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912 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/10/17(土) 21:29:05 ID:CGfQY3FC0
いけいけぼくらの北郷帝第二部北伐の巻第十回をお送りします。
第二部が終わり、一刀さんの一人称による物語はこれで一段落です。第三部からは、三人称の物語
が展開されることになります。
長期出張が入ったりしたために、北伐の巻と言いながら北伐本編が第三部にはみ出てしまいました
が、正直、一人称で戦争を書くのは難しい上に、読む方も把握しにくいので、これでよかったので
はないかと考えております。

◎注意事項
・魏ルートアフターの設定ですが、一部、二部と進んできておりますので、まずは、そちらをご覧
いただけると幸いです。
・史実とゲーム内情勢に関する独自解釈があります。
・恋姫キャラ以外の歴史上の人物等に関しては、名前の登場はあるものの重要な役割はありません。
・呉勢以外の一刀の子供が出てきます。。
・Up板にてメールフォーム及びメールアドレスを公開しています。ご意見ご感想等ありましたら、
どちらからでもお気軽にどうぞ。フォームのほうはお名前、メールアドレスの記入が必要ありません。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL →  http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0431

さて、予定としては、この後、第三部が12月から始まります。
間が開きますが、どうぞお許しください。
投下予定が定まりましたら、改めてお知らせしたいと思っております。



いけいけぼくらの北郷帝
 第二部 北伐の巻 第十回(第二部完結)



「姉様っ」
「お、お亡くなりになられたとっ」
 声を聞けば、さすがに動揺している二人でも気づく。彼女たちは揃って驚きの声を上げた。
 気持ちはよくわかる。正直、俺も驚いた。
 俺が驚いたのは、彼女たちがよりにもよって自分たちの死を告げる急使としてやってきたことだったけれど。
「だからー。孫策は死んだわよ? ここにいるのは孫奉」
 白面の女性はまるで説明する気がないらしい。それを見て、闇色の面を着けた女性がおなじみのため息をつく。
「まあ、うん。死んだことにした、ということだ。わかるだろう」
 蓮華と思春は絶句するしかない。他の三人はそのことについては了解しているので、俺としては少々申し訳なくなる。
「しかし、なぜ……そのような」
 蓮華が訊ねた時、ふと雪蓮の顔が引き締まった気がした。面の奥で光る瞳は、眼前にいない俺でも痛く感じるほどに鋭い。
「蓮華は何と言ったら満足する?」
「それは……」
「考えなさい。これがあなたへ残す最後の課題。そして、あなたは王になるの」
「しかし、姉様っ」
 詰め寄る妹の前に雪蓮の手が上がり、思わず蓮華がびくりと震える。だが、その手は優しく彼女の頬にかかり、ゆっくりと顔の輪郭を確かめるように指先が滑る。
「あなたは南海覇王を受け取った。その時の気持ちを忘れぬことよ」
 そう言って、彼女は鬼面を外す。そこに現れた雪蓮は、普段のようにふざけているでもない、ただ透明で、柔らかな微笑みを浮かべていた。
 棒立ちになってしまった蓮華を愛おしそうに見つめ、そして、周囲の俺たちを見回すと、照れたような表情を浮かべて、再び、その真白き面を身につけてしまった。
「なあ、偽名と仮面はともかく、なんで二人ともメイド服なんだ?」
 俺は、さっきから気になっていたことを訊いてみる。
 月たちとは違ってフリル等を抑えた黒基調のシックなデザイン。それこそ、十九世紀英国調、まさに正統派のメイド服だ。以前、思春のためにつくったやつを各人に合わせたのはわかるが、この二人が着ると、えらい迫力だ。
「そりゃあ、死人を押しつけるなら一刀のところという慣習が……」
「ない」
 きっぱり言っておく。そんな慣習はない。
 いや、待てよ。本来はそうあるべきなのか?
「えー」
「いや、雪蓮たちが俺のことを頼ってくれるのは嬉しいけど、でもなあ」
「これについては以前から決めていたことだ。ただ、まあ、このような服を着せられるとは……」
「あ、それは私の趣味ー」
「雪蓮っ」
 顔を赤くして――案外頬だけで判断できるものだ――怒鳴る冥琳に、雪蓮は涼しい態度で手をひらひらさせている。
「いいじゃない。めいどとやらでしばらくごまかしてれば。桃香たちは月を匿っていた以上、同じ手口に文句は言えないし、華琳は協力してくれてるんだしさ。それに、冥琳は子供の世話もあるんだしー」
 雪蓮の理屈は、間違っていないだけに厄介だ。
 もちろん、俺としても彼女たちを拒絶するつもりはないが、それにしても……。とはいえ、彼女らしいといえば彼女らしいか。俺はなんとなく笑みを浮かべてしまう。
「まあ、まずは養育棟に入ってもらって、他の子供の面倒を一緒に見てもらえば? 他の者と違って、双子で二倍大変なんでしょう?」
「二倍かどうかはわからぬところだが……まあ、大変ではある」
 冥琳の声は、疲れたようでいて誇らしげでもある。母親っていうのは、こういうところは共通なのだろうか。
「そのあとは、儂と三人で仮面の将軍じゃな」
 うんうん、と心底楽しげなのは祭だ。祭にしてみれば、新しい世代に呉を引き継げた上に、自分が育ててきた二人は位を退いて悠々自適となれば、自分自身も肩の荷が下りた気分だろう。うきうきするのもわかる。
「あ、いいわねー」
「文台様が見られたらなんと言われるやら」
「絶対、自分の分の仮面はないのかって言うわよー。母様だし」
「うむ、そうじゃ、そうじゃ」
 わいわいきゃらきゃらはしゃいでいる三人に対して、蓮華はよろよろと華琳の執務机によりかかる。
「はあ。なんだか頭が痛いわ、思春」
「心中、お察しいたします……」
 俺は彼女たちに近づくと、小声で話しかける。
「まあ、あの三人はもう引退した気分だろうからな……。しょうがないよ」
 思春はしばらくいぶかしげにこちらを見ていたが、段々と表情が険しくなっていった。
「……北郷、貴様、知っていたな」
「おかしいと思ってたのよね。祭はともかく一刀は姉様が死んであんな平静を保てるわけないって……」
 思春には睨みつけられ、蓮華には呆れたようなため息をつかれた。たしかに、話せなかったのは悪いと思うけれど……。
「いや、南海覇王を託されてたから、緊張してたのはあったぞ」
「あれは、姉様が持ってきてこっそり渡したものではないの?」
 そう疑うのもわかるが、そもそも、俺は雪蓮たちが自分たちの死を知らせる急使に扮して洛陽にやってくるなんて聞いていない。どこかに身を隠すだろうとは思ったが……。
 しかし、考えてみれば一番いいのかもしれない。呉にいるわけにはいかないだろうしな。
「蓮華たちと建業を発つ前から、大使館の俺の部屋にあったよ」
「姉様、なんてことを……」
「だってー、一番信頼できるじゃない。一刀って、そういう欲ないし」
 剣の柄をしっかり握り顔を青ざめさせる妹にも、雪蓮はまるで悪びれない。
「強いて言えば、曹孟徳という人物が見ている前で、実質的な王位継承の儀式が執り行われるようにするために、一刀殿に預けるのが一番であった、とは言えるだろうな」
 冥琳はそう言ってから、肩をすくめる。
「まあ、実際は、こやつのいつものやつだ」
「勘、ですか」
「勘ね」
「勘じゃな」
「なによー」
 さすがに息が合ってるな。
「ところで、聞いていなかったけれど、小蓮はどうするの?」
 ふと、華琳が雪蓮に向かって訊ねるのに、雪蓮はゆっくりとかぶりを振る。
「それはもう私に訊くことじゃないでしょ、華琳」
「それもそうね。では、どうするのかしら、蓮華?」
 急に部屋中の視線が集まって、蓮華は少々戸惑っているようだった。考えながらゆっくりと言葉を口にする。
「小蓮は、連れて帰ろうと思っておりましたが……。こういうことならば、洛陽に残し、大使としたい」
 それから俺のほうを見て問いかけてくる。
「たしか、いずれ大使は一人にする予定だったな? この事態だ。早めてもらおう」
「一刀?」
「問題ないと思う」
 緊密な連携を考えて正副二人の大使を要求していたが、こちらから派遣している秋蘭、真桜が共に一人でも――もちろん、その下には多数の文官がついている状況で――十分仕事をこなせていることもあり、正使一人に縮小する予定だったのだ。次の赴任からという予定だったが、実質、呉にとっては小蓮が次の赴任となるのだから問題も起こらない。
「じゃあ、そういうことにしましょう」
 ところで、シャオには雪蓮のこと、どう言うんだろうな、などと考えていると、祭が思い出したように言い出す。
「そうじゃ、葬儀はいかがいたします? 華琳殿と旦那様も出ずにはいられまい」
「そうだな……。そのあたりは私が先に建業に戻ってから手配して……って、はあ、なんで死んでもいない姉の葬式をせねばならんのか……」
「だからー、死んだってばー」
 言ってから一人で笑っている雪蓮。まあ、自分の葬式の手配を心配する妹を見るというのもなかなか貴重な経験だとは思うが。
「本国には穏も亞莎もおりますから……とはいえ、まずは蓮華様には一刻も早く呉にお帰りいただき、正式な王位継承を果たし、もし不満な者があるようなら、これを討ってもらわねば」
「そうだな……」
「まあ、そのための呉軍十二万と南海覇王だしねー」
 さすがにその言葉に、思春が驚いた顔をする。
「あれは北伐の軍では……」
「それも計画のうちなのよ。呉軍は北伐には直接参加せず、糧食だけをいただくことになってるの」
 さらに問いかけようとした思春を、蓮華は彼女の手を掴んで制止する。
「よい、思春。それよりも、最初から全て窺いましょう。全て、です」
「では、部屋を用意するわ。長くなるようだから」
 そう言った後で、華琳は朗らかな笑みを見せた。
「ああ、でも、その前に、まずは子供を見てやったら? 気分も和らぐかもしれないわよ」


 華琳の勧めもあり、俺たちは養育棟に向かった。冥琳の子に会いたい気持ちはみな同じだったらしい。もちろん、俺はその中でも特に浮かれていたと思う。
 途中、報を知って華琳の部屋に急いでいた小蓮が、雪蓮たちを見て、おばけーーーーっと叫んでみたりなどと言うこともあったが、そんな小蓮も一緒に冥琳の子供たちを見に行くことになった。
「子供の処置はどうしたの?」
「私が病を得た――というふりをした――時点で、洛陽の親戚――つまりは私自身だが――に預けるという名目で、乳母――これも私だ――と一緒に呉を出たことになっている」
「や、ややこしいな」
 彼女の死は偽装なわけだから、子供を一緒に連れてくることにも偽装が必要になるわけだが、話だけを聞いているとこんがらがってしまいそうだ。
「姉様は一緒ではなかったのですね」
「後から馬を飛ばして追いついたのよー。一度に倒れると、見え見えすぎるかな、って思って」
「私や子供たち、それに南蛮の四人のために、だいぶゆっくりした旅だったからな。雪蓮が私の数週間後に倒れたことにしても十分追いつけた」
「あれ、美以たちも来てるのか」
 てっきり、呉にとどまっているかと思ったのだが。まあ、こちらでなら産婆やらを手配できて、安心というのはあるけどな。
 冥琳は困ったような微笑みを浮かべる。
「うむ……。なにか我らと違うのか、妊娠しても走り回っていたからな、気をつけてやるのが大変だった」
 な、なんというか、ワイルドだからな、南蛮勢。
 そんなことを話しているうちに、養育棟につく。
 まずは冥琳の子供たちをこの手に抱かせてもらう。二人、そっくりな赤ん坊が並んでいる光景は、なんだか奇妙な気分だった。両方とも女の子だし、一卵性双生児なのだろうけど。
 我が子の重みを手に感じる、
 この瞬間だけは、なんとも言えない。
 一人、黙ってその感覚を味合わせてもらった。他の面々がこちらを見ている感じはあるが、いまはそれに構っていられない。
 ふと気づくとシャオが、美人さんだねー、などと言っているが、実際、この大きさの赤ん坊にしては整った顔立ちだと思う。
 俺の子供は全員美人だが。
「名前は決まってるのー?」
「ええ、周循と周胤と」
「でも、穏なんかは、大周、小周なんて呼んでたわよねー」
「まあ、あだ名としては悪くない。幼名もまだ決まっていないわけだしな」
 呉の大小と言うと、俺などは別の姉妹を思い出すのだけれど、どうもこちらの世界にはいないようだからなあ。
「おとなしい子たちだな」
 大小二人は、俺が抱いている間も、呉の面々が覗きこんで話している間も、泣きもせずじっとしていた。たまに不思議そうに首をひねっているだけだ。
「ああ、幸いあまり手がかからぬ子たちのようだ」
 二人ということで覚悟していたが、助かっている、と冥琳が続けているところに、反駁の声がかかった。
「それは雪蓮さんたちお二人がいる時だけだと思いますよー」
 いつの間にか部屋に入ってきた風だった。
「あら、風」
「いらっしゃいませー」
 風は、親友で古いつきあいの稟が出産一番手だったこともあって、養育棟の主のようになっている。
 文献での調査はもとより、産婆に弟子入りしたような格好になって、時間の空いた時には市井でも子供を取り上げる手伝いをしているらしい。その知識と経験がみんなの世話を見るときに役立ってくれているようで、本当に頭が下がる。
「私たちがいるときだけなの?」
「雪蓮さんと冥琳さんがいると、あまり泣きませんが、いなくなると途端にすごい勢いで」
「人見知りするのかもしれんな」
 冥琳はふうむ、と腕を組んで考え込む。それに対して、祭が呵呵と笑い出した。
「いやいや、母御とさ……おっと、雪蓮さまが大好きなのじゃろう」
「そですねー」
 風も同意して、俺たちはみなで大きく笑い声を上げた。


 話をするはずが大小に夢中な呉勢を冥琳の部屋に残して、俺と華琳は他の母親たちが集まっているらしい部屋に案内される。
 そこでは、稟、桂花、桔梗という三人が、美以たち四人にまとわりつかれていた。
 千年をあやしている桔梗の膝にはミケとシャムが頭をのせてごろごろしているし、稟の膝の上にはトラが乗っかっている。桂花は抱きついてくる美以を離そうとしているが、相手のお腹が大きいこともあり、押し返す手に本気で力を入れているようには見えない。
「……なんだこりゃ」
「美以ちゃんたちは、甘えんぼさんなんでしょうね」
 風の言う通り、ただ甘えているだけで、美以たちに悪気はないのだろう。
「みんな母様のにおいがするのにゃー」
「あんたも、もうすぐ母親でしょうが!」
 変なやりとりをしている猫耳大王と猫耳軍師は置いておいて、まずは、膝に座り込まれている稟に近づいてみる。
「稟は大丈夫なの?」
「はあ。まあ、阿喜の世話をする時には退いてくれるので……」
 トラは稟の胸に顔を押しつけて、ごろごろと喉を鳴らしている。かなりご機嫌のようだ。
「桔梗は……大丈夫そうだな」
「成都にいた頃から、こやつらは紫苑に同じようにしておりましたからな。そのあたりは心得ております」
 成都にいた頃は、紫苑に甘えていたのか。璃々ちゃんが大変だったろうことは容易に想像できる。
「にゃ、兄にゃ」
 桂花に抱きつくのをあきらめたらしい美以が俺にようやく気づいて寄ってくる。他の三人も彼女の言葉を聞きつけて、わらわら寄ってきた。にーにー、とまるで鳴くように俺を呼ぶ四つの頭を順繰りになでてやる。
「みんな子供ができるとはね。本当に嬉しいよ」
 なでながら感謝を込めてそう言うと、不思議そうに俺を見上げる四つの顔。
「にゃ? はつじょーきにこーびすれば、子供ができるのは当たり前にゃ」
「あたりまえにゃ」
「あたりまえだじょ」
「……まえにゃ……」
 そうか、当たり前か。
 あれ、いま、ものすごく冷たい視線を二対感じたのだけど、気のせいじゃ……ありませんね。
 風さん、華琳さん、桂花が怯えて小さな声を上げるほどの視線を俺に向けるのはやめてください。
「ま、まあ、その、無事に子供が生まれるといいよね」
「うむにゃ」
「あにしゃまとミケたちの子だから大丈夫にゃ」
「そうだにゃー」
 そうして戯れていると、シャムがあくびをしはじめる。彼女が眠そうなのはいつものことだが、いまは、妊娠中ということもあって余計にその頻度が高いようだ。あくびが他の三人にも伝染し始めたので、彼女たちを大きな寝台のある寝室へ連れて行く。
「あー。おにーさん、ちょといいですか?」
 戻ると、風に、華琳と一緒に部屋の隅へ引っ張っていかれた。
「あのですねー、美以ちゃんたちをお産婆さんに診てもらったのですがー」
「うん」
「問題、とは言えないのですが、少々気にかかることがー」
「な、なにかあるのか?」
 深刻そうではないが、少し顔をしかめている風に、胸がどきりとする。
「お産婆さんが言うには、揃って、双子以上だろうと」
 その言葉はあまりに予想外で、しばらく思考が停止する。冥琳が双子だったのに、また双子、それも、それ以上?
 そこに、風はさらなる衝撃をもたらす。
「何人入っているか、正確にはわからないそうです。四つ子以上は取り上げたことがないので」
「……そ、そっか。……いや、ちょっと待て、お産がかなり大変にならないか?」
 三つ子や四つ子なんて、医学技術が発展した元の世界でもなかなか大変だったはずだ。この世界で、そんなに多人数を産むのは、可能なのだろうか?
「はい。普通なら。でもですねー、美以ちゃんたちに訊いてみたら、南蛮では、お産というのは、いつも、五人くらい生まれるそうです」
「いつもか」
「いつも」
「毎度のことだってよ、にーちゃん」
 なんか、頭痛くなってきたぞ。
 にゃーにゃー言って走り回る子供たちに囲まれている自分の図が想像されて。しかも、少なくとも十人以上の。
「ということで、おそらくは大丈夫なのではないかとー。もちろん、華侘さんともう数人お産婆さんを確保しておきますがー」
 それまで黙っていた華琳が、ぼそり、と呟いた。
「……猫って多産よね」
「……そうだな」
 それ以上は触れないことにした。
 子供が増えるのはいいことだ。


 それからは怒濤のように日々が過ぎた。
 蓮華との打ち合わせにより、二週間後に俺と華琳が呉に向けて洛陽を発つことに決まり、さらには北伐の軍も移動を開始せねばならず、様々な準備に追われたのだ。詠なんて軍師の役目ばっかりで、最近はメイド姿を見ていないくらいだ。
 幸い、雪蓮と冥琳が交代で手伝ってくれていたので、月が疲れてしまうということはなかったようだ。なぜか大使のはずの小蓮が、シャオもめいどやるーっ、と乱入してきたりもしたが。
 ただ、洛陽には真桜の絡繰家事製品が多いので、興味津々の雪蓮がいじくり回して壊してしまうことはたまにあったが、その程度は気にしないでおこう。電気製品がないせいで、感電事故なんてものはないのが不幸中の幸いというところだろう。
「兄ちゃん、お昼いこーっ」
「昼にいくぞ、北郷」
 このところ、昼食は、季衣と春蘭と一緒にいくようになっている。二人が担当する中央軍との連携の話を、この時間にしておかなければならないのだ。彼女たちとて時間が余っているわけではないので、昼食の時間を有効活用するしかない。
 ちなみに、中央軍の本隊はほとんどがすでに黄河を渡り、河北に移動を開始している。そのあたりは風が手配していた。
「了解、ちょっと待ってくれ」
 書類を片付けて出かけようとすると、春蘭たちを押しのけるようにして、北方から帰ってきた七乃さんと美羽がやってくる。
「一刀さん、客胡との交渉ですけど、やはり、この契約に関しては、早めに履行してしまって、後でものを受け取るほうが……」
「一刀ーっ、客胡の商人が翡翠を送ってきおったが、もろうていいものかや?」
 急ぐ書類だというので目を通し、この程度なら、七乃さんの決済でやってもいいと指示を下す。美羽の翡翠のほうは、今後も送られてくるようなら集めておいて、後で考えることにして、迂闊に何事か約束したりはしないよう言いつけておく。
「隊長〜。真桜ちゃんからお手紙で、やっぱり葬儀にはぽりえすてるを着てきてほしいって、呉の人たちが言ってるってー」
「ああ、了解。そのつもりだって返事しておいて」
 七乃さんたちが出て行ったかと思ったら、入れ替わりに凪と沙和。沙和のほうはたいした問題ではないが、凪はなにか深刻そうに書類を掲げている。
「隊長、兵站の件ですが、やはり輜重部隊の速度が……」
「ああ、凪。それは知ってるから、えっと、たしかここに、馬を使っていいって許可が……」
 書類を漁っていると、天和が滑り込んでくる。
「かーずとっ。北伐記念公演の場所とりなんだけどー」
「ああ、それは、人和と桂花に任せてあるから……」
「あれー、そうなのー? お姉ちゃん聞いてなかったなあ。あー、あと、地和ちゃんがー」
 このあたりで、春蘭がだんっと大きく足を踏みならし始める。
「ほーんごおぉっ! 昼はどうしたーっ」
「いま行く、いま行くからっ」
 これが、ほぼ毎日だ。
 この他にも、白蓮から馬術の特訓を受けたり、ねねと机上演習を繰り返したり、先行して金城に赴く蒲公英を見送り、翠と羌の動向について話したり、流琉と乾燥食料を配備する話をしたり、恋と華雄に馬上で扱う武器の稽古をつけてもらったり、子龍さんと祭が盛大に飲み比べをしているのをなんとか説得して仕事に戻ってもらったり、文長さんが左軍の軍旗に劉の旗も入れろと言ってくるのをさすがに無理だとあきらめてもらったり、と色々あった。
 個人的なことで言えば、霞が――本当にありがたいことに――北伐出陣前にゆっくり一日過ごしたい、と誘ってくれたり、洛陽にいない間の子供たちと母親たちの世話に協力することを紫苑に約束してもらったり、桂花の罵りが無責任孕ませ男から無節操孕ませ男になっていることに気づいたり、稟に乳の出が悪いことを相談されたり、母乳に関しては調子のいい桔梗と冥琳に改めて他の子たちにも乳を分けてほしいと頼んだり、華琳と打ち合わせをしに行って閨に引きずり込まれたり、と正直、体力の限界を見た日々だった。
 まあ、麗羽が夜食にと差し入れてくれた手料理を、とんでもない見た目を我慢して無理矢理食べたら案外美味しくて、しかも三日間くらい眠らずに済んだから助かったけどな。
 妙に斗詩と猪々子が心配していたけれど。
 それでもなんとか出発の日までには、北伐の軍のほとんどを無事洛陽から送り出すことが出来た。それぞれの集結地からさらに進軍を開始するのはまだ先の話だが、まずは順調な滑り出しと言ってよかった。
 これ以後しばらくの問題は、守将の流琉と、それを支える稟と桂花に任せるしかない。大鴻臚である俺と魏の覇王たる華琳は――それが偽装だと知っているとは言え――孫策という他国の王の葬儀に出なければならない。


 呉への出発の日は、珍しくどしゃ降りだった。
 自分も濡れずに済む大きな傘を華琳に差し掛けながら庭に出ると、すでに馬車が用意されている。俺と真桜たちが呉に向かった時のものよりさらに大きく、立派だ。
「……一刀、これはあなたの手配?」
「え、ああ。詠に頼んで、真桜製の馬車を用意させたけど」
「ふうん、そう。詠が……ね」
 なぜか、華琳の視線は御者に向かっている。御者は編み笠のようなものを深くかぶっていて顔は見えないが、この雨の中なら当然だろう。今度は雪蓮たちのようなこともあるまい。
「他のがいいなら、いまから用意させるけど……?」
 とはいえ、華琳が乗るための馬車となると、安全性にも居住性にも考慮せねばならず、同等のものを探すというのは大変だろうけれど。
「いえ、これでいいわ。さ、濡れるわ。早く乗りましょう」
「あ、ああ」
 なにが気にかかったのだろうか。不機嫌というわけでもないので、不手際があったわけではなさそうだ、などと考えながら馬車に乗り込むと、すでに詠が待っていた。
 彼女自身は――心情的な問題はともかく――別に葬儀に参加せずともいいのだが、北伐の軍を動かす関係で、俺についている必要があるのだそうだ。
「ふふ、それにしても」
 服についた水滴を拭いながら、華琳は小さく笑う。
「北伐で忙殺されているとはいえ、将がほとんど赴かない。これが偽装だと知らなければ、魏はずいぶん薄情な集団だと思われているでしょうね」
「あー、たしかになあ。しかし、動かすわけにもいかないってのが実情だし……」
「蜀だって、桃香と鈴々だけでしょ。曹魏の主が赴くならば、十分じゃない?」
「それでも、呉の民の孫家へのあこがれはたいしたものだから。そのあたりは、蓮華に任せるしかないけれど」
 会話が途切れたところで、改めて馬車の中を見回すと、かなりゆったりと作られている。俺は華琳とは対面に座っているのだが、その間に卓を挟んでそれなりの距離がある。話すのに支障があるほどではないが、両側の人間が書類を広げられるくらいには広い。実際、詠は華琳の隣ですでに書類を広げてなにか読んでいる。
 四方に大きな窓があるのは明かり採りではない。明かりは天窓とそこからの反射で十分だからだ。空が暗い今日のような時は、ろうそくを灯すことで十分中は明るくなる。おそらくは、華琳が行列などで顔を見せなければならない必要からだろう。
 しかし、それらは全て金属の細かい網に覆われ、矢などが通らなくなっている。その上に鉄板入りの鎧戸を閉めれば、防御は完璧だ。
 さすがは真桜、よく考えられている。
「ところで、一刀。秋蘭と真桜を呼び戻す代わりに送る人間は選んだの?」
 普通の馬車とはまるで違う滑るような走り出しで馬車が動き始めると、華琳は四方の鎧戸を閉めるよう命じて、仕事の話を始める。
「ああ、呉には沮授、蜀には田豊かな、と考えているよ。あとは、荀攸を樊城に」
「樊城?」
 樊城は長江の支流、漢水流域の城郭だ。対岸の襄陽と並んで軍事上重要な拠点でもある。俺の世界の歴史で言えば、徐晃と関羽が対峙した土地として知る者も多いのではないだろうか。
「漢水を通じて、二国の大使の間の連絡を取ってもらうんだ。南方の情報全般もとりまとめて洛陽に送ってもらうことになるだろう」
 漢水は上流に漢中があり、その下流では長江に合流して建業まで通じている。そのどちらにも連絡が取れる樊城は理想的な場所だ。交易の要ともなる場所でもあり、一人、高級文官を置いておきたい場所のはずだ。
「ということは田豊は漢中……南鄭に置いたままにするのね?」
「漢中の問題が完全に解決するまでは、そうだ」
 華琳は、こつこつと卓を指で叩く。
「漢中はたしかに要所。成都で桃香たちの近くにいられないのは問題があるけれど、そこはより下級の人間を置くことで対処するしかないわね。もちろん、南鄭と成都の間の連絡はしっかりさせないといけないわ。でも、悪くはないかもね」
「ああ、そのあたりは紫苑たちとも折衝中だが、漢中の安定を睨んで、連絡を密に取ることについては同意を得られている」
「そう。じゃあ、荀攸は樊城の太守として、沮授と田豊はそれぞれの大使として派遣しましょう」
 華琳の決定を紙に書き留め、印をもらう。簡単な書き付けだが、華琳の印があれば、正式な命令文書となる。魏では、格式張った命令書も普通に通用しているが、こういった華琳自身のその時々の判断を示すものも通用する。柔軟な組織の証拠でもあるのだが、文書偽造を警戒して嫌がる者も中にはいる。
 ただ、これまで華琳の印を偽造しようとした例は一件しかない。その一件の犯人が、それはもう凄まじい処罰を下されただけに、以後そんなことを試そうとする人間が出なかったのだ。
「秋蘭はすでに帰還命令を出してあるし、真桜は私たちと一緒に戻すとして、三人の派遣を早めないとね。いえ、二人だったっけ?」
 印をしまいながら首をかしげる華琳。そのあまりにあどけない顔つきにどきりとさせられる。たまに、こうして普通に真剣な話をしている時やもっとどうということもない意外な時に、彼女の年齢にふさわしい表情を浮かべるのに、俺はたまらなく惹かれてしまう。
 その一方で、この表情を独占したいという浅ましい欲望が頭をもたげる己の心の狭量さが厭になったりするのだが。
「ああ、そうだね、田豊はすでに動いてるよ」
「いいでしょう。では、ちゃんとその三人を通じて呉と蜀との交渉などを実現させること。それで、洛陽のほうは一人ずつにするのね?」
「ああ、それで十分だと思うのだよな。ただ、やはり、ある程度の地位のある人間じゃないとまずいとは思う。呉は小蓮で問題ないだろうけど」
 それを聞いて、華琳は何事か考え込む。先ほどのように検討しているという様子ではなく、深く物事を考えている様だった。彼女がそうして考え始めると、膨大な関連事項にまで思考が及び、突拍子もない反応となって返ってくることもある。
「洛陽で各国の重臣が語り合えるという状況は、正直なところ私にとっては好ましいし、おそらくは桃香や蓮華にとっても悪くないことなのだけれど、やはり、問題もあるわね。我が曹魏の都でもあることよ」
 つまり、蓮華が以前言っていた問題に戻るわけだ。魏が一方的に重臣を人質に取っている、と。
 だが、洛陽は魏の都であると同時に漢の都でもあり、国中の情報や人が集まる地でもある。各国の人間が顔を合わせるにはもってこいの場所であることはたしかなのだ。
「いっそのこと遷都でもしたら?」
 それまで黙って他の作業をしていた詠が顔を上げないままに言う。
「遷都ですって?」
「うん、といっても、漢の都は洛陽のままにして、魏の都をもう少し北にするのよ。具体的には冀州に」
 ふふん、と鼻を鳴らして、華琳は先を促す。詠は相変わらず他の書き物をしながら、言葉を続けていた。
「北伐が成功すれば、いずれにせよ北方経営を考えないといけないでしょ。西は西涼に任せるとしても、東側は魏が面倒を見ないといけない。だったら、重心をあまり南にしておくのはよくないわ」
「それで業あたりに遷都しろと?」
「そうね、そのあたりでいいんじゃない?」
 業といえば、俺の世界では曹操が銅雀台を作った場所だったか。業から洛陽を遠隔支配することで、丞相の影響力と、漢の運営そのものを切り離したわけだ。
 俺は頭の中で、位置関係を思い返し、整理し直す。たしかに、現在は五胡の領土である場所を北伐で征服した際、洛陽というのはかなり南方に位置することになってしまう。しかし、その拠点としての重要性が下がるわけではない。そうなると、洛陽や長安といった昔ながらの都との連絡を保ちつつ、北方を睨むことの出来る場所が必要となってくるわけだが……。
「いっそ、都を三つ持つのはどうだろう?」
 ふと思いついたことを口にしてみる。
「三つ?」
「長安、洛陽、業、かな。このうち洛陽は漢の都のままでいい。魏の都として、長安を西都、業を東都とするんだ」
 それこそ、役割を分担してもいい。行政機構を担当する都と、司法、立法を担う都を別にしたっていいのだ。
「おもしろい案ね。でも、十年先の話ならともかく、大使をどうにかしようとする話で、それはだめ」
 華琳は笑いながらも、ぴしゃりと嗜めるように言う。やはり、思いつきだというのが読まれていたらしい。俺はしかたない、というように苦笑いを返してみせた。
「まあ、あとは蓮華と桃香と話し合ってみないと。あなたも建業で話してみなさい」
「了解」
 そうして、俺たちはいくつもの案件を話し合いながら、馬車に揺られていくのだった。


 目を覚ませば、心地いい柔らかさと、いい香り、それにとても懐かしい温もりに包まれていた。なんだか、安心するような、また眠りに戻りたくなるような。
「おはよう、一刀」
 上から声が降ってきて、そちらに顔を向ければ、ぼんやりとした視界の中に、見下ろす華琳の美しい顔がある。その華琳の顔に照らし出されるように、段々ともやが晴れてはっきりする視界と意識。
「ん……あ、あれ?」
 日数がかかる旅だから、俺たちはこの馬車の中で夜を過ごすことも多い。座席を簡易寝台として利用することはできるが、その場合、一列に一人で、二人しか眠れない。だから、たいていは俺が床で寝て、華琳と詠がそれぞれ座席を変形させた寝台で眠ることが多かった。ただ、時折、座った姿勢のまま眠ってしまうこともあった。
 今日は、そのどちらでもない。
 座ったままの華琳の膝の上に、倒れ込んでいる俺の体。
「華琳の膝で寝ちゃったのか。ごめん!」
 それを認識した途端、跳ね起きる。もちろん、華琳にぶつからないよう注意して。
「別に謝ることはないわよ。あなたはこの世で唯一、私の膝で眠れる男なのだから」
 こともなげに言われて、言葉に詰まる。さすがに痺れたのか、腿を揉んでいるのは見なかったことにしておいたほうがいいのだろうか。
「あー、えっと、ありがとう」
 昨日はかなり遅くまで三人で議論をして……そのまま意識を失ってしまったのか。膝枕をしてもらえるのは嬉しいけれど、あまり長時間は負担になってしまうから気をつけなきゃな。
 頭を振って意識をさらに鮮明にしようとしていると、大きく鼻を鳴らす音がした。
「膝どころか、触れられる男はこいつ一人、の間違いじゃないの」
 詠が怒ったような呆れたような顔でこちらを見ていた。彼女は座席をちゃんと寝台にして寝ていたらしい。掛け布を片付けているところだった。
「そうとも言うわね」
 まったく……とぶつぶつ愚痴を呟きながら、寝台を座席に戻す詠。今日はどうもご機嫌斜めだな。寝不足なのかもしれないけれど……。
 まずは水分だな、と作り付けの棚から竹筒を取り出す。ぬるい水だが、問題はないだろう。三人分の杯を出して、それぞれに注いで回る。
 その杯を取る手つきも荒々しい。なにか怒らせるようなことをしたろうか。あるいは、昨日意識を失う前になにか大事なことでも話していたか。
 困り顔になっていたのか、華琳がにやにやと笑いながら、体を近づけてくる。ぴったりと俺の腕にくっついて、耳元で囁かれる。
「ふふ、詠はね、自分の膝に倒れ込んでくれなかったので、拗ねているのよ」
 囁きと言っても、密閉された車内だ。耳ざとい詠には聞こえていた――あるいは華琳が聞かせていた――ようで、顔を真っ赤にする。
「な、ちがっ、莫迦言わないでよ。いくら、あんただからって言っていいことと悪いことが……」
 すっと腕から離れていく重み。華琳はふふんと小さく笑うと、詠に向けて言った。
「長いとは言わないけどそれなりに距離のある旅ですもの。まだ機会はあるわよ」
「だから、ボクはそんなこと望んでなーいっ」
 強い口調で反駁する詠の顔は相変わらず真っ赤だ。もう少し表情を隠す術を身につけたほうがいいのではないか、とも思うのだが、こんな詠を可愛いと思ってしまうのも事実だ。
 そして、こういう時は口を出したら泥沼だということがわかっている俺は、一人黙って水をすするのだった。
 そんなたわいないやりとりをしていると、馬車が動きを止めた。
「あら、止まったわね」
 それと共に、こんこん、と独特のリズムで扉が叩かれる。親衛隊の者が入室を求める際のノックの仕方を、ここでも使っているのだ。
 念のため覗き窓から外を見てみると、そこにいたのは俺も顔なじみの親衛隊の将校だった。華琳好みの美女だが、もちろん、いまは完全武装で、物々しい。
 華琳にその名を告げると、開けるように促される。
「なに?」
 扉を開けると、将校は跪き、主の言葉に応じる。
「偵察の兵から連絡がきまして、陳留から派遣された兵たちが、しばらくお供をしたいと、集まっているそうです」
「数は?」
「三千五百ほど」
 結構多いな。今回、連れてきているのは、親衛隊の中でも騎馬が五百、歩兵が千といったところだ。もちろん華琳の旅に同行するのだから、親衛隊の中でも精鋭。魏兵の中の最精鋭と言っていい。その行軍に、現地の兵がついてこられるものだろうか疑問もある。
 しかし、兵や現地の指揮官たちの気持ちを考えれば、無下に断るのも良策とは言えない。覇王として恐れられているとはいえ、華琳は自国内ではかなりの信望を集めてもいる。そんな彼女をほんの数日だけでも間近で護衛できたとなれば箔もつくし、名誉ともなる。士気を高めるためには悪くない手だった。
「物見遊山の旅ではないわ。きちんと行軍速度についてこられるならば同道を許可すると言いなさい」
「はっ」
「それでも、実際にはついてこられないでしょう。多少は手加減してやりなさいよね」
 その言葉に、彼女はにやりと笑う。
「わかっております」
 そうして、馬車は再び動き始めた。


 翌日、再び親衛隊将校が馬車の扉を叩くことになった。
「今日はなにかしら?」
「その……陳留の兵たちが、一生の記念に丞相の馬車を自分たちで護衛してみたいと……。注意はしたのですが、訊くだけ訊いてみてくれ、と申しまして」
「ふうん」
 華琳はそれを聞いて考え込む。さすがに、同道は許しても、直接の護衛を許してはいなかったのだが、それを望むとなると……。
「一刀はどう思う?」
「うーん。直衛の騎馬五百は残すとして、歩兵は先行偵察の任にあてて、今日一日だけ陳留の兵に護衛させてみるとか、かな」
「詠は?」
 そう訪ねた時の、華琳の瞳が鋭く光るのに、俺は気づく。詠を試しているのだろうか。詠の能力は華琳も十分知っていると思うのだけれど。
「ボク? まあ、こいつの案で基本的にはいいと思うけど、親衛隊は後ろに置いて、行軍速度を守らせるほうがいいんじゃないかしらね」
「ふむ」
 華琳は、馬車の前後を守る騎馬の兵たちの姿を見回すと、何事か納得したように頷いた。
「では、騎馬はこのままに。歩兵は後ろに下げて、代わりにその兵たちを入れてやりなさい。ただし、今日の夜までよ。夜間行軍はあなたたちに任せるわ」
「わかりました」
 そして、速やかにそのように事が進んだ。
 兵たちへの褒美として、四方の窓を開ける。矢避けの網がかかっている上に、騎兵たちの群れを隔ててだから直に華琳の姿が見えるわけもないが、やはり、締め切っているのとは印象が違うだろう。
「蓮華たちはもう建業についたかしらね?」
「だいぶ強行軍で行くって言ってたからな」
 蓮華と思春は、俺たちに先行すること十日。呉の十二万の兵を連れて、建業へ向かった。
 北伐のために集めた糧食はそのほとんどを魏軍に譲り渡し、ついてこられない兵は置き去りにする勢いで、彼女たちの軍は呉へととって返した。
 なにしろ、王の死去だ。
 国の事が心配でない兵など一人もいないだろう。もちろん、その意識レベルは、それぞれに違うだろうが……。万が一混乱が起きれば、苦労するのが庶人であることは間違いないのだ。
 それが偽装だと知っている蓮華と思春ですら、その後の国の統治などを考えると、焦燥にかられずにはいられなかったろう。
 だから、彼らは一日でも早く建業にたどり着くため、一心不乱に進軍したはずだ。
「まあ、こちらはそれほど急ぐ必要はないけれど」
「ああ、そうだな。とはいえ、北伐の軍を待たせているってのもあるからな」
 北伐の軍はすでに黄河を越え、あるいは、黄河を北上し、集結地へと向かっている。俺と華琳の帰還をもって、即時、進軍が開始される手筈になっているのだ。
 そんなことを話していると、ふと、俺は外で兵の動きが慌ただしいのに気づいた。騎兵たちがざわつき、馬車が止まる。
「あれ?」
「そうきょろきょろするものじゃないわよ、一刀」
 後ろの窓にへばりつくようにして外を見ていると、落ち着き払った華琳に注意される。詠も、迷惑そうにこちらを見ている。
「いや、でも、おかしいんだ。後ろと前でなにか……」
 眼を細めて観察していると、何かが陽光を反射するのに気づいた。鎧ではない、もっと別の金属のなにかだ。
 その正体に気づき、俺は声を上げる。
「やつら、剣を抜いている!」
 居並ぶ兵たちが、前も後ろも全て足を止め、剣を抜いていた。その剣の連なりが、太陽の光を反射してきらきらと輝いているのだった。
 それに対して騎馬の兵たちは戸惑っているようだったが、しっかりとそれぞれの槍を握って馬車の周りを固めるように動き出していた。
「落ち着きなさい、一刀」
「お、落ち着けって、華琳。これは……」
 謀反だぞ、と言いかけ、その言葉の重要さに、口にするのをためらう。
 だが――。
「謀反よね」
 あっさりと、詠に言われてしまった。呆然と彼女たちの顔を見比べる。なぜ、この二人はこうも穏やかでいられるのだ?
「落ち着きなさい」
 再び静かな声で繰り返され、席に戻る。
 たしかに、俺が慌てても仕方のない部分もあるのだが、それでも、やはり、なにかしなければ、この事態をなんとかしなければならないという衝動が体を突き動かそうとする。
「もし、三千五百が全て叛乱を企てているなら……」
「大丈夫でしょ、だって……」
 その声に応えるように、すい、と御者が立ち上がる。その体を包んでいた外套が投げ捨てられ、そこから現れたのは――。
「うちがおるからなあ!」
「霞!?」
 飛龍偃月刀を構えるその姿は、確かに、神速と謳われる張遼将軍に他ならなかった。


 そして、聞こえてくる悲鳴と、何かがぶつかり、粉砕される音。
 その音の出所――後方を見やれば、そこには、一本の道ができあがろうとしていた。
 血しぶきと、人の苦鳴と、肉と骨をまとめて切り裂く刃のうなる音。それらによって作り上げられた真っ直ぐな道が。
 兵たちの列を切り裂きながら、それは真っ赤な帯を描き出していく。肉はちぎれ、骨は断たれ、命は大地へ血と共に呑み込まれていく。
 そこを吹き抜けるのは、颶風。
 そして、その風は、方天画戟を持つ呂奉先の姿へと結実する。
「……恋も、いる」
「恋!」
 あまりの出来事に、しわぶき一つ漏れなかった。
 馬車を押し包もうとしていた兵たちは、勝利を確信していたのだろう。肉と血の塊に成りはてた同輩たちの骸を前に、ただ、呆然とするしかなかった。その動揺は前方の兵にも伝わったのか、剣を構えた兵たちは進むことを逡巡している。
 そして、どこに紛れていたのやら絶影にまたがった霞に指揮された騎兵たちは、その間に音もなく攻撃態勢を整えていた。よく見れば、騎兵には張遼隊の百人長たちが多くいるのだった。
「あはははは」
 嘲りを含んだ笑いがはじけた。長く、長く、尾を引くその笑いはあまりに恐ろしい。
 その笑い声をたてている人物の顔を、俺は唖然と見ているしかない。彼女は馬車から出ると、傲然と言い放った。
「我が策なれり!!」
 その姿――鬼謀の人、賈駆のそんな姿に眼を細めて、楽しそうに魏の覇王が微笑む。
「説明してもらうわよ、詠」
「うん、いいわよ。でも、いまは無理」
「わかっているわ」
 短い会話を交わして、詠は御者席にのぼり、しっかりと手綱を握る。
「霞、恋、思い切りやっちゃって! 馬車はボクが進める!」
「了解や」
「ん」
 その言葉を合図に、全てが動き始めたようだった。
 なかばやけっぱちな怒声が上がり、前後の兵たちが襲いかかってくる。前方を霞の率いる騎兵が斬り開き、後方を恋が守る。
 おそらくは、さらに後ろに位置する親衛隊も攻撃を仕掛けているだろう。
 そして、馬車が猛然たる勢いで走り出した。
「さあ、一刀。いま私たちに期待されているのは、せいぜいここで動かない事よ」
「あ、ああ……」
 そう言われ、手を握られる。その温もりに救われたような気分がして、俺は、周囲で行われる戦いがいい結果になってくれるよう祈る余裕を取り戻すのだった。


 叛乱兵たちを振り払い、亳州(はくしゅう※)にほど近い城塞の一つに走り込む頃には陽が中天に上りきっていた。亳州は陳留の西南にあたるが、華琳の故地で、ここが敵に寝返っていたなら、もう他に頼るところはないというほど信頼を寄せている土地だった。
 幸い、叛乱はこの地に及んでいないらしく、覇王の突然の来訪に城の人々は慌てふためいていた。
 そこで色々と対処をした後にようやく一息つき、詠の説明を受けることとなる。会議室に籠もるなどという贅沢は出来ず、城壁の上から兵たちを指揮しながらの会話だった。
「それで?」
「華琳自身が使った手よ。囮にさせてもらったわ」
 こともなげに言う詠に驚いてしまう。たしかに、かつて不穏な諸侯をあぶり出すために華琳自身がその身を囮としたことはあったが、いまの時点でそんなことを詠が計画しているとは思いも寄らなかった。しかも、詠自身が囮の一行に混じっているなんて。
「私に知らせずに?」
 華琳自身はそれほど気にした様子はない。自分を道具にされたと怒るほど度量が狭いとは思わないが、この落ち着き様はおかしい。あるいは気づいていたのだろうか?
「こんなこと、起きなければそれでいいと思ってたしね。その場合、知る必要はないでしょ。起きなかった謀反の話なんて」
 詠は肩をすくめて、横目で彼女を見つめる。
「それに、出発前から気づいていたんじゃないの?」
 しばらく黙っていたが、からからと華琳が笑うことで、その沈黙は途切れた。
「ええ。あなたはともかく、桂花は私に隠し事なんかできないしね。あの子の反応がおもしろくてあえて聞かないでおいたけど。それから、霞を御者にするのはやり過ぎだと思うわ」
「安全を考えるとそれしかなかったのよ。華雄や祭でも一緒だったでしょ?」
「まあね」
 ちなみに、華雄や祭たちは志願したもののくじ引きでふるい落とされたらしい。
「えっと、桂花も関わってるのか? もう少し詳しく話してもらえないかな」
「いいわよ。あんた、司馬氏を気にしていたわよね?」
「ああ」
 司馬氏……司馬懿か。その名前は、複雑な感情を引き起こす。この世界のこと、元の世界のこと、そして、あるべき歴史と、この世界から消えた理由と。
「ボクと桂花は、彼らを見張っていたの。司馬氏は、当主が処刑されたものの他の者たちは生きていて、勢力を――しかも洛陽から遠くない河内に――保っていたからね。その後、おとなしくしていれば別に問題はなかったんだけど、少々不穏な動きをし始めたの。そのきっかけは、許攸が彼らの元に転がり込んだことかしらね」
「許攸……麗羽を頼ったものの、洛陽には来なかったわね。まあ、あれは、麗羽とも私とも昔なじみで、今更私に降るというのを容認できなかったんでしょうけれど」
 俺の世界でも、袁紹、許攸、曹操というのは悪童仲間だったという話があったな。こちらでもそうらしい。
 ということは、許攸も女性だろうな。
 いや、華琳さんに詠さん、なんで揃って睨むのですか。何も不埒なことは考えていませんよ。
「許攸の手引きによって、もう一つ要素が加わる。あんたを批判した孔融が、密かに司馬氏と結んだのよ」
 孔融か……。俺を批判した話はたしかに聞いたが、それは特に華琳や曹魏に抗するというのではなく、これまでの権威や秩序を重視しろ、という保守的な発想に過ぎなかったはずだ。
 俺や華琳からすれば少々うっとうしくはあるが、けして一方的に間違っていると糾弾できるほどのものではない。
 だが、不満を持つ者を集め、徒党を組み始めたとなれば問題が出てくる。まして、こんな叛乱を起こすとは……。
「それでも表だって反抗するのでなければ、放っておいてもよかったんだけどね」
 華琳はその言葉に、にぃと笑みを深くした。彼女は、地を這うような低い声で質す。
「本当?」
「……多少、誘導したことは否定しないけど」
 ばつが悪そうに呟く詠。
 ……追い込みをかけたんだな、こりゃ。
 しかし、それでも。
「でも、そもそも芽がなければ、花開きもしないものでしょ」
「そうね。この機会に動いてしまったのが、彼らの愚かさね」
「北伐の軍が動き始めれば、中原の兵力は極端に減る。そうなれば華琳を討てる、と思ってしまったわけか」
「愚か者はどこまでいっても愚か者よ」
 だが、そう言い捨てる華琳は少し寂しげでもあった。他の者がその表情を読み取れることはないだろうけれど。
「ところで、うまく嵌めたのはいいけれど、叛乱が起きたと、洛陽にどう伝えるの? まさか大量の軍を伏せているわけでもないでしょう?」
「うん、それはないわ。正真正銘いまある兵力は、連れてきた親衛隊と、ここの守備兵三千だけ」
「それじゃあ……」
 そこで、さっきまで兵たちにみなの旗――紺碧の張旗、深紅の呂旗、丸に十文字、そして、なにより曹の牙門旗――を立たせていた恋が、すっと近づいて、話しかけてきた。
「……大丈夫」
「え?」
「鳩さん飛ばした」
 どうやら、伝書鳩を連れてきていたらしい。恋によると、洛陽にいるねねのところに帰るようにしつけられているのだそうだ。
 『もう二羽いる』とのことなので、なにかあれば、簡単な文書を送ることができるわけだ。
 それでも、軍が洛陽を発して、この砦に至るまでは数日かかるだろう。その間は保たせる事を考えなければならない。
「いま帰ったでー」
 ちょうどそこに、偵察に出ていた霞が軽い足取りで城壁への階段を上ってくる。
「展開している兵力は?」
 俺たちは眼下の大地を見下ろす。そこにはいまのところ軍の姿はないが、遙か彼方に砂塵が舞っている。大軍が近づいている証拠だ。
「約二万五千ってとこやな。伏兵はないと思うけど、わからんな」
 さらっと言い放つ霞。なんと、こちらの兵力の五倍以上だ。親衛隊は、さすがの精兵で、先ほどの敵中突破でもほとんど数を減らしていないが、この砦の守備兵を合わせても四千五百足らずに過ぎない。
 援軍を待つにしても少々分が悪い。
「ふうん、では、陳留の兵というのは偽装ね。あそこまで掌握していたなら、もっと兵がいるでしょう」
 ああ、そうか。
 華琳の言葉で俺は気づいた。陳留は魏の旧都だけに、それなりの兵が配備されている。
 もし、そこが奪われ支配されていたとしたら、さらなる数が動員されていたことだろう。
「陳留の兵を装って暗殺した後、他の勢力を糾合しながら洛陽を攻める予定だったんでしょ。陳留を引きずり込む気だったか、罪をなすりつけて攻める気だったか」
「孔融たちの性格からすると後者ね。許攸が幼なじみだとか言い立てて、大きな顔をする予定だったに違いないわ」
 大きな状況の分析を終えたところで、詠が霞のほうを向く。
「霞、伏兵がないと判断した要因ってあるの?」
「魏の正規兵の鎧着てるんと、賊丸出しのかっこしとるんが混じっとる。寄せ集めやったら、伏兵なんておかれへんやろ」
「鎧を着てるのも、本当に正規兵なのか、怪しいところだな」
 孔融や司馬氏がいかに勢力を誇っていても、魏の正規兵をどれだけ動員できるかというと疑問だ。叛乱なんて賭けにのるのは、もっと追い詰められた者がやることだからだ。
 ただ、何も知らされず動かされ、巻き込まれ、もう逃れようのない兵も混じってはいるだろうが……。
「でも、元々魏の兵だったのが、戦後解雇されて傭兵になっている例は多いから、油断はできないか」
「そうね。警戒はしてもしきれない。詠、ここの兵は?」
「北伐でだいぶ動員されたから、魏の標準より少し下回るくらいね。郷士軍の標準くらいかしら」
 郷里の英雄である曹操への忠誠だけは親衛隊なみだけどね、と詠は付け加える。
「ちなみに、籠城するだけの水、食料、武器の蓄えはあるって」
「そう。じゃあ、もう一度城を回って、それらを確認するのと、守備兵を千人ごとにまとめて、庭に整列させるの、お願いできる?」
「わかったわ」
 詠が城の中に消え、その間に華琳は小さな紙に何かを書き付けている。流琉へ当てた書状だろう。恋に言って鳩を出してもらい、手紙を足にくくりつける。
 そうして鳩を放すと、二度、三度城の上でゆっくりと円を描いた後、西北の方向――洛陽へと飛び去っていった。
「霞、あの騎兵は親衛隊じゃないわね。張遼隊?」
「せや。百人長が二十人おる」
「あらあら、派手な話」
 親衛隊の騎兵は、魏の中でも飛び抜けて優秀な兵だ。だが、それでさえ張遼隊の一騎当千の騎兵たちにはかなわない。しかも、五百人の兵の中に、百人隊を統括する百人長が二十人もいるとは。
 北伐の軍のほうが心配になってしまうのだが、霞のことだから、そのあたりは大丈夫なのだろう、きっと。
「ああ、そうだ、一刀」
 思い出したように呼びかけられる。
「ん?」
「いまは霞と恋の指揮権をもらうわよ。いちいちあなたを経由している暇がないわ」
 それもそうだ。形式面を重視すれば、華琳は霞たちに直接命令できない。しかし、戦場でそんな悠長なことを言っていられるわけもない。
「ああ、そうだな。霞、恋、いいな?」
「そりゃあ、かまへんで」
「ご主人様がいいならいい」
 つい先日まで華琳の部下だった霞はもちろん、恋もこっくりと頷いてくれる。
「じゃあ、そうしてくれ」
 そうして、俺たちは敵兵たちが近づいてくるのを見やる。万を超える軍勢が、城壁の向こうを進軍してくる。
「昔を思い出さない?」
「ああ、思い出すな」
 かつては、あそこにいたのは玄徳さんの軍だった。今回は、主将は司馬昭、もしくは司馬烽たりだろうか。あるいは、孔融が直接出てきているかもしれない。
「あの時のように、ひっぱたく?」
「いまはそんな必要はないだろう? さて、今度は誰が一番乗りかな」
 とはいっても、大半の将が北伐のため出払っている。守将の流琉というのが妥当なところだろう。雪蓮か美羽がわがままを言わなければ、だが。
「ふふ。助けがくることに疑問すら抱かなくなったのね。さすがだわ、一刀。それでこそ、我が横に立つ男」
 頼もしげに微笑まれると、なんだか照れてしまう。
「あの時は、まっしろになった……」
 ぼそりと呟いたのは恋。ああ、そういやあ、あの時は……。
「恋は寄せ手にいたのよね」
「今回は、敵に恋いない。こっちに霞もいる。余計負けない」
 それを聞くと、華琳は大きな声で笑った。その澄んだ笑い声が空に広がっていく。恋が、隣で不思議そうに小首をかしげていた。
「ええ、恋。そうね。負けないわ。私たちは負けない」
 そこで、詠が戻ってきた。見れば、中庭にはずらりと兵が整列している。
「兵を揃えたわよ」
「よし」
 華琳は息を吸い、顔を引き締める。それは、曹孟徳という覇王の顔。
「呂布!」
「……ん」
「親衛隊千をもって、戦場を攪乱せよ。ただひたすらに弱いところを斬りまくれ。無理と思えば下がり、進めると思えば進め。将の首にはこだわるな。ただ、乱せ」
「……わかった。でも、恋、下がらない」
 その答えに、彼女は満足そうに頷く。
「ええ、それでいいわ」
 次に、彼女は霞に向き直る。
「張遼!」
「応っ」
「呂布の混乱を利せる時をはかり、麾下の五百の騎兵で本陣を突け。貫けなくて構わぬ。ただ、脅かせればよい」
「おうさ。せやけど、うちも首の一つや二つ取らせてもらうで」
 にやりと獰猛な笑みを見せる霞の姿は、すっかり戦時のものに戻っている。俺は、ここ二年ほど見てきた霞の姿が、半ば呆けたものであったのを強く意識せざるをえなかった。
「まったく、頼もしいばかりね。でも、誤解しないで。あくまで、今回は一揉みして、相手の気組みを崩すのが目的よ。いまは、数を恃んでこちらを圧倒せんばかりの気勢だけど、所詮は寄せ集め。一度崩れれば、脆いわ」
「それで相手を混乱させ、恋や霞の力で萎縮させるのか。もう一回まとめ上げるまで時を稼ぎ、援軍を待つのが狙い?」
「ええ、そういうこと」
 おそらく、霞と恋の暴れぶりを見れば、相手の軍は慎重になる。慎重で済めば問題はないが、相手の軍にとっては不幸なことに、恋と霞はとてつもない。おそらくは兵たちは縮みあがってしまうだろう。
 そして、籠城戦は辛く苦しいものだが、腰の引けた相手ならば、苦労は減る。
「賈駆。城の防備は任せた。私と北郷は、守備兵のうち二千を率い、出陣する」
「ここでまで自分を囮にするの? まあ、士気を考えればそれもありでしょうけど。危なくなったらさっさと退くのよ」
 詠は高揚感のまるでない普段通りの声で答える。緊張していないはずもないのだが、このあたりはさすがと言えよう。
「言うわね、詠」
「ボクはあんたの指揮下に入ってないもの」
「あはは。そうだったわ、すっかり忘れていたわ。ごめんなさい」
 こちらは本当に愉快そうに言う華琳。戦を前に、その行動の一つ一つが生き生きとしていた。ああ、やはり彼女は覇王なのだ。
「一刀」
 ついに俺への指令だ。俺はゆっくりと頷いた。
「背中を預けるわ。だから、退く時はあなたが決めなさい。私はそれまで前に出続けるから」
「了解。ちゃんと時機を見させてもらうよ」
 危険を察知するのなら得意だ。
 なにしろ、俺は弱いから。
「さあ、行きましょう。聖人の子孫とやらに、覇王の武を見せつけてやるのよ」
 親衛隊の将校や守備兵の隊長を呼び、霞や恋、それに華琳自身が一連の指示を下す。彼らがそれぞれの部署に駆け戻るのを見届けてから、華琳は城壁を進み、中庭を傲然と見下ろした。
「武器をっ!」
 その声に、親衛隊の一人が絶を捧げ持ち、走り寄ってくる。彼女はそれを受け取ってまっすぐ前に構えると、声を張り上げた。
「我が愛しき兵たちよ。戦乱の世は過ぎ、いまや我らは手を携えて外へと向かう時代へと足を踏み入れた。
 なれど、それを是とせず、未だに漢土の中で乱を起こさんとする者たちがいる。変化を嫌い、ただ、己の権益のみを追い求める者がいる。
 三国の秩序を嫌い、これに刃向かうというならばそれもよし。我と覇を競わんとするならばそれもまたよし。なれど、その愚かな行為には、それ相応の代償が伴うことを、やつらは知らねばならぬ。
 時を止め、あわよくば戦乱の時代へと巻き戻さんとする者たちを、我らは駆逐せねばならぬ。思い出せ、黄巾の乱以来、我らが失った友を、良人を、親を、子を!」
 おおおおおおおおおおおお――!
 地を震わせんばかりの喊声が、兵たちの間からわき起こる。
 その声を慈母のごとき微笑みで包み込み、もう一度、彼女は大きく息を吸い込む。
「我が兵(つわもの)どもよ、その一振りが時代を築くと思え。その一歩が時代を進めると思え。
 我らは立ち止まってはならない。それが、魏の兵のさだめと知れ。
 さあ、進め、新時代の礎となる誇りを胸に。
 打ち砕け、平和の時を汚す者たちへの憎しみをもって」
 華琳は絶を振り上げる。その腕が振り下ろされる時が、彼女の戦の始まる時だ。
「出陣!」
 覇王の号令をもって、戦が始まった。


              (第二部 北伐の巻 第十回 了・第二部『望郷』完)

※亳州は唐代以降の名で、この時代は言焦(しょう)が正しいが、文字コードの関係で、この名で呼んでいる。


 〜幕間〜


 こんこん、と扉の横の添え木を叩く音がする。
 ついに来たか。俺は身構えた。
 だが、制止の声をかける前に月がとことこと扉に向かい、かんぬきを開けてしまう。
 そこにいたのは凪、真桜、沙和という、懐かしき北郷隊の三人。
「たいちょ、おやつ持ってきたでー」
「お邪魔します」
「やっほー」
 この三人なら特に問題はないだろうと招き入れてみれば、真桜の手には、言葉の通り、白っぽいお菓子のようなものが山盛りの器があった。
 おや、なにか見覚えがあるような……。
「こないだ聞いたポン菓子。つくってみたんよ。どやろ?」
 少し説明しただけで、ポン菓子を作ってしまったのか。さすがは真桜だ。何倍にもふくらんだ米にきつね色の焦げが出来て、香ばしい香りを溢れさせている。
 その食欲を刺激する香りに抵抗できず、俺は思わず立ち上がって、彼女のほうへ向かっていった。
「そういや、さっきから外でたまに爆発音が聞こえたと思ってたら、これだったのか」
 手を伸ばすと、それをすり抜けるように、ととと、と近づいてきた詠が、ひょいっ、ぱくっ、とポン菓子を口に入れてしまう。
「ふーん、米をふくらませて、味付けしてるのね」
 その行動に呆気にとられていた真桜だったが、一瞬不機嫌そうな顔になった後、にやにや笑いを顔にへばりつかせた。
「さすが、お抱え軍師殿。愛しのたいちょが手を着けるものは、全部自分で毒味するってわけや」
「な、ば、莫迦言ってんじゃないわよ。毒味っていうなら月のためであって……」
 顔を真っ赤にしてしどろもどろに言い訳する詠と、こちらも怒りからか顔を赤くした真桜は真っ向から睨み合う。
「詠ちゃん、気にしないのー。真桜ちゃんは最初に隊長に食べてもらえなくて拗ねてるだけなのー」
「……沙和。あんたなあ……」
「こら、二人とも。騒いでないで、とにかく座ろう」
 きゃいきゃいと騒いでいる同輩たちを見て、いつも真面目な凪が注意をする。月がにこにこして見守っているのとは対照的だ。
 それでも収まろうとしない三人に、凪の静かな怒りが溜まり始めたのを見て、慌てて口を挟む。
「まあ、ともかく、みんなでいただこうよ」
 言いながら、ジェスチャーでなんとかみなに凪のほうを見るよう促す。真桜たちもそれで凪の様子に気づいたのか、素直に卓に着きはじめる。
 凪は一人、うんうんと頷いている。今回は、なんとか爆発せずに済んだらしい。
「そうね、断らずに食べたのはボクが悪かったわ、真桜」
「あー、そうはっきり謝られるとなんとも言えへんねんけど、ま、ええわ。みなで食べよか」
「お茶、淹れますね」
 そうして、月がいつもの美味しいお茶を淹れてくれて、俺たちはみなで大量のポン菓子をぱくつく。
「何をお話しだったんですか?」
 元からいた三人の前にはすでにお茶があったことから、話をしていたのだろうと推察をしたらしい凪が訊ねてくる。
「あー、まあ、なんというか」
「たいちょが天子様になったらどないするか、っちゅう話やろ?」
 言いよどんでいる俺に、真桜はずばりだ。まるでもう規定事項のように語る真桜の、なんでもないことを話しているかのような表情に、なぜか俺は妙な安心を覚える。
「残念ながら、そこまでいってないわ」
 詠がふん、と大きく鼻を鳴らす。
「こいつったら、まるでわかってないんだもの。しかたないから、こいつが戻ってからの出来事を反芻して、もう一度覚悟を決めてもらっていたところよ」
「ほほう」
 部屋中の視線が俺に集まる。そこに込められたいくつもの感情に、俺はなんとも言えない熱を感じる。
 それは、けして嫌な気分ではなかった。
「まあ、覚悟なんて何度もして、何度もくじけて、また思い出すくらいでいいんだけどね。一度で全て決められるほど心の強い人間なんて、この世のどこにもいないわ」
 軽い口調で言う詠の言葉は、けして軽く聞き流していい言葉ではない。彼女の言うとおり、何度もくじけて、何度も思い出せばいいのだ。
 その度に、きっと、前を向けるから。
「それで、いまはいつの話をしてたのー?」
「孔融・司馬氏の乱の頃よ」
 あー、とそれぞれにみなが感慨を持った息を吐く。
「ちょうどいいわ。その後の出来事に関してはあんたたちから見た視点も交えて話していきましょ。そのほうが、こいつもより思い出せるはずだし」
「おもしろそー」
「今日は時間がありますし、以前起きた事例を分析するのはためになると思います」
「うちとか建業におったしな。こっちの人たちの話も聞いてみたいわ」
 そういうことになった。
 そうして再び俺は、詠が主導する過去の話の中に意識を沈めていくのだった。



                             (第三部 郷路編に続く)

第三部『郷路』予告


 ――魏の誇る弓将は、敵兵の矢にたおれる。
「ふっ。姉妹揃って矢にやられるとは。注意力散漫かな?」
「命に別状はないわ。でも……」
「やつらを見つけ出し、三族をことごとく誅戮せよ!」


 ――北方の辺境で、四世三公の戦が始まる。
「よろしいこと? 我が袁家の戦は、日々進歩しておりますのよ」
「し、進歩ですかあ」
「華麗に、優雅に、そして、豪快かつ堅実に!」
「け、堅実。麗羽様が堅実って!」


 ――歴史に残る、瀚海大返し。
「駆けよ、駆けよ。今日の一里が明日の千里と思え!」
「飯は走りながら食らえ! 眠るならば、手綱を持って眠れ!」
「輜重隊は、水と食料を渡したなら、即刻退却せよ。一刻が国を失う時と知れ!」
「いま、曹丞相を失うは、漢土を失うと同じ。みな、苦しいのはわかるが耐えてくれ!」


 ――理想と現実。未来と過去。
「たしかに、益州に限れば、蜀を保ち続けることは可能です」
「けれど、桃香様の理想をなすためならば……」
「我らは、勇気を持たねばならないのかもしれません」
「たとえ、それが蛮勇でも、か?」


 ――突然の裏切り。
「あら、残念。鈴々、愛紗はね、いまは私の部下なの」
「愛紗、愛紗ーーーーっ」
「曹操っ、これにて義理は果たした。おさらばっ!!」
 千里の道を踏み越えて、彼女は真の主の下へと戻っていく。


 ――明日を作り出す者たち
「のう、七乃。妾たちは、こうしていてよいのかや?」
「蜂蜜作り、飽きちゃいました?」
「いや、なんぞ、みな戦をしておるからのう」
「あらあら、袁術ちゃん。周りを気にするようになるとはえらい成長ね」
「からかうな、雪蓮。だが、これでよいのですよ。攻むるが役の者もおれば、待つが仕事の者もいる。我らはいまは腰を下ろし、育む時なれば」


 ――人々の求めるものとはなにか。
「みんなー、愛してるーっ」
「ね、でも、これっていいのかなあ」
「華琳様のご命令だし、いいんじゃない?」
「私たちの歌姫としての仕事は一段落した。いまは、あの人の力になる時。ずっと支えてくれたあの人の……」



 いけいけぼくらの北郷帝第三部『郷路』 二〇〇九年十二月開始予定


 そして――


「祭、砕け」
「漢に仕えて二十年! 偏将軍黄蓋、いま、訣別つかまつる!」
「人がつくったものをありがたがって、なにが天子か。なにが皇帝か。俺は、新しき世を作ろう」


 いけいけぼくらの北郷帝第四部『故郷』にて、全編完結予定

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