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306 名前:清涼剤 ◆q5O/xhpHR2 [sage] 投稿日:2010/10/28(木) 23:38:25 ID:ro8Hx5o70
無じる真√N-54話

(注意点)
・時折18歳以上が対象となる描写が混じることもあります。
※話の流れを追うことでご理解頂くことで十分と思われる項目は不要と判断し
注意書きより削らせて頂きました。

・一文の改行を行っておりません。
※読みにくい場合、エディタやビューアなどをご利用になって御自分に適した形にするとよいかもしれません。
(ビューアに関してはsmoopyなるソフトが個人的には使いやすいと思います)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(当方へのご意見、ご指摘など)
・URL欄はメールフォームです。ご意見やご感想、ご指摘などはそちらからでも構いません。
(他の方の目に付くのが苦手な場合、必須項目無しですのでお気軽にそちらをご利用ください)
※善し悪し関係なく、一通りのご意見・ご感想、ご指摘は受け付けております。
ご遠慮なくお寄せください。
ただ、対応の如何に関してましてはこちらの力量次第となります故
ご理解の程よろしくお願いいたします。

url:http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0580



 「無じる真√N54」




 深紅に染まる視界。淀んだ空気は夜風に乗って消えてゆく。
 その中心となる空間をじっと見つめる少女。自分でも恐ろしいほどに酷く静まりかえった心。
 立ち止まったその場で態勢を崩す愛すべき道具とも呼べる臣下。
 原因となった狼藉者は既に兵たちによって息の根を絶たれた。
 虫の息だったところを見ると典韋にやられたが死なず、放置されたままだったのだろう。
 だが今はそんなことなど関係ない。
「…………」
 一切口を開かぬまま曹操は一歩一歩をゆっくりと踏み出す。空気がのっぺりとした速度で彼女の身体を通り抜けていく。
 瞳に映るは膝を折り大地に座り込んだ者と慌ててその肩に縋り付く者。二人をじっと見つめながら曹操は着実に歩を進める。
 何故だろうか、一時的には違いないにしても背後に迫っているはずの張繍たちのことが不思議と頭から抜けてしまう。
「春蘭さま! 春蘭さまぁ!」
「落ち着きなさい、流琉」
「し、しかし!」
「流琉!」
「くっ……」
 縋り付く少女……典韋の口から出る噛み合う互いをすり減らしてしまわんとばかりに大きな歯軋りの音が曹操の耳に届く。典韋の目尻にはじわとわき出てくるものがあるようだ。だが、曹操はそんなことを気にしている場合ではない。
 膝を折ってかがみ込んでいる夏侯惇の肩が小刻みに揺れている。
「ぐぅぅ……くぁっ……あぁ」
「春蘭」
 左目を抑え蹲っている夏侯惇、その指と指の間から伸びる箆と滴る深紅の液体が痛々しさを視覚を通して曹操に訴えかけてくる。夏侯惇同様に片膝を突くと曹操はそっと懐に手を差し入れながら彼女と目線をあわせる。
「ぐ……っ、か、華琳さま……このような姿……ご覧になっては気分を損なわれます」
「そのようなことはありえないわ。流琉を護るために飛び出した貴女の勇ましさは美しさにも通じていた」
「ぅ……華琳さ……ま」
 真剣な表情で見つめる曹操を生き残った右目で上目気味に見上げる夏侯惇は大きく息を吸い込むとすっくと立ち上がる。
 突き刺さったままの矢を片手で握りしめると勢いよく引き抜く。その先には活きの良い眼球が付着しており赤黒さの残るそれを片目で捉えながら夏侯惇は大きく口を開く。
「この眼は父の精、母の血、華琳さまのお心によるものなり、故に棄てるわけにはいかず! これからもなおも我が血肉となり一体のままなり!」
「春蘭さま!?」
 唐突な夏侯惇の叫びに典韋が眼を丸くしている。流石に人が自らの眼球を飲み込もうとする姿を見るのは初めてなのだろう。
 典韋だけでなく、数少ない兵たちも皆一様に驚きを露わにしている中、夏侯惇はなおも飲み干そうと四苦八苦する。
「ぐっ……ふぬぅ……んむっ……ん、ぐぅ……」
「…………」
 曹操は黙って夏侯惇の行いを見守る。彼女の意思、想いが理解できないとは決して言えないから。
 時間もないからか夏侯惇は急くようにして強引に眼球をごくりと飲み込んだ。
「がぁぁぁっ! ……はぁ、はぁ」
 肩で呼吸をする夏侯惇。その息も絶え絶えな口元からは涎がだらだらと垂れ夏侯惇の行為がいかに大層重いものであったのかをよく物語っている。
 夏侯惇はすぐに息を整えると若干困惑に包まれている少数の兵士たちを残った右目で見渡すと目つきを鋭いものへと変貌させ眉を吊り上げる。
「聞けぇ! この先大陸を治めようという御方を守り通す義務が我らにはある! よく見るがいい、この矢ですら我が意志を貫き挫くことはできぬ! 貴様らもわたしに劣らぬ旨意を見せてみよ!」
「お、おぉ……さすがは夏侯惇将軍」
「俺も最後の最後まであきらめねえぞ!」
 夏侯惇の叫びに呼応するように兵士たちが口々に語り合いその意向を一つに固めていく。
 この危機にあって士気向上こそは何よりも軍の勢いを増進させ、その力は本来以上のものとなる。
(機を見るは敏……か)
 曹操は変化した場の空気を察し、即座に将兵全てを見霽かすようにして視野におさめるると下腹部へと力を込める。
「全員、その心意気を忘れるな! これよりは死地。己が胆力のみが何よりも信ずべき真実となる!追っ手はすぐに来るぞ、死にたくなくば即座に馬を駆けよ!」
「は!」
 盛り上がる兵士たちの返答を風の音のように自然に耳に入れながら曹操は既に生き延びていた兵が厩舎より引いてきた馬へと素早く騎乗する。
 隣では片目を失ったばかりとは到底思えぬ動きで夏侯惇は馬上へと移る。
「見事だったわよ。春蘭」
 乗馬を済ませた夏侯惇の頬にある紅き線に新たな雫が伝う。他の誰にも気付かれぬよう闇に紛れて夏侯惇はぽろぽろと涙する。その透明な雫は赤き血肉と混ざり合い深紅に染まっている。
「……華琳さま」
「よく頑張ったわね。春蘭。少し顔を動かさずにいなさい」
 そう言うと、先ほど懐から取り出していたものを彼女の顔へと装着させる。
「こ、これは……」
 空洞と化した左目を覆うようにして夏侯惇は蝶を模した眼帯を纏った。
 何故か不思議と手元に抑えていた一品。どういった理由でそれを持っていようと思ったのか、また、蝶の眼帯と夏侯惇の印象を重ねて思い浮かべたててしまう意味合いに対する疑問の抱きようも自分でも理解出来なかった。
(しかし、それでも本当に使うときは来た……まさかとは思ったがどうなっているのかしら?)
 実際に装着した夏侯惇の顔もまた曹操が思い描いていたものとぴったり一致していた。
 不思議な感覚が曹操の胸に去来する。
(どこかで春蘭の顔を……この眼帯を付けた顔を見たことがあるような……)
「華琳さま?」
「……! なんでもないわ」
 異様な感情の流れとその影響に翻弄されかけた自分に呆れつつ頭を勢いよく振ると曹操は小さく息を吐く。
(もしかすると……いや、間違いなく春蘭の瞳を奪ったのは……この曹操)
 そんな自嘲的な思いすら内心からわき出てきそうになるが曹操は堪え、夏侯惇に勘付かせることなく前を見る。
 そして、急に燻し出された虫のように姿を見せたそれを誤魔化すように曹操はまた、別に胸に抱いた想いを口にする。
「それにしても……我が子を失ったときの気持ちはもしかするとこのようなものなのかしらね」
「それ程までにわたしを大切に想ってくださるとは……くぅ」
「さ、出発よ。時間がないわ」
 感極まったように眼を細める夏侯惇を余所に曹操は馬の手綱を握りその脚を進めさせる。
 背後に広がる夜、そして、屋敷の中に広がる闇。その暗さにもかかわらず追っ手の姿が既にくっきりと見え始めている。先ほどの混乱でせっかく開けた距離がすっかり縮まってしまっている。
 夏侯惇もそれを片目で視認するやいなや前を向き普段の頼もしく凛々しい顔つきへと変わる。
「よし、皆の者、すぐに出るぞ!」
 夏侯惇の号令と共に百にも満たない曹操軍は敷地、そして宛から勢いよく飛び出そうと馬を走らせる。背後で同様に騎乗した張繍らが追いかけてくる音がするが振り向きはしない。
「進むのだ。進むしかないのだ!」
 風を切って一気に突き進む。既に城門付近へと配されている敵兵の攻撃、その数々も振り切る。
 蝗の群れのように飛び交う弓矢。
 獣のように飛び掛かる槍などの刃。
 嵐のように襲い来るそれらを紙一重で避けると同時に先ほどからしばらくの間一言も声を出していなかった典韋の伝磁葉々が辺り構わず一撃の下に敵兵を倒れ込ませる。
 青い髪飾りと若緑の髪を始めしなやかな四肢、幼さを感じさせる顔に血の雨を浴びる。
 典韋から放たれる殺気、それは普段の彼女からは想像出来ない程に強烈。
(春蘭のことが余程腹に据えかねているようね)
 敵兵の返り血で少女は化粧をしていくように身を美しく染め上げる。その可愛らしさは薄まり、逆に妖艶さすら感じられる美麗さを増していく。
 荒々しく敵を次々なぎ倒す典韋、まるで舞踏を見ているような気分になってしまうほど今の少女の姿は華麗。
「その姿は荒々しくも清麗……これぞまさに古の悪来と言えよう」
 典韋は目まぐるしく活躍し、曹操の口からはそんな賞賛が漏れていた。
 鞅掌する悪来により曹操らの前に大きく切り開かれた道が出来上がる。
「好機!」
 瞬時の判断で一隊は疾風もかくやとばかりに勢いよく敵兵の間を駆け抜けていく。
 場外へと出た曹操軍は一つの道を選び進んでいく。
 南は未だ曹操の手は届いていない、西も同様……東に至っては孫策が統治を完了しようとしている。
「道を違えるな。今戻るべきは許昌の方角、そして、目指すべきは襄城」
 洛陽や長安同様に確立された運路が伸びている先こそ曹操軍における主要な拠点の一つである許昌。
 曹操はその道中にある襄城こそが向かうべき拠点と定めていた。手前には拠点となった堵陽が存在する。だが、そこは先ほど目を通した書類からしても安易に立ち寄るべきではないと即断可能。
 実質、襄城までの距離は長く、刻も体力も大いに消費しかねない。それでも向かうべきはそこしかないのだ。
「油断……か」
 気がつけば月はもう随分と地平線へと接近していた。夜の闇に紛れていられる時間もそう長くは続かないだろう。
 一里でも先へとばかりに曹操は大地を駆け続けていく。

 †

 荊州北部で曹操が生死の境をひた走っている頃、冀州の鄴では普段では見られない人混みが出来上がっていた。
 その貴重さは新たな世界の黎明すら思わせる、そんな光景。
 その中に一人、この世界では珍しい生地で作られた白い服に身を包んだ少年は立っていた。
「やれやれ、こんな時間からよく集まるもんだな……くぁ」
 あくびを噛み殺しながらも一刀は首を動かして眠気を身体の奥の方へと押さえつけながら城門の外へと向かう。門兵への挨拶と二言三言交わして伸びをする。
 深呼吸しながら体勢を戻し、少年は城門前から遠くをじっと見つる。
 目を懲らすと距離はかなりあるが悠然とした動きで向かってくる影が見受けられる。
 近づいてくるとようやく全体像がハッキリとしてくる。それは派手めの服を着た三人の少女を中心とした集団。そして、その一団を最前列として多くの人馬による行列が入城を始める。
 一刀もその中に混じりつつ兵士たちを掻き分けて少女たちの方へと向かう。
 この時刻から外に出ていた民衆たちもぞろぞろと集まり始める。目的は間違いなく少女たちの帰国を迎えに出ることだった。皆笑顔で少女たちを心から出迎えている。それはまるでこの国の高官を奉迎するかのようですらある……いや、それ以上の興奮すらしているのが周囲の熱気から感じ取れる。
 刻一刻と厚みを増していく人の群れ、その影響により一層厚くなっていく密集形態に苦戦しながらも一刀は進み行く。
 一刀は人混みから頭一つだそうと背伸びをしながら中心部を見やる。
「相変わらず、すごいな。えっと、みんなは……」
「あ、一刀ぉー!」
 少年の姿を捉えた一人の少女が鴇色の長く真っ直ぐな髪を振り乱しながらぶんぶんと勢いよく手を振る。一緒に後頭部にある黄色の髪飾りがふりふりと揺れる。
 その姿を視認した一刀は手を振り替えそうとする。
「お、天ほ……うっ!?」
 瞬間、周囲を取り囲む男たちの瞳が一刀の方を一斉にぎろりと睨み付ける。
 だが、もう一人の当人である張角は構うことなく一刀の方へと駆け寄ってきていた。
「たっだいまー!」
 溢れんばかりの朗らかさに満ちた言葉と共に一刀の胸に飛び込む張角。
「うおっ、あんまり密着するなって、いろいろとまずい」
「えー、久しぶりに会えたんだからちょっとくらいならいいでしょー?」
「いや、でもなあ……流石にこれは」
 腕の中や胸などに広がる女の子特有の柔らかさと野郎共の刺し殺さんばかりの視線という両極端な感触と感覚を肌に抱きながら一刀は冷や汗をかき始める。
 今にも誰かが自分をぶすりと刺してきかねないような重苦しい雰囲気が漂っているのを敏感に感じて一刀は非常にいづらくてしょうがい。
 そんなことなど微塵も気付かないのか張角は和やかな空気を振りまきながら一刀を見上げている。
 そこへ遅れて二人の少女たちを含め数人がやってくる。
「かっずとー! ちぃがいなくて、寂しかったでしょ?」
「天和姉さん。いい加減離れるべきよ。一刀さんも嫌がってるし」
「ぶー! 嫌がってないもん。ね? 一刀」
 頬を膨らませて不服そうな顔つきをすると、張角は距離皆無の状態で一刀の顔をのぞき込む。
「え、えっと……」
 何と応えたものかと頬を掻きながら視線を反らす一刀に女性の声がかかる。
「くく、その変で勘弁したほうがよいと思うぞ」
 後ろで細く纏めた露草色の髪を揺らしながら趙雲がしなやかな足取りで歩み寄る。
「まあ、気持ちはわからぬでもないがな」
 その顔は口端が吊り上がり愉快そうな笑みを浮かべている。
 隣には貂蝉が全身を覆う岩と見間違いそうな筋肉を腕組みすることで一段と膨張させるようにして微笑んでいる。
 一刀に巻き付いたままの張角は顔だけ動かして趙雲を向くと首を傾げる。
「どうして?」
「これ以上そのままでいると、主が何者かに嫉妬という名の凶器で刺されるのも時間の問題となる」
「俺が、殺されるのは確定なのかよ……主と仰ぐ以上、護ってくれてもいいだろ」
「しかし、この趙子龍、悪漢を懲らしめる槍は持てど、無害な民を裁く刃はもっておりませぬ」
「いや、俺の命狙うんならそれは対象になるだろ!」
「この場合ですと、悪漢はむしろ……」
 そこで言葉を句切ると趙雲はじっと一刀と凝視する。その瞳はまるで何かやましいものでも見ているかのような色をしている。
「なんで、そこで俺をじっと見つめるのかなぁ?」
「おや? お分かりにならないと?」
 目を丸くして、まさかと言わんばかりに驚愕を露わにする趙雲に一刀はがくりと項垂れる。
「いえ……すみません」
「ふふ、妬まれるのも良き男ならばどんと受け止めってみせてくだされ」
「無茶言うなよ……この殺気、俺の命がどうにかなるって」
 先程から厳しい視線による針のむしろ状態から嫌な結末しか想像できない一刀は重く深い息を吐く。
 そんな一刀に未だひついたままの姉を引っぺがそうと妹たちが動き始める。
「というか、天和姉さん! いつまで一刀にくっついてんのよ」
「天和姉さん……。流石に星さんの言う通り、いい加減に離れたほうがいいわ」
「えー、久しぶりの再会なのにー」
 ぶうぶうと文句たらたらな様子の張角に一層強い力が込めて抱きしめられる。
 一刀の身体に密着している強大な肉まんのような二つの乳房がむぎゅうと潰れて形を変える。その独特の感触に一刀は僅かに頬を緩めそうになるが二人の妹と趙雲の視線に自分を戒める。
「姉さん!」妹たちの声が重なり合う。
「むぅ、しょうがないなあ。それじゃ……」
 頬を膨らませつつも張角が離れていく。
 ようやく解放された一刀だったが、殺気の籠もった視線からは未だに脱却を許されていない。
 相変わらず妬みやそねみの中に晒されたままなため背中に大量の汗を掻いている一刀の耳元に小さく「後でね」と囁くと張角は妹たちの隣へと所在を落ち着ける。
 やれやれと溜め息を零しながら肩を竦める一刀の元に人影がゆらりと近づいてくる。
「大アニキぃ……いくらあんたでもやっていいことと悪いことがあるぜぇ」
「そ、そうなんだな。限度ってものがあるんだな」
「つーわけで、警護を受け持ってる俺たちからすると許せねえんだわ。分かるよなぁ? 大アニキ」
 数え役萬☆姉妹の世話役という役目も負っている一刀。
 その補佐として三姉妹の身辺警護を担当している通称チビ、デク、アニキの三人がじろりと一刀を睨む。さすがは元黄巾党だけあってなかなかの迫力を顔に滲ませている。
 彼らは青州にて蜂起しようとしていた黄巾党の残党、青州黄巾党の首領だった。わけあって公孫賛軍の傘下に入り、いつしか一刀のことを大アニキと読んで慕うようにまでなっていた。
 当の大アニキは眼を泳がせながら助けを求めるようにあちこちへと視線を向ける。
「こ、これは俺のせいじゃないだろ……ちょ、貂蝉」
「んもう、調子の良いときだけ頼って……でも、そんなご主人様を嫌いになれない愛奴隷なわ、た、し。うふふ」
 頬をぷうっと膨らませたかと思うと、そっと手を添えた頬を赤く染める貂蝉。花も恥じらう乙女ならまだしも筋骨隆々で一刀やしすたぁずの取り巻きたち以上に厳めしい見た目の漢女では見る者には鬱陶しさや暑苦しさしか与えない。
「…………」
 身の毛もよだつおぞましさに絶句してしまう一刀を余所に貂蝉は三姉妹の方へと振り向く。
「ほらほら、貴女たち。積もる話もあるでしょうけれど今は先にすることがあるでしょ? 一先ず、この場を後にしようじゃないの」
 そう言うと、貂蝉は三姉妹を担いで飛び上がる。
「そうりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
「結局、これに乗ることになるのねー」
 誰の声かは判別し難かったが、張三姉妹は貂蝉に抱えられたまま悲鳴を残してあっという間に姿を消した。
 屋根から屋根へと跳んでいく貂蝉の姿が小さくなっていくのをその場にいた誰もが口をぽかんと大開にして呆然と眺めていた。それを尻目に一刀は物音を立てぬようにして裏道へと逃げ込む。
「さて、俺も貂蝉たちの後を追わないとな」
「あ! 大アニキが逃げた!」
「追えー! 追うんだ! 逃がすなあ!」
「だから、あれは俺のせいじゃないだろ!」
「純粋な俺たちのあいどるをよくも。問答無用だ。ぶち殺してやる!」
「ぶって、しかも殺すだなんて、お前ら。そんな恐ろしいことを」
 そう簡単には逃がしてくれそうもない彼らを背に一刀は必死になって足を動かすことしかできない。
 しばらくの間、一刀はすっかり明るくなった空の下、すがすがしい朝の空気とは裏腹に淀んだ空気を纏う無数の手から逃げ回る事になるのだった。

 †

 月も沈み反対側の空からは太陽が頭を出し始めた頃、散々に駆けに駆ける数十騎の騎馬があった。
 静寂なる空気の中を馬蹄の踏みならす大地の嘶きだけが切り裂いていく。
 一行は宛から随分と遠ざかっていた。
 ふと彼女の耳へと前方から河川が自身の存在を感じさせるように風に乗せてその水音を届けてくる。
「もうすぐ淯水……ここからどうするか」
 淯水の存在を感じ取り曹操は考える。油断していたところを襲われたために大分張繍に後れを取ってしまった。
 そのような状態で淯水の伸びる土地へと差し掛かるが、普通に渡河することができるだろうか。
 強引に突っ切るべきか、はたまた囮を用いるか。手段はいくらでもある。
(焦っては駄目よ。そう、冷静に判断しなくては……)
 夏侯惇が負傷したことを逆手にとって士気高揚を計った。本人に自覚があろうとなかろうとそれにより兵力差によって諦観にすら至ろうとしていた兵士たちに息が戻ったのは確かである。
 ――そこで一手。
 寝首を掻かれたことにより麾下はまさに少数精鋭とも言える状況。そして、それ故にこの隊列の後部を敵軍が掴むのに時間を要することになるのは疑いようがない。
 ――また一手。
(既に、こちらは二手分程度は取り返している)
「天はこの曹操を生かそうとしているのか、はたまた覇王として相応しい器か試さんとするか……ふ、面白い。この曹孟徳、己が覇道はこの手で切り開く」
 誰にともなく呟く曹操。その口元は吊り上がり不思議なことに笑みすら浮かばせている。
(ここで下す判断が今後を決める、どうする曹孟徳)
 いくつもの未来を想定し、仮説を組み立てる間にも馬は進み、ついには淯水のほとりへと辿り着いた。
 その時、曹操たちの前に新たな軍勢がぶわっと姿を表した。数にして四千から五千といったところ、正式な一部隊の数程度にはいるだろう。
 目を懲らした曹操は全く前進停止の号令は出さない。隣を駆ける夏侯惇が傍にいる兵士へ声をかける。
「あれはどこの軍だ!」
「旗は……許! 許緒将軍のものと思われます。我が方の援軍の模様」
「え? 季衣なの? ううん、どうしてなんだろ?」
「よし、全員全速前進! すぐに合流を果たす」
 何故、この場に許緒がいるのか……それは不明だが、これもまた曹操側の一手となったのは間違いない。
 勢いそのままに戦場でぶつかりあおうとするかのように許緒隊の元へと突っ込んでいく曹操たち。
 許緒の軍は正体不明の部隊を前にしたからだろう警戒態勢に入っている。
 その軍を率いているはずの少女へ向けて曹操は声を張って自らの存在を明らかにする。
「季衣!」
「あ、華琳さまー」
 先頭にいる許緒が曹操の姿を認めて全軍に停止をかける。
「どうしたんですか?」
「それはこちらが訊きかせてほしいわね」
「え? ああ、ボクは風ちゃんに華琳さまの護衛に戻っていいって言われたんです」
 笑顔を称えたままにこにこと応える許緒の背後に広がる空に曹操は自軍一の不思議系軍師の顔が浮かんで見えるような気がした。
(きっと相変わらず惚けた顔でのほほんとしているのでしょうね)
 曹操は思わず口元をほころばせる。
「風が……そう、それは良い判断だったわね」
「はぁ……そうなんですか?」
 不思議そうな顔で聞き返す許緒に大きく頷く。
「ええ。これで、最低限の手は打てる。よし、一旦ここで今後の動きをすぐに決める! ただし、決して休憩ではないと心得よ」
「は!」
 曹操の声に低くも芯はしっかりと通った返答が辺りに響かない程度に起こる。
 自体が未だ把握できずに小首を傾げる許緒の元に黒髪をたなびかせながら人影が歩み寄る。
「よくぞ来たな。季衣」
「はい! って……しゅ、春蘭さま!? そ、それ……」
 夏侯惇の眼帯から下、赤黒い染みが未だ残っている顔の左半分を指さしながら許緒は眼を見開いている。
 その指は小刻みに震え、許緒の顔は僅かに血の気が引いたように青白くなっている。
「こんなもの大したことではない。気にするな! ……くっ」
 許緒に胸を反らして威勢良く言い聞かせようとする夏侯惇だが、その力みすぎたせいで本来あるべきものがない窪みから血潮が溢れたらしく眼帯の腋からぶっと雫が飛び出る。
 その勢いと新たな血で滑ったのか眼帯が僅かに浮き上がり雨の雫のように紅き液体がすっと流れ落ちる。許緒はそれで察したのだろう。口元を抑えて目を見開いている。
「そ、そんな……眼が……春蘭さまの眼がぁ!」
「これしきのこと、華琳さまのお命を失うことに比べればささいなこと。一々気にしていられん」
「許さない……絶対に許さない、ゆるすもんかぁぁぁああああ!」
 許緒の怒号は空気をびりびりと振動させながらどこまでも響いていく、この大陸に生きる全ての存在に自らの激昂を伝えんとばかりに。
 眉間に刻まれた皺、吊り上がる眉、猛獣のような瞳、それらは許緒の顔を本来の愛くるしいものから一般兵たちに畏怖の念を抱かせるほどの形相へと変貌させている。
 そんな少女の肩にそっと手を置く者がいた。
「落ち着け、季衣」
「ボクが、ボクが春蘭さまの敵を討つんだ! よくも、よくも春蘭様の眼を……あいつら全員――」
「ばかものぉ!」
 憤りを隠すことなく息巻く許緒を夏侯惇が叱りつける。許緒とは夏侯淵のそれとは違う意味で姉妹のような間柄だった夏侯惇。彼女がここまで強く許緒に怒鳴るのは珍しいことだった。
 許緒の怒気に当てられていた兵士たちも夏侯惇の意外な行動に逆に落ち着きを取り戻し始めている。
 曹操もまた内心に動揺を抱きながら二人のやり取りを見守る。
「いくらお前でも単騎で突っ込むなど無茶にも程がある。今は一度華琳さまの判断を仰げ」
「でも……悔しいですよ。ボクが、ボクがもっと早く着いてれば春蘭さまはその眼を……」
「だから、言っておるだろうが。このくらいのこと夏侯元譲には大したことではない、と」
「……わかりました」
「よろしい。さ、華琳さ……ま?」
 しょげかえった許緒の肩に手を添えたまま夏侯惇は曹操の方を振り返る。
「…………」
 夏侯惇の声が耳に届いたことでようやくはっと我に返る曹操。二人のやり取りを開口したまま呆然と見ていたようだ。
 許緒が怒りに駆られ我を忘れそうになったとき、曹操はてっきり諫めるのは己の役目だと思っていた。それだけに夏侯惇の行動には思わず驚いてしまった。
 そんな彼女の動揺を知らない過去トンガ不思議そうに目を丸くしている。
「……ど、どうなされたのですか?」
「いや、たまには貴女もまともなことを言うものだと驚愕の念を抑えられなかったのよ」
「そ、そんな。わたしはいつだってまともですよ!」
「ふふ。まともか……そうね、通常の貴女こそが正常であり、今し方の春蘭が普通ではなかったということね」
「あの、意味がわからないのですが?」
 頭に疑問符が乱れ飛びそうな程にきょとんとした表情を浮かべる夏侯惇。その顔を見ているうちに曹操は疲れも吹き飛び気力を取り戻していた。
「感謝するわ。春蘭」
「え、ええと……よくわかりませんが、華琳さまのお役に立てたのならば良かったです」
 赤みの混じった笑みを浮かべる夏侯惇が頬を掻く。その姿が微笑ましく、曹操はこの油断ならぬ自体にあってなお程よく脱力していた。
「それにしても、是非とも秋蘭に見せてあげたかったわね。普段と違う貴女を」
「はっ!?」
 夏侯惇が僅かに紅くなっていた顔を一瞬で青くする。同時に勢いよく汗がだらだらと流れ始める。
 彼女はそっと眼帯に手を触れるともう片方の瞳を何か言いたげな色へと変える。
「こ、このことを秋蘭に知られたら……」
「大丈夫よ。そんなに不安がらないの。きっと、開口一番の反応は眼帯のことをよく似合うと称美することのはずよ」
「で、ですが……」
 夏侯惇がどこか不安の残る様子で腕組みする。小さく息を吐くと曹操は彼女の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「貴女たち以上に春蘭、秋蘭のことを理解している私なのよ? 迷わず信じなさい」
「華琳さま……」
 夏侯惇が右目を煌めかせながら曹操を熱く見つめる。曹操も、彼女の顎をそっと手で支えると顔を近づけようと――
「ん……うぅん……む?」
「あら?」
 行為が完遂する前にもそもそと動き始めた人影が眼に入り曹操は夏侯惇から手を離しそちらへ近づく。
「か、華琳さま?」
「この騒動が終わるまでお預けよ」
「そ、そんなぁ」
 背後で何かが崩れ去る音を聞きながら曹操は尚も歩を進める。
「どうやら、丁度良い刻に眼を覚ましたようね」
 眼鏡の縁を指で動かし位置を調整しながら郭嘉がうめき声と共に身体を起こす。
「ここは外、というか淯水? こ、この状況は一体……?」
「貴女が眠っている間、色々とあったのよ」
 曹操の答えを聞くやいなや、郭嘉が未だ自体を把握できていない瞳でせわしなく周囲を見渡す。
「いつつ……もっと優しくできねえのかよ」
「時間が無いんだ我慢しろ」
 傷だらけとなり合流した許緒の隊から治療を受けている将兵たち。
「流琉、ボクが――」
「ううん、違うの。季衣のせいじゃない。私が――」
 よく聞こえないが、恐らくは夏侯惇の件について語り合っているのだろう。互いに目元を潤ませながら抱擁を交わしている許緒と典韋。
「やれやれ……これからが肝心だというのにあやつら」
 苦笑を浮かべているが、その顔にはまだ紅い液体の名残と眼帯が目立っている夏侯惇。
「…………」
 ぼろぼろの装備で身を守っている曹操。
 それらを一通り順に見ていた郭嘉は再度倒れ込みそうになって大地を見つめる。
「……っ!? まさか、張繍が?」いつものように眼鏡に添えられている手が小刻みに震える。
「そういうことよ」
「……申し訳ありません」
 頷いた曹操に対して、郭嘉が頭を下げる。意識してかどうかはわからないが今の彼女がとっている姿勢は平伏。
 それを見下ろしながら曹操はゆっくりと訊ねる。
「どうしたのかしら? 稟」
「私が不甲斐ないばかりにこのような事態を招いたのです。鼻血を出して倒れたがために何一つお役に立てなかったなど、軍師として曹操軍の……いえ、曹操軍一の頭脳を持つ者としてあまりにも不甲斐ない!」
「……稟」
「華琳さま、かくなるうえはどのような処罰でもお受けしましょう。この郭嘉の多大な失態、いかようになされますか」
「稟!」
 自分の言葉を聞くこともできないほどに自己嫌悪に身を染めてしまう郭嘉の真名を腹から出した声で呼ぶ。
 郭嘉はびくりと肩を小さく飛び撥ねさせた後、ゆっくりと曹操と眼を合わせる。
「確かに、貴女にも原因はある。だが、それだけではないことをこの曹孟徳が理解してないと思うか?」
「そ、それは……」
「この曹操がそれほどまでに愚かだと? だとしたら、随分と見くびられたものね……いえ、こんなざまを見たらそれも当然かしらね」
 肩を竦めて曹操は愚かな己に対するように自嘲的な笑みを浮かべる。自分でも情けなく思えていたのだからため息混じりにそのような表情を浮かべてしまうのも致し方ない。
 だが、対する郭嘉は首をぶんぶんと勢いよく振る。
「そ、そのようなことはありません!」
「ならば、何故そのような狼狽を見せ、自分を責め続けているのかしら?」
 明け方頃の冷ややかな空気によって頭を冷やしながら曹操はそれに負けないほどに低温の視線で郭嘉を捉える。
 郭嘉はびくりと一瞬で姿勢を必要以上に正すと、曹操を正面から見つめる。
「……申し訳ありません」
 低い声でそう述べる郭嘉は悔しそうに唇を噛みしめている。
 まだ自分の言いたいことが伝わりきっていない、曹操はそれを察して郭嘉へ語りかける。
「稟。自らの過失を重く見るか軽く見るかは自由よ。でも……いつまでも振り返って悔やんでいても仕方がないのではなくて?」
「…………」
 僅かに郭嘉の視線が泳ぐ。それを無視して曹操は言葉を連ね続ける。
「貴女にとって最優先するのは、自責の念に囚われること? それともそうやって過ぎたことを振り返り貴重な刻を費やすこと? どうなのか、応えてみよ郭奉孝!」
「……誤謬しないでいただきたい。この郭嘉、己が成すべき事は既に見定め済み」
「それならば何を成すべきか……身をもって証明してみせよ」
「御意!」
 その瞳は軍師郭嘉、曹操軍きっての戦略眼ならではの鋭い光を未だ小さくはあれど取り戻す兆しを見せ始めていた。
 無言で頷くと曹操は空を見上げる。既に明るみを増している朝空を。
「さぁ、張繍。この曹操が如何なるものか、直に知れる光栄に身を震わせよ……。そして、吾こそが覇王たる所以……しかと見届けよ――」
 曹操の不適な呟きは透き通るような風に乗って上空へと舞い上がる……天へと伝えんとするかのように。

 †

 鄴の街中で攻め寄せる人の群れから散々に追われ続け、趙雲の助けを借りることでようやくなんとか脱することに成功した一刀は現在、玉座の間へと直行していた。
 そこには既に公孫賛と張三姉妹、さらには軍師組の中から鳳統、賈駆までもが揃っていた。
「遅かったな。一刀」
「悪い悪い。でも、星がいたからこれでもまだマシだよ」
「あんたがいなけりゃ星ももっと早くこられてたでしょうね」
「うぐっ、それは言わないでくれよ……」
 一刀は掛けられる言葉に肩で息をしながら返答していく。そんな少年の様子に首を傾げつつ、鳳統が隣の賈駆を見る。
「……えっと、ご主人様……どうしたんですか?」
「いつものことよ。しすたぁずを応援してる連中に取り囲まれたのよ、どうせ」
「はは、まったくもってその通りだ……。毎度のこととはいえ……あれじゃあいくつ命があっても足りないってもんだよ、はあ」
「あはは。大変だねぇ、一刀」
 一刀がため息を吐くのに対してにこにこと微笑む三姉妹の長女、張角。
 原因は彼女にもあるはずなのだが、これは少々不公平ではないかと一刀は内心で思う。
(どうせ、同意は得られないんだろうな……)
 あくまで内心で思うだけである。
「ちぃたちの付き人なんだからそれくらいは仕事のうちじゃない」
「そうね。契約上、あれくらいのことは我慢してもらわないと」
 次女、末女と継いで反応する姉妹に一刀は頭を掻きつつも深く考えても仕方ないと和やかな面持ちで微笑む。
「手厳しいな……人和。ま、地和もだけど相変わらずのようだし、一応安心したかな」
「久しぶりの再会で話に花を咲かせるのもいいが、今はそれよりも報告を頼む」
 公孫賛が腕組みをしてそう告げる。
 いち早く、姿勢を正した張梁が神経質そうに見える仕草で眼鏡をいじりながら公孫賛の催促に応じる。
「そうですね。それでは本公演の報告を行います。まず、今回の遠征地は最遠距離は今まで以上で并州との堺付近まで行ってきました」
「ああ、それは事前の話で知ってる。それで、周辺を回ってみてどうだった?」
「現状としては、やはりまだ安定しきっていないように見受けられます。復興が大分済んだ鄴から距離が離れるほど商人の数が減少の傾向があります」
「それはまずいわね……もう少し、交通路の整備、運路の確保が必要となりそうね」
「詠、任せられるか?」
「当たり前よ。人和、後で詳細を教えなさい。このボクがきっちり対応策の案出をしてみせるわ」
 びしっと差し指を突きつける賈駆に張梁は全く表情を変えずに小さく頷く。
「わかったわ。後々纏め挙げた上で話すわ。それで、次に上げる点は……匈奴や羌族辺りと思われる一団による侵攻が微々たるものですが見受けられ僅かに近隣の町村に影響が出ています。ただ、これは国境の警備兵による撃退もあって被害は最小限に抑えられているようなので今は放っておいても大丈夫かと」
「そうか、今はまだ様子見で十分か……しかし、これまでよりは動きが出てきたな」
 張梁の報告を聞くと公孫賛は顎に手をそえて考え込むように視線を下げる。
 その声に口元に拳を添えて思案を巡らせている途中と思われる鳳統が応える。
「……そうですね、異民族も徐々に乱れ始めている諸侯たちを初めとしたこの国の状況を見て動いているんだと思います。二度にわた大陸中に影響をもたらした大乱、互いにしのぎを削り合い、潰えていくもの、逆に栄えるものなど著しい勢力変化。今や一枚岩でないことは明白、異民族の方もその辺りに気付いてはいるんだと思います」
「なるほど、雛里の言う通りだとしたら今後も警戒はしておくべきだろうな」
「私も見た限りでは主と同様の見解でした」
「そうか……星が実際にその眼で見てその結論に至ったというのならやはり国境の警備に余念なきようにしておくか」
 一通り意見を聞いていた公孫賛が顎に手を添えた姿勢のまま何度か頷く。
 話の区切りに合わせるように張梁は再度口を開く。
「それと、より報告すべきかと思われることがあります」
「ほう、重要な案件のようだな。言ってみろ」
「実は……張燕軍側から一つ申し出を受け取っています」
 眼鏡の縁にそっと手を触れる張梁の言葉に公孫賛は感心深い眼をする。
「ほう。興味深いな。どのような話だ?」
「并州の領地でも私たち、しすたぁず≠フ公演を行うという条件を飲むのならば公孫賛軍との同盟を結ぶもやぶさかではない……とのことです」
「それはまたどうして? いや、まぁ三人に惹かれるっていうのはわからなくもないんだが……」
 どこか釈然としない思いを抱き一刀が疑問を口にすると、趙雲がそれに答える。
「恐らくですが、三姉妹に大いに魅了された者の一人だったということなのでしょう。それもかなり以前……初代の黄巾党が存在していた頃からなのでしょうな」
 確かに、初代黄巾党の頃に惚れ込んでいたのならば青州黄巾党の例もあるためわからないでもない。
 だが、趙雲の説明を聞いて今度は公孫賛が首を傾げる。
「確かに、黄巾の乱において黒山賊を率いて派手に暴れたそうだが……それは黄巾党の党員らと違いあくまで好機と見て混乱に乗じただけではなかったか?」
「初めはそうだったようです。ただ、各地で暴れる中、たまたま私たちの公演に出くわしたそうです……その時にどうやら影響を受けたらしく……」
「ま、あと少しで大陸をこの手にできるくらい超弩級なちぃたちの魅力にかかればそれくらい当然よねぇ!」
 末妹の説明に補足になってない補足を付け加える張宝。自信ありげに人差し指をくるくると回すのに連動して秘色色の小さな巻き髪がゆらゆらと回転する。
「そうそう、あの頃は凄かったよね……」
 張角は両手を合わせてにこにこと笑みを浮かべている。当時のことを思い出したのだろう。
「それで? まさか、お前たちはそれを承諾したのか?」
 足下から鳥が立つような事態に動揺を見せる公孫賛に張梁は肩を竦める。
「まさか、保留という形にして急いで戻ってきたしだいです」
「ふむ、そうか。悪い話ではないが他国にまで足を運ぶとなると今まで以上に警護が必要になるしな……」
「それともう一つ、どうしてもお二人にお目通りを願いたいという者を連れてきました」
 張梁はそう言うと一人の人物を前へと出す。
「この者、并州より参ったそうです」
 その説明に促されるように公孫賛はその顔を見る。
「ほう。名前は?」
 その言葉を契機に公孫賛と一刀に対する謁見が行われることになるのだった。

 †

 鄴城の玉座の間、そこには公孫賛を含め数人の諸将が残っているだけだった。
 しすたぁずもとい張三姉妹、そして并州から来たという人物は退席させており、彼女は残した面子を見渡していく。
「郭淮だが、どう思う?」
 張梁の説明に次いで自己紹介をした人物、名前は郭淮というらしい。
 公孫賛の言葉に反応したのは一刀だった。
「もう一度情報を振り返ってみるけど、并州の太原郡陽曲県の出。そして、張燕の統治下から出てしまおうとしているところに丁度しすたぁずが出くわしたってことでいいんだよな?」
「ええ。間違いありませぬよ。私も共におりました故、それは断言しておきましょう」
「と、なるとどうだろうか、詠?」
「そうね……、郭淮のいた陽曲と言えばその西を羌族、それに漢に服属した南匈奴も郡内に雑居しているはずね」
「……そうなると、異民族の性情について非常に詳しいと考えてまず間違いないと思います」
 賈駆、鳳統と続き様に説明がなされる。それを訊きながら公孫賛は感嘆するようにため息を吐く。
「ほう、二人がそう言うのならば相当なものだと思ってよさそうだな」
 元々は異民族との関係は芳しくなかった公孫賛軍。だが、一刀が烏丸との間を取りなして以降の付き合いを通して分かってきたが、生活様式や習慣が違えば考えや思想も違ってくるのは当然のことなのだ。
 そして、何よりも重要なのは相手を知り、そして互いに融和していく必要があると言うこと。
 些細で面倒なことに思いがちだが、これがまた重要なことだったりもする。
(実際、麗羽との戦も彼らの助力あってこそだったからな……)
 公孫賛はその時、寝込んでいたため、その瞳で戦況を見ておらず正確なところは不明だが、後から聞いた限り烏丸族と張遼という騎兵として秀でた才を持つ集団が戦を左右する要因の一つだったという。
 つまり、一刀が結んだ一つの関係は大きな実を付けて公孫賛へと還元してくれたのだ。
 そうして過去の実例を思い出している公孫賛に更に趙雲から言葉が重ねられる。
「それに、大陸を治めようとする以上、周辺民族に対する認知度を高めておく必要もあるでしょうな」
「そうか、星もそう思うか。うむ、良いだろう。郭淮の登用を認めよう」
 そう締めくくると、公孫賛はすぐに遣いを出し郭淮を呼ぶようにと申しつけた。
「白蓮。ちょっといい? 異民族の話が出たついでに話したいことがあるんだけど」
「ん? 別に構わないぞ。訊かせてくれ」
 そう言うと、公孫賛は郭淮が到着するまでの間中、賈駆からの提案を聞くことにした。
 内容は公孫賛からしても納得のいくものだったが、正しいかどうかは判断しかねることでもあった。
 結局、その話も郭淮の到着を待ってから続けることになるのだった。

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