玄朝秘史  第三部 第四十三回  1.来訪 「ぐええっ」  なにかこの世のものならざるものを見てしまったかのようなおぞましい苦鳴が天幕の中から聞こえてきて、流琉は思わず小さく悲鳴をあげた。 「兄様!?」  中にいるのは一刀だけ。となれば、先程の怖気をふるう声は彼のものであるはずだ。しかし、どんなことがあればあんな声を出せるのか。  流琉は恐怖を押さえつけて天幕の布を払おうとした。だが、彼女の手がかかるより早く、当の一刀がそこをくぐり抜けて出てきた。 「あ。大丈夫、大丈夫。寝ぼけただけだから」 「えぇっ!?」  寝ぼけていた? あの声が? 「で、でも、さっきの、なんか……。え? あれ?」 「変な声あげたなんてみんなには内緒な。恥ずかしいからさ」  素っ頓狂な声を上げて混乱する流琉であったが、一刀に拝まれるようにして言われると、それ以上なにも言えなくなる。 「それより」 「はい?」 「ちょっと、歩こうか、流琉」  くいと顎で示されて、流琉の顔は明るくなる。一刀が思索のためでもないのに天幕で一人きりで籠もっているなどよほどのことだが、外に出る元気が回復したのなら、それは本当に喜ばしいことだ。  だから、彼女は勢い込んで頷く。 「はいっ」  二人は夕闇に沈みかける陣の中を歩き出した。魏軍に呉軍まで加わったことで、陣自体がずいぶん広がっていた。  しばらく歩いていると、なんだか賑やかな音楽が聞こえてくる。 「ん? あれ、天和たち今日もやってるのか」  見れば、篝火を集めて明るくなった舞台が遠目に浮かび上がっている。 「はい。二曲だけだったと思いますけど。なんでも、この間の決戦で新曲を披露しそびれたとか」 「さすがに大一番だし、歌い慣れたのにしたのかな。それにしても元気だな」  しばらく前までごろごろしていたはずの地和を思い出しつつ、一刀は微笑む。明るい歌声とそれに対する歓声に、そんなだらけた雰囲気は微塵も感じられない。 「大活躍だったみたいですね」 「うん。本当に助かった。それに無事でよかったよ。しっかりねぎらってあげたいな」  舞台の上で跳ね回る三人はここからでは小さい人形のようにしか見えない。けれど、その様子を眺めている一刀の表情はとても柔らかい。その横顔を見上げて、流琉は複雑な感情を抱いてしまった。 「私も……」 「ん?」 「しゅ、春蘭さまも、すごかったと思いますよ! こんなに早く着けるのなんて、魏軍でもすごいことですよ。それは、もちろん、張遼隊とかはありますけど、でも、その……」  思わず言ってしまってから、流琉の首筋は朱に染まる。なにもそんな風に功を誇る必要などありはしないというのに。 「ああ、そうだな」  だが、一刀はにっこりと笑って頷いてくれた。 「春蘭と流琉がずいぶん早く来てくれたおかげで、かなり圧力をかけることが出来たし、なにより、やつらに逃げられないと思わせられたからね。本当にありがとうな」 「い、いえ、その……」  さらに赤くなって縮こまる流琉。優しく言われるほど恥ずかしさは募った。彼が本当に感謝してくれていることはよくわかっているだけに。  狼狽を押し隠そうとしている少女の横で、男の体がすっと下がる。耳元に近づけられた口から密やかな声が彼女に伝えられた。 「ねえ、流琉」 「はい?」 「今晩、流琉の天幕に行っていいかな?」 「わ、私のですか? って、え、兄様?」  言われていることの意味がわからないほど流琉は莫迦でもないし、鈍感でもない。まして、誘われたことに不満があるわけもない。だが、二人で過ごすなら、流琉の天幕は春蘭のそれに近すぎるし、だいたい、一刀の天幕でも……とそこまで考えたところで、彼女の返事を待つ彼の顔を見上げて、どうでもよくなった。 「う……。え、ええと、はい……」  消え入りそうな声で、しかし、彼女はしっかりと頷く。一刀が頷き返したところで、彼女は怒ったような顔つきになった。 「で、でもですね。片付けたりしないとだめですし、その……」 「うん。まあ、俺もちょっとやることがあるんで、その後でってことで。ともあれ歩きながら決めようか」  数え役萬☆姉妹の歌も既に終わっている。一刀は彼女を促して、歩き出した。 「はい」  そうして二人は陣の散策へと戻るのだった。  流琉と別れて天幕の前に立つと、一刀は体を大きく動かして一つ息を吸った。それから、ぱっと布をまくり、さっと中に入る。まるで中の様子を見せまいとでもするかのように。  そこに広がっているのは、肉色の世界だった。  筋骨隆々の半裸の大男が二人、天幕の中では待ち構えていたのだった。  この化け物――もとい二人こそ、天幕の地面から飛び出してきた肉の塊であった。だが、どうやって処理したのか、土などは天幕の中にない。埋め戻したのか、捨てたのか。一刀は深く考えないことにした。 「待たせたかな」 「うふん。これくらい、たいしたことはないわよん」 「うむ、気にするでないぞ」 「そ、そう」  相変わらず強烈だな、と一刀は独りごちる。なにしろ筋肉の塊とも言うべき大男が片眼をつぶりながらしなをつくっているのだから。もう一方も腕を組みまじめくさっているように見えるが、ふんどしに一枚羽織っているだけで、それなのに首周りだけは飾っているのがなんとも不思議な装いだ。しかも、その胸についている純白の布当てはなんだろうか。  二つの巨大な肉のためか、三人しかいないというのに天幕内は随分手狭に思えた。ともかく、三人は座り込んで話し出す。 「久しぶりと言うべきだろうな、二人とも」  一刀は彼らのことを知っている。しかし、本当に何者かは知らない。ただ、一刀にとって恩人であるという事実はわかっていた。それで十分だった。 「そうねん。わたしなんてご主人様がこちらに来て以来ですものねん」 「儂はあの祭りの街以来か。そうそう。儂のことは卑弥呼と呼んでくれぃ」 「卑弥呼、か……」 「うむ」  その呼称に多少のひっかかりは覚えるものの、彼はそれをひとまず呑み込む。もう一人の貂蝉――なぜか彼をご主人様と呼ぶ人物――に向けて視線をやり、一刀は訊ねかける。 「あんたたちが来たってことは、やっぱり天師道は……」  語尾を濁す。彼の言葉に貂蝉と卑弥呼は揃って頷いた。 「ええ。でも、その話をするためにも、話しておかなければいけないことがあるのよん。わたしたちはそのために来たのよ」 「忠告であり、警告でもある。さて、聞くかな、青年」  卑弥呼の問いかけは、実に重々しいものであった。  2.諸派  一刀の瞳に思案げな光が揺れる。けれど、口から出た言葉にためらいはなかった。 「ええ、もちろん」 「うむ、さすがよ。しかし、貂蝉。お主、どこまで語ったのだ?」 「本当にあらましだけよん。なにしろあの時のご主人様ったら、なにを言ってもあんまり頭に入りそうになかったんですもの」 「すまん。あの時は本当に余裕が無くて」  禿頭から両側にだけのびる三つ編みを弄って困ったように言う貂蝉に、一刀は苦笑いを浮かべる。 「しかたないわよねん。みんなと引き離されて、絶望と戦い続けていたんですものねえ」  照れくさそうにさらに笑みを深めてぱたぱたと手を振る一刀。その様子に貂蝉と卑弥呼もまたその顔に深く雄々しい笑みを刻んだ。 「俺の理解をまず話そうか?」 「そうねん。それが助かるわん」 「うん。じゃあ、そうしよう。ええとね、そう、いろんな並行世界があるって感じかな。いまいる世界、俺のいた世界、その他にも色々な世界がある。ただし、単なる並行世界というわけではなくて、外史と呼ばれるそれらの世界は、正史……だったっけ、そう呼ばれる世界の人々の想念から生み出されている。いわば、物語の世界みたいなものだっていう説明だったと思うけど……」  そこで彼は複雑な表情になって腕を組む。どうしても納得がいかないというように。 「でも、やっぱり自分が物語の登場人物だと考えるのには抵抗があるね。以前、華琳と胡蝶の夢の話をしたことがあるけど、なかなか実感として抱けるものじゃない」 「ふむ、悪くない理解であるな。しかし、誤解してはならんのは、大きな流れの中にあるからといって、全てが定められているわけではないということよ。登場人物とはいえ、石版に刻まれた文字だけで表されるわけではない」 「そうねん。時代の流れの中で、人の選択が成されていく。それは大きな……世界というものすら覆しかねない。だからこそ、わたしたちは……。いえ、いまはそれについてはおいておきましょう」  遠い目になっていた貂蝉は何かを振り払うように首を振る。その勢いでばちんばちんと三つ編みが彼の禿頭を打った。 「あんまり哲学的な話は、ぐるぐる考えがまわっちゃいそうだしね」  最初に目の前の人物に話を聞いた時もそうだが、認識が難しいくらい大きな世界の仕組みを掘り下げることより、彼にとって危急の関心が他にある。なにか恐ろしい事が起きているのではないかという懸念が。 「じゃあ、本題に入るわねん。ご主人様のような外史の住人たちには本来関わりのない話なんだけどね。外史の外側にはいくつもの外史を行き来したり、干渉できたりする存在があるの。まあ、とりあえずはわたしたちもその一員と考えてもらっていいわん」 「そして、その存在の中には外史というものに対して、様々な考えを持つ者たちがいる」 「ふむ……」 「誤解を恐れずに言うならば、派閥みたいなものと言えるでしょうねん」  派閥という単語を耳にして、一刀は顔をしかめる。 「いずこも同じだなあ」 「ふふん。多くの者が集えば何らかの集団が出来る。しかたのないことよ。それに、一つの目標に手を携えるのは必ずしも悪いことではあるまい?」 「それはそうなんだけど、もっとこう超然としたものかと思ったよ。二人からしてえらい迫力だし」  にんまりと貂蝉は微笑んだ。まるで一刀の意見を面白がるように。 「とにかく、いろんな子たちがいるのよん。外史は時に正史にも影響を与える。それを重視して徹底管理すべきって連中もいれば、より過激に、管理しきれない外史は潰してしまおうって強硬派もいるの」 「おいおい……」  剣呑な響きに、一刀の顔が青ざめる。しかし、彼の目の前で太い指が左右に振られた。 「もちろん、そんな過激な奴らばかりじゃないわよ。外史の自然な発展を見守るべきだって人たちだっているわ。わたしたちはあえて分けるならこの一派ってことになるかしら。中にはもっと積極的に外史の突端を生み出していくべきだって考える子もいるけどねん」 「ともあれいま問題なのは管理者として振る舞っている連中のほうよの」 「どういうことかな? まさか狙われて!?」  危険な想像をしたのか思わず立ち上がろうとした一刀の肩に卑弥呼の手が乗り、彼を押さえる。その掌の分厚さに、彼は言いしれぬ戦慄と頼もしさを同時に感じていた。 「落ち着くのだ、青年」 「う、うん」 「あらん、ずるいわ、卑弥呼。どさくさ紛れにボディタッチなんて」 「なにを言うか。ただ、儂は焦らずともよいと……」  野太い声が、内容だけは妙に浮ついた会話を交わす。その異様さにひるみつつ、確かに不安感は消え去っていると気づく一刀。 「と、ともかく続けてよ。しっかり聞くことにするよ」 「うむ。良い態度だぞ、青年。さて、狙われていると言ったが、それは当たらずといえども遠からずといった所だ。だが、直接的な干渉は気にせんでいい。この貂蝉がそれを不可能としたからな」 「その通りよ。強硬派の中でもいっちばん過激な子たち――すでにある外史に直接的に干渉して、外史そのものを消し去ろうとする一派――の実働部隊の子たちは、しばらく動けないようにさせてもらったわん」 「それは一安心……なのかな? だとしたら、ありがとう、貂蝉」  一刀が頭を下げるのに、貂蝉はぽっと顔を赤らめる。  実に不気味であった。 「あらん、いやだわん。ご主人様にお礼言われちゃった!」 「うう、ずるいのだ!」 「いや、そういうのは後にして欲しいかな」  お下げをふりふり、しなをつくって照れる貂蝉に、ぎりぎりと歯を食いしばって悔しがる卑弥呼。  なんとも暑苦しかった。 「でも……直接的なものはなくなっても、間接的にはなにかあったりするんだろう? その口ぶりだと」 「うむ、さすがの明察である」  話の流れから推察して言うのに、卑弥呼は頷く。そして立派な髭をしごきあげながら、衝撃的な言葉を彼に告げるのだった。 「外史の管理を指向する者のうち、邪魔な――と奴らが勝手に定めた――外史を消し去ろうとするのがいわば過激派の連中であるな。これに対して消そうとまではいかないものの問題の起きそうな外史を隔離して他に影響を与えないようにすべきだとする、いわば隔離派の連中がいるのだ。現状、この外史はこれら二派協同の干渉を受けているのだ」 「どういうことかな……?」  ごくり、と唾を飲み、彼は先を促す。 「先程も言ったように、貂蝉が過激派の手駒を押さえたために、過激派は直接干渉手段を失った。少なくともしばらくはな。そこで隔離派と手を組み、間接的な手段に走ったのだ。いわば、妥協によって二派の共同戦線ができたわけよ。具体的には……と、その前に、突端という言葉は聞いているか?」 「ええと、うろ覚えだけど……」  彼は記憶を探ろうと視線をさまよわせた。なるべく二つの肉を凝視しないように気をつけて。 「外史を生み出すきっかけ、だったっけ。この外史の場合、俺と華琳がその役を担っているとかなんとか……」 「その通りよん。突端を開いた人物は、たいていの場合、その外史の主人公となるの」  最初にそれを聞いたのは三年近く前のことであったが、その時と同じ思いを彼は抱いた。華琳はともかく、俺はそんな柄じゃない、と。 「ふむ。それがわかっているならばよい。さて、隔離派にとっても過激派にとっても余計な突端が開き、外史が無制限に増えるのは望ましくない。そこで奴らは突端のありようをねじまげる挙に出た。新たな外史を開くのではなく、既にある外史へと合流させたのだ。過激派が邪魔に思う外史へとな」 「……どういうことなのか、その意味もわからないし、ましてどうやってやったかなんて想像もつかないけれど、それってこの世界ってことだよな?」  それは疑問ではなく確認に過ぎない。そして、二つの険しい顔がそれを肯定した。続けて口を開こうとして、一刀は何かに気づいたかのような表情になって黙り込んだ。そのまま考え込んで確信を得たのか低い声を押し出した。 「そういうことか。天師道は突端を開いたのか。俺と同じように。そして、同じように……消えた」 「理解が早いのは助かるけど、ちょーっと先走りすぎね。でも、いいわ。同じとは言えないけれど、似ていることは確かだから。彼女たちはご主人様がいた外史とよく似た、けれど、文化的には少しばかり異なる外史からやってきたの。そうねん、二十一世紀型の世界だけど、アイドルが絶大な影響力を持つような社会と言えばいいかしら」  本来彼女たちは『アイドルが三国時代に迷い込んだなら』という正史の思いを受けて、実際の三国志――つまりは武将たちが男性の世界だ――によく似た外史を生み出すはずだったのだという。『アイドルの影響を受けた三国志世界』の発生を阻止するために行く先をねじ曲げられなければ。 「……たどり着いたのは、三国の騒乱が終わっている上に有名人が女性ばかりの世界、か。それで、彼女たちは元の世界に戻ったの?」 「ええ。おそらくは、彼女たちが所属した勢力……まあ、今回は自分たちで組織をつくることになって白眉が生まれちゃったわけだけど、その決定的な勝利もしくは敗北が終端の条件だったはずよ。でも、元々彼女たちはその出身外史からして突端の一員だから、元の場所でまた新たな活動を続けていくと思うわん」 「異世界の乱は、エピソードの一つに過ぎないって?」  くらくらする頭をなんとか押さえつけて、一刀は二人に皮肉げに呟くことしかできない。 「つまり、これから、天師道のようなことが度々起きるってこと? この世界に」  その予想ですら一刀にとっては頭の痛いものであったというのに、貂蝉の答えは、彼の想像を遥かに超えていた。  3.影響 「これから、ではないわねん」 「へ?」  首を振って否定する貂蝉の姿に、一刀は思わず間の抜けた声をあげる。 「すでに三度の大きな干渉が行われておるのよ」 「ご主人様が経験しただけで、ね」  あまりの驚愕と恐怖に硬直してしまう男を、二人は痛ましげに見守る。天師道については予想がついていただろうが、さすがに三度もと言われれば驚くだろう。それらの成り行きを影ながら見守っていた二人としても、彼の反応は理解出来た。  乱れた息を整えるためか、自分を落ち着かせるためか、彼が深呼吸した後で身振りで促され、貂蝉は口を開く。 「まさに突端から話すと時系列が錯綜しちゃうから、ご主人様の体験した順に話しましょうか。最初はあの夢よ。みんなが閉じ込められちゃったやつ」 「あれか……」  一刀の表情が歪む。その手が自分自身の胸を掴んだ。なにか急に痛みを感じたように。 「ただの夢ではないと思ったけどな……」 「うむ。我らも当初はわからなかったのだが、あれは過激派が隔離派をそそのかしての実験のようなものであったのよ。終端を迎えていない外史に対して、多くの突端を放り込んだ場合の反応を見ようとしたのであろう。結果は、中途半端な外史を消費したに過ぎんが……。それにしても歪みをまるで気にしない傲慢なやり方と言えような」  苦々しげな一刀の表情は変わらない。貂蝉と卑弥呼はそのことをあえて無視して、代わる代わる先を続けた。 「次に、北方の草原に生まれた英雄ね。恋ちゃんが倒した三本腕の男」  それは、こんな物語だった。  偉大なる大人(たいじん)の血を引く家系に、異形の子が生まれた。生まれつき背中に大きな瘤のあるせむしの男は、その腕力と血筋から敬意は払われていても、その異形故に疎まれる存在であった。  南方の中華領域で騒乱が生じ、そして、覇業によってそれが収まってから、しばらく経ったある日。そのせむし男の体に流星が落ちた。  その星が突き破った背中から出たのは自由自在に動く三本目の腕。異能の力と恐ろしいほどの凶暴性を得た男を、草原の人々は危難の時代における救い手と見た。  すなわち、天の御遣いだと。  そうして彼は対峙する。南方からやってくる強大な人の群れに、北方の騎馬を率いて。 「はー……」  ため息のように、彼は唸る。千里を超えて駆けた先にいた相手が、そんな存在だったと聞いて、なんと考えていいのか一刀にはよくわからなかった。 「そして、三件目が天師道ってことになるのかな?」 「そういうことね」  目を瞑り、彼はゆっくりと頭を振る。二度、三度、なにかを振り払うように。それからら一刀は目を開くと、二人をじっと見つめた。 「改めて聞くけど、今後もそういうことがあるのかな?」 「あいつらはそれを狙っているわねん」 「ただし、儂らとしても、好き勝手にやらせるつもりはないぞ」  その言葉に、一刀の顔に喜色が浮かぶ。低く落ち着いた卑弥呼の宣言は、それだけの力を持っていた。 「じゃあ……」 「でもねん」  だが、同じくらい真剣で威厳のある声が、彼の舞い上がった心に釘を刺す。 「全てを防ぐのは難しいわん。それに、私たちが気づいていないような干渉も既にあったかもしれない」 「うむ。儂らも歪みを避けて出来る限りこの外史の住人たちによる成り行きに任せたいと考えているが、しかし、確約はできん」 「それも……そうか」  なにか言おうとして、しかし、一刀はそれを呑み込んで、恥じるように呟いた。二人にかみついても無益だと彼もわかっていた。  それから一刀は一度膝立ちになって、座り直した。  膝を揃えて座るその姿勢は、びしりと太い芯が入ったようだ。その姿勢の美しさに、貂蝉と卑弥呼の視線は吸い寄せられる。 「いまの俺は正直混乱している。知らなかった方がいいかもしれないなんて考えている自分もいる。でも、それでも……」  すっと膝に乗っていた拳が床につけられる。それにつきあうように彼の頭が下がった。 「俺はあなたたちにお礼を言いたい。教えてくれてありがとう。知ることでなにが出来るか、いまの俺にはわからないけれど、きっと、この世界の中で俺が……いや、俺たちが出来ることがあるはずだから。そして、なによりも俺たちを……この世界を気にかけてくれてありがとう」 「ご主人様っ!?」 「あっぱれ!」  感極まったような涙声と、吼え声のような称美の声が、彼の頭にふりかかる。一刀はすっと体を戻すと、再び拳を膝に置いて訊ねかけた。 「二人の話ってのはだいたいそんなところなのかな。大筋で言えば、この世界に外からの干渉があるかもしれないから気をつけろ、と」 「うむ。基本的にはそうなるな。だが、もちろん、そちらが訊きたいことがあれば答えようぞ。儂らとて全知ではないが、答えられることもあるだろう。ほれ、貂蝉、いい加減泣き止まんか」 「だって、だって、ご主人様にねぎらってもらうなんて! 迷惑をかけてるのは私たちのほうなのに」  おんおんと――本当にそう声を発して――泣いていた貂蝉は卑弥呼につつかれ、どこからか出した布で涙をぬぐい取る。身につけているものといえば一つしかないはずだが……いや、ここは詮索するべきではないだろう。 「でも、そうねん、出来るだけのことはするわん。残念だけど、説明できないことや、力になれないこともあるけど……」 「うん。それはしかたないね」  一刀は軽く肩をすくめる。貂蝉たちには貂蝉たちの立場というものがある。本来ならば、彼にこのような話を知らせることも二人にとって良いことではないのかもしれないのだ。なんでもかんでも求めるわけにはいかないだろう。 「訊きたいことといえば、いくつかあるけど。……なあ、これって、俺が招いたことなのか?」 「ほう、どうしてそう思うのだ?」  肯定するでもなく、さりとて否定するでもなく卑弥呼が聞き返すのに、一刀は自分の中の考えを整理するようにぽつぽつと答える。 「その……外史の突端とか終端とかって話だと、この世界の……この外史の突端は俺と華琳。そして、終端は華琳になるんじゃないかな? 俺は途中退場だから、彼女になると思うんだけど、違うかな。たしか、あの夢の時もそんな話を聞いた覚えがある」 「その通りねん」 「本来の……その、なんていうか、あるべき流れでいえば、この世界は華琳の物語が紡がれる世界として存続したんだろう。そして、そこに俺の居場所はない。なかったはずだ」 「正しい推察である」 「そこに貂蝉が俺と接触して……。俺を戻してくれた。いわば、予定になかったことが起きたわけだ。細かい出来事じゃなくて、根底から流れを変えかねないことが。それが過激派とかいうやつらがこの世界を敵視する理由じゃないか?」  貂蝉と卑弥呼は長い間顔を見合わせ、そして、どちらともなくしかたないというように肩をすくめた。二つの肉の塊がひょいと肩をすくめる様は凄まじかったが、いまの一刀はそんなことに構っていられない。 「それだけじゃないけどねん」 「が、間違っているわけでもない」  むふぅん、と息なのかもよくわからない音を漏らして、貂蝉はゆっくりと話し出す。 「実を言えば、色々と因縁があっての結果なんだけど、それは話すべきじゃないと思うわん。ただ、それに加えて、この外史の特性として、突端を導きやすくなっていたのも大きな要因よ」 「特性?」 「人が歩くことで道がならされ、歩きやすくなるように、突端が何度も導かれることで、そこに至ることがたやすくなってしまったということよ。最初にご主人様がやってきたので一度、それに加えて戻ってきたので二度、さらにはあの夢で三度。あの時、ご主人様は体こそここに残していたものの、概念的に見れば、外史の間を往復したも同然だったのよん」  その説明にしばし考え、一刀は自分の中でかみ砕いた質問を投げかける。 「つまり、彼らは突端を集めれば集めるほど容易くそれを行えるようになるってわけなの? 道がどんどん舗装されるようなものだから……」 「そうとも言えないわねん。道をつけられたのは、この外史の突端だったからこそでしょうからね」 「うむ。だからこそ、そこを塞げば、干渉の大部分は防げるかもしれぬ。それを儂らは狙っておるのだ」  根本的な理解が不足しているため、理屈の大半もまた一刀にはよくわからない。わかるのは、目の前の二人にはそれらの理屈がわかっているであろうことと、この世界に害をなす者があるということだ。  そして、それを導いたのが誰かということも、また、彼にはわかっていた。  4.未来 「でも、そうなると、結局の所、俺が原因ってことになるよな。俺が戻ったことが」  その結論を否定する声は、二人のどちらからも出なかった。 「原因というのならば、そうであろうな」 「でもでも、手を貸したわたしも原因よん。そう、わたしとご主人様は運命共同体ってわけ。あらっ、素敵!」  強い意志を込めた――見ようによってはつぶらな――目で見つめてくる卑弥呼と、自分で吐いた言葉にもだえている貂蝉。どちらもそれなりの形で彼を力づけてくれようとしているのだと一刀にはわかっていた。 「そうか、そうだよな……」  ぶつぶつと呟く彼を二対の視線が見守る。彼はいっそ晴れ晴れと顔をあげた。 「ありがとう。はっきり言ってくれて。これで逃げずにいられる」 「ご主人様……」 「誤解しないでくれよ、貂蝉。俺はあんたに本当に感謝してる。ここに戻る選択を示してくれたことに、どれだけ礼を言っても言い尽くせないくらいの恩義を感じている。そして、選んだことに後悔はしていない」  そこで一刀は息を吸い、ぎゅっと拳を握って二人に語りかけた。 「だからこそ、教えて欲しい。俺は、いや、俺たちはなにが出来るだろう? 直接に言うのが難しいならヒントだけでもくれないかな」 「さて、それが難しいところよな」  卑弥呼はむむう、と唸りつつ、そのぴんと伸びたひげの先を弄る。 「根本的には外史の内側の住人には、外の事情は干渉できん。そのあたりは儂らが担うことよ。となると、やるべきことはこれまでと変わらんと言えるな」 「そうよん。ご主人様たちは夢の呪いも解いたし、軻比能もやっつけちゃったし、白眉も倒したじゃない。これまで通りやれば十分よん」  言われて一刀は小首を傾げた。 「そこらへん、ちょっとわからないんだけど、天師道たちも、いわば主人公なんだよね? だったら、なんで俺たちが勝てたんだ?」 「物語が全てハッピーエンドで終わるわけではない。悲劇的な結末も、敗北も終端の一つよ。突端だからといって、流れそのものを操れるわけではない。そういう意味では、北郷一刀、曹孟徳という二つの突端にもまた同じ事が言えよう」 「ええと?」  不安げに揺れる一刀の瞳を覗き込み、卑弥呼と貂蝉は謎めいた笑みを浮かべる。 「勝利は約束されていないし、突端を開いたご主人様の思い通りに世界が動くわけでもないってこと。この外史に住む人々、その一人一人にはちゃんと意思があって、それぞれ思うように動いているのよん」 「そう。時に勘違いする輩もおるが、この世界の住人も、けして木偶ではないということぞ。怪しい力を手に入れた男を、草原世界を統べる王として祭り上げようとした者も、歌姫の歌に感動して立ち上がった者も、なにかに操られてやっておったわけではない。住人の意志を奪って直接操るほどの干渉については、先程も言ったとおりに防いでおるからな。なにかに導かれた者がいたとしても、立場は『天の御遣い』たる主と、そう変わるわけではないのだ、青年」 「もちろん、ご主人様や華琳ちゃんが世界に大きな影響を与えるのは事実だけど、でも、それってなにもおかしくないわよねん? 三国を征服した覇王と、そのパートナーが影響を与えないわけないもの。結局、なにを成せるかはご主人様たちの努力次第ってことになるわねん」 「……つまり、成すべき事は自分で見つけろということかな」  彼はわずかに体の力を抜いて、そう呟く。己の肩や腰の筋肉が極度の緊張に悲鳴をあげていることに気づき、一刀は思わず苦笑いした。 「そうよん。ご主人様は思うように生きればいいの。それを邪魔しようとする奴らはわたしたちがなんとかするし、もしなにか失敗したら、また警告に来るわん」 「そんなことはないように努めるが、な。今度出会う時は、ただの友として会いたいものよ」  そこまで言って、卑弥呼は角髪を一振りした。 「そうさな、一つだけ意見しておこうか」 「うん」 「突端を開いたからといって、意思もなく、ただだらけておれば、そんなものはすぐしおれてしまう。要は、いかに生きるかよ。この外史を次代に継ぎたいというならば、なおさらよ」  それから不思議な姿の老人は片眼を瞑って悪戯っぽく笑いながら、こう言ってのけるのだった。 「己と、己の愛する者を信じて歩め。それがおのこの道ぞ」 「最後に一つ訊きたいんだけど」  帰り支度をしている二人に、一刀は何気なく思い出したとでもいうような口調で言った。 「なにかしらん」 「あの夢……。俺が閉じ込められた世界は、元々俺がいた世界だったのかな? それともよく似た別の世界?」 「基本的には同じと考えてもらっていいわん。正確に言えば外史の残滓……いえ、文字通り夢と言ってもいい存在だったけどね」  貂蝉の不思議な物言いを、一刀は微笑みをたたえて受け止めた。 「そうか、よかったよ」  その言葉に二人が不思議そうな顔になる。 「二度も世界を滅ぼしたんじゃなくて」  続いた言葉に漢女たちはなにも言えなかった。 「ったく、帰るときの土は片付けていかないのか」  天幕の中に盛大に散らばった土を、二人がまるで水中に飛び込むように体をくねらせて消えていった穴に埋め戻し、踏み固めた後で彼はぼやいた。 「そりゃ、変な消えかたされるよりはいいかもしれないけど」  ただでさえ脳の処理能力を超えそうなくらいのことを詰め込まれたのだ。さらに混乱するような事態は勘弁だった。とはいえ、生身で地中を掘り進んで出入りすることが十分おかしいのだということに、彼は気づいていない。 「後悔はしていない、か」  自分の台詞を繰り返し、一刀は敷布をぱんと鳴らして天幕の床に広げた。 「まったく、偉そうに」  先程までぎゅうぎゅう詰めだった空間はがらんとしている。その空隙を見つめながら、彼はとげとげしい言葉を吐く。  己を切り裂く刃を載せて。 「さて、流琉を待たせちゃったな」  泥汚れを払い落とし、一刀は顔をあげる。わずかに暗い影を残しながらも、彼の顔は楽しげに揺れている。  あるいはそれはこの男に出来る精一杯の虚勢であったのかもしれない。  5.問答  早朝、三国の陣は、靄の中に沈んでいた。  湖からの水気が凝縮したような白色の世界の中、不寝番の兵士たちは幽鬼のようにゆらゆらと揺れる影として見えた。  もちろん、こんな中を好んで歩く物好きは少ない。まして、まだ日も差しているかいないかという時分である。  だが、男はその奇妙な光景を楽しみながら歩いていた。足元を濡らす草の露は鬱陶しいと思うところもないではないが、どうせ自分の天幕に戻れば着替えるのだ。それほど気にするものでも無い。それよりも、ねっとりと体を包む靄が火照った膚から熱を奪っていくのが心地好かった。  ただ、その感触に気を取られていたためか、あるいは寝不足のせいか、少々注意が散漫であったのは確かだったようだ。  なにしろ、間近で声がかかるまで、その存在に気づいていなかったのだから。 「おや、今日も朝帰りですかな。実に熱心なことで」  そう囁くようにからかう声の正体を悟り、一瞬の驚愕が溶ける。 「はは」  一刀は笑いながら背後の女性を振り返った。しかし、乳白色の靄の中、白い着物の星の姿は余計に捉えがたい。ただ、見えなくてもその唇に笑みがのっているのだけは想像できた。 「少し、話せますかな?」 「もちろん」  彼女の誘いに応じて、彼は歩く向きを変える。ともすれば見失いそうになる背を追って、一刀は陣の端へと歩を進める。 「このあたりでよいでしょうかな」  陣の東端、武陵の町へ向けての道が開かれた辺りで星は止まり、手近にあった木にもたれかかった。一刀は横に伸びている枝の一つに手をかけて、彼女に対する。 「この趙子龍、貴殿に一つ問わねばなりません」 「うん」  ところで、と前置きして星は訊ねる。その表情がはっきりと見えないことに、一刀は強い不安を覚えた。 「初めての出会いを覚えておいでか?」 「ああ、もちろん。俺は星に救ってもらった。この世界に初めて来たときのことだ」 「そのようですな」  実は二重の意味で救ってもらっているのだ。真名をうっかり呼んでしまったというのに許してもらい、その意義を知ったことで、華琳たちに対する時に注意することが出来た。彼女たちとの出会いは一刀にとってまさに幸運であった。  ある意味でその象徴が目の前にいる趙子龍だ。風や稟とは再度出会い、そして情を交わしているためにより深い思い出が出来ているが、星の場合は、やはり最初の活躍が一刀の意識に鮮烈に焼き付いている。 「我々は貴殿を当時の陳留刺史、すなわち華琳殿に託し、立ち去った」 「うん」 「はたして、それが正しかったのかどうか、近頃よく考えます」  星の声音は平板だ。暗くもなくからかうでもなく、ただ、淡々と己の中のなにかを押し出すようにしている。そんな彼女を見るのが初めての一刀としては戸惑うしかない。 「この世界の習俗を知らず、風の真名を読んでしまった貴殿を、その場で始末しておくべきだったのではないか、と」 「……なんだかえらく物騒だな」 「ええ」  そこで、からからと笑い声が起きたのは、男の側としては助かったと思うべきか、もっと怖がるべきか、反応に困るところだった。もちろん、逃げたりするつもりはないのだが、なぜか、靄の向こうの女性が恐ろしくて堪らない。 「己でも過剰な反応だとも思います。しかし、そんな疑念がこびりついて離れないのです。この趙子龍の胸の内に」  だからこそ問いたいのだと、彼女は言う。 「それで、なにを?」  言葉を継がない彼女を促すように、一刀はおずおずと訊く。だが、案外あっさりと星の言葉は続いた。 「この戦が終われば、北伐において成し遂げられた秩序が打ち立てられる。つまりは西涼ができあがるわけです。その一方で既にある三国の秩序はさらに強まることでしょう」  それはその通りだろう。そうでなくてはならない。北伐も、白眉討伐も、平和な世の中をより強くするための戦だったはずなのだから。 「魏、呉、蜀、涼、そして、南蛮に、幽州もですかな。各国の主は桃香様を除き、貴殿に愛を捧げる身。我が蜀も、近頃ちと怪しい。これを見ると、北郷一刀は兵を使わずして大陸を征する勢いと言えましょう」 「おいおい」 「否定なさるか?」  くい、と星の顎が動いた気がした。薄い膜を通したように見えるその視線が焼け付くように痛い。一刀は頭をかいてみせた。 「いや、まあ……そりゃ、多少の影響力はあるかもね」 「多少……ですか」 「うん。そりゃ、たとえば華琳と影響を与え合ってるとは思うよ? でも、だからといってその判断を左右できるかと言ったら別さ。それは蓮華だって一緒だろう」 「求めるのは愛とその身のみと? まあ、それはそれでよいご趣味かと思いますが」  その表現はどうなの、という一刀の抗議を、星は黙殺する。 「しかし、以前話したとおり、貴殿には力がある。これは否定できないことですぞ」 「わかった。それは認めるよ」  一刀はお手上げというように笑ってようやく靄の晴れてきた彼女の姿を見た。表情はいつも通り飄々と、しかし、その瞳の輝きだけが強い。 「では、お互いに了解が得られたところでお聞きしたい。北郷一刀はなにを目指します?」 「なにを?」 「そう、貴殿の理想とはなんでしょう?」  歌う様に、彼女は言う。その言葉の重みを支える旋律を探し出そうとでもするかのように。 「影響は多少と仰った。いまはそれでいいでしょう。百歩譲って認めましょう。しかし、それですむわけがない。なにしろ、各国を継ぐのは間違いなく貴殿の血筋なのですから」 「まあ……うん」 「その御仁が目指す場所を、私は知らなければならない」  すい、と星の服の袖があがった。彼女の手はその中に包まれて見えはしない。しかし、その指が一刀をぴたりと指しているという確信が彼にはあった。 「北郷一刀という男を、この大陸に生かした者として」 「理想、か」  数度の呼吸。  しかし、あまりに長いとも思える沈黙の後、一刀は呟いた。  まるでなにか聞き覚えのない言葉を口にするかのように、そっと確認しつつ。 「俺の理想が星の意に添うものとは限らないよ?」 「それは問題ではありません。そもそも、私は桃香様の臣。桃香様の抱くものが仕えるにふさわしいと思ったからこそここにいるわけで、他の人物の目指す所が異なったからといって、それだけで否定はしません。結果として衝突することがあったとしても、です。私が知りたいのは、北郷一刀という男が虚無ではないかというその一点」 「虚無?」  予想外の言葉に男は不可思議な顔をする。彼女が憎々しげに言うその言葉を、一刀は理解しきれていなかった。 「ええ。誰も彼もが惹き寄せられる男。その中身が実はただの空洞であり、虚無であったとしたら」  星は一度言葉を切る。自分が触れている枝がみしりと音をたてたような錯覚を一刀は覚えた。それは、彼女の発する鬼気が故か。 「これは害です。それを解き放った私は罪を負う。償わねばなりません」  彼女は槍を手にしていない。その得物を抜き放ってはいない。  それでも、まるで立ち会いをしているような感覚を、一刀は得ていた。  だが、努めてそれを無視し、彼は己の舌に力を込めた。 「それはこの場で言葉として表さないとだめかな?」 「どういう意味ですかな?」 「逃げと見られるかもしれないし、実際そうなのかもしれないけど、いま、この場で簡単に言うってのは無理みたいなんだよ」  そこで一刀は手を広げ、肩をすくめる。その動作に、星の眉が片方だけ跳ね上がった。 「実を言えば、俺にも最近……ごく最近、色々とあってね。形にはしづらい」 「それは……狡い」 「逃げかな」 「逃げです。それを押し通すなら、北郷一刀は腰抜けです」 「そうか、参ったな」  がしがしと頭をかき、一刀は考える。失敗は許されないと彼は知っていた。 「よし、こうしないか。陣払いまでだ。それまでには答えを持ってくる」  じっと見つめてくる男の視線を彼女は受け、そして、小さくため息を吐くように言った。 「いいでしょう。ならば、そのように」  と。 「誰も彼もが……か」  彼が立ち去った後も、彼女は残っていた。己が背にしている木の表面をこつこつと拳で叩きながら。 「なにもかも言い訳に過ぎぬのではないか、子龍よ」  自問する星の言葉は、靄の最後の一端に紛れて消えていく。  6.三昧 「巴丘は問題ない、ということでいいかな」 「はい。それと、小蓮様が南方を平定し終えたとの報が入ってきました」  呉軍の兵を連れて巴丘に戻っていた明命が武陵に再度やってきたと聞きつけた一刀は彼女を迎えに出ていた。岸辺から陣へと戻る途中、軽く報告を聞く。 「山越は無事平定か」 「はい。そのまま荊州方面も慰撫しつつ北に戻るとのことですから、荊州の南東部は問題ないかと思います!」  ふむふむ、と一刀は頷く。 「小蓮様は、久しぶりに程普さんに会ってくると仰っておられるようなので、交州にも顔を出すつもりかもしれません」  程普は孫堅時代からの譜代の臣であり、南方の押さえとしておかれている。古くからの――それこそ小蓮自身は赤ん坊だった頃からの――親交を深めるためにも、政治的な意味でも小蓮の南方を巡るような行軍は意義深いものと言えた。  そんな話をしているうちに彼らは陣に入り、護衛の兵は距離を取って散っていく。 「穏の様子はどう?」 「あ、伝言があります。『一刀さん、恨みますよぉ』だそうです」 「は?」  几帳面な顔つきで、穏の声音を真似する明命に一刀は呆気にとられる。雰囲気はともかく、声の高さだけは完璧に模写していた。あるいはこれも密偵の技術なのかもしれない。 「なんだか、とっても動くのが大変で、困っておられるようです。女官は助けているのですが、やはり不機嫌な時も多いと……」 「あー、まあ……うん。仕方ないか。体調とかは大丈夫なのかな」  明命が自身はぺったんこなお腹の前で丸く手を動かすのに、一刀は納得する。彼自身もその原因をつくっているわけだから、恨みますと言われてもしかたのないところだろう。 「はい。その点は医師もお産婆さんもついておりますので。あとは時が来るばかり、かと」 「そうか、それはよかった」  にっこり笑う彼の様子に嬉しそうに明命も同調し、そして、思い出したというようにぱんと手を打ち合わせた。 「それから、それから、蓮華様のほうも順調のようです!」 「おお。そちらも嬉しいな」  巴丘に顔を出す時間はあっても、建業による余裕は作れるだろうか。一刀は考えながら歩く。引きずりそうな黒髪をわずかな体の動きで宙に留めている女性が、それについて歩く。  考え込んでいる彼を邪魔しないようにと考えてのことか、黙って歩く明命の横顔を、一刀は見つめた。生真面目な顔をただひたすらに真っ直ぐに向けている明命は視線に気づいて彼のほうを向くと、唇の端をわずかにほころばせた。 「なあ、明命」 「なんでしょう?」  明命が首をかしげる。魂切の鞘の先、つけられた車がからから鳴った。 「守りたいものがある時、明命はどうする?」 「守れるように、強くなります! もっともっと強くなります!」  唐突な問いに、しかし、明命は迷うことがない。真っ直ぐ彼を見て、ぐっと拳を握りしめながら、力強く答えた。 「強くなるか」 「はい。冥琳様からも、祭様からも、雪蓮様からもそう教わりました!」 「あー、そうだね。たしかにそう言いそうだ」  三人の顔を脳裏に浮かべ、一刀は微笑む。孫呉の教えとはそういうものだろう。 「しなやかに、したたかに、強くなる。それが一番だと」 「そうだね」  しばらく考え、彼は己の顎をなでながら、頷いた。 「ありがとう、明命」 「どういたしましてです!」  明命の元気な声に、一刀の笑みはさらにさらに深くなるのだった。  長い黒髪をなでながら、一刀は、そういえば、いまこの陣には、黒髪が美しい女性が三人もいるなと思いつく。  一人は天下の美髪公、一人は呉の誇る隠密明命。そして、残る一人は、いま、照れくさそうに枕に顔を埋めて彼に髪をなでられている、魏の大将軍、春蘭。 「どうしたの、春蘭」  さっきから布にくるまるようにしてその美しい肢体を覆い隠してしまっている春蘭に、一刀は声をかける。その癖のないまっすぐな髪を指でくしけずるのは止めずに。  先程から朱色に染めている膚――わずかに見えている肩口から頬にかけて――をさらに赤くして、春蘭はぎゅうぎゅうと顔を枕に押しつける。くぐもった声で彼女は怒ったように叫んだ。 「しゅ、秋蘭も華琳様もおらぬのに、このようなことするのは久しぶりではないか!」 「ああ、だから、照れてるのか」 「う、うるさい!」 「相変わらず可愛いなあ、春蘭」  むぎゅう、とか、うぎゃあ、とかよくわからない声をあげて、彼女は一刀を威嚇する。しかし、顔はあげなかったし、なにより、その手は彼の手の動きを邪魔しようとはしなかった。 「なあ、おい」  どれほどたったか。眼帯をしていない右目だけを枕の端から出して、彼女は一刀を見上げてきた。その膚に浮いていた汗もいまはだいぶひいている。 「なんだい?」 「お前……その、な」 「うん」  歯切れ悪く問いかけるのに、辛抱強く一刀は待った。こういう時の春蘭を急かしても悪い結果にしかならないことはよくわかっていた。 「前のようなことは、もうあるまいな?」 「前のようなって?」 「だから、お前が! ああ、もうっ!」  彼女は大きな声でそう言うと、ぐいと上半身を持ち上げる。相変わらず胸を布で隠しながら、彼女は一刀に詰め寄った。 「我らの前から消えたことだ!」 「うん、ないよ」  そういえば、そのことを訊かなかったな、と一刀は思い出す。世界の未来について訊く気は起きても、自分の未来について訊こうとは思わなかった。それは、なぜだったろう、と彼は頭の何処かで考える。  しかし、実際の所、訊いてもしかたなかっただろう。元の世界――彼がやってきた外史は消えてしまったし、直接的な干渉は出来ないというのだから、心配することもないだろう。  なにより今回は予言を受けているわけでもないのだ。 「本当だな?」  しかし、そのことをどうやって彼女に納得させたらいいだろう。そもそもが外史の話などしてわかるとも思えない。相手が春蘭でなくとも、一刀自身がよくわかっていないものを説明してわかるわけがないのだ。 「少なくとも、俺の理解ではそうだよ」  だから、一刀はそう答えるしかなかった。  しっかりとした根拠は彼にもない。ただ、彼を信じてもらうしかないのだ。  片方だけの瞳で、彼女は彼を探るように見つめる。その視線の強さは本来閨の中にあるべきものではない。 「もし、それが嘘だったなら」 「嘘だったら?」 「私はお前を斬る」  彼女は言い切った。 「お前が消えようとしたその時に、私がお前を斬る。戻ってくるかどうかなど知らん。とにかく、斬る」 「ええっ」  そんな無茶苦茶な、と言いかけた彼の口は、次に紡がれた言葉によって凍りつく。春蘭は冗談でもなんでもなく、殺気をそこに乗せていた。 「一度だけなら許してもいい。お前にだって防げなかったのかもしれないと思える。だが、華琳様への裏切りを繰り返すのなら、斬る。絶対に斬る」 「裏切り、か。消えるのは」 「当たり前だ!」  拳を握って叫んだその声に、一刀は本当に殴りつけられたような衝撃を受ける。そこに散ったのは、汗だったか、あるいは、涙だったか。 「そうか。そうか、そうだよな」  うつむいてしまった彼女に向けて、一刀は泣いているような笑っているような声で呟いた。 「大丈夫だよ、春蘭」  ぐす、ぐずっ、と鼻をすする音が鳴る。それはどちらが発している音だったろう。一刀が肩に回した手を、彼女は拒否しなかった。ただ、それに答えて男の体を引き寄せた。  熱い体が二つ触れあい、そして、なにより熱い液体が二つの膚を流れる。 「春蘭の前から消えたりしない」  答えはない。ただ、無意味な呻きをあげる唇を、男の唇が覆った。  それは、陣払いを二日後に控えた天幕の中。  真夜中に近い時間とて、もはや中にいるのは一刀と詠、愛紗の三人だけとなっていた。  だが、一刀の仕事が終わらないために二人がつきあわされているというのが実際だ。そのことを彼もわかっていて、余計に焦燥感にかられて、無駄な失敗を連発してしまっている。  仕上げた書類を彼の机まで持っていった愛紗は、いらだたしげに竹簡の表面を削っている一刀の姿を見て、眉をひそめる。きっと、書き損じなのだろうが、小刀の動きがあまりにぞんざいだ。  しばらくその場で考え込み、彼女は困ったように詠に視線をやる。詠は視線に気づいて顔をあげると二人の様子を見比べ、そして、小さく首を振った。  放っておけ、という表情であった。  だが、愛紗もまた首を振る。その断固とした調子に、眼鏡の奥の瞳が揺れ、最後には諦めたように頷いた。 「一刀様」  二人がそうして目配せを交わしていることにも注意を向けられていない一刀に、彼女は声をかける。ぼんやりと見上げる彼に、愛紗は言い放った。 「頬を張るのと閨での奉仕、どちらがよろしいですか?」 「うっわ、大胆」  背後で詠が呟くが、愛紗は気にもしない。一刀もちらっと目をやって、なにか追いやるようにしっしと手を振られたのであえて触れることはしなかった。 「俺、そんなに呆けてる?」 「はい。残念ながら」  二択をつきつけられた意味を考え、そして、一刀は結論を得る。 「そうか。じゃあ、一発気合い入れてくれ」  書類を置き、立ち上がった彼の頬に、見事に振り抜いた平手が飛ぶ。男は、自分の体が浮くのを感じた。そのまま床に倒れ、ごろごろと転がって勢いを殺す。 「っつぅ、効いたぁっ!」  歯が浮くような痛みを発散するように、彼はやけっぱちに怒鳴る。声を出すことで、なにかすっと体が軽くなるような感覚があった。  起き上がってみれば、いつの間にか天幕の中に詠の姿はない。うん、と一つ頷いて、一刀は愛紗の手を握った。 「ありがとう、愛紗」 「いえ、たいしたことでは……」 「愛紗。頼みがある。明日の朝一番に桃香と会見を持てるよう取りはからってくれ。出来れば桃香と俺の一対一がいいけれど、朱里たちが同席したいというなら拒否はしない」  桃香様と会談ですね、と承知してみせる愛紗にもう一度礼を言い、一刀は駆け出す。その力強さに、あえて止めることはしない愛紗であった。 「一刀様はいずこへ?」 「手紙を書きに行く!」  彼はそう言って、風のように走り去るのであった。  7.始末 「南蛮?」  一刀と二人きりで会うことにした桃香は、彼の口から飛び出た地名に驚きを隠せなかった。 「うん。美以たちにも遊びに来るよう言われていたしね。それから成都に寄って洛陽に帰ろうと思う」  荊州西部を南下して南蛮に至り、益州を北上して成都、漢中を抜けて魏へ戻ろうという計画であった。連れていく兵の大半を占める蜀兵は成都で原隊に戻り、少数の魏の兵と共に帰還する手筈となっている。 「南のほうを見てきてくれるのはありがたいかな。まだまだ白眉の影響は残るだろうし……。でも、それ、他になにかあるよね、一刀さん」  桃香にじっと見つめられ、一刀は苦笑をうかべるしかない。 「うん。実は愛紗のことだけど……」  一応の口止めをしてから、一刀は事情を説明する。桃香にしてもある程度までは読んでいるはずだと一刀は考えていたが、そこはなにも知らない前提で話すしかない。 「ほへー。そんな約定があったんだー」  はたして桃香は口を大きく開け、純粋に驚いた様子だ。それが演技なのかどうか、一刀にはわからなかった。 「そういうわけで、愛紗を蜀に戻したいと思うんだけど、それには、一応のけじめがないといけないと思うんだ。だから、桃香と華琳で話してもらって、白眉の乱の終結を宣言して欲しい。成都にその報が届けば、愛紗はそこで蜀の将に戻ることが出来る」 「……つまり、一刀さんは時間稼ぎをして、ちょうどいい場所で愛紗ちゃんを解放したいってことかな? そのために、私は洛陽で華琳さんと終結宣言を出す?」  もちろん、それだけではなく、荊州の様子を華琳に報告する必要もあるだろう。なにしろ、名目上とはいえ、桃香は荊州での総大将なのだ。 「うん。どうかな? 悪くない案だと思うけど」 「うーん。そうだなあ……」  桃香は考える。洛陽に行くのに特に問題はない。おそらく、朱里や雛里も賛成してくれるはずだ。政治的に有利な部分も多いからだ。  しかし、愛紗がそういう事情を抱えているのに、誰もつけないというのには抵抗があった。一刀を信用しないわけではないのだが、彼女にとって愛紗は大事な義妹なのだ。  彼女は自分を見つめてくる男の顔を見返しながら、少し考えた。なにか思い出せそうな気がしたのだ。 「あ、そうだ」  彼女は呟いて、ぽんと手を打った。その勢いでぶるんと大きな胸が揺れる。 「一つ頼んでもいいかな? 朱里ちゃんか雛里ちゃんか、どっちになるかは相談してみないとわからないんだけど、南蛮に連れて行って欲しいんだ」 「あの二人のどちらかを?」 「うん。南蛮との境のあたり……益州の南方に鎮守府を作ろうって話があるの。だから、その下見? 調査かな?」  頬に指をあてて小首を傾げる桃香に、一刀は納得したように頷く。 「ああ、そういうことか、了解。今回、流琉も着いてきてくれるらしいから、安全は保障するよ」 「よかった。じゃあ、そうしてもらえるかな、私は洛陽に向かうよ」  そう言うと、男はほっとしたようにため息を吐いた。その肩の力の抜け具合から、それまで彼が緊張していたのがよくわかる。  一刀は再び姿勢を正し、そして、先程よりなにか追い詰められたような表情で懐を探った。 「じゃあ、桃香に託していいかな」 「ん、なに?」  厚い布に包まれたものを彼は引き出す。そのまま彼は桃香の前にそれを差し出した。 「華琳に宛てた手紙だよ」  男の言葉を示すように、紙がこすれる音がする。その様子からすると、かなりの量の書状のように思えた。ただの報告にしては少々大げさではないか、と蜀の女王は思った。 「直接、華琳に渡してくれ」 「う、うん。わかった。華琳さんに手渡すよ」  一言一言強調するように区切って告げられて、彼女はそれを受け取る。中を見ることなど考えもしなかったが、しかし、いったいなにが書かれているのだろうと彼女は疑念を抱かずにはいられない。 「ああ、頼んだよ」  そう頭を下げる一刀の姿は、なにか重い荷を下ろしたかのようであった。  書状の写しは――骨子を抜粋したものではあったが――星の元へも届けられていた。一人、酒杯を手にその文を読み始めた彼女は、いつしか酒を呷る手を止め、ついには杯をしまい込んでその文に引き込まれていく。 「ほう……。これは」  三度読み返したところで、彼女はそう呟く。その頬に普段の面白がるような笑みをさらに強くしたような喜悦が刻まれる。 「どうやら、我が生涯に汚点を残さずに済むか」  一言呟いて書状を巻き取り、懐深くしまいこむ。そのまま蜀の面々が集う天幕へと彼女は向かった。 「雛里。南蛮には雛里が行くのだったな?」  つい先程知らされた話をもとに、彼女は小さくかわいらしい軍師に話しかける。陣払いの雑務をとりまとめていた二人の軍師は揃って顔をあげたが、名を呼ばれた雛里がこくりと頷く。 「……はい、そうですが……」 「私もついて行こう」 「え? 星さんもですか?」 「桃香様には焔耶さんがついていますし、荊州には私がしばらく残りますから、星さんが雛里ちゃんについていくのは問題ありません。正直、こちらから頼もうかと思っていたくらいですが……。でも、急にどうしたんです?」  雛里本人ではなく、親友の朱里が不思議そうに問いかけるのに、星はその袖をぐっと振り上げ、澄んだ声で宣言する。 「あの猫耳娘たちの様子も見ておきたいし、なにより南蛮には、南蛮大麻竹が生えるのだ!」 「南蛮……大麻竹?」 「おお、いざ行かん。伝説の南蛮大麻竹、そして、伝説のメンマをこの手に!」  一人燃え上がる星を他所に、この時期にはもう筍はないのではないかと疑問に思う雛里と朱里であった。      (玄朝秘史 第三部第四十三回 終/第四十四回に続く)