玄朝秘史  第三部 第四十八回  1.二人  はふう。  そんなため息のような声をあげたのは、どちらの少女だったろう。  報告書の束に埋もれるようにして文字の連なりを目で追っていた二人は、ほとんど同時に顔をあげた。 「もう何度も読んでいたはずなのに……」 「改めて見直すと……すごいね」  砂色の髪の少女の言葉に、青みがかった髪をもつ少女が同調する。その言葉の通り、彼女たちの読んでいた文書には、もう何年も前からあるものも混じっていた。  最も古いものは、黄巾の乱の頃まで遡る。ただし、ここ漢中にあるのは成都にある文書の写しだが。 「これまでは何というか、実感がなかったからだと思う。ただの数字と思うのと、あれを聞いたあとじゃ、感じるものが違うんだよ」 「うん。そうだね。戦闘の死傷者数なんかも、水鏡先生の所で過去の合戦について学んでいた時と、桃香様たちのところに来て実際の戦場を見てからじゃ、感覚が違ったもんね」 「うんうん。知識と経験が合わさると、認識が変化するんだよね。他のことでも気をつけなきゃいけないね」 「うん。忘れないようにしなきゃ。ううん。いつでも意識するくらいでもいいのかも」  情報としては認識しても、それに対する知識が無ければその意味を理解出来ないし、理解していたとしても実感がとぼしければ、その重要性を見逃してしまう。  物事を受け止める姿勢についての考察として、それは実に正しい。多くの情報を取り扱う彼女たちとしては、実に効果的で有用な教訓であろう。  それを改めて思い知った対象が少々風変わりであったとしても。 「平時に限れば、平均して一日に二組かあ」 「それは完全に均しちゃってるよ。ここ一年の動きを見ると、一日に三組程度はいくよ」 「ああ、そっか。お相手の増加を考えなきゃいけないんだね」  彼女たちが参照している資料は、北郷一刀の日常に関するものであった。その中で、彼女たちが『見ていながら見ていなかった』のは、彼の女性関係についてだ。 「こんなにお相手していたら、一刀さん、お仕事する時間どうしてるんだろう?」 「うーん……」  雛里のそんな疑問に、朱里は腕を組んで考え込む。 「それには、一刀さんの立場を考えてみないといけないんじゃないかな」 「立場……。問題となるのは、華琳さんの客将っていう肩書きなんかじゃないよね?」 「うん。魏軍とその周辺における一刀さんの役割っていうのかな、そういうものだよ」  朱里と雛里は顔を見合わせ、お互いの瞳に映る自分に向けるように話し始める。 「魏軍は、根本的に華琳さんのための組織。王たる華琳さんの意図を実現すべく動くためのもの。これはいいよね?」 「うん。他の国に比べても、集権的だよね」 「そういう組織だから、『華琳さんの意図』をしっかり把握して、各々が動く必要があるよね。華琳さんに近しい人間、たとえば、春蘭さんや秋蘭さんはそれが問題にはならない。いつでもやってきたことだし、なにも考えなくても、意図を察することが出来るよう、訓練してるはずだから。でも、それ以外の人、特に華琳さんの……その……」  そこで、朱里はわずかに頬を染め、雛里も一拍遅れてその意味に気づいて顔を赤らめる。 「愛人の人以外になると、それがうまくいかないこともあると思う。部下の方たちも頑張っているとは思うけど……」 「華琳さんについていくのって、大変そうだものね……」  諸葛亮と鳳統。蜀の誇る頭脳が揃って小さくため息を吐く。 「まして乱の後に――これは三国の安定のためという意味が強いと思うけど――取り込まれたかつての実力者たちは、華琳さんの意図をくみ取ろうとする意欲も薄い。そこを上手く補うのが一刀さんなんじゃないかな」 「一刀さんが、組織の潤滑剤になっているって、朱里ちゃんは思うの?」 「うん。一刀さんは、なにか固定した役割を持っている訳じゃない。いろんな事を、それが必要な時に任されている。それも、組織をうまく動かしていくための仕組みなんだよ」  だからこそ、一刀が女性たちと過ごす時間も正当化される。いや、かえって推奨されるのだと朱里は主張するのだ。  北郷一刀という男でなければ酒席や狩りの場において成すはずの意見のとりまとめや根回しといった下準備が、閨の中で行われることとなる。  華琳の意図をうまく把握していない人物には一刀なりにかみ砕いた形で示すことで消化の手助けをし、そもそも華琳に従いたいわけではない人々には、彼なりの目指すものを提示することで、その力を結集させる。そんな結節点に、彼はなっているのだと。  それはそれで尤もな主張だと雛里は考えた。しかし、それだけだろうか。 「それはそれで正しいと思う。一刀さんは華琳さんの心算も、部下の人たちの心情も、公的な立場以外でも察することができるから。でも、もう一つあると思う」 「もう一つ?」 「もう一つというよりは……一刀さんが果たしている役割の意味を補強するということだけど……。一刀さんってやっぱり『天の御遣い』なんだよ。私たちとはものの見方が違っている。だから……」 「華琳さんの狙いを別の側面から……それこそ、一刀さん以外には気づけないような知見から評価できる……。そういうことだね」  うんうんと雛里は頷く。二人は思考の速度が上がれば上がるほど、その結論が一致しやすくなる傾向があった。実際に交わす言葉は、確認に過ぎない。  二人は再び揃ってため息のような息を吐いた。今度は大きく、そして、肩を落としながら。 「一刀さん……北郷一刀という人物の重要性は把握していたはずなのに……」 「私たち、その本当の意味を理解出来ていなかったね……」  覇王の愛人。そして、天の御遣いという名。その女性関係がもたらす影響力。  わかっていた。そして、理解出来ずにいた。  彼女たちは一刀という人物を知らず、一刀が女性たちと愛をかわしている、そのことの意味を弁えていなかった。  それを、いま、彼女たちはまざまざと思い知らされたのだ。  そして、二つの頭脳がそれを知ることが出来たのは、まさにその北郷一刀という男に興味を持ったからこそでもあった。  そのことを、果たして二人が意識しているのかどうか、それはわからない。少なくとも、いま、二人の意識の表層には現れてこない。 「魏軍は主従の信頼関係だけではなく、愛情の関係でも繋がっている、か」 「その文言だけ見ると、とても危うく見えるね。でも……」  人間関係をこじれさせるのに、男女の――時には同性の――愛憎ほど効果的で、しかも根深いものはない。調略をしかけるなら、金銭と並んで、まずそこだ。  しかし……。 「一刀さんと華琳さんに限っては、それは害より益となる……」 「一刀さん自身はわからないけど……。少なくとも華琳さんはそう考えている。そうでなければ、恋さんや祭さんまでその下につけるはずがないもん」 「そう。そして、華琳さん自身と一刀さんの意思が食い違うとも考えていないよね」  華琳は大陸でも有数の知恵者であり、おそらくは、三国の中で最も精確な情報を握っている。さらに、必要とあらば冷徹な判断を下すことを避けたりしない。  この大陸で起きることの大半は彼女の頭の中で予測可能であろう。  それでも華琳は、一刀の下に天下無双の武を配し、恩顧の人物を多く持つ名士を置き、戦場を支配できるだけの軍師を任せているのだ。  そこにある信頼の深さ、そして、それを維持し続ける懐の大きさ。朱里と雛里は、その二人の関係性の強さを思い、身震いした。 「華琳さんの後を継ぐのは一刀さんと華琳さんの子供だろうし、間違っていないとも言えるけど……」 「普通はしない。ううん、できないよ。一刀さんがもともと権勢欲を持っていなかったとしても、これだけの材料が揃えば、なにか考えちゃうよ。たとえば、私兵を用意するとか、いくらでも出来るはず」  普通ならば。だが、それでも。  一刀はそれを企まない。  華琳はそれを疑わない。 「覇王と、その横に立つ者……か」  重々しく吐かれた言葉は、どちらが放ったものだったか。朱里も雛里も、もはやそんなことを気にしない。 「怖いね」 「うん。怖いよ」  二人は同じ言葉を交わす。  だから、同じように呑み込んだ言葉があったこともまた理解していた。 『でも』  朱里と雛里。  蜀の大軍師二人は共にそれを口に出すことはなかった。  2.酒席 「やあ、いらっしゃい」  男の開けた戸を、するりとくぐり抜けて部屋に入ってきたのは、白の着物を着た艶やかな女性。趙子龍こと星だ。 「悪いね、呼び出しちゃって」 「いえいえ。呼ばれねば、こちらから押しかけるつもりでしたからな」  一刀が頭を下げるのに、星は艶然と微笑んで手を振る。一刀の部屋の明るい灯火の中、彼女の袖に刺繍された黄金の翼がきらきらと輝いた。 「あれ、そうなの?」 「ええ。前の酒は、少々……よろしくなかったですからな」  言いながら、彼女は携えてきた酒瓶を卓の上に置く。一刀が用意した酒もまたそこにある。 「考えることは同じってことかな?」  卓につき、向かい側についた星に向けて笑いかける一刀に、彼女は謎めいた笑みを返す。 「さて、それはどうですかな?」  一刀たちが漢中を発つ前夜、二人の酒席はそんな風に始まった。 「結局の所」  星は面白がるように呟いた。 「お互い、知っているようでまるで知らないという所ですか」 「……そう、かもしれないね。人間、自分自身ですら、よくわからないもんだ」  言い合い、二人はぷっと吹き出す。以前からの流れでお互いのことを語り合おうとして、どれだけ自分のことが知られているか探り合いをした結果の言であった。 「しかし、それでは話が進みませんな」 「まあ、そうだけど、でも、それはそれで」  こんな風に和やかに酒を飲む。それだけでもいいと思う一刀であった。わだかまりを溶かすにはあるいは一番いいのかもしれない。星も、それに反対する様子ではなかった。 「ああ、でも」  一刀はふと思い出したように呟く。 「一度訊いてみたいと思っていたんだ。星……だけじゃないけど、特に星に」  でも、無礼な質問かも知れないしな、と一刀は腕を組んで唸る。その様子に、忍び笑いを漏らす星。 「ほう? この趙子龍で答えられることならば、お答えするとしましょう。ささ、遠慮せず」  さあ、さあ、と催促の声が高まるのにあわせて、一刀は苦笑し、そして、訊ねる。 「星はなんで桃香を選んだんだい?」  予想していたのか、いなかったのか。星は驚いたような表情を見せつつも、酒杯を持つ手を止めたりはしない。一つ呷ってから、彼女は一刀をたしなめるように言った。 「これはまた不躾な」 「うん。ごめん」 「聞きようによっては桃香様への侮辱とも受け取れる発言となりましょうぞ」 「いやいやいや、そんなつもりは……っと、そうだな」  対応如何によっては、言葉に含まれた険が強くなることを暗示させるような言い方に、一刀は慌ててぶんぶんと手を振る。 「忘れないで欲しいんだが、俺は、君たちと会うまでは、真名ってものさえ知らなかった。あの時星たちは誤解していたけれど、本当に真名というものに出会ったのは、それこそ、風のそれを呼んでしまったあの時が初めてだったんだ。そして、実際にその意味を知ったのはもっとずっと後のことだ」  唐突に昔語りを始めた一刀に、星は眉を顰めつつ、なにも言わない。一刀は必死の態で舌を回した。 「つまり、この世界に来た時――君に初めて会った時の俺は、物心つく年頃の子供よりさらに世間に対する常識がなかったってことさ。それは、この世界をどう受け止めていいのか、それすらわからないってことだ。それを華琳が教えてくれた」  そこで、彼は一つ肩をすくめた。 「要するに、この世界、この時代についての俺の認識は曹孟徳が作り上げたものだと言っていい。いまの俺は別の見方もあると知っているさ。だけど、最初の内は、俺に選択肢なんてなかったわけだよ」 「ふむ。しかし、それが、先程の問いとなにか関係があるのですか?」 「うん。あるよ。俺に選択肢がなかった一方で、星たちは……君たち三人は、各地の群雄を見て、その上で判断したはずだ。仕えるべき人物を、ね。そこで、星は桃香を見いだした。そのことについて訊きたいと思っただけさ」  ああ、と彼女は嘆息のように呟いた。そういうことかと納得したのであろう星は、袖を絡めた腕を持ち上げてしばし口元を覆っていたが、男の事を探るような視線で見つめてきた。 「私が大陸中を巡り、そして、選んだ理由が知りたい、と」 「うん」 「それを訊くのは、重大事だと、理解しておられますか?」 「もちろん」  世で忠義をもてはやすのはなぜか。  それを全うするのが、難しいからだ。  人が人のために命をかける。たったそれだけのことが、実に難しい。  誘惑は随所にあり、労苦は想像以上に訪れる。  それらを全てはねのけて、ただ一人に仕える、その覚悟をした理由を訊ねることが、簡単なことであるはずがない。 「でも、お互いを知るのには悪くないだろう?」 「先程は突き詰めず、ぬるく行こうとしておられたように思いましたが」 「手っ取り早いかな、と思って」  一刀のとぼけたような返答に、ふふんと星は鼻を鳴らす。 「答えたくなければ……」 「嫌、とは言っておりませんよ。隠すべきことでもありません、私にとっては誇るべきこと。しかし、だからといって……」  そう軽々に語るようなことでもない。まして、彼は他国の人間である。  だから、一刀は一つ頷いて口火を切った。 「うん。そうだな。だから、まずは俺から言おう」  そう言われた時、星が初めて本当に動揺したように見えた。  一刀が『なぜ』華琳の下にいるのか。  そんなことを考えたことがなかったからかもしれない。  世の人々にとっては、北郷一刀とは、曹孟徳という人物が大きく飛躍したその時から側にいることが当たり前だ。一方、星にとっては、また別の見方がある。彼は陳留の刺史に拾われた。その経緯を知っているからこそ、彼女は考えてみたことがなかったのかもしれない。 「知っての通り、俺は華琳に拾われた。だから、最初の頃は、華琳の理想を支持するしかなかった。けれど、いまの俺は自分でそれを選び取ったと思っている。俺には俺の考えがあって、その上で彼女を支持しているからね」 「……ふ、む……」 「俺は、彼女と共に歩んでいくことを望んでいる。それは、彼女が愛しいからだけじゃない。彼女のやり方が、結局は犠牲を最小限にし、国の発展を助けると、そう信じているからだよ」  星は男の言葉を咀嚼でもするかのように、何ごとか口の中で呟いた。その細い指が酒杯の縁を、つうと撫でる。しばし、一刀の目はその動きに惹きつけられていた。 「戦を無くすという貴殿自身の理想もそれで叶うと?」  少し考えるようにして、男は間を開ける。星の持ってきてくれたかなり重い酒を一気に呷ってから、一刀は答えた。 「言葉面だけ考えれば、桃香も蓮華も賛成してくれると思うよ。でも、それを実現するとなれば、華琳だろうな」 「それは、なぜ?」 「桃香と蓮華は優しすぎる。三年先の犠牲を五十減らすために、いま、十を犠牲にすることを求められて、即決できるとは思えない」 「……孫家の新しき女王のことはさほど知りませんが、桃香様は、そこまで浮き世離れしてはおりませんよ」  切り捨てるように、星は笑う。蜀も、そして呉も、戦乱を生き延びてきている。そこで流した血の量を、星や一刀が知らぬはずがない。  それでも、桃香は己の信じた道を行ったし、星はそれを支えてきた。その上で、優しすぎるという男の言に、彼女は複雑な表情を浮かべていた。不快でもあり、誇らしくもあるような。 「そこまでは言ってないよ。ただ、桃香が容認できるのは、十年後の百のための十だろう。時間の経過を考えても、利益に対して犠牲が大きすぎれば躊躇する。違うかな?」 「たしかに算術が得意とは申しません。申しませんが……」  王たる者ならば、先の時代の益を見据えて動いているのは、誰もが同じ。しかし、それをはっきりと意識し、そして、益があると判断すれば、冷厳な判断を下せるのは華琳のほうだと男は主張する。  だが、それは、別の事をも意味する。  すなわち。 「貴殿は、それだけの犠牲を、華琳殿に強いる、と」  一刀は微笑んで、答えなかった。  彼が注いでくれた酒が入った杯を、指の上でゆらゆらと揺らしながら、彼女は彼の事を真っ直ぐに見つめ続ける。そうして、男の表情がまるで変わらないのを見て、ため息をついて、こう言うのだった。 「よろしい。たしかに貴殿の考えは教えていただいた。次は私の番でしょうな」  と。  3.大器 「端的に申さば……」  星はその白面にわずかに酔いの朱をのせて、静かな声で言う。ただ、酒杯を傾けているだけだというのに、その姿勢の美しさに、一刀は思わず見惚れていた。 「桃香様は、変われるからですよ」 「変われる?」  変化、と星は言う。その意味を考えて、一刀は固まった。  そんな男の様子に彼女はふふと優しく笑って、助け船を出すようにこう訊ねた。 「貴殿は華琳殿になにを望まれる?」 「ん……」 「たとえば、一刀殿の理想。それを受け入れててくれるものと考えておいででしょうし、望んでもいましょう。しかし、華琳殿が、自らを曲げてまでそれをなさるとは考えていないはず。まして、それを望むことはありますまい?」 「あー、言われてみればそうかもしれないな。華琳が華琳であり続けてくれることのほうが望ましいし」  うんうんと一刀は頷く。星の言うことはいちいち尤もであった。  一刀は一刀なりの考えがあるし、それに華琳が賛同してくれる部分が多いことも理解している。しかし、彼の考えの全てが受け入れられるとは思っていないし、そうして欲しいとも考えていなかった。 「そうでしょう。一刀殿のような独自の考えを持つ人間でさえ、そう思う。まして、ひたすらに華琳殿に心酔する面々ならば、余計にその思いは強いはずです」 「それはそうかもしれないね。ということは、星は、華琳は完成しているって言いたいのかな?」  桂花や春蘭、秋蘭の顔を思い浮かべつつ、一刀は訊く。華琳ほどの人間ならば、完成していると評されてもおかしくはない。それをどう受け取るかは、それこそ人それぞれであろうが。 「そうは言いません。しかし、華琳殿の成長は、華琳殿自身が成されること。もちろん、貴殿や夏侯の姉妹など、様々な人々の影響あってこそでしょうが、つまるところ、華琳殿ご自身が自らに取り込むにふさわしいと考えた結果でありましょう。ご当人も、周りもそう考えておられるのではないですかな?」  彼はしばしそれについて考え、同意のしるしに頷いた。 「そこにあるのは、あくまで華琳殿の器。まれに見る大器であり、天命に選ばれた方かもしれませんが、それでも、この趙子龍を全て呑み込んで、成長する器とは質が異なる」 「桃香は呑み込める、と?」  男が興味深げに訊ねる声に、星は直接には答えない。ただ、昔を懐かしむような調子で告げた。 「伯珪殿も見ました、孫家の気風も見ました。袁家のある意味あっぱれな莫迦さ加減も見ました。月は個人としてはいい娘ですが、董卓勢は、勢力としての体を成しておりませんでした。桔梗を使いこなすこともできなかった劉璋など検討にも値しませんでした」 「ふむ」 「地力で言えば、桃香様は、さほどのものではなかったと言っていいでしょう」  悪びれもせず、星はそう言ってのける。 「しかし、あの方は……桃香様は、愛紗たちを得て強くなり、朱里たちを得てさらに強くなる。そういうお方です。守るべき者が増えれば増えるほど、その器を際限なく広げられる。根底には、お優しい心と強い芯があるが、それ以外は、ただひたすらに大きな……そう、海のように広い心があるばかり」  海か、と、星は自分の言葉に感心するように繰り返した。 「そうですな。その大海に私は呑み込まれ、そして、自由に動くことができると確信したのですよ。私が加わることで、その器をさらに広げられると、そう信じたのです」  酒杯を置き、じっと星は一刀の事を見つめる。その眼力に、彼はなにか風のようなものが吹き付けてくるような圧力を感じたほどであった。 「だからこそ、私はあの方を選んだ」 「そうか」  一刀は小さく顎を引き、それから、ついと頭を下げた。 「ありがとう、星」 「な、なにやら、調子が狂いますな。そのように頭を下げられますと」  それに、と彼女は付け加えた。その声の調子に、一刀は頭をあげる。 「そちらの思いも伺ったわけですからな。お互い様です」 「それはそうなんだけど、でも、なんとなく……」  お礼が言いたかったんだ、と一刀は言う。  その様子に、星は笑った。一刀もまた笑い、ひとしきり、二人の楽しげな声が部屋中を包んでいた。 「そういえば」  星がそう言い出したのは、二人が酒を注ぎあい、再び喉を湿らせた後のこと。 「英雄色を好むと言いますが、その伝で行けば、貴殿はまさに英雄の風格ですな」 「おいおい。たしかに英雄色を好むとは言うけど、色を好むから英雄とはならないぞ」 「しかし、雄として英でていることは否定できますまい」  にやりと唇を歪ませる星に、一刀は頭をかく。 「雄の条件が子孫を残すことなら、まあ……」  種をほうぼうに放っているという意味でいうなら、それはたしかにあてはまる。南蛮勢の子供が大半を占めるとはいえ、すでに二十人以上の子を持つのは事実なのだから。 「少なくとも、女たちを惹きつけることは確かなようで」 「ありがたいことにね」  一刀もそのあたりはあえて否定することはない。愛する人がいるのは事実であるし、それを必要以上に否認するつもりはなかった。口さがない噂とは違うのだ。  だが、なぜか星はその明るい調子に同調することなく、目を伏せて、彼から視線を外した。  すう、と彼女が息を吸う音が、やけに響いたような気がした。 「はっきり申し上げますと、私は、貴殿のそんなところが、恐ろしい」 「え?」  呆気にとられた、と言っていい。唐突な声音の違いにも、会話の方向性の変化にも。恐ろしいと告白した彼女の声は、わずかに震えていた。 「あまたの女たちを愛人とする。その行為自体はともかく、その女たちの全てが英雄豪傑と呼ばれるだけの人物ばかり。さらにはそのことを、隠しもしなければ、思うところもないように屈託無く肯定する。そのことが、恐ろしい」  一刀がなにか言うのを防ぐように、星の手は掲げられている。掌をまっすぐに彼に向けて、押しとどめるように。 「まして、その愛する人々に、己の信じる道を行くための犠牲を強いる覚悟すらある。そのことが、もっと恐ろしい」  彼女の視線はあがらない。あくまでその目は伏せられている。その長いまつげがふるふると震えていることが、なぜか一刀の心に焼き付いた。 「私は、北郷一刀の理想を聞いた。北郷一刀が曹孟徳を思う気持ちを聞いた。その上で、北郷一刀は、曹孟徳に犠牲を出す判断をさせることを覚悟している。それを理解している。それが、恐ろしい」  そこで、すっと彼女の体は伸びた。星の顔は一刀に正対し、その瞳は一刀のそれから一時も離れない。 「そんなにも恐ろしければ、無視すればいい。あるいは、打ち倒せばいい。そうも思います」  けれど、と彼女は言うのだった。 「恐ろしくて、恐ろしくて、覗き込みたくなる。踏み込みたくなる」  まるで、槍を振るうように、彼女は言葉を操る。  その韻律。その声の張り。  それらは、一刀を切り裂く代わりに、絡め取ろうとするかのよう。 「恐怖を発する貴殿と繋がることで、その恐怖を克服したくなる」  そこで、彼女の手は降りる。一刀の発言を拒否するものを取り払ってから、星は訊ねた。 「おかしいですか、私は」 「おかしいかどうかはわからないけど」  一刀の返答は、腕を伸ばすのと同時。卓の上に置かれた彼女の手に、彼の掌がかぶさる。膚が触れる瞬間、一度だけ震えた星は、しかし、手を引っ込めようとはしなかった。 「打ち倒すより、取り込んだり、同化して乗り越えたりする方が、恐怖の征服の仕方としてはいいと思うよ」 「では、男の征服の仕方としては?」  彼女の頬の端が持ち上がる。だが、その唇が青ざめているのを、星自身は気づいていただろうか。 「そんなもの、優劣で判断できるものじゃない」  そこで、彼は彼女を安心させるように、片眼を瞑って見せる。 「なにより、一方的に征服できるものじゃない。男と女は、お互いに、差し出しあうものさ」 「北郷一刀の全てを手に入れるために、趙子龍の全てを差し出さねばなりませんか」 「そうなるね」  沈黙。  それは、幾通りもの判断が可能なものだった。  だが、一刀はぐずぐずと判断を迷ったりはしなかった。  立ち上がり、ぐいと手を引く。  倒れ込むようにして彼の胸におさまる細い体は、微塵の抵抗も感じさせなかった。  そうして、男の唇が彼女のそれを塞ぐまでのわずかな間に、彼は小さな呟きを耳にする。 「面白い、実に面白い」  そう、彼女は漏らしていた。  不安と期待に濡れた声で。  4.出立  成都での見送りに比べてもなお漢中での出立は地味なものであった。  成都への出入りは愛紗の帰参を別としても白眉の乱が終わったという凱旋の意味もあったためにある程度までは儀式ばらねばならないところもあったのに対し、漢中から洛陽への帰還は、単純に他国の要人が帰るだけに過ぎない。  そのため、兵を多数揃えることもなく、一刀たちはいつもの面々で別れを惜しんでいた。  ただ、その最中、一刀はずっと二つの視線が彼を追っている事を認識していた。  一つはなにか睨みつけるようにただまっすぐに彼を見つめるそれ。  もう一つはちらちらと、なにか話しかけたそうにこちらを見るも、一刀の方から目をやると常にかわされてしまうもの。  それぞれ誰かはわかっている。  そして、一刀にはとある心当たりがあった。  昨晩――というよりは今朝――星が帰りがけに、夜半に誰かが来ていたかもしれないと告げていったのだ。  普段の彼女ならば部屋の中にいても誰がどんな風に来ていたのか確信を持って言えるのだろうが、なにしろ初めてのむつみ合いの最中。気配をつかんでいても、それが誰なのか、あるいはただの勘違いであるのか、判断し難いようであった。  しかし、この視線を考えると、やはり、彼女が感じ取った気配は現実のものであったようだ。  誰かが来ていたのだろう。そして、おそらくは、彼女と彼の有様を見てしまった。  問いかけたいのか、問い詰めたいのか。  どちらの視線がそれなのか、一刀には判断できない。そして、それを確かめるだけの時間はなかった。もう一つの視線の意味を探る暇もない。 「まあ、年末年始でなんとかするしかないか」  この年末、再び、三国の重鎮たちは洛陽に集うことになる。それは、呉王の後継者、孫登の誕生を祝うものとなるはずだ。一刀としても、もちろん、それに不同意のはずがなかった。  別れの場にいた人間はもれなく洛陽に来るはずで、その時を待つしかないと、彼は考えたのだった。  それでも、そのことは、彼の意識の隅でずっと燻っていた。  だからだろう。そんなことになったのは。 「一刀殿。物思いなんかしてると、落ちるぞ」  ぐい、と襟首を掴まれ、引き寄せられる。翠の強い力に、一刀ははっと顔をあげ、自分が考えに夢中になっていたことに気づく。 「あ、ごめん。ありがとう、翠」  呆れる翠に礼を言い、彼は道の真ん中寄りに歩みを進めた。  材木を敷き詰めて作られた道の右側には、空っぽの空間がある。そこを覗き込んでみれば、地面は遥か下方。落ちれば、間違いなく助からない。  申し訳程度の手すりはあるが、気もそぞろに歩いていい場所ではなかった。 「しかし、桟道ってのは何度通っても怖いな」  切り立った崖に鉄の杭を差し、あるいは、穴を穿ち、そこに木材をはめ込んでつくったのが桟道である。岩肌にへばりつくように、その道は作られていた。 「無理矢理道をつくってるわけですからね……」  後ろを行く流琉が険しい顔で同意する。実は彼女は一刀の腰に通した縄を手に持っていた。万が一の用心である。とはいえ、それは翠も知っていて、なお彼の注意を惹く必要を感じたのであるが。 「それでもあるだけましだって」 「洛陽に行くなら、いっそ川を下って北上するのもありですよ」  少し前を恋と一緒に歩いていた音々音が、声を聞きつけたのだろう、会話に参加する。一刀は彼女と恋に対して手を振って、笑みを浮かべた。 「長安にも顔を出したいし、しかたないかな」 「大軍団の移動ってわけでもない。気をつけて進めばいいことさ」  黄鵬を引く翠はそんな風に笑う。彼女の言うとおり、人数がとんでもなく多いわけでもない。注意をして進めば損耗することなく関中――長安を中心とした地帯――に抜けられるだろう。  これが万単位の進軍ともなると、輜重を引く牛が暴れたりして、ある程度の損害を覚悟しなければならなくなる。 「この山岳地帯――秦嶺山脈が蜀にとっての守りであり、足枷なのですよ」  いつの間にか、恋とねねは一刀たちの間近にまで下がってきており、ねねは周囲の風景を示しつつ、そう解説を始める。 「関中から南下するにせよ、漢中から北上するにせよ、こういった桟道を通らねばならないとなれば、大軍の移動は困難です。川を使うか、もっと緩やかながら距離の長い道を使うか。いずれにせよ、蜀に攻め込む側も、蜀が中原を狙おうとする場合も、実に厄介です」 「……華琳とご主人様たちは、無理矢理、突破してきた」  恋が前を向いたままぽつりと言うのに、翠が思い切り苦い顔になり、がしがしと頭をかいた。 「あん時ゃ、あたしたちも、かなり邪魔したんだけどなあ」 「……実際、あの時の勢いは……ちょっと止めようがなかったかと……」  当時は攻め込む側であった流琉がおずおずと言うのに、かつて蜀側で戦っていた面々は小さく息を吐く。一刀はその様子に苦笑するしかなかった。 「まあ、それだけ、魏の……ん? 誰か来ますよ」  ねねが首をひねって一刀たちのほうを見ながら何ごとか言おうとしたところでぴたりと足を止め、後ろを指さす。兵たちのざわめきを縫って、蜀の兵士が息も荒く駆け寄ってきていた。 「伝令だな。流琉、ひとまず停止」 「わかりました、兄様」  そうして迎え入れられた伝令は、朱里からの伝言だと断った上で、こう告げたのだった。 「皆様には、至急、南鄭にお戻りいただきたく!」  伝令の伝えるところによれば、南鄭に戻ってもらいたいのは一刀と流琉が中心で、他は進むも戻るもこちらの判断に任せるとのことだった。そのため、ひとまず桟道に入る地点まで退いて兵たちにはそこで野営させ、一刀と流琉、翠の三人が翠の愛馬に乗って南鄭へと急ぐこととなった。恋と音々音がいれば、なにがあっても問題とはなるまいという判断である。  そうして、午後も遅くなって戻った城内で、一刀たちは驚くべき報せを受けることとなった。 「桃香が……帰ってこないって?」 「はい」  重々しく朱里が頷き、雛里もまたあわあわ言いながらもこくこく頷いている。困ったような顔の鈴々と、笑みを浮かべている星は黙って一刀たちを見ていた。 「……なんで?」  誰も口を開こうとしないので、一刀はそう訊ねる。翠はぽかんと驚き顔のままだし、流琉は助けを求めるように一刀を見ていた。 「しょ……そこをお訊きしたくて、一刀さんたちに戻ってきてもらったんです」  思わず噛んでしまった雛里は、それでもなんとか立ち直ってそう告げる。考えてみれば、どういうことかと訊きたいのは蜀の側であろう。なにしろ、自国の王が他国の都から帰ってこないというのだ。囚われているなどとは思っていないだろうが、説明を求めたくもなるだろう。  だが、一刀としても情報がなさ過ぎて、どう答えていいのやら見当も付かない。それは流琉も同じだろう。  そこへ、くっくと喉を鳴らして星が語りかける。 「桃香様は、次の大使になると、そう仰っているらしいのですよ」 「はああ!?」  さすがにそれにはまともに反応することの出来ない一刀であった。  5.覚悟  朱里たちが語ったところによると、一刀たちが出立した後で、紫苑からの急使がやってきたらしい。そこには、桃香が次の蜀からの洛陽派遣大使となる予定であること、華琳がそれを認めたことなどが記されていた。  そこで慌てて一刀たちを呼び戻し、質問したというわけだ。  しかし、一刀にせよ流琉にせよ、そんな話はまるで聞いていない。状況を類推することも難しく、洛陽で確認するしかないだろうとしか一刀には言えなかった。  それを受けて、蜀側は会議に入った。重鎮は四人しかいないとはいえ、軍師二人が揃い、張翼徳と趙子龍がいるのだ。当面の対処を話し合うには十分な面々であろう。  そして、一刀たちは、その結果が出るまで再び南鄭の城に逗留することとなった。 「しかし、華琳も桃香もなにを考えているんだ?」 「本当に、どういうことなんでしょう……」  椅子にだらしなく腰掛けた上半身裸の一刀が呟くと、彼の間近で乱れた衣服を正していた流琉も首をひねる。先程まで彼の上で嬌声を放っていた少女の膚は淡く桃色に上気していた。 「それより、兄様。服を着て下さい」 「んー」  寝台の上に投げられた上衣を取りあげて、一刀は言われたとおり、それを着ける。その間に、流琉は茶を淹れる用意をしていた。 「正直、ここで考えてても、わからないですよね」 「そうなんだよなあ」  あるいはあまりにわけのわからない事態にあることの不安が、わずかな時間でもこの少女の膚を貪らせたのだろうか、と一刀は考え、即座に否定する。  そんな理由のはずがない。目の前の少女の甲斐甲斐しい動き一つとっても魅力的だし、彼女と時間を共にする喜びは、そんな不安に突き動かされなくても求めたくなるものだ。 「明日にはまた発つことになりますかね」 「たぶん。いずれにせよ洛陽に行かないといけないし、もしかしたら誰か同行するかも」 「そうですね。じゃあ、荷物は解かなくていいですね」 「うん」  流琉が淹れてくれた美味しいお茶を楽しみながら、二人はぽつぽつと会話を交わす。自分たちだけでは判断しきれないことなので、予定をたてようにもたてようがない。  彼女が訪れたのは、そんな時だった。 「あ、はーい」  扉を叩く音に流琉が答えてささっと開ける。そこにいたのは、青みがかった髪の少女。 「あ、あの……」 「やあ、雛里。いらっしゃい」  流琉と一刀、二人して招き入れると、雛里はおずおずと部屋に入ってくる。彼女は一度大きく深呼吸してから、二人に話し始めた。 「あの、その、結論が出ました」 「うん」  一刀が頷くと、雛里は会議の結果を明らかにする。 「朱里と鈴々が俺たちに同行して洛陽に赴く、か」  そうして、桃香に状況を確認し、場合によっては説得して連れ帰ることになるかもしれない、ということだった。 「ふむ」  実際に誰の意思で桃香が洛陽に留まっているかわからない現状では、それくらいしか対応はとれないだろう。一刀たちにしても拒否するいわれもない。 「わかった。じゃあ、そういうことで……」  と、そうして一刀が結論づけるように言ったところで、雛里がなにか慌てたようにあわわ、と呟いた。その様子を見た流琉が何ごとかに気づいたように大きく頷く。 「じゃあ兄様。私は準備のために、翠さんと野営地に戻ることにします。いいですか?」 「え? でも、もう暗いだろう? 危なくない?」 「翠さんが馬に乗せてくれれば問題ないと思いますよ」  朱里と鈴々が同行するとなれば、蜀からも多少は兵が出るだろう。それを迎える準備をするためにも、一刀か流琉がそれにあたるべきだというのは彼も納得のいくところだった。  暗いといってもとっぷり暮れているわけでもなく、月明かりもある。翠の馬術の腕なら危険もあるまい。  それでも、彼女たちが心配な一刀である。 「朝には戻ってきますし」 「そっか……。うーん。まあ、翠がいいって言ったらな」 「はい」  結局一刀が譲歩し、流琉は出て行った。去り際、彼女が雛里のことを複雑な表情で見ていたのが彼には気になったものの、結局それを口にする暇はなかった。 「あ、あの!」  なぜなら、思い詰めたような表情の雛里が、細いながらも声を懸命に張り上げ、彼の前に立ったから。 「なにかな?」  出来る限り優しい声で、一刀は問いかける。この小動物のような少女に対するには、注意するにこしたことはないと彼は学んでいた。 「お、お礼をしていなかったと思うんです!」  そう叫ぶように――それでもあまり大きくない声で――言うのに、一刀は首を傾げる。 「お礼?」 「はい、看病の、お、お礼でしゅ!」 「いや、それは、こないだ、クッキーをもらったような……?」  そもそも、看病したのは、彼が彼女を案じていたからでもある。なにか対価をもらうようなことでもなく、もう十分に礼を尽くしてもらったと彼は思っていた。  だが、雛里は顔を真っ赤に染めて、それを否定する。 「あれは……その、結局、地図の話になってしまいましたし、純粋な意味でお礼を出来てなかったって反省して、その……」  ごくん、と彼女は唾を飲み込む。緊張のためか、その小さな体はぷるぷると小刻みに震えていた。 「一刀さんが洛陽に戻る前にもう一度お礼を言おうって、その、そう決めていたんですけど、でも、あの……」  そこまで言われれば、一刀にも察しはつく。今朝の視線の一方は雛里のものだったのだから。 「あー……。もしかして、昨晩……?」  こくんと恥ずかしそうに頷くのに、何とも言えない。時機は悪かったが、しかし、謝るべき事でもないように思えた。 「衝撃……でした」 「あ、ああ、まあ、ねえ」  知人の閨を目撃するのは、様々な感情を生み出す、複雑な体験であろう。衝撃、という言葉だけはいやにはっきり言うのも頷けるというものだ。 「でも、思ったんです」  だが、その告白がきっかけとなったのか、かえって落ち着いた様子で雛里は言う。 「なにを?」 「一刀さんは、お互いを差し出し合うって言っていました。だから、私も」  なんと、彼女はそんなところから見ていたのか。一刀は驚愕する。  果たして、どこまで? あるいは、いつまで?  だが、そんなことを考えている彼をさらなる驚愕が襲う。  雛里がつかつかと寝台に向かうと、そこに腰掛け、しゅるしゅると帯を解き始めたのだ。 「私を差し上げます。お礼に、それから……」  彼女はそこでわずかに手を止め、彼を見る。そこで、一刀は気づいた。  雛里は落ち着いてなどいない。  相変わらず体は震えて、帯を解く手もすぐに布を手放しそうで危ういくらいだし、顔は紅潮したまま、彼女の恥じらいを示している。 「一刀さんを、もらうために」  精一杯の声で、彼女はそう告げた。      (玄朝秘史 第三部第四十八回 終/第四十九回に続く)