玄朝秘史  第三部 第五十二回  1.休養 「休みが欲しい?」  黒が基調の地味な服とそれとは対照的な純白の鬼面――雪蓮とその横に立つ一刀を見て、華琳はいぶかしげに問い返した。 「休めば?」  この時代、兵士や小作人、雇われ店員といった勤め人は、十日に一日休むというのが通例である。それは城の内部でも同じで、官吏たちも交替で十日に一度休みを取る。  ただし、華琳たち上層部の人間が、そんな規則的な休みを取れるわけもない。当人の裁量で休みを設定するのが普通だ。華琳に許しを得る必要などないはずなのだ。これが緊急時なら話は違うが、いまは戦争をしているわけでもない。 「いや、俺だけじゃないんだ」  男の台詞に華琳はますます首をひねる。 「雪蓮の休みは私じゃなくて、あなたの管轄でしょう? 好きにあわせればいいじゃない」 「私じゃないのよ。一刀と翠にね、休みをあげて欲しいの」  ぱたぱたと手を振って雪蓮が説明する。華琳は片方の眉をはね上げた。 「翠?」 「そ」  翠はこの時、春蘭と共に長安へ赴いていた。西涼が建国された場合、最も接触が多くなるのは長安だ。交渉でも儀礼でも、洛陽に赴く場合でも、長安は重要な中継地点となる。さらには商業的に見れば、その重要性は跳ね上がる。そのため、長安の役人や現地の有力者たちとの協力関係を築きに出向いていたのだ。  春蘭はこの場合、紹介者である。実際には桂花たちが手配した人物が翠と目的の人物を引き合わせてくれるので、春蘭はそこにいてくれるだけでいい。魏の大将軍の面目を潰そうと考える自殺志願者はそうそう出て来るまい。  その翠が洛陽へ戻ったら休みを作ってやるように、と二人は華琳に言っているのだった。西涼建国のための業務は多岐にわたり、様々な案件が何重にも動いている。最終的にそれらは翠の裁可を得るために彼女に渡されるわけだが、官吏たちがそれを翠のところに持ち込むのを一時的に差し止めれば、休養の日を確保することも出来るだろう。 「翠は限界だと思うの?」  二人の意を悟って言う華琳に、雪蓮は肩をすくめて見せる。 「そこまでは言わないけどね。ただ、真面目な娘だから、鍛錬と同じ調子でやっちゃって潰れられたら困るでしょ?」 「それはそうね……」  普通の人間ならば、きつすぎれば体がついていかない。しかし、彼女はかの錦馬超である。精神的な疲弊をも体力で補ってしまうかもしれない。その状態で無理を重ねるのは危険だ。彼女自身にとっても、そして、いずれ建国される西涼にとっても。 「蒲公英でもいれば、俺たちが言うこともないんだろうけどな」  現状、翠は宙ぶらりんな状態だ。蜀を出て西涼を打ち立てることになった彼女は、いわば半独立勢力として洛陽にあるわけで、どの勢力の人間も指図がしにくい。最も気安く指摘できる蒲公英は金城にあり、補佐の役目を果たす徐元直は洛陽、長安、金城、さらには武威や張奕まで行き来して、翠以上に忙しい。  気を配ってやる必要はあるのかもしれなかった。 「そう……。それで、一刀が気晴らしに連れ出すというわけかしら?」 「月たちも誘おうかと思ってるけどね」 「ふむ」  華琳は腕を組んでしばらく考え込み、そして、破顔してこう言った。 「あの娘は二人きりのほうが喜ぶかもしれないけどね」  そんなからかうような言葉が、承諾の代わりであった。  この会話が交わされたのが、人質事件の起きる少し前。そして長安から翠たちが戻ったところで、彼女には逆に『事件以来動揺している一刀を元気づけてあげて欲しい』という意が伝わって、二人は揃って休みをとることになったのであった。 「わわっ」  驚いたような声と共に、詠がつんのめる。隣にいた一刀が咄嗟に抱き留めるような形になった。 「んー? どしたあ?」  一番前を歩いていた翠が振り向いて覗き込む。 「なにか、ひっかかって……」  男の体を支えに詠は体をひねって後ろを見ようとする。だが、その前に、後ろを歩いていた月が気づいた。 「あ、これだね。詠ちゃん、いま外すよ」  月は詠の腰から伸びた飾り布に絡まった枝を取り、脇に押しのけるようにした。抵抗がなくなった反動で、彼女は一刀の胸に頬を押しつけるような形になる。彼のほうも反射的に腕に力を込めたのでなおさらであった。  彼の体にすがりつくようにしていた時には意識もしていなかった膚の温もりと香りに、思わず赤くなる詠。 「大丈夫?」 「だ、大丈夫よ! いつまでひっついてるの!」  慌てたように体を押され、一刀は抗せずに彼女から離れた。なにか言おうとして、しかし、詠の表情を見てそれを取りやめる。  その様子を翠はにやにやと、月はやわらかに微笑んで見ていた。 「本当にこんな所に華琳の別宅があるわけ?」  ごまかすようにぷりぷりと言って、詠はあたりを見回す。そこは、冬のいまでもうっそうと茂る森の中であった。しかも、地面の様子からして山腹か丘陵の一部だ。 「そうらしいよ。しばらく使っていなかったらしいけどね」 「まあ、この道の様子だとそうだろう」  翠が納得したように頷く。彼らが辿っている道は、ところどころにある急な傾斜には敷石があったり、埋木がされたりして歩きやすく工夫されているものの、草木がかなり生い茂って、道を両脇から浸食していた。元は手がかけられていたものが、しばらく放置されていた風情である。 「この様子だと、黄巾の前からですかね……?」  足元に注意しながら再び歩き出した四人の中で、月がきょろきょろと周りを観察しながら呟く。先頭では翠が山刀で木々を切り払っていた。詠がひっかかるまでより、さらにその範囲を広めたようだ。 「どうだろう。そもそも、華琳の別荘っていうよりは、華琳のお祖父さんの別荘だったようだから。それを亡くなったときに継いだとか。お祖父さんが生きていた頃には間違いなく手入れされていたんだろうけど……」  華琳から勧められた別宅は、洛陽の南西に位置する、小山とも丘ともつかない場所にあった。一刀たちはそれぞれ黄龍、黄鵬、紫燕、麒麟に乗って夜明けと共に洛陽を出て、朝の早くに麓の邑に到着。そこに馬たちと母衣衆を残して、頂を目指しているというわけであった。 「へえ、あの大宦官曹騰のね」 「なんだか含みのある言い方だな」  詠の口調に枝を払う手を止めぬまま、翠は笑い声をたてた。それに対して詠は一つ鼻を鳴らす。 「そりゃそうよ。曹騰って言ったら、ボクらが相手した張譲なんかよりはるかにとんでもない化け物だもの」  からかうでも嘲るでもない、淡々と事実を述べるかのような口調に、全員の注意が集まる。それを見て、彼女は眼鏡をくいとなおした。 「いい? 曹騰は四代の帝に仕え、大長秋にまで出世し、そのくせ無事に引退した。これだけでそのすごさがわかるというものじゃない?」 「四代か……。それはたしかに……」  宦官は帝の側近く仕える存在である。それは、権力に近いことを意味すると同時に、様々な謀略の中心に近いことも意味する。大長秋――皇后府をとりしきる最高位まで上り詰めておいてその身を保てたならば、それはつまり幾多の謀略をくぐり抜けてきたということだ。 「しかも、その間には梁冀による帝の毒殺とか、その専権に憤った宦官が決起して、梁冀の一族を皆殺しにするとか、まあ、色々あったのよ。それでも、幾多の名士を推挙して王朝を支え、そう悪い噂をたてられることもなく引退してのけた。化け物でなくてなんだっていうのよ」 「でも、悪い噂がないんだったらいいことじゃないか?」  興味深げに訊く翠。話している間に、道が広がり、彼女が刀を振るう必要もなくなっていた。どうやら、山頂が近い様子だった。 「ええ、それ自体は。でも、考えてみて、悪い噂がないという場合、ありうる事象は二つ。本当にそんな噂がたてられるようなことをしていないか、全てを封殺できるか。彼がどちらだったかはわからない、でも……」  詠は一つ肩をすくめて付け加える。 「曹騰は、養子とした曹嵩やその子である華琳に、莫大な財産を遺しているわ。元々、宦官になるくらいしか出世の手がなかった出のはずなのにね」  詠の話を聞きながら、一刀は華琳の父親、曹嵩のことを思い出す。こちらの世界ではどうだかよくわからないが、元の世界では三公の一つ、太尉の位を金で買ったと言われている人物だ。売官があったとしても、三公ともなればとてつもない金額が必要であったはず。それを用意できたのは、曹騰の力が大きかったのかもしれない。  だが、そんな思索は先に進んだ翠の声に途切れた。森が開け、光が溢れるようになったその場所で、興奮気味に後続の三人を呼んでいる。  彼らはその声に引き寄せられるように急いだ。木々の間を抜け、目に見えない境界を過ぎた途端、急激に開ける視界。  白、赤、紫、黄、桃。  色とりどりの花々が咲き乱れ、その間に緑の葉が伸びる。桃源郷とはこのことか、と思えるほどの美しい風景が、そこにあった。  最初に人の手が入っていなければ出来得ない、しかし、自然が作用することでさらなる趣を得た。そんな庭園が、その斜面にはずっと続いている。  背後に控える邸から見た時、山肌と、遥かに見える洛陽の都がまるでつながっているかのような錯覚を作り出すことを企図して、山の一角そのものを庭園として作り上げたのだろう。 「……ま、趣味は悪くなかったみたいね」  その風景を眺めて、詠はそんな風に評した。  2.対坐  とくり。  差し出された酒杯に酒が注がれる。  とく、とく。  注いだほうの酒杯にも、酒が満たされる。  宵闇の中、二人は何度もそれを繰り返していた。語らう言葉もなく、ただ、二人で酒を飲む。  ようやく、片方が口を開いたのは、十杯も乾した後であったろうか。 「翠には、早すぎたのかしらね?」  己の金の髪に指を絡め、その丸まりを伸ばすようにしながら言うのは、華琳。 「そうでもないんじゃなーい? まあ、私らみたいに能動的に動いてるわけでもないしね」  美味しそうに酒を味わいつつ軽い調子で答えるのは、白い仮面の女性。洛陽では普段めいど服姿の雪蓮は、今夜は昔の服を引っ張り出して来ている。 「それもそうか……」 「だいたいさー。私たちだって、初っぱなから高邁な志とかあった? ううん、あったかもしれないけど、いまから考えたら……ねえ?」  きゃらきゃらと笑って、雪蓮は杯を呷る。 「私の場合、冥琳がいて、あんまり定まってないもやもやしたものでも、きちんと言葉にして指針を立ててくれたけど、翠はそうもいかないじゃない? 長い目でみてあげなきゃ。後からついてくるものもあるわ」 「ついてくる……か。一理あるわね」  ふっと自嘲のような笑みを見せて、華琳は雪蓮の杯に酒を注ぐ。杯を揺らして、酒の表面に波を作って遊んでから、雪蓮はそれを口元に持っていった。 「立場について、より求められるようになるからこそ伸びるってあると思うわよ」 「でも、その重みで潰れる者もいるわよ」 「だからこそ、他が支えてやるんじゃないの。なんでもこなせるあなたみたいな王は、歴史を見ても何人もいるもんじゃないわ」  彼女の言い様に、華琳は目を丸くする。薄暗い部屋の中で、濃い青の瞳が煌めいた。 「あら、褒めてくれてるのかしら」 「ええ、もちろん。あなたを持ち上げておかないと、それに負けた私がかっこつけられないじゃない」  からかうように言った後で、雪蓮はその仮面の後ろの目を細める。その凝視に、華琳は挑み返すように視線を返した。実に楽しげに。 「冗談はともかく、真面目な話、あなたを基準に国作りをするのは無理よ。そんなことをしたら、魏はあなた一代で終わる」 「そうでしょうね」  あっさりと、華琳は首肯した。そのことに、対する雪蓮はどこか空恐ろしいような感覚を覚えた。あるいは、それは彼女だからこそ感じたことかもしれない。それほど、華琳は淡々と肯定していた。 「華琳?」 「なにかしら?」  真っ直ぐに見つめてくる瞳。結局、雪蓮はその目を見て、自らが発するはずの問いをねじ曲げた。 「……ちょっと訊きたいんだけど」 「答えられないこともあるわ」  雪蓮はそんな言葉に頓着せずに続ける。その様子に華琳は呆れたようだったが、微笑む様子は面白がっているようでもあった。 「なぜ、涼州を独立させるの?」 「涼州だけじゃないわ」 「え?」  華琳はさっと杯を振る。底にわずかに残っていた酒が床に落ちた。それらの雫を指で集め、魏の覇王は三つの小さな丸を作る。 「幽州、それに司隷にも国を建てるわ」  三つの丸の配置は上辺を広げた三角形を形作る。それは、幽州、涼州、そして、洛陽と長安を中心とした司隷の位置を象徴するものだ。 「……なぜ?」  呆気にとられていた雪蓮は、しばらくしてから、床のその図形と華琳の顔を見比べて訊ねた。 「巣と翼よ。羽ばたくための」 「そこまでする必要があるの?」 「ええ。一代で終わらないために」  意味を理解し、小さく首を振る雪蓮の問いに、華琳は雪蓮自身の言葉を使って答えてみせる。白面の女性は一つ肩をすくめ、豊かな胸が柔らかに揺れた。 「それにしても、なんで翠たちなわけ? 譜代の家臣のほうがいいんじゃないの?」  再度酒を注ぎあってから声の調子も軽く問いかけるのに、華琳はびっくりしたように目を丸くした。 「なにか誤解していないかしら? あなたのところと違って、うちにはそんなのいないわよ」 「あれ、そだっけ?」 「春蘭秋蘭は従姉妹で、あなた流に言うなら一門衆みたいなものだし、それを除いたら、最古参は一刀よ。……あれを拾ったのは黄巾の起きる少し前だしね」 「え、そうなの?」 「ええ」  驚いた顔で雪蓮は視線をぐるぐると動かす。一方で、華琳は何かを思い出すかのように静かに杯に口をつけていた。 「そうなんだ……。あんなにいっぱいいるのに」 「才のある人間を見いだすのが得意なのよ。正直、運もあるけれどね」 「……ちぇっ」  そうはっきり運と言われると、からかう隙もなくなる。もちろん、それだけの才能ある人物を登用できたのは華琳だからこそで、それを使いこなせたために、彼女が三国の覇者となったことはよくわかっている。この世界で、雪蓮ほど痛切にそのことを理解している者もいないだろう。  当然、それは当人も理解していることである。だが、その上で華琳は、運もあったと認めているのだ。小憎らしさに、拗ねたように舌を鳴らすのも無理からぬところであったろう。 「翠たちは直接の部下というわけではないけれど、間違いなく才はある。そして、手綱をとる術もわかっている。それだけのことよ」 「足元をすくわれないといいけどねー」 「そうなったら、そうなったで一つの結果よ」 「むー。からかい甲斐のない娘ねー」 「あなたを楽しませるために存在してるわけじゃありませんから」  軽快に二人は遣り取りする。そうしてから、彼女たちはくすくすと笑った。 「ああ、そうそう。話は変わるのだけれど」  発作のようなくすくす笑いが収まったところで、華琳はなんでもない調子で切り出した。 「一刀を独占しようなんて考えるのは、やめておきなさいよ」 「なによ、いきなり。私はそんなことしませんよーだ」  ぷうと頬を膨らませて、雪蓮は抗議する。彼女にとって一刀は愛しい男だが、それと同時に断金の絆で結ばれた冥琳や、血を分けた姉妹たちの愛する男でもあり、その娘たちの父親でもある。独占しようなどと思うはずがない。 「あなたは大丈夫だろうけどね。あなたの妹には一言言っておいたほうがいいかも。そんなことを、ふと思って」 「……もし、したら?」  不穏な空気をたたえて呟く華琳に、彼女は確認する。それに対する返答は、簡潔なものであった。 「殺すわ」  沈黙が落ちる。  そこに一片の殺気でもあったなら、雪蓮は華琳の悋気をかわいいと感じることで済ませられたかもしれない。だが、そこに感情はまるで含まれていなかった。  それは純粋な――既に下された――結論であり、なによりも、華琳自身からの忠告であった。  だから、あえて彼女は明るい声を喉から絞り出した。 「それにしてもいきなりよねぇ? 先に子供産まれて焦ってるの?」 「そんなんじゃないわよ、莫迦」  ぱたぱたと手を振って華琳は否定する。その様子に雪蓮は体の力を抜いた。自分でも、いつの間にそんなに体中の筋肉を緊張させていたのか、まるでわからない余計な力を。 「でも、どうなのかしらね」  首をひねる華琳。その丸まった髪が揺れる様子に、雪蓮もつられたように首を傾げた。 「なにが?」 「男の事を話すのに、個人的な感情は『そんなこと』扱いで、余計な事ばかり考えているような、そんな気もするのよね」 「……あなた、王だもの」 「そうね」  ため息のように言う彼女に、雪蓮は身を乗り出し、無理矢理のようにその杯に酒を注いでやるのだった。  3.遠景 「あたたかだな」  邸の二階から張り出すように作られた板張りの観覧所に座り、彼女は辺りを見回してそう言った。既に日は落ち、月の光と部屋の中から漏れる灯りで、それなりに周囲を見通す事が出来る。くくった髪を振り振り、翠は心地好さげに笑った。  木々に囲まれた邸は、風もなく、涼しさはあれど、寒いというのはなかった。冬というよりは、秋の初めのように思える。 「そうだね。過ごしやすい気候だ」  隣に座った男も、風呂上がりの火照った体に自分の手で風を送りつつ、同感だと示していた。 「詠たちは?」 「もう寝ちゃったよ。なにしろ、昼間中歩き回ってたからな」 「ああ、こんなあったかくて春みたいに草花が茂ってるのはおかしい、調べて回ろうって、張り切ってたもんな。結局わかったのかな?」  散策代わりに一刀も翠もそれに参加したが、四人の中で、この邸と庭園の気候の謎を本気で調べたがっているのは詠だけであった。他は、彼女につきあう気持ちと、綺麗な庭の風景を楽しんでいただけだろう。 「ああ、夕食の後で教えてくれたよ。この山は大きな視野で見ると、巨大な谷の中にあって、でも、それと気づかないように……」 「ああ、いい、いい。あたしにはわかんないよ」  空中に図形のようなものを描いて説明を始める一刀の肩を翠がぱんぱんと叩いて中断させる。いまの心地好さをわざわざ解き明かすのは、かえって余計な事のように思えたのだ。 「そう?」 「そうだよ」  だいたい、彼の言った夕食の後というのは、さっきまで彼も入っていた風呂のことだろう。彼女が一番に使わせてもらった後、彼と月、詠の三人が一緒に入ったのは――彼は気づかれていないと思っているのかもしれないが――彼女も知っている。その場で話されたことを、長々と説明されるというのもなんだか気に障るというものだ。そもそも、寝てしまったのも、昼間の疲れより、『長風呂』のせいではないのか。 「この時間でも洛陽が見えるんだな」  男は、そんな彼女の内心に気づいているのかいないのか、遙か遠くに点景として見えるそれを指さす。彼の指の先で、ぼんやりと洛陽の宮城が浮かび上がっていた。 「……まあ、夜でもどこかに灯りがついてるからな。壁も白くできるし」  普通の建築物は、綺麗な面を出すことや、壁を装飾する事にそれほどこだわらないが、都の内宮に建つ建物は、国の威信を示すものも多く、わずかな光でも目立つのだろう。そして、洛陽の都で使われる灯りは『わずか』なものではけしてない。 「ああして洛陽も見えるから、華琳のお祖父さんはここを気に入ってたのかもね」 「ずっと洛陽で暮らしてきたから?」 「ずっと洛陽で働いていたからかもしれない」  翠にはどちらともわからなかった。そもそも、宦官というものの生き方をどう捉えればいいのか彼女にはわからなかった。宮廷の奥深くにいるそれらのことを、真面目に考えたことなどなかったから。 「少し風が出てきたかな」  しばらくした頃、空を眺めて一刀が呟いた。膚に感じる空気も冷えてきたが、雲の行く様が随分と早い。 「中に入ろうか?」 「まだいいよ」  小さく首を振って、翠は一刀ににじりよる。触れそうなほど近く、けれど、触れてはいない距離。 「暖を取るなら、もっと近くに来なきゃ」  言いざま、彼は彼女の肩に手をかけて、ぐいとその体を引き寄せた。翠の半身が倒れて、彼の胸にもたれかかる。 「強引だなあ」 「そうかい?」  口を尖らせて言う翠と、全く悪びれない一刀。彼女はそんな彼の様子がおかしかったのか、小さく笑い声をたてた。  それから、彼女は申し訳なさそうに顔をうつむかせる。 「ごめんな」 「え?」 「大変だったのにさ、あたし、力になれなくて」  その言葉に、なにを言っているのか理解して、一刀は彼女を抱く手に優しく力を込めた。 「ああ……阿喜のことかい? なんとか無事に終わったからね」 「……うん」  翠は静かに頷く。あまり長々と話をして、彼に思い出させたいわけでもなかった。けれど、彼と娘たちのことを思っていることは伝えたかったのだ。 「これからはあんなことが起きないようにしなきゃね」 「うん」  こちらにはしっかりと頷く翠。二度と起こしてはならないというのは、彼女にもなんの異存もなかった。  二人は寄り添ったまま、しばらく黙っていた。どこからか、虫の音が聞こえてくる。 「あのさ」 「うん」 「雪蓮に教えてもらったりして、色々と見えてきたんだ。これから涼州をどうしていくかとか」  ゆっくりと、囁くように彼女はそんなことを告げる。一刀は力づけるように彼女の腕をなでた。 「そう。よかったね」 「うん。でも」  翠がわずかに声音を変える。 「北伐を通じて華琳があたしにさせたかったこととか、そういうのも……わかってきたんだ」 「ふむ」  男が感心したように漏らすのに、彼女はぱっと顔をあげた。慌てた様子で彼女は否定する。 「別に華琳を責めてるわけじゃないぞ!?」 「わかってるって」  なだめるように言うと、翠は自分の行動に照れたようにはにかんで、再び彼の胸に顔を埋め、ぽつぽつと話し出すのだった。  4.涼州 「元々さ、涼州はそんなに確固としたまとまりのある州じゃなかったんだよ。母様が涼州の連盟を代表して、みんなで一緒になって五胡を撃退していたけど、南側には月たちみたいな……盟に加わってない小領主たちがいたし、それこそ北側は五胡と取ったり取られたりだったしな。あたしたちだって、それほど遠くまで号令できたわけじゃない。州全体から見れば、ごくごく狭い地域の話だよ」 「まあ、そうかもな」  北伐を推進した一刀には、そのあたりが実感としてわかっていた。  地付きの領主達が魏の支配下にまとまっていないから北伐を決行したのではない。そもそもそれらの領主達が一つにまとまることを知らず、独立独歩の気風をずっと持ち続けていたからこそ、大きなまとまりを強引にでも作るために軍事侵攻という形で、北伐左軍は動いたのだ。 「でも、涼州は広い」 「広いというか、長いというか……」  人口密度という点で言えば中原には負けるものの、広さだけで見れば間違いなく涼州は大州である。ただし、中央が重視する耕作面積でいえば心許ないが、そこは生活形態の違いというものである。 「うん。華琳はその涼州全体を平定させた。一刀殿とあたしに。そのことの意味を、最近考えるようになった」  翠は自然と言葉が押し出されるような風情で話し続ける。彼は言葉の代わりに、彼女を抱く腕に込める力の具合で彼女の言葉に応え、余計な口を挟まなかった。 「みんなの力で北伐が成功したのはよくわかってる。恋や華雄はもちろん、麗羽たちだって力になってくれたからな。でも、たぶん政治的には脇に過ぎないと思うんだ。結局の所、あたしと蒲公英……馬家の他には涼州の有力な人間がいない。これが焦点なんだと、そう思うんだ」  涼州出身者ということであれば詠がいた。しかし、月がいまだ名を隠している以上、彼女は重要視されないだろう。世間的には翠とそれを助けた面々ということになるはずだ。 「華琳は馬家による一元的な支配体制を作るために、一連の北伐を行った、とあたしは思ってる。じゃあ、なんでそんなことをするかっていう疑問が出て来るよな。昔の涼州の連盟じゃだめだったのかなって」  その疑問に、彼女は自答する。 「だめなんだよな。華琳が望んでいるのは、涼州の長期的な安定で、それには誰かが強力な力で押さえてくれているほうが都合が良い。雑多な集まりの主導権争いで魏の西方が乱れるのは、華琳にとって迷惑なことなんだ」  一刀は感心していた。初期の北伐では、ただ涼州に戻れるからと戦に参加していたきらいのある翠が、それを作り出した大きな状況をきちんと読み切っていることに。 「だから、華琳は母様たちがつくっていたような連盟の再建じゃなくて、涼州の再征服をあたしにやらせた。あたしを頂点に、強力な国家としての形を作り出すために」  翠が言ったように、涼州は広い。そこに支配権を行き渡らせるのは大変だが、それをせねば大陸西方への道は閉ざされる。故に、魏は涼州を保たねばならない。その方策が、北伐であり、今後予定されている西涼の建国なのだ。 「さっきも言ったけど、あたしは華琳を責めてるんじゃないんだ。自分の国と周囲の安定を考えるのは王として正しいと思うし、あたしたちはそれに乗ったんだからな。はっきり言えば、利用したんだ、お互いに。華琳は魏がやるよりあたしという旗頭があったほうがやりやすいと思って、あたしたちは涼州へ戻るためにそれに乗じた。両方に利のあることだったんだ」  翠は、自分を説得するかのような口調でそう言う。本気でそう考えてはいるのだろうが、全てを割り切っているわけでもないのだろう。一刀はそう思う。 「だから、これまでしてきたことに後悔はない。涼州の民のためにも、あたしを信じてずっとついてきてくれた部下のためにも、やれることをやってきたつもりだよ。北伐はちょっと強引だなって思うところもあるけど、各地の領主の力を削いでおかないと、すぐ乱れちゃうだろうっていう理屈もわかるし……」  ともかく、と彼女は振り払うように首を振った。 「羌の連中とか、軍閥の連中は不満もあるだろうけど、あたしは涼州がまとまるのは悪いことじゃないと思ってる」  そうして彼女は強い口調でそう言い切った。  話を終えた翠は、うつむいたままであった。一刀はそんな彼女に優しく声をかける。 「じゃあ、なんでそんなに震えているの?」 「不安、なんだよ」  しばし躊躇い、しかし、翠はしっかりとそう告げる。すがりつくように彼の服に指をからめ、彼女は続ける。 「なんであたしなんだろうって。あたしなんかでいいんだろうかって」  その言葉は鋭く、そして、重い。  彼の腕に抱く細い体が背負うには、あまりに重い言葉であった。 「俺もさ」  一刀は彼女の肩に置いていた手を滑らせて、彼女の首筋に移す。栗色の髪に指を絡めて、彼は軽い口調で言った。 「この世界に来て、天の御遣いなんて言われて、なんで俺がそんなものに、って思ったよ」 「一刀殿……」 「きっとさ、俺じゃなくてもよかったんだ。他の誰かでも、出来なかったわけじゃないと思う」 「いや、それは……」  顔をあげ、愕然と彼を見つめる彼女の反駁を、片眼を瞑って封じ込め、一刀は強い口調で言う。 「でも、俺は天の御遣いの立場を受け入れたし、華琳やみんなのために、それをやるって自分で決めた。だから、俺だったんだ」  ごくり、と唾を飲む音。真剣に自分を見つめてくる翠を見つめ返しつつ、一刀は続ける。 「二つ目の、翠でいいのかっていうのは、翠だからこそ、だよ」 「だからこそ?」 「華琳には、弱点があるんだ。華琳は大陸の覇王で、三国を代表する王だ。彼女はいま生きている民のことも、この大陸のことも、そして、未来のことも考えられるけど、たとえば、涼州の利益だけを代表することは出来ない。しちゃいけないし、許されない」  だけど、と彼は言った。 「翠にはそれが出来る。涼州をなにより愛し、涼州の民の益を求めることが出来る。そういう人が代表として涼州にあることはとても意味があることだ。だから、翠なんだ」  翠は名を呼ばれる度、びくりと小さく震え、そして、ゆっくりと繰り返した。 「あたしが……決めて、あたしだからこそ……か」 「翠だからこそ、いまの形なんだ。他の誰かでも出来たかもしれないけれど、その時は、いまとは別の形だったろう。華琳もそうしたと思う。でも、これから作られる西涼は、翠だからこそ生まれるもので、翠にしか任せられないものだ」  抱きしめる力を強めて、一刀は言い切る。 「なにより、俺は翠を信じている。華琳もきっとそうだ。あいつは、人を見る目がある。出来ない人間に、任せることはしないよ」  その言葉に、ふっと彼女は微笑んだ。 「華琳のこと、信じてるんだな」 「そうだね」  彼の言葉に溢れる信頼に、彼女は嫉妬を抱くことすら出来なかった。それは、そういうものとして受け止めるしかないほど、力強かった。 「あたしのことも、信じてくれてる?」 「うん。信じてる」 「そっか」  なによりも、そう言ってくれる男の言葉に、体の芯まで貫かれていたから。 「あー、明日の朝一には帰るのかー」 「なんだよ、戻りたくないのか?」  解いた髪を男の胸の上に広げながら、翠は彼の顔を覗き込む。彼女を喜ばせ、彼自身も夢中になったせいか額に汗をうかべていた一刀はその様子ににっこりと微笑む。 「あと一泊ぐらいはしてもいいかな、って」 「そんなに気に入ったのか?」  たしかに過ごしやすい邸ではあるが、食事の面倒さや諸々を考えれば洛陽にいるほうが便利なのは間違いない。今日、風呂を沸かすのだって、皆で水を汲むのが大変だったことだし。  だが、一刀の返答は、翠の疑問を超越していた。 「誰にも遠慮せずに、翠をかわいがれるだろう?」  手がおとがいにあたり、くいと持ち上げられる。唇を求められるときの仕草に、彼女は赤面しながら、彼の肩口を叩いた。 「い、いつもだって遠慮なんかしていないくせに!」 「えー、結構これでも気を遣ってるんだぜ? 色々と」 「なんだよ、色々って」  手を離した彼の胸にもたれなおして、翠は訊ねる。お互いの汗にまみれた火照った膚が心地好く、そして、なにより安心した。二人ともに何一つ身につけず、ただ、お互いの存在を感じていることが、嬉しかった。 「あ、あたしに、なにかしたいことでもあるのか?」  答えない一刀に、翠は焦れたように質問をぶつける。一刀の視線が自分の体の上を動いていくのを、彼女はたしかに感じ、そして、それが体の中心に燻る何かを刺激するのも、また感じた。 「まあ……あるな」 「……なに?」 「内緒」  不安げに訊ねる彼女に、一刀ははぐらかす。ぷう、と翠の頬が膨らんだ。 「……ぶー」  からからと笑う一刀に、しばらく不機嫌そうにいた翠であったが、ふと真面目な顔になり、彼の手を握る。指を絡め合ってから、彼女は決心したように言った。 「でも、その……もし、一刀殿が本気でしたいなら、その……あたしは、いいよ?」 「え?」 「したいこと……して」  その言葉の力はどれほどのものか。  彼女は自分の太腿の下で、急に熱く、硬くなりつつあるものを感じて、びっくりしてしまう。 「そっか、ありがとう。でも、それはまた今度」  言いながら、彼の手で、彼女は抱きしめられ、少し位置をずらされる。自由になった男のものが跳ね上がるのを彼女は感じ、そして、顔どころか、体中を赤くした。 「まずは翠をこのまま味わいたい」  優しい口づけ。  それは、すぐに、はげしくお互いを求め合う動きに移行する。  そうして夜は更けていく。  翌日、一刀は寝不足のために黄龍からずり落ちかけて、詠に思い切り叱られるのだが、それは全くの余談である。  5.過去  その日、蜀の大使執務室に飛び込んできたのは、怒れる猫耳軍師であった。 「ちょっと、紫苑!」 「どうかなさいまして?」  入るなり叫びをあげる桂花に、紫苑は驚いた風もなく、優雅に首を傾ける。桂花はそんな彼女に、びしっと指をつきつける。 「あいつをなんとかしなさいよ!」 「……あいつ?」  よくわからないという顔をする紫苑に、何ごとか言いかけ、しかし、実際に見せるほうが早いと判断したか、ついてこいと身振りをして駆け出す桂花。  紫苑は彼女に導かれるままに廊下を進み、とある扉の前に至った。  そこでは、一人の少女が扉にもたれかかるようにして大鼾を立てているのだった。 「鈴々ちゃん?」  赤毛の少女は口をぽっかりあけて、すっかり眠り込んでいる。その尻の下には彼女の得物である丈八蛇矛が敷かれていた。 「こいつがいるせいで、ここの書庫に入れないのよ!」  怒り心頭という様子で金切り声をあげる桂花に、紫苑は疑問を持った。 「起こせばよろしいんじゃありません?」 「嫌よ。寝ぼけて打ち殺されたらたまったものじゃないもの。あんたやりなさいよ」 「まさか、そんな……」  軽い笑いをたてる紫苑に、桂花はじろりと下から睨みつける。 「無いって言い切れる?」 「それは……まあ……」  丈八蛇矛を握りながら眠る鈴々の姿に、言葉を濁し、ごまかすように鈴々の体を揺り動かす紫苑であった。 「ふにゃ?」  そんなかわいらしい声をあげて目を醒ました鈴々が紫苑に促されて扉の前を退いたところで、桂花はどすどすと足音も荒く書庫内へと入っていく。  ずらりと並んだ棚の向こうにその背中が消えていくのを眺めた後で、紫苑は目をこすっている鈴々に訊ねた。 「書庫の前でなにをしていたの? 鈴々ちゃん」 「お姉ちゃんがお勉強をしてるから、鈴々、ここで変な奴が近づかないようにしていたのだ!」 「あら、桃香様が中に?」 「うん。そうなのだ」  鈴々の言葉に中を見回してみたものの、数え切れないほどの書棚が並び、視界が限られているため、主の姿を見つけることは出来ない。  ここは数多くある洛陽の書庫の一つでしかないが、なにしろ長く続く帝国の、そして、学問好きの華琳が治める国の都である。蓄えられている蔵書は膨大であり、それを収める棚の数も凄まじい。  覗いただけで人の姿など見つかるわけもなかった。 「どのあたりにいるかはわかるかしら?」 「ううん」 「では、探してみましょうか」  鈴々を連れて、紫苑は書庫の中を進む。  人の気配を頼りに探してみれば、一つの棚の前に、うずたかく本を積み上げてうんうん言っている女性の姿を見つけた。  床に直に座り込んで本をいくつも開いているその姿は――少々行儀が悪かったが――彼女たちの主、桃香に他ならない。 「わあ、すごい本の量なのだ」 「あらあら。なにをお探しでしたの、桃香様」  棚から引き出され広げられた本の様子に声をあげる二人に、桃香はようやく顔をあげる。 「あれー、二人ともどうしたの?」  きょとん、と不思議そうに見上げてくる顔に、紫苑は柔らかく微笑みかけるのだった。 「それで、いったいなにを?」  ここに来た経緯を話して桃香に謝られた後で、紫苑は彼女に訊ねかける。桃香は照れたようにえへへと笑った。 「ちょっとね、歴史を勉強しようと思って」 「歴史、ですか?」 「うん。この国の……というか、漢の歴史かな。でも、まとまったものってないんだよね。史記や漢書はあるけど、途中までだし」  『史記』は伝説の時代から作者の司馬遷が生きた武帝の時代まで、『漢書』は漢の成立から、王莽の新に禅譲するまでの時代を記した歴史書である。桃香たちの時代までを学ぼうとするならば、どちらも中途半端だ。また、全てが記されているわけでもない。  詳しく出来事を追うならば、それぞれの帝の時代を記す書物を片っ端から読んでいくしかないのだ。  その結果が、この有様なのだろうと紫苑はあたりをつける。 「でも、なぜ、突然そんなことを?」  紫苑の問いに、桃香は頭をかく。 「突然、ってわけでもないんだけどね。洛陽はいろんな書物があって、いろんな事を知っている人がいるでしょ? せっかく都にいるんだもん。そういうものも吸収しておかなくちゃ」 「その姿勢はとてもすばらしいものだと思いますけれど……」  それならばもっと効率の良い方法があるだろう、と彼女は思う。それこそ、歴史を学びたいなら、朱里が洛陽に来た時にでも、しっかり講義をしてもらえばいい。  だが、きっと、桃香は自分でそれをやり遂げたかったのだろう。  わー、お姉ちゃんすごいのだー。勉強家なのだー、と彼女を褒める鈴々と、それを受けて照れている桃香の二人の姿を見つめて、紫苑はしばし考えた。 「でも、桃香様。この書庫にある書物の数々は漢の財産であり、魏の財産ですわ。このように乱雑に広げるのは……少々」 「あっ、そっ、そうだね! どうしよう……」  指摘され、慌てたように桃香は立ち上がる。その拍子に広がった竹簡を、彼女は慌てて拾い上げた。 「桃香様? この書庫の書を持ち出す許可はありますの?」 「ううん。華琳さんには、ここで読むようにって言われたよ。東棟の書庫は持ち出してもいいらしいけど」 「そうですの……」  桃香が持つ竹簡を受け取り、くるくるとまとめなおしてから、紫苑は考え考え言う。 「では桃香様。こちらの書庫に机と椅子を持ち込む許可をもらいましょう。そうしてそこでしっかり読むようにするほうがよいと考えますわ。どうでしょう?」 「あ、いい考えだね! 足も痺れなくて済むし」 「では、桃香様と鈴々ちゃんは、許可と実際の持ち込みをお願いします。その間に、わたくしがここを片付けて、机が来たら、すぐに読めるよう準備しておきましょう」 「え? 私はいいけど、紫苑さん面倒じゃない?」  紫苑の提案に、桃香は申し訳なさそうに言う。だが、それに対して紫苑は小さく笑った。 「いえ、この程度は……。それより、せっかくの機会ですから、さ、お早く」 「うん。ありがとう、紫苑さん」  嬉しそうに小走りに駆けていく桃香と、それについて行く鈴々を見送って、紫苑は周囲を見回す。ぱんぱんと手をはたき、彼女は自分に気合いを入れるように、己の頬を張った。 「さて、と」  紫苑は聞きようによっては不敵と思えるほどの調子でそう言った。  彼女は、主たちが戻ってくるまでに、各書物の順番と関連性をより理解しやすいように並べ、知識の吸収の効率を上げるための下準備をしておかねばならないのだ。  臣下として、そして、年若い主の成長を見守る立場として、実にやり甲斐のある支度であった。      (玄朝秘史 第三部第五十二回 終/第五十三回に続く)