深まる繋がり     もしくは       全員登場、役者は揃った。   ここは成都、言わずと知れた蜀の首都である。   現在、江陵に関雲長こと愛紗、呂奉先こと恋、陳公台こと音々音の三人を送り出し、蜀南部の慰撫の為に厳顔こと桔梗と魏文長  こと焔耶を派遣している為こちらも少々寂しくなっているが、漢中の蜀帰属の準備に諸葛孔明こと朱里と趙子龍こと星の派遣の準  備の為慌しさを増しており、寂しさを感じている暇はなかった。   そんな慌しい城内の人の間を縫う様にしてお茶を運ぶ者が居た。董仲穎こと月である。月の着る[めいど]服は城内では異彩を  放っているが、今は気に止める者は居ない。尤も、月がこの衣装を纏う様になって既に五年近くが経つので、城内の者達も忙しさ  だけでなく見慣れてきたと言うのもあるのかもしれない。   月の正体については三国の上層部の人間達には周知の事であるが、ここ成都の場内に居る者達も薄々察しが付いている様であっ  た。よって、月は城付きの侍女としてこの成都の城に所属しているが、城の者達に雑用を言い付けられる様な事は無い。それは賈  文和こと詠も同様である。月と詠の二人は[めいど]として侍女とは別扱いされており、城の者達も二人を呼ぶ時等は『月さま』  『詠さま』と呼称している。立場が立場ゆえに真名を呼ばねばならない事に当初は城の者達も戸惑っていたが、月の人柄も相まっ  て今では親しみを込めて皆そう呼んでいた。   詠に関しては、人手不足の折には蜀国内の事案に限ってのみ賈文和の名で動く事が有る。魏の様に官僚制度が確立していない蜀  では慢性的な人手不足が続いており、当初は非常事態の裏技的な処置であったが最近では頻発する様になっている。劉章時代の配  下の者達も居るのだが、絶対数が足りていない。よくもこんな状態で治めていたものだと朱里達は半ば呆れていたが、劉玄徳こと  桃香の入蜀以前の事を考えれば言わずもがなである。その為賈文和の名は蜀の第四の軍師として国内外に知れ渡る様になってきて  いた。   一方の月は、董仲穎として相国にまで上り詰め、位人臣を極めた経験がある。例えそれが本人が望んでなったものではなかった  としても、その経験が今は活かされている。戦の最中は決して表に出る事のなかった月であるが、平穏になった今では月の人柄を  慕う者やその優雅な所作に惹かれた者達に礼儀・作法を教える様になった。その積み重ねにより、気が付けば月は知らず知らずの  内に城内の侍女や下働きの者達そして下級文官達をも束ねる位置に立っていた。強いて言えば政治的な事には一切口を出さない侍  中の様な存在であろうか。   「月さまが咳をすれば城内は乱れ、月さまが拗ねれば城内は止まる」とまで今では言われている。   そんな月の行き先は桃香の執務室。人手不足による仕事のしわ寄せは桃香とて例外ではなく、執務室に篭る日々が続いていた。 「失礼します、桃香さま」   そう言って月は何かを読んでいる桃香に近寄って行く。何時もなら月の来訪を笑顔で迎え入れる桃香なのだが、今日は訪れた月  の方を見向きもしない。 「桃香さま、お茶をお持ちしました。そろそろ御休憩に……」   そう桃香に声を掛ける月の言葉を遮る様に桃香は予想外の言葉を月に返した。 「愛紗ちゃんだけズルイィィィィ!!!」   そんな桃香の絶叫に流石の月も口を開けたまま固まっていた。 「わたしも北郷さんに会いに行きたいぃぃぃ!!!」   続けてそう叫んだ桃香は月の方に顔を向ける事も無く、お盆の上に用意されていた少々熱めのお茶を奪い取り一気に口の中へと  流し込んだ。そして今は肩で息をしながら虚空を見詰めている。   そんな桃香の奇行に思わず悲鳴を上げそうになった月であったが、何とか持ちこたえていた。   そこに桃香の奇声を聞いた蜀の面々が飛び込んで来る。 「何だ!桃香さま、曲者か!!」 「どうされたのですか、桃香さま!」 「なっ何事なの!桃香!……月?!」   現れたのは馬孟起こと翠と朱里そして詠。 「だっ……大丈夫でしゅか……」   そして遅れて入ってきたのは鳳士元こと雛里であった。雛里は息が切れているのに無理やり喋った事で咳き込んでいる。   彼女達は漢中の帰属の準備の打ち合わせの為直ぐ側の別室に居たのだが、桃香の叫び声を聞いて駈け付けたのであった。ちなみ  に趙子龍こと星、公孫伯珪こと白蓮、馬岱こと蒲公英、張翼徳こと鈴々そして黄漢升こと紫苑と娘の璃々は今城外に居る為不在で  ある。   翠は素早く部屋の中を確認するが、桃香と月の二人そして後からこの部屋に入った翠達以外の人影も気配も感じられない。大き  く肩で息をしている桃香と、それを魅入られた様にただ見詰める月。そんな異様な光景を目の当たりにしている翠達は緊張を解く  事無く二人の方へ近付いて行く。銀閃を構える翠の手にも自然と力が入る。   先ずは詠が月の肩に手を置き話しかけた。 「月、一体何があったの?」   月はゆっくりと詠の方に振り向き、弱弱しく話し始めた。 「えっ詠ちゃん……。わたし桃香さまにお茶を持って来たの……、そうしたら……急に……」   月の言葉を聞いた詠は桃香の方に視線を移した。すると次に朱里が桃香に近付いて行く。その途中、朱里は翠と眼を合わせる。  眼の合った翠は安全だとの意味も込めて朱里に頷いた。それを確認した朱里は桃香の正面へと回り込む。 「桃香さま……。朱里です、何があったのですか?」   朱里の問い掛けに今迄空中を凝視していた桃香の視線が朱里へと移る。自分を見詰める尋常ならざる桃香の視線に朱里は今迄に  味わった事のない類の恐怖を感じた。雛里は部屋に張り詰めた緊張に耐えられなかったのか、部屋の入り口でへたり込んでいる。   すると桃香が一通の手紙を朱里の顔の前に無言のまま突き出した。 「桃香さま……、これは?」 「読んで……」   桃香は抑揚の無い声で朱里にそう告げた。朱里は恐る恐るそれを受け取り、眼を通し始める。誰かが緊張の余り生唾を飲み込ん  だ音が部屋に響いていた。 「バッッカじゃないの!こんな事であんな大声を出したの?」   そんな詠の怒鳴り声に執務室の床の上に正座させられた桃香が反論する。君主に対しては余りの扱いではあるが、誰も今は気に  止めていない。 「だってぇ〜、愛紗ちゃん北郷さんに会いに行っちゃたんだよ!あんまり興味無いって言ってたのに……ズルイよぅ、わたしだって  会いに行きたかったもん!言ってくれればわたしも一緒に言ったもん!これって酷いよねぇ、酷いよねっ?ねっ!朱里ちゃん!月  ちゃん!」 「あはははは……」 「へう……」   桃香から同意を求められた朱里と月はただ苦笑いを返している。続けて桃香は雛里と翠に視線を向けるが、雛里は極度の緊張か  ら開放された反動か朱里の肩に頭を預けて虚ろな眼をしており、翠は椅子の背もたれに身体を預け疲れ切った表情を見せていた。 「あのねぇ……、愛紗は迷子になったシャムが襄陽で見付かったから迎えに行ったんでしょう。桃香が来るのを待ってたら何日も遅  れる事になるじゃない。しょうが無いでしょ」 「だってぇ……」   詠の言い分に納得できない桃香が拗ねた様に口を尖らせながら俯き言葉を濁す。 「桃香さま、次の三国会談はここ成都でおこなわれるのですから、その時に……」   朱里の言葉を聞いた桃香は俯いたまま上目遣いで朱里を見た。 「だって……、三国会談なんてまだ来年の話しだし……。そりゃ朱里ちゃん達は北郷さんとお話したり、北郷さん家に泊ったりした  からいいけどさ……」 「そっ、それは……」   恨めしそうな表情で朱里を見詰める桃香。朱里の横に座っている月もそれについては羨ましそうな表情をしている。   普段の桃香ならばこの様な事で朱里達に絡む様な事は無い。何時も側に居た愛紗が江陵に赴き不在な事と、最近の仕事量の多さ  による鬱憤が溜まってこの様な状態になっているのだろう。それを感じている朱里と詠はこの際溜まっている鬱憤を発散させた方  が良いと思っていた。この後起こる騒動の事等知る由もない。 「朱里ちゃん達はさ、北郷さんに優しくしてもらったんでしょ……」   桃香は言葉の通り他意の無い他愛も無い意味で言ったのだが、どうやらそれを聞いた周りの面々は違う意味に取った様だ。一瞬  で皆顔を真っ赤に染めた。 「いっいきなり何て事言ってんのよ!」 「そっ、そうだよ桃香さま!別に何も無かったって!」 「はわわ!そっそうですよ桃香さま。別にそんな関係には未だ……」 「お兄さま、暖かかったです……」   今迄何も話さなかった雛里がいきなりの爆弾発言をした。雛里以外のその場に居る面々が注目する。どうやら、半覚醒状態のま  ま桃香の話に雛里は反応してしまった様だ。皆の無言の圧力の篭った視線を受けて雛里は眼が覚めた。 「あわわ、皆さんどうしたんですか?」 「はわわ……、雛里ちゃんそれについての詳しい説明を求めます」 「雛里、まさか……。あっあのエロエロ魔人……」 「あんた……」 「へうっ……、雛里ちゃん……」 「雛里ちゃん、どう言う事?北郷さんと何かあったの?一人だけ大人の階段登っちゃったの?全部話して!」 「あわわ……」   桃香の異常な喰い付きにたじろぐ雛里であった。   結論を言えば、寝惚けた雛里が一刀の寝台に潜り込んだと言う事であった。勿論、桃香や朱里達が想像している様な色っぽい話  ではない。詳しくはこうであった。   朱里達が洛陽を訪問した折、数日間一刀の屋敷に逗留していた。あの一件以来真名の交換を済ませた朱里達の一刀への質問等は  容赦と言うものが無くなっていた。そして一刀との話のし易さや頻度、洛陽の城内での逗留の堅苦しさ、何より璃々の「おじさん  家にお泊りしたい」の一言等により一刀の屋敷に逗留と相成った。幸いにも一刀の屋敷の部屋数には余裕があったし、しかも彼女  達が逗留する事で一刀が早い時間に毎日帰宅する為、麗羽等は喜んでいた。逆に周りの者達は朱里達の逗留により一刀が定時に直  帰してしまう為不満もあった。しかし逆に考えれば「一刀は必ず屋敷に居るのだから行けばいい」等と考えもしたが、屋敷には璃々  が居り一刀に懐いている為四六時中纏わり付いている。しかも夜は璃々が一刀の寝台で一緒に眠る事も多々有り、いかがわしい行  為に及ぶ訳にはいかない。流石にそれは璃々の教育上不味いと感じた面々は泣く泣く政務に精を出すのであった。   話を戻せばそう。一刀の屋敷に逗留していたある夜、一晩雛里が朱里と雛里に宛がわれている部屋に戻って来なかった時があっ  た。翌朝それを朱里に尋ねられた雛里は「寝惚けて紫苑さんの部屋で寝てしまった」と答えた。その時は慣れぬ屋敷故にと深くは  考える事無く済ませた朱里であったが、その時雛里が間違えたのは紫苑の部屋ではなく一刀の部屋であったのだ。   深夜、御手洗いに行った雛里が寝惚けていたと言うのは事実であり、一刀の屋敷に逗留して間もない事もありその為不慣れな屋  敷内で曲がる場所を間違え一刀の部屋に向かってしまった。寝惚けている為それに気付かない雛里は、そのまま一刀の部屋に入り  その寝台へと潜り込んでしまう。   一方の潜り込まれた一刀の方は、独り寝が稀であり同じ寝台に誰か居るのが当たり前となっていたのでそんな事は気にも留めな  い。璃々が一刀の寝台で一緒に眠る事も多々有ったのだが、この日に限っては居なかった。そして一刀は無意識に隣で寝ている雛  里を抱き締め眠り続けていた。   流石の雛里も急に抱き締められ眼が覚めた。恐る恐る顔を上げれば直ぐ側に一刀の顔がある。声を上げそうになるがそれを必死  に堪え今の状況を考える。がしかし、兄とも慕う男に抱かれている今の状態を雛里が不快に感じる事等なく、そのまま幸せそうな  顔で一刀の胸に抱かれたまま眠りについてしまった。   翌朝、一刀を起こしに来た斗詩にそれを見付けられるが、二人の現状を見た斗詩の機転で大事に至る事はなかった。斗詩にはそ  れが「仲の良い兄妹の微笑ましい光景」にしか見えなかったのも一因である。   雛里の話を聞いた面々は皆一様に脱力していた。が、皆の表情はほっとした様なそんな事があったのが羨まし様な複雑なもので  あったのも事実である。   唯一、朱里のみが「その手があったか……」と人知れず呟いていた。   結果的に桃香の望みは年を越す事無く叶うのだが、それを知らせる報せは未だ成都に届いていない。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   蜀南部の慰撫に赴いていた桔梗と焔耶は成都への帰還の途中に以前の赴任地である江州に立ち寄っていた。 「ここに来るのも久しいの、のう焔耶よ」   間近に見える江州の城壁を眺めながら桔梗が口を開いた。 「桔梗さま、ここまで戻ってきたのですから早く成都に向かいましょう」   桔梗に不満顔で意見する焔耶。そんな焔耶を呆れ顔で見ている桔梗が口を開いた。 「慌てるでない焔耶よ。兵も休ませねばならん、そんな事が判らんお主ではなかろう。それに桃香さまは逃げやせん」 「しかし、今は愛紗も恋も成都を留守にしております。ですから……」   桔梗に諭されるも焔耶は納得出来ずにいる。何やら話が上手く噛み合っていない事を感じながらも、焔耶の真意を測りかねた桔  梗はそのまま話を続けた。 「何じゃそんな事を心配しておったのか。成都には星が居る、翠が居る、紫苑が居る、そして可愛い軍師達が居る。何の問題がある?  それに一体何処が攻めて来ると言うのか、最近は五胡の連中も大人しいものじゃ」 「いや、そうではなくて……」   桔梗に言い含められ焔耶は下を向く。そんな焔耶に桔梗の檄が飛ぶ。 「兵を束ねる役向きのお主がそんな顔をしていてどうする。頭を上げんか!」 「はっ、はい!」   桔梗は焔耶を見ながら一つ溜息をつく。そして桔梗はこの焔耶がもう一皮剥ける為にはどうしたものかと思案する。   武に関しては愛紗や恋には及ばぬとしても、中々に良い筋を持っていると思っている。恵まれた体格、人並み以上の強力、そし  て若さ。まだまだ伸び代は大いにあると確信しているが、いま一つ伸び悩んでいるのが現状である。先ずは焔耶の上を向いたら上  ばかり、下を向いたら下ばかりと言う余裕の無さを何とかせねばならないと感じていた。   一途な性格と言えば聞えは良いが、桔梗に言わせれば「今の焔耶は視野が狭過ぎる」と思っている。   一方の焔耶は桃香の事が心配でならなかった。別に何処かが攻めて来て等と言う桃香の命の心配をしている訳ではない。最近の  桃香が天の御遣いの事ばかりを気にしているのが心配なのであった。   以前から桃香が天の御遣いに興味を持っていたのは承知していた焔耶であるが、その時はそもそも敵国の人間であり戦以外に会  う事等無く、しかも天の御遣い自体前線に出てくる事等皆無であったので余り気に留める事はなかった。そして成都での戦の後、  天の御遣いが天に帰ったと聞き及び焔耶は安堵していた。それが何を考えているのか天の御遣いが戻って来てしまった。天の御遣  いが戻って来た時に蒲公英がその場に居たにも拘らずアレは何の対処もしなかったと言う。その場に居たのならばいっそその場で  天の御遣いを始末してくれておけば良かったものの、今では蒲公英が率先して「格好良い」だの「優しい」だの吹聴している。そ  して洛陽で天の御遣いと会った朱里達は成都の城内に『親北郷』なる雰囲気を作り出す始末。しかも最近ではあの桔梗すら天の御  遣いに興味が有るような口振りである。   そんな現状を鑑みるに、もし桃香が自分が留守の間に天の御遣いに会いにでも行ったら如何しようと考えると居ても立っても居  られない焔耶であった。   そして焔耶は聞き及ぶ破廉恥極まりない性欲魔人で淫奔の権化の天の御遣いの毒牙から絶対に桃香を守り抜くと強く心に誓うの  である。   だが客観的に見るに桃香の身を純粋に案じての事とは言え、焔耶の『天の御遣い』に対する思考は殆どヤキモチからくるただの  八つ当たりである。   桔梗と焔耶が城壁の門をくぐろうとした時、少し離れた場所に城壁にもたれ掛かっている一団が眼に入った。 「桔梗さま、今時こんな所に行き倒れでしょうか?何事か見て参ります」   そう言って焔耶は数人の兵を引きつれ、その一団に近付いて行く。側に寄ったところそれらは三人の女性であるのが確認でき、  一人は小柄な子供の様に見受けられた。直ぐ側に寄っても三人はピクリとも反応しない。既に事切れているのかとも思ったが、焔  耶はとりあえず一番手前に居る大柄な女性に声を掛けた。 「おい、お前達生きているか?」   そう言って焔耶は大柄な女性の肩を揺らした。肩を触った感じでは冷たくはなっておらず、生きているのが確認できる。他の二  人も弱弱しくながら息はしているが、皆憔悴しきった顔をしていた。 「おい!返事をしろ」   もう一度声を掛けたところで大柄な女性が眼を開けた。そして思ったよりはっきりとした声で焔耶に答えた。 「まだ何とか生きている……。ここ数日は水しか飲んでおらぬのだ……。すまぬがここは何処の城だ?」 「ん?ここは蜀の江州だ。立てるか?」 「ああ……」   ふらふらと危なかしく立ち上がろうとするので手を貸そうとした焔耶の腕を掴む者が居た。 「何でもよいのじゃ……、食べる……物を……、蜂蜜をくりゃれ……」 「流石お嬢様……、恥も外聞も無く好物を強請る姿は空気読めですぅ……」   そう言って二人は再び沈黙してしまう。 「おっ、おい!」   焔耶が声を掛けるが返事がない。途方に暮れているとそこに桔梗が現れた。手には水筒を持っている。 「どうじゃ焔耶。生きてはおる様じゃが……ん?」 「はい。生きてはおりますがかなり衰弱しているようです」   桔梗は一番小柄な少女に近寄り、顔が見易い様に角度を変えた。そしてしゃがんで少女を見ている桔梗の顔が怪訝なものに変わ  るのが焔耶にも見て取れる。 「……どうかされましたか?桔梗さま」   桔梗の行動と表情を不思議に思った焔耶が声を掛けた。少しの間何も語らずじっくりと少女の顔を見定める様にしていた桔梗が  ゆっくりと立ち上がり口を開いた。 「この娘……、袁術じゃな」 「ええっ?!」   桔梗の言葉を聞き、ただ驚くしかない焔耶であった。   場所を城内に移し、とりあえず三人に食べる物を与えた。いきなり重い物は身体に負担が掛るので汁物から等と初めは気を使っ  た桔梗達であったが、そんな事はお構い無しに肉やら魚やら出された物を出された端から平らげていく三人。あっという間に人数  分以上の食事を平らげ今は一息付いていた。最後に蜂蜜を渡された袁公路こと美羽は上機嫌でそれを舐めている。 「馳走になった、礼を言う」 「しかし、お主が華雄とはのう」   しみじみと話す口調の桔梗に、礼を言った折下げた頭を戻しながら華雄は視線だけを桔梗に向け口を開いた。 「どうせ水関で関羽に切り殺されたとでも聞いたのだろう?」 「まあ、儂はあの場に居らなんだからのう。かなり噂になっておったし」 「ふんっ」   鼻を鳴らし不機嫌そうに横を向く華雄。そして蜂蜜を舐め終わった美羽の口を拭いていた張勲こと七乃が口を開いた。 「本当にご馳走様でした。ほらっ、お嬢様も」 「うむ、美味しかったのじゃ」   そんな二人に呆れたような表情を返す桔梗。そしておもむろに口を開いた。 「お主達、今迄何処に居ったのじゃ」 「それはですねぇ……」   七乃が今に至る経緯を話し始めた。   美羽と二人孫策から国を追われた後、ゴタゴタしていた魏南部で軍人上がりや野党崩れを集め傭兵団の様な物を結成し邑の警備  等をして生計を立てていた。その頃に華雄と出会ったと言う。当初はそれなりに仕事が有ったのだが、戦が終わり三国の正規の軍  が治安を回復し始めると途端に仕事が無くなったのだ。一部では良い評判も立ったが、大多数の邑の者達は出所の判らない胡散臭  い傭兵団等を何時までも側に置いておきたくはない。邑の者達としても危険回避の為背に腹は変えられなかった時期ならまだしも、  今となってはいつ何時に傭兵団が元の野党に豹変するかもしれないと考えるのは自明の理である。がしかし、かなり大きな集団に  成長していた傭兵団を今更見捨てる訳にもいかず、とは言え今更魏や蜀の陣営に帰参する訳にもいかない。その為、他の盗賊団を  襲い物資を手に入れると言うまるで「盗人の上前をはねる」を地で行く様なな事で何とか食い繋いでいた。落ちぶれているとは言  え元将軍を二人も要する美羽達は連戦連勝を続け、破竹の勢いであった。しかしそれも蓮華率いる三国の連合軍に壊滅されてしま  う。何とか少数の手勢と共に荊州に落ち延びた美羽達と華雄であったが、そこも治安の回復著しくしかも呉の領地にも近いとあり  安住の地にはなり得なかった。   そして再び追われる様に荊州を後にした七乃達は蜀南部を目指しその移動中に山中で他の者達とはぐれ、ここ江州に何とかたど  り着いたのだと言う。 「ふむ……、なるほどのう」 「へぇ……」   七乃の話を黙って聞いていた桔梗と焔耶であったが、桔梗はニコニコと愛想良く話す七乃の顔を見ていて一抹の胡散臭さを感じ  ていた。 「桔梗さま、この三人の処遇についてはどうします?」   焔耶の疑問に桔梗が答える。 「そうさのぅ……、元はと言えば呉の管轄であるから雪蓮殿に……」 「ぴぃぃぃぃ!」   雪蓮の名を聞いた美羽が途端に涙目になる。空になった蜂蜜の入っていた容器を大事そうに持っていた手もガタガタと震えてい  る。 「孫策怖い……、孫策怖い……、孫策怖い……」 「あの……、呉の地は踏むなと言う孫策さんの言い付けは違えてませんのでそれは勘弁してもらえませんか」   孫策の名を呟きながら震えている美羽をあやしながら七乃が答えた。 「では、袁本初殿が居る洛陽に伝えるか」   桔梗の言葉を聞いた美羽が涙目のまま桔梗の顔を見詰めた。そしておずおずと口を開く。 「麗羽姉さまは洛陽に居るのかや?」 「そうじゃ、今袁本初殿は北郷殿の元で安穏と暮らしておる」 「北郷って、あの天の御遣いの?」   七乃の言葉に桔梗は黙って頷いた。北郷の名前が出た事で、焔耶は露骨に嫌な顔をしている。 「私はどうなるのだ?」   今迄黙っていた華雄が口を開いた。その口調に桔梗は疑問を抱く。しかしそれは直ぐに氷解した。 「そうかお主は知らんのだな」 「何をだ?」 「月は生きておるぞ」   桔梗の言葉を聞いた華雄はいきなり立ち上がった。その眼は大きく見開かれており、机についている両の手は小刻みに震えてい  る。そして桔梗を睨みつけながら華雄は口を開いた。 「それは真の事か?……もしも戯言で私を謀っているなら許さんぞ」   語気を荒げた華雄の氣が膨らんでいるのが判る。桔梗は涼しい顔で身動ぎ一つせず悠然と華雄の顔を眺めているが、焔耶は思わ  ず鈍砕骨を構えた。美羽と七乃は抱き合ったまま震えている。 「落ち着け華雄よ。お主に戯言を言って何の得になる。月は詠と二人成都の城に居る。息災じゃ」   桔梗の言葉を聞いた華雄は力が抜けたのか再び椅子に座った。 「そうか……、董卓様は生きていて下さったのか……。私が至らぬばかりに……、だが良かった……良かった……」   華雄は人前であるにも拘らず、人目を憚る事なく涙を流し始めた。   そんな嗚咽を噛み殺しながら月の存命を喜び泣き続ける華雄を見た桔梗は「この者は信用に値する」と感じていた。 「ではお主は我等と共に成都に来い。お主等は如何する?」   未だ抱きついたままの美羽達に顔を向ける桔梗。 「妾達は……、如何するのじゃ七乃?」 「あのう、宜しければわたし達も一緒にお願いできませんか。華雄さんが居なくなったらわたし達直ぐにも行き倒れるのは目に見え  てますから」   不安そうな顔の美羽を抱き締めたままそう七乃は話す。それを聞いた桔梗は一つ溜息をついた。 「ならばお主等も着いて参れ」 「ありがとうございますぅ〜」   桔梗の言葉に間髪を入れずに礼を言う七乃。それを見ていた焔耶が口を開く。 「よろしいのですか桔梗さま。華雄はまだしも、あの二人まで……」 「仕方あるまい……。一度拾った者を直ぐに放してどこぞで行き倒れた等耳にしたら寝覚めが悪い。それに今は落ちぶれているとは  言え元は一国の主、しかも袁家に連なる者……無下に扱う訳にもいくまいて」 「それは……そうですが……。 承知しました」   渋々ながらも桔梗の言葉に納得した焔耶。すると焔耶はは三人の方へと近付いて行く。そして口を開いた。 「お前達、とりあえず湯を浴びて来い。臭いぞ」   そんな焔耶の言葉にキョトンとした表情を返す美羽であった。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   蓮華や愛紗達が襄陽を訪れた二日目の朝、一刀はその身に圧し掛かる重圧に耐え兼ねて眼を覚ました。別にそれは今日から呉や  蜀の面々を連れ視察を行わなければならないと言う重圧でも、昨夜蓮華から言われた言葉の意味やその時受けた思春の忘れ難い視  線による重圧でもない。その重圧の元は一刀の上ですやすやと眠っている美以達南蛮勢に依るものであった。 「何だってここに皆いるんだ?……重い」   一刀は美以達の下敷きになっている状態から抜け出そうとした時、その気配に気が付いたシャムが頭を上げた。 「……にい様、起きたにゃ」 「ああ、おはようシャム。でも何で皆居るんだ?」 「シャムがにい様のとこで寝るって言ったらみんな着いてきたにゃ」 「あっ……そう」   二人が会話をしていると美以達も目を覚ました。三人はまだはっきりと眼が覚めていないのかてんでばらばらに部屋の中を眺め  ている。もしかすると今居る場所を確認しているのかもしれない。 「やぁ……」   一刀の声に三人が反応した。 「うにゃ……、あっ兄起きたのニャ」 「そーにゃ、にいにい起きたにゃ」 「あにしゃま起きにゃ」 「えっと……、それは俺の事か?」   一刀は上半身を起こしながら美以達に言葉を返す。   美以達は其々一刀の事を『兄』『にいにい』『あにしゃま』と呼んでいた。シャムがにい様と呼んでいるのを真似た様だ。流琉  をシャムが真似し、そしてシャムを美以達が真似ると言うややこしい事になっていた。 「シャムはそう呼んでるニャ。シャムだけズルイのニャ」 「そーにゃ、ズルにゃ」 「ズルイにゃ」 「いや、そうだけど……」   一刀の困った様な顔を見た美以の眉間にも皺が寄っている。他の二人も同じ様な表情で口を尖らせながら「う〜」と唸り声を上  げていた。すると美以が何かイイ事を思い付いた様な明るい表情になった。 「そうニャ!兄は美以の事美以って呼んでいいニャ!」 「ん?それは孟獲の真名だろう」 「そうニャ、真名ニャ。兄は呼んでもいいニャ」 「いいのか?」 「いいニャ。とーかは誰にでも教えちゃダメって言ってたけど、兄はシャムを助けてくれたからいいのニャ」 「判ったよ、ありがとう美以。ならトラやミケも俺の事好きに呼んでいいぞ」   美以に根負けした様な形になった一刀は諦め顔で答えた。流石に美以達が自分の事を「北郷殿」等と堅苦しく呼ぶ事は想像出来  ない。 「兄!」 「にいにい!」 「あにしゃま!」   そう言いながら三人が一刀に飛びついてきた。その勢いに負けた一刀はそのまま寝台に倒れこんでしまう。 「シャムもエイッにゃ!」   そして遅れてシャムまで飛び込んだ。   朝っぱらから賑やかであった。   一刀は美以達と手を繋いで朝の城内の廊下を歩いている。右手には美以を、左手にはシャムを、そしてその両脇でトラとミケが  其々美以とシャムと手を繋いでいた。一見バランスは取れている。一刀は保父さんにでもなった気分である。   廊下を歩いていると、中庭の方から何かがぶつかり合う様な音が聞えた。その音が気になった一刀は美以達を引き連れて中庭へ  と降りて行く。その音が聞える方へと進んで行くと、程なくその正体が判明した。その正体とは青龍偃月刀と方天画戟を交えてい  る愛紗と恋であった。そして二人から少し離れた場所に音々音が、その愛紗達を挟んだ向かい側には蓮華と思春も居る。穏と明命  の姿は見えない。明命の姿が見当たらない事に一刀は一抹の不安を覚えたが、それは直ぐに解消された。 「おはようございます、北郷様」   いきなり明命に声を掛けられる。確かに今迄誰も居なかったはずの場所に明命は立っていた。美以達も驚いていたが、シャムは  明命に気が付いていたのか平然としている。 「おっ、おはよう周泰ちゃん。朝から驚かせないでくれ」   一刀を驚かせた事に満足したのかそれとも普段からこうなのか、明命はニコニコと笑顔のまま言葉を返した。 「いえ、蓮華さまからお許しが出たので北郷様にご挨拶しておこうかと」 「だから何時も言ってるだろう、普通においでって。……全く」 「あはは……」   一刀の言葉に愛想笑いを返す明命。そんな明命に美以達が纏わり付いていった。   そして美以達から解放された一刀は明命達から離れ、一人愛紗達を見るでもなく何やら手元の物を見ている音々音に近付いて行  く。 「おはよう陳宮ちゃん。やっぱりあの二人は凄いね、素人の俺でも判るよ」   手元に集中している音々音を驚かさない様に少し離れた位置で声を掛け、それから近くに寄っていく一刀。声を掛けられた音々  音は手元に集中していた為に結局驚いた様だが、声のした方に振り向き一刀を確認したら言葉を返した。 「うおっ!ああ、北郷殿おはようございますなのです。当たり前なのです、呂奉先と言えば泣く子も黙る飛将軍なのですぞ。ですが  北郷殿も天の国では剣術の心得があると聞いたですが?」   恋の自慢を本当に嬉しそうに話す音々音。そして一刀はそんな音々音の隣に腰掛け、音々音の疑問に答えた。 「あの二人と比べたら素人と一まとめに出来る程度の力量だよ。兵卒とならいい勝負が出来るんじゃないかな?それに向こうの剣術  は礼儀や作法に重きを置いているから此方では余り役に立たないよ」 「ふ〜ん、そうなのですか。天の国とは此方よりずっと平和なのですな。良い事なのです。ですがよくそんなヘッポコが今迄生きて  ……あっ、ごめんなさいです」   普段通りに話し過ぎ、バツの悪そうな顔をしている音々音に一刀は笑って言葉を返す。 「ははは、別に気にしなくていいよ。本当の事だし」 「でも……」 「ホントに気にしないでいいって。それに事実をちゃんと伝えないと……、何かとんでもない話が広まってるみたいだし……」 「ああ、天の御遣いは『種馬』で『女狂い』で『節操なし』と言うアレですか……。間違っても恋殿に手を出したらこの陳公台が許  しませんぞ!」 「いや、そっちじゃないし……、それに手も出さないって……」   音々音の言葉に凹んでいる一刀を見て音々音は思う。出会ってからまだ二日だと言うのに、この話し易さは何なのだろうと。曹  操の愛人であり臣下では夏侯姉妹に次ぐ古参だと言う。先の大戦では殆ど前線に出る事は無かったが、本拠地の治安維持を任され  るという事は魏の重鎮であり能力が有ると言う事に違いない。洛陽や許昌での天の御遣いへの支持は消えていた三年間も衰える事  は無かったと聞く。そして何よりあの魏の幹部の中で唯一の男性がこの北郷一刀であると言う事実。音々音は事実を知りそれを重  ねれば重ねる程、北郷一刀と言う男の輪郭がぼやけてくる様な気がしていた。 「なぁ、さっきから何を見てるの?」 「ふぇっ!ああ、視察前の予習と言いますですか……、要点をまとめていたのですよ」   考え事をしている最中に一刀に声を掛けられ慌てる音々音。思った以上に一刀の顔が側に有った事も一因にあった。 「ふ〜ん、ちょっといい?」   そう言って一刀は音々音が持っていたものをひょいと手に取った。 「こらっ、何を勝手に見てやがるのですか。返せなのです」 「まぁまぁ、何々……絡繰による効率化に灌漑施設の概要……」 「いいから、返しやがれなのです!」 「それに市街警備の再点検に最適化それに法整備の概論かこれは視察だけじゃなくて座学もいるな……うちの軍師見習いだけで事足  りるかなぁ……」   一刀に取られた物を取り返そうと暴れる音々音、そして音々音が近寄れない様に自分の腕を突っ張る様にして押さえている一刀。  傍から見ればじゃれている様にしか見えない。 「ナンなのですかお前は!」 「ん?需要と供給だよ。相手がどんな物が見たいか知りたいか判っていれば効率を上げれるだろう。それにそれらに関した物の資料  なんかの準備もし易い」   一刀の言葉を聞いた音々音は表情を元に戻す。自分達の視察に関して色々考えてくれているのかと思うとすまない様な気持ちに  なる。 「そうだったですか。悪かったのです」   素直に謝る音々音。そんな音々音に笑顔で一刀は口を開く。 「ああ、いいよ。最初に聞いておけば良かったんだけど。でも流石は智謀の士陳公台、着眼点が多いな。でもこれを見る限りは農政  の比重が少ない?」 「なっ何を急に言い出しやがるのですか、くすぐったいのです。ああ、蜀は農地の関係で中原のやり方そのままと言う訳にはいかな  いですよ」 「なるほどなぁ……、でも字の練習はもっとした方がいいな」   一刀に『智謀の士』と言われ満更でもない様な照れた様な顔をしていた音々音が続けて言われた一言に表情を変える。 「うっ五月蠅いのです!お前だって江陵に送ってきた報せで字を間違えてたくせに!」 「仕方ないだろ!こっちはまだここに来て何年も経ってないんだから」 「自分の事は棚に上げといて何て言い草なのですか!このヘッポコ太守!」 「俺は太守じゃない!監督官だ!」 「ならこのチ○コ監督官!」   始めは口喧嘩だったものが次第に本格的な取っ組み合いを始める一刀と音々音。されど体格差もあり音々音が幾ら手足を振り回  そうともそれが一刀に当たる事はない。その事で勝ち誇った様な表情を見せる一刀を見た音々音が益々頭に血を上らせる。   そこに手合わせを終えた愛紗と恋、そしてそれを見ていた蓮華と思春も一刀達の元に近付いて来る。そして二人を見て呆れ顔の  愛紗が口を開く。 「何をやっているのです北郷殿、それにねねも!」 「……ねね、楽しそう」   二人を止めようと間に入る愛紗と、それを手伝う訳でもなく呟く恋。恋にしてみれば音々音と一刀がただ仲良くじゃれている様  にしか見えておらず、二人を止め様ともしない。 「蓮華さま、あの男黙らせましょうか?」 「思春、そんな顔で言うのは止めなさい洒落にならないから。一刀、あなたも朝から何をやっているの?!」   無表情でそう話す思春を遮って一刀に近付く蓮華。蓮華の一刀に対する口調や態度に思春の眉間に深い皺が刻まれる。蓮華に声  を掛けられた一刀は今の状態に余裕が有るのか音々音から眼を離し蓮華の方に顔を向けた。しかし、それが今は油断となる。 「んっ?やぁ、蓮華おはよう。……あっ甘寧殿、ちゃんと許可は……」 「陳宮キィッッックッ!!」 「ぐはぁっっ……!」   カウンター気味に良いのを一発貰った一刀はそのまま崩れ落ちる。辛うじて意識は保っている一刀ではあるが、直ぐには起き上  がれなかった。 「……ねね、腰の入った良い蹴り。……腕を上げた」 「ねね、良く殺った。だが、止めは刺せる時に刺しておくのが基本だ」   恋と思春の良く判らない褒め言葉に眉を顰める愛紗と蓮華。二人は一刀の側に近寄り介抱を始める。   そこに穏が現れた。 「皆さ〜ん、朝ごはんの準備が出来たそうですぅ。流琉さん推薦の料理人の方が作って下さったので美味しそう……、北郷さんどう  したんですかぁ?」   蓮華と愛紗に支えられている一刀を見た穏は小首を傾げている。 「正義は必ず勝ぁつのです!」   胸を張りその前で腕を組み、そして鼻を膨らませながら仁王立ちの音々音がそう宣言していた。   朝食を摂り終えた面々は今日の視察の打ち合わせの為普段一刀達が政務を執り行っている大部屋に集まっていた。そこには様々  な図面やら資料が目に付く所に置かれたままになっており、それを見た蓮華や愛紗達に改めて魏は我々に何も隠す気等が無いのだ  と言う印象を再認識させていた。その図面や資料を穏や音々音は目を輝かせながらそして食い入るように眺めている。   そんな穏を何時もの発作が出はしないかと心配そうに見る蓮華であったが、どうやら今は穏も純粋な知識欲がそれに勝っている  らしくそんな兆候は見せていない。それに安心していた蓮華に愛紗が近寄って来た。 「蓮華殿、今よろしいか?」 「ん?愛紗、何?」 「いえ、呉の視察に我等も同道させてもらえる事のお礼を」 「何だそんな事か、そんな事気にする事は無い。穏等はねねが一緒に来る事を喜んでいたしな」 「そうですか。そう言っていただけるなら此方も気が楽になります」   少々恐縮した面持ちの愛紗が安堵したものに変わる。そんな愛紗に蓮華は笑顔で言葉を返す。 「ああ、折角魏や一刀が全部見せてやると言っているのだから、此方も遠慮等必要なかろう」 「その様ですね。しかし、この部屋に有る物は本来なら機密扱いが当然な物もあるでしょうに……、それを監視も付けずに……」 「まぁ、それが今の魏の余裕と自信の表れなのだろう……、もしくは一刀の性格だな」   そう言った蓮華は雑然と様々な物が置かれている部屋を見渡す様に顔を動かしていた。愛紗はそんな蓮華を身ながら朝から気に  なっていた事を口に出した。 「蓮華殿、一つ宜しいか?」 「ん?」 「蓮華殿は北郷殿に真名を許し、北郷殿を名で呼んでおられる様ですが」 「えっ?ああ、その事?」 「はい、いきなり不躾な事を聞く奴だと思われるでしょうが、私が聞き及んだ『天の御遣い』の噂と実際にあの御仁と会ったうちの  蒲公英や朱里達から聞いた印象が余りにも違うもので……。実際に北郷殿に真名を許した蓮華殿から見た『北郷一刀』と言うもの  を聞いてみたくて」   愛紗にそう言われた蓮華は少し頬を赤らめながら口を開いた。 「わたしも一刀とそんなに付き合いが長いと言う訳ではないけれど……、少し前に一刀とは江夏で会ったのよ」 「そうなのですか?」 「ええ、その時の事は話すと長くなるし、色々あったので割愛させてもらうけど。一刀の印象か……、一言で言うと凄く話し易い」 「話し易い?」   蓮華の言葉の真意を測りかねた愛紗が疑問を返す。そんな愛紗に蓮華は少し間を置いてから話し始めた。 「そう……、江夏の時もそうだったけど、出会って大した時間も経っていないのに昔からの友人だった様な気になったわ。そして普  段なら姉様や思春には話し難い事も不思議と話せたし、身内に言われると反発するような事も素直に聞けたわ。孫文台の娘でも孫  伯符の妹でもなく、ただの孫仲謀……蓮華としてね」 「はあ……」   蓮華の話に愛紗は少々間抜けな返事を返していた。愛紗は蓮華に一刀の人となりを聞いていたはずなのだが、今は何だか惚気を  聞いている様な気になっている。 「愛紗は一刀と話せたの?」 「いえ、まだそれほど。宴席の折に世間話をしたくらいで当たり障りの無い事しか」 「なら今回はいい機会だから折を見て話してみた方がいいわ。話してみた結果がどうなるかはあなた次第だけれども、先ずは話して  みないと」 「そうですね……。そうしてみます」   何だか蓮華に丸め込まれた感もある愛紗であったが、蓮華の言う事も一理あると感じ納得したような顔付きの愛紗。蓮華と愛紗、  お互いに笑顔を返し合いながら一刀が現れるのを他愛も無い話をしながら待っていた。   簡単な打ち合わせが終わり、視察一日目は港湾設備から始まった。これに興味の無い恋や南蛮勢は城でお留守番と言う事になっ  たが、どさくさに紛れて恋達と共に城に残ろうとしていた明命は思春の無言の圧力に負け引き摺られる様に連れて行かれていた。   恋と離れる事に幾ばくかの後ろ髪を引かれていた音々音ではあったが、いざ視察が始まると一刀や真桜に質問の嵐を浴びせてい  る。襄陽への到着時に一度港湾施設を目にしていた穏達も同様で、特に港に併設されている建設中の造船所の簡易的な『乾ドック』  には興味を引かれた様だ。他にも従来のやり方とは違う石積みや建築方法、そして絡繰を利用した設備等に穏や音々音の軍師組は  目を輝かせてせていた。 「ここまでくると呆れるな……」   以前洛陽で紫苑が漏らした事と奇しくも同じ言葉を蓮華も口にしていた。今は蓮華と思春そして愛紗は一刀や穏達と少し離れた  所で造船所の内部を眺めていた。明命は一刀達の話しに飽きた沙和と何やら話している。 「確かに。魏が隠す事無く見せるのが判る気がします。穏殿やねねならまだしも私では北郷殿や真桜が何を言っているのか……、お  恥ずかしい話ですが」 「それは此方も同じだ……、なぁ思春」 「はい、話だけなら何を世迷言をと思いますが、現物を目の当たりにすると……。屋外で造っている船もかなり呉の物とは違います」   三人は未だ話が尽きそうに無い一刀達四人の方に目を移した。そして溜息混じりに蓮華が口を開く。 「これは長い滞在になりそうだな……」 「北郷殿に貰った予定表には勉強会なるものも有りましたな……」   愛紗の言葉に思春は露骨に嫌そうな顔をしていた。   お昼には城から昼食を持って来た恋達が合流し、キリも良いからと持ってきてくれた弁当を広げる。流石に蓮華は屋外で食事等  駄目かと思い屋内で食事の取れる場所を準備していた一刀であるが、「天気も良いし皆と一緒でよい」と蓮華に言われ江の畔で食  べる事となった。思春も特に何も言わなかったので一刀も安心している。案外呉は格式に拘らないのかとも思う一刀であるが、真  相は判らない。弁当は流琉が襄陽に来た時一緒に連れて来た料理人の作である為、味については保証付である。恋の食べる姿に皆  癒されながら箸をすすめていた。 「お前!魚を生で食べるですか?!」 「……生はダメ、……お腹こわす」   食事が一段落した時、天の国の食べ物の話をしていた折ぽろっと一刀が「刺身が食べたい」と言う言葉を口にした。それに興味  を持った恋と音々音に一刀は『刺身』とは何ぞやと説明をした二人の反応があれである。 「いや、二人が言っているのは川魚だろ、俺が言っているのは海の魚。……えっ?海が近い呉の人は食べるよ……ねぇ?」   周りの変な雰囲気に気付き一刀は蓮華達に目を向けるが、全員が渋い顔をしている。 「極一部にそう言う習慣が有りますけどぉ……、一般的ではないですねぇ。止めといた方が……」   そう穏が苦笑いで答えた。残りの三人も渋い顔のまま口を開く。 「わたしも海の魚は食べるが、生では食べんぞ一刀」 「右に同じだ……、馬鹿者め」 「止めた方がいいですよ北郷様」   呉の面々に全否定された一刀。呉に行けば新鮮な刺身が食べられると言う夢が砕かれた瞬間であった。   午後からの港湾関係の視察について一刀と真桜が話している所に恋と音々音が近付いて来た。 「北郷殿、今よいですか」   音々音の少々畏まった物言いに一刀は不思議そうな表情を見せた。 「ああ、構わないけど……何?」 「さぁ恋殿」   音々音に促されて恋が一刀の前に立ち口を開いた。 「……シャムの事、まだちゃんとお礼を言ってなかった」   恋の言葉に一刀は笑顔で言葉を返す。 「ああ、呂布殿もう気にしないで」 「そうや、困った時はお互いさんや恋はん」   一刀と真桜の言葉にふるふると頭を横に振る恋。そして再び話し始めた。 「……良くしてもらったらお礼を言うのは当たり前。……だからありがとう。……それに恋でいい」 「いいの?」   一刀は恋の横で腕を組んだまま口をへの字にしている音々音をちらりと見てからそう口にした。少し顔が赤いが恋が自分に真名  を許す事にヘソを曲げているのだろうかと一刀は思う。 「……うん、いい。シャムを良くしてもらったし、……シャムを見てたら悪い人じゃないのは判る」 「んっ、ありがとう恋。俺は真名が無いから好きに呼んでいいよ」 「……うん、なら一刀って呼ぶ。……ほらねねも……」   恋は笑顔で一刀に答えると音々音に何かを促した。 「う〜……、ねねの事も真名で呼ぶこと許可してやるです」   そんな怒った様な照れた様な話し方の音々音に一刀が答える。音々音が少し赤い顔をしていたのはこの為の様だ。 「えっと、確か『ね……ねねね』だっけ?」 「一つ多いのです!音・音・音と書いて音々音なのです。言い難かったら『ねね』でもいいのです」 「ありがとう、ねね。ねねも好きに呼んでいいからな」 「では一刀殿と呼ぶです。ですが幾ら恋殿の真名を許されたからといって、恋殿に不埒な行いはこのねねが許しませんぞ!」   そう両手を揺り上げ宣言する音々音。それを見た一刀はまるで一生懸命自分の身体を大きく見せ威嚇している小動物に思え、微  笑ましかった。   その後の港湾関係の視察も午前の部と同じ様に穏とねねに質問の嵐と細かい説明を日が暮れるまで強いられた一刀達であった。   夕食後も音々音は一刀達の執務室に押しかけ、昼間に聞き忘れていた疑問や後から思いついた事等や翌日の襄陽の市街の視察に  ついての話をしていた。それを聞きつけた穏も途中から加わり、話は長い時間続いていた。   一刀にしても同じ物を見ても着眼点が魏・呉・蜀其々の違いが有り、其々に新鮮な発見がある。それが今後に役に立つと思えた  し、一刀自身も興味が有り二人に付き合うことを苦であるとは感じなかった。やはり以前こんな風に朱里や雛里に質問攻めに会っ  た事も思い出し、どの国の軍師も根っこは同じなのだと再確認もしていた。   そんな二人が各々の部屋に引き上げ、今は執務室に一刀一人残っていた。そこに声を掛けてきた者が居た。誰であろう愛紗であ  る。 「北郷殿、宜しいか?」 「ああ、関羽殿。どうぞ」   声を掛けられた一刀は気安く愛紗を招き入れる。温くなった茶を断りを入れながら愛紗に差し出して再び口を開いた。 「どうしたんですか?」 「いや、今日は昼間もそれに今もねねに付き合わせてしまって申し訳ないと……」 「ああ、気にしないで下さい。俺も自分のしている事の再点検になっていますから」 「ねねやそれにシャムの事も、そちらに迷惑を掛け通しで……、ありがとうございます」 「それこそ気にしないで下さい。それに急に独りになった心細さは俺は良く判りますし」   そう言って笑い掛ける一刀の顔を見た愛紗は一刀の話から三年前の事を思い出した。 「今回のシャムの一件で私も三年前の魏の皆の気持ちの何分の一かは理解出来た様な気がします」 「関羽殿……」 「今迄側に居るのが当たり前と思っている人が急に居なくなる。戦や病で死んだというのではなく忽然とその場から居なくなる……、  しかも何の前触れも無く理由も知らずに。もしこれがもっと身近な義姉上や鈴々であったならと考えると私は薄ら寒くなりました」 「…………」 「そんな気持ち……喪失感を三年前華琳殿達は味わったのだなと……。そう考えればあの時の魏の見せた姿に合点がいきました」 「魏の見せた姿?」   愛紗の言葉に疑問を持った一刀が口を開いた。愛紗は一度頷いてから話を続ける。 「ええ、あの時、成都を後にする魏の者達はまるで葬列の様でした。本来なら大戦の勝者であり悠々と洛陽に凱旋するはずがそんな  有様だったです。戦後暫くはまるで腑抜けた様にも私には見えました。大戦が終わった反動かとも思いましたが、戦の終結直後に  天の御遣いが天に還ったという話を聞きあれを得心した心算でしたが、根っこの部分では理解できていなかったのですね。今回の  事でそれを多少なりとも理解できました」   その辺りの事は魏の面々は詳しく話してくれていなかったので、一刀は興味深く愛紗の話を聞いていた。向こうに帰って直ぐに  貂蝉から事情を説明され、こちらに帰れる事を聞いた自分の方が華琳達に比べればずっと気楽であった事を痛感していた。 「天の御遣いが齎した知恵があったとしても、そんな思いを抱いたまま魏はその後これ程の発展をしたのだと考えると改めて頭の下  がる想いです」 「皆頑張り屋なんですよ。それに俺が伝えた事なんか華琳や桂花ならいずれ思い付いたでしょうし」   そう笑顔で華琳達の事を話す一刀。そして愛紗と一刀は様々な話をした。魏の事、蜀の事、そして天の国の事。 「俺も向こうで過ごした六年で色々考えました」 「六年?三年ではないのですか?」 「ええ、それは俺もこちらに帰って来た時に春蘭達から聞きました」   その話を聞いた愛紗は一刀の独特な雰囲気は年長である事も一端にあるのかと思う。身近に特に年長の男性との近しい付き合い  の無かった愛紗にとってそれは新鮮な感覚であった。そして一刀が年長であるという事や魏の重鎮である事を前面に出す事も無く、  自分を対等にそして時には敬ってくれる事に嬉しさやくすぐったさを感じていた。 「これは朱里や雛里にも話した事なんだけど……」   そう前置きをして一刀が六年間向こうに居る間に考えた事を時には面白おかしく、時には真剣に話す一刀。そしてそんな一刀が  魏の面々の話に及ぶと彼女達を誇らしげに愛しむ様に優しい表情で話す。それを見た愛紗は純粋に羨ましいと思った。愛紗自身蒲  公英の話や雛里の話に知らず知らずの内に感化されているのかもしれないし、一刀の話術に乗せられているのかも知れないとも思  う。だが一刀と沙和や真桜が織り成す雰囲気からは、今迄聞き及んだ天の御遣いの悪評は感じられなかった。それは一刀に懐いて  いるシャムを見ても感じる事が出来る。自分が桃香に褒められたりするのとは又違った感慨が一刀と華琳達には有るのだろうと、  蜀とは又違った結び付きが魏には有るのだろうとも想像する。   すると、もし天の御遣いが桃香の元に現れていたら、もし桃香と出会う前の自分と出合っていたらどうなっていたのだろうと言  う考えが愛紗の頭を過ぎった。   天の御遣いを我が主として掲げる自分。   天の御遣いと志を分かち合う者として並び立つ自分。   そして天の御遣いを我が背の君としてそれに寄り添う自分。   そんな取り止めの無い暴走気味の想像に愛紗は陥る。そしてそんな事を考える己の心臓が早鐘の如く鳴り響き、己の顔が赤く熱  くなっているのを自覚していた。 「如何しました関羽殿?」   急に黙り込み下を向いたままになった愛紗に一刀は声を掛けた。そして突然の一刀の言葉に狼狽する愛紗。別段変わった言葉を  掛けられた訳ではなかったが、意識が違う方に向いていた愛紗はただ狼狽していた。 「いっいえ、何でもあるましぇん……。ほっ北郷殿、遅くまですいませんでした。この辺りでお暇させていただきます」   顔を朱に染めたまま愛紗は慌てて立ち上がった。つられて立ち上がった一刀の目の前で慌てた愛紗が床に置いてあった資料に躓  く。そしてそのまま愛紗は一刀の胸にすっぽりと収まってしまった。 「……!!」   その瞬間、愛紗は今の自分の状況が把握できなかった。必死に頭を働かせ今一刀に抱き締められていると言う事を認識した愛紗  であったが、それを認識してもその手を祓おうとは思わない。逆にその心地よさに当初力が入り身体を硬くしていた愛紗が、徐々  に力を抜き今は身体を一刀に預ける様な格好になっている。それは桃香にされるそれとはまた違う心地よさがあった。   一方の一刀は、よろめいた愛紗を思わず受け止めた心算であったが、今は抱き締めてしまっている形に内心穏やかではなかった。  あの勇名轟く関雲長にこの様な事をして殴られる覚悟をしていた一刀であったが、初め身体を硬くしていた愛紗が今は力も抜け自  分に身体を預けている事に内心驚いている。そして自分の胸にすっぽりと収まっている愛紗の身体の柔らかさそして彼女からの女  性らしい香りに一刀は理性を保つ為必死に戦っていた。このところ清い夜が続いていた為特にである。「このまま力強く抱き締め  押し倒してしまいたい」と言う願望を押し止め何とか理性を保ちながら一刀は口を開いた。 「関羽殿……」   一刀の言葉を聞いた愛紗は今の体勢を変える事無く言葉を返した。 「北郷殿……」   そんな愛紗の言葉を聞いた一刀は、ただ愛紗を愛しいと感じた。ここに居るのは普段の女丈夫の関雲長では無く、一人の普通の  女性であると感じる。その時洛陽で独り必死で強がっている寂しがり屋が一瞬一刀の頭に浮かんだ。彼女は一刀の頭の中で何とも  言えない視線を送りながら何やら言っている様であったが、いまは無理やり意識の底へと御帰り頂く。   暫く抱き合ったままの二人であったが、急に愛紗がごそごそと動き出す。流石に今の状態を把握して愛紗も我に返った様だ。 「もっ、申し訳ありませぬ……、こっこの様な事……」   そう言って愛紗は一刀の胸から離れる。一刀の温もりを感じられなくなった事に一抹の寂しさは感じるものの、今迄自分のとっ  ていた行動を考えればそれ以上に熱くなるものを感じていた。 「いや……、か……」 「しっ、失礼しゅましゅ!」   まるで朱里か雛里の如く噛みまくりながら一刀の言葉を遮りそう言い残して愛紗は部屋を後にする。一刀はただそれを呆然と見  送る他無かった。   一刀と共に居た執務室を後にした愛紗はうなじまで真っ赤に染めながら自分の宛がわれている部屋へと大股で猛進していた。誰  が見てもただ事では無いと見受けられる愛紗であったが、唯一の救いはそれを城の者誰にも見られなかった事だろうか。何処を如  何帰ったかも判らぬ愛紗は自分の宛がわれている部屋へと入るとそのまま寝台へと身を投げ出した。 「あっあの様な事……、なっ何故だ?!」   愛紗はそう言うと布団を頭から被ってしまう。 「だが……、あの心地よさは……」   あの部屋での自分の行いを思い出すと今度は被っていた布団を抱き締め悶え始める愛紗。 「(ダメだ、ダメだ。わたしは桃香さまに仕え蜀を護りより栄えさせねばならぬ身。色欲に溺れる様では……、色欲……。なっ何を  考えているのだ関雲長。己の初心を忘れる事無く貫き通す事こそ誉れであり……。だが、殿方に力強く抱き締められると言うのは  あれ程に甘美なものとは……。違う!違う!くぅぅぅぅぅぅ……!!)」   こうして愛紗は夜明け近くまで反省と回想を繰り返すのであった。   翌朝、朝食の場に現れた一刀を少々憔悴した顔で迎え入れる愛紗。 「あの、北郷殿……」 「おはようございます、関羽殿……」   そう言い合って黙り込む二人。頬を赤く染めモジモジとしながら顔を上げた愛紗は一刀の襟元が乱れている事に気付く。 「北郷殿、襟元が……」   そう言って恥ずかしがりながらも喜色を浮かべ一刀の襟元の乱れを直す愛紗を見て、生暖かい目で見る者、きょとんとしている  者、露骨に不機嫌になる者、羨ましそうに見る者、我関せずを装う者等様々な様相を面々は見せていた。   そんな視線を一身に集める一刀は当初こそは満更でもない様な表情であったが、様々な視線に気が付いてからは笑顔は少々引き  攣っていた。まぁ、身から出た錆である事は確かなので誰も同情はしない。 「何や、二日目で蜀はほぼ陥落かいな……。あれはもう一押しってとこか、やりよるなたいちょ」 「これは洛陽にちくる……じゃなくて報告する事が増えたの〜」 「残るは呉の三人だけ……。せやけど思春はん以外は時間の問題みたいやからなぁ」 「みたいなの〜」   異様な場の雰囲気に冷や汗を流し続ける一刀を他所にそんな事を語り合う真桜と沙和であった。   視察二日目はは襄陽市街とその施設、そして一日休日を挟んでその後は襄陽郊外の視察となる。   市街の視察の内、街割りや警備体制等は蓮華や愛紗等も興味が強く昨日の様な穏や音々音の軍師達だけではなく彼女達も喰い付  きが良かった。特にここ襄陽にも配備が決まった北郷特別機動隊には思春が並々ならぬ興味を持ち、その構成や装備そして訓練方  法等を真桜や沙和相手に質問を浴びせている。後日、その訓練に思春自らが参加する程の入れ込み様であった。勿論明命も強制参  加させられたのは言うまでもない。   翌日は休日とはいえ別段変わった事はない。特に予定が無いと言うだけで、各々がするべき事をしていた。音々音と穏は宛がわ  れた部屋で何やら書き物をしているし、蓮華と思春は打ち合わせを兼ね城内の中庭の散策を、愛紗と恋は中庭の開けた場所で手合  わせをしているし、南蛮勢は厨房で料理人たちに餌付けをされているし、明命はそれを至福の表情で眺めている等各々休日を過ご  している。午前中に各方面へと指示を出し事務仕事を一段落させた一刀達は昼食後に自室に戻った沙和と真桜とは別に一刀はこの  ところさぼりがちになっていた鍛錬を行っていた。   何時も通り素振りから始め、今は型へと移行していた。近頃は事務仕事や監督官としての采配が主で、春蘭が洛陽に戻ってから  は久しく手合わせもしていない。その為久しぶりの稽古で掻く汗に心地よさを感じる一刀であった。   それを蓮華と思春が眺めていた。 「アレが天の剣術なのかしら、以前見た白蓮のものや姉様の演舞とは違うわね」 「そのようです……」   蓮華は言葉少なに答え一刀をじっと見ている思春を不思議に思い声を掛けた。 「如何したの思春?」   そんな蓮華の言葉に少し驚いた様な仕草を見せた思春が口を開いた。 「あっ、いえ蓮華さま……。少々アレを不思議に思いまして」 「一刀を?」 「はい。ああして真剣に剣を振るう姿や軍師の穏さまと対等に議論する姿を見せるかと思えば、江夏の様な猿芝居も平気でする。自  分には得体の知れないものに思えて……」 「…………」   そう話す思春の顔を蓮華は黙って見詰めている。しかし一刀を見る思春のその顔に蓮華は敵意や嫌悪感は微塵も感じられなかっ  た。 「……一刀は間口が広い」   急に声を掛けられた蓮華と思春が声の主の方に顔を向ける。その主は恋であった。 「恋、そういう時は器が大きいと言うのだ。どう言う意味だ間口が広い等と……」   続いて愛紗も現れ、そう口にする。 「……その方が格好イイ?……でも間違いじゃない、一刀は来る者は拒まず……」 「だから何を……」 「何の話をしているの二人共」   呆れ顔の蓮華が声を掛ける。それに愛紗が答えた。 「いっいえ……、気にしないで下さい。手合わせの途中、急に恋がこちらに向かったので何事かと」 「ああ、一刀が鍛錬をしているのよ」 「その様ですね」   四人は再び視線を一刀に戻す。 「一定の型の反復を……、右半開に始まって左半開に終わる……、面白いですな天の流儀は」 「そうね、飾り気は無いけれどいいわね」   一刀の型を見ていた愛紗と蓮華がそう感想を漏らすと、今迄黙ってそれを見ていた恋が口を開く。 「……うん、ちょっと行ってくる」   恋はまるで散歩にでも行くような気軽さで一刀に向かって行った。   一方の一刀は流石に四人がこちらを見ている事に気が付いていた。 「(うわぁ、見られてる……。ややこしい事にならない内に切り上げるか……)」   嫌な予感を感じた一刀であったが、時既に遅かった。一刀の直ぐ側に方天画戟を担いだ恋が立っている。 「……一刀、一手お手合わせ……」 「いっ、いや奉先殿……、後日改めて……」   真名ではなく字を呼ばれた事に恋は表情こそ変わらないが、その代わりに頭の触手がぴくりと動いた。 「問答無用」   恋は一刀に有無を言わさず担いでいた方天画戟を振り下ろした。一刀は何とか体裁きでそれをかわす、しかし恋は続けて二度三  度と攻撃を続ける。一刀は二度目も何とかかわせたが、三度目はかわし切れないと感じ持っていた木刀で何とかいなす。   一刀が木刀な為、恋は方天画戟の刃の部分は使ってこない。恋としてはかなり手加減をしているのだが、かえって間合いが近く  なっている為相手をしている一刀にとっては恐怖と言う部分は変わらない。 「中々やるわね」 「ただ逃げているだけです蓮華さま」 「北郷殿本人は剣の力量は兵卒と大差ないと言っていましたが」   三人が話している間も一刀は恋の攻撃をかわし続けていた。正確に言えば思春の言う通り逃げ回っていると言うのが近い。だが  春蘭や霞達といった魏の面々の相手をしている間に相手の攻撃をかわす事だけは劇的に上手くなった一刀であった。それについて  は向こうの世界の剣道部の某先輩にも太鼓判を押されていた。 「でも体裁きといなしであれだけかわす事が出来れば大したものじゃない」 「……まあまあですね」   蓮華の話に思春はぶっきら棒な答えを返す。それを聞いた蓮華はくすりと笑った。そんな思春の言葉に蓮華は素直ではないと感  じる。   一方の一刀は何とか一手だけでも反撃を試みようと考えていたが、そんな隙など恋には存在しない。まるで城壁か巨木を相手に  している様な気分を一刀は味わっていた。 「……一刀の戦い方面白い。……恋、もう少し本気出す」 「いや恋。そんな気起こさなくても……」   一刀が言い終わる間もなく恋の攻撃の早さが上がる。そして恋の攻撃をいなしているだけで一刀の木刀を持つ腕がしびれ始めて  いる。そろそろ限界であった。 「そろそろか……」 「そうだな……」   愛紗と思春がぼそりと呟く。その言葉に蓮華が二人の方を見た瞬間、「ぐえっ!」とまるでヒキガエルが潰されたような声がし  た。その声の先には正に踏み潰されたカエルの如く地面に突っ伏している一刀の姿があった。   翌日、郊外の邑に農業関係の視察に赴く面々。今日は美以達も同道しているため賑やかな遠足の様にも見える。しかも美以達は  ガネーシャに乗っている為に目立つ事この上ない。街道を進む一刀達を農作業をしている者達もガネーシャの大きさや物珍しさに  一刀達への挨拶も忘れただただ見入っていた。 「……一刀、おでこ痛い?」   先頭を行く一刀の馬に恋が馬を寄せてきた。恋の馬に音々音も同乗している。   今一刀のおでこには膏薬が貼られている。正し、これは昨日恋との手合わせでついたものではあるが、恋につけられたものでは  なく一刀が地面に突っ伏した際にすりむいたものである。なので恋に責任は無のだが、気にしている様だ。恋程の力量なら一刀相  手の手合わせ等で相手に傷を負わせる様な事は無い。 「大丈夫だよ恋。もう痛くないから」   一刀は恋を安心させる為笑顔を返す。それでもまだ心配そうな顔をする恋の頭をクシャクシャと撫ぜた。 「ええい!恋殿に馴れ馴れしくするなです!全く……、あんな事で怪我をするなど気が緩んでいる証拠なのです。鈴々等は手合わせ  で恋殿に吹き飛ばされても怪我一つ無くケロッとしてますぞ」 「いやいや、鈴々と一緒にされても……。ねねも心配してくれたんだって、ありがとな」   一刀の言葉を聞いて音々音は顔を赤くする。一刀は自分が伸びているのを見た音々音が恋を褒め称えながらも一刀を心配してい  たと言うのを愛紗から聞いていたのだ。 「べっ別にお前の事等心配なんかしていないのです。弱っちぃお前が悪いのです」   そう言って赤い顔のまま横を向く音々音を恋と二人笑いながら見る一刀であった。   目的の邑への途中、一刀達一行はある邑の様子がおかしい事に気付く。一刀達がこの邑の側を視察で通る事は事前に伝えてはい  たが、明らかに雰囲気がおかしい。騒然としている邑に近付きそこの中央に出来ている人だかりに一刀は見覚えのある顔を見つけ  た。 「華佗!」   一刀の呼び掛けに気付いた華佗が一刀達に近付いてきた。 「ああ、北郷!良い所に来た、城に使いを出そうと思っていたんだ」   馬を降りた一刀は先ず再会の握手を交わす。だが今はお互い笑顔で再会を喜ぶ前にこの騒然とした邑の訳を一刀は華佗に尋ねる。 「華佗、何があった?」   一刀の言葉を聞いた華佗の顔が険しいものに変わった。 「虎が出た……」     深まる繋がり 了