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140 名前:メーテル ◆999HUU8SEE [sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:22:49 ID:aefGdB/p0
わたしの名はメーテル……間の開いた女。
定刻通り9時30分より投下の予定よ。
今回の分割数は20よ、鉄朗……。
143 名前:袁術公路2 それぞれの思い(1/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:31:48 ID:aefGdB/p0
 歌と演奏が終わった。

「みんなー、聞いてくれてどうもありがとー!」
「ありがとうございまーす!」
「お代はこちらに」

 風清く、空は雲一つない澄みきった晴天。
 とある街の大通りの一角。
 そこでは歌い終えた少女たちが三人、手にしていた楽器を置いて、おじぎをしたところだっ
た。
 顔を上げて、娘たちが花のような笑顔を聴衆に向ける。
 夏のひまわりのような元気いっぱいの、そんな笑顔……

 ――だがしかし、それも空虚。

 値千金の笑顔であったが……聴衆の反応は鈍い。
 いや、この場合皆無と言った方が正しい。
 聴衆(と言っても、彼女たちの周りにいたのは子供が三人にお年寄りが一人であったが)か
らの拍手はない。それどころか彼らは、歌が終わると逃げるようにそそくさとどこかへ立ち去
ってしまった。
 あとに残されたのは、顔を笑顔のままで引きつらせた歌姫たちだけである。

「お代は――……はぁ」
 少女の一人、眼鏡をかけた娘が営業用スマイルを引っ込めてため息をついた。
 ついで持ち上げていた籠を降ろす。
 それから中身を傾けて、底を見た。
 案の定、からっぽであった。
146 名前:袁術公路2 それぞれの思い(2/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:34:46 ID:aefGdB/p0
「お金、貯まらないね……」
 横からひょいと覗き込んで、三人の中で一番背が高い少女がぽつりとこぼした。
「もっー! どうしてなのよ!? こんな大きな街なのに、なんで誰もわたしたちの歌を聴い
てくれないのよ!」
「落ち着いてちぃ姉さん、お客さんが見てるわ」
「客ぅ!? 客なんてどこにいるのっていうのよ!?」
 眼鏡の少女の指摘に、つり目をした勝ち気そうな三人目の少女が、大仰に手を振って周りを
指し示した。
 三人が陣取って歌っていたのは、この街一番の大通り、その中でも道が交差する場所である。
 最高の場所取り……の、はずなのだが、実際は道行く人影はまばら。
 そして歩いている人々は、まるで三人のことなど見えていないように、足早に過ぎ去ってゆ
く。
 誰も彼も、彼女たちのことなど気にも留めていない。

「どうするのよっ! これじゃ本当に宿代払えないよ!」
「うーん、困っちゃったねぇ」
「夕暮れまでに用意できないと、ちぃたちの荷物、差し押さえられちゃうんだよ!?」
「それはすごく困っちゃうよねぇ」
「全然っ! 全っ然! 困ってる風に聞こえないよお姉ちゃん!」
「えー、そんなことないよぅ」
149 名前:袁術公路2 それぞれの思い(3/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:37:59 ID:aefGdB/p0
 さて、今更ながらこんななやりとりをしている三人の紹介せねばなるまい。
 彼女たちは流れの芸人姉妹で、張三姉妹という。
 整った柔和な顔立ち、腰まで伸びた長い髪に、大きな胸にくびれた腰回りといった女性的魅
力に恵まれた姿をして、おっとりのんびりとした口調で喋るのが長女張角。真名は天和。
 その向かいにいるのはややきつい印象を受けるつり目がちな目をした、これまた美少女。ス
レンダーな体つきをした、髪を片側に結ったポニーテールは次女張宝。真名は地和。
 そして最後。間に挟まれ仲裁するように立っているのも、二人に劣らぬほどの美少女で、髪
を肩まで綺麗に切りそろえたしっかり者然とした眼鏡の娘が三女張梁。真名は人和。
 そろって人目を惹く容姿の彼女たちは、先日南から流れてきた歌を生業とする旅の芸人姉妹
であった。

「それにしても……なんか街のみんな、元気ないねぇ」
 キーキーわめく妹の言葉を持ち前のマイペースさ右から左へ聞き流し、天和は自分たちのい
る通りを眺めてそうつぶやいた。
 目に見える大通りの様子……それは既に惨状と言っても差し支えがない。
 時刻は太陽が真上から少し傾いた頃だというのに、通りに面した店は半分ほどしか開いてい
ない。
 そうして開いている店も、ただ開いているというだけで、景気がいいようには少しも見えな
い。
 道に出ている露天や出店の類は皆無。
 通りを行く人々は皆一様に下を向き、肩を落として時折ため息をつきながらせかせか先を急
いでいる。
 街の規模から考えれば普通この時間、通りには屋台や露天商が所狭しと並び、客引きや商店
の店主の活気ある声がひっきりなしに交差しあっていてもおかしくないはずなのだが。
 なんというか、街全体が冷え切ってしまっている。
 天和が口にしたのは、そんな様子を見取ってのことだった。
152 名前:袁術公路2 それぞれの思い(4/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:41:34 ID:aefGdB/p0
 この街の活気のなさ、そこに明白な理由を見つけ出すのは難しい。
 定期的に野党に襲撃されているとか、正体不明の殺人鬼が跋扈しているとか、そういった特
異な理由はなにひとつない。
 しかし、理由がないゆえに病根が深いこともある。

 先の展望が見えない、今日を生きても明日どうなるかわからない。
 なにをどうすれば良くなるのかわからない。
 未来への失望、汚泥のように堆積した絶望、漠然とした不安、息が詰まる閉塞感。
 加えて現実問題、重くのし掛かる税という名の鎖。

 そうした、執拗にまとわりついてくる暗い影。
 それが街全体、あるいはこの大陸の大部分を支配している空気の正体であった。

「仕方がないわ。こんな世だもの、いまはどこに行ってもこんな感じよ」
「……南の方が、まだ活気があったわよねぇ」
「そうだよねぇ。なんか都に近づけば近づくほど、街に元気がなくなっていってる気がするよ
ね」

 漢王朝成立から、既に幾数世。
 既に漢朝にかつての輝きはなく、それはさながら生きながら腐っていく巨龍であった。
 高祖劉邦から続くその権威はとうの昔に地に墜ち果て、宮中では政争が激化して汚職と賄賂
が横行し、一方で民の生活は顧みられずに、街には貧困と社会不安が溢れている。
 盗賊匪賊の類が跋扈し、強きものが弱きものを虐げ、弱き者が更に弱き者を虐げるという負
の連鎖が人々を脅かし、蝕んでいる。
 もう官には抜本的な解決を図れるほどの力はなく、武装した彼らを対処的に力で押さえつけ
ることしかできず、しかもそれすらも税という名で民たちを干上がらせる名目となる始末。
 そう、まさしく国は病んでいた。
 そして人々は、それを打開してくれる英雄の到来を待ち望んでいた。
154 名前:袁術公路2 それぞれの思い(5/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:45:21 ID:aefGdB/p0
「これから、どうしよう……」
「………」
 彼女たちも人の心配をしていられるほど、余裕があるわけでもない。
 ぽつりとこぼした地和の言葉に、人和は思わず口を閉ざした。
 この世知辛い世の中、生きていくのもただではない。
 根無し草の彼女たちと言えども、寝泊まりする宿代と、食いつなぐための食費くらいは最低
限かかってくる。
 更に彼女たちの場合、もう既に大通りで芸を披露する許可を得るために税を、少なくない額
を支払っているのだ。
 それらの出費に対して、この街に滞在してからこちら数週間で得られたのは雀の涙ほどの収
入。
 当然、当てにしていた収入がないとなれば、最低限の出費すら難しくなってくる。
 食費はこれまで、なんとか少ない蓄えをやりくりしてやってきたのだが、宿代はそうもいか
ない。
 今日まで待ってもらった宿の滞納額は、かれこれ相当なものになってしまっている。
 このままでは借金のカタにどんなことをさせられるかわかったものではない。最悪、三人ま
とめてどこかの娼館に売り飛ばされてしまうかもしれない。
 そんなのは冗談ではないが、街を逃げ出そうにも旅に必要な荷物は宿に『質』として預けて
しまっている。新たに用意しようにも、やはり先立つものがなくてはどうしようもない。
 最近の世情は女三人の備えのない旅や、無謀な野宿を許してくれるほど優しくはないのであ
る。
 加えて、待ってもらっている宿代の支払い刻限は今日の日没。
 まさに八方ふさがりであった。
157 名前:袁術公路2 それぞれの思い(6/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:51:46 ID:aefGdB/p0
 街の陰気が伝染したかのように暗い面持ちで大通りを眺めていた地和、人和だったが、そん
な彼女たちの肩が突然どんと勢いよく叩かれた。
「駄目だよ二人とも! みんなの元気がないからって、私たちまで暗い顔してちゃ! ほらほ
ら、もっと元気を出してっ!」
 天和である。
 そして彼女はそのまま二人の手をぎゅっと握った。
「さっき人和ちゃんも言ってたよね、こんな世の中だもんって。でも、こんな世の中だからこ
そ、私たちの歌で、みんなが元気になるように手助けしなきゃいけないんだよっ!」
 その言葉を聞いて、俯いていた二人の顔が上がった。
 長女天和。どこまでも楽観的で前向きな娘であるが、だからこそ彼女は妹二人にとって大き
な心の支えになる存在であった。
「そ、そうよね! こんなところで暗くなってても仕方ないもんね!」
 半ばやけくそ気味に地和が声をあげると、
「ええ、やれるだけやりましょう」
 一方で人和が落ち着いた様子で眼鏡を直した。
「うんうん。二人ともその息だよぉ」
 精一杯頑張ろうと奮起した妹たちを見て、天和が頷いたそのときであった。

「素晴らしい。いや、実に素晴らしい」

 聞こえてきたのはぱちぱちという拍手の音と、芝居がかった声。
 何事かと思って三人がそろって視線を向けると、そこにはいつのまにか一人の男が立ってい
た。
 道服を着込み、顔には貼り付けたような笑みを浮かべている優男。
 天和のような人を穏やかにする笑顔ではなく、長く見ていると人を底冷えしたような、不安
げな気持ちにさせる作り物じみた笑みをした男。

160 名前:袁術公路2 それぞれの思い(7/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:55:49 ID:aefGdB/p0
「……あんた、なによ?」
 テールを揺らして目つき鋭く、警戒感を露わにして地和が闖入者に問いかける。
 けれどもそれも何処吹く風、男はますます芝居がかった声色とわざとらしい仕草で言葉を続
けた。
「ふむ、私が誰か、ですか? この際そんなことはどうだっていいではありませんか。いま大
事なのは、彼女が、いや、あなたたちが素晴らしい歌と志をお持ちだということです。失礼な
がら先ほどの言葉、聞かせていただきました。闇に覆われたこの世の中を、自分たちの歌で変
えようという立派な心意気。私は猛烈に感動しました。いやいやご立派。なかなか言えること
ではありません」
「えー、聞いてたんですかぁ。やだなぁ」
「ちょっと姉さん」
 照れ照れ笑う長女を庇い、遮るようにして人和が前に出る。
 突然現れた胡散臭い笑顔の道士に、人和も疑惑の目を向けていた。
 たまにいるのだ、こうして言い寄ってくる男が。
 そういうときは大概、だまされやすい姉を地和と人和が守るのが常であった。

「ふふっ。何も取って食おうというのではありませんよ。そう堅くならず」
「そうだよぉ。折角わたしたちの歌を聴いてくれたんだから、お話くらい聞いてあげようよぅ」
「ややこしくなるから姉さんは黙ってて」
 天和の言葉を人和が切って捨てた。
「人和ちゃん酷いよぅ……」
 拐かしか、それとも人買いの類か。
 とにかくこの手の手合いは、ろくなものじゃない。
 どこか抜けている姉を守るのは、妹たちの役目である。
162 名前:袁術公路2 それぞれの思い(8/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 21:58:55 ID:aefGdB/p0
 奥に天和、その手前に人和、更に手前に地和。
 完全警戒の布陣を取る彼女たちに、それでも男は余裕の笑顔で笑いかけた。
「なに、怪しい者じゃありません。私はあなたたちの歌を聴いて、お手伝いできないかと思っ
て声をかけただけのただの道士。なんの変哲もない、さすらいの道士です」
「お手伝い?」
「だから、お姉ちゃんは黙っててってば!」
 のほほんとした天和の声に、今度は地和がぴしゃりと言う。
 だが男はそんなことは気にせず、待ってましたとばかりに話を続けた。
「ええ。あなたたちの歌声を天下に響かせる、そのお手伝いをさせてもらえないかと思ったの
です」
「天下に、私たちの歌を……?」
「姉さん!」「お姉ちゃん!」
「そうです。この乱れた世に、あなたたちの歌で希望の光を灯すお手伝い……お姉さんの言葉
を借りるなら、みんなを笑顔にするお手伝いをさせていただけないかと」
「姉さん。こんなペテン師の言うこと聞いちゃ駄目」
「そうよ! こんなの絶対怪しいよ!」
 この男は危険だ。
 二人は男から名状できぬ不吉さを感じ取っていた。
 それは直感に近い。
「行きましょうっ!」
 険しい声でそう言うと、人和は彼女らしからぬ強引とも言える手つきで姉の手を引いた。
「え、えぇー?」
「ほらっ、さっさと!」
 地和も残念そうな顔をしている天和の背中を押して、一緒にその場を立ち去ろうとする。
 こういうときはさっさと退散するに限る。
 このような賢明さこそが、彼女たちが女だてらにこれまで無事旅を続けてこられた理由であ
った。
165 名前:袁術公路2 それぞれの思い(9/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 22:03:29 ID:aefGdB/p0
「おやおや……。実際に私がどんなふうにお手伝いできるか、それを確かめもせずに行ってし
まわれるのですか?」
「結構です」
 人和は背を向けたままそう言った。とりつく島もない。

「まあまあ、そう言わず。それっ」

 去りゆく三人に向かって、男はパチンと指を鳴らした。
 すると突然、

『ちゃんちゃんちゃん、 ちゃんちゃちゃらら〜 
 どんちゃんどんちゃん ズンチャズンチャ』

 音が鳴り出した。

「きゃあ!?」
 天和がかわいい悲鳴をあげる。
 それも当然だろう。
 彼女たち三人が持っていた楽器が突如として、一人でに音を奏ではじめたのだから。
「な、なに!? なんなのっ!?」
「なんか私たちの楽器から、音が出てるよちーちゃん!」
 彼女たち三人がそれぞれ歌いながらに演奏していた楽器から、流麗な調べが流れはじめる。
 しかも彼女たちがしていた演奏のような、素人臭さが抜けないものとは次元が違う。まるで
その道の達人のような楽である。
167 名前:袁術公路2 それぞれの思い(10/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 22:07:16 ID:aefGdB/p0
「次はその野暮ったい服です。はいっ」
 三人が慌てふためくのを見て笑いながら、男が再び指がパチンと鳴らす。
 すると今度は、三人が着ていた服が手品のように瞬時に別のものに替わった。
「え、えええぇ!?」
「な、なにこれぇ!?」
「落ち着いて姉さん! ただのまやかしよ!」
 自分たちが着ている服を触って、三人は口々に言った。
 そうしている三人を見て、男はますます面白そうに笑う。
「さて、皆さん。準備はいいですか? もうお客さんたちは集まり始めていますよ」
「ええ!?」
 驚いた天和が周囲を見ると、そこにはいつのまにか、彼女たちを取り巻くようにして、何重
もの人垣が出来上がっていた。

「なんだなんだ?」「一体なにがはじまるんだ?」「それにしても心地よい調べじゃ」「元気
が出てくるような気がするな!」「これからあの三人が歌うんだとよ」「お姉ちゃんたち頑張
って!」「ほほお! これはべっぴんな姉ちゃんたちだ!」「ひゅーひゅー!」「早く歌えー!」

 一体どこから集まってきたのか、周囲を取り巻いた男たちはその数ざっと五十人ほど。
 彼らは天和たちを囲んで、これからなにがはじまるんだろうという好奇と期待に満ちた目を
向けている。
 そして一方、突如として経験したことのない大人数の聴衆に囲まれて、三人は硬直して息を
飲んだ。
172 名前:袁術公路2 それぞれの思い(11/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 22:11:55 ID:aefGdB/p0
「さあさあ、彼らは待ち望んでいますよ。あなたたちの歌を!」
 聴衆に紛れて姿が見えない――けれどもはっきりと聞こえた道士の言葉。
 それに合わせるかのように、集まった者たちも口々に歌を、歌を! と叫びをあげる。

「お姉ちゃん……」
「天和姉さん……」
 道士の言葉と聴衆の熱気。そしてこれまで感じたことのないプレッシャーに気圧されるよう
にして、妹二人は姉を見た。
 対して、視線を向けられた天和は、
「歌おうっ! 二人とも!」
 自信満々の笑顔で答えた

「みんな私たちの歌を待ってるんだよ! だったら細かいこと考える前に、まずは歌おっ!」
 天和は妹たちの手を取て、それを掲げた。

 そして、再び歌がはじまり。

 ――歯車は動きはじめた。
176 名前:袁術公路2 それぞれの思い(12/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 22:17:03 ID:aefGdB/p0
◇◇◇

 ときは変わり、場所も変わり。

 今日も美羽さまは最高にかわいい。

「うー、つまらんのぅ。つまらんのぅ」
 荊州南群。
 この肥沃な地を治める少女、太守袁術は椅子に座って足をぶらぶらさせながら、口をアヒル
口に尖らせていた。
 ぺったん、ぺったん
 机の上。山と積み上げられた書類に、ぺたぺた判を押してゆく。
 横には七乃が控えており、決済された書類をタイミング良く引き抜いている。
 そうやって次の書類、また次の書類と流れ作業でどんどん判が押されていく様子は、傍目に
見ればまるで餅つきのよう。
 けれどもこれが、彼女たちにとっては日常的な執政風景であった。
 無論、そんな速さでぺたぺた判を押していて、肝心の内容を把握できているのかと問われれ
ば、わかっていようはずがない。事実、美羽はいま自分がなんの書類を許可しているのかもわ
かっていない。
 だが、それでも関係なく政務は回る。
 そもそも実質的な政治上の手続きは、途中の文官たちと七乃のところでほぼすべて終わって
おり、美羽が判を押している書類自体、七乃が厳選した『許可するべき書類』であって美羽が
頭を悩ませる必要はまったくないのである。
 可否の判断や事務的な処理といった難しく面倒な部分は、美羽のところに登ってくる前にす
べて片付けられており、彼女はただ判を押しているだけでいい。そういう仕組みで、彼女と彼
女の国は回っているのだ。
179 名前:袁術公路2 それぞれの思い(13/20)[sage] 投稿日:2010/06/11(金) 22:21:11 ID:aefGdB/p0
 と、まあ、そんな感じの簡単なお仕事を美羽が不服そうな顔でしている横で、七乃は上機嫌
であった。
 いや、七乃は美羽の横にいるときはいつだってごきげんなのだ。

「つまらん、つまらんのぅ」
「もぅ、お嬢さまったら。おやつの時間はもうすぐですから、あと少し我慢してくださいねー」
 全身からこれでもかというくらいに退屈オーラを出している主人の姿を見ているだけで、七
乃の心は満たされる。
 とりあえず困った顔をしておくが、その実、午後のおやつはなににしようかと思いを巡らせ
ていた。
 なにを用意したらお嬢さま、喜んでくれるかなぁ、と、そんなことを考えながら顔だけは困
ったふりをしておく。
 七乃にとって美羽は、ただ主人であるというだけではない。
 それはもう特別な存在だ。
 大事な大事なお嬢さま。
 お守りし、お世話してきたたいせつな箱入り娘。
 美羽は七乃の人生そのものと言っても過言ではない。
 はっきり言って、美羽さまのためなら死ねる。

「違う、違うぞ七乃。妾が言っておるのはそんなことではない」
「じゃあ今日はおやつはいらないんですか?」
「いらんわけがなかろう」
「もー。だったらなにが気に入らないんですかぁ?」
「決まっておる。一刀がおらんからつまらんと言っておるのじゃ」
「……はぁ、またそれですか」
182 名前:袁術公路3 それぞれの思い(14/20)[sage 3なのよ……] 投稿日:2010/06/11(金) 22:25:43 ID:aefGdB/p0
 美羽の口から出てた名を聞いて、上機嫌だった七乃が眉を顰めた。
 北郷一刀。
 先日美羽と七乃が、流れ星の落下地点(?)と思わしき場所から救助した少年である。
 その彼に、最近の主人はいたくご執心なのだ。

「あ、そうそう。一刀さんと言えば昨日の件、本当にあれでよろしかったんですか?」
「んん? なんじゃ藪から棒に。昨日の件とだけ言われても、なんのことかわからんぞ?」
「ほら、洛陽からの遣いの方が、最近各地で暴れ回ってる黄巾党とかいう連中を退治しろー、
って言ってきた話ですよ」
「……むぅ? そんな話あったかの?」
「ありましたよー。ほら、最初は面倒くさそうなのは全部孫策さんに任せようって話だったの
に一刀さんが――」
 と、そこまで話したところで、美羽がぽんと手を叩く。
「おおっ、思い出したぞ! うむうむ。あれは実に妙案であった。やはり孫策のような小物に
は、分隊程度の相手をさせておくのが相応しかろう。妾の勇名を轟かせるには、数が多くて強
い方の相手をせねばな。孫策は露払いで妾が本命、うむうむ、実に小気味良いぞ」
 そう言ってしきりに頷く主人に、七乃は顔色を曇らせた。
「うーん、本当にそれで良かったんですか? 孫策さんに本隊の相手をさせて、私たちは後ろ
で高みの見物〜。っていうのも美味しいとこ取りで良かったと思うんですけども」
「なんじゃ、七乃はあ奴に手柄を立てる機会をみすみすくれてやれというのか?」
「いえいえ、そんな気は全然まったくありませんけど……。相手は所詮、規模が大きいだけの
山賊さんですから、美羽さまの勇名が轟くってほどじゃない気もしますしぃ」
「ふん、相手が小物だからじゃ。妾は孫策の奴にわざわざお手軽に名声が得られる機会をくれ
てやるのが気に入らんだけじゃ。ほれ、一刀の奴も言っておったじゃろう、ええと、獅子は千
尋の谷にとかなんとか」
「やですよお嬢さまー。それを言うなら獅子は鼠を狩るにも全力を尽くす、です」
「う、うむ。いまのは七乃を試しただけじゃ」
183 名前:袁術公路3 それぞれの思い(15/20)[sage 3なのよ……] 投稿日:2010/06/11(金) 22:29:31 ID:aefGdB/p0
 頬を染めて顔をぷいっと背けた美羽を見て、思わず七乃の頬も緩む。
 今日もお嬢さまはかわいい。
 天下一かわいい。
 七乃が丹誠込めてお守りし、お助けし、文字通り花よ蝶よと育ててきた純粋培養のお嬢さま。
 最高でないはずがない。
 そんないつも通り愛くるしい姿を見ていると、胸がときめきが止まらない。

 しかし、いつもなら幸せな気持ちに浸るはずのところで、ぼんやりとした不安がしこりのよ
うに残った。
 それは最近になってそのお嬢さが一刀の名を出すときに感じるようになったものである。

 元々、美羽が一刀を飼うと言い出したとき、七乃は別段そのことを止めようとはしなかった。
 それは主人の性格から考えて、どうせすぐに飽きてしまうだろうと考えたからである。
 美羽が満足して飽きたら、あとは手当だけして適当に放り出せばいいと思っていた。本当に
予言された天の御遣いかどうかなど、正直どうでも良かったのだ。
 けれども、そこで事態は七乃の予想していなかった方に転がった。
 飽きっぽいはずの美羽が、今回ばかりはなかなか飽きなかったのだ。
 それどころか、なかなか意識を取り戻さない一刀のことを自ら甲斐甲斐しく看病し(勿論フ
ォローしたのは七乃だが)、回復したあとはなにをするにも世話を焼き(手回ししたのは七乃
だが)、最近はどこに行くにも連れて回っているのだ(準備するのは当然七乃である)。
 そんな美羽の一刀に対する入れこみ様は、まさに寵愛と言っても差し支えのないものであっ
た。
 なにが主人にそこまでさせているか、七乃にはわからなかったが、それでもやはり一時的な
ものに違いないと思っていた。
 いつも通り、お嬢さまの気まぐれだと。
 今回はたまたまそれが長続きしているだけだと。
186 名前:袁術公路3 それぞれの思い(16/20)[sage 3なのよ……] 投稿日:2010/06/11(金) 22:33:23 ID:aefGdB/p0
 そう思っていた。
 ――このときまでは。

 いつも通りわがままを言いはじめた美羽を見て、七乃はいつも通りに困ったような顔をして
みせた。
 けれども、それはあくまで困っているふり=B
 正味のところ、いつだって七乃は美羽を甘やかす気まんまんなのだ。

「もう、お嬢さまったらぁ、一刀さん一刀さんって、最近はそればっかりですねぇ。そんなに
一刀さんのことを気に入ったんですか?」
 係の者を呼んで一刀を捜させようと頭の中で算段をつけながら、なんの気のなく口に出され
た七乃の一言。
 だが、それを言われた美羽の頬に、さっと朱がさした。
「う、むむ? べ、気に入ったとか、別にそういうことは……ないぞ」
 視線を明後日の方向に外して、そんなことを言う。
 どうやら、羞恥を覚えたようだった。
 なんとも年頃の少女らしい反応である。

 だが、そんなふうにして返ってきた反応に、七乃は意外なものを見たようにおやっという顔
をした。
 てっきり、もっと脳天気に『わははー!』と返事が返ってくるとばかり思っていたからだ。
 普段なら気にも留めない程度の些事。だが、七乃の中で警鐘が鳴らされるには十分な変事で
あった。
 なぜか猛烈に、突っ込むべきだと女の勘が告げていた。
191 名前:袁術公路3 それぞれの思い(17/20)[sage 3なのよ……] 投稿日:2010/06/11(金) 22:38:43 ID:aefGdB/p0
「あのぅ、お嬢さま? つかぬ事をお伺いしてもよろしいですか?」
「うむ、くるしゅうない。存分申してみるがいい」
「はい。それではお嬢さま、突然ですけど一刀さんのこと、どう思われてます?」
「っ!?」
 単刀直入。
 ズバッと正面から切り込んだ七乃の言葉に、美羽は息を飲んでその身をうっと仰け反らせた。
「か、一刀のことじゃと?」
「はい。最近のお嬢さま、いつも一刀さんと一緒ですよね。お嬢さまをお守りする役目を担う
者として、一応そのあたりも把握しておいた方がいいかなと思いまして」
 真顔の七乃に、体勢を直した美羽はますます狼狽える。
「一刀か、ううむ、一刀のことか……」
 迷うように目の前の紙に、ぺたんぺたんぺたん、と何度もくり返し判を押す。
 たちまち書類は判だらけになった。
 そして俯いて散々迷ったあげく、美羽はうっすら赤い顔を上げた。
「むむむ、だが他ならぬ七乃の頼みじゃ、話さぬわけにもいかんじゃろう……七乃だから言う
のじゃぞ? 決して他の誰にも話してはならぬぞ」
 そう念押しをしてから、美羽は心中を吐露しはじた。

 ――べ、別に妾は一刀のことなど、なんとも思っておらぬ。 それでも、もしもそれでも、
妾がことさら一刀に優しくしておるように見えたなら……、それはその、あれじゃ。一刀は誰
かが保護してやらねばならぬ、か弱い存在じゃからな。であるからして、同じ高貴なる血筋の
よしみで妾が保護してやるのが道理。つまり、妾は高貴なる者の義務を果たしているに過ぎぬ
のじゃ――
194 名前:袁術公路3 それぞれの思い(18/20)[sage 3なのよ……] 投稿日:2010/06/11(金) 22:44:03 ID:aefGdB/p0
 ――いやいや、決してそんなことはないぞ? だが、その……あの出会いに感じるものがな
かったとは言えぬかもしれん。妾のことを王者だとか、気品があるだとか、そんな当たり前の
ことを口にする者は多かったが……流石にいきなり『神』と評されたははじめてであったかな、
うむ。まったく、口の上手いやつじゃ……ふふふ――

 ――妾はあのときぴんと来たのじゃ。こやつはきっと天与の授かり物に違いない、とな。妾
の前に天からの使いが現れたのは天命に違いないと――

 ――それにな、最近は一刀を構っていると、上手くは言えんのだが……ちょっとだけ、変な
気持ちになるのじゃ。こう、胸の奥がきゅっとなるというか、ぽかぽかするというか、甘い蜂
蜜を舐めたあとのような心地というか……とにかく不思議な気持ちに。だが、それがなんとも
心地よい。そのせいでついつい一刀の奴を構いたくなる――

 ――こ、これは他ならぬ七乃だから話したのじゃからな! いいか、他の者には、特に一刀
の奴には絶対秘密じゃぞっ!――

197 名前:袁術公路3 それぞれの思い(19/20)[sage 3なのよ……] 投稿日:2010/06/11(金) 22:48:35 ID:aefGdB/p0
 すべてが語られ終わった執務室。
 そこにガタンッ、という音が響いた。
 七乃が勢いよく席を立ったの音である。
「ど、どうしたのじゃ七乃?」
 突然立ち上がった七乃を、美羽が驚いた顔で見上げている。
「……一刀さんを探して参ります」
 口調だけは努めて冷静に、けれどもそう言った七乃の様子は、明らかに尋常ではなかった。
 どんなときでも余裕を忘れない彼女が、このときばかりは焦った顔をしていた。
 美羽も滅多に見ることがないそんな七乃の顔をぽかんと口を開けて見つめていたが、やがて
破顔して手を打った。
「うむっ! では七乃よ、一刀を妾の前に連れてきてたもっ!」
 無邪気に笑ってそんなことを言う。
 けれども、それを聞く七乃は心中穏やかではいられない。

 とつとつと語られた美羽の言葉。
 それを聞き終えたときに走った衝撃、まるで鈍器で横殴りにされたようなその余韻が、未だ
彼女の中で消えない木霊のように響いている。
 その内では、まさか、という気持ちが強い。
 『うちのお嬢さまに限って』という、思いが強い。

 だがそれでも、認めざるを得なかった。
 七乃はここに至ってようやく、事態が自分の知らぬうちに、とんでもない方向へと転がりは
じめていたことに気付いたのだった。
 本来勘の鋭い七乃が、このレベルに陥るまで事態を察知できなかったのは、あるいは無意識
に『そんなこと、起こるはずがない』と油断していたことが原因であったかもしれない。
 だがしかし、そんなことは言い訳に過ぎない。
 思い起こしてみれば、予兆はいくつもあったのだ。
201 名前:袁術公路3 それぞれの思い(20/20)[sage 3なのよ……] 投稿日:2010/06/11(金) 22:54:41 ID:aefGdB/p0
 出会ったときに、一刀が美羽の琴線に触れる一言を発したのは事実だ。
 美羽が怪我をした一刀を保護して、甲斐甲斐しく献身的に世話をしていたのも事実だ。
 一刀の語る珍しい天の知識に、美羽が興味を惹かれていたのも。
 本当に天の遣いかどうかはわからないが、一刀が普通の人とはどこか違った特別な人間であ
るのも。

 なぜもっと注意を払わなかったのか。
 いま思えば、それらすべてが発端になりそうなことばかりではないか!
 いや、それがまだきっかけのうちはいい。
 今のような犬猫や人形をかわいがる類の、そんな子供らしい幼い保護欲の発露であるうちは
なんとでもなる。
 問題は、その先の段階へと進んでしまったとき。
 まかり間違って、本当に色恋などというものに発展してしまった場合!

 そうなったら、もう取り返しがつかない。

 手塩にかけてお守りしてきたお嬢さまが、悪い虫にたぶらかされてしまう。
 汚れを知らない純真清らかなあの美羽さまが、毒牙にかけられてしまう。
 それだけはなんとしても、なんとしても避けねばならない。
 己の不甲斐なさを呪うのはあとでもできる。
 まずは……諸悪の根源、北郷一刀を探さねばならない。

 そして探し出したあとはどうするのが最善なのか、そのことを考えながら七乃は足早に執務
室をあとにしたのだった。


217 名前:袁術公路3 それぞれの思い(21/32)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 21:33:24 ID:Prmqbuom0
 ◆◆◆

『ふう……』
 緑と水の匂いが色濃い、街はずれの森。
 どこの街の近くでも一つはあるらしい、なんの変哲もない小川の畔。
 川のせせらぎと鳥の鳴き声が耳を楽しませてくれるその場所に、陰気にこごる影があった。
 いや、影ではない、実体がある。
 膝を抱えて体育座りの姿勢をした異邦人、北郷一刀であった。

『はぁぁぁ……』

 流されていく木の葉を見つめて、気もそぞろにため息を吐く。
 こうして人がため息をつくときは、なにか悩みを抱えているのが常であるが、それはこの天
の御使いを他称される彼にしても同じであった。
 ある日突然この見知らぬ土地に迷い込んでしまった彼が、いま思い悩むこと。
 自分はなぜこのような場所にいるのか? 家族や友人は心配しているだろうか? 元の世界
に無事帰ることができるのか?
 普通に考えたなら、そのような己の境遇についての疑問・疑念についてであろう。
 だがこの彼、いまの北郷一刀に限って言えば、それは大きな間違いだった。

『あぁ……』

 口から苦悩の声が漏れる。
 いま彼の胸の内を掻き乱しているのは、実のところある一人の少女だった。
 自分の主人≠ナあるという袁公路。
 名門袁家の嫡子。正真正銘のお姫様。
 黄金色の髪と白雪の肌をした、天使と見紛うばかりの天真爛漫な美少女。
 命の恩人であり、そして自分を溺愛してくれている存在。
 美羽についてのことだった。
220 名前:袁術公路3 それぞれの思い(22/32)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 21:37:07 ID:Prmqbuom0
 本人には他意がないのだろうが、あの風呂場の一件以来、一刀と美羽の関係はより危険な段
階へと歩みを進めていた。
 煩悩、生理現象を問わず、一刀のそこが屹立していることに気が付くと、美羽が手を伸ばし
て無聊を慰めてくれる……。
 そのような、決して健全ではない方向に事態は悪化していた。

 近直では昨晩のこと。
 目蓋を落とすと、焼き付いたように思い出される少女の姿。
 絹のようにさらさらと流れ落ちる金糸の髪。ちらちらと見えそうで見えない胸元の桜色。湯
煙の白と肌の白、それらの中で幻想的に調和するうっすら上気した頬の朱と唇の紅。
『うむうむ、びくびくしてきたぞ♪ いましばらくじゃからな、待っておれっ』
 そんなふうに口にされた声すら、唇の動きも含めてはっきりと思い出せる。
 美しい、かわいい、魅力的、そんな言葉では表現しきれない少女が、自分の限界まで膨張し
た逸物を丹念に撫で回している――

「うう、うあぁぁ……」
 甘美なる反復に捕らわれそうになりながらも、一刀はなんとか己を取り戻して再び自己嫌悪
に陥った。
 あの境界を踏み越えてしまった日から今日まで、朝夕を問わず、一刀は既に幾度となく美羽
の手で絶頂を迎えてしまっていた。
 けれども快楽に負けて流されてしまったからと言って、道義道徳まで失ったわけではない。
 ことが終わって冷静になる度に、こんなことはいけない、なんとかしなくてはと思いが一刀
を苛むのだ。
 だが、いざことに当たる段階になるといつもその気概が萎え果ててしまい、その場の欲望に
負けてしまう。
 ここ最近は、ずっとそんなことのくり返しだった。
223 名前:袁術公路3 それぞれの思い(23/32)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 21:39:23 ID:Prmqbuom0
 美羽は何もわかっていない。
 彼女は粘つく白濁液を、体に溜まった悪いものだと思い込んでいるらしく、それを絞り出す
のは自分の役目だと言って、いつも張り切ってヌきにかかるのだ。
 そして当の一刀といえば、美羽の与えてくれる快楽に流されることに、徐々に慣れてきてし
まっていた。

 それでも、
(手だけだ。せめて手だけで終わりにしよう……そこで我慢して、これ以上の過ちを犯さない
ように……)
 目を閉じて自分自分に、自制心に言い聞かせる。
 いまの段階で既に十分犯罪的であるのだが、最後の一線さえ越えなければまだ引き返せると
自分を弁護する。
 自分は幼い少女の手コキで感じてしまう人間かもしれないが、まだ大丈夫、まだやり直せる
と言い聞かせる。
 誰にともなくそんな言い訳をする。

 だが、そう思い込もうとしている一刀自身、そこに大きな落とし穴があることに気付いてい
るのだ。
 最初に出会って以来、一刀の美羽に対する我慢の限界点というか、性欲の沸点が明らかに低
くなってきている。
 それは窮地に陥った戦線が、じりじりと防衛ラインを下げていくのに似ていた。
 『これ以上下がってはならない』が『ここまでは下がれる』、更には『いやもう少し下がっ
ても大丈夫』というように、どんどんと理性のハードルが下がってきている。
 坂を転がり落ちるようにして、事態は悪化の一途を辿っている。
 そう、まさに泥沼。
 状況という泥沼に、ずぶずぶと嵌っていっているのだ。
226 名前:袁術公路3 それぞれの思い(24/32)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 21:42:21 ID:Prmqbuom0
 無論、簡潔にして明快な解決手段も、あるにはある。
 美羽の行為にNOを突きつければいい。していることの本当の意味を伝えれば、きっと美羽
だって軽はずみな行動を慎んでくれるに違いない。
 そもそも、美羽の勘違いを正していないことが、事態をややこしくしているのだ。
 だから美羽に謝って、正直に話せばいい。

 だが、一刀はそれを実行していなかった。
 言い出そうとしたことは何度もある。だが、肝心のそのときになると言い出せなくなるのだ。

 それに、ここまで来てしまったら、今更どうやって切り出せばいいのかという思いもある。
 『実は君がしている行為は、とても悪いことだ。子供がしちゃいけないことなんだ』
 ……なんてことを言うのか? もしも突っ込まれて聞かれでもしたら、どう説明すればいい?
 それに、自分が嘘をついていたことを美羽に伝えるのも辛い。
 純真に信じてくれている彼女の、無条件の信頼を裏切るのが辛い。

 いや、実際のところ、いまの状態は彼女をだましているに限りなく等しいのだが、だからと
いってそれを真っ向から伝えるとなると、相当の覚悟が必要だ。
 明らかに矛盾しているが、一刀の中には彼女を裏切るような真似はしたくないという思いが
渦巻いている。
 利己的、不誠実と責められても仕方がない、けれどもそれが一刀の本心であった。
 ああ、心の弱さが恨めしい……。
229 名前:袁術公路3 それぞれの思い(25/32)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 21:45:02 ID:Prmqbuom0
 そして感情的なものを抜きにしても、問題はもう一つある。
 これまで生きてきて十数年、一刀に女性経験はない。
 正真正銘偽りなく、恥じることなく生粋の童貞である。
 そんな一刀にとって、美羽との行為でもたらされた快楽はまさに天上に昇るような心地で、
それはもう一人でするときとは比べものにならないものであった。
 目を閉じれば濃厚に思い出される淫蕩。白魚のような指先が絡みつき、無邪気に淫らに、自
分の猛り狂った肉幹をしごきたててくるあの感触。
 穢れなき幼手に蹂躙され、陵辱され、征服されるが如き、あの無垢の責め苦。
 その果てに押し寄せてくる怒濤の快楽、至福、法悦。
 終わったあとの、自慰で味わう無力感とはまったく違う、母の手に抱かれるかのようなあの
幸福感。
 あれを一度でも味わってしまったら、もう一人での行為に及ぼうとは思わない!

 倒錯的であるのはわかっている。
 けれどもそのような倒錯を、心の底では快楽を渇望している自分がいるのも確かなのだ。

 ――ああっ、美羽に、もっと滅茶苦茶にされたい――

 と、そこまで考えて一刀ははっと我に返った。
(いま、なにを考えてた……?)
 そしてすぐにその答えに行き当たり、その身を大きく反らした。
「俺は……、俺って奴は! う、うわあああああああああああ!」
 危うい、いまのは危うい思考だ。
 もしも流されてしまえば変態。しかもただの変態ではない。かなりハイレベルの変態。
 ド変態として歴史に名を残す変態。
 そうなったら未来に向かって謝らなければならない。
 ごめんなさい、変態でごめんなさい。
 産まれてきて、本当にすいませんでしたっ!!
232 名前:袁術公路3 それぞれの思い(26/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 21:48:15 ID:Prmqbuom0
「ああ、……あぁああ……」
 打ちひしがれて、一刀はがっくりと肩を落とした。
 本当のことを話して美羽の信頼を裏切るのは嫌だ。
 けれどもだましているような現状が良いとも思えない。
 一方で、体はそんな葛藤など差し置いて彼女に溺れかかっている。
 美羽のことを好いている気持ちもあるが、それすら体の異常から来る思い込みかもしれない。
 そもそも相手は子供なのだ。その時点で好きとかエロスだとか、そういう対象にすること自
体間違っている。

「ああ、俺はどうすればっ……!?」
 その心中をあらわすように、一刀は頭を抱えて身をよじる。
 心と体と道徳と、その諸々が引き裂くようにして彼を苦しめていた。

 だが、そんな彼にもただ一筋の光明が残されていた。
 ただ一つの明確なる解。
 それは、問題の元凶となっているであろう身体の異常を治すこと。
 一刀の体の、そして心の変調原因となっている頭の怪我を治せば、すべては解決するかもし
れない。
 美羽に欲情することもなくなり、彼女に正面から向き合えるかもしれない。
 そのことを一刀もわかってはいるのだが、いかんせん肝心の治し方が皆目わからない。
 前に七乃から聞いたところによると、一刀の怪我を診たのはこの荊州一番の名医だという。
 一刀が保護されている袁家はどうやらかなりの名家らしく、その袁家お抱えの名医以上の名
医を、そう簡単に見つけられるとも思えない。
234 名前:袁術公路3 それぞれの思い(27/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 21:51:04 ID:Prmqbuom0
 けれど、このままでは……。
「俺は……、俺は取り返しのつかないことを……!」
 一刀はあまりに不穏すぎる未来予測にもがき苦しみ、一人孤独にガクガクと頭を振った。

 すると、
「あの……大丈夫ですか?」
 と、そこで横から、悪霊にとり憑かれたように抱えた頭を振っていた一刀に、言葉がかけら
れた。
「あああぁぁぁ……、ぁ?」
 動きを止めた一刀がそちらを見ると、そこには一刀と同じような格好で体育座りをしている
女性が目に映った。

「あ、すみません、……もしやご迷惑でしたか?」
 心配そうな――というか可哀想な人を見る目でこちらを見ていたのは、眼鏡をかけた黒髪の
女性。
 着ている服は肩を出すデザインだが、全体的に露出はそう多くない感じにまとめられており、
このあたりの人がよく着ているような服とはやや趣を異にする。
 眼鏡や顔立ちのおかげで一見しての印象はデキる女といった風体だが、不思議と近づきがた
い雰囲気はない。
 なんというか、厳しい雰囲気とその逆のものを同時に持ち合わせたような女性であった。
 なお、先ほどまでのため息の半分は、横に座っていた彼女のものである。
236 名前:袁術公路3 それぞれの思い(28/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 21:53:44 ID:Prmqbuom0
「あ、いえ、大丈夫です。すみません、つい取り乱してしまって……」
 ドギマギせずにすんなりそういえたのは、彼女の小振りとはいえしっかりと膨らんだ胸のお
かげか。
 言い繕う一刀に、彼女は地面へと目線を下げた。
「いえ、こちらこそ、出過ぎた真似を……」
「いえ、ほんと助かりました。あのままだったらどうなっていたかわかりませんし……」
 少なくとも、その辺を転げ回って一張羅の制服を汚すくらいはしていただろう。
「そうでしたか。……それなら良かったです」
「はい、ありがとうございます」
「………」
「………」
「………」
「………」

 言葉が途切れた。
 会話が続かなかった二人は、示し合わしたようにそろって小川に目を向け、そしてまた、
「はぁ……」
「はぁ……」
 同時にため息をついた。

 示し合わせたように二人はため息をつき合う。
 そんなことがまた何度かくり返された。
 状況が先ほどまでのものに戻ったとそう思われたとき、今度は一刀の方から隣の女性へと声
がかけられた。
「あの……なにかお悩みでもあるんですか?」
 不躾な質問かとも思ったが、先ほど声をかけてもらったこともある。なによりずっと隣り合
って一緒にため息を吐いた仲なのだし、このくらいはいいかなと思って聞いてみたのだ。
「あ、すみません。ため息をついてる人に、悩みがあるかなんて変ですよね」
「……いえ、そんなことは……」
 一刀がはにかみ笑いで苦笑すると、それで緊張が解けたのか、女性はどこか憂いを秘めた顔
を見せた。
240 名前:袁術公路3 それぞれの思い(29/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 21:56:50 ID:Prmqbuom0
「それに、私の悩みなど大したことではありませんし……」
 再び小川に向き直ったその横顔を見た一刀は、
「俺で良かったら、聞きますよ」
 自分でも驚くくらいに、自然とそう切り出していた。

 その言葉にびっくりしたのか、眼鏡の彼女は一刀の方を見て目を二度三度まばたかせた。
「でも……お互い知らぬ者同士ですし」
「見知らぬ者同士だからこそ、気兼ねなく話せるかもしれないじゃないですか。それに、誰か
に聞いてもらったら楽になれるかもしれませんよ?」

 彼女はその言葉を吟味するようにややしばらく彼女は黙っていたが、意を決したように口を
開いた。
「そう、ですね……聞いてもらえますか」
「ええ、俺で良ければ」

 そして彼女はぽつりぽつりと話しはじめた。
「実は……私にはかねてから一つ、悪い癖というか、困った体質がありまして……」
「へぇ、どんなです?」
「はい、それが……」
「………」
「少々、血の気が多すぎるといいますか」
「血の、気? 喧嘩っ早いとかですか?」
 一刀は彼女をてっぺんから爪先まで見た。
 その体つきは華奢で、とてもそんなふうには見えない。
「あ、いえ。そういうわけではないのですが……。あの、その……聞いても変な目で見ません
か?」
「見ませんよ。こう見えてもいまの俺は、突拍子もない話には割と耐性ができてますから。ど
うぞ気にせず話しちゃってください」
「そうですか……。実は私、その……、男女関係のことや……」
「?」
243 名前:袁術公路3 それぞれの思い(30/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 21:59:43 ID:Prmqbuom0
「そういった方面の、淫らなことを考えると……」
「……ん?」
 そこで一刀は怪訝な声を漏らした。
 鼻から鮮やかな赤一本、つつーと流れ落ちるのが見えたからだ。
 なんというか、彼女の整った顔立ちと相まってすごい絵面だ。
「その、は、鼻……鼻血が、うっぴゅぅっ!?」
 と、そこまで言ったところで突然、俯きがちだった彼女の顔ががばりと上がった。
 そして――
「うわぁ!?」
 一刀の視線の先、上向いたその鼻から、突然鼻血が噴水のようにぴゅーっと吹き出しのだ。
「わわ、わわわわ!?」
 思いがけぬ出来事に一刀があたふたしていると、常備で用意してあるのだろう、彼女は落ち
着いた仕草で懐から鼻栓を取り出し、それをぐりぐりと鼻に突っ込んだ。
 そしてふがふがと鼻声混じりに、
「と、こうなりまして……。これが悩みの原因なのです……」
 そんなことを言った。

 見た目知性派な美人なだけに、両方の鼻に詰め物をしているその光景は、かなり衝撃的だっ
た。
「い、いやらしい娘だと思いますよね、変な娘だと思いますよね」
「べ、別にそんなことは……少し面食らいましたけど」
「世辞などいりません。こんな体質では、仕官にも影響するのではないかと思い、ほとほと困
っているのです」
「あー、それは確かに……」
 もしも自分が事情を知らない面接官だったなら、就職面接の最中に鼻血を吹き出して、鼻栓
でふがふがしはじめた女性は取りたくないかもしれない。
247 名前:袁術公路3 それぞれの思い(31/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 22:02:40 ID:Prmqbuom0
 一刀がうーんと唸っていると、
「あの……それで、あなたの悩みというのは?」
 鼻がかった声で、今度は逆に話題を振られた。
「へ? あ、はい。実は……」
 と、話しかけたところで一刀は口を押さえた。
 ――果たして、人に話して良いものだろうか。
 一刀が抱えている悩みは軽々しく喋って良い類のものではない。
 こんな話、人にするべきじゃない。
 時代が時代なら、国が国なら即座に逮捕されて性犯罪者登録されて国中に公開されてしまう
レベルの話だ。
「ええと、そのぅ……」
 思わず言葉を濁してしまう。

 だが、一方で話すべきだという思いもあった。
 聞いてきた彼女だって恥ずかしいだろうに、それでも自分の悩みについて話してくれたのだ。
 だったら、自分も包み隠さずに話すべきではないのか?
 なにより初めに話を振ったのは自分なのだ。それなのに自分だけ話さないというのはどうか
と思う。
 それに、先ほど自分が言ったのではないか、話してしまえば楽になるということもあると。

 結局、幾ばくかの逡巡を経たのち、一刀はその重い口を開いた。

「実は俺、ちょっとたちの悪い病気にかかってまして……」
「病、ですか?」
「ええ……」
 一刀はそこで止めて、決意をするように息を吸った。

「実は俺……小さい子が、好きなんです」
252 名前:袁術公路3 それぞれの思い(32/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 22:05:59 ID:Prmqbuom0
『言ってしまった……』
 これまで誰にも話さなかった秘密を口にして感慨に耽る一刀だったが、次の瞬間、隣からガ
サガサッという音が聞こえてそちらを見た。
「……?」
 すると先ほどまで近くにいた彼女が、先ほどまでと同じ姿勢のままで、二メートル近くも距
離を離して座っているのが見えた。
「………」
 傍を離れた彼女は、眼鏡の奥から同情するような、それでいてどこか汚物を見るような目を
一刀に向けている。
 ひ、引かれたっ!?
 そのことに気が付いて、一刀は慌てて誤解を否定するように手を振った。
「ちょ、待って! 違う、違うんだ! これは、その病気というか、事故が原因でそうなって
いるんであって……!」
「………」
「ああっ!? 目線が冷たいっ!?」
 こうなったら仕方がない、毒を食らわば皿まで。
 一刀は渋々ながら己が身の潔白を証明するために、事故で頭を打ったこと、目覚める直前に
夢で見た美少女のこと、そして目覚めて以来の変化などを洗いざらい目の前の彼女に説明した。
 本当は美羽にどんなことをされてしまったのかまで話すべきだったのかもしれないが、流石
にそこまでは言えなかった。

「なるほど……つまり、事故が原因で、変な性癖に目覚めてしまったと?」
「う……。あからさまに言われると嫌だけど、多分そんな感じだと思う……」
「にわかには信じがたい話ですね」
「う、うあぁ。やっぱり、そう思うよね……」
 折角清水の舞台から飛び降りるつもりで告白したのに、変態扱い……。
 酷い、酷すぎる。
 流石にこれは応えた。
 一刀は打ちひしがれたように、肩を落とした。
256 名前:袁術公路3 それぞれの思い(33/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 22:09:49 ID:Prmqbuom0
 けれどもそんな彼を見て、次に彼女は意外にもこう口にした。
「でも、まあ頭を打てばそういうこともあるかもしれません」
「え……?」
 顔を上げると、まだ不信感を残しているようだったが、彼女の目からは悪党を見るような険
しさは消えていた。
「困っているのは確かのようですから……ここは信用しておきましょう。それに、悪い人にも
見えませんし」
 気が付くとその距離も、一・五メートルほどに縮まっていた。
 そのことに、ほっと安堵する。
 正直、あのままだったら当分立ち直れなかったかもしれない。

「……でも、それが本当に事故によるものでしたら、私が少し力になれるかもしれません」
「え……?」
 胸をなで下ろしてところに投げかけられた言葉。それに一刀が呆けた声を漏らした。
 力に、なれる?
 その言葉の意味をたっぷり数秒かけて呑み込んでから、一刀は勢い身を乗り出した。
「そ、それってどういう――っ!?」
 掴みかかりそうな一刀を手で制止ながら、彼女は落ち着いた言葉で先を続けた。
「話せば長いのですが、実は私がこの街に来たのはこの体質を治してくれるかもしれな
い、伝説の医者の噂を追ってのことなのです」
「伝説の……医者っ!?」
 そんな人がいるのかと衝撃を受けている一刀だったが、言葉は続く。
「私が聞いたところによると、その方はどのような病や怪我もたちどころに治してしまうとい
う神医ということでして、それならば私の体質も治してくださるかもしれないと思って、北の
方から連れ合いと共に旅をしてきたのです」
「神、医? ……それじゃ、もしかしてその人ならっ!?」
「ええ、あなたの病も治せるかもしれません」
 にわかに信じがたい。
 一刀はそんな、降ってわいた都合がいい話を聞いて、
260 名前:袁術公路3 それぞれの思い(34/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 22:14:02 ID:Prmqbuom0
「っ!!」
 ――思わず拳を強く握ってガッツポーズした。

 それはそうだろう。
 藁にもすがりたい心地でいたところに、求めていた手がかりが転がり込んできたのだ。
 飛びつかない方がどうにかしている。
「それで!? その人はいまどこにっ!?」
 喜色満面、ようやく見つけた光明に言葉を弾ませる一刀だったが、しかし彼女は対照的に愁
いを帯びた表情で首を横に振った。
「それが……どうやらしばらくこの街に留まっていたのは確かなようなのですが、いまはもう
すでのこの町を去ってしまったあとらしく……。それで私もこうして思案に暮れていたんです」
 そう言って、彼女はまた深く息を吐いた。
「そんな……」
 喜び勇んで身を乗り出していた一刀だったが、その言葉を聞いて一転してよろりと体勢を崩
した。
 期待が大きかっただけに、落胆を隠せなかったのだ。
「折角、光明を掴んだと思ったのに……」
 そうつぶやいたまま、動かなくなる一刀。

 しかし、そうした一刀の横で人が立ち上がる気配がした。
 顔を上げてみると、そこには先ほどまでと違う感情を宿した彼女がいた。
「でも、あなたも私も、こんなところで絶望している間にできることがあるはずです」
 うなだれる一刀になにを見たのか、そう口にした彼女の目には意志の輝きが宿っていた。
 そして彼女は一刀に聞かせるように、そして自分に言い聞かせるように強く言った。
「いつまでもこんなところにいられません。希望は、あるんですから」
 ――希望はまだある。
 その言葉が、目の前が暗くなりかけた一刀の心を打った。
264 名前:袁術公路3 それぞれの思い(35/42)[sage また……] 投稿日:2010/06/12(土) 22:18:05 ID:Prmqbuom0
「そ、そうだっ……」
 一刀が、立ち上がる。
「俺には、こんなところで落ち込んでる暇は、ない!」
 結局、やることは変わらないのだ。
 その医者を探し出して、治してもらう。
 例えその希望が蜘蛛の糸のように細かろうと、いまの一刀には手繰る他に選択肢はないのだ。
 一刀が立ち上がったを見ると、彼女は一刀を、そして自分を奮わせるように言った。
「ええっ、そうです! なんとしても探し出すんです! 夢のために!」
「そうだ! 俺やるよ! こんなところで止まってられない……絶対に探し出すんだ! 未来
のためにっ! その医者をっ!」
 なにを落胆する必要ある。
 事態は間違いなく前進したのだ。
 さっきまでとはまったく違う。
 目標が定まったことで一刀は、それまで自らの内で燻っていた活力が燃え上がるのを感じた。
 なんとしても、この病気を治してもらうのだ!
「よし、やるぞおおおおおお!!」

 と、声に出して一刀が決意を新たにしたのと同時、その背後からドサッという重いものが落
ちる音が聞こえた。
「?」
 不審を抱いて身を翻すと、そこには地面に倒れ伏した彼女の姿があった。
 その鼻からは、どくどくと血が流れている。
「そう。医者を、お医者さまを見つけられれば……、見つけられれば私も、ふふ、ふふふ……
そうなれば、きっとあの方とも、お医者……お医者さんごっこを……ぷふふっ、ぐふっ」
268 名前:袁術公路3 それぞれの思い(36/42)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:22:42 ID:Prmqbuom0
 ――惨劇は突然に。
 鼻栓を押し出してすごい勢いであふれ出ている赤い奔流のせいで、その周囲は血の海になっ
ていた。
「う、うわわっ! ちょっ、大丈夫ですか!?」
 慌てて片膝をついて抱き起こすと、彼女は鼻血を出しながら幸せそうな顔で痙攣していた。
「……ああっ、駄目です……そうさまっ。そんな、二人きりでお医者さんごっこだなんて。あ、
そこは、そこは駄目ですっ、ぁはあぁぁぁんっ!」
 紅潮して鼻血を流しながらうわごとを口にし、びくんびくんと身体を振るわせている彼女を
見ながら、一刀はこの世界にもお医者さんごっこってあるんだなぁ、なんてことを思った。

「と、とにかくこんなところに放っておけない! 早く運ばなくちゃっ! え、ええと、こう
いうときは……え、衛生兵ーーーっ!」
 そんなことを叫ぶ一刀。

 と、そこに一陣の風が吹いた。
 舞い上がる木の葉。ざわめく木々。
 そしてどこからともなく、響く声。

「その必要はありませんよ、一刀さん」
「はっ!? その声は!?」
 お決まりの台詞で一刀が反応すると、近くにあった木の陰が動いた。
 そしてそこから現れたのは、一刀のよく知る人物であった。
「七乃さんっ!?」
「話は聞かせていただきました。その方はとりあえず、あとで城に運んでおきましょう」
273 名前:袁術公路3 それぞれの思い(37/42)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:26:20 ID:Prmqbuom0
 さて、この突然の登場。まるで計ったかのようなタイミングである。
 流石にそのことの意味くらいは一刀にもわかっていた。
「ど、どの辺から聞いてたんです?」
 内心でびくびくしながら、とりあえず一刀は七乃に聞いてみた。
「んー……、『実は俺……小さい子が、好きなんです』のあたりからですかね。思わず飛び出
してしまいそうになりました」
「ヒッ」
 七乃がどれだけ美羽のことを大切に思っているか、それくらいはここに来てから日の浅い一
刀にもわかる。
 それ故に、すごく怒られるかもと覚悟はしていたが……それでもさらっと口にした七乃の笑
顔は、当分忘れられなくなるくらいに怖いものであった。
 その背からは仁王のオーラが立ち登っている気すらした。
 飛び出してなにをする気だったのか、問いただす勇気は一刀にはなかった。
「でもまあ、話を最後まで聞いておいて良かったです。勢いに任せて行動したら、危うく美羽
さま泣かせてしまうところでした」

 そう言って七乃は、一刀の目の前に人差し指を立て、真剣な表情でずずいと顔を近づけてき
た。
「それで、重要なことなので確認しますが、一刀さんは身体が治れば、お嬢さまに手出しなさ
らないのですね」
 そしてそんなことを聞いてきた。
 一刀は背中に、じっとりと汗をかくのを感じた。
「……はい、……多分」
 原因が怪我の後遺症に違いないというのは一刀自身の憶測であるのだが、今更それを言い出
せるような空気ではなかった。
 『いいえ』と応えたらどうなるのか、積極的に考えたくはなかった。
276 名前:袁術公路3 それぞれの思い(38/42)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:30:31 ID:Prmqbuom0
 けれども青ざめた顔で応えた一刀に、七乃はにっこりと破顔してみせた。
「なるほど。でしたら問題はもう解決したも同然ですね」
「へ? 解決って……」
 言い終わる前に、七乃が口を開いた。
「先ほど仰っていた放浪の医師の名は華佗さん。そしてその方は、いまは黄巾党首領の張角さ
んが持っている『太平要術』という書を求めて北へ向かいました」
 読み上げるようにすらすらとそんなことを口にした七乃に、一刀はぽかんと口を開けた。
「最後に会ったとき、華佗さんは黄巾党に潜入して機会を窺うと仰ってましたが、張角さんが
『太平要術』を手放したという話は寡聞にして聞いてませんから、きっとまだ張角さんのとこ
ろにいるんじゃないですかね?」
 パクパクと口を開閉して二の句を継げないでいる一刀に、七乃は微笑みかけた。
「はい。少し前に美羽さまが熱っぽかったときに、華佗さんに来てもらって苦くないお薬を調
合してもらいました。そのときの報酬で、私が『太平要術』の所在を調べて教えたんです」

 求めていた答えは、実はすぐ傍にあったのだ。
 そう、なぜ旅の医者がこの街にしばらく留まっていたのか、そのことを考えたら袁家、ひい
ては七乃が関わっていてもおかしくなかったのだ。
「と、いうことは……」
「はい。奇しくも先日討伐命令が下ったとおりに黄巾党をやっつけることは、張角さんが持つ
『太平要術』を奪うこと、そして華佗さんを探すことに直結すると言うことになりますねぇ」
 七乃はそう言って笑顔で言葉を締めくくった。

 そして一方、血だまりは広がり続けていた。
280 名前:袁術公路3 それぞれの思い(39/42)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:33:15 ID:Prmqbuom0
 ◇◇◇

「すごい、こんなに……」
 聴衆が去り、熱が退けたあと。
 先ほどまで熱狂の中心であった場所で、人和はへたり込みながら、天を仰いで半ば放心した
ようにつぶやいた。
 彼女が手にしている籠は、先ほどまでと違ってずっしりと重たい。
 その中身たるや、今日までの宿代は勿論、彼女たちが普段歌って得る稼ぎ一月分をゆうに上
回っているように見えた。
 けれども、いまはそんなことはどうでもいい。

「どうです? 力の限り歌った感想は?」
 まだ放心、あるいは興奮冷めやらぬといった様子の三人に、後ろから声をかけるものがあっ
た。
 道士だ。
「どうも、何も……」
 言い淀んだ地和の言葉に、
「気持ちよかったでしょう?」
 男は余裕の笑みを投げかけた。
「………」
 地和は口をつぐんで沈黙を返したが、興奮に震えが収まらぬ体こそが、なにより雄弁に男の
言葉を肯定していた。

 無数の観衆に囲まれて、その中心で歌う。
 その経験は、まるでこの世のすべてが自分たちに回っているかのような、まるで支配者にで
もなったかのような錯覚を、彼女たちに覚えさせていた。
 そしてそれは、これまで感じたことのないほどの高揚感を、血が滾る躍動感を彼女たちにも
たらしたのだった。
「どうです? 私にあなたたちの夢のお手伝いをさせてもらえませんか?」
 彼女たちに芽生えたものを見透かすかのように、男が言う。
284 名前:袁術公路3 それぞれの思い(40/42)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:38:10 ID:Prmqbuom0
「どうって……」
「無論、私は無理強いするつもりはありません。あなたたちが、自分たちの力だけで夢を掴み
たいというなら、それに異論を挟むつもりはありません」
 そこまで言って言葉を句切り、男は手で口元を隠した。
 そして切れ長の目を更に細め、続ける。
「けれど、あなたたちはそれで良いのですか?」
「……なにが、ですか」
 言葉に窮している地和に替わり、人和が割って入ると、道士は彼女に向き直って続けた。
「どうですか? もっと歌ってみたいとは思いませんか? もっともっとたくさんの人の前で、
賞賛と喝采を浴びながら、全力で歌ってみたいと思いませんか?」
 そしてそんなことを――甘い毒のような言葉を囁いた。
「そんなこと……」
 言いかけるが――からからに渇いた口は、何も紡げなかった。
 男の言ったことは、紛れもない事実であったから。
 多くの人に囲まれて、熱狂的な瞳で見つめられて、そう思ったのは確かなのだ。
 もっと、――もっと歓声を。

「私なら、いまのよりももっと、もっともっと高い高みへあなたたちを導いてさしあげます。
先ほどのような百人やそこらではない数、何百、何千、いや何万という聴衆の前に、あなたち
を連れて行ってあげましょう。あなたたちはそこで、力いっぱい歌えるのです」
「………」
 自信に満ちた道士の言葉。そこ込められた魔力に、人和は痺れるような衝撃を受けた。
 自然と、心が揺れる。
 普段ならこんな怪しい男の口車、乗るわけがない。
 だが、あの熱狂に、熱視線に晒されて、そこで自分を表現するという快感を覚えてしまった
あとでは、即答できるはずがなかった。

「お姉ちゃん」
 人和がどう言い返すべきかと悩んでいると、先ほどから黙っていた地和が口を開いた。
 そして、真っ直ぐに長女天和を見て、言った。
287 名前:袁術公路3 それぞれの思い(41/43)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:41:27 ID:Prmqbuom0
「わたし……もっとたくさんの人に、ちぃたちの歌、聞いてもらいたい!」
「ちぃ姉さん!」
 男の誘いに乗るというその言葉に、
「うん、良いんじゃないかな」
 天和はあっさりとそう答えた。
「お姉ちゃんは、みんなに私たちの歌が聞いてもらえるなら、それでいいよ」
 そう言って優しく笑う。
「姉さん!」
 そしてもう一人、たしなめる人和にも微笑みかける。
「人和ちゃんも。そんなに難しく考えなくて良いんじゃないかな? 好機好機、きっとこれは
好機なんだよ」
 何も考えてないように、笑ってそう言ってのける。
「そ、そうよ! いまが好機なのよ! これは天がいつも頑張ってるちぃたちにくれた好機な
んだよ!」
「うんうん。そうだよねぇ」
 そして姉二人が手を取り合ってはしゃぎはじめた。
 そんな姿を見ていると、人和自身考えを巡らす自分がばからしくなってくる。
「……わかったわ。二人がそういうなら、私は止めないことにする」
 説得を諦めた人和が、降参といった仕草で諸手を挙げると、二人の姉たちは手を伸ばしてそ
れを掴んだ。

 そうして手に手を取って笑い合っている三人を見ながら、思い通りにことが運んだことを確
認した男はほくそ笑んだ。
 その笑みは、先ほどまでの作り物じみたものとは違う。
 彼自身の願いから来る、心からの笑みだった。
 計画が次の段階へ進んだことを、確認して男は――
「ねぇちょっと!」
 気付くと、服の袖を地和に掴まれていた。
291 名前:袁術公路3 それぞれの思い(42/43)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:44:38 ID:Prmqbuom0
「で、あんた名前は?」
 突然聞かれて、男はちょっと驚いた顔をした。
 その様子に苛立ったように、地和は腰に手を当ててかわいらしく語気を荒げた。
「名前! まだ聞いてないんだけど?」
 想定外のその言葉に、男は顎に手を当てて考えるような仕草をした。
「ふむ……そう言えばそこまで考えていませんでしたね」
「はぁ?」
 訝しんで地和が聞くと、ならばと男は楽しげに口元を歪めた。
「そうですねぇ。私のことはプロデューサーとでも呼んでください」
「……ぷろでゅーさー?」
「ええ、プロデューサーです。一度そう呼ばれてみたかったのですよ」
「なによそれ」
 それだけ言ってくつくつ笑いはじめた男に、地和は諦めたように息を吐いた。
「ぷろでゅーさー、ねぇ……まったく呼びにくい名前だわ。一体どんな字を書くのよ」
「まあまあ、いいじゃない地和ちゃん。それじゃ、よろしくねぷろでゅーさーさん! さー、
そうと決まったら今日はぷろでゅーさーさんを歓迎してお店を貸しきりだよぉ」
「……姉さん。さらりと怖いこと言わないで。このお金は明日からの活動資金なのよ」
「えぇ〜。今日くらいいいじゃない、それだけあるんだからぁ」
「駄目ったら駄目」

 少し前までの沈んだ雰囲気など忘れたとばかりに、やいのやいの騒ぎながら歩きはじめた三
人。
 そんな彼女たちの背をしばらく見てから、道士は一人、少し離れた場所からどこまでも青い
空を見上げた。
「やれやれ……今回は少々強引に動かしてみましたが、このことがどう転びますかね」
 自分たちの願いを敵わぬものと知りながら、男は自嘲気味に笑った。


294 名前:袁術公路3 それぞれの思い(43/43)[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:47:29 ID:Prmqbuom0
 そして思いは交錯する。

(やったっ! これで真人間に戻れる!)

 希望に拳を握りしめる一刀。

(一刀さんに美羽さまを渡すわけにはいきませんよぅ)

 そんな一刀を見て笑う七乃。

(うー、七乃はなにをしておるんじゃ……)

 一人机に頬杖つきながらあくびする美羽。

 三者三様の思いを抱き、仕組まれた運命は黄巾党の乱へと駒を進める。
299 名前:メーテル ◆999HUU8SEE [sage] 投稿日:2010/06/12(土) 22:55:47 ID:Prmqbuom0
わたしの名はメーテル……以上で投下終了よ。
支援してくださった方に、心からありがとうを……。

今回は随分と間が開いてしまってごめんなさいね……次はもう少し早くできるように努力するわ。
次回は「激突! 黄巾党!」(仮題)の予定よ、鉄郎。

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