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280 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/08/15(土) 23:00:31 ID:H5pFdkED0
いけいけぼくらの北郷帝第二部北伐の巻第一回をお送りします。
といっても、北伐自体の開始はだいぶ先ですが。
さて、今回はセックスシーンはありますが、果たしてエロいかどうかは怪しいところです。
シーンのよさと、エロさをどこまで追求するかって難しいものですね。

☆★☆注意事項☆★☆
・魏ルートアフターの設定です。また、その後、変遷を経ていますので、読まれる前に、第一部、
第二部江東の巻をご覧いただけると幸いです。
・エロあり。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、知り合うシチュエーション等が異なるため、原作中と
相違があります。
・(現状では)恋姫キャラ以外の歴史上の人物等の名前は出るものの、セリフはありません。
・物語の進行上、一刀の性的アグレッシブさは、真より上になっています。これでも無印ほどでは
ないと思います。
・『北郷朝五十皇家列伝』は読まなくても本編を読む上ではなんら支障がありません。また、妄想
(暴走)成分が過多です。お気をつけください。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。専用up板のほうに、13州の地図
をはってあります。作中での州の位置の確認などに使えるかと思います。
URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0379

ようやく蜀軍の方々が出せました。
それでも、まだ数人が……。彼女たちは後で大きな見せ場がありますので、ご期待ください。
しかし、まあ、五十人ものキャラクターを扱うのは大変ですね。
では、また来週お会いしましょう。



いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第一回



「怪談話?」
 長江を遡行しはじめてからしばらく経ったころ、思春がそんな話を持ってきた。
「ああ、水兵たちが、船底で唸り声と闇に燃える目を何度か目撃しているらしい」
「燃える目……ねえ」
 うさんくさそうに鼻を鳴らす詠。現実的な彼女にしてみれば、そんなもの信じられないといったところか。怖がることを予想してか、月たちはここにはいない。
「まあ、戯れ言と断じてもよいのだが……」
「俺たちの耳に入れるってことはなにか懸念が?」
「何者かが存在しているのではないかという疑念がある。食糧が、減っているのだ」
 声を低めて、思春が言う。
「ねずみの仕業じゃないの?」
「もちろん、ねずみはいるだろう。あやつらは、どこにでもいるからな。だが、少々量がおかしい」
 船に慣れた思春が言うのなら、それはそうなのだろう。実際にどれくらいがねずみなどの被害にあうものか、俺にはよくわからない。
「ふーむ」
「もちろん、両者に関係がないことも考えられる。食糧は誰かが着服していることもありえるからな」
「でも、誰かがいたとしたら、暗殺者……にしてはいままでまるで動いてないのはおかしいか。とすると単なる密航者? そんなのいるの?」
 だいたい、それなら船員に紛れた方が楽じゃないのかしら、とかぶつぶつ何事か考え始める詠。
「わからん。それはこれから調べる。だが、いずれにせよ、注意しておいてくれ」
「うん、そうだな」
「特に北郷」
「え?」
 急に名指しされて驚いてしまう。
「暗がりで女を抱いて、化け物と間違われぬよう注意することだな」
「そんなことしないよ!」
 思春だって知っているくせに。俺は外で女性を抱いたりしないぞ。そういうのが刺激になる女の子以外は。
「そうねー、気をつけるべきねー」
 まるで抑揚のない平板な声で思春に同意する詠の氷点下の視線を受けながら、俺は思わず頭を抱えてしまうのだった。


 怪談騒動は、あっさりと解決した。
 夏口──北を流れる漢水が南を流れる長江に合流するあたり──まであと一日足らずというあたりで、本人がひょっこり顔を出したのである。
「しゃ、シャオ!?」
「周々まで、いままでどうやって隠れていたのやら……」
 緊急に魏、呉の幹部勢が集められた席上で、俺たちは白虎を引き連れた孫呉の末の姫君の姿に、そんな感想を漏らす。
「ふっふーん。明命直伝の穏形の術だもんねー」
 胸を張って自慢げに言うシャオに、がうがう、と周々が同意の声を鳴らす。
「小蓮一人ならともかく、こんなに大きな周々まで兵の目に入らぬとは……私は、兵たちをしかるべきか? 思春」
 もはやあきれ顔の姉姫は、厳しい声で腹心に問い掛ける。
「それは……。恐ろしいことに、夜闇に紛れて、船団の他の船に乗り換えたりもしておられたようですし……」
「しかし、なぜ、今頃出てきたんだ?」
「んー、兵の引き締めが厳しくなって、そろそろ食糧調達が難しくなるなー、って思って」
 俺の問い掛けに、シャオは平然とした顔で答えてくれる。
「それに、夏口についたら、成都にいくのと漢中にいくので、船団が分かれるでしょ。どれに乗ってたらいいかわからなくなったら困るからねー」
 皺を寄せすぎて痛いのか、眉間を揉むようにしている蓮華が、そんな呑気なシャオの話を切り裂くように問いかけを発する。
「穏形に長けているのはわかった。だが、一体なんのつもりだ、小蓮」
「シャオも一刀と一緒に洛陽に行くの! あ、もちろん周々も一緒にね!」
 間髪入れず、愉しげに返したシャオの言葉に、皆の視線が俺に突き刺さる。
「……北郷?」
 代表して、蓮華が訊ねてくる。蓮華さん、怒りのあまり、呼び方が戻ってますよ。
「いや、俺は知らないぞ。こら、シャオ。勝手にそんなこと決めたらだめだろう。シャオは一国のお姫さまなんだから」
「ふん、シャオは孫呉の姫だけど、一刀のお妃様だもん。妻は夫のいるところについていくものなんだもーん」
 当然のように言い放つ言葉に、部屋の空気が凍りつく。視線が痛いのならまだしも、首筋には思春の重そうな大刀があてられて、命の危機さえ感じる。
「あの、とりあえず、建業に連絡とか……」
「そうね、いきなり姿を消してるんだから、本国では大騒ぎかもしれないわよ。まずは急使をたてないと」
 重苦しい空気を振り払うようにわたわたと言う月に詠が同意する。たしかに彼女の言う通り、雪蓮にまずは連絡せねばなるまい。思春の大刀は蓮華が合図して下げられた。
 でも、いま、チッって舌打ちしましたよね、舌打ち。
 聞こえるようにそれをするってのは、警告してくれてるってことなんだろうけど。たしかに、蓮華の我慢がどれほど続くのか怪しいところだ。
「シャオ、ちゃんと書き置きしてきたよ!」
 その言葉に、思春が少しほっとした顔をする。本当に書き置きをしてきているのなら、多少の騒ぎにはなっても国を挙げての大捜索などにはなっていないだろう。
「なんにしても、建業と連絡は取るべきだろう。で、どうする。夏口で船を仕立てて送り返すか?」
 華雄の問いに、ぶーと頬を膨らませるシャオ。恋は、周々に飛び掛かられて遊んでいる。
「そうね、思春、船と兵はどうかしら?」
「夏口の兵をつかうしかありますまい。蜀や魏に通達した人数より極端に数を減らしますと、外交上問題が生じる恐れもあります。船は……船団のものを使わないなら、調達に時間がかかる可能性もありますが……」
 シャオも孫呉の姫君。そこらの商船や小舟は、格式よりも警備の問題で選べない。軍船を出させるとなれば、いかに蓮華といえど現地司令官と折衝をしなければなるまい。といってあまり時間をかけるわけにもいかない。成都への到着日程は多少の余裕は設けられているとはいえ、しっかり決められているのだから。
「シャオは洛陽に行くんだってばー!」
「黙れ、尚香!」
 びりびりと空気が震える。剣などぬいていないのに、痛みすら感じさせるその裂帛の気合いに、周々がぺたりと頭を床につけてしまう。
「お前は本国にあり、国王たる雪蓮姉様を補佐する立場であろう。そのようにわがままが通ると思うてか! いい加減にしろ!」
「だって……だって……」
 シャオの瞳に涙が盛り上がる。あ、まずい、これは泣く。
 そして、泣いてしまえば本質的な解決から余計に遠ざかる。
「と、とりあえずさ、夏口で雪蓮に連絡の使者をたてるとして、シャオはその返事が来るまで漢中に同道しもらうってのはどうかな?」
「漢中だと?」
「うん、成都に滞在する期間は三国の取り決めで七日間って決まってるし、返事を待つなら漢中の方がいいだろ。あそこからなら魏の兵がいるから、呉の兵を割いて送り返しても、雪蓮から派遣されるのを待っても問題ない。それに、西のほうはシャオはみたことないだろ。これを機会に見知ってもらって帰るほうがいいんじゃない? 雪蓮が夏口に急を知らせていて、そこで引き渡す手筈が出来ているような場合は別だけどね」
 腕を組み、考え込む蓮華。本人としてははやいところ都に送り返したいところだろうが、国の重鎮としては、外交儀礼を重視しないわけにもいかない。
「夏口で時間をとられるよりはまし……か。思春、漢中までの一人と一匹の食糧、都合つけてやって」
「はっ」
「月、詠、恋。すまんが、我らが成都に赴いている間、妹のこと、頼むな」
「はい、わかりました」
 頭を下げる蓮華に、月がぺこりと返礼する。シャオは俺に走り寄ると、腕をとってぶら下がるように抱きついてきた。
「さっすが一刀、やっさしー」
「いや、優しいわけじゃない。俺は、なるべく旅程に影響が出ないように配慮しただけだ。シャオ」
 できる限り厳しい声で言うと、衝撃を受けたように固まるシャオ。
「今回は勝手が過ぎる。蓮華がいなくなって、雪蓮の負担が増えるのはわかっていたはずだろ。それでも出てくるなら、せめて、雪蓮に許しを得るべきだったよ。まして、俺の妃と言ってくれるなら、余計に考えるべきだった」
「だって……」
「シャオ」
 鋭く彼女の名を呼ぶ。姉である蓮華も、そして、他の人々も、じっと彼女のことを見つめていた。
「ごめん……ごめんなさい……」
 うつむいて、彼女は小さな声で謝罪の言葉を口にする。彼女に見えないように、蓮華が俺に頷いてくる。
「よし」
 わしゃわしゃと彼女の頭をなでる。
「本当にすまんな、蓮華」
「仕方あるまい。禍を転じて福と為し、敗に因りて功と為すという。シャオには今回のことで、充分学んでもらうしかあるまい。」
 うー、と泣きそうなのをなんとか我慢しているシャオに、そっと耳打ちする。
「追いかけてきてくれたのは嬉しかったよ」
 それで、ぱぁっと晴れる顔にようやく安心して、俺たちは皆で笑いあうのだった。


「ふぅ……」
 蜀への表敬訪問一日目の夜、俺は城壁で一人座り込み、夜の成都を眺めていた。正確にはどこかに華雄がいるはずだが、一人になりたいのをわかってくれたか、姿を現さずに護衛してくれている。
「どうした、溜め息などついて。酔い潰されたか?」
 聞き慣れた、けれど、最近は聞いていなかった声が聞こえる。ふんわりと漂う香りも懐かしい。
「秋蘭」
 振り向く前に、するりと横に腰を下ろす秋蘭。
「まあ、少し酔ってるけど、それほどでもないよ。昔よりはだいぶ慣れた。いまもあるけど、飲む?」
 もたれかかるでもなく、といってただの同僚というには近すぎる距離で、彼女は俺と肩を並べている。なんとなくそのことが嬉しかった。
「いや、それは遠慮する。しかし、酒は体質もあるからな、下戸だと辛かったところだな。それで?」
「んー、俺、嫌われてるのかなあ、って」
「ほう?」
 興味深そうに秋蘭の瞳が輝く。
「なんか、一部の人に避けられている感じがあって」
「敵意でもあるか?」
「そういうはっきりしたものじゃないんだ。なんというか、疎外感というのかな」
 俺自身も説明するのは難しい。そもそも今回の表敬訪問は、呉の一行──つまりは蓮華が主役なのであって、俺は彼女たちの魏への案内役として蜀に逗留している。だから、蜀の首脳部の人達が、公式にそれほど歓待しないというのは理解できる。
 だが、宴の席ではお互いに友誼を深めようとするのが常ではないだろうか。なにしろ、それぞれの国は離れている。他国の人間に会う機会はそれほどあるわけでもないのだから。実際三国会談の場では、そういう傾向が見られたと思うのだが……。
「蜀は、元々武将たちの仲がよいからな。入っていけないと感じる部分があるのかもしれんな?」
 秋蘭の言うことにも一理ある。蜀の結束の強さは並大抵ではない。もちろん、それは魏や呉にも言えることだが、それぞれの国の気風というか、表現形式というものがある。
 呉は国の中枢が孫家を中心とした家族的な結束を持っているし、魏はまさに華琳を中心としているために、かえって個々人は自由に振る舞う傾向がある。そういった結束の現れ方の一つを俺が捉えきれていないのかもしれないな、と、とりあえず納得しておく。
「まあ、まだ初日だから、これからってところだけど」
「うむ」
 しっかりと頷く秋蘭の首筋がほんの少し桜色に染まっている。きっと、彼女もかなり飲まされたのだろう。
「ところで、秋蘭」
「ん?」
 無表情ながら、小首をかしげてこちらを見る姿がなんとも可愛らしい。天下の夏侯将軍が──姉妹揃って──こんな愛らしい存在だと誰が知るだろう。
「久しぶり。会いたかったよ」
 その言葉に、驚いたような顔になる秋蘭。よし、珍しい表情を見られたぞ。
「ふふ、そういえば、出迎えからなにから儀礼続きで、お互いそんな言葉も交わしていなかったな」
「ああ」
 すぐに立て直した秋蘭は、突然俺にしなだれかかると、耳元で囁く。
「私も、会いたかったよ、一刀」
 それだけ言って、元の位置に戻り、まるで表情を消して普段通りにすましている秋蘭。そんな彼女に俺はどぎまぎしてしまう。まだまだ一枚も二枚も彼女が上手らしい。とはいえ、こういう勝負は負けても悔しくない。ただ、彼女を愛おしく思うだけだ。
「そういえば、お前の官位の話、聞いたか?」
「いや、まだ」
 唐突な話題転換だが、特に気にならない。俺たちの仲で、今更、なにを遠慮することもない。
「そうか、では、華琳様がお話になるだろうが……華琳様は、大使のもう一つの形を模索しておられるようだな」
「もう一つ?」
「うむ。現状では、各国に責任ある者を送り込み、そこである程度の判断が下せるよう配慮している。これは便利ではあるが、負担が大きい。特に重要な人物を外に出すとなると反発もある」
「ああ、呉でそれを感じてきたところさ」
 蓮華なんて、人質を出しているようなものだ、と反発していたくらいだ。
「それでな、大使として現地に置くのは一段格の下がる者、古参の我々ではなく、たとえば荀攸のような新参でもそれなりの能力のある者に任せて、それらをとりまとめ、連携をとる人間として大使を統括する者を新たにつくるのはどうかという案が出てきたのだ」
 外交専門の官をつくるってことかな。この時代にも外務大臣に近い役職はあるにはあるが、ほとんどが服属させた異民族との朝貢関係を扱う役で、本格的に外交交渉をする役割を持った人間はいないから、新たに設置する意味はあると言える。
「その者が各地を巡ったり、報告を受けたりして、現地の者では扱いきれない案件を処理していくわけだ」
「重鎮とは言い切れないけど、実力のある者を外において育てる要素もあるのかもしれないね」
 話を聞いて思いついたことを言ってみる。華琳の場合、狙いが多重に層を成していることが多いから、その意図を読み解くことは難しいが、やりがいのあることでもある。
「そうかもしれんな」
 秋蘭は少し考えて、付け加える。
「また、この役は大使だけではなく、鎮西府や、いずれ置かれるだろう鎮北、鎮東府との連携や連絡の役割も担うそうだ」
 鎮西将軍は現在霞が任じられている。鎮北将軍は伯珪さんが任じられたか任じられる予定なのだそうだ。鎮東将軍に関しては聞いた覚えがないが、いずれ設置する予定なのだろう。南方は南蛮がおさまってくれているし、山越もさしあたっては脅威とは言い切れないので、鎮南将軍を置く予定はないのかもしれない。
 これらは、いずれも異民族対策を行う部署だが、それ自体が小さいながらも政権機能を持つ。辺境の地を統治する出先機関でもあるのだ。
 大使と並行してそれらを統括するとなれば、かなりの外交手腕が必要とされるだろう。
 しかし、この話の流れから行くと……。
「で、その統括にお前をあてるつもりらしい」
「うーん、俺? やりがいはありそうだけど……務まるかな。しかし、今後も方々を回るわけかな?」
 予想はしていたので必要以上に驚きはしない。だが、俺に任せていいのだろうか、という疑問もないではない。もちろん、職責を任されれば精一杯やるが……。せいぜい華琳を失望させないようがんばらねばなるまい。
「そうとも限るまい。お前の部下も増えているしな。まあ、どうなるか、詳しくは華琳様と話せ。価値があればお前の意見も取り入れてくださるはずだからな」
「そうだな。うん、そうするよ」
「能力もさることながら、外交は信頼だからな。お前は、それを裏切るまい。そういう意味では適任だと私は思うがな」
「たしかに、戦場よりは向いているかもね」
 そう言うと、苦笑で迎えられる。
「まあ、戦ならば、姉者や霞に任せるほうがよいな」
「そりゃそうだ。……でも、戦もなくなるものと思っていたんだけどな」
 三国の争いが終わってもいまだに五胡もいれば賊もいる。大きな戦はなくなったにしても、今度は小さな戦が各地で起きていて、必要とされる将の数自体はそう変わらない。
「そうそう簡単にはいかんのだろうな。豊かになればなるほど蠢きだす者もいる」
「そうだな」
 それから、俺たちは黙って二人寄り添っていた。夜風が少し涼しいが、酒で火照った体にはちょうどいい。
「さて、私はそろそろ退散するとしよう」
「ん?」
「順番待ちがいるようだからな」
 彼女が面白そうに、闇の中を見ているが、俺には何も見えない。
「え?」
 疑問の声を上げているうちに、すぃと立ち上がった秋蘭が、これも闇の中に消えていく。その代わりに現れたのは、白い着物と、黄金の翼──なのか?──の描かれた袖。
「失礼、お邪魔するつもりはなかったのだがな」
 そこにいたのは、常山の昇り竜こと趙子龍その人であった。


「久しぶり、と言うべきかな?」
「さて、何時のことを言っておられるのやら」
 立ち上がり、彼女に真っ直ぐ向かう。彼女の方はなんだか愉しそうに目をきらめかせて俺を見ている。どうも、酒宴の時の態度と違いすぎて勝手がわからないな。
「いや、その前に礼を言おう」
「ん? 礼ですと?」
「俺がはじめてこの世界に来た時に救ってもらった礼さ。忘れたとは言わせないよ」
 深々と頭を下げる。頭の上から、少し戸惑ったような声が降ってきた。
「あれはもう随分と……いや、お受けしましょう」
 頭を上げ、にっこりと笑うと、驚いたようにしながらも笑みを返してくれる。
「じゃあ、酒でもどう?」
「いただきましょうか」
 二人で座り込み、彼女が懐から出した酒杯に酒を注ぐ。二人で幾度か杯を乾しながら、なんとなく時が過ぎる。
「あの折、といえば」
「うん」
「あの折、共にいた稟が貴殿の子を産むとか」
「ああ、そうだね。もう二ヶ月もないんじゃないかな」
 そう、洛陽に帰り着いてしばらくすれば、子が生まれる。その後は桔梗の子が生まれるだろう。桂花の様子はいま一つわからない。
「これも縁、ですかな」
「そうだろうね」
 酒杯を傾け、つくづく思う。
「俺は良い縁に恵まれたよ」
 華琳に拾われたこと、春蘭や秋蘭、桂花たちとの日々、季衣、流琉、凪、沙和、真桜、天和、地和、人和、稟、風、霞。たくさんの大事な人達と、戦乱の日々を駆けた。そして、この世界から消え……戻ってこられたのも、また奇しき縁。
「どうしたの?」
 気づくと、子龍さんは、黙って俺を見つめていた。その探るような瞳が鋭く光るのが怖い程。
「いえ……稟を孕ませたというからどれほどの男かと思いましたが……」
「お眼鏡に適わなかったかい?」
「いやいや、少々面食らっております。あまりの変わりぶりに」
 からからと笑いながら言う声に、からかうような響きや悪意の色はない。きっと、本当に変わったと思っているのだろう。良く変わっていてくれているといいが。少しはたくましくなったと思うのだけどな。
「ふうむ」
 とはいえ実際、この世界ではじめて会った時から考えれば、変わってはいるだろうな、と思う。あの戦乱の時代を経験して変わらなかった人間は、死者だけだ。
「ええ、はじめてお救いした折とはもちろん、成都陥落の折にお見かけした顔とも、先年、三国会談にてお見かけした姿とも、随分変わられたようだ」
「え? そ、そうかな」
 成都陥落以来、というなら多少は実感もある。こちらでは一年だが、俺にとっては五年。二十そこそこの人間の五年は特に大きいだろう。しかし、こちらに帰って来てからの一年で変わっていると言われるとは思わなかった。
「ええ。まあ、本人には一番わからぬことかもしれませぬ」
 ふふ、と笑みを漏らし、子龍さんは酒を呷る。
「たまに思うことがありますよ」
「ん?」
「あの時、貴殿をそのまま拾っていたらどうなっていたろうか、と」
 そう言われてみれば、そういう道もあったのかもしれないな。あの後で華琳に保護されたことはまさに僥倖と言えるが、偶然の要素も強い。もし、うまく歯車がかみ合ってくれなければ、俺としては、子龍さんと稟、風の三人を頼るしか手がなかったろう。
「はは、そうなっていたら、どうしていたろうね。足手まといだけど、荷物持ちくらいはできたろうし……。そうだな、伯珪さんの下で、みんなでがんばっていたかもしれないね」
「あの当時の袁紹を相手にですかな? それはなかなか難題かと」
「でも、子龍さんは、無理難題のほうが燃えるタイプ……おっと、燃える性質じゃない?」
 びっくりしたように言う子龍さんに、からかうような声音で指摘する。
「ほほう……わかりますか」
 にやりと微笑むその不敵さよ。
「それくらいはね」
 彼女の空になった杯に酒を注ぎながら、星空を見上げて考える。
「それに、麗羽と華琳は、その根拠地の地理的性質から言って、放っておいてもいずれぶつかる。その時、南方の雪蓮たちと手を結ぶことができれば、なんとかなったかもしれないよ? もちろん、粘りきることが条件だけど」
「いやいや、まだまだ呉は袁術におさえられておる時期。そううまくは運びますまい」
「そうか。じゃあ……」
 しばらく、あの頃の情勢を思い出しつつ、二人で、架空の歴史の道筋を話し続ける。
「はは、北郷殿は面白いですな。そのようなことを大まじめに考えるとは」
 一区切りというように、子龍さんが笑い声を響かせる。
「ああ、考える時間はたくさんあったからね」
 そう、時間はあった。
 夢ではないかと、ただの妄想ではないかと疑いながら、この時代のことを必死で勉強していた日々。自分しか信じるものはなく、そして、その記憶すら無情にも薄れて行く日々。
 あの日々を思えば、この世界に生きていられるだけで、なんと幸せなことか。
「……」
 気づけば、再びじっと見つめられている。
「先に話していた通り、私は伯珪殿とも縁があります。おかげで、白馬義従を洛陽に連れて行く役目を押しつけられました」
「そっか、白馬義従を……。どれくらいいるのかな?」
 白馬義従が伯珪さんの下に戻ると聞いて安心した。彼女の追放劇は俺が発端だ。部下がきちんと戻るなら、これから彼女がどうするにせよ、動きやすくなるはずだ。
「馬が九百超、人が千といったところですな」
「ふむ」
 そうすると、新大使が連れて行く手勢と呉の兵も合わせて結構な数になるな。これは、出発前に打ち合わせをしっかりしておかないと。
 そんなことを考えていると、子龍さんが、何事か呟いていた。
「紫苑に任せてしまえばよいと思っておりましたが……これは、なかなか」
 後ろの方は、小声すぎてよく聞こえない。
「しかし、白蓮殿に稟に風、友に久しぶりに会えるとなれば、それも楽しみというもの。北郷殿のお話によれば、ちょうど子が生まれる頃には洛陽に滞在していられそうですな」
「うん、きっと稟も喜ぶよ」
「洛陽滞在の楽しみは、それだけではなさそうですが……」
 その言葉に首をひねる俺に、彼女は謎めいた笑みを浮かべるのだった。


 子龍さんが去ってしばらくして出てきた華雄に送られて部屋に戻る。もう深更ということもあって、城内は静まり返り、二人の足音だけが響くような状態だった。それほど飲んだつもりはなかったのだが、途中、二回ほど足がふらついた。やはり、異境の地にたどり着いた当日は疲れが出るか。
「暖かくしてさっさと寝てしまえ」
「ん、ありがと」
 夜中中護衛のために気を張ってくれるであろう華雄に感謝の言葉を述べて、扉をくぐる。
 瞬間、背筋をぞくりと冷たいものが走る。
 誰かが、いる。
 たしかに闇の中に、誰かがいる。俺は後ろ手に扉の把手を探ろうとした。
「……しっ、静かに。危害を加えるつもりはない」
 かかったその声に聞き覚えがある。そして、まがりなりにも灯火が一定間隔で置かれている廊下の明るさから、室内に落ちた深い闇に慣れてきた瞳がその姿をぼんやりとだが映し出す。
「馬超さん!?」
「だ、だから、声を出すなってば!」
 そうは言われても驚いてしまったのだからしかたない。幸い、華雄が飛んでくるような事態にはならなかった。落ち着いて観察してみれば、まるで殺気がないしな。なにかするつもりなら、俺が部屋に入った途端に動いているはずだ。
「えっと……どうしたの?」
 声をひそめて訊ねてみる。すると、馬超さん──と言ってもほとんど影にしか見えないのだが──は背筋を伸ばしたようだった。
「おま……いや、北郷殿に、は、話がある」
 なんだそういうことか。内密の話だというなら、もっと穏当に話しかけてくれればよかったのに。
「ん、わかった。でも、それなら、明るくしてくれてたらよかったのに」
 言いながら、入り口近くの灯を手にとる。ええと、これは、重量からすると油は入ってるか。火口を出さないといけないな。
「ま、待ってくれ、火を入れるのはなし! なしだ!」
「え?」
「明かりはつけないでくれ」
 慌てて手を取って押しとどめられ、その後驚いたようにぱっと離れていく影。闇の中、ふんわりと馬超さんの香りがして、ちょっとどきどきしてしまう。
「えっと、どういうことかな。説明してくれないと。俺、武将の人達みたいに眼がよくないからさ、真っ暗だと落ち着かないんだ。実際、いまも、孟起さん──で字はあってたよね?──孟起さんの顔とか見えていないし」
 さっきは、たまたま目元が見えたから判別できたが、いまは体の輪郭くらいしかわからない。たまに、光の具合か、鼻筋や目元が見えることもある、という程度だ。
「あ、うん、字はそれでいいよ。えーっと……その、だな」
 孟起さんは、言いにくそうに口籠もる。評判や、以前話した印象からするとからりとした性格の人だと思っていたが、そうでもないのかな?
「あ、あ、あたし、いま、裸なんだ!」
「……は?」
 あまりに予想外の言葉に、固まってしまう。問い直したのも、ほとんど反射だ。
「あ、裸って言ったって、下着はつけてるぞ。うん。全部脱いでるわけじゃない。えっと、だから、あの……」
 しどろもどろになっていく孟起さんを見て──いや、見えないのだが──少々厄介なことになりそうだ、と聞こえないように嘆息した。
「わかった。明かりはつけない。いま、俺の視力じゃ孟起さんが裸かどうかもわからない。だから、落ち着いて話してほしい。なぜ、裸なんだ?」
「えと……その……あた、あたしをだな。だ、だだ、だ、だ……」
「もしかして、俺に抱いてもらうってこと?」
 どもり続ける彼女の言葉を予想して言ってみる。すると、言葉とは判別できない、奇妙な呻きを喉から漏らす馬超さん。うん、落ち着くのは無理そうですね。
「そ、そそ、そそそそそうだ」
 そうやって彼女が答えられるまでじっとこらえて、再び問いを発する。
「……なんで?」
「北郷殿に、たの、頼みたいことがあって!」
 彼女の影が、床に膝をつく。がばりと平伏するのがそのぼんやりとした輪郭からうかがえた。
「馬一族の棟梁として、あたしを、いや、馬一族はじめ西涼の民を西涼に関わらせてくれ! そ、そのためなら、あたしの純潔を、さ、捧げる!」
 べったりと土下座して、何度も何度も俺に懇願する孟起さん。
 だいたいの事情を理解した俺は、深く深く溜め息をつくのを止めることができなかった。
「馬超さん」
 頭が上がり、視線がこちらを向いているのがわかる。
「服を着て」
「でも……」
「馬超」
 低く強い声で名前を呼ぶ。こちらの世界の常識で言えば随分と失礼な呼びかけだ。
 ためらうように揺れる影は、しかし、立ち上がると、卓に置いてあったのだろう服をつけ始めた。その動作と衣擦れの音から彼女の裸体を想像してしまい、思わず目をそらす。
「……ごめんな……」
 服を着終えたのだろう。孟起さんが俺の横を通りすぎようとする。その手を俺は掴んだ。
「なんで出て行くの?」
「……だって、お前……」
「まだ話をしていないよ。さ、俺に頼みがあるんだろう? 詳しく話を聞かせてよ」
「でも、だって……」
 混乱しているらしい彼女を置いて、明かりを灯す。予想通り、わけがわからない、という顔をした孟起さんが見えた。予想と違ったのは、髪を下ろしていたことくらいだ。髪を下ろすと、活発な印象から一転女性らしさが強調されるな、孟起さん。
「孟起さんが体を差し出すって提案は蹴ったけど、頼みを聞かないと言ったわけじゃない。内容次第では力を貸すよ」
「え……」
 呆気にとられたような顔をする孟起さんを、部屋の真ん中に置かれた卓に案内する。二人でそこに座り、灯火を卓に置くと、ようやく落ち着いた空気が流れる。
「さて、と」
 酒を飲む雰囲気でもないな、と部屋を出る前に用意していた湯冷ましの瓶を出してくる。酔った時には水分補給が大事だからな。
「ただの水だけど」
「あ、うん」
 言いながら、二人で一杯ずつ、水を飲み干す。
「西涼に関わる仕事をしたいってことだけど」
「ああ。あたしたちの宿願だ」
「涼州に領地が欲しい、ってわけでもなさそうだね」
「いまさら領地を返せなんて言わないよ。ただ、兵は元の土地に戻ることを許してほしい。それと、あたしたちは、鎮西府でも、涼州の州牧の下でも、仕事をさせてほしいんだ」
 その発言の重大さに息をのむ。俺に処女の身を差し出そうとしたことといい、西涼の錦馬超は覚悟を決めているようだ。
「鎮西府はともかく、涼州牧の下となると、魏の配下扱いになっちゃうよ、それでも?」
 彼女がとっくにわかっているはずのことをあえて言う。
「……兵たちの帰還がかなうなら、それでも、いい」
 真剣に頷く彼女に、少し気おされる。蜀を抜ける覚悟すらあるというのだから、これはもう大したものだ。
「そうか……望みはわかった」
「じゃあ!」
 勢い込んで、身を乗り出してくる孟起さんに手を上げて押しとどめる。
「早合点しないで。俺は確約はできない。ただ、このことを華琳に話すことは約束する。霞にも掛け合う。これでどうだろう?」
「うー」
 孟起さんは可愛い唸りを上げ、頭を抱えて考え込んでしまう。下着姿になって暗い部屋で一人待っているほどの気概で来たのに、ただ、話してみるよと言われても納得はできないか。
「そうだ、孟起さんも一緒に洛陽に来て、華琳たちと相談すればいい」
「あ、あたしも?」
「うん、こういうことは、熱意を見せたもの勝ちだよ。もちろん、俺も後押しさせてもらうよ。西涼の民のために働きたいって孟起さんの思いは間違いないようだからね」
 彼女はそれを聞いて、俺の真意を探るようにこっちを見ていたが、腕を組んで考え始めた。
「そうだな……蒲公英とも随分会っていないし、蒲公英の仕事ぶりを見に行くって言えば、朱里たちも許してくれるかな」
「あー、えーっと、従妹の馬岱さんだっけ」
「うん」
 馬岱さんは、長安に留まっているはずだが、そこに訪れるとなれば、洛陽に顔を出さないのも失礼というもので、結局は華琳たちと懇談する時間が取れるはずだ。これはついでだが、白馬義従もたくさんついてくることだし、騎兵の扱いに慣れた孟起さんが同行してくれれば、より洛陽への帰還の旅も楽になることだろう。
「わかった、じゃあ、そうするよ。ちゃんと会談の場をつくってくれよな」
「ああ、約束するよ。それにしても……なんで俺に?」
 え? と不思議そうに小首をかしげる孟起さん。
「涼州を握っているのは実質的には北郷殿だ、というのが蜀では一般的な見方だぞ」
「まあ、月と詠はたしかに預かってはいるけど……」
 そんな評価になっているとは思いもしなかった。それだけ、月と詠──特に月の影響力が強いということだろう。鎮西将軍の霞とも懇意にしていることが、その説の補強に役立っているのかもしれない。
「そうじゃないのか?」
「魏はね、華琳のものだよ。それ以外は彼女の協力者や配下にすぎない。そうしてそれがうまく回っているんだ」
 それだけ、華琳一人の負担が大きいわけだが、そこは、三軍師をはじめ俺たちがなんとか支えてやらなければならないだろう。特に、華琳は弱音を吐いたりしないから、そのあたりに注意して。
「そういうもんか……」
 魏と蜀では国の有様が違うのだろう。納得できない、という顔ながら渋々頷く孟起さん。
「でも、意気込みはわかるけど、体を差し出す、なんてのはだめだよ」
 言うと、彼女は顔を真っ赤に染める。
「……だって、その北郷殿は……お、女好きだと……」
「それは否定しないけどさ」
 たしかに女の子は好きだ。それをいまさら否定するつもりもないが、しかし……。俺は少し気をひきしめて言葉を選んだ。
「あのね、孟起さん。あなたがしたことは、俺はともかく、俺の愛している女性たち、俺を愛してくれている女性たちを侮辱する行為だよ」
「えっ!」
 驚いたように上がった顔はまだ赤い。それが羞恥によるものか、驚きによるものか、俺には判別がつかなかった。
「俺は、なにかを条件に女を抱いたり自分のものにしたりしているわけじゃない。女性たちも、俺になにかをしてもらうために抱かれているんじゃない」
 言っているうちに、言葉が強くなる。声を荒らげそうになるのをなんとか押しとどめる。
「もちろん、俺の保護下にいる女性たちもいる。だけど、そのことと、彼女たちを愛していることは、また別のことなんだ。たとえ肉体関係がなくたって、俺は困っている彼女たちの力になるよう努力するだろう。そのことに、やましいところは一切ない」
「あ……」
 理解してくれたのか、彼女の顔から血の気が引く。
「俺の大事な人たちを侮辱するなら、たとえ敵わないのがわかっていようとも、俺はあなたに挑みます」
「あた、あたしはそんなつもりは!」
「なかった?」
 がたんと音をたてて立ち上がる孟起さんを見上げながら、ゆっくりと訊ねる。
「うん、ない。絶対にない!」
「そっか、よかった」
 本当によかった。俺は笑みを浮かべている自分に気づく。
「本当に孟起さんに挑んだら、殺されちゃうからね」
「翠、だ」
 座り込み、うつむいた彼女が、しぼり出すように言う。
「真名、だよね」
「うん」
「そう。嬉しいな、翠」
 こちらには真名がないこと、一刀と読んでほしいことを伝える。おなじみだが、緊張するやりとりでもある。真名を預けられるというのは、それだけの意味があることだから。
「じゃあ、洛陽に一緒に行って、華琳と相談しよう。力になるよ、翠」
「うん、頼むよ。あたしだけじゃない、あたしを頼りにしている西涼のみんなのためだからさ……。頼りにしてるよ、ほんご……一刀殿」
「ん」
 そうして、俺たちは約束をする。大事な、大事な約束を。


 ほんの少し談笑した後で翠が部屋から出て行き、俺はようやく一人になった。
「んーーー」
 思いっきり体を伸ばした後で、寝台に飛び乗る。
「いたっ」
「えっ」
 なにかにぶつかる感覚と、聞き慣れた声。慌てて起き上がると、もぞもぞと寝台の上で動くものがある。
「まったく、お前は乱暴だな、一刀」
「秋蘭!?」
 布をはいで出てきたのは、紛れもなく夏侯淵その人だった。おいおい、もしかして、ずっと寝台にもぐりこんでいたのか?
「もう、順番待ちはいないようだからな」
「えと、もしかして、翠との会話聞いてたり……」
 恐る恐る聞いてみると、俺の声を真似してみせる。
「『俺の大事な人たちを侮辱するなら、たとえ敵わないのがわかっていようとも、俺はあなたに挑みます』」
「ぎゃー」
 寝台に秋蘭が寝そべったままでなければ、転げ回るところだ。
「『力になるよ、翠』。うむ、よい口説き文句だな」
「いや、だからだな」
 俺の抗議を秋蘭はにやりと片頬だけを上げる笑みだけで全て受け止める。
「しかし、一刀はともかく、あの翠が気づかぬとはなあ……よほど動転していたのだな」
「まあ……純潔を捧げるとか言ってたくらいだし、他になにも考えられないくらい思い詰めてたんだろう」
「あのまま、この寝台に来ていたら、大変だったな?」
「そんなことしないよ。知ってるだろ?」
 そう訊き返すと、彼女は顔をひきしめる。
「ああ、知っている。しかし、蜀の連中はわかっていない。気をつけろよ、北郷」
「そうだな……。うん。困ったものだけど、気をつけるよ」
 二人で頷きあい、そして、ようやくのように彼女の顔が緩む。秋蘭の手が伸び、俺を寝台へと引きずり込む。
「さて、それでは、侮辱をされれば錦馬超にすら挑まんとする、愛する者への取り扱いというのを見せてもらおうかな」
「はは……そうだな、たっぷりと……ね」
 そう言って、俺たちは絡み合い、夜を楽しもうとお互いに挑み始めるのだった。


 視界を上下に切り裂いて、刀が走る。
 それを鎬で弾こうと、自分の刀を上げるのは、もはや条件反射にすぎない。頭では、次の攻撃、あるいは、剣をふるいながら同時に繰り出してくる蹴りや拳をいかに避けるかを考え、一歩踏み出そうと重心を動かしている。
 ぎんっ。
 鈍い音を立てて、刃に対して斜めに鎬が当たり、軌道がずれたのを感じ取る。そこで、もう一歩踏み出して、彼女が大刀を戻す隙に……。
 そう考えた時には、首筋に重い刀があてられている。一体いかなる動きではじかれたあの姿勢から刀を振り直したのか、俺には見当もつかなければ、もちろん、視界に掴むことなど考えられもしない動きだった。
 ちりん、と澄んだ鈴の音が耳を打う。
「そこまで」
 華雄の声で、思春が俺の顎を持ち上げるようにしていた刀を引く。俺も遅れて刀を納めると、一歩引いて頭を下げた。
 いま、俺たちは、蜀の練兵場の一つを借りて稽古をしていた。華雄、俺、思春なんて組み合わせになっているのは、沙和が洛陽に戻るための大使館での書類整理に、秋蘭と沙和本人がかかりきりで、蓮華も関将軍と会談中のためだった。今回の目的が、親睦を深めること、という曖昧なものであるためもあって、成都への滞在は今日で三日目だが、三国での取り決めによる懇談や酒宴は夜に集中しがちで、昼間はこうして時間が空くこともある。
 離れて稽古を検分していた華雄が近づいてきて、俺と思春を順繰りに眺める。汗だくの俺に対して、呉の将を見てみれば、汗一つかいていない。俺の本気に対して、八分の力も使っていないというところか。さすが、の一言だった。
「五のうち四までを防げるようになったのは褒めてやろう。しかし、残り一つは防ぎきれていない。稽古だから相手は引いてくれるが、実戦では……わかっているな?」
「ああ。精進する」
 肩で息をする俺に対して、華雄の助言は少ない。助言もなにも、それを必要とする段まで至っていないというのが実状だ。必要なのは、こうして、稽古すること、そして、ひたすらに刀をふること、まず、そこからだ。
「思春のほうは、刀を振るうときに、逆の脚をわずかに引くのは癖か? お前ほどの者ならそれで動きを見破られることはないだろうが、意図的なものでないなら、消す方がいいだろう。それと、首を狙いに行き過ぎだな。こやつ程度の相手ならばそれもいいが、周りにこれと同じ技量や、さらに上の者が他にもいたら、大技の後の体の崩れはかなり厳しくなるだろう。たとえ、いまが七分の力であっても、だ」
「ふむ……」
 一方、思春への助言は具体的なものとなる。実際には思春の相手を華雄がするほうが、お互いにとっても刺激になるのだろうが、二人とも他国の領内で本気を出すつもりはなさそうだった。もしかしたら、俺の知らないところで、闇夜にでもやっている可能性はあるが……。
「一対一だけを想定するなら悪手とはならないが、なにも首を落とす必要はない。こいつに聞いた話だがな、こいつの世界では、わざと殺傷能力を落とした武器さえあるそうだ」
「んん?」
 思春のもの問いたげな視線が俺と華雄を行き来する。
「つまり、戦の局面によっては、殺すことが最善とはならないということだろうな。詳しくはこやつから聞いてくれ」
 なんとか息を整え、振られた話に応じる。
「ええと、つまり、首をなくして倒れた死体はその場から動けないし、なにも語らないけど、腹を裂かれ傷ついた兵士は転げ回って自分から他の兵の行動を妨げる上に、わめきちらしてその光景が見えない人間にも声で恐怖感を与えるだろ。だから、一気に殺しちゃうんじゃなくて、敵対できないくらいの傷を与えるのがより効果的だっていう……まあ、残酷な話だよ」
 本当は、傷病兵は救護兵の手を煩わせるとか、そういう効果もあるのだが、こちらでは、そもそも救護がそれほど重要視されていないので、意味がない。いまは、他人の手を煩わせる程度の重傷者にはとどめを刺すのが情け、という時代だ。
「ふうむ、効果はわからんでもないが、我が呉の気風にあうかどうかは疑問だな」
 たしかに、魏よりもさらに苛烈な呉の気風からすれば、そのような選択は惰弱と取られかねないだろう。気を許していいのは死んだ相手だけ、というわけだ。
「とはいえ、首を狙うのが単調だという指摘はありがたい。肝に銘じよう」
 そう言った後で、思春は俺を睨み付けるようにして言う。
「まあ、こやつのように逃げに特化している者でもなければ、これほどまでに長々と撃ち合うこともないがな」
 それに対して華雄は肩をすくめて見せる。
「そのように鍛えているのだから仕方あるまい。こやつが生きてさえいれば、我らがその敵対者を討つ」
 さ、水でも飲め、と竹筒を俺たちに渡す華雄。俺はありがたくそれを受け取り、喉を潤す。ああ、しみわたるなあ。
「前々から思っていたが、なんだ、この甘い水は?」
「ああ、こやつの提案でな。ただの水ではなく、塩と柑橘果汁、それに蜂蜜を混ぜてある。このほうが体への吸収がはやい上に、塩分の補給になるそうだ。まあ、言われてみれば、汗は塩辛いからな。塩も出ていっているのだろうさ。蜂蜜は体を動かした分の栄養なのだそうだ」
 自家製スポーツドリンクの説明を華雄がすっかりしてくれている間に、俺のほうはようやく人心地つき、竹筒を少しうさんくさそうに見ながらも飲み続けている思春に声をかける。
「思春」
「なんだ?」
「蓮華と思春には感謝しているよ」
 唐突な言葉に驚いたのか、まじまじと見つめられた。ごっくん、と竹筒の水を飲み下す音が響く気がした。
「……いきなりどうした、熱でもあるか」
「いや、最初に明確に敵対してくれたろう? だからこそ、後々にわかりあえた。わかりあおうと努力することができた。でもさ、ここでは、どうものらりくらりとしていて……敵対するってこともしてくれないから……。改めて、呉での対応に礼を言っておこうと思ってさ」
 この三日間感じているなんとも言えない感覚について、ある種泣き言のようなことを言っているとわかってはいるが、言わずにはいられなかった。それに対して鼻を鳴らして皮肉げな笑みを浮かべる思春。
「それはそうだろう。人間誰しも、面と向かって自分はお前の敵だと言うのには胆力がいる。それなら、いっそ、殺してしまうほうがはやい。敵意をそのまま殺意に変えればよいからな」
「物騒な話だ」
「だが、それが手っとり早い。わざわざ敵をつくるよりは、な」
 飲み干した竹筒を華雄に返し、思春は腕を組んで言葉をつむぐ。
「蓮華様が、わざわざあのように宣言したのは、ご自身の強い意志に加えて政治的宣伝を兼ねてもいたからだ。いま、こうして訪れているだけのお前に敵意を示しても、蜀の官も民も誰も喜ばんだろう。もちろん、真の敵にはそれをせんといかんが、そこまでしたくない相手というのもいるだろう」
「そういうものか」
「そういうものさ」
 つまり、俺は、真の敵とすら認めてもらえていないということか。それはそれで寂しくなるな。
 そんなことを考えていると、遠くから声が聞こえてきた。
「あのー、みなさーん」
「ん?」
「劉備と魏延、か」
「なにか用かな?」
 見れば、声をかけてきたのは、この国の王、劉玄徳さん。日本人なら、おそらく知らない人はいないであろう有名人だが、この世界では、なんとも柔らかい雰囲気の美少女だ。詠は美少女すぎない、と彼女を評していたが、美しさよりはかわいらしさが強く出ているという点では俺も同意だ。
 その後ろについているのは、すらりと背の高い精悍な美女、魏延さんだ。黒髪だが、前髪に白い部分があるのがアクセントになっている。たしか、字は文長だったか。
 玄徳さんは白基調の服、お付きの文長さんは黒基調となんとも対照的な二人は、主である玄徳さんが急に駆け出し、それを慌てて文長さんが追いかける、というなんとも微笑ましい主従の図を演じつつ俺たちに近寄ってきた。
「鍛練は終わられましたー?」
「いや、一休みというところですが……。どうなされました、玄徳殿」
「いえ、あの、北郷さんにお話があって、でも、鍛練が終わっていないなら……」
 代表して思春が答えるのに、玄徳さんが困ったようにうつむく。それに対して、後ろに控えていた文長さんが、俺をくびり殺しかねないような目つきで睨み付けてくる。春蘭といい、思春といい、どこの国でもこういう忠臣というのはいるもんだなあ。
「あー、大丈夫ですよ。なんですか?」
 ここはこう答えておかないと、本気で危なそうだ。そうでなくとも、せっかく一国の王が話しかけてきてくれたのにそれを無下に断るのももったいないというものだ。
「では、私は、あちらで鍛練の続きをしていようか」
 思春が気を利かせて大刀を持って移動しようとするのを、玄徳さんは慌てて止める。
「あ、思春さんもいてくれたほうが、その、なんていうか、秘密のお話ってわけじゃなくて」
「ふむ」
 そうまで言われては思春も動けない。俺たちは結局、そこに立ったまま、蜀の女王の言葉を聞くことになった。
「あの、一つ聞きたいんですけど」
 いったん口籠もったものの、改めて、俺を真っ直ぐに見据えて、彼女は訊ねてくる。
「北郷さんは、わたしたち……蜀がお嫌いですか?」
 ……。
 はっ、思考が停止していたぞ。
 いま、彼女はなにを言った?
 蜀を? 嫌う?
「……え、えっと?」
「ええい、きさま、とぼけてないで、桃香様の質問に答えないか!」
 魏延さんの荒ぶった声で、ようやく思考が回転しはじめる。
「だめだよ、焔耶ちゃん」
「し、しかし……」
「いや、びっくりした」
 本当にびっくりした。俺が蜀を嫌う? 何故?
 意味を理解してなお、俺には疑問ばかりが浮かんでくる。
 しかし、思春も華雄も二人して声を押し殺して笑っているのはなんでだろうな。
「えっと、俺は蜀を嫌ってないし、元々蜀を嫌う理由なんてのもない。そもそも俺自身、あんまり嫌いなものってないんだけど……」
 見るからにほっとして、笑みを浮かべる玄徳さん。ああ、この娘は、笑うと本当にその場を明るくするんだな。彼女が笑っただけで、いま、この場の空気が変わったことに俺は気づいた。
「そうですか、よかった……」
「でも、なんで、俺が蜀を嫌いだなんて?」
「それは……」
 口籠もる主に変わって、文長さんが、口を開く。
「ふん、きさまの行状からすれば当たり前だろう。大使とやらで白蓮殿を無理矢理桃香様から引き剥がして蜀から追放させ、月や詠を誑かして己の勢力に取り込むなど……そもそも、そのやり方も色々と……」
「焔耶ちゃん!」
「と、桃香様」
「憶測でものを言っちゃだめだよ。焔耶ちゃんの言ってるのはただの噂。私も噂に不安になって、北郷さんに直に訊ねたけど、答えは聞いたよね。だから、それ以上はだめだよ」
 鋭い──といっても、彼女なりに、だろうが──声で文長さんを制止する玄徳さんを見ながら、俺は考える。
 噂、か。
 おそらく、文長さんが口にしたのは、あれでもかなりおとなしい部類に違いない。その後に言い募ろうとしていたのが、きっと、この地で流れている俺に関する噂の核心部分だったのだろう。
「北郷さん、ごめんなさい。変なことを聞いてしまって」
「いえいえ。でも、本当に俺は蜀を嫌ったりしていないし、なにより、魏も呉も蜀も関係なく、この大陸を良くしていくための仲間だって思っているから。もし、なにか不満なところがあったら、正直に言ってくれたら嬉しいな」
「はい、そうさせてもらいます。今日は、嫌われてないって聞かせてもらっただけで、すごく安心しちゃいました」
 俺の言葉に、再び笑みを見せる玄徳さん。なるほど、これは人を安心させる笑みだろうな、と俺はなんとなくこの国の王がこの少女であることに納得する。
 しかし、その笑みがもたらす安心感ですら、俺の中の不安を払拭しきることはできなかった。
 一体、俺は、この地でどんな風に捉えられているのか。
「じゃあ、鍛練、がんばってくださいね」
 そう言ってぺこりと頭を下げ、去っていく玄徳さんたちを見つめながら、俺はまだ考えに沈んでいた。


 不安はその翌日、現実のものとなってしまった。
「呉は蓮華さんと思春さんが率いる兵があわせて五百、ですね」
 俺たちは、その日、蜀から漢中、そして、長安、洛陽へいたる旅程の打ち合わせを行っていた。
 参加者は、魏から俺と沙和、呉からは蓮華と思春、蜀からは、黄忠──字は漢升さんと、趙子龍さん、それに翠の三人。今回の洛陽行きに参加する将たち、というわけだ。華雄が参加していないのは、俺の配下ということで、陪臣扱いになるため、らしい。実を言うとそのあたりの序列やら参加基準というのがいまいちわかっていない。この場合、漢の官位とかは関係ないのかな。
「うむ。こちらに連れてきた数、そのままを連れて行く」
 漢升さんの確認に、蓮華が答える。
 漢升さんは、落ち着いた雰囲気の美女だ。蜀陣営の中では、桔梗と並んで年かさの部類なのだろうが……桔梗のからっとした色気とは違い、まさしく女の艶というものを感じさせる女性だ。あれだけ胸が大きいのは弓を引くときの邪魔にならないのだろうか。って、脳内の桔梗と祭が笑っているな。そういえば二人とも弓将のくせに大層なお胸でしたね。
「糧食のほうは……」
「ああ、自分たちで用意する。気にしないでくれ」
 漢升さんのとりまとめで、話は進んでいく。
「我が蜀は、わたくしの部隊が二百、白馬義従が千……翠ちゃんは?」
「あたしは、念のため替え馬を何頭か連れてくくらいかな。星と一緒に白馬義従の面倒を見るよ」
「それは助かりますな。騎兵の扱いには、やはり一歩も二歩も譲りますからな」
 皆の話を書き留めていた漢升さんは、俺たちから提出された竹簡に目を通したところで、手を止めた。
「魏は、沙和さん、北郷さん、華雄さん、この三人だけですか?」
「ええ、漢中で兵が合流予定ですが、それまでは三人だけですね」
「久しぶりに隊長たちと旅行なのー」
 沙和が愉しそうに発言する。彼女の言うことだけ聞いていると、まるで遊びに行くみたいだな。久しぶりに馬を連ねるというのは事実だけれど。
「漢中にどれほどの兵がいるのかは知りませんけれど……少々手薄ではありませんか?」
 眉間に皺を寄せて、苦々しげに言われる。それほど気にするようなことだろうか?
「手薄、ということはないでしょう。騎兵が千もいる集団を襲うような無謀な賊はいませんよ」
「いえ、全体ではなく、魏の手勢が少なすぎはしまいか、と」
「なにを気にしているのだ、紫苑。漢中より先は兵も合流すると言っておられるではないか。それよりこちらは蜀の領内。領内で襲われたなら恥じるべきは我らであって、北郷殿や沙和の責ではあるまい」
 子龍さんが、訝しげに漢升さんの反応に口をはさむ。彼女としても、なにを気にしているのかわからない、という表情だ。漢升さんは口調や表情は穏やかながらも、頑として言い募る。
「たしかにその通りね。でも、これは国と国とのことなのよ。わたくしたちや呉がしっかりと兵を出しているのに、両者を迎えるべき魏が兵を別の場所に留めているなどというのは怠慢というものではないかしら」
「あうぅ、隊長どうしようなの〜」
 小声で泣きついてくる沙和の腕に手をあててなだめながら、言葉を選ぶ。
「礼を失した、というのなら申し訳ない。謝罪しましょう。しかし、漢中から兵を呼び寄せるとなれば時間もかかる。今回は漢中から、ということでお許しねがえないだろうか」
「呉としてはそれで問題なく思うが……。蜀の意向は異なるのか?」
 蓮華が、なにを言っているのだ、という風に不思議そうな顔で訊ねる。呉の立場からすると、俺は洛陽への案内人で、沙和はその途中でたまたま同行しただけだし、自らの身は自身で守るから魏の兵など必要とはしない、という感覚だろう。呉の気風からすればそれが当然だ。
「蜀の総意というわけではありませんわ。ただ、わたくしが、ひっかかりますの」
 一方、蜀からしてみれば、蜀の大使を迎えるのにその対応か、と侮られた感覚があるのかもしれない。
「そもそも、北郷さんは華琳さんの臣下でもなければ、どこかの領主でもない。ただの男ではありません?」
「紫苑」
 子龍さんの静かな呼びかけにも、漢升さんは答える様子がない。相変わらず微笑んだままだし、激昂している様子もないのだけれど、その微笑みがかえって怖い、というところか。
「それが、つい先程も魏を代表するかのような口をきいて……いったいどのような権限で発言なさっておられるのかしら」
「我が呉に派遣された副使として、であろう。それ以外になにか必要なのか? いつからそのように権柄ずくになったのだ?」
 剣呑な空気を察してか、沈黙を保っていた思春が口を開く。蓮華に下手な発言をさせないためというのもあるのだろう。
「紫苑? 一体どうしたんだ?」
 翠が混乱した顔で問い掛ける。おそらく、ここにいる面々は、漢升さんが話をどこへ決着させたく思っているのか、そのこと自体はうすうすわかっている。問題は、なぜそんなことをしたがるのか、という根本が理解できないことだ。
「翠ちゃん、あなただって知ってるでしょう。この男にまつわる噂を」
「噂? 隊長の?」
「ええ。北郷一刀は、月ちゃんと詠ちゃんを無理矢理犯して孕ませ、その膝下に下した、という噂。恋ちゃんとねねちゃんの飼っている動物たちを捕まえ、洛陽にしばりつけているという話。白蓮ちゃんを狙って、朝廷を動かしたという説。いくらでもありますわ」
 大きく息をのむ声が部屋に響く。果たして、誰がそれを発したのか、俺にはよく分からなかった。
「ちょっ、それはひどいなのー。いくら女好きの隊長でも無理矢理とかはないのー」
「漢升殿、庶人は上に立つものを貶して酒の肴にします。しかし、そのようなこと、貴殿が口にすることでしょうか?」
「あら、でも、わたくし、案外この噂も真実なのではないかと、北郷さんの言動を見て思いましたわ」
 俺が一言も発しない間に、話は進んでいく。
「このようになんの実態もないというのに驕り高ぶって、相手への礼すら失する男なら、やりかねませんでしょう?」
 沈黙が落ちる。怒りにしろ、呆れにしろ、引きつった顔が揃う中で、一人、漢升さんだけが穏やかな笑みを顔にはりつけたままなのが、少々場違いとも言えた。
 俺自身は自分の顔を見ることはできないが、きっとあきれ返った顔をしているだろうと思った。
「……ばからしいですな」
 子龍さんがまるで感情のない声でそう言って立ち上がる。
「興がそがれました。失礼させていただく。北郷殿、白馬義従はしっかりと連れて行きますので、ご心配無く」
 そう言って颯爽と去っていく背中は、ある意味一番の正解を掴んだ人間に見えた。
 とはいえ、全員がそうしてこの場を放棄してしまうというのもできることでもない。
「一つ、問題を解決しましょうか」
 重苦しい沈黙を破ったのは、結局、俺のその一言だった。
「はい?」
「俺たち三人では手薄だ、という話ですよ」
 蓮華と思春の探るような視線が痛い。彼女たちからすれば、余計なことはやめておけ、と言いたいところだろう。沙和は一瞬辛そうな顔で俺を見たが、その後、諦めたのか、大きく肩をすくめた。
「蜀の陣営に負けないことを示して見せればいいでしょう。三人で、ね」
「……どういうことでしょう?」
「白馬義従はそもそも伯珪さんのものだし、子龍さんは行っちゃったから、黄忠さんと、兵二百、それに翠に対して、こちらは三人で戦ってみればいいんですよ」
 漢升さんは、俺のその言葉に、その笑みを深くする。その行為が、まさに彼女が狙っていたことを示していた。
「それでお互いが伍すれば、手薄でもなんでもないということになるでしょう?」
 相手の意図通りであることはわかっていたが、誘っているのならば挑まねばなるまい。まして、あちらは計算違いをしている。本当に、三人で、いや、たった一人でも充分なのだ。
「どうですか?」
「本気ですの?」
 ゆったりと手を持ち上げ、笑みを刻む口元を隠し、問い掛ける漢升さん。慌てたように、指名された片割れの翠が声を上げる。
「あ、あたしは……」
「よかろう」
 だが、それを遮って、蓮華が立ち上がっていた。
「その戦、我ら呉が見届け人となろうではないか。日時は明後日正午、場所は後ほど桃香殿と協議して通達する。それでよいか」
「ええ」
「ああ、いいよ」
「あ、あの、ちょっと!」
 俺と漢升さんの頷きに、翠の抗議は黙殺される。しかし、漢升さんとの個人的な争いとしないためには、翠にも参加してもらわねば困るのだ。後々、翠がいなかったから対抗できた、などと言われても困る。
「では、そのように。それでは、失礼する。思春、行くぞ」
「はっ」
 短く言って、立ち去る蓮華と思春主従。ありゃ、かなり怒ってるな。打ち合わせに来たと思ったのに、俺と蜀との争いに巻き込まれたとなれば、生真面目な蓮華は怒りを覚えずにはいられまい。
 俺たちも断って席を立つ。後ろで、翠が漢升さんに噛みついているのを聞きながら、俺は自分の中の感情をなんとも制御できず苦しんでいた。
「隊長」
 しばらく廊下を一緒に歩いた後で、沙和が俺の腕を取り、二人で腕を組んで歩き始める。他国の城内で、ことさらに体をくっつけて歩くのは、おそらく俺のことを心配してくれているからだろう。
「すまん、沙和。巻き込んでしまって」
「ううん、それはいいの。でも、紫苑さんがあんな態度をとるっておかしいの。きっとなにかあるの」
「そっか。普段はああいう人じゃないんだね。そうじゃないかとは思ってたけど」
 彼女の温かな体温と、甘い香りに包まれていると、心の平衡がとれてくる。
「問題は、これが諸葛亮、鳳統の策なのか、彼女自身の思惑なのか、ってことだな」
「朱里ちゃんたちの?」
「その可能性もあるってことさ。でも、挑まれた以上は、逃げるわけにもいかないだろう。今回ばかりは、ね」
 沙和はなにか言いたそうにこちらを見上げていたが、結局呑み込んで、口を開いたときに言った言葉はおそらく先程考えていたこととは別だった。
「形としては隊長が挑んだことになってるのー」
「まあね、そこも含めて、策なんだと思うよ」
 さて、華雄にどう説明するかな、と俺はようやく回り始めた頭で考え始めていた。


 翌朝、久しぶりに思春の舌の奉仕で目を覚ました俺は、隆々と天を衝くものをしごき上げながら大まじめな顔で漢升さんたちとの決闘の日時と場所を読み上げる彼女に苦笑するしかなかった。
 そして、いま、俺は思春を組み伏せて、後ろから覆い被さるようにしてつながっていた。
 といっても一度放出した後なので、ゆるやかにお互いの体温を感じているところだ。
 だが、彼女の中の心地よさや、触れる肌の温かさを堪能しても、俺の心は一向に晴れない。
「……私は集中するにも値しないか? ん?」
 俺の腕の中で、錆び付いたような声がする。それに含まれた殺気に、一気に身が引き締まる。反射的にびくん、と中で俺のものがはね、甘いうめきが彼女の口から漏れる。
「あ、ごめん。いや、そんなつもりじゃ!」
「おおかた、呉の武将とこのように朝もはやくから睦みあっていることが、また新たな噂になる、とでも考えていたのだろう?」
 くいくい、と小さい動作で腰を動かす思春。その小さな動きが彼女の中では大きなうねりとなり、俺を締めつける。
「気持ちいいよ……。えっと、うん。考えてることなんてよくわかるな」
「ふん、つながっている者の思うことなど、ばれているに決まっているではないか。お前とて触れている女の思いくらい察するだろう」
 そう言ってから、彼女はとてつもなく面白いことを言った、というようにくつくつと笑い転げる。
「おっと、お前は、存外に鈍いところもあったのだったな?」
 彼女が言っているのは、俺が彼女になかなか手を出さなかったことだろう。人間、一度思い込んでしまうとなかなかその先入観から離れられず、自縄自縛に陥るものだ。いけないと思っていても、なかなかそれをはねのけるのは大変だ。
「あー、えっと、それはもう勘弁してくれよ」
 言った途端、ぎゅう、と彼女の中が狭くなる。まるで絞られているような締めつけに、思わず声が漏れる。
「莫迦め。……んっ、許されると、思ったか」
 俺を圧迫するので、自分自身も快楽を感じるのか、彼女の息は段々荒くなっている。それでも、本格的にことをはじめるにはこのゆるやかな時間がもったいなくて、俺たちは、二人、緩急をつけながら会話を続ける。
「真面目な話、見られるようなへまはしていない。妙才殿にはこの部屋で会ったがな」
「……え」
 思わず聞き返す。秋蘭と会ったって? そりゃ、たしかに秋蘭は昨晩──というよりは、俺が蜀にいる間は毎晩──ここに泊まったはずだが、てっきり、思春が忍んできたときには自室に戻っていたものと思っていたのだが……。
「なにを驚く? 夜は妙才殿の相手をしていたのだろう? 朝は私だ。問題はなかろう」
 首をひねって、不思議そうに見上げられる。本気で不思議に思っているのだろう。妙に幼い表情で、普段見せないその顔が、あまりにかわいくて、俺はついぎゅっと抱きしめてしまう。
「うん。問題ない。なにも問題ない」
「おかしなやつ」
 そうして見せてくれる笑みも、愛らしい。いつもきつい目つきなだけに、優しい目で見られた時の破壊力が半端ではない。
 俺はもっと彼女の顔が見たくて、体を離し、片脚を掴む。体位を変えるのだとあちらも気づいてくれたようで、二人協力しながら、彼女の体をひっくり返す。
「んんぅっ」
 中に入れたまま体を回転させたせいで、予期していなかったところを刺激したのだろう。のけぞって体を震わせる思春。俺も、少しひきつれた感じだったが、ゆっくりと動かすとその感覚もなくなって、ただ、彼女の熱がとても心地よい。
 思春の手が持ち上がり、俺の頬に触れる。
 弄うように、なだめるように、指が動く。
「この地でばらまかれた噂とやらに、よほど心動かされていると見える」
「それは……」
 否定はできない。俺自身の噂など気にもならないが、しかし、俺の愛しい人達まで巻き込まれているとなったら話は別だ。
「だが、一刀。お前が揺らげば、女たちは……んっ、余計に揺らぐぞ」
 優しく、閨でしか呼ばぬ名で呼ばれる。
「そうだな……。ごめん、思春」
「私に謝ることか。だが、くだらぬ噂など跳ね返せるだけの侠気、見せねばなるまいぞ」
「うん。そうだな」
 頬にあてられた手を、両手で握り返す。彼女の脚が蠢き、鞭のように腰に絡みつく。
「とはいっても」
 両足を絡めて、ぐいと体をひっぱられ、深く深く彼女の中に導かれる。結合部からもたらされる熱が、あまりにも熱く、二人でとろけてしまいそうだ。
「お前とて甘えたいこともあろう。どうだ? 私の胸で泣いてみるか?」
 からかうように言われた声は、真剣な声音も帯びている。きっと、このまま抱きついて、ひとしきり泣いても、彼女は間違いなく受け止めてくれるだろう。
 その心遣いが本当に嬉しく、けれど、だからこそ俺は甘えることができなかった。
「ありがとう。でも、いまは思春を鳴かせることにするよ」
 ぷりっとした乳房に顔を埋め、舌を肌に這わせると、途端に体が震え、中のうねりも強くなる。
「ふん、ひどい……んんっ、男、だ。ああっ」
 そうして、俺は、彼女を鳴かせることに集中した。


 戦闘中、そして、戦闘前後の記憶というものは、断片的な強い感情や衝動に紛れて、うまく再構成しがたいものだ。もしできたとしてもそれは事実とはほど遠いものとなってしまう。
 そういう意味では、叙事詩や英雄譚において語られる戦闘の数々は、事実とは大きく異なっても、真実には違いないのだろう。
 さて、そういうわけで、以下に語られるのは俺の頼りにならない心象ではなく、たくさんの人々から後に聞いてまとめた伝聞になる。


 魏、呉の表敬訪問の一行が蜀に滞在して六日目。
 城内でも最も大きな練兵場では徹底して人払いがなされていた。物見高い一般兵や文官たちは追い払われ、蜀のほとんどの武将と、魏、呉の一行、そして、黄忠配下の二百名だけがその場にいることを許されていた。
 その中で、決闘を挑んだ北郷一刀は、一人、練兵場の真ん中で大地に刀を突きたてて決然と立っていた。
 その視線の先には戦闘準備を整える黄忠隊と、錦馬超の姿がある。
 そのかたわらに、呉の姫君、蓮華が近づいていく。
「一刀、取りやめるならいまだが……そのつもりはなさそうだな」
「ああ、ない。黄忠さんも、ないだろう」
 黄忠と馬超のもとには思春が向かっていた。その彼女が何事か手で合図をしてくる。
「そのようだな。では、私の宣言の後、お前の口上、その後で戦闘開始だ。よいか」
「了解。ありがとう」
 彼が小さく頭を下げると、蓮華は手を軽く振って離れていく。
 彼女は両軍の中央に陣取ると声を張り上げる。
「これより、北郷一刀、于禁、華雄による三名と、黄忠隊及び馬超による模擬戦を行う。両者とも、矢には鏃をつけず、先をとがらせぬこと。武器は刃をつぶしたものを使うこと。以上の約定は理解しておられるか」
 黄忠がその声に大きく頷き、一刀も頷きを返す。
「両軍の大将は、血糊の入った袋を胸にとりつけている。これを破られれば死亡とみなし、その陣営の負けとする。よろしいか」
 この確認にも両者同意の頷きを返す。
「それでは、両者遺恨など残さぬよう、潔い戦を」
 そう言って、審判役でもある蓮華と思春は下がっていく。
 その間も微動だにせず立ち続けていた一刀は、そこで一つ大きく息を吸った。
「我が名は北郷一刀!」
 果たして、蜀の将軍たちは、その大きく張りのある声に、度肝を抜かれた。あの戦の間、北郷一刀、あるいは天の御遣いの噂を聞いてはいても、このような実戦での口上などついぞ聞いたことも無く、また、世上流れる噂を考慮すれば、このような声を出せる胆などあるわけがない男のはずであった。
「非才の身なれど、仲間に恵まれ、配下に恵まれ、ここまでやってきた。この度、皆様に見せたいのは、我が力に非ず、我が部下たちの、我を支えてくれる人達の力」
 彼は、真桜の打った刀を持ち上げると、再び、地に鞘ごと突き刺した。
「我、ここを一歩も動かじ。存分に攻め来たれ!」
 それは、堂々たる挑戦であり、紛れもない挑発であった。
「うう、隊長、無茶苦茶怒ってるの。沙和が怒られてるわけじゃないのに、ちょっと怖いの」
 魏陣営の控えの場となった練兵場の隅で、沙和は一刀の口上を聞いた途端、涙目でそう呟いた。
「私もはじめてみるな、あれほどの怒りは」
 金剛爆斧とはまた違う模擬戦用の戦斧を抱えた華雄もまた呆れたように言う。だが、その獰猛な笑みは、主の口上を歓迎しているように見えた。
 そんな二人に対して、秋蘭は落ち着いた調子で笑みを見せる。
「簡単なことさ。華琳さまや私、それに姉者や霞といった著名な武将は、あれより立場が強い──と少なくともあれ自身は思っている。だから、それらが侮辱されても、もちろん、怒りはするが、正当な報復は本人に委ねられるべきだ、と思っているのだよ。だが、保護下にある者や部下となると、自らがその手で侮辱を払拭せねばならんと考えるのだろう。だから、あれほどまでに怒るのだ」
 その言葉に、二人は納得したように頷く。しかし、華雄はすぐに皮肉げな笑みを浮かべて見せた。
「それにしても、弓兵部隊相手に、一歩も動かないとはな。弱いくせに、壮語する」
「でもでも、これって隊長が沙和たちを信頼してくれてるってことなの」
「ああ、その通り。さあ、行け。あやつの怒りを形にするのはお前たちなのだから」
 その秋蘭の言葉を背に、于禁、華雄の両将軍は出陣する。

 一方、蜀陣営では、黄忠と馬超が額を寄せ合って小声で話し合っていた。
「おい、どうするんだ?」
「どうしたのかしら? あのように言っているのだから、存分に攻めさせてもらえばいいんじゃないかしら?」
「いや、そうじゃ……本気か?」
「翠ちゃん、あちらは猛将華雄と于禁将軍がいるのよ。手を抜いて勝てるわけがないでしょう」
「いや、そうじゃなくて……勝つつもりなんかあるのか、本当に」
「当たり前でしょう?」
 さらりと言い放つ黄忠を、馬超はまじまじと見つめる。しかし、いつまでも目をそらしもしない黄忠に諦めたように頷く馬超。
「では、はじめましょう」
 そう言って、黄忠は部下の兵たちに指示をはじめる。
 だが、髪を馬の尻尾のように垂らした武将、翠は一人首をひねり続けるのだった。

「無茶をさせるな」
「うん、ごめん」
「もう諦めているさ」
 一刀の横にたどり着いた華雄は、敵陣を眺めながら文句を口にするが、もちろん本気のわけもなく、その顔には獰猛な表情がはりついたままだ。
「それで、沙和たちはどうすればいいのー?」
 華雄とは逆隣に立った沙和がこれも敵陣を見つめて訊いてくる。
「悪いけど、沙和、俺を守ってくれ。華雄は……本気で」
 その言葉に華雄は愉快そうに片眉を上げて応える。
「おや、いいのか?」
「ああ、本気で、だ」
 彼女は、男の横顔を見下ろす。愛しい、そして、忠誠を誓った男の静かな静かな憤怒の顔を。
「よし、ならば、沙和、二射耐えろ。あとは馬超が来るかもしれんが……あれは本気ではなかろう。馬も用意しておらん」
 その言葉に、沙和はこれも刃を潰した双剣をすらりと抜き放つ。
「任せてなの! 沙和は秋蘭さまたちはもちろん、真桜ちゃんたちにも敵わないけど、剣の早さだけなら、魏軍一なの!」
 宣言する沙和の口元にも、笑みが刻まれている。それが虚勢であったとしても大したものだ、と華雄は純粋な称賛の微笑みを浮かべる。
「さて、行こうか」
 先程から、一切姿勢を変えない北郷一刀が、わずかに震える声でそう言った。その声に、二人の女は胸の内に温かなものが流れるのを感じずにはいられなかった。
「はじめいっ」
 孫呉の姫君の号令によって、戦闘の幕が開く。


 黄忠の部隊は、五十の重装歩兵と、それによって作り上げられる壁の中におさまった百五十の精鋭弓兵から成り立っていた。
 その百五十が、一斉に矢を放った。
 模擬戦の矢は、鏃がついていない。だから、どうしても重量が実戦とは異なり、それを狙い通りの場所に射るのは神業ともいえる技量を必要とする。隊長である黄忠はそれを自在に可能としたが、そのようなことができる兵はそれほど多くない。
 だから、この第一射は、どれほどの誤差が出るのか、それを試す為の捨て射ちであった。
 しかし、百五十もの矢となると、どうしても、その軌道は大きく広がる。面で落ちてくる何十本もの矢を見て、平静でいられる者は多くない。たいていは遮蔽物──盾や土盛りの後ろに頭をひっこめ、己に刺さらないことを祈るくらいだ。
 しかし、一刀と沙和は違った。
 一刀は、ひたすらに矢を見つめて一歩も引かず、沙和は双剣を手に落ち来る矢を待ち構えていた。

 華雄は、駆ける。
 頭上を矢が行くのも、重装歩兵たちが、盾をお互いにさしかけて完璧な壁を作り上げるのも、何ひとつ気にせずに、彼女は駆ける。
 一歩でも近づくために、主のくれた信頼に応えるために。
 ひたすらに彼女は駆ける。
「第二射用意!」
 黄忠の鋭い声が飛ぶ。一射目が落ちきるより前に、だいたいの見当をつけて射ることができるはずだと彼女は自分の部隊を信じていた。
「狙え……射よ!」
 二射目が発射される。それは、明らかに一射目よりは集まって、一刀と沙和がいる地点を目指していた。
 華雄の駆ける速度が、より、上がる。

「ぐっ」
 一射目のほとんどは、手を出すまでもなく、一刀と沙和を避けて地に落ちた。だが、三十ほどの矢は沙和の双剣によって跳ね飛ばさなければならず、そして、一本だけが、彼女の剣によって作り上げられた盾をすり抜けた。
「隊長!」
 振り向けば、肩を押さえる一刀の姿。いかに先を潰した矢とはいえ、落下の衝撃は充分にある。下手なところに当たれば、大怪我をするのは確実だ。
「大丈夫だ、次が来るぞ!」
 その声に、沙和は向き直る。
 そこに落ち来る、百五十の矢。
「ふふん、これさえ耐えればなのー」
 だが……本当に?

 華雄は駆ける。
 重装歩兵たちは、長槍を構え、盾で覆いあい、まさに針鼠の如き壁を作り上げていた。
「莫迦めが」
 呟きとともに、華雄の姿が消える。重装歩兵たちだけではなく、黄忠すらその姿を見失い、そのために、第三射を号令するのが遅れてしまう。
「私の相手は貴様らではないわ!」
 その叫びは、はるか高みから聞こえた。
「上っ」
 その声に、顔が上がったときにはもう遅い。重装歩兵の列を飛び越えた華雄は弓兵たちのど真ん中に着地すると共に、その戦斧を振るっていた。途端に、四人ほどがそれにひっかけられて、宙を飛ぶ。
 斧が振られる。
 重いその武器が、一振りごとに、人をひっかけ、たたき落とし、跳ね飛ばす。
 腕が折れ、脚が折れ、肩が潰される。
「我が名は華雄、北郷軍一の太刀っ!」
 いま、颶風が吹き荒れる。

「勝った」
 ほっとしたような呟きを聞き取れたのは、沙和一人だった。だが、彼女は矢を始末するのに夢中で、その意味を問いただすことすらできない。おそらく、数本はすりぬけて彼の体を打っているはずだというのに、それで呻きを上げることすら、いまの一刀はしていない。そのことが、沙和の剣速をさらに上げる。
「終わりだよ、沙和。見てご覧」
 全ての矢が落ち、次がやってこないことに疑問を持った沙和に、真っ直ぐに上がった指が示される。そこでは、いままさに混乱の最中にある黄忠隊の姿があった。弓兵の大半は地に伏しているか、どこかにはねとばされてよろよろと逃げようとしているかどちらかで、重装歩兵が最後の頼りとばかりに黄忠を囲んで守りを固めていた。
「でも、隊長、翠さんがきてるなの!」
 見れば、左手から、槍を構えた翠が猛然と駆けてくる。華雄と鉢合わせにならない経路をとってきたのだろう。戦術としては賢明だが、華雄の突破力を甘く見すぎだな、と一刀は頭の中で評価している。とはいえ、華雄がもう一歩遅ければ、おそらく彼は耐えきれなかったろうが。
「いや、もう遅いんだ」
 沙和が返事をしようとする間にも、重装歩兵がいっぺんに三人吹っ飛ぶ。
 その時、黄忠陣営にて、白旗がかかげられた。
「勝負あった!」
 蓮華の声が練兵場に響き、途端に一刀がその場に崩れ落ちた。


「まったく、体中痣だらけではないか」
「よく耐えたろ?」
 手当てをしながら秋蘭が文句を言うのに、俺は彼女の指を心地よく感じながら、強がりを言うしかなかった。そうしないと触れられるたびに呻きが漏れてしまうのだ。
「莫迦が。実戦では死んでいるぞ。私はそのように教えたか?」
 部屋の壁にもたれかかった華雄が、少し本気で怒っている風情で俺を責める。心配してくれているのはわかるが、華雄に殺気を出されると正直怖すぎる。
「模擬戦だからこそだよ」
「だが、先が潰してあったとしても、目に刺されば失明する。二度とするなよ?」
「……うん、ごめん」
 さすがにそう言われると気落ちする。秋蘭にとって、矢を受ける人間を見るのはつらいことだろう。
「ごめんね、隊長。沙和がもっとがんばってたら……」
「いやいや、なに言ってるんだよ。沙和が守ってくれたおかげで、この程度で済んでいるんだからさ」
 実際、一歩も動かないとは言ったが、刀を振るわないで済むとは思いもしなかった。刃を潰していない武器を使うのは本来は違反になるが、自分を守るくらいならいいだろうと思っていたが、その必要すらないとは、沙和さまさまだ。
「そうだぞ、沙和。あの紫苑の弓兵に対して、これだけの被害で終わらせることができたのは、お前のおかげだ。同じ弓将として保証する。誇るがいいぞ」
「えへー」
 魏きっての弓使いである秋蘭に褒められて、満更でもなさそうな沙和。
 俺もさらに声をかけようとした時、戸を叩く音がした。
「ん、誰だろ」
「ああ、私が出よう」
 華雄が扉に向かい、それを開けると、そこには大きな帽子をかぶった可愛らしい少女が二人。その名も高き、諸葛亮と鳳統その人だった。
「あ、あ、あの、北郷さんに」
「さ、しゃ、謝罪に」
 わたわたした感じの二人を、華雄がなんだこれは、という風に見つめている。その視線のおかげで、さらに緊張したのか、顔を真っ赤にして、何事か口走っている孔明ちゃん。
「ええと、とりあえず入ってよ」
 秋蘭が手際よく出してくれた上着を羽織り、とりあえず見苦しくない格好にした上で、二人を部屋に招き入れる。
 沙和が淹れてくれたお茶を勧めると、一気に飲もうとして、またはわあわ言っていたが、段々と落ち着いてくれたようだった。
「それで、謝罪というのは、なにかな? さっきのこと?」
「はい、あの、直接的な決闘のことではなく、それを引き起こしたこと、です」
「です」
 俺が訊ねると、二人して、勢い込んで頷く。
「えっと?」
「あの、この国で、北郷さんの、その……悪い噂が流れているのは知っておいでだと思いましゅ」
 最後で噛んでしまい、真っ赤になる士元ちゃん。その後をついで、孔明ちゃんが、口を開く。しかし、ついつい意識の上でちゃんづけしてるけど、この子たちこそ、あの不世出の大軍師なんだよなあ。
「そのことについて、私たちも知っていましたし、どのように噂が変遷していっているかも掴んでいました」
「でも、それを取り締まることは怠っていたんです」
「ははあ。でも、謝るってほどかな。自分たちで流してたわけじゃないだろ」
「も、もちろんです!」
「そんなこととても!」
 いくらこの子たちが軍師としての才が高くても、下世話な噂を流すなんてことをするとも思えない。
 もししていたとしたら、もっとうまいやり方があったろう。少なくとも、将の一人が真に受けて暴発するようなことにはならなかったはず……いや、彼女は本当に真に受けていたのか? 必死で抗弁する二人の軍師を見て、俺はそこに疑問を感じずにはいられなかった。
「本来、他国の武将のことについてあまりにひどい噂が流れたなら、直接に禁止するのではなくても、なんらかの対策をするべきだったと思います」
「しかも事実無根の噂ですから……」
「女好きっていうのだけは間違ってないのー」
「まあ、それなら、三国どこでも流れているしな」
 沙和も秋蘭もなにげにひどいことを言っています。
「しかし、私たち自身も、追いかけていて気分が悪くなるようなものもありました。紫苑さんがそれを耳にして義憤にかられたのも、しっかりと現状を分析できなかった私たちの責任だと」
「はい、そう思うんです」
 人の口に戸はたてられない。そして、噂というのは煽情的で、過激であればあるほど受けるものなのだ。だから、一度流布された噂が、よりひどくより下賤になっていくのは止めようがない。
 できることといえば、噂に対して正しいイメージを周知させることくらいだ。あるいは、噂をしっかりと吟味することも無く受け入れてしまう姿勢を避けるよう教育することか。
 少なくとも高級官吏の間にはそのような噂に踊らされないような心構えを持ってもらいところだ。それについて責任があると言われればそうかもしれない。
「だから、謝罪に、と」
「はい」
 揃って答える二人。俺はちらと秋蘭と目配せをしてから、彼女たちに笑顔を見せた。
「うん、わかった。謝罪を受け入れるよ。ありがとう」
「あ、えと、こちらこそ」
「ありがとうございます!」
 ようやくほっとしたのか、二人で顔を見合わせ、笑顔になる孔明ちゃんと士元ちゃん。
「これからは俺のことも噂だけじゃなく、現物を見て理解してくれるようにしてくれると嬉しいよ」
「あ、はい、そうします」
「みんなにもそう伝えます!」
 そうして、すっかり元気になった様子の二人を送り出し、俺は一つ息をつく。
「どう思う、秋蘭」
「あれらは、嘘は言っていないが、全てを言っているわけではないな」
 予想通り、秋蘭は見抜いていたようだ。彼女のことだから、俺以上を見据えているのだろうな。
「えと、どういうことなのー?」
 わけがわからない、という風情の沙和に簡単に説明しようとする。
「手頃な敵に俺を選んでた、ってところかな。人間、敵がいると結束するからね」
 それでも疑問符が浮かんでいる沙和に、秋蘭が補足する。
「つまり、あれらが噂を掴んでいたというのは真実だ。しかし、それだけではなく、自分たちでそれを補強するようなこともしていたかもしれぬ、ということだな」
「そこまではどうだかわからないけどね。自分たちで広めるようなことはしていないと言っていたからね。ただ、武将たちが噂していても、否定はしなかっただけじゃないかな」
「天下の諸葛亮と鳳統が否定しない。これ以上の真実味があるか?」
 それもそうだ。
 魏の勝利に終わった三国の戦いの後、三国は基本的には外に敵がいなくなった。異民族はいるが、それは行動原理が違いすぎて、攻撃的というよりは守勢に回る方が多い。そんな中、結束を保つために、実際にはそれほどの利害関係がない『敵』をひっぱりだしてくるというのは古今よくあった手法だ。
 今回は、それに俺が選ばれたということだろう。女性ばかりで、さらに、おそらくは男女の関係には潔癖な人が多いだろう組織では、女たらしは格好の標的だ。
 なんか自分で考えていて情けないけれど。
「ほへー。難しいのー」
 ようやく理解したのか、沙和が顔をしかめる。
「まあ、今後はないさ。俺たちに謝罪してまでさらに続ける意味がない」
 そう言ってから、沈黙を保っていた華雄に声をかける。
「華雄」
「ん?」
「部屋を出たあたりを探ってくれないか? たぶん、黄忠さんがいるはずだ」
 茶を飲み干すまでもなく、華雄に連れられて、漢升さんが現れる。
「まさか見破られるとは思いませんでしたわ」
「茶番の後始末をしにくるだろうと思いましてね」
「あら、そこまで」
「こやつは、たまに無駄に勘がよくなる。たまにとてつもなく鈍いがな」
「あらあら」
 茶々を入れる秋蘭と、相変わらず穏やかで優雅な笑みを浮かべている漢升さんをとりあえずは無視して話を進める。
「さっき、孔明さんたちが来たのは見ていたでしょう。あなたはあれを引き出したかった。そうじゃないですか?」
 悪戯を見つかってしまった子供のように微笑む漢升さん。
「そこまでわかっていらっしゃるなら、もうなにも言えませんわ」
 彼女はその場で膝をつき、頭を垂れる。
 なんだか、ここ数日、平伏されたり謝られたりしてばかりじゃないか?
「黄漢升、此度のこと、北郷殿を利用させていただきました。また、侮辱を重ねたのも、この老将一人の愚かしさ。これらの責、いかようにも償います。どのようなことでもお申しつけくださいませ」
 その言葉にふん、と鼻を鳴らして答えたのは華雄だ。
「首でも差し出すというのか?」
「おい、華雄」
「もし……お望み……で……」
 そこまで言って、漢升さんは言葉を継げなくなる。黄忠さんは未亡人と聞いた。たしか、彼女には、まだ幼い子がいるはず。簡単に首を献上するとは言えないだろう。
「お望みで、ありますならばっ」
 床に頭をこすりつけるようにして、血を吐くような叫びを上げる彼女に慌てて駆け寄る。
「いやいや、首なんていらないよ。顔を上げてください」
「しかし……」
「今回のことは、いいきっかけだったと思います。俺は、あなた方蜀の方々に距離を置かれていた。それは噂のせいもあり、あるいはただ単に邪魔な男であったからかもしれません。しかし、今回のことで、きちんと理解しあうきっかけができたように思います。そうじゃありません?」
 そこまで一気に言って問い掛けると、おずおずと頭が上がる。
「それは……」
「まあ、孔明さんと士元さんに関しては、まだわだかまりとかあるのかもしれませんし、ほとんど接することのできなかった武将の方々もいます。でも、少なくとも、なにかの印象は与えられたでしょう。だから、いいんです」
 うむ、と秋蘭が頷く。
「華雄がべらぼうに強い、という印象は強烈に植えつけられたろうな」
「それで俺は嬉しいけどな」
「ふん。私ではなく、己で勝負しろ」
 平板な声だが、俺にはわかる。あれは照れている。間違いない。
「しかし、それでは、わたくしのしたこととあまりに釣り合いが……」
 じゃれあうような俺たちに、漢升さんは申し訳なさそうに床から立ち上がろうとしない。たしかに本人の気が済まないというのはあるだろう。
「そうですね……では、友達になりましょう。といってもこれは罰とかではなく、あくまで提案ですよ」
 そう言った途端、漢升さんは驚いたように黙り込み、後ろでは沙和たちが騒ぎだした。
「新しい口説き方なのー」
「うむ、新鮮だな」
「そこ、うるさいよ」
 とりあえず気にしないことにして、漢升さんに向き直る。
「どうかな?」
 柔らかい笑みで迎えられた。はじめて、この人の心からの笑みを見ることができたように思った。
「ええ、それでよろしいならば。この黄漢升、北郷一刀の一生の友となりましょう。そして、今後は、よろしければ、紫苑、とお呼びください」
 紫苑、というのは真名だろう。あえて聞き直すこともないだろうが、相変わらず返す真名がないのが申し訳ない。
「あ、うん、わかった。ありがとう、紫苑」
「では、わたくしは、一刀さんとお呼びしますわね」
 真名がないことを理解してくれているのか、そう言って俺の手に捕まって立ち上がってくれる紫苑。
「よろしくお願いしますわ、一刀さん」
 そうして、そんな風に艶やかに笑う紫苑の姿が、俺の脳裏に深く刻みつけられたのだった。

        (第二部北伐の巻第一回・終 北伐の巻第二回に続く)



北郷朝五十皇家列伝

○文家の項抜粋
『文家は文醜にはじまる皇家であり、いわゆる麗袁家集団に属する。
 同じく麗袁家集団に属する顔家が後代まで中華圏北方に残り、東西交易の要所をおさえることで繁栄していたのに対し、文家はまさに麗袁家集団の矛として、顔家、麗袁家、両家の支援を受けて外へ外へと進んで行った。
 文家は成立当初から漢に服属した南匈奴を支配下に置いていたが、後に西進の過程で、その拠点を追われた北匈奴を配下に加える。長年の分裂は、文家という出自の異なるものの下で解消され、ついに匈奴は古の強大な姿を取り戻した。
 ここに後にローマ人たちを恐れおののかせる遊牧騎馬集団が成立する。
 すなわち、文家の配下=フン族である。
 後にローマ帝国を継ぐ張家に先立つこと約三百年。文家はヨーロッパに北方より侵入し、東ゴート族を蹴散らし、世に言う「ゲルマン諸族の大移動」を引き起こすことになる。これは、後の第三ローマ帝国(張家)による戦乱に伴う「ヨーロッパ諸族の大移動」とよく比較されることになるが、ヨーロッパ世界という狭い世界に限れば、その影響はどちらも甲乙つけがたいと言えよう。世界の歴史を通してみた場合は、後者の方が圧倒的に影響が大きいとはいえ、当時、西方の人間にとってはローマこそが世界であり……(略)……
 ……(略)……しかしながら、フンこと文家は、当時の欧州情勢にはさして興味がなかった。彼らはドニエプル流域からドナウ流域まで広く分布し、遊牧を続けながら、東西ローマ両帝国からの貢納を受けた。
 たとえば、ゴート族に脅かされる西ローマ帝国からの救援要請や、ガリア領土を与える(ヴァンダル族への牽制)などの巧妙な誘いには決してのらなかった。
 彼らの要求する貢納は、あくまで自分たちが侵攻しないためのものであり、それ以上の行動を起こす必要はなかったし、その意志もなかったのだと推測される。
 しかし、実際に行動を起こさないとしても、その存在の圧力だけで周囲は揺れる。最終的に彼らが揺り動かしたゲルマン諸族の大移動は、南方では西ローマ帝国の滅亡を呼び、ヨーロッパ中央ではフランク王国を生み、北方ではブリタニアにおける七王国を成立させた。
 後に七王国は黄家によって統合され、フランク王国の一部は魏家に継承されていく。こうして、皇家による東西の連環が……(後略)』

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