第三回おまけ:
星がやってくれない陽人の戦い

< 主な登場人物 >

 めーりん。字はこーきん。姓名はしゅーゆ。頭はいいのに我慢が足りない。

 しぇれん。字ははくふ。姓名はそんさく。強いのに頭が足りない。本人は別に気にしてない。

 だいきょうしょうきょう。字はとくになし。姓名がだいきょうしょうきょう。ロリっこなのに存在感が足りない。

※ この外史は、アイコンと会話のみで展開される世界史コンテンツの形式のパクりです。
※ おまけらしくソースがあちこちに飛びます。妄想の域は出ないので話半分に。





第二.五部:梁から陽人へ



 ここからは私が講師を務める。
 では、華雄にボロ負けして命からがら逃げ出した所からですがー。
 影武者の祖茂が生き残るのであれば、別に一人で逃げることも無かったな。
 冥琳、うっかりさんだから。
 うっかりなのは孫堅様とその一家揃っての傾向であって私では…!雪蓮も人の事言えないでしょうが。
 いいから始めなさい。

 では今更ではあるがここで地理の確認をしたい。
とはいえ難しく考える必要はない。

【洛陽】=25km=【大谷関】=50km=【陽人】=100km=【梁】=50km=【魯陽】

 正確とは到底言い難いが、史跡が残っているわけではないために厳密な位置は失伝していると考えていい。
そもそもが三国志に記された「里」という単位が一説によれば始皇帝に習って70メートル、一説によれば200メートル、またある説では400メートルと誤差どころの話ではない。
そこで今回はあえて地図を示さず、孫堅様の進軍ルートを1本の道と仮定しそれぞれのおおまかな距離を記すものとする。
 数字は誠に適当なので、人に語ると恥をかく可能性が高いため注意なされるといい。
 黙れ趙雲。
 うむ。私は通りすがりの美と正義の使者なので気になさるな。
 では無視する。
まず梁東において一人間道に逃れた孫堅様であるが、どこぞの有象無象と違い孫堅様にとってこの程度は危機のうちに入らない。
 いや普通に危機だろう。ゲームではあるまいし。
 いえ。逆にこれがゲームであれば軍が全滅した時点で終了でしょう。まずはこれをご覧下さい。




 美陽亭の戦い、金城の戦いはいずれも辺章・韓遂の乱での一幕ですが400kmを隔てた別の地での出来事です。
美陽亭では瀕死の重傷を負い、金城では退路を断たれ逃走し、西華でも負傷し一人草叢に倒れておられました。
 誇るエピソードではあるまい。
 これらを踏まえてあえて申し上げます。
孫堅様にとって傷すら負わなかった梁東での敗北などは危機のうちに入らないと。
辺章・韓遂の乱では美陽亭にて瀕死の重傷を負いながら金城に至る400kmの追撃を行い、
黄巾の乱では西華にて負傷しながらも、最大の激戦地である頴川にて武功を立ててこられたのですから。
 凄いな母様は。
 孫権様に最も不足しておられるのがここです。
危険や被害に背を向けて避けるのではなく、立ち向かい乗り越えてこそ得られる物がございます。
 調子に乗って一人で突っ込んで怪我したり、無防備にうろうろして死んだりするから月は真似しちゃ駄目よ。
 詠ちゃん茶々入れちゃ駄目だよ…。


 梁東でのちょっとした小競り合いなど大した危機ではないと分かったところで、このささいなトラブルの解決に移る。
まず孫堅様が華雄よりも有利であった点。それは地の利に尽きる。
 弱かったとは認めるか。
 雑音を無視するが、本来は遠征軍である我らより防衛軍である華雄の側が地理に明るいのが当然。
だが、併州にて戦って来た華雄の田舎軍が予州の地理に慣れるにはあまりに時間が足りなかった。
189年の9月に董卓が洛陽に入ってより、正月に成立した袁紹の反董卓連合結成まで僅か4ヶ月。
かたや孫堅様はいまや予州の刺史であり、黄巾の乱で戦場としてきた予州の地理には明るい。
 戦歴の方はともかく、所詮はにわか刺史でしょう。
 にわかだと?愚かなり曹操。
30年ほど遡ると、私の父の従兄弟である周景が実際に予州刺史を勤めている。
 孫堅の話にお前の親戚では駄目だろう…。
 この時の孫家と最も親交が深いのが私の周家だ。
その周家の者に元予州刺史がおり、孫堅様が予州刺史に任官されたのだから刺史が入手できる詳細な地図や天候の資料を得ても不思議は無い。
 孫家の軍に周家が加わったのはもっと未来で貴様が最初だろうが。
 然り。ただし軍に加わったのは、だな。

 この時雪蓮は15歳!私の町ではじめてのお泊り会が開催された!
当時の私もまた15歳であるから、大事な大事な雪蓮を預けるにあたって私の父と孫堅様との親交が深かったと言うべきだろう。
正史にある通り私は南向きの大きな屋敷を雪蓮に譲り、南向きの屋敷で性的な意味での新生活が始まった!
 いらない情報が混じってるわね。
 予州刺史となった孫堅様と親交深い私の父の従兄弟が元予州刺史であるのだから、何も話にのぼらない方が逆におかしい。
そして私は雪蓮の母上、但し孫堅様ではない方の呉家の母上のご機嫌をとることにも成功し、後に孫権様が主となられた時には「臣下だが冥琳を姉と思え」という発言を引き出すこととなる!
 当時8歳だった私は、よく覚えていないがかなり放置される生活だったような覚えがある。
 それは雪蓮がいたのですから仕方ありません。自然の摂理です。
 どうして昔からお前が嫌いか分かってきた。
 何故孫堅様が華雄よりも地理に明るかったのか、が分かって頂ければ十分です。
そしてその地理情報は部下に至るまで共有されておりました。

 これは孫堅様に従う古参三将の伝だが、程普・朱治の伝では陽人で活躍したとあるにも関わらず黄蓋伝に陽人の文字は無い。
孫堅様は梁東で敗れたにも関わらず、勝利した地が100km離れた陽人であるのは何故か?
その答えを各伝の差異から強引に読み取るとする。

まず総大将である孫堅様は軍を離れ身を潜めておられた。この時残兵の対応は2つに分かれるだろう。
第一に、これを危機と感じる孫堅様をまるで知らぬ新参の義勇兵ども。
第二に、これを危機と感じぬ古参の精鋭兵。


梁東で勝利した華雄は当然討ち漏らした残兵の行方に注視する。
仮にここで陽人に向かわなかった黄蓋が後退し、新参の者どもを集結させていたらどうか?
 曹操などを相手にした例に習うならば、既に敗残兵どもは脅威とみなさず後退したはずだ。
 梁東には逃走した我らの、数万人分に及ぶ糧食が残されている。
 敵の脅威が未だ大きいならば焼く。既に脅威がないこの場合は通常戦利品となる。
 華雄が元々輸送していた糧食に加え、戦利品を運搬するとなれば兵から人手を出さねばならない。
この時、総大将である華雄はどうするか?
 戦場であった梁東から陽人にかけては我らの支配地域。
残務処理である戦利品の運搬や梁東以南の敗残兵狩りは部下に任せ帰還するのが常道。
 そして普通の指揮官であれば、己の本拠地である陽人城の周辺は安全と考える。
 梁東にて包囲された兵を見捨て、近衛を囮にしてただ一人逃げ延びた孫堅が未だ指導力を保てる道理は無い。
我らの将がそのような卑劣な者であった場合、その者は首だけとなって野にさらされているだろう。



 だが孫堅様は指導力を失わず再び兵をまとめた。
屈辱の地、梁東より遥かに洛陽に近い華雄の根拠地、陽人にて。
その地には程普がいた。朱治がいた。敗北し、なおも前進する事に賛同した狂った部将がいた。
 軍が通れる主要な街道は我らが押さえていたはずだ。
 果たして華雄の軍は人が通れる間道までも全てを押さえたか?
そもそも、そのような道を全て知っていたのか?
孫堅様が逃走した間道すら知らなかったのではないか?
人が通れるのならば、人が進撃するには十分。軍隊が整然と並び、行進する必要などありはしない。
 貴様らの軍は既に戦場で敗北した。武を発露すべき場は既に終わっている。
 貴様の戦争とは盤上の遊戯か?華雄。
貴様らが戦いは終わったと弛緩した時。孫堅の軍は壊滅したと侮った時。ここは己の根拠地であると油断した時。
我らが血をもって勝ち取った糧食すら貴様の戦利品として華雄を守る兵を削ぎ、決定的な勝利を収める一瞬に陽人の地で貴様を葬るのだ。
 それは既に、武でもなく軍略でもない。
 華雄よ。知らなかったのか?我らは戦争をしているのだ。
 ……武を尊ぶ全ての者の名に賭けて。呪われろ、痴れ者め。
 単に貴様が無能だったのだ。
 次は万全の体勢を整えた敵の根拠地へのこのこと近付き、殺されるがいい。
 最強の董卓軍には今この時勝利した。後はこの陽人城に篭り戦わぬ。
 ではいつの日か恨みの刃に倒れろ。それも叶わぬならば病に苦しんで死ね。
 華雄の首の対価として覚えておこう。



 ……という妄想だが。
 実際に、この後やって来た董卓軍の第二陣に対しては一切鉾を交えておらなんだ。
 恋の嘘に乗って疲労困憊した董卓軍を放置し、恋の嘘に乗って甲冑を捨てて逃走した董卓軍への追撃もせずただ篭っている。
大谷関が、洛陽が無人の廃墟となるまでただ待ち、入城する事で孫堅の1年に及ぶ遠征は終わりを告げた。
 後に孫堅様は万全の体勢を整えた敵の根拠地にのこのこ近付いて亡くなられている。
 私が恨みの刃に倒れてー。
 冥琳様が病死ですねぇ。
 私、母様みたいには無理だと思う…。
 別方向で外道だったろう。
 盟約破りなどは初心者向け。まだまだでしょう。
 冥琳のおめがねに叶うと、もれなく変死するほどの恨みをプレゼント。
 本当に水一滴漏れがないのでお勧めしません。







おまけのおまけ



 袁術だが。
 はい?
 奴が陽人での孫堅様の勝利に嫉妬して兵糧を送らなかったという有名なエピソードがある。
 ありますね。
 これは孫堅様が梁東で全滅した時は宛先不明な兵糧を次々運び、陽人で生存と勝利を確認されたら送らなくなったという話になる。
 なりますねぇ。
 この兵糧は孫堅様が一度帰って直談判することで再度送られるようになったのだが、
 あら、行方不明って聞いてましたけど生きてたんですのね。
 という話に見えてならない!
 正史には「二人の間を裂く者があった」「袁術は孫堅を疑った」とある。
 「梁東で敗北して物理的に通信が裂かれ」「孫堅の生死を疑った」か。
 本当に嫉妬しておったら、のこのこ一人で帰って来た孫堅を斬っておろうにな。
 しかも、その後に洛陽復興で更に孫堅様は名を上げておられるのに再燃せず生涯仲良しでおられたというミステリー!


おまけなのでオチなく終わる。

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