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578 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2010/03/20(土) 00:09:02 ID:HqJLzvkQ0
玄朝秘史第三部第十回をお送りします。
第三部もすでに十回ですね。長々とおつきあい下さる読者の皆様には感謝感謝です。
さて、前回で荊州問題の大半は終わり、次の展開へのつなぎのお話として、拠点回のような感じと
なりました。
久しぶりにすこし緊張感のほぐれたお話になったかな、と思います。
なお、今回、荊州問題についてのここ数回のお話における時系列をまとめた表を作成しましアップ
しましたので、そのアドレスをテキストの末尾に掻いてありますが、ここでも一応張っておきます。
ttp://ikkonosake.kuon.cc/omake/timeline1.html
です。もしこんがらがっておられる方や、間が開いて思い出しにくいという場合にはこちらもご覧
いただけるとわかりやすいかと思われます。
なお、五十皇家列伝は今回もありませんが、来週にでも複数まとめて投下したいと思っております。

◇注意事項◇
・『真・恋姫†無双』魏ルートの後の話となります。
・ハーレムものです。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・恋姫キャラ以外の歴史上の人物等に関しては、名前の登場はあるものの重要な役割はありません。
・呉勢以外の一刀の子供が出てきます。こちらは多少の役割を担います。
・物語の進行上、一刀の性的アグレッシブさは、真より上になっています。これでも無印程ではない
と思います。
・アブノーマルな形でのセックスやそれに類する行為が出てくることもあります。
・題材の関係上、戦争や戦闘が関わってきます。それに伴い死の描写もあります。

 以上の点に不快感、違和感、ひっかかりを覚えられる方はお読みにならないことを強くお勧めします。
 UP板にて、メールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでも、お気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL →  http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0507



玄朝秘史
 第三部 第十回



 1.両界山


 涼州の西端、敦煌。
 そのさらに西北二百里ほどに、長城の最西端の象徴となる玉門関がある。
 この地はまさに漢土の終わるところであり、一般の人間にとっては世界が終わり、魔境が開けるところとして意識される。
 もちろん、実際にはその向こうには、漢とは違う常識が支配する世界が続くだけなのであるが。
 その玉門関のさらに西方はるか彼方。
 茶色と白の風景――石礫と岩だなの続く乾燥した岩原の中、岩の影になった部分にわずかに生えた植物をこそげ落とすように食べていた蜥蜴が顔を上げる。その見つめる先で、小さな砂礫が空に巻き上げられ、白い煙が立っていた。
 その煙はあっという間に大きくなり、ついに蜥蜴のいる場所を通り越して、過ぎ去っていく。あとにはばらばらとふる砂礫だけが残され、蜥蜴は岩陰の奥に退避していった。
 石くれをはじき飛ばしながら、常人ではあり得ない速度で走っているのは、二つの筋肉――いや、二つの人影。
 彼らはとてつもない速度で広い岩原を走り抜け、ゆるく円を描いて大回りしてみたあとでその動きを止めた。
「このあたり……よねん」
 下穿き一丁で、盛り上がる筋肉をくねくねと動かしてしなをつくりながら言うのは――本人曰く――踊り子、貂蝉。
「うむ、しかし、見当たらぬな」
 それに答えるのは、貂蝉よりは多少衣服をつけているものの、ほとんど変わりない白髪白髭の人物、卑弥呼。
 何かを探すように、二人は周囲を見渡す。しかし、その目に映るのは地平線まで続く茫漠たる沙漠の姿に他ならない。
 岩石沙漠から砂礫沙漠に変わっていたり、低木が生えている地域があったりはするものの、周囲にそれ以外の建造物や自然の造型は見当たらない。まして街道から外れたこの場所では、人影など見えるわけもない。
「あらん、そうすると、本当に……なくなってるのねん」
「うむ。ないな」
 二人はぐるりと全周を見回した後、困ったように顔を合わせた。
「五行山が……ないわねん」
 五行山。それは両界山とも言われ、中華圏とタタールの住まう地域との境界ともされる山――ただし、ある物語の中において。
「この外史で『西遊記』はなしとなったな。それが、この外史がそれまで続かないということか、それとも……」
「ご主人様たちの進出の方が間違いなく要因としては強いでしょうねん」
 卑弥呼が眉間に皺を寄せて考え込むのに、貂蝉は両手を顎の横によせてかわいらしい――と本人は信じてやまない――体勢を取りながら軽く返事をする。
「霞ちゃんと翠ちゃんという二大戦力を投入して、武威から張掖の街道を確保させたんですもの。あそこなら、酒泉はもちろん敦煌の情報も簡単に入ってくるし、さらに西域の情報も手に入るわん」
「そして、この地に峨々たる山など存在しないことなどすぐに伝わる……か」
 卑弥呼はそう言うと、腕を組み、まっすぐに背を伸ばして、遙か東方を見やった。
「さらに、曹孟徳が地図を手に入れ、『世界』を認識した」
「変わるわね、この外史」
 貂蝉が断言して、しばらくの間沈黙が訪れる。
「だが、問題は、それをあやつらが容認するかどうか、だな」
「……どうかしらね。動きは見えないけど」
「うむ……。あるいは、『外れすぎた』か」
「うーん。なんとも言えないわねぇん」
 二人は余人が聞いてもまるでわからない会話を続ける。不安そうでもあり、心配げでもあるその調子は、しかし、その根底におもしろがるような陽性の感情を宿しているようにも聞こえた。
「まあ、よい。今日は五行山を確認した――いや、しなかった、か? ともかく帰るとするぞ、我が弟子よ」
「わかったわん。ああ、そうよん、敦煌で華佗ちゃんに頼まれていた薬種を買っていかないと〜」
 二人は走り出し、次いで、貂蝉の言葉で少々方向を修正して、速度をぐんぐん上げていく。再び、彼らの背後に岩くれが舞いだした。
「そうだな、だぁりんが待っているからな。ただし、気をつけろよ、貂蝉。おぬしのご主人様の部下に見つかると少々やっかいだ」
「そうねん。この体にひきよせられるのはしかたないけどん、ご主人様たちにいま余計なことを考えさせちゃうのは避けたいわん」
「うむ。今日ばかりは漢女としての雰囲気をなるべく隠すのだ」
 走りながら、大きく胸を張り、その筋肉を存分に見せつける卑弥呼を見ながら、貂蝉は小さく頷き、自らも誇示するように筋肉を躍動させる。
「がんばってみるわん。あ、そうだ、華蝶仮面になっているのはどうかしらん?」
「あれは逆に目立つであろう」
「あらん」
 そうして二つの巨体は、敦煌へとひた走っていく。
 無人となった沙漠では、吹き抜ける風が岩棚の隙間を通り抜け、野犬の遠吠えのような音を上げていた。


 2.多事多端


「休みをとろう」
 北郷一刀のその一言が全ての始まりだった。
 武威に駐屯しているとはいえ、左軍の活動状態はそう変わるものではない。いや、将も兵も進軍中より仕事が多い有様だ。進軍中は敵と会することがなければ待機で一日が過ぎることもあるのに対して、武威に留まる間は、周辺諸集落の哨戒と慰撫、反対勢力の取り込み、傷病兵の切り離しと再編成、それに伴う訓練など、一カ所に留まっていられるからこそやれることが多いためだ。
 さらに、碧龍隊、緑龍隊の二部隊に至っては、張掖までの街道を確保するため、かなりの強行軍で武威、張掖間を往復させられた。敵はあまりいないものの、六百里を行き来する、つまり千二百里を短い間に踏破するのはなかなかの重労働だ。
 また、一カ所に多くの兵が集まっているため、いっぺんに休日を与えたりすると、武威の都市の内部にまで悪影響を及ぼすことも懸念される。
 故に、武威到着以来、兵達は進軍時よりもきつい日程をこなしていた。
 だが、武威と張掖の二都市を足がかりにして侵攻を進めるという方針の転換がなったいま、武威への駐屯は長引くことが予想される。そこで、大将たる彼は兵にも将にも一度休養をとらせて、回復してもらうことにしたのだ。
 そんなわけで、兵達には三日、武将たちには一日ずつの休暇が与えられた。軍規を維持するため、沙和率いる右軍の一部が呼び寄せられ、監視の任を負って陣と都市の各所に配することで武威の太守とは話をつけたのだった。
「そのあおりをくらって、北郷一刀本人は朝から晩まで仕事仕事」
 一人、広間に机を持ち出して書類を片付けていた一刀は、そんなことを言いながら、体を伸ばす。んー、と声を上げる彼の後ろから声がかかった。
「自分で引き起こしといてそんなこと言ってるの? 莫迦?」
「あれ、詠? ああ、これからお出かけ?」
 振り返り、軍師としてまとっている白と黒基調の服をぱりっと着こなした詠の姿を見て、一刀はそう問いかける。詠は初日の今日、休みのはずだった。
「そんなことはどうでもいいのよ」
 それよりも、と彼女は続けた。
「あんた、わかってるの? 一番上なんだから、体調崩されたら困るのよ。そんなに仕事抱え込んで」
 詠がぴっと指さす先には、かなりの数の竹簡と紙束が置かれている。普段は他人が処理している物まで集めてきているのだから当然だが、机に積まれた竹簡が彼の肩の高さまで重なり合っているというのは圧巻ではある。
「わかってるさ。でも……さ」
 彼の背後から対面へと回り込んでいく詠を視線で追いながら、一刀は少々申し訳なさそうに、けれど、それでもなにか嬉しそうに笑った。
「みんな、軍の指揮で、表情が厳しくなってばかりだからね。たまにお休みでもあれば……気を緩めさせてあげられるかなって。それに、徹夜続きってほどでもないから」
「……ふう」
 朗らかな笑顔を見て、詠はどうしようもないと言いたげに頭をふる。彼女は両の拳を腰に当て、詰問するように上半身を彼の方に傾けた。翡翠色の髪がふわりと揺れる。
「ま、そういう気遣いもわかるし、それ自体はいいことだけどね。あんたが無理してどうすんのよ」
「そりゃあ、しょうがないさ」
 一刀も同じように頭を振った。
「さっき詠が言ったとおり、俺が一番上なんだしね」
 それを受けて、詠は顔を天井に向け、彼の視線から外れる。一刀は、あきれ顔でいるんだろうなと思っているものの、実際には彼女の顔には柔らかな笑みが乗っている。
「まあ、いいわ。さっさと書類仕事は終わらせちゃいましょ。今日これを終わらせれば、明後日の午後くらいはあんたもボクも休みがとれるでしょ」
 振り向いて椅子を一つ持ち上げ、彼の対面に座ろうとする詠に、一刀は眉をはね上げる。
「え、詠は今日休みだろ……ゆっくり……」
「あんたに押しつけてたら落ち着かないのよ。今日の休みは蒲公英にまわしたわ。さ、やりましょ。そうね、こっちはボクが見るから、あんたはこっち側を……」
 てきぱきと分別を始める詠に、一刀は思わず頭を下げる。
「ありがとな、詠。いつも……」
「うるさい。とにかく手を動かしなさい」
 長々と続きそうな彼の言葉をぴしゃりと遮って、詠は自らも筆を取り上げ、仕事に取りかかる。頭を上げ、その様子を見た一刀は笑みを浮かべずにいられない。
「はいはい」
「はいは一回!」
「了解」
 照れているのかどうか、ほんのりと桜色に染まった横顔を見ながら、北郷一刀は新たな書類へと取りかかるのだった。


「太守より使者が参りました」
 昼過ぎ頃、そう言って兵が書簡を持ってきた。聞くと使者はそのまま待たせているということなので、読んで返書を送らねばならない。一刀は早速竹簡を開いて目を通す。
「なんて?」
 読み終えるあたりを見計らい、詠が訊ねかけた。
「近隣の部族が太守宛てに貢納……というか、まあ、実質的な服属の申し入れをしてきたらしい。通例では洛陽に図ることになるけど、俺たちがいる以上、俺たちに処理してほしいってさ」
「ボクたちの駐留が引き起こした事だろうしね。そうね……あんたでもいいけど、話が派手になりすぎるから、夕方にでもボクが行って話を聞いてくるわ」
「ん、頼めるか?」
「ええ」
 詠が頷くのに、一刀は返信の書簡を書き上げ、兵に渡した。
「じゃ、これよろしく」
 兵が立ち去るのを見て、二人は態度を緩めた。一刀が立ち上がり、お茶の用意を始める。
「武威を拠点とするのは、荊州の件で足止めを食らったからもあるけど、実効面でもけして悪手ではないようね」
「そうだな。あとは、張掖への駐屯をいつ進めるかだが……。まあ、そのあたりはもう少し待つか」
「このあたりの地ならしを済ませなきゃ。道だけは確保してるし、そこはなんとでもなると思うけどね。あとは季節の推移次第もあるか……」
 ぶつぶつ呟きつつ、頭の中で計画を立て始めているらしい詠の前に茶杯を置く。それから、一刀は彼女の横に立ったまま、頭を下げた。
「荊州のこと、ありがとうな」
「なによ、いきなり」
 驚いたような声に顔を上げた一刀は席に戻って、口を開く前に茶を含み、喉を湿らせる。
「いや、その、さ。……きつかったろ、星たちの前であんなの」
 言葉を選んで言った途端、じろ、と対面から鋭い視線が飛んできた。
「ボクが? この賈文和が?」
 嘲るような笑みが一瞬、彼女の口の端に浮かぶ。
「あのねえ、教えてあげる」
 彼女は椅子に深く腰掛けると、真っ直ぐ彼のことを指さした。
「そう思うのはね、あんた自身がそう感じているからよ」
「う……」
 図星だったのか、一刀は奇妙な声を喉から絞り出すと黙ってしまった。
「まあ、ボクも軽く愚痴るくらいには疲れたけど、だからって本気で嫌だったとかそういうわけじゃない。やるべきことをやっただけだもの」
 彼女は突きつけた指を戻し、小さく肩をすくめる。
「でも、あんたは違う。隠し事はできても嘘はつけない人間だからね」
 それから詠は彼の淹れた茶をゆっくりと味わう。その間、一刀の方は複雑そうな顔をしながらも何も言わずに考え込んでいるようだった。
 詠は茶杯を置き、彼の瞳を覗き込んだ。一刀の方もまた真剣に彼女の事を見つめ返す。
「忠告してあげるわ。今度からは、嘘をつかない方向で考えることね。今回は急な話でボクも冥琳も代案をうまく作れなかったけど、今後はそうするつもりよ。言わなくていいことまで言う必要はないけど、嘘をつく必要もまたないわ。相手が理解しようと、それに抗しきれないものをぶつければいいんだから」
「過激だな」
「でも、正しいやり方よ。あんたが意志を通したいなら、そうすべき。自分に嘘がつける性質じゃないんだから」
 一刀はその手の中で茶杯をもてあそび、水音を立てさせながら、眼鏡越しに覗き込んでくる詠の視線から目をそらす。
「そうだな……」
 しばらく詠はそんな彼のことをじっと見つめていたが、何か思案でもあるのかうつむいて視線をさまよわせる。
「あんたの礼を受け取る代わりに、一つ訊いて良い?」
「ん? もちろん。なんでもどうぞ?」
 一刀は快く答えるものの、詠はなかなか問いを発しようとしない。一度二度口を開いては閉じて、結局ため息を吐いてから、声を発した。
「ボクが訊きたいのはね、あんたは、今回のこと、未来を見据えてやったのか、過去に向かってその責任を取ろうとしたのか、どっちなのかってことなの」
「過去?」
 一刀は首をひねる。未来というのはわかる。荊州の問題は、大陸の今後に関わるからだ。しかし、過去とはなんだろうか。
 彼が考えていると、詠は、口を挟む間もなく、一気に言葉を吐き出し始めた。
「ボクは華琳ほど柔軟な――あるいは創造的な思考が出来ないから、あんたが消える事と三国を統一することにどれほどの因果関係があるのかは理解できない。あるいは重要な情報が抜けているのかもしれない。まあ、それを掘り下げるつもりはないのだけれど。
 ともあれ、外形的な動きと、霞から聞いたこと。それらを合わせて推察すると、彼女が本気で信じていたと考えざるを得なくなる。だからこそ、彼女は一度統一した物を分け与え、そして、荊州のように中途半端なままの地域もできてしまった。
 あんたが消えないことを祈っての最大限の譲歩……。
 ボクは、かつて、その華琳の行動を、あんたにつきつけた。だから……」
 身振り手振りさえ交えて、自分の中の思いの丈をぶつけてくる彼女の言葉を遮るのは一刀にもためらわれたが、それでも言わなければならなかった。
「詠」
 名を呼ぶ声に、彼女が顔を彼に向ける。その小動物が傷ついた身をかばってするようなぎこちない動きに、彼は立ち上がる自分の体を止めることはできなかった。
「俺は帰ってきた」
 吐息のような、苦鳴のような、意味を成さない言葉が詠の喉から漏れる。
「消えた要因はなんとなくわかっているし、華琳がなぜそうしたかもわかる。けれど、俺は帰ってきたんだ」
 彼は机を回り込み、詠の座る横に跪いた。安心させるように彼女の手を取り、両方の掌で包むこむ。やっぱり詠の手は小さいな、彼はそんなことを思う。
「だから、三国の現状が全て俺のせいだなんて、そんな風には思っていない」
 ゆっくりと、言い聞かせるように。彼女がけして聞き逃さないように。
「詠に、そう思わされてもいない」
 うつむいたままの彼女の答えは一言だった。
「……莫迦」
 詠らしい言葉に、一刀は微笑みをさらに深くした。小さな声でぼそぼそと、彼女は続ける。
「そんなに優しくしないでいいのに。もっと罵ったっていいのに」
「過去は大事だ。未来はもっと大事だ」
 それは、自分の生きる場所であり、愛する人達の、そして、自分の血を分けた子供達の生きるところだから。
「けれど、そのために、いま、目の前にいる大好きな人を泣かせるつもりはないよ」
「ばか」
 先ほどまで青ざめていた顔を真っ赤にして呟く罵倒は、彼の耳にはとても甘く聞こえた。


 3.従姉妹


「一刀殿ー。警邏の時間だぜー」
 減らしても減らしてもなかなか終わりの見えない数々の案件を、詠と一刀は話し合いながら徐々に進めていた。そこに愛用の十文字槍、銀閃を携え、しっぽのように結った髪を揺らしながら入ってきたのは、錦馬超こと翠。
「あれ、もうそんな時間か」
「うん、そろそろ時間」
 一刀は書類から顔を上げ、翠に応じる。休暇の期間中、街の治安維持は右軍に任されていたが、それ以外にも将たちによる巡回が行われることになっていた。特に大将である一刀自らが巡視活動を行うという事実は、軍規を保つという意味でも、太守や民に安心感を与えるという意味でもすこぶる効果が高いと考えられていた。
「行ってらっしゃいな。ボクはこっちの処理を進めておくわ」
 書面から目を離さず、ひらひらと手を振る詠。
「悪い。夜までには戻ってくるから」
「戻ってくる頃は、たぶん、ボクは太守の所に行ってるから」
「あ、そうだった」
「詠、なんかいるもんとかあるか? あたし、買ってきてもいいけど」
「いまのところないかなー。ありがと」
 三人はそんな会話を交わし、それぞれの職務へと向かう。
「張掖との往復お疲れ様、ありがとうな、翠」
 それなりの格好を整え、午後の街へ出て歩き出すと、一刀は横に立つ翠に、まず礼を言った。荊州の問題から蜀勢との関係が微妙である現状で、率先して街道の安全を確保するべく動いてくれた霞と翠の部隊には、一刀としても本当に感謝していたのだ。
「うん。でも、強行軍だったけど、帰って来た途端、休みがもらえてみんな喜んでるよ。まあ、本陣の連中を連れてくのは結構面倒だったけどな」
 本陣の、というのは張掖に先行して駐留する五百名ほどの兵のことだ。文官としての仕事も可能な本陣詰めの人員を張掖に置いて、様々な調整や連絡に用いることとしているのだ。
 彼らも騎兵としての訓練を受けているものの、翠や霞の部隊には敵うはずもない。それが制約となって、速度を上げきれなかったと言うことだろう。
「そうか、それならよかった」
 大通りの人並みを縫うようにして、二人は進んでいく。通りを行く兵の中には将の二人を見つけて直立不動の姿勢をとろうとする者もいたが、一刀も翠も気にしないように、と身振りで伝える。度を超してふざけたりするのは困るが、緊張して休めないではしかたない。
「いやー、それにしても、なんか久しぶりだな、こういうの」
「ん?」
「ああ、翠は知らない? 俺、警備隊長だったんだよ。華琳の都のね」
 持っている棍をとんとんと調子よく地面に撞きながら、横を行く翠に語りかける一刀。
「陳留も洛陽も、知らない道はないぜ? まあ、さすがにしばらく空白期間があるから裏通りは厳しいかもしれないね」
「へぇ。そういや聞いたことがあったな。天の御遣いは毎日都を巡回しては……」
 翠はそこまで言って、はっと何かに気づいたように口をつぐんだ。あからさまに目をそらし、道の向こうを見やっている。
「どうした?」
「あ、いやー。なんでも……」
 もごもごと言葉を濁す彼女に、一刀は苦笑を浮かべるしかない。
「なんだよ、翠。途中で切られたら気持ち悪いだろう」
 その言葉に観念したのか、翠はそっぽを向いたまま、小さな声で呟いた。
「……いい女を漁っているって」
「あー」
「あ、あたしは信じてない、信じてないぞ!」
 そらしていた体を戻し、朱に染まったその顔を彼に向けて彼女は腕を振る。
「はは。心配しないでも、その程度はもう慣れてるよ」
「……すまない」
「まあ、見境がないように言われることについては不本意な部分もあるけど、女好きって言われてもしかたないのはあるかな?」
 もじもじと身を縮こませる翠に、ぱたぱたと手を振って、一刀は明るい調子で言ってのける。
「そ、そうなのか?」
「うん、だって女の子は好きだからね。それに独占欲もあれば支配欲もある。だからって誰にでも手を出すと思われるのも困るけど。好きな相手じゃなきゃ、そういう気にはならないものだよ」
 少々呆気にとられている感のある翠に、一刀はなんでもないことのように話し続ける。事実、彼にとってそれは特に隠すことでもないのだろう。
「まあ、いろいろと魅力のある女の子にはくらっとくるけどな、実際」
「あ、ああ、たとえばあたしとかな?」
 それはあくまで冗談だった。気まずい雰囲気を払拭するための、ひょうけた行動だった。
「うん、そうだね。翠は魅力的だ」
 だから、真剣な顔で答えられて、彼女はしばし自失してしまった。
「……へ?」
「え?」
 顔を見合わせて妙な声を上げる二人。その声に、ははっ、と翠は小さな笑い声を上げた。
「じょ、冗談だよな、そうだよな」
「いや? 冗談じゃなくて、翠は可愛いし、自分のやるべきことにも一生懸命だし、魅力的な女性だと思うよ」
「……っ!」
 声にならない声を上げ、翠は硬直してしまう。
「か、か、か、からかうなよ!」
 ほんのわずかな時を経て動き出した翠は、彼を道の端に引き寄せて、かみつくようにそう言った。だが、男の方はその言葉に困ったように真剣な顔を返すばかりだった。
「いや、からかっているとか、そういうんじゃなくて。俺は翠のこと、仲間としても尊敬できるし、一人の人物としてもすばらしい女性だと思ってるんだってば。馬を操る姿とか、本当に綺麗だし」
 今度こそ本当に棒立ちになって目を白黒させ始める翠。う、とか、ぁとか呻くばかりで動こうとしない彼女にどうしたらいいかと一刀が考えていると、横合いから声がかかった。
「あれー。一刀兄様とお姉様だー」
 聞き慣れた声に振り向くと、白基調のふわふわとした服に布飾りをたくさんつけた姿の蒲公英がそこにいた。とことことそのまま近づいてくる彼女を見て、一刀は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「お、蒲公英。着てくれたんだ、それ」
「うん、どうー?」
 くるり、とまわって、一刀から贈られた服を着た自分を示してみせる蒲公英。ふんわりと裾が広がって浮かび上がる様が、なんともかわいらしい。
「似合ってるよ。やっぱり可愛いな」
 えへへー、と照れ笑いを浮かべる蒲公英と、俺の目に狂いはなかったな、と頷く一刀。ひとしきりじゃれ合った後で、蒲公英は未だにぷるぷる震えて立ち尽くす従姉に目をやった。
「で、これは……?」
「いや、翠と警邏中なんだけどさ。話していたら、なんか固まっちゃって」
「何かあった?」
 その問いかけに、首をひねりながら一刀は答える。
「翠のこと可愛いって言ったら……」
「あー、それねー。お姉様、照れ屋だからさー。自分が褒められるとてんでだめなんだよねー」
 蒲公英は小さくため息をついて、従姉のことを評する。
「まあ、動転して逃げ出さないだけ、進歩したかも」
「そ、そういうものか」
「でも、どうする? 一刀兄様」
「この往来じゃあ、いくら端っこに寄ってるとは言え、な……。っと、あそこに行くか。人通りも見て居られるし」
 彼は辺りを見回し、店の前に卓と椅子を並べた茶房らしきところを指さす。一応警邏の途中であることを意識して、店の奥に入るのは避けたい一刀だった。
 蒲公英は頷き、ふらふらしている従姉の手を取って導き出した。
「こういうの、俺の世界じゃフリーズって言ったなあ」
「ふりーず?」
 どうにかこうにか魂が抜けたような翠を茶屋の椅子に座らせた二人は、一汗かいた、と椅子に座り込みながらそんなことを話していた。
「一刀兄様、なにか食べる?」
 菜譜を店員から受け取って、蒲公英がそれに目を通し始める。
「ああ、そうだな、軽く。あと飲み物もなにか欲しいな」
「じゃあ、たんぽぽが注文していい? こっちの食べ物よく知らないでしょ?」
「それもそうだ。お願いするよ。ああ、蒲公英の分は俺が出すから」
「わーい」
 蒲公英が何品か注文し、しばしゆったりとした時間が流れる。その中でも、彼は棍を股の内に通して肩口にかけており、なにかあっても動けるようにしていた。こんなことしなくとも、たとえば蒲公英ならばあの服のまま自分以上の動きが出来るのだろうなあ、などと考える一刀。
「それにしても、どんな流れでお姉様のこと可愛いなんて話になったのー? まさか口説いてたとか?」
「いや、そういうわけでもないけど……俺が女好きだって話で」
「……それでどういう経緯でお姉様のことになるのかよくわからないなあ」
 こてん、と首を傾げる蒲公英に、どう説明したものやら、と一刀が考えていると、不意にその隣に座っていた翠が動き出す。
「う、う、う、うるさいぞ、蒲公英」
「あ、戻ってきた」
「ともかく、その話はいい。気にするな」
「えー、でもー」
 不服そうに唇をとがらせる蒲公英に、さらに翠が言いつのろうとしたものの、従姉妹たちの間の緊張は、店員が飲み物を持ってきたことで解消された。
 その様子に、一人ほっと息を吐く一刀であった。


 4.郷土料理


「きたきたー。はい、お姉様はこっちね。一刀兄様とたんぽぽはこれ」
 大きなどんぶりの様な器に入った物を、それぞれ分けていく蒲公英。翠の前にある器だけが少しばかり小ぶりで、淡く湯気が立ちのぼっていた。
「これ、なんだ?」
 白く濁った表面を観察しながら、どんぶりを持ち上げる一刀。顔に近づけるだけで、濃厚な乳の香りがした。ヨーグルトみたいだな、と彼は独りごちる。
「馬乳酒だよ」
「え? 酒か?」
 翠の声に顔を上げるが、既に蒲公英はごくごくと大量に飲み下している。蒲公英は休みだから酔っても問題はないのだが……そんな風に考えていると、器から口を離した蒲公英が笑いかけてきた。
「大丈夫だよー。強くないもん」
「そ、そうか」
 せっかくだから、と口をつけてみる。濃厚な乳の香りと発酵臭が鼻をつく。そのまま口に含むと、爽やかな酸味のある乳飲料という感じで一刀の味覚にもそう違和感はなかった。発酵に伴う軽い発泡感が、より爽やかさを強調している。
 ただ、現代日本で飲んでいた乳製品と明らかに違うのは、絞ったままの馬乳を使っているために、味わいに様々な広がりがあることだ。乳飲料と言えば、加熱殺菌などの処理を経たものばかりを口にしていた一刀には新鮮な味わいだった。
「ふうん、確かに酒精は強くないんだな」
 蒸留技術などが発達していない、こちらの酒に比べてもなお低い。これなら、このどんぶり一杯どころか数杯を飲み干しても酔うことはないだろう、と彼は判断した。
「かなり強くしたのもあるけど、そういうのは特別かな。こっちではある時期にはこれが主食って人たちもいるくらいだから。そういう部族だと、前の日に甕一個分くらい馬の乳を搾って、翌日には一家で飲み干しちゃうとかするらしいな」
「へぇ」
「肉と馬乳酒さえあれば、なんとかなるもん。野菜とかあんまりない地域もあるしねー」
 たしかに、この土地で野菜栽培は難しいのかもしれない、と蒲公英の言葉を聞いて彼は思う。となると、馬や羊などの乳を介して必要な栄養を取り込んでいるのだろう。
「翠はなに飲んでるんだ?」
 馬乳酒の味わいに慣れてきた一刀はがぶがぶと飲みながら、翠の方を見た。彼女が両手で包むようにしている器だけ湯気を立てている。馬乳酒ではないことはたしかだった。
「ああ、薄茶だよ。安い茶葉を乳で煮てるんだ。あたしらが洛陽から持ってきているような茶葉は、ここいらじゃ手に入らないか、めちゃくちゃ高いからな」
 翠が少し器を傾けて見せてくれた飲み物は、一刀にはミルクティーのように見えた。実際には、羊の乳で茶葉を煮出して、塩を加えた物だ。これもまた飲料というよりは、一種、食事に近い。
「ふうむぅ……」
 そこで頼んでいた軽食の皿が二つほど届く。店員が下がっていった後で、一刀は再び翠の持つ薄茶に注目した。
「なあ、それ、もらってみてもいいかな?」
「あ、え……?」
「飲んだことないからさ、どういうものか試してみたいんだ。少しだけ。な?」
 拝みこむようにされ、さらに蒲公英からもじっと見つめられて、翠は頬を染める。彼女は顔をうつむかせて、その手の中の器を卓に置くと、彼の方へ動かした。
「う、うん……ど、どうぞ……」
 器を手に取り、言ったとおり少量だけを喫する一刀。ミルクティーを想像していたために甘みがあるように勝手に思っていた彼は、舌を刺激する塩味に驚いたものの、その濃くて熱い液体が体に染み渡る感覚を味わうにつれて、驚きは納得へと変わっていく。
「ふうん、とろりとしてバターみたいだな……脂っこいわけでもないのに。塩分もあるし、汗かいた後にはよさそうだな」
 特にこの乾燥した空気の中では、こうした茶や馬乳酒で栄養と水分を摂る方式は優れているように彼には思えた。地元の民も長い年月の間に編み出したものだろうし、気候や風土にあっていないわけがない。
「これはいいな。兵たちに配れないだろうか。っと、ありがとう、翠」
 詠たちとも相談して、配給できるかどうか検討すべきかもしれないな、と呟いている彼をよそに、器を返された翠はそれをまるで大事な宝物であるかのように両手で掲げ持つと、じぃと凝視する。
「一刀殿の唇が触れた杯……汗……ふたり……いやいやいや」
 顔どころか首筋まで紅潮させ、ぶつぶつと呟き始める姿を見て、蒲公英はため息を吐くしかない。
「まーたお姉様が『ふりーず』してる」
「……ん? どうしたんだろう」
 大規模に配るためには遊牧民と同じく羊を連れて歩く必要があることまで考えを及ぼしていた一刀が、蒲公英の声に顔を上げる。たしかに先ほどと同じく、翠には周囲の声が届いていないように見えた。
「……一刀兄様も集中すると周り見えなくなることあるよね」
「ん?」
「まあいいや、食べよ食べよ」
 ごまかされたような気もしないでもなかったが、小腹も空いていたので、蒲公英のすすめに従って、皿に手を伸ばす。暗褐色のそれはなにかの揚げ物のようで、皮はぱりっとしていて、それを噛むと柔らかな中身がくにゅくにゅと漏れ出てきた。まろやかな舌触りとこくのある味で、癖になりそうだ。
「これは?」
 馬乳酒のどんぶりを傾けつつ蒲公英に聞く。馬乳酒とこの揚げ物だけでも、かなり食が進みそうだ。蒲公英もまたその揚げ物を一つ口に放り込み、呑み込んでから答える。
「羊の腸に、羊の血を詰めたものだよ。これは揚げてるけど、焼いたりするほうが多いかな?」
「へー。血の腸詰めか。臭みがないね」
 言われてみれば、一つ一つの円筒の形はつながって長い筒型になるように見える。腸詰めを適当な長さで切り分けて油で揚げたのがこれなのだろう。そして、羊は肉でさえ少々臭みがある場合があるのに、それがまるでないというのが彼には驚きだった。
「一刀兄様、あまりこういうの抵抗ない?」
「ん?」
「言わなかった蒲公英も悪いんだけど、よく考えたら、馴染みのない人には食べにくいんじゃないかなーって思って。馬乳酒くらいは平気だと思ってたけど」
 珍しくおずおずとした問いかけに、彼は腕を組み、視線を上空に向ける。
「まあ、俺の世界でも血のソーセージ――って腸詰めのことな――そういうのとかあったしなあ……」
 ドイツ料理だったかフランス料理だったか、記憶が定かではないが、似たようなものがあったはずだ。彼自身の経験としてはどこかで一度食べたことがあるようなないような、という程度でしかないけれど。
「それに、この世界に来てからは、新しい物に次々慣れていく生活だったからなあ。おいしければ気にならないよ」
 言いながら視線を戻し、蒲公英に笑いかけながらもう一つ、その腸詰め揚げを口にする。
 これははまったかもなあ。彼は小さく呟いた。
「ほんとにおいしい」
「そっか」
 ほう、と安心したように息を吐く蒲公英。一刀はもにゅもにゅと揚げ物を味わってから体の向きを変えた。
「翠は食べないの?」
「え? あ、う、え?」
 名を呼ばれ、夢から覚めたように顔をあげる翠。彼女は揚げ物を指さす一刀と、にやにや笑いで顔中を覆っている蒲公英を見て、慌てたようにもう一つの皿から白い塊を取り上げた。
「あ、あたしはこっちを」
 そのまま、彼女は片手で持っていた薄茶の器の中に、その白いものを入れてしまう。
「へえ、そうやって食べるんだ」
「直に食べても大丈夫だよー。こっちは、羊の乳で作った豆腐ね」
 感心している一刀に、蒲公英が塊を割り裂いて、ちょうどいい大きさにして渡してくれる。一刀はまず香りをかいでみたが、薄茶よりさらに濃い乳の香りがした。そのまま口に入れるとその香りが口中に広がる感覚があった。
「ふうん……。ああ、チーズみたいなものか……。ちょっと甘いな」
「うん、ここのは柔らかくして甘くしてあるねー」
「あんまり柔らかくないときは、こうして温めて柔らかくすることも多いんだ」
 薄茶の中の塊をごろごろ指で転がしながら翠が言う。薄茶も羊の乳が主体であることだし、親和性が高いのだろう。
「焼いた羊の肉をそこに入れることもあるよねー」
「あそこまでやると脂っぽくなって、あたしは嫌だな」
 二人の会話を聞き、一刀はうーん、と軽く唸る。
「羊や馬の、乳や肉が中心なんだなあ」
「羊と馬さえいれば、この地ではなんとでもなるから。血や肉は食べるし、糞は燃料になるし、毛や皮は服や容器にするしな。ただ、本当に羊や馬に頼る部族は、家畜の肉を食べるのはよほどの時だけで、乳から出来る物が主かな」
 翠は器を傾けて乳豆腐を歯でむしり取ると、薄茶と一緒に飲んでしまう。柔らかくするとああやって食べられるのか、と一刀は感心しきりだ。
「でも、もちろん、そんな牧畜ばかりに偏っている部族ばかりじゃないよ。馬を育ててそれを食物や衣類と交換するのもいれば、この城の中みたいに水があるところでは作物を作ったりして、それを外の部族に売りつけたりする人間もいる。穀物はだいぶ保つから」
 翠は手を振って周囲を示すようにして、さらに続ける。
「武威はちょっと成り立ちが特別だけど、普通にある街やなんかは、そういう交易とか交換の場としてできたのが大きくなったのが大半じゃないかな? 水場だったから元々人が集まっていたってのはあるだろうけど」
「豪族とかも、そういう交易を元に大きくなったのがいるよねー。馬なんて特に中原に売ると、すんごいお金になるし」
「さらにその馬を自分たちで使えば、涼州の精強な騎兵となる、か……」
 乳豆腐をもう一切れ貰いながら、一刀は興味深げに呟く。どの土地でもなるべくしてなった発展過程があるものだが、話を聞く限り、やはり中原とは成り立ちが異なる。そうやって積み重なってきたものを無視しては、この土地を統治することは不可能だろう。
 統治自体はいずれ戦が終われば翠が王となって引き継ぐわけだが、この北伐の間も色々気を配っておかないといけない、と彼は自分の心の中の備忘録に書き記しておくのであった。


 5.欲


「でさー、実際どうなのー」
 話題は転換し、先ほどから蒲公英は一刀の女性関係について執拗に問いただしていた。恋人が多数いるという事実、しかも三国に渡っているという状況が、彼女にとっては興味深いようだった。
「お前、酔ってないか?」
「酔ってないよー。馬乳酒くらいでたんぽぽが酔うとおもってるのー? ひっく」
 翠は女性関係の話は聞き流すふりをして、その実聞き漏らすまいと耳をそばだてていたのだが、蒲公英の口調が怪しくなり始めた段でついに問いただした。そして、そのしゃっくりまじりの返答は彼女の従妹が見事に酔っ払っていることを示していた。
「……休みだからって気が抜けてるな、こいつ」
 一刀もその様子を見て取り、軽く苦笑しつつ口を開く。彼は日暮れとまでは言わずとも明るさを減じ始めた空を見上げて、少し考えた。
「そうだなあ。どうせなら歩きながら話そうか。ここでずっと座っているわけにもいかないし」
「んー。わかった」
 蒲公英が残っていた馬乳酒をごっきゅごっきゅと飲み干している間に、一刀は会計を済ませ、自分のどんぶりも空にする。
「じゃあ、行こうか。一応警邏だからね」
「ああ、そうだな。蒲公英あんまり邪魔はするなよ」
「はいはい」
 従姉のきつい調子の言葉に適当に手を振って蒲公英は歩き出そうとするが、着慣れない服のせいか、あるいは酔いが予想以上に回っていたのか、足がもつれた。
「おおっと。大丈夫か?」
 一刀が思わず正面から抱き留めると、彼の胸にこてんと頭をぶつけた蒲公英は、そのまま彼の腕をとった。彼の左腕全体が柔らかな温もりに包まれる。
「んー、ちょうどいいな。一刀兄様に支えてもらおっ」
「おい」
 柳眉――というには立派な眉を――逆立てる翠だったが、一刀が手を振って制止する。
「はは、いいよ」
 蒲公英には見えないように、あっちこっち行かれずにすむ、というような仕草をしてみせる一刀。翠は諦めたように顔をゆがめると、しかたないというように一つ肩をすくめて歩き出す。一刀と蒲公英も腕を組みながら、それに遅れないように歩き出した。
「ええと、まず、なんだっけ。その服の見立てだっけ?」
「そうそう、蒲公英の体にぴったりでさー」
「あ、それはあたしも思った」
 思わず、といった様子で口を挟み、しかし、翠はまずいと言わんばかりに口を自分の手で押さえた。
「あ、お姉様ついに袖通したんだ?」
「い、いや、だってせっかく……その、贈って貰ったわけで……」
 もじもじとそっぽを向いて歩く翠に、一刀は笑みを向ける。
「うん、いつか翠が着ているところも見たいな」
「に、似合わないよ、あんな可愛いの!」
「えー、そんなことないと思うけどなあ。お姉様は自分の……っていまはその話じゃなくて」
 また『ふりーず』されても困るしね、と一刀にだけ聞こえる声で囁く蒲公英。
「なんでこんなぴったりわかるの? やっぱり女性経験?」
 直截な問いに、さすがに苦笑を隠せない一刀。しかし、彼はそれを否定することなく答えた。
「まあ、それがまるで関係ないとは言わないけど、主には観察と努力かな?」
「観察は、まあ、わかるが……」
「努力ぅ?」
「そ。桔梗や白蓮や紫苑や璃々ちゃんにまで協力して貰ったからね。近しい人間に聞き込むのはなかなか効くもんだよ。目分量もいろんな人物の目線から見たものなら、真実に近づけるって訳」
 彼が軽く言うのに、そっくりな仕草で首をひねる二人。そういう何気ないところに血縁を感じさせられる一刀。
「そ、そう簡単にいくかなあ」
「そこが努力さ」
 一刀は一つ肩をすくめて見せる。実際の所、武将達の記憶力や再現力には彼も舌を巻く。蒲公英や翠も同程度の事は出来るはずだが、それを意識していないために理解しづらいのだろう。お互いで命のやりとりすらしている武将達にしてみれば、相手の筋肉の動きや、腕や脚の長さといったものは意識にのせるまでもなく体得しているものなのだ。だから、逆に指摘されるまで気づきにくい。
「それに、結局はお針子さんの腕だからなあ。俺が出来るのはなるべく裁縫する人がやりやすいようにすることだよね。ああ、そうだ。洛陽に戻ったら、その服を作ってくれたところを紹介するから、仕立て直して貰ったらいいよ。きっとそのほうが……」
 彼の言葉を遮り、さらに体を寄せて、蒲公英が勢い込んで訊ねる。
「でもさ、でもさ、それだけたんぽぽたちに注目してたってこと?」
「え? そうだね。二人とも目を惹くし」
 その言葉にぴくり、と翠の肩が動くが、今回は見回りの仕事を優先したのか聞き流すことにしたようだった。視線が町並みへ向かっていた。
「それに、一緒に働く人達とは仲良くしたいから。ほら、俺は蜀絡みの人達とはあまりつきあいがなかったし、余計ね」
「そうだよねー。一刀兄様、戦の後、いなかったもんねえ」
「ちょっとね」
 一刀は笑って片眼を瞑ってみせる。翠が無言ながら、ちらりとこちらを気遣わしげに見たのに気づき、誰かからなにか聞いているのかもしれないな、と彼は見当をつける。一方の蒲公英は純粋に不思議そうなだけで、こちらはあまりそのあたりの子細を把握していないのだろう。
「その前にも会ってはいるけどさ。反董卓連合とか、あるいは西涼に……と、悪い」
 この土地でそのことを口にするのは気が咎め、一刀が言葉を濁すと、西涼の錦馬超はさすがに苦笑を浮かべていた。
「まあ、あの頃はなあ。みんなが敵対したり、攻め寄せたりだったからな。いまさらお互い責め合ってもしかたない。それに、いまだって、あたしたちは……」
 人々の流れを見やりながらしみじみと翠が言い、一族の棟梁の横顔を蒲公英も見上げ、しばらく三人の間を沈黙が支配する。周囲の人々の喧騒が、急に意識された。
「あとは、なんだっけ、三国に恋人がいることだっけ?」
 頬を指先でかりかりと掻きながら、照れたように呟く。
「あ、うんうん。どうしたらそうなれるのー?」
「蒲公英、はしたないぞ」
「別にたんぽぽがなりたいとかってことじゃないよ。ただ、なんで一刀兄様はそうなのかな、ってのが興味あるだけ」
「そういうことを訊くのが……」
 言い合いになりそうなのに、慌てて一刀は口を挟む。
「根本的な原因は、俺がわがままだから、かな」
「わがまま?」
「欲深いって言ってもいい」
 従姉から視線を戻し、ぶら下がるようにして顔を見上げてくる蒲公英に一刀はにっこり笑って答える。
「気が多いのは否定できないからね」
「まあ……ねえ」
「それに、否定するつもりもない。俺は彼女達のことが大好きだし、誇りに思ってもいるし、憧れてもいる。こんなことを言うのはおこがましいのかもしれないけれど、それでも俺は彼女達が好きでしかたないんだ。
 それで彼女達の方が応えてくれているのは、きっと俺が幸運なんだろう。
 そうして、応えてくれる彼女たちがもっともっと好きになる。そんな彼女達のために、俺自身が何が出来るかを考えて……まあ、その繰り返しかな」
 じっと大きな瞳で見つめて来る蒲公英にも、目は他に向いているものの、意識はこちらにも配分しているらしい翠にも、彼は胸を張って断言する。
 それから、少々照れたように笑って、それに、と付け加えた。
「きれい事じゃない部分でも、欲しくなっちゃうんだよね、全部。そう考えるとやっぱり、強欲なんだろう」
 ふぅん。
 蒲公英は納得したのかどうなのか、生返事とも言い難い熱心さで呟いた。一刀としても、彼女が訊ねたことに的確に答えているのかどうかは疑問なのだが、といって、いまはこれ以上うまく言い表す言葉がない。
「ねえ、一刀兄様」
 彼女はなぜか目を軽く伏せ、言葉を選ぶようにゆっくりと訊ねかけてきた。
「全部ってさあ……」
「おい、蒲公英」
 制止しようとした翠も、訊ねかけられている一刀も、蒲公英が訊きたいのは、この昼日中に語るにはきわどい話題であろうと思い込んでいた。彼女の年齢ならば、そういったことに関心を示すのは当然だし、それほど近しいものでもないが故にさらに興味をかき立てられるであろうと自然に思えたからだ。
 だが、彼女の問いは、二人の予想を遙かに超えていた。
「命も?」
 すっと一刀の顔から笑みが引く。翠はぽかんと口を開けていた。
「蒲公英」
 声の鋭さに彼女の体が震える。組んでいる腕からその震えを感じ取り、彼は手をまさぐって、彼女の指先を自分のそれと重ね、きゅっと軽く握りしめた。
「そういことは軽々しく口にしてはいけないよ」
「……ん」
 しばらくの間を置いて、こくり、と頭が動く。それと同時に指を折り曲げて一刀の指を握り返してくる。
 その温もりに、男は微笑みを浮かべ、明るい声で彼女に話しかけた。翠はその様子にほう、と息を吐き、再び周囲の警戒に戻っていた。
「こっちからも一つ訊いて良いかい、蒲公英?」
「なあに?」
「髪は下ろさないの?」
「え?」
 予想外だったのか、蒲公英は自由なほうの手で自分の髪に触れる。その動きで袖についた飾り布が大きく揺れた。
「ほどいても可愛いと思うよ。普段の元気な格好の時はそうやって結ってるのもいいけどね。その服なら下ろしてもいいと思うな」
「そうかな? じゃあ、今度しよっかなー」
「うん、俺は翠も蒲公英も、髪を下ろした姿が……」
 そこまで言ったところで、大きな音が聞こえてきた。打撃音と何かが大地に倒れる音、そして、いくつかの悲鳴。
 その途端、まだ少し酔いの余韻を残して緩んでいた蒲公英の顔は引き締まって普段通りになり、一刀が目をやった時には、翠は銀閃の刃につけた覆いを既に外していた。
 一刀と翠は視線を交わし、翠が軽く顎を引く。
「あたしは先に見てくる。一刀殿は蒲公英と様子を見ながら来てくれ。蒲公英、一刀殿のこと、頼むぞ」
「りょうっかーい」
「一刀殿、大事になりそうなら……」
「わかってる。沙和に連絡を取る。兵じゃだめなら休んでない将を呼ぶよ」
 了解の印に腕を振り、翠は大地を蹴って飛び出すように先へ進む。騒ぎとあって、人の壁ができあがっていたが、そんなものは存在しないかのように空隙をすり抜けて先へ先へと進んでいく。見る間に長い栗色の髪は遙か彼方へと去っていった。
「なあ、蒲公英?」
 護衛のはずなのに、なぜか彼の腕に掴まったままの蒲公英とゆっくり周囲の様子を確認しつつ歩きながら、一刀は訊ねかける。
「ん?」
 腕を組み、よりそうようにしている蒲公英は不思議そうに彼の顔を見上げた。
「星は今日……」
「星姉様? たしかお休みだよー」
 その時、彼らが向かう先から、よく通る声で名乗りあげる台詞が聞こえてきた。
「はーはっはっは。西の大地に正義の華を咲かせんと、美々しき蝶がいま舞い降りる!」
「……やっぱりなあ」
 片腕に蒲公英をぶら下げながら、彼は諦観と共にそう呟かずにはいられないのだった。


 6.画竜点睛


 襄陽の城内、荊州の地図が置かれた大ぶりな円卓の周囲を、幾人もの女性達が囲んでいる。
 右側にいるのは呉王たる蓮華と、その部下である思春、明命、亞莎。
 左側に立つのは、蜀王桃香と、紫苑、朱里の三人。
 そして、中央にあるのは、白と黒の仮面。荊州牧の名代として場を主導している雪蓮と、その雪蓮に、どうせ司馬徽に会いに行くなら弟子の孔明と同道するのが効果的と説得されて結局居残った冥琳だ。
 部屋には他に、壁際で他人事のように彼女達を眺めている美羽と七乃の姿もあった。
「どうかしら、この案?」
 雪蓮が地図に書き込まれた線を示す。それは、荊州の中心部にある巨大な淡水湖、洞庭湖を中心として、長江、元江(※)という河水の自然な境界で二国の国境を形作るという案だった。ただし、それに加え、帯状の地帯が書き込まれている。
「この襄陽から伸びる帯のような領地は……」
 襄陽から江陵を経て洞庭湖に至るその帯は、荊州の経済の中心をまっすぐに貫いている。亞莎は地図の上でそれをなぞりながら確かめた。
「そこは州牧が直接統治するわ。まあ、呉と蜀が直に角突き合わせないようにね。魏の統治下と考えて貰っていいんじゃない?」
「単純に面積だけで言うと、魏一、蜀三、呉四というところだな。洞庭湖の水は、三国いずれもが利用していいとすべきだろうな」
 黒い仮面の女性が、つややかな黒髪を振りながら、白面の女性の言葉を補完する。
「それぞれの国の主張より、少しずつ少ない領地……。痛み分けですか」
 朱里が腕を組み、右手で自分の顎に触れながら呟く。面々の中では一番小さな彼女だが、その言葉の重みは大きい。
「どうかな、朱里ちゃん」
「悪く……はないですね。贅沢は言ってもしかたありませんし……ただ、現状の勢力範囲と異なる部分もありますから、その移動などについては今後話し合う必要があるでしょう」
「そのあたりは、この後の話し合いで解決までの期間を定めることとなろうな」
「でしたら……」
 冥琳の言葉に、朱里は一応の理解を示す頷きを返した。その後、子細に検分しようと地図にかがみ込む。
「亞莎はどう思う?」
 蓮華の問いかけに、しばし亞莎は考え込んでいるようだったが、片眼鏡を直しつつ、口を開いた。
「一つ、提案があります」
 固いが強い意志を感じさせる言葉に、皆の意識が彼女に集まる。
「呉と蜀の間に監視をかねてでしょうが、魏の領土が入るというのは致し方有りません。ただ、そうなると近いのに関税が何回もかかるという、交易の阻害が起こりかねません。魏の……いえ、州牧の領土のうち、それこそ襄陽や江陵といった大都市では自由に貿易が行えるというような取り決めをするのはどうでしょう」
 彼女は体の向きを変え、二人の仮面の将に正対する。臆することなく彼女は、かつての主と師の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「襄陽を治める州牧側にも都合のいい案だと思いますが」
「……なるほどね」
 雪蓮は呟き、冥琳と目配せを交わす。
「ふむ、さすれば、自由貿易地帯での交易が促進されるのは間違いない。自然、税収も増える。三国にとってよい案であろうな」
 亞莎の進言を聞き、考えていた蓮華は組んでいた腕をほどき、南海覇王の柄に腕を載せるようにした。かちゃり、とその剣が音を立てるのを聞いて、仮面の女性達二人が思わず注視する。
「ならば呉はその条件をもって賛成とする」
「蜀も問題ありません。いいよね?」
「はい。そのあたりが落としどころかと」
 ぶんぶんと元気よく頭を振って賛成の意思を示す桃香。紫苑と朱里も、彼女の言葉に従った。
「じゃあ、細かい部分はこれから詰めるとして、まずは手打ちね。お酒のみましょ、おさけー。二日も話しっぱなしで疲れたわよー」
 いきなり砕けた態度になり、くるくると地図を片付け始める雪蓮。その姿にさすがに眉をひそめて、蓮華はくってかかった。
「姉様、下手をすれば、ここをきっかけに三国の平和が崩れたかもしれないというのに、なにをそのように気楽な……」
「三国の平和が崩れる? ないない」
 しかし、雪蓮のほうはぱたぱたと手を振って否定するだけで、まるで悲壮感のようなものはない。その様子に苦笑を漏らしつつ、冥琳は雪蓮から地図を受け取り、蓮華に対した。
「蓮華様」
「ん?」
「もし、あなた方が本気で戦端を開いていたなら、魏は一刀殿を切り捨てていましたよ」
 その言葉に、場は二つに分かれた。
「……やはり」
「……え?」
 厳しい顔で呟いたのは亞莎と朱里であり、驚きを隠せなかったのは蓮華と桃香、それに思春と明命のそれであった。ただ一人、紫苑だけが泰然とした表情を崩さなかった。その瞳は鋭く燃え上がっていたとしても。
「そして、荊州は私が獲っていた」
「……なんですって?」
 さすがにこれには仰天の声しか上がらない。落ち着いているのは、事情を知っている州牧側の四人くらいだ。
「そういう取り決めだったからねー。襄樊の兵も私にくれることになってたし」
「じょ、冗談ですよね?」
「いいえ?」
「うむ、伯符は嘘は言うとらんぞ」
 桃香が問いかけるのに真顔で否定する雪蓮に、美羽がとことこと近づいてきて同意する。もう面倒な話は終わったので混じりに来たのだろう。
「それも含めて一刀さんの責って約束してましたねー」
 七乃ももちろん美羽について円卓の近くに移動してきていた。彼女の言葉に呉、蜀の両国の面々は呆れたような表情になるしかない。
「まあ、一刀殿を切り捨てるとはいっても北伐が終わるまでは左軍は任せていたでしょうが、官位についてはさっさと取り上げられたでしょうな」
「北伐後に、荊州の不行き届きで罪を全部おっかぶせて、私たち、いえ月たちみたいに死んだことにするか……」
「数年間蟄居……いやいや、軟禁かのう」
「一刀さんにめいど服って似合いますかねー?」
 笑いさえ含んで言い合う四人に、思わず蓮華は額を押さえる。
「ついていけん……」
「あ、ありえないとは言いませんが……」
「いずれにしろ、雪蓮と私でうまくいかなければ、魏が直々に出てきて蜀と呉を鎮圧して、再び平和を回復していたろうさ」
 亞莎の言葉に静かに答える冥琳に、紫苑は優雅に首をひねる。
「しかし、それは少々華琳さんには似合わないやり方のような……あの方の覇道とは相容れぬものでは……」
「だから、そこが違うんだって、紫苑」
 雪蓮は面の角を振り立てて、紫苑の言葉を否定する。
「これは一刀の意を受けて私たちがやったことなの」
 にぃ、と彼女は口角をつり上げた。その覚悟を感じ取り、ぶるり、と紫苑の体が自然に震える。
「華琳はその結果を受け止めるつもりだった。それだけよ。当然彼女自身がやるのとは異なってくるわ」
 冥琳がそこで桃香と蓮華、二人の王に言葉をかける。
「華琳殿は一刀殿を信頼し、一刀殿は我々と――蓮華様、桃香殿、あなたたち二人を信頼した」
「もしその信頼が裏切られれば、本意でなくとも責任は取らなきゃいけない。そういうことね」
 雪蓮は笑う。
 楽しそうに。実に楽しそうに。
「まあ? 私たちはともかく、桃香や蓮華は勝手にそんなの押しつけるな、って怒っても文句は言われないと思うけどね?」
 くすくすと笑いながらそう言われ、思わず二人の女王は顔を見合わせていた。


 酒宴の用意をこれからするから、と桃香と蓮華の二人の王は控えの間に待たされていた。侍女達に任せればいいと思うのだが、雪蓮は妙に張り切っていて、二人以外の面々をこきつかうことにしているようだった。彼女達二人は主役ということで、ここで待機させられているのだ。
「ねえ、蓮華ちゃん」
「ん?」
「あのさ、なんで進軍したの? 雛里ちゃんからのお手紙は届いてたんでしょう?」
 桃香の問いかけに、蓮華は小さく微笑んだ。これまでの話し合いの中で、お互いの経緯は語り合っている。三日前――たった三日とはとても思えない!――の襄陽港の封鎖のことも、桃香には伝わっているはずだった。しかし、彼女としては蓮華がどうしてそんな行動に出たのか理解できないのだろう。
 あるいは、彼女の目からすれば、呉軍の進軍はただの無益で危険な行為に見えたのかもしれない。
「勘違いしているな、桃香。三国で最も厳しく、熱いのは魏に非ず、我ら呉だ。だからこその進軍であり、だからこその港の封鎖だ」
 反駁の声を上げようとするのを、蓮華は首を振って止める。
「あれはああせねばならなかったのだよ。我らにとってはな」
 桃香は無言だ。ここまではっきり言い切られて、そうではないと否定するのはさすがにためらわれるだろう。
「やらねばならぬ時というものはある。そして、それを収める器量も必要となる」
 ほう、と蓮華は嘆息する。腰の南海覇王を、彼女の指は我知らず弄っていた。
「孫呉の王はなかなか大変だ。私で本当に務まっているのか、少々心配だよ」
「それは……大丈夫だと思うけど。なにしろ私が王様できてるくらいだし!」
 それは慰めになっているのだろうか。あるいは、それを平然と言える肝の太さこそが、この女性を王たらしめているのではないか。蓮華はそんなことを思う。
「さて、桃香。一刀をどう見た?」
「ん……。やりたいことはわかるけど、ここまですることなのかな、ってそう思ったかなあ」
 蓮華の問いに、桃香は腕を組んでうーん、と首を傾げる。
「今回は雪蓮さんたちが、私や蓮華ちゃんのことよく知っていたからかうまくいったけど、それこそさっき言ってたみたいに蓮華ちゃんがしたくなくても、呉っていう国からすればしなきゃいけないこととかあるわけでしょ? そのあたりまでわかってたのかは、ちょっと……でも、一刀さんの、早く国境線決めちゃわないと、って考えはわからないでもないんだよねー」
 複雑な表情で、彼女は言う。これはきっと、本当に素直な反応なのだろうな。蓮華はそう思って少しほほえましく感じた。
「あれは覇王の……いや、王としての道をいまだ持たない。だからこそ、此度のような手を打てる」
 彼女は虚空を見つめながら、そう言う。彼のいる北方は、いま向いている方角で合っているだろうか?
「桃香の言うとおり、あやつはまだ危うい。だが、面白い。私はそう思うよ」
 桃香は蓮華の横顔を注視する。その楽しそうな、けれどどこか憂いに満ちた表情が、なぜか彼女の心に強く印象に残った。
「ねえ、蓮華ちゃん」
「ん? なんだ?」
 物思いにふけってしまっていたらしい。蓮華は桃香の呼びかけに驚いたように応じた。
「一刀さんのこと好き?」
「な、な、な、なにを言っているか!」
「あー、やっぱり」
 聞いた途端、朱色に頬を染める蓮華を見て、桃香は確信を得る。
「やっぱりじゃなくてだな、いや、なにを根拠にそんなこと……」
「えー、だって、一刀さんのこと話すときすごく楽しそうだし」
「いや、だからだな、私はあやつの今後に期待しているのであって……それは人間としての……」
 ぎゃーぎゃーわーわーわめきながら、二人の女王は楽しげに話し続ける。その会話は酒宴がはじまると、冥琳が呼びに来るまでずっとずっと続いたのだった。


 7.嚆矢濫觴


「残りたい?」
 一刀の驚いたような問いかけに、雛里はしっかりと頷いて答えた。
「はい」
 大きな帽子が揺れ、彼女の真剣な表情を目の前の三人の前から隠した。
 結局、休暇の三日目に、烽火の中継による荊州の情報が武威にまで到着した。
 結果は白。荊州の戦乱は回避され、改めて交渉が始まったことが、涼州にまで伝わったのだった。
 そして、その翌日、一刀と軍師二人の前に雛里が現れた。帰国の挨拶だろうと考えていた三人の思惑をすっかり外し、彼女は左軍への残留を希望したのだった。
「ボクたちの言うことが信用できない? 烽火による伝令はたしかに荊州での戦が回避されたと伝える物だけど」
「いえ、それは疑っていません。星さんや焔耶さんも同様です」
 落ちかけた帽子をなおし、雛里は詠の疑念を否定する。それを聞いて、三人は一様に安心したような顔つきになった。他の二人の名前を出す以上、これは蜀側の総意なのだろうと判断したのだ。
「では、なぜです? 荊州の問題は、まだ完全に決着はしていないまでも戦は避けられ、おそらく、いまは二国……いえ、三国の調整が図られているはず。いまこそ軍師の力が……」
 音々音の問いかけに、雛里はふわりとした笑みを浮かべた。
「朱里ちゃんで十分だって、ねねちゃんも知ってるはずだよ?」
「まあ……交渉一つだけを見れば朱里がいれば問題ないでしょうが……」
 そもそも朱里と雛里、二人共が成都を離れているという状況が……とぶつぶつ呟く音々音に微妙な笑みを返しつつ、顔を引き締めて彼女は一刀へと向き直る。
「ずっといたいというわけではありません。ただ、もうしばらく……そうですね、年内はこちらにいさせてもらえれば、と」
「士元さん」
「はい」
 一刀は真っ直ぐに彼女と視線を合わせて問いかけた。深い深い碧の瞳はまるで水底のようだ、と彼は思う。
「荊州の話とは関係なく、こちらにいたいのはどうして?」
「見ておきたいのです」
「見る?」
「はい、ここが岐路となるかもしれません。そう思うのです」
 雛里の言葉は、曖昧で、どうと受け取ることも出来た。しかし、一刀は、文字通りの意味だろうと直感していた。
 現在、大陸では様々な事が起きている。その中でこの西涼での出来事もまた、かなりの重みを持って存在し、大陸の西方全般の未来を左右する意味合いも持っている。
 それを見据えたいという彼女の欲求も理解できる気がした。
 彼は諮るように左右の二人の軍師を見る。
「ボクとしては懸念があると言わざるを得ないわね。前にも言ったけど、混成軍で余計な要素を取り込むのは危険なのよ」
「それはわかるが、ただ戻れと言うのもな」
 詠は腕を組み、自分の二の腕を指でとんとんと叩いて考え込んでいたが、決心したように顔を上げた。
「ねえ、雛里。蜀軍に一切命令したりしないって約束できる? もちろん、あんたの護衛とかは別として、だけど」
「はい、それは……合同訓練を経験してきたわけではありませんから、余計な口を出すつもりは……」
 雛里の答えを受けて、詠は一刀へ顔を向ける。
「指揮権、決裁権は一切なし、軍議には参加できるけど、意見はこちらから聞かない限りは言えない。そんなところで、どう?」
「厳しく聞こえるけどしかたないか……。俺はいいと思う」
「蜀の陣にいられるのは少々……。こちらの邸にいてもらってはどうでしょう? もちろん、軟禁するとかいう意味ではないですよ。本陣近くにいて欲しいということです」
「はい、皆さんの間近の方が私としても……」
 軍師たちのやりとりに、一刀は大きく一つ頷いた。
「よし、それじゃあ、軍議に行こう。そろそろ本格的に、この辺りの鎮撫を……」
 そうして、雛里はしばらくの間、顧問という形で北伐左軍に参加することとなったのだった。


 しばらく後、武威周辺では最も強敵となるであろう集団の討伐が行われた。
 羌族の一つで、元々は複数の部族だったが、二十年ほど前から漢人集団である西涼連合に対抗するために寄り集まり、なかなかの勢力に成長していたものだ。
 しかしながら、左軍全軍をあわせれば騎兵だけで二万五千を超える。いかに大きな集団とはいえ、非武装の民も含めて四万程度では、いかに地の利があろうとも抗し様はなかった。
 数度の会戦を経て、左軍は既に彼らの降伏を受け入れていた。
 そして、戦がついに終わった戦場を、四頭の騎馬が行く。夕暮れが近くなって温度が下がったためか、いつの間にかけぶるような霧が辺りを覆い、戦で荒れた草原を行く馬の足下を隠していた。
「あの、北郷さんはいつも、こうして見回りを?」
「ん、そうだね」
 黄龍に乗った一刀は振り向いて、雛里に答える。彼女は蒲公英の前に座っていた。馬を操るのが巧みな蒲公英に同乗させてもらっているのだ。
「今日は早めに入ってきてるけどね、こいつが戦の後でふらふらするのはいつものことよ」
 辛辣に評するのは詠。さらに、その隣で黄鵬に乗り、無言で周囲を警戒しているのは翠だ。
「俺自身はあまり戦場までいかないからな。少しでも見ておきたいと思ってね」
「一概に悪いとは言わないけど、前みたいに翠とどっか行っちゃわないでよね」
 連絡が無いと困るんだから、とぷりぷり言う詠に、一刀は苦笑するだけだったが、翠のほうは首筋まで桃色に染めて大仰に反応した。
「あ、あの時は、遠駆けが楽しくて、つ、つい。それに一刀殿に相談にのってもらってたわけだし!」
 そのあまりの動揺ぶりににやにやしつつ、蒲公英が口を挟む。
「いーなー。たんぽぽも一刀兄様と駆けたいなー」
「ああ、今度暇なときにな」
「やったー!」
 無邪気に喜ぶ従妹の姿に毒気が抜かれたか、多少冷静になったらしい翠はとってつけたように周囲を見回した。霧の合間に、折れた矢や盾の残骸などが無造作に転がっていた。もちろん、それを使っていたであろう存在も、また。
「今回はまだ人を入れていないんだな」
「ちょっと規模が大きいからね、朝になってから埋めさせようと思ってるのよ」
「死体漁りも追い払って?」
 戦利品を得にやってくる兵士達のことを言うと、詠はこれも肩をすくめて答える。
「荒らされても困るでしょ」
「それもそうか」
 当初、霧でそれは見えなかった。
 しかし、嗅覚がまず異常を訴えた。
 雛里が鼻を手で押さえ、それでも無理だと気づくと、己の袖を引き寄せて、その臭いを遮断しようとした。
 しかし、残りの四人はそれをすることもない。蒲公英も詠も鼻をすんすん鳴らし、顔をしかめてはいるが、それだけだった。
「あっちに行こうぜ」
「いや、このままだ」
 翠が銀閃を持つ手を左に向けるが、先頭を行く一刀は向きを変えない。黄龍もまた、主の意思に応じて、そのまま歩みを進めた
「……ったく、この莫迦」
 詠が、小さく毒づく声が、顔を覆っている雛里の耳に聞こえた。
 しばらく行くと、一刀は黄龍を止めた。そのさらに数十歩前にこんもりとできあがった小さな山のような影こそが、先ほどからの臭いの元だった。
 それは、人が本能的に忌避する臭い。
 それは、いつまで経ってもけして慣れることができない臭い。
 それは、死の臭い。
 血臭と、内臓から漏れ出た汁と、肉片の腐りかけたような臭いと、土の乾いた臭いを混ぜたような、それ。
「……結構な数だな」
 小山のように盛り上がっているのは、死体の群れに他ならない。この辺りを掃討した部隊が、走り抜けるのに邪魔な死体を積み上げたのだろう。あるいは、防衛側が――苦肉の策として――土塁代わりにしていたのかもしれない。
 彼は黄龍を下りると背後の四人を振り返った。
「みんなはもう少し下がっててくれるか?」
「おい、一刀殿」
「大丈夫さ。この状態で危ないことはないよ」
「でも、一刀兄様……」
「言うとおりにしましょ。雛里にはきついわ」
 詠が鋭く言い、彼らはそこに黄龍と一刀を残し、死体の山から二百歩ほど離れて固まった。
 もちろん、何かあれば、この程度の距離、翠や蒲公英には何ほどでもない。念のためを考えて、雛里は詠の前に場所を変わっていた。
 一方、一刀は死体の山から死体を一つずつ引き出すと、大地に並べはじめた。その体がねじまがっていたら安らかな体勢にしてやり、欠損部分があれば近くにないか探し回った。
 一つ一つの死体を布で拭い、形を整え、はみでた内臓をなるべく体に寄せ、と、彼はそんな努力を続ける。いつしか額に汗が浮かび、服は腐汁と黒くなった血でべっとりと汚れていた。
 その様子を四人は目をそらすこともなく見つめている。
 四人の誰もが、北郷一刀は泣いていると、そう感じていた。
 涙は一滴も流していないのに。
「……大将があれでいいのかね」
「どういう意味?」
「斬首の時も思ったけどさ。なんか自分を追い詰めすぎじゃないか? 悪いとは言わないけど、なんとなく……頼りないような」
 あるいは、翠がそんな風にとげとげしく言ったのは、まだ戦場の興奮が残っていたからかもしれない。
 今日も、そして、前々日の会戦でも、先陣を切って乗り込んでいったのは、この西涼の錦馬超なのだ。
「あんた、本気? あれが、相手を死なせたことへの苦しみだとでも思ってるの?」
「違うのかよ」
「……こいつに王を任せるべきなのかどうか、本気で悩むわね」
 自分の言葉にさらに怒気に近い威圧を返す翠に、詠は、はぁあ、と長く息を吐いた。そこに慌てたように蒲公英が割って入る。
「お、お姉様の補佐はちゃんとたんぽぽがやるから、ね」
「なっ。詠はともかく、蒲公英はどういう意味だよ」
 振り向いた従妹の顔は予想外に険しく、さらに問いただそうとしていた翠は思わず息を呑む。
「あのね、お姉様。一刀兄様は、この戦場を作り出したことを気にかけてるんだと……うん、思うよ、たぶんだけど」
 蒲公英は完璧な自信があるというわけでもないのだろう。最後で口を濁した。
「いや、それはわかる。でも、それが将の務めだろ。一刀殿が総指揮なのは事実だけどさ」
「違う」
「え?」
 短い反駁は鋭く、そして、あまりに透徹だった。残りの三人が揃って驚きの声をあげるほど。
「違うのよ。いい?
 この戦場という意味がまるで違う。あいつは、北伐そのものを作り出した一員なの。いえ、華琳に北伐を考えさせたのは、あいつだったと言ってもいい。覇王に北方を含めた大世界を展望させるには、あいつ――天の御遣いという存在が必要だった。
 そして、それをあいつ自身が知っている。一人の将や、地方軍の長としての意識であるはずがないのよ」
 おずおずと、それまで黙っていた雛里が詠に確認するように言葉を放つ。いまだに鼻を押さえているため多少籠もっていたが、意味は十分通じた。
「つまり、戦を始めたことの責任を感じているということですか?」
「ええ。この全て。ここも、中央軍も、そして、後方で働く人々のことも、全部己に責任があると、あいつはそう信じてる」
「……それが、王の道だと?」
「さあ? 別にあんたにそれをやれなんて言わないわ。ただ、それを察することが出来るのは、それこそ三国の王しかいないはず。そして、いま、あんたは四人目の王となろうとしている。その事実をきちんと肝に銘じるべきじゃない?」
 その言葉に翠は言葉で答えることはしなかった。ただ、無言で一刀のやっていることを見つめる。その目には先ほどまでの、半ば呆れを交えた感情とは明らかに異なるものが乗っていた。
 雛里も、蒲公英も、再び一刀を見つめる。もちろん、詠も、また。
 だが、その詠ですら。
 彼を見誤っていた。
 確かに、彼は兵士たちの死体を清め、その死を悼んでいた。敵と言わず、味方と言わず。
 しかし、それだけではなかった。
 彼は、その遺体の一つ一つを確認し、もう一度まとめてそれらを眺めやり、そして、確信に至った。
「すまない。みんな、ちょっと来てくれ」
 彼が手を振って彼女達を呼ぶ声は、かつてないほどに真剣なものであった。



     (玄朝秘史 第三部第十回 終/第十一回に続く)


※ゲン長(あるいはゲン水)のゲンは、本来さんずいに元という字。


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