玄朝秘史  第三部 第五十一回 前編  1.変化 「んー」  腕を大きく伸ばし、廊下にかかった屋根の間から見える青空に向かって大きく伸びをする。腕と首を回すと、こきこきと音が鳴った。 「お疲れのようだな」  声の方に向いてみれば、赤と青、対照的な衣装の双子の姉妹がいた。廊下を歩いてくる彼女たちに向かって、一刀はたたっと駆け寄った。 「疲れてるってほどじゃないよ、春蘭、秋蘭。ちょっと打ち合わせがのびただけで」 「ふん、当たり前だ。そんなことで音を上げるような軟弱者が華琳様のお側にいる資格はないからなっ!」  鼻息も荒く言い放ち、ぐっと拳を握りしめる姉に、秋蘭は意地悪な笑みを浮かべる。 「おやおや、つい先程まで書類仕事にひいひい言っていた姉者の言とは思えんな」 「ぐっ。あ、あれは、その、私のやるべき仕事ではないからだ! こやつはそういうのが得意ではないか!」 「それは、まあ、そうかな」  魏を代表する将軍が書類仕事をやるべき仕事ではないと言うのはどうかと思うが、その手の仕事の向き不向きで言えば、一刀のほうがよほど向いているのは間違いない。  彼が肯定すると、春蘭はどうだとばかりに胸を張る。一刀と春蘭はほほえましくそんな様子を見守るのだった。 「とはいえ、大変だろう。海千山千の官僚相手は」  三人で昼食にでもと、揃って歩き出したところで、秋蘭が同情するように話を戻した。 「いや、どうだろうな。彼らあってこそ、細かい部分まで目が届くわけだからな。とっつきにくい面はあるけれどね」 「文官連中はどうも好かん。軍人はもっとはっきりしているものだ」  そんな春蘭の分類はいくらなんでも無理矢理だろうと思いつつ、一刀は触れない。 「なんにせよ、人間関係を調整するのは嫌いじゃないし、そこまできつくもないよ。打ち合わせなんて、実際の進捗状況よりも、誰をどう動かして、誰に手助けさせるか、そんなチームワーク……じゃなかった、ええと、人々の連携と仲間意識をどう作っていくかっていう場だと考えているし」 「ふむ」  男の言葉に、秋蘭は頼もしげに微笑み、ふと考え込んだ。 「人間関係といえば、な」 「ん?」  真剣な顔で切り出され、一刀は横を歩く秋蘭に注意を向ける。 「最近、華琳様があの袁紹とよく共に過ごしておられるようなのだ。あの袁本初とだぞ?」 「うむ。私も、つい昨日のことだが……華琳様にお茶に呼ばれて行ってみたら、あの金髪くるくる女がいたのだ!」  いや、金髪でくるくるなのは、華琳も同じだろう、などと軽々しく答えられない勢いと深刻さであった。難しい顔をしている春蘭を見、恐怖を感じているかのような秋蘭を見て、一刀は内心身震いする。 「あー、まあ、長いつきあいなんだろ、あの二人」 「それはそうだ。だが、これまでは……」 「うむ。たしかに長いつきあいかもしれんが、華琳様はあれを相手にしていなかったではないか」  あまり刺激しないよう、なんでも無いような口ぶりで言ってみたのだが、二人ともとても納得できない様子であった。 「仲直りしたんじゃない? いまさら麗羽になにが出来るわけでもないし……」 「しかし、あの袁家だぞ。あの袁本初だぞ」 「いや、でもね……」  秋蘭の苦り切った様子に、一刀は笑いそうになる。たしかに、過去を考えれば、秋蘭あたりは麗羽の嫌味や嫌がらせの害を一番受けていそうだ。実害がある程度ではないだろうが――華琳が本気になってやり返さない一線を麗羽は読んでいたはずだ――だからこそいらつくことというのはあるものだ。 「しかも、だ」  宥めようとする彼の言葉を遮って、春蘭はずいと一刀に迫ってくる。 「華琳様とあやつの距離の取り方がどうにも怪しい。あれは……もしや……」 「この間など、二人でくすくす笑い合いながら何ごとか計画を練っているかのような様子だったしな。昔なじみというだけではあの華琳様の態度が理解できんのだ」  姉妹共に何かを予想して、しかし、それを認められないでいるかのような様子であった。一刀としてみても、理解出来なくもない。なにしろ、二人は最も古くからの華琳の愛人なのだ。  観念した一刀は、周囲を見回してから声をひそめた。 「いや、まあ、なんだ。仲良くなったんだよ。二人は」  秋蘭のほうはそれだけで全て理解したようだった。諦めたように首を振った。しかし、姉の方は違った。手を伸ばし、一刀の襟首をひっつかんで彼の体を引き寄せる。 「きさまあっ! なにを知っている。はっきり言え!」 「いや、ちょっと、首、首しまるっ」  ぎりぎりと襟を絞るような力の入りように、彼は苦鳴を漏らす。ますます締めあげられて一刀の息が止まる前に、彼女の腕に妹の手が乗った。 「やめろ、姉者」 「しかしだな、秋蘭」  もう一度秋蘭が手に力を込めると、春蘭の手が離れ、どさりと一刀が尻餅をついた。げほげほとむせる彼に、秋蘭が確認の声をかける。 「あれもまた華琳様の愛人になったと、そういう認識でいいのか?」 「そ、そうなるね」  意識を確かにしようとするように、首を振り振り一刀は立ち上がる。秋蘭は改めて大きなため息を吐き、春蘭は二人のやりとりに目を白黒させていた。 「あ、愛人? 袁紹が? あの袁紹が?」 「仕方あるまい。……これも華琳様の望まれたことだろう」 「いや、それは、華琳様ならば、だが、しかし……」  春蘭はどうにも承知出来ない様子で身もだえしていたが、ふと真面目な顔で一刀の方を見た。 「ちょっと待てよ? 何で一刀がそれを知っている? いや、いつ知った? お前まさか……」 「さて、食べに行こうか」  男は姉妹の間をすり抜けて城下へ続く門へと進む。背後で刀を抜く音が聞こえた途端、彼は走り出していた。 「待て、北郷ぉーっ!」  片方だけの瞳に憤怒の炎を浮かべて、春蘭は七星餓狼を振り上げる。ぶんぶん振り回されるその大刀に捕まえられないように、一刀はその足に力を込めた。 「二人の意思だよ! 結局は、華琳のほうも求めたことだって! 俺はちょっと手助けしただけで!」 「問答無用!」  必死で逃げていく男とそれを追う姉の姿を見つつ、秋蘭はふっと小さく笑う。 「やれやれ」  呆れたような台詞は実に温かなものであった。  なお、余談ではあるが、この事実を知った時、桂花はその場で頽れるように倒れ込み、稟は盛大に鼻血を吹き出した。  魏国は今日も平和であった。  2.技競べ  そんな日常を謳歌する魏の面々の一方で、同じ洛陽にいてもあまり楽しげでもない一団があった。  だが、そんな中でも上機嫌な女性が一人。 「ふふっ。今日は十も数えられたぞ。大進歩だな」 「十数えるって?」 「セキトに触れて数えるに決まっているじゃないか……って、ひゃあっ!」  奇妙な格好をして跳ね上がるのは、黒髪の一部に白い部分の目立つ焔耶。彼女の視線の先で、低木の葉の間から顔を出している男がいた。 「な、なんでお前がそこにいる!」 「なんでって焔耶が呼んだんじゃないか」  がさごそと葉っぱを鳴らしながら体を茂みから引きずり出し、一刀は不満げに口を尖らせる。緑濃い恋の邸に彼、いや、彼らを呼び出したのは他ならぬ目の前の女性であった。 「あ? ああ、この邸にいるのはわかっている。だが、なんでそんな所から顔を出したのかという……」  未だ動揺を見せつつ、それをごまかすように彼女はきつい口調で問い詰める。しかし、男の方は軽く肩をすくめただけで平静に答えた。その動きで、ついていた葉っぱがいくつか落ちていったが。 「そりゃ、焔耶を探しに来たから」  焔耶はちらと空を見上げ、太陽の位置を確認する。まだ中天に差し掛かるには時間がかかりそうだ。 「時間はまだ先だぞ。勝負は昼食の後。腹が減っていたら力が入らないと相手が言うのだからな」 「うん。それは知ってるよ。だから、その前に、焔耶を応援しに来た」 「はあ?」  驚く彼女をよそに、一刀は歩みを進めて彼女の横に立つ。 「表向きはどちらに肩入れするわけにもいかないし、実際、両方応援しているんだけど、でも、なんていうか……一言言っておきたくて」  真っ直ぐに見つめられ、優しい声でそんなことを言われて、焔耶は言葉に詰まる。目の前の男が本当に自分のことを気遣って応援してくれている、その温かな感情がよく伝わってくるだけに、彼女はつい憎まれ口を叩いた。 「ワタシがあやつより弱いと思って、それで頑張れと言いに来たわけか」  その言葉に、男の表情はますます柔らかなものになる。 「焔耶。俺も武術をかじっているとはいえ、焔耶たちに比べれば、遥かに弱い。雲の上の人たちの中で誰が強いとかは俺にはよくわからないよ。みんなとんでもなく強いと感じるだけで」  ただ、と彼は続ける。 「俺が知っているのは、どんな強い人間でも、油断をすれば足元をすくわれるってことさ。焔耶自身がとても強いって事も、よく知ってる。だから、とにかく、全力を出し切って欲しいと思って、ここに来た。あとは……怪我もしてほしくない」  最後にぼそりと付け加えた台詞に焔耶の眼が細くなり、一瞬怒ったような顔つきになった後で、結局は破顔した。 「ははっ! 情けない顔をするな。たかが仕合ではないか。殺し合いではないのだ。そうそう、大怪我などしない。それこそ我らはお前などよりずっと深く武に親しんでいるのだからな」  そう笑い飛ばした後で、彼女は獰猛な表情を浮かべる。 「だが、勝つためなら骨の一本や二本覚悟はしているぞ。なにしろ相手はあの燕人張飛なのだからな」  それから彼女は男の事を改めて見つめて、わずかに頬を染めた。 「ま、まあ、そういう意味ではお前の応援とやらも力になるかもしれんな。少しでも力が欲しい時だ」 「ああ、ぜひ。……しっかりと戦ってくれ」  さすがに骨を犠牲にしてまでというのはどうかと思いつつ、彼は感情を押し隠し、彼女の腕を取った。指を滑らせ、掌に落とし込む。彼は指を絡め、ぎゅっと力を込めた。 「武運を」 「ああ」  焔耶もまた応じて、彼の手を温かに握り返した。  刻限近くにその場に向かうと、桃色の髪の女性にまず頭を下げられた。 「すいません、わざわざ華雄さんと恋ちゃん、一刀さんまで……」 「いやいや。見届け人というなら華雄と恋が最適だろうしね」  言いながら、彼は仕合を行う場所をぶらぶらと歩いている二人をちらと見る。片方は赤髪の女性、片方は銀髪の女。二人はなにをするでもなく歩いているように見えるが、実際には仕合の場所を確認しているのだ。時折、地面に埋もれた小石を掘り出したり、踏み固めたりしているので、それがわかる。  彼は二人の様子から目を離し、桃香に顔を戻した。彼女とその軍師、朱里は揃って観覧用に敷かれた布の上に座っていた。一刀も沓を脱いで布に上がるが、しかし、朱里の向こうにいる姿を見て、小首を傾げた。彼の世界では伝統的な『めいど』服に身を包む、純白の仮面をつけた女性だ。 「それはいいんだけど、なんで雪蓮までいるの?」  いるだけならまだしも、酒瓶を横に置き、酒杯を傾けているとなれば、不思議に思う以外ないだろう。 「んー? 見学?」  こてんと首を傾け、かわいらしい声で言うのに、一刀は小さく息を吐く。 「どこで聞きつけたのやら。仕事を放り出していると、冥琳に怒られるぞ」 「大丈夫、大丈夫。最低限は終わらせてきたから」  ひらひらと手を振って、雪蓮は一刀のお小言を交わす。 「それに見逃せないでしょう。こんな面白そうなこと」 「お、面白がられても困るのですけど……」  朱里が小さく呟くが、雪蓮はかえって楽しげに笑う。 「あんまり真剣に捉える方がまずいんじゃない? 桃香の護衛のために本気で仕合をするなんてこと」 「あ、あはは……」  下からねめつけるようにされて、桃香はそんな風に笑う。朱里も愛想笑いを顔に張り付けていた。一刀はそんな様子に助け船を出すことにする。 「桃香が年末まで洛陽に滞在するから、その間の護衛を決めるための仕合なんだよね、今日は」 「うん。翠ちゃんが西涼をつくるでしょ? その間私たちがお手伝いできたらって思って。ただ、紫苑さんもいるし、洛陽だし、護衛って必要なのかどうかよくわからないんだけど……」  当人が言うとおり、桃香はこのまま年明けまで洛陽に居座ることになっていた。名目は西涼建国を援助するため。  桃香は当初言っていた通り、大使としての着任を望んでいたようだが、朱里たちの説得で年末までの限定的な滞在となったわけだ。一刀たちはそれ以上の事情を知らされていない。そもそも桃香がなぜ洛陽にいたがるのか、その動機は謎のままだ。  ただし、西涼の建国に力を貸すことは、蜀にとっても重要な事であり、女王が出張るだけの価値はある。そう判断したからこそ、朱里たちも妥協したのだろう。  その裏にあるものを探るべきなのかどうか、彼にはよくわからなかった。目の前で難しい顔をしている――それでもどこか柔らかな印象の――桃香を見つめて、一刀は結局そこに踏み込むことを避けた。 「まあ、護衛の件は立場ってのもあるだろうからなあ……」  紫苑が大使としているとはいえ、桃香にずっとついていられるわけもない。身を守るために常に動ける人間を配するのも必要なことであろう。  ただ、その人選で少々問題が生じた。  鈴々を桃香の護衛として洛陽に置き、朱里と焔耶は本国との調整もあって、急ぎ帰国するという朱里の提案が、焔耶に反対されたのだ。荊州から護衛としてついてきた自分がそのままその任を続ければいいというのが焔耶の主張であった。  荊州から継続しているからこそ一度焔耶を成都に戻すべきと考えた朱里と、これまでそれでうまくいっているのだから、変える必要はないという焔耶がぶつかったわけだ。  そして――このあたり、部外者にはうかがい知れないが――その中で武人同士の意地の張り合いも生じたのだろう。結局、どちらが護衛としてふさわしいか仕合をして決めることとなり、その立ち会いとして一刀たちが呼ばれたわけだ。 「出来れば、我が国の内で済ませておきたかったのですが、いざという時、あの二人を抑えるのには、紫苑さんだけでは……」  朱里が申し訳なさそうに言うが、そこは仕方のないところだろう。焔耶や鈴々が暴走してしまった時、紫苑一人に止めろというのは無理がある。なにしろ、これは護衛任務のための人員を選ぶ仕合なのだ。どちらも怪我をして護衛には支障が出てしまったでは意味がない。 「華雄と恋なら大丈夫さ」  気配でも察したか、あるいは、離れていても名を呼ばれたのが聞こえたのか、彼女たちは揃って一刀の方を見た。彼が手を振って合図すると、二人が頷く。 「じゃあ、そろそろはじめようか?」 「ええ、そうしましょう」  桃香の同意を得て、再度一刀は合図する。恋たちの姿が一度茂みに消え、そして、二人の武人を連れて現れた。  一人は巨大な金棒を軽々と担ぐ黒衣の女性――魏文長。  一人は背より遥かに長い矛を揺らす赤髪の少女――張翼徳。  二人は既に色濃い武の気配をまとっていた。  3.仕合 「焔耶は知ってるんだけど、鈴々の戦いを間近で見るのは初めてなんだよね」 「ああ……一刀はそうかもね」  対峙する二人の間に気迫が膨れあがっている間に、一刀は雪蓮に囁く。酒杯を傾けていた彼女は彼にも杯を勧めてきたが、丁重に断った。 「強いとは聞いているんだけど」  固唾を呑んで見守っている朱里と桃香を横目に見つつ、彼はさらに声を低くする。 「強いわね。いまの蜀で鈴々より確実に強いのは愛紗くらいよ」 「……じゃあ、焔耶に勝ち目はないって思ってるの?」 「さあ、それはどうかしら。鈴々は見ての通り子供っぽくてむらがあるからね。だからこそ、私も興味深いの」 「ふむ……」  殺し合いではなく、ただの仕合だからこそ、ひっくり返る余地がある、と雪蓮は続けた。お互いの気合いの入りようも異なるだろうし、こういう試しではいかに本気とはいえ手加減が入る。そのあたりの複雑な心理と体術がどう作用するか、そこが見所だと彼女は言った。 「あの二人に雪蓮が乱入したら、誰が勝つ?」  ふと悪戯心を起こした一刀はそんなことを訊ねてみる。白面の女性はにぃと口角をつり上げた。 「私、手加減ってできないから」 「そう言うと思ったよ」  一刀も笑ってそう返した時、華雄の手がすっとあがった。 「はじめっ」  二人の殺気がぶつかりあい、固体化したかのようになっていた空気が、その瞬間破れた。  鈴々の喉から、裂帛の気合いが放たれる。焔耶の口から、挑戦の咆哮が飛び出す。彼女たちは叫びと共に踏み込み、間合いに入った途端に、それぞれの得物を振り下ろした。  鈴々は体が小さく、丈八蛇矛の間合いは実に長い。一方で、彼女よりは背が高く手足も長い焔耶の鈍砕骨は蛇矛に比べれば短い。  それが両者のちょうど真ん中で打ち合ったのは、振り下ろしの速度故か、あるいはどちらかがそう誘ったからか。  いずれにせよ、巨大な金棒と恐ろしいほどに長い矛の柄は音をたてて打ち合わされた。なによりも硬い鈍砕骨がその重さで衝撃を吸収し、矛は撓ることでその力を受け流す。  そして、一度打ち合った途端、二人は地を蹴って後方に逃れた。距離をとって、再び二人は向き合う。  またも痛いほどに空気が張り詰めた。 「ふうん」  酒を舐めるように飲んでいた雪蓮は面白そうに鼻を鳴らす。 「ねえ、桃香。あの娘たちって、蜀の中でもあんまり打ち合ったことないんじゃない?」 「え? どうだろう?」  必死の面持ちで二人を見守っていた桃香は、急に声をかけられて頭が回らないのか、助けを求めるように隣の朱里を見た。朱里は見た目だけは静かな様子の鈴々と焔耶をじっと見つめたまま考え、言った。 「鈴々ちゃんはあの性格ですから、望む相手なら満遍なく鍛錬の相手をしていますが、焔耶さんは、からかわれるとむきになる性格で、蒲公英ちゃんがよく彼女をからかっていたので……」 「あんまり回数は多くない、と。それでわかったわ。なんだか戸惑っているのが」 「戸惑っているって?」  一刀が問いかけると、雪蓮は小さく肩をすくめる。 「あの娘たちは直情型でしょ。策を弄する前に手数で押そうとするのが普通。ましてお互いに力押しが得意ってわかっているんだから。それなのに一撃で引いた。お互いの打ち込みの威力が、予想外だったのよ」 「予想外? 強すぎるってこと?」 「いえ? それはわからないわ。予想よりたいしたことがなかったのかもしれないし、強すぎたのかもしれない。ただ、違った。だから、いま、彼女たちはそれをなじませようとしているってわけ」  そうして、彼女は酒杯を掲げた。鈴々と焔耶が睨み合うその場に向けて。 「感覚が一致したら……ほら」  雪蓮が言った途端、猛然と焔耶が踏み込み、それを予期していたように鈴々も地面に頭をこすりつけるようにして体を傾けて走った。  鈍砕骨が横殴りに襲い、丈八蛇矛がそれを受け止めた。うねるような刃が焔耶の肩をえぐろうとするのを、鉄塊が弾いた。  二人は打ち合う。  五合、十合、十五合までは一刀にも数えることが出来た。しかし、そこから先は、もはや彼の目にも追えない。  暴風のようなやりとりの合間に金属同士がぶつかり合う音と、地面を蹴る音と、わずかながら肉を打つ音が聞こえた。 「いま……どっちが打った?」  得物同士の衝突ではない。人体を打つ音を聞きつけて、一刀が訊ねる。彼の目には、二人の得物はお互いに絡まり合い、相手の肉体に届いているようには見えなかったのだ。 「武器じゃないわ。焔耶が踏み込みと見せかけて、鈴々の腿を蹴った」 「蹴りか……」  巧い手だ、と一刀は思う。武器に意識が集中しているときには特に有効だろう。彼のように武器同士の動きだけ追っている人間には見えるわけもない。  だが、雪蓮は二人の動きを指さして首を振った。 「でも、鈴々の動きは揺らいでない。ここまで聞こえるくらいの音なのにね」 「……有効打じゃないと?」 「足が潰せるなら、決め手になるわ。でも、得物へかける力も抜けないから、一発は効果が少ない。踏み込みも浅くなる」 「だが、重なったらわからないぞ?」  一刀がぎゅっと汗まみれの掌を握りながら言った言葉に、雪蓮はなにも言わなかった。ただ、一つ肩をすくめただけだった。  鈴々の動きも、焔耶の動きも衰えを見せなかった。どれだけの運動量であろうか。とてつもない早さで二人は打ち合う。まるで嵐のように。  その中で、小さな体が動く範囲が狭まったように、見ている者たちは感じた。それは、両腿に加えられた打撃の積み重ねだと思った者もいた。  そう、彼女と対峙する、焔耶その人も。 「獲ったぁ!」  強力な蹴撃が放たれ、丈八蛇矛ががらんごろんと地に落ちた。 「それはこっちの台詞なのだぁっ!」  その蹴りは一歩踏み込みが深すぎ、わずかに振りが大きすぎ、威力が強いために戻りがほんの少しだけ遅かった。  最後になると思い込んだがために。  鈴々の足を襲った蹴りは、その両手で受け止められていた。矛を放棄したその腕で。 「うりゃあっ」  かわいらしくも激しい声と共に、鈴々がのけぞる。足を取られたままの焔耶の体が地を離れる。彼女は驚愕と共に宙にいた。  焔耶が落下の衝撃をいなすことが出来たのは、偶然というよりは、彼女の執念のたまものであったろう。あくまでも鈍砕骨を手放さず、鈴々に持ち上げられながらも彼女に打ち掛かろうとしたその武器が、結局は鈴々の体には触れず、地を打った。その反動が、彼女が大地に転がる力を相殺してくれた。  だが、それでも、もう一度それを振り上げることは出来なかった。投げた後の足首が極められ、その苦痛が彼女を大地に縫い止めていた。  もし、それを無視して再度の襲撃を強行すれば、足を折られることは確実であった。 「勝負……あった」  恋の呟きが、冷然たる結果を示していた。  翌日、朱里と焔耶は帰国の途に就いた。焔耶は終始不機嫌な様子であったが、桃香に慰められると渋々ながら本国でその力をふるうことに同意していた。  そして、朱里は紫苑と細々と打ち合わせをして、去っていくのだった。 「大丈夫、私に任せておいてよ!」  そんな風に、満面の笑顔で胸を張る主君に不安を感じながら。  4.家族 「朱里はすぐに戻って来るって?」  洛陽の市中を歩きながら、一刀は横を行く紫苑の言葉を繰り返す。彼女と彼の間には璃々が居て、二人と手を繋いでいる。 「ええ。朱里ちゃんは、年内に何度も本国……漢中と洛陽を往復するつもりのようですわ。桃香様の意思を本国に伝え、本国の問題を桃香様に決裁いただいて、出来る限り業務が滞らないようにすると」  幸い、長安と洛陽の間の街道は整備が進んでいて行き来は楽だし、長安から漢中もそう遠いわけではない。それなりの頻度で往来できるはずであった。頂点に立つ王が洛陽にいる以上、そうする他無いのだろう。  西涼建国に対する合力に、朱里自身が関わることも考えているのかもしれない。  一刀はしばし考え、にこにこ笑いながら彼と引っ張りあいっこをしている璃々のことを強く引き寄せてから紫苑の耳元に口を寄せた。 「……これを訊いていいのかわからないけれど、桃香はなんだって洛陽にいたいんだ?」 「それは……わたくしが話せることではありませんわ。まして桃香様がこの地にいらっしゃるのですから、一刀さん、あるいは、華琳さんが訊くべきことと考えます」 「そうか。そうだよね、ごめん」  途中から声が固く、政治向きのものに変わったことに一刀は早々と謝罪する。今日は天宝舎を守ってくれた礼を、紫苑と璃々にするために遊びに出たのだ。あまり政治的に利用すべきではないだろう。 「ただし」 「紫苑?」  一転、笑いを含んだ調子で言う彼女に、一刀は不思議そうな顔をする。その様子に、璃々が二人を見上げ、くすくすと笑った。 「わたくしが思うところを話すことは出来ますわ」  見ようによっては艶めかしい、柔らかな視線が飛んでくる。一刀は頬をほころばせた。 「聞きたいな」  紫苑は満足げに頷き、ゆっくりと話し始める。その声は、人々の喧騒の中でけして目立たない。だが、実に優しい調子であった。 「桃香様にも色々と思惑はあるでしょう。わたくしには理解すら出来ないこともあるでしょうし、あるいは知らないこともあると思いますわ。ただ、動機の一部としては、なんとなく思い当たるものもあります」 「たとえば?」 「愛紗ちゃん」  ずばりと言い切って、紫苑はしばし間を置く。一刀が考える時間を与えてから、彼女は続けた。 「愛紗ちゃんは、桃香様と並んで我が国の柱です。事情があったとはいえ、しばらくの間それが失われた。いまでは取り戻されたにしても、すぐに元通りとはいきませんわ。そのことについては一刀さんが一番ご存じではないかしら」  実際にどれだけのことが起き、どれほどの影響があるのか、一刀にわかるわけではない。ただ、彼女を奪った――一刀にしてみればかくまったのであるが――ことで、彼は兵たちに襲われたこともあったし、鈴々に恨まれたこともあった。  それら全てがあっというまに氷解するとは思えない。  表だっての反発は少なくとも、以前と同じ対応、同じ感覚になるのには時間がかかるだろう。 「ですから、その時間を短縮しようとしているのではないか、というのがわたくしの予想ですわね」 「短縮?」 「王がいない。そんな状況で頼れるのは愛紗ちゃんです。そうでなくとも、危機は人を結束させるものですわ」  木組みの玩具が売られる店先に来ると、璃々が立ち止まってしまう。二人は手を離して、彼女がそこに駆け寄れるようにしてやる。もちろん、璃々のすぐ後ろに紫苑も一刀もついていった。 「あえて遠くに身を置くことで、愛紗への求心力の回復を加速する、か……」  玩具を手にとって嬉しそうな声をあげている璃々を見ながら、一刀は考える。かなり無茶な話ではあるが、無理矢理にでも処理する案件を増やし、経験させることで、一体感を醸成するというやり方も、あり得るかもしれない。少々奇抜だし、もっといいやり方はあるような気はしたが。  だが、それよりも彼が気になったのは別のことであった。 「もしそれが正解なら、結局は俺にも責任があるってことになるな」 「……気に病む必要はないと思いますわよ。桃香様は桃香様の判断があってのことでしょうから」 「うん。そこは承知しているよ。ただ……いや、そうだな、必要以上に気にしてもしかたないか」  紫苑のいたわるような口調にさらになにか言いかけ、しかし、一刀はそう言って手を払う。  二人はその後、璃々が玩具に夢中になっている姿をしばらく見つめていた。お互いになにも言わずとも、その温かな心が伝わる。そんな時間であった。  たまたま出会った麗羽たちと郊外に向かい、存分にかくれんぼとおにごっこを遊んではしゃぎ疲れた璃々は、いま、紫苑の胸に抱かれていた。  宮城内に入るまでは一刀が背負っていたのだが、門をくぐったあとで、紫苑が引き取っていた。 「お母さんだなあ」  とりとめもなく話をしていた一刀は、豊かな胸に娘を抱いた紫苑のたおやかな姿を見て、そう呟いた。 「あら、なんだと思っていましたの?」  耳ざとく聞きつけた紫苑が、ぷうと頬を膨らませる。  その様子が実にかわいらしく、一刀としてはいつまでも見ていたい気分であったが、黙っていると本気で怒り出しそうで、小さく笑って答える。 「ああ、いや、璃々ちゃんの母親だってのは良く知っているよ。ただ、それだけじゃなくて」  彼は道々話した蜀の人々のこと、桃香や愛紗、鈴々や、その他の女性たちのことを思い出していた。そして、彼女とのこれまでのやりとりのいくつかを。 「紫苑はなんだか、蜀のみんなのお母さんみたいだなって、前から思っていたんだよ」 「あら、桃香様や愛紗ちゃんくらいの子供を持つ歳に見えまして?」  冗談のように小突いてくるのを、一刀はわざとらしく交わしてみせる。紫苑はその動作に楽しげに笑った。 「いや、そういうことじゃなくてさ。わかるだろう?」 「ええ、まあ」  んぅ、と小さく声をあげる璃々を抱き直し、彼女は声を抑える。 「でも、蜀にも家族的紐帯が必要なのかもしれませんわね」  しばらく聞き逃した後で、一刀は紫苑の言葉の一つにひっかかりを覚えた。 「も?」 「孫呉はもともと孫家を中心とした家族のようなものでしょう? 少なくとも、中心にいるのは血族で、祭さんは皆の母親代わりのようなものですわ」 「ああ、そういうことか……」  呉は孫家を中心に動く。孫堅の勇名があり、雪蓮の袁家打倒があったからこそ、呉はまとまっている。それだけではなく、豪族や江賊たちとのつながりも、義兄弟や親分子分のような、擬似的家族関係から成り立っている。紫苑の言うことも尤もであった。  さらに彼女は含み笑いしつつ、一刀をじっと見た。 「そして、魏は、一刀さんを中心に、いま現実的に家族になりつつある。違いまして?」 「そりゃそうだ」  びっくりしたように一刀は言った。  指摘されてみて気づくのもなんだが、たしかに家族になりつつある。今後もそれは増えるだろう。女王たる華琳が産む子も彼の子であろうことが予想される。  次世代となれば、まさに家族での国家経営となりかねない。 「だけど、蜀だって桃香たちを中心に動いているじゃないか。義理の姉妹だからって、その繋がりの深さは相当なものだし、効能は同じだろう」 「ええ、もちろん。桃香様も愛紗ちゃんも鈴々ちゃんも、お互いへの愛情は、本当の家族以上のものでしょう。わたくしたちも、みなを愛していますわ」  そう語る紫苑の顔は実に誇らしげであった。仲間を思い、その仲間を自慢に思う。そんな強い意志が溢れていた。 「ただ、いまの蜀……いえ、これからの蜀には、月ちゃんたちも翠ちゃんたちもいない。新しい関係を築かないといけないのかもしれませんわ」 「ふうむ……」  紫苑の言うのもわからないでもない。翠や蒲公英は西涼に移り、月たちは蜀を離れて数年になる。顔ぶれが変わるのなら、関係性もある程度変わる必要があるのかもしれない。個人間の関係はともかく、政治的な関係で言えば。  しばらく考え、一刀は明るい口調で言った。そろそろ紫苑の部屋の扉が見えていた。 「大変だけど……やり甲斐もありそうだね」 「ええ、楽しみでもありますわ」  手のふさがっている彼女のために扉をあけてやり、一刀は身を退こうとする。だが、なにか抵抗を感じて彼は己の体を見下ろす。  並んでいる時は気づかなかったが、璃々の手が、彼の服の裾をしっかりと握っていた。  いつの間に、と驚きの表情になる彼に、紫苑は笑いかけ、顔を動かして室内を示した。 「一刀さんとわたくし、それに璃々の関係がどうなるかも、楽しみですわね」  三人で部屋に入りながら、紫苑はそんなことを口にした。  実に艶やかな声音で。      (第五十一回後編に続く)