[戻る] [←前頁] [次頁→] []

676 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/06/12(土) 19:03:06 ID:77+ffMqo0
今日はメーテル女史の投下が外史スレであるはずなので、少々はやめに。
いやあ、第三部ももう第十五回です。
予定よりかなり長くなってますが、一歩一歩進むしかありませんな。
では、お楽しみいただけると幸いです。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
しかし、魏ルートの続きかと言われると違います。あくまで新しい物語とお考え下さい。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写もあります。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。

 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL →  http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0535



玄朝秘史
 第三部 第十五回



 1.洛陽


「まずは風呂で汗を流したいわね」
 兵たちを迎えに出てきた桂花達に任せた後、文官達を適当にいなして奥に入った華琳は表情を緩ませて、そんなことを呟く。
「ですねー」
 隣でうんうんと頷くのは親衛隊長でもある季衣と流琉。さすがに数ヶ月にわたる遠征ともなると、肉体的な疲労よりも精神的に溜まってくるものが出てくる。酒で晴らす者もいるが、いまの彼女達は酔いよりもさっぱりと汗を流し、体を温める方を求めていた。
「じゃあ、沸かしたら、三人で入りましょうか。まあ、兵をまとめている春蘭たちには悪いけど」
 そう言ってから彼女は、後ろからたくさんの書簡を抱えて着いてきている一刀へ目をやった。左軍に関わるものや、華琳自身がまとめた文書を全て持ってきているので、顔の前にまで積み上がり、ほとんど彼自身が見えないくらいだ。
 その彼も、けして汚らしい服を着ているわけではないが、どうしても長い戦の汚れがついてしまっている。
「ふふっ。一刀も一緒にはいりたい?」
 くるくると丸まった金髪を揺らして見せるその笑みに、思わず歩みを止める一刀。
「あー……いや。魅力的なお誘いだが、そんな状態で、おとなしくしていられる自信がないからな」
 その言葉の意味を察して赤くなるのは、前を歩く三人の中では、流琉一人だ。季衣は気づいていないし、華琳は当然気にもしない。
「あら、別に我慢なんていまさら……」
 くすくすと面白そうに笑う魏の覇王がそこまで言った時、廊下の先の暗がりから、小さくも張り詰めた声がかかった。
「華琳様」
「稟?」
 その声に、四人の視線が集中する。廊下の隅で跪いているのは、紛れもなく魏の軍師の一人、郭奉孝に他ならない。頭を垂れているためによく見えないが、その顔は常にない緊張に彩られている。
 守将である秋蘭や、留守を預かっていた桂花たちには既に城内に入ってきたときに会っているのだが、一人、稟だけは出迎えに出ていなかったのだ。
 他の人間が総出で迎えに来てしまったため、城の務めを取り仕切っているものと一刀も華琳も思っていたのだが。
「なあに?」
 稟は多言を弄しなかった。ただ、深々と頭を下げた。
 華琳はその様子を黙って眺め、二人の親衛隊長は後ろに下がった。一人、一刀だけが目を白黒させつつ、事の成り行きを見守っている。
「敵を読み違えた此度の責任は、全て私に」
「勝敗は兵家の常……などと言っても今更でしょうね」
 稟の言葉は重々しく、しかし、華琳の答えは驚くでもなくなめらかに返された。
「今回の戦、私はあのままでは負けていた。その状況を一刀がひっくり返し、勝ちをもぎ取った。それはどう言いつくろおうと事実」
 魏の覇王は当たり前のことを改めて言うかのような口調で呟いた。その目が、書簡を抱えた一刀へ走る。だが、彼女の視線を受けて、一刀は一つ肩をすくめるだけだった。その動きで、詰んであった竹簡が落ちそうになって慌てているのはご愛敬というものだ。
「信賞必罰は国の基」
 彼女は口調を変える。そこではじめて周りで聞いていた者たちは、これまでの彼女の呼びかけが、笑みを含んだものだったと気づいた。
「仰るとおり」
「単于の存在すらつかめなかった稟には罰を、一刀には褒美を与えねばならない」
「いかにも。魏の王として果たすべきことをなさいませ」
 覇王とそれに仕える軍師のやりとりに、口を挟める者はいない。ただ、その横では、季衣と流琉が助けを求めるように一刀に顔を向けるのを、彼が視線でなだめるように合図して抑えている。
「でも、困ったわねえ」
 一転、華琳はからかうように声をかけた。稟の背がぴくりと動く。
「ここで私があなたを害するようなことをしたとしましょう。そうしたら、褒美を与えるべき一刀の娘――阿喜の母を害することとなるわね」
「それは……」
「さて、この矛盾をどうすべきかしらね」
 その論理でいくと、主要な将に罰を与えることができなくなるのではないか、などと考える一刀だが、もちろんそれを口にしたりはしない。
「ああ、そうだ。稟。あなた、今度、十日ほど、一刀のめいどをなさい」
「……へっ?」
 思わず顔をあげ、華琳を見上げる稟。ようやく見せたその顔を覗き込むようにして、華琳は先を続けた。
「詠にも褒美はあるべきではない? とすれば、あの娘のことだから月が一緒でないと聞かないでしょう。しばらく月と詠に休みをあげる代わりに、稟がめいどをやるの。どうかしら?」
 真っ白かった稟の顔は、華琳が自身の顔を近づける度その色を取り戻し、さらに朱を深めていく。鼻血を吹かないだろうな、とひやひやしている一刀をよそに、主従はじっと見つめ合う。
「それは……たしかに、子供達の面倒を見てくれたり、彼女達の働きは……。しかし……」
「ともかく、そう決めたわ。それよりも」
 華琳の吸い付くような視線からなんとか目をそらそうとしているのか、あるいは思考に引きずられるのか、稟の瞳は素早くあちこちに動いている。部下のそんな逡巡を断ち切るように、短くはっきりと言い、魏の覇王は新たな指示を下す。
「稟。今回の遠征、反対した者たちも多かったことでしょう」
「ええ。それは多少は……」
「その者らの名を挙げて、後で私の所へ持ってきなさい」
「それは……!」
 なにか忌々しいものを吐き捨てるような物言いに、思わず立ち上がる稟。華琳はその動きを華麗に避けて、すでに先に進む体勢へと移っている。その背に稟は思考に追いつけないかのような早口で語りかける。
「お待ちを、華琳様。今回の戦の不始末は、全体の計画を練った私へ帰すべきで、たまさか一刀殿の機転によって成功したからと言って、戦に反対した者をあげつらうなどということは!」
「華琳。反対した人間が、それ見たことかと増長したとかならともかく、今の段階でそれはどうだろう?」
「あのねえ、稟に一刀」
 一刀も参戦しての抗議に、華琳は振り返って、そのままとんとんと後ろ向きに何歩か飛ぶように進む。そのずいぶんとご機嫌な様子に、厳しい顔つきで眉をひそめていた稟がいぶかしげに首を傾げる。
「あなたたち、話が飛躍しすぎじゃないの?」
「え?」
「誰が罰すると言ったの?」
 ぽかんと口をあける二人に、華琳は困ったように微笑んで続ける。
「稟の言ったとおり、今回の戦、危ういものだった。それをしっかりと指摘できた者たちに褒美をあげようと言うだけよ。繰り返すけれど、信賞必罰は国の基だからね」
 ひっかかった。
 一刀も稟も、華琳のおふざけにすっかり騙されてしまったことを自覚していた。季衣や流琉は楽しそうな華琳を見ているだけで嬉しそうだ。
 苦笑しつつも、やはり、我が家――というには広すぎるにしても――はいいものだな、と思う一刀であった。
「はあ。それならば……早速」
「それと、一日置いて明後日、皆を集めて話し合いを持つわ。呉、蜀の大使も含めて、ね」
「はっ。準備を整えましょう」
 少し先から、華琳は一刀へも声をかける。
「一刀。あなたたちもよ。詠たちにも伝えておくように」
「ああ、了解」
「じゃあ、ひとまず私たちは風呂に行ってくるわね。細かい後始末はまだまだあるのだから、帰りついたからといって気を抜いてしまわないよう注意なさい」
 くるりと振り返り、魏の覇王はさらに歩を進める。慌てて二つの小さな体が後を追い、取り残された二人は顔を見合わせる。
「ただいま、稟」
「お帰りなさい。よくぞ……ご無事で」
 ふっとやわらかくなる表情。その青い瞳が、眼鏡の奥できらりと光った気がした。しかし、次の瞬間、彼女はいつも通りの冷徹な軍師の顔になると、猛然と彼に言葉を投げつけ始める。
「しかし、一刀殿は無謀が過ぎます。二千里以上を駈けさせようなどと、誰がしようとしますか。こちらで糧食や連絡の手配にどれだけ苦労したと思って……」
 そんな非難をぶつけられつつも、一刀は笑み崩れる顔を押さえることが出来ない。彼はこう思っていた。
 ああ、帰って来たのだな、と。


 2.黄昏


 夕暮れも迫ろうかという時間の城内を歩く一つの影。こってでもいるのか、肩をまわすように腕をふりつつ、北郷一刀は庭を進んでいた。
 その耳にきゃいきゃいとはしゃぐような声が聞こえ、惹きつけられるように歩く方向が変わる。
 庭に建つ四阿に近づくと、今度は視界にもその姿が入ってくる。彼は少し足を速めると、最後は駆け寄るようにしてそこにたどり着いた。
「やあ、春蘭に秋蘭」
 呼びかけ通り、そこには彼にとってもなじみ深い姉妹がいた。二人でお茶をしているようだ。これもある意味ではいつもの光景だ。
 赤と青の服装もいつも通りだが、少し違うところがあるとすれば、秋蘭が普段より丈が長くゆったりとしたものを着ているところだろうか。それでも大きくなった腹は隠すことはできず、横に座った春蘭がうれしそうにさすっているのも相まって、その膨れた腹が視線をひきつける。そもそも、こうして彼女がお腹を大きくしているのは、彼自身のなした結果でもあるのだ。
「やあ」
「おう、北郷。いやあ、すごいなあ、秋蘭のお腹は。あ、いま動いた」
 にやにやと表情を緩めながら、妹の腹をさすっている春蘭を見て、一刀は首をひねる。
「なに、酔ってるの、春蘭」
「酔ってなどいなーい!」
「姉者はな、先ほど書類仕事が終わって上機嫌なのだよ」
 それと、まだ見ぬ姪か甥に対してもな、と付け加える秋蘭。そのあたりは理解できることなので、一刀はうんうんと大きく頷いた。
「書類ってのは明日のやつか? 俺もさっきまで詠と翠とでつくってたけど、なんとか終わったよ。あれ……でも、中央軍は風がまとめるんじゃないんだな」
「風もまとめてはいるよ。だが、あれは全体のことも見ているからな」
「お前、私が中央軍の大将だってこと忘れてないかー?」
 一刀の疑問に秋蘭が答え、春蘭もまた振り返って彼を軽く睨むようにする。普段ならもっと苛ついてもおかしくないものだが、機嫌が良いために反応が穏やかだ。
「あー、そっか。春蘭が大将で、華琳は北伐全体の総大将だっけ。それならしかたないか」
「とはいえ、中央軍のことは華琳様もよくご存じだからな。そこまで細かくなくてもいいと言ってもらえたのだ」
 えっへん、と胸を張る春蘭。人間向き不向きがあることは、華琳もよくわかっているのだろう、と一刀は深く納得する。
「そっかー。俺は、これから、残してきたほうの報告を読まないといけないんだよな」
「ああ、涼州のか」
「そ。こっちは実際に居合わせてないのもあるから、真桜や麗羽たちの報告をまとめる形だけどな」
 だが、それにしても量がある。軍を二つに分けたことで報告すべき事が倍になるというのは、考えてみれば当たり前のことなのだが、実際に直面してみると厳しいことこの上ない。一刀は控えている仕事の量を考えて小さくため息を吐こうとして、雰囲気を壊すこともあるまいと考え直し、懸命に呑み込んだ。
 ふるふると頭を振った彼の視線は、静かに茶を傾けている秋蘭の腹へとどうしても引き戻される。
「いま……えーと、七ヶ月、だっけ?」
「そうだな」
 うん、と小さく答えて、彼はじっとその腹を見つめる。そのあまりに真剣味の籠もった視線がくすぐったいのか、秋蘭はからからと笑いながら一刀に訊ねかける。
「どうした。お前の子を孕んだ腹を見るなど珍しくもあるまい?」
「いや、そうでもないよ。稟の時は、俺はずっと呉にいたし、桔梗も臨月の間くらいだろう。桂花は腰を揉む時以外は近づいたら殴られてたし、冥琳は向こうで産んだからね」
 さらさらと幾人もの女性の名前が出てくるのもどうなのだろうな、と自分でもおかしくなるが、こればかりはしかたない。
「南蛮はどうだったのだ?」
「美以たちはなあ。体の大きさが違うから、なんというか、妙に心配になる感じだったなあ」
「たしかに……。あれで何人も産んだというのだから……」
 ぶつぶつと呟く春蘭。たしかに、あれであの面々は一番の子持ちなのだから不思議と言うしかない。赤ん坊にも尻尾が生えていたりするけれど。
「まあ、だから、このくらいの大きさの時に見たことはあんまりないんだよ」
 じぃと見つめる一刀。それを見上げる春蘭と、ただ、静かに一刀の視線を受け止める秋蘭。
 あたたかな沈黙の中で、時が過ぎていく。四阿の屋根の端に、夕陽の最初の光が射した時、ようやくのように秋蘭が口を開いた。
「そこに突っ立ったままというのもなんだ。急ぐのでなければ、座って茶でも飲んでいかないか」
「ああ、ありがとう。そうさせてもらおうか」
 男は言われて二人の対面に座る。秋蘭が卓の上で保温されていた湯を使って茶を淹れてくれる。
 その杯をゆっくりと飲み干すと、茶の温もりが体に染み渡っていった。
「思えば、長いつきあいだなあ。二人とも」
 そう唐突に漏らしたのは、しばしの歓談の後。
 なにがきっかけだったのか、一刀自身にもよくわからなかった。ただ、そんな言葉がふとこぼれ出たのは、戦から無事生還したという一つの区切りを経たからだったかもしれない。
「そうだな。お前を拾って、黄巾の乱が起きて……。ん、考えてみれば、季衣より一刀のほうが古株なのだな」
「そうだぞ、姉者。姉者と私以外では、一刀は一番の古株だ」
「むー、そうだったのかー」
「そうなんだよ」
 大げさに――と言っても本人はおそらく本気で――驚く春蘭に笑いかけながら、一刀は首肯する。
「いやー、そんな気が全くしなかったのはなぜだろうな」
「それは、いきなり消えていたりしたからだろう」
「うぐっ」
 一刀の喉が奇妙な音を立てる。飲みかけていたお茶がどこかに入ったのか、彼は胸を一つ大きく叩くとごほごほと派手に咳き込みはじめた。
「お、おい、秋蘭」
「ああ、すまん。別に責めているわけではないのだ」
 目を白黒させて慌て始める姉と、ひゅーひゅーという息をなんとか元に戻そうとしている一刀に向けて、秋蘭はぱたぱたと手を振ってみせる。
「ただ、な」
 彼女はその表情を変えぬまま、一刀をしっかと見据える。その手が無意識か、己の腹をゆっくりとなでていた。
「子を作ってまで、消え去られてはかなわんと思ってな」
「わかっているさ」
 完全に固まってしまった春蘭をよそに、一刀はその言葉を覚悟していたのか、即答する。
「もう二度とあんなことはない。それに……みんなより先に死んだりもしないよ」
 それは覚悟であり、誓いでもある。
 そして、なによりも、心の底からの願い。
 秋蘭はこくりと頷く。その顔貌に張り詰めていたものはすでになく、口元は穏やかに笑みの形を刻んでいる。感情の動きをあまり見せようとしない彼女がそうやって安心を如実にあらわす姿は実に貴重だ。
 それは、一刀の心にも安堵の温もりを与えてくれていた。
「それはどうだろうなぁ。お前は弱いからなあ」
 静止が解けた春蘭の物言いにも、とげとげしさは全くない。
「なんだよー。ちゃんと今回だって駆けつけたし、無事帰って来たぜ」
「それはお前の手柄ではなく、霞たちの手柄だろうが」
「そ、そりゃ、否定しないけど……」
 わいわいと、二人の言い合いは続く。
 姉と一刀の言葉の応酬を聞きつつ、秋蘭はゆっくりと茶杯を傾け、小さく詠じた。
「北方有佳人     北方に佳人有り
 絶世而獨立     絶世にして独り立つ
 一顧傾人城     一顧すれば人の城を傾け
 再顧傾人國     再顧すれば人の国を傾く
 寧不知傾城與傾國  寧んぞ傾城と傾国とを知らざらんや
 佳人難再得     佳人は再び得難し
 ……か」
 彼女はちらりと、身振り手振りも交えて語り合いを続けている二人に視線をやる。愛しい姉は、談判しながらもそれほど興奮していない。この様子なら、彼女が止めに入る必要もないだろう。そう判断して、秋蘭は自分のせり出た腹を見下ろして、心の中で、こう呟くのだった。
「さて、お前の父上は、どれだけの城を陥とし、どれだけの国を傾けるのだろうな」
 と。


 3.会商


 今回、華琳の招集した会議は本格的なものであった。
 北伐に参加した諸将はもちろん、呉の大使である小蓮や、蜀大使の紫苑に桔梗、さらに南方から戻った雪蓮や美羽たちに加えて、なんと美以までが参加している。
 かわいらしい南蛮大王が恋の膝の上に収まっているせいで、隣に座るねねが不満顔だが、そこは我慢してもらうしかないだろう。
 この時点で洛陽にいる主要な武将、軍師、君主の中で参加していないのは、月と南蛮の三人組だけという有様である。
「さて、それでははじめましょうか」
 全員が席に着き、喉を湿らせるための茶杯も配られた後で、華琳が始まりを告げる。雑談でざわついていた室内に沈黙が訪れ、空気が張り詰めた。
「少々遅れたけれど、北伐第一陣は終わりを告げ、その間に起きたことも含めて、新たな局面が生まれてきているわ。それを今日は話し合おうと思うの。最初に現状の概要を、桂花から」
 呼ばれた桂花が立ち上がり、彼女は背後の壁に掲げられた大きな地図を指で示しながら説明を始める。
「はい、華琳様。それでは、もう皆知っていることもあるかもしれないけれど、確認のためにおおまかに説明させてもらうわ。
 まず、北伐中央軍は北方へ侵攻し、匈奴の領域を支配したところで、鮮卑・羌の連合に奇襲を受けたもののこれを撃退した。これにより鮮卑は北方に後退し、羌との連絡も難しくなっている状況ね。ただし、時期が時期だったので、それ以上の北進はせず、匈奴の領域の北端に兵を置き、様子を見ているわ。それでも中央軍本隊の帰京は一月ずれこんだことは知っての通りよ。
 左軍のほうは、中央軍の救援に東進部隊が出たこともあり、予定より進んではいないものの、涼州に地歩を固めつつあるようね。ただ、あちらから帰って来た者がいないので、曖昧にならざるをえないわ。そのあたりは、そこの北郷が後で報告してくれるでしょう。
 三国内での出来事に関しては、荊州の国境画定が一番大きな出来事となるわ。これについては三国で既に話が了解されているはずだけれど、今後に関してなにか意見があれば話し合うというところかしら。
 それと、呉で暗殺未遂があったらしいけど……?」
 桂花の視線が、雪のように白い仮面を被った女性のほうへと走る。それにつられて場の視線が集まった先は、彼女の腕から肩口まで貼られている膏薬の布だ。怪我はすでに治っているが、膚に傷痕が残らぬようにと処方されているものらしい。それは皆知っていたが、隠れているが故に、余計にその奥の傷を想像してしまう。顔を青ざめさせている一刀などはその最たるものだ。
 しかし、肘をついて拳に頬を乗せて説明を聞いていた彼女はそれらの視線を受けて、淡く微笑んだ。
「ああ、それなら気にしなくていいわ。狙われたのは蓮華だし。国内で処理するでしょう。そうじゃない? 小蓮」
「え? ああ、うん。もう亞莎たちが調べてるって手紙が来てたけど……」
 戸惑い気味に答えるのは、呉大使であり、彼女の妹でもある小蓮。その姉妹の様子を眺めていた華琳は、仮面の奥の瞳を覗き込むようにしてぐっと体を前に倒した。
「雪蓮。あなたではない、のね?」
「ええ、違うと思うわ。勘だけど」
「そう。ならいいわ。あなたが生きていることを知った上で狙ってきたとなるとややこしいことになりかねないけれど、蓮華ならば……」
 そこで彼女は肩をすくめて言葉を濁した。王ならば命を狙われる理由などいくつでもあり、それをあえて言うことでもない、というように。
「もちろん、協力を要請されれば、同盟国として手を貸すにやぶさかではありませんが?」
 稟の問いかけに、小蓮は口を開くのも面倒だというようにぶんぶんと首を振る。複雑に結い上げられた髪が大きく揺れる。
「なら、いいでしょう。桔梗、紫苑?」
「我らが関わることでもないでしょう」
 華琳の問いかけに、紫苑が答え、桔梗も同じく頷く。それを認めた華琳が合図して、桂花が口を開く。
「はい。……ええと、それなら続けて南の話を先に済ませてしまいましょうか。荊州の再分割に関して、実際に事に当たったそちらの二人、説明してくれる?」
「では、私が……」
 桂花の指名に漆黒の仮面を被った女性が立ち上がり、荊州における三国の国境画定のあらましを語り始める。冥琳の語る筋は、ほとんどの者は把握していたが、直に聞くのは初めてな北伐組にとっては驚くべきことの連続であった。焔耶などは事の成り行きに思うところあるのか、思い切り渋い顔をしている。
「まったく、一任したとはいえ、大騒ぎを起こしてくれたものね。一刀」
「まあ、雪蓮達ならなんとかしてくれると思ったからね」
 その答えに、やれやれと揃って首を振る華琳と三軍師。他にも何か言いたそうな者がいたが、彼女達が発言する前に、華琳が声の調子を硬くして呉、蜀の大使三人に体を向け直した。
「曖昧だった国境問題を解決させるためとはいえ、とった手段が過激なものであり、無用に荊州を騒がせたことについては、漢の丞相として、魏の主として、正式に謝罪させてもらうわ。桃香や蓮華には新年の挨拶の時に改めて話をさせてもらうとして……」
 軽く頭を垂れ、場の面々が驚きに目をむいている中に彼女は顔をあげ、確認するように問いかける。
「最終的に決まったことに関しては、両国とも異議なしということでいいかしら?」
「うん。蓮華姉様が決めたことだしねー」
「こちらも我が主、桃香様がお決めになったこと。既に決着ということでよろしかろう」
 小蓮、桔梗の真っ直ぐな返答に淡く微笑む華琳。彼女の視線はまだ立ったままの冥琳へと動く。
「ところで、荊州といえば、水鏡のところに行ったんですって?」
「ああ、徐庶殿と水鏡先生を登用できればと思ったのだが……」
 水鏡先生は、そう簡単に説得できる御仁ではなかったよ、と冥琳はため息をつく。その言葉に、涼州の棟梁、翠が反応した。
「徐元直殿に関しては、すでに長安を経由して涼州に向かっているんだよな?」
「そのとおり。まずは涼州をその目で見ておきたいと言って、向かわれたはずだ。馬超、馬岱をはじめ、馬家の人間を見極めてから仕えるとも言っていたから、後はよろしく頼む」
「了解。まずはたんぽぽに任せるしかないけどな」
 涼州に力を貸してくれるならいいんだけどな、と半ば不安、半ば喜びに彩られた笑みを漏らす翠。その様子を好ましく眺めている一同だったが、その中で、ぼんやりとした目で中空を見ていた少女が、頭の上の人形を揺らしながら呟いた。
「そうですかー、徐福殿は西涼に行くことになりましたかー」
「徐福?」
 知っている名前が出て、思わず反応する一刀。その発言者のあまりの怪訝な顔に、稟が笑いを含みつつ指摘した。
「始皇帝をたぶらかした方士ではありませんよ。徐元直殿の以前の名です」
「ああ、そうなのか……」
 改名仲間かなにかかな? とよくわからない連想をする一刀。
「あんた、知ってたの?」
「知っているという程でもありませんよー。改名する前にお会いしたことがあるくらいでしてー」
 軍師たちの会話を横目で眺めつつ、華琳が再び冥琳へと話を向ける。
「それで、弟子のほうはうまく行ったけど、師匠の方は空振りだったわけね」
「荊州を離れたくないと言うのでな」
「あら? 荊州ならいいの?」
 冥琳の漏らした言葉に、目を輝かせる華琳。その様子に、魏の面々はまたかとでも言いたげにあきらめ顔をしていた。
「断るための方便かもしれんが、荊州のために役立つならばともかく、とは言っていたな」
「へぇ、そうなの。それは良いことを聞いたわ」
 そこで彼女は少し考えると、座の面々を見回した。一番端の華雄から、逆の端の焔耶まで行ったところで、彼女の視線は斜め前に位置する男の元へ戻る。
「一刀? 荊州牧返してくれる?」
「ん。了解」
 そのやりとりに、そこここで、ぼそぼそと会話が交わされる。
「か、軽いですね、荊州」
「まあ、そんなものだろう。華琳様にもあやつにもな」
 たとえば、これは流琉と秋蘭。他にも同様の呆れたような掛け合いが交わされているが、そんなものは構わず、華琳は先を続ける。
「そういうわけで、荊州のまとめの地位が空いたから、司馬徽を荊州刺史にしようと思うのだけど」
「州牧ではなく、刺史、ですか」
「荊州は三国の領地が併存する結果になったわけだし、監察の意味からして、刺史のほうがよいのではなくて?」
 紫苑の疑問に回答を与え、彼女は、呉、蜀の大使たちに考えるよう促す。ふと一刀が見やると、もう一人の大使であるはずの美以が、恋の胸に頭を埋めて至福の表情を浮かべていた。
「うーん。水鏡先生って朱里達の先生でしょ? ひいきしたりとかはないのかな?」
「それはないでしょう。それこそ伏龍鳳雛を育て上げたいっぱしの名士として、そんなことをすれば、自らの名が地に堕ちることは承知しているんじゃないかしら」
「直に会った私の印象としても、そのようなことはないと考えます」
 桂花と冥琳という二人の軍師が請け負うのに、小蓮は指を顎にあてて、んー、と考え込む。
「まあ、穏たちの意見も聞かないとだけど……冥琳がそう言うならいいかなー」
「我が方としましても、ひいきされるとも思いませんが、水鏡先生の人柄自体は、弟子でもある軍師二人よりよく聞いておりますし、問題ないかと」
「では、いずれ本国とはかっていただくとして、両国とも仮に承知しておくということでよろしいですかねー?」
 風がまとめるように言うと、呉、蜀の大使三人はともに頷く。
「ええ、そうですわね」
「わかったー」
「では、司馬徽のところへは荀攸にでも行かせましょう。冥琳に紹介状を書いてもらって……」
 そうして、会議は進み、様々な事がさだめられていくのだった。


 4.薄氷


 その後、話は北伐自体の話に進み、たとえば北方の守備として残された霞と白蓮、凪率いる補給部隊、それに烏桓兵三千の話や、春になってからの白龍隊の東進と物資水揚げのための拠点作りの件などが話し合われ、次々と決まっていった。
 会議自体はまだ続く予定だったが、昼時となって一時的に解散した。その中で、一刀は雪蓮と冥琳、それに詠と食事を摂っていた。
 冥琳と詠が天宝舎に用事があるというので、その二人に雪蓮と一刀がつきあっている形だ。冥琳はもちろん自分の子供達を見に来たのだし、詠の目当ては大小も含めた一刀の子供達と南蛮の面々の面倒をみている月の様子をうかがうことだ。
 四人は子供達に挨拶したり、月としばらく歓談したりした後で、食事の用意された二階に上がり、腹を満たし始めた。
「魏は相変わらずね」
 雪蓮は小麦粉を薄くのばして焼き上げた餅(びん)――一刀にはせんべいにも見える――を二つ重ね、間にねぎの塩漬けをはさんだものをつくって食べ始める。
「あれが、大国の余裕というものだろうさ」
「ん……?」
 二人の会話に、肉を取り分けていた一刀がひっかかりを覚えて顔をあげる。残る詠は一人、他の面々の様子を眺めつつ、豆粥を食べている。
「んー、なんて言うのかな。強引ってのとも違うわね。ところで、これ、もしかして、熊の掌肉? 珍しいものあるわね」
「華琳殿の意志一つで、全てが決まっていく。その物事の決まりようの円滑さに、呉も蜀も口を挟めないのさ。普通の熊肉もあるぞ」
「あ、それ、流琉と季衣が今回の帰り道に偵察に出た時に獲ってきたんだよ。それはともかく、華琳は人の話はちゃんと……」
 四人は一刀が取り分けた肉を美味しそうに食べていく。
 行軍途中に邪魔となった熊は、仕留められた後で流琉によって適切な処理がなされていたため、ちょうど洛陽に戻る頃には食べ頃になっていた。掌の肉は味に厳しい華琳からしてみると少々熟成不足であったが、流琉の料理の腕を信頼することとして、今回の会議に間に合わせて調理するよう命じたのだ。
「うーん。そこじゃないのよねー」
 肉の味が気に入ったのか、雪蓮はぷりぷりとしたそれらを豆粥に放り込んでかき混ぜ始めた。粥と一緒に食べるつもりだろう。
「なんとも言えない圧力っていうのかなー。ああ、そうね」
 彼女は何ごとかに気づいたように、粥の中に浮いた肉をつっつく手を止めた。
「華琳は、かつて私――まあ、この場合は、呉の主ってことだけど――と桃香に、呉と蜀の地を任せ、自分が非道な王であると判断したならば、いつでも討ってみせろと言った。それは裏を返せば、呉、蜀、それぞれを任せられないと思えば、桃香も……いまで言えば蓮華も討たれるということ」
 言い終えて、雪蓮は豆粥の器を持ち上げて流し込みはじめる。顔の隠れた雪蓮のほうを見ながら、一刀は首をひねる。
「それは拡大解釈じゃないか……?」
「そうだろうか? いや、別に華琳殿本人がそう意識していたとは言わないがな。しかし、それを受け止める側がどう思うかは、また別だ」
 やわらかく煮られた熊肉をかみ切る感触を楽しんだ後で、冥琳は盟友の言葉を補足するように続ける。
「正直言うと、私たちもそれに気づいたのは最近なんだけど」
「うむ。国を離れたからこそ気づいたとも言えるな」
「でも、言葉にはしなくとも、意識には上らなくとも、その圧力っていうのかな。そういうのはずっと感じてたと思うわ」
 彼女は新たに胡麻をまぶした餅を手にとって、ぱりぱりとかみ砕いた後、にこやかに笑った。
「呉の王である時を振り返るとね、そんなことを思うのよ」
「だが、魏の側はそんなことはあずかり知らぬ事。意識するどころか、思いも寄らないだろう」
「そこに齟齬が生じるってわけ」
 鯉を揚げたものに塩をふりかけつつ、一刀は二人の流れるような言葉の連なりを聞く。雪蓮と冥琳は、そのつながりの深さからお互いの考えることがわかるのか、まるで一人の話を聞いているような錯覚さえ覚える。
「うーん」
「要はね、一刀」
 ぴっと指を一本だけあげて、雪蓮は歌うように囁いた。
「勝者と敗者ってやつなのよ」
 その言葉の重みを感じて、箸を置き、腕組みして考え込んでしまう一刀。しかし、そんな雰囲気を明るく、軽やかな笑い声が引き裂いた。
「あははは」
「詠?」
「無理無理。そんな話をこいつにしても、いきなり理解しろってのは無理よ」
 棗子――熟し切っておらず緑の皮をつけた棗を一つ手に取りながら、詠はまだ笑いを含んだ声で雪蓮達に告げる。
「あら、そう?」
「うん。そう。あのね、あんたたちよりもずいぶん早く敗者の立場になった身から言わせてもらうとね。敗者の追いつめられっぷりを勝者に気づけというのは、なかなかに難しいものなの」
 しゃくり、と詠は棗子にかぶりつく。彼女はりんごをかじるようにして皮のまま棗子を含む。梨に少し似た爽やかな甘さが口に広がった。
 それをごくんと呑み込んだ後で、詠は疑わしげに見てくる三対の視線に対した。
「ボクたちによくしてくれた桃香たちですら、自分たちが決定的に負けるまで、そこには気づいていなかったでしょうよ」
 詠は手についた果汁が触れないように手の甲で眼鏡を押し上げた。
「ましてや、負けたことのないやつに、理解しろっていうのはね」
 別に責めてるとかではないからね、と彼女は念押しをする。
「いい? 華琳はね、別に間違ったことはしていないし、言っていないの。まあ、北伐の理念自体をどう思うかは別の話として、後始末に関しては荊州も北伐に関しても妥当な判断を下している。それ自体は問題じゃない」
 しゃくしゃく、と果実をかじりながら、彼女は三人が自分の言葉を理解し、腑に落ちるのを待つ。
「雪蓮たちが感じている、大国の余裕っていうのはね」
「うん」
「その判断の一つ一つが通らないことなどありえないという魏の態度なのよ」
 詠はそう言い切って、最後に残った分にかぶりついた。
 心地好い甘み。べたつく指の不快さは、その甘みで十分報われる。
 けれど。
 目の前の男が、自分たちの言っていることを、この指に残った汁ほどにも理解していないことを、彼女は確信している。
 まして、本体であるはずのものを、思いやるなど。
 それは、彼が酷薄だからではけしてない。
 それは、彼が挫折を知らないからではない。
 それは、彼が誤っているからでも、ない。
「……いや、しかし、間違っていないのなら……」
「そう。正しい判断を正しいやり方で示す。それは責められるどころか称賛すべき態度だろう。しかし、それでも」
 冥琳の言葉を受けて、白面の女性は肩をすくめる。
 どうしようもないというように。
 自分でも納得できないというように。
「敗者にとっては、その正しさこそがまばゆいものなのよ」


 昼食後の会議は、北伐各軍の大将による報告からはじまった。右軍大将である凪が霞たちの補給部隊として北方に残り、真桜が涼州にいるため、右軍に関しては沙和がその任を果たした。
 そして、左軍の涼州における活動については、東進部隊が離れて以後の事は、麗羽や真桜、星たちからの報告によることになる――。


 5.居城


 その関は、武威から二百里ほど、張掖に至る道の途上にあった。
 道を進んできた彼らにとってはしばらく前から見えているものだったが、近づくにつれ、その姿がはっきりと視認できるようになってくる。
「ふぅん」
 一団の先頭で馬を進ませていた一人の女性が、馬上で伸び上がるようにして、それを観察する。比較的小さな背には不釣り合いな程大きな胸がその動作でぶるんと揺れた。彼女の服は元々露出が多いこともあって、周囲の部下の中でも男性陣にとっては目の毒だ。
 ただ、彼女がいかに元気でかわいらしく見えようと、それに対してなにか不埒なことを考える者はいない。彼女こそ、曹魏の工兵と兵器を司る李曼成なのだから。庶人から身を立てたとはいえ、いまや覇王の側近でもある将軍にそのようなことを考えるなど、兵達にとっては不遜に過ぎる。
 真桜は目を細めてその関を眺めやる。
 見たところ、両端に望楼があり、中央には望楼二つが並んで門を形作る。その間は城壁が巡らされているが、それほどの高さはない。ただし、馬に乗った彼女が仰ぎ見るほどはあるし、ただの土盛りではなく、きちんと煉瓦で形作られているため、その耐久性は十分だろう。
 函谷関や虎牢関のような巨大さや堅牢さは見受けられないが、街道の途上にぽつんとあるにしては規模の大きな関と言えた。
 彼女はひとしきり見定めた後で、斜め後ろを進んでいた工兵隊の部下に声をかけた。
「あんた、どう見る?」
 部下の女性は同じように観察していたのか、すらすらと答える。
「八つの投石機を見張り台、あるいは門として固定し、その間に日干し煉瓦で壁を作る。物資を無駄にせず、急造にしてはうまくやったものだと思います」
「ん。惜しいな。あれは日干し煉瓦やない。焼き煉瓦や。けど、どこにそんな燃料あったんやろ」
 自ら設計した移動式投石機が車輪を外されて基礎を埋められているのには釈然としないものはあるが、手頃な材料を使って、城塞とも言えるものをくみ上げたのは素直に感心できる。なにしろ、巨大な投石機だ。見張り台にも周辺への威圧にも十分に使える。拠点防衛にはもってこいだろう。
 さて、あの関の中はどうなってるんやろな。
 真桜は技術者としての期待と、どれだけ補給物資を要求されるだろうという将としての計算の狭間で複雑な思いを抱えながら、その関へと入城した。


 関に入ると、彼女は部下達を広場のようになった場所に待たせ、己は門番に聞いたとおり大天幕へと入っていった。
「どもー。輜重持ってきたでー」
 司令部になっているはずのその天幕の内側は予想外に人影は少なく、なにか書き物をしている者が端の方に幾人かいる以外には、中央の卓で杯を傾けている赤い鬼面の将がいるばかりだった。
「あれ、祭はんだけ? たいちょはどこ?」
 とことこと近づき訊ねかける。銀髪の武将は杯を高く掲げて歓迎の意を示すと、真桜の疑問に答えた。
「旦那様ならおらぬぞ」
「え、どしたん? まさか……」
「不吉な事を言うでない。ただ、まあ……華琳殿の中央軍が危ないという話でな。急遽そちらに向かっておる」
 顔を青ざめさせる真桜を笑いながらたしなめ、祭はくいと杯を呷る。酒やな、と今更ながらに思う真桜。
「なんや、そうやったんかー、って大事やんつ」
「うむ。しかし、一番足の速い騎兵が向かったのだ。あれが間に合わなければどうしようもない。もちろん、情報は回しておる。そもそも、それで主が来たのじゃろう?」
「あー、そやったんか……。んー。道理でなあ」
 元々、黄河大湾曲部をぐるりと周り、その周辺に拠点を建設中の右軍や、北方から戻ってくるはずの中央軍に補給を届ける任務を受けていたところへ、西進し涼州へ向かえと急に命令を変更されたのを不思議に思っていたのだが、事態の緊迫具合を聞いてようやく納得できた。
 おそらく、指示を下す中央もかなりの混乱を来しているのだろう。あるいは他の部隊を一刀や華琳の部隊の補助に回さざるを得ず、工兵隊が中心で比較的足の遅い真桜の部隊を涼州へ向けるしかなかったのかもしれない。
「急に涼州まわれいうからなにかと思たら……そゆことか」
 真桜は苦々しげな顔でぶつぶつと呟く。指示が変わる程度はいいが、その背後にある事が予想以上の変事だっただけに、彼女としても真剣にならざるを得ない。
 とはいえ、切り替えがはやいのも真桜という女性の特徴であり、長所でもある。彼女は一転普段の顔に戻って、じっと自分を見つめている仮面の将に訊いた。
「で、こっちは誰が残ってるん?」
「歩兵は全ておる。もちろん、それを指揮する将もな。あとは、蒲公英率いる騎兵がおる」
「そかー。せやったら、責任者は誰になるんかな? 祭はん?」
 その問いに、祭はさも当然のことのように答える。
「ああ、それなら、麗羽殿だな。なにしろ大将軍様じゃ」
「……え」
 絶句する真桜。
 それはそうだろう。魏の面々にとって、袁本初という人物は、侮りや面倒ごとの対象としか思われていない。
 はっきり言って、莫迦だと思われている。
 経緯を考えればそれもしかたないことだろう。なにより、普段目にしている『君主』というのが覇王曹操ではなおさらだ。
 祭はその様子に少し苦笑すると、真桜を連れて天幕の端に進み、布の一部をあげてみせる。窓となったそこからは、関の中央側がよく見えた。
「ほれ、あそこの櫓の上」
 門や望楼となっている投石機の二倍ほどの高さまで組み上げられた櫓の上、麗羽と猪々子、それに星の姿が見てとれた。
 その櫓は関に入る前から真桜も認めていた。なぜかてっぺんから轟々と炎を吐き出している姿を見て、なんでもったいないことしとるんやろ、と思っていたのだが……。
「……なあ。うちには酒盛りしとるようにしか見えへんのやけど」
 烽火台から三段ほど下がった見晴らしのよい場所で、三人の将は大きな杯を酌み交わしている。その様子はまさに宴会に他ならなかった。
「その通りじゃ」
「……どゆこと?」
 祭は覗き窓を閉じ、再び卓に戻りながら彼女は説明してみせる。
「降ればこのように贅沢ができるぞ、と敵に見せておるのじゃ」
「そないな……」
「主、この城に入る時、門を開けたか?」
「いや、門番はおったけど……」
 そう言われてみれば、門は開きっぱなしやった、と真桜は思う。まだ万全に支配が及んでいない地でのことともなれば、暢気の一言で片付くことでもない。
「開いておったじゃろう。全ての門が開いておるのじゃ。降兵を受け入れるためにな」
「……そな、あほな……」
 再び絶句する。
 関を築き、兵を駐屯させ、諸部族が降るのを待つというのはわかる。本来の主力部隊である騎兵が引き上げたというなら、余計にそうやって持久戦に持ち込むのは正しい方策だろう。
 しかし、門を開け、酒宴をしているなど、自殺行為にしか思えない。
「敵に囲まれた土地で、城の門を開き、降るのを待って酒盛りをしておる。並大抵の胆力ではないぞ」
「いや、そうなん? あれは……何も考えてへんのと違う?」
 さすがにおずおずと言う真桜。彼女としてもあまりのことに、思考がおいついていなかった。
「そうだったとして、じゃ。そんな相手にどう対せる? ただ攻め入ったでは惰弱者じゃ。特にこの涼州ではの」
 武を誇る者たちが丸腰相手に勝負できるわけがない。その主張は正しくはあるが、危ういのもたしかだ。
 それで負けてしまえば、ただの間抜けに過ぎない。
「四世三公、けして侮ってはならん。当人の頭など関係はない。血が、ああさせるのじゃ」
「はぁ……そないなもんかいなあ……」
「あの方を大将として残したのは旦那様じゃ。その判断はけして間違っていなかったと思う」
 そこでふうと息を吐くと、祭は身を乗り出して、真桜の耳元へ口を寄せた。うちのも大きいけど、祭はんらのは規格外やなあ、と腕にあたる肉の感触に感銘を受ける。
「それにな。もし間違っておったとして、儂らが間違っていなかったことにしてしまえば、それは正しい判断なのじゃ」
「肚ぁ、くくっとるゆうわけやな」
「そうじゃ」
 低い声。二人は互いに面白がるように、口の端を持ち上げて笑った。そこではじめて、ある種の了解が二人の間を通じ合ったのかもしれない。
「それにの。きちんと偵察は出しておる。関の外を常に、涼州騎兵が張っておるよ」
 ふうん、と頷いて、真桜は祭の対面にどっかと腰を下ろした。早速出てくる杯と、それに注がれた酒を受けとりつつ、声をひそめて彼女は話を続ける。
「で、ほんまのとこ、どうなんやろ? なんであれなん?」
「至極現実的な問題が一つ。残っておる面子の中では、元々独立勢力じゃったあの方が向いておる」
「あー、いくらなんでも馬家や蜀には指揮権わたされへん、か」
「呉にもな」
 皮肉げに笑って、祭は杯を呷る。真桜もつられるようにして、薄い酒を喉に通した。さすがに、昼間から濃い酒を飲むほどではないらしい。
「もう一つは人情の面じゃな」
「ん?」
「へまを打ったとて、華琳殿が罰せられぬのがあの方だけじゃからの」
「あー……」
 祭の言葉に頷いた後で、その裏側に気づいて、真桜は腕を組んで考え込む。
「……もしかして、万が一があっても、たいちょが全部ひっかぶるつもりなんかな? あん人も変なとこ強情やなあ」
「正直、気の回しすぎじゃと思うが」
 からからと、歴戦の将は主の気の遣い様を笑い飛ばす。
「大将軍殿は、十分よくやっておるよ。兵を減らすこともしとらん」
「ふうん。まあ、支配を進めるんやったら……」
 そんな風に話が進んでいる中、突然、天幕の扉となっている分厚い布が音をたてて開かれた。
 そこに現れたのは黒髪のおかっぱ頭。
 金色の鎧もまぶしく息せき切って走り込んできた斗詩は、真桜のことを認めると、ぱあっと顔をほころばせた。
「あ、やっぱり真桜さん」
「おや、斗詩。麗羽殿のお相手はもうよいのか」
「いえ、その麗羽様の言いつけで。真桜さんが来ていたら、呼ぶようにと。李の旗が見えたんで、いるんじゃないかと思って来たんですけど」
 斗詩は祭と真桜が座る卓の近くまで駆け寄ってくる。そのせわしいとまではいかないが気の張った動きを見て、なんや、この人だけ、妙に苦労してそうな気がするなあ、と思う真桜であった。
「うちに名指しで用事?」
「はい。麗羽様がぜひにご相談したいと。この関もまだ建築しきれていませんし、工兵長官の真桜さんなら、色々と話すことがあるんじゃないかと思います」
「あー、そうか。うん、わかった。あ、まずはうちが連れてきた兵達の落ち着く場所と、荷をどこに置いとくか教えてからにしてな」
 残っていた酒を一気に飲み干し、ぶんぶんと頭を振って酔いを振り払ってから、彼女は立ち上がる。
 そうして、にこにこと笑う斗詩と一緒に、真桜は外へ出るのだった。

 兵たちの居場所をひとまず確保してから、二人は櫓へ向かう。その途上、真桜は疑問に思っていたことを口にした。
「なあ、あれ、ずっと燃やしとるん? よう燃料保つな?」
「いえ、あれは勝手に燃えているんです」
「へ?」
 意味がわからない、という風情の真桜に、斗詩は苦笑いを漏らしつつ説明してくれる。
「水を確保しようと、いくつか井戸を掘ったんです。元々、このあたりに水脈があることは土地の人から聞いてましたから。それで、そのうちの一つ……麗羽様が最初に『ここですわっ!』って言ったところから、燃える水が出てきて……。放っておくと火がついて危ないんで、他で使って余った分に関しては、ああして櫓の灯りにしているんです」
「あ……そ、そなんや。……あれ、そういや、たいちょがそんなん探してたような……」
 北郷一刀が探していたもの、そして、麗羽達が掘り当てたものこそ、石油である。
 一刀は懸命に探しながらも、参考にすべき文献の多さから見つけられていなかったが、燃える水の記録自体は、実は古くからある。
 たとえば西漢――いわゆる前漢の史書である『漢書』には『高奴にイ水あり、燃ゆる』という地理志の記述がある。これはいくつかの字が欠落していると言われており、燃えるのは水上を漂う『肥』だという。
 また、別の書物であるが『博物記』には、酒泉郡で、肉の煮汁のようで凝固しない、脂肪のようなものが水上に浮かんでいることが記されている。石漆、あるいは水肥とよばれるこれを燃やすと非常に明るいことまで記されていた。
 最初にあった高奴は秦の置いた県であり、長安の北方ということになる。また、酒泉は張掖のさらに西北方にあたり、この関が置かれている場所は、高奴と酒泉のちょうど中程になろうか。
 古今の記述からして出るべくして出たものであるが、見つけたのが軍隊、それも主力の留守を預かる、燃料にも心細い集団であったことが、その利用を促す結果となった。
「煉瓦を焼きしめるのにも使ってるんですけど、なかなか温度があがらなくって。そのあたりの工夫も、真桜さんならなんとかしてくれるって工兵のみなさんが仰るので、ぜひ……」
「ああ、もう。不甲斐ない部下どもやなあ。そんくらい自分たちでできひんのかいな」
 真桜はいらいらと吐き捨てるが、斗詩はそれに対して困ったように笑う。彼女は麗羽の無茶な要求になんとか応えてくれている工兵隊の技術の高さに舌を巻いていたのだ。
「いえ、それでも、工兵隊のみなさんが、竹の管をつないで、余計なところに漏れないよう使いやすくしてくれてますから……。木材が貴重なので、燃料が自由に使えるのは助かってます。墨もとれますし」
 斗詩の表情を見て思うところあったのか、魏の工兵長官は苛立ちをおさめ、ふと思い出したように訊ねた。
「ところで、最初の目的の水は出たん?」
「あ、はい。麗羽様が次にここだって言ったところから」
 それを聞いて足を止め、大きくため息を吐く真桜。彼女は相変わらず酒盛りの続く櫓を見上げながら、嘆息のように言葉を押し出した。
「……なあ、あんたんとこの大将、もっとええとこで運を使われへんの? 官渡とか……。まあ、そしたら、うちらが困るんやけど……」
「あははー」
 私もそうしてほしかったんです、とは口が裂けても言えない斗詩であった。


 6.袁長城


「結局、一月の間で、小部族が三つ。まあ、一兵も損なわなかった結果としてはまずまず、と言えますかしら?」
 諸将を集めた席上、麗羽はそう切り出した。
 場にいるのは、北伐左軍居残り組の将全員と、先頃補給にきてから留まっている真桜だ。
 実を言うと、普段の会議に全員が集まるのは珍しい。唯一の騎兵の指揮官として、あるいは馬家の顔として、偵察や交渉を含めてほうぼうに出向く必要がある蒲公英は、あまりこの関に腰を落ち着けてはいられないのだ。
「お姉様たちがいない状態だし、十分じゃないー?」
「うむ、十分じゃろう。なにより、旦那様方に必要な時は稼げましたからな」
 他にもいくつか賛同の声が出たところで、麗羽はその厖大な量の金髪を振りたてながら立ち上がり、その手を大きく掲げて、美しい――とおそらく本人が信じている――姿勢をとった。
「では、そろそろ、袁家の戦、第二弾を始めますわ!」
「……これ以上なにかするのー?」
 誰も聞き返さないので、しかたなく蒲公英が訊いてみる。誰もが、これ以上は特に必要ないのではないかと思っていた。なにしろ、こちらに残った者の使命は、現状の支配域をしっかりと確保することなのだから。
「ええ、もちろん。まさか、私が無為に遊んでいたと思っているのではないでしょうね」
 祭は、そう思っていた。
 少なくとも、門を開け放ち、相手の降伏を待つという策を講じた後はなにも考えてはおるまいと思っていたのだが……。
 後から来た真桜はともかく、それを除く全員がほぼ似たり寄ったりの考えであったろう。
「真桜さんとお話して、このような図面をひいてもらいましたわ」
 彼女は卓の上に大きな地図を広げる。そこに描かれているものを見て、誰もが絶句した。
「これは……」
 兵によって壕を掘り、それを線としてつなげ、そこに城壁を建て、支配域をじわじわ広げていく。
 単純に言えば、それはそのような作戦だった。
 だが、規模が桁違いだ。
 関を作る程度なら、まだいい。
 しかし、百里近くの距離を離して、延々と二本の城壁による線を描くというのはどういうことだろう。
「城ですわ」
 理屈は簡単だ。
 支配域を丸ごと囲い込む。都市という点をつないだ線ではなく、城壁に囲まれた長大な面をもって。
 ただ、その巨大さがあまりに想像を超えていた。
「ちょ、これって、何年もかかるよー?」
「それでよろしいのですわ。一年ですまなければ十年を、十年ですまなければ、百年をおかけなさい。そうして、この地に支配を及ぼせば、自然、人は集まりますわ」
 有名な大規模建築として、長城と呼ばれるものがある。それは、見張り台であり、境界を示すものだ。
 しかし、これは違う。
 中華と蛮夷の土地と分ける区切りではなく、ただ、己の支配する地域を示すもの。
 草原も、荒野も、人の住む土地も、街道も。全てを内側に含み、そこに住む者を守る。
 そんな宣言。
「実際は十年もかからへんよ。壁自体はそんなに高う詰まへんし、内側に街をつくることもせえへんしな。うちの計算によれば、ここと敦煌を結ぶのに、二年もあれば十分やろ」
「と、敦煌までこれをつなげるだと!?」
 それまで面白そうに笑みを浮かべていた星が、さすがに驚いた声をあげる。その様子に逆に驚いたらしい蒲公英に見つめられて、星はごほごほと咳払いしていた。
「ええ。そうすれば、そこを拠点に支配を広げていけますでしょう? うっとうしい騎兵と戦う必要もありませんし、楽な話ではありませんの」
 ああ、と祭は思った。
 これが、四世三公だ、と。
 彼女は、人々が自らの指示に従うことを疑いもしていない。そして、その苦労を考えてもいない。
 ただ、そこに出来る実りだけを見ている。
 それは、一見、無慈悲でわがままな支配者の姿に見える。
 しかし、民に果実をもたらすならば、民は苦労などいずれ忘れてしまうものだ。前線で必死で壕を掘り続ける兵士も、それができあがることを考えれば、作業を拒否はしないだろう。なにより、騎兵に向かって死にに行けと言われるのではないのだ。
 それは、歴代の袁家の血が言わせるのだろうか。
 否、これこそが、彼女の言う『華麗な』戦いなのだろう。
「我が君の騎兵が戻ってくればまた別ですが、それにしたって、それまでに少しは広げられるでしょうし。拠点はぱーっと広い方が気持ちいいじゃありませんの」
 最後が本音だな。
 皆は一様にそう思ったが、さすがにそれをそのまま口にする者はいなかった。
「……ま、悪い策ではないですな。作業を終えれば、各部族が騒いでももはや攻め入ることは不可能でしょう。規模とかかる金を考えなければ、と注釈をつけさせてもらうが」
「でも……ちょっと、これ……大変だよー?」
 星が消極的賛成、という風に言うのに、涼州をいずれ支配する側に回る蒲公英はどうしても納得できない。
「当たり前ですわ。大変ではないことなど、この世にそうそうありはしませんのよ。馬家のおちびさん」
「いや、そういうことじゃなくて……」
 なんで自分が言い負かされてるみたいになっているのだろう、と真剣に悩みつつ、蒲公英は言いつのる。
 麗羽は真桜に視線を向け、工兵部隊の長はそれを受けて、詳しく説明を始める。
「知っとる思うけど、ここらには武帝時代の長城が残っとる。土塁くらいしかあらへんけど、そこをうまく補修しながらつなげていったら、北側はなんとでもなるんよ。南は一からやけどな。でも、放棄された要塞やらを……」
 地図の上に指で線をひきつつ一通りの説明を追えて、真桜は肩をすくめた。
「それに、あかんかったらたいちょが帰って来て、止めるやろ。それまでは、まあ、この関を拡張する思て進めといたらどうやろ?」
「冬の準備を含めて、関の整備は必要じゃが……」
 ううむ、と仮面の将がうなる。
「どっちにしろこれ以上兵を遊ばせておくのは危ないんだよなあ」
「うん。関を作ってから後は、蒲公英ちゃんの部隊しか動いていないしね。働かせすぎるのも問題だけど、手持ちぶさたにしとくのも……」
 猪々子と斗詩は、歩兵達の士気や目的意識のことを言っているのだろう。実際にできあがるかどうかはともかく、働かせている状況をつくるのには賛成ということだ。
「……費用は?」
 蒲公英が諦めたように訊く。主将が提案し、周囲の将もそれなりに賛成となれば、これ以上蒲公英一人が反対してもしかたない。しかし、涼州を預かる予定の馬家の一員として、厖大な出費をおわされるのだけは勘弁願いたかった。
「煉瓦積みだけなら、それほど必要としませんわ。補強用の木材が多少必要ですが、馬止めの柵の一部を解体して……」
 麗羽が自信満々に滔々と喋りだし、これによって後に袁長城と呼ばれることになる大規模建築の建設が決まったのだった。


「……とまあ、こんな感じらしい」
 一刀によって涼州の報告が行われた後、そこにあったのは覇王が頭を抱えるという世にも珍しい光景であった。
「……麗羽……」
 ひくひくと頬をひきつらせながら、なんとか顔をあげる華琳。その鬼気迫る様子に、誰も言葉を発することができない。だが、周囲からの視線の圧力に負け、まだ立ったままの一刀が華琳に声をかけた。
「ま、まあ、悪いことをしているわけじゃ……」
「わかってるわよ!」
 強烈な一喝を受け、びしっ、と姿勢を正す一刀。
「でもね、私は人足を派遣したわけじゃないの。兵を出したの!」
「そ、それはそうなんだけど……」
 ふー、ふー、と怒った猫のような息をあげていた華琳だったが、さすがに考え直したのか、軽く首を振って深く自分の席に座り直す。
 それから桂花の差し出したお茶を一気に飲み干して、翠へと向き直った。
「実際、どうなの。翠、これは涼州支配に効果のあるものかしら?」
 んー、と頭をがしがしとかきながら、翠は一刀が出した報告書を読み直している。
「これって……要するに、涼州という土地に回廊を敷くようなものだよな?」
「ええ、そうなるかしらね」
「うーん、いや……どうかな。まるで効果がないわけじゃないと思う。長城自体は、敵が来るのを察知するのには役立ってきたし、長城が二本あると思えば……。内側の街や部族には悪くない」
 西涼という国をつくることを考えれば、異民族対策は必ず必要となる。今回のように兵を進めて統合をつくりあげたなら、反発はさらに高まる可能性もあるだろう。警戒は必須事項であった。
「ただ、もちろん、内側をこっちが支配している前提だし、人手がずいぶん必要になるから……」
 そのあたりの計算は自分にはお手あげだ、と翠は肩をすくめてみせた。
「ふうむ……」
 華琳はついで三軍師に意見を聞こうと視線を送ったが、その前に、すっと一つあがる手があった。
 その細く白いたおやかな腕の持ち主に、皆の注目が集まる。
「ちょっとよろしいかしら」
「ええ、どうぞ、紫苑」
「この真桜ちゃんの試算は、おそらく蜀の兵を含めて二年ということだと思うのだけれど、さすがにわたくしどもとしては、二年も涼州に兵をはりつけておくというのは厳しいですわ。最初から予定されていたならともかく……」
「部隊を直接指揮するワタシとしても、そこまで長期となると話は別だな」
 紫苑の懸念に、焔耶が同意する。彼女の部隊は、現在星に指揮がうつされてはいるが、今後も部隊が涼州に留まるとなれば、焔耶自身も二年もの間、蜀を離れざるを得なくなる。それはできれば避けたい事態であった。
「そうね。それもそうだわ」
 華琳は頷くと、猛然と何ごとかを書き付けて計算している稟と風へと視線を送る。その中で稟が先に顔をあげた。
「こういうのはいかがでしょうか。現状、すでに建設がはじまっているらしいのは、武威と張掖の間です。そこで、まず武威と張掖間の五百里ほどだけを完成させ、一つの拠点とします。これならば、予定通り春には蜀の兵を戻して問題ないでしょう。また、同時に騎兵部隊をもって、その先の敦煌までを制圧し、西涼を形作ります。早ければ来年の夏の初め、遅くとも夏中には……」
「風の計算でも夏の終わりにはなんとかなる、と出てますねー」
 稟の進言を補強するように呟く風。華琳は次いで一刀の方へ向き直った。
「で、一刀?」
「そうだな。いきなり止めさせても逆効果だろうし……いいんじゃないかな。霞たちがつぎ込めない分、拠点は必要だろうからね。翠と詠はどう思う?」
「あたしは問題ないぜ」
「んー。まあ、いいと思うけど、ずっと麗羽たちをあっちにやっておくの?」
 一刀の問いに、翠はその深い葡萄酒色の瞳を輝かせ、詠は眼鏡の奥の瞳を物憂げに揺らした。
「そうね、そのあたりは考えましょう」
 華琳がそう答え、その問題が幕を閉じた。
 全ての報告が終わったことで華琳は立ち上がり、皆に向かって手を広げた。
「さて、これで現状の把握は皆できたと思うわ」
 他になにか議題があるものがいるかどうか、彼女は一人一人の顔を見渡す。しかし、反応する者はいない。すでに定めるべきは定まり、継続すべきものは継続すべきと決まっていた。
 そこで、華琳は一つ息を吸った。すぐに張りのある声が部屋中に響き渡る。
「我々は危ういところで五胡を退け、二ヶ月ほど後にはまた新たな年を迎えることができるようになった。問題は様々あるが、三国が力をあわせれば、解決せぬ危機はいまやない」
 魏の覇王、大陸の覇者はそこでふっと微笑んだ。
「まずはこの今を祝いましょう。そして、明日のために、これからも皆の力を貸してくれれば嬉しいわ」
 そして、彼女の意を受けた春蘭が宣言して、会議は終わりを告げるのだった。
「では、解散!」


 7.去来


 ぶぅんぶううん。
 巣箱の周囲を、羽音をたてて蜜蜂たちが飛び回る。冬越しに備え、まだ咲いている花を必死で探しては戻って蓄えているのだ。
 美羽と七乃は、恋の屋敷から摘んできた花を蜂たちが見つけやすいような場所に置いて、彼らが蜜をとろうとする様をじっと観察していた。
 その少女の視界の隅に、見慣れた立ち姿が入った。彼女の注意は蜂からすぐにその男へと移る。
「んや、一刀ではないか」
 最近では珍しく『ぽりえすてる』を着込んだ天の御遣いを見つけ、駆けだした彼女の小さい体を、七乃の手が止めようとして見事にすりぬけられる。
 しかし、次に横合いから出てきた赤い着物の腕には絡め取られてしまった。
「やめときなさい。見送りくらい邪魔しないの」
 抱きすくめられ、むぎゅう、と変な声を出した後で、彼女は自分を抱き留めている女を見上げて、その名を呼んだ。
「む、伯符」
 その白い鬼面を認めた途端、美羽はぱっと飛びあがって彼女から離れる。だが、それ以上逃げ出すでもなく、蜂蜜色の髪をした少女はその場で留まり、七乃の方が寄ってきた。
「で、見送りとはなんじゃ? 誰ぞがどこかへ出かけるのかや?」
「蜀の大使二人が一時帰国するのさ」
 これに答えたのは、雪蓮の後ろから出てきた冥琳。その手には二人の赤ん坊がしっかりと抱かれている。どうやら眠っているようで、二つのおくるみはすーすーと息をたてながらゆれていた。
「ふうむ、蜀の面々は帰るのか」
「そうみたいですねー。焔耶さんは残るらしいですけどねー」
「そちらの末妹は帰らんのか? 伯符」
 にこにこと笑う七乃の言葉を聞いた後で、小首をかしげて美羽はかつての客将へ問いかける。
「シャオは残るわよ。どうせ戻ったってとんぼ返りだもの」
「厳顔、黄忠もそれは変わらんがな。ただ、蜀は呉王への正式な引き継ぎを見に来るだけなのに対して、呉のほうはその準備で大わらわだ。帰っても邪魔にされるのに帰ろうとはせんよ」
「なんじゃ、そういうことか」
 納得したように頷く美羽。
 この夏に――いままさに目の前に立っている――孫策が死んだことにより、呉王は妹である孫権へと移った。しかし、それはあくまで臨時的な措置であり、また、それ以外の官位などは以前のままだ。
 そこで正式に呉王の地位と、それにふさわしい漢の官位をもらうために、呉王孫権はじめ呉の面々は正月には上洛することとなっているのだ。たしかにそんな状況で呉に里帰りしても邪魔になるだけだろう。
 一方の蜀も呉王就任の儀を確認するためにも洛陽へ来る予定であったが、当事者ではないために余裕がある。桔梗、紫苑共に子を連れて帰るのはそのためだろう。
「あんたたちも馴染みの場所に寄ってくればよかったのに」
 荊州問題の後こっそりと呉に帰っていた雪蓮は、さっさと洛陽に戻った二人にからかうように声をかける。それに対して七乃は困ったような笑顔を浮かべるだけだったが、美羽のほうは怒ったようにその柔らかく丸まった髪を振った。
「ふん、あほらしい。妾たちにとってはすでにここが家じゃ」
 へぇ、と呆れたような、感嘆のような、どちらともとれる声を漏らす雪蓮。彼女が重ねて問いかけようとしたところで、新たな声が割って入った。
「残念ながら、お二方は、腰を落ち着けていられるのもこの冬までですよ」
「稟?」
 白面の将の言葉通り、そこにいたのは魏の三軍師の一人、郭奉孝。彼女はくいと眼鏡をあげ、その瞳を反射で隠し、淡々とこう告げた。
「袁術殿と張勲殿には、北伐左軍第二陣の主戦力となっていただきます」
「わ、妾たちが主戦力じゃと?」
「あははー、また冗談をー」
 度肝を抜かれたらしく固まっている美羽に対して、七乃の方はすぐに笑い出した。かわいらしい仕草で稟に手を振って、けらけらと笑い続ける彼女だったが、稟がずっと黙りこくっているのにだんだんと笑い声が小さくなっていく。
「……って、冗談で……す、よ、ね……?」
「よろしいですか?」
 表情をまるで変えず、落ち着いたところで声をかける稟。
「うわー、お嬢様、あの人本気ですよ、本気!」
 七乃は美羽に抱きつくようにしてそう言うが、もちろん相手は構うことなく話を続ける。
「主戦力、といってもあなたがたに戦の矢面に立ってもらおうという話ではありませんから、ご安心を。簡単に言うと、土木工事の指揮を執っていただきたい」
 ああ、と雪蓮と冥琳が揃って頷く。
「袁家のもう片方のおかげで、現在涼州の北西部には袁長城と言われる巨大建造物が建築中なのは、すでにご存じのとおりです」
 淡々と進める稟だったが、指名された主従はぼそぼそと聞こえないように――と二人だけが思っている――会話を交わしている。
「……そうじゃったかの?」
「こないだ、会議で言ってたじゃないですかー」
「あーあー。派手好きの麗羽らしいやつじゃな。うむうむ」
 ああ、得意がるお嬢様、かわいい。七乃は場違いとわかっていながらそんなことを思う。
「お二人にはこれを完成させる任務を担っていただきたい。実戦部隊は、引き続き騎兵が務めますので」
「えーと、麗羽様でなにか問題でも出たんですかー? あの人、おおざっぱですから、なんか変になってもおかしくないですけど、斗詩さんがいますよねえ」
「あなたの評価はともかく、袁紹殿は特に失点は犯しておりませんよ。……ただ、北伐左軍は予定にはない行動をとり、かつ歩兵のみが取り残されて、かなりの緊張状態を強いられたこともあって、一時休養をとらせたいのです。それで、第二波にはあなたがたを、と」
 それを聞いて、主従は――今度は本当に聞こえない声で――やりとりを始める。しばらくしたところで、美羽が振り返って、稟に訊ねた。
「一刀たちはどーするのじゃ?」
「一刀殿は洛陽とあちらを往復しつつ、総指揮を執る形になる予定です。西涼の馬一族には申し訳ないですが引き続き奮戦してもらわねばなりません」
「ま、そこらへんはしかたないわよねー」
「張遼と白馬長史は北にいるとして、残りの各騎兵は?」
「彼らはできあがっている部分の袁長城で休養をとりつつ戦うことになるでしょう。馬を休ませるには、あちらの土地柄の方が……」
 仮面の将二人と稟の会話を、美羽と七乃はじっと聞いている。雪蓮たちは自分の興味を満たしているだけだろうが、それがちょうどいいことに美羽たちへの理解を深める役にたってくれていた。
「工兵長官の真桜もいますから、工事の遂行能力自体に問題はないはずです。ただ、細々とした調整ややりくりに忙殺される人間が必要というわけです」
「……聞くからに面倒そうじゃー」
「あのー、お嬢様も私もそういうのあんまり好みじゃ……」
「お引き受けになりませんか」
 稟は再び眼鏡をくいとあげた。その黒手袋をはめた腕が、鞭のようにしなって振りおろされる。
「その場合、一刀殿と詠殿が建設監督にあたることになり、その分のお仕事をお二人にしてもらうことになりますが、それでよろしいですか?」
「う、それは……」
「念のために訊くのじゃが、一刀たちの仕事というと……」
 彼女の言葉に冷たいものを感じた七乃が怯えたように呟き、美羽がおそるおそる疑問を呈する。
「まず急ぎの仕事といえば、一刀殿配下の武将の論功行賞を行い、これを各人に認めさせること、あとは蜀、呉との折衝、降った部族の処遇、袁長城のそもその予算の確保、材料確保、掘り起こした部分を利用しての屯田事業、客胡との交渉、西方諸国の情報収集、西涼建国のための人材確保をはじめとした下準備全般、張三姉妹の世話、それから……」
「あー、いいです。まず最初が無理です。どうやっても無理です」
 口からあふれ出るように始まり、どうやっても終わりそうにない言葉の羅列に頭がくらくらするような心地を感じつつ、七乃は何とか遮った。だいたい、自分たちの権限では出来ないことが当然のように含まれている。
「まあ、春からのことです。一刀殿ともよく相談して、うまくやってください」
 それだけ言って、くるりと踵を返す稟。仮面の二人はにやにやと、仕事を言いつけられた二人は黙ってそれを見送ることしかできない。
 振り返りもせず立ち去った稟が視界から消えた後、美羽と七乃はお互いに寄りかかるようにして抱き合った。
「うう、面倒そうじゃー」
「ま、まあ、戦わないなら、まだ……。えっと、ほら、現場で働くわけでもありませんし」
 しかし、そんな二人に笑いを含んだ激励の声がかかる。
「がんばってねー」
「うむ、がんばってくれ」
 くすくすと笑う雪蓮と、明らかに笑いをこらえようとしてできていない冥琳。黒白二人の言葉を受けて、美羽は腕を突き上げ、黄金の髪を振りたてて抗議する。
「だいたい、なんで伯符らではないのじゃ! 妾たちよりずいぶん向いておろうが!」
「ほら、私たち死んでるからさー」
「死人だからな」
「ああ、もう都合の良い時だけ、死んだなどと!」
 美羽はそのかわいらしい顔を天へと向ける。大きく空を抱き留めるように腕を広げ、彼女は叫ぶ。
「理不尽なのじゃー!」
 そうして、珍しく正当な怒りの声が城内に響き渡るのだった。



     (玄朝秘史 第三部第十五回 終/第十六回に続く)

 [戻る] [←前頁] [次頁→] [上へ]