玄朝秘史  第三部 第四十七回  1.願い 「よく、調べたね」  一刀は雛里にも座るよう促して、自分も席に着いた。浅く腰掛け、背もたれに深く体をもたれさせる。少々行儀の悪い格好だが、一刀は考えるのに夢中だった。ごまかすつもりはないが、しかし、軽々に扱える話でもない。  雛里はなにも言わなかった。それはそうだろう。間諜を入れてます、とは言わないだろうし、言われてもどうしようもない。一刀自身が把握しているわけではないが、魏から蜀に対しても、華琳の命によるか、あるいは軍師たち子飼いの間諜が潜入していることだろう。それはお互い様というものだ。  しかし、それにしてもあの地図の件は秘中の秘であったはずだ。もしかしたら、今回の白眉の一件で華琳と三軍師が揃って都を離れたのがなにか影響しているかもしれない。それでも、やはり大したものである。  さすがは名だたる鳳雛か。  否。――一刀は頭の中で否定する。  『雛』ではない。既に大きく空に飛び立つ鳳と考えるべきだろう。 「理由を、訊いていいかな?」  どうすべきか考えた末、彼はそう問いかけた。承諾するにせよ、拒否するにせよ、なにもなしに答えを出せることではないと結論づけたのだ。  雛里はそれに小さく頷く。いつものように大きな帽子のつばをひいて顔を隠そうとして、だが、彼女は決意したように帽子を外し、その薄い色の髪を露わにした。 「……えと、その、一刀さんがどう考えていらっしゃるかはわかりません。でも、我が蜀は、三国の中で最も弱小な国家です。国力も小さく、立場も強くはありません。塩と鉱物は他国に比べれば多く産し、それは強みですが、それでも……」  切々と、雛里は蜀の立場――彼女言うところの窮状――を訴える。一刀にしてみれば、被害妄想気味だと思える部分――たとえば、魏、西涼によって囲い込まれる可能性――もないではなかったが、当事者と外部の人間では感じ方も異なる。雛里の不安や未来に起きうる事態への警戒もまた一つの真実ではあるのだろう。 「蜀の現状は……雛里がそれをどう考えているかはわかった。それに対して、なんらかの突破口を得たいと考えているのもわかる。でも、雛里。あれはそこまで詳細な地図じゃない。それほどの益をもたらすかどうかは怪しいところだと思うけどな」  たとえば、蜀から西方への交易路を読み取れるかと言えば難しいだろう。目星が付くという意味では大きな意味を持つが、短期的な実効性があるかというと疑問だ。  雛里はそれに対しても小さく頷く。彼女は細い声に切迫した感情を込めて話を再開した。 「わかっています。……地図の持つ力は第一に情報です。そこがどんな地形でどんな道があり、どんな山がそれをふさいでいるのか。それを知ることは軍事的にも、経済の面でも重要です。しかし、地図に限らないのですが、図というものにはもう一つ重要な役割があります。そこに記されたものをわかりやすく、目で見える形で伝えられることです」 「ふむ……」 「私たちは、よく『大陸』と言います。しかし、その全土を歩いて把握しているわけではありません。いえ、そうしたとしてもそれを頭の中に描き出すことは難しいでしょう。これまでの遠征を通じて、もはや整理がつかないほど見聞を重ねている将軍さんたちはいると思います。でも、それだけでは形にはなりません。見渡すことは出来ません」  一刀はしばし、彼女の言葉について考えてみる。 「それをまとめて示してくれるものが必要になる、か」  こくんと頷いてみせる雛里。その様子に一刀は目の前の少女の静かな熱意を読み取った。 「そうです。そして、未知のものならば、なおさらにそれは有益となります。いろいろなお話……伝承などでこの世界の全体図と言われるものはあります。しかし、そのほとんどは信憑性に欠けます。南蛮の領域についてさえまともに取りあげていない『世界』はたくさんありますから。ですが、一刀さんのもたらしたものは、そういうものとはきっと違うと思うんです。少なくとも、参考にするには十分なはず……です」 「そうだね、たしかに本当に同じ地形かどうかと言うと確実とは言い切れないわけだけど……。時間的な変化というやつもあるし、そもそも、俺の世界とぴったり同じとは……いや、しかしなあ……」  男はぶつぶつと独り言のように呟いた後で、じっと彼の事を期待と怯えの入り交じった顔で見上げている少女に目を戻した。 「君は……いや、君たちは、と言うべきなのかな。この大陸の全貌を知り、それを取り巻く世界を知り、そうして、今後の統治における大方針や覚悟をあらたにしたい。そういう理解でいいんだろうか?」  これまでの話を総合すれば、そういうことになるのだろう。三国の中で不利な立場にある国の政策を進言する立場の雛里――そして、おそらくは意思を同じくする朱里――が、これまでより広い世界を相当の確度をもって知ることは、たしかにある種の力となることだろう。そして、それは、蜀の今後の進む道を変えていくことにもなる。  彼の視線を真っ直ぐ受け止め、雛里はしっかりと頷いた。 「わかっているだろうけど、あれは俺の手元にある訳じゃない」  しばらく目を瞑り沈思黙考していた一刀は、目を見開き、なんとか感情を表に出さないよう努力している様子の雛里を見つめながらそう言った。 「たしかに華琳に渡したのは俺だけど、誰かに見せるというなら、華琳の許しが必要だろう」 「……はい」 「俺に出来るのは、ある人物にそれを見せてくれるよう頼むことだろうな。いや、説得すると言ったほうがいいか」 「じゃあ……」  明るい声をあげる雛里を押しとどめるように手を上げながら、彼は続ける。 「ただし、君たちに見せろというのは難しいだろうと俺は思っている」 「……無理、ですか」 「無理とは言ってない。ただ、難しいだろう。実に難しい」  雛里は何か迷うように視線をさまよわせた。一刀はそれをじっと見ている。 「そう、ですか」  結局、雛里はそう言った。どうしてもと頼み込むこともしなければ、何か交換条件を持ち出すこともしなかった。ただ、悲しそうにその儚い印象の顔をうつむかせただけだ。 「ねえ、雛里」 「はい?」  重苦しい沈黙を破ったのは一刀の実にあたたかな呼びかけだった。諦めて気持ちを切り替えようとしていた雛里が思わずすがりつきそうになるほどの。 「あれを見たいのは、当然、個人的好奇心もあるだろうけど、根本的には蜀のためだよね?」 「……はい。そうなります」 「だったら、もう一つ手がある」  そうして一刀はにっこりと笑った。 「やっぱり一刀さんは優しい……な」  難しい話を終え、彼女の焼いた『くっきー』をつまみながら二人でお茶を楽しんだ後で、雛里は自室に戻っていた。寝台の上で寝間着に身を包みながら、彼女は彼との会話を思い返している。 「桃香に見せるというのが俺の代案だよ」  一刀はそう言ったのだった。それならば華琳も考えてくれるはずだと彼は主張したのだ。  それは、雛里にも理解出来た。  華琳が認める人物はそう多くない。自らの下にいて忠誠を誓うならば、雛里もまたその中に入れるかもしれない。だが、それを選ばない彼女を華琳は認めはしないだろう。一方、桃香や雪蓮は、華琳の下になくても、その存在を認められる人物だろう。立場からしても、当人の器からしてもそう判断できる。  だから、一刀は提案したのだろうし、雛里もまたそれに賛成した。考えてみれば、まずそちらを交渉すべきであったのだ。  それにしても、と雛里は考える。 「甘えちゃってるかな。甘えちゃってるよね」  布団のやわらかな感触を味わいつつ、彼女は呟く。  そもそもあんな風に頼むこと自体、異例のことだ。なにしろ一刀は他国の人間なのだから。  ましてやそれに真摯に向き合い、協力してくれることなど、本来ならあり得ない。しかし、一刀ならしてくれるだろうと期待していたのも事実だ。  雛里は一刀を莫迦だとは思わない。彼にもそれなりの計算があり、信念もある。受け付けるべき要請と、はねのけるべき願いというのはちゃんと区別しているはずだ。  それでも、国家の奥の奥、一握りの人間しか知らないものを、他国の人間が――なかば偶然から――聞きつけたからといって、こちらにも見せるよう頼むなど、儀礼的にもあり得ないことだ。  それでも、彼女は頼み、一刀は承諾した。 「なんで……私」  そんな疑問の声が漏れる。  彼女は自分の行動を疑っていない。あれは必要なことだった。これからの蜀にとって、肝要なことであった。  だが、それでも……。  それでも、男の好意をあてにしていた部分は大いにある。  そして、頼み終えるいままで、そのことを疑問に思わなかった。  それは、彼女が北郷一刀という人物に、とてつもない親しみを感じ、甘えていたことを意味する。  事が成ったいま、彼女はそれを初めて問題としているのだった。 「はふぅ……」  ため息のような声が、彼女の口から漏れる。  己の中にあるなにかと向かい合おうとするように、彼女はじっと暗闇を凝視し続けていた。  2.年頃  成都に居る間、一刀は流琉と翠、それに鈴々と過ごす時間がほとんどであった。  愛紗は蜀に復帰した途端、復帰にまつわる手続きや部隊の再編はもちろん、不在の間の案件、白眉の乱のために一事棚上げされていた事案などに雛里と共におぼれている始末で、文官、武官問わず、何十人もの人物と会談をし、会議を開き、取り決めを行わねばならず、彼を構っている暇がなかった。  星は軍の再編に関しての訓練などに顔を出してはいたが、たいていはいつも通り居所が掴めず、桔梗は美以たちの相手と、愛紗たちの補佐で、これも忙しかった。  そんなわけで、残った面々はたいてい町に出て、忙しい皆の邪魔をせぬように過ごしていたのだ。  いまも鈴々が成都を案内するという名目で、三人を連れ歩いていた。ただし、当人は出店の肉まんを見つけて一足先に流琉と共に駆けていってしまっていたが。 「なんだかなー」 「ん?」  取り残された形となった一刀は翠と歩きながら苦笑する。人通りはあるが、二人を見失う程ではない。いや、普通に歩いていれば、きっと、元気に肉まんを抱えて戻ってくるだろう。そのことは二人ともわかっていたため、あえて足を速めるつもりもなかった。  彼は横を歩く翠にそのまま笑いかける。 「いや、つい、季衣と流琉を相手にしている気になっちゃうよ。洛陽で」 「鈴々に言うなよ、それ。季衣と似てるなんて言ったら、たぶん、怒るぜ」  頭の後ろでくくった栗色の髪を揺らしながら、こちらもあわく笑みを浮かべる翠。 「似てると思うけどね」 「まあ……大食いだし、力自慢だし、ちびっこくてかわいくて、似てるっちゃ似てるけど、でも、あの年頃の子が、他と似てるって言われたら……わかるだろ?」 「そうだね」  おそらくは、従妹とのつきあいで、そのあたりの機微は膚で理解しているのだろう。一刀はそう思う。たしかに微妙な年頃というものはあるものだ。年上の人物からなにか言われるだけで反感を覚える時期というのもあるわけだし。 「まあ、彼女たちは、あれで案外大人だと思うけど」  露店の店主を驚かせているらしい――おそらく、鈴々が食べる数がとんでもないのだろう――二人の背中を見ながら言う一刀に、翠はいぶかしげな顔になり、次いで、その頬を真っ赤に染める。 「ま、まさか」 「うん?」 「まさか、鈴々ももう!」  びっと指さされて、一刀は最初、その意味がつかめなかった。しかし、明らかに紅潮している翠の顔を見て、笑みを強める。 「さすがの俺でも、あんな娘に、真名をもらってすぐに手を出すとかしないよ」  一刀の言葉にほっと息を吐き、大きな声で注目を集めてはしまわなかったかと辺りを見回していた翠は、なにかひっかかるように眉を顰めた。 「それって……手を出さないとは言ってないよな?」 「おいおい」 「だって、実際、流琉とは、その……」 「ま、まあ、そうだけど……」  ひそひそと二人は言葉を交わす。不用意に大声をあげないだけの余裕は翠にもあるらしかった。ふんと鼻を鳴らして、彼女は憎々しげに――と当人は思っているらしいかわいらしい拗ね顔で――言った。 「見境ないからな、一刀殿」 「失敬な。俺が狙うのはかわいい女の子だけだよ。翠みたいな」  これまで以上に顔を真っ赤にした翠の照れ隠しの一発は、一刀の骨まで響いた。 「それはそうと! 漢中へは明日出発だっけ?」 「うん。そうだね。俺たちが着いてから数日もすれば朱里も来るらしいからね。桃香がいつ帰ってくるのかはよくわからないけど……。まあ、桃香とは入れ違いかな」  小突かれた腕をさすりながら答えるのに、翠は残念そうに首を振る。 「そっか。こないだは慌ただしかったから、桃香様ともゆっくり話しておきたかったんだけどなあ」 「しばらく漢中に残る手もあるけど? あるいは洛陽に先行するか」 「いやー、あたしと麗羽と一刀殿は一緒に華琳に会わないとだめじゃないか? 一応北伐の責任者だろう? 蒲公英は金城に残しとくべきだろうしなあ」 「まあ、それもそうか……」  いずれにせよ、漢中に着いた頃には桃香の予定もわかってくるだろう。それを知ってから動いても遅くはないだろう。二人がそんなことを話していると、小柄な影がとたたっと走ってきた。予想通りその腕には肉まんをたくさん抱えて。 「ねーねー、お兄ちゃん」 「ん?」 「鈴々も大人にして欲しいのだ!」  髪と同じ色の布をはためかせて走り寄ってきた鈴々は、そんな爆弾発言をかましてくれた。  やっぱりじゃないか、と言いたげな目で見てくる翠と、顔を真っ赤にして黙ってしまっている流琉。さらに皆の反応にきょとんとした様子の鈴々を連れ、一刀は手近な料理屋に入ると、店主に金を渡して、奥の部屋を借り切った。  あのまま往来で続けていれば、北郷一刀の評判を落とす――あるいは様々な噂を裏付ける――ことになることは間違いないであろうと予測した結果であった。 「あー、えーと、どういうことでしょうか、鈴々さん」  持ち込みの形になった肉まんを鈴々と流琉が食べ終え、さらに、その店の料理が運ばれてきたところで、一刀が訊ねる。流琉は申し訳なさそうに縮こまり、翠は呆れた顔で羹をすすっている。 「ええと、流琉に聞いたのだ。春巻きと流琉を大人にしたのはお兄ちゃんだって」 「り、鈴々さん、声が大きいです!」  部屋の外まで声が聞こえるはずもないが、そもそもの内容が恥ずかしいのだろう。立ち上がった流琉は、鈴々の台詞を打ち消すように両手をぶんぶん振った。 「あー……」  なんだか半分泣きそうになっている流琉と、聞かないふりをしつつもわずかに首筋を染めている翠を見やり、一刀は言葉を選ぶ。 「まあ、それは事実だけど」  それを否定することは出来ないし、したくない。そう言った瞬間、流琉はびくりと身を震わせたが、その唇にわずかに笑みが乗っていたように見えたのは錯覚だろうか。 「でも、まあ、別に急いでやることでもないしなあ」  季衣と流琉の件でも早すぎた感のある一刀である。まして、知り合って間もない少女にそんなことが出来るわけもない。 「早ければいいってものでもないし、時機っていうものもあるしね。焦る必要はないんじゃないかな?」 「そ、そうですよ。特に焦ることはないですよ。そりゃ、私は……嬉しかったですけど……」  ゆっくりと言う一刀の言葉に、流琉が賛同する。果たして後押しになっているかは怪しいものであったが。  だが、鈴々はそんな二人を真っ直ぐに見て、一度だけ首を横に振る。 「鈴々は子供扱いは嫌なのだ」  その声音は真剣だ。拗ねているだとか怒っているだとかいう雰囲気はそこにはない。ただ素直に、彼女はそう感じているのだろう。 「しかし、鈴々は蜀の将軍として戦ってるわけだろう? 十分大人として認められていると思うけど」  戦場に出るだけではなく、そこで結果を出してもいる。ならば、年齢や見た目は問題とはならないはずだ。無理矢理『大人』を目指す必要はない。 「でも、みんな子供扱いするのだ」  それでも、鈴々は抗弁する。その様子に、困った様に流琉は首を傾げた。 「それは、その、私も経験ありますけど……。みなさん、鈴々さんが好きだから……じゃないですかね?」  大事だからこそ、遠ざけられることはある。そのことを、流琉はわかっているのだろう。もちろん、彼女がそれに悔しさを感じていないというわけではないだろうけれど。 「そうそう。俺にしたって、小僧っ子扱いされることは多いぜ。実際、まだまだ経験不足だし」 「でも……。お兄ちゃんは愛紗のことを知っていたのだ」  真っ直ぐに見上げながらきつい調子で言われ、一刀は得心する。 「みんな、愛紗のこと……話してくれなかったのだ」  彼女の握る箸が、みしりと音を立てた。  一刀と流琉は目配せを交わし、男のほうが何か言おうとした時、横から声がかかった。 「別に鈴々が子供だからじゃないと思うぜ」  飲み終えた羹の器を置いて、翠は軽い口調で言う。 「愛紗の件は、桃香様だって知らなかったんだろう? たぶん、あたしがまだ蜀にいても教えてもらってないだろ。大人とか関係ないよ」 「それは……そうかもしれないけど……」 「まあ、急ぎたいのはわからないでもないけど、特に鈴々なんて、無茶苦茶強いのに見た目で損しているって思っちゃうだろうしな。でも、二人の言うとおり、焦らなくていいと思うぜ」  肩をすくめて言う翠の姿を、鈴々はじっと見つめていた。彼女の言葉を聞き終えて、鈴々は目を流琉に移し、そして、最後に一刀に向けた。 「それでも……」  ぐっと唇を噛んでいた彼女はそう押し出すように言った。続く言葉には、腕を振り上げる動作も着いてきた。 「それでも、鈴々は大人になりたいのだ!」 「そっか」  しばらくの沈黙の後、一刀は呟く。 「わかったよ、鈴々」 「一刀殿!?」 「兄様っ!?」 「いやいや、ちょっと待った」  慌てて立ち上がる二人を身振りで抑えながら、一刀は続ける。 「いずれにしても、鈴々はそれの意味することを理解していないだろう? 流琉の言っている意味も、たぶんわかっていないはずだ。それが重大なことで、愛する相手とすべきだってのも知らないんじゃないかな? だとしたら、君にはまだ早い」  立てた指をふるふると振って、一刀は言い聞かせるようにする。 「少なくとも、その実態を君が知るまでは、それはしちゃだめだ」 「じゃあ、教えてくれる?」 「それもだめ。人に頼ってばかりじゃ大人じゃないよ?」 「むー」  考え込んだ鈴々の頬が、いつしかぷっくりと膨らむ。次に漏れた言葉は、彼女のまごう事なき本心だっただろう。 「なんだか狡いのだ」 「まあね」  片眼を瞑って一刀が答え、その場はなんとか収まるのだった。苛ついた鈴々が大食いに走り、一刀の財布の中身をだいぶ減らしたことを別とすれば。  3.懸念 「明日発つ、か」 「そうだな」  夜半、それぞれに酒杯を傾ける影が二つ。一つは真白い着物のすずやかな美女。もう一人は豊かな胸を揺らす艶めかしい女性。 「で、和睦は終えたか?」 「なんのことやら?」  桔梗と星はお互いの酒杯に酒を注ぎながら、そんな会話を交わす。ここは桔梗の私室。すでに隣室では千年が眠りに就いている。 「まあ、漢中でも時間はあろうからな。そう焦ることもあるまい」 「だから、なんのことだ?」 「なにを今更。あの方と諍いを起こしておろうが」 「そちらこそ異な事を。私は誰ともそのようなことはしていないぞ」 「ほう? そうかそうか。それは失敬したな」  呆れたように言う桔梗に肩をすくめる星。だが、そうやって口に出した以上、『諍い』はないのだろう。少なくとも彼女の認識の下では。  だが。 「では、なにをそんなにいらだつ? 趙子龍よ」  桔梗はそう訊ねずにはいられない。目の前の飲み友達は、明らかに普段と調子が違っていた。己をからかうようなそんな態度すら、今日は硬い。 「……さて、そうだな」  星はちろりと赤い舌を出し、酒杯の淵をなめた。 「ある男の危険性を、誰もしっかり見ようとはせんことかな。気づいておる者は目を瞑り、気づかぬ者すらいる始末」 「ほう。危険か。三国一の色男が」 「危険も危険。この国どころか、大陸を潰しかねぬほど」  さすがにその言葉には桔梗は眉を顰める。だが、それ以上なにも表さず、彼女は続けた。 「ほう。なにを潰す? もしあの方が色狂いで身を崩しても、民はなにも変わるまい?」 「全てを、さ」  わずかな逡巡の後に返ってきたのはそんな言葉。 「桔梗よ。あれの……北郷一刀の理想を、お主は知っているか?」 「知らん。知る必要もない。ワシは桃香様の理想に従う身。いかに愛しい男であり、我が子の父であろうと、その目指すところを詳しく知る必要などあるまい。邪道に落ちぬ限りは、止め立てすることもあるまいしな」 「そこだ。まさにそこだ。あの人物は、いかにも優しく見える。いかにも善良に見える。そして、実際に内面もそうだ。少なくとも私が知る限り。そして、近しい者からしてみれば、その心根を知るが故に、彼が成そうとするものをあえて精査する必要はないと思う。そこが問題なのだ」  酒杯をつきつけるようにして、彼女は勢い込む。 「あれが成そうとしていることは、当人の心情など超えている。遥か先にある。だからこそ、怖い」 「わからんな。なにが言いたい?」  笑みさえ含んで、桔梗は訊ねた。内心、趙子龍の動揺など、珍しいものが見られる、と感心している桔梗である。 「北郷一刀は、この世から戦を無くそうとしている」 「……そう悪いことには聞こえんが。ワシらのような武人がずっと戦い続ける世のほうがよほどおかしい」  これは本音であった。  桔梗は戦いが好きだ。個人のものも、兵を率いるものも。それが己の天分と知っているし、楽しんでもいる。  だが、乱続きの世が、ろくでもないことも知っている。  兵を集めるのにどれだけの金がかかり、どれだけの家が犠牲を払い、どれだけの親が泣いているのかを、彼女はよく知っている。 「うむ。悪くない。そう、悪くないのだ。だが、あの桃香様でさえ、戦を止めろとは言わなかった。否、言えなかった。いつか平和をもたらすと約束はしても、いますぐ戦を無くすなど約束は出来なかった」 「当たり前であろう」 「だからこそ、だ」  星は桔梗の無理解を責めるように続ける。 「無くせるわけがない。いや、無くせるのかもしれぬ。だが、それは遥か先のことだ。それに」  奇しくもかつての旅仲間が、一刀の成すべき事を伝えられた折に見抜いたように、星もまた同じ結論を導き出していた。 「戦を無くすために――その大義のために、どれだけの戦が起きると思う?」 「ふうむ」  そこまで言われれば、星がなにを問題としているか、桔梗にもわかってきた。  戦争を無くす、それが出来るかどうかすら、桔梗にはわからない。しかし、それを目指すことはけして間違っていないはずだ。  だが、そのやり方一つとっても、おそらくは意見が分かれる。そして、そのために新しい戦が起きかねない。  土地や収穫を得るための戦ではなく、考えを争うための戦が。 「はじめは面白いと思ったものさ。この世から戦を無くそうとはな。だが、だんだんと恐ろしくなった。あの人物を知れば知るほど」  星は皮肉げな笑みを浮かべた。その様子が普段と変わらないことが、桔梗にはいいことなのか悪いことなのかよくわからない。 「なあ、桔梗よ。あれを夢想家と思うか?」 「それは桃香様と比べてか? 華琳殿と比べてか?」 「誰と比べてもいいさ」 「そうだな。かなりの夢想家ではある。だが、現実を知らぬわけではない。白眉討伐の大元の絵図を描いたのはあの方なれば」  ふふん、と星が笑う。その声は実に楽しげに聞こえるが、どこか余裕がない。 「そう。知っている。知っているはずなのだ」  それなのに、と星は身震いする 「なぜ、あのような事を言ってのけられる」  その視線は桔梗を見ていない。深い臙脂色の瞳は、灯火を受けて煌めいているが、目の前のなにをも映していない。そこにあるのは、きっと、いま語られている人物のことだろう。 「ははあ」  その有様を見て、桔梗はようやく得心した。 「結局、お主、怖いのか」 「ああ、そうだ。恐ろしい。あやつはなにを根拠にああ言える? 華琳殿の寵愛だけで全てが動かせると思うほど愚かだと思いたい。しかし、共に戦った経験がそうは言わせてくれぬ。あれはけして天地に二人とないほどの秀才ではないが、自分の分を知らぬほど自惚れ屋でもない。となれば……」  彼女が懇々と一刀とその理想のことを語る様子を、桔梗はその唇に笑みさえ刻みつつ見つめている。琥珀色の瞳に揺れる光には、目の前の友が語るような疑念など微塵も感じられない。 「違う違う」  桔梗は星に気の済むまで話させてから、ぱたぱたと手を振った。北郷一刀を警戒すべき要因をいくつも語っていた星はいつの間にかうつむいていた顔をあげるとすっと眼を細めた。 「なに?」 「踏み込むのが怖いのよ、主は」  拍子をとるように、桔梗は告げる。 「あの方に惚れるのが怖いのよ」  目の前の、一人の女性に。 「……莫迦を言うな」 「ほう? 莫迦と言うか。だが、星よ」  酒瓶を引き寄せ、星の酒杯に注いでやりながら続ける桔梗。 「恐れているのはあの方か? あの方に興味を持ってしまう己か? よっく考えてみよ」  からからと、彼女は笑った。髪に挿したかんざしが鳴るしゃらりという音が、星には癇に障ってならなかった。  4.大使 「はい、じゃあ、今日の授業はここまで。いい? ちゃんと復習しておきなさいよ」 「はーい」  ひょこひょこと猫耳の形の頭巾を動かして彼女がそう言うと、目の前で座っていた子供たちが声を揃えて返事する。商家を改装して作られた寺子屋――学校と言えるほどの大きさではない――に並べられた机に荷物を出して片付け始める子供たちに向かって、桂花はさらに念押しする。 「じゃあ、さっさと帰りなさい。いいかしら。さっさと帰って勉強よ。物事は早い内に復習すれば、時間がかからないんだからね。今日だけは、遊びに行くんじゃないわよ」 「はーい……」  言い聞かせる声に対する返事は、さっきほどの元気さが感じられない。皆で集まる機会なのだから、後は遊びに行く予定をたてている子供が何人もいるのだろう。だが、その反応からすれば、素直に言うことを聞くつもりなのかもしれない。  ふと、片付けをしている子供たちのうち何人かが桂花に声をかける。 「猫耳せんせー。次の授業はいつー?」 「十日後よ。決まってるでしょ」 「違うよー。猫耳先生の来る日だよー」  ちび先生と呼ぶと怒り出すため、最近は猫耳先生と呼ばれるのがもっぱらな桂花であった。 「ああ、そういうこと。ええと、次は……来られるかしら、ちょっと待ちなさいね」  胸元を探り、予定を確認する彼女の横を、一人の子供が通り過ぎていく。かわいらしい服を着た彼女は桂花の横を通るときに、ぺこりとお辞儀をして元気に歩み去っていった。 「桂花お姉ちゃん、さよーならー」 「はい、さようなら。ええと、そうね、次は来られるわ。まあ、急な予定が入らない限りね。って、あら?」  子供たちに答えてから、桂花は小屋の中を見回す。彼女は兵が立つ出口まで走って道の左右を見渡した。 「さっきのって、璃々? ちょっと、一緒に帰らなくて……。いない」  そこに、求める顔はなかった。 「ふんふふふーん」  桂花がきょろきょろと辺りを探している頃、当の璃々は、ご機嫌で鼻歌を鳴らしながら、道を歩いていた。その歩む先はちゃんと宮城を目指している。  筆が入った袋をぶんぶん振り回しながら歩いていた彼女は、向かう先に見慣れた人影を見つける。 「あ、お母さんだ」  豊かな胸と優しい顔。彼女が大好きな母は、隣を歩く女性と談笑していたが、璃々が声をあげると途端に彼女を見つけた。 「おかーさーんっ!」  たたたっと駆け寄り、思い切り飛び上がる。そのまま胸に飛び込んでいくと、横を歩いていた女性が紫苑の後ろに回り、倒れないように支えていた。 「まあまあ、危ないでしょ。ありがとうございます、桃香様」 「いやいやー」  赤みがかった髪の蜀の女王は照れたように笑う。母の体にしがみついたまま、璃々は彼女に挨拶した。 「桃香お姉ちゃん、こんにちは」 「こんにちは、璃々ちゃん。お勉強お疲れ様」 「璃々疲れてないよー」 「そっか、偉いねー」  璃々はよじよじと母の体から降り、荷物を紫苑に渡すと、右手を紫苑、左手を桃香につながれて、きゃらきゃらと楽しげに歩き出した。 「そういえば桃香様、ご出立はいつですの? 魏のほうにも知らせておいたほうがよいと思いますけれど」  しばらく歩いたところで、紫苑が切り出すのに、璃々が桃香を見上げる。 「桃香おねーちゃん、帰っちゃうのー?」 「ううん、璃々ちゃん。帰らないよー」  寂しげに訊ねたのに否定することで璃々はほっとした顔で次の興味に目を向けたが、その母の方はそうはいかなかった。 「桃香様?」 「しばらくは戻らないんだよ。だって、私が次の大使だし」  凍りつく紫苑の笑みと、その舌。彼女が脳内で事態を処理するまで、桃香はにこにこと見守っていた。 「……はい?」 「だから、蜀からの大使」 「ご冗談……ではないようですわね?」  桃香の平静な表情に、紫苑は空いている方の手を頬に当てて言った。 「各地に、出張所みたいなのを作るって話はしたよね? 政府の意見を広めるために」 「ええ、聞きましたが、それが……」 「それでね、大使とその各地の都督みたいな人をあわせると、どうしても人材が足りないんだって。愛紗ちゃんが帰ってきたけど、いまの状況じゃ成都から出すわけにはいかないでしょ。洛陽なんて以ての外だよ。だから、私が大使。格的にも問題ないでしょ?」  それはそうだろう。王以上の格などありえない。  しかし、王妹であった蓮華が大使だった例があるにせよ、王そのものが他国に大使に来るというのは誰も想定していない事だろう。 「あの、桃香様? 桃香様は王なのですよ?」 「うん。そうだけど、でも、いまは平時でしょう? 王がどうしてもすぐに決めないといけないことってそこまで多くないと思うんだ。もちろん、私だって、蜀の運営を放り投げたりしないよ。ただ、大きな方針は私で、細かい所は愛紗ちゃんや朱里ちゃん、雛里ちゃんでなんとかなるって思うの」 「それは……不可能ではありませんが……。でも、そのようなこと、華琳さんが……」  くらくらしながら、紫苑はなんとか言いつのろうとする。母たちの手を引っ張る璃々の存在だけが、彼女を現実に引き留めていた。  だが、さすがに次の言葉には驚愕以外の感情を抱くことはなかった。 「華琳さんもいいって言ってくれたよ?」 「ほ、本当ですの?」 「うん」  桃香は言いながら、華琳とのやりとりを回想する。 「あのね、華琳さん。部屋を移ってもいいかな?」 「あら、なにか不備でもあったかしら? いつも使っているところのはずだけれど?」  桃香に茶をごちそうしてくれながら、魏の覇王は小首を傾げたのだった。 「ううん。そうじゃなくて、紫苑さんの部屋と行き来が面倒なの」 「あら、そうだったかしら……?」 「えと、前はそうじゃなかったんだけど、なんだか工事をしているみたいで……」  桃香が説明するのに、華琳はぽんと手を打つ。 「うっかりしていたわ。この間の火事の補修工事をしているから、大回りしないといけないのね。悪いことをしたわ、ごめんなさい」 「気にしないで。それで、私が大使の部屋でいい?」  引き継ぎしなきゃいけないしね。  なんだかもごもごと言っている桃香に少し疑問を抱きながらも華琳は快諾してくれた。 「ああ、そうね。一人に減らしてから、大使の部屋は空いているし。あそこでいいなら、すぐに手配するわ。焔耶もそれでいいの?」 「うん。焔耶ちゃんは私の部屋にいたいって」 「わかったわ。じゃあ、午後にでも誰かやるわ」 「ありがとう」  そんな風に、事はなったのだった。 「うん。ちゃんと認めてくれたよ」  一点の曇りもない笑顔で、桃香はそう言い、もはやなにも言えなくなってしまう紫苑であった。  璃々たちが歩いている洛陽から、約三十里。とある邑の邑長の家に隣接する家畜小屋。  見かけは家畜小屋であり、実際に申し訳のように牛が繋がれてはいるものの、その内部は地下が大きく掘り下げられ、そこに執務室のような空間が作り上げられていた。  その中央の机に座るのは長い黒髪を垂らす少女。彼女は机に置かれた報告書を読んでは破り捨て、あるいは削り捨て、焼き捨てることを続けている。 「やはり、今回の騒動で、一番得をしたのは蜀ですかね」  結論づけるように明命は言い、手に持っていた竹簡から文字を削り落とし始める。  洛陽の混乱は各国の諜報活動に多大な影響を与えていた。  叛乱を起こされた魏は当然引き締めにかかるし、呉は幾人かの情報提供者を失い、市井に忍ばせた協力者も失っていた。一方で蜀はこれまで進展していなかった浸透活動を一気に進めたらしき痕跡がある。実際にどこまで進んでいるかは今後はっきりするだろうが、進んでいたものを阻害された呉と、進展のあった蜀では士気にも差が出て来るというものだ。 「とはいえ、なんとかなる範囲でよかったです」  文章の中身がわからぬよう、しかし、なにかあるのではないかと思わせるような程度に削った竹簡を、彼女は脇に寄せる。塵は塵で使い道があるのだ。 「……ん? これは……」  次に手に取った報告に、明命は不思議そうな顔になる。それは、ごく最近の報告であった。白眉の混乱を収めに来た当初の目的とは離れるので後回しにされていたのだ。 「ま、まさか!」  そこに思っても見なかったものを彼女は見つける。 「こ、こ、これは穏さまに! いえ、蓮華様にお知らせせねば!」  洛陽での部下のとりまとめなど忘れ果て、あわあわと、明命は筆をとるのだった。  5.漢中  翠と流琉は当然として、愛紗の提案通り、蜀からは星に鈴々、雛里が一刀に同道することになった。  美以たちも着いて来たがったのだが、子供たちに南蛮の土地を長く味合わせてやるべきだということで、一刀たちが成都を発つとほぼ同時に南蛮に帰っていった。いずれにせよ、年始には洛陽に来る予定なので、永の別れというほどでもない。  愛紗も桔梗も湿っぽい別れを演じたくはなかったのだろう。成都での出立は厳かながら、派手派手しいものではなかった。彼らは穏やかに言葉を交わし、成都を発った。  そうして、漢中に着いてみれば、予想外の驚きが待っていたのだった。 「……ご主人様。お帰り」 「随分遅かったのですよ」  南鄭の門の前で待っていたのは、天下無双の武人とその軍師。恋とねねであった。 「あれー、恋にねね。どうしたのだ?」  蜀の面々も知らされていなかったらしい。鈴々がびっくりして訊ねる。それに対して、恋がぽつぽつと答える。 「……みんなで、くじ引きした。恋、勝った」 「ふふん。恋殿は無敵なのですよ!」  いや、それは微妙になにか違うと思う、と誰もが思ったが、もちろん誰もつっこまない。 「翠に任せておけばいいと言ったんですが、あのくるくるおばさんがしつこく誰か行った方がいいと言うのですよ」  麗羽か、と一刀は苦笑する。あちらとしてみれば、白眉の様子などわかるはずもない。心配するのもしょうがないかもしれない。  彼は流琉に目をやった。  微笑んで小さく首を振られた。気にしていませんよ、というところか。 「金城には、蒲公英がいる。なにがあっても大丈夫」  そう恋が断言して、翠が安心したように頷いた。 「ともあれ、旅の疲れを癒やすとしましょうか。そちらとしても、朱里が来るまで待たねばなりませんしな」 「そうだね」  星が促して皆が入城し、その五日後に、朱里が荊州から漢中へ帰還した。  南鄭の城中を、黒く大きな外衣に身を包んだ小さな姿がとぼとぼと歩いていた。 「むー。恋殿といい、あの莫迦といい、どこに行ったのですかー」  八重歯でぎりぎりと唇を噛みしめてはぶつぶつ呟くのを繰り返しているのは、音々音だ。大熊猫の標のついた帽子はうつむいているために落ちかけてその頭の上でゆらゆらと揺れている。 「ううむ……。仲間はずれにされているわけではないと思うのですが……」  そんなことをぼやきつつ、小腹の空いたねねは厨に近づいていた。夜はまだ遅くないために誰か居るだろうとは思ったが、なんだか妙に賑やかだ。 「あ、ねねちゃん、ねねちゃん!」  足を踏み入れた途端、朱里にそう声をかけられる。どこか切迫したような声だった。 「おや、どうしたですか?」  見れば朱里に雛里、それに鈴々がいる。彼女たちの囲む卓の上に、洛陽ではよく見る焼き菓子があった。 「えと、その、流琉ちゃんに教えてもらったお菓子を鈴々ちゃんにごちそうしていたんですけど……」 「その、鈴々ちゃんが、えっと、その……」 「なんです?」  ねねも卓につき、茶をもらう。しどろもどろの朱里たちに対し、鈴々は実に元気に声をあげた。 「鈴々は、大人になる方法が知りたいのだ!」 「大人……ですか?」 「うん。お兄ちゃんに訊いてみたけど、中身を知らずに求めるのはいけないって言われたのだ。でも、一人で調べてもわからないから、朱里たちに訊いてるのだ」  その言葉に、ねねはしばらく考え、顔を赤らめている二人を見て、ようやく納得の声をあげた。 「あー……。あーあー」  呆れたように彼女は声を漏らし続ける。 「そういうことですか……」  ねねは疲れたような笑みを浮かべて鈴々を見て、次いでちょいちょいと朱里と雛里を指で招いた。 「ちょっと相談するですよ。ねねたちで教えられるかどうか考えてみるです」 「わかったのだ」  頭を寄せてきた朱里と雛里に、ねねは囁く。 「ずばっと教えてしまったほうがいいのではないですか? あの様子では、知るまで諦めないでしょう」  三人はお菓子を頬張る鈴々をちらっと見る。朱里と雛里という知恵者がいるのだから答えはあるだろうと信じ切っている様子だ。あの様子では答えを得るまでは納得することはないだろう。 「でも、でもですね。私たち、そんな……」 「……えと、そんな経験ありませんし、その……」  膚を紅潮させもじもじと体をくねらせる二人。その様子にねねは大きくため息を吐いた。 「全く、それでも世にも名高い臥竜、鳳雛ですか。ねねですら……あ、いや……」 「ね、ねねちゃんはあるですか?」  語尾を濁すねねに、目を丸く見開いて訊ねる雛里。それに対して一転首筋まで紅色に染めて頷く音々音の体はわずかに引けていた。 「……う、ま、まあ……」  途端、二人の声が跳ねた。 「あるんですかっ!?」 「わっ、びっくりしたのだ!」  部屋中を轟かせるような声に、鈴々さえ驚きの声をあげる。だが、鈴々のそんな声も聞こえた様子もなく、朱里と雛里はさらに身を乗り出して、 「じゃ、じゃあじゃあ、ねねちゃん。教えてください!」 「教えてください!」  と急き立てる。鈴々もまた面白そうに朱里たちの体の間に身を滑り込ませてきた。 「ねねが教えてくれるのか?」  きらきらと期待に輝く瞳が三対。  その圧力に押されて、ねねは椅子ごと後退しようとして、がっと両側から椅子を押さえられた。 「……こ、これはもしかして……」  話さないとだめな雰囲気という奴ですかー、とねねは心の中で救いを求める叫びをあげるのであった。  どうやっても逃れられないと諦めた音々音が語り出したのは、一刀たちが漢中に着いた晩の出来事。 「ご主人様、疲れてない?」  薄暗闇の中、柔らかな恋の声が問いかける。それに答える声は、疲れよりももっと別な感情に濡れている。 「んー、疲れすぎて眠れないって感じかな。だから、相手してくれたらとても嬉しい」 「ん。恋も嬉しい」  二人の交わす声はとても柔らかで、そして、とてもあたたかい。けれど、ねねは並んで寝転がる二人の姿を見て、体が熱くなるのを感じずにはいられなかった。  愛しい恋の体はしなやかで力強く、そして、美しい。  もう一人の人物も服を着ている時には想像できないほどたくましく、頼もしい。そして、なにより……。 「うう。嬉しいとかなんとか言っているちんこ人間の本体めが、既にのっぴきならねえことになってるのです」  そのものは、既に高くそそり立ち、彼の腹にぴったりとくっついている。あんな化け物のようなものが、恋はもちろん、ねね自身の中に入るということが、いまでも信じがたかった。そもそも、筋肉より硬いとは、どういう理屈なのか。 「しかたない。これは種族維持本能だから」 「ほんのう?」 「うん。個体が疲れれば疲れるほど、それは死に近いだろう? だから、体が命の危機と錯覚して、子孫を残すべく頑張ろうとするんだって」 「は、はあ。それにしても……」  ねねが不審げに言うのを、男は笑っていなす。 「まあ、本当かどうかは知らないし、今日は、もっと違う理由だと思うけど」 「なぁに?」  膚の上をゆっくりとなでる掌の動きに、既に濡れた声音で恋は訊ねる。 「久しぶりに大好きな二人とこうしているからさ」 「うう、こっぱずかしいこと言うなー!」  げしげしと男の腿を蹴るねね。しかし、その言葉に、たしかに彼女の胸は高鳴っていたのだった。  力が抜けて横たわる恋の上で、ねねは一刀に貫かれていた。  何度か達したからだろう。しばらくは動きたくない様子の恋は、片手を伸ばし、一刀の動きの一つ一つに声をあげ続けるねねの頭をゆっくりなでている。  ねねのほうはその感触からも快楽を得るのだろう。恋の指が彼女の髪の間を通る度、嬌声が一層艶を増す。  対抗するように一刀はねねの腰をがっちりつかみ、小さな体の奥まで己の肉の棒を押し込める。その圧力に、その動きに、その屈曲に、ねねは声をあげる。  もはや多くの言葉を発するだけの余裕は彼女にはない。  意味のある言葉は五つだけ。  恋殿。  気持ちいい。  ねね。  大好き。  子を下さい。  痺れるような感覚ととろけるような感覚が同時に彼女を襲う。  彼女は幸せだった。  体を重ねていることがではない。  体を重ねることで、それ以外の時もまた真実であると知れることが、彼女にとってなによりの幸せだった。  じゃれあうのも、憎まれ口を叩くのも、一緒にご飯を食べるのも、犬たちを連れて遊びに行くのも、昼寝をするのも、戦場で指揮をとるのも、献策するのも。  何気ない一時が全て思い出され、そして、快楽の中でひときわ輝く。  もはやねねにはなにもできない。できるのは、ただ、思い出を味わい、いまこの時を味わい、二人の動きを楽しむことだけ。  男の体の動きが変わる。  そのものが跳ねる動きが変わる。  そして、彼の動きが止まり、体の中に注ぎ込まれる。 「音々音」  優しく、柔らかく、耳元で名を呼ばれて、彼女は達する。  右手は恋の指を。  左手は男の手を。  力一杯握りしめながら。  いつの間にか、厨には恋と星までがやってきていた。恋は星のメンマの試作品を食べさせてもらっていたのだとか。しかし、途中から恋が話に加わったおかげで、 「それはちょっと嘘。ねねはあの時、ご主人様のものが入った途端、達していた」  とか、 「あの白いのを放ってる時のご主人様の顔はとってもかわいい。放たれてるねねもかわいい。でも、ねねはたいてい、その時は、恋に反応できないくらいになってる」  等と補足が入り、閨での様子はさらに克明なものとなっていた。  そして、最後まで話し終えたところで、恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、ねねは走り去ってしまい、恋もそれを追った。  残された四人のうち三人は膚を上気させており、一人はよくわからないというように首を傾げていた。 「す、すごかったですね」  雛里の背をさすりながら、朱里が言う。雛里は先程から小さくあわわと呻き続けていて、朱里の動きにも反応がない。 「そ、そうだな」 「星さん?」  かすれたような声に、朱里は顔をあげるが、すでにその時、星は立ち上がっていて顔がよく見えなかった。 「うむ。面白い話を聞いたな。では、私はこれで」  二、三度咳払いして彼女はそう続けて立ち去った。しかし、口元を袖で隠しているためか、随分くぐもった声で、普段の星の声にはまるで遠かった。 「あの、じゃあ、私も雛里ちゃんを送ってきますね」  星が出て行くのを見ていた朱里もなにか吹っ切るように頭を振り、まだあわあわ言っている雛里に肩を貸しながら、歩み去る。  そして、厨では、一人残された鈴々が真剣な顔で何か考え続けていた。      (玄朝秘史 第三部第四十七回 終/第四十八回に続く)