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61 名前:●一壷酒[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 00:58:30 ID:GJpXsLHJ0
いけいけぼくらの北郷帝第十回をお送りします。
今回、仕事の関係で、25日夜に帰って来られるか怪しいところだったので、予定より少々早めに投下
させて頂きました。
前回が動きのある回だった反動か、今回はあまり動的なシーンがなく、拠点シナリオのような感じに
なってしまいました。
次回で一区切りがつく予定ですので、おつきあいくださいませ。

☆★☆注意事項☆★☆
・魏ルートアフターの設定なので、魏軍以外の人物への呼び方、呼ばれ方が原作中とは相違があります。
・エロあり。
・(現状では)恋姫キャラ以外の歴史上の人物等の名前は出るものの、セリフはありません。猫は出ます。
・作中で一刀との接点が少ない人物は、性格・行動にある程度補完が入っているかもしれません。
特に袁家、華雄たちは少々行動がゲーム内とはかけはなれている状況もありますので、気にかかる方は、
読まないほうがよろしいかと思います。
・物語の進行上、一刀の性的アグレッシブさは、真より上になっています。これでも無印ほどではないと
思いますが。
・文字コード等の関係で表記が困難な字は注釈をつけた上で平易な字で代用しています。

いつも通り、本編はtxtで専用UP板にアップしましたのでご覧ください。
URL→ http://koihime.x0.com/bbs/ecobbs.cgi?dl=0248

次回は変則的に 五月 六日 の投下を予定しています。



   〜いけいけぼくらの北郷帝〜 第十回 『世界』



 俺の目の前に壷がある。
 素焼きの壷には粘土の封印。乾燥した粘土はがっちりとその中身を覆っていて、手を出すにはそれを割り砕くしかない。
「ま、悩んでいても……」
 持ち上げ、封印部分を思い切り卓の角に叩きつける。がつり、と音がした後、ぼろぼろと崩れていく粘土をどけ、中から取り出したのは、この時代には似つかわしくない代物──一冊のシステム手帳。
 埃をさっと拭って、それを懐に入れる。ぱんぱん、と服の上から存在を確認するように叩いた。
 壷を私室の隅に押し込んだ後、部屋を出ると、すでに夜は明けかけていた。曙光が強く差し込んで、眼にしみる。
「さて、華琳は起きてるかな」
 華琳の私室への通路はどこも、数多くの親衛隊の警備兵──美少女ばかり──が控えているが、俺はフリーパスで通してくれる。さすがに帯剣して私室に入れるのは春蘭、秋蘭、それに親衛隊長である季衣と流琉だけだから、俺も武器は帯びていないが、改めてチェックされるということもない。
 しかし、本当に美少女ばかりだな。華琳の趣味で選んでいるのだろうが、親衛隊に選ばれるくらいだから文武に長けているのは間違いないだろう。将来の幹部候補生たち、というわけだ。
 この世界は、俺の知っている世界に比べて、女性が社会へ関与する度合いが非常に高い。三国のトップがそろって女性なのだから、それもあたりまえなのかもしれないが、男性しか政に関われないような社会では埋もれていたはずの人材を活用することが可能となるのはいい効果だ。宦官を追放できたのも、宮中で働く女性人材を確保できるという目論見あったればこそだし。
 華琳の部屋に行き着く前に、おそらくはそこから出てきたのであろう秋蘭と行き当たった。昨晩は、秋蘭とお楽しみだったか。
「おや、ずいぶん早いな」
「ちょっと華琳に話がね」
「そうか……しかし、華琳様は姉者と一緒に夢の中だ。昨夜は遅くまで仕事をなさっておられたのを我等が無理に閨に誘ったほどだし、もうしばし寝かせてさしあげたいのだが……」
 少し戸惑うように視線をさまよわせる秋蘭。その先には華琳の部屋がある。華琳の体も心配ではあるが、俺の用事が大事ならば取り次がぬわけにもいくまい、という困り具合が秋蘭らしい。
「そっか、じゃあ、しばらく散歩でもしない? 秋蘭」
「一刀とか?」
 少し驚いたように言う秋蘭。
「うん、忙しいなら……」
「いや、そんなことはない。そうだな、歩こう」
 そう言うと、秋蘭は先に立って歩き始めた。

「二人きりで過ごすのは久しぶりじゃないか?」
「あー、そういえばそうか。秋蘭はいつも春蘭と一緒だからな」
 二人で早朝の庭を歩く。園丁の人達が、忙しそうに水をやったり、のびすぎた草を刈り込んだりしている。
「そうだな、姉者の側が一番落ち着くからな。華琳様のお側に姉者と共にあるのが我等姉妹の有り様なのさ」
「そうかもな」
 妙に納得する。春蘭と秋蘭は、華琳の側になくてはならないものだ。ただ、気をつけてやらないと、華琳も秋蘭も根をつめすぎてしまうからな……。春蘭の無限の体力は置いておいて。
「とはいえ、しばらくは姉者とも離れるがな」
「ああ、蜀へ行くんだったっけ」
 冥琳や明命、伯珪さんに桔梗が魏に大使として赴任しているように、魏からも協力体制を強化するために大使を送ることになっている。秋蘭は蜀へ赴く予定だ。
「しかし、秋蘭は魏の柱石だろう。長い間国外に出していいのかな」
 秋蘭の冷静さや老獪さは他に代えがたい。呉に赴く稟の能力を国外に止めるのも痛いが、彼女は元々異民族対策を主としているため、呉で越族の実態を調査するなど得られるものも容易に想像できる。一方で蜀への秋蘭派遣は、牽制の意味が強いように思う。
「華琳様は、呉よりも蜀を警戒しておられる」
 余人に聞こえないよう、低い声で俺に囁く秋蘭。
「呉は大使として、あの周瑜を駐留させている。周瑜に変わる前の内諾では孫権。いずれにせよ、国の重鎮中の重鎮だ。一方、公孫賛、厳顔の二人は武将として名は知れているが、蜀に参陣したのは後になってから。魏への信頼度合いで言えば、大きく水を空けているようにしか思えまい」
「軍師の性格の違いのような気もするけどね」
 そもそも宿将といえる将が義姉妹の二人しかいない蜀では、信頼度合いを示すのも大変だ。とはいえ、呉が冥琳を送り込んできたしまったために、アンバランスさが目立つのは否定しようがない。
 このあたり、軍師の後継として陸遜、そして呂蒙がおり、孫家という確固とした存在がある呉と、伏龍鳳雛と桃園三姉妹、どの人材が欠けても国家経営に困難を生じる蜀の構造的な違いでもある。
 呉の信頼に関しては、祭が洛陽にいるという事実も大きく関わっているのだろうが……。
「しかし、それが己の首を絞めている。華琳様は、公孫賛が正使と聞いて、孟獲も招くことを決めたのだからな」
「ああ、そうだったんだ。それは知らなかったな」
 孟獲……というよりは孟獲ちゃんと呼びたくなる愛らしい生き物は、南蛮を代表する立場で魏に駐留している。実際は美味しいものをたらふく食べるためにいるような気がしないでもないが……。
 ともかく、彼女は蜀のさらに南を支配する立場で、蜀に服属しているはずなのだが、華琳が彼女も招聘することに決めてしまった。これは南蛮を三国に並ぶ一つの独立地帯だと認めたに等しい。
 もちろんそれは蜀の支配力、交易への影響力を大幅に削ぐ結果となる。
「孟獲本人にその意図がどれほど伝わっているかはわからんが。諸葛亮あたりは、臍を噛む思いだろうな」
「孟獲ちゃんも軽く了承しちゃったろうしなあ」
「華琳様はかなり本気で大使制度を活用しようと思っておられたからな。邪魔者を押しつけるような人選に怒り心頭だったのだろう」
「伯珪さんや桔梗は邪魔者なの?」
 蜀における桔梗たちの地位っていうのは、どんなものなのだろう。蜀の人達とは、いまだにあまり接触する機会がないんだよな。祭や美羽のおかげで呉とは関わりが深いんだけど。
「公孫賛はもとはといえば、劉備を庇護していた立場だ。それが国家を再生する時期にいられては、劉備の地位が少々、とこれはおそらく諸葛亮の気のまわしすぎなのだがな。伯珪殿はそのようなこと考えられまい。しかし、一度抱いた疑念は晴れん。結局、厳顔をお目付役に大使とした、といったところだろう」
「うーん」
「伯珪殿も厳顔も、貧乏籤をひかされたわけだ。そして、大使を貧乏籤とした諸葛亮が、より大きな貧乏籤をひいたわけだな」
 ま、辛気臭い話はこれくらいにしよう、と秋蘭は肩をすくめた。
「桔梗といえば、すっかりやりこめたそうだな」
 さすがは同じ弓将として興味があるのか、目を輝かせて聞いてくる秋蘭。普段は何事にも動じないから、こうして身を乗り出して迫られるとちょっと怖い。ただでさえクールビューティなんだから。
「まぐれだよ、まぐれ。それに指揮官としては……」
「うむ。確かに、一軍の大将としては褒められた行為ではない。今回は厳顔に非があるにせよ、味方を背後から襲った、と言われては一刀の名にも傷がつくしな」
「俺の名前なんていくら傷ついてもいいけどね」
「北郷!」
 びりびりと空気が震える声で怒鳴りつけられる。耳に近かったせいか、頭にきーんと響いた。
「貴様の名が傷つけば、それを盟友とする華琳様の御名が傷つくとなぜわからぬ! そのように軽々しく言っていいことか!」
 秋蘭の大喝が庭に響き、園丁がさぁっ、と汐が引くように姿を消していく。
「それに! お前の名が傷ついて、魏の重鎮で心を痛めぬ者がいると思うか。華琳様はじめ、我等全てがそのことに憤激するだろう。いや、魏だけではない、呉や蜀の中にもそのような者に負けたのか、と落胆する者が出るに決まっているではないか」
 はぁはぁ、と肩で息をするほどの興奮は、いかに彼女が俺の言葉にショックを受けたかを物語っていた。
「ごめん……。軽率だった」
 心の底から謝る。いま、自分は本当に考えなしで言った。そう思えたからだ。他人にどう思われようと自分の中で高い誇りを保つとかそんなことも考えずに照れだけで言ってしまった。その軽さが、彼女には許せなかったのだ。
 俺が頭を下げるのを見て、秋蘭の表情が和らぐ。厭な役目を押しつけてしまった。
「その……言いすぎたかもしれんが、しかし……」
「うん、わかってる。秋蘭、ありがとう」
 謝罪の意味を込めて、精一杯の笑顔で礼を言う。俺を見つめる秋蘭の顔がわずかにほころんだ。
「う、うむ。そうだ。少し手並みを見せてもらおうかな。桔梗と対したなら、一刀の腕も格段にあがっているだろう」
「えー。どうだろうなあ。それは……まぐれだと思うけどなあ」
 そう言いながら、俺たちは練兵場へと向かった。

「うーむ」
 とりあえず十射してみての秋蘭の感想はそんなものだった。
「確かに腕は上がっている。実戦を経験し、それをものにしているようではあるが……」
 俺に矢をつがえずに弓を引かせ、四方から観察する秋蘭。
「矢を持っていると思って引いているな?」
「ああ、もちろん」
 矢がなくとも、それをイメージして弓を引くことは何度もしている。普段の俺の打ち方と相違はないはずだ。
「やはり、桔梗に勝てるほどとは……」
「言っただろ、まぐれだって」
「二射まではいい。桔梗も背後からの矢には油断していただろうし、対応をとれなかったろう。だが、三射か……」
 ぶつぶつと呟きつつ、俺の姿勢をチェックする秋蘭。不意に体に触れてくるものだから、どきどきする。
「うむ。休んでいいぞ」
 彼女の声に応えて弦を戻す。彼女の顔を見るとなんだか複雑そうな表情をしていた。
「なにかわかった?」
「ああ、さっきも言った通り、一刀は強くなっている。今後も鍛練を重ねれば、いいところまでいくだろう。だが、いま再び桔梗とやれば、負けるだろうな」
「そんなところだろうなあ。しかし、戦場のあれはなんだったんだろうね」
 秋蘭の評価は正直嬉しかった。やはり、強くなっていると言われるのは喜ばしい。しかし、桔梗に勝てるほどでもないというのも確かなところだろう。彼女は俺をじっと見て、なんだか深く考えに没頭しているようだった。
「そういう……時がある。まさに天命を得た瞬間というものが」
 どこか遠い眼をして、彼女は語る。秋蘭もまた、天命を受けた瞬間があったのだろうか。
「……それは人の一生の中で一度あるかないかというところだろう。だが、天に愛された者ならば、二度、あるいは三度引き寄せられるかもしれん」
 天に愛された者、と聞いて、俺は即座に華琳のことを思い出していた。その事を素直に言葉にする。
「天に愛された者……華琳みたいな人のことだな。そうだよな、あいつは頑張り屋だから、神様もたまにはとんでもないものをくれてやらないと不公平だよな」
「いや、私は……」
 秋蘭が少し戸惑う気配がある。
「ん?」
「……なんでもない。いずれにせよ、今後はそのようなことはないと思ったほうがいい。己の身を危険にさらすようなことはしないでくれるとありがたい」
「うん、最初の指揮で舞い上がっていたみたいだからな。今後は注意するよ」
 本当に心配してくれているのだろう。いつもより言い方が柔らかい。普段のきつい言い方だって、俺のことを思ってのことなのだが、こんな秋蘭もまた可愛らしい。
 そんな秋蘭と何を話すでもなく、寄り添って散策する。実は、戦の最中のほうが、こういうのんびりとした時間はよくあったのではないか、と思い返したりもする。おそらく、戦場で荒んだ心をお互いになんとかしようと、皆ができる限り穏やかな時間を過ごすことに必死だったのではないだろうか。
 そう考えると、意識せずにこうして二人歩いていられる今が、本当に贅沢に思える。
 そんなことを考えていると、後ろから足にまとわりつくものがあった。秋蘭と同じタイミングで足を止め、足元を見下ろす。
 ぬぁーん。
 間の抜けた声と一緒に俺を見上げる小さな頭が二つ。一つは俺、一つは秋蘭の足の間に入り込んでいる。
「おや、孝明に考和」
 すりすりと頭を秋蘭の足にこすりつける黒ぶちの孝和。虎縞の孝明のほうは、足でがしがしと秋蘭に昇っていこうとしている。
「なんだ、腹がへったか? そうか、そんな時間か。よし、一刀、華琳様も起きていらっしゃるだろう。そろそろ行こうか」
 孝明を抱えあげる秋蘭と、孝和を抱えあげる俺。二匹は俺たちの腕の中で、満足そうにごろごろと声あげる。その声がなんだか妙に合わさって響くのが面白い。
「一つ聞いていいかい、秋蘭」
「なんだ?」
「猫に皇帝や皇后の名前ばかりつけるのは、朝廷へのいやがらせ?」
 孝明、孝和共に、後漢の皇帝の諡号のはずだ。はっきり言って、秋蘭でなければ、引っ立てられてもおかしくない。
「はっは、まさか。そんな桂花みたいなことをすると思うか? いい名前ばかりじゃないか」
 そう言いながら、秋蘭は片目を瞑って見せた。
 その朗らかな笑顔に、俺はそれ以上何も言えなかった。


 ひとしきり春蘭と秋蘭のいつもの漫才をみた後で、俺は華琳の私室に足を踏み入れた。
「早いわね、一刀」
 華琳は生まれたままの姿に薄絹一枚という格好で、卓に腰掛けていた。朝の光に、華琳の白い肌がきらきらと輝いて、目を奪われる。
「今日は行儀が悪いな」
「私室でくらい気を抜かせてくれてもいいんじゃない?」
「したければ、どこででもするくせに」
 彼女は笑う。覇王の笑みで。少女の笑みで。
「それはもちろんよ。私は曹孟徳ですもの」
 理由になっているのかいないのかよくわからないことを言う華琳。それでもそれが通ってしまうのが、曹操という人間のすさまじさだろう。
「それで、今日は何かしら。この間の討伐の報告ならもう……あ、そうだ。桂花がぼやいてたわよ。絶対に勝てる勝負を考えついたのに! って」
「その前に、『あの全身精液の大馬鹿でも』とでもついていたろ?」
「あの子がなんにせよ言及する男なんてあなた一人よ」
 それは誇っていいのやら、悲しんでいいのやら。
 微妙な表情をしている俺をよそに、華琳は眉根をひそめる。
「そっちは正直大した問題じゃないけれど、烏桓一部族を雇いあげるなんて、無茶をする。高くつくわよ」
「それに値するぐらいのものを持ってきたよ」
 懐からシステム手帳を取り出す。
「ん? ……その本は、なに?」
「本じゃなくて、手帳。俺があっちで勉強したことを書き留めてきたり、あっちで出てる情報をまとめたものだよ」
 言いつつ手帳を開き、ぱちんとリングを開けて、リフィルを取り出す。
 独特な折り方で、開く時に引っ掛かりができないように畳まれたそれは、一枚の地図。広げるとA3の大きさになるはずだ。ああ、久しぶりだな、A判の紙を見るのも。
「そこ、いいかい?」
 華琳が座っている卓を指す。俺の行動に何か感じたのか、華琳の顔が引き締まっている。
「少し待ちなさい」
「ん」
 言い捨てて、俺の返事を待たずに、さらに奥の部屋へ立ち去る華琳。あちらは本当にプライベートな空間なのだろうな。
 俺は、一人、卓に座って、地図の折り目をのばす作業に没頭する。もう一枚、システム手帳から地図のリフィルを取り出し、これも同じようにのばしていく。
 奥から戻ってきた華琳は完全に服を着込んでいた。様々な官位の象徴たる飾りやなにやらはつけていないものの、宮中で過ごす時そのままだ。珍しく、朱までひいている。いつも凛々しいが、やはり、こうしておしゃれをすると女っぷりが格別だな。
「また、今度はびしっとしてきたな」
「それだけの価値あるものを見せてくれるんじゃないの?」
「まあね。予想してるとは思うけど、地図だよ」
 一枚をつまみあげる。華琳の眼がそれに吸いよせられるように動く。
「あなたの世界の、ね」
「そうだ、俺の世界の全図だ」
 A3の表裏に、それぞれ北半球と南半球が描かれた地図だ。華琳はそれを俺から受け取ると、なにか恐ろしいものをみるかのように覗き込んだ。簡単に裏表の説明と、どちらが北か、縮尺はどんなものか、というようなことを解説してみせる。
 食い入るように見つめる地図を持つ華琳の指が、微かに震えていることに気づく。
「これが……世界」
「おそらく、こちらでも通用するはずだ。こちらの地図を見たけれど、それほど離れていないからな」
「私たちがいるのは?」
「このあたりだな」
 中国大陸を指す。さすがに洛陽の位置を正確に示せたりはしないが、黄河くらいは判別できる。この地図だと、せいぜいわかるのは、北京──いまで言う薊と黄河、長江くらいか。
 華琳は無言だ。何度か裏と表をひっくり返して、全体像を浮かび上がらせようとしている。俺たちの世界では世界が丸い惑星上にあるということがそもそもの常識だ──とはいえ、実感があるわけじゃない──が、この時代にそんな知識はないし、世界の広さそのものだって、想像の埒外だろう。
「これが、世界……」
 もう一度繰り返し、華琳はごくりと息をのむ。
「もう一枚は、この部分の拡大図」
 同じくA3の表面に東アジア全体図が描かれた地図を渡す。世界地図に重ね、そちらをさらに目を皿のようにして凝視する華琳。
「漢の版図、示せる?」
「だいたいでいいなら。涼州がどこらへんまでとかはわからないぞ」
 言いながら、指で後漢の版図と思われるあたりをぐるりとなぞっていく。その指を彼女の視線が追っているのを感じる。
「海岸線は同じ……いえ、でも、細かいところは違う……いや、測量の……」
「これがそのまま使えるとは限らない。大規模な埋め立てとかがあったりするからな」
「でも、これはすごい……。文字はさっぱりわからないし、細部は詰めないといけないでしょうけど……でも……」
 華琳は、ぶつぶつと俺には聞こえないくらいに早口で言葉を連ねていたが、一つ大きく息を吸い、吐き出した。
「一刀、なぜこれを、いま?」
「覚悟が決まった、というのかな」
 なるべく重くならないよう、けれど、軽薄には聞こえないよう、言葉を選んだ。俺の中にある司馬懿処刑をはじめとした『歴史』との乖離に対する感覚を説明しようと思ったら、時間がかかりすぎる。
「別にこれまで覚悟がなかったってわけじゃないけど……なんて言えばいいんだろうな。俺も……その、この世界の一員なんだと、そうであっていいんだと気づいたというか、安心した、というか。そんな感じなんだ」
 言葉を探しながら、つっかえつっかえ話すのを、華琳はじっと待っていてくれた。その時浮かんでいた表情を見て、俺は、あの時のことを思い出す。蜀に攻めこまれ、華琳も俺も一歩間違えれば死を免れ得なかったあの日を。
「そう。わかった」
 俺に向けて優しく頷いた後、がらりと表情を変え魏の覇王の顔になった彼女は部屋の扉まで歩いていき、扉を開けて親衛隊を呼ばわった。駆け寄ってくる女性兵に、何事か指示を下し、再び部屋に戻ってくる。
「桂花たちを呼ぶ必要があるわ。この地図、もらっていいのよね」
「ああ、好きにしてくれ」
 ある意味で、二枚の地図を渡すことで、肩の荷が下りたと思ってるくらいだ。
「また、細かい記号だとか文字の話は……あら?」
 華琳はアジア地図の裏を見て、疑問を顔に浮かべる。
「この裏は?」
「ああ、日本列島だな。俺の故郷だったところだよ。朝鮮半島……あー、楽浪郡……だったっけ? そこから東に海を渡ったところにある島々さ」
 以前は見慣れていたその列島を、いまはなつかしく感じる。けれど、そう、けれど……。
「故郷だった、ね……」
「ああ、故郷だった場所さ」
 俺の心情を慮ったか、彼女は、それ以上は何も言わないでくれた。



 華琳の部屋から出たら、もう昼頃だった。あの後、華琳はじめ、桂花、風、稟の三軍師に地図の見方と縮尺、等高線の説明などをしていたら、それなりに時間が経っていたらしい。四人はいまだに華琳の部屋で、あの地図をどう使うか、という密談をしているはずだが、俺は一足先に解放してもらった。
「さて、俺の仕事も片づけないとな……」
 その前に昼飯にでも行くかな、と考えつつぶらぶらと庭のほうへ歩いていくと、茂みの前で一匹の猫が毛繕いしているのが見えた。黒一色のすらっとした姿は、いっそ黒豹を思わせる。これも、秋蘭の飼い猫の一匹、麗華だ。
「やあ、麗華。ご機嫌いかが?」
 にゃーぁう。
 俺が声をかけると、金色の瞳をきらめかせて返事をしてくれる。今日はご機嫌がよいようだ。気が向かないと、完全に無視されるからな。そのくせ、俺の執務室に入り浸っていたりするんだが。秋蘭の猫たちは俺のことを世話をしてくれる人間と認識しているらしく、秋蘭が見つからない時は、俺に水やご飯をねだってくるのだ。
 俺が声をかけただけでそれ以上なにもしないと見ると、麗華は俺の歩みに合わせて歩き始めた。そのぴんとのびた尻尾と背中が、まるで、つきあってあげてもよくてよ、と語っているようでほほえましい。
「お前もお昼ごはんいくかい?」
 厨房で頼めば、麗華の昼も調達できるだろう。
「ん?」
 ふと、視線を感じる。俺、というよりは俺と麗華を見ているこの視線は……。顔をあげると、視界の端で一瞬だけ、特徴的な黒髪が見えた気がした。それが動いた先を追ってみるが、果たして何者も目に入らない。
 見間違い、ではない。ただ、俺には見つけられないだけだ。
 ぬぁーお。
 なんですのまったく、とでも言いたげに不満そうに麗華が唸る。俺はしかたなく、漆黒の毛皮の淑女を抱き上げると、当初の予定通り、厨房へと向かうのだった。
 あれって、やっぱり……明命だよなあ。

 明命が俺を避けるようになったのは、あの討伐行以来だ。正確に言えば、帰りの行軍までは普通に接してくれていたのだが、その後、避けられるようになってしまった。
 きっかけがなんなのかは……わかっている。
 ある夜、遅々として進まぬ帰途に飽きた麗羽が、俺の天幕に忍んできたことがあった。しかも、その夜はたまたま桔梗も閨にもぐりこもうとして来ていたものだから、結局、三人で朝まで過ごすことになってしまった。
 そして、早朝。帰って行く二人を送り出すところで、見回りに出ていた明命と眼がばっちりあってしまった、というわけだ。
 その時は無言で、皆話題も避けてくれていたのだが、やはり……女にだらしない男と思われているだろうなあ。桔梗や麗羽はじめ、大事な人たちとの関係を隠すつもりはないが、一般的に見れば感心できる状況でもないだろう。祭のように、それくらいは甲斐性と笑って後押しするような人ばかりではないだろうし。
 ともあれ、それ以来たまに視線を感じたりはするものの、明命の姿をとらえることは出来ず、話も出来ていない。公務の時には顔をあわせもするし、その場では雑談などもできるので、徹底的に嫌われているというわけではないと思うが……。
 うなー。まーぉ。
 うなだれている俺に、いつの間にかやってきた白猫聖通が何事か訊ねるように鳴いて来る。これまたどこからか現れたブチ猫の文叔はお昼をたっぷり食べて眠いのか、俺の足元でうつらうつらしており、それを少し離れたところから、麗華が超然と眺めていた。
 今はこの三匹だけだが、厨房から餌をもらってきて、こうして庭の芝生に置いてあるのだから、匂いを嗅ぎつけた猫たちがいずれやってくるに違いない。
 芝生にあぐらをかいて座り込んでいる俺の足に、文叔のこっくりと落ちた頭がぶつかって、うにゃっ、と変な声をあげる。眠気が醒めたのか、聖通のほうへにじりよろうとするが、彼女は毛を逆立てて威嚇する。
 名前の通りならば文叔は聖通と麗華の旦那さんとなるのだが、実をいうと麗華は文叔の姉猫──か妹猫で、文叔は聖通に言い寄っては毎回断られて大喧嘩になるという繰り返しだ。今回は諦めたのか、大人しく退散した文叔は香箱を組みなおして、またこっくりこっくりはじめた。
「人の世界も、猫の世界も大変だよな」
 興奮さめやらぬ聖通の背中をなでてやりながら、独りごちる。彼女はなでている内にころんとお腹を見せてひっくり返ったので、わしゃわしゃとこねくりまわす。
「でも、いまは戦争もないし、こうして美味しいご飯が食べられるのは幸せかな」
 がさがさ、と側の茂みが揺れる。たぶん、別の猫がやってきたのだろう、と構えていた俺の視界に、大きな耳をゆらす小さな頭が飛びこんできた。
「うにゃ? いい匂いがすると思ったら、先客がいたにゃ」
「ありゃ、孟獲ちゃん」
 茂みから顔を出しているのは、南蛮大王孟獲。なぜか猫耳とか肉球とかが存在する、よくわからない部族の代表者だ。
「それ、食べていいのかにゃ」
 ごそごそと茂みから体を出して、猫たちの餌を指さす。その指もふわふわの白い毛皮で包まれているんだよな。
「これは、猫の餌だからなあ。お腹減っているなら、厨房で何かもらってくるよ」
 猫の餌といっても、調理していない、塩分や脂身が少ないものを適当にもらっただけだから、人間が食べて害があるというものでもないが、やはり気分の問題というものがあるだろう。人間には味が淡白すぎるだろうしな。
「いやにゃ! みぃは、それが食べたいのにゃ!」
「そう? じゃあ、こっちの皿は聖通たちも手を出してないし……
 いくつかの皿はまだ盛られたままだ。それを差し出すと孟獲ちゃんは猛然と食べ始める。聖通と麗華も彼女が食べているのを興味深げに眺めている。自分たちと同じものを食べている仲間を見つけた気分だろうか?
「兄はいいやつにゃ」
 彼女は俺のことを兄(にい)と呼ぶ。仲のいいらしい季衣や流琉、それに風が呼んでいるのを真似しているのだろう。彼女の食べっぷりを見ていると、なんとも嬉しくなってきて、余っていた皿をさらに差し出す。
「おー、いいのかにゃ。兄の食べるのがなくなっちゃうじょー」
「いや、俺は別にもう食べたからさ」
 そう言うと、満面の笑みを浮かべる孟獲ちゃん。口の周りに着いている食べ残しをとってやる。彼女は嬉しそうに耳をぴくぴく動かす。やっぱり猫みたいだな。
「そうにゃ、お礼に今度からみぃのこと、真名で呼んでいいにゃ」
 確か、美以が真名だったっけ。ずいぶん簡単だけどいいのかな。しかし、お礼だというなら素直にもらっておこう。
「ありがとう。……そういえば、残りの三人組は?」
 いつも、さらにころころした三人を連れているはずだが。ミケ、トラ、シャムだったっけ。
「おお。ミケたちにも持っていってやるにゃ」
 そう言うと、持っていた袋の中にばさばさと放り込み始める美以。それが一段落すると、膝によじのぼってこようとしている聖通の喉をかいてやっている。さすがに、猫とは親和性が高いのかな。
「ミケたちは、いましゅーゆのところにいるにゃ」
「冥琳の?」
「そうにゃ、今度、みぃたちが呉にいくから、そのてーさつにゃ」
 あのさわがしい三人組が偵察は無理だと思うけどな。
「へー。呉にも行くんだ」
「うむにゃ。蜀、魏と来たから、呉にも行ってみたら、と華琳に言われたにゃ」
「ああ」
 呉にも大使として赴くということだろう。蜀から離しておこうという意図か、南方との交易をより活発にしようという狙いなのか。華琳たちの思惑はともかく、美以本人は楽しみにしているようだ。
「それにしても呉か。南蛮からしたら、だいぶ東の方になるよな」
「でも、色々あって面白いにゃ。蜀より魏のほうが人が多くて愉しいしにゃ。呉はよくわからないから、てーさつしてたんけんするにゃ」
「愉しければ一番だね。でも、本国を長く留守にしていて大丈夫なのかな?」
「大丈夫にゃ。みぃの部下たちはみんな強いし頭もいーのにゃ」
 その言葉をそのままには受け取れないにせよ、ぷにぷにの笑顔を見ていると、彼女の仲間への信頼はよくわかった。魏のように複雑なシステムをとっていない分、トップがいなくても居場所さえわかっていればまわっていくものなのかもしれない。もちろん、他勢力からの圧力がある場合等は、美以がいないと話にならないのだろうが、今はそのような事態は考えにくい。
 美以が現れた時のように、茂みがごそごそと揺れる。ミケ、トラ、シャムがやってきたのかと思ったら、今度はキジトラとサバトラの猫二匹だった。敬質と敬冲だな。麗華たちが口をつけた皿を前に置いてやると、夢中で食べ始める。こいつらはとにかく急いで食べようとするのだが、元々野良だったのが影響しているのだろうか。
「兄は猫に好かれてるにゃ」
「猫だけじゃないですけどねー」
「うわ、風。どこから出てきたんだ」
 背後から唐突にかかった声に思わずのけぞって声を上げる。魏の頭脳の一人は相変わらずのんびりとした雰囲気でつかみどころがない笑みを顔に浮かべていた。
「さっきからいたにゃ」
「お兄さんが猫の食餌に、にやにや顔を緩ませてる間に近づいてみました」
「あ、ああ、そう」
 そんなにやにやしていたかなあ。確かに猫たちが餌を食べてる姿はほほえましくはあるが。
「それでお兄さん、稟ちゃんと華琳さまがお呼びです」
「稟と華琳が?」
 それよりも、今日はなんだかあんまり風が絡んでこない。からかわれるのはともかく、こう事務的に進められるのも珍しいと思うがのだが……ちょっと寂しいな。
「今日は風に構ってる暇などないのですよ、お兄さんには。また今度かまってあげますー」
「人の心を読むなっ」
「ともかく、早く稟ちゃんのところへ行ってあげてください。餌やりと美以ちゃんのお相手は風に任せておいてください」
 なんだか急いでいるようなので、忠告にしたがって腰をあげる。猫たちは風も気に入っているのだろう、ころころと彼女のまわりで遊んでいた。
「がんばってくださいねー」
 くふふふっ、と口元を隠した笑いで、彼女は俺を送り出してくれた。


 華琳の私室に戻ってみれば、稟と華琳が二人でお茶をしていた。
「ああ、来たわね。一刀。あなたがこないと話をしないというものだから、ずいぶん待たされたわ」
 少々いらだった声で華琳が迎え入れてくれる。彼女はそのままぷりぷりとした表情で、新しく茶を淹れ始めた。こうして怒りを表に出している時は問題ないだろう。じゃれているようなものだ。
「一刀殿が居られないと意味がない話ですからね」
 しれっとした表情で答える稟。華琳と二人きりで自室で茶を酌み交わすなどという環境で鼻血を噴いていないのは、仕事モードだからか。
 それにしても、国の大事とかそういう事ではないらしい。そうであったら、いくら俺に関係していても、華琳に直に報告するのを待つことはないだろうからな。
 華琳が淹れたお茶を空の椅子の前に置いたので、そこに座らせてもらう。魏の主手ずからのお茶というのは贅沢すぎる気もするが、華琳の淹れる茶は紛れもなく絶品で、彼女自身も己の腕を知っている分、侍女の淹れた茶などでは我慢できないのだろう。
 熱い茶を口に含むと、ふんわりと甘い味と香りが広がる。いくらいい茶葉を使っているとはいえ、どうやったら、ここまでの風味を引き出せるのだろう。
「それで、一体なんの話なの? 私と一刀だけ、なんて指定して」
「はい、お時間を割いていただいて申し訳ありませんが……それでは話させて頂きましょう」
 稟は姿勢をただすと、いつも通りの調子で、くい、と眼鏡を押し上げた。その後、彼女にしては珍しく、何事か言いよどむような感じで、二度三度口をあけたが、その言葉を実際に言った時には非常に淡々とした口調だった。
「子を、宿しました」
 コ……胡? 狐? 虚?
 言葉を認識したはずなのに、頭がまわらない。現実の感覚が全て失われて、ただ、俺の視界に入るのは、ほんの少し不安そうな顔をした稟だけだ。
 誰だ、俺の大事な稟にこんな寂しそうな顔をさせたのは!
 強烈な感情が、まわらない頭を無理矢理にまわす。
 コドモ、子供、こどもだ。俺の、俺と、稟の。
 肚の底から熱いものが込み上げ、それは喉を通り抜け、俺の口をこじあける。
「いやっったああああああ!!」
 だん、と卓に手をついて立ち上がる。その勢いでひっくり返った茶杯からこぼれたお茶が俺の左手にかかった。
「あちあちあぢっ」
 慌てて手を引き服で拭う。ぼすんと何か投げつけられたので受け取ってみると、何枚かの布だった。見上げれば投げてきた相手は華琳。
「落ち着きなさい、莫迦。はやくそれで拭いて」
 言われる通り、手を拭い、卓にこぼれた茶を吸い取っていく。その最中にも笑みが顔に広がるのが止められない。俺の子供。俺たちの子供……。
「その様子では改めて言うまでもないでしょうが……一刀殿の子です」
 苦笑を浮かべながら稟が言う。しかし、その顔に先程までの不安な翳はない。そのことが、俺を救ってくれた気がした。
「おめでとう。元気な子を産んでね、稟。……一刀の子を産むのであなたに先を越されるとはね」
 華琳が稟を祝福する。その口ぶりだと、華琳も俺の子を産んでくれるつもりがあるということなのだろうか。なんだか、すごいことが起こりすぎて、事態が把握しきれない。
「はい、ありがとうございます。しかし、少々問題が」
 ぴしり、と固まる俺と華琳。その一方で、稟は泰然としている。その様子に、なぜか俺よりも華琳が怒ったように問いかける。
「問題? 体が耐えられないとでも言われたの? まさか、一刀の子を産むのが……」
「子を産む事にはなんら問題はありません。どちらかといいますと、政に影響が」
「あ……呉への大使か」
 蜀への秋蘭派遣と同じく、稟は呉へ派遣されることが決まっている。これは、雪蓮たちも承知のことだ。
「確かに……そもそも長旅をさせるのはまずいわね」
「はい、母体への影響を考えますと、呉へ向かう事自体難しいかと」
「ま、まずい。確かにまずいよ、うん、まずい、どうしよう、華琳」
「だから、落ち着きなさい! ああ、もうまったく」
 なにも考えられなくなっている俺に、華琳が一喝する。そうは言っても、子供ができたんだぞ? 落ち着いてなんかいられない。
「まあ、舞い上がるのはわかるし、しかたないけど……。もう、一刀はしばらく黙っていて」
「あ、う、うん」
 呆れたように言われ、発言を控えることにする。子供か、十月十日で生まれるんだっけ? いや、そもそも妊娠がわかるまでの時間とかはどうなるんだろう?
「ともかく、呉への大使は別の人間をやるしかないわね。稟、あなた自身には何か考えがある?」
「選択肢がそもそも多くありません」
「そうね、秋蘭が動く以上、春蘭は動けないし、他の軍師をやろうにも、風も桂花もそれぞれに予定がある。霞は鎮西府だし、凪は郷士軍の結成で忙しすぎるわね」
「はい、せいぜい真桜、沙和、季衣、流琉の四人でしょう。とはいえ、季衣と流琉は少々……」
「彼女たちにはまだあんまり薄汚いやつらの相手はさせたくないものね。雪蓮たちはともかく、文官もいることだし」
「はい。そこで、真桜を正使として推します」
「真桜か……」
「以前、呉に駐留していた折り、真桜が工房で作業をしていたことは憶えておられましょうか。あれを後に見た呉の技官どもが真桜の技術に驚嘆したと伝え聞きます。一つでも印象の強いものを選ぶのが得策かと」
「ああ、結局本国まで戻らなきゃいけなかった時ね。そう……。真桜の才はかけがえのないすばらしいものだけど、政ではあなたに比べたら名前が通っていないわ。その点はどう補うのかしら」
「はい、ですから、半年間だけ副使をつけます。真桜は発明の才だけではなく、きちんと責任感を持てばやり遂げるだけの力があります。半年もいれば、呉の人間も納得するでしょう」
「ふむ……」
「副使には、責任をとっていただくということで、一刀殿を」
 不意に名前が呼ばれて、ぽーっとしていた意識が現実に引き戻される。男女の名前を十二個ずつ思いついたところだったのだが。
「お、俺?」
「はい、祭殿を部下にしたということで、呉の面々に一刀殿は一目も二目も置かれています。それを副使につけるというのが大事なのです」
 それに、と彼女は付け加える。
「子が生まれる前には帰って来ていただかないと困りますから」
 むしゃぶりつきたくなるような、晴れ晴れとした笑顔だった。その様をみて、華琳がはぁ、とため息をつく。
「やれやれ。稟は私のものだったはずなのに、すっかり一刀に取られた気がするわ」
「華琳さまっ!」
「冗談よ。これ以上からかわないわ。さすがに今の稟に血を噴かせたくはないもの。一刀と真桜か。悪くない組み合わせかもね。どう、一刀」
「うーん、妊娠した稟を置いていくのは気が引けるけど……。しかたないんだよ、な」
 こくり、と頷く稟。俺の子供を産んでくれるというのに側で世話をしてやれないのは残念でならないが、その分、彼女の抜けた穴を埋めるべく動くべきだろう。
「真桜は問題ないんじゃないかな。軽口を叩きがちだから軽薄に見るやつもいるけど、真桜自身はちゃんと色々見えているから」
「一刀はほとんど後見みたいなものだけど、名目上は真桜の下につくことになるのよ。そこは大丈夫?」
 華琳の心配は、少々滑稽にも思える。警備隊長時代は確かに真桜を部下にしていたが、今はそこからも離れているのだ。華琳や稟、真桜を含めた大事な人達のためにきちんと仕事ができるなら、どんな立場でも問題あるはずがない。
「何心配してるんだよ。そんなこと気にしないよ」
「世の中には、『そんなこと』が大事で仕方ないのもいるからね。一刀自身がそう思っていなくても変に気を回すのがいるかもしれない。気をつけなさい」
「うん、了解。でも、俺自身はみんながいて、おいしくごはんが食べられればそれで充分なんだけどなあ」
 世の中には華琳の言うように、地位や名誉に異常な執着を示す人間というのはいるものだ。幸い、三国の重鎮たちの間にはそんなのはいないが……。権力にしがみついて離そうとしない場合、たいていは周囲にとっても本人にとっても悲劇にしかならないんだよな。
「一刀殿は欲がありませんからね。……女性以外」
「そうね。一刀は無欲よね。女以外」
 とんでもなく平然と言い切られましたよ。
「なんか、華琳に言われると……」
「あら。私は元々貪欲だもの」
 これもばっさり切られる。確かに、その通りだ。
「一刀のその無欲さはあっぱれなものだけど、皆がそうとは限らない。あなたにとってはちっぽけと思えるものでも与えておけばそれで奮励努力する者もいるわ。逆に、そういうものを特に望まないのに与えてしまうことで腐る者もいる」
「そのあたりを勘案するのは我等の役目ですが、一刀殿もそういうことに馴れておいてもらわねば困ります」
「そうだな。注意を払うようにしておくよ」
 素直に忠告を受け入れておく。こういう帝王学というようなものは、俺が実践する機会があるかどうかはともかく、華琳の側にいる限りは知っておかなければならないことだ。知る、というのも実感に近くなければならない。まだまだ俺も経験が足りない。
「じゃあ、真桜も呼んで細部を詰めましょうか」
「そうですね」
「あ、その前に、少しいいかな」
 華琳が軽く頷くのを見て、俺は立ち上がり、稟の手を取る。手袋ごしの温かな稟の体温を感じる。きょとん、と俺を見上げる顔。
「ありがとう。稟」
 どう言おうとしても言葉にならない幾千の思いをその一言に込める。俺の喜びと感謝と祝福を完全に伝えることができないのが、もどかしくてたまらない。
「……まだ気が早いですよ」
「そうよ、子を産み終えたら、うんと褒めてあげなさい」
 微かに笑みをのせる稟と、優しい笑みで俺たちを見守る華琳。俺は彼女たち二人に向けて、満面の笑みを浮かべた。
「ああ、そうするよ」


「そういうわけで、真桜と俺が呉に派遣されることになったんだ」
 俺はそう言って、卓の向こうの冥琳に説明を終えた。彼女は顔をほころばせると、眼鏡の奥で瞳をきらめかせる。
「それはめでたいこと。李典殿と一刀殿の大使就任については本国に打診をしておきましょう。問題なく受け入れられるはず」
「ありがたいな。稟の代わりが務まるとは思えないけど、二人で精一杯がんばるよ」
 これで一安心だ。いかにこちらが決定しても、呉が受け入れないと表明したら、人選は最初からやり直しになってしまう。蜀に秋蘭を送るのだから春蘭を送れ、となってもおかしいことはないのだ。特に呉は三国で二番目に力を持っているのだし。
「祭さまはどうなさると?」
「いや、それが行きたくないらしい。物見遊山ならともかく仕事で行くのは勘弁してくれ、と」
「はは、あの方らしい」
 ひとしきり笑ったあとで、冥琳は顔を引き締める。こういう表情をすると、なんとも凛々しい。つい見とれそうになるくらいだ。
「実際のところ、祭さまは複雑な御立場になりますからな。一刀殿への影響等も考えて今回は避けたというところかと」
「そうなんだよな。祭だって帰りたくないなんてことはあるわけないしさ。とはいえ、気をつかわせる結果になるのに無理強いするのも厭だしな」
 ふっ、と自嘲の笑みを浮かべる俺を、冥琳は訝しげに覗き込んでくる。
「もっと……戦の後始末も何もかも終わったら、祭を呉に連れていってやれるかな、って思ってさ」
 今は無理でも、いつか……なんのわだかまりもなく、祭や俺や他のいろんな人が、いろんな場所を訪れることができる、そんな世の中にすることは不可能じゃない。俺はそう希望を持ってその言葉を発した。
「その時は、この私が案内をしましょうぞ」
 冥琳の返事は、ふざけているとは思えないほど、真剣な調子を帯びていた。はっ、と身を引き締めてしまうくらいに。彼女ほど、俺が夢想することの難しさに直面している者もいまい。
「そんなわけで、祭抜きの俺じゃあ、あんまり価値ないだろうけど許してほしい」
 冥琳の瞳が揺れる。何事か言おうとして、諦めたかのようだ。しばらく黙ったあと、彼女はふと笑みを浮かべた。
「そのあたりは私としては承知としましょう。あとは雪蓮の判断だが、十中八九問題にはならないと、華琳殿には正式にお伝えしよう」
「ああ、頼む」
「では、仕事の話はひとまず終わりますかな。改めて、お祝いを申し上げる。お子さまが生まれるとはなんともめでたい」
 卓の向こうで、茶杯を掲げる冥琳。時間は遅いが、まさか大使の執務室で酒を酌み交わすわけにはいかない。俺も同じく置かれてた茶杯を手にとる。桃の華が描かれた、可愛らしい杯だった。冥琳の持っているのとおそろいらしい。
「うん……まずは無事生まれてほしいね」
「とはいえ、個人的には……そう、あなたの女の一人としては、少々思うところもないではありませんがな」
「えっと、それって……」
 ちょっと意地悪な顔をして、冥琳は俺を眺めている。卓の上の書類をとんとんと揃えて、脇に避けるのを続けている。
「まさか、子を孕む覚悟がなくて、あなたに抱かれたとお思いか?」
 どきり、とした。眼鏡の奥から見上げてくるような瞳に心臓が刺し貫かれたように。
「女が身をゆだねるということは、そういうことでもあることを忘れてはなりません。殿方は、だいたい己の子の姿を見るまでは実感できないようですが、女子はもっともっと前から覚悟をするものですからな」
「その、俺は……」
 おずおずと言い出そうとすると、途端に冥琳が悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「いや、これは苛めすぎですかな。私とて、嫉妬という感情はあるということでご勘弁願いたい」
 ぱたぱたと手を振って、それまでの雰囲気を振り払うようにする冥琳に、俺は喉につかえていた言葉をなんとか形にする。
「俺も、大きなことは言えないけど、その、ただ一つわかってほしい。俺は大事な人達に、本気で対しなかったことなんてない。それだけは誇れることだと思ってる」
 もちろん、男と女では意識に差があるのはわかる。しかし、それでも、力及ぶ限りは、俺は俺の全てをぶつけているはずだ。とはいえ、俺自身がまだまだ力不足なところはあるのは間違いないが……。
「そういうあなただから……」
 とろけるような笑み。冥琳の少女の部分がかいま見える、この瞬間を、なによりも大切だと思う。
「別に順番を競っているわけではありませんからよろしいが、私も一刀殿との子を持ちたいと思っておりますぞ」
 まっすぐに俺を見て、そう言った後で、冗談めかして続けた。
「三国の平和は一刀殿のお子が担ってくれるかもしれませんぞ?」
 た、たしかに、三国に子供ができそうでは……ある。
 俺は背中に冷や汗が流れるのを感じていた。

「明命に避けられている?」
 しばらく話を続けた後で、明命のことについて相談してみた。俺が呉に行く前に、彼女とのわだかまりも解消しておきたい。
「うん。どうにかならないかな」
 すっ、と目を細める冥琳。彼女は卓に身を乗り出して、俺の顔を覗き込んできた。
「一刀殿、あなたは我々が政の世界に生きていることはご承知でしょうな」
「あ、うん」
「各国の要人は、その国内でも国外でも、身辺を探られる。これは当然のこと。そして、一刀殿、あなたは間違いなく魏の要人」
「そ、そうなのかな。俺なんて……」
「神算の士郭嘉と子をつくり、覇王曹操の愛人でもある一刀殿が要人ではない、と」
「ご、ごめん」
 低い声で言われて、思わず謝ってしまう。冥琳は体を戻し、深く腰掛けなおした。
「これは冗談……だが、あまりご自分を卑下なされない方がいい。いずれにせよ、あなたの身辺は我等も探っている。これは、個人の意志では止めようがないこと。どうかご理解を」
「うん、それはわかっているよ。たぶん、桂花か誰かが冥琳たちのことだって探っているだろうし……」
 そのあたりは、個人のつきあいと国家としての安全対策を切り離して考えないといけない。そう考えると、一挙手一投足が注目される華琳の気苦労が忍ばれる。
「で、ありましょうな。さて、明命は呉において、潜入、調査を掌握する立場にある。つまり、あなたの女性遍歴はとっくに承知の上」
「あ、そっか……」
 と、いうことは明命が俺に対して女性関係で幻滅したというのは思い込みだったのだろうか。では、別の理由で避けられているということか? うう、困ったな。
「それに、あの娘が本気になれば、私や祭さまとて捉えきれぬもの。遮蔽物も多い城中で、一刀殿が穏形に気づくと思われるか?」
「それは……無理だな」
 明命は直に相対している人間にも、印象を残さずにいられるような達人だ。俺ごときが気づけるはずがない。あれ、じゃあ……。
「明命が避けようと思ったなら、一刀殿、あなたは気づかぬまま終わるはず」
「……だったら」
「そう。意識的にせよ、無意識にせよ、明命はあなたを避けているのではなく、近づこうとして踏み出せないでいるだけでしょうな」
 俺の疑念を、冥琳が形にしてくれる。どうやら、明命に嫌われたというわけではないらしい。だとしたら……。俺は深く考えに沈んでいく。
「ふふ。これ以上は私の口から言わせますまいな。嫉妬の種をさらに増やすおつもりか?」
 思考の流れを断ち切るように、冥琳のからかうような声が響く。いつの間に俺の背にまわったのか、二本の腕が、肩から胸にまわされ、顔の横に冥琳の頭があった。もちろん、背中には大きな圧迫感。かぐわしい香りが俺の思考をさらに鈍らせる。
「め、冥琳」
 俺の事をじっと見つめていた眼がすっと閉じる。導かれるように、その唇に己の熱くなった唇を重ねる。
 ぴちゃ、ぬちゅる……。
 どちらからともなく開いた唇の間で、お互いの舌を絡ませ会う。冥琳の手が、俺の顔の形を確かめるように愛撫する。俺は、少し悪戯心を働かせて、彼女の耳を両手でふさいでやった。頭蓋に、なめさすり唾液をぬりつけあう音が響いたのか、びくり、と一度体を震わせたものの、俺のなすがままになる冥琳。
 舌と舌、舌と口内がこすれあう感覚と、唾が混じり合う熱、それにそれが織りなす音に夢中になった彼女を、もっと夢中にさせたくて、にちゃにちゃとわざといやらしい音をたててやる。
「はぁ……ふっ」
 頭をふって、冥琳がその状態から逃れる。嫌がっているというのではなく、耐えきれなくなった、という感じだ。
「これ以上は……やめておこう。我慢できなくなります」
「我慢しなくたって……」
 かすれた声で呟くと、寂しそうに微笑む。その笑みを見ると、さすがに何も言えなくなった。
「ここは、仮にも仕事場……」
 冥琳は俺から手を離し、それでもお互いの肌の温度を感じるくらいに近くで何度か咳払いをして、普段の調子を取り戻そうとしていた。
「明命をよろしくお願いします」
 すっと頭を下げられる。
「あれは不器用な娘です。ですが、あれほどまっすぐな娘はいない。それが、いま一刀殿と明命が悩んでいる原因でしょう。それを忘れないようになさい」
 そう言うと、冥琳は、謎めいた笑みを俺にくれたのだった。


 冥琳の執務室を出ると、もう日はとっぷりと暮れていた。廊下にも人影はなく、少々寂しく思いつつ、自室への道を急ぐ。
 その最中、再びあの視線を感じる。
 足を止め、感じた方へ向くと、淡く影が動いた気がするが、どうにも判別がつかなかった。
「ん……」
 覚悟を決める。
「明命、いるんだろ」
 答えはない。無尽の廊下に、俺の声だけが響いていた。衛士が聞きつけたら何事かと集まってきかねない。
「出てきてくれないかな」
 気配すらしない。もしかしたら、あの一瞬だけで、どこかへ行ってしまったのではないかと思わせるくらいに。
「わかった。出てきてくれるまで、ここにいることにする」
 近くの柱にもたれかかり、目を閉じる。はたで見たら、一人芝居にしか見えないだろう。だが、俺は無駄なことをしているとは思えなかった。
 どれくらい経ったろう。微かな音が聞こえた。
「一刀様……」
 明命の声が、俺の闇に沈んだ視界の中に、まるで見えるように感じられた。
「やあ、出てきてくれたね、ありがとう」
 目を開けば、周囲も闇に沈んでいる。その中に溶け込むような黒髪を持った少女が、俺の傍らでしゅんと肩を落としていた。
「私は……その……」
「ねぇ、明命、一緒に歩こうか」
 そう言って歩きだす。明命は慌てて、俺の横についてくる。歩幅をあわせようとちょこちょこ小走りにするのが可愛い。明命の体力なら疲れることもないだろうが、彼女の歩幅にあうように、少しゆっくり歩く。ちょっと俺も興奮しているな。気をつけないと。
 自室に戻るには遠回りな道をわざと選んで城内を歩く。途中、暗くてつまずきそうになるのを明命が支えてくれた。
 その時握ってくれた手を離すことなく歩き続ける。彼女は、俺の顔を見上げてきたが、嫌がるでもなくそのままにしていてくれた。
 空を見上げれば、明命の持つ魂切のように鋭い月。さえざえと降る月の光に、ぼんやりと浮かび上がる洛陽の城中。俺たちはたった二人きりで無人の城を探検しているかのような気持ちになる。世界にはいま、誰もいない。そんな錯覚さえ憶えるくらい、城は静かで、ただ、そこに広がっていた。
 明命の小さな手。そこから感じる体温。幻想的な風景の中で、それだけが俺をつなぎとめるもののような気がしてならなかった。
「あの朝」
 唐突に明命が口を開いたのは、いつのことだったか。影の城の中を歩く俺にはもはや時間感覚がない。
「天幕から出てくる厳顔殿と袁紹殿を見て、私はうらやましいと思ってしまいました」
「え?」
「あの方々は一刀様に愛していただける。そう思うだけで、心の奥で何かがちりちり痛みました」
 闇の中で輝く明命の瞳は、吸い込まれるように深い。
「それ以来、一刀様のお顔を見る度に、胸が痛むようになりました。ついには一刀様の側にいなくても、一刀様のお顔を思い浮かべるたびに苦しくてたまらないようになりました」
 きゅっ、と握られる手。その手が緊張のためか微かに汗ばんでいるのがわかる。
「そのくせ、一刀様の顔を見たくてたまらないのです。苦しいとわかっていても、一刀様のお側に行きたくてたまらないのです」
 明命の告白する声は、震えている。俺にそれを打ち明けるのが恐ろしいと言うように。
「私は病気だと思って、祭さまと冥琳さまに相談しました。そうしたら、同じ病だと言われました」
「同じ?」
「はい。一刀様への恋の病だ、と」
 あの二人が言いそうなことだ。
「そして、一刀様に愛されている方々への思いは、嫉妬というのだと」
 そこはあえて言わなくてもいいんじゃないかと思うんだよ、祭。
「それ以来、一刀様の前に顔を出すことができなくなりました」
「そうだったんだ」
 そのあたりで、俺の部屋の前についてしまった。促すと黙って俺についてくる。俺たちは部屋に入ってからも、明かりもつけず、手をつないだままでいた。このぬくもりを手放したくなかったのだ。
「一刀様は、いつもいろんな方々に囲まれていました。お美しい方々、それにお猫様たち」
 ……明命の中では、俺のまわりの女性と猫は実は同程度に重要なのではないか、という恐るべき疑念がこの時俺の中を走った。
「私はあさましい娘なのです。みなさまのように、お猫様たちのように一刀様にこの身を……その……」
 彼女の顔が真っ赤になるのが薄闇の中でもはっきりわかる。明命は意を決したように喉をならすと、勢いよく言葉を発した。
「あの方々と同じように、この身をむさぼって欲しい。そう思いました!」
 握ってないほうの手が、俺の袖をつかむ。
「そしてなにより、一刀様に愛されたいと、そう思ってしまったのです」
 必死の告白。それをまっすぐぶつけてきてくれたことを、明命に心底感謝する。
「あさましくなんかないよ」
 ぎゅつ、と彼女の体を抱きしめる。その時、はじめて、この娘の小ささを実感した。やっぱり、明命も年齢相応のかわいい女の子なんだ。そう思えた途端、胸の中をそれまでもくすぶっていた熱い感情が支配した。
「か、一刀様っ」
 慌てたように俺の腕の中でじたばた動く明命を無理矢理のように抱きしめ続ける。本気で抵抗されたら力で勝てるはずもないが、明命の動きはだんだんとおさまっていった。
「明命、俺、明命のこと、大好きだよ」
「でも、でも! 一刀様は、祭さまの大事なお人です。冥琳さまの愛しいお人です。私などが……」
「大好き、だよ」
 彼女の顎を持ち上げ、しっかりと目を見つめ合って言い切る。
「でも……」
「何度でも言うよ? 大好きだ」
 困ったような顔が、徐々にほころび、ついに大輪の華が開くように、顔中が喜色に染まる。
「私も、大好きです!」
 元気よく言い放った明命の唇を、思わず俺は奪っていたのだった。


 寝台の上で、黒い髪に埋もれるように、明命の裸身が輝く。淡い褐色の肌が、少し緊張気味に固まっている。服を脱がせる時も思ったけれど、この引き締まった体は美しい。
呉のとんでもない胸の持ち主たちの中では慎ましい方になってしまう胸も、その頂で尖る鴇色の突起といい、全体の形といい、すばらしいものだ。なにより、肌が美しい。歴戦の勇士のはずなのに、瑕がまるで見えないその肌は、一度触れると二度と離したくないと思えるくらい柔らかく瑞々しかった。
「ええと、明命はこういうことは……」
「はい! はじめてです。ですから、一刀様の良いようになさってください!」
「ん……。じゃあ、ゆっくりいこうね」
 がちがちに緊張しているというわけではないが、やはり恥ずかしさを憶えているらしい明命の体を開こうと、肌の腕に指をすべらせる。ぷりぷりとした肌はどこを押しても心地よい反発を感じさせる。
「私の事はいいですから、一刀様が楽しまれるようにしてくださってもいいんですが……」
「明命を感じさせるのが、俺は愉しいんだよ。だから、素直に感じてくれると嬉しい」
「はい!」
 元気に言うと、俺の手の動きを感じるのに集中するためか、目を瞑る。俺はそんな明命が可愛くてしかたなくて、思わず、頬にキスを降らせた。少しくすぐったげに体が震えたが、緊張が高まるでもなく、俺のするように任せてくれている。
 視界を闇に落として肌を触れ合っているのが安心感を誘発するのか、明命の腕が俺の体を確かめるようにゆったりと動く。
 俺はそれにリズムを同調させるように、明命の肌を愛撫する。ひっかくようなこするような、少し強い刺激と、羽毛が触れるような弱い刺激を交互に与えていく。
「ふぅっ」
荒い息が彼女の唇からもれる。待っていた反応を得て、俺は、愛撫をさらに広くする。腕から指、脇腹、腰、そして、まんまるなお尻と、張りのある太股。
「はぁっ、はぁっ、はあっ」
 彼女の息がさらに荒くなる。俺の与える刺激を求めて肌が蠢きはじめるのを感じる。緩急の刺激を予想して身構えるところに、逆のリズムで強弱をつけてやると、びっくりしたのか、艶やかな声が思わずといった感じでもれる。
「ひうっ」
 今度は徹底的に弱い刺激を乳首の周りで、ゆっくりと……触れぬよう、しかし、存在はわかるように。
「あ、あのっ!」
「なんだい、明命」
「い、意地悪されてるような気がするのです!」
「うん。意地悪してるからね」
 そう言いつつ、すでにうるみはじめている秘所とクリトリスをさっと軽く、あくまで軽くこすってやる。
「ひゅわっ」
「ここを触るのはまだまだ先だよ?」
 そう言うと明命の顔が泣きそうな、けれど、希望を捨てきれないような奇妙な表情に変わった。熱い吐息をまぜて、彼女の耳に低く囁く。
「お望み通り、むさぼりつくしてあげるよ」
 真っ赤に染まった顔が、懸命にこくこくと頷きを返してきた。


「だいたい、コツがわかってきました!」
 そう言われたのは、すでに四度彼女の中に精を放った後のことだった。坐位のまま抱き合っていたのを、俺が寢るような形になるよう促される。
「私が上になります。いいですか?」
「ああ、もちろん」
 さすがに硬度を失っているものにまたがるようにして、彼女は俺の上に乗る。そのまま、ぐっと体を傾け、俺の耳元に口を近づけた。彼女の香りと息が首元をくすぐって、気持ちいい。
 ん?
 かかる息の調子が違うことに俺は気づく。荒い息ではなく、長く鎮めた息づかい。これは……。
「お静かに、一刀様」
 低い声が俺の耳をうつ。少し離れれば聞こえなくなるような闇の声だ。
「何者かの気配がします」
 驚きの声を懸命に飲み込む。不自然さを示さないようにか、明命の手は、俺の体のあちこちを愛撫し続けてくれる。それがだいぶ不安を取り除いてくれた。
「私を抱いているような演技をしてください。おそらく、射精の瞬間を狙ってきますので、そのようなこともお願いできれば」
「実際にはしないってことだね」
「はい」
「刀、届く?」
「問題ありません」
 一つ頷く。すると、明命の体が起き上がり、いかにも俺のものを挿入したかのように腰をくいくいと動かす。実際には、彼女の下生えに、萎えたそれが隠れるように位置を調整している。あの高さに腰を維持するのは大変だろうに……。
「このようにっ、んんっ、動けばよろしいでしょうかっ?」
「ああ、いいよ。そう、腰は上下じゃなくて、前後や左右でもいいんだ、明命」
 我ながら少々下手くそな気がするが、なんとかセリフを言う。こもっている切迫感を、興奮だと受け取ってくれれば幸いだが……。
「ああ、いいです、一刀様、一刀様っ」
 明命の艶声も、少々硬い。
「ほら、明命、ここ弱いだろ」
「ああ、だめです。いまは私がっ」
 俺たちは文字通り必死の演技を続ける。体の芯が冷えるように醒めきっているのに、それでいて最高に興奮していると示さなければいけない。
「あっう、ふううっ、くうううっ」
 明命の嬌声が、最高潮に近づいていく。実際にはその目は瞑られているようで瞑られておらず、らんらんと気力を貯めて輝いていることに、俺たちを狙う何者かは、果たして気づいているだろうか。
「明命、明命っ、ああああっ」
 偽りの絶頂を無理矢理叫ぶ。腰を突き上げるふりをすると、その瞬間、俺の体からわずかに感じていた明命の重みが消えた。
膝で飛び跳ねた明命はいつの間にか握られた魂切を鞘ごと振り抜いていた。その先──天井の隅で、何かの影が蠢くのが、俺にも少しだけ見えた気がした。
 そうだ! 俺は恐ろしいことに気づいた。魂切は──封印されている!
 紙のこよりによる封印だが、咄嗟の時には外すのは難しいはずだ。だからこそ、彼女は鞘ごと打ったのだ。それが、果たして敵に気づかれるか……。
 床に降り立った彼女は、両手で魂切を構える。鞘を左手でひくようにし……。その時、天井に張りついていた影が動いた。
「させません!」
 瞬間、光が走った。
 そう思えた時には、すでに全てが終わっていた。
 どさり、と床に二つの物体が転がる。両断された敵の上半身と、下半身が。
 抜き身の魂切をその屍に向け、明命は警戒を解かずにいるようだった。やおら、魂切を構えなおし、死体の両腕を切断し、胸を突き刺す。
「み、明命?」
「念のためです。奇怪な儀式や秘薬により、体が切られたくらいでは動けるようにする術があります。……今回は違ったようです。驚かせました」
「いや、いいんだ。怪我は?」
 ようやく起き上がれた俺は、布を取り出して、部屋の隅の水瓶につけた。
「はい、大丈夫です。あ、自分でやります」
 俺が濡らした布をもって、血に塗れた彼女の肌に触れようとすると、明命は少し困ったような顔をした。
「いや、俺にさせてくれ」
「……はい」
 しばしの逡巡のあと、素直に頷き、魂切を納める明命。刀を離そうとしない少女の肌を、丹念に拭いていく。すぐに、持っていた布が真っ赤に染まった。何枚も何枚も布を取り替え、彼女の肌を清めていく。この肌を血で汚した相手が許せない。
 そんな俺を、明命はなんだか慈しむような微笑みで見ていてくれた。
「しかし、なんだったんだろうな」
 血臭ふんぷんたる現場で言うことでもないが、俺はあえて呑気にそう言った。
「刺客……だと思います」
「……どちらへの?」
 恐る恐る最悪の答えを予想しながら訊く。
 そして、明命は予想通り、恐るべき答えを出したのだった。すなわち、
「やつは、間違いなく、一刀様を狙っておりました」
 と。

                        いけいけぼくらの北郷帝第十回(終)




『北郷朝五十皇家列伝』より郭家の項抜粋

『郭家は、曹操の腹心の一人、郭嘉を祖とする皇家ながら、いわゆる狭義の曹家集団には所属しない。七選帝皇家の内の一つとして、帝室を監視する任を代々帯びるため、特定の集団からは距離を置くようにしていたためである。
 特記すべきは、この郭家の提言により、実際に二人の皇帝がその座を追われているという事実であろう。いかにその任を与えられ、明文上でもその特権を保障されているとはいえ、やはり、現役の皇帝を指弾することは覚悟の必要なことである。
 これは、郭家の血統が太祖太帝の第一子に遡れることも関係すると指摘する研究者もいるが、皇家の基は全て太祖太帝にあること、世代的にすでにその血統が意味をなすとは考えられないことを理由に根拠が薄いと指摘されている。これに対しては……(略)……
 ところで、郭家にその座を追われた両皇帝は共に暗愚であったことは、後世の史家も賛同するところであるが、果たして、その腐敗の程度は他の皇帝と比べてそれほどにひどいものであったのか、ということは常に議論され続けられている。
 ……(略)……時代により観念が異なることもあり、これらの議論は結論を出せずに終わることも多かったが、近年、郭家に伝わっていた文書が発掘され、公開されたことにより、再び議論を呼んでいる。
 その書物によれば、皇帝が八つの罪を全て犯せば、これを弾劾すべし、とある。
 八つの罪とは、「暴食」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」、「嫉妬」があげられている。これらについては一つ一つ膨大な注釈が儲けられ、各時代に通用するようにと絶対値ではなく、相対的な値を用いて判定をなすこと、と郭嘉の名前で強く命じられており、これにともなって郭家では原始的ながら統計学とも言うべきものが発達し……(略)……
 ちなみに、この書の中で、「色欲」に関しては一切触れられていないことに留意すべきである。つまり、性を規制する罪は存在せず……(後略)』


『北郷朝五十皇家列伝』より孟家の項抜粋

『歴代の皇妃の中で最も多産であったのは、孟家の祖、孟獲であったというのは有名な話だが、これは、どうにも史書の誇張、あるいは改竄であろうというのが後世の一般見解である。
 なにしろ、孟獲は一〇八人もの子供を産んだことになっている。二〇年の間に産むとしても、毎年五つ子、六つ子を産むなどということがあろうか。これは、南方進出にともなう箔づけのためになされたことであるというのが長年の定説であったが、南蛮部族の中で生まれた太祖太帝の子の数を合計したのではないか、という最近の説も説得力がある。
 なお、この改竄説について、孟獲に次ぐ二十五人を産んだ曹操が宗家(三代顕帝(昴)を祖とする。以下同じ)、上家(曹植)、下家(曹沖)の三家の創設を許されたことを傍証にあげる研究者もいるが、これは、北郷朝の実質的な創設者としての曹家の特殊性を無視した論であり……(略)……
 孟家は、皇家のつくった王国の中では、拡張はしたものの移動はあまりなかった国家である。一時期はインドシナ半島全土を制し、張家の西方進出を助けたが、ついにその本拠地を越南から動かすことはなかった。それは、本国と西方、あるいは海洋交易路との中継貿易だけでも充分に国家運営を行えるだけの利益をあげられる環境を……(略)……
 ……(略)……孟家の支配地域は黄河及び長江の文化圏からは離れており、さらに腐食が進みやすい気候・自然環境でもあるため、これまで調査、研究が進んでいなかった。だが、近年、ジャングルの中の遺跡の発掘等が進んでおり、以前のような「南蛮部族には猫の血が入っていた」などという迷信を払拭することが……(後略)』

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