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936 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/07/04(土) 22:36:51 ID:YL/c6Bcm0
いけいけぼくらの北郷帝第二部第五回をお送りします。
予定していた展開ではあるのですが、雪蓮の話がボリュームが膨らみすぎたので、わかりやすさを
考慮して、他の話をばっさりと切って別の回にまわすことにしました。
そういうわけで、次回は(もしかしたら、その次も)今回の話と時間が前後することがあります。

☆★☆注意事項☆★☆
・魏ルートアフターの設定です。詳しくは第一部をどうぞ。
・魏軍以外の人物への呼び方・呼ばれ方は、原作になるべく近くしようとしていますが、知り合う
シチュエーション等が異なるため、原作中とは相違があります。
・エロあり。
・(現状では)恋姫キャラ以外の歴史上の人物等の名前は出るものの、セリフはありません。
・物語の進行上、一刀の性的アグレッシブさは、真より上になっています。これでも無印ほどでは
ないと思います。
・『北郷朝五十皇家列伝』は読まなくても本編を読む上ではなんら支障がありません。また、妄想
(暴走)成分が過多です。お気をつけください。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL → http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0324
937 名前:一壷酒 ◆1KOsYU0skY [sage] 投稿日:2009/07/04(土) 22:37:03 ID:YL/c6Bcm0
パーフェクトビジュアルブックの能力値に関しては、参考にはしても絶対視はしないという方向で。
そもそもこのお話だと、覚醒しちゃったり、成長してるキャラがすでに多いので、あまり意味がない
でしょうしね。

なお、ちょうどいいので、恋姫関連商品以外で参考にしているものを挙げておきます。
†参考文献
満田剛(2006)『三国志─正史と小説の狭間』 白帝社
渡邉義浩(2000)『三国志 (図解雑学)』 ナツメ社
坂口和澄(2007)『もう一つの『三國志』 ―「演義が語らない異民族との戦い―』 本の泉社
易中天(2008)『三国志 素顔の英雄たち』上下 冨山房インターナショナル
ロバート・テンプル(2008)『図説・中国の科学と文明(改定新版)』 河出書房新社
岡田英弘(1998)『皇帝たちの中国』 原書房
杉山正明(2008)『モンゴル帝国と長いその後』[興亡の世界史9巻] 講談社
平田昌司(2009)『『孫子』―解答のない兵法 』[書物誕生―あたらしい古典入門] 岩波書店

研究をしたいわけではないので、どれもあくまで参考程度で、物語にとっておもしろいように解釈を
するようにしています。



いけいけぼくらの北郷帝
 第二部『望郷』編 第五回



 すらり、と鞘から抜き放たれたその白刃は、陽光をきらめかせ、鮮烈な美をそこに顕現する。元々静謐に満ちていた大使館の庭から、その一瞬ありとあらゆる音が消え、光すらどこかへ吸い込まれていくような気がした。
 ほう、と溜め息をつくような優美と恐怖。
 その二つの印象を同時に与えるそれをいろんな角度で眺める。
「どやろ?」
 この刀を打った本人、真桜が不安と期待を込めた顔で俺の表情を探っている。
「綺麗だ。重心も悪くない」
 素直な感想を口にする。
「せやろ。たいちょの言ったように刃文も地金もうまくいった思うんよ」
「これ三本目だけど……これって、再現できるのか?」
「たぶん、もう無理や」
 悔しそうに言う真桜。
「また鋼からはじめなあかんし。そもそもあの玉鋼ちゅうたっけ。あれかてたいちょの話聞いて作ったけど、偶然うまくできたようなもんやしな」
 洛陽郊外につくったたたら場で砂鉄から作り上げられた玉鋼はほんのわずかで、真桜はそれを三振りの刀に打ち上げた。一本目は焼き入れの段階でなまってしまい、二本目はうまくいったかに見えたが、試し斬りで見事に折れた。
 そして、ようやくうまくいった三本目を、真桜は呉に持ち込んで、仕事の合間に研ぎ出しをしていたらしい。凝り性というべきか、鍔と鞘まで自作したらしく、らせん状の凹凸の刻み込まれた鍔と、銀で竜の紋様の刻まれた黒鞘がついていた。
「しかし、こんな斬ることに突きぬけた武器が発展するもんなんやなあ」
 何度か素振りしてみている俺を、おもしろそうに眺めている真桜。たしかに彼女たちの武の道に比べると、日本刀の存在や、俺の鍛練そのものが変わって見えるのかもしれない。こっちの刀は幅広で鉈のように使うか、よく曲がったりするからな。日本刀とはやはり違う。
「日本刀は、折れず、曲がらず、よく斬れる、が特徴だからな。でも、実際の戦争では、主要武器は槍なんかの長柄や投石と弓だったらしいけどね」
「そりゃそやろ。間合いがちゃうもん。せやけど、これはこれでつこたんやろ? それがすごい思うわ」
 こちらでも、間合いの短い武器を使う将はいるが、それは将だからであって、兵士たちが短い武器を使うのはよほど身近に寄られたいざという時だけだ。日本でも、刀は副次的な装備だったと聞く。ただ、それ以上に儀礼的な意味や精神的なものが込められている場合も多いわけだが。
「んじゃ、斬ってみてや」
 ぽんぽん、と巻藁を叩く真桜。二本目はこれを斬ろうとして折れたんだよな。俺の振り抜きが悪かった可能性もあるが……。
「ん」
 改めて青眼に構えると、ずしりと腰に響く重みを感じる。これならしっかりと振り抜けそうだ。真桜が横に退いていくのを見て、八相から蜻蛉の姿勢に移る。真剣を振るうなら、剣道よりもじいちゃんに習った剣術こそがふさわしいだろう。
「きぇえええいっ!!」
 気合いを込めた叫びと共に切り下ろす。まるでバターを切るかのようにするすると吸い込まれるように動く刃。俺の刀が通りすぎた途端、巻藁の上半分はずるりと地に落ちていった。あまりの手応えの無さに、驚いてしまう。
「お、すごいやん」
 落ちた巻藁を拾い、その切断面を観察しては、おーとか、ほーとか言っている真桜。
「やっぱあかん?」
 複雑そうな俺の表情に気づいたのか、急にしゅんとした顔になる。
「いや、前の二本とはまるで違うよ。ただ、なんというか、斬れすぎて怖いな、これは」
 再び陽光に刃をきらめかせてみる。形だけを見れば、たしかにこれは日本刀と言っていい。だが、日本刀が築き上げてきた長い積み重ねはこの中にはない。俺の知識と、真桜の才が作り上げた、なにか別のものだ。李典刀とでも言うべきか。
「んー? 斬れるんやったらええんちゃう?」
「たしかに、武器としてはな。正直、これは名刀と言えるものだと思う。よくやったな、真桜」
 そう言うと、ほっとしたように微笑みを浮かべる。果たして、この刀の製作で得たなにかが、他のものに応用できるかどうかはわからないが、少しでも糧になったら嬉しいと思う。
「だけど、俺の方が使いこなせるかどうか……。実戦で使ってみないとわからないな」
 鞘におさめつつ、少し不安に思う。せっかくの力作を、俺が使いこなせないでは意味がない。俺以外にこの形の刀を使う者もいないだろうし。
「できれば、つかわんですむほうがええけどな。たいちょが出るような事態は考えとうないわ」
「たしかになー。俺弱いし……」
「いや、強い弱いやのうて、部下に将がおるんやから、たいちょが出るってのは周りがやられた時やろ? そんなんなったら、誰かて無理や」
 ぱたぱたと手を振って真桜が否定する。
「そう言われると……なあ」
「せやから、その刀はたいちょが追い詰められたとき、相手を切り裂ければええねん。囲まれたところから逃げられればええ、そう思てつくったんや」
「そうか。うん、ありがとう。大切に使うよ」
 笑顔を浮かべて言ってくれる真桜に、真摯に礼を言う。本当に、俺は周りの皆に助けられてばかりだな、と実感しているまさにその時、鋭い言葉が降ってきた。
「ねえ、その刀、試してみましょうよ」
「……雪蓮?」
 振り返れば、呉の女王孫策と、それにつき従う甘寧の姿がそこにあった。孫権ではなく、雪蓮についている甘寧というのはなかなか珍しい。
「ちょっと表敬訪問に来たんだけどさ、なんかおもしろそうなことやってるじゃない? つい出てきちゃった」
「まあ、それはええねんけど……試すて?」
「だから、私で試してみるってこと」
 雪蓮の顔には笑みがはりついている。だが、その奥からにじみ出てくるものにあてられて、俺は身動きが取れないでいた。懸命に喋っている真桜の額にも汗がにじみ出ている。
「はは、冗談きついわ。雪蓮はんみたいな武人とたいちょじゃ力の差がありすぎて、勝負にもならへんわ。たいちょだけやない、うちかてそうや。そう言うのなんて言うか知っとるか? 嬲り殺しや」
「魏の大使は口の減らないのばっかり? 私は一刀に言ってるのよ? ごくごく平和的に、ね」
 平和的、ね。これほどまでに殺気をまきちらしておいて、何を言っているのか。側近の、しかも武断派で俺に敵意を持っているはずの甘寧すら眉根をよせているほどだ。だが、逆にそこまで突きぬけた雪蓮の行動が、腹を決めさせた。
「真桜、恋と華雄を呼んできてくれ。見届け人だ」
 瞬間、彼女は反駁しようとしたのか何事か口を開きかけたが、俺の顔を覗き込むと、決然と口をつぐみ、こくりと一つ頷いて身を翻した。
「いいだろう。一勝負しようじゃないか」
 にやり、と笑みが大きく刻まれた。獲物がかかった、と確信する血に飢えた獣のように。
「ふふ、天下無双の武人が見届け人の勝負? いいわねぇ、ぞくぞくしちゃう」
 官能的に笑み崩れる顔は、あまりに美しく、恐ろしい。しかし、たとえばそれは華琳の激怒とも、華雄の底知れぬ強さともどこか違う。なんだか追い詰められたような、だからこそ何をするのかわからないというような狂気を秘めていた。そこへ、横から、予想もしていなかった声がかかる。
「雪蓮様、一つよろしいでしょうか?」
「ん、なに思春。今日は譲らないわよ?」
「いえ、北郷はその刀を持って間もないはず。慣れるまでの時間があるべきかと」
 雪蓮は柄に手をのせたまま、面倒そうに答える。
「はいはい。ほんと思春は融通がきかないんだから」
 甘寧が俺につかつかと近寄り、そっと背に手を置き、力強く押される。
「では、そちらの陰で振るといい。雪蓮様はご覧になりませぬよう」
 そう言って、俺は庭の隅の藪向こうに無理矢理のように押し込められるのだった。

「そうだ、甘寧、一つ頼みがあるんだけど」
「なんだ? 逃げるか? 都を出る道を教えるぞ?」
 狭い空間に押し込められながら、鋭い目つきの武将に話しかけると、予想外の反応が返って来て目をむく。どうやら、手助けをしてくれていると感じたのは間違いではなかったようだ。しかし、なぜだろう。
 いや、そもそも雪蓮のこの強引な持っていき方はなんだ? 明命が一時帰国したあの時を境に、彼女の態度が一変したのはたしかだが、ここまでするほどだったというのか。
「いやいや、無駄だろ。ここで逃げたって。それより、なにか紐もってないかな? これ、腰に下げたいんだ。鞘を捨てるなんて勝負を投げるみたいでいやだろ?」
 そう言って鞘におさめられた刀を指さす。
「む、下げ紐か、たしかにないのは困るな」
 甘寧は懐を探ったりしていたが、ちょうどよさそうなものがなかったようで、最後に頭に手をやった。
「ほら、これを使え」
 するりとほどいたのは、髪をまとめていた赤い紐だ。それに応じて、ばさりと長い髪が彼女の背に落ちる。光の具合によっては紫がかって見える黒髪を下ろした甘寧は、なぜだか妙に女性のやわらかさを感じさせた。いつものきつい印象が消え、ともすればあどけない少女の顔が覗くような気さえする。
 締めつけられていたのがほどけて気持ちいいのか、猫が伸びをするように首を振る彼女の動きに連れて、髪が踊る。その光景に、俺は目を奪われていた。
「ん、どうした?」
 紐を受け取ったものの、彼女に見とれて動こうとしない俺を不審気に覗き込んでくる甘寧の声に、意識が戻る。
「あ、いや、髪を下ろしたところをはじめて見たからさ」
 なにを言っているのだ、というように鼻を鳴らされる。
「動くのに邪魔だからな。明命のように常に髪をたらして動けるほうがおかしいのだ」
「あー、たしかに」
「まあ、幼平の場合は、あれも目くらましの一つなのだろうが」
 そんなことを話しながら、ズボンのベルト通しとベルトそのものに紐を通し、鞘を結びつける。
 そうして、ようやく刀を抜きはなった。
「北郷、忠告してもよいか」
 刀を構え、重さに慣れようとしていると、低い声で甘寧が話しかけてくる。口はまったく動いていないし、少し離れれば聞き取れないような隠密の話法──闇語りだ。
「ああ」
 俺もできる限り低く答える。彼女や明命のようにうまくは出来ないが、藪の向こうの雪蓮に聞こえなければいい。
「お前に勝ち目はないぞ」
 はっきりと宣言されると少々凹むが、間違いようのない事実だ。
「わかっているさ。骨の二、三本は覚悟している」
「それで済めばいいがな……」
「さすがに殺されるほどの恨みはないぞ?」
 二度、三度振ってみる。これまで振っていた木剣も、なるべく元の世界で使っていた木刀に似せていたつもりだったが、やはり重心が違うな。
「ああ。そのはずだ。だが……いや、なんでもない。気にするな。ただ、気をつけろ」
 珍しく口籠もり、念を押すように言い募る甘寧。その姿に俺は言い様のないおかしさを感じる。
「まず俺を殺そうとしたのは甘寧じゃなかったっけ?」
「主が死ねといえば死ぬ覚悟はある。呉のためにならぬならば、除くのも厭わん。だが、いまの孫策様が、そこまでの覚悟をなさっておいでなのか、お前への感情に目が眩んでおられるのか、そこが読めないのだ」
 感情、ね。心の隅で、彼女の何を刺激したのかを考えつつも、意識は刀へと傾く。振るだけで空気を切り裂くこの刀を、いかに使いこなせるかが勝負の分かれ目だ。負けるにしても、なにかを残さねばなるまい。
「うーん、そこまで怒らせていたのか。困ったなあ」
 そう言った時の、甘寧の呆気にとられたような表情がなんとなく気にかかった。
「ふん……なんにせよ気をつけろ。お前は祭殿の剣を受けたことがあるだろう。それをよく思い出しておくのだな」
 祭の剣か。雪蓮に剣を教えたのは祭と亡き孫堅さんだと聞く。たしかに、基本は通底しているだろう。そうは言っても、本気の祭を相手にしたことは一度か二度しかない。それですら、俺が引き出せた本気で、彼女にとっては児戯のようなものかもしれない。
 しかし、参考になることはなるだろう。
「いいの? 俺にそんなに肩入れして」
 仮想的に祭のイメージを置いて、刀を振るう。うん、全部受け止められた。
「私は大使制度には反対だ。お前がどんな人物かもはかりかねる。だが、祭殿が呉を捨ててまで尽くした主が一時の感情で謀殺されるようなことは避けたい。それだけだ」
「ありがとう。甘寧は優しいな」
 思わずこぼす。彼女の立場からすればいま受けているのは破格の好意と言えるだろう。
「な、なにを言うか。ほら、華雄たちも来たようだ。行くぞ」
 普通の声に戻り、顔を赤らめて怒ったように言う甘寧に、俺はもう一度頭を下げた。


 華雄と恋がそれぞれの得物を立て、殺気を隠そうともせず傲然と並び立つ様は、あまりに凄絶で美しかった。雪蓮さえその笑みが少し引きつっている。
「莫迦なことをするものだ。真桜は来んぞ」
 近づいていくと、華雄が小声で呟くように言う。そのまま彼女は俺の衣服がほどけていないか、武器が壊れていないか、靴がひっかかりはしないかなど全身の点検をはじめる。
「うん……悪いことしたな」
 真桜はここにいてはいけない。いや、最初からいなかったことにしなければならない。彼女の立場としては、副使と呉王との決闘を認めるわけにはいかないのだ。だが、わかっていながら、近づいてはいけないとされれば、不安にならずにはいられないものだ。それを抑えてもこの場に来ないことを実行できた真桜を、俺は誇らしく思う。
「ああ、しっかり謝っておけ。生きて帰ってな」
「華雄もそう言うか。雪蓮はなにを考えているんだろう」
「……恋、ご主人様、護る。大丈夫」
 答えようとしない華雄に対して、恋が言葉を挟む。
「ご主人様、死ぬと、たいへん。月も悲しむ、華雄も悲しむ。……セキトと恋も悲しむ」
 口数少ない恋が、懸命に言う言葉を、俺はしっかりと受け止める。そうだ。こんなところで、歩みを止めるわけにはいかない。
「これ以上はなにも考えるな。後ろには我等がいる。ただ、打ち込むことだけを考えてこい」
「うん、わかった」
 全ての点検が終わったらしい華雄が顔をあげ、俺の背中を一つ叩いた。
 その痛みが、俺の足を前へと進ませてくれた。

「大層な準備ね」
「臆病者なんでね」
 鼻白んだような顔になる雪蓮。挑発のための罵倒を先回りして言われたせいかもしれない。
 俺たちは、十歩の距離を経て対峙する。甘寧と華雄、恋の三人はそれぞれ俺たちから二十歩ほど離れた場所に控えていた。
「治らない瑕は負わせない、これが約定だ。いいかい」
「ええ、いいわ。でも、殺す気じゃないと、到底私には勝てないわよ」
「それとこれとは別さ」
 そもそも、彼女に勝つつもりはない。負けるつもりもないが……。出来れば、彼女の気が晴れて曖昧なままに終わるのが一番の結末だ。結果を出さなくていいことというのも、この世の中には存在するのだ。
 問題はそうもいかなさそうなことか。
「はじめるぞ、来い北郷」
 言葉づかいさえ変わった雪蓮の殺気が消える。否、消えたのではない。収斂し、さらに強烈な指向性を持った何かへ変わったのだ。自分の動きを意識するまでもなく相手を切り倒す、そんな激烈な意志。
「ああ」
 そう答えるのが精一杯。純粋な強さだけで言えば、かつて恋の前に立ったことも、華雄に稽古をつけてもらったこともある。だが、彼女たちは俺を殺そうとは思っていなかった。恋はまだほとんど知り合う前で、死んでもいいとは思っていたかもしれないが、それといま目の前にしている美しい獣とはわけが違った。
 喰われるのではないか。そう思ってしまうのもしかたないほどに。
 まずは、来いと言われたことだし、こちらから仕掛けて……と考えた時にはもう遅かった。横薙ぎの剣尖を、上体を反らしてなんとか避ける。
 十歩の距離を、俺がどう攻めるか考える一時の間に駆け抜けたか、雪蓮。
「よく避けた」
 振り抜いて伸びた腕をそのまま落としてくるのを見て取って、逆に一歩踏み込んでその剣が切り払う空間を避ける。
 華雄や恋と稽古をしていて得られたものは数多いが、なにより、戦いがはじまってしまえば恐れずに済むようになったのは大きな収穫だ。避けるにしても後ろに下がるだけではなく、先へ進むこともできるようになった。
 ただ、そこからさらに有利な立ち位置を取る、というところまではなかなかいかない。いまも、切り下ろすタイミングを見事に外されて、軽やかに離れられてしまう。
「逃げてばかりか」
「押し合うような得物じゃないのさ」
 日本刀同士でも、いや、骨を断ち切ってすら刃はこぼれる。ましてや、剣のようにより重量のある硬い鋼にあたればそれだけで歪みかねない。
 だから、俺は彼女の剣を避ける。体をかがめ、足を引き、刀をふるって距離を取る。
 祭の剣にたしかに似ている。
 しかし、祭のそれが技巧を凝らした「術」ならば、雪蓮の剣は「舞」だ。天与の才は、全ての動きを優雅で無駄のないものに仕立て上げている。
「先程の構えは」
「雪蓮相手に一撃必殺が出来るほど精進できてないんでね」
 とはいっても、何もせずに逃げ回れるほど、雪蓮の打ち込みは甘くない。一撃避ける度に命がすり減るような心地がするほどの剣を、どれだけ避け続けられるか。
 せめて一撃なりとも入れて、相手を警戒させるか鈍らせるかせねばなるまい。
 だから、俺は、機を見て後ろに飛びすさった。
「あら」
 蜻蛉の姿勢を取るのを見て、雪蓮が目を細める。にぃ、と小さく笑みを刻むその顔は、まさに虎の如き肉食獣の相だった。
 もはや躊躇うことも許されない。
 轟、と俺の口から気合いがほとばしる。
 須臾でも、刹那でも、早く、早く早く早く。
 ただ、この一撃を打ち込むことだけを……!
 真桜の打った刀が弧を描く。
 それは、間違いなく、これまでで最高の打ち込みだった。
 だが。
 すでに雪蓮の剣は地を擦るように俺の腹をめがけて振り上げられていた。
 避けられない。
 そう悟ると同時に左手が動き、鞘をぐっとつかんで引き寄せた。
 縛られた場所を支点に鞘の先端が動き、迫り来る刃と体の間に入る……かどうかは純然たる賭けであった。
 そして……賭けに勝った。
 だが、鞘が割れる音とほぼ同時に胸に衝撃を感じ、体が後ろに倒れるのを止めることはできなかった。踏みしめようとした大地はそこになく、足は空を切る。
「やば……っ」
 受け身を取ることだけをなんとか考えながら、さらなる衝撃を感じ、俺は意識を手放した。

 さて、ここから先は、後に四人からそれぞれに聞いた話を総合した経過になる。

 鞘を断ち割ったその剣撃は、やはり鞘によって威力を減じ、「ぽりえすてる」をこすり切ることはできたものの、一刀の肌に届かなかった。
 それを見る前に手応えで感じ取った雪蓮はさらに踏み込み、体をぐいと前へ突き出した。その左肩が男の水月を打つ。彼女が振るった剣によってわずかに浮いていた男の体は、その一撃で完全に態勢を保てなくなり、後頭部から地面に落ちていく。
 かはっ。
 空気を押し出すようにして放つ苦鳴一つで、一刀が意識を手放したのを知り、彼女は酷薄な笑みをその顔に刻む。
 振り抜いた勢いをそのままに、女王は剣を高々と振り上げた。
 必殺を意識するまでもなく、ただ、振り下ろすだけで、男は死ぬ。
 それは、誰にも変えようのない、事実。
「さよなら、一刀」
 そして、彼女の腕が振り下ろされる。

 その光景を甘寧は容易に信じることができなかった。
 自分の主が意識を失った男に剣を突き立てている光景──ではなく、それに失敗した姿を。
「ありえぬ……」
 たしかに、彼女も主を止めようと駆けだしたはずだ。そして、同時に目の隅で華雄と呂布の二人が動き始めたのもたしかに見た。そう、彼女たちは一刀が倒れるまでは動いていない。もし動いていたとしても、一刀の体が浮いたあたりからで、そんなものは弾指の間にすぎない。
 だが、いまや、その二人が片方は南海覇王を蹴りあげ、片方は方天画戟を呉の王の首筋に突きつけている。自分は主の体から五歩以上離れているというのに。
 その主──孫策は自分の何も握っていない手と、すっぽ抜けて庭の向こうに突き刺さった南海覇王に不思議そうな視線を何度も往復させていた。方天画戟を突きつけられているというのに、その顔にはいまだ余裕が残されている。
「治らぬ瑕は与えぬと、約束したはずだ」
「んー、でも、こいつってば天からおりてきたんでしょ。死んだら、地から這いのぼってくる……」
 かもよ、というからかいの言葉を、彼女は最後まで言えなかった。
「我が好敵手、孫文台への尊敬を無にするな、孫伯符」
 先程まではたしかに下ろされていたはずの金剛爆斧が、彼女の首の横にあった。その場を譲るように方天画戟を下ろした呂布が、静かに雪蓮の腰から南海覇王の鞘を抜き取った。
 予備動作もなしに、華雄も恋も彼女の首をはね飛ばせるだろう。いや、得物などなくとも、この二人ならば雪蓮を瞬く間にくびり殺せる。それは紛れもない事実であった。
「孫策様」
 甘寧が声をかける。だが、彼女は動かない。動きたくとも、動けないのだ。いま、自分が助けようと駆け寄れば、駆けつけるまでに孫策は殺されるだろう。そのことが彼女にはよくわかっていた。
「ここは引きましょう。約定を破ろうとなさったのは事実。しかし、貴方は勝たれた。北郷が意識を取り戻せば、たわいのない話で済みます」
 そう、他の者ならばいざ知らず、北郷一刀ならば、勢い余って殺しかけたとしても実際にそれがなされていなければ、問題は起こさない。そう確信している己の心に気づき、思春は驚愕を覚える。決して表には出さぬままに。
 側近の言葉に応えるように、孫策は体を起こし、一歩、二歩、と退いた。それに二人の刃がついていくことはない。華雄と呂布は、己が主を護ろうと、一歩もその体から動こうとはしなかった。
 顔をうつむかせ、髪が垂れているせいで、孫策の顔は他の誰からも隠れている。そのまま素直に退散すれば、それを咎める者もいなかっただろう。
 そう、それで、終わるはずだった。呉の女王は己が行為を笑い飛ばし、その後に軽く謝罪して南海覇王を持って堂々と大使館を出て行けた。
 だが、誰もが予想していなかったことが起きた。
「……え?」
「孫策様っ!?」
 思わず呂布が声を上げ、甘寧は信じられぬものを見たように叫んだ。
「逃げただと?」
 華雄が惚けたように呟くように、孫策は、その身を翻し、風のように消え去っていた。追う者も、襲う者もいないこの状況で、なぜだか孫呉の女王たる人物はなにかを恐れるように必死で逃げていた。
「……甘寧よ」
 しばらくの放心の後で、置き去りにされた部下に、華雄は声をかける。
「なんだ」
「この剣はどうする。南海覇王といえば孫堅も持っていた剣だろう」
 己が蹴り飛ばした剣を呂布から受け取った鞘にしっかりとおさめた後で、甘寧に差し出す。その足どりがほんのわずかながら乱れているのを甘寧は見て取った。やはり、奇跡というのは起きるものではない。無理矢理に起こすものなのだ。いまの華雄の脚は、ほんの小さな動きにも悲鳴を上げていることだろう。
「ああ……いや」
 彼女はその剣を受け取ろうとのばした手を戻さずにはいられなかった。
「回収せよとの命も受けておらん。ご本人がああして逃げ去ったとなれば、私もそれに倣うしかあるまい」
「そうか、では丁重に預かっていると伝えておいてくれ」
 華雄は少しいぶかしげに彼女の動きを見ていたが、追求はしない。したところで、わかることでも、自分が考えることでもないと思っているのだ。
「しかし、孫策はどうしたのだろうな」
「わからん。だが、そこの北郷が関係していることは間違いあるまい」
 呂布が抱き起こし、背に負っている北郷一刀を顎の動きで指し、甘寧は疲れたように言う。華雄は思わず苦い表情を浮かべていた。
「まあ、しかたあるまいな」
「ああ、困ったものだ」
 そう言うと、二人の武将は顔を見合わせ、ほんの少しだけ唇の端を持ち上げるのだった。


 気づくと、見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていた。
 ぼんやりとした意識が、それが自分の見ているものだと認識してくれるまで、しばらくかかった。
「ん、ここは……」
 掠れた声が漏れる。口を開いただけで、頭がずきりと痛んだ。
「ああ、気づいたわね」
「よかったです、ご主人様」
 二つの声。一つは呆れたような、一つは泣きそうな。その声のほうに視線を動かそうとすると、また頭が痛み、目をつぶってしまう。
「ああ、頭を動かさない方がいいわよ。盛大にたんこぶこしらえてるんだから」
 声が近づいてくる。ふんわりと優しい香りが鼻に届く。ああ、白檀の香りだ。
「意識が戻ったなら、起こしちゃったほうがいいかも。月、そこの枕取ってくれる?」
「うん、詠ちゃん」
 上から覗き込むようにして観察していた詠に抱き起こされるようにして半身を起こすと、月が腰の下にクッションのように枕を差し入れてくれる。大きな枕二つに寄り掛かるようにして、俺は上半身を起こすことになった。二人のメイドにこうして甲斐甲斐しく世話をされているとなんとなくくすぐったいね。
 そして、ずきずきと痛みをもたらすその場所につい指を伸ばしてしまった。
「いてっ」
 熱いような痛みが走り、思わず手を離す。しかし、たしかに頭になにかでかいこぶができているようだ。
「莫迦、触ってもしかたないわよ」
「でも、気になるだろ」
「わかりますけど……。しばらくすればおさまると思いますから……」
 月が、絞った布を後頭部に優しくあててくれる。ひんやりと冷気がしみこんでくるような感覚が心地いい。
「俺は負けたわけだな」
 まかり間違って勝ってしまうよりはよほどいい。気絶しただけで済んだのならば、運がいいと言えよう。
 しかし、詠と月は顔を見合わせて黙ってしまう。
「……どう、でしょうか」
 ようやくのように月が呟く。その後ろで、詠が部屋の隅へと向かっている。視界の端で、彼女がなにかを重そうに持ち上げるのが見えた。
「どういうこと?」
 詠が持ってきたものを掲げて、俺に見えるようにする。それは、たしかにどこかで見覚えのある剣だが、俺の身近にあったものではない。記憶を探り、それに合致するものを見つけて驚きの声を上げる。
「え、これって」
「南海覇王」
 詠が厳かに言い、静かに寝台脇の壁に立てかけた。
「孫家の主の証よ」
 俺は彼女の顔を呆然と眺める他なかった。

 気づいてみれば──日が暮れるまでの間気絶していたのだから当たり前だが──猛烈に腹が減っていたので、三人で月の作ってくれた夕食を摂りつつ、気絶した後の経緯を聞く。華雄たちからの伝聞を経たその話は、とても信じられないものだった。
「殺されるほどのことした覚えはないんだよ、本当に」
「た、戦いはつい興奮してしまうとも聞きますし……」
「そもそも戦いを挑まれること自体がおかしいんだけどね」
 話を聞いている間に食事も一段落して、皆で葡萄をつまみつつ話を進める。控えめな甘さとすっぱさが、舌の上でとろけるようで、痛みも忘れさせてくれそうだ。
「うん、そこなんだよね。一勝負終われば、なにかわかるかな、とも思ったんだけど、意識を失っても攻めたてるほどとは……」
 雪蓮はああ見えて、しっかりと計算もできれば、感情の制御もできる人だと思う。その雪蓮がそれほどまでに思い詰めることとはなんだろうか。俺が邪魔ならば大使を変えろということだって可能なのに。そもそも真桜がいるのだから、洛陽へ帰されるだけのことだ。
「あんまり深刻に考えない方が良いと思うわ」
 詠が俺の顔を見て、諭すように言う。
「正直言って、この時代はあんたの世界なんかよりずっと激しいの。ボクたちは、今でこそこうして落ち着いてるけど、しばらく前まで戦争してたのよ、お互いにね。それはあんたも知ってるでしょ」
 この世界では成都陥落からですら二年も経っていないことを思い出す。そして、恋と戦ったことも。
「それは……うん、まあ」
「恨んでるとかではないと思います……。少なくとも、王の立場を忘れるようなことでは……」
 心配そうに呟く月。おそらく、彼女は俺も雪蓮のことも心配してくれているのだろう。
「まあ、それはともかく、この勝負、あんたの勝ちってことになるわね」
「え?」
 詠に思わぬことを言われて、間抜けな声を出してしまう。しかし、彼女は当然のように言う。
「たしかに、剣を蹴り飛ばしたのは華雄だし、恋に方天画戟を突きつけられていたとはいえ、南海覇王を放り出して逃げたのは揺るぎようのない事実よ。ましてや、決闘の約定を破りあんたを殺そうとした以上、雪蓮は負けた。これであんたを殺していたら、せっかくの孫呉の名に泥を塗っていたでしょうね」
 勝った、とはとても思えないけれどな。なにしろ、一太刀すら入れられていないのだ。
「一対一の勝負に勝ち、孫呉の主の証、南海覇王を手に入れた」
 三人の視線が、開け放たれた寝室の扉からわずかに見える剣に向く。
「あくまで一つの見方としてだけど、いまや、仮初めとはいえ、あんたは孫呉の主ということになるわ」
 予想だにしていなかった言葉に、息をのむ。
「……そんなもの誰も認めないだろう」
「たしかにね。でも、当の雪蓮はどうかしら?」
 考え込むようにしながら、濃い色の果肉をつるりと吸い込んでみせる詠。その仕種がなんだか妙に色っぽい。
「それに……これをあんたに託したってことは、なにか意味があると思った方がいいんじゃないかしら」
「託した?」
「雪蓮さんは別に華雄さんや恋さんが追い出したわけじゃないんです。華雄さんたちにしてみれば、ご主人様に手を出さないなら雪蓮さんを刺激する必要はありませんし、大事な剣を置いていくなんて思ってもみないことですから……」
 月の説明通りなら、雪蓮はわざと南海覇王を置いていったことになる。果たして、彼女の意図はなんだろう。俺を殺そうとしたことといい、なにかがちぐはぐだ。
「あの雪蓮が乱心したとは思えないし、あんたにはわかる言伝なんじゃないのかしら?」
 ボクにはわからないけどね、と謎めいた笑みを浮かべて詠が言う。彼女が言うのだから、意味はあるのだろう。しかし、それを受け取った俺の方はいま一つ解読できていないのだが……。
「そっか、すこし考えてみないとけないな」
「考える、なら、一つ考えておいてほしいんだけど」
 月と二人で卓を片づけ始める詠が、食器を重ねたりしながら、少しきつめの口調で言った。
「あんた、自分の身をもっと大切に考えなさいよ。死んだら元も子もないのよ」
「そうです。ご主人様のこと、みんな心配してました……」
 珍しく、月が怒ったような口調をしている。これはよほど心配させてしまったのだろう。たしかに、雪蓮と真剣で戦うなんて無謀の極みだ。
「ごめんな」
「へぅ……」
 ぷんすかしている月の頭にぽんぽんと手を置いて、安心させるようになでてやる。
「あーっ、もう軽々しくなでたりしないっ」
「なんだ、詠もなでてほしいのか?」
「莫迦!」
 罵声は飛んでくるが蹴りは飛んでこないのは、手に食器を持っているからか、それとも怪我人だとでも思ってくれたか。いずれにせよ、月から手を離すと、詠はぶつくさ言いながら片づけを続けていた。
「ああ、そういえば、俺の刀はどうしたか知らない?」
 見回しても部屋にはない。たぶん、真桜が持って行ったのではないかとも思うが。
「鞘が割れてしまいましたし、歪んだりしていないか確認するって真桜さんが預かってるはずです」
「真桜に伝えておいてくれないか。真桜の作ってくれた刀は、俺をしっかり護ってくれた、って」
 予想通りの答えに、伝言を頼む。すると、片づけを終えた二人が真面目な顔でこちらを見やる。
「ええ、伝えます、でも、今日は遅いですからともかくとしても……」
「自分の口からもちゃんと言いなさいよね」
 二人にしっかりと釘を刺されて、苦笑するしかない。言われてみればその通り。しっかりと真桜にも、そして、華雄や恋にも礼を言わないといけない。全く、借りを作ってばっかりだな
「ああ、そうだな。……二人とも心配かけてごめんな」
 改めて謝罪すると、二人ともに顔を真っ赤にして微笑んだり怒ったりするのだった。


 夜──。
 一人になった俺は寝台の上で体を起こしてじっと正面の壁を見つめていた。
 一振りの剣が、壁にかけられた灯の明かりにぼんやりと浮かび上がっている。
「……ご主人様?」
 不意に部屋の方で声がして、ぼんやりとしていた意識が引き戻される。
「あれ、恋? 寝室だよ」
 声をかけると、ひょこっ、といった感じで、扉から恋の頭が飛び出てくる。
「ご主人様、いた」
「あれ、セキトもか」
 体がついてくると、その手にセキトを抱えているのが見えた。夜中だというのに、眠くないらしく、俺の姿を見て、わふわふと小さく声を上げる。
「うん、セキトも心配してた」
 とことこと寝台に近づいてくると、その手からセキトが飛び出して俺の腹のあたりに飛び乗ってくる。くんくんと様子を窺うように、鼻面を突きつけてくるのがとてもかわいらしい。
「そっか、心配してくれたか、ありがとな、セキト」
 頭をなでてやると安心したのか、腹の上で丸くなるセキト。
 一方の恋は、こちらでは胡床──俺のいた日本では床几──と呼ばれている折り畳み式の椅子を寝台の下から引き出して座ろうとしていたが、その仕種になにか違和感を覚える。なんだか、足をかばっているような気がする。
「足、どうしたんだ?」
 恋はその質問に考え込んでいるようだったが、じっと見つめていると、しぶしぶ、という風に答えた。食べ物のこと以外でこんなに悩む恋を見るのは珍しい。
「……ご主人様助けようとしたとき、少し無理した」
 そうか、そういうことか。いかに達人とはいえ、人間なのは間違いない。筋肉もあれば関節もあるのだ。想像を絶するほどの離れ業を行えば、その反動も出るというものだ。それほどのことをしてくれた恋たちに、果てしない感謝を覚え、胸が熱くなる。
「そうか、ほんとにありがとうな」
「華雄はもっとすごかった」
「華雄にも後でちゃんと礼を言っておくよ」
 南海覇王を蹴り飛ばしたのは華雄だと言ってたっけ。本当に何度も助けられているな。
「痛みは大丈夫?」
「一日あれば治る」
 恋の言葉に一安心して、わふ、とあくびをするセキトをなでる。膝の上があったかいのか、気持ちよさそうだ。
「あの……剣」
 ぼそり、と恋が呟く。二人の視線は共に南海覇王へと向く。
「武器は大事。でも、武器がなくても戦える。別の武器でも」
 訥々と彼女は言う。抑揚もつけず、ただ、淡々と事実を語ろうとしているように。
「……でも、思い出の武器は別。武器だから、じゃなくて……思い出、だから……」
 やっぱり特別な意味があるってことか。恋が言いたいことをなんとなく理解して、ぽんぽんと彼女の頭をなでる。くすぐったげに身をよじる恋が、腕を伸ばして、すでに眠りかけているセキトの背をなでる。
「でも、家族は、もっと大事」
 いとおしげにセキトの体に触れる恋の顔に淡く浮かぶ笑み。それを見ていると、俺の顔にも笑みが浮かんでしまう。
「ご主人様も、大事」
 じっと見られていることに気づいたのか、ふとあげた顔にも、変わらず笑みが浮かべられていた。


 寝入ってしまったセキトを抱いて恋が出て行った後も、俺は南海覇王を見つめて思考を続けていた。
 もはや、雪蓮の意図を探ることは諦めている。いや、諦めているというよりは、自ら彼女にあたるべきだと考えたというほうがいいだろうか。
 いま考えているのは別のことだ。
「俺は弱い」
 言わずもがなのことを口に出してはっきりと言ってみる。
 武の強さのことを言っているのではない。弱いのは俺の心だ。
 戦いを挑まれ、それを受けてしまうこと。
 完膚無きまでに叩きのめされたというのに、周りの助力でなにかすごいことをしたかのように錯覚していること。
 自分ならば、なんとかできるはずだと思い込んで突っ走って、他人に尻拭いしてもらわねば命すら保てない、そのこと。
 自分を過信し、思考を放棄して感情と成り行きに任せてしまうこと。
「弱いのは、罪だ……」
 挑発に乗って、命を無くせば、その後はどうなる?
 俺はいい。死んでしまえばもうなにも煩わされることはない。だが、それで泣く人達がいる。悲しむ人達がいる。当然与えられるべき庇護を受けられずに育つ子らがいる。
 飢える人すらいるかもしれない。苦しむ人もいるかもしれない。喜ぶ人も、少しはいるだろう。しかし、喜ばせるために失点を重ねるわけにはいかない。
 握りしめた拳の中で、掌に爪が突き刺さる。
 痛みはない。
 感じるほどの痛みはない。
 罪を少しは癒やしてくれる痛みという罰さえ、今の俺には与えることが出来ない。
 二度と、もう二度と、失わないと。
 彼女たちにも失わせないと誓ったのではなかったか。
『いいのん? もう二度と、戻ってこれないわよん。それどころか、この外史は消えてしまうかも』
 あの……男だかオトメだか、もうよくわからないあの人物の問いかけに、大言壮語したのは誰だったか。
「幸せにしてみせる、か」
 その言葉は、遥か遠く、これからずっとずっと長い時をかけてなし遂げるべきこと。
 気づけば、ほおを涙が濡らしている。悔しさと苦しさと未来への不安と。流しだせるものなら、全て流してしまいたいほどだった。
「強く、ならなきゃな」
 心を固く鎧ってなにも感じないのではなく。
 冷たく感情を保ってなんにも動じないのでもなく。
 ただ、やわらかに、強く。
 俺は、そのことをこの時、はじめて目指したように思う。

 朝になると、詠が朝食を持ってやってきた。俺が起きているのを半ば予想していたのか、赤い目をしているのを何ひとつ指摘せず、てきぱきと寝台脇の机に膳を置いて行く。
「で、結論は出たの?」
「うん、わからなかった」
 まったく、という風に肩をすくめて見せる詠に、笑顔を向ける。こうして、普段通り対してくれるのは本当にありがたい。
「だから、詠。雪蓮に教えてもらうことにするよ」
 頭の様子を見てくれている彼女に、俺ははっきりと決意を込めて、そう言うのだった。


「お召しにより、孫伯符参上仕りました」
 案内をしてくれたメイド姿の月が退室したのを見届けた後で、雪蓮はそう言ってがばりと俺の部屋の床に平伏した。その腰には、俺が持っているのとそっくりな剣を佩いている。そうか、これはレプリカか何かだったのかな。それにしては、態度がおかしいけど。
「雪蓮?」
「はっ!」
「なんで……その、平伏しているのかな?」
 あまりの態度に気おされてしまい、訊こうとしていたことはひとまず置いておいて、おずおずとそのことを指摘してみる。雪蓮は平伏の姿勢を解き、体を起こすが、それでも膝をつき、頭を垂れたまま返答する。
「南海覇王をその手にされておりますれば」
 その口調も、その態度も、まさに凛として、美しい若武者ぶりを示していたが、呉の女王にそんな礼を取られても、こちらとしてはやりにくくてしょうがない。
「でも、そこに差しているじゃないか?」
 見るからにそっくりだ。彼女は優雅な動作で立ち上がると、
「失礼」
 と一言言って腰の剣を抜いた。そこに一切の殺気も感じないが、やはり抜き身の剣をつきつけられるとちょっと緊張する。
「そちらも抜いてご覧あれ」
 言われて俺も立ち上がり、昨日、彼女自身が置き去りにして行った剣を抜く。捧げ持つ雪蓮の剣と互い違いにならべてみると、明らかに刀身の輝きが違う。
 それを見比べて、俺は嘆息する。
「こっちが本物……か」
「こちらは儀礼の時につけるまがい物。もちろん、それなりのものではありますが、南海覇王に及ぶものではありません」
 彼女が剣をおさめ、俺も南海覇王をおさめる。対面の椅子を示すと、一礼して座る。俺たちは卓にそれぞれの剣を置き、相対する形となった。
 しかし、これは、簡単に受け取ってもらえそうにないぞ。
「ねえ、雪蓮」
「は!」
「その仰々しい口調はどうにかならないの?」
 その言葉に、苦笑を浮かべる雪蓮。なんだかその笑みを、久しぶりに見た気がした。
「普段通りに喋れって? まあ……いいけど、気分出ないじゃない」
「なんだよ、気分って」
 一転普段の口調に戻った彼女にほっとする。なんだか、ようやく近づいたようだ。やはり先程までの口調はよそよそしく、彼女を遠く思わせていたらしい。
 そんな俺をじっと見ていた彼女が、小さくふるふると手を振る。
「まあ、しかたないわね。一刀は全部聞かなきゃ気が済まないんでしょ?」
「ああ、出来れば」
「そうね……なにから話せばいいかしら……」
 悩んでいる風情の雪蓮を置いて立ち上がり、茶を淹れる。自分でもそれなりに満足できる淹れ方が出来た、と思って彼女の前に茶杯を出すと、ようやくといった風に話し始める。
「知ってる? 一刀。私や蓮華……シャオはちょっと違うかな、でも、多かれ少なかれ、豪族の領袖ってのは友人も自分では選べないのよ」
 言いたいことはなんとなくわからないでもない。麗羽や美羽は別格としても、華琳や月が友人を選べたとは思えない。家族に近い存在は別だけれど。
「冥琳や、甘寧、明命は?」
「冥琳は母が私に、思春や明命は私が蓮華につけた相手よ。周瑜はこの地方の名族周家の跡取りだし、甘寧や思春は蓮華を護るのにもってこいだわ。その後、政治とは別の部分でも友となれたのは幸運にすぎない」
 そう言って冥琳を思い出したのか、複雑な表情を浮かべる彼女につられて、俺も冥琳のことを思い出す。次に会えるのは……一年後くらいだろうか?
「たとえば、まだ争っていた時期に華琳……はともかく、そうね、華琳の部下、風あたりと誼を通じていたらどう?」
「内通を疑うのは趣味が悪いが、そういうやつもいるだろうな」
「うん。別に私は疑われようがなにしようが気にしないけど、でも、その可能性があるってことは意識しちゃう。それって私が選んだって言えるかしら?」
「自然な成り行きってわけにはいかなくなるな」
 彼女の、そして、彼女と同じような立場にいる人間の行動には、常に政治が関わってくるというわけだ。自分で選んだ結果が民や国の行く末に関わってくるとなれば、その行動が縛られてしまうのは仕方のないことだろう。
「ま、私はこういう性格だし? 結構色々やってるけど、やっぱりね、無縁ではいられないわけ。たとえ、呉王を退いたとしても、ね」
 意味深な視線を向けてくる雪蓮に安心させるように頷いてやる。ここでのことは表には出せないというわけだ。
「まず、これが一つ目の要素。いい? 覚えておいてね」
 どうやら話はこれで終わらないらしい。彼女の行動が政治的にならざるを得ないというだけでは南海覇王を預ける理由にはならないからな。
 しかし、彼女はなかなか続きを言おうとしない。いつのまにか干されていた茶のおかわりを注いでやり、二杯目を飲み干したところで、彼女は言葉を紡ぎだした。
「この間の話し合い。明命が冥琳の懐妊を告げた後」
「ああ」
「袁術の話をしたとき、一刀ってばすごい怖い顔した」
 いきなり妙なことを言われる。たしかにそれについて真桜と詠がオーバーリアクションをしていたのは記憶にあるが、それほどのことをしていたという実感がない。
「あの時は、まだいいのよ。こいつでもこんな顔することあるんだな、って思ったくらいだからね。たしかに一瞬身構えるほどだったけど」
 彼女は飄々と言う。
「その後、公孫賛と袁紹の話があったわよね?」
「ああ、ええと、朝廷の密使を斬っちゃったって話だよね」
 猪々子らしい行動だが、果たして、どこまでが彼女自身の意志で、どこまでが麗羽の意志だったのか、そのあたりはよくわからない。帰ったら訊いてみよう。
「ええ、あそこで、一刀ってば、詠に訊かれたわよね」
 もういっぱい茶を注ぐ。その杯を持つ雪蓮の手が微かに揺れているのはなぜだろうか。
「朝廷が袁紹たちを殺したらどうするか、と」
 ああ、朝敵だとか言われた時だな。個人的にはすでに敵なのだが……。なにせ何度か命を狙われた相手だ。
「今一度訊ねるわ。あなたの部下を、いいえ、あなたの女を朝廷が殺したら、あなたはどうする?」
「そりゃあ、帝に死んでもらうしかないだろう」
 実際には、今上が直に命を下しているとは思えないから、その周りもろともに責任を取ってもらうことになるだろうが。
「あの時、確信したの。一刀は、やっぱり天の御遣いだったんだな、って」
 雪蓮はなぜか俺から目をそらし、どこか違うところを見つめている。その手に握る杯が音を立てるほどに揺れている。
「そして、いままた確信したわ」
 がつん、と茶杯が卓に叩きつけられる。その音が妙に耳にこびりつく。
「あなたは『異質』よ。この世の人間が、漢室に向かって、そんなことを言えるはずがない」
 言われた瞬間、目の前が真っ暗になる気がした。たしかに俺は別の世界の人間だし、そのことを指摘されたこともある。しかし、そのことを理由にこうして拒絶の意志を叩きつけられたことはついぞなかった。
 雪蓮の言は正しくもあり、そして、間違ってもいる。たとえば、この時期ローマに住んでいる人々は、漢の帝室がどうであろうとなんとも思わないだろう。しかし、それを言ってもしかたないのはわかりきっている。
「この大陸の人間は、そんなことを言うことはできない。傀儡であろうと、手駒であろうと、あくまでも名目上は漢の、劉姓の者が上に立つことを求める。それを民が求めていることを感じるものなのよ。北郷一刀という人間は、そういう意味で、徹底的に異質だわ」
 自分で自分を抱きしめるように、雪蓮の手が体に回る。そして、彼女は、その言葉を口にする。決定的な言葉を。
「私は、その異質さを……恐れた」
 吐息のようなその告白を。


 部屋に沈黙が落ちる。
 二人のうち、どちらもが息をするのもためらうような、砕けやすい沈黙が。
 俺は拳を握りしめ。
 雪蓮は己を抱きしめて。
「私は、私自身を許せなかった。あなたを恐れた私を」
 結局、雪蓮が口を開いた。異質と断ぜられた俺は、ただ、この世界に生きる人の思いをどう受け止めればいいか惑うばかりだ。
「私を恐れ……いいえ、怯えさせた人は、一刀を除けばたったの二人」
 腕が離れ、指が一つずつ立っていく。
「我が母、孫文台。そして、その仇でもある黄祖」
 一つは甘やかに、一つは低く掠れた声で。名を呼ぶ。
「一人は愛し、一人は憎んだ」
 二本の指がぶつかるように閉じあわされる。
「そして、そのどちらもが死んだ」
 指が折られ、拳が形作られる。
「母は黄祖の手により、黄祖は私の手により」
 卓に打ちつけられるとばかり思った拳は開かれ、しなやかな指が、俺の手に触れる。南海覇王の上に置かれた手に。
 恐れとなるほどの存在と、適度な距離を取るのは難しい。普通の人ならば、そこに迎合したり、あるいはなかったこととして無視したりするだろうが、この誇り高い武人には、それを選択することはできなかったのだろう。
 ならば──排除するか、取り込むか、その二つしかない。
「それで俺を殺そうと?」
 彼女の指が触れたことで、ようやく声を出せるようになった俺は、先を促すように訊く。
「あれはね、賭けだったの」
「賭け?」
「そう、あなたを殺せれば、私はその場で退位し、そのまま自害するつもりだった」
 きゅっと俺の手に触れる指に力が込められる。俺の手をしっとりと包む彼女の手。
「それでも、華琳は呉を攻め滅ぼしたかもしれないけれどね。まあ、そのあたりは本当に賭けだったわ」
 あっけらかんとすごいことを言う雪蓮。このあたり、この女性の器の大きさには適わない、と思う。自分を殺すと言っている相手に、これほど温かい思いを感じるというのは変なのかもしれないが、なぜか胸が締めつけられるような感情を覚えてしまう。
「殺せなかったら?」
 そう訊ねる声は掠れていた。そう、いまこの時、俺は生きている。ならば、その賭けのもう一つの目はなんだったのか。
「あなたを愛すると決めていたわ、一刀」
 彼女の手の中で拳を回転させ、掌を上に向ける。二人の手が重なり、指がからみあう。
「このまま、あなたに口づけられたら、本当に素敵」
 うっとりとそう言う雪蓮の瞳は、あまりに蠱惑的だ。吸い込まれるようで、視線を外せない。
「でも、最初に言ったはず。友人ですら、私は自由にすることはできない、と」
「だから……?」
「だから、夫を選ぶなんて、もっと自由にできない」
 苦笑のようなものが一瞬浮かび、確とした形をとる前に消えていく。
「でも、その男が南海覇王を持っているなら別よ。私は、孫呉の主の証を返してもらうために、あなたに自分を捧げなければ『ならない』」
 あえて強調し、ゆっくりと言う雪蓮に、全てを了解して苦笑を返す。政治的行動、彼女の賭け、そして、その結果。
 一連のことを通して考えてみれば、ずいぶんと俺とその周囲への信頼があることがわかる。どんな結果になろうと構わなかったのかもしれないが、それでも、こちらが微塵でも悪意を──まさに政治的な意図を──持っていれば、彼女の計画はおじゃんになり、いまの俺たちもいないことになったことだろう。
 なにより、俺と心中してもよいと思うほどの想いに、苛烈な孫呉の血を見て取ることができる。孫家の気風は、いま握っている彼女の手のようにとてつもなく熱い。
「心も?」
「莫迦ね。それは、もうとっくにあなたのものよ」
 当然のように言う彼女の言葉に、聞いたこちらが照れてしまう。見つめあって、微笑みあうだけで、幸せを感じる。そうしているうちに、二人の息の調子がぴったりと合っていき、彼女が次になにを言うかもなんとなくわかってしまう。
「だから、この体をあげるわ。そして、孫家の長子の血もね」
 俺はその言葉を予想していたし、彼女もわかっていたと思う。卓を倒さんばかりに立ち上がり、ぶつかるようにして抱きしめあったのは、二人とも完全に同時のことであった。


「ねぇ……聞いてる?」
 寝台に腰掛けた雪蓮が言いにくそうに小声で訊ねてくる。俺は、寝台の扉をしっかりとしめ、中庭につながる窓を閉める。さすがに真っ昼間から嬌声が漏れるのはまずい。といって夜や別の機会など待てるはずもない。……お互いに。
「冥琳に?」
 こくり、と頷かれる。まるで悪戯を見つかった子供のような表情で。
「いざという時に選ばれたなら、驚かずに相手をしてやってくれ、と言われていた」
 冥琳に頼まれたのは、雪蓮が時折起こす『異常な状態』のことだ。
 戦闘等の生死をかけた状況でストレスにさらされ続けた場合、興奮状態がその後も続いてしまうのは、ままあることだ。脳が生存に必要な闘志をかきたて、体をよく動かすために分泌する各種の成分のせいで、人は簡単に狂う。
 ある者はそれを酒に耽溺することで抑えこみ、またある者はひたすらに体を動かすことで発散する。戦の後で酒宴が開かれ、ことさら残虐と思えるような調理法を見せつけることで解消したりすることもある。
 それらは、なんとはなしに皆が了解していて、時が経てば、それぞれに日常生活へ戻っていける類のものだ。
 しかし、中にはそれでは治まらない者もいる。精神的な興奮にとどまらず、肉体的に影響を及ぼすほどのものを生じさせてしまう者が。
 雪蓮もその一人であり、かつては冥琳と肌をあわせることで、なんとかそれを引き戻していたらしい。具体的な症状はわからないが、厄介なものではありそうだ。それでも、心を許した者との褥で治るというなら、まだましなのかもしれない。童話に出てくる青ひげではないが、戦の後には女を抱いて、それを殺して血をかぶらねばおさまらないなんてのもいたりするからな。
「そっか。うん、よかった。もし……ね、そうなったら、一刀を呼ぶから」
 恥ずかしそうにうつむいて呟く雪蓮。こんな彼女を見るのは珍しいことだが、それよりもなによりも、俺をこそ選ぶと言われたことがとてつもなく嬉しい。
「ああ」
 三つある内の二つの窓に鎧戸を落とし、薄暗くなった部屋で、俺たちは対峙する。寝台に腰掛けた雪蓮と、それをじっと見つめる俺と。
 その雪蓮のほおを、汗がつたう。夏の日の午後だ、暑いのは間違いないが、ぽたり、と落ちるほどの汗は少々おかしい。特に暑さになれた呉の人ならば。
「緊張している?」
「ま、まさか。なに言ってるの、一刀」
 明らかな強がりだ。とん、と軽く彼女の横に座り、腕を伸ばすとびくりと震える。それに自分でも気づいたか、体の動きを隠そうとするように、かえって俺の方にもたれかかってくる雪蓮。
 そこから伝わる熱は心地よいものだったが、これはあまりに緊張しすぎだ。おそらく、触れていない部分もがちがちになってしまっているだろう。
「な、なにを躊躇ってるのかしら?」
 挑むような口調で下から見上げられる。これは、まずい。
「まさか、私が怖がってるとでも思ってるわけ? たしかに一刀のことを恐れたとはいったけど、それとこれとは別のことでしょ。だいたい、冥琳は一刀と子供つくるくらいのことしたんだから、私にできないわけないでしょ? あ、わかった、一刀ってば、怖じ気づいてるんだ」
 まずい、本当にまずい。雪蓮は普段絶対に聞けないくらいの早口で喋っている。このまま彼女に話させてしまうと……。
「大丈夫よ? 一刀が私を感じさせられなくたって、怒ったり嫌ったりしないから」
 顔を青くしてそんなことを言われても、説得力もなにもないものだ。逆に自分が怯えていることを曝露しているようなものだ。もちろん、彼女が言う通り、なにがあったとて、怒るわけもないのだが……。
「そうだな。二人でいるだけでこうして触れているだけで幸せだものな。少なくとも俺はそうだよ」
「そ、そう……」
 あからさまにほっとした表情の雪蓮。少しは緊張がほぐれはじめたか?
「ま、まあ、一刀が冥琳より上手いとはかぎらないものね」
 まだ強がる雪蓮が微笑ましい。俺は少し考えると一つ提案した。
「そうだ、一つ、お遊びをしないか?」
「おあそび?」
「うん。しばらくの間、雪蓮が達しなかったら、南海覇王を返してあげる。もし達しちゃっても、達した分だけ、俺を気持ちよくさせてくれたら、ちゃんと返してあげる。どう?」
 射精させろ、とは言っていない。俺が気持ちよかったと言えば、それで返すことができる。女性の場合そうそうすぐに感じたりはしないが、こうしておけば、そのことを負い目に感じさせずにすむ。
「そうね、どうせ南海覇王を返してもらうんだし、それくらいいいかもね」
 冗談とわかっていることをお互い口にしないで微笑みあう。そのことが、なんとも愉しかった。

 誤算は二つあった。
 彼女の体が予想以上にいい反応をしてくれること、そして、彼女が俺の出した条件を半ば以上冗談とは思っていない様子なことだ。
「ふぅっ、あ……はっ」
 薄紅の髪が、濃い色の肌の上でうねる。俺は彼女を後ろから抱き留めるように、その体をいじくりまわしている。背中をつぅとなでるだけで口から漏れる声を、彼女は必死で押しとどめている。「達しない」ことだけではなく、感じている様子を見せようとしないようがんばるとまでは思っていなかった。
「なあ、雪蓮」
「な……にっ」
 肩口を噛みつくようにして舐めていた口を離し、
「お遊びは、達しないことが条件だぞ。そこまでいかなければ、感じることはしてくれていいし、声を出してくれるのは嬉しいことなんだけど……」
「な、なんの……うぅっ、こと、かしら。私はっ、感じてなんか、いないわよ」
 たっぷりとした胸をしぼりあげるようにして揉む度に漏れるうめきのようなものは、感じている証拠ではないと、彼女はあくまで言い張るつもりらしい。
「そっか、じゃあ、俺もがんばらないとな」
 簡単に屈しない、というのも一つのプライドなのかもしれない。特に彼女は呉の王であり、孫家の主だ。俺に抱かれることすら南海覇王のせいにしなければいけない人だ。たとえ結ばれるのが喜ばしくとも、それを表に出すことは許されないと思っているのかもしれない。
 そこへ俺が出した条件。ある意味、それは彼女にしてみれば、福音だったはずだ。なにしろたとえ達しても黙っていれば体面は保つことができるのだ。そして、その後、二人の仲が進めば自由に振る舞えるようになる。
 なんといじらしく、悲しいことか。あるいは、それは王の性というものなのかもしれない。
 となれば、することはただ一つ。
「はぐっ」
 秘所に手をやれば、すでにそこはしっとりと濡れ始めている。さすがに平静を保てないのか、陰唇に軽く指でなぞるようにする度に、俺の方を振り返って、視線を送ってくる。
「雪蓮のここ、熱いね」
「ば、ばかっ」
 真っ赤になって俺の指を上から抑えるようにする。だが、それで押された指が彼女の内側に触れたことがより快楽を引き出したのか、俺の手の中で、びくりと震える雪蓮の体。
「一刀のだって……熱いくせに……」
 背中にあたっている俺のものを言っているのだろう。たしかに隆々と天を突き、すでに痛いほどだ。だが、男を受け入れるのははじめての雪蓮相手に焦るつもりはない。
「そ、そこ、ちがっ」
 左手を、後ろからお尻のほうへ這わせると、驚いたように声が跳ね上がる。
「いや、違わないよ」
「で、でも……」
 菊門をちょんちょんと挨拶するようにつつく。それだけで、背が震え、吐息のような声が漏れる。
 反応を見て、どうやら、当たりだったと一安心する。お尻は真桜のように積極的に興味を示す者もいれば、そもそも性的なものをなにも感じない者もいる。雪蓮にどこまでの適性があるかは別として、羞恥を感じる程度には意識する存在のようだ。
「まさかお尻をいじられて感じたりはしないよね?」
「あ、当たり前じゃない。なに言ってるの?」
「じゃあ……試してみよう」
 低い声で囁き、猛然と両方の手に彼女の前後を襲わせる。前はかきむしるように大胆に、後ろは一つ一つの粘膜を確認するように慎重に。
「ひゃ、う、かず、一刀っ。ああっ、なに、これ、なにっ」
 ようやく一歩だな。
 嬌声を上げる雪蓮を見つめつつ、心の中で呟く。
 彼女の殻を壊すまで、どれだけかかるだろう。だが、どれほどかかろうと、俺はそれをやり遂げるつもりだった。


 俺は彼女のそこに顔を埋めてむしゃぶりついていた。体をひっくり返され、足を押さえ付けられて、彼女は身動きも取れない。いや、もちろん、雪蓮が本気になれば、こんなものはね飛ばせるのはわかりきったことだが、少なくとも彼女は受け入れてくれていた。
 性器こそが一番上になり、彼女は顔を背けない限りはその部分を、そして、そこを舐めまわしている俺のことを目に入れざるを得ない。
 舌を錐のように丸めて、肉芽をこじる。その瞬間、愛液がはねるようにぶしゅりと溢れ出たのを、彼女は気づいていたろうか?
「いっちゃった? 雪蓮」
「なに……ひってるの、まだ、一回も、ふひゅっ、達して、な、なんかいな、いないわよ」
 ろれつも怪しいというのにまだ意地をはり続ける雪蓮が悲しくも愛おしい。
「そうだね、じゃあ、まだまだ責めないと」
 その瞬間、雪蓮の青い目に光ったのは、恐怖だったろうか、それとも期待だったろうか?
「そ、そうよ、まだ……ま、だ……」
 微かに震えた声の彼女を横たえ、ぎゅっと抱きしめる。背に回ってくる手を少しゆるめてもらい、彼女の脚の間に体を入れる。
「いくよ」
 俺の意図がわかったのか、俺の腕に捕まるようにして、決然と頷く雪蓮。勢いを殺すとまずいので、腰の位置をあわせ、一気に進める。ぐじゅぐじゅに濡れ、何度も絶頂を経たそこは、雪蓮の緊張をものともせず、俺自身をしっかりと受け入れてくれる。
「くっ、熱いよ、雪蓮」
「や、これ、だめ、おかしい、そんな、一刀が、一刀が入ってくるだけで……あむっ」
 はじめての口づけ。俺のものを奥まで進めつつ、俺達は唇でも一つになる。はあふ、と溜め息のように押し出される息を呑み込み、そのまま、舌を踊らせた。


 雪蓮は狂乱の中にいた。
 すでに、俺は彼女の中で、二度達している。その度に、雪蓮はわずかの間意識を失うほどの絶頂を経ていたが、それを口にすることは決してなく、それが故に俺の責めはさらに峻烈となり、彼女の愉悦は烈々と燃え上がっていく。
 そして、いま、俺は三度目の精を彼女の中に放っていた。
「うぅっ」
 あまりの快楽に意識が吸い出されるような心地すらする。だが、それを受け止める雪蓮のほうは、さらなる愉悦の中にあるようだった。ぎゅうと握りしめられた腕が、すでに痛みを通り越して、熱い。
 荒い息を整え、惚けたように開く彼女の唇に軽くキスをする。反射的にか、舌が伸びてきたので、あまり刺激しすぎないようゆっくりとお互いの体温を感じるくらいに舌を絡めあう。
「どうやったら、雪蓮を気持ちよくさせられるかなあ」
 とぼけた口調で言ってみる。絶頂を迎えたばかりの体は、どこを触ってもすばらしい反応をしてくれる。だが、俺は、あえて、その場所を選んだ。
「こっちはどうかな?」
 すでにほころび始めたその場所に人指し指を突き入れる。抵抗が指を押し戻そうとするが、ある部分を越えると、ただただ締めつけてきて、抜くことも進むこともできなくなる。
「指、ゆびぃいいいいいっ」
 半分夢の中にあったような雪蓮の意識が急速に戻り、すさまじいまでの叫びを上げる。痛みではなく、そこに快楽の陰を感じるのはいかなることか。
「もういってる! 何度も達してるの! わかってるくせに、わかって、いや、またっ、くる、いやいやいや!」
 お尻のなかで、ぐりぐりと指を動かすだけで、あっけなく絶頂に追いやられる雪蓮。その彼女に優しく微笑んで、俺は残酷な問いを発する。
「何度、達したの?」
「わ、わかんない。た、たぶ、ふわっ、たぶん、はちか……ちが、うぅううっ、いい、いま、また、くる。ああ、もうわかんない、十回かも、もっとかも、わた、私、わかんないのぉ!」
 腰を軽く動かしただけで、びくびくと痙攣し、ぎゅっと俺の腕に爪が立てられる。すがりつくように、俺の腕を支えに半ば起き上がり、彼女は唐突に笑い始めた。
「あはは、いっちゃった。南海覇王返してもらえなくなっちゃった。どうしよう、わたし、王様なのに、良いようにされちゃった。どうしたら、いい、一刀? あは……はははは……」
 泣くように笑う雪蓮の体を抱きとめて、ゆっくりと頭を優しくなでる。
「もういいんだよ、雪蓮。何もかも忘れて」
 囁くように言った言葉を聞いた途端、雪蓮は体を離し、俺を真っ直ぐに見つめてきた。その目に猛獣のような鋭さが蘇っている。
「ほんとに? ほんと? いいの?」
 だから、俺は目をそらすことなく、本気でその言葉に応えた。
「ああ、いまの雪蓮は、俺の腕の中にいる雪蓮は、呉の女王様なんかじゃない。ただの、俺の女、だよ」
 一瞬きょとんとした顔になる雪蓮。汗と唾と快楽と陶酔でどろどろになっているはずの顔は、その瞬間、無垢な幼子のようにも見えた。
 その瞳に大きく涙が盛り上がり、ついに決壊する。
「あああああああああああぁっ」
 ひときわ大きい声を上げて、雪蓮は体中を震わせる絶頂へと達した。


「ねえ、一刀」
 二人で、寝具にくるまるようにして、じゃれあっていると、雪蓮が真面目な口調で囁いてきた。その声で手を動かすのを止め、二人で抱き合う格好になる。
 そうして見上げてみれば、窓から差し込む西日が強い。午睡の頃から黄昏も近い時間まで、よくも夢中になっていたものだ。いや、実を言えば、まだまだ雪蓮の体をむさぼりたい欲望がないとは言えないけれど。
「ん?」
「しばらく、あれ預かっておいてくれる?」
 あれ、というのは他でもない、南海覇王に違いあるまい。少々慌てて起き上がりかけると、雪蓮の手に抑えられる。
「雪蓮、さっきのは……」
「わかってるわよ。閨で決めることじゃなくて、前から決めていたの」
「それならいいけど……」
「あのね、一刀の手で、蓮華に渡してほしいの。私が退位したと聞いたら、すぐに」
 そういうことか、と納得する。彼女の妹──孫権はその頃、洛陽にいる手筈になっている。緊急に帰国をせずにはいられないだろうが、その際に南海覇王を履いていれば、孫呉の王を引き継ぐことの説得力も増すことだろう。
「宝を二つも託されるわけか」
「そうね。手元に置いておきたいけれど、それでは損なってしまうかもしれないから。念には念を入れておかないと」
 雪蓮の念頭には、彼女の母親、文台さんが亡くなった折りのことがあるのだろう。呉という国は、新興の武将たちが席巻した他の二国に比べて、土地に拠った、いわば土着の色が濃い。つまりは、各地の豪族達の支持あってこその孫呉であり、そこに背かれれば、国としての体裁すら失ってしまう。その隙を袁家に突かれて兵権を奪われたことは、雪蓮、冥琳、祭という三人にとっては忘れ得ない失策であったろう。
 その二の舞を演じさせないためならば、彼女はなんでもするだろう。それが孫権さんを一時欺くことになったとしても。いや、重臣全てを欺くとしても。
 託されたものの重みを思い、俺は、ぐっと奥歯を噛み締める。
「それでも、後を託す人がいるってのは、本当に素敵なことなんだと思うよ」
 子ができたと知ってから、なんとなく感じてきたことを言葉にしてみる。いつかの華琳と似たような言葉になってしまったな。そうね、と雪蓮は淡く微笑みを浮かべてくれた。
「その代わり、あなたの子供はなにがあっても守るから。もちろん、冥琳の子なら、守らないはずもないけど」
「ああ、お願いするよ」
「私との子は、しばらく後でいいわよ。継承争いとかまっぴらだもん」
 そう言ってからからと笑う雪蓮を改めて強く抱きしめ、そして、このあまりにも幸せな気持ちを、二人で思う存分笑い声に変えるのだった。


                        (第二部第五回・終 第六回に続く)


北郷朝五十皇家列伝

○孫高家家の項抜粋

『孫策からはじまる孫家は、孫高家と呼ばれ、同じく孫堅の子からはじまる孫世家、小孫家と共に三孫家と呼ばれる。
 孫策は北郷朝成立前に一度死亡したと言われていたが、後に呉の王位継承を円滑に行うための偽装であると発覚する。しかし、この行為により、孫高家の血筋は北郷朝成立後も、呉公(及び追贈王位の呉王)を継ぐことはなくなり……(略)……
 北郷朝の終焉をいつとするかという議論は古くからあるが、中華王朝としての北郷朝は趙、楚二国の成立により終わりを告げ、地方政権となったとするのが一般的である。その地方政権となったいわゆる後北郷朝最初の皇帝となったのが、孫高家の聖武帝であった。
 聖武帝の即位には血塗られた経緯があることはよく知られている。趙、楚の前身となる軍閥が南北に起こった際に、当時の皇帝(第二十三代懐帝)は年若く、血気に逸ってこれら二つの軍閥を同時に討とうとして逆に攻め寄せられることとなった。結果、皇太弟を送った南では成都を失って楚が建国され、自ら出陣した北では長安に迫られる事態を招いた。
 成都陥落の報を聞いた懐帝は長安守備の陣を解き、洛陽へ撤退することを決定する。これは軍を再編し、根拠地に拠って守るというある意味では正しい行動ではあったが、首都圏の要の一つとして機能している長安を一時的にでも放棄することは国家の威信を傷つけ、軍の士気を著しく下げることとなり、少なくともこの時点では拙速な判断であったといえよう。
 なにより、長安を根拠地とする賈家、董家をはじめ馬家などの涼州諸皇家が趙へ取り込まれる危険性を考えると、一武将としてはともかく、皇帝としては決して取ってはいけない策であった。
 事ここに至って、陣中にあった刀周家の主が動く。懐帝を弑逆し、二十四代皇帝となって、趙軍に猛然と襲いかかったのである。この結果、趙軍の勢いは減じ、ついに渭水の北に押し戻され……(略)……
 刀周家の緊急招集による皇族会議で帝位を譲られた聖武帝は、帝国本土の国家を大幅に編成しなおし、すでに遊牧生活に移っていた涼国の民を北方の顔家に吸収させていくことで、楚、趙の間に空白地帯を作り上げた。建国間もない二国は、文字通り無人の野を行くようにこの地帯を征圧し、ついに国境を接する。これにより、新興二国は、あたるを幸い、ただひたすらに進めば、彼らいうところの『圧政者』である北郷朝の領土を手に入れられるという何も考えずに民を鼓舞できる状況から、複雑な国際政治の舞台に引きずり込まれ……(略)……
 このように、聖武帝はたしかに諡号の通り、趙、楚二国を相手に戦いを重ねた皇帝ではあったが、卓越した政治的感覚を兼ね備えた人物でもあった。
 また、この時代、中華王朝としての北郷朝が瓦解したことにより、北郷朝皇帝の二重性──中華本土の帝国皇帝であると同時に、世界各地の皇家の上に立つ帝王である──が浮き彫りになり、いわゆる「北郷帝国」(諸氏の連合帝国、または皇家帝国連合とも呼ばれる。ただし、正式名称はどのような言語でも『帝国』である)の成立と、北郷朝皇帝とは切り離された、全帝国の上に立つただ一人の皇帝、すなわち泰皇帝が……(後略)』

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