉において魏への大使職はかなりの重責だ。それはその役職に就いた人間の顔ぶれを見るだけでわかる。周瑜、孫権、孫尚香――いずれも王族かそれに準じるほどの立場にあった。女王の懐妊という予定されていない成り行きがあったとはいえ、その後を任せられるのは、名誉なことだ。
 親族であるならば祝いたいのは当然だろう。しかし、彼女自身が他国の重鎮である。正式に会おうとすれば大げさになりすぎる。
 そのために兄の長安視察を利用して漢中からひっそりやってきた朱里であった。
「そんなことはないだろうさ。兄妹だ」
 彼女を元気づけるように微笑む愛紗。しかし、彼女はすぐにその顔を引き締めた。その様子に何か気づいたか、自分から訪ねてきたというのになかなか続けて話そうとしない愛紗に向けて、朱里は再び微笑みかける。
「でも、愛紗さんが来るとは思いませんでした。紫苑さんに聞いたんですよね?」
 朱里がここにいることは、蜀の首脳部でもほとんど知る者はいない。紫苑が知っているのは魏の領内で個人的な行動をとることを魏側に通達するための窓口となってもらっていたからだ。
「うむ。その……少し相談したいことが……な」
 辛そうに言葉を押し出して、彼女は一巻きの絹を取り出す。それを受け取り、灯りにかざした朱里の顔から、一切の感情が消えた。
「勅、ですか」
「……うむ」
 読み間違えようのない短い文章を何度か読み返し、彼女は絹を元通り折りたたむと愛紗へ返す。
 朱里は無言のまま、体をわずかに揺らす。首についた鈴がちりちりと涼しい音をたてた。
「荒っぽい手を使うなら、道は二つ。北郷さんを除くか、董承さんを除くか」
 不穏な口調で言ってから、朱里は態度を崩して苦笑する。
「しかし、どちらも現実的ではないと思ったからこそ、わざわざ愛紗さんはここにいるんですよね。ここにいないはずの人間――私と相談するために」
「そのとおりだ」
「北郷さんを倒して解決するなら簡単ですが、それは、はるかに大きな問題を招く……しかし……だからといって……」
 腕を組み、彼女はぶつぶつと様々な事を呟く。愛紗は邪魔をしないようにしばらく黙っていた。
「華琳さんの名前があったならばもう少し簡単だったのですが……」
「む? なぜだ?」
 とんとんと卓を指でつつきながら、声をほんの少し大きくしたのに愛紗は反応する。
「董承さんと華琳さんの派閥争いということに出来ますから。帝は、車騎将軍と丞相との争いに巻き込まれたという形で決着をつけられるでしょう」
 本当に簡単そうに言うのに、愛紗は呆れてしまう。しかし、実際にはなかなかに大変なことのはずだ。それでも目の前の少女なら、その算段もつけられるのだろうと彼女は確信している。
「北郷さん一人を名指しで、しかもいまの時期となると……」
「いまはまずいか? やはり華琳殿のご不在が」
 それもありますが、と朱里は首を振る。
「蓮華さんが北郷さんの子を身籠もられていますから」
「ふむ?」
「丞相の傍近くにいながら、呉王とよしみを通じる姦賊。責めやすい立場ですよね」
 言っている意味がわかり、愛紗は思わず笑い声をたてそうになり、慌てて呑み込んだ。
「北郷殿が二心あると言っても、当の華琳殿が一蹴するだろうさ」
「しかし、その華琳さんはいない。おそらく朝廷も戻ってくるまでは待たないでしょう。あと一月……」
 朱里が以前の見込みを口にするのを聞いて、愛紗は訂正する。
「いや、もっと短いぞ」
「え?」
「白眉の件、聞いてはいないか?」
「いえ、それは把握していますが……ああ、華琳さんを早めに戻す予定なんですね?」
 朱里は納得したように大きく頷く。愛紗もほっと息を吐いた。
「そこまでは伝わっていなかったか。私が戻って数日後には華琳殿も戻られるはずだ」
「では……この長安から戻れば、すぐに催促が来るでしょうね」
「そんなところだろうな」
 そして、と小さく続けるのに、愛紗は小首を傾げる。黒髪が闇の中で柳の枝のように揺れた。
「それから本当の要求が出て来るでしょうね」
「なに?」
「最初に、見るからに無理難題を押しつけ、相手が泣きついてきたら、それよりはましな、けれど、本来なら受けないようなことを提案し、受け入れさせる。……おそらくは、そういうやり口だと思います」
 絶句する愛紗。彼女は頭の回転の悪い人間ではないが、そこまで考えられるような悪辣さも持ち合わせていなかった。
「彼らが望むのは、蜀の……愛紗さんの協力といったところですか」
 朱里は愛紗の様子を理解しながらも話を続ける。愛紗が呆れていてもしかたない。謀略に対するのは朱里自身の役割なのだから。
「もちろん、最初の勅に従って、北郷さんを排除していたとしても、朝廷としては喜んだかもしれませんが……」
「どちらにしても利がある、か」
「ええ。そして、我々には全く利はありません」
 疲れたように言う愛紗に、さらにげんなりするようなことを言って、朱里はその瞳を強く輝かせる。
「ですから、害を少なくする方向で考えましょう」
「策はあるのか?」
 どうやら一つの指針に達したらしい彼女の様子に、愛紗は勢い込んで訊ねる。しかし、それに答えるのはあまりに無情な断定であった。
「ありません」
「しゅ、朱里〜」
 思わず情けない声をあげる愛紗に、朱里は笑ってみせる。ほがらかに、自信たっぷりの笑顔で。
「最後まで聞いて下さいよぉ。ありません。ただし、ここには」


 かつかつと音をならして、一組の男女が廊下を歩く。
 深夜の長安城内にもはや人気はない。彼らも祝宴などの仕事を終え、部屋に向かおうとしているところだった。しかし、そこで交わされる会話は政務から離れていない。
「例の符ですが」
「ああ」
 幽州から送られてきた八文字の描かれた紙片。それを女は符と呼んだ。
 わずか八文字に込めた白眉の主張。それをばらまくことで、彼らは主張を浸透させ、仲間を集め、世間の雰囲気を騒がせることを企図している。
 一刀はそれをつまずかせる策を募り、そして、出てきたのが偽の符をまき散らすことであった。
 意味の通らない符を、元来の符よりさらに何十倍も町に流す。そうすることで、相手の主張を混乱させることを狙うのだ。世情を騒がせることは避けられないが、白眉がすでに各地で暴れている状況ではもはやそれに構っていられない。
 それよりも、各地の白眉を分断させるため、彼らの結束をかき乱すことが優先だと一刀は考え、実行を、その手の知識に詳しい稟に依頼したのだ。
「こういう文言にしようと」
 黒革の手袋の上にのった紙片を受け取り、一刀は廊下を照らす灯火にそれをかざして見た。
 蒼天已死
 玄天當立
 そこに書かれた八文字を読み取り、彼は頭の中の知識を総ざらいする。
「ふうん? 黒って……ええと、水徳の象徴だっけ? 火徳の後に水徳はないもんな、そりゃ意味不明だね」
「ええ、まあ」
 稟の答えはわずかに曖昧。そして、その唇に刻まれた秘やかな笑みを、男は見逃した。
「では、これで?」
「うん。華琳が最後にストップをかけなければ……っと悪い。酔ってるな。止めなければ、だ」
 彼は笑いながら、そう訂正する。
 もちろん、これはそれほど急に実行できる策ではないから、華琳が戻ってきて害になると考えた場合、最終段階で止められるよう日程を考えてあるのだった。
「もう遅いですからね。早々に眠られるとよろしいでしょう」
 ちょうど、一刀の部屋へさしかかっていたところだった。稟は足を止める彼から一歩離れて、自分の部屋に向かおうとする。だが、その手を掴む腕があった。
「稟はまだ仕事するつもりじゃないだろうね?」
「……桂花への連絡事項が残ってますからね。それを書いたら寝ますよ」
「だめ」
 ぐい、と寄せられる。抱き留められるような形になっても、女は抵抗はしなかった。ただ、驚いたようないぶかしむような表情を浮かべただけだ。
「どうせ、早馬が出るのは明日の昼間だろ? 朝書けばいいさ」
「そうは言っても……」
 抗弁しようとする唇を、男の指がふさぐ。その指先から感じる熱に、女は眼を細めた。
「いまは俺が責任者。そうだろう?」
「ひどい専制ですね」
 くすくす笑いを響かせ、二人はそのまま抱き合った格好で部屋に転がり込む。男の抱きしめる力が強まり、顔が近づいたところで、稟は吐息のように囁いた。
「でも、一刀殿」
「なんだい?」
 お互いの唇が触れあうごくわずか手前で、彼らは言葉を交わす。
 男の、短く、熱っぽい言葉は、しかし、冷静きわまりない発言で返された。
「そろそろ止めないと、ひっくり返りそうになっている御仁が」
「……は?」
 抱きしめられた腕の中で窮屈そうに指さすその先を視線で追う一刀。その瞳に、部屋の端で目を丸くして立ちつくす二人の闖入者の姿が映った。
「こ、孔明さんに、関将軍!?」
「は、はわわっ」
 まるでいたずらを見つけられた子供のように、蜀が誇る大軍師は素っ頓狂な声をあげた。


 9.謀略


「えー、ええと、なんだ。その、話があるということですよね?」
 なんとか気を取り直し、卓を用意して、四人はそこについた。場を仕切ろうと声を発する一刀の目は思い切り泳いでいた。
「は、はひっ。ほ、本来私は魏の方々の前には姿を現してはいけないのですが、その、それどころではなくなりまして……」
 朱里のところどころ音程を外して響く言葉に、赤くなった顔をようやく普通の顔色に戻した愛紗が懐から一巻きの絹を取り出す。それが卓の上で広げられ、稟はふむ、と頷いた。
「たしかにそれどころではないようですね」
「あー、また俺狙われてるの?」
 呆れたように言う。慣れっこになりつつあることを自覚する一刀であった。
「ほ、北郷さんが狙われていると言うよりはですね、愛紗さんと我が蜀が朝廷につけこまれていると言いますか」
 そこで朱里は彼女自身の推測を口にする。無理矢理な勅をつきつけて、それを果たせない愛紗に他の要求を迫るのだという筋書きを。
「たしかに、そのような筋もあるでしょうが、それだけではないでしょうね」
「そうなの?」
「魏の立場から考えてみれば、少々違う見方ができます」
 しばらく考えをまとめるように間を取り、稟は眼鏡の位置を微調整しながら話し始めた。
「現実的に言って、この勅が即座に実行されると、朝廷が考えてはいないだろうというのは私も同意見です。うまくいけばいいという程度の考えはあるでしょうが」
 うまくいけばいいな、程度で命狙われたらたまらないなあ……と一刀が愚痴るのに苦笑を浮かべつつ、稟は続ける。
「次に、愛紗殿がこれを拒否したなら、朝廷は弱みを握れます。先ほど言われたように、別の頼みや蜀全体の協力を得ることもありえるでしょうが、私はこう考えます。華琳様を攻撃する端緒としたいのだろうと」
「華琳を?」
「勅を拒否するとしたら、どうするか。帝に取り消させるか、偽勅だとすることくらいです。帝を動かせば、いかな華琳様といえど朝廷に借りを作る。偽勅だとすれば、そうですね、自作自演だと騒ぐかもしれませんね」
 ふふ、と稟は底意地の悪い笑みを見せる。
「華琳様の人材好きは有名で、関雲長という傑物を欲していたこともまた有名。だから、勅を捏造して関羽をまずい立場に追い込み、恩を売っていずれは自分のものにするつもりだ、とでも」
 ひらひらと黒い手袋で包まれた手を振って、彼女は付け加える。
「まあ、以前のように圧力をかけて、白蓮殿と同様に追放されるのを待ってもいいですね。朝廷は無所属となった関雲長を華琳様に差し出すでしょう。ほら、お望みのものだぞ、と」
「華琳の怖さを知らないから考えられる陰謀だなあ、どれも」
 そんな真似をされたなら華琳がどう動くか、一刀はよく知っている。
 華琳もかつて何進の命を受けた時は我慢したように、一時の感情で敵わぬ相手に挑むほど莫迦ではない。
 しかし、現在の力関係は明らかに彼女が上なのだ。
「朝廷が……いえ、帝が現状で大陸支配に必要である以上、通用するのですよ。本当は彼らが思うほど盤石でもないのですけれどね」
「いずれにせよ、やりすぎない限りは、朝廷には利になる……というわけですね」
 暗い顔つきで朱里はまとめる。その様子に、稟は再び口を開く。
「手っ取り早く解決するには三つほど手がありますよ。一刀殿を殺すか、董承殿を殺すか」
 三つ、と郭奉孝は言った。諸葛孔明が二つしか提示しなかった力ずくの解決策を。
 彼女がもたらす第三の道は……。
「帝を殺すか」
 静まりかえった室内に、稟の声だけが響く。その声は、朱里や愛紗に向かっているように見えて、実はその対象を極々限っている。
「朝廷が必要である限り、利はあちらにある。それならば、その大前提をひっくり返すという手も有用です」
 兵法を論じるように、彼女はすらすらと言葉を重ねていく。
「どうします、一刀殿。いまなら――そう、いまこの時なら、貴殿の命でこの国を根本からひっくり返すことすら可能ですよ?」
 それは、蜜のように甘い囁き。
 その男と唇を重ねようとしたその時と同じ調子で、女は問いかけていた。
「焼き討ちにでもするかい? ぞっとしないな」
 それに対して、一刀は軽い調子で応じる。まるで、稟の言葉が冗談だったとでも言うように。
「たしかにそれは根本的解決策になるだろうね。でもなあ」
 彼はそこで少し真剣な顔つきになって、こう続ける。
「その重みを華琳や桃香や蓮華に背負わせるのはどうだろうね。俺がやるのはいいけど、勝手に彼女達に背負わせるのは違うと思うんだよ」
「はわっ。そ、それが問題なのですか!」
 喉に引っかかっていたなにかが急にこぼれ落ちたかのような大声を、朱里が思わず発していた。
「そりゃそうだよ。大事なのはこれからであって、過去じゃないだろ?」
「ちょ、ちょっといいでしゅかっ」
 興奮のあまりか、かみかみの調子で少女は隣の愛紗の袖を強く引っ張る。
「すまない。二人だけで話したいようなのだが……」
 朱里の動作の意味をくみ取って愛紗が言うのに、一刀はきょとんとした顔で答える。
「ああ、どうぞ」
 何ごとか二人で話し始める稟と一刀を卓に置き去りにして、蜀の二人は壁際まで早足で歩いて行く。といっても朱里の早足は愛紗にとってはそれほどの速度でもないので軽く調子をあわせてやっていたが。
「愛紗さん」
「なんだ?」
「私が連れてきておいてなんですが、これは……まずいかも」
「どうした、朱里。過激なことを言われて怖じ気づいたか?」
 あれが本気だったとは思えないがな、と彼女は小さな軍師の態度におかしさを感じる。
「違います!……いえ、そうかもしれません」
 しかし、朱里のほうはかなり本気のようだった。内容ではなく、何ごとか感じ取るものがあったのかもしれない。
「私はあの人を恐れます」
 その様子に、愛紗は真面目な態度に戻って腕を組む。
「まあ、私もちょっと行きすぎだとは思うが……。しかしな、朱里」
 ちら、と二人のほうを見て、彼女は小さく首を振る。
「彼らの手を借りるしかないというのは正解だと思うぞ?」
「それは……」
 同じように二人を見つめ、視線が戻ってきたのか、ばっ、と朱里は頭を動かす。
「そうなんですが……」
「もう少し話してみよう。それから決めても遅くはなかろう」
「……はい」
 愛紗のそんな提案に、ぎゅっと唇を噛みしめ同意するしかない朱里であった。


 10.千里行


「とりあえず、雲長さんは俺を殺すつもりはないってことでいいのかな?」
「はい。それは」
 二人が戻ってきたところで一刀は下から覗き込むようにして確認し、ほっと息を吐いた。
「そっか。安心した。万が一手っ取り早くいこうとか言われたらどうしようかと」
「ですから、それならわざわざこんな風にはしないと言っているでしょうに」
 おそらく、朱里達が席を離れているときにそのことを話していたのだろう。稟が苦笑する。
「でもさー」
「さて、安直な道はお好みではないでしょうから、真面目に考えてみますと」
 彼女は、一刀の抗議を軽くいなして、愛紗達に向き直る。
「華琳様が戻られるまで引き延ばすのが一番の得策だと思いますね。そこで華琳様がどう判断なされるかはわかりませんが、先ほど言ったのはあくまで想定される朝廷の思惑ですからね。華琳様は借りを作ったなどと気になされないでしょう」
「いっそ、華琳が戻るまで長安に残るのはどうだろう? あっちも長安経由だろうし」
「悪くないですね」
 鈴音が鳴る。朱里が首を縦に振ったせいだった。
 その決断までの時間の無さからして、おそらく、当初からそのことは考慮に入れていたのだろう。
 朝廷に弱みを握られるか、華琳に借りを作るか。どちらかを選べと言われれば、後者を選ぶ。難しい選択ではあるが、朱里の言通り、どちらがより害が少ないかを考えれば、答えは自ずと出る。
「いや……それはどうだろう」
 小さく、けれど重苦しく異を唱えたのは、愛紗当人であった。
「たしかに華琳殿は気になさらないかもしれない。しかし……」
「貴殿は気にする、ということですか」
「うむ。もちろん、こんなことを言いつけてくる朝廷よりは、恩義の返しようもあるとは思うが……」
「無理矢理閨に呼ばれるとかはないと思うけどなあ」
「そ、そんなことを案じているのではありませんっ!」
 真っ赤になって否定する美女の姿を見て、実は結構心配なんだけど、と内心思いつつ、一刀は確認する。
「じゃあ、雲長さんは、桃香たちにも華琳たちにも迷惑のかからない、自分一人で背負えるのがいいの?」
「そ、そこまでは言いませんが、やはり、国家間のこととなりますと」
「じゃあ、個人ならいいわけだ」
 そこまで言って、自分で口にした単語になにか思うところがあったのか、一刀は額に指をあてる。
 ふっと他の者が黙った時機を捉えて、彼は何ごとか思い出したような顔で語り出す。
「俺の世界に、関羽千里行ってのがあってさ」
「は?」
「ああ、いやいや、雲長さんのことじゃなくて、いや、関雲長のことなんだけど……」
 ぶつぶつ言い出す男の肩を、しょうがないというようにぽんぽんと叩く稟。
「一刀殿」
「ああ、ごめん。ええとね。俺の世界の過去なんだけど、動乱期にある武将がいたんだ。とてつもなく強くて有名な武将。でも、その陣営全体は弱くてね。強大な敵に戦で負けて、散り散りになってしまうんだ」
「はあ」
「その武将は主の妻子の乗った馬車を守りながら逃走していたんだけど、逃げ切れないと悟って、主君の妻子の命を救うことを条件に敵方に投降した。そして、敵方も彼の力量を評価していたので、客将として遇したんだ」
「あの、北郷さん……?」
「少しお待ちを」
 何を言いたいのかよくわからないのだろう。疑問の声をあげる朱里を、稟が手振りも含めて押さえる。
「約束していたのは一つ、逃げた主の居場所が知れたら、そこを去るというものだ。それまでの間、その武将は主君の家族と己を救ってくれた義理を果たすために、難敵を討ち果たしている。まあ、それが実は彼の主君が逃げ込んだ陣営だったりして、複雑になったりするんだけどね」
 いずれにせよ、と彼は継いだ。
「結局、彼は主のいる場所を知り、そして、果たすべき義理を果たして去っていく。真の主のため、一時の苦渋を呑み込み、主君の家族を守り抜き、忠誠を貫く、そんなお話さ」
「……私にもどこかに避難せよと?」
「いや、一つの手としてはありかな、と」
 はっきり言うよ、と一刀は前置きして告げる。
「俺の所に来てみない?」
 息を呑む音が聞こえた。それは、主に小柄な少女の喉から漏れているようだった。
「殺せって言われても、俺に取り込まれたので無理になりましたってわけだ。朝廷の人間は歯がみするだろうね」
 その様子を想像したか、彼は見ようによっては獰猛にも見える笑みを浮かべた。それはすぐに消え、顔貌には真剣な覚悟が浮かぶ。
「いま、大陸は白眉という脅威に襲われようとしている。これを鎮圧するまで、っていう契約でどうだろう? その頃には、朝廷のほうもどうにかできる。……だよね?」
 最後の問いかけは稟に向けてのもの。もちろん、彼女はなんでもないことのように頷いた。
「董承殿に引退いただいて、そこからですね」
「都合の良いことに、俺にはなぜか女たらしという噂がつきまとってるからね。雲長さんはそこまでの悪役にならずに済むと思うよ。俺にたぶらかされた被害者ってことでさ」
「……なぜか?」
「わ、悪くないと思うんだけどな。国家間の取引にもならないだろ?」
 信じられないほど低い声を努めて無視し、彼は二人に手を広げてみせる。
「蜀への影響は少ないでしょうね。お二人への攻撃、非難は強まりましょうが」
 沈黙を通す蜀の二人に対して、稟が補足するように続ける。
「しかし、国家間のことにならないというのは甘い話ですよ。民に知られずにいても、こうして裏で話がついているのなら、結局、蜀という国が一刀殿に頼るか、華琳様に頼るかの違いに過ぎなくなります」
「そう……かなあ?」
「ただし」
 困ったように腕を組む男の様子と、蜀を代表する二人の英傑を両方とも視界に入れながら、稟は冷たい声で言った。
「演技ではなく、真に恋に狂った女性の独走ということになれば、これはもう本当に個人の出来事ですが」
「……この場にいる私たちでさえ知らなかったことにしろ、ということですね」
「有り体に言えば」
 桃香たちにはしっかり話を通して安心させておこうという彼の考えはあっさりと覆される。
「いや、さすがにそれは……」
「別に変わらないでしょう。いずれにせよ民には裏切り者と蔑まれるのは間違いないのですから」
「それはそうかもしれないけど、でも……」
「私は」
 一刀が稟に食い下がろうとするところで、一つの声が割って入った。
「白蓮殿と同じように、追放される覚悟をしていた」
 凛としたその声の持ち主は、戦場や政務の場ではついぞ見せたことのない、穏やかな顔つきで言葉を発していた。
「白蓮殿を追放しているこの身だ。蜀を守るためなら……義姉上たちを守るためなら、それも当然だと思っていた。いや、いまもそう思っている」
「愛紗さん……」
「だから、北郷殿のところに行くことにも……期間限定だというならなおさら、拒否感は……いや、そうではないな」
 彼女は一刀をまっすぐ見ると、その頭を下げた。艶々とした黒髪が、灯火の光を受けて煌めく。
「すいません。せっかくの申し出、本当に身勝手ながら、私の主は桃香さまただ一人。拒否感がないとは言い切れません」
 義姉妹の誓いはそう簡単なものではない。偽装といえども、易々と割り切れるものではないだろう。
「そりゃそうだ」
「だからといってお断りするというわけではないのですが……」
 彼女はゆっくりと頭をあげ、
「朱里」
 と一声呼んだ。
「教えてくれ。華琳殿に頼るのと、北郷殿に頼るのと、どちらが蜀の……桃香さまと、民の受ける害が少ない?」
 張り詰めているわけでも、焦っているわけでもない。
 ただ、単純に訊ねているその声に、朱里は首元についた鈴を弄び、しばし考え込んだ。
「北郷さんのほうは、白眉の乱が終わるまで、ですね?」
「うん」
 確認する声はかすれていた。それを意識してか、彼女は咳払いをしてから言葉を継いだ。
「稟さんには怒られるかもしれませんが、華琳さんは冷徹な人です」
 それは侮辱でもなんでもありませんよ、と稟は笑った。
「情に厚い部分もありますが、利害を考量し、適切な判断を下すでしょう」
 それから、再び彼女は一刀を見上げる。その笑顔を、その奥にあるものを見通そうとでもいうように熱心に。
「それに対して、北郷さんのほうは、はっきりいって甘いです。いまの提案だって自分自身にも害をなすような話をしてますから」
「まあ、俺のほうがはるかに与しやすいよな」
「ええ」
 嫌味も見せず笑う男に対して、朱里は頷きながら、口の中でそれに続く言葉を呟いていた。
 いまは、と。
「愛紗さん」
「うむ」
「北郷さんの案のほうが、一時的に受ける害は大きいですが、愛紗さんが戻ってくるならば、三年で回復出来る程度のことです。華琳さんのほうは、未知数です。もちろん、滅ぶほどのことはないでしょうけれど」
 ただ、これはあくまで私の予想ですけれど、と彼女は断って言う。
「桃香さまなら、華琳さんに頼れと言うでしょう」
 そう告げる大軍師には、すでにわかっていたのだろう。
「そうか。わかった」
 さっぱりしたように答える彼女がどうするか。
「姓は関、名は羽。字は雲長」
 真っ直ぐに立ち上がり、そして、彼女は彼の足下で膝をつく。
「真名は愛紗。青龍偃月刀とともにお預けいたしましょう。……ご主人様」

 今後の打ち合わせ――朝廷対策の他は主にどうしらを切るか――を一通り話し合った後で、ふと一刀はなにか焦ったような調子で、唸りをあげた。
「どうしました?」
「稟、それに孔明さん。確認するけどさ。今回のことで、皆に知らせないのは動揺してくれれば情報が行き渡っていないと朝廷が判断するってのが重要なんだよな? なにも全員を騙しきる必要はないよね?」
「ええ、まあ、要は朝廷がどう考えるかが一番大事ですからね。言っておきますが、私も知らないということになっていますからね。そう振る舞って下さい」
「あ、うん。でも、まあ、朝廷が騙せればいいんだよな、究極的には」
「なにか気がかりでもあるんですか?」
 稟の返答でもまだ安心しきれないような一刀に、朱里は小首を傾げる。
「え、だってさ」
 一刀は愛紗を指さし、皆に示して見せた。
「桃香は彼女を疑わないだろ?」
 その言葉を聞いた時、愛紗は己の選択が間違っていなかったことを知った。




     (玄朝秘史 第三部第二十六回 終/第二十七回に続く)



北郷朝五十皇家列伝


○曹宗家の項抜粋


『曹宗家は、後漢の混乱の中に割拠した群雄を平定し、最後に残った三国を統一して覇王と呼ばれた曹孟徳、すなわち北郷朝の実質的創設者とも言われる人物の子らがつくった三つの皇家、曹宗家、曹上家、曹下家の頂点に立つ宗家であり、孟徳の長子である顕帝(昂)に始まる皇家である。
 その出自、特に顕帝が太祖太帝の後を継いだという事情から、世上では北郷五十家全ての宗家であると勘違いされるむきもあるが、あくまで曹宗家は曹三家の宗家であり、他の皇家に対して感情的な尊敬などは別とすれば、特別な地位を持っているわけではない。
 ただし――いかに多産とはいえ――一人の皇妃に対して三家の創設が許されたのは異例中の異例であり、もちろん他に例は存在しない。皇室会議やその他の皇家としての立場が重視される場において、一つの血統が他に対して三倍の発言力を持つということであるから、これは非常に重い意味を持つと言える。(実際に、意見が集約されて三倍の力が発揮できるかどうかは別問題であろう)
 この措置に関しては、いくつか理由が推測されている。たとえば、三国を統一した経緯を重要視したという説。最後に残っていた呉、蜀漢の二国を上回る影響力を確保しておきたかったという説。姉妹を祖に持つ三つの孫家とつりあいをとった説など内容は様々だが、いずれにせよ皇家の中でも曹家は重要であると示さんとする意思が感じられる。
 曹三家のほうでもそのことは自覚していたらしく、代々優秀な人材を育成することに非常に力を入れている。たとえば……(中略)……
 三家の中でおおまかに役割分担をしていたらしく、宗家は政や軍略、上家は文学や哲学、下家は数学などの自然科学を担当していた。さらにこれに加えて、夏侯、司馬夏侯の両夏侯家が武術を受け持っていたようだ。
 この傾向は代を重ねるごとに強まっていき、三家と両夏侯家の中で特に才能が認められた者がいると、それにふさわしい家に養子に出されるという習慣にまでなっていく。
 なお、余談ではあるが、美食の追求に関しては、三家共通のものであったらしい。
 実際に、歴代の皇帝の出自を考えると、曹宗家は一つの皇家では最高数の四人を至尊の玉座に送り込んでいる。(これに次ぐのは董家の三人)初代である太祖太帝、特殊な立場である少帝、刀周家の二人、あわせて四人を除いた二十人の内五分の一を占める計算だ。曹宗家が帝国においてどれだけの位置を占め、それにふさわしい人物を輩出していたのかよくわかろうというもので……(中略)……
 顕帝こと曹昂については、字形が似ているためか、その名前が『昴』と間違われがちであり、甚だしきは同時代の史書においても、昴と誤っているものが存在する。よい例が『諸史通鑑』に記されている
【……その時、今上、その母に声をかけ「昴はただひたすら、航海の無事を祈ります」と……】
 などである。
 しかしながら、これが誤りではない、という説が近年浮上してきており、学界でも認められつつある。
 諸史通鑑は皇家の一つが後押しして編纂したものであり、なにより、その台詞は当の李家が推進した東方植民の旅立ちの場面を描いた中で発せられたものである。これを間違えるなどと言うことがあるだろうか?
 現実問題として、発音で考えれば昴と昂は明確に違う。この時代と現代とでは発音に差異が生じていることも確かだが、漢代においても両者が同音であるとは考えにくい。
 これまで形が似ているためにただ間違えられたと考えられていたものを間違えていなかったと仮定した場合、どんな結論が導かれるか、それを詳細に調べた結果……(後略)』


○曹上家の項抜粋

『曹三家がいずれも曹操にはじまるのは揺るぎない事実であるが、曹上家として分かれた時の初代を誰と比定するかは難しい問題である。
 最終的に血統を継いだのは曹操の第五子、植(字は子建、謚号は思)であるが、当初は、いわゆる廃太子――名は丕(字不詳)――が曹上家の太子として選ばれており、曹植は曹下家の太子であった。
 これは、要するに家の成立をどの時点とみるかという問題に関わってくる。通常であれば皇妃となった者がそのまま皇家を形作るわけであるが、曹操に限ってはその子から家が……(中略)……
 さて、曹宗家を継いだ顕帝は曹操の第一子、第二子は夭逝、そして第三子の廃太子が曹上家の太子となっていたという状況だけをみると、曹家では出生順が強く意識されていたかのように捉えてしまいそうになるが、実際はそうではない。
 当初曹下家の太子として選ばれていたのは、第四子の曹彰ではなく第五子の曹植であったし、最終的に曹下家を継いだのは第九子の曹沖であった。
 曹操は多産であった。そのため、多数の子らから才能ある者、実力を発揮している者を選び上げることが可能であった。
 もちろん皇家の制定が議論された時点では幼年の子供たち――特に、後に母と共に東方植民に参加する第二十子以降の子ら――はその才幹を発揮しようがなく、候補にならなかったであろうが、それでも十数人の子供たちの中から、彼女は三人を選び出したのである。
 この三者の感じる重圧たるや、並大抵のものではなかったと推測される。
 三国を統一して新時代を築いた曹操を継ぐために用意された、他の血族には許されない複数の家。その太子と定められることは、まさに帝国の次代を担う俊英として選ばれたに等しい。
 いかに曹操手ずからの英才教育を受けた面々といえど重責を感じないわけもないだろう。現代の研究では、丕が最終的に廃太子となるのはこの重圧に耐えきれなかったためだと考えられている。
 上には後に実際に帝位を継ぐこととなる『静かなる英主』曹昂があり、下には『詩聖』曹植がいる。いかに優れた資質を持つ人物であろうと、それよりさらに飛び抜けた存在に挟まれては窮屈に感じざるを得ないだろう。
 結局、精神的圧迫を、廃太子は于皇妃を侮辱するという形で発散し、それは宮廷全体を巻き込む大醜聞事件となってしまう。
 世間ではこの事件で丕は失脚し、皇籍をはく奪されて庶人に落とされたという認識になっているだろうが、本当の成り行きは少々異なる。(物語では、これらのことは全て廃太子を恐れた顕帝の罠であった、という陰謀の筋となっているが、これはもちろん言いがかりである)
 この事件そのもので廃太子が受けた処分は半年間の禁足であり、期間後には再び出仕していることが資料で確認される。しかし、さらに半年後、事件から約一年後から彼についての記録は見えなくなり、その二年後、廃嫡され、北郷の姓を名乗ることも禁止されたとぽつりと記されるのみである。
 表に出てきている皇妃侮辱事件よりも深刻な何かがこの時期に起こったのか、あるいは侮辱事件に伴う挫折が尾を引き、ついに克服することができなかったのか、詳しいことは……(後略)』

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