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177 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/10/01(金) 17:18:37 ID:YYv4zYxg0
こんにちは、一壷酒です。
今日は夜に飲み会に顔を出さないといけなくなったので、帰って来て日付をまたがるといけないという
事で、先に投稿していくことにします。
今回は、前回の直接の続きでほぼ一晩の出来事ですが、次回からは多少話全体が動いていくと思います。
一応、予定では次々回あたりからだいぶ怒濤の展開の予定……あくまで予定ですがw
では、よろしければご覧下さいませ。

次回第二十二回は10月11日の投下予定です。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写や、異なる時代背景の倫理に基づく表現が出てきます。もちろん、これらは差別などを意図したものではなく、世界を表現するためのものです。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。

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※なお転載は不要です。(まとめサイトにまとめていただく時を除く)



玄朝秘史
 第三部 第二十一回



 1.命数


 眼下できらきらと輝く光の群れを酒家の二階に開かれた窓に腰掛けて眺めていた女性は、直下の大通りの騒ぎに気づき、そちらに目をやった。すると、驚いたように口がすぼまる。次いで、その顔は楽しそうな笑みに彩られた。
 手に持っていた杯を、一つ合図するように掲げる。その時、ちょうど部屋に入ってきた人影があった。
 赤い髪を後ろで小さくくくった女性は、連れの顔を見て、首をひねる。
「どうした、星。にやにやして」
「いえ、そこの通りで少々騒ぎがありましてな」
 名を呼ばれた女性は、様々な色の光の奔流に映える白基調の着物を揺らしながら、くすくすと笑う。
「そう、痴話げんかのような」
「ああ、まあ、そういうこともあるだろうな」
 今夜は元夜の灯祭だ。人々は祝いの最後の日と思って浮かれ歩く。恋人たちであれば思い出に残る夜にしようとはりきる者も多いだろう。その中で空回りして喧嘩になってしまう組が出てもおかしくはない。
 星が含み笑いを漏らしているのは、その様子がよほど気に入ったのだろう。そう考えつつ、白蓮は部屋の真ん中に用意された卓についた。
「ところで、翠と蒲公英は遅れるってさ。店に言づてがあったようだ」
「ほう?」
 実際にはすでに約束した時間は過ぎている。遅れているとは思っていたが、それが確定した形だ。
「馬がこの灯りで興奮してしまったんじゃないかな」
「伯珪殿の白馬たちは大丈夫なのですかな?」
「うちのは城の奥に置いてあるから。涼州勢は元の数が多いから割り当てが外側なんだよな」
 卓の上に用意された湯の中につっこまれた容器を取り出し、ぬる燗の酒を己の杯に注ぎつつ、白蓮は説明する。窓辺の女性はそれを聞いて立ち上がり、もう一度窓の外に視線をやった後で白蓮と正対する位置に座った。
「ふむ。では、しばらくは二人で楽しんでいるとしましょうか」
「うん」
 そういうことになった。

「それにしても……」
 星は彼女にしてはかなり抑え気味の速度で酒杯を乾しながら、窓の外を眺めやる。色とりどりの光は、闇を圧して輝いて、まるでいまが夜ではないかのような錯覚を覚えさせる。ここのところ、成都の素朴な元宵節に慣れていた身としては、目もくらむような景色と言っていいだろう。
「あと何度こうして、元夜を迎えられましょうな」
「なんだ? いやに感傷的だな」
 こちらは控えめな星に比べてもかなりゆっくりと酒を味わっている白蓮。彼女は灯火を見るよりは酒の味を楽しみ、星と過ごす時間そのものを堪能している風がある。
「おや、伯珪殿はご自分が死ぬ事を考えられないので?」
「いや? 私はさっさとくたばると思うぞ。お前たちほどの豪傑でもないしな」
 からかうような問いにあっさりと答えられ、星は思わずといった様子で白蓮の表情を窺う。彼女は実に真面目な顔をしていた。
「おやおや。潔いとは言いませんぞ、そういうのは」
「ふふん。二度も三度も落ち着いたところからたたき出されてみろ。諦めもよくなるというものさ」
「いや、それは……。もう酔っておられるか?」
 さすがに眉をひそめて訊ねる。何度かのつきあいで知っているが、彼女は酒に弱いというわけでもないが、その酔い様は時々の精神状態に大きく左右されがちだ。有り体に言うと、不安や不満を抱えている場合には容易に絡み酒や泣き上戸になりかねない。
 そんな兆候なのかと探ってみたのだが、普段通りの顔で否定されてしまった。
「ん? さすがにまだだよ。飲み始めじゃないか」
「そ、そうですか。なんというか……。肝が据わりましたな、伯珪殿は」
「んー? どうだろ。どっちかというと、あれだな、分をわきまえたってやつ」
 白蓮は、星の言葉に少し上を向いて考え、思いついたというようにそう言った。
「……分、ですと?」
「うん」
 彼女は杯を置き、考え考え言葉を紡ぐ。星はゆらゆらと酒杯の中の酒を揺らしつつ、その言葉を聞く。
「えーと、要するに、私には私の出来ることしかできない。だから、それをやるだけだって思うんだよな。そういったことを見てくれている人はいるし、手伝ってくれたり、支えてくれたりする人もいる。私の手に余ることなら頼るべき人間もいる。そういうものだって思うようになった」
「ほおう……」
 星の切れ長な目が、すいと細まる。その目は昔なじみの武人――かつてはその身を寄せていた相手のことを、改めて観察するように細かに動いている。
「考えてみれば、だな」
「はい?」
 なんだか照れたような顔で、かつての幽州の主、白馬長史はこう続けた。
「私が独立していた頃はともかくとして、蜀にいた頃だってそうだったはずなんだよ。武で言えば恋や鈴々。兵を率いるのであれば愛紗や桔梗……星、お前だっていた。騎馬の部隊なら翠、蒲公英。これだけいるんだから、お互いに補い合えばそれでよかったんだよ。私は元が太守だから文官の仕事だって多少こなせるわけだし。朱里や雛里の手伝いなんていうのはおこがましいけどな」
 昔を思い出すように、けれど、その時の自分を恥じるように髪の毛をいじりながら、彼女は言う。
「それがなあ、うまく出来てないっていうか、少なくともうまく出来てる実感がなかったってのは、結局のところ、余裕の無さだったと思うんだよ。こう、国を追われて落ちぶれて……ってひねてた部分もあったかもしれないな」
 彼女は他の者たちのせいだとは言わない。あくまで自分の事だけを言っていた。それが本心からのものであることを星は悟っていた。
 なぜ、そんなことを言うのか。
 それは、いま、彼女がそんな余裕の無さとは無縁だからだろう。
 なにかに追われている者は、時に追われている自分にすら気づかない。ただなにかから逃れるために忙殺されている人間は周囲のことも自分のことも目に入らなくなるものだ。
 それを自覚できるのは、落ち着いて周りを見回せるようになってからのこと。
 ならば彼女は――現在の公孫伯珪という人物は、彼女自身が言うように、余裕がない状態から解放されたのだろう。
 それをもたらしたのは、なんなのか。星の視線は彼女の姿から探ろうとする。
 蜀を出たことか、鎮将軍の地位か。そんなことではないだろう。身軽というなら国を失ったときに感じているだろうし、地位を持つことで安心するような人でもない。
 では、なんなのか。
 あるいは――誰、なのか。
 星の目はますます鋭い光を帯びていく。
「で、いまは、そのあたりを鑑みる余裕がある、と」
「いや、まあ、私自身の余裕なんてのはたいしたことはないんだけどな。安心感っていうのかな……。なんとかなる、みたいな希望が余裕につながっているところは……あるかな」
「希望……ですか?」
 その言葉の響きに、星ははっとする。なによりも、それを言う白蓮の声のあたたかさが、彼女の疑心をとろかすように解いていた。
「へ、変か?」
 だから、星の問いかけに不安そうに訊ねる白蓮に、会心の笑みを見せつつ、こう答えられた。
「いえ、ちっとも」
「だからな、うん。いまは、ただ、己の成すべき事を成して、逝きたい。自分のために領土を争うでもなく、公孫氏のために敵を討つでもなく。私が成すべき事を成して、それで命を終えるなら、それはそれで天命だろうと、そう思うんだよ」
 しみじみと言った後で、白蓮はなにかに気づいたように頬を赤らめる。
「あ、すまん。なんか私だけべらべら喋っちゃったな。やっぱり酔ってるのかな? そう飲んではいないんだが……」
「いえ、よい話を聞けました」
「そうか?」
「ええ……。本当に」
 そう答える星の顔は白蓮から見てもたしかに嬉しそうであったのだろう。彼女も一つ頷いた。
「そうか。なんだかよくわからないが、私の話で喜んでくれるならそれは嬉しいな。よし、じゃあ、乾杯だ、乾杯」
「ええ、乾杯いたしましょう。白蓮殿。我らの幸運に」
 その言葉に、白蓮は小首を傾げる。相手はともかく、自分が幸運と呼ばれる事態にあるとは思ってもみない人の表情であった。
「幸運……? うん、まあ、いいか。じゃあ、私たちの幸運に!」
 元気よく己の杯と重なる、旧友の杯。
 陶器が打ち合うその音を聞きながら、本当に幸運を掴んだ時には気づかぬお人なのだな、この人は、と半ば呆れつつ、うらやましいという心持ちも抱く星であった。


 2.逢着


 北郷一刀は戸惑っていた。
 それはそうだろう。ようやく見つけた待ち合わせ相手が、ぽろぽろと声も出さず涙を流しはじめたら、誰でもそうなるというものだ。
「なんで? え、なんで泣いてるの?」
 そう問いかける声も、一拍遅れる。だが、当の相手は、きょとんとした顔で彼に応じた。いつも真剣な表情を刻む彼女は、そんな顔をすると妹のシャオにとてもよく似ていた。
「え? 泣いてる?」
 細い指が上がり、己の頬を伝う雫を確かめる。青の瞳が驚いたように見開かれる。ただでさえこぼれるように大きな瞳がさらに輝く。
「あ、ほんと」
 なぜだか、彼女の顔には笑みが広がる。
「私、泣いてるわ。莫迦みたい」
 ついにはけらけらと笑い出す。それまで泣いてはいても特に嗚咽するでもなく叫ぶでもない彼女に注目していた人はそういなかったが、その笑い声と泣き顔の落差に、さすがに人目をひきはじめる。
「蓮華? どうしたの?」
 彼は近づいて彼女の体を他から隠すようにしながら、その顔を覗き込んだ。愉快そうに笑いながら涙を流す女性の様は一見異様に見える。だが、なにかをこらえつつ吐き出しているその姿は、年相応にも見えた。その額に描かれた孫呉の主の証を除けば。
「あのね、一刀」
 秘密を打ち明けるいたずらっ子のような風情で、彼女は切り出す。
「私、今日のこと、忘れてた」
「そ、そうなんだ」
 予想外の言葉に、一刀も顔をひきつらせる。しかし、蓮華はそれを見ているのかいないのか、そのままに言葉を続けていく。
「ようやく思い出して、それでも待ち合わせの場所が思い出せなくて」
「ああ、それでか……」
 いつまでたっても店に姿を現さない蓮華を心配してこうして探しに出てきたわけだが、まさか場所を知らなかったとは。それでは城までの道程を往復しても見つからないはずだ。
「一人で探してまわって、どうしようもなくなってた」
 言われてみれば、蓮華の衣服の様子は、懸命に走った後のように見える。彼女の苦労を考えて、一刀はほうと一つ息を吐いた。
「莫迦でしょ、ほんと」
 勢いをなくしていた涙が、再び粒となって落ちはじめる。ほろほろと落ちていく熱い水滴が、彼女の襟元を濡らしていく。
「なんにも出来ないの、わかってるのに。私……」
 くすくすと笑い、体中の水分が出きってしまうのではないかと思うくらい勢いよく泣く。普段の彼女を知る彼にとって、その姿はあまりに弱々しいものだ。見れば、体も大きく震えていた。そんな蓮華を見つめ、一刀は、うん、と一つ頷いた。
「一刀?」
 なにか覚悟を秘めたような動きに、さすがに蓮華も気づく。だが、反応する前に彼の腕が彼女の体にかかっていた。
 膝に差し入れられた腕が大きく持ち上がり、当然のように倒れ込む蓮華。彼女の体全体をもう一方の腕が力強く受け止め、ふわりと浮くような感覚。
「えぇっ!?」
 気づけば、彼女の体は一刀に抱え上げられていた。安定を求め、自然と彼の体にすがりつくようになる蓮華。
 それは、泣いたり笑ったりする女性の姿を気にしていた通りの人々からすれば、さらに瞠目を要求するような光景だった。
 普通にたたずんでいるだけでそれなりに目立つ美人を、連れらしき青年がいきなり抱き上げる。平時でも驚きの光景だが、それが元宵節の灯祭の中ともなれば、意味合いが変わってくる。まして、抱き上げられたほうが、抵抗する意思を見せる様子もなければ。
 周囲はわっと声をあげ、中にははやしたてるように甲高い声をあげる者もいる。若い女性たちに至っては、揃ってうらやましげにため息を吐く始末。
「ちょっ、なにをするの、一刀!」
「いまの蓮華はだめだ。まず落ち着かないと」
 首に手を回すと安定するよ、と彼女の腕を導きつつ、彼は歩きはじめる。落ちてはかなわないと素直に彼の首の後ろに手をまわしながら、蓮華は小声で彼を問いただす。あまりの驚きに、涙さえひっこんでいた。
「いや、それとこれが、なんの関係がっ……!」
「ともかく店に行く。そこでゆっくり話を聞こう。こんな往来じゃなくてね」
「わ、わかったわ、一刀。わかったってば、降ろして、ちょっと!」
 男の意図を悟った蓮華が手を引っ張ったりしてみるが、当然ながら一刀は動じない。彼としてはまずは腕の中の彼女を運ぶのが課題であり、周囲の目は優先順位が実に低い。
「だめだ。いまは我慢してくれ」
「ええっ! 歩けるから! 私、大丈夫だから、一刀ってば!」
「うん、わかったから」
 蓮華の言葉を全て聞き流し、彼は行く。
 途中、ふと頭上を見上げ、なにかに気づいたように一つ会釈をしてから、蓮華を抱える手にさらなる力を込め、店へと急ぐ一刀であった。


 一刀たちの騒動から少し離れた、狭い横道。星と白蓮が酒を酌み交わしている酒家から一本ずれたそこには、大通りの灯火の光もほとんど差し込まず、漏れてきた一部は逆にほんのわずかな場所だけを照らして、他の部分を闇に沈ませている。
 そんな通りとは対照的な空間の中に、わだかまるいくつもの影。
「はえー。意外と力持ちなのですね、一刀様」
「おのれ、北郷……。あのような不敬な……っ」
「まあ、あそこで泣き崩れてしまわれるよりはましだったと思いますし……」
「それにしてもシャオ、時々思うんだけどさ」
 彼女たちは秘やかに声を落としつつ声を交わす。
「お姉ちゃんって微妙に運がないよね」
「……まるで逃げるように動かれていましたね……」
 呆れたように言うのはもちろん、小蓮。その後ろで、袖で顔を隠しながらぼそぼそと言うのは亞莎だ。彼女の影に溶け込むように黒く長い髪と装束で紛れているのは、諜報のまとめ役、明命。
「一刀様は、さすが洛陽を知り尽くしておられるからか、的確に動いてらっしゃいましたけど」
「最初から、お姉ちゃんが動かないほうがはやかったかもねー」
「……どちらかというと、私はあの男の、女をかぎつける嗅覚のようなものが働いたのではないかと思うのですが……」
 明命と同じように闇に沈み、瞳だけを煌めかせた思春が言う言葉に、乾いた笑いが起きる。
「あははー、さすがにそこまではー」
 しかし、否定しきることも出来ず、幾人もの人間を呑み込んだ闇は、奇妙な沈黙に覆われた。
「でも、よかったんですかあ? 小蓮様」
 しばらく後――おそらくはすでに一刀と蓮華が遠く離れたであろう頃、のほほんと言ったのは穏。
「なにが?」
「こんな素敵な夜を蓮華様にお譲りになって」
 そう訊ねる穏自身の声音に、少々感情が乗っている。そのことに幾人かが苦笑し、幾人かが同意するように沈黙を守った。
「ふふーん。シャオはお姉ちゃんたちが呉に戻っても洛陽にいるもん。一刀といちゃいちゃするのは後でもできるからねー」
「ぶー、ずるいですー」
 得意気に小さな胸を張るシャオに対し、穏は悔しそうにぶるんとたわわな胸を揺らす。その勢いを横目で睨みつつ、シャオは意地悪な声を出した。
「それ、雪蓮姉様と冥琳にも言える? 穏」
「あー。えへへー。さあ、戻りましょうか。お三人がお待ちでしょうからー」
 あからさまにわざとらしい声音ながら、内容はもっともだと、影たちはもはや隠れる必要もなくさっさと歩き出す。
 その一行の中で中央に守られるような位置になったシャオは、一度くるっと振り返ると、後ろでその動作に驚く明命が思わず微笑むような声をあげた。
「がんばってね、お姉ちゃんっ!」
 と。


 3.特別


 遅れていた翠と蒲公英がやってきて、約束していた四人での宴は始まった。
 今日のこの夜は、各所でそれぞれに皆が見物をしたり、練り歩いたりしているだろう。その中でこの四人が集まったのはもちろん蒲公英と星が音頭をとったからだ。
「一刀兄様も誘ったけど、先約があるって断られちゃったんだよね」
 白を基調として、黒で輪郭を強調したふわふわとした服を着けた蒲公英が残念そうに呟く。一刀その人に贈られた服を着ているのは、この夜の雰囲気に合わせてのことだろう。実際、窓から入り込む様々な色の灯籠の灯りが彩っていて、より華やかな雰囲気を漂わせていた。
「あの人はしかたないだろ」
「だな、今日なんて争奪戦だろう。……ん、どうした、星」
 翠と白蓮は揃って苦笑いを浮かべ、一方、星はにやにやとなにか言いたげな笑みを浮かべていた。
「いやいや、さすがは三国一の色男と思いましてな」
「もてもてだからねー」
「よくやるよな、まったく」
 呆れたように言う翠。その言葉に、白蓮と星は反駁するでもなく酒を呷っていたが、一人蒲公英は口をとがらせて反論する。
「えー、そんなこと言って、お姉様だってまんざらでもないくせに」
「な、なに言ってるんだよ。じ、自分がそうだからって……」
 なんとか流そうとしているのだろうが、翠の言葉は震えて明らかな動揺を示している。もちろんそんなことは承知の上で、蒲公英はにしし、と笑って続けるのだ。
「お姉様だって、一刀兄様といい感じじゃん」
「は、はあ? あ、あたしはただ、今後涼州を治めていくにあたって、相談にのってもらってることがあるってだけで!」
「えー? 一刀兄様から贈ってもらったあの服抱きしめて、名前呼んでるくせにー?」
 途端、文字に出来ないような奇妙な声をあげて、従妹を指さした格好のまま硬直する翠。
「事実らしいですな」
「うん、そうだな」
 淡々と言う星に、しかたないというように笑いつつ白蓮は首肯する。翠がそんなことをしているとはもちろん想像したこともなかったが、言われてみれば彼女らしい気もする。
「その服というのはどんなものなのだ?」
 反応がなくなってしまった翠では酒の肴にならないのか、星は面白そうに訊ねかける。
「ん? ええとね、いまたんぽぽが着てるのと逆の色合いで、対になるような感じかな。北伐の前にもらったんだ。戦勝祈願にね」
「ほうほう」
 星は頷き、固まったままの翠を見やる。にやりと微笑むその脳裏では、きっと蒲公英の服装から導き出した衣装を翠に着せてみているのだろう。
「戦勝を祈念しての祝いの品か。そういえば、私ももらったよ」
 思い出したように言った白蓮は胸元を開き、服の下に下げていたらしい首飾りを取り出した。銀の鎖に繋がれた先には、白玉(はくぎょく)。その表面には、尻尾が七つの流星と変じていく馬の姿が生き生きと彫刻されている。
「うわっ、きれーい」
「なかなかの細工ですな、これは」
 首飾りの精緻さと美しさに驚嘆の声があがる。
「うん。すごい細かいしな。なんか外に出してると壊してしまいそうで、胸に入れているんだ」
 照れたように言いながら、そそくさと彼女はそれをしまい込む。うらやましそうにその仕草を見ながら、蒲公英は小さく首をひねった。
「それにしても一刀兄様、どこからこんなの見つけてくるんだろ」
「いやいや。白馬長史殿にこれというのは、直々の注文だろう。見つけてくると言うなら、あれほどの細工をはやめに仕上げる職人を見つけるのがさすがというべきだな」
「あー、そうかー。この服も一刀兄様が色々指示して作らせたみたいだしねー。……どうやって時間つくってるかのほうが不思議かな」
「たしかに、たしかに」
 服を整え直し、蒲公英たちの話を聞いていた白蓮は、会話の合間にメンマをつまむ女性のほうを見る。
「そう言うお前は? もらったろ?」
「ええ、もちろん私ももらいましたぞ。これは昔助けた礼も兼ねてのもののようではありますが」
 どこからか取り出された小刀を、星はすらりと抜いてみせる。装飾は少なく、ただ、柄頭に葡萄酒色の石が埋め込まれているのみだが、その刃先のぬめるような輝きは、なによりも雄弁にその刀の価値を物語っている。
「わー……」
「……趙子龍が持つと怖いくらいだな」
 この場に集まった人間は、皆、武を修める者たちだ。その刀を見て、声を漏らさずにはいられない。固まっていたはずの翠さえ、その刃に目をやっていた。
「ふふ。まあ、これ一つでも、たいていの相手はできましょうな」
 ちん、と小さく音を鳴らし、星は刀を鞘におさめる。それだけで、蒲公英が息を吐いたのは、部屋の空気がいつの間にか張り詰めたようになっていたからだろう。
「焔耶もなにやらもらったはず。あの折では、我ら相手では勝手がわからぬ故、武人にふさわしく武具を、ということだったやもしれん」
「なんだ……。やっぱり、みんなにあげてるんじゃないか」
 ぼそっと呟いたのは栗色の髪を垂らした女性。うつむいているせいか髪で顔が隠れているが、その声には明らかに拗ねたような色が乗る。
 他の三人はその声に顔を見合わせ、困ったように、あるいは面白がるように微笑んだ。結局、その中で、白蓮が声をかけた。
「参加した将の誰もがなにかをもらっているからといって、特別ではないというのは違うと思うな」
「そうかあ? 結局、一刀殿の気が多いってことじゃないか……」
「いや、だから、それが違うと思うんだよ。あ、いや、気が多いことを否定するわけでもないが」
 白蓮はぶちぶちと呟く翠に、至極真面目に語りかける。その様子を眺めながら、星は心の中で、ああ伯珪殿、実は酔いはじめているな、と思っていたりする。
「たとえば、私への首飾り。これは本当に嬉しかったよ。私のことを考えてくれてるって感じたからな。翠だってそうだったんじゃないか?」
「それは……。うん、そうだけど……」
 翠はしばらくぱくぱくと口を開け閉めして、なにか言おうとして、しかし、否定の言葉を吐けずに首肯する。
「きっと、それぞれに相手のことを思い浮かべて選んだものだと思う。ま、まあ、私にくれたのは別に女として見ているとかそういうことではなく、あくまで部下としてのだろうが……」
 最後のほうは声が小さくなったせいで、誰も聞いていない。
「たしかに特別ではないなどと嘆くものではありませんな。そもそもあの方は一人に絞るような人でも……」
「だから、あたしは特別かどうかという話は……」
「他にあげているからと僻むのは、特別でありたい気持ちの表れでは?」
 星の言葉に、ぐうと小さく呻く翠。長く後ろに垂れる髪を前に回して抱え込むようにした彼女は、とてもかわいらしい。そのあまりの可憐さに、星と白蓮がほうとため息のような息を吐いているところで、従妹である少女は至極当然のように言った。
「確かめてみればいいよ」
「はあ?」
「だから、一刀兄様がお姉様のことを特別に思っているのかどうか、確かめてみたらって言ってるの」
「いや、なんでそうなるんだ。あたしは別に……」
 従姉の反駁には慣れているのか、蒲公英はろくに聞きもせず、ふんと鼻を鳴らす。
「特別に思われたいんでしょ、お姉様」
「い、いや……」
「先ほどの発言はどう聞いてもそういうことだと思うが」
「そ、それは、だから、その、一刀殿の無節操さというか、気の多さに呆れたというか……」
 星からも言われて、翠は目を白黒させる。それを聞いて蒲公英が大げさに息を吐く。
「はあ、これだから。もう、膚を重ねちゃえばいいのに」
「な、な、な、なにを!」
 途端、赤面する翠。余波をくらった形で、白蓮もまた首筋を朱色に染めているし、星も面白そうに聞きながら、頬をわずかに紅潮させている。
「言っておくけど、別にたんぽぽはいやらしいことばっかり言ってるわけじゃないよ。なんていうかねー。女の幸せって言うとなんか月並みだけど……。うん、わかるんだよ。自分がどう思われてるのかって」
「ちょ、ちょっと待て。蒲公英とも……その、一刀殿は?」
「うん。そうだよ?」
 思わず言葉を遮って訊ねるのに当然のように答えられ、白蓮はなにか呆然とした様子で小さく呟いた。
「そ、そうなのか……。そうか、そうなんだ……」
 その間も、蒲公英は敬愛する――しかし、女性としての方面では少々頼りない――従姉に力説している。
「たんぽぽは一刀兄様しか経験ないから、他がどうとかわからないけど、あの時に思ってる事って絶対伝わると思うよ。それくらいすごいもん」
「す、すごいってお前……」
「だーかーら、そういう意味じゃないって。もちろん、一刀兄様はなにしろ一刀兄様だからすごいけどさ。ただただ気持ちいいってのはあるよ。たんぽぽ気絶させられちゃうくらいだし。でも、それとは違うんだよ。一刀兄様の膚の熱さとか、感じてるだけで……なんかね、はじめて馬を操って、ずっと駆けてた時のこと思い出せるの」
 ついとあがった蒲公英の視線は遠く、はるかに遠く、おそらくは涼州の大地を見ている。同時にそこに浮かぶ男の姿もあるのだろう。彼女にとって、それは幸せの謂。
「星姉様ならわかるでしょ?」
「ん? あ、ああ、そういうものだとも聞くな。閨の中でのことは、隠せないからな。なにより、最も無防備な時ではあるわけだし」
 不意に振られて、星は酒杯を傾けつつ、そんなことを言う。少々焦点がずれているような気がするものの、おおむね蒲公英の意見を肯定するものではある。
「それに、お姉様。まずはあの服、一刀兄様に見せてあげなきゃ。まずそれからでしょ」
「そ、それは……」
「その時に、確かめてみればいいんだよ」
 そうして、彼女はにっと笑う。
 からかうような、いたずらっ子のような、それでいて相手を真摯に思うのが伝わるような、そんな複雑な笑みだった。
「一刀兄様にとってのお姉様、お姉様にとっての一刀兄様をね」


 4.慶祝


「落ち着いた?」
 料理を用意し終えた店の人間が下がり、二人きりになってからしばらくして、一刀はおずおずと切り出した。もちろん、相手は料理の膳をはさんで毛氈の円座に座る蓮華だ。
「落ち着いた、じゃないわよ。恥ずかしいったらっ……!」
 じぃっと彼のことを下からねめつけるようにしていた蓮華が、店に入ってはじめて声を出す。抱え上げられ連れてこられる途中までは彼女も一刀にさんざん文句を言っていたのだが、無駄と悟ったのだろう。抵抗の意思も込めて冷たい沈黙を守っていたのだ。
 しかし、火のついたような勢いの言葉は、彼女の中にある感情が、まるで熱を失っていないことを示している。
「ごめん」
 素直に頭を下げる一刀。それを見つめながら、彼女は口に運んだ料理にいらだちをぶつけるように強く噛みしめる。
「たしかにあの場で続けるのがまずかったのは認めるわ。私自身ぐちゃぐちゃになっていたし。でも……やっぱり、やりすぎだわ」
 料理を嚥下し、酒で唇を湿らせてから、彼女は自分を静めるようにゆっくりと言った。その意見は実に真っ当で、一刀としても認めざるを得ない。
「うん。俺も慌てすぎた。ほんとごめんな」
「まったく……」
 ぶつぶつと言いつのりながら、彼女は周囲を見回す。これまでずっと一刀を睨みつけていたので店の内装を確かめることもしなかったのだ。
 部屋は酒家の三階。円形に切り広げられた窓から、通りを行く灯籠の灯りや、背の低い建物のひさしや屋根の上に掲げられた灯火が見える。床は板張りだろうが、刺繍の施された敷物が一面に敷き詰められているために、下は見えない。その中央に、いくつもの膳と一対の円座が用意され、そこに彼女たちは座っているのだった。
 商談や会席のための場所ではなく、芸妓や楽士を呼んで、宴席を開くための間だった。
 日の光の下で見れば、きっと派手な刺繍や壁の装飾が目立ってうるさく感じるのかもしれない。だが、元宵節の光の祭りを見物するために用意されただけあって、内部の灯りは少なく、部屋全体には外からの間接的な光がまわっているだけ。そのために、奇妙に秘やかな雰囲気をかもしだしていた。
「いい店ね。落ち着くわ」
「気に入ってくれたならよかった」
 男の声にほっとしたものが混じる。それを感じ取って、蓮華は一つ息を吸って意識を切り替えた。
「ごめんなさい。せっかくあなたが用意してくれたのに、ずいぶん遅れたわ」
「ん……。でも。会えただろ?」
「それで……いいの?」
 酒杯を傾け、こともなげに言う男に、蓮華は笑みが漏れそうなのを抑えて訊ねる。
「ああ、それでいい。こうして見物できているしね」
「そう……。ありがとう、一刀」
 本気でそう思っているのだろう。嬉しそうに微笑むのに、ついにこらえきれず、彼女は笑みをその唇にのせた。
「ねえ、知ってる? 私って王様なのよ?」
「うん、知ってる」
「知っていても、あんな風に抱えて歩くのね」
 からかうように言いながら、けれど、その瞳はじっと彼の瞳から離れない。その視線の絡み合いの中でなんと思ったのか、男は構えた様子もなく己の行為を肯定した。
「ああ、そうだな」
「どうして?」
 その問いは、あるいは彼にとっては唐突なものであったかもしれない。けれど、彼女にとっては、けしてこの場の思いつきでも、不意に出てきたものでもなかった。
「どうしてそんなことができるの、あなたには」
「どうして……ね」
 考えようとする一刀に、蓮華は付け加える。
「華琳がいるからだとか、姉様にもしてるからなんて莫迦なことは私も思わない。でも、なんで、あなたは、私を……いえ、私やシャオや思春や……みんなを、ただの女の子として見られるのかしら」
「うーん」
 酒杯を置き、腕を組み、真っ直ぐに蓮華を見た後で、どこか宙に視線をさまよわせる。がしがしと頭をかきながら、一刀はようやく出てきた言葉を告げた。
「だって、どう見たって女の子だろう?」
 困惑の表情で、彼は言う。これ以上どうやって説明すればいいのか、心底から思い悩んでいる人間の顔であった。
「た、たとえば雪蓮姉様や、冥琳も? あ、違うわよ、年齢のことじゃなくって!」
「うん。わかってるよ。でも、冥琳も、雪蓮も、祭も、華琳も俺にとってはかわいい女の子だよ。まあ、本人たちが聞いたら、佳い女って言えっていうかもしれないけど」
「華琳も……」
 もはや呆然と呟くのを止められない。彼女は、彼が、真剣に、そして、ごく自然にそう語っているのだと、理解せずにはいられなかった。
「うん」
 沈黙。そして、弱々しい声が彼女の喉から転び出る。
「では……私は?」
 男の顔から困惑は消え、ただ、慈しむような色が乗る。
「蓮華は、俺にとって、魅力的な女の子だよ」
「嘘だ」
「なにが嘘なのさ」
 間髪入れずに否定した。相手が、ほんの少しむっとするのが手に取るようにわかる。けれど、彼女は言葉を押しとどめることが出来ない。
「優秀なわけでもない」
「基準が高すぎるよ。俺には蓮華は優秀な人間に見えるけど」
 なぜ。
「強さで言えば、一流どころにはほど遠い」
「俺よりずっと強い。軍だって率いてる」
 なぜ、この人は。
「なにが出来るわけでもない」
「なにも出来ない人が、孫呉で王をこなせるとは思えないけど」
 なぜ、この人はこんなにも自信をもって。
「私はかわいくない」
「かわいいよ」
 こうも誇らしげに自分のことを肯定できるのか。
「素直でもない」
「そうかもしれない。でも、そこも愛嬌だ」
 蓮華自身が、本来は一番に認めるべき彼女自身が否定しているというのに。
「一刀はいったい私になにを見ている!」
 叫ぶような問いは、一刀がずいと膳を除ける動作で迎えられた。
「……蓮華はおまじないをしてくれた」
「え?」
「おかげで、北伐から無事帰ってこられた」
「な、あ、あれは。いや、そうじゃない。北伐は一刀たちの……」
 かつての自分の行動を思い出し、そして、彼の言っている意味に思い至り、蓮華の全身はかっと熱くなる。
「もちろん、みんなのおかげだよ。俺のつたない指揮に従ってくれた霞たちや兵たち、それに、華琳を守り通した中央軍のみんなや、支援を続けてくれた右軍や本土のみんなの。でも、蓮華のおまじないも、きっと俺を守ってくれた」
 いつの間にか、距離が詰められている。彼の視線に絡め取られた彼女が身動き取れない間に、彼は邪魔な膳を片付けて、彼女の円座の直前にまでにじりよっていた。
「蓮華」
 名を呼ばれる。彼女の目の前で、光り輝く人物が、彼女の名を様々な感情を込めて呼んでいる。
「王の重荷は、味わった人間にしかわからないだろうし、俺もそれをわかるなんて言いたくない」
「一刀……」
「でも、少しでも力になることはできる」
 肩に手が乗る。引き寄せられることを予感していたし、期待してもいた。
「おまじないのお礼に」
 力を感じるまでもなかった。気づいた時には、彼の腕の中にある。一呼吸する間もなく、彼女の体は彼の両腕に抱きしめられていた。
 持ち上がった手が彼女の頬に添えられ、燃えるような感触が唇に触れるのを助ける。
 本当に、ごく近くで。
 まつげ同士がふれあうのではないかと思うほど近くで、彼女は彼の瞳を覗き込む。その瞳に自分の顔が映っていることがなんだかくすぐったく、そして、嬉しかった。
 きっと、彼の瞳の中にいる自分の瞳の中にも彼がいる。そうして、彼女と彼はお互いの居場所となるのだ。
「これは……なんのおまじない?」
 息をするのを忘れていた蓮華が咳き込みそうになって、二つの唇はようやく離れた。しかし、彼女の言葉が彼の顎先にかかるような、そんな位置で彼らの体は固定されている。
「いつまでも君を思うという……誓い、かな」
「じゃあ、もう一度……誓って……」
 その言葉は、すかさず熱い唇によって呑み込むように遮られ、彼女の望みは叶えられる。


 5.左党


「なあ、星」
 すでに酔いつぶれた蒲公英と翠に布をかけてやり、星が席に戻ると、同じように潰れていると思われた白蓮がむくりと起き上がった。
「なんですかな、白蓮殿」
 おやおや、と思いながら、一人で飲むよりは歓迎だと再び酒の用意を始める星。
「あれ、本当なのか? 膚を重ねると相手の気持ちがわかるっての」
 ああ、もしかして、この人は、そのことをずっと考えていたのではあるまいか。星はそんな疑いを抱く。考えてみれば、翠が蒲公英にからかわれて――少なくとも当人はそう思って――自棄のように酒を飲み出し、蒲公英は蒲公英でけらけら笑いながら陽気に酒を飲んでいた間、白蓮はじっと黙っていた気がする。それほど酒が進んでいた覚えもない。
「ふむ。たしかにそういう話はありますな。なにより心を許した相手とのことなれば」
「そうかー。そうだよなー。そう思ってくれているからこそ、そういうことするんだもんなあ。さすが、星だなあ」
 それでも酔ってはいるのだろう。ぼんやりとした声でそう答えるのが、星のいたずら心を刺激する。
「どうなさいました? 蒲公英の熱気にあてられて、乙女心に火がつきましたか」
「うーん。どなのかな。でもさ。私だって女だからなあ」
「それはそうですな。白蓮殿は立派な乙女だ」
「お前に言われると信用できないんだよー」
 うさんくさげに睨まれる。
「これは心外な。私は素直に述べたまでですので」
「まあ、それはいいや。でもさあ、そんな風に見てくれる人って、お前を他にしたら、いるのかなあ? なあ、どう思う?」
 明日、この様子を思い出した時にはきっと悶絶するのだろうと思いながら、星はくすくすと笑いを漏らす。
「いないわけもないでしょう。しかし、ですな」
「ん?」
「誰にそう見てもらいたいかが大事なのではないですかな。白蓮殿がまっぴらごめんな相手に思われてもしかたありますまい」
「あー、そうだな。たしかに意味がないや、あはははー」
 そう言って星の肩をばんばん叩きながら笑う白蓮は本当に愉快そうであった。

「わらしだってなあ、特別扱いしてほしいんら。わらしのこと、特別に大事な人らって思ってもらいたいんだよ」
「ふむ。それはわかりました。ところで白蓮殿、その台詞、それで七回目ですぞ」
 少し飲ませすぎたな。
 星は白蓮の酒杯に調子に乗って酒を注ぎすぎたことを後悔していた。ほんのちょっぴりではあったが。
「お前はいいよなあ。強くて、きれいで、肝も据わってて、ついでに口もよくまわる。わらしなんか、腕はそこそこ、顔はまあまあ、軍を率いるのもそれなりで、頭は軍師殿たちにはとても太刀打ちできないときてる。どうすりゃいいんだっての」
「いや、なにもそのように……。ちなみにそれは五回目ですな」
「でもなー」
 おや、と星は思う。彼女自身繰り返しているように、白蓮は何度も同じことを重ねて、その話は端と端が繋がった環のように成りはてていた。それがなにか新しい展開を迎えようとしているのだ。興味を惹かないほうがおかしいだろう。
「こんなわらしでも信用してくれる人はいるんら」
「ほほう」
「星や桃香が信頼してくれれるのは知ってる。でもな、違うんだよなー」
「ふむ」
 そこで、白蓮は笑み崩れる。幼子が己の秘密の宝物を自慢するときのような、顔中を笑みにするやり方だった。
「白蓮なら任せられるって、そう言うんだよな。私を名指しだぞ。どうだ、すごいだろ?」
「一刀殿、ですな?」
「ん、ふふ……。どうだろうなあ?」
 くふふ、と笑う様は、いかにもだらしない。しかし、星はその姿をけして醜いとは思えなかった。むしろ、それは羨望を抱かせるに十分な仕草であった。
「でもなあ、たしかに私を見てくれてはいるが、しかし、それはあくまで配下に対するものだよなあ」
 がっくりと肩を落とし、小さく、いいんだ、それでもいいんだ、と呟く白蓮。心の勢いが乱高下しているのだろう。
「白蓮殿は」
「んぅ?」
「白蓮殿自身はどうお考えで?」
 そう問いかけられて、白蓮は目を丸くする。卓に落ちそうな体をなんとか戻し、椅子に深く腰掛ける白馬長史。短くくくった後ろ髪をぱさぱさ鳴らしながら、彼女は考えているようだった。
「……どうだろう」
 腕を組み、うーん、と唸りをあげて、彼女は床の上で寝入っている二人の将を見つめた。
「どうしたいんだろうなあ。私の思いは、蒲公英や翠とどう違うんだろう」
 立ち上がり、ふらつきつつも翠と蒲公英に近づいていく。その体がぐいと折れ曲がり、二人に覆い被さるようになる。
「どこが、共通しているんだろう」
「ぱいれ……」
 あまり動き回るのは……と、彼女を止めようとした星であったが、声をかけた時には、すでに白蓮はこてんと床に転がり、翠たちから少し離れたところですーすーと寝息をたてはじめていた。
「おやおや」
 昔なじみの体にも布をかけてやり、酒を抱えてその横に座りこむ。温もりを感じたか、赤い頭がぐいぐいと彼女の腰のあたりに押しつけられたので、導いて膝にのせてやった。
「しかし、それにしても……」
 無邪気に眠りこけている白蓮の頭をなでてやりながら、星は一人酒を味わう。
「誰も彼もがひきよせられていく。予想以上……いや、予想などできるものでもありませんな」
 ふふっ、と彼女は笑い、杯を掲げる。
「さて、私は貴殿を救ったことを、生涯の誇りとすべきか、百代の禍根とするか。どう転んでくれますかな」
 もちろん、その言葉に応じる者はなく、そも、話しかけている相手もここにはいなかった。
「かなうことならば……」
 彼女の言葉は、元夜の光の中に紛れて、誰の耳にも届かなかった。


 6.印


 蓮華は夢のような心持ちの中にあった。
 彼女とて、年頃の女であり、なにより王族として育てられた娘。房事のだいたいのところは祭などから聞いていたし、他に様々に漏れ聞こえてきたものもある。
 しかし、こんなものは想像していなかった。
 こんなに丁寧で、とろけるようなものだとは聞いていなかった。
 指の一本一本にまで口づけをし、体中の先端から中心に向かって指が滑る。触れるのは、彼の指、舌、そして、熱い膚。
 一刀の愛撫は、まるで全身按摩のようだ。彼女はそんなことを思う。
 なにしろ、触れられ、いじくられるところから全て力が抜けて、熱がわき起こってくる。じっとりと膚を湿らせているのは一刀も同じだが、しかし、蓮華の膚に浮く汗はそれ以上のものだった。そのことがまるで不快ではないのが、なにより驚きだった。それどころか、汗が体を伝い、彼の指がそれに絡まるごとに、ぴりぴりとした刺激が膚を走る。
「ね、ねえ、一刀」
 一方の腕で彼女の脇腹をなでながら、反対の手は首筋をいらうように動かし、その口を彼女の乳房に覆い被せていた男が、顔をあげる。胸にあたっていた彼の口内の熱が離れることが、無性に寂しい。
「ん?」
「だ、男女の営みっていうのは、あぅっ。その、つ、つながるのが……主では……ないの?」
 問いかける間にも、男の動きは止まらない。指だけではなく、こすりつけられる太腿や、足に絡む相手の足が、彼女に落ち着いて話すことも許してくれない。
「んー、そのためにほぐしているんだけどね」
 なにしろ、はじめてのことだろ? と訊ねかける声はとても優しく、それだけで体が震える。
「ふわふわぽかぽかして……なんだか、体が、浮き上がって、んぅ……しまいそう」
「そうか、じゃあ、そろそろいいかな」
 言うと彼は体を起こし、痛いほど張り詰めた乳首に指をあてた。
「かずっ……と?」
 彼の指が動き、鴇色の突起をぴんと弾く。
 驚いた。
 その行為そのものよりも、それがもたらしたのが、甘いうずきであったことに。
「ふわっ」
 胸で爆発した刺激は、頭と体の中心、二つの場所に雷のように伝い、そこで快楽の波をはじけさせる。自分の体に、こんな心地好さを感じる機能があるとは考えたこともなかった蓮華は、なんだかおかしくなってしまったのではないかと怖くなる。だが、その不安は、男の笑顔で払拭された。
「きもち、いい、けどっ。ふくっ、なんだか、乱暴よっ」
「うん。いまのは試しただけだから。これからは優しくいくよ」
 体の中で暴れ狂うじんじんと響くものをなんとか抑えつけて言葉にする。だが、次いで唇を奪われ、舌が割り入ってくるのを感じると、もはや抑制は不可能になった。舌が、彼の熱く柔らかな舌が、自分のそれを掴むようにいじっている。その感触が、その熱さが、その事実そのものが、彼女の頭を焼く。
 もはや、唇から漏れ出る喘ぎも、体がなにかを求めるようにくねるのも、止めることは出来なかった。
「蓮華……」
 唇を離しもせずに、名を呼ばれる。熱いものが、自分の女の部分にあたっているのがわかる。そして、そこが、潤みきっていることも。押し当てられるだけで、にちゅりと音が聞こえるような気がした。
 彼の背中に手を回しながら、彼女ははっきりと頷く。
「うん」
 瞬間、痛みが走る。
 いや、これは痛みなのだろうか。それよりもはるかに大きいのは、圧迫感。割り広げられ、刻まれていく感覚。自分の体が広げられ、そして、自分ではない誰かの――一刀の形にされていく。
「一刀が、いるの?」
 なかば呆然としながら、彼女は訊ねる。確かめるように、すがりつくように。
「私の中に、一刀が……いるのね?」
「ああ、そうだよ」
「だめ。なんだか……おかしくなりそう」
 体中が熱い。まるで燃えるように。
 熱に浮かされたときのようでいて、しかし、だるさや苦しさはまるでない。寝かせられている敷布の感覚ははるかに遠く、彼女はどこか空高く飛翔しているような気分であった。
「ねえっ、一刀!」
 ゆるゆると、彼女を気遣ってくれているだろう男の腰に、こちらから足を絡めながら、彼女は叫ぶように彼の名を呼ぶ。
 もっと、一緒になりたかった。彼の存在を、腹の奥に感じたかった。
「なんだい、蓮華」
「わた、私なんかで、大丈夫?」
「は?」
 ぽかんとする一刀も、とてつもなくかわいい。思わずぎゅうと抱きついて、一刀の目を白黒させる。
「だって、だって姉様ほど胸が大きくもないしっ、シャオほど張りがある膚でもなくてっ」
「俺がいま抱いているのは、蓮華っていう一人のかわいい女の子だよ」
「ん……」
 火照った膚にいくつもの口づけの雨が降る中、彼女は安心しきって、男の動きに体を委ねる。


 朝までに、いったい何度注ぎ込まれるのだろう。
 あまりの快楽にまだ痺れるようになっている体で、蓮華はそんなことを思う。いまは、うつぶせになった蓮華の上に一刀がもたれかかり、いちゃつきあいの最中だが、これが当然のように本格的な愛撫に移り、再び彼が挑みかかってくることは間違いない。すでに何度かそうなっていたし、なにより、彼女自身がそれを望んでいる。
 彼女と彼の間には時間が限られているのだから。朝になって彼女が王に戻る前に、存分に楽しもうというのは共通認識であろう。
「ね、ねえ、一刀」
 ふと頭の片隅に帰国のことを思い浮かべ、彼女は自分の上に乗っている男の名を呼んだ。
「ん?」
「ええと。おしり、すき?」
 彼の手は、先ほどから熱心に尻をなでている。触れられるだけでぴりぴりと心地好い刺激が走るが、それ以上はしてこない。彼が本気でもみしだきはじめたなら、こんな風に訊ねることも出来ず、彼女は悦楽の嬌声をあげるしかなくなるだろう。
「んー、そうだなあ。蓮華のお尻は丸くてかわいくて好きだよ」
「じゃあ……噛んでいいわ」
 ずい、と体勢を変え、彼の前にそれを持ち上げながら彼女は言った。
「え?」
 まるで大きな果実のように差し出されたそれを、一刀はけげんそうに見つめる。汗で濡れたそれはてらてらと光って、たしかにおいしそうに見えた。
「噛んで」
 彼女は繰り返す。
「そうすれば、馬に揺られている間もずっと一刀を感じていられるわ」
 ささやかな願いのように、彼女はそう言った。
「……そうだな。忘れられなくさせてあげるよ」
「ええ……お願い」
 秘やかな求めは、期待と恐れに彩られている。そして、それに対する男の顔は真剣そのものであった。
「あぐっ」
 そうして部屋に響いた声は、痛みをこらえるために低くくぐもっていたが、明らかにその奥に喜びを宿していたのだった。


 7.求賢令


 光の奔流の夜が明け、一月の十六日。
 この日の午後、一つの布令が出された。

 ――昔伊摯、傅説出於賤人。管仲、桓公賊也、皆用之以興。
 蕭何、曹參、縣吏也。韓信、陳平負汚辱之名、有見笑之恥、卒能成就王業、聲著於載。
 呉起貪將、殺妻自信、散金求官、母死不歸、然在魏、秦人不敢東向、在楚則三晉不敢南謀。
 今天下得無有至コ之人放在民間、及果勇不顧、臨敵力戰、若文俗之吏、高才異質、或堪為將守。負汚辱之名、見笑之行、或不仁不孝而有治國用兵之術。
 其各舉所知、勿有所遺。唯才是舉、吾得而用之。

『昔、伊尹、傅説は賤人の出であった。管仲は桓公の敵であった。だが、皆用いられ、国を興した。
 蕭何、曹參は県の子役人、韓信、陳平は屈辱的な評判をたてられ嘲笑された。だが、王業を成就させ、その名を残した。
 呉起は将の地位を欲し、敵の出身であった妻を殺して信頼を得、金をばらまいて官を手に入れ、母が死んでも帰国しなかった。しかし、彼が魏にある限り秦は東には向かわず、楚に居るときは三晋は南方への謀を控えた。
 いま、天下で至上の徳を持ちながら民間にうち捨てられたものがいないわけもないだろう。あるいは勇猛果敢で敵に対して力戦する者、もしくは文書を扱う俗吏で将軍、太守の地位に耐えられる者、辱めを受け嘲弄されていたり、不仁不孝でありながら、治国用兵の術を知る者もまたいるに違いない。
 皆、知っている者を推挙し、とりこぼしないようにせよ。ただ才能によってそれを評価し、吾はその者を用いよう』
 この文章は基本的には政庁の各部署や地方の役所に配布されたものであるが、洛陽では城下にいくつか高札が立てられ、庶人の目にも触れるようにされていた。
 その高札の一つの前では、二つの筋肉……いや、二人の人物が立ち、そこに書かれた内容を読んでいるところであった。
 むちむちとした筋肉を惜しげもなくさらし、巨体を奇妙に女性的にくねらせながら、布告を読む二人の周囲を、人々は遠巻きに囲んでいる。元々彼らは立て札を見に来たはずなのだが、いつの間にか別のものを見物する羽目に陥っている。
 人間、怖いもの見たさというのはあるものなのだ。
 たいていは、悲劇しか生まないのだが。
「ちょっと色々混じってるけど、求賢令ね」
 禿頭のくせに、そこだけ残しているのかこめかみのあたりから伸びるお下げ髪を揺らしながら、片方の人物が言う。それを受ける白髪の人物はなにか記憶を探るように己の口ひげをしごきあげた。
「たしか、この後に銅雀台を築くのであったか?」
「赤壁で負けた曹操はね。でも、華琳ちゃんは、そんなことをする必要もないんじゃないかしらん」
「ふむ、それもそうか。それに、地より出る銅雀より、天より降りた愛しいおのこが傍らにいることのほうが大事であろうからな」
 がはは、と笑う大声に、彼ら――いや、正確には彼女ら?――を観察している人々は波のように揺れた。
「いやん、卑弥呼ったら、うまいこと言っちゃってー」
 ばしん、と背中を叩く腕の、筋肉の盛り上がりよ。おそらくああして殴られただけで大変なことになるだろう、と見物の人々は震え上がる。
「ともあれ、いましばらくは様子見でよかろうな」
「そうねん。この間の騒ぎも左慈ちゃんたちの仕業じゃないってわかったし。まあ、他にも色々あるけど……」
「だが、我らが出るまでもなく、ただ伝えるだけでも力にはなれる。その時機を見計らう他あるまい」
「うーん、悩ましいわねん」
 片足をあげ、両拳を顎にあてる、お得意――と当人だけは思っている――姿勢をとった後で、その人物はようやくのようにあたりを見回した。その眼光に、輪の中の何人かがひきつけを起こしたように倒れていく。
「それより、そろそろいかないとまずいかも。みんなわたしたちに興味津々みたいよん」
「むむっ。見目麗しき漢女が揃えば人目を惹くのは当たり前なれど、こうも見られては、儂のおむねがどきどきしてしまうのだ!」
 胸に手をあてる。それだけでも絶世の美女がしたならば、楚々として、人を惹きつける動作になったであろう仕草である。しかし、この場合、おぞましいなにかを感じさせずにはいられなかった。なにしろ、その手の下では、分厚い胸板が蠢いているのだ。
「じゃあ、いくわよん」
「おうっ」
 そんなかけ声と共に、なにかが起きた。
 だが、そこにいた人々は、そこでなにが起きたかをけして語る事ができなかった。なぜなら、彼らは一様にその時の記憶を失っていたのだから。
 それが、漢女二人による悩殺姿によるものだと知る者は、無論誰一人いないのであった。

 そんなささいな一幕もあったこの日、北伐第二陣の陣容もまた発表され、その開始が宣言されている。
 正月の祝祭は過ぎ去り、大陸は再び激しい動きにさらされようとしていた。



     (玄朝秘史 第三部第二十一回 終/第二十二回に続く)


★☆★おまけ★☆★

「璃々の憂鬱 黄敍の悲劇」


 玄武十二年――すなわち北郷一刀登極より十と二年。
 帝都洛陽は西北方遠征軍の凱旋に沸き立っていた。
 先頭を行くのは、颯爽と愛馬にうち跨がる一人の女性。柔和そうな顔つきに、母譲りの豊かな胸。すらりと伸びた四肢は、細いながらもその内に秘めた力を感じさせる。連戦連勝を続ける帝国軍の中でも特に激しい戦いをくぐり抜けてきた、若手筆頭株の武将。
 彼女こそ、帝国の新星と名高い黄将軍。

 その姿が、しばらく後、宮城の内にあった。もちろん、経過報告をしに来たのであるが、それ以前に彼女にとってこの場所は生活空間でもある。久しぶりの懐かしの我が家への帰還であった。
「まずは身を清めなくちゃ」
 遠征軍には風呂の優先権が割り当てられている。もちろん、彼女は最優先だ。戦塵に塗れた体を洗い流そうと、彼女は大浴場への道をたどろうとする。だが、その目論見は、一つの声によって砕かれた。
「お帰り、璃々」
 振り向いてみれば、一人の男性の姿。三十代半ばのはずの彼は、しかし、ともすると二十代のようにも見える。それだけ生気に満ちあふれているからなのだろうが、それに加えて常に浮かべている優しげな笑みのせいもあるだろうと彼女自身は思っていた。
 そのさらに背後には一人の女性が立つ。身長は男と並ぶほど。美しい羚羊のような脚の持ち主は、怜悧な美貌にあたたかな笑みをのせ、琥珀色の瞳を輝かせている。
「陛下! それに車騎将軍閣下」
 慌てて膝をつき、臣下の礼をとる。
「おいおい。そんな畏まるなよ」
 畏まらないはずがない。男の名は北郷一刀――この国の皇帝その人であり、その後ろに控えるのは、伝説の武神呂奉先の後を継いで左車騎将軍におさまった陳公台なのだから。
 天の御遣いをはじめとして様々な呼び名を持つ男性についてはいまさらだが、かつてはねねお姉ちゃんと気軽に呼んでいた女性は、いまやその知略をもって智将の名をほしいままにし、彼女の憧れの対象ともなっている。同じく華雄の次に右車騎将軍となった小蓮や、夏侯姉妹の鎮軍大将軍、撫軍大将軍の地位を襲った季衣、流琉が軍の『武』を体現するとすれば、軍における『智』を象徴するのが音々音であった。現状では軍の大半はこの軍師将軍の差配によって動いていると言っても過言ではない。
「俺とお前の仲じゃないか、璃々」
 しかし、相手はそんな彼女の思いをまるで気にせず、気安く幼名で呼びかけてくる。
「そ、その名で呼ぶのは……」
「それにしても、今回も鮮やかな手並みだったようだね。俺も義父として鼻が高いよ」
「いえ……。今回も調略が行き届いておりましたし、そもそも干戈を交えることもほぼなく……」
「まあ、ねねたちがしっかり事前の準備をやっているのは確かです。しかし、実際に征伐に向かう現地の動きが悪ければその準備も無駄なものになります。それを生かせる手腕は素直に誇ってよいと思いますよ」
「……はっ」
 目線で促され、立ち上がる。音々音は比較的年が近いこともあって、彼女のよい教導者であった。長い手足から繰り出される打撃技に、彼女はよく翻弄されたものだ。相手の行動の自由を的確に削り取っていく戦い方は、まさに智将にふさわしいものであった。
「うん。本当によくやったよ、璃々」
「ですから、幼名は……ひぁっ」
 不意に近づかれ、脇に手を入れられた。驚きのまま硬直していると、予想以上に強い力がかかる。そのまま持ち上げられ、彼女の足は地を離れていた。
「うーん。やっぱり高い高いはもうできないか。大きくなったなあ」
 なんとか体をひねり、男の腕から逃げ出した。これ以上汗臭い体を間近にさらしたくはなかったから。
「む、昔とは違います!……色々と」
 ぼそりと呟いた最後の部分はきっと聞こえていない。
「そうだよなあ。俺もみんなも年を食うよなあ」
「なにを大げさな」
 ほう、と息を吐く男に、音々音はきゃらきゃらと笑う。これだけは変わらない八重歯がその唇の端から覗いた。
「だって、華琳とか早々と隠居しちまったじゃないか。俺も隠居するかな?」
「お前が隠居して、誰に政を任せると?」
「うーん。あ、璃々はどうだ? ほら、義娘だしな」
 冗談とわかっていても、硬直せずにはいられない。彼女がなにか反応する前に、憤怒の表情を浮かべた音々音が軸足を中心に音を立てて回転していた。
「莫迦を言うなですよ! このへぼ皇帝!」
 かすめるだけで大地をえぐる蹴りが、男の太腿を襲う。恐るべきは、打撃音がしなかったことだ。その力の全てが彼の肉へと伝わっている証拠だ。
「いてえっ! 昔とは蹴りの力が違うんだから、ちんきゅーきっくは!……いや、わ、わかってるわかってる、手加減してるのはわかってるから、一発ごとに威力をあげてくのをやめてぇ! 死ぬ! 本気でやられたら、一発で死ぬ!」
 ばしばしと太腿を蹴られながら情けない声をあげるこの人物こそが、この国の皇帝だなどと誰が思うだろう。彼女は声も出せず、その光景を見つめるしかない。
「うう、関白より偉い皇帝なのに、亭主関白も出来ない……。『皇帝失脚』でも歌うか。がんばれー、がんばれー、がんばれー……」
「なに莫迦なことやってるですか。早く行くですよ。ねねなんかよりもっと怖い相邦殿を待たせているというのに」
「ああっ。そうだった! 今日は顧問団もいるし、急ぐぞ、ねね! じゃあな、璃々!」
 がっくりと肩を落とした後ですぐさま跳ね上がり、彼女に向けて大きく手を振って、男は駆け出す。その屈託無い笑顔が、彼女の心をざわめかせる。
「少しいいですか」
「は、はいっ」
 一人残った女性に真剣な声で呼びかけられ、彼女はぐいと顎を引く。
「あの莫迦は、お前のことはしっかり認めているですよ。それは……わかっていますね?」
「……はい」
 おそらく、伝えたいことは別にある。しかし、音々音の立場では、きっと口にすることすら許されない。皇帝が言えば冗談で済んだとしても、車騎将軍でもある皇妃が口をはさめば、色々と問題が出ることもある。
 彼女にとって姉のような人物は――実を言うと、姉が何十人もいるような状況なのだが――たおやかに微笑んで、勇気づけるように続けた。
「そこから先は……ゆっくり行くしかないでしょう。さて、ねねも行きます。顧問団とかいう隠居組の世話もしないといけませんしね」
 ああ、面倒ですとぼやきながら、言葉とは裏腹に微笑んで駆け去っていく音々音の後ろ姿を見つめながら、彼女は一人呟くのであった。
「娘、なのかなあ……」

 ――すれ違う思い
「うーん、俺の世界には見合いって習慣があったから、うまく行くと思ったんだけどなあ」
「それで、あの娘を連れて行ったわけ? 一刀って、ほんっと莫迦よね」
「うう、久々に言われると痛い」
「私なんてましでしょ。子脩の怒りようったら」
 後に、一刀はこの時の事を述懐する。
『娘に説教されるのは効く。しかも、あの娘は、出会った頃の華琳にそっくりだから余計に!』と。

 ――からかいたがる大人たち。
「うむ。やはり、ここは我々が助けてやらねばならないだろう」
「だよねー!」
「お前たち、混ぜっ返す気まんまんだろう」
「まったく、焔耶たちまで、紫苑や桔梗に毒されちゃって……」
「ワタシは元々桔梗様の弟子だぞ?」

 ――風雲急を告げる西方情勢。
「まったく、わたしたちを呼び出すとは、何ごとだ」
「おちおち隠居もしていられんな」
「せやから、惇ちゃんも妙ちゃんもうちみたいに現役続けておけばよかったんや」
「……ここが最初の、ぼーちょー限界点?……だって、ねねが言ってた」
「ふむ、我らが夫君の理想の拡大も、ここが分岐点というわけか。まあ、よい。我が斧で全て粉砕するまでよ」
「なんにせよ、娘たちを鍛えられるし、よかったわ。気楽な身だと色々首をつっこめていいわよね」
「堅殿譲りの手法じゃな。ふふ、腕が鳴る」
 青ざめる少年少女たちを他所に、母親たちが笑いさんざめく。

 ――母の愛
「あなたの信じる通りになさい。お母さんのことなんか考える必要は、これっぽっちもないのよ」

 ――募る煩悶
「陛下の……ばか……」


 果たして、乙女の思いは届くのか。
 友と敵、様々な思惑が入り乱れる中、彼女は奮戦する。

 ――黄敍十八歳、あの人のお嫁さん、目指してます!


 玄朝秘史超外伝『璃々の憂鬱 黄敍の悲劇』

 公開予定……まるでなし!!

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