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706 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/10/09(金) 20:50:40 ID:ueQ7mUFn0
up板に、短いですが、五十皇家列伝を三回分まとめてupしてみました。
URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0422

◎注意事項
・あくまで『いけいけぼくらの北郷帝』のおまけです。
・『北郷朝五十皇家列伝』は読まなくても本編を読む上ではなんら支障がありません。また、妄想
(暴走)成分が過多です。お気をつけください。

☆★告知事項★☆
次回の『いけいけぼくらの北郷帝』第二部北伐の巻第九回は、10/11の日曜日、夜10時以降のupと
なります。
どうぞご了承ください。

あげた後で考えてみたら、この程度だったら、スレに直に張るべきだったと反省。
まあ、もうあげちゃったのでお許しあれ。
そういうわけで、本編は明日ではなく明後日です。



北郷朝五十皇家列伝


○黄家の項抜粋

『黄忠にはじまる黄家は、厳家、魏家と共に航海皇家として知られる皇家であり、最も進出した皇家の一つでもある。
 その航海の様子は……(中略)……
 文家の影響によってヨーロッパ各地は緊張状態にあり、また、ローマ帝国の影響力は急激に減衰し始めていた。そのため、厳家によるアイルランド島上陸、黄家によるブリテン島上陸は──悪天候による遅延はあったものの──組織的な抵抗にあうことはなく、両家は協力しあうことで、順調に拠点を築いていくことができた。
 当時、ローマが撤退した後のブリテンには、七王国といわれる諸王国が割拠していた。
 もちろんこれは複数の諸部族、諸国家を七つの国家に代表させたもので、実際にはその倍を超える部族、国家が乱立していたと考えられている。
 ちなみに、世間では一般的に、古ブリテンの七つの州は七王国に由来するとされているが、実態は逆であり、七王国こそが七つの州にちなんでの命名である。
 さて、黄家もまた、この七王国と呼ばれる群雄たちの一つとして争い、時に結び、百年ほどの時を経て、最終的な統一へと導いていくことと……(中略)……
 ところで、ここに面白い説がある。
 すなわち、伝説のアーサー王は実在し、黄家以外の七王国──特にキリスト教を受容していた部族及び国家を統一して、黄家と争ったというのだ。
 荒唐無稽に聞こえる話ではあるが、実際に、アーサー王のモデルとなったと思われる家系自体は存在している。その血脈は天使の血を引くといわれ、その始祖は、ちょうど北郷朝が成立した三世紀初頭頃に現れた、龍王の呼び名を持つ英傑であった。
 そして、その家系の一人、あるいは幾人かの尽力によって、キリスト教系部族・国家による、黄家大包囲網を成立させたらしいことも判明している。これによって、黄家はブリテン上陸以来の危機に瀕した。
 しかし、この連合は黄家打倒を果たす前に、ケルト系キリスト教とローマ系キリスト教の教義的対立から分裂し、一足早くアイルランドを統一していた厳家による北部ブリテン沿岸急襲により完全に瓦解したと思われる。
 この包囲網の破綻による分裂と混乱は黄家を利した。これが黄家による統一成功の直接のきっかけであったかどうかは今後の研究次第ではあるが、ブリテン統一へ向けての一歩であったことは間違いないであろう。
 この意味で、たしかにアーサー王は存在し、ブリテンの統一を促進したと言える。ただ、皮肉にもそれは彼、あるいは彼女、もしくは彼らが目指したキリスト教集団による大同団結によるものではなく、遅れてやってきた黄家による統一を招くものであった。
 この混乱に伴うキリスト教各教派への失望と諦観は、後の張家によるキリスト教諸国家に対する進撃に際して、ブリテンの民が参加するのに必要な素地を作り出し……(後略)』


○諸葛家の項抜粋

『諸葛家は諸葛亮にはじまる皇家である。
 初代諸葛亮は稀代の軍略家にして発明家として有名であり、その子孫もまた政治家、武将として期待され、それに適うだけの実績を残した家系である。
 だが、唯一、魏家とは確執があり、ぶつかることが多かった。南袁家による皇家間の調停で、回数が最も多いのは諸葛家と魏家の間の問題であったことがそれを端的に示している。
 この確執の原因は明らかにされておらず、いまだに謎である。一方の当事者である魏家では、公式に『そもそも我が家系においては、これらの因縁のはじまりについての伝承は存在しない』という発表を行っているほどであり、もはや当初の不和の要因は忘れ去られていると考えたほうが……(中略)……
 時代が下ると、諸葛家は帝国本土を離れ、西進を始める。既に中黄帝国(道天家)、玄真帝国(道地家)、第三ローマ帝国(張家)が成立していたため、諸葛家の一族はこれらの帝国で重要な役割を演じつつ、最終的にキプロスに拠った。
 キプロスにおける中継交易で富と力を蓄えた諸葛家は、北アフリカ沿岸に力を及ぼそうとした。このこと自体は、責められることではない。とはいえ、これが、諸葛家の歴史に拭いがたい汚点を残すこととなった。
 彼らにとって選択肢はいくつかあった。イランの地から地中海の入り口までを治める玄真帝国、その北方で東ローマを吸収し、さらに強大化した第三ローマ帝国。エジプトの西に拠点を持つ、魏家。
 しかしながら、玄真帝国と第三ローマ帝国はその強大さからして、共に影響力を伸ばす相手としてはふさわしくなかった。諸葛家自体の功績が埋もれてしまうことは明らかだったからだ。残されていたのは魏家であったが、そこで、諸葛家は選択を誤った。長年の不和は、魏家と手を組むことを考慮することすら許さなかったのだ。事実、彼らがこの時期、魏家に対してなんらかの接触をもった形跡は、一切ない。
 そして、諸葛家はなんとエジプトのキリスト教政権と手を結び、魏家の勢力範囲を攻撃した。魏家はこれにより北アフリカの拠点を失い、その中核勢力はフランク王国の一部を征服して築いた小規模な植民地へ逃亡することとなった。なお、帝国は、この事件以後、ついにアフリカの地に拠点を持つことはなかった。
 このことをきっかけに、第十七代恵帝は帝位を降りる。そして、引退した恵帝は、なんとも驚くべきことに、自ら軍を率いて諸葛家を討つために西方へと進撃したのである。
 南蛮王家の支配地、道三家の支配する中黄、玄真両帝国、張皇家のアナトリアを経て、ひたすらに『先帝軍』は駆けに駆け、なんと五年をかけてキプロスにたどり着き、地中海及びその沿岸にエジプト軍と共に展開する諸葛家を討った。北郷十字を高々と掲げた先帝軍に、諸葛家の軍はほとんど抵抗することもなく膝を屈したという。
 この事件以降、皇家同士の大規模な争いは起こらなかった。これを考えると、この恵帝の軍事行動は……(後略)』


○道三家の項抜粋 その二

『(前略)……先にみた通り、北郷朝において道教がその勢力を伸ばしたのは、北郷朝そのものと協力関係を築き、太祖太帝をその最高神として祭り上げたからであった。しかし、それだけでは道教は地域宗教に過ぎず、今日のように世界宗教に飛躍することはなかったであろう。
 道教の発展に関しては、仏教及びそれに影響を受けたマニ教の台頭に対抗するために急速に組織化が行われ、それと同時に道人家の神学者たちによって、学問的な研究が進められたことが大きい。
 しかしながら、それらの理論的な部分に加えて、道教が持つ根本的な熱狂こそが、人々を惹きつけたのだ、という説も根強い。
 たとえば、世に名高い黄巾の乱を引き起こしたのは現在の道教に直接つながるものではないものの、系統を同じくする太平道であり、漢中において強力な支配体制を敷いた五斗米道も、また、道教の一種であった。
 これらの例に加えて、道三家が広めた道教には、一つの特徴があった。
 それが、大踊狂現象である。
 踊狂現象とは、文字通り民衆が躍り狂い、練り歩き、ひたすらに熱狂し、行進するものであった。それは、人々の日頃の鬱屈の発露であり、常は意識下で眠っている血の滾りであり、壮大なる祭りである。
 諸外国で言えば、日本における『おかげまいり』『ええじゃないか』がこれに該る。
 道教でのこの発露の端緒は、黄巾の乱にこそ求められるという説もあるが、やはり、玄武の大西進をして、その起こりと見るのが妥当なところだろう。
 玄武の大西進は、蜀漢行幸において漢中決戦が起きようとしていた時、道三姉妹によって火をつけられた。彼らは当初、太祖太帝に味方するために武裝して漢中に向かっていたが、途中からその熱情は暴走し、ついに全てを捨てさって、奇声をあげつつ躍り狂う大躍狂現象を引き起こした。
 既に勝負の決した漢中を通り越し、北上を始めた民衆は、金城を過ぎ、張掖を過ぎ、酒泉を過ぎても、いまだにその熱を絶やさなかった。踊り疲れればそこらで眠り、腹が減れば近くの商家を襲って作物をそこら中にまきちらした。太祖太帝の軍が漢中よりとって返して、彼らを囲み、食糧を配給しはじめなければ、さらなる混乱と破壊を引き起こしたことだろう。
 そのはた迷惑な狂騒の渦は、玉門関に至って最高潮に達した。
 数十万の民衆は、その勢いもそのまま、玉門関を打ち壊したのである。この暴挙を、太祖太帝幕下のほとんどの将たちは止めようとしたが、ただ二人、太祖太帝と曹操のみが、手を打って笑い転げたといわれている。
 ここに漢土と西方はついに融合をみたとも評される行為だが、しかし、これは明らかな暴発で……(中略)……
 このような民衆の中に隠れた凶暴とも思える力を引き出し、それを形にすることが、道三家の道教の一つの魅力として……(後略)』

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