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261 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/05/30(日) 23:14:49 ID:CWDMlelc0
お久しぶりです。一壷酒です。しばらく間が空きましたが、玄朝秘史第三部 第十四回をお送りします。
一応、予定していた三十日に滑り込めましたね。遅くなって申し訳ありません。
次回は麗羽様回の予定。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・恋姫キャラ以外の歴史上の人物等に関しては、名前の登場はあるものの重要な役割はありません。
・呉勢以外の一刀の子供が出てきます。こちらは多少の役割を担います。
・物語の進行上、一刀の性的アグレッシブさは、真より上になっています。これでも無印程ではない
と思います。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写もあります。
 また、あわせて、http://ikkonosake.kuon.cc/faq.htmlなどもご参照ください。
 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。

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◎更新予定
第15回:六月十二日



玄朝秘史
 第三部 第十四回



 1.緒戦


 机上の論理のみで考えるならば、この時、単于軍は新たに現れた騎馬集団を無視して、予定通り突撃を敢行すべきであった。
 中央軍を軽く削った後で、彼らから見て左方――東側へと大きく旋回し態勢を立て直す。そうすれば、多少の犠牲を払いつつも両者に改めて対峙することが可能となる。騎馬軍、歩兵軍それぞれに戦力をあてることも、一度退いて再戦を狙うことも出来たろう。
 しかし、戦場でそれを考えつくのはもちろん、実行するとなると、これはやはり空論と言わざるを得ない。
 予想外のことが起きた時、人は本能的に身をすくませる。動かないことで危険が過ぎ去るのを待つのだ。その本能は武術の鍛錬などを通じて克服されていくが、あまりの驚きに、学修によって築き上げられたものが突き崩されることがままある。この時、単于軍の一般将兵を襲ったのは、それに十分な驚愕であった。
 もちろん、単于軍とて西北から騎馬の集団が近づいていることはわかっていた。しかし、それを北伐軍側の増援だと誰が思うだろう。漢人といえば南から来るもの、西や北から来るのは同族とは言わずとも言葉の通じる存在、という彼らの常識が、その判断をさせなかった。
 そして、馬上の身がすくめば、人馬一体の境地に達している胡族の馬はどう反応するか。
 突然の援軍の襲来は、実際の矢の効果よりも敵を動揺させ、結果としてその乗騎にも動揺を波及させた。招かれるのは、突撃速度の如実な低下という致命的な事態。
 左軍も中央軍もこれを見逃すわけはない。中でもそれをはっきりととらえていたのは、彼らの間近に迫っていた春蘭であった。
「夏侯惇隊! 右翼に回り込むぞ! やつらを左軍の正面に釘付けにする!」
 この速度ならば第一波を止められる。そう判断して、部下に新たな指令を下す春蘭。彼女は、一刀の軍とあわせて敵を両側から挟み込む壁を作り上げるつもりだった。
「突撃の勢いのまま陣をつくれいっ!」
 ある意味むちゃくちゃな命令も、部下達にとっては慣れっこだ。彼らは将の言葉通り、突撃する勢いで走り込むと、楯を大地に突き立て、槍を構え、ずらりと陣取りはじめた。
 馬上からその様子を眺めていた風は、視線を斜め方向に動かして、丘の上に翻る旗の数々を見、そして、もう一度戦場を確かめるように見直した。
「華琳さま」
 視線は茫洋と戦場全体に分散させたまま、傍らの王に語りかける。しかし、その相手は半ば呆然としていて、彼女がもう一度名前を呼ぶまで反応しなかった。
「華琳様」
「あ、ああ、うん。なにかしら、風」
 頬が緩むのをなんとか抑えつけたような奇妙な表情で、華琳は軍師を振り返る。その最中にも騎馬軍の動きを視線の端に捉えている華琳であった。
「流琉ちゃんの親衛隊を壁として、残りの部隊に流形陣をとらせます。春蘭さまが右で足を止めて相手を押しとどめる様子ですので、そこにつなげるようにしたいんですが、よろしいですかねー?」
 それまで中央軍は親衛隊と春蘭の決死隊を除いた大部分の兵は方円陣を形作っていた。相手の突撃を受け止めるには強固な陣だが、左翼に強力な騎兵部隊が現れた以上、それを続ける必要もない。流形陣は視界が広く、射撃に有利な陣だ。左軍の突撃を矢で援護するには最適だろう。
 華琳はぐるりと戦場を見渡し、頷いてみせる。
「ええ。いいでしょう。一刀の作ってくれたこの好機、生かしてやらないとね」
「では、流琉ちゃんに伝令を出します。同時におにーさんにもなんとか連絡をつけるべく努めてみます。華琳さまは本陣の指揮をお任せしてよろしいですかねー?」
「わかったわ。風。存分にやりなさい。ああ、それと、陣形が組めたら、親衛隊を半分下げて。季衣に後ろを守らせるわ」
 その指示に、風はほむーと奇妙な声をあげた。
「後ろですかー?」
「ええ、一刀達の後衛部隊もいるはず。それを迎え入れてあげないと。それに、我が部隊も負傷者が出るでしょうし、その対処も必要よ」
 これまでは、総力戦であり、後衛を作って悠長に構えている余裕はなかったが、一刀たちの乱入で戦の流れは明らかに変化している。後衛をつくることで軍全体の粘り強さを高める算段であった。
「わかりましたー」
 風は頷き、指示を下すべく離れていく。それを見送る華琳は、ようやく表情を引き締めていたが、それでもその唇に淡く笑みが乗るのだけは止めることが出来なかった。
「まったく、一刀ったら」
 覇王の呟きは戦場の喧騒の中、誰にも聞かれることなく消えていく。


 一方、丘の上では、北郷一刀が周囲の兵達を鼓舞し続けていた。
「撃ちまくれ! 後のことなど考えるな。全て撃て! ここまでの苦しみを全てぶつけてみせろ!」
 その横で戦場を観察していた詠が、彼の言葉が途切れたところで話しかけてくる。
「右の部隊が動きを止めたわ。壁になるつもりじゃないかしら」
 詠の指さす先を見つめて、一刀は得心したように頷く。
「春蘭だな。ほら、あそこで指揮している」
「そう。夏侯元譲ならやりとげてくれるでしょうね」
 よく見えるわね、と詠は感心する。いかに高地に陣取っているとはいえ、彼女の視力では軍そのものの流れを見ることは出来ても、個人個人を見分けるのは難しい。
 だが、次に彼女は考え直した。考えてみれば、この男が視力だけで見分けているかどうかは怪しいものだ、と。
 びゅんびゅんと風を切る音が間断無く続く。それは、馬上に位置する騎兵達が放つ矢の雨だ。だが、男は頭上を飛んでいく矢を見上げながら、憂慮するように頬をゆがめた。
「そろそろ矢が尽きるか」
「ええ、もう長距離用の矢はなくなるわね」
「そろそろ突入すべきか。しかし、どうすべきかな?」
 眼下で矢を受け続ける敵の騎馬部隊全体を示すようにして、詠に訊ねる。彼女はこの戦場に到達する遥か前に、いくつかの攻撃案を前もって提示してある。あとは一刀が選ぶだけなのだが、もちろん、そこで助言をするのも軍師たる彼女の役割だろう。
「相手の方が数が多い。とにかく分断すべきね。そして、少なくなったところを、中央軍と一緒にすりつぶす」
「わかった」
 思案気に、男は顎をなでる。背後に控える幾人もの将たちを振り返り、彼は、一つ頷いた。
「華雄! 恋! 敵後背に回り込め! 白蓮! 二人が切りひらいたところへ白馬義従を突撃させてくれ!」
 その命は将たちへの指示であるとともに、麾下の兵へしっかりと敵をわからせるための言葉でもある。
「応!」
「……行く」
「了解!」
 三人の将はいっそ朗らかにそう答える。すぐさま動き出す黒と赤と白の旗。一刀は残る二人に向き直る。
「翠! 霞! 敵の横っ腹にぶつかるんだ。食い破り、突き抜けろ!」
「おうさ」
「やってやるぜ」
 それから彼は大きく息を吸い込むと、風切り音に負けないようしっかりと声を放った。
「全部隊、突撃せよ! 三千里を駆けたその脚を、いまここで見せてやれ!」
 兵達の精神は飢えていた。なにしろ、ずっといつ果てるとも知れぬ進軍をさせられていたのだ。今日も明日も明後日も走り続けるという生活は、慣れていたとしてもなかなかに辛いものだ。
 だが、もはや戦場となれば、あとは敵を屠るだけ。ある意味、彼らは突撃できることに安心していた。
 だから、一刀のその命に答える兵達の喊声は、ある種歓喜の色さえ帯びて、大地を揺るがすのだった。


「……わかってるだろうけど」
 部隊が動き出し、周囲には母衣衆だけになった段で、詠は声をひそめて念押しした。
「うん。敵が動揺している間になんとかしないと。みんなが相手をぶつ切りにしてくれれば……」
 一刀は自身の体の奥底にある倦怠感を確認しながら頷く。凄まじい距離を駈けてきた兵たちに蓄積した疲労は、少し休んだ程度では回復しない。現在は戦場の高揚と生存本能が感じないようしてくれているが、確実にそれは存在しているのだ。
 だからこそ、詠は今回の奇襲を成功させることに腐心したのだ。たとえ戦場にたどり着くのが遅れようとも、相手の意表を突き、つけいる隙を作り出すこと。そうすることで、ようやく疲弊した兵達と敵は同等に戦える。
 その策は図に当たり、一刀達は有利な位置さえ占めることが可能となった。それでも、長期戦に持ち込まれれば、危ういのはこちらなのだ。
「ともかく士気を保つ事よ。一度崩れれば、もう動けないわ」
 一度でも士気を崩壊させてはいけない。
 それは、兵や馬の動きを確実に鈍らせ、疲れを自覚させるから。
「うん」
 厳しい顔で同意する一刀に、しかし、詠は安心させるように不敵な笑みを見せる。
「まあ、とはいっても、しばらくは士気は落ちないだろうけどね」
「ん?」
「考えてもみなさいよ。窮地に陥っている仲間を助けに颯爽と現れる」
 彼女はそこで言葉を切り、ふふんと鼻を鳴らして見せた。
「誰もが一度は憧れる状況じゃない?」


 2.突撃


 黒龍隊、赤龍隊、白龍隊の三隊は全体で鋒矢の陣形をとっていた。ただし、軸の部分は白龍隊で最も数が少ない。両翼に広がった黒龍、赤龍で穴をうがち、そこに白龍を貫き通す戦術であった。
 その鏃の中心となる先頭を二騎が走る。
 右を走るは勇将華雄。
 左を走るは飛将軍呂布。
「奉先」
 馬を操り、金剛爆斧を突き出すように持ちながら、華雄は隣を走る恋に語りかける。
「……ん?」
 恋はこくと首を傾げつつ答えた。気負いも緊張もまるでない風情。方天画戟さえ、まだ背に担いだままだ。
「文和の言っていたこと覚えているな?」
「ん。……頭を落とせば、いい」
 軍を整え直し、戦場まで駆けてくる前に、詠が武将達に話していたことがあった。五胡に共通する特徴として、指導者への依存が強いことを彼女は指摘したのだった。
 中原国家の軍と違い、北方騎馬民族の軍団は部族ごとに編成されていることがほとんどだ。つまり、軍隊としての明確な組織ではなく、生活集団のなんとはなしの上下関係で動いている。
 そのため、将の役割を果たす部族長――大人と呼ばれることが多い――が倒された場合、指揮を引き継ぐことが出来ず、一気に瓦解する可能性が高い。
 いかに予期せぬ援軍の出現で乱れているとはいえ、数の多い騎兵の群れを真っ向から相手にするのは厳しい。
 故に、頭目を狙い、その部族の撤退を促すのが手っ取り早い。勝ち目が無くなれば無くなるほど撤退する部隊は増えるだろう。
 なにより、この部族連合をとりまとめている一番の頭――詠たちは知らないが、華琳たちが認識しているところの上天単于――を倒せれば、この軍自体が退くことも考えられるのだから。
「だが、それまでにだいぶ兵も倒さねば話にはなるまい。我が隊は、まず兵をすりつぶすのに注力する。お前は頭を探すことに集中しろ」
「……ん。わかった」
 こくり、と頷く恋。赤髪の飛将軍はようやくのように背負っていた方天画戟を手に取った。犬を象った飾りが小さく揺れる。
「公台。お前はその間、兵をちゃんと掌握しろよ」
「わかっているのです。お前に戦術を教えてもらうほど、ねねは落ちぶれていないですよ」
 恋の後ろに隠れるようにして馬を走らせているねねは、華雄の言葉にぷうと頬を膨らませる。恋の働きを最大限に引き出すためにこそ、軍師たる自分がいるのだ。それをあえて口にされれば機嫌が悪くなるのも道理だろう。
「はは、悪いな。突撃の最中で興奮しているのだ。許せ」
 華雄はからからと笑う。その仕草さえ興奮に充ち満ちている。彼女は、戦場にあるこの時、実に生き生きとしていた。
「くっくく」
 彼女は低く笑う。大きく迂回してきたとはいえ、もはや、敵の最後尾は見えてきている。もう敵に突っ込むのも時間の問題だ。
 そして、もちろん、相手も無策ではない。こちらの動きに合わせて、それぞれの部隊が対応を始めようとしていた。
「くく」
 もう一度彼女は笑う。
 そこは、喧騒に満ちていた。
 そこは、血の予感に満ちていた。
 だが、彼女は、温かなものを背に感じていた。振り返るその瞳が、高所に位置し続ける十文字の旗を映す。
「聞けい、お前達!」
 顔を前に戻した彼女は巨大な戦斧を振り上げて、太腿をぎゅっと挟み込む。それに応じて馬がその脚を速めた。
「三倍の軍を打ち破るには、どうすればよいか!」
 恋たちが、彼女と同じく速度を上げるのを横目で眺めつつ、彼女は部下達に向かって問いを発する。
「至極簡単だ! 一人が三人倒せばいい。たった三人だ。うまくいけば、武器を三度振るだけで済むぞ!」
 華雄の自問自答に、笑いさえ起きる。しかし、華雄自身、その頬に笑みを刻みながら、実にその言葉は真剣なものであった。
「我が部隊に、一人十殺を義務づける! 十人を屠るまでは、倒れること許さぬ! だが、十人を超えて斬った者があれば、褒賞は望みのままぞ!」
 わあっ、と兵達がわく。その声を背に受けながら、華雄はさらに速度を増していく。背後でねねが叫ぶのが聞こえた。
「同じく赤龍隊にも、十人以上倒した者には、ほうびを約束するです!」
「ははっ」
 さらに一度、華雄は笑い声を上げる。
 だが、それを振り払うように一つ首を振った彼女は腹の底からわき上がる野太い声を上げ、さらに速度を増す。
「おー、おー。燃えちゃって」
 一方、その背後、華雄の吶喊を眺めやりつつ呟くのは白蓮。彼女達はまだ速度をそれほど上げていない。先に切りひらく黒龍と赤龍を援護するため、騎射の機をはかっていた。
「わかっているな、元が小さかっただけあって、うちの隊が一番まとまって残っている。私たちが踏ん張るべき時は、前の二隊が切りひらいてくれた後だ。逸る気持ちはわかるが、闘志はゆっくりと燃やせ。いいな?」
 ぎりぎりと弓を引き絞っている部下達に向けて、白蓮はなだめるように申し渡す。
 一刀達の大返しは、それなりの犠牲を兵達にも強いた。行方不明や負傷、死亡などあわせて全体で一割ほどが脱落し、この地にたどり着けていない。さらに行方不明者や脱落者を回収するために各所に配されたり、後方で馬たちの世話をしている者が、これも一割ほどいる。
 つまり、平均すると、出発した兵のうち八割ほどしか戦場にはたどり着けていない。
 そんな中で、白龍隊は、二十分の一程度の人員しか失っていなかった。
 これは後方に回した人数も含めてだから、実に驚異的な数字である。最も数が少ないとはいえ、いや、それだからこそ、白馬義従と呼ばれた騎兵たちは、己の誇りを貫き通したのだろう。
「もちろん、お前は別だぞ、焔耶」
 白蓮の横には、巨大な武器――鈍砕骨を抱えた焔耶がいる。彼女は指揮する兵を持たない。といって、彼女が白龍隊に組み込まれたというわけでもない。
 一刀は彼女に他の将を補佐させるよりも、自由に動かすことを選んだ。
 焔耶は、彼女自身の判断で、いつでもどこに向かっても良いこととされていた。つまり、部隊に属さない変則的な存在として戦場を暴れ回ることを、彼女は期待されているのだった。
「わかっている。機を見て動く」
「よし。じゃあ、行くか」
 手綱を一打ちして、白蓮は一気に速度を上げる。それは、まるで一陣の風のようで、まさに白馬長史の名にふさわしいものだった。その後ろを、一糸乱れぬ機動で追いかける白馬義従の面々。
 その様子を見つつ馬を走らせる焔耶は、もちろん一般兵には及びも付かないほどの技倆の持ち主であったが、やはり自分の動きが見劣りするものであることは自覚していた。
「……流石、騎馬をあやつらせると違うな」
 ぽつりと呟く声は、馬蹄の音に消えていく。
「だが、負けてはいられぬ」
 彼女は顔を引き締めてそう言った。
 この戦を通じて、北郷一刀という人物を知らねばならない。大陸の運命さえ変えてしまうような戦の中でこそ見えるものがあるはずだ。彼女はそう信じていた。
 焔耶は、そのために――そのためにこそ、千里の道を走り抜けてきたのだから。


 3.会敵


「少なくとも半分の脚は殺せてるな」
 一群の騎馬の群れを切り伏せ生まれた間隙の中を進みながら、霞は戦場を見渡して、うんうんと頷いた。
 霞と翠の部隊に命じられたのは、敵を分断することだ。進む先には中央軍が待ち受け、後ろでは呂布や華雄が暴れている。その真ん中を切り裂くことで、どちらも料理しやすいように整える役目だ。もちろん、その最中に、敵を削るのも仕事となる。
 最後のとどめを刺す役ではないのが少し不満だったが、仕方あるまい。鮮卑と羌の連合軍はさすがに兵もそれなりに強く、これはこれで楽しめそうだから。
 彼女は飛龍偃月刀を握り直すと、彼女の部隊を避けようと機動を始めている次の部隊をねめつけた。
「さて、いったろかいな」
 背後では部下達が両側の敵兵を排除しようとがんばっている。さらに突出するのは彼らには多少負担をかけるかもしれないが、それをこなせないようでは張遼隊とは言えない。だから、彼女は絶影を先に進めようとした。
 しかし、その時、左手から唐突に現れた二頭の騎馬が、彼女と絶影の少し先を駆け抜け、登場と同じくあっという間に兵の群れの中に消えていった。
 打ちかかっていたのは、絶影より一回り以上大きい巨大な馬に乗った、これも巨躯を誇る男。その刃を十文字槍で受けていた女性の長くのびた尻尾のような髪が、後を引く。
「翠!?」
 それは、同じく敵を分断する任務を与えられたはずの翠だった。馬上の戦いならば、おそらくこの大陸でも屈指の使い手を、部隊から引きはがしてしまうほどの相手とは一体何者か。
「やばい。ありゃ、まずいわ」
 駈け去る二騎を敵兵の中で再度見つけ出し、霞は思わず呟く。彼女は振り返ると副官を呼び寄せ、部隊の指揮を任せると、急いで二人の後を追うのだった。

「なんだよ、こいつ、化け物か!」
 右手に大刀、左手に鉞。
 間断なく続く連撃を銀閃で受け止めながら、翠は心の中で舌を巻いていた。膂力で押し負けそうなのも驚きだったが、それ以上に、彼女の突き込みを避けつつ、二つの武器で押し込んでくるその武こそが驚きであった。
 しかも、それだけではなく、こいつには……。
 彼女の左脇を狙った刀の一撃を弾く。男の右手が大きく跳ねて、体が開いた。そこに生じた隙に銀閃をねじ込もうとして、しかし、彼女は麒麟と共に後ろに跳ね飛んでいた。
「……いったい、どこから……」
 しばしの対峙。二人はお互いの一挙手一投足を観察しながら、攻め入る機を窺う。周囲から兵がちょっかいを出してきたが、これは一人目を翠が簡単に斬り飛ばすと向かってくる者はいなくなった。
 改めて、翠は相手を確認するように見直す。
 馬も、それに乗る男も、規格外とも言える巨大さであった。はるか大宛に生まれるという汗血馬でもこれほどは大きくあるまいと思える黒鹿毛に乗る男は、まるで岩のようだ。おそらく地面に立てば、翠自身は彼の肩口にも届くまい。
 これで動きが鈍ければ対処のしようはあるのだが、これまでやりあったところでは、力だけではなく、ばねもある。
 どう攻めるか。
 そう考えるのが道理であろうが、翠はそんなことは考えていない。
 必要となれば体は動く。そう出来るよう、鍛えて続けてきたのだから。大事なのは、それを保ち続けること。
 翠は息を平静よりさらに静かに落とし込みつつ、力を乗せる瞬間を待っていた。
 その対峙に横合いから乗り入れた人物がある。
「うらあ、邪魔やああっ!」
 周囲の兵をなぎ払いつつ、乱入してきたのは霞。そのままの勢いで飛龍偃月刀を振りかぶり、大上段に打ち落とした。
 鉞と大刀を交差させ受けるその瞬間、翠は銀閃を突き出していた。
 にやり、と笑う霞は、しかし、その槍の穂先が目の前の男に吸い込まれるのではなく、彼女の顔の前で金属音を立ててなにかをはじき飛ばすのに目を白黒させる。
 それは、どこからか飛んできた金属の塊だった。
「なんやっ、邪魔するなやっ!」
 周囲の兵がちゃちゃを入れたのだと考えた霞が、偃月刀を振り回しながら、怒声を放つ。
 しかし、十文字槍を回転させて男の大刀を絡め取ろうとしながら、翠はその頭を振った。茶の髪が大きく揺れる。
「違う! こいつが、鏃を飛ばしてきてるんだ。でも、どうやってやってるのか、見当がつかない!」
「なんやて? 両手ふさがっとるんに、器用やなっ」
 翠の攻撃を受け流した上に追撃を加えようと大刀が走るのに、偃月刀を割り込ませながら、霞は呆れたように言った。
 両手を放して馬を操る程度は、馬の民ならば不思議なことはない。霞も翠も手綱を放しても腿の挟み込みや、足を使うことで愛馬に指示を与えることは可能だ。
 しかし、それをやりつつ、両手で武器をふるい、さらに鏃をどこからか飛ばしてくるとなると話は違う。ましてや、どうやってやっているかわからないとは。
「暗器使いってことだろうな」
「ともかく、二人で同時に打ち込むで」
「おう!」
 二人は己の武器を一度引き、そして、あわせて打ちかかった。しかし、そのどちらもが、相手の武器で防ぎ止められる。
 それでも諦めずに、二人は何度も武器を振るう。そのいずれもが受け止められ、あるいは打ち込む瞬間を狙って鏃をなげつけられ、体勢を崩されて威力を弱められてしまう。
「なんや、周りがうるさいで」
「こいつの名前……というか、称号だろうな。こいつ、単于らしいぜ」
 十合ほどうちあったところで、再び両者はわかれて対峙し合う。ぐっぐっ、と喉の奥から絞り出すような笑い声をあげる男に向けて、周囲の兵が大声で唱えるように、一つの言葉を向けていた。
「トグリシャンユー」
 それは、かつて春蘭たちが侮蔑と共にぶつけられた言葉。しかし、いま、兵達の呼びかけは、熱っぽさと崇敬に彩られている。
「お。せやったら、こいつが頭か!」
 翠の解説に、霞は喜色を見せる。頂点に位置する存在を倒せれば、この戦の趨勢を握ることが出来る。そのことの意味を霞はよくわかっていた。だが、一方の翠は、わかっていながらも不安の表情を隠せない。
「ああ、だが……」
「まあ、ひきつけとくだけでも価値はあるやろ。いくで」
 ばさりと羽織を翻し、霞は偃月刀を握り直す。それを受けて、翠も大きく頷き、銀閃を構え直した。
 二人は力を振り絞り、空間をえぐるような一撃を単于にあびせかけるのだった。

 何十合うちあったろう。
 十文字槍の横刃を鉞に絡め取られたのは、不運としかいいようがない事故のようなものだった。
 しかし、その勢いで銀閃はひねりあげられ、翠とその武器は共に大地に落ちた。
 それに追い打ちをかけてとどめを刺さなかったのは、霞が飛龍偃月刀と共に立ちはだかったからか、あるいは麒麟が主を守るように歯をむき出していななきをあげたからか。
 いずれにせよ、単于は高笑いと共に一つの言葉をたたきつけると、巨馬を操って走り去ってしまった。
「くっ、あいつ!」
 ようやく立ち上がった翠が憤怒を乗せて叫ぶ。
 翠の知っている北方の言語に比べると、変化が大きく、はっきりと聞き取れはしなかったが、単于が残していった言葉はだいたい理解できた。
 彼はこう言い放ち、走り去ったのだ。
『弱いな、お前達』
 と。
 翠は取り落とした十文字槍を拾い上げると、怒りに顔を赤らめたまま、麒麟に乗ろうとした。そのまま、走り去った男を追おうとしているのは明白だった。
 だが、鋭く一言、霞は告げる。
「よしとき」
「でもさ」
「あいつが向こうた先を見てみぃや」
 言われて、翠は麒麟に乗りなおし、霞の指さす先に向き直った。それを見て、彼女は悔しげに、しかし納得したように頷いた。
「ああ、あれなら……」
 二人の視線の先にあるもの。
 それは、深紅に染め上げられた呂奉先の旗に他ならなかった。


「兄様!」
 母衣衆の囲みを抜けて、駆け込んできたのは前髪に大きな飾り布を揺らす少女。彼女の姿を認めた途端、一刀の顔に明るい表情が浮かんだ。
「やあ、流琉。久しぶり」
「お久しぶりです!……じゃ、ありませんよ。一体どうやってここまで……」
 つい普段通りに喜色満面で声をかけた後で、不審げに顔をしかめる流琉。彼女にとってみれば、ここに一刀が現れたのは信じられない出来事であったろう。
「まあ、色々あったんだよ」
 さすがに一言で説明することはとても出来ない。しかたなく、そうしてまとめてしまう一刀であった。
「はぁ……。あ、それどころじゃありませんでした。華琳様たちから兄様と連絡を取るよう命じられてたんでした」
「そうか。すまんな、本来こちらから連絡を入れるべきだったんだが、指揮を執るので精一杯でさ」
「はい。こちらも兄様達の動きに合わせて陣を動かすのに大変でしたから……。それで、ええと、大量の騎兵を相手にするのは難しいですが、少数なら直接ぶつかって倒せますので、少しずつ追い立てるようにしてほしい、とのことでした」
 流琉は、言われたことを思い返すように視線を上に動かして告げた。それに対して、動いたのは一刀ではなく、傍らに控えていた詠のほうだった。
「了解。霞たちに改めて指示を送るわ」
 言って詠は母衣衆の幾人かを呼び寄せ、細かい指示を与えはじめる。それを見ながら、さらに流琉は伝令を思い出し、一刀に伝えていく。
「それから、季衣が後曲に控えていますので、兄様達の軍でも負傷者はそちらに回してほしいとのことです。輜重隊もいるならそちらに合流させてくれてもいい、と」
「ああ、それは助かるな。うちはだいぶ遠くにおいてるから、連絡を入れるよ」
「はい」
 流琉の報告に安心したように微笑んだ後で、一刀は思い出したように付け加える。
「そうそう。華琳に伝えて欲しいんだけど」
「はい?」
「明日か明後日には、凪たち右軍もこちらに合流できるはずだよ。右軍を邪魔している騎兵部隊もいるにはいるんだけど、もう右軍を攻めるほどの余裕は無くなるはずだ」
「今日の戦次第だけれどね。でも、うまくいけば、こっちの本隊に合流するはず。その部隊の圧力が無くなれば、右軍との連携が取れるようになって万全の態勢となるでしょうね」
「そうですか。よかったあ」
 詠の補足も合わせて聞いて、流琉はうんうんと頷いて喜びを表す。右軍との接触を回復すれば、兵達にもお腹いっぱい食べさせることが出来る。それだけでも、希望の持てる報せであった。
「じゃあ、華琳様にお伝えしてきますね。また連絡に……あれ?」
 馬に乗り直した流琉は戻る前にと戦場を見渡して、その違和感に気づいた。
「どうしたの?」
「いえ、あのあたり、なんだか妙に乱れてませんか?」
 すでに騎馬の動きを止め、乱戦になっているとはいえ、兵の動きが止まるほどではない。しかし、流琉が指す先の一帯は、奇妙な静寂を保っているように見えた。
「あれは……恋たちだな」
 そこに翻る旗を認め、一刀は納得したように呟くのだった。


 4.上天


 そこでは、単于と恋たちのにらみ合いがはじまっていた。
 わきあがる『トグリシャンユー』の声と共に現れた大男は、周囲を圧するにふさわしい気迫の持ち主で、恋も白蓮も、そして兵達も一時動きを止めるほどの存在感であった。
 同じようにこのあたりの鮮卑たちの動きも止まっていた。まるで台風の目のように唐突に訪れた静寂と静止の空間の中、らんらんと光る不気味な目で、その男は恋達を値踏みするように上から下まで何度も見直していた。
 その間にも、恋と男の間で闘気が膨れあがる。その圧力に耐えかねて、周囲の兵はじりじりと後じさりをはじめようとしていた。
「……白蓮」
 単于から目をそらすことなく、恋は傍らの白蓮を呼ぶ。
「おう! 二人で打ちかかるか?」
 さすがに白蓮は気迫で気圧されるようなことはない。それでも、男が動きもしないのににじみ出る闘気にうそ寒いものを感じていた。
 だが、恋は小さく首を振る。赤い髪がゆるやかに揺れて、白蓮の意識を捉えた。
「……ううん。白蓮の兵たちで、他の兵たちが近づかないよう、して」
「そうだな。わかった」
 静かな調子の言葉に、少し考えて彼女は頷く。自分は武を誇る将ではないのだからしかたない、と彼女は己に言い聞かせる。その後で、彼女は恋の横で馬を操る小さな軍師の姿を目にとめた。
「ねねは私が預かろう」
 そのほうが安心だろう。そう言って、彼女は走り抜きざま、音々音の体を持ち上げた。
「な、なにをするですかー」
「危ないんだよ。あいつ」
 腕の中で暴れる小さな体を引き寄せて、囁く。実際、見渡す限り、いまや動いているのは白蓮だけだ。恋の殺気も混じっているとはいえ、兵達が硬直するような中に頭脳労働者たる音々音を置いておくのは危険だろう。
「恋殿が負けるはずなどないのですよ!」
「そりゃあな。私もそう思うよ。でも、それなら思う存分戦わせてやりたいだろ」
 そう言って自分の前にねねを座らせる。彼女はそれを聞いて渋々納得したように頷く。それを確認して、白蓮は部下達に大声で活を入れ始めた。ようやく呼応した白馬義従たちが、敵兵を殺すでもなく押しやるように追いやって円形の空間を作る。
 流琉の認めた乱れこそ、大きく開けた空間と、それによって影響を受けた各部隊の動きであった。
 しかし、実際にその空間の周囲にいる者は、敵も味方も厖大な闘気に絡め取られていた。
「――――――!」
 男が吼える。その言葉は地を這うようで、何も意味を成していないようにも思えたが、周囲の兵達がそれに乗って叫び始めたのを見ると、何ごとか語りかけているようでもある。
「……ん、恋、よくわからない。ねね、なに言ってるか、わかる?」
 恋の問いかけに、ねねは首をねじって、背後の白蓮と顔を見合わせた。しかし、ねねはすぐ顔を己の主に向けて、厳しい表情で言葉を紡いだ。
「あー、えっと、その、自分は天に祝福されているとかなんとか……」
「……ふうん」
「それと、その……お前達は、天の御遣いの部下か、と訊いています」
 その言葉に、こく、と頷く恋。それと同時にねねは鋭い言葉を単于に向けていた。それを聞いて、ぐぐぐ、と太い笑いを漏らす男。
 彼は両手に携えた武器を大きく開き、胸を見せて再び吼えた。今度の言葉は、ねねに訊くまでもなく、誘いをかけているのだと恋は理解していた。
 だから、彼女は方天画戟を構える。
「……じゃあ、行く」
 そう自然に押し出すように呟き、天下の飛将軍、呂奉先は上天単于へと戟を打ち下ろすのだった。


 信じられぬものを見る思いだった。
 恋の方天画戟の一撃は、あらゆるものを打ち砕く。たしかに、華雄という同じほどの武威を持つ者はいる。しかし、まさかそれを受け止められる者が、この世にそうそう多くいようとは。
 敵兵の策動を警戒しながら、白蓮はその戦闘から目が離せないでいた。
 そもそも彼女ですら追えないほどの速度での打ち込みを、全て受け止めた上に同じほど攻撃を返すなど、どうやっているのか想像もつかない。
 しかも、恋のほうが何度か馬を動かして距離をとったりしているのだ。
「相手は、なにか投げて……?」
「ああ。だが、どこからだ? 指に挟んでいるのか……」
 白蓮もたまに恋が大刀や鉞ではないなにかを避けているのは把握していた。だが、目を凝らしてみても、大男がどうやってそれを投擲しているのかがわからない。あるいは大刀を振り抜くと同時に、指に挟んで飛ばしているのかとも思ったが、それにしては腕の動きと連動しているようには見えない。
「やっかいだな、暗器とは」
「恋殿なら、問題ないのです!」
「まあ、そうだが……」
 自信満々に言うねねに白蓮も同意するものの、面倒なことに変わりはない。加勢して力になれるならいいのだが、あの変則的な動きをとらえて、さらに恋に合わせるとなると……。それ以上に恋に気を遣わせて全力を振るえなくしてしまうおそれが十分にあった。
 兵達や白蓮達が見守る中で、二人は距離を取る。
 そこで、ぐらぐらと低い笑い声を響かせながら、上天単于は再び叫んだ。
「――――――! ――――!」
 今度の叫びは長い。嘲るような、からかうようなその言葉は、朗々と続いていく。
 もちろん、恋はそれに小首を傾げて対するだけだ。何十合と打ちあったはずなのに、息の乱れもないのは凄まじいが、攻め込み様を見つけることも出来ていないように見える。
 恋はねねのほうをちらりと見やる。また訳してくれ、ということだろう。それに対してねねは少しためらっていたが、吶吶と話し始めた。
「お、お前達の天の御遣いは贋者だ、と。本物なら、俺を……その、殺してみせろと……えっと……」
 男の言葉はまだ続いている。それが続く間にねねの顔は赤くなり、青くなり、そして、最後は真白くなった。彼女は唇を噛みしめ、涙をこらえるように体を震わせ始める。
「ねね?」
 その問いかけが決壊を後押ししたか。
 白く血の気の失せた頬の上を、一粒の涙が滑り落ちた。
「恋!」
 ねねの涙を見て狼狽える恋に向けて、白蓮が声をかけた。彼女は片手で泣きじゃくるねねを抱きしめていた。
「私は烏桓の言葉がわかる。そいつの言っていることもだいたいわかるが、それ以上を音々音に言わせるのは酷だ!」
「……どういうこと?」
「私でもはらわたが煮えくりかえりそうな罵詈雑言を中原の人間と一刀殿に向けている。私とて訳すつもりはないぞ。そんなことをすれば、口が腐る」
 ぐっぐっ。
 単于が笑う。おそらく、こいつは中原の言葉がわかっているはずだ、と白蓮はあたりをつけていた。王たる者が、敵とする者の言葉を知らぬはずがないのだ。
 その上で、彼はけっしてこちらの言葉を使おうとしない。それは、誇りであり、蔑みであろう。
 そのことに、白蓮は紛れもない怒りを抱いていた。
「……ねね」
 恋は敵から目をそらし、まっすぐにこちらを向いてそう呼びかけた。もちろん、それを隙と見るような敵であれば、よほど簡単であったろう。だが、単于は低く低く笑うだけだ。
「ごめん」
「れ、恋殿が謝ることではないのです!」
 泣きながら、それでも主に答えるねねに、恋は淡い笑みで宣言した。
「約束する。恋。……こいつ、やっつける」
 彼女は方天画戟を向ける。
 彼女の大事な人を、嘲り笑う男へと。
「お前……強い。楽しかった。でも、お前、ねね泣かした」
 守るべきは、己の誇りでもなんでもなく、ただ、愛しい相手。
「……死ね」
 その宣告は、単于の声よりもはるかはるか遠く地の底から聞こえたように思えた。

 連続した破裂音。
 それは、金属が打ち当たる音であるはずだった。
 打っているのは方天画戟。
 受け止めるのは鉞と大刀。
 それらの刃は当然、鋼鉄で作られている。
 それを打ち合わせれば、硬質ながら澄んだ高い金属の立てるべき音を立てるはずだった。
 だが、そこにあるのは金属音ではけっしてない。
 それは、空気が破裂する音。
 単于と呂奉先の武器が奏でるのは、小型の爆発音のようなものであった。
 あまりの巨大な力のぶつかり合いに、白蓮は冷や汗をかくしかない。だが、その様子に見入っている間に、彼女は恐ろしい予想を抱かざるを得なかった。
「まずい」
「どうしたのです?」
「恋のやつ、力の加減が出来ていない。あれじゃあ、武器の方が保たん」
 強烈な感情は、人の力の枷を外す。恋ほどの達人になれば、その枷を意識的に外す術を知っているものだが、今日の怒りは、その枷をさらにもう一段はね飛ばしたようだった。
 そこにあるのは、まさに人外と思えるような力の爆発であった。鍛え上げた骨と筋肉が耐え切れても、人が作り上げた鉄に、そこまでのねばりはない。
 事実、すでに、幾たびか、破片のようなものが飛び跳ねていた。
「は、刃こぼれが!」
 ねねも気づいたのだろう。少し元気を取り戻した顔を再び蒼白にして、彼女は指をさす。
「砕けるまでに決着をつけられれば……」
 だが、その願いは、あまりに希望的観測に過ぎた。
 息を一つ吐く間に五度打ち合った方天画戟は、三日月のような刃の半ばで砕け散った。
「まずい!」
 まだ、本体とも言える槍部分は残っている。しかし、それも時間の問題だろう。
 自身の持つ偃月刀を渡すか。
 いや、それではだめだ。いかに真桜が鍛えた業物でも、方天画戟を砕くほどの力に耐えられるわけがない。それ以上に、この重さでは、あの打ち込みにはふさわしくない。呂布の力の半分も発揮させられないだろう。
「だが、しかたない……」
 武器がないよりはましだろう。そう思って白蓮が手にする白龍偃月刀を、恋に向けて投げようとした、その時。
「あれを見るです!」
 袖をひっぱるようにして自分を呼ぶねねの声に見てみれば、そこには、宙を舞う巨大な鉄塊。
 ただ、重く、ただ硬く。ただ、砕くために。
 それだけを目指して作り上げられた大金棒は、ぐるんぐるんと回転しながら、空気を切り裂いて恋へと走る。
 方天画戟の柄でひっかけるようにしてその飛来物を受け止めた恋は、そこを狙って打ち込んできた単于の大刀を大金棒で受け止めながら、首をひねる。
「……焔耶?」
「恋、それを使え!」
 武器の後を追って現れたのは黒ずくめの蜀将、魏文長。彼女は恋の背中をおすように、大きく叫んだ。
「どれだけの力であろうと、その鈍砕骨は砕けない!」

 焔耶の言葉通り、鈍砕骨は砕けなかった。
 かえって砕け始めたのは敵の鉞であり、その後に抜いた小刀であった。
 呂奉先の膂力で振るわれる鈍砕骨は凄まじかった。
 軽々とその金棒を振るう恋は、まるで空間を押しつぶすかのようで。
 さすがの大男も片手の武器を失い、大刀で切りつけながら、厳しい表情を隠せなかった。
 そして、彼の取った行動とは――。
「あいつ!」
 白蓮が顔を真っ赤にして憤激する。同時に周囲の白馬義従たちもまた怒りの声をあげていた。
 単于は、その大刀で、恋の乗る馬の首を刺し貫いていたのだ。
 たしかに、戦いの中で敵の乗騎を倒すことは、有利となり、勝利へとつながることもある。なにしろその立ち位置も、動きも制限されるのだから。
 だが、それは、馬の民として、許されることであろうか。
 少なくとも、単于の部下達は、沈黙をもってその意思を示していた。先ほどまで彼が有利になる度にわいていた歓声は、もはや、ない。
 がくり、と恋の乗騎が前足を折る。
 低くなった姿勢の中で、恋は懸命に鈍砕骨を持ち上げた。打ち下ろされる大刀の勢いを自らの腕で殺しながら、彼女は愛馬の首をなでてやる。それに応じたか、首から血を流し続ける馬は、最後のであろういななきをあげた。
「……ん、ありがと……」
 それは、これまで共に戦ってきてくれた事への感謝だったろうか。
 しかし――。
 その次の瞬間、馬は一気に跳ね上がり、後ろ立ちになっていたのだ。
「莫迦な!」
 白蓮の叫びもむべなるかな。
 あれだけ血を流し、一度崩れ落ちた馬が、再度立ち上がることなどできるはずはないのだ。
 出来るはずは。
「あの状態の馬が立ち上がるなんてありえな……え……」
 だが、それ以上の驚きが、全員を襲う。立ち上がるはずのない馬に注意が行った瞬間を狙ったか、いつの間にか恋の姿は消えていた。
「恋殿はいずこ!」
「上だっ」
 焔耶の声に、皆の顔が上がる。
 そこにあったのは、鈍砕骨を抱くようにして、宙に浮かぶ恋の姿。それは、己の重さと鈍砕骨のそれとを加えて、凄まじい速度で落ち来たっていた。
 そして。
 単于にだけは、その姿が見えていなかった。
 その目を射したのは、空を落ちかけた日の光。
 上天単于が最後に見たのは、日に溶ける赤い髪であった。
 ごぶり。
 単于の巨大な頭は、その胸を突き破り、胴にまでめり込んだ。
「……死んだ」
 馬から落ちる単于の骸から軽やかに飛び跳ねた恋は、小さくそう呟くのだった。

「ん?」
 白蓮は馬からおり、単于の死体に近づいた。体にまきついたように描かれている大蛇、あるいは龍の装飾が、動いているように見えたのだ。
 ただの見間違いかとも思ったが、まだ生きているなら、とどめを刺すのも情けというものだ。首が体に埋もれて生きているやつもなかなかいないだろうが。
 近づいてみると、蛇は大半が服に縫い付けられた装飾だったが、口の部分とその近くは立体的になって金糸で形作られていた。
 それがわずかながら蠕動している。
 白蓮はなにか不可解な恐怖を抱きながらも、思いきってその装飾に手をかけて引き裂いた。そこから出てきたのは、一本の腕。
 それは、単于本来の腕とは明らかに太さが違い、膚の色も妙に白く見えたが、確かに人の腕に他ならなかった。
「さ、三、本めの……腕……?」
 白蓮はさらに服を引き裂く。露わになった体を検めてみれば、ひくひくと、まるで別の生き物のように蠢くそれは、単于の肩から背中側に生えているようだった。
「これが……鏃を飛ばしていたか……」
「た、たまにこういうのがいると聞きますが、それで暗器を投げつけるとは……。尋常ではありませんね」
 音々音が心底不気味そうに言う。
「まあ、もう関係ないか……」
 白蓮が諦めたように呟き、服を戻してやるのに、恋はただ不思議そうに首を傾げるだけだ。そうして訪れた沈黙の中、思い出したように、一つの音が響いた。
 すう、と大きく息を吸う音。それは、焔耶が肺にめいっぱい空気を取り込んだ証。
 そして、それが放たれる。
「敵軍総大将、呂奉先が討ち取ったりーーーっ!」
 びりびりと空気を振るわせ、膚を打つほどの叫びが、戦場を走った。


 5.終盤


「敵軍総大将、呂奉先が討ち取ったりーーーっ!」
 眼下にした戦場から、そんな声が響いてくる。
 一刀達が陣を布いていた丘の上には、いまや、中央軍の本陣自体が移動してきていた。びっしりと兵達が詰めて矢を射かける中、華琳と一刀、風と詠は戦場全体を把握しながら指揮を執り続けていたが、その声にはさすがに皆が動きを止めて注目した。
「あれは……焔耶か」
「どうやら、恋が大将首を獲ったようね」
 男は驚いたように呟き、覇王たる女性は艶然と微笑んだ。
「……後方の軍が退いていますね」
「右翼でもぱらぱらと逃げてるのがいるみたい」
 しばし後、戦場を観察していた軍師二人が、その動きを報告する。たしかに彼女らの言うとおり、いくつかの動きが起きていた。ただし、いまだ散発的で、敵軍全体が崩壊するというような事態には至っていない。
 それでも、この戦闘が終局に至っていることは誰しもが理解していた。
「風、詠。各将に連絡を。逃げ道を塞がないように、と。それと、追撃に関してはこちらで指示するまでは厳禁」
「了解ですー」
「ええ、わかったわ」
 現状の流れだけで見れば、北伐軍側が優勢なのは確実だが、追い詰めて決死の反撃に出られた場合、それを押しとどめるだけの粘りが残っているかどうかは怪しい。逃げてくれるならばそのほうがいいという華琳の判断であった。実際、後々の統治を睨めば、あまりに徹底的な殲滅は逆効果となりかねない。
 そんな指示を飛ばしている最中、本陣に駆け込んでくる影があった。疲れ切った馬から転げ落ちるようにしており、華琳に駆け寄るのは、親衛隊長の一人、季衣だ。
「どうしたの、季衣」
 小さな体を揺らすようにして息を切らせる季衣など滅多に見られない。華琳と一刀は揃って目を丸くしていた。
「か、華琳さま、兄ちゃん、み、南! 南!」
 手を大きく広げて南方を指さしながら、彼女は何度も繰り返す。
「南?……あれは……」
 四人が向いた先に、砂塵が舞っていた。はや日が暮れかけ、青が藍に変わりつつある空に向かって、もうもうと巻き上がる砂煙。それを巻き上げているのは、竜巻でも雷雲でもない。
 それは、明らかに人馬が立てる規則的なものであった。
「あや、この期に及んで増援ですかねー。それはちょっとまずいことになりますねー」
「でも、南よ?……って、そうか、右軍を牽制していたやつらか……」
 軍師たちは軽口のように言い合いながら、その瞳はせわしなく動いている。きっと、彼女達の頭の中では、新たなる局面に対応するための思考がものすごい速度で走っているのだろう。
「いや、待って。あれは……」
 馬上で身を乗り出してその軍勢を見つめていた華琳の表情が緩む。掲げる旗と、先頭を走る二騎の騎馬を認めたのだ。
「味方よ。旗印は、楽に于」
「え、凪と沙和か」
 言われて一刀も目を凝らしてみる。よくよく見れば、砂煙を舞上げているのは馬だけではない。多くの荷車が、列を成して突っ走っているのだった。数々の水甕や、糧食の保存用の樽に紛れて、幾人もの兵士達が、車に乗せられて運ばれている。
 合流は数日後になるであろうと詠や一刀が予想していたのを覆し得たのは、その輸送法故か。単于軍の別働隊もいたろうに、それを荷車の大群で突っ切ってくるとは、なかなかの胆力と技倆を必要としたことだろう。
「まったく、よくやる」
 呆れたように言う男の顔は、しかし、誇らしげな笑みに彩られている。
 右軍の大部分は後曲のさらに手前で停止したが、先頭の二人だけは、そのまま馬を走らせ続ける。彼女達の発する大音声が、丘の上にまで響いてきた。
「華琳様は、華琳様はご無事か!」
「おーい、たいちょー、どこなのー?」
 愚直なまでにきまじめに安否を気遣う凪と、のほほんと手でひさしをつくりながら辺りを見回す沙和。
 その対照的な二人の声を聞いて、本陣の面々は微笑まずにはいられない。
「戦は、終わりね」
 華琳は、そう宣言するように言った。敵の頭目が討ち取られ、物資を手に右軍まで合流したとなれば、もはや負ける道理はない。
 まだまだやるべきことはあるが、戦としての局面は終わりを告げ、後始末へと段階を進めたと言える。
「そう……か。じゃあ……えっと……あれ……」
 怒濤の勢いで近づいてくる二騎を眺めながら独り言のように呟く一刀の頭が、ゆらりと揺れた。
「一刀?」
 声の響きに不思議なものを感じ取ったか、華琳だけではなく、季衣、風、詠の全員が振り返る。彼女らを見返す瞳にも力はなく、顔つきは刻々とぼんやりとしたものへと変じていく。
「ちょっと……もう……」
 視界がぶれる。体の揺れはもはや抑えがきかないほど大きく、ただただ落下するような感覚だけが体の芯から襲ってくる。
 ああ、これはだめだ。
 北郷一刀は己の限界を悟った。
「あとは……よろし……く」
 それだけ言って、彼は意識を手放すのだった。


 6.万里


 温かで柔らかなものに全身を包まれていた。
 中でも頭の下にあるものは、ことさらに柔らかで弾力もほどよく、いつまでも顔を埋めていたいと思えるものだった。しかも、どこからか、いい香りも漂ってくる。
 懐かしく、愛おしく、安心する香りだった。
 こんな枕あったかな。
 まだ半覚醒状態の意識の中、一刀はそんな疑問を持つが、それが与えてくれる快楽には勝つことはなく、ただただ貪るようにその感触を楽しむ。
「ん……」
 甘えるように鼻にかかった声をあげてみる。すると、なぜか枕が動いて、さらに楽な体勢へ動かしてくれた。
 至れり尽くせりだ。
 そう思う心の片隅で、目を覚まさなければいけないという意識がある。だが、それがなぜだったのか、どうしても思い出せない。
 なにか大切なことがあったような気がしてならない。
 自分を――さらには死にものぐるいの奮励を必要とすることがあったような……。
 そこまでいったところで、なにかが意識にひっかかる。
 己には不釣り合いで、慣れることなどできはしないことで、それでも、もはや日常の出来事のように染みついたそれ。
 北郷一刀という男の分を越えているとしか思えないけれど、それでも、愛しい相手を救うために必要な……。
 あれは、なんだったか。
 その途端、遠くから、大きないくつもの声が聞こえた気がした。
 彼の体どころか、大地を割り裂くような声。
 それが意味するのは……。
 そうだ、戦だ!
 それを意識に描いた途端、閉じていた錠ががちんとかみあって開くように、ばちっと意識が覚醒し、彼は目を開く。
 その視界に入ってきたのは、美しい金の色。
 淡い光に溶ける金の糸のような黄金の髪が、彼の顔の上で揺れていた。
「……華琳?」
 その声に頭上の人影は、はっと驚いたように彼の顔を覗き込み、その動きによって、一刀の後頭部が彼女の腹に押しつぶされるようになる。まさに名を呼んだ凛々しく美しい顔が彼を見下ろしている。
 彼は、なんとも畏れ多いことに、覇王の膝枕で眠っていたらしかった。体は何枚もの柔らかな布で包まれるようになっているせいで、自由に動かすのは面倒そうだった。
 これが何千里も駈けた褒美だとしたら、ありがたいことだな。一刀は天幕の中にしつらえられた灯火で照らし出される華琳の顔を見上げながら思う。
「大丈夫?」
「ああ。意識ははっきりしてるよ」
 華琳の訊ねかけた意図とは微妙にずれた答えをしてしまったような気もしたが、それでも彼女は、驚愕と不安の表情を一変させて、名前の通り、華のような笑みを浮かべた。
「まったく……心配させないでよ」
「すまん」
 季衣なんて泣きそうだったんだからね、とからかうように言うのに、申し訳なくなってしまう一刀。
 遥かなる距離を駈けてきたとはいえ、緊張が切れた途端に倒れてしまうのは、彼自身さすがに情けなかった。
「まあ、いいわ。すっかり後始末も終わったし。その間あなたはぐーすか寝こけていたわけだけど」
 それ以上追い詰めるつもりもないのだろう。華琳は彼の髪に指を絡ませるようにして、言葉の調子を変えた。
「それより、ありがとう。あなたのおかげで助かったわ」
「うん」
 それ以上の言葉を交わす必要はない。
 守りたかった温もりは、すぐ側にあるのだから。
 しばらくの間、彼も華琳もなにも言わず見つめ合っていた。そのことに自分で気づいたのだろう。頬を染めて顔を逸らしたのは華琳の方だった。
 さらに続く沈黙の中、ふと一刀の髪に絡んだ指が動き始めた。ゆっくりと気遣うようになでるその手の動きを、彼女自身、意識しているのかいないのか。
 どこか遠くを見るような、なんともつかぬ淡い感情をたたえたその顔を見上げながら、一刀は表現しがたい喜びを思う。この時間がいつまでも続いてくれはしないだろうか。そんなことを願ってしまうような。
 ふと、華琳の唇が動き、ほんの少し寂しげな旋律がまろび出る。


  鴻雁出塞北   鴻雁 塞北に出でて
  乃在無人郷   乃ち無人の郷に在り
  挙翅萬餘里   翅(はね)を挙ぐること萬余里
  行止自成行   行くも止まるも 自ら行を成す
  冬節食南稲   冬節に南稲を食し
  春日復北翔   春日に復た北に翔る
  田中有轉蓬   田中に転蓬有り
  随風遠飄揚   風に随って遠く飄い揚がる
  長與故根絶   長く故の根と絶ち
  萬歳不相當   萬歳まで相ひあたらず


  奈何此征夫   奈何せん 此の征夫
  安得去四方   安んぞ四方を去るを得ん
  戎馬不解鞍   戎馬 鞍を解かず
  鎧甲不離傍   鎧甲 傍を離れず
  冉冉老将至   冉冉として老いは将に至らんとす
  何時反故郷   何れの時にか故郷にかえらん
  神龍藏深泉   神龍は深泉に藏れ
  猛獣歩高岡   猛獣は高岡に歩す
  狐死歸首丘   狐死して歸らんと丘に首(かしら)ふ
  故郷安可忘   故郷 安んぞ忘るべけんや


 渡り鳥が飛ぶ。北へ、南へ。
 根無し草が、風にとばされる。それが元へ戻ることはもはやない。
 その幻視は、まさにそこにあるもののように一刀の目の前で繰り広げられた。華琳の甘やかながらも涼やかな歌声にのって、まさに北に向かう兵士と一刀は一体化していた。
 そして、その心に浮かぶ「ふるさと」が、日本ではなく、愛しい人達の待つ洛陽の都であることに、彼は驚きもし、安堵もするのだった。
 歌声が途切れた後も、彼女はどこか遠くを見ていた。おそらく、一刀自身と同じく洛陽を見ているのだろうと、彼は信じていた。
「いい詩だね。誰の詩?」
「私。この戦の中で作ったのよ」
「へえ……」
 本気で感心した。詩作をするとは聞いていたが、これほどのものとは。もちろん、それを感じ取れるようになったのは、一刀自身がこの世界の文物や言葉に慣れ親しんだせいもあったろう。
「まあ、欲を言えば、帰りたいと望んで帰れないのではなく、北の地と南の地の民が入り交じり、新しい血をつくりだしてくれるのが理想なのだけれど……。いまはそうも言っていられないわね」
 それから、彼女はこてんと首を傾げて訊ねかけた。
「ねえ、一刀。私は少し急ぎすぎたかしら?」
 その仕草のあまりのあどけなさに、彼は一瞬言葉を失ったが、それでも自信をもって答えた。
「華琳はそれでいいんだよ。華琳が命じて春蘭がつっこんで、俺たちが後ろでやきもきする。そんなもんさ」
「……なにか莫迦にされているようにも聞こえるのだけれど?」
「そういうつもりはないよ」
「ふふ。わかっているわ」
 華琳の両手が、一刀の耳のあたりにかかる。彼の頭を二つの掌で挟んで固定するように。
 そのまま、彼女は背を丸くして、顔を落とした。
 紅の唇が、彼のそれと重なる。
 そのまま、しばらく、二人はお互いを堪能し合う。そうして顔を持ち上げた時、華琳の膚は首筋まで朱色に染まっていた。
 はぁふ、と一つ息を吐き、華琳はもう一度真剣な表情を見せる。
「……ありがとう、一刀」
「ああ。こちらこそありがとう。生きていてくれて」
「莫迦ね。この私が死ぬわけないでしょう」
 それからひとしきり笑って見せると、華琳は彼の体を抱きしめるようにしながら、再び遥か彼方を見やった。
「帰りましょう、一刀」
「ああ」
 同じ方向を見つめつつ、二人はそうして言葉を交わし合うのだった。
 大事な大事な約束をするかのように――。


 7.悪意


 洛陽の都の奥の奥。
 豪奢な建築物が建ち並ぶ中でも、飛び抜けて絢爛たる宮に作られた望楼に、幾人かの人物が集まっていた。
 そこからは、洛陽の全景が見渡せ、また、背後に広がる広大な大地と山脈を見ることもできる。風雅な者ならば、ここから見た風景を絵にすることも、詩にすることも出来たであろう。
 だが、その日集った人々はそんな風景にはこれっぽっちも注意を払うことなく、ただ、入城してくる一団の姿を見つめていた。
 戦塵に汚れた兵たちと共に、胸を張って宮城の門をくぐるのは、金色の髪を振り立てた、美しいひとりの女性。
 この大陸の実質的な権力を握る人物だ。
「曹孟徳が帰還したか」
 声を発するのはただひとり。あとは彼にはばかるようにおし黙り、頭を垂れる。
 そこにいたのは、少年とも青年ともとれる、一人の若者だった。しかし、彼から発せられる雰囲気は青年期にある者とはとても思えない。
 たとえばこの場所に亞莎がいたとしたら、彼女はその相手を間違いなく老人と見るだろう。それほどまでに老いさらばえた気配であった。
「ふん、せっかく偽の管輅まで仕立て上げたが、所詮は北辺の胡(えびす)か」
 彼はつまらなさそうに呟く。それは、はじめから答えがわかっている問題を解く者の無感動さに等しかった。あるいは、おもちゃに厭いた子供のようにも見える。
 その様子に困惑したか、もしくは慰めなければいけないと思ったか、背後の男のひとりが、おずおずと声をかけた。
「しかし、鮮卑の全てが打ち破られたわけではありません。今後もやつらは確実に魏を圧迫することでしょう」
「まあ、お前の言うこともわかるが、奇襲という一番の利を外した奴らにこれ以上大層な期待をかけるのはよすべきだろう」
「……それは」
 青年の言葉に、彼の倍も年齢を重ねているであろう男が言葉に詰まる。青年は北伐帰りの一団から目をそらさず、言葉を続ける。
「これはこれとして一つの結果と受け止め、他を推し進めるべきだろうな。胡どもは牽制程度に意識しておけばよいだろう」
「いかにも。ご慧眼かと」
 追従にも響きかねない言葉を彼はさらりと受け流す。慣れているのか、諦めているのか、なんの感情もその顔に浮かぶことはない。
 ただ、彼が追うのは金髪の覇王の姿だけ。その横に一人の人物が近づいていくのを認めて、彼はにんまりと笑み崩れた。
「しばし、一人にしてくれ」
 そう命じると、少しの間反駁の声があったが、何も言わぬままでいると、人々はさざ波のような挨拶と共に去っていった。
 残るのは望楼の降り口近くに立つ、耳の聞こえぬ兵一人だ。
「ふん、ずいぶんと薄汚れた格好ではないか、覇王と御遣いよ」
 彼ははるか下で何ごとか話している男女の二人を見下ろして、語りかける。その唇に浮かんでいるのは、嘲笑と呼ばれる類のそれだ。
「胡ごときにそれほど苦労するでは先が思いやられるぞ」
 彼は語りかける。親しい者を思いやるように優しく、そして、あらん限りの侮蔑を込めて。
「朕の望む美しき終焉のため、せいぜいがんばってもらわねばの」
 彼は言いながら、懐をなでるようにする。そこには、一巻きの書物が収められていた。
「いまのところは、この太平青領書とやらに書かれたままになっているのが口惜しいところだが……」
 ぶつぶつと呟く彼は、ほんの少しすると気を取り直したように顔をあげる。
「まあ、いずれ出し抜く目もあろう。朕には時間はいくらでもあるからな。そう、いくらでも。終わるときまでは」
 けく、と喉から空気を押し出すような音が鳴った。次いで、くけけけと鳥が絞められる時のような声で、彼は笑う。
「さあて、曹操よ、北郷よ。朕の麗しき終幕は、誰の手に握られておろうな。せいぜい、地を這いつくばるがよいぞ、天の御遣いよ」
 不気味で甲高い哄笑が、空へと昇っていく。
 それを聞く者は、この世に誰もいなかった。ただ一人、彼自身を除いては。




     (玄朝秘史 第三部第十四回 終/第十五回に続く)


※作中の詩は曹操の『却東西門行』です。

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