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121 名前:清涼剤 ◆q5O/xhpHR2 [sage] 投稿日:2010/03/28(日) 01:09:14 ID:P9SdnTCn0
特に問題なさそうなので無じる真√N-37話を専用板へのUPについての告知をさせていただきます。

(この物語について)
・原作と呼称が異なるキャラが存在します。
・一刀は外史(恋姫†無双)を既に一周しています。
・後々、特殊な仕様が出てくる予定です。(恐らくはこの章か次の章になります)
・時折18歳未満にはよくない場面があります。
※ そこにおいて特殊なカラミや不快に思う可能性のある場面が出てくることもあります。
・複数の資料を参考としつつ書いています。
※その影響がどこかで出ているかもしれません(資料に関してはQ&Aにて)
上記が苦手な方にはおすすめできません。
(注意)
・18 歳未満にはよろしくない表現が出てくることがあります。
・過度な期待などはせずに見てやって下さい。
・未熟故、多少変なところがあるかもしれません。
・URL欄はメールフォームです。(必須項目は設けていません)
※意見、感想などはそちらでも構いません。
また、メールフォームからQ&Aのまとめへのリンクがあります。
(その他)
・当SSは『恋姫†無双』のED前からの派生となっています。
・出てくる登場人物の中には『真・恋姫†無双』のキャラクターがいます。
まだ未プレイの方は是非とも『恋姫†無双』と『真・恋姫†無双』をプレイしてください。
・ゲームの内容に触れる部分は、敢えてぼかしたり抽象的な表現にしてあります。
※詳しく知りたい方は原作のプレイをお勧めします。

URL:http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0513

以前頂いたレスで気がつきましたが始めてから一年なんですね。
長かったような短かったような不思議な感じです。
ここまで続いたのもひとえに読んでくださる方の存在と暖かいお言葉を頂いたことによるものです。
ですので、まだまだ稚拙な文章しか書けませんが今後ともお付き合い頂けると幸いです。
では、これにて失礼します。



改行による2パターンとなっています。最初は整形なしの素です。
ブラウザでご覧の方は、『ctrlキー+F』を押して出た検索窓に整形と入力して飛んでください。



 「無じる真√N37」




 幕舎で眠りについたはずの周瑜はおかしな状態に陥っていた。
 そこは何も無い無機質な空間。人の温もりどころか空気の柔らかさも感じられない。まさに無。その中に周瑜はいた。いや、おそらくいるのだろう。
 彼女自身、自分の存在をしっかりと認識出来ていない。聴覚、視覚、嗅覚、触覚から信号が送られることもないが故、自己の有無がわからないのだ。
「また、これか……」
 以前に見た不可思議な夢。それからも幾度となく現れたユメ。なぜか周瑜の中から消えない。薄れすらしない。それと同じものだと周瑜は直感的に感じ取った。
 まるで、周瑜がそう結論づけるのを待っていたかのようにぬっと人影が姿を現す。
「ふふ、これまでのことによって……貴女にも大分ご理解頂けたのではないかと思いますが……どうでしょうか?」
「ふん。貴様がわけのわからぬものを見せているだけではないか」
 柳眉を吊り上げて目の前の導師、于吉を睨み付ける。相変わらず含みのある笑みを浮かべていてそれが周瑜のかんに障る。
 それよりも周瑜を苛立たせるのは于吉が見せる夢の内容に原因がある。
 孫呉の未来……なのかどうかはわからないが、少なくとも可能性としてはありうる物語が繰り広げられていた。しかも妙に現実的な感じがするのだ。
 孫策を失ったこと。
 その後を継いだ孫権の方針は孫策とは違ったこと。
 それでも孫呉復興のために邁進し続けたこと。
 それら、于吉らによって見せられたユメ……それが何を意味するのか、周瑜にはなんとなくではあるがわかり始めていた。つまりは、于吉の言葉通りだった。
 もちろん、そんなことを素直に認めるのは癪だと思い、周瑜は不機嫌さを表に出したまま質問を投げかける。
「それで、今回はどんな話を見せる気だ?」
「ふふ、それは見てのお楽しみです」
 于吉がそう言ったのを合図とでもするようにして無の世界へと光が差し込む。そして、全てがその光に覆われたところで周瑜の意識もまた消えていった。
 それから、すぐに……いや、実際にはすぐかどうかなどはわからない。すぐかもしれないし、長い時間を掛けてのことかもしれない。だが、そんなこと意識を失していた周瑜には分かる術など無い。
 なんにせよ、周瑜の意識は再覚醒した。
(ん……こ、ここは?)
 いつもと同じように周瑜の意識は身体から離れている。身体は身体で独自の意思を持って動く。今回はどうやら周瑜の身体は戦場にいるようだ。周の旗が風にたなびきその存在を強調している。
 肝心の肉体側の周瑜は戦場の遙か彼方を見つめている。そんな彼女のもとへ一人の兵士が駆けてくる。
「敵影を発見――敵は大軍です」
「ご苦労――」
 恐らくは本陣だろうか、幕舎が複数並び様々な部隊の兵士たちが駆け回っている。その中、肉体側の周瑜は斥候からの報告を受け指示を出していた。
 その表情は気のせいか、普段以上に冷静……いや、それどころか冷徹な感じすらする。そして、周瑜の瞳はどこか遠くを見つめているが、その奥には悲壮感が潜んでいるように見える。
(相手は誰だ……いや、なんとなくわかるぞ。相手は……あの男か)
 そこまでの状態に追い込まれた周瑜の"敵"とは何者なのか、精神体の周瑜は機になった。もしかしたらそれがわかるかもしれないと思い、肉体側の周瑜同様、精神体の彼女もまた遠くへと視線を移してみた。
 広がる青い空、とどこまでも続いていそうな大地、それらを見たら精神体の周瑜の頭もすっきりとした。そして、これまでの夢の流れも加味することで答えは一つしかないと結論づけることが出来た。
 精神としてのみが存在している側の周瑜は思う。これは孫呉を……周瑜の……いや、肉体側と精神体のみの周瑜が共通して愛した、愛している"彼女"が遺した孫呉をかけた、肉体の主導権を持つ周瑜の最後の戦いであると。
 そこで、急に視界に霞が掛かる。全体的にもやもやとし始める。世界が歪む。軋む。そして、消え始めてる……。
「さて、それでは次へと参りましょうか……」
 無性に気に障る男の……于吉の声が再び聞こえてくる。そして、世界は更に暗転する速度を速めていく。
 その時、一瞬だけ声が聞こえた。それは精神体の放った者か肉体側によるものかは不明だが、間違いなく周瑜の言葉だった。
「……我が力、天に――」
(天……か)
 周瑜の意識はそこで一旦消えて、再び世界が灯りを取り戻したところでそれに続くようにして戻ってきた。
 先程と比べていやに静かな……いや、なにやら轟音がとどろいているようにも聞こえるが、人の声は全く聞こえない。せいぜい、かすかに遠くでしているかどうか程度だった。
 そのことを不思議に思いながら周瑜は……精神体の周瑜は辺りを見回す。
(それにしても……一体何があったというのだ?)
 事態もといこんどの舞台がどのような状況なのかを把握するために精神体の周瑜は辺りを見回す。肉体側の周瑜がいるのは精神体の周瑜にも見覚えのある気がする光景。それは城の……玉座の間には違いない。
 そこに肉体側の周瑜は一人で佇んでいる。彼女の他に存在するのは玉座の間を埋め尽くさんとする赤と黄色の混ざり合った光と熱。
「これで――」
 既にもう周瑜には退路は無い。
「――あなたとの時間。長かった一人――」
 紅、貴が混合した熱き獣が玉座へと近づく。
「――私の身を――、あなたの――玉座――共に――」
 獣の咆吼……炎の轟音が周瑜の声をかき消す。
 そんな中でも周瑜の独白が続く。
「ねぇ……雪蓮」
(また、雪蓮か)
 炎とそこから発せられる熱に包まれながら肉体側の周瑜が見せたその表情はその胸に抱く感情をとてもよく表していた。
(そうか……私……ではなく……"周瑜"、お前は……)
 精神体の周瑜にもその想いがよく伝わってきた。きっと自分も同じ事を想った出あろう事も間違いなかったから。
 そして、肉体側の周瑜の瞳の中が精神体でしかない彼女にもハッキリと見えた。
 それから周瑜が二言三言喋ったかと思うやいなや世界はカッと光に包まれ、精神のみでしかない周瑜の視界を覆った。
 再び周瑜の目が世界を移したとき、周りは虚無としかいいようのない虚しいとすらも思えないほどに何も無い空間となっていた。
 不思議と意識がはっきりとしない。先程の光景が何度も繰り返すように頭の中で鮮明に映しだしている。
 いや、それどころかこれまでに見せられた出来事に関する光景が次々と繋がるようにして周瑜の中へとなだれ込んでくる。
 徐々に周瑜はそれらの出来事を自分の一部として吸収し始めているような気がしてきた。
 その時、ふっと光が一転に辺り于吉の姿がうっすらと暗闇の中に浮かび上がる。
「ふふ、あの少年の今後次第で貴女と貴女の周囲の方々がどうなるか……おわかりになりましたかか?」
「…………」
 于吉が何か言っている。周瑜のぼんやりとした頭はそれらの言葉をすんなりと受け入れていく。もしかしたら、様々な出来事を見てきたことによる影響で抵抗が薄くなっているのかもしれない。
 それと同時に、周瑜は自分がかねてより抱いていた懸念の対象はやはり恐るべき存在だとも確信していた。
「さぁ、扉は開かれました。あとは貴女の決意だけです。貴女の信ずる道を進むのか、はたまた滅びの道を歩むか……」
「選ぶがいい!」
 于吉の声に重なるように一番初めの夢を見た時に、出会った導士風の少年の声が響き、于吉とは別に光が当たる。そこにいたのはあの導士の少年。
(これが、貴様の見せたかったものなのか?)
 視線だけで導士の格好をしている少年に問いかける。少年は不機嫌そうな表情で周瑜を見つめているだけで特に何も言わない。まるで、自分のやることは全て終えた、故にもう言うことなど無いとばかりの態度だ。
(しかし、それに何の意味がある……貴様らになんの得があるというのだ?)
 少年たちが未来のことなのか、はたまた別のナニカなのかはわからないながらも恐らくは実際にあり得る出来事を周瑜に見せるという行為の裏にあるものがなんなのか彼女にはわからない。
 そうして、二人の導士の真意を測りかねている間にも周瑜の前にある世界が再び暗転する。これは夢の終わりを意味する……周瑜は本能的にそれを知覚しながら視界を覆う闇に身を委ねた。
「そうそう……これは、貴女が忘れていた記憶です。それを説明してませんでしたよ、左慈」
「ふん、確かにそうだった。いいか! 一度、キサマは失敗しているのだ。今度こそ上手くいくと良いが……まぁ、どうなるかせいぜい見物させて貰うぞ」
 于吉と左慈……二人の最後の言葉を頭に深く刻みつつ周瑜は完全に意識を手放した。
 
 †
 
 早朝独特の冷たい空気を乗せた風が孫策の頬を撫でるように流れていく。それはとても気持ちが良く、また気分を高揚させる。
 それはいつものこと。孫呉の……いや、母より受け継いだ血がたぎっているのだ。そして、戦場に発てばそれはさらに激しいものとなる。
「冥琳……大丈夫かしら」
 孫策はその長い髪を舞わせる風にかき消されそうな程の小声で呟いた。
 今朝、孫策は朝の空気を吸おうと周瑜に声をかけた。だが、彼女は眠りについてた。目の下には僅かながらだが隈のようなものが見えた。
 それを見て、孫策は周瑜が疲れているのだろうと判断し、誘わずに彼女の幕舎を出てきたのだ。
 そして、いま孫策は親友のことを心で心配しつつその瞳は目の前に広がる大地……会稽郡の大地を見渡していた。
「ついにここまで来たわね……」
 呉郡より撤退した厳白虎を追い厳白虎の逃げ込み先である会稽太守王郎の元へ向かうため、孫策軍は再び孫策を中心に添えて長江を渡河し、会稽郡へと拠っていた。
 会稽城に厳白虎が逃げ込んでからそう立たないうちに攻め込む。それが孫策軍の決定だった。
 時間が経てば立つ程、王郎と厳白虎に対応策が出来てしまう。それに厳白虎の軍をうち破り呉郡を手にしたことで孫策軍は勢いに乗っていた。その機を逃すわけにもいかないのだ。
 とはいえ、もちろん孫策軍の侵攻を知った王郎との間に様々な出来事もあった。王郎が送ってきた使者を処したり、それによって怒りを露わにした王郎が陣を敷いて待ち構えさせていた防備をうち破ったりなど、王郎軍をさんざんに蹴散らしてきた。
 孫策軍は曲阿より黄蓋が率いてきた隊と合わせ、いまやその数は一万を超え、数をそがれた王郎軍を圧倒し始めていた。
 そして、後は会稽城に籠もる王郎と厳白虎を討ち取るだけとなっていた。
 孫策は完全に門を閉ざし、警戒態勢に入っている城を見据える。それだけで不思議と胸が高鳴ってくる……それはきっと彼女が自らの夢を目指す上での足がかりとなる土台がもうすぐ手に入ることを確信しているためだろう。
 一人、誰に言うでもなく気分を高揚させる孫策の傍に馬蹄が近づく。
「策殿、しばし挨拶が遅れてしまい、すまぬな」
「いいわよ。合流してすぐに戦闘になっちゃったんだから」
 孫策は振り返ると、律儀に謝罪と挨拶を行ってきた宿将に苦笑を浮かべる。青みが掛かった薄紫の髪を後ろで束ねている大人の色香漂う女性……彼女は黄蓋、字は公覆……真名を祭という。
 そう、彼女が曲阿に残してきた戦力をここまで引き連れてきたのだ。
「それで? どうしたのよ、挨拶だけってことはないんでしょ?」
「相変わらずの勘をしとるようじゃの」
「まぁね。これだけは誰にも負けないっていう自信はあるわ」
「そうか、うむ。策殿らしい」
 そう言うと黄蓋と孫策は眼を合わせて吹き出すようにして笑い声を上げる。そうして一頻り笑いきると黄蓋は自然体になる。
「かっかっか。さて、用件なのじゃが」
「?」
「実はのう……止めきれんかった。すまんのう」
「え? なんのこと……って、ま、まさか」
 頭を掻きながら困惑した表情を浮かべる黄蓋に、孫策の勘が冴え渡る。
「うむ。小蓮様も曲阿から移動なされた」
「ひょっとしてこっちに来てるんじゃないでしょうね」
 末女にはまだ戦場は速い。そう思っている。もちろん、本当に重要な戦いの時は呼ぶだろう。孫家の人間として見ておくべき戦いもあるからだ。それに、孫尚香自体が戦力にならないわけではないからだ。だが、必要ないときに戦場に出そうという気は今のところ孫策にはなかった。
「いや、そこはなんとか譲らずに済ませたわい。ただ、今頃呉城についておるじゃろうな」
 黄蓋は「まいったまいった」と苦笑しながらも気楽そうな雰囲気を放っている。孫策はそれとは反対に頭を抱えたくなった。
 そんな孫策の様子を訝りつつも黄蓋は話を続ける。
「そういえば、権殿の姿が見あたらぬが? 是非とも初総指揮において勝利を治めたことを祝おうと思ったのじゃが」
 馬の背にぶら下げている酒瓶を叩きながら訊ねる黄蓋に、孫策は視線を酒瓶に注いだまま「あぁ、あの娘」と返し僅かに口元を歪めた。
「蓮華なら、今頃政に手一杯でひーひー言ってるでしょうね」
「ほう、権殿が内政を……」
 頷く黄蓋の目はどこか心配しているようにも見える。
「まぁ大丈夫でしょ。補佐もいるんだし」
 その言葉と同時に孫策は孫権と共に……というか、色々と教授しながら内政に当たるようにと言って残してきた魯粛、字は子敬のことを思い出した。
 魯粛は知謀に長けた人物である。孫策もそれを知っている。そして、その才は政に向いていると周瑜が言っていたのも覚えている。だからこそ、孫策は魯粛に孫権を任せた。
 それに、元々孫権は国のこと、民のことを案じることをとても大事にしていた。もちろん孫策とてそう言ったことを考えることもある。
 だが、妹の孫権と比べれば孫策は外のこと……戦場を駆け回り血を燃え上がらせることのほうが向いていると自覚していた。
 そんな孫策だからこそ、妹が内を重視できる性分であることを大事にしたかった。孫呉復興の活路を開くのは孫策にも出来ることだろう。
 だが、それ以降のこと……国を治め、民の心を治め、政を行う、そういった孫呉をしっかりと護っていくことに関しては孫権の方が向いていると孫策は思っている。自分には向いていないことだとしている。
 とはいえ、今回行った孫権を内政担当として呉郡の治めるよう命じた理由はそれらのこと以上に、妹の想いや意思を尊重したことにある。妹……孫権の口より出た言葉が決め手となったのだ。
 妹曰く、「この江東制圧の戦を初めてから、曲阿……呉郡と見てきましたが、どの街の民もみな影のある表情を浮かべていました。私は、民が哀れでなりません」とのことで勝利を収めた後も表情を曇らせていた。
 その民に対する妹の深い愛情に内政の才を見いだした――とはいえ、どちらかというと彼女お得意の勘によるものが大きいが――孫策。
 そんなことがあったからこそ、孫策は「蓮華、貴女には内政がむいてるんじゃない?」と言って妹に内政をさせてみることにしたのだ。
 孫策は一連の流れを思い出しながら黄蓋には、魯粛が孫権の助けとなる事、孫権が内政に向いているのではないかという可能性を感じたこと、それらを簡潔に説明していった。
 黄蓋は、説明を聞くと大いに頷いてみせた。
「なるほど、それならば呉郡は任せられるようじゃな」
「そういうこと、それで後は私たちが会稽郡を奪う。それだけよ」
 孫策は馬の背を軽く叩き駆けさせる。黄蓋もそれに続くようにして馬を走らせる。二人の乗る馬が横に並び、並走状態となったところで孫策はぽそりと呟く。
「だけど、そんな蓮華がいる呉城に小蓮が行ったってことなのよね」
「ま、まぁ、そこまで酷いことにはならんとは思うが……あの二人じゃからな、正直わからんな」
 そう答えると黄蓋は先程の孫策と同様の表情を浮かべた。
 
 †
 
「それと、これと、あと……それもください」
 人の雑踏溢れる表の路地……そんな明るい光に満ちた場所から更に奥へと入ったところにある小さな店。そこに劉備軍の軍師、諸葛亮……字を孔明、真名を朱里という少女の姿があった。
 彼女の前には諸葛亮が小柄であることを差し引いても物々しいと表現できるほどの書物の山が数多く並んでいる。その中に、埋もれるようにして存在している店主に諸葛亮はここで購入した本の代金を支払う。
「それじゃ、お代は丁度ね。毎度あり!」
「そ、それでは……」
 諸葛亮は店主に一礼すると、長い時間店の中を見て回り、物色したすえに何百、何千とある商品から選りすぐった十数冊の本を大事そうに両腕で抱えながら早めの足取りで店を出て、裏路地からも立ち去った。
 表通りに出てからも、諸葛亮はそのままぐんぐんと歩を早めていき、最終的には駆け足で自分の宿舎へと戻っていった。
 部屋へ戻った諸葛亮は、すぐさま買ってきた本を包みから取り出す。
「こ、こんなにまだ眼にしたことのない本があったなんて……」
 諸葛亮は僅かに頬を赤く染めつつ、目の前の山から抜き出した一冊を読み始める。
「なるほど……こっちでは、こういった体位が……」
 一人頷きながら本の頁を進めていく。一つめくる度に諸葛亮は本の世界へと意識を集中させていく。
「す、凄い……こんなやり方が……こ、こんな体勢で!?」
 徐々に高鳴る鼓動と熱を持ち始める両頬、諸葛亮は暑さを覚えはじめていた。
 コンコン
 諸葛亮の興奮が最高潮に達しようとしていたとき、部屋の扉が軽く叩かれる音がした。そして、その後に続くように声がする。
「諸葛亮殿はいらっしゃいますか?」
「ひゃ、ひゃい!」
 急に掛かった声に驚いて諸葛亮は身体を直立させ、扉に向かおうとする。だが、すぐにハッと我に返り、手元の存在に気付く。
「あ、その前にこれを……はわわ」
 未だ扉を叩く音と呼びかける声を聞きながら諸葛亮は慌てて本の山を揃えると隠し場所と決めたところに仕舞おうとする。だが、そこで悲劇は起こった。
「うわ、わわわ……きゃん!」
 急いだが故に脚同士が絡まり合い、もつれさせて諸葛亮はドシンという音を立てて派手に転んだ。その拍子に本も床へとぶちまけてしまう。
 不幸はさらに続く、慌てて諸葛亮が起き上がろうとしたとき、扉が勢いよく開かれたのだ。
「どうしたのですか! 何やら大きな物音がしました……が?」
「おやおや? これは……」
 諸葛亮が転倒したときの音に緊急事態だとでも思ったのだろう。訪問者である二人の少女、どちらも曹操軍の軍師である郭嘉――字を奉高、真名を稟という――と程c――字が仲徳で真名が風――の二人が入ってきてしまった。
 そして、その二人の曹操軍の軍師は共に諸葛亮が先程まき散らした本たちへと視線を注いでいる。諸葛亮など眼に入っていないのではと言うほどに見つめる郭嘉。何を考えているのかは計り知れない程c。二人とも微妙に異なるが、諸葛亮にはどちらも怖くて仕方がない。
「はわわ……その、あの、これは……ですね」
 何か理由を言わなければと諸葛亮がとっさに頭の回転を高速にしている間に郭嘉が本を一冊拾い上げる。そして、パラパラと中を見始める。
「な、なんと卑猥な! 明るいうちからこ、こんな……」
「いえ、違うんです……そ、そう! こ、この街の発展具合を見ようとですね……」
 本を穴が空くほどジッと見つめながら全身を震わせる郭嘉に慌てて弁明をする諸葛亮。そんな彼女に程cがのんびりとした口調で語りかけてくる。
「大丈夫なのですよ〜。我が軍にもそういった本を持って日中にもかかわらず街を歩いてる人もいますからねぇ」
「ちょ、ちょっと風!」
「おや? どうかしましたか稟ちゃん」
「どうかしたもなにも……」
 郭嘉が顔をしかめて程cを見るが、当の程cは床に落ちている本を一冊手にとった。
「これなんて稟ちゃんのもってるのと似てますねぇ」
「うわぁ、な、何を言って……ぶふっ!」
「おぉ! やはり無理でしたか。仕方ありませんね。はい、稟ちゃんトントンしましょうねぇ〜」
 艶本の数々を見て鼻血を出す郭嘉、それを介抱する程c。そんな二人のやり取りを諸葛亮はただ黙って、というよりも呆然として見つめる。
 赤く染まった部屋、その中で卒倒した少女。それを抱える少女……そして、それをただ見ることしかできない少女……混沌としていた。
 しばらくして、郭嘉が鼻に詰め物をした状態で起きた。
「とんだ、ふが、恥を晒してしまいましたね」
「い、いえ……その」
「稟ちゃんが鼻血ブーになるのはいつものことなので、大丈夫ですよぉ」
「ふがが!? それじゃあ、まるで私鼻血を出すことを日課にしているみたいではないですか!」
 再び二人はおかしな掛け合いをはじめる。そこに諸葛亮の入りこむ余地など無かった。
「ど、どうすればいいんだろう……」
 目の前で繰り広げられる光景に対して、ただ成り行きを見守ろう……そう決めて諸葛亮は黙り込む。
(取りあえず二人とも……本離してくれないかぁ)
 未だそれぞれの手に握りしめられている本を盗み見しつつ諸葛亮は他の本を揃えていく。
「――そんなことより、ここに何しに来たか忘れちゃったのですか〜?」
「はっ!? そ、そうでした。実はあなたに一つ頼みたいことがあって来たのです」
 急に真面目な顔をして郭嘉が諸葛亮を見る。鼻の詰め物と鋭い目つきという方向性の違う雰囲気を発する顔の部品間にある隔たりに諸葛亮は身体をびくりと震わせる。
「実はですねぇ、少々孔明ちゃんの意見をお聞きしたくて来たのですよ」
「は、はぁ」
「おほん。彼女が言った通りなのですが……少々政のことであなたから見て何か無いかお聞かせ頂きたい」
「わかりました。構いませんよ」
「助かります。一度、伏龍と称させる人物と語ってみたいと思っていました」
 眼鏡の縁を指で押し上げながら郭嘉が真面目な表情を浮かべる。
「そ、そんな大層なものじゃないですよ。たまたま、わたしが内政の方を得手としていただけですから」
 劉備軍での諸葛亮の役割は主にそこだった。軍事に関しては鳳統の方が得意であり、劉備軍全体がそう言った面で彼女に頼っているところが大きかったのは確かだった。もちろん諸葛亮とてそれにひけは取らないし、政でなら鳳統よりも劉備軍を支えていた。
(雛里ちゃん……どうしてるんだろ)
 ふと、今は遠く離れてしまった親友を諸葛亮は思い描く。
「それでは、さっそく席につかせて頂きましょう」
「あ、その前に」
「なにか?」
 椅子に座ろうとする郭嘉が動きを止めて諸葛亮をジッと見つめる。
「そ、そろそろ、わたしの本を返してください」
「おぉ、これは申し訳ないのですよぉー」
「あ! す、すみません」
 何だかんだと持ち続けていた本を程cと郭嘉が手渡してきたところで今度こそ話をする用意が出来たのだった。
 
 †
 
 『黄』と絵が掛かれた薄汚れた黄色……というよりは黄ばんだ布を掲げる軍勢が荒野を駆けてくる。その殆どが歩兵。騎乗しているものは数えるほどしかいない。数は四千、多くても五千。
 それに対して正規兵の集団……歩兵三千がぶつかっていく。
 そんな報告が夏侯淵――字を妙才、真名を秋蘭という――の元へと届く。今、彼女は黄巾党残党……を名乗っていると思われる賊軍討伐に来ていた。
 元々は、曹操軍の領土である宛豫州の軍糧調達の任を受けていた。今後勢力を拡大していくうえでは確実に軍糧は欠かせないためである。だが、そんな夏侯淵の元にもう一つの任が言い渡された。それが、黄巾党残党を名乗る賊軍の討伐である。
 話では、黄巾党の残党として活動しているらしいが、かつて黄巾党と接触したことのある姉、夏侯惇の話ではまったく質が違うと言う。
 その他の斥候からの情報も加味した結果、偽物であるという結論が成された。何しろ、いまや本当の黄巾党残党は幽州か冀州を目指しているという噂が流れているのだから尚更である。
 そんな経緯を経てこの地へとやってきた彼女は賊軍のいるであろう方角を見つめながら報告に来た兵に頷いた。
「そうか。よし、ならば我らも動くとしよう」
 そう言うと夏侯淵は馬に跨る。賊軍とぶつかり合っている三千の歩兵、それを率いているのが于禁、字を文則、真名を沙和という……であった。
「さて、沙和の成長具合見させて貰うとしようか」
 于禁とその親友である二人の少女が曹操軍に仕官し、一隊を纏める将となった頃を思い出す。
 彼女の親友二人……楽進、字を文謙、真名を凪と李典、字を曼成、真名は真桜。この二人はすぐに隊を一つの存在へと仕立て上げることに成功した。
 だが、于禁は他の二人や曹操軍の将たちと比べると、街を行き交っているようなか弱い娘に近いところがあった。それ故、彼女だけはなかなか兵たちを纏めることが出来なかった。
「あの時は、どうなるかと思ったがな」
 ふと、夏侯淵は自分が知らぬ間に口元をほころばせていることに気が付いた。周りのこともあるため、彼女はすぐにその感情を引っ込め、表情を引き締め直し馬を駆けさせる。
 静かに森の中へと入って行く夏侯淵隊。位置取りは于禁隊よりはやや後方といえる。そこからは于禁隊と賊軍の戦闘の様子がよく見える。
「さぁ、貴様ら! あの両生動物のクソをかき集めた値打ちかない屑共をじっくり可愛がってやるの! 泣いたり笑ったり出来なくしてやるのー!」
「さー、いえっさー!」
「いいか! 戦いに勝つまでは貴様らなんてウジ虫でしかないの! 地球で最下等の生命体なのー!」
「さー! いえす! さー!」
 少々風変わりでなやり取りではあるが、非常に効率の良い士気高揚が出来ている。と夏侯淵は思う。その反面でやはり首を傾げかねないところもある。
 そもそも、于禁のよく分からない言葉の出典もまたいかがわしかった。
「何にせよ、あれが全ての始まりだったのは確かだな」
 夏侯淵は兵たちを罵倒し続ける于禁に苦笑を浮かべつつ当時を思い起こす。
 それは于禁たちに隊を任せるようになってから数日後のことだった。
 夏侯淵が姉の夏侯惇と共に静かな夜を過ごしていたときだった。二人の元へと于禁を連れた楽進と李典がやって来たことがあった。その際に酔っぱらった姉がした発言が全ての発端だった。
 部屋をいつもの三人で訪れてきたかと思う暇もなく「何か、沙和に助言をしてやってください」と面倒見の良い楽進が頭を下げてきた。その言葉が確か会話の切欠だった。
「愚直で、それでいて真面目……なのは良かったのだがな」
 それに対して、夏侯淵でなく、彼女の姉が「そんにゃものは簡単だぁ! ビッシビッシと厳しい言葉を浴びせればいいのだ!」なんてことを真っ赤な顔をして眼を回しながら断言したのだ。
 その言葉の意味をどう受け取ったのか、于禁は「わかったのー!」とだけ元気よく返事をして夏侯淵が捕捉の言葉を言う雨に立ち去ってしまったのだ。
「あれからだったな……」
 その翌日から彼女は変わった。どこぞの誰が書いたのかよく分からない本――監修者は北郷一刀という人物らしく天の御使いと噂される男と同じ名前だが同一人物かは不明である――を購入し厳しい言葉や罵倒するための罵詈雑言なのかよくわからないが迫力だけはある言葉を学び始めた。
 その結果はまもなく現れ、彼女は隊を指揮することが無事出来るようになったのだが、すっかり于禁は変わった。
「口でクソをたれる前と後には必ず『さー』をつけろなのー!」
「さーっ、いえす、さー!」
 于禁の隊に所属する兵たちは于禁の変わりように驚きながらも肉体だけでなく精神的な面においても日に日に鍛え上げられていったのだ。
「しかし、あれは一体なんなのか……未だに理解できんな」
 頬を掻きつつ苦い表情を浮かべる夏侯淵の前では、明らかに異常な顔をしているように見える于禁隊の兵士たちが賊軍を押し込んでいる。
 于禁隊の様子もさることながら、その強さも相まって賊軍の中に混乱が生じ始めている。
「な、なんだこいつら!」
「も、もう少しだけ持ちこたえろ!」
 前衛を壁としたまま後衛がなにやらごたついているようだ。その後方から、銅鑼が鳴り響く。
 ジャーン、ジャーン!
 その音に合わせて、大量の馬蹄が地響きを起こしながら近づいてくる。その隊の掲げる旗は張の文字……劉備軍、張飛の隊である。
「これで、まず一つ潰れたな」
 ぐずぐずになった賊軍の後衛が張飛隊にうち破られ、于禁隊との挟み撃ちにあいボロボロと泥団子が時間が経ってから粉々になっていくように崩壊していく。
 そのすぐ後に賊軍の別働隊が于禁隊の背後を突く。もっとも、攻めだけでなく守りも固くなるよう鍛えている曹操軍の兵たちである以上、簡単に崩されることはない。
 最早、賊軍の別働隊は機を逃したのであろう。こちらと同様に挟撃を狙っていた、だが、力量が違ったのだ。
 所詮、賊軍……黄巾党のまねごとをしてもまとまりもなくすぐに瓦解する程度の烏合の衆。速いところとどめを刺してしまうために夏侯淵は片手を挙げて隊全体に指示を出す。
「よし、未だ。一斉射撃、うてぇ!」
 夏侯淵のかけ声に従い、弓弩から一斉に矢が放たれる。びゅうっ、そんな風を切る音を立てながら于禁隊に必死に攻撃を仕掛ける賊軍に雨あられのように降り注ぐ。
「うぎゃー!」
「ま、まだ伏兵がいやがったのか!」
「撤退、撤退だ!」
 交代を始める、賊軍の別働隊。
「させるな! すぐに回り込んで道をふさいでしまえ!」
 そう言って夏侯淵は転進した賊軍の前へと躍り出る。夏侯淵隊に行く手を遮られた賊軍は急激に方向をかえ、直角に曲がって森へと逃走を図る。
 が、于禁隊との挟撃で賊軍の一つを制圧した張飛隊が駆け出してくる。
「うわぁ!」
「まてぇ! 逃げるなんて卑怯なのだ!」
 それからは逃げる賊軍、追う張飛という光景が終始続き、完全に気力を失った賊軍の捕縛を成功させた。
 その際、敵兵を追い回す張飛の姿に夏侯淵は、曹操軍親衛隊所属の一人の少女を思い起こさせられていた。
「まるで季衣のようだな……」
 今は親衛隊の仕事として曹操と共に遠征に出ている許緒……彼女の真名が季衣なのである。
「きっと、二人揃うとさぞ賑やかなことだろう」
 夏侯淵は思い描いてみる……許緒と張飛が似たり寄ったりなことを言い合って街や城の中を駆け回ることだろう。そして、周りの者たちが苦笑しながらも二人の喧嘩を微笑ましく見守るのだ。
(随分と、簡単に出てきたな)
 意外なほどにすんなりと想像することが出来、夏侯淵は少々驚いた。
「まるで……見たことがあるような……ふむ?」
 何故だろうか、口にしてみると本当にそうなのではと思えてくる。そんなはずはないのにである。
 そう、あり得ないはずなのだ。何故なら、張飛は劉備軍の将であり、つい最近曹操の元へと転がり込んできたのだ。
 しかも、遠征に曹操が出たため、許緒もすぐに出かけたわけで、少なくとも夏侯淵の前で張飛と関わってはいなかった。
(いや、もしかすると他の誰かに聞いたのだろうか?)
 可能性としては十分にある。少なくとも夏侯淵自体が眼にした、というものよりはあるだろう。
 だが、それはそれでしっくりとこない。第一、話を聞いていない。近頃は忙しかったのだからそれも当たり前なのだ。
(ならば、一体……何故?)
 考えてみても夏侯淵にはわかるはずなどなかった。仕方がないということで、彼女は後々張飛にでも聞いてみようと密かに決め、夏侯淵は討伐戦の後始末をするため、于禁隊と張飛隊が集結している中へと入っていった。
 
 †
 
「一先ず、休憩にしろとはいうが……」
 先程まで政務を行っていた孫権は不機嫌だった。彼女は孫策より呉郡平定のための政を任されていた。孫権自身はそれを孫策が戻るまでの一時的なものであると把握している。
 そして、その責任ある仕事を孫権は孫呉の王となるはずである孫策の妹であるという誇りと多くの民衆の生活のためにもという意気込みを持って取り組んでいた。
 この仕事をこなすためならば休みなど入らない覚悟でいた。だが、孫策が残していった魯粛によって孫権は休みをとらされてしまった。
「まだまだ問題は山積みだというのに……」
 訴訟やら献策やら周辺豪族とのことやら様々な案件が残っている。それは先程まで孫権がいた部屋の机を埋め着く書簡によってよく表されている。
「仕方がない、せめて戻った時のために対策を考えるとしよう」
 ある程度は書簡の内容を覚えている。孫権はそれを思い出しつつ、対策はどうあるべきかを考える。そうして考え事をしながら歩いていたのがいけなかった。
 ドン!
 その瞬間、孫権の腰から背中にかけて衝撃が走る。そして、何者かによって腰をガッチリと固められる。それを振り解くまもなく、孫権は体当たりをされた衝撃で前のめりとなり、床へと向かって勢いよく倒れ込んだ。
 ベチャという音がしてもおかしくないほどみっともない形で転倒した孫権。床に付こうとした両手は結局間に合わず中途半端に肘を曲げた状態となり、手が僅かに起こした顔から正面に見える位置にきていた。
「な、何者だ!」
 正直、圧迫される胸が苦しいのだが、そうも言っていられない。背後から孫権を取り押さえている暴漢と思しき存在に毅然とした態度で怒鳴りつける。
「ぶ〜! 何もそんな怒らなくてもいいじゃない」
「え? しゃ、小蓮!?」
 声に驚き、無理矢理首を捻って顔だけでその姿を見ると妹の小蓮……こと孫尚香が孫権の背中に引っ付いていた。
「折角、遊びに来たのにそんな鬼みたいな顔で見られるなんてちょっと不愉快かも〜」
 孫権の背中から飛び去るようにして離れると孫尚香は頬を空気をパンパンに詰めた布のように膨らませた。
 孫権もすぐさま立ち上がり彼女に詰め寄る。
「小蓮! "あなた"ねぇ! 何のつもりな……おほん。いや、それ以前に"お前"は何故ここにいる!」
 動揺の余り、思わず孫家の次女としての立ち振る舞いを忘れそうになるが咳払いと共に精神を落ち着けてたたずまいを直す。
「ちょ、ちょっと、そんなに一杯聞かれてもどれに答えればいいのかわかんないってば」
 孫権を両手で制しながら孫尚香が困惑したように眉を潜ませながら口にした抗議の言葉に孫権は思わずぴたりと動きを止める。
「ぐ……仕方がない。まず、聞かせて欲しいのは、お前は曲阿で祭と共に留守を預かってたはずであろう? 何故、この城にいる!」
「祭が雪蓮姉様のとこに行くっていうからついていこうとしたの。そしたら、祭にさすがに今はまだ戦場には連れていくわけにはいかないって……その代わりにこっちに行けって言われて」
「しゃ、小蓮。お前は……」
 孫権は片手でこめかみを押さえる。なんだか頭痛がしてくる。深く呼吸すると孫権は落ち着いた声で話を続ける。
「はぁ、ここにどうやって来たのかはわかった」
「うん」
「次は、何故私を押し倒すようなことをした?」
 孫権は、多少キツメの視線で孫尚香を貫く。少しでも妹が自分の行動を反省するように。だが、孫尚香はけろりとした様子で笑顔を浮かべる。
「久しぶりの家族との再会なんだから抱きついたっていいじゃない」
「それなら、一声掛けてからにしろ。それ以前に、先程のように飛び掛かるなどはしたないとは思わないのか? お前は孫呉の姫となるのだぞ」
「はしたないなんて思わないよ〜だ。それにそんなの関係なく、シャオはシャオだもん!」
「もう少し、お淑やかにするべきではないのかと言っているのだ」
「少なくとも"今の"お姉ちゃんみたいに堅物になっちゃうよりはマシよ!」
「な、なんだと!」
「なによ〜!」
 孫権と孫尚香は互いににらみ合う。まるで水と油、相容れない二人は竜虎相打つとばかりに火花を散らす。
 この場に二人を止める者はいない。そもそも孫策も、周瑜も、黄蓋も、陸遜も戦場に出ている。甘寧は未だ周辺に残っている厳白虎の手下だった賊軍の掃討を行っている。
 他の者に止められるかはわからない。それに苦笑混じりに二人の間に仲裁にはいる彼もいない。
(……彼?)
「あれ?」
 それはどちらの声だっただろうか、もしかしたら二人同時だったかもしれない。何せ、両者共に首を傾げているのだから。
 孫権は目の前の妹と自分による口論を止める人間に関してそれぞれの顔が頭に過ぎった。だが、一人だけ、孫権のよく知らない人物が過ぎる。
 いや、実際に知らないのかどうかはわからない。顔も浮かばなかった。だが、だれか二人の間に入り口論を止めようとする人間がいたような気がしてならない。
「誰だ……こいつは」
「誰だろう?」
「え?」今度は間違いなく声が重なった。
「小蓮。あなた……こほん。お前、まさか」
「もしかしてお姉ちゃんも?」
 そのやり取りだけで孫権は確信した。妹の中にも所在も詳細も何もかもが不明な人物の姿が浮かんだのだ。
「一体、なんだというのだ。これは」
「変だよね。不思議な感じ」
 孫権と孫尚香は互いに顔を見合わせて首を捻る。なんだか胸に引っかかる。なのに思い出せない。一体、これはなんなのだろうか。
「まぁ、いいや。それより、どっか行こうよ」
「却下だ」
「ぶ〜、ケチんぼ!」
「小蓮!」
「なによぉ!」
 結局、二人は振り出しに戻り喧嘩を始めた。
「小蓮、今日という今日はきっちりと躾けてくれる」
「そうはいかないもんねぇ〜」
 そう言うと、孫尚香はんべっと舌を出し、逃げ出した。
「小蓮! 待ちなさい!」
 孫権は、すぐさま妹の後を追って駆け出す。自由奔放なのは一体誰に似たのだろうか……一瞬だけ考え、すぐに止めた。
「い、今はあの娘を捕まえることだけを考えよう」
 自分に言い聞かせるようにそう呟くと孫権は一層走る速度を上げていく。
 それから城中を走り回ることになったが、結局、孫権は孫尚香を見失ってしまった。
「まったく。絶対に捕まえて教育的指導をしなくては……」
 そう言いながらも、走りすぎて多少息があがっていたため、仕方なく孫権は座り込む。
「さすがに、こんなところには来てなかったか」
 ため息混じりに孫権は空を仰ぐ。とても青く、広く澄み渡った清々しい空だった。今、孫権がいるのは城壁の上だった。なんだかんだと探すうちに辿り着いたのだ。
「何故かしらね……ここは落ち着くわね」
 呉城の城壁……というわけではなく、城壁という場所が落ち着く……孫権はそんな気がする。
「本当に、不思議ね……何か思い出なんてあったかしら」
「…………」
「あれ?」
 ふと気配を感じ後ろを向く。いつの間にか女性が立っていた。長い黒髪を団子のようにして纏め、それを布で覆い一箇所に止めているため、一層鋭い雰囲気を放っている。
「……ただいま戻りました」
「そ、それなら、先に声をかけてちょうだい、思春」
 驚いて弾む胸を抑えながら孫権は黒髪の女性――真名を思春……姓名を甘寧、字を興覇という――に注意をする。
「は。それは、申し訳ありません」
 甘寧は普段通りの抑揚のない声でそう言うと、相変わらずの引き締まったまるで鋭利な刃物のような表情を崩すことなく頭を下げる。
「ところで……」
「なにかしら?」
 甘寧から話を振るのは珍しいと思い孫権は身を乗り出して話を聞く体勢を作る。
「今日は、やけに機嫌が良いようで」
「は?」
 急な言葉に孫権は言葉を失いそうになる。
「な、何をいってるのよ。思春」
「いえ、普段とは違い穏やかな表情」
「え?」
「そして、その口調……」
「口調って、それがどうかしたの? って、あれ?」
 孫権は甘寧の指摘によって初めて気が付いた。自分の口元が綻んでいること、口調が柔らかくなっていたこと。
 そして、それが意味することは……。
(ダメだ。これ以上はダメだ)
 孫権は頭を振って余計なことを追い出す。
「しょ、少々気が抜けていたようだ。すぐに仕事に戻る。いいか、くれぐれもこのことは内密にしておくのだ。特に小蓮には言うな」
「は」
 甘寧に言うだけ言って孫権はすぐに城壁を後にした。何故かはわからないが気が緩んでしまった。それはいけないことだと自分でもわかっているのに……。
(一体、どうしてしまったのだ私は)
 この日、孫権は自分に関することで戸惑いを覚えた。その理由も意味もわからないまま孫権は再び孫仲謀として、孫家の次女としての自覚を持つように自分に言い聞かせた。
「一応、小蓮も見つけておかなければ」
 何だかんだ言っても妹のことは大事なのだ。孫権としても妹の……孫尚香の笑顔は見たいものなのだ。
「とはいえ、どこにいったのやら」
「お姉ちゃん」
 声の方を振り返ると、そこには脚で地面を払うようにして突っ立っている孫尚香がいた。
「小蓮、まったく何処に行っていたのだ」
「…………」
「いや、そうではないな。先程は、少し言い過ぎた。急に変われと言っても無理だろう。少しずつ変わればいい」
(そう、私だって未だ完全に変われていないのだ……それをもっと幼い小蓮に言っても強要しても仕方があるまい)
 先程の一件で少しだけ、孫権の中にも考えの変化があった。だからこそ、孫尚香のことも思いつつ語りかけたのだが、孫尚香は驚いた表情で孫権の顔を見上げる。しかも、気のせいか顔が青ざめている。
「ど、どうしたのお姉ちゃん?」
「どうとは?」
「お、怒りすぎて頭がおかしくなっちゃったんじゃ……」
「ひ、人が優しくすれば……お前というやつは」
「あ、あれ?」
「小蓮! そこになおれ!」
「結局、そうなるのぉ〜」
 悲鳴を上げて逃げ出す孫尚香、それを孫権は全力で追いかける。こうして、この日二度目の追走劇が始まった。
 この二回戦は甘寧が間に入り事を治めることで引き分けという決着がつくまで長々と続き、本来以上の政務をしなければならなくなった魯粛が最も被害を被ったことは言うまでもない。




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整形版はここからです。


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 「無じる真√N37」




 幕舎で眠りについたはずの周瑜はおかしな状態に陥っていた。
 そこは何も無い無機質な空間。人の温もりどころか空気の柔らかさも感じられない。まさに
無。その中に周瑜はいた。いや、おそらくいるのだろう。
 彼女自身、自分の存在をしっかりと認識出来ていない。聴覚、視覚、嗅覚、触覚から信号が
送られることもないが故、自己の有無がわからないのだ。
「また、これか……」
 以前に見た不可思議な夢。それからも幾度となく現れたユメ。なぜか周瑜の中から消えない。
薄れすらしない。それと同じものだと周瑜は直感的に感じ取った。
 まるで、周瑜がそう結論づけるのを待っていたかのようにぬっと人影が姿を現す。
「ふふ、これまでのことによって……貴女にも大分ご理解頂けたのではないかと思いますが…
…どうでしょうか?」
「ふん。貴様がわけのわからぬものを見せているだけではないか」
 柳眉を吊り上げて目の前の導師、于吉を睨み付ける。相変わらず含みのある笑みを浮かべて
いてそれが周瑜のかんに障る。
 それよりも周瑜を苛立たせるのは于吉が見せる夢の内容に原因がある。
 孫呉の未来……なのかどうかはわからないが、少なくとも可能性としてはありうる物語が繰
り広げられていた。しかも妙に現実的な感じがするのだ。
 孫策を失ったこと。
 その後を継いだ孫権の方針は孫策とは違ったこと。
 それでも孫呉復興のために邁進し続けたこと。
 それら、于吉らによって見せられたユメ……それが何を意味するのか、周瑜にはなんとなく
ではあるがわかり始めていた。つまりは、于吉の言葉通りだった。
 もちろん、そんなことを素直に認めるのは癪だと思い、周瑜は不機嫌さを表に出したまま質
問を投げかける。
「それで、今回はどんな話を見せる気だ?」
「ふふ、それは見てのお楽しみです」
 于吉がそう言ったのを合図とでもするようにして無の世界へと光が差し込む。そして、全て
がその光に覆われたところで周瑜の意識もまた消えていった。
 それから、すぐに……いや、実際にはすぐかどうかなどはわからない。すぐかもしれないし、
長い時間を掛けてのことかもしれない。だが、そんなこと意識を失していた周瑜には分かる術
など無い。
 なんにせよ、周瑜の意識は再覚醒した。
(ん……こ、ここは?)
 いつもと同じように周瑜の意識は身体から離れている。身体は身体で独自の意思を持って動
く。今回はどうやら周瑜の身体は戦場にいるようだ。周の旗が風にたなびきその存在を強調し
ている。
 肝心の肉体側の周瑜は戦場の遙か彼方を見つめている。そんな彼女のもとへ一人の兵士が駆
けてくる。
「敵影を発見――敵は大軍です」
「ご苦労――」
 恐らくは本陣だろうか、幕舎が複数並び様々な部隊の兵士たちが駆け回っている。その中、
肉体側の周瑜は斥候からの報告を受け指示を出していた。
 その表情は気のせいか、普段以上に冷静……いや、それどころか冷徹な感じすらする。そし
て、周瑜の瞳はどこか遠くを見つめているが、その奥には悲壮感が潜んでいるように見える。
(相手は誰だ……いや、なんとなくわかるぞ。相手は……あの男か)
 そこまでの状態に追い込まれた周瑜の"敵"とは何者なのか、精神体の周瑜は機になった。も
しかしたらそれがわかるかもしれないと思い、肉体側の周瑜同様、精神体の彼女もまた遠くへ
と視線を移してみた。
 広がる青い空、とどこまでも続いていそうな大地、それらを見たら精神体の周瑜の頭もすっ
きりとした。そして、これまでの夢の流れも加味することで答えは一つしかないと結論づける
ことが出来た。
 精神としてのみが存在している側の周瑜は思う。これは孫呉を……周瑜の……いや、肉体側
と精神体のみの周瑜が共通して愛した、愛している"彼女"が遺した孫呉をかけた、肉体の主導
権を持つ周瑜の最後の戦いであると。
 そこで、急に視界に霞が掛かる。全体的にもやもやとし始める。世界が歪む。軋む。そして、
消え始めてる……。
「さて、それでは次へと参りましょうか……」
 無性に気に障る男の……于吉の声が再び聞こえてくる。そして、世界は更に暗転する速度を
速めていく。
 その時、一瞬だけ声が聞こえた。それは精神体の放った者か肉体側によるものかは不明だが、
間違いなく周瑜の言葉だった。
「……我が力、天に――」
(天……か)
 周瑜の意識はそこで一旦消えて、再び世界が灯りを取り戻したところでそれに続くようにし
て戻ってきた。
 先程と比べていやに静かな……いや、なにやら轟音がとどろいているようにも聞こえるが、
人の声は全く聞こえない。せいぜい、かすかに遠くでしているかどうか程度だった。
 そのことを不思議に思いながら周瑜は……精神体の周瑜は辺りを見回す。
(それにしても……一体何があったというのだ?)
 事態もといこんどの舞台がどのような状況なのかを把握するために精神体の周瑜は辺りを見
回す。肉体側の周瑜がいるのは精神体の周瑜にも見覚えのある気がする光景。それは城の……
玉座の間には違いない。
 そこに肉体側の周瑜は一人で佇んでいる。彼女の他に存在するのは玉座の間を埋め尽くさん
とする赤と黄色の混ざり合った光と熱。
「これで――」
 既にもう周瑜には退路は無い。
「――あなたとの時間。長かった一人――」
 紅、貴が混合した熱き獣が玉座へと近づく。
「――私の身を――、あなたの――玉座――共に――」
 獣の咆吼……炎の轟音が周瑜の声をかき消す。
 そんな中でも周瑜の独白が続く。
「ねぇ……雪蓮」
(また、雪蓮か)
 炎とそこから発せられる熱に包まれながら肉体側の周瑜が見せたその表情はその胸に抱く感
情をとてもよく表していた。
(そうか……私……ではなく……"周瑜"、お前は……)
 精神体の周瑜にもその想いがよく伝わってきた。きっと自分も同じ事を想った出あろう事も
間違いなかったから。
 そして、肉体側の周瑜の瞳の中が精神体でしかない彼女にもハッキリと見えた。
 それから周瑜が二言三言喋ったかと思うやいなや世界はカッと光に包まれ、精神のみでしか
ない周瑜の視界を覆った。
 再び周瑜の目が世界を移したとき、周りは虚無としかいいようのない虚しいとすらも思えな
いほどに何も無い空間となっていた。
 不思議と意識がはっきりとしない。先程の光景が何度も繰り返すように頭の中で鮮明に映し
だしている。
 いや、それどころかこれまでに見せられた出来事に関する光景が次々と繋がるようにして周
瑜の中へとなだれ込んでくる。
 徐々に周瑜はそれらの出来事を自分の一部として吸収し始めているような気がしてきた。
 その時、ふっと光が一転に辺り于吉の姿がうっすらと暗闇の中に浮かび上がる。
「ふふ、あの少年の今後次第で貴女と貴女の周囲の方々がどうなるか……おわかりになりまし
たかか?」
「…………」
 于吉が何か言っている。周瑜のぼんやりとした頭はそれらの言葉をすんなりと受け入れてい
く。もしかしたら、様々な出来事を見てきたことによる影響で抵抗が薄くなっているのかもし
れない。
 それと同時に、周瑜は自分がかねてより抱いていた懸念の対象はやはり恐るべき存在だとも
確信していた。
「さぁ、扉は開かれました。あとは貴女の決意だけです。貴女の信ずる道を進むのか、はたま
た滅びの道を歩むか……」
「選ぶがいい!」
 于吉の声に重なるように一番初めの夢を見た時に、出会った導士風の少年の声が響き、于吉
とは別に光が当たる。そこにいたのはあの導士の少年。
(これが、貴様の見せたかったものなのか?)
 視線だけで導士の格好をしている少年に問いかける。少年は不機嫌そうな表情で周瑜を見つ
めているだけで特に何も言わない。まるで、自分のやることは全て終えた、故にもう言うこと
など無いとばかりの態度だ。
(しかし、それに何の意味がある……貴様らになんの得があるというのだ?)
 少年たちが未来のことなのか、はたまた別のナニカなのかはわからないながらも恐らくは実
際にあり得る出来事を周瑜に見せるという行為の裏にあるものがなんなのか彼女にはわからな
い。
 そうして、二人の導士の真意を測りかねている間にも周瑜の前にある世界が再び暗転する。
これは夢の終わりを意味する……周瑜は本能的にそれを知覚しながら視界を覆う闇に身を委ね
た。
「そうそう……これは、貴女が忘れていた記憶です。それを説明してませんでしたよ、左慈」
「ふん、確かにそうだった。いいか! 一度、キサマは失敗しているのだ。今度こそ上手くい
くと良いが……まぁ、どうなるかせいぜい見物させて貰うぞ」
 于吉と左慈……二人の最後の言葉を頭に深く刻みつつ周瑜は完全に意識を手放した。
 
 †
 
 早朝独特の冷たい空気を乗せた風が孫策の頬を撫でるように流れていく。それはとても気持
ちが良く、また気分を高揚させる。
 それはいつものこと。孫呉の……いや、母より受け継いだ血がたぎっているのだ。そして、
戦場に発てばそれはさらに激しいものとなる。
「冥琳……大丈夫かしら」
 孫策はその長い髪を舞わせる風にかき消されそうな程の小声で呟いた。
 今朝、孫策は朝の空気を吸おうと周瑜に声をかけた。だが、彼女は眠りについてた。目の下
には僅かながらだが隈のようなものが見えた。
 それを見て、孫策は周瑜が疲れているのだろうと判断し、誘わずに彼女の幕舎を出てきたの
だ。
 そして、いま孫策は親友のことを心で心配しつつその瞳は目の前に広がる大地……会稽郡の
大地を見渡していた。
「ついにここまで来たわね……」
 呉郡より撤退した厳白虎を追い厳白虎の逃げ込み先である会稽太守王郎の元へ向かうため、
孫策軍は再び孫策を中心に添えて長江を渡河し、会稽郡へと拠っていた。
 会稽城に厳白虎が逃げ込んでからそう立たないうちに攻め込む。それが孫策軍の決定だった。
 時間が経てば立つ程、王郎と厳白虎に対応策が出来てしまう。それに厳白虎の軍をうち破り
呉郡を手にしたことで孫策軍は勢いに乗っていた。その機を逃すわけにもいかないのだ。
 とはいえ、もちろん孫策軍の侵攻を知った王郎との間に様々な出来事もあった。王郎が送っ
てきた使者を処したり、それによって怒りを露わにした王郎が陣を敷いて待ち構えさせていた防
備をうち破ったりなど、王郎軍をさんざんに蹴散らしてきた。
 孫策軍は曲阿より黄蓋が率いてきた隊と合わせ、いまやその数は一万を超え、数をそがれた
王郎軍を圧倒し始めていた。
 そして、後は会稽城に籠もる王郎と厳白虎を討ち取るだけとなっていた。
 孫策は完全に門を閉ざし、警戒態勢に入っている城を見据える。それだけで不思議と胸が高
鳴ってくる……それはきっと彼女が自らの夢を目指す上での足がかりとなる土台がもうすぐ手
に入ることを確信しているためだろう。
 一人、誰に言うでもなく気分を高揚させる孫策の傍に馬蹄が近づく。
「策殿、しばし挨拶が遅れてしまい、すまぬな」
「いいわよ。合流してすぐに戦闘になっちゃったんだから」
 孫策は振り返ると、律儀に謝罪と挨拶を行ってきた宿将に苦笑を浮かべる。青みが掛かった
薄紫の髪を後ろで束ねている大人の色香漂う女性……彼女は黄蓋、字は公覆……真名を祭とい
う。
 そう、彼女が曲阿に残してきた戦力をここまで引き連れてきたのだ。
「それで? どうしたのよ、挨拶だけってことはないんでしょ?」
「相変わらずの勘をしとるようじゃの」
「まぁね。これだけは誰にも負けないっていう自信はあるわ」
「そうか、うむ。策殿らしい」
 そう言うと黄蓋と孫策は眼を合わせて吹き出すようにして笑い声を上げる。そうして一頻り
笑いきると黄蓋は自然体になる。
「かっかっか。さて、用件なのじゃが」
「?」
「実はのう……止めきれんかった。すまんのう」
「え? なんのこと……って、ま、まさか」
 頭を掻きながら困惑した表情を浮かべる黄蓋に、孫策の勘が冴え渡る。
「うむ。小蓮様も曲阿から移動なされた」
「ひょっとしてこっちに来てるんじゃないでしょうね」
 末女にはまだ戦場は速い。そう思っている。もちろん、本当に重要な戦いの時は呼ぶだろう。
孫家の人間として見ておくべき戦いもあるからだ。それに、孫尚香自体が戦力にならないわけ
ではないからだ。だが、必要ないときに戦場に出そうという気は今のところ孫策にはなかった。
「いや、そこはなんとか譲らずに済ませたわい。ただ、今頃呉城についておるじゃろうな」
 黄蓋は「まいったまいった」と苦笑しながらも気楽そうな雰囲気を放っている。孫策はそれ
とは反対に頭を抱えたくなった。
 そんな孫策の様子を訝りつつも黄蓋は話を続ける。
「そういえば、権殿の姿が見あたらぬが? 是非とも初総指揮において勝利を治めたことを祝
おうと思ったのじゃが」
 馬の背にぶら下げている酒瓶を叩きながら訊ねる黄蓋に、孫策は視線を酒瓶に注いだまま
「あぁ、あの娘」と返し僅かに口元を歪めた。
「蓮華なら、今頃政に手一杯でひーひー言ってるでしょうね」
「ほう、権殿が内政を……」
 頷く黄蓋の目はどこか心配しているようにも見える。
「まぁ大丈夫でしょ。補佐もいるんだし」
 その言葉と同時に孫策は孫権と共に……というか、色々と教授しながら内政に当たるように
と言って残してきた魯粛、字は子敬のことを思い出した。
 魯粛は知謀に長けた人物である。孫策もそれを知っている。そして、その才は政に向いてい
ると周瑜が言っていたのも覚えている。だからこそ、孫策は魯粛に孫権を任せた。
 それに、元々孫権は国のこと、民のことを案じることをとても大事にしていた。もちろん孫
策とてそう言ったことを考えることもある。
 だが、妹の孫権と比べれば孫策は外のこと……戦場を駆け回り血を燃え上がらせることのほ
うが向いていると自覚していた。
 そんな孫策だからこそ、妹が内を重視できる性分であることを大事にしたかった。孫呉復興
の活路を開くのは孫策にも出来ることだろう。
 だが、それ以降のこと……国を治め、民の心を治め、政を行う、そういった孫呉をしっかり
と護っていくことに関しては孫権の方が向いていると孫策は思っている。自分には向いていな
いことだとしている。
 とはいえ、今回行った孫権を内政担当として呉郡の治めるよう命じた理由はそれらのこと以
上に、妹の想いや意思を尊重したことにある。妹……孫権の口より出た言葉が決め手となった
のだ。
 妹曰く、「この江東制圧の戦を初めてから、曲阿……呉郡と見てきましたが、どの街の民も
みな影のある表情を浮かべていました。私は、民が哀れでなりません」とのことで勝利を収め
た後も表情を曇らせていた。
 その民に対する妹の深い愛情に内政の才を見いだした――とはいえ、どちらかというと彼女
お得意の勘によるものが大きいが――孫策。
 そんなことがあったからこそ、孫策は「蓮華、貴女には内政がむいてるんじゃない?」と言
って妹に内政をさせてみることにしたのだ。
 孫策は一連の流れを思い出しながら黄蓋には、魯粛が孫権の助けとなる事、孫権が内政に向
いているのではないかという可能性を感じたこと、それらを簡潔に説明していった。
 黄蓋は、説明を聞くと大いに頷いてみせた。
「なるほど、それならば呉郡は任せられるようじゃな」
「そういうこと、それで後は私たちが会稽郡を奪う。それだけよ」
 孫策は馬の背を軽く叩き駆けさせる。黄蓋もそれに続くようにして馬を走らせる。二人の乗
る馬が横に並び、並走状態となったところで孫策はぽそりと呟く。
「だけど、そんな蓮華がいる呉城に小蓮が行ったってことなのよね」
「ま、まぁ、そこまで酷いことにはならんとは思うが……あの二人じゃからな、正直わからん
な」
 そう答えると黄蓋は先程の孫策と同様の表情を浮かべた。
 
 †
 
「それと、これと、あと……それもください」
 人の雑踏溢れる表の路地……そんな明るい光に満ちた場所から更に奥へと入ったところにあ
る小さな店。そこに劉備軍の軍師、諸葛亮……字を孔明、真名を朱里という少女の姿があった。
 彼女の前には諸葛亮が小柄であることを差し引いても物々しいと表現できるほどの書物の山
が数多く並んでいる。その中に、埋もれるようにして存在している店主に諸葛亮はここで購入
した本の代金を支払う。
「それじゃ、お代は丁度ね。毎度あり!」
「そ、それでは……」
 諸葛亮は店主に一礼すると、長い時間店の中を見て回り、物色したすえに何百、何千とある
商品から選りすぐった十数冊の本を大事そうに両腕で抱えながら早めの足取りで店を出て、裏
路地からも立ち去った。
 表通りに出てからも、諸葛亮はそのままぐんぐんと歩を早めていき、最終的には駆け足で自
分の宿舎へと戻っていった。
 部屋へ戻った諸葛亮は、すぐさま買ってきた本を包みから取り出す。
「こ、こんなにまだ眼にしたことのない本があったなんて……」
 諸葛亮は僅かに頬を赤く染めつつ、目の前の山から抜き出した一冊を読み始める。
「なるほど……こっちでは、こういった体位が……」
 一人頷きながら本の頁を進めていく。一つめくる度に諸葛亮は本の世界へと意識を集中させ
ていく。
「す、凄い……こんなやり方が……こ、こんな体勢で!?」
 徐々に高鳴る鼓動と熱を持ち始める両頬、諸葛亮は暑さを覚えはじめていた。
 コンコン
 諸葛亮の興奮が最高潮に達しようとしていたとき、部屋の扉が軽く叩かれる音がした。そし
て、その後に続くように声がする。
「諸葛亮殿はいらっしゃいますか?」
「ひゃ、ひゃい!」
 急に掛かった声に驚いて諸葛亮は身体を直立させ、扉に向かおうとする。だが、すぐにハッ
と我に返り、手元の存在に気付く。
「あ、その前にこれを……はわわ」
 未だ扉を叩く音と呼びかける声を聞きながら諸葛亮は慌てて本の山を揃えると隠し場所と決
めたところに仕舞おうとする。だが、そこで悲劇は起こった。
「うわ、わわわ……きゃん!」
 急いだが故に脚同士が絡まり合い、もつれさせて諸葛亮はドシンという音を立てて派手に転
んだ。その拍子に本も床へとぶちまけてしまう。
 不幸はさらに続く、慌てて諸葛亮が起き上がろうとしたとき、扉が勢いよく開かれたのだ。
「どうしたのですか! 何やら大きな物音がしました……が?」
「おやおや? これは……」
 諸葛亮が転倒したときの音に緊急事態だとでも思ったのだろう。訪問者である二人の少女、
どちらも曹操軍の軍師である郭嘉――字を奉高、真名を稟という――と程c――字が仲徳で真
名が風――の二人が入ってきてしまった。
 そして、その二人の曹操軍の軍師は共に諸葛亮が先程まき散らした本たちへと視線を注いで
いる。諸葛亮など眼に入っていないのではと言うほどに見つめる郭嘉。何を考えているのかは
計り知れない程c。二人とも微妙に異なるが、諸葛亮にはどちらも怖くて仕方がない。
「はわわ……その、あの、これは……ですね」
 何か理由を言わなければと諸葛亮がとっさに頭の回転を高速にしている間に郭嘉が本を一冊
拾い上げる。そして、パラパラと中を見始める。
「な、なんと卑猥な! 明るいうちからこ、こんな……」
「いえ、違うんです……そ、そう! こ、この街の発展具合を見ようとですね……」
 本を穴が空くほどジッと見つめながら全身を震わせる郭嘉に慌てて弁明をする諸葛亮。そん
な彼女に程cがのんびりとした口調で語りかけてくる。
「大丈夫なのですよ〜。我が軍にもそういった本を持って日中にもかかわらず街を歩いてる人
もいますからねぇ」
「ちょ、ちょっと風!」
「おや? どうかしましたか稟ちゃん」
「どうかしたもなにも……」
 郭嘉が顔をしかめて程cを見るが、当の程cは床に落ちている本を一冊手にとった。
「これなんて稟ちゃんのもってるのと似てますねぇ」
「うわぁ、な、何を言って……ぶふっ!」
「おぉ! やはり無理でしたか。仕方ありませんね。はい、稟ちゃんトントンしましょうねぇ
〜」
 艶本の数々を見て鼻血を出す郭嘉、それを介抱する程c。そんな二人のやり取りを諸葛亮は
ただ黙って、というよりも呆然として見つめる。
 赤く染まった部屋、その中で卒倒した少女。それを抱える少女……そして、それをただ見る
ことしかできない少女……混沌としていた。
 しばらくして、郭嘉が鼻に詰め物をした状態で起きた。
「とんだ、ふが、恥を晒してしまいましたね」
「い、いえ……その」
「稟ちゃんが鼻血ブーになるのはいつものことなので、大丈夫ですよぉ」
「ふがが!? それじゃあ、まるで私鼻血を出すことを日課にしているみたいではないですか!」
 再び二人はおかしな掛け合いをはじめる。そこに諸葛亮の入りこむ余地など無かった。
「ど、どうすればいいんだろう……」
 目の前で繰り広げられる光景に対して、ただ成り行きを見守ろう……そう決めて諸葛亮は黙
り込む。
(取りあえず二人とも……本離してくれないかぁ)
 未だそれぞれの手に握りしめられている本を盗み見しつつ諸葛亮は他の本を揃えていく。
「――そんなことより、ここに何しに来たか忘れちゃったのですか〜?」
「はっ!? そ、そうでした。実はあなたに一つ頼みたいことがあって来たのです」
 急に真面目な顔をして郭嘉が諸葛亮を見る。鼻の詰め物と鋭い目つきという方向性の違う雰
囲気を発する顔の部品間にある隔たりに諸葛亮は身体をびくりと震わせる。
「実はですねぇ、少々孔明ちゃんの意見をお聞きしたくて来たのですよ」
「は、はぁ」
「おほん。彼女が言った通りなのですが……少々政のことであなたから見て何か無いかお聞か
せ頂きたい」
「わかりました。構いませんよ」
「助かります。一度、伏龍と称させる人物と語ってみたいと思っていました」
 眼鏡の縁を指で押し上げながら郭嘉が真面目な表情を浮かべる。
「そ、そんな大層なものじゃないですよ。たまたま、わたしが内政の方を得手としていただけ
ですから」
 劉備軍での諸葛亮の役割は主にそこだった。軍事に関しては鳳統の方が得意であり、劉備軍
全体がそう言った面で彼女に頼っているところが大きかったのは確かだった。もちろん諸葛亮
とてそれにひけは取らないし、政でなら鳳統よりも劉備軍を支えていた。
(雛里ちゃん……どうしてるんだろ)
 ふと、今は遠く離れてしまった親友を諸葛亮は思い描く。
「それでは、さっそく席につかせて頂きましょう」
「あ、その前に」
「なにか?」
 椅子に座ろうとする郭嘉が動きを止めて諸葛亮をジッと見つめる。
「そ、そろそろ、わたしの本を返してください」
「おぉ、これは申し訳ないのですよぉー」
「あ! す、すみません」
 何だかんだと持ち続けていた本を程cと郭嘉が手渡してきたところで今度こそ話をする用意
が出来たのだった。
 
 †
 
 『黄』と絵が掛かれた薄汚れた黄色……というよりは黄ばんだ布を掲げる軍勢が荒野を駆け
てくる。その殆どが歩兵。騎乗しているものは数えるほどしかいない。数は四千、多くても五
千。
 それに対して正規兵の集団……歩兵三千がぶつかっていく。
 そんな報告が夏侯淵――字を妙才、真名を秋蘭という――の元へと届く。今、彼女は黄巾党
残党……を名乗っていると思われる賊軍討伐に来ていた。
 元々は、曹操軍の領土である宛豫州の軍糧調達の任を受けていた。今後勢力を拡大していく
うえでは確実に軍糧は欠かせないためである。だが、そんな夏侯淵の元にもう一つの任が言い
渡された。それが、黄巾党残党を名乗る賊軍の討伐である。
 話では、黄巾党の残党として活動しているらしいが、かつて黄巾党と接触したことのある姉、
夏侯惇の話ではまったく質が違うと言う。
 その他の斥候からの情報も加味した結果、偽物であるという結論が成された。何しろ、いま
や本当の黄巾党残党は幽州か冀州を目指しているという噂が流れているのだから尚更である。
 そんな経緯を経てこの地へとやってきた彼女は賊軍のいるであろう方角を見つめながら報告
に来た兵に頷いた。
「そうか。よし、ならば我らも動くとしよう」
 そう言うと夏侯淵は馬に跨る。賊軍とぶつかり合っている三千の歩兵、それを率いているの
が于禁、字を文則、真名を沙和という……であった。
「さて、沙和の成長具合見させて貰うとしようか」
 于禁とその親友である二人の少女が曹操軍に仕官し、一隊を纏める将となった頃を思い出す。
 彼女の親友二人……楽進、字を文謙、真名を凪と李典、字を曼成、真名は真桜。この二人は
すぐに隊を一つの存在へと仕立て上げることに成功した。
 だが、于禁は他の二人や曹操軍の将たちと比べると、街を行き交っているようなか弱い娘に
近いところがあった。それ故、彼女だけはなかなか兵たちを纏めることが出来なかった。
「あの時は、どうなるかと思ったがな」
 ふと、夏侯淵は自分が知らぬ間に口元をほころばせていることに気が付いた。周りのことも
あるため、彼女はすぐにその感情を引っ込め、表情を引き締め直し馬を駆けさせる。
 静かに森の中へと入って行く夏侯淵隊。位置取りは于禁隊よりはやや後方といえる。そこか
らは于禁隊と賊軍の戦闘の様子がよく見える。
「さぁ、貴様ら! あの両生動物のクソをかき集めた値打ちかない屑共をじっくり可愛がって
やるの! 泣いたり笑ったり出来なくしてやるのー!」
「さー、いえっさー!」
「いいか! 戦いに勝つまでは貴様らなんてウジ虫でしかないの! 地球で最下等の生命体な
のー!」
「さー! いえす! さー!」
 少々風変わりでなやり取りではあるが、非常に効率の良い士気高揚が出来ている。と夏侯淵
は思う。その反面でやはり首を傾げかねないところもある。
 そもそも、于禁のよく分からない言葉の出典もまたいかがわしかった。
「何にせよ、あれが全ての始まりだったのは確かだな」
 夏侯淵は兵たちを罵倒し続ける于禁に苦笑を浮かべつつ当時を思い起こす。
 それは于禁たちに隊を任せるようになってから数日後のことだった。
 夏侯淵が姉の夏侯惇と共に静かな夜を過ごしていたときだった。二人の元へと于禁を連れた
楽進と李典がやって来たことがあった。その際に酔っぱらった姉がした発言が全ての発端だっ
た。
 部屋をいつもの三人で訪れてきたかと思う暇もなく「何か、沙和に助言をしてやってくださ
い」と面倒見の良い楽進が頭を下げてきた。その言葉が確か会話の切欠だった。
「愚直で、それでいて真面目……なのは良かったのだがな」
 それに対して、夏侯淵でなく、彼女の姉が「そんにゃものは簡単だぁ! ビッシビッシと厳
しい言葉を浴びせればいいのだ!」なんてことを真っ赤な顔をして眼を回しながら断言したの
だ。
 その言葉の意味をどう受け取ったのか、于禁は「わかったのー!」とだけ元気よく返事をし
て夏侯淵が捕捉の言葉を言う雨に立ち去ってしまったのだ。
「あれからだったな……」
 その翌日から彼女は変わった。どこぞの誰が書いたのかよく分からない本――監修者は北郷
一刀という人物らしく天の御使いと噂される男と同じ名前だが同一人物かは不明である――を
購入し厳しい言葉や罵倒するための罵詈雑言なのかよくわからないが迫力だけはある言葉を学
び始めた。
 その結果はまもなく現れ、彼女は隊を指揮することが無事出来るようになったのだが、すっ
かり于禁は変わった。
「口でクソをたれる前と後には必ず『さー』をつけろなのー!」
「さーっ、いえす、さー!」
 于禁の隊に所属する兵たちは于禁の変わりように驚きながらも肉体だけでなく精神的な面に
おいても日に日に鍛え上げられていったのだ。
「しかし、あれは一体なんなのか……未だに理解できんな」
 頬を掻きつつ苦い表情を浮かべる夏侯淵の前では、明らかに異常な顔をしているように見え
る于禁隊の兵士たちが賊軍を押し込んでいる。
 于禁隊の様子もさることながら、その強さも相まって賊軍の中に混乱が生じ始めている。
「な、なんだこいつら!」
「も、もう少しだけ持ちこたえろ!」
 前衛を壁としたまま後衛がなにやらごたついているようだ。その後方から、銅鑼が鳴り響く。
 ジャーン、ジャーン!
 その音に合わせて、大量の馬蹄が地響きを起こしながら近づいてくる。その隊の掲げる旗は
張の文字……劉備軍、張飛の隊である。
「これで、まず一つ潰れたな」
 ぐずぐずになった賊軍の後衛が張飛隊にうち破られ、于禁隊との挟み撃ちにあいボロボロと
泥団子が時間が経ってから粉々になっていくように崩壊していく。
 そのすぐ後に賊軍の別働隊が于禁隊の背後を突く。もっとも、攻めだけでなく守りも固くな
るよう鍛えている曹操軍の兵たちである以上、簡単に崩されることはない。
 最早、賊軍の別働隊は機を逃したのであろう。こちらと同様に挟撃を狙っていた、だが、力
量が違ったのだ。
 所詮、賊軍……黄巾党のまねごとをしてもまとまりもなくすぐに瓦解する程度の烏合の衆。
速いところとどめを刺してしまうために夏侯淵は片手を挙げて隊全体に指示を出す。
「よし、未だ。一斉射撃、うてぇ!」
 夏侯淵のかけ声に従い、弓弩から一斉に矢が放たれる。びゅうっ、そんな風を切る音を立て
ながら于禁隊に必死に攻撃を仕掛ける賊軍に雨あられのように降り注ぐ。
「うぎゃー!」
「ま、まだ伏兵がいやがったのか!」
「撤退、撤退だ!」
 交代を始める、賊軍の別働隊。
「させるな! すぐに回り込んで道をふさいでしまえ!」
 そう言って夏侯淵は転進した賊軍の前へと躍り出る。夏侯淵隊に行く手を遮られた賊軍は急
激に方向をかえ、直角に曲がって森へと逃走を図る。
 が、于禁隊との挟撃で賊軍の一つを制圧した張飛隊が駆け出してくる。
「うわぁ!」
「まてぇ! 逃げるなんて卑怯なのだ!」
 それからは逃げる賊軍、追う張飛という光景が終始続き、完全に気力を失った賊軍の捕縛を
成功させた。
 その際、敵兵を追い回す張飛の姿に夏侯淵は、曹操軍親衛隊所属の一人の少女を思い起こさ
せられていた。
「まるで季衣のようだな……」
 今は親衛隊の仕事として曹操と共に遠征に出ている許緒……彼女の真名が季衣なのである。
「きっと、二人揃うとさぞ賑やかなことだろう」
 夏侯淵は思い描いてみる……許緒と張飛が似たり寄ったりなことを言い合って街や城の中を
駆け回ることだろう。そして、周りの者たちが苦笑しながらも二人の喧嘩を微笑ましく見守る
のだ。
(随分と、簡単に出てきたな)
 意外なほどにすんなりと想像することが出来、夏侯淵は少々驚いた。
「まるで……見たことがあるような……ふむ?」
 何故だろうか、口にしてみると本当にそうなのではと思えてくる。そんなはずはないのにで
ある。
 そう、あり得ないはずなのだ。何故なら、張飛は劉備軍の将であり、つい最近曹操の元へと
転がり込んできたのだ。
 しかも、遠征に曹操が出たため、許緒もすぐに出かけたわけで、少なくとも夏侯淵の前で張
飛と関わってはいなかった。
(いや、もしかすると他の誰かに聞いたのだろうか?)
 可能性としては十分にある。少なくとも夏侯淵自体が眼にした、というものよりはあるだろ
う。
 だが、それはそれでしっくりとこない。第一、話を聞いていない。近頃は忙しかったのだか
らそれも当たり前なのだ。
(ならば、一体……何故?)
 考えてみても夏侯淵にはわかるはずなどなかった。仕方がないということで、彼女は後々張
飛にでも聞いてみようと密かに決め、夏侯淵は討伐戦の後始末をするため、于禁隊と張飛隊が
集結している中へと入っていった。
 
 †
 
「一先ず、休憩にしろとはいうが……」
 先程まで政務を行っていた孫権は不機嫌だった。彼女は孫策より呉郡平定のための政を任さ
れていた。孫権自身はそれを孫策が戻るまでの一時的なものであると把握している。
 そして、その責任ある仕事を孫権は孫呉の王となるはずである孫策の妹であるという誇りと
多くの民衆の生活のためにもという意気込みを持って取り組んでいた。
 この仕事をこなすためならば休みなど入らない覚悟でいた。だが、孫策が残していった魯粛
によって孫権は休みをとらされてしまった。
「まだまだ問題は山積みだというのに……」
 訴訟やら献策やら周辺豪族とのことやら様々な案件が残っている。それは先程まで孫権がい
た部屋の机を埋め着く書簡によってよく表されている。
「仕方がない、せめて戻った時のために対策を考えるとしよう」
 ある程度は書簡の内容を覚えている。孫権はそれを思い出しつつ、対策はどうあるべきかを
考える。そうして考え事をしながら歩いていたのがいけなかった。
 ドン!
 その瞬間、孫権の腰から背中にかけて衝撃が走る。そして、何者かによって腰をガッチリと
固められる。それを振り解くまもなく、孫権は体当たりをされた衝撃で前のめりとなり、床へ
と向かって勢いよく倒れ込んだ。
 ベチャという音がしてもおかしくないほどみっともない形で転倒した孫権。床に付こうとし
た両手は結局間に合わず中途半端に肘を曲げた状態となり、手が僅かに起こした顔から正面に
見える位置にきていた。
「な、何者だ!」
 正直、圧迫される胸が苦しいのだが、そうも言っていられない。背後から孫権を取り押さえ
ている暴漢と思しき存在に毅然とした態度で怒鳴りつける。
「ぶ〜! 何もそんな怒らなくてもいいじゃない」
「え? しゃ、小蓮!?」
 声に驚き、無理矢理首を捻って顔だけでその姿を見ると妹の小蓮……こと孫尚香が孫権の背
中に引っ付いていた。
「折角、遊びに来たのにそんな鬼みたいな顔で見られるなんてちょっと不愉快かも〜」
 孫権の背中から飛び去るようにして離れると孫尚香は頬を空気をパンパンに詰めた布のよう
に膨らませた。
 孫権もすぐさま立ち上がり彼女に詰め寄る。
「小蓮! "あなた"ねぇ! 何のつもりな……おほん。いや、それ以前に"お前"は何故ここに
いる!」
 動揺の余り、思わず孫家の次女としての立ち振る舞いを忘れそうになるが咳払いと共に精神
を落ち着けてたたずまいを直す。
「ちょ、ちょっと、そんなに一杯聞かれてもどれに答えればいいのかわかんないってば」
 孫権を両手で制しながら孫尚香が困惑したように眉を潜ませながら口にした抗議の言葉に孫
権は思わずぴたりと動きを止める。
「ぐ……仕方がない。まず、聞かせて欲しいのは、お前は曲阿で祭と共に留守を預かってたは
ずであろう? 何故、この城にいる!」
「祭が雪蓮姉様のとこに行くっていうからついていこうとしたの。そしたら、祭にさすがに今
はまだ戦場には連れていくわけにはいかないって……その代わりにこっちに行けって言われて」
「しゃ、小蓮。お前は……」
 孫権は片手でこめかみを押さえる。なんだか頭痛がしてくる。深く呼吸すると孫権は落ち着
いた声で話を続ける。
「はぁ、ここにどうやって来たのかはわかった」
「うん」
「次は、何故私を押し倒すようなことをした?」
 孫権は、多少キツメの視線で孫尚香を貫く。少しでも妹が自分の行動を反省するように。だ
が、孫尚香はけろりとした様子で笑顔を浮かべる。
「久しぶりの家族との再会なんだから抱きついたっていいじゃない」
「それなら、一声掛けてからにしろ。それ以前に、先程のように飛び掛かるなどはしたないと
は思わないのか? お前は孫呉の姫となるのだぞ」
「はしたないなんて思わないよ〜だ。それにそんなの関係なく、シャオはシャオだもん!」
「もう少し、お淑やかにするべきではないのかと言っているのだ」
「少なくとも"今の"お姉ちゃんみたいに堅物になっちゃうよりはマシよ!」
「な、なんだと!」
「なによ〜!」
 孫権と孫尚香は互いににらみ合う。まるで水と油、相容れない二人は竜虎相打つとばかりに
火花を散らす。
 この場に二人を止める者はいない。そもそも孫策も、周瑜も、黄蓋も、陸遜も戦場に出てい
る。甘寧は未だ周辺に残っている厳白虎の手下だった賊軍の掃討を行っている。
 他の者に止められるかはわからない。それに苦笑混じりに二人の間に仲裁にはいる彼もいな
い。
(……彼?)
「あれ?」
 それはどちらの声だっただろうか、もしかしたら二人同時だったかもしれない。何せ、両者
共に首を傾げているのだから。
 孫権は目の前の妹と自分による口論を止める人間に関してそれぞれの顔が頭に過ぎった。だ
が、一人だけ、孫権のよく知らない人物が過ぎる。
 いや、実際に知らないのかどうかはわからない。顔も浮かばなかった。だが、だれか二人の
間に入り口論を止めようとする人間がいたような気がしてならない。
「誰だ……こいつは」
「誰だろう?」
「え?」今度は間違いなく声が重なった。
「小蓮。あなた……こほん。お前、まさか」
「もしかしてお姉ちゃんも?」
 そのやり取りだけで孫権は確信した。妹の中にも所在も詳細も何もかもが不明な人物の姿が
浮かんだのだ。
「一体、なんだというのだ。これは」
「変だよね。不思議な感じ」
 孫権と孫尚香は互いに顔を見合わせて首を捻る。なんだか胸に引っかかる。なのに思い出せ
ない。一体、これはなんなのだろうか。
「まぁ、いいや。それより、どっか行こうよ」
「却下だ」
「ぶ〜、ケチんぼ!」
「小蓮!」
「なによぉ!」
 結局、二人は振り出しに戻り喧嘩を始めた。
「小蓮、今日という今日はきっちりと躾けてくれる」
「そうはいかないもんねぇ〜」
 そう言うと、孫尚香はんべっと舌を出し、逃げ出した。
「小蓮! 待ちなさい!」
 孫権は、すぐさま妹の後を追って駆け出す。自由奔放なのは一体誰に似たのだろうか……一
瞬だけ考え、すぐに止めた。
「い、今はあの娘を捕まえることだけを考えよう」
 自分に言い聞かせるようにそう呟くと孫権は一層走る速度を上げていく。
 それから城中を走り回ることになったが、結局、孫権は孫尚香を見失ってしまった。
「まったく。絶対に捕まえて教育的指導をしなくては……」
 そう言いながらも、走りすぎて多少息があがっていたため、仕方なく孫権は座り込む。
「さすがに、こんなところには来てなかったか」
 ため息混じりに孫権は空を仰ぐ。とても青く、広く澄み渡った清々しい空だった。今、孫権
がいるのは城壁の上だった。なんだかんだと探すうちに辿り着いたのだ。
「何故かしらね……ここは落ち着くわね」
 呉城の城壁……というわけではなく、城壁という場所が落ち着く……孫権はそんな気がする。
「本当に、不思議ね……何か思い出なんてあったかしら」
「…………」
「あれ?」
 ふと気配を感じ後ろを向く。いつの間にか女性が立っていた。長い黒髪を団子のようにして
纏め、それを布で覆い一箇所に止めているため、一層鋭い雰囲気を放っている。
「……ただいま戻りました」
「そ、それなら、先に声をかけてちょうだい、思春」
 驚いて弾む胸を抑えながら孫権は黒髪の女性――真名を思春……姓名を甘寧、字を興覇とい
う――に注意をする。
「は。それは、申し訳ありません」
 甘寧は普段通りの抑揚のない声でそう言うと、相変わらずの引き締まったまるで鋭利な刃物
のような表情を崩すことなく頭を下げる。
「ところで……」
「なにかしら?」
 甘寧から話を振るのは珍しいと思い孫権は身を乗り出して話を聞く体勢を作る。
「今日は、やけに機嫌が良いようで」
「は?」
 急な言葉に孫権は言葉を失いそうになる。
「な、何をいってるのよ。思春」
「いえ、普段とは違い穏やかな表情」
「え?」
「そして、その口調……」
「口調って、それがどうかしたの? って、あれ?」
 孫権は甘寧の指摘によって初めて気が付いた。自分の口元が綻んでいること、口調が柔らか
くなっていたこと。
 そして、それが意味することは……。
(ダメだ。これ以上はダメだ)
 孫権は頭を振って余計なことを追い出す。
「しょ、少々気が抜けていたようだ。すぐに仕事に戻る。いいか、くれぐれもこのことは内密
にしておくのだ。特に小蓮には言うな」
「は」
 甘寧に言うだけ言って孫権はすぐに城壁を後にした。何故かはわからないが気が緩んでしま
った。それはいけないことだと自分でもわかっているのに……。
(一体、どうしてしまったのだ私は)
 この日、孫権は自分に関することで戸惑いを覚えた。その理由も意味もわからないまま孫権
は再び孫仲謀として、孫家の次女としての自覚を持つように自分に言い聞かせた。
「一応、小蓮も見つけておかなければ」
 何だかんだ言っても妹のことは大事なのだ。孫権としても妹の……孫尚香の笑顔は見たいも
のなのだ。
「とはいえ、どこにいったのやら」
「お姉ちゃん」
 声の方を振り返ると、そこには脚で地面を払うようにして突っ立っている孫尚香がいた。
「小蓮、まったく何処に行っていたのだ」
「…………」
「いや、そうではないな。先程は、少し言い過ぎた。急に変われと言っても無理だろう。少し
ずつ変わればいい」
(そう、私だって未だ完全に変われていないのだ……それをもっと幼い小蓮に言っても強要し
ても仕方があるまい)
 先程の一件で少しだけ、孫権の中にも考えの変化があった。だからこそ、孫尚香のことも思
いつつ語りかけたのだが、孫尚香は驚いた表情で孫権の顔を見上げる。しかも、気のせいか顔
が青ざめている。
「ど、どうしたのお姉ちゃん?」
「どうとは?」
「お、怒りすぎて頭がおかしくなっちゃったんじゃ……」
「ひ、人が優しくすれば……お前というやつは」
「あ、あれ?」
「小蓮! そこになおれ!」
「結局、そうなるのぉ〜」
 悲鳴を上げて逃げ出す孫尚香、それを孫権は全力で追いかける。こうして、この日二度目の
追走劇が始まった。
 この二回戦は甘寧が間に入り事を治めることで引き分けという決着がつくまで長々と続き、
本来以上の政務をしなければならなくなった魯粛が最も被害を被ったことは言うまでもない。

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