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512 名前:名無しさん@初回限定[sage] 投稿日:2009/08/24(月) 02:48:18 ID:+3Gi+J3x0
魏個別EDその2です
相変わらず長編の合間にちまちま書いてました
このシリーズは他に秋蘭と桂花もネタが浮かんでるのでその内賈駆と思います
まあ桂花は小ネタな感じですが

http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0396



(……頼りなさそう……)
 それが北郷一刀と言う青年から受けた、凪の第一印象だった。
 義勇軍として黄巾党から街を守って戦ったその功績を認められ、英傑として名高い曹操
に召抱えられた。
 弱者が虐げられる今の時代に憤りを感じていた彼女は、万民に平穏を与えると言う大望
を掲げて乱世に名乗りを上げた曹孟徳と言う人物に対し強い憧憬を抱いていた。
 その感情は実際に言葉を交わし、その高潔な人格に触れる事で尊崇へと昇華した。
 命を懸けて仕えるに足る人物だと思った。
 それだけに武勇においても知略においても取るに足らないように思える凡庸な男の部下
として配属された時、凪の心には深い落胆があった。
「結構格好良いのー」
「まあ人は良さそうやな」
 同じく曹魏の将として取り立てられた沙和と真桜は、これから自分達の上司となる青年
に対してそんな気楽な感想を述べていた。
 だが他に生き甲斐のある彼女達に比べ、ひたすら肉体の鍛錬と武技の習熟に時を費やし
てきた凪にとって、戦働きこそが己の成果を発揮できる場との思いがあった。
 これが魏武の象徴とも謳われる夏侯姉妹──剛勇無双の夏侯惇と知勇兼備の夏侯淵のど
ちらか、或いは王佐の才との呼び声高い軍師荀ケの部下として配されたのなら只の一兵卒
であっても喜んで働けただろう。
 しかし実際に与えられた職務は凡夫の下で街の警備兵だった。
 無論街の治安を守る仕事が大切である事は重々理解しているし、その任務にも誇りを抱
いている。
 だからと言って戦いでは凪自身はおろか沙和にも遠く及ばないであろう惰弱な、しかも
魏の種馬などと言うふしだらな異名を持つ男──これは桂花が教えてくれた──の部下な
どと納得できるものではなかった。
 もっとも生真面目な凪の事、一度任務を与えられたなら不満は一切表に出さず、粛々と
こなしていくのだったが。
 兎も角、彼女の一刀に対する印象はすこぶる悪かったのだ。
 それが変化を見せ始めたのは共に警備に就くようになって数日目の事だった。
「待てっ!」
 凪が男を追って駆け出した。
 最近街を騒がせている窃盗団の一員と目されている男だった。
 小柄で腕っ節は左程強そうにも見えないが、足が速く小回りも利くため巧みに人ごみを
掻き分けて走るので流石の凪も中々追いつけずに居た。
「クッ、このままでは……。仕方ない、ここは気弾で──」
「わーっ!待て待て!こんな通りで気をぶっ放したら民間人にも被害が出るだろ!」
 業を煮やした凪が蹴りの構えを取るのを、一刀が慌てて止める。
「しかしこのままでは逃げられてしまいます!今奴を捕まえられれば、窃盗団の他の面子
も芋づる式に捕らえる事が出来るでしょう。ここは多少の被害に目を瞑ってでも……」
「そんな事しなくても大丈夫だから!兎に角見てろって!」
 そう言って懐から小さな竹の筒を取り出し唇にあてがう。
 そして一刀は思い切り頬を膨らませた。
「……笛?」
 その次の瞬間──
『ぴりりりりぃぃぃぃぃ────っ!!』
 凪の推測を裏付けるように甲高い音が辺りに鳴り響いた。
『ぴぃぃぃぃ、ぴぴぴぃぃぃぃぃっ!!』
『ぴーぴりりり、ぴぃぃぃ────っ!!』
 それを皮切りに各所で笛の音が次々と上がる。
 しかもそれは微妙に調子が違っていた。
 やがて一際高い音が鳴り響いたかと思うと、それらが一斉に止んだ。
「どうやら捕まえたみたいだな」
「え!?」
「ほら、行くぞ」
「あっ……」
 一刀が凪の手を取って走り出した。
 一瞬その感触に身体を強張らせた凪だったが、結局そのまま一刀に手を預けて走った。
 暫く街中を駆けると、数人の兵士が先程の男を押さえつけているのが目に入った。
「よ。お疲れさん」
「隊長、お疲れ様であります!」
「いやあ、隊長の考案された呼子作戦は実に効果的ですね」
「これで今月の犯罪者検挙は四人目ですよ」
 兵士達が次々に一刀を褒め称える。
 持ち上げられた一刀が照れくさそうに笑った。
「皆が頑張ってくれてるからだって。それにしてももう四人か。この街も大分治安が良く
なったと思ってたけど、まだまだ悪い事をする奴は居るんだな」
「その為にも我々がもっと頑張らなくてはなりませんね」
「全くだよな。それじゃそいつは何時もの様に牢に入れておいてくれ。その後は他の班に
引継ぎをして、今日はもう上がって良いよ」
「ハッ!ありがとうございます!」
 兵士達は一刀に敬礼をすると、犯人を引き連れてその場を立ち去った。
 一刀はその後姿を見送ると、凪の方へと振り返った。
「な?周りに被害なんて出さなくても収まっただろ?」
「は、はい!それで先程のあれは……?」
「ああ、あれは警備兵の各班に呼子を持たせて何かあったらそれを鳴らす事で離れた仲間
と連絡を取り合えるようにしたんだよ。音の調子を幾つか変えて、それを合図として相手
に指示をするんだよ」
「それを隊長が考えられたのですか?」
「んー、まあ、俺が考えたと言うより、俺の世界に元々あった方法なんだけどね」
「ですが、そのお陰で罪を犯した者を効果的に捕らえられるようになったんですよね?」
「ウチの隊員は優秀だからな。呼子の合図もすぐに覚えてくれたし、治安が良くなったの
は本当に皆の力だよ」
 それは謙遜ではなく、本心で言っているように凪には思えた。
 自らの権勢を強める為に、部下の手柄を吸い上げ、己の失態は他人に押し付け、権謀術
数を味方の足を引っ張る事にのみ用いるような輩が多い今の時代に、一刀の様に他人の手
柄を素直に認めて喜べる人間は、凪の目にはとても新鮮に映った。
(この方は信じられる人かも知れない)
 凪は一刀を見ている内に、そんな風に考えている自分に気付いた。
 以後の凪は一刀の命に忠実に従い、洛陽警備隊の中核となっていく。
 
 黄巾の乱に始まった戦乱は大陸全土を飲み込み、天下の覇権を狙う数多の群雄が名乗り
を上げては時代の流れの中に消えていった。
 献帝を擁し一時は天下に号令を掛けるまでに至った暴虐の魔王董卓。
 北方の異民族との戦いで名を馳せた幽州の雄公孫賛。
 名門の血を引き皇帝を僭称した袁術。
 そして強大な戦力と豊富な資金を武器に河北四州を制し、天下に最も近いと謳われた北
の最大勢力袁紹。
 その袁紹の本拠地だった冀州の州都南皮に一刀と凪の姿があった。
 陳留や許昌で成果を上げた治安態勢をここ南皮でも定着させるべく一時派遣されたのだ。
「うーん、流石に北方はまだ肌寒いな」
「そうですね。でも先程桃の花が咲いているのを見ましたし、これからは少しずつ暖かく
なっていきますよ」 
 身を竦める一刀に向かって、凪がそう笑い掛ける。
「まあそれでも今日はちょっと冷える方だと思いますが──あ!」
 辺りを見回していた凪が声を上げた。
「隊長、見て下さい。雪ですよ」
「え、マジ!?そりゃ冷える筈だよな。けどこんな天気が良いのに雪なんて……」
 言いながら一刀も空を見上げる。
 確かに白い物がひらひらと舞い落ちていた。
 しかしそれらは地面に辿り着く前に風に溶けて消える。
「ん?なんだ、風花か」
「風花?」
「ああ。高い山の頂上とかに積もった雪が風で麓まで運ばれて来る現象だよ。春先とかに
時々見られるんだ。近くにまだ雪の残る山があるんだろうな」
「へぇ、隊長って意外と物知りなんですね」
 凪が感心した様に目を丸くする。
「意外とは無いだろ」
「あ、い、いえ、深い意味は……。す、すいません!」
「……ぷっ」
 慌てた様子でペコペコ頭を下げる凪の姿がおかしく、一刀が思わず吹き出した。
「冗談だって。沙和や真桜ならともかく、凪が他意を持って言ったなんて思ってないよ」
 一刀が笑いながらくしゃくしゃと頭を撫でると、ホッとしたような照れ臭そうな、そん
な表情を凪が浮かべた。
「まあこの話は俺の通ってた学校の先生にそう言うの好きな人が居てね。その受け売りさ」
「がっこう……ですか?」
「ほら、前に桂花が私塾みたいの開いて子供達に勉強教えてただろ?俺の国ではああいう
のを国家が請け負って全ての国民に義務として受けさせるって言う制度があるんだよ」
「全ての民に学問を、ですか」
「そ。前に華琳にも話したら前向きに検討してみるような事を言ってたな。重臣の中には
庶人が知識を蓄えると為政者にとって不都合が起こりかねないって反対してる人もいるみ
たいだけど、アイツは市井の中から才能のある人間が見つかるかも知れないからやってみ
る価値はあるだろうって」
「なるほど。確かに一理あると思います。自分達も平民から取り立てて頂いた身分ですし」
「そうだったな。あとは季衣や流琉も似た様なものかな?けど今は立派に魏の将軍として
頑張ってる。華琳の身分に囚われずその人の本質を見極めて採用することが出来るって言
う所は本当に凄いと思うよ」
 凪は一刀の言葉に頷きながらも、彼が心から華琳を愛し尊敬しているのだと言う事を感
じ、胸に微かな疼きを覚えていた。
 無論凪自身も既に幾度となく身体を重ねた間柄ではあるし、そんな時は一刀が自分を心
から大切に想ってくれているのだと言う事を実感している。
 しかしそれでも華琳に対するそれは他の娘達への物と比べて違うのだと感じた。
(仕方が無いんだ。華琳様は隊長にとって誰より掛け替えの無いお方だし、おそらく隊長
の事を一番理解しているのも華琳様なのだから)
 そう自分を納得させる。
(でも今隊長の隣に居るのは私だけ。だから、今は、今この時だけ──)
 思い切って一刀に身体を寄せた。
 それはほんの少しの距離ではあったが、互いの心まで近づいた様に思えた。
 そしておそらく一刀も同じ様に感じていたのだろう。
 さりげなく凪の手を取り、そのまま二人は手を繋いで歩き続けた。
 穏やかな空気が二人の間をゆったりと流れる。
 凪はこの幸せな時間が何処までも続くと、そう信じていた。
 
「──と、言う事で沙和はこれからは兵の調練に重点を置く事。まあ華琳が天下を統一す
れば兵士の数も徐々に減らせるだろうし、大変なのは暫くの間だけだと思うからなんとか
頑張ってやってくれ。警備隊の方は凪が隊長で真桜が副隊長な」
「ウチは凪の部下になるっちゅう事か」
「形式上はそうなるかな?真面目な凪なら俺よりもよっぽろ上手く隊長を務めてくれるだ
ろうし、真桜は色々な器具の開発とかもして貰わないとならないからな」
「確かにそやな。正直警備隊も外れて発明に専念したいくらいやで最近の忙しさは」
 真桜がわざとらしく肩を叩きながらぼやく。
「ま、お前達の後輩が育ってくれれば徐々にそう言う形にも持っていけるだろうな。郭淮
とか満寵辺りは結構優秀だしある程度は任せても良いんじゃないか?でも流石に始めから
色んな事をさせるのは無理だろうから、どっちにしても今は我慢して貰うしかないよ」
「あー……やっぱそやろねぇ……」
「でもあの子達ならすぐにやれるようになるのー」
「それで諸々の手順はさっき言った様に──って凪?おい、凪!」
「……え?あ、あ、は、はい!」
 先程から一言も発せず、何やら考え込んでいた凪だったが、一刀が強い口調で呼ぶと、
ハッとした表情で慌てて返事を返した。
「どうしたんだよ、ぼうっとして?今大事な説明してるとこなんだから、ちゃんと聞いて
おいてくれないと困るぞ」
「す、すみません……」
「どしたのー、凪ちゃん?」
「どこぞ具合でも悪いんちゃうか、自分?」
 沙和と真桜が心配そうに様子を窺う。
「大丈夫だ。何でもない」
「おいおい、気分が悪いんなら無理しない方が良いぞ。何だか顔色も良くないし」
 一刀も気遣わしげに訊いたが、凪は黙って首を横に振るだけだった。
「うーん、まあ本人が大丈夫だって言うんなら続けるけど、本当に無理はするなよ?」
「はい、申し訳ありません」
 俯いてそう答える凪を気にしながらも、一刀は仕事の説明を続けた。
 そしてその間、凪は一度も口を開く事が無かった。
「──とまあ、こんな感じかな。あと何か訊きたい事はあるか?」
「んーん」
「大丈夫なのー」
「…………」
「よし、じゃあこれから頼むな」
 一刀が会議の終わりを告げると、真桜と沙和はそれぞれ自分の持ち場に戻って行った。
 しかし凪だけが何故かその場を動かない。
「凪、どうしたんだ?やっぱり何か質問があったのか?」
 一刀が尋ねると、凪は口を開き掛けたが、思い直したようにまた口を噤んでしまった。
 そんな事を何度か繰り返す。
 それは言おうかどうか迷っていると言うよりも、どう言葉にして良いか分からない、と
言った様子に見えた。
 そんな彼女を一刀は辛抱強く待つ。
 やがて思い切ったように口を開いた。
「隊長。隊長は何処へ行かれるおつもりなんですか!?」
「…………え?」
「先程の引継ぎの話、あれは隊長がこの国を去るおつもりなのではないですか!?」
 凪が怒ったような顔で一刀に詰め寄る。
「先日警備兵の一人から妙な話を聞きました。これから先は私の命令をよく聞いて、この
街をしっかり守っていってくれ、と隊長から言い含められたとの事です」
「い、いや、それは……た、隊長が代わるんだから新隊長の言う事を聞くのは当然だろ?」
「では何故、華琳様の覇業達成が目前であると言うこの時期に、このように急な引継ぎを
するのですか?」
「それはほら、この先俺も他の仕事が忙しくなるからさ。今の内に色々と根回しを……」
「他の、仕事?」
「そうそう」
「……天下が統一されれば、武官の働きの場は少なくなります。勿論全く無くなる訳では
ありませんが、少なくとも武技に通じているわけでもない隊長をわざわざそちらへ就かせ
る必要があるとは思えません。治世に関しては新しい発想をもたらすと言う利点はありま
すが、細かい調整や法の制定等は桂花様達が中心となるでしょうから隊長のする事等それ
ほど無いでしょう。では隊長が警備隊を辞めてまで専念する仕事とは何ですか?」
「何って……あ、ほら、天和達の事とか──」
「嘘です」
 一刀の言葉を最後まで聞く事無く、凪が断言する。
「張三姉妹の事なら、この間風様に宜しく頼むとお願いしていたのを見掛けました。あの
時は警備隊の仕事に専念してくれるものと思っていたのですが、こちらも辞めると言う事
は隊長が魏を去ろうとしているとしか考えられません!」
 普段無口が凪が、凄い剣幕で捲くし立てた。
 その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
 そんな凪の顔を暫く見返していた一刀だったが、やがて小さく息を吐くと一刀は諦めた
様に肩をすくめた。
「そこまでお見通しなんじゃ仕方ないな」
「や、やっぱり……!」
 凪が信じられないものを見たように目を丸くする。
「あ、だけど別にこの国を離れたいと思ってるわけじゃないぞ?寧ろ出来ることならずっ
とこの国で華琳やお前等と一緒に暮らして行きたいと思ってる」
「では何故……?」
「どうやらこの世界が俺を追い出したがってるみたいなんだよな」
「世界が?どう言う事なんですか?」
「うん、それはな──」
 そして一刀はかつて人評家の許子将から言われた言葉とその意味を話して聞かせた。
「あの時は単に華琳の言う事に従って生きろって意味かと思ってたんだけどな。でも俺は
流れに逆らってこの大陸の歴史を大きく変えちまった。多分このまま留まれるって可能性
は低いだろうな」
「そ、そんな……。では隊長は何時からその事に気づいていたのですか?」
「んー、定軍山で秋蘭を助けるように進言した時に倒れただろ?あの時に変だな、とは感
じてたんだよ。確信したのは赤壁の戦いに向かう頃かな。俺が華琳の為になるような言葉
を口にするたびに具合が悪くなるんだから、いくら俺が鈍いって言っても気付くさ」
「じゃあ隊長はこの世界に居られなくなる事を承知の上で、華琳様に赤壁を勝たせたと言
うのですか!?」
「まあ、そう言う事になるかな」
「ど、どうして……?」
「当たり前だろ?華琳の悲願を叶える為さ」
「!」
 凪は悟ってしまった。
 一刀にとって曹孟徳という名の少女がどれほど大切な存在であるのかを。
 彼はこの世界における自分の存在そのものを秤に掛けてなお、華琳の覇業達成と言う道
を選んだのだ。
 凪の双眸にみるみる涙が盛り上がり、やがてそれは滂沱の如く流れ落ちた。
 たまらず一刀の胸にしがみ付く。
「た、隊長……あなたと、言う人は……ほ、本当に……馬鹿、です……」
 嗚咽交じりの言葉が漏れた。
「悪い」
 短い謝罪を口にする。
 これほどまでに自分を想ってくれる相手が居ながら、それでも一刀は華琳の志を叶える
と言う道を選んでしまった。
 そこに後悔等は一片も無い。
 しかし今自分の為に無く凪に対し、一刀は他に掛ける言葉が見つからなかった。
「う、う……わあああぁぁぁぁぁっ!!」
 自分の胸で号泣する少女を、一刀はただ抱きしめ続けるのだった。
 
 煌々たる銀月の下、一組の男女が立っていた。
 遠くからは陽気な歌声と賑やかな歓声が聞こえている。
 大陸全土を呑み込んでいた長き戦乱が終わりを告げた日。
 誰もが訪れた平和を喜び、敵だった者同士が肩を並べて杯を交わしている。
 しかし二人の間に流れる空気は、そんな喜びに満ち溢れたものとは程遠いものだった。
 それは愛しさ。
 それは哀しみ。
 それは覚悟。
 誰より強く互いを愛し、それでも忌避すること叶わぬ別れを前にした切ない想い。
 二人は今まさに最後の刻を迎えているのだった。
 女は偉大な覇業を成し遂げた大陸の覇王曹孟徳。
 男は異なる時を越えて訪れた異邦者北郷一刀。
 共に乱世に終止符を打った立役者達である。
 そして凪は離れた場所で二人の姿を見つめていた。
「……帰るの?」
 何かを堪える様に抑えた声で華琳がポツリと訊いた。
「さてな。……自分では分からないよ」
「!?」
 答える一刀の姿に凪が息を呑む。
 彼の身体は淡い光を放ち、徐々にその色を薄らげていた。
(隊長!)
 一刀の名を叫び、彼の元に駆け寄りたい衝動に駆られる。
 だが一片の理性がそれを押し止めた。
 愛する男と敬愛する主君の最後の一時、それを邪魔する事は許されない。
 だからせめて彼がこの世界から消える最後の一瞬までその姿を目に焼き付けよう。
 涙で歪む視界の中、凪は必死に一刀の姿を追う。
「けれど、私は後悔していないわ。私は私の欲しいものを求めて……歩むべき道を歩んだ
だけ。誰に恥じることも、悔いることもしない」
「……ああ。それでいい」
「一刀。あなたは?後悔していない?」
「してたら、定軍山や赤壁の事を話したりしないよ。それに、前にに華琳も言っただろ?
役目を果たして死ねた人間は誇らしいって」
 自らの行いに胸を張ってそう言える二人が羨ましい。
 それほどまでに誇り高い二人だからこそ、ここまで惹かれ合ったのだろう。
 自分が二人の間に割り込める人間ではないと改めて思う。
(それでも……それでも自分は隊長を愛しています!)
「どうしても……逝くの?」
 既に一刀の身体は向こう側の景色が見えるほどに透き通っていた。
(隊長……!隊長、隊長!!)
 今にも走り出してしまいそうな足を必死に抑え付け、両手で口を覆って想いが溢れそう
になるのを懸命に堪える。
 瞬きする間すら惜しんで、ただ去り逝く一刀を見つめ続けた。
「……逝かないで」
 初めて華琳が懇願するような言葉を漏らした。
「ごめんよ……華琳」
 一刀が困った様に微笑んだ。
 その姿が揺らいだ。
 華琳の願いですら彼をこの世界に留める事は叶わないのか。
 彼をこの地に遣わしながら、今自分達の下から奪おうとする天を恨めしくさえ思う。
 だが凪に出来るのはひたすら彼の姿を瞳に映し続ける事だけだった。
 そして──
「さよなら……愛していたよ、華琳──」
 彼女達の心に消える事のない想いを残し、一刀の身体が風に溶けた。
「──────!!」
 思わず手を伸ばし、声にならない叫びを上げる。
 ガクガクと震える膝が地面に付いた。
「よう我慢したな」
「!?……ま……お……?」
 突然掛けられた声に驚いて振り向くと、そこには優しく彼女を見下ろす真桜と沙和の姿
があった。
「凪ちゃん偉かったのー」
「さ……わ……」
「もう我慢せんでええんやで」
「沙和達だって凪ちゃんと同じなのー。だから凪ちゃんの気持ちはよく分かるのー」
「せや。ウチらかて隊長の事はホンマに好きやったんやから」
 よく見ると二人の目尻にも光る物が浮かんでいた。
「ま、真桜……さ、沙和……」
「凪ちゃん、泣こ?今は思いっきり泣いて、明日からまた笑うのー」
「そんで何時か隊長が戻ってきよったら、今日の恨み言を思いっきりぶつけたるんや」
 友の言葉に、抑えていたものが遂に溢れた。
「あ……ああ……あああぁぁぁ!!隊長!隊長!!隊長────!!」
 凪は声の限り叫んだ。
 何度も何度も一刀の名を呼んだ。
「たいちょぉぉぉ!!うわああぁぁぁん!!」
「ぐしっ……ぐすっ……たいちょ……えぐっ……」
 沙和も真桜も一刀を呼んだ。
 しかし答えてくれる一刀は、もう彼女達の前には居なかった。
 静寂な川のほとりに泣きじゃくる四人の声だけが響いていた。
 
 一刀が居なくなって数年が経った。
 幾度目かの春が訪れ、凪は久し振りに南皮を訪れていた。
 この街の警備隊長が呉に治安維持の指導で派遣される事が決まり、後任人事を決める為
の訪問だった。
 但し彼女は一人ではなかった。
「こら、琳。一人で勝手に走り回るんじゃない」
 物珍しげに辺りを見て回る、幼い少女を凪が注意する。
「はーい」
 返事こそ良いものの、その目は見慣れぬ景色に惹き付けられたままだった。
 やがて凪の注意などすっかり忘れたように、三つ網に伸ばした銀髪を揺らしながら辺り
をちょこまかと動き回る。
 その姿に凪は小さな溜息を吐いた。
 そんな二人の容姿はとてもよく似ていた。
 当然である。
 少女の名前は楽琳。
 凪の娘である。
 無論父親は一刀だった。
 一刀が去ってから暫くして、凪は自分が身篭っている事を知った。
 魏の種馬などと呼ばれ、華琳を始め数々の女性と浮名を流した一刀だったが、子を生し
たのは凪只一人だった。
 その為一時期華琳がその子を自分が引き取り、魏の後継者として育てたいと申し出たが、
凪はそれをきっぱりと断り、警備隊長の任務の傍ら子育てに勤しんでいたのだ。
「!母様、雪!」
 ちらちらと舞う白い物を見つけ、楽琳がはしゃいだ声を上げる。
 言われて凪も空を見上げた。
「……ああ、これは風花だ」
「風花……?雪じゃないの?」
「似たようなものではあるんだがな──」
 以前一刀に教わった事を思い出し、凪は娘に聞かせてやった。
「ふーん」
 しかし娘の方は既に上の空で、ただ不思議な自然の業に見入っていた。
「あ!あれ捕まえれそう!」
 今までより低い場所まで落ちてきていた風花を見つけ、楽琳が走り出した。
「あ、こら、琳!」
 慌てて凪が後を追う。
「危ないから走るなと──」
 言い掛けたところで案の定、楽琳が通行人の男にぶつかった。
「ひゃっ!?」
 反動で尻餅を付き添うになる少女を、その男が咄嗟に抱き支えた。
「ほら、言わん事ではないだろう。──申し訳ありません。私はその子の母親で楽進……
と……」
 謝罪の言葉を述べる凪がその男の顔を見て目を丸くする。
 身体が硬直し、呼吸すら忘れたかのように微動だにしない。
「久し振りだな、凪。それにしてもこの子は凪の子供だったのか。確かにそっくりだよな」
「あ……あ……」
 固まったままの母親に代わり、楽琳がぺちりと男の顔を叩いた。
「母様の真名を勝手に呼んじゃ、メッ!」
 ぷぅっと頬を膨らませる。
「……い、良いんだ……。その人は……その人はお前の、父様なんだから……!」
「……ふぇ?」
 ようやく口を開いた母親と、目の前の男を見比べ彼女は首を傾げた。
「あ、もしかしたらと思ったけど、やっぱり俺の子供だったのか」
「あ……当たり前……です。私が……あなた以外の、誰に身を……任せると……」
 言葉がそこで再び途切れた。
 視界が歪んだ。
 みるみる涙が溢れ落ちる。
「凪、ただいま」
 その男──一刀が凪に笑いかけた。
 その顔を見た途端、全ての想いが弾けた。
 彼の最も逢いたい人が自分では無くても良い。
 ただ今だけはこの想いの全てを受け止めて欲しい。
 万感の想いを込め、凪は懐かしいその名を呼んだ。
「隊長────っ!!」

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