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575 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/10/24(日) 11:34:44 ID:jzQ+A2860
こんにちは、一壷酒です。遅れて申し訳ありません。ちょっと今回長くなりすぎました。
そういえば、別の女体化三国志ゲーだと、麗羽様をシャムが、恋と霞を思春が、流琉と愛紗を蒲公英
(の中の人)がやるんですなー。
声だけ聞いてたら混乱しそうですね。

★更新予定
二十四回:11月03日(水)
二十五回:11月13日(土)
二十六回:11月23日(火)

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく
表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
・なお、今回、名も無きオリキャラが出てきます。

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玄朝秘史
 第三部 第二十三回



 1.雨隠


 白馬は困惑していた。
 久しぶりに相棒を背に乗せたのはいいが、その人物がぼうっとして何も指示を出そうとしない。好き勝手に走るのは、その許しが出ない以上不可能だ。そうなると、ただ並足で進むくらいしかやることがない。
 実に面白くない事態であった。
「はぁ……」
 そんな愛馬の不満をよそに、白蓮は一人、ため息を吐く。
「なんで私はこうなんだろうなあ」
 ぼやく白蓮ではあるが、彼女自身も参加する北伐第二陣の準備は着々と進んでいる。
 涼州方面軍の参加者はすでに全員が洛陽を発ち、長安、金城などで順次集合しつつ前線に急いでいるはずだし、北方には霞と凪が向かっている。中央からの補給を担当する沙和は距離は近いながら河水北岸、冀州邯鄲に布陣し、麗羽たち一行もほうぼうの戦域に顔を出すために出立した。
 白蓮の身が未だ洛陽にあるのは、幽州で受け取るはずの呉からの物資について調整をしなければならなかったからで、それでも明後日には出発する予定になっている。
 そんな風に仕事の面では順調だというのに彼女が沈んでいるのは、先に旅立っていった諸将が、実に楽しげに北郷一刀との『でぇと』をこなしてから洛陽を去ったからに他ならない。
 元々一刀と縁の深い魏の将はともかくとして、かつて彼女と同じく桃香のもとに身を寄せていた翠までがめかしこんで町を散策したという。
 彼自身への感情については自分でも未だにわからないところがある白蓮であったが、そうして周りが楽しく過ごしているところを見ると、なんだか仲間はずれにされたかのように感じてしまうのだった。
 ならば彼女も『でぇと』をしてみればよいのだが、白蓮から申し出るにはもはや時機を逸しているし、なにより、それで断られたりしたら余計に辛い。
 そんなわけで、なんだか悶々としている白馬長史であった。今日、遠乗りに出ているのも、そんな気持ちを振り払うためであったはずだが……。
「いやいや、そんな気落ちしていてどうするんだ、私」
 彼女は大きく首を振り、あたりを見回す。なにか気晴らしになるものはないだろうかと探してみれば、南のほうにこんもりと茂る森が見えた。
「よし。あの森まで駆けよう! はっ!」
 そうやって愛馬に指示を出す。すると、白馬はそれまでの鬱憤を晴らすかのように、のびのびと駆け始めるのだった。

「気を取り直してみた結果がこれか……」
 しばらく後、白蓮はずぶ濡れで小屋の中にいた。外からは雨が木々や大地を叩きつける音が響き続けている。
「まあ、火がつくだけましだな」
 近隣の者が杣仕事の折にでも使っているのだろう小屋は、狭いながらも数人が寝泊まりできるだけの備えはあった。土間に愛馬を入れ、白蓮は濡れた衣服と体を乾かそうと火にあたっている。
「しばらくはあがりそうにないなあ」
 窓がないために外の様子ははっきりとはわからないが、屋根を打つ雨音は勢いを増しこそすれ弱まる気配はない。通り雨であってくれればいいが、と願わずにはいられなかった。
 火の傍でぼうっとこれからどうしようかと考えていた白蓮であったが、不意に愛用の剣を引き寄せた。このところ戦場では偃月刀をもっぱらにしている白蓮であったが、さすがに今日は携えていない。柄に手をかけ、いつでも抜けるようにしてから、姿勢を低くする。
 大きな音をたてて戸が開いたのは、彼女の気配が消えると同時であった。
「ひゃあ、すごい雨だーっ……って、あれ、誰かいるんだ。すみませーん、ボクたちも……あれれ?」
「もう。だから確認してからにしようって言ったのに……あれ?」
 飛び込んできた二つの小さな体から発せられる声は、耳慣れたもの。白蓮は体の力を抜いて呼びかける。
「なんだ季衣に流琉じゃないか」
「白蓮さん」
 二つの声が揃って驚きを示す。吹き込んでくる雨風に、ぶるるっ、と白馬がいななき、流琉が慌てて戸を閉めた。
「二人も雨にあったか。さ、火をおこしてあるからこっちに来なよ」
「はーい」
「お言葉に甘えまして……」
 びしょ濡れの体から出来るだけ手で水滴を振り払ってから、二人は火に寄ってくる。うー、あったかいねえ、などと言い合いながら手をかざしているのを見て、白蓮は目を細めた。
「魚を釣りに来てたんだけどねー。いきなり降って来ちゃって」
「木の実も採れたらよかったんですけど、この雨で。白蓮さんは遠乗りですか?」
「ああ、出かける前の様子見も兼ねてな。正月は休ませっぱなしだったし。って、そうだ。馬は出した方がいいか?」
 揺れる炎の明かりで照らされる小屋を見回して訊ねる。自身は気にならなかったが、狭い中だ。獣臭いことは間違いない。
「えー。かわいそうだよ」
「そうですよ。雨に打たれたら冷えちゃいますし、ぎゅうぎゅう詰めでもありませんから」
「そうか? まあ、二人がいいなら私はいいんだが」
 そのことで、二人の意識が白馬に移ったのか、季衣と流琉は白蓮の愛馬を観察するように眺めはじめる。
「それにしても、きれいな馬ですよね」
「え、そ、そうか?」
 薄暗い中でも、炎の明かりで照らされて輝くような馬体を示している白馬を、季衣と流琉は称賛の意を込めて見つめる。その視線が自分に向いているわけでもないのに、なにか体中がむずがゆく感じる白蓮であった。
「霞ちゃんとか蒲公英たちのところもすごいけど、毛並みでは白蓮さんのところだよねー」
「そ、そうかな」
「うん。部隊の人たちのも白くてかっこいいしー」
「あれって、集めるの大変なんじゃないですか?」
「ああ、もちろん。でも、まあ、途中からはうちが白馬を集めてるって知ったら、そこここから商人がやってきたよ。目聡いもんさ」
 少々気恥ずかしいながらも、訊かれたことにわかりやすく答えてやる白蓮。そもそも、こんなことを訊いてきてくれる相手がはじめてだと言うことに、彼女はなんとなく意識の隅で考えていた。
「でも、さすがに全部を真っ白にはできないけどな。黄色味が入ったり、茶色がかったのが白く抜けてきたり、色々だよ」
「へぇ」
 楽しそうに頷き、季衣は身を乗り出して、白馬へと体を近づける。
「あ、季衣」
「大丈夫だよ、驚かせたりしなければ」
 止めようとした流琉を笑って流し、白蓮は愛馬を呼ぶ。それで意識が人間たちに移った白馬は、近づいてきていた季衣の肩口に鼻面をこすりつけた。
「わふっ」
「人なつっこいですね」
 季衣にじゃれついている所に、流琉も手を伸ばす。ゆっくりとなでてやると、彼女の手首をべろりと大きな舌がなめた。
「そいつ、かわいい女の子には優しいんだよ。牡だからな」
「へー。兄ちゃんみたい」
「もう。季衣」
「はは。一刀殿か。そいつはいいな」
 戯れあう二人と一頭を見て、微笑みを浮かべていた彼女は、ふと一刀の名前が出たところで、何ごとかを思いついたような表情になった。その目が馬と遊んでいる二人の少女の間を行き来する。
「な、なあ」
「はい?」
「二人も、その一刀殿と……」
 途中まで言いかけて、白蓮は思い直して手を振ろうとした。だが、その前に、季衣が元気よく答える。
「うん。ボクたち、兄ちゃんの『コイビト』だよ」
「あ、ああ。そう。そう……なんだ」
 視線が向けられるのに、暗い中でもわかるほど顔を真っ赤にして、それでもしっかりと頷く流琉。その姿を見て、納得するしかない白蓮であった。
「はは……一刀殿も魏の連中もほんと……すごいなあ」
「なにがですか?」
「いや……なあ」
 言いにくそうにしている白蓮を見て、季衣が目をつり上げる。
「あー。ひどーい。ボクたちのこと子供だと思ってるでしょー!」
「あ、それは違う」
 あっさりと否定する白蓮。ここで明確に否定しておかないとろくなことにならないのは、鈴々や蒲公英で十分学んできた彼女であった。
「そういうんじゃなくて、ほら……。いっぱいいるだろ?」
「ああ」
「そういうことですか。それなら別に気にしてませんよ?」
 今度は二人にさらりと言われ、白蓮のほうが息を呑む。
「……そうなのか?」
「ええ、だって……。私は季衣も秋蘭様も、春蘭様も、華琳様も、他のみんなも大好きですから。魏の人達じゃなくても、みんないい人達ですし、なにより、兄様の選んだ人ですからね」
「そういう……もんか?」
「うん。そういうものだよー」
 季衣も楽しげに頷く。季衣にしてみれば、流琉が代弁してくれたことに丸ごと賛成なのだから当然だ。
「……やっぱりすごいと思うな、うん」
「そうかなあ?」
 白蓮の、心の底からの感心に、首をひねるしかない季衣と、多少わかるまでも苦笑するしかない流琉であった。


 2.風呂


「風呂?」
 早朝の廊下で稟に呼び止められ、用件を聞かされた一刀はその単語を繰り返すしかなかった。
「はい。元々一刀殿の発案と聞いていますが?」
「ああ、公衆浴場の話か! できたの?」
 眼鏡を押し上げながらの稟の言葉にようやく思い出し、ぽんと手を打つ。
「近くの屯田……以前、祭殿を見つけられた場所に、試験的に作ってみました。報告ではそれなりにできあがったようですが、ここは一つ発案者の一刀殿に視察してきていただこうと」
「ん。わかった」
 記憶を無くしていた祭を見つけたあそこか。なんだかえらく懐かしい話だ、と一刀は妙な感慨を抱く。
「では、季衣と流琉を連れて行くようにと華琳様のお言いつけですから。よろしくお願いいたします」
「季衣たちと?」
「庶人代表ということかと」
「ああ、そういうこと。了解。行ってくるよ。……あ、でも、今日は無理だな。白蓮の隊が出発するだろう?」
 北伐の最後の部隊が出るとなれば、それなりに事後処理が発生する。一刀としてはなるべく時間をとっておきたかった。
「いえ、そちらは延期になりましたので、問題ないですよ」
 だが、稟は彼の疑問を当然予想していたのだろう、よどみなく答える。
「あれ? なんで?」
「白蓮殿が昨晩遅く熱を出して床に臥せってしまわれたので」
「ええっ」
 あまりのことに驚愕の声をあげるしかない一刀であった。

「ふーん。ここがお風呂か」
「なんだか……ずいぶんものものしくありませんか? やっぱり試験的な施設だからでしょうか?」
 一刀と季衣と流琉は連れだって屯田の村へと来ていた。
 ただ、現在では洛陽近くの屯田は郷士軍の管理下に置かれるようになったため、以前にいた流民あがりの者たちは洛陽城内の仕事に移されるか、別の場所に土地を与えられてそちらへ転出していた。おかげで、畑にいるのも兵士ばかりだ。
 しかし、流琉が言っているのはそんなことではなく、風呂として紹介された小屋の回りに張り巡らされた鉄の壁のようなものを指してのことであった。見るからに金属の固さを持っている上に、真っ黒に塗り上げられて、周囲を圧する雰囲気を放っている。
「ん? ああ、あれ。あれは防衛や目隠しのための壁じゃないよ」
「そうなんですか?」
「じゃ、なんのためー?」
 疑問に思う二人に先んじて『壁』に近づき、手招きする一刀。彼はしゃがみこんで、二人にその壁の裏を指さした。
「ほら。見てご覧。斜めになった鉄板の後ろにいっぱい筒がつけられてるだろ?」
 一刀の言葉通り、真っ直ぐではなくわずかに傾斜して立てられた鉄の壁の裏側には、竹筒が何本もつけられていた。
「はい」
「へー。なんか骨みたい」
 覗き込んだ季衣の表現も不思議ではない。まるでなにかを支える骨のように、それは鉄の面に張り付いていた。
「これの中に水が通ってるんだよ」
「お水……ですか」
「うん。それでね、この鉄板、熱いだろ?」
 一刀が鉄板に触れると、季衣と流琉も揃って触れてみる。日を受けた鉄板はそれなりに温められていた。
「触れないほどじゃないけど、あったかいねー」
「夏には触ると火傷するくらいになりそうだけどな。いまはそこまで日差しがないから」
「お日様にあっためられてるんですね」
「そうそう。太陽の熱が、この裏の筒に伝わるわけだ。そうすると、中の水が温められて、風呂に供給される、と」
 男は管のいくつかの先を指し示す。するとそれらは風呂の小屋の中へと引き込まれていた。
「へー、すごーい」
「薪を使わなくていいってことですね!」
「まるで使わないのは無理かもね。ただ、冷たい水から温めるよりは早いし、薪の量も減るだろうね」
 立ち上がりながら、一刀は軽く肩をすくめる。
「あとはどう冷めないようにするかとか、工夫が必要らしいんだけど……。まあ、これも実験だからね。試してみないと改良するための工夫も見つからないし。とりあえず、冬の凍結を防ぐのが最初の課題らしいね」
「これも兄様の天の知識ですか?」
 筒の繋がり方や、そこに水を供給する絡繰の様子を眺めていた流琉が質問する。季衣はつんつんと竹筒をつついている。
「だいぶ真桜や稟の応用が入ってるけどな。俺のつたない話から、よく考えつくもんだよ。まあ、ともかく、風呂に行ってみようか」
「はーい」
 二人の声がぴったり重なり、思わず微笑んでしまう一刀であった。


 その部屋の中は、むっとする湯気でいっぱいであった。
 蒸気を逃さないために窓は明かり採りのための小さな格子状のものが二ヶ所あるだけで、足下がようやく見えるほど。そんな中で、薬草の爽やかな香りの混じった蒸気に囲まれている、そんな状況であった。
「あれー、湯船がないよー」
「ああ、蒸し風呂だからな。って、季衣? 流琉?」
 脱衣所で別れたはずの二人が部屋に入ってきたのを見て、男は目を丸くする。慌てて股間を隠す一刀。彼自身の視力では少女達の裸を見ることは難しいが、彼女達の目をもってすれば、彼の体くらい見て取れるかもしれない。
「あの……脱衣所を出たら、つながってましたよ、兄様」
 こちらも腕で体を隠しながら、もじもじと流琉が言う。もちろん、季衣は堂々と普通に立って、そんな流琉や一刀の行動を不思議そうに見ている。
「そのパターンかよーっ」
「はい?」
「いや、なんでもない。ともかく蒸気浴しようか……」
 思わず口走ってから、がっくりと脱力して、一刀は壁際に作り付けられた段――長いすに座った。
「座るのー?」
「うん。って、なんでここに?」
 季衣と流琉も一刀の座った場所の両側に位置を占める。十人程度が座れる長いすが両側の壁にあるので二十人程度は入れる部屋の中、三人は固まって座っていることになる。
「えー、だって、兄ちゃんの傍のほうがいいじゃん」
「お、おいやですか?」
 さすがに薄暗い中とはいえ、これだけ近くにいれば二人の体の線も、表情もわかる。この状態で、視察を続けろというのは、なかなかに辛いものであった。
「いや、そりゃ俺も嫌じゃないけど……」
 だが、もちろん、一刀がそんな二人を拒絶できるはずなどありはしないのだった。
「ねえねえ、ここって、このもくもくしたの浴びてるだけでいいのー?」
「うん。そうして汗をかいたら……ええと、これだ。これで体をこすって汚れを落とす、と」
 一刀は壁にかけられていた棒のようなものを手に取る。柔らかい竹を細かく割り裂き、あたりのいいように削られたそれは、膚をこすって垢や汚れをこそげ落とすためのものであった。
「ふーん。ボクは湯に浸かる方がいいなー」
 長いすの上でぶらぶらと足を揺らして、季衣は不満げに口をとがらせる。
「んー。俺もそのほうが好きだけどね。そうなると水が大量にいるだろ? 沸かすのも大変だし、湯をきれいに保つのも問題になる。なにしろ、最終的な目標は町の人に使ってもらうことだから、費用がかかりすぎるのは避けないと」
「だから、蒸し風呂なんですか?」
 顔に浮いてきた汗を手で拭いながら、流琉が彼を見上げていた。一刀の体にも汗が浮き出始めている。
「うん。水が少なめで済むのと、部屋の管理が簡単だからね。湯船は湯を抜いて洗わなきゃいけないけど、こっちなら、部屋ごとごしごし磨いて流すだけだし」
「そっかー。色々考えてるんだねー」
「俺は最初の案を出しただけで、実現できたのはさっきも言った様に真桜や稟のおかげだけどね」
 そうしてぽつぽつと会話を続けていたが、その最中に流琉がとある話題を切り出した。
「そういえば、白蓮さんがご病気って本当ですか、兄様」
「ああ、そうらしい。午後にも見舞いに行こうと思ってる」
「ありゃ。一昨日のあれのせいかなあ?」
「え? なんかあったのか?」
 一刀の問いに季衣が森の小屋であった一部始終を語る。
「そうか、それで風邪ひいちゃったのか……」
「ボクたちはひかなかったけどねー」
 いや、あなたがたは基礎体力が違うと思います、とは思っても言わない一刀であった。
「しかし、なんで一人で森なんて行ったんだろう? 白蓮が言うとおり、馬の試しなら部隊と一緒に行ったほうがいいだろうに」
「そりゃあ、一人になりたかったんじゃないですか?」
「一人に……ね」
 一刀はじっとりと顔を濡らす汗を拭いながら、小さく呟く。
「白蓮って案外寂しがり屋だと思うんだけどなあ……」
 季衣と流琉がその言葉に思わず顔を見合わせ、次いで小さく吹きだした。季衣の方はけらけらと大声で笑い始める。
「兄ちゃん、おっかしー」
「え? え? どした?」
 わけがわからない、といった風情の一刀を非難するように、流琉は手を大きく振って指南口調で言う。
「あのですね、兄様。寂しがり屋じゃない女の子なんているわけないじゃないですか」
「そうだよ。だからって群れるばっかじゃないしねー。一人になりたいから寂しくないなんて、兄ちゃん、ほんとおっかしー」
 あはは、と一刀も笑う。
 しかし、彼はそれと同時に顔をひきつらせてもいた。
「あれ……兄ちゃん?」
「すまん。仕事だし、なんとか我慢しようと思ったんだけど」
 目立たぬように動かしたつもりだったが、股間を無理矢理覆おうとする手の挙動は季衣の目に留まり、そして、その掌の中に隠しきれないものをも彼女の視界に入れていた。もちろん、季衣の声で流琉の注意もそこに向かっている。
「いまの二人の言葉で我慢できなくなっちゃったよ」
「それって……その、意識しちゃってって……ことですか?」
「うん」
 見事にそそり立った肉棒は、少女達の視線を受けて、さらにひくひくとうごめき、硬度をさらに増していく。そして、それによっていっそう視線を逸らすことのできなくなる季衣と流琉。その様子は一刀に激しく彼女達を意識させる。
 それまで努めて無視してきた二人から漂う甘い香りや、ごくまれに触れる膚の弾力や、首筋から肩口へ流れる体の線や、膚を伝う汗の雫の動き、諸々のものが急に彼の意識の表層にのぼる。
「兄ちゃんやらしーんだー」
「いやらしくない男もいないんだぜ?」
 なんとか明るく返したつもりだった。
 けれど。
「兄ちゃんだったら……やらしくて、いいよ」
「私も、その……」
 戻ってきた答えは、淫靡に濡れている。
 髪を下ろした二人は、元から普段の彼女達に比べればずいぶん大人っぽく見えたが、この時、彼を見上げる顔は間違いなく女のそれであった。

「ねえ、兄ちゃん」
 はあはあと荒い息を吐いて、季衣は彼に囁くように呼びかけた。彼に正面から抱かれるようにして突き上げられていた体は、力がぬけてしまったのか、ずるずると落ちて、彼の足下にわだかまっている。
「なんだい?」
 すでにぐったりとしてしまった流琉が彼にもたれかかっているため、季衣を助け起こそうとして、四苦八苦する一刀。
「ボク、蒸し風呂のいいところ見つけたよ」
「え?」
「汚れてもお湯が汚れなくて、すぐ、流せる、とこ」
 彼が言ったことをほんのわずか変えて言う彼女の小さな、けれどしなやかで強靭な体は、彼の吐き出した白い液体ですっかり化粧されていた。


 3.見舞い


「稟、風呂、行ってきたよ」
 この言い方だとまるで、無精で風呂に入れと言われたみたいだな、と思いつつ、一刀は声をかける。
「ああ、お帰りなさい。いい湯でしたか?」
「なかなかのものだね。掃除も楽だった。詳しくは後で報告書にまとめるけど……。それよりちょっといいかな?」
「はい?」
 不思議そうに見つめてくる彼女に、彼は意見を開陳しはじめる。
「ええとね……」

 それからしばらく後、一刀の姿は白蓮の部屋にあった。
「葱と卵のお粥。流琉に作ってもらった」
「あ、ありがとう」
 入って来るなりそう言って器の載った盆を、寝台脇の小机に置く一刀。寝台に寝ている女性のほうは熱でぼうっとした頭で、一刀殿はいつの間に来たのだろうと考えていたりする。
「食欲、ない?」
「いや、食べる」
 もぞもぞと起き上がり、そういえば、寝間着だった、客の前では隠さないといけないな、と思いつつ、白蓮はそれ以上動くのが億劫でならない。
「なあ、白蓮。今回連れてきている人間の中で、信用出来るやつを五人くらいあげてくれないか?」
「え? ああ、いいけど……?」
 盆を膝の上にのせてくれるのを受け取り、蓋も開けてもらう。さじまで粥につっこんでもらってから、彼女はぼんやりと五つの名前を挙げた。
「ありがとう。じゃあ、またすぐに来るから」
「え?」
 引き留める間もなくさっさと消えた男の姿を部屋の中に捜してきょろきょろしていた白蓮であったが、諦めたように粥に意識を移した。
「一人で食べるのはちょっとなあ……」
 ぶつぶつ言いながら、彼女自身思っても見なかったような勢いで食べ始める。どうやら体の方はなにか精のつくものを求めていたらしい。流琉が作ったそれがとても美味しかったせいもあるかもしれない。
「ただいま」
 粥の半ばを平らげかけたところで、男は何ごとも無かったかのように戻ってきた。
「白蓮の隊だけど、さっき教えてもらった五人のうち三人に百人隊を一つ率いさせて先行させるよう手配したよ。稟が責任持ってやってくれるって請け負ってくれたよ」
「えぇ?」
「百人は残ってるし、大丈夫だろう?」
 白蓮が連れてきたのは百人隊が二つ。実質は一九〇名といったところか。そもそも護衛というよりは連絡や事務のための人員であり、半分を先行させることになにも問題はない。
「いや、そりゃ大丈夫だけど……。え、でも、なんで?」
 食べるのを続けるよう彼が促すので、少しずつ口に運ぶ合間に、彼女は訊ねる。
「白蓮、熱が下がったらすぐ出るつもりだったろ?」
「うん。そりゃ、本来今日出かける予定だったんだし」
「それじゃだめだよ。もちろん、白蓮は体力もあるし、多少の無理は利くだろうけど、これから北に行ってさらに幽州に向かうわけだろ? 万全でいてもらわなきゃ」
 なにか、それはまずいのではなかろうか。彼女は回らない頭を懸命に動かそうとする。
「でも、予定を遅らせたら、迷惑が……」
「だから、半分を先に行かせたんだよ。霞たちに連絡をとって準備しておいてもらえば、数日の遅れくらい問題ない。だから、ゆっくり治そう。熱が下がってもせめて一日は養生してから出てくれよな」
「……ありがとう」
 なんと言っていいかわからず、礼を言う。それしかいまの彼女に出来ることはなかった。


「なんで、そんなことまでしてくれるんだ?」
 残り半分の粥をゆっくりと食べ、体が内側から温まる感覚を受けながら、白蓮は再び横になり、寝台の横に座って彼女を優しい瞳で見つめている男にそんな風に話しかけた。
「へ?」
「私のこと。ああ、いや、北伐の進行のためとかそんなことじゃなくて」
「ええと……?」
 彼女がなにを求めているのか、男は戸惑っているようだった。その様子に、白蓮は大きく頷く。
「あ、うん。そうか」
 何度も何度も何かがようやく得心がいったというように頷く彼女に、一刀はいたわるような声を出した。
「白蓮?」
「あのな、わかったんだよ。私」
 なぜか妙に明るく、あどけない笑顔で言う白蓮。それと対照的に火照った膚と浮き出た汗が艶っぽく見えてしまい、一刀はどぎまぎする。
「自分が小人物だって」
「は?」
「私はこれまで自分が凡人だと思ってたんだ。特徴のない、取り柄のない奴だって」
 一刀はくらくらする頭を押さえつつ、彼女に反論しようとする。
「いや、それは思い込……」
「でも、違ったんだよ」
 彼の言葉を遮るという意識もないのだろう。まさしく熱にうかされたように彼女は喋り続ける。
「あのな、ぱいれ……」
「昨日からうつらうつらしててさ、思い出したんだ」
「思い出した?」
 もはや自分が口を挟むより、話を進めさせた方がいいと判断したか、一刀は鸚鵡返しに問う。
「うん。桃香が、黄巾の乱が始まるよりも前、私の所にやってきた時のこと。まだ星が私のところにいた頃のこと」
「またずいぶん前だな……」
「私、桃香に説教したんだ。そんなことでどうする。もっと大望を持てってな。あの桃香にだぞ、笑っちゃうよな」
 どういうつながりがあるのかいまひとつわからず、一刀は彼女の言葉に耳を傾ける。
「私は……。あいつを得意げに説教してみせた私は、漢の古くさい仕組みの中で出世するくらいしか考えてなかった」
 ははっ、と彼女は乾いた笑いを漏らす。
「それが私の限界だったんだ、きっと」
「限界?」
「うん」
 こくこくと頷く白蓮に眉根を寄せて、一刀はさすがに言葉を挟もうとした。
「白蓮、それは……」
「あ、いいんだ。一刀殿」
 遮ろうと言うより、わかっているからもういい、という風に彼女は彼から視線を外し、天井を見上げる。
「一刀殿が言いたいことはわかる。でも、それは別にいいんだ。そのことを気にしてるんじゃあないんだ」
「え?」
「んー。うまく伝わってないかな? 小人物だったんだってのは、最近思ってたのが形容できるようになっただけで、別にそれで驚いたとか辛いとかそういうのはないんだ」
 一刀は自分に戻ってきた彼女の視線を再び受け止めながら、目を瞑らないよう努力する。どうも、今日の彼女の話は整合性に欠けているように、彼には思えた。
「……ないんだ?」
「うん。ない」
 慎重に訊ね返したつもりであったが、あっさりと白蓮は返してきた。
「で、だ」
 なんだか勢い込んで言う彼女の様子に、ああ、そうか、と一刀は悟る。
 酔っ払いの相手をしていると思えばいいのだ、と。
 結局、白蓮は熱で朦朧として、普段なら抑えつけているであろうことも漏らしているのだ。それは酒で頭を冒されている時と、そう変わりはないはずだ。
「そんなことをしみじみ理解した上で、小人物たる私はこう思うわけだ」
 秘密を打ち明ける時のような囁き声で、彼女は続ける。
「誰かの特別でありたい、誰かを特別に思いたいって」
「まあ、そういう願望ってのは必ずあるよな」
 それが時に、一人の人間にとてつもない努力をさせる源泉になったり、あるいは叶わぬ思いのために身を滅ぼす遠因ともなる。
 一刀は、そのことを、よく知っていた。
「この間、季衣と流琉と雨宿りしたんだ」
「そうらしいね」
 また話が飛んだ、と思いつつ、一刀は応じる。
「その時な、色々なことを話したよ」
「うん」
「その話に、一刀殿がよく出てきた」
「まあ……二人とも長いつきあいだし」
 ごまかすように言うのを、白蓮は許してくれなかった。
「ううん。そんなものじゃなかった」
 首を振り、くすくすと――彼女にしては本当に珍しくまるで無遠慮に――笑いながら、白蓮は評する。
「あの二人の一刀殿への信頼は、とんでもない」
「……ありがたいことだよ」
「それを見ていて、思ったんだ。ああ、うらやましいって」
 そういう感情も、一刀にはよく理解できた。たとえば春蘭が秋蘭や華琳に向ける信頼、それを見て羨むのは、ある意味当然の成り行きだろう。
「それで、話は戻るんだけど」
 どこまで?
 訊ねたい気持ちで一杯だったが、一刀はなんとかそれを抑える。
「一刀殿は、どうして、そんな風に私によくしてくれるんだ?」
「ううん?」
「うん。さっきの手配もそうだ。私は一刀殿から――それに、華琳たちからも託された北方鎮守の仕事をはじめようというところで、熱なんか出してしまった。そんなことを責める一刀殿じゃないことは知ってる。でも、だからって私の行動まで読んで、あんな風に手配までされたら……」
 まるで拗ねた子供のように。
「期待しちゃうだろ?」
 なんとも甘やかに、彼女は口をとがらせた。
「あのね……白蓮」
 一刀は考える。
 彼女が何を言いたかったのか。
 彼女のねじくれた話の焦点はどこであったか。
 それを考えた時、その答えはすとんと彼の腑に落ちた。
「白蓮は俺の特別だよ」
「……一刀殿、いま、私、夢みてるのかな?」
「いや、現実だと思うよ」
「そうか」
 うん、と一つ頷いてから、白蓮は素っ頓狂な声をあげる。
「て、ええええっ!?」
 病人とはとても思えない勢いで彼女は両手を振り上げ、ぶんぶんと振り回した。
「いやいやいや。ちょっと待って。ここは私が実は一刀殿に特別に思われたくて、それに特別に思ってることを打ち明けて、それで、ようやく一刀殿が考えて、それで結果が出るってそういう流れだろ!? なんで途中すっとんでるの? しかもいい方に!」
「え、駄目だった? じゃあ、やりなおそうか?」
「駄目じゃないけど! やりなおしたら、台無しだろ!」
 一刀は彼女の振り回される手をちょうどよいところでつかみ取ると、両手で包み込んだ。
「俺はさ」
 目を白黒させつつもおとなしくなった白蓮に、彼はゆっくりと語りかける。
「いま、白蓮のこと、早く熱が下がって元気になってほしいって思ってる。
 でも、そうなれば、白蓮は北に行く。戦に行く。それが、心苦しくもある。大事な人たちを守るために、大事な人を危地に追いやるそのことが。それをやらなきゃいけないことはわかっているし、それが出来るだけの人間を送ってもいる。
 信じられるからこそ、手放したくないと思うからこそ、遠くに行ってもらうことになる。その矛盾は……いつも考えていることだけど、普段は無視するようにしてる。向き合い続けるのは、きつすぎるからね」
 それから、彼は、彼女の腕を寝具の中に戻してぽんぽんと柔らかく叩いた。
「だから、それを、はっきりと意識させる存在は、俺にとって、やっぱり特別だ」
 そうして、彼は繰り返した。
「俺は、白蓮を特別だと思ってるよ」
「それは……部下として、信頼できる、人間として?」
 おずおずと、言わずもがなのことを訊ねる白蓮に、この人は本当に損な性分なのだと感心する一刀。
「ねえ、白蓮」
「うん」
「白蓮は俺を分けられる?」
 春蘭みたいに刀で叩き切るって意味じゃないぞ、と念押ししてから、彼は問いかける。
「北伐の指示を出す俺と、男としての俺と、人間としての俺と、分けて考えられる?」
「……し、仕事の場なら、分ける」
「いま、白蓮は寝室で寝てるところだよ」
 見る間に、彼女の顔は赤くなっていく。ただでさえ汗をかいている額に、大粒の汗が浮き上がり、つう、と落ちていった。
「一刀殿は……一刀殿だ」
「俺にとっても、白蓮は丸ごとで白蓮だよ。このかわいらしい姿も含めて」
 一刀の手が、白蓮の頭にのる。ぞくぞくと彼女の背筋を走るのは、熱による悪寒とは違う何か。
「髪、下ろしてるところ、貴重だね」
 後頭部までなでるように滑り、その指が、普段は後ろで結わえられている彼女の髪の先をくすぐった。
「一刀……殿」
 そのまま、ぐっと力が込められる。体が持ち上がる感覚と共に、彼女は彼に抱きしめられていた。
 唇に触れている。
 もう一つの唇が。
 そのことを意識した途端、白蓮の体の感覚は、その一点に集約した。柔らかい粘膜の感覚が、彼女を支配する。
 だから、それが離れた瞬間、体のだるさと重さが急に襲ってきて、彼女は眩暈を起こしそうになってしまった。
「今日はここまで、かな。熱が下がって、いまのことが熱にうかされてのことじゃないって白蓮が確信できたら……ね」
「ん……」
 ゆっくりと体を戻される。体が熱いのが熱のためなのか、それ以外のせいなのか、もう彼女にはよくわからなくなっていた。
「よーく考えなよ? 俺は結構な子持ちだから!」
「ははっ」
 最後に笑わせてくれる男の優しさを、かっかと燃え上がるような唇と共に噛みしめる白蓮であった。


 4.白蓮


「熱、下がったって?」
 部屋に入ってきた一刀は開口一番そう訊ねた。未だ寝台にいるものの、寝間着というよりは普段着に近い格好をして座っていた白蓮は、彼の訪問に起き上がろうとして当の本人に押しとどめられた。
「うん。華佗も、もう大丈夫だって」
 往診に来てくれた華佗は、念のためと言って鍼を打って帰ったが、現状での快復は請け合ってくれた。
「じゃあ、今日一日休んで……明日出る?」
「うん。そうする。兵たちの準備は万端、稟がしてくれたって、部下から報告あったし」
「そうか」
 そこまで言って、会話は途切れる。
 体のことを気遣うのも、任のことも、それぞれに言いたいことはあったろう。だが、それ以上に気にかかることが、二人に沈黙を強いていた。
 その中で、一刀は昨日と同じように寝台脇に座り、今日は体を起こしている白蓮と向き合った。
「あの……さ」
「一刀殿」
 口を開きかけたところで名前を呼ばれる。しかも、かなり張り詰めて、真剣な様子で。
「はい」
 思わず畏まって答える一刀に、はきはきと彼女には珍しい早口でまくしたてる。
「ちょっと熱が出て暴走したところあるし、たぶん、話したことととか、微妙に怪しいこともあるけど」
「う、うん」
「……間違いは、ないから」
 彼女の中での勢いが切れたのか、頬を赤く染め、軽くうつむいて、そう付け加える白蓮。
「間違い?」
「その、だから……な。嬉しかったのは……間違い、ないから」
 緊張しきっていた一刀の顔に、笑みが花開く。いつの間にか膝の上でゆるく丸められていた拳が、ぐっと力を込めて握りしめられた。
「ありがとう」
「な、い、う、こ、こっちこそ、ありがとう……だよ」
 顔中真っ赤にして、こちらも微笑みをたたえた白蓮。二人は笑いかけあい、お互いの笑顔によけいに嬉しくなってますます笑みは深くなる。
 そして、白蓮が次の言葉を放とうと息を吸った瞬間、彼女の体は彼の腕の中にあった。
「手慣れてる」
 思わず見上げて呟いた声に、片目がつぶられる。
「それは言いっこなしさ」
 そうして、彼女の唇はふさがれた。


 荒い息と共に、その胸が上下する。
 大きすぎず、小さすぎず。
 絶妙の調和をもってその体に似合った双丘は、もちろん、一刀の唾液に塗れている。
「きれいだな」
 一刀は正直な感想を口にする。
 お尻から太腿にかけてのまろやかな線。堅牢な筋肉の上にのった柔らかな肉によって描き出される様々な曲線。丸っこい、人を安心させる顔に浮かぶ、婉美な表情。
 美しいものを無心に見た時、生まれてくるのは、きっと平凡な言葉でしかない。
 男は彼女の脇腹から足の方へと膚をなでながら、そんなことを考えていた。
「むー」
 だが、女の方は息が整うと共に、餌を取り上げられた猫がするような唸りをあげた。
「そんな言葉じゃごまかされないぞ」
「え?」
 なんのことだ、と思う間もなく、彼女は言った。
「痛かった」
 だだっ子のように手足をばたつかせ、白蓮は主張する。
「いーたーかーったーーっ」
「ご、ごめん。乱暴にはしてないつもりだけど」
 一刀の謝罪に、白蓮はふと手足を止め、うん、とあどけない少女のように頷く。
「乱暴にされてない。でも、痛かった!」
 ばたばたばた。
 手を動かすのはやめて、足を持ち上げては落とし、持ち上げては落とし、彼女は抗議を続ける。そのまん丸なお尻の下、敷布にいくつかの血の痕が散っていた。
「ごめんな」
 ひとしきり自分の意見を示した後で、白蓮はくりんと顔を横に向けて、一刀のほうを見た。
「なあ、こういうのって、男も最初は痛いのか?」
「あー、いや……。そういうのはないな」
「ずるいな。子供を産むのも女だし」
「……まあ……ねえ」
 そう言われると何とも言えないのが男という生き物であった。しかし、その言葉は、一刀の意識を別のところへも向ける。男の腕が持ち上がり、彼女のおへそのあたりに温かな掌が乗った。
「白蓮は」
「ん?」
「白蓮は、俺の子供産んでくれるか?」
 音が聞こえてもおかしくないくらいの勢いで、白蓮の顔が赤くなる。顔どころか、首筋から肩口から、ほんのりと桜色に染まるくらいであった。
「ば、莫迦なに言って、いや、嫌ってわけじゃなくて、その、だから、えっと……」
 語尾を濁した彼女は息を吸うやり方を忘れたかのようにはっはっと短く息を吐き出し、ようやく大きく息を吸ってこう答えた。
「その、時が、来たら、な」
「ああ。ありがとう」
 真面目に返す一刀の肩を一つ殴って、白蓮はそっぽを向いた。その片方の手は、彼の腕をしっかり掴んでいたけれど。


 5.予兆


 物事というものは、けして均等な間隔で起こったり治まったりするものではない。
 時に何ごともなく緩やかに年月が流れ、時にめまぐるしいくらい様々な変化が続けざまに起こる。
 そんな緩急の中で言えば、その年の春は穏やかな時期であったと言えるかもしれない。
 北伐は順調に進み、河川は予想の範疇を超えて氾濫することもなく、長雨も旱の兆候もなかった。
 それでも、人々は様々な営みを続けていくものだ。
 たとえば西涼で――。

「いやあ、戦で流す汗はいいわねえ」
 酒杯を傾けながら、純白の仮面を被った女性はうっとりと膚を桃色に染めて、満足げに唸る。その豊かな体は薄暗い大天幕の中でもひときわ目立っていた。
「まさしく。とはいえ、もう少し手応えが欲しいところじゃがのう」
 その対面で同じく杯を持って楽しげに語るのは血に濡れたような仮面を被る将。その銀髪をかきあげながら、彼女は実に美味そうに酒を喉に滑らせる。
「華琳たち相手じゃあるまいし、贅沢言わないの。いま、戦場があるだけましじゃない。正直、昔みたいなのも勘弁だけどねー」
 そこまで言ったところで雪蓮はくっくと小さく笑った。
「でも、こないだの荊州はぞくぞくしたわね」
「ほほう?」
「なにしろ蓮華の本気が見られたかもしれないのよ。我が妹ながら、どこまでやるか……見物だと思わない?」
「それは……たしかに」
 にやりと返す祭の笑みの獰猛さよ。ぶるり、と期待に踊るようにその大きな胸が揺れた。
「ま、一刀たちの読み通り、あの娘は戦を回避したわけだけど」
「それはそれで胆力のいることじゃ。権殿もようこらえ、思春たちをよくぞ抑えきられたもので」
「でもさー、一度は、やってみたいじゃない。私ね、軍を率いるなら、あの娘……いえ、あの娘たちはかなりやると思ってるのよ」
 一騎打ちなら、まだまだ後れを取らないけどさ、と雪蓮が言うのに、祭がころころと笑う。
「孫家はつくづく度し難い」
 食事を終えたのだろう、空いた皿を持った華雄が、二人の横をすり抜けて行った。
「なによー。あなたにだけは言われたくないわよー」
 そんな中、華雄の背中に言葉を投げつける雪蓮を、横目で眺めてため息を吐く人物が一人。
「全くお気楽なものだな」
「あら?」
 くくっても長く伸びる茶色の髪を邪魔そうに払いながら、雪蓮と祭から少し離れたところで食事を摂っていた翠の呟きに雪蓮が目を細める。
「さすがの錦馬超も、自分の国を切りひらく大任に、緊張気味かしら?」
 びくり、と顔をあげる仕草が、あまりにわかりやすすぎる。この娘、腹芸とか出来るのかしら、と雪蓮は人ごとながら心配になってしまった。
「そ、そういうことじゃなくて」
「ちゃんとあなたの指揮には従っているし、戦果もあげてるわよ。損害も出来るだけ抑えているつもりだけど?」
「それは……そうだけど……」
 もごもごと語尾を濁す翠。普段なら混ぜっ返すように言葉を挟んでくる蒲公英は、雪蓮達から見て翠のさらに後ろにいたが、口を開きかけたところで星に制止されていた。
「あたしは、なにも……。でも、やっぱり、あたしたち西涼の民にはこれはとても大事な戦で……だから……」
「うん。わかるわ。でも、翠。今夜は対陣の最中でもない。ただの行軍の夜よ。そこでの戯れ言まで取り締まるつもり?」
「あたしは……!」
 たん、と音高く杯が床に置かれる。その音に、言葉を紡ごうとしていた翠も口をつぐんでそちらを見た。注目を集めた祭は、仮面の奥で片眼を瞑ってみせると、にこやかに言った。
「まあまあ。我らのような雑多な寄せ集めを指揮する苦労もあるじゃろう。そうきつく言うものでもありますまい」
「まあねー。忠誠を誓った部下でもない者を扱うのには苦心すると思うわ。ましてやこの顔ぶれだものね。でも……さ」
 肩をすくめて天幕の中を見回す雪蓮。そこには、様々な将がいた。
 中心となるのは涼州の馬家の二人。しかし、それ以外はまさに寄せ集めであった。蜀に属する焔耶や星、所属も明らかではない雪蓮。おそらく一同で最も経験豊富な祭に、当代随一の使い手、華雄に恋、そしてねねと来ている。これをまとめあげろというのは確かに難事であった。まして、後方の長城建築部隊、真桜や美羽たちとも連携を取らなければならない。
 それをわかった上で、しかし、江東の小覇王と称された女傑は言うのだった。
「みんなそれだけ期待しているのよ。あなたに――西涼の錦に、ね」
 そう、穏やかに。けれど、どこか真剣味を帯びた声音で。
「それはこの地の民に限りませんぞ。華琳殿も、旦那様も、期待を寄せておられる」
「うー」
「がんばりなさい。西涼の新しい王様」
 思わず頭を抱えてしまう翠に、彼女はからかうように、けれど、優しくそんな声をかけるのだった。


 あるいは江東で――。

 江水の沿岸、船を寄せやすい場所には、自然となにがしかの施設ができあがる。渡し場が出来ることもあれば、大型の港には町が発展する事もあるし、軍事的な要所として国が城を構える場合もある。
 そして、中にはがらの悪い者の掃き溜めとなることもあるのだ。
 昔の洪水によるものか、大地がえぐれたようになったその場所は、川の流れがわずかに弱まり、よどんだようになっている。その小さな湾の水面に突き出すように、一つの邸があった。小型の船ならば直に邸内に引き入れられる形だ。
「あそこか」
 張り詰めた顔でそれを見つめるのは、青い瞳。
 腰に履くは南海覇王。この国の女王、蓮華その人だ。
「はい、すでに明命が潜入しております」
 答えるのは片眼鏡の少女。呉の軍師、亞莎の顔は何か怒りをこらえているかのように冷たかった。
「あとはその明命の連絡待ちですな」
 蓮華に常に付き従う思春が、いつも通りに彼女の横に立ち、主と同じ方向へ鋭い視線を向けた。
 彼女達三人の周囲には、完全武装の兵士がずらりと揃う。しかし、誰一人無駄口を叩くこともなく、その場にそれだけの人間がいるとはとても思えないほどの静寂に満ちていた。水上にも実は水軍が潜んでいるのだが、それもどこにいるのか見通せる者はほとんどいないだろう。
 待つことしばし、邸の二階の窓が不意に光を放った。二度、三度、明滅の速度に明らかな調子をつけた光を認め、思春が口を開く。
「無事、首謀者を確保した模様です」
「よし。亞莎、水軍を動かせ。我らと共に突入できるようにせよ」
「わかりました」
 主命に従い、長い袖を打ち振って、彼女は行動を開始する。同じように部隊の指揮に移ろうとした思春が小声で確認を求めた。
「ところで、奴らの処遇はいかがなさいますか。捕らえることも可能ではありますが」
 蓮華はそれに対して少し考えたが、何かを覚悟するように小さく顎を引くと首を横に振った。
「いや、我らの民を騙して辺境に売り飛ばそうなどと考える輩だ。生かしておくわけにはいくまい。法に照らしても死罪。ここで始末をつけよう。ただし」
「はい」
「数人は残せ」
「証人になさいますか」
 罪には罰を。愚かしい罪を犯す者には、むごたらしい罰を。
 それを示す為に幾人かを生かしておくのかと、思春は訊ねる。
「それもあるが……上の者が知らぬところで、末端が悪さをしているかもしれない。話を聞いてからでもいいだろう」
「では、幾人かは私が確保いたします」
 しっかりと頷いてから、思春は兵たちに向き直る。
「お前達! 知っての通り、あの邸にいる賊どもは、我らが同胞を騙して集め、奴隷に売り飛ばそうと企む卑劣漢どもだ! 北の地で家畜の如き扱いで働かされる兄弟があってなるものか。南の地で弄ばれる友があってなるものか。殺せ。孫呉の敵を、我らが民を損なう者を、殺し尽くせ!」
 それまで、一切の怒りを、憤懣を、激昂を抑えつけていた兵士たちの口から、雄叫びが吐き出される。それは江水の川面を揺らすほどの激情。
 そして、南海覇王が抜き放たれる。
「突入!」

 首尾良く賊を撃滅した帰りの馬車の中で、蓮華は疲れを込めて呟いた。
「それにしても北伐の義勇軍を騙って、賛同した人々を奴隷に売り飛ばそうだなんて、よくも考えつくわ」
「悪辣すぎて、感心するくらいです……」
 受ける長髪の女性――明命の声も暗い。彼女は馬車に乗る四人――蓮華、明命の他に亞莎、思春――の中でも諜報をもっぱらにする。数々の陰謀を耳にした彼女でさえ、今回の出来事は驚嘆に値するものであった。まさか、北伐にかこつけて義勇軍を募り、それに賛同した若者たちを奴隷として売り飛ばす輩がいようとは。
「次々に手口を考えつかれますから、気が抜けませんね」
 亞莎も難しい顔で頷く。それらを見て、蓮華は軽く首を振った。
「やっぱり、私たちがしばらく国を空けていたのが治安を悪化させたのかしら?」
「いえ、それはどうでしょうか。あまり関係はないかと思います。それよりも、戦が終わった後の楽観が薄れてきた……というところではないかと穏様も書簡に書いておられました」
 荊州に出鎮している筆頭軍師の意見を聞かされ、孫呉の王は腕を組んでゆっくりと呟く。
「ふうむ……。私たちも民に新しい展望を示さないといけないというわけ……か」
「平和に慣れれば、次はそれ以上のものを求めようとする。人というのは……蓮華様、どうなさいました?」
 瞑目して何ごとか考えていると思われた主の様子に、思春だけが反応した。わずかにその顔が青ざめていることに、彼女は気づいていたのだ。
「いえ……ちょっと。気持ち悪い……かも」
「明命、窓を。おい、御者。少し速度を落とせ」
 明命と亞莎の手によって窓が開け放たれ、馬車の勢いが落ちる。蓮華は新鮮な空気に深呼吸し、深く座席に体をもたれさせた。
「大丈夫ですか、蓮華様。乗り物酔いでしょうか。王宮に戻ったら、医者を呼びます」
「ええ……。そこまでではないかもしれないけど……」
 これは一大事! と構える明命に苦笑いをもらしつつ、蓮華はそれでも一つ頷いた。
「とはいえ……私が体調を崩したら大変よね。悪いけど……お願いするわ」
「はっ」
 顔色を悪くした女王と、その回りでおろおろしたり、それを叱りつけたりする側近たちを乗せて馬車は行く。


 そして、蜀の山道で――。

 山と山の斜面を細い裂け目のようなものが走っている。あるいはかつては川だったのかもしれない、固い岩盤を穿つように続くそれこそ、漢中から成都へ繋がる道の一つ。
 かろうじて牛と、それが引く車が通れるほどの幅の道が蛇行しながら、時に急角度で折れ曲がりながら続く。この険しい道でさえ、山の岩肌につくられた桟道よりは容易く通れる道である。なにしろ、崖下に転げ落ちる心配はないのだから。
 しかしながら、そんな道であるから先を見通すのはなかなかに難しい。だから、その道を行く三人の旅人はすぐ近くにくるまで、そこに人々がわだかまるように集まっていることに気づかなかった。
 満腹になった蛇の腹のように膨れて少し広くなった場所に、多く――といっても十数人程度だが、この狭さでは十分に多数――の人々が立ち話をしたり、座り込んだりしているのに、その三人連れは驚いたようにしばし立ち止まり、それでもどうしようもなく、その集団へと近づいていく。
 歩み寄ってみれば、人の群れの中には、蜀の鎧をつけた軍人の姿がいくつもある。特に進行方向には五人ほどの兵が横列に並び、道をふさいでいた。
 旅人たちは人群れの中をすりぬけるようにして前に出て、その中の一人が手近なところにいた人物に声をかけた。
「何があったんです? 通行止め?」
 未だ子供にも見えるその少女は、話しかけてきた生真面目そうな眼鏡の女性を見上げて答える。
「ん。この先で大きな岩が道をふさいでいるのだ。危ないから近づかないよう人を止めているのだ」
「軍が出ているって事は……復旧するの?」
 今度は少し生意気そうな少女が訊ねかける。もしここが通行止めになるとなれば、一度戻って桟道を伝っていくしか無くなる。距離で言えばこの道よりも短い桟道ではあるが、道と言うにはあまりに頼りない板張りが岩肌にはりついているだけだ。彼女のように細い体の娘であれば、出来る限り避けたい場所であろう。
 この問いにも赤髪の少女は元気いっぱいに答えた。
「うん。すぐに岩を壊してしまうのだ。安心して待っているのだ」
「どかす、じゃなく壊すですかー」
 のんびりとした調子で言う三人目の揺れる胸に目をやって、ほー、お姉ちゃん並みなのだ、と漏らす少女。
「ばらばらにしてから除けたほうが早いのだ」
「あー、そうかも。じゃあ、いまは兵隊さんたちが、鎚やらなにやらで壊している最中?」
「ううん。いまは目を読んでいるところなのだ。ところで、おねえちゃんたちは旅芸人か?」
 彼女が指摘するのに、旅人達は揃って目を丸くする。
「あら? なんでわかるのかしらー?」
「戦が終わったといっても、女だけの少人数の旅をする人は少ないのだ。でも、仕事でしてるならありなのだ」
「ふーん。あんたなかなか見目あるじゃない。そうよ。私たちは大陸に歌を届けてるの」
 背の低い――それでも赤毛の少女よりは大きな――少女が自慢げに言ってのける。他の二人も声はないながら、同様に自信と希望に溢れた風情であった。
「数え役萬☆姉妹みたいなのだ」
 何気ない感想に、固まる三人。
「あのねえ、私たちを」
 激昂の表情を浮かべながら勢い込んで反論しようとした少女を、一つの声が遮った。
「おい、鈴々。そろそろ出番だぞ」
「わかったのだ!」
 兵の列の間から出てきた豊かな体躯の女性が声をかけてきたのだ。その様子のなまめかしさもさることながら、つけている防具や武器からして、高位の将であることは間違いなかった。
「じゃあ、おねえちゃんたち、少し待ってるのだ。鈴々が、どかーんと岩をやっつけてくるのだ」
「え? あ? うん」
 それまで話していた少女が気軽にその将に答え、兵の列の中に消えていくのを呆然と眺めるしかない三人であった。

 桔梗が巨岩の『目』に打ち込んだ豪天砲の矢を、一つ一つ鈴々が蛇矛で叩いていく、という手順で岩が砕かれた後、兵達が総出でかけらを取り除き、ようやく道は開通した。
「あの三人、なんだか数え役萬☆姉妹に似ていたのだ」
 他の落石にも注意するため、兵たちに護衛されながら立ち去っていく旅人たちの中、どうしても華やかさで目立ってしまう旅芸人達を見送りながら、鈴々はなんとなく呟いた。
「ん? そうだったか? 三人組というのはたしかではあろうが……」
 兵たちに指示を出している桔梗が彼女の言葉に向けている注意は半分程度でしかない。
「そういうことじゃないのだ。んーと……なんて言ったらいいのかわからないけど、とにかく似ているのだ!」
「ふうむ。ま、なにしろあの三姉妹は大陸一の歌姫衆。似せようとする者も出てこようさ」
「うー、ちょっと違うのだ……」
 桔梗の素っ気なさに不満を覚えつつ、説明しようのなさに、うんうんと唸ってしまう鈴々であった。


 洛陽の都で――。

「さて、どうしたものかな」
 机の上に広げられたいくつもの箱を前に、愛紗は悩み顔で腕を組んでいた。横では、その箱の中身をつまんでみては首を傾げ、また元に戻しては微妙な笑顔を浮かべる紫苑の姿もある。
 全て豪奢な宝物や珍品揃いのそれらは、愛紗――新任の前将軍に対して贈られた『お近づきのしるし』というやつであった。愛紗の執務用の机では足りず、椅子の上にも置かれたそれらを唾棄すべきもののように睨みつけながら、彼女は紫苑に説明する。
「贈ってきているのは十人ほどなのだが、どうも大半が董承殿の派閥のようだ。他の者も実際にはそうなのかもしれないな」
「董承さん? ああ、車騎将軍の……」
「うむ」
 名前に聞き覚えがあったらしい紫苑は腕を組み、顎にその細い指をあてながら考えこむ。
「娘さんが帝の貴人で車騎将軍。昔なら、政を一手に握る立場ね」
 貴人は皇妃の中でもかなり上の位であり、車騎将軍は大将軍と同じく補弼の任にあたる臣下が受ける地位である。外戚がその位を占める場合、通常は――時には帝をしのぐ――最高権力者となる。
「だが、いまは無理だ。それ故に私や桃香様に近づきたいのかもしれんが……」
 現在では、丞相たる華琳が権力を掌握しているため、いかに官位が立派でも権力を握ることは敵わない。華琳たちがいる限り、外戚や宦官が国政を一手に取り仕切るような時代が復活することはありえないだろう。
「ちょっとあからさまよね」
「うむ。だが、放置するわけにも……」
「そうねえ……。わたくしも洛陽に来て廷臣とつきあう術を学んできたのだけど」
 もう一度、紫苑は宝物のほうを眺める。愛紗に贈るにしてはあまりに趣味が悪いものばかりだ、と彼女は結論づける。もう少し上品に美しいものか、すばらしい武具でも選んでくる者はいなかったのだろうか。
「結局、付け届けに対処するには、二種類しか方法がないわね」
「二種類?」
「ええ。華琳さんや麗羽さんのようにするか、稟ちゃんたちのようにするか」
 愛紗が疑問を視線にのせて促すのに答えて、彼女は続ける。
「まず、前者は全てを受け取って、享受するの。一方、後者は全部を元の贈り主に返す。たとえ匿名だろうと暴き出して送りつけるわ。そして、どちらも、なんらの利益も贈り主にはもたらさない」
「ははあ」
 紫苑の言いたいことがなんとなくわかり、愛紗は頷く。
「賄賂ですよ、と言って渡されるものなどあるわけないのだから、ただの贈り物としてとぼけるか、一切を無視するか、どちらかになるわけね。もちろん、愛紗ちゃんには、これらの代わりになにか便宜をはかってあげるつもりなんてないでしょうし」
「それはそうだが……。ふうむう。前者は論外だな。私には出来ん」
「まあ、華琳さんたちはちょっと別格だものねえ」
 華琳や麗羽は、賄賂が贈られてくることにそれだけ慣れているということでもあろう。愛紗としては、そこまで慣れ親しむ前に洛陽――か、厄介な地位――を離れたいところであった。
「紫苑はどうしているのだ?」
「え? ああ、わたくしは、使えそうなものは璃々のおもちゃにしているわ。金銭の場合は、さすがに、これこれこういうことがありました、と華琳さんに報告してるけど」
「ふむ」
 それはそれで大した物ではないか、と内心舌を巻きながら、愛紗は決意する。
「ひとまず、贈り主はわかっているのだから、丁重に送り返すとしよう」
 彼女はそうして、疲れたような声で宣言するのだった。これからも、このようなことがあるのだろうかと陰鬱な気持ちになりつつ。


 袁長城にて――。

「妾たちの歌を聴くのじゃー!」
 かわいらしい呼びかけに応じて怒濤のような歓声が沸き起こる。何百もの人々が、舞台の上の二人組へと声を送っていた。
 くるくると丸まった蜂蜜色の髪の少女はほんの少し舌っ足らずに歌を紡ぎ、一方の大きな帽子の女性は、柔らかな声で切々と歌い上げる。
 二人の声が絡み合い、響き合って、美しい調和を作りあげていく。それは、聞く者の熱狂をさらにあおり立て、興奮と感動を導き出すのであった。

「ふぅーっ。今日もよい汗をかいたのう」
「そうですねえ」
 二人のために用意された天幕で七乃に汗を拭いてもらいながら、美羽は満足げに呟く。服を着せてもらい、体を伸ばす様子が、まるで子猫のようだ。七乃はそんな主の愛らしい様子ににこにことしている。
「しかし、北伐の指揮などと脅されてみたものの、やっておることは、張三姉妹と一緒にやっておったことと変わらんの。歌で皆を楽しませて、作業を眺めているくらいじゃ」
 美羽の言っているのは慰問と視察という十分な大役なのだが、彼女がその意味を理解しているかどうかはわからない。
 ただし、実際の成果は上げていると言っていいだろう。長城を建築する作業員たちには、現場ごとに歌を歌って回ることで娯楽を提供していたし、視察も進捗を見分するという部分では役に立っている。実際に作業をするのは真桜たちなのだから、美羽や七乃が余計な口をだすこともない。
「ですねー。兵のほうは馬家のお二人さんがやってくれますしねー」
「うむ。楽なものじゃ」
 寝間着を着た美羽はとてとてと布団に向かう。天幕の中だというのに、ふかふかの寝具が用意されていた。
「たまに麗羽めが来るのが鬱陶しいくらいかの。あれも何をしに来ているのやら」
「一応は総大将ですからねー。でも、一刀さんにお任せで暇なんじゃないですか?」
「うむ。一刀が来るときは真桜たちとしっかり打ち合わせしておるからの」
 もぞもぞともぐりこんだ後で、七乃が布団をなおしてやる。
「しかしのう。一刀が仕切っておるのを当然のように兵が受けるというのもおかしなものじゃの。あれでも大将軍じゃぞ、麗羽めは」
「んー、でも、漢の権威なんて、もうそんなもんじゃないですかねえ?」
 美羽の疑問にあっさりと答える七乃であったが、美羽はさらに険しい表情を浮かべた。少し考え、彼女は再び問いを口にする。
「ならば華琳はどうなるのじゃ? 帝を擁して丞相となっておろ?」
「あの人は覇王ですからー」
「覇王か……。ふむ。覇業とは大したもんじゃのう」
 これも即座に返ってきた答えに、美羽はしきりに感心するのだった。

 ご機嫌なまま睡りに落ちた美羽の頭をなでながら、七乃はゆったりと微笑む。
「でもね、美羽様」
 あ、枝毛……。などと横道にそれながら、彼女は小さく呟き続ける。
「覇王項羽は劉邦に負け、その高祖は漢をつくりあげるために、功臣を何人も殺さなければいけなかったんですよ」
 うぅん……。物騒な単語に反応したか、美羽が顔をしかめる。その様子に笑みを刻みながら、彼女は言葉を止めなかった。
「華北を制し、中原を呑み込んだ光武帝ですら、怪しげな予言書を使って権威を打ち立てるなんて無様なまねをしてますしねえ」
 その丸っこい顔に不気味なまでにほがらかな笑みを張り付けながら、美羽の小さな体をなでてやる七乃。
「でも、そんなこと、あの賢い華琳さんはもちろんご存じでしょう」
 賢い、という言葉は褒め言葉のはずである。しかし、こんな怖気に満ちたほめ方があるだろうか。
「そんな覇の限界を知ってなお、あの人はそれを放っているんです」
 ぶるり、と体を震わせて、七乃は誰に言うでもない言葉を放つ。
「どうしてなんでしょうねえ?」
 本当に不思議そうに。
 けれど、どこか、当然のことのように、彼女はそう言った。
「ふふ」
 自身も布団にもぐりこみながら、彼女は小さく笑った。
「世の中って、本当にままならなくて面白いですよね、お嬢様」
 七乃の問いに答えるべき人物は、深い睡りの中に落ちている。


 もしくは冀州の街道――。

「くちんっ」
 夕暮れの街道を行く中で、派手派手しい鎧をつけた人物がくしゃみをしていた。それに伴って横を行く二騎が近寄ってくる。
「あれ、麗羽様、どうしました、風邪ですか?」
 訊ねかけたのは、猪々子。逆側では斗詩が心配そうにしている。中央の一騎はもちろん彼女たちの主、麗羽だ。彼女達は北方戦域に顔を出した帰りであった。
「そんなわけはありませんわ。このわたくしが風邪などと」
「じゃあ、寒くなりましたか? そろそろ」
 そろそろ夜営の準備をしましょうか、と彼女が提案しようとした時、からからと笑いながら、猪々子が言った。
「まー、麗羽さま、莫迦ですからねー」
 ぴきっ。
 まるで乾燥した木材にひびが入る時のように空気が音をたてた。そんな錯覚を覚え、思わず身を震わせる斗詩。
 だが、彼女以上に体をわななかせる人物があった。
「猪々子……?」
 さすがにその声の調子に穏やかならぬものを感じ取り、猪々子は馬の腹を蹴った。即座に走り出す猪々子の乗騎。
「わーっ」
「待ちなさい、このっ」
 逃げる猪々子と追いかける麗羽。そして、肩をすくめてため息を吐く斗詩。
 この三人はどこに行っても相変わらずであった。


 はるか幽州で――。

「今日も楽しかったぁ!」
 気持ちよさそうにのびをするのは、長いつややかな赤髪の女性。いまは派手な舞台衣装を脱ぎ捨てて、ほとんど下着に近い格好だ。きらきらと輝く汗がその膚を覆い、彼女が大きく動く度に雫となって垂れ落ちていった。
 彼女こそ三国一の歌姫と名高い数え役萬☆姉妹の長女、天和。
「んー」
 一方で不機嫌そうに唸りをあげているのは、楽屋の中央に用意された卓に座り込み、お菓子をばりぼりと食べている地和。
 係の者と話をしてから楽屋に戻ってきた人和はそんな姉たちの様子を見て思わず首をひねった。
「どうしたの、ちぃ姉さん」
 今日の公演は比較的うまく行った方だ。観客の盛り上がりもそれなりにあったし、一人だけに演出が偏ってしまうと言うこともなかったはずだ。地和がふてくされる要素が、少なくとも人和の中では見当たらない。
「なんかねー。悪くはないんだけどさ。……こう……」
 地和は口の中の者を呑み込むと、彼女には珍しく歯切れ悪く呟く。
「違和感、っていうの? あるんだよねー」
「そうかな。すごい盛り上がってたと思うけど」
「盛り上がってはいるわよ。お客の反応は問題ないの。でも……なんでだろう」
 自分でもよくわからないのだろう。地和はさらにぶすっとした顔になった。まるで沓の中に小石が入り込んだ時のようだった。
「……実は少し気になってたことが」
 次姉の様子にしばし考え込み、人和は眼鏡を押し上げながら切り出した。
「なに?」
「なになに?」
 二人が寄ってきたのに、彼女は声を抑え気味に続ける。
「最近、券の売り切れまでの時間が長くなってるの」
 人和の言葉に、地和が首を傾げ、確認する。
「売り切れはするんだ?」
「うん。基本的には満席。だけど、席が埋まりきるまでの時間がだんだんのびてる」
「……人気、落ちてる?」
 天和のおそるおそるの声に、三人は一斉にうつむく。
 いまや三国一と持ち上げられる彼女達であったが、かつては売れない旅芸人であった。売れない辛さ、なにをやっても注目してもらえない、それどころか邪魔者として見られる苦しみは身に沁みていた。
「うう……」
 落ち込んだ三つの頭があがったのは暫く後のことだった。曇った眼鏡を外し、それをぬぐいながら、人和が声を張る。
「天和姉さんの言うとおりかもしれない。でも、公演での姉妹印の商品は売れ行きが落ちてないの。だから、来てくれた人達は、満足してくれてるんだと思う」
「そりゃそうね。公演がどうしようもなかったら、記念品とか買わないわよね」
「実際、盛り上がってるもんねー。でも、微妙に人が減ってる……のかな?」
 公演自体が満員であり、また手応えもある。その状態で、なにが問題か考えるのは容易ではないだろう。天和はまだ疑いの口調で訊く。本人としても、そうであってほしくないという気持ちもあるかもしれない。
「古参が減ってるとか?」
「ないとは言えないわね。でも……そういう入れ替わりならこれまでだってあったはず。いま、如実に表れるのがわからない」
「うーん」
 三人は再びうつむき、考え込む。その中で、天和は決然と顔をあげ、ぶんぶんと腕を振った。
「でもでも、まずは来てくれるお客さんに楽しんでもらうのが一番だよ!」
「ええ、それは賛成。いまはそうやって私たちの良さをしっかり見せていくのが大事だと思う」
「でも、長期的にはなにか考えないとまずくない?」
「それは……」
 明るくなりかけた雰囲気に水を差す自分の言葉に反駁しようとする妹を身振りで抑え、地和はさらに問いを重ねる。
「次、どこだっけ、冀州公演?」
「ええ。その後、長安」
「じゃあ、冀州を回ったら、なんとか時間つくって洛陽に行きましょ。ちぃたちだけでわからなくても、一刀に相談したら、なんとかなるかも」
 うまくいけば、華琳様に相談することもできるかもしれないし、と彼女は付け加える。
「あ、それいいかも!」
「そうね、一刀さんの外からの視点は有用ね」
 地和の提案に、ぱあっと天和の顔が明るくなる。人和もほっとしたようにその表情を緩めていた。
「じゃあ、まずは、気を取り直す! 次、全力で行くわよ!」
「おーっ!!」
 次姉の気合いの入った呼びかけに、声を合わせる三姉妹であった。


 さらには閨の中でも――。

 彼女はその顔を見るのが好きだった。
 全てを委ねているその体が震え、自らの中で果てるその瞬間、彼の顔はとても無防備なものになる。甘さの中にも精悍さを秘めた顔が、まるで童子のようにあどけなく変じるその時。
 ただ、たいていは彼女自身も忘我の内にあり、その時を見定めることが出来る機会は、ほとんど無い。
 今日、わずかに余裕があるのは、彼女の幼なじみであり、誰よりも親しい女性が共に愛撫を受けていたからであろう。三人による交歓の緩急の中で、彼女が積極的に彼の動きに応じる波にあたったのが幸いであった。
 それでも彼のその表情と、指のうごめき、それに力を失い覆い被さってくる体の心地好い重みが彼女を快楽の頂点へと誘う。
 世界そのものに包まれる感覚と共に、月の意識は白光の中に消失した。
 気づいたのは自らの指が、なにかの中をすべる感覚。自分の肩口にある彼の髪に絡みついた指が無意識に動いていた。
「月? 大丈夫? 重くない?」
「うん。大丈夫だよ。気持ちいいくらい」
 心配して顔を覗き込む詠の声に月は本気でそう答える。実際、詠の声には、うらやましげな色がのっていた……と思うのは意地悪だろうか?
「あんたもさっさと……」
 月の上にある一刀の体に触れようとした詠が、驚いたようにその動きを止める。
「うわ、こいつ寝てるわよ」
 彼女の言葉の通り、月の肩口に顔を埋めた一刀はすーすーと寝息を立てていた。それでも、彼女の体に必要以上の重みをかけないのは、無意識のなせる技だろうか。それはそれで大変そうにも思えた。
「詠ちゃん。……ちょっと手伝ってくれる?」
「うん。起こす?」
「ううん。寝かしておいてあげよ。……でも、体勢変えたいから」
 既に彼の萎えたものは彼女の中から抜けていたし、彼の下から体を引き出すのは、詠の手を借りればなんとかなった。詠もその手つきからして、彼を本気でたたき起こそうとは思っていない様子だった。
「まったく……いい気なものね」
 寝台の上に身を起こした親友の膝でくーくーと睡りこける一刀の鼻先をぴんとはじき、詠は言う。それでも彼がむにゃむにゃ言うだけで目を醒まそうとはしなかったのは、かなりの手加減をしたか、よほど深い眠りに落ちているか。実際はその両方であろう。
「しかたないよ。涼州に行ったり、并州に行ったり、お疲れだろうから……」
 一刀の頭をなでながら月が言う東奔西走の大半には詠が付き添っているのだが、彼女と彼とでは立場が違う。行動指針を立てているのが詠たちだとしても、それを決定しているのは一刀なのだから。
「だからって失礼だと思わない? ボクたち相手にしておいて……」
 詠も月の隣に座り、彼の腕を取って膝の上にのせる。横に並ばれると、己の体つきが詠より起伏に乏しいのが気になってしまう月であった。
「たぶん、私たち二人だからだよ」
 彼の頭をなでながら、彼女は呟く。掌の下の温もりが、とても心地好かった。
「え?」
「ご主人様、一対一の時は、絶対気を抜いたりしないもん。二人揃ってるから、こうして甘えてくれてるんだと思う」
「甘えて、ねえ」
 ふん、と一つ鼻を鳴らす親友の姿に、なんだかおかしくなってしまう。
「嬉しくない? 甘えてもらえると」
 軽く笑いながら、彼女は素直になれない友のために、あえて告げる。とっくにわかっているはずのことを。
「安心してくれてるってことだと思うな」
「それは……」
 詠は覗き込むようにしてくる月の視線にどぎまぎした様子で瞳を揺らしながら、それでも、ぷうと頬を膨らませる。
「そもそも、忙しいのなんてわかりきってるんだから、女を相手にするほうを減らせばいいのに」
 だが、月はそれに対してはきっぱりと首を振った。
「それはだめ。私たちに会ったり、こうして、その……したりする時間をとるのは大変だと思うし、体力も使うと思うけど、でも、それがないとご主人様は……」
 いぶかしげな詠の視線に、彼女はぽつぽつと答える。まるで彼を起こすのをはばかるように、小さな声で。
「私も詠ちゃんもいろんな意味で、ご主人様に救われたけど……。華琳さんをはじめとして、私たちも、たぶん、ご主人様を……」
 それから、月は顔をあげて、詠のことを真っ直ぐに見つめた。
「詠ちゃん、ご主人様が戻って来てすぐの頃のこと、聞いたことある?」
「……そこらへんは触れにくいじゃない。こいつにも華琳たちにも」
「華琳さんの気が向いた時にでも話してもらうといいよ。詠ちゃんになら、たぶん、話してくれると思う」
 絶対の信頼と情愛を込めた視線に、詠はなぜか喉を詰まらせたような表情になり、次いで、彼の顔を見下ろした。
「……ま、こいつもボクたちもお互いを必要としてるってことよね。きっと」
 そう呟く翡翠色の髪の少女の横顔はとても優しくて、見ている月の心にぽっとあたたかなものを灯してくれた。
「うん。きっと」
 詠の膝の上に乗った一刀の手に、詠と月、二つの掌が乗り、きゅっと固く結ばれた。


 6.出立


 長安にほどちかい街道に、万を超える人馬が集まっていた。
 そこここに翻る旗は、曹。曹魏の女王、曹孟徳その人が率いる軍であった。
「じゃあ、ここでお別れね」
「ああ。気をつけてな」
「あなたこそ。私がいない二月、無事に勤め上げなさいよ」
 兵が円陣を組む中央で言葉を交わすのは華琳と一刀。
 当初一月あまりを企図していた華琳の北方巡幸は、何度かの協議の結果、二倍ほどの月日を費やすこととされていた。
 その分負担の増える軍師たちに恨みがましい目を向けられた一刀であった。
「春蘭と桂花も刺激しないようにね。戻ってみたら、あなたが真っ二つなんてごめんよ?」
「あー、うん。がんばる」
 物騒なことを言う華琳に、一刀はげっそりとした顔で答える。桂花も春蘭も、華琳がいないことでただでさえ仕事の量が増えるのに、さらには愛しい人と長期間引き離されるのだ。華琳自身の発令による北伐はともかく、今回の北行は一刀の提案である。気が立った時、矛先が向かうのは一刀であろう。
「まあ、あなたも色々と大変なのはわかるけれど、私を使う以上、洛陽のことは頼むわよ」
「うん。華琳のほうは……大丈夫だな。でも、夏とはいえ北は寒いから風邪には……」
「はいはい」
 しつこく心配する一刀を遮って、彼女はぽんぽんと安心させるように彼の腕を叩く。その時、元気いっぱいの姿が二つ、円陣の中に入ってきた。
「華琳様ー。準備できましたーっ」
「アニキ、こっちもいけるぜー」
 季衣と猪々子の後ろには、流琉、斗詩、麗羽、それに詠の姿もある。
 この集団の大半を構成する親衛隊は季衣と流琉に率いられ、華琳と共に北に赴く。一方、一刀と麗羽たちは蜀に帰還する焔耶と星の部隊を迎えに、母衣衆を連れて涼州の入り口へと向かうのだった。
「では、みなさん。お気をつけて」
「季衣ちゃんも流琉ちゃんも元気でねー」
「華琳さんも蛮夷の習俗にそまらないようお気をつけあそばせ」
「莫迦に染まるよりは騎馬民族の風俗に親しむ方がましね。あなたのほうは一刀を邪魔しないよう、せいぜい軽いお飾り大将軍でいてちょうだい」
「むきーっ」
「ほら、行くわよ、お莫迦大将軍」
「詠さんまでーっ」
 賑やかに別れの挨拶を交わし、それぞれに進み始める一行であった。


 異変は華琳達と別れた翌々日に起きた。
「なんか来る! みんな、走れ!」
 不意に叫んだ猪々子の言葉に、最初に反応したのは一刀であった。
「走れ! 猪々子の勘は当たる!」
 彼の言葉に従って、母衣衆三百、その他、麗羽付きの二百ほどの騎馬の兵が一斉に速度を増す。その先頭近くに位置する一刀の横に、斗詩が馬を寄せてきた。
「あの。一刀さん? 実はあれ、結構外れてるときも……」
「知ってる。でも、もし万が一外れてても、訓練になるだろ?」
「正直、外れて欲しいわ。こんな少人数で……。こんなことなら、あと二千は連れてくるんだった」
 ぎり、と唇を噛むのは詠。彼女は顔を青ざめさせるほど真剣に思考を走らせると、指示を下そうとした。
「本当は割りたくないけど、偵察を……」
 だが、その指示は猪々子の割り込みで無効となった。
「あー、ごめん、詠。もう遅いや。ほら、右」
 彼女の示す先に、もうもうと巻き上がる土煙が見えていた。なんらかの勢力が近づいているのは確かだが、明らかに行軍中の動きではない。すでに戦闘態勢に入っているそれだ。
「……数を、どう見る?」
「五千……いえ、七千から九千」
「万はいねーだろーけど、厳しいなあ」
 未だ旗印も見えない軍勢を、斗詩と猪々子はそれぞれに評価する。そして、詠自身の見立ても、彼女達とそう変わりなかった。
 精鋭だろうがなんだろうが、五百の兵が敵う相手ではない。
 こちらに飛将軍でもいれば話は別であろうが。
「麗羽様と一刀さんだけでも逃がせないかな、詠ちゃん」
「ん……」
 いっそう速度を上げつつ、彼女達は言葉を交わす。周囲では母衣衆が彼らを中心とした強固な円陣を作り上げつつあった。
「無理ですわよ、斗詩さん」
 走るのは乗騎に任せきりで、眼を細めて黒煙の方向を見つめていた麗羽が疲れたような声を出す。
「あの旗をご覧なさい」
「あー……」
 斗詩と猪々子、二人が揃って声をあげたのは、旗に描かれた許の字を見つけたからだ。一刀もまたそれを認め、しかし、納得ではなく疑問の声をあげる。
「許? 季衣のはずないし……誰だろう?」
「許攸さんですわ」
「許攸……? え、あれ、生きてたの?」
「アニキ、ひどっ」
「いや、だって、生きてると思わないだろ……」
 思わず非難の声をあげる猪々子に、もごもごと抗弁する一刀。
「でも、なんだって許攸がいまごろボクたちを? 華琳への意趣返し?」
「性懲りもなく華琳さんを襲おうとしてたんじゃありませんこと? 途中で、小勢のわたくしたちを見つけて、行きがけの駄賃に我が君の首を狙ったんでしょう」
「あー、あの人なら考えそうかも。華琳さんの前に一刀さんの首を晒してやるとか、そういうこと……」
 許攸は元は麗羽の部下――というよりは参謀である。当然斗詩も面識があるのだろう。暗い顔つきで呟くのは、相手のことを評価しているからか、あるいは嫌悪しているからか。
 この中で、おそらく許攸のことを最もよく知らないのは一刀だ。彼自身も孔融が華琳に牙をむいたときに、許攸率いる軍と戦場で対した経験はあるはずだが、後から援軍にやってきた許攸の印象は薄い。
「そこまでじゃなくとも、軍を引き連れて動いているのを見つけられたら困ると思って、口封じに潰そうとしてるのかもしれないわね」
「なにしろこっちは五百足らずだからなあ……」
 一刀は周囲を走る兵を見回す。頼りになる者たちばかりだったが、いかんせん数が少なすぎる。さらに言えば、彼としてはこれらの兵たちを自分のために殺してしまうようなつもりは毛頭無かった。
「いずれにせよ、許攸さんなら、部隊が突破をはかることくらいは予想してますわ」
「分散するのは避けるべきね」
「でも、このまま逃げられるか?」
 一刀の問いに、詠はふるふると首を振る。兵へ聞こえるのを懸念してか、さすがに声は抑え気味であった。
「無理。でも、諦めないなら、せめて有利な場所を探さないと。平地で対したらすぐつぶされるわよ」
 彼女の言葉にほんの少しだけ考えて、一刀は首に巻いた布を長く後ろに翻しながら走り続ける短髪の女性武将を振り返った。
「猪々子!」
「あいよ!」
「お前の勘にかける。隘路か森か……。なんとか相手できる場所を探してくれ!」
「りょうっかい!」
 一刀の言を受け、放たれた矢のように猪々子は駆け始める。


「信号弾の手持ちを全部、断続的に打ち上げるわ」
 猪々子が見つけ出したのは、はるか昔の城市の廃墟であった。朽ち果て、すでに基礎部分以外は土に帰ってしまった場所も多くあったが、五百の兵が矢の雨を避けるだけの場所はわずかに残されていた。
「そうだな。援軍が来てくれるかもしれない」
 ほとんどありえない可能性を追求し、詠と一刀は言葉を交わす。
「ともかく、引きつけつつ打って出るしかないわ。引きこもったって死ぬだけよ」
「なかなか難しいな」
 敵はすでに急激な進軍を止め、彼らを完全に包囲すべく陣形を整えつつあった。じりじりと進んでくる様子が明らかな余裕を示している。
「わたくしの牙門旗を、斗詩さん」
 敵兵の動きを不機嫌そうな顔で見ていた麗羽が、なんとか兵に塹壕を掘らせている斗詩に声をかける。
「え、でも、今回は一刀さんの軍だからあげないって」
「一応……やってみないといけませんでしょう」
「はあ……」
 言われるままに、斗詩は麗羽の荷物のうちから牙門旗を取り出させる。ただし、旗自体はあるものの、旗竿がない。代々派手好きのために殊更に巨大な袁家の旗をつけられるだけの旗竿を用意するのはただでさえ大変なのだ。
「んー、これしかないか」
 しかたなく、斗詩は手近にあった古びた柱の一本をめりめりと音をたててむしりとる。彼女の事をよく知らぬ兵たちが怯えていたが、構っている場合でもない。
 そして、天空に掲げられるは、美しく花のように広がる黄金の袁。
 この場には、場違いなほどに麗しいその旗を目にすれば、そこにいる者が誰であるか、わからぬはずもなかった。
 だが、敵の動きが止まったのはほんのわずかの間でしかなかった。
「あらあら」
 ため息をつくように、あるいは玩弄するように、麗羽は呟く。
「わたくしの旗を見ても止まりませんか。元は華琳さんを襲おうとしていたのでしょうに、許攸さんたら引っ込みがつかなくなっていますわね」
「残念ね」
「ええ、残念ですわ」
 からかうでもなく、本気で残念そうに声をかけた詠に、黄金の髪を振り立てながら、麗羽は答える。
「本当に、残念ですわ。許攸さん」
 小さく肩をすくめる彼女の姿になにを見たか、一刀は一つ頷いた。
「しかたない。腹をくくろう。皆!」
 そこで、彼は大きく腕を突き上げる。その手は拳を形作っていた。その拳に周囲の目が集まったところで、彼は腹から響く声を張り上げる。
「生き残るぞ!」
 引き結ばれていた麗羽の唇に、その言葉が笑みを刻んだ。彼女は片手をあげると、首に巻き付いた黒革の首輪をゆっくりとその指でなでる。
 名残惜しそうに首輪から離れた手は、そのまま敵軍中央を指した。
「顔良さん! 文醜さん!」
「はいっ」
「どんなことをしてでも、許攸さんの首をお取りなさい! それこそが、我が君をお逃がし申しあげる唯一の道。そうですわね、文和さん?」
「ええ、珍しく正しいわ」
「一言余計ですわよ」
 そうして、彼女は笑う。
 艶やかに、高らかに。
 耳を塞ごうともせず、びりびりと空気を震わせる哄笑を平然と受け止めたのは、一刀と斗詩、猪々子の三人だけであった。
「さあ、袁家の看板に泥を塗った許攸さんを討ち果たしましょう。やぁーっておしまいなさい!」
「あらほらさっさー!」
 二人の声は、実に――この状況にかかわらず実に楽しげであった。


 7.蜀


 桃香は上機嫌であった。
 北伐の兵士達を慰問して大歓迎されたのもあるが、久しぶりに焔耶や星が蜀に戻ってくるのだ。機嫌がよくならないはずがない。いまのところ彼女に同行しているのは焔耶とその配下の部隊だけだが、星の部隊も十日ほど後には同じように蜀に向かって帰還を始める予定になっている。
「こういう時、朱里ちゃんが漢中にいるのは楽だよねー。長安までならすぐに出てこられるから、華琳さんたちと打ち合わせするのにも便利だし」
「そうですね、ただ……」
 馬を進める桃香の脇には明るい髪の少女もいる。馬の操縦に少々苦労しているその姿はいかにも愛くるしいものであったが、この人物こそ蜀の誇る大軍師、諸葛孔明である。
「ああ、そうだ、軍師殿。そのことでひとつ訊きたいのだが……」
 桃香を挟んで朱里の逆にいた焔耶が、一部分だけ白く色が抜けた髪を軽く振りながら、訊ねかける。
「はい? なんでしょう?」
「軍師殿が漢中に駐留しているのは、成都から離れた場所から蜀の政を制御し、桃香様の目の届かないところで己の思うがままに振る舞うためだ、などということをワタシに言ってくる者がいてな」
「なにそれ、ひどーい!」
 朱里が何ごとか反応する前に、主たる桃香が憤慨してしまう。その様子に冷静さを刺激された朱里が一つ唾を飲み込んでから話し始める。
「……まあ、少々行きすぎていますが、懸念を抱くのもわからないではありません。桃香様を補佐すべき私が関内に近い漢中にいることが疑問だという人もいるでしょう。しかし、これは必要なことなのです」
 こほん、と小さく咳払いし、彼女はその大きな瞳で桃香と焔耶を見据えて言い切る。
「北伐が続いている現状、さらには西涼の建国……。蜀の国内にいながら、他国の動向を見届けるには、あの地に留まるしかありません」
「うんうん。朱里ちゃんが中原や華北のことを見ていてくれるおかげで、私たちは南方のことをこなしていけるしね。そりゃあ、成都にもいてほしいけど……。朱里ちゃんは二人いないし」
「ふむ。まあ、わかった。余計な事を……」
 焔耶が言うのを手をあげて制し、声を潜めて彼女は続ける。
「ただ、この場合、純粋に蜀のことを憂えているのならば、考え方の違いで済む話ですが、もし、派閥闘争として持ち出してきているのならば、嘆かわしいと言わざるを得ません」
「……ワタシは何派でもないぞ? 桃香様に従うのみだ」
「私や桃香様はそれをわかっていますが、世間の目から見れば、紫苑さん、桔梗さん、焔耶さんは荊益二州の土着勢力、私たちや愛紗さんたちなどは、北方からの外来派閥と思われがちでして」
 予想外の言葉に、苦り切った顔つきになる焔耶。
「不本意だ」
「うーん。困ったねえ。みんなでいい国をつくっていくのが大事なのに……」
「そのあたりは、今後も出てくる問題でしょうから、我々が一枚岩であることを示す方策を考えていくこととして……あれ?」
 不意に顔を持ち上げた朱里に、桃香が首を傾げる
「どうしたの?」
「なにか見えませんでした?」
 彼女が指さす方向に見えるのはただの青空。しかし、そこに、いくつかの色が放たれた。
「あれは……?」
「魏の信号弾のように見えます、桃香様!」
 主の疑問に焔耶が叫ぶのに、軍師たる少女がすっと目を細めた。
「偵察を、だします」


 襲われているのは北郷一刀と袁紹一行。兵の数は不明だが、わずか。
 一方、襲っているのは兵数八千とみられる部隊。いずこの軍かはわからず。
 放った斥候からのそんな情報を受けて、朱里は考え込む。
「八千ですか……。こちらは輜重を含めても六千。押しとどめるには十分な数ですが……」
 焔耶率いる部隊は書類上の数字で言えば百人隊が五十で五千。しかし、北伐における損耗や、元々の充足率を考えれば、四千五百がせいぜいだろう。そこに桃香の近衛が八百、残りが蜀からの輜重隊だ。魏のように馬を輜重に回せるはずもなく、真桜の開発した自転車もまたあるわけがなく、多数の牛が同行している。
 兵の数は負けているものの、こちらには焔耶と朱里がいる。輜重隊を後方に回すとしても、正面から当たるならばなんの問題もないだろう。
 しかし、大事なのは賊――何者かわからない状況では、こう称するしかない――を追い払うことではなく、彼女達を出迎えに来た麗羽、一刀の一行を無事助け出すことだ。ある意味、足枷つきで戦うような状況になる。
「どこかに人をやって、援軍を要請するのは? 魏軍でも北伐の軍でも」
「ええ、必要ですね。しかし、それでも時間がかかる……」
「だからといって見捨てるわけにはいかんだろう!」
 ぶうん、と鈍砕骨を振ってみせる焔耶。すでに彼女は戦闘態勢を整え、部下達にもそれを命じていた。
「お、落ち着いて焔耶ちゃん。朱里ちゃんは策を考えようとしてくれてるだけだから」
「は、はい……。すいません」
 彼女の武器の勢いにびくびくとしつつ、桃香はその優しい顔に安心させるような笑みをのせて焔耶をおさえようとする。
「桃香様の仰るとおり、救援に向かうのは確定としても、そのやり方は考えねばなりません。しかし……」
 彼女は桃香に注意されてしょんぼりしてしまっている焔耶を見る。桃香の前ではこの有様だが、魏文長はひとかどの武人だ。
 少々自信過剰なところがあるが、それが進撃とかみ合っているときはかえって有利になる。
「焔耶さん」
「おう?」
 返ってきた声には力が込められている。それを感じ取り、小さな軍師はうん、と頷いた。
「身軽な二千ほどを率いて先行していただけますか。ただし、後から行く我々がどんな策を用いても驚かない心づもりでいてくださいね」
「任せろ!」
「第一目標は、北郷さんや袁紹さんの保護です。撃破よりもそちらに気を配ってください」
 鈍砕骨を握りなおし、早速駆け出そうとする焔耶に、朱里はしっかりと釘を刺した。
「わかっている!」
 桃香に戦果を約束し、焔耶が兵を率いて進軍を始めた後で、桃香は不安そうに朱里に問いかけた。
「いいの、朱里ちゃん。まとめて動かなくて」
「あの状態の焔耶さんを引き留めるよりは、相手に当てるほうが効果的ですから。それに、急がないといけないのも確かです。二千ではいかにも少ないとはいえ、相手は予想していないでしょうから、北郷さんたちを確保するには役立ちます。その間に、私たちで相手を退かせるか、援軍が来るまで粘る準備をするしかありません」
「……援軍が来るとして、どれくらい?」
「間違いなく二日は」
 桃香の顔にわずかに浮かんでいた期待は、そんな返答で消え入るように萎んでいく。
「そっか……」
「騎兵の大半が出払っていますからね。しかし……」
 しゅんとした主を慰めるでもなく、朱里は思案気に、後ろに控える兵の群れを見渡す。そして、竜に比せられる大軍師は、思わず桃香がはっと顔をあげるほど張りのある声で、きっぱりと言い放つのだった。
「やりようは、あります」
 と。



     (玄朝秘史 第三部第二十三回 終/第二十四回に続く)



★☆次回予告☆★


 北郷一刀の首に大刀をつきつけたその相手は、ぱかりと口を開けた。それは、暗闇を切り裂いてできあがった真っ赤な空隙のよう。
 彼はそれが意味するものを、頭では理解していながら、心では真っ向から拒絶していた。
 それが、つまり、笑いであるなどとは。
「とても、いい、報せを、持ってきてやったぞ、北郷」
 音節を短く区切りながら、『それ』は低く低くそう囁くのだった。

 次回、第二十四回 『危機』

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