玄朝秘史  第三部 第四十二回  1.迎撃  いかに綿密に打ち合わせをしていようと、事前に連絡を取っていようと、距離が離れれば大軍同士の連携というものは困難を極める。まして、北郷一刀がいた世界のように便利な道具もない場合には。  だから、たとえその夜、あるいはその翌日に行動を予定していたとしても、荊州の白眉たちは各地でばらばらな時間に行動を開始するはずであった。そうせざるを得ないはずであった。  しかし、その夜、彼らはほぼ同時に戦へと突入した。偶然の結果によって。  それは、『胸騒ぎ』に眠れなかった将のそぞろ歩きのためであり、誰にも気配を悟られない隠密たちによる以前からの慎重な監視の結果であり、とある武将の動物的な勘による出撃のせいであった。  たとえば、荊州の中でも北方、洞庭湖から北岸に上陸していた一団を見てみよう。  昼の間は森や村落に潜伏し、夜の闇に紛れて北上していた彼らは、江陵まで強行軍であと一日かかるかからないかという地点にまで達していた。予定よりは遅れるものの、翌日の夜には江陵にたどり着き、夜明けか、あるいは昼までには魏軍駐屯地を襲撃できるはずであった。  だが、その夜、集合した彼らの前に、何本もの旗が立ち上がった。  松明に照らされ赤々と燃えるその旗を見て、いくつもの叫びが巻き起こる。 「なぜ、やつらがここに!」 「江陵にいるんじゃなかったのか!」  そこに記されるのは夏侯の文字。翻る旗の主の名は……。 「盲夏侯だーーーっ!」  それを発した人物は、己の幸運を祝うべきであったろう。当人が毛嫌いするその呼び名は、彼女自身の高笑いによってその耳に入ることはなかった。 「はーっはっはっは。言ったとおりであろうが!」  江陵を南下すること約五十里。北の押さえとして江陵にあるはずの魏軍は、春蘭の命によって予定より早く出撃し、この夜、白眉を迎え撃つ形となっていたのだった。  それは、戦闘を予期していなかった白眉たちにとっては紛れもなく悲劇であり、準備万端待ち構えていた魏軍にとっては退屈とも思える戦闘であった。  夜の闇は、白眉が森に逃げ込むために有用だったのではなく、逃げ道を探して右往左往する彼らを魏の兵士たちが冷徹に始末していくのにこそ役立った。  なにしろ、彼らの左右の森にはすでに流琉配下の親衛隊兵士たちの手によってそこかしこに網や綱がかけられ、森に駆け込んだ白眉たちを捕らえ、ひっかけ、縛り上げていたからだ。 「本当にいましたね。こんなところに」  森の中を部下たちに任せ、中央で指揮する春蘭に話しかけるのは流琉。放っておくと春蘭自ら戦闘に突っ込んでしまいかねないので、こうして彼女も本営にいるのだった。  もっとも、彼女の横で七星餓狼を構えてうずうずしている女性が実際に突撃したとしても、春蘭自身の身にはなんの心配もないし、戦の趨勢自体も変わることはないだろう。  ただ、この場の総大将が乱戦の中にあるというのは流琉としては避けて欲しいと思っての事であった。 「意識の集中しているであろう武陵や巴丘ではなく、距離のある江陵を襲って驚かせようと小ずるい考えであったろうが、私にはお見通しだっ!」 「いや、それだけでもないと思いますが……」  兵の数だけ見ても江陵は少ない方だ。魏の兵の訓練具合を考えれば少ないなどと言っていられないだろうが、白眉にそこまで読み取れるとは思えない。なにより、白眉にとって、北方の道を空けておかなければ、今後どうしようもないのだ。  だからこそ、いつかは必ず白眉が目指すであろう江陵に春蘭が居座ったのだから。  とはいえ春蘭の感覚からすれば、武陵や巴丘で白眉の全軍が始末されてしまったら、自分が戦闘に参加できないという焦りもあったに違いない。  流琉としてもせっかく荊州まで出てきたのにまるで戦果がないというのも業腹だ。  しかし、そこで彼女はわずかに首を傾げる。髪に結ばれた飾り紐がゆらりと揺れた。 「でも、いいんでしょうか、江陵を空にして」 「空ではないだろう。秦邵が来てくれたし、司馬徽も入城したではないか」 「それはそうなんですけど……」  春蘭の言うとおり、江陵には魏の秦邵と、水鏡先生こと荊州刺史司馬徽が入城している。  秦邵は華琳たちと同郷の古い知人で、ずば抜けた能力はないものの真摯に仕事をすることで信用を得ている人物であった。  また司馬徽は荊州の戦の主眼が南方にあるとみて州の軍を襄陽から江陵に南下させていた。まして、彼女は諸葛亮、鳳統を育てた人物である。  流琉が危惧するほど江陵は危険な状態というわけでもない。 「大丈夫だ、流琉。戦の臭いは南からする。こやつらをさっさと片付けて、手応えのある奴らをたたきのめしに行こうではないか」 「はあ……」  機嫌良く笑い声を上げる春蘭の姿を見て、まあ、いいか、と流琉は納得する。実際の所戦場は彼女たちの手によって完全に掌握されているし、洞庭湖周辺にいる大集団を叩けば、荊州全体の白眉の意気も挫けるだろう。手早く済ませるには悪くない手であった。  なにより、武陵には一刀がいる。  華琳から一刀を守るよう言いつけられた流琉としては、一刀の側で活動できないのは、非常に不安であった。それが解消されるなら多少の無茶も容認しようというものだ。 「じゃあ、さっさと始末しちゃいましょうか。私、一暴れしてきますね」 「よし、じゃあ、私も」  愛用の得物、伝磁葉々を取り出し、その巨大な円盤を肩に担ぐようにしながら言うと、春蘭が大きく七星餓狼を振り上げる。流琉はきつい調子でそれを制止した。 「それは駄目です」 「なぜだ。流琉だけ狡いぞ!」 「狡いって……。私はただの将ですけど、春蘭さまは荊州の魏軍のとりまとめをですね……」 「しかしだなー!」  二人の将は大剣と円盤を振り回しながら、わいわいと口論する。その様子を、周囲の兵はどう受け取ったか。  彼らは月明かりの中、彼らを率いる二人が得物を大きく振り上げ、そして、振り下ろすのを見た。  それが戦場で意味することは明白。 「うぉおおおおおおっ」  そこかしこで喊声があがり、兵たちが駆け出す。春蘭たちのすぐ側にいた者たちまで剣を抜き、槍を構えて走り出す、まさに全軍突撃の図であった。 「よし、お前たち気合い入ってるな! 行くぞーっ!」  自分たちの動作がそのきっかけを作ったとは思ってもみない春蘭は周囲でわき起こった動きに喜色満面の面持ちで地を蹴り、一方の流琉は頭痛でもするかのように額を押さえる。 「ああ、もうっ」  しかし、周囲の怒濤のような動きには抗することが出来ず、彼女もまた伝磁葉々を手に白眉のまっただ中へと突撃していくのだった。  2.洞庭湖  きぃ、きぃいっ。  鼠の類でも鳴いているような音が、闇の中に響く。  だが、ここは湖の真ん中だ。そのように鳴くものが一体どこにいるだろう。あるいはなにかの化け魚か。  しかし、耳を澄ませばわかる。それは木と木がこすれあう音だ。  黒く沈む湖面を、ゆっくりと進むものがある。  簡易な作りの小舟である。  四、五人乗りの舟に男たちが乗り込み、音を立てぬよう慎重に水をかいている。進みが鈍いのも当然であろう。  そんないくつかの舟の中心には、立錐の余地もないほど人が乗ったはしけの群れが進んでいる。巨大な平底舟はおそらくは急造で、乗っている者たちの立ち位置が偏る度にぐらぐらと揺れる様があまりに心許ない。  こんな船団では、夜の闇の中を進むのに速度など出せるわけもない。  もう雨も通り過ぎ、すでに静けさを取り戻した湖上を、そうして万単位の男たちが移動していく。明るいところで見れば、その眉が白い事に気づいたかもしれない。  白眉である。  彼らのほとんどは咳一つせずに黙り込んでいる。ただでさえ一度か二度使えば十分という感覚で作られた上に、人を詰め込めるだけ詰め込んだ不安定なはしけを、仲間のものとぶつけぬよう気をつけつつ、しかし、後れをとって孤立せぬようにと必死なためだ。  会話を交わす余裕があるのは、そのはしけを囲んで先導する舟の中でも軽快に動くいくつかの舟くらいのものだった。 「雨があがっちまったのは痛いな」 「けど、雨じゃばらけちまうかもしれないぜ」  それらの舟には、特に櫂をこぐのが上手い水に慣れた者と、集団の指導者格の者たちが乗り込んでいる。彼らは湖面と周囲の様子を注視しながら、仲間を導いていた。こういった舟が、集団の中で十隻ほどある。 「それもそうだな。って、ありゃなんだ?」  一人が背を伸ばして闇の中に乗り出す。不用意に舟を揺らされたことに抗議の唸りをあげつつ、皆、そちらを見た。  そこに一つの影があった。  彼らが乗るのよりは大きい、荷運び用の舟であった。ただし、櫂は下ろされていないし、人影も見えない。沈みかけているわけでもなく、投棄されたとも思えない。なにかの拍子に漂いだしたもののように見えた。 「誰か落ちやがったか?」 「いや、俺らの舟じゃねえ」 「気をつけろよ」  抑えた声で言い交わしつつ、彼らはさらにその舟を観察する。見る限り、やはり人影はないようだが、荷は載せられている。 「呉の兵士あたりが隠れていたりは……しねえか?」  荷が載せられているといっても、それほど大量ではない。合間に隠れるにせよ、船底に潜むにせよ、一人か二人がせいぜいといったところだった。乗り込んでくるには不用意すぎる。 「近寄ってみっか?」 「そうだな……使えそうなら……」  彼らは後に続く舟に乗る仲間たちを思って、ついにそう言った。 「ん? 一艘じゃねえのか?」  近づくにつれ、その空舟の向こうにはさらにいくつかの舟の影があることに気づかされた。次いで、背後の集団からもざわめきが聞こえてくる。どうやら、仲間たちも似たような空舟を見つけたらしい。 「船団でも襲ったやつらがおったんか?」 「それなら舟ごと盗むだろうが。もったいねえ」  じりじりと舟に近づきながら、彼らは警戒を強める。なにかの罠ということは十分に考えられるのだ。  彼らは舟を止め、周囲の舟にも指令を飛ばす。口づてに命令が伝わり、また、同じように不審な舟を見つけた他の先導舟からも命令があったらしく、集団全体が動きを緩めた。 「まあ、ともかく、一艘引き寄せて、覗いてみっか……」  そうして櫂を伸ばし、空舟を引き寄せようとしたその時、それが起こった。  ひょう、と空を切り裂く音と共に、赤々と燃える矢が、その空舟に落ちた。 「どこ……」  どこからだ、と言いたかったのであろう。しかし、その問いかけは轟音にかき消された。  目の前の舟が燃え上がり、四散する爆音に。  貴重なものであるために、それぞれの舟に載せられた火薬はその爆発に比してもわずかな量であった。三国からかき集めてもそれほどの量にならなかったのだ。  しかし、船底には敷いた藁をひたすほどに油が貯められていたし、積み荷の中にも油壺がいくつもあった。  白眉たちの鼻につくほど立ちのぼりはせずとも、すでに舟の内側では油が蒸発し空気と混じり合って危険な状態にあったと言えよう。  だから、白眉たちが引き寄せた舟はとてつもない勢いで燃え上がった。そして、他の者たちが気づいた舟もまた。  爆散する舟の残骸にぶつかって死んだり、あるいは舟底を壊されたりといった直接の被害を受けた者は限定的だったし、火矢を認められた者はさらに少なかった。それよりも同時に数カ所で火が燃え上がったこと、そして、自分たちの親分の乗った舟がその炎に呑まれたか、呑まれそうな位置にあったことに驚いた者のほうが遥かに多かった。  慌てた何十人かがあちこちで急に立ち上がり、姿勢を崩した舟やはしけは他の仲間の舟とぶつかったり、ひっくり返ったりした。  悲鳴とわめき声、そしてなんとか落ち着きを取り戻そうと叱りつける声が一気に巻き起こり、ほうぼうで舟同士や櫂がぶつかる音が響く。  そんな狂乱の巷の内、百人からの部下を従える男は、ばしゃばしゃと水面を泳ぎ、元の舟へ戻ろうとしていた。爆発する舟の破片を避けた拍子に落ちてしまったのだ。 「畜生、てめえら、落ち着きやがれ! まず俺を上に……」  まだ元の舟にいる幾人かに声をかけようとしたところで、彼は己の体にまとわりつくものに気づいた。ただの水ではない、なにかもっとねばっこいものが湖面を覆っている。  それは――。 「……油?」  そこに、火舟の第二陣が突っ込んできた。  それらの舟は燃える舟の煙や炎の向こうから、突然現れたように見えた。ごうごうと燃えさかる舟は、最初の舟の残骸漂う湖面に行き着くと、周囲にばらまかれた油に火をつけつつ、白眉の集団へとつっこんでいく。  最初のそれとは違い、それらはあらかじめ火をつけられていた。燃えあがる舟は途中まで他の舟に引かれ、その勢いのままに突っ込まされているのだが、炎の壁を超えてそれらが現れたとしか見えない白眉たちに、そんなことまでわかるはずがない。  彼らは火舟が接触した衝撃ではじき飛ばされ、湖に落ちるばかりだ。  ある舟は燃える舟に横っ腹からぶつかられ、ひっくり返って乗員もろとも沈んでしまったし、あるはしけは火舟から広がる炎に逃げだそうとして向きを変えきれずに転覆した。火舟の一つに弾かれ、さらに別の火舟に衝突して燃え上がった舟もあった。  最初の衝突でなにもわからずに命を失った者は、まだ幸運と言えたろう。  第一陣の火舟が湖面にまき散らしていた油は、辺り一帯を炎の海に変えていた。それが巻き起こす恐怖と狼狽はどれだけのものだろう。  ある男は、最初の爆発ではしけから落ちていたが、元のはしけに戻ろうと水面に顔を出した途端、顔中を焼かれて再び水中に没し、二度と浮かび上がることはなかった。  白眉の一人は自らの乗るはしけに向かって、水面を炎が走るのを目撃した。それを見てすぐに水中に体を投じたが、そこに別の舟がやってきて彼の胸を押しつぶした。  逃げようと櫂をかいていた男は、向かう先で化け物の口のように炎が巻き上がるのを見て動きを止めようとした。反応する間もなく、彼とその周囲にいる男たちを真っ黒な煙が襲い、しばらく苦しげな咳や苦鳴をもらさせた後、速やかに意識を刈り取った。  大半の者がこの頃には煙に巻かれ、炎の赤に脅かされ、涙とよだれで顔中を汚しながらわあわあ言うことしかできなくなっていた。  そんな彼らを、次々と火が襲う。  飢えしか知らぬ生き物のように不気味な動きで。逃げることも許さぬほど素早く、空間を炎と熱が埋め尽くす。  そして、だめ押しのように、火矢が飛んだ。  それは、あるいは慈悲であったかもしれない。  燃え上がる炎の中で聞くも無惨なひゅうひゅういう音をあげながら奇妙な踊りを舞っていた者たちへの。  彼らは矢に撃たれることでようやく力を失ったかのように、ぱたぱたと倒れていった。  轟々と燃えさかる炎にまかれる影を眺めながら、長い黒髪を垂らす彼女は周囲に確認した。 「逃げる者はありませんか」 「包囲は完璧かと。集団を離れた舟は全て把握しています」 「わかりました。気は抜かぬようしてください」 「はっ!」  部下のきびきびとした返事に、明命は一応の安心を得る。彼女自身、水上の白眉の動静は捉えていたし、ここで殲滅できると確信していた。しかし、確認を怠るわけにはいかない。  彼女は目を凝らす。再び放たれた火矢を受けて、泳いで逃げようとしていた幾人かが沈んでいくのが見えた。  惨い光景だ。  しかし、孫呉が賊に与えるのは死あるのみ。彼らは白眉に加わった己の愚かさを恨むべきであろう。 「一刀様たちを相手にしていたら違ったかもしれませんが……」  一刀なら――あるいは華琳なら――こんな方法はとらないかもしれない。  油をまき、白眉をまとめて焼き殺すようなことは。  それをせずともいいのが魏の余裕であり、覇王の戦なのかもしれない。 「そういえば、黄巾を取り込んだのもすごいことだと穏様が仰ってましたっけ」  かつて華琳は黄巾討伐の祭、張三姉妹を生かし、黄巾の勢いをその内に取り込んだ。その判断を穏は手放して褒めていた。ただし、孫家には出来ないという注釈をつけて。  利があろうともそれは出来ない。孫呉にとって、賊に堕ちた者が迎えるべき運命は別にある。 「では、私は次に向かいます。ここは任せました」 「はっ!」 「ご武運を!」  兵たちの声を受けながら、明命は乗る舟の向きを変えさせる。見えるだけで二箇所。他の場所でも炎の赤が闇夜を照らしていた。  予定ではさらに二箇所、湖の各所で焼き討ちが成されているはずだ。明命はそのいずれも監督して回らねばならない。  孫呉の敵に確実な死を届けるために。  3.夜襲  手近な者たちに夜襲を告げて回る最中、陣の中央へと向かう一刀から愛紗は離れた。二手に分かれることは彼も承知していたことだったが、彼女が実際にどこへ向かうかまではわかっていなかったに違いない。  彼女は十分に一刀と距離を取ったと見ると向きを変え、先程、不審な者たち――敵を見かけた場所へと駆け戻ったのだ。  自ら動く襲撃側に対して、襲われる側はいかに訓練していようとも動きが遅れる。その間に重要な場所を潰されればさらに被害が大きくなる。  誰かが時を稼ぐ必要があった。  もちろん、武将――それも多くの部隊を率いる愛紗が時間稼ぎを担当するのは得策とは言えない。しかし、陣中には一刀も、詠も、そして、蜀の面々もいる。兵たちに対応を促すのは彼らに任せられる。  そう判断して、彼女は駆ける。  彼女の視界の中、忍び込んできた白眉たちが篝火を引きずり倒して消そうとしていた。そこに飛び込むようにして青龍偃月刀をふるう。火の粉が舞っていた空間にぱっと血が飛び、悲鳴が起きる。  二度三度偃月刀を大きく振り回し、篝火から白眉を引きはがすと、その足元にいくつかの死体。鎧をつけているところを見ると、不寝番の兵たちだろう。  一度だけ奥歯を噛みしめ、愛紗は白眉たちに意識を戻す。  彼らは愛紗を一人と見て数を頼んで襲いかかってくる。一斉に打ち掛かってくる武器を時にいなし、時に弾き、体勢の崩れた相手を文字通り一刀両断しながら、彼女は舞うように戦う。  強いな、こやつら。  愛紗は偃月刀の重さをまるで感じさせずに振り回しながら、心の中で呟く。彼女に敵う者はいそうにない。数人束になってかかってきても、いなすだけなら簡単なものだ。  しかし、たとえばかつて一刀たちと一緒に襲われた賊くずれの連中とは確実に異なる。  技倆よりも、その気迫が。  自分の腹を狙って突き出された剣を偃月刀で巻き取るようにしてへし折る。すると、その使い手は驚きながらも短刀を抜いて、さらに攻撃を続けてきた。  迷いがない。  愛紗はそう感じる。  世の軍記物でよく聞くことだが、戦場(いくさば)で死を覚悟した者は強いという。生にしがみつく者は弱いという。そんなのは、兵を死地に追いやる権力者どもに都合のいい嘘だ。本当は、生を指向するにせよ、死を受け入れるにせよ、何らかの覚悟を決めた者は皆強い。一切の迷いを捨て、ただ己の意志で剣を振るう相手は手強い相手だ。愛紗はそう考えている。  そして、いま相手にしている者たちは、そんな芯を持つ者たちであった。 「荊州に天師道とやらがいるという読みは当たっていたか」  おそらく彼らを支えているのはその指導者たちであろう。そうあたりをつけて、彼女は呟く。  そうして振るった偃月刀の刃が一人の男の腹に突き刺さった。内圧に負けて内臓が傷口から盛り上がる。しかし、男は会心の笑みを浮かべた。指が落ちるのも構わず、その手ががっしと刃を握る。  仲間たちにわずかな時を与えるため、彼は自ら彼女の刃を受けたのだ。  その魂に敬意を抱きつつ、愛紗は手首を返す。わずかな動きは長い柄を伝わることでしなりが加わり大きな回転となる。濡れた布を引きちぎるような嫌な音をたてて、男の腹と手がはじけ飛ぶ。肉をえぐり取って戒めが解かれた刃は、機を揃えて彼女を襲おうとしていた三人の首を次々にはね飛ばした。  そのあまりの鮮やかさと勢いに、周囲の者たちが警戒するように身を退いた。戦意を無くしたわけではない。多勢であることを利用して彼らは完全に彼女を囲おうとしていた。  篝火の照り返しの中、愛紗は彼らの様子を観察する。  張り詰めた顔には恐怖の色が踊っている。当然だろう。仲間がたった一人にばたばたと切り倒されているのだ。  しかし、すくんではいない。彼らの意気は挫けてはいない。  ただ勢いに乗って戦うのではなく、死の恐れも乗り越えてなお挑もうとしている。  いい若者たちだ。  だが、彼女は彼らに容赦するつもりはない。同情するつもりも毛頭無い。彼らは道を間違えているのだから。  ただ、思うのだ。  彼女とて道を間違えることはあるではないか。  いままさに偽りの道を歩んでいる最中ではないかと。 「莫迦なことを」  彼女は自嘲する。それを自分たちへの挑発と見たか、男たちが猛然と打ち掛かる。愛紗の体が、すっと下がった。それと同時に偃月刀が右下から跳ね上がるように左上へと流れ、その勢いのままに後方を刃が巡る。  片足を伸ばして身を低くする愛紗の頭上で、いくつもの血しぶきが舞った。断ち切られた首筋から、ぱっくりと割れた胸から、はね飛ばされた腕の付け根から、音をたてて血が噴出する。  熱い血が彼女の黒髪に、膚に、服の上に落ちていく。  その熱を、彼女は苦々しく思う。  敵の血の感触が不快だなどという話ではない。血にしろ、他の体液にしろ頭から被ってしまうなど論外だ。目が潰れたら、鼻が潰れたらどうするというのか。耳にしても血が入ってしまえば聞き取りにくくなるというのに。  体勢を崩してまで避けるものでもないが、普段の彼女なら避け得たはずの事態である。気の抜けている証左であった。  気を取り直して体を起こしたところで、兵たちがなだれ込んできた。 「愛紗!」  整然と列を保ったまま突入してくる兵たちの間から聞き慣れた声が聞こえてきた。その声に引っ張られるようにして向かった視線の先に、巨大な鈍器を構える黒衣の女性の姿があった。 「焔耶か」  兵たちが手際よく愛紗の周囲の白眉たちを打ち倒し、あるいは引き離していく。焔耶はそうして愛紗の周囲に開いた空隙に足を踏み入れると怪訝そうに首を傾げた。 「お前の血ではなかろう?」 「当たり前だ」  怒ったように吐き捨てつつ、八つ当たりだと自覚する。その怒りは本来、己に向かうべきだと愛紗は恥ずかしく思う。 「状況は?」  並んで兵の戦いぶりを眺めながら、彼女たちは会話し始める。兵が危ういと見れば偃月刀が飛び、鈍砕骨が唸る。しかし必要以上に手を出すこと無く、彼女たちは冷静に言葉を交わしていた。 「町の方にも来ていてな。これは星と朱里が向かった。さらに別の動きもあるだろうと予測して、桃香様と雛里は本陣内で待機している。それと、か……北郷がお前の隊の準備をしている」 「別の動きだと?」 「今回、町へは北方から、ここには南から来ている。どうも東南からもう一派来ると考えているようだ。詠と雛里が策を練っている。お前に隊の指揮を任せたら、北郷がそちらに対することになるだろう」  ずいぶんと大がかりなことだ。あるいはここで勝負を決めるつもりだろうか。愛紗はほんのわずか考え、大きく頷く。 「よし、わかった。では私はご主人様と合流することにする。ここは任せて良いな?」 「ああ、そのために来たのだからな」  焔耶の答えは明快だ。そこに浮かぶのは篝火の灯りの中で煌めくようなはっきりとした笑顔。この場で戦う事になんの疑問も感じていない、否、その意義を体全体で理解している。それがありありとわかった。  こやつも迷わぬか。  当たり前だ。彼女に迷いなどあるはずもない。しかし、愛紗はそのことにほんのわずか悔しさのようなものを感じてしまった。  そして、いまの彼女には、それを無視するようにして焔耶の前から走り去ることしかできないのであった。  4.軍議  武陵における星と朱里の部隊の素早い展開、本陣を襲った白眉への愛紗と焔耶の反攻、東方から回り込んで陣を包囲しようとしていた一軍への急襲。これら一連の迅速な行動によりその夜の襲撃は退けられた。  そうして一仕事終えた兵たちに遅めの朝食が配られているその頃、大天幕では将たちが今後の対策に関する話し合いを持とうとしていた。 「さて、それでは始めましょうか」  皆の前に手ずから用意した食事を運び終え、朱里がそう声を発した。すると、早速粥にさじを入れていた桃香が不思議そうな顔を見せる。 「あれ、一刀さんはいいの?」  この場には張三姉妹すら呼ばれているというのに、一刀の姿はない。同様に焔耶の姿もないが、これは兵たちの様子を見るために外にいることを彼女は承知していた。 「ああ、いま母衣衆と一緒に周囲を警戒中だから。脚の速い部隊じゃないと任せられないし、あいつも周りの地形を確認しておきたいとか言ってたし、いいんじゃない?」 「私と詠がご主人様の代理を言いつかっておりますので……」  詠と愛紗がそう答えるのに、桃香は納得したように頷く。 「ん、わかったよ。じゃあ、始めよう」  そうして、朱里と雛里、二人が立ち上がって話し始める。 「では、まず状況から説明していきましょう。我々は先程の夜襲を撃退しましたが、追撃を加え殲滅するまではいきませんでした。急な出来事でもあり、我が方が損害を抑えるべく動いていたからという理由もあります。事実、今回の夜襲においては、問題となるような損害はありませんでした」  問題とはならない損害。しかし、それは無傷という意味ではない。白眉の襲撃は、間違いなく彼らに打撃を与えていた。  ただ、軍事行動を続けるのに支障はないというだけだ。その意味を皆わかっている。そして、中でも桃香は露骨に顔をしかめていた。  ただし、彼女が声を発することはなかった。 「そして、知っての通り、昨晩は明命さんたちの手により、水上の白眉が討たれる予定でした。これについては成功の報がすでに入っております。討ち漏らした敵や、さらに湖上に出る者たちを警戒して現在呉軍は水上に展開中ですが、少なくともこれで洞庭湖側からの脅威は排除されます」 「この襲撃はそれを察知して、こちらの手を分散させるため……ということは?」  雛里の報告に、ひとまず安堵の空気が流れる。そこに愛紗が問いかけた。 「ない……と思います。巴丘を襲うならばともかく、我々を襲っても、水上での作戦には支障が出ませんから。さすがに白眉とはいえ、そのあたりは察しているものと」 「湖上での集団が積極的に呉軍を襲ったというなら、分散という効果もありえるけど、そっちはしっかり罠にはまって全滅してくれてるようだから、ボクもその点は心配ないと思う」  明命からの報を再確認していた詠が竹簡から顔をあげて付け加える。愛紗も頷いてそれ以上反論することはなかった。 「ただし、なんでこの機に奴らが襲ってきたかは考えてみる必要はあるかもね」  そこで詠は場のうちでも隅のほうで朱里の料理に舌鼓を打っていた三人のほうへ視線を向ける。 「人和? 黄巾の末期といまの白眉を比べてどう思う?」 「ん……。白眉は私たちの失敗をうまくかわしていると思う。私たちがあれくらい人を集めた頃には、もう自壊しかけていたもの」  詠の問いに、殊更冷静に人和は答える。黄巾の乱は張三姉妹にとって原点であり、そして、拭いがたい汚点でもある。複雑な感情を表に出さぬよう、人和は意識していた。 「ボクにとっては伝聞でしかないわけだけど、黄巾の末期では武器も食糧もない集団が、黄巾の旗の下に集うという名目だけで参集し、かえって全体の重荷となったと聞くわ。間違いない?」 「そうそう。あれは参ったわよ。こっちとしては参加拒否するってわけにもいかないし。だからって食べ物も着るものもどっかからかわき出てくるわけないしさー」  表情をまるで見せない妹に対し、地和はあきれかえるといった仕草をしてみせる。詠はにこにこと料理を楽しみ続けている天和も含め三人に目で感謝を示すと桃香たちに向き直った。 「さっき人和は白眉がそういった事態を回避していると評したけど、ボクの見方は違うわ。さすがに着の身着のまま集まってるとまではいかないけど……。ううん。そうしないためにこそ動いた。動かざるを得なかった、と見てる」 「ええっと?」  詠の発言を理解しきれなかった様子で、桃香は朱里たちのほうへ助けを求める。そのすがるような目つきに朱里は柔らかな口調で解説を始めた。 「組織というものは、なんらかの目的を持っています。ことに若い組織というものはその目的を目指すことによって一体感を醸成し、士気をあげます。ここまではいいでしょうか?」 「うん、それはわかる。みんなでこれをやろうってはっきりしていたらやる気も出るってことだよね?」 「その通りです。逆になにもない状態で放っておかれると人はやる気を失います。伝統ある組織ならば、それこそ日常の活動が色々あるんですが、白眉のような集団の場合、常に目的を与え続けないと組織自体が崩壊しかねないんです」 「それで、今回私たちを襲うのを目標にしたってこと?」  桃香が理解した内容の確認に、朱里は微妙な表情になった。 「その通りですが、それだけではありません。白眉は……荊州の白眉は、荊州で彼らの指導者天師道と共に力を蓄え、いずれ中央に、そして大陸全土に打って出ることを大目標として与えられました。その路線に沿うならば、本来あちらから我々を襲うようなことはしないはずです。もっと有利な戦場がありますから。しかし、詠さんの判断では……実は私もほぼ同様に判断していますが、その大目標を掲げるだけでは組織が分解しかねない状況になりつつあるのでしょう。そこで私たちを打ち破ることをまず第一の目標として設定しなおし、奇襲を試みたということだと思います」  薄い金髪をゆらめかす小さな軍師の問いかけの視線に、詠は頷いてみせる。彼女の意見に同意するという標だ。その横では桃香がほーとかはーとか感じ入った声をあげている。 「変に暴発せぬよう、ここらで一つ戦闘に入っておかなければならなかった、というところですかな」  それまで黙って話を聞いていた星が面白がるように呟く。それに頷いて、朱里は続けた。 「先程も言った様に、私も詠さんとおおむね同意見です。もちろん、白眉には白眉なりの目的も戦略もあるとは思いますが、この時期に動くことが必要であったというのも事実でしょう。その上で、今後の彼らの反応を考えると……」  そこで朱里は隣の雛里と視線を交わした。 「おそらく、近々に再び襲撃があると思われます」 「……たぶん、明日の夜明けに」  さすがにその発言には――おそらくは既に予想していたであろう詠を除く――全員が驚く。  一瞬の沈黙の後で、桃香がこてんと首を傾ける。 「なんで明日の夜明けなの?」 「……まず第一に、呉軍が水上戦力を一掃してしまったことがあります。この報をおそらく白眉はもうすぐ……今日の午後にでも掴むでしょう。となると、それを成した呉軍が我々と合流する前に討ちたいと考えるはず。さすがに湖上に展開した軍をまとめるには一日はかかると予測するでしょうし、実際明命さんは明日まで水上を厳重に警戒する予定です」  雛里はゆっくりと説明する。明命の行動は既定のものだが、誰もそれを早めようとは言わなかった。呉軍を合流させて単純な数の有利を得るよりも、湖上に逃れる者を見張ってもらう方がよほどいいとわかっているのだった。 「第二に、人間の心理として、また夜襲があるかもと警戒していても、その緊張は時間と共に緩みます。それが一番途切れやすいのが明るくなりかけた夜明けの時間帯なんです」 「実は一番効果的なのは兵が食事をとっている現在だったりしますが、それをまとめあげる程の力は流石にないでしょうし、あっても一刀さんが見つけてしまいますので」  雛里の発言を、朱里が小さく笑いながら引き継ぐ。急襲を繰り返せるほどの相手であれば、このような軍議自体やっている暇はない。そして、そのような急激な活動が可能なのは各国の精鋭くらいのものなのだ。 「ふむ。撃退し終えて多少気が抜けている今でなければ今日のうちはがちがちに警戒していよう。そこが緩む明け方を狙うか。急ぐならばそこしかないというのも頷けるな」 「もちろん、白眉が来ない場合にはこちらから出ることも考えなければいけませんが、それはまだ先のこととして……。この数日以内に再び襲撃があった場合の対処をまとめてみました」  時間がなかったもので、走り書きですがとぺこぺこ頭を下げながら、雛里は自分が主導して作り上げた作戦案を皆に配って回る。三人に一枚という少なさだが、朱里と雛里で急いで書き写したものなのでしかたないだろう。  それでも口べたな雛里が説明するよりはずいぶんはやくなるはずだという判断であった。 「あれ、ちぃたち後ろに下がるんだ」 「歌で相手をおびきよせるんじゃないんだねー」  おそらくは自分たちに関わる部分だけを探して読んだ地和と天和が驚きの声をあげる。当初の予定とはまるで違ったからだ。  一刀が中心に練り上げたそもそもの予定では、白眉がいそうな場所、あるいは戦闘が始まった場所で張三姉妹が舞台を披露し、それによって相手の歌姫たちとその主力をおびき出すはずであった。  白眉の末端の者たちをどれだけ倒そうと意味はない。大事なのは、それを動かしている歌姫たちなのだ。それを理解している一刀だからこその策であった。  しかし、雛里の策は違った。 「朱里ちゃんと星ちゃんは武陵の町、私と焔耶ちゃんが本陣で、愛紗ちゃん、雛里ちゃんが主攻、一刀さんと詠ちゃん、天和ちゃんたちが止めの役……なのかな?」 「そうなりますね」  役割分担は桃香が述べたとおり。町に展開済みの星の部隊はそのまま置いておき、朱里の八卦陣で町にやってきた者たちを一網打尽にする。一方、愛紗率いる部隊は、白眉の襲撃を真っ正面から受け止める手筈になっていた。 「平野での決戦ならば間違いなく我らが勝つ。部隊ごとの機動力、展開力がまるで違うからな。白眉に勝ち目があるとすれば、その数を頼んだ乱戦。それに巻き込まれたと見せる、か」  愛紗の部隊の役割は、白眉の襲撃を全て受けきり、耐え抜くことだった。撃破するのではなく、足を止めて殴り合う。相手にこれはなんとかなるのではないかと思わせて全軍を引きずり出す役であった。  そして、そこに一刀たち和了隊と張三姉妹を投入する。 「全力のぶつかり合いの上に歌姫が出てきたら……天師道も出てこざるを得なくなる」 「芸事に生きる身なら、出てこないわけにはいかないわよねー。その上、相手だけ士気がんがんにあげられたら、たまんないだろうし」 「天和さんたちが切り札であるのに変わりはありません。ただ、最初に使うか、最後に使うかの違いと言えるでしょう」  眼鏡を煌めかせて作戦を吟味する人和に対して地和も同意する。そんな彼女たちを励ますように朱里は言った。 「なお、もしなにかあっても、桃香様たちの部隊が秩序を保っていれば、十分に対処できるはずです……」 「それまであの焔耶が我慢出来るかどうかだが……。いや、桃香様のお側なら問題ないか」  その後もしばらく質問とそれに対する答え、そして、よりよい案への修正が行われ、話がついたところで、朱里と雛里、二人の軍師は見るからに緊張感たっぷりの様子で声を揃えた。 「それで、その……いかがでしょうか。詠さん」 「え? いいんじゃない? あっちから動く前提なら悪くないと思うけど」  この場にいない一刀に見せるためか、紙にいくつも書き込みを加えていた詠は、唐突に名前を呼ばれて驚いたように顔をあげる。 「そ、そうですか。ありがとうございます!」  雛里が見るからにほっとした調子で礼を言うのに、詠は目を丸くする。その様子に愛紗や桃香も不思議そうな顔をしていた。 「へ? なに?」  よくわからないという様子で眼鏡の奥の瞳を揺らす詠。一方で朱里と雛里は彼女の反応にためらうようにしている。愛紗や桃香、張三姉妹は詠と同じく事態を把握できていないので声を挟めないでいる。そんな場の雰囲気にくっくと喉を鳴らす人物があった。 「詠も意地が悪いな」 「はあ?」  着物の袖を巻き取るようにして口元に持ち上げている星にそんなことを言われ、詠は険しい声をあげた。もちろん星は詠のそんな勢いにはまるで構わず、悠然と言葉を続ける。 「考えてもみろ。この戦場の実質的な主導者は北郷殿。となれば現状その代理である詠の立場は朱里や雛里より上。軍師として上の立場の者の策を破棄するとなれば遠慮もしようというもの。違うかな?」  予想もしていなかった答えに呆気にとられた詠だったが、編んだ髪に指を絡めて少し考え、朱里と雛里に対した。 「言っておくけど、あの策の骨子はあいつよ。ボクはそれを具体化させて調整しただけ」  小さく肩をすくめて、彼女は言い切る。 「ま、ともかく、遠慮なんかする必要ないわよ。ボクもこの策を支持するしね」  そうして場は収まり、皆はそれぞれに果たすべき役割のために相談を始めるのだった。 「桃香、一ついい?」  軍議も終わり、解散しようとするところで、桃香の背にそう声がかかる。一緒にいた朱里が声をかけた人物にちらりと目をやってから一足先に天幕を出て行く。蜀の女王は真名通りの髪をひらめかし、振り返った。  腰に手を当て自分を見上げてくる女性を桃香は覗き込む。 「なに? 詠ちゃん」 「朱里と雛里のことだけど」 「うん」 「あの二人、あんまりぐずぐずさせる時間を与えない方がいいんじゃない? ちゃんと正解を引き出せるのに、考えすぎて空回りしてるような気がするわ」  詠の評価に桃香は微妙な笑顔を浮かべる。 「あはは……。まあ、そういうとこ……あるかな」 「ま、ボクも経験がないとは言わないけど……。気をつけてね」  お節介かもしれないけどね、と付け加える彼女に、桃香は今度は本当に心の底からの笑顔になって頷くのだった。 「うん、ありがとう」  5.昏迷  夕暮れの澄んだ空気が本陣の中にも漂いだした頃、指揮官用の天幕の入り口をくぐったのは北郷一刀。寝ぼけ眼をこすりながらなのは、先程まで睡眠を取っていたからだ。明け方に予想されている襲撃に備えて、各将は順番に体を休めることになっていた。  彼の姿を認め、天幕内の三人が顔をあげる。その中で詠は一刀の頭を見た途端、不機嫌に目をつり上げた。 「あんた、その格好でここまで来たの? ちゃんとしてから出て来なさいよ。寝癖ついてるわよ」 「うわ、ほんと? ごめん」  たたっと駆け寄り、手を伸ばして彼の髪をなおそうとする詠。それに対して一刀も頭を下げて彼女がやりやすいようにする。そのあまりの自然さに愛紗は目を丸くし、雛里は小さくあわわと呟いている。 「どうかな? 予定通り?」  残る二人の動揺ぶりにはまるで気づかず、一刀は訊ねかける。彼も軍議での結果はすでに聞いていた。詠や愛紗が同意したことだからと彼もその方針を受け入れている。実際、個人の天幕に戻って眠りに就くまでは、愛紗たちと細かい打ち合わせを続けていたのだ。  よほどのことがない限り動けない本陣の桃香たちはともかく、主力を担当する愛紗と、その成り行きを見守りつつ最終的な一撃を加える予定の一刀は綿密な連携を要求される。それぞれの軍師たちとあわせて四人は軍議が終わって以後、順繰りに休みに行く以外、ずっと一緒に活動していた。 「一刀さんが寝ている間に、春蘭さんから連絡がありました。魏軍は江陵から南に五十里の地点で白眉の軍を破ったとのこと。昨晩のことです。そのまま南下し、明日の夕刻にはこちらにつける見込みとか」 「よくそんな南の連中を見つけられたな」  雛里の報告を受けて一刀は感心するが、それに対して愛紗は苦笑して答えた。 「五十里となれば、索敵していたとしても兵を動かすのに時間がかかります。既に突出していたと見るべきでしょう」 「あー、春蘭だからな……」 「なんにせよ、これでここいらの白眉は余計に追い詰められたと見ていいんじゃない? 春蘭が討ったのは北への進出を狙っていた一軍でしょう。荊州の白眉全体としてもそれを討ち取られたのは痛手のはずよ」  おそらくは既に話し合っていることのはずだが、一刀に理解しやすいように詠たちは話を進めていく。 「北への突破を狙った攻撃を防がれ、魏軍が我らに合流するとなれば、勝ち目はさらに薄くなる。となれば、奴らも焦るだろうからな」 「ただ……我々と違い、白眉の人たちがそれを知るまでには時間がかかると思われます。早くても今夜……。となれば判断自体には影響しないと思われます。かえって襲撃を実行する動機を強めるとおもいますので……」 「ただし、その報に焦って早めるってことはありえるわね。ボクとしては、真夜中すぎから準備しておくことを勧めるわ」 「ふむ。じゃあ、襲撃を待ち構えるっていうやり方は変わらないわけだね」  一刀は三人の意見を聞き、うんうんと頷く。それまで話していたことを大きく変更する必要がないとなれば一安心だ。時間を早めるのは最初から想定していたことだ。 「それから、現状では白眉の動き自体は掴めていません。おそらくは今朝追い散らされた後、中核以外は再集結を果たしていないものかと」 「厄介だなあ」  白眉はそもそもが軍集団ではない。自発的に集まり、自発的に動く集団だ。そのために、軍の部隊の常識とは違い、散った兵が集合を急ぐという事もない。どういう基準かは一刀たちにはよくわからないが、彼らなりの判断で集結を行うのだ。そのため、斥候が進軍を見つけるのも一苦労となる。 「まずは明日の夜明けを本番と見て、待つしかないか……。その間、やっておくべきことは?」 「そうねえ……。大半はもう打ち合わせ済みだし、状況の変化がない限りは特に……。図上演習もう一回やっておく?」 「すまんが」  四人が揃って出来ることを、と一刀が言い、詠が考え込むところに、そう声をあげる者がいた。ぴしりと姿勢よく手もあげている愛紗に皆の視線が集まる。 「余裕があるようなら、私はご主人様と話がしたいのだが、よいだろうか」  その申し出に詠は彼女の凛と張り詰めた表情を探るようにする。そして、次第になにかうろんなものを見るような顔つきへと変化した。結局、彼女は腕を組み鼻を鳴らして答えるのだった。 「ふうん。いいんじゃない? いいわよね?」 「そりゃ、俺は構わないけど」 「そうか。では、我々はご主人様の天幕にいる」 「え、こちらを離れるのですか? それは少々」  既に立ち上がり、一刀の側に寄ろうとする愛紗に、雛里が口を挟もうとする。だが、そのふわふわとした裾を掴む指があった。 「雛里」 「はひ?」  ひそめた声で呟かれ、鳳雛と称される軍師は奇妙な声をあげる。彼女としては、当然のことを言おうとしたのに、なぜそのように制されるのか理解出来ていなかった。 「鈍いわねぇ。そんなんじゃ、このあたりの地名に蹴鳳坡ってつきかねないわよ」 「へ?」  その言葉になにを悟ったのか。蜀の大軍師の片割れの顔は一瞬にして赤くなる。 「あ、は、はひ。そうですね。ご、ごゆっくり!」  二人の軍師が交わした言葉を聞き取れなかった一刀は、真っ赤な顔になった雛里に送り出され、なんだかおかしいなと呟くのだった。その呟きに苦笑いしている愛紗に気づくことなく。 「ごめんね。寝てたからさ」  一刀は自分の天幕に戻ると、先程まで使っていた寝具を隅に追いやってなんとかその場を片付けようとする。 「いえ、お構いなく」  だが、愛紗は特に気にしていないようだった。整理整頓に気を遣う彼女らしくないが、なにか他に気を取られることがあるのだろうか、と一刀は気にかかる。 「話があるんだったね」  彼が畳んでいた卓を出そうとしたところで愛紗に止められた。襲撃を予想している状況で、わざわざ畳んであるものを広げる必要はないというのだ。結局、二人は柔らかな敷物の上に直に座って対することとなった。  卓を挟まないため、一刀の脚と愛紗のしっかり組んだ膝が触れそうな位に近い。ちょっと近過ぎはしないかとどきどきする一刀であった。 「ええ。この戦のことです」 「ふむ」  真剣な顔で切り出す愛紗に、一刀も気を引き締める。彼女の琥珀色の瞳を覗き込み、彼は大きく頷いた。 「此度の戦、私が足を引っ張りかねません」 「へ? 愛紗が?」 「はい」  きゅっと顎を引く動作に一刀は慌てて手を前に突き出す。彼女の肩に触れそうになって、彼はさらに動揺しながら手を振った。 「いやいや、ちょっと待ってくれよ。このあたりにいる将の中でも、いや、違う。三国の将の中でも愛紗は飛び抜けてるだろう。なんでそんなことを? 作戦が間違っているのかい?」  関羽の名を考えるまでもなく、愛紗の将としての実力はよく知っている一刀である。華琳に従って蜀に侵攻した魏の将たちは皆、彼女の力を身に染みて理解している。  だが、いかに愛紗とて万能ではない。出来ないこともあるだろう。そして、無理だと判断することもあるだろう。それを指摘しにきたのかと思ったのであるが、愛紗はその問いかけに首を振った。 「自分で言うのも口幅ったいですが、将器だけで見れば、私はそれなりのものでしょう。武はありますし、経験も知恵もある。しかし、根本的なところで、いまの私は駄目なのです」 「……どういうことかな」 「いまの私には、迷いがあるのです」  途端に体が重くなったような錯覚を一刀は覚えた。空気が粘っこく感じるほどの緊張感が天幕中に満ちている。  それは怒りであり、戸惑いであり、嘆きである。  愛紗が感じている苦しみがその声と態度からにじみ出ていた。彼女自身はただ真っ直ぐな姿勢で座っているだけだというのに。 「迷い……か」 「はい。知っての通り、いま、私は蜀の軍を率いさせてもらっています。鈴々が……その、あのようなこととなった現状、蜀の総指揮に近い立場と言っていいでしょう。……元々私がやっていたのと同じような」 「うん。愛紗だからこそ朱里たちも頼んだんだし、桃香も任せていることだよね。それが問題?」 「はい」  辛そうに、愛紗は頷く。朱里たちの思いも、桃香の望みも、そして、一刀が彼女にそれを任せたことの意味も理解していながら、そう答えざるを得ないが故に。 「いまの私はご主人様に従う身です。そうでなくてはなりません。しかし、桃香様がいて……黄巾のような者たちを相手に、朱里や雛里までいる。率いているのは義勇軍ではなく蜀の兵ですが、これも顔なじみです。なんというか……。昔の感覚に引っ張られてしまうのです」 「そこに迷いが生じているって?」  はい、とかすれた声が一刀に答えた。歯を食いしばりながら、彼女は言葉を押し出した。 「自分が何者なのか、わからなくなってしまうんです」  泣きそうな声で、すがりつくように。  6.愛紗  愛紗はけして身を乗り出していないし、まして彼の体にしがみついたりしていない。しかし、なぜか一刀は彼女を抱きしめたくてたまらなくなった。もし、彼女の中の衝動が動きとして出るものであったなら、もっと楽であったろうに。そう思いながら。  彼は一つ息を吸い、出来る限り冷静な声を出す。 「この戦、おそらく白眉との決戦になる。残敵の掃討に時間はかかるだろうが、実質的な戦は、今日、明日で決まる。俺はそう考えているけれど、愛紗はどう思うかな」 「はい。仰る通りかと」 「そうだとすると、それは俺と愛紗の約定の時だ」  一刀は一抹の寂しさを抱きながら、そう告げる。元々彼女には別の居場所があるのだ。 「俺は白眉を討つまで力を貸してくれと頼んだ。愛紗はこの戦でその約束を果たす。そして、桃香と同じ所に戻る。そのために戦うことは、愛紗にとって正しい道じゃないかな?」 「それは……そうです」 「じゃあ……」 「けれど」  言葉を重ねようとした一刀の耳に、愛紗の言葉が響く。その瞳が潤み、そして、目の端に涙が盛り上がった。 「けれど、それを考えれば考えるほど、自分が偽っているという感覚が強くなるんです」 「偽り……」 「白眉を討つことは正しいことだと私は考えています。そして、白眉の乱を終わらせることはもっと正しいことです。さらに、この乱を終わらせることで桃香様の許へ戻ること、それもまた私にとって義と言えることです。一つ一つを見れば正しいことですし、それがつながってもいる。しかし」  ふるふると彼女は震える。まるで寒さに耐えかねるように。そして、その震えのためか、右の瞳から一筋涙がこぼれた。 「民の為、この国土のためではなく、己の立場を守るためだけに戦っているかのように感じてしまう自分がいるんです」  わかっている。  愛紗もわかっているのだ。  自分が成すべき事も、それがこの国にとっても、大事な人たちにとっても為になるということも。  けれど、納得できずにいる。そうして、己を責めてしまう。  偽りの立場で戦うことに。中途半端な自分でいることに。  それを潔癖ということも出来るだろうし、狭量と責めることすら出来るかもしれない。しかし、もちろん、一刀はそんなことは考えもしなかった。 「戦に際して、自身を知る者と知らぬ者、どちらが強いかは言うまでもありません。与えられた任をやり遂げる自信はありますが、しかし、どこかで私の迷いが露呈する懼れは、ある」  そして、その懼れを自覚すればするほど、迷いは深くなる。 「まして、ご主人様が仰るように、これは決戦。であるならば、迷いをもってその戦に対することは出来ません」  一刀は考えた。  考えに考え、百万の言葉を尽くしても彼女を納得させ得ないことを認めた。  だから、彼はこう訊ねるしかなかったのだ。 「……俺になにか出来ることはある?」 「あります」  答えははっきりしている。だからこそ彼女はこの場に来たのであり、求めるものはわかっていた。  彼を見つめる彼女の瞳から、涙は既にひいていた。 「迷いというのは、結局の所己の力で脱するしかないものです。ご主人様も、桃香様も、私にその答えを与えることはできない。ただ、私自身がその迷いを脱する力を得るための手助けを、お願いしたい。よろしいでしょうか」  それは、おずおずと、まるで拒絶を恐れるかのように差し出された願いであった。一刀がそれに応えるまで、彼女は息をするのも忘れていた。 「ああ。なんでもするよ」  しかし、なにをすればいいのだろうか。  立ち上がる彼女を見上げつつ、一刀はなおも考える。なにかをしてあげたいという気持ちはあるが、どれだけのことが出来るのか。  まさに彼女の偽りの立場を作り出した身として、一刀は考えていた。  だから、彼女の取った行動を目にして、その意味が彼の頭に入ってくるまで、わずかな間を要した。  しゅるしゅると布がこすれる。  ぽすんと柔らかなものが落ちる。  敷布の上に広がった黄金の翼のような模様を見つめ、そして、彼は再び顔をあげる。 「あ、愛紗!?」  驚きの声をあげる彼の前に広がるのは、白い膚。  既に下着だけになった愛紗がそこにいる。  黒髪が流れる膚のきめ細やかさは輝くようで、筋肉の上をうっすらと覆う肉の柔らかさは触れずともわかる。小さなおへその愛らしさには自然と視線が吸い付いていく。  そして、たっぷりとした太腿が目の前にあるのを認識して、一刀の心臓は一段と心拍数を上げた。 「な、な、なにを!」 「偽りを、偽りで無くせばいいのです」  言いながら下着に手をかける彼女の頬は赤く、その指はわずかに震えている。  まろび出る乳房の迫力は服を着ている時からは考えられないほどで、その形の端正さは想像を絶し、その頂点にある鴇色の突起はかわいらしく存在を主張する。  そして、楚々とした翳りに繋がる曲線の麗しさよ。 「私に、あなたを信じさせてください、ご主人様。……いえ」  強く、首をふる彼女。髪留めを外された髪が、長くゆったりと宙を舞った。 「一刀様」  真っ白な裸身が、囁くように、彼の名を呼んだ。  愛紗は泣いていた。  悲しいのではない。嬉しいのではない。  悔しいのではない。報われたのではない。  痛みではない。快楽ではない。  ただ、泣いていた。  けれど。  悲しいのだ。嬉しいのだ。  悔しいのだ。報われたのだ。  心地良いのだ。狂いそうなのだ。  全ての感情がそこにあり、全ての感覚がそこにあった。  信じるものが欲しかった。  芯となるものが欲しかった。  己の武を捧げる人が欲しかった。  好ましいと思っている男にそれを求めたことが間違っていたとは思っていない。  彼に力をもらい、彼に力を貸すことが正しいと思ったからこそ、信じるための道を探ったのだ。  それでも。  恋に狂った女と言われるならば、いっそ本当に恋に狂ってしまえばいい。  そんなやけっぱちな心情がまるでなかったとは言えない。  だが、恋に狂うという意味が、これほどのことだとは思ってもみなかった。  まずい、これはまずい。  愛紗の頭の何処かで警鐘が鳴る。それを真剣に受け止める意識は既に、無い。  体が溶けて行く。  自分の感覚がなくなっていく。彼と繋いでいる指先が消え、こすりつけられている足が消え、舌の這う腹が消え、嬌声を立て続ける口が消え、彼にえぐられ続ける性器が消えた。  ただ、心臓だけが残る。  まるで拍子の狂った鼓動を刻み続ける心臓だけが意識される。  それを握っているのは、自分ではない。  どくどくどくどくどくどくと。  体を駆け巡る音が爆発し、いつしか世界は光に包まれる。  恐ろしい。  愛おしい。  その目が潰れんばかりの――まさに実際に見たならば目が潰れたであろう無限の眩さを持つ光に対して背反する感情が生まれる。そのどちらをも意識した途端、その二つがまるで同じものだと彼女は悟る。  迷いと答えもまた同じ。  その全てがここに――この方にある。  ああ、これでよい。  光の中に呑み込まれながら、愛紗はそう呟いていた。  7.出陣 「一刀様は……」  意識を取り戻したのがいつなのか、愛紗にはわからなかった。ただ、抱きしめてくれる腕の温もりだけが意識された。 「ん?」 「一刀様は、本当に豪の者なのですね。閨の中では」 「う、なんかひどい言われよう」  思わず吐いた言葉に、彼女自身が引きずられる。意識して言ったわけではないのに、それを口にした途端、彼のすさまじさを思い出して、彼女は顔を赤く染めた。 「言いたくもなります。初めての者に、よ、四度もしておいて!」 「ゆっくり優しくしたよ?」 「それは……」  ずいぶんきっぱりと言われて、彼女は絶句する。やはり、この人は閨では強い、と彼女は思っていた。  しばらくは無言が続いた。灯火を消された天幕の暗がりの中、二人は体を寄せ合いながら外の音を聞いている。まだ襲撃には時間がありそうだ。もし白眉が近づいていたら、この程度のざわつきようでは収まるまい。 「でも、驚いたな」  ふと彼が呟いた言葉に、愛紗は少々腹を立てる。 「あなたが言いますか」 「え?」 「だいたい、あの後、音沙汰がないというのはなんなのです? そちらのほうが驚きではありませんか?」  あの後、というのは鈴々の黥刑について聞いた後、彼が彼女を慰めた時の事だ。もちろん、そのことは一刀にもきちんと伝わった。 「い、いや、まあ……なんというか。陣中でもあるわけだし……」 「そもそも、あの時は抱きしめて欲しかったわけで、く、口づけまでとは」 「え、いや、でも、嫌じゃなかった……よね?」 「嫌だとかいいとかそういうことを言っているのではありません!」  のほほんと言ってのける男に、彼女は呆れてしまう。嫌どころか嬉しかったなどと知られたらどうなるだろうと思う反面で、きっと最初からわかっているのだろうとも思う。そんな相手であった。 「それにしても、戦の前に……大丈夫かな?」 「腰が抜けるとでも? 武人の鍛え方を舐めてもらっては困ります。かえってそちらのほうが……」 「いや、俺は慣れてるから……いてっ」  脇腹をきゅっとつねられて、一刀は悲鳴をあげる。おそらく、この世で最も同情されない悲鳴であったろう。 「真夜中はすぎていましょうか」  闇の中、判断材料を探すように彼女は言う。男は名残惜しげに彼女の腕を撫でた。 「だろうね。そろそろ詠たちのところに戻るべきかな」 「……ですね」  それ以上言えば動けなくなる。二人ともそれをわかっていて、だから、愛紗は彼の口を己のそれでふさいだ。  ただ触れるだけの接吻。  お互いの唇をこするようにして彼らは離れた。  衣服を整え、愛紗が得物を手にしたところで、一刀は灯火をつけた。蜜蝋の甘い香りが漂い、彼女の姿を浮かび上がらせる。  皺一つ無い衣服を身につけたその立ち姿は、どこかの絵画から抜け出てきたような美しさ。 「戦えそう?」  愚問と思いつつ、彼は訊く。だが、それに対する答えは彼の予想とは異なっていた。 「戦えそう、ではありません」 「え?」  驚いたような顔をする彼に向けて、小さく嘆息する愛紗。 「いまのあなたが言うべき言葉があるでしょう。私の主としての言葉が」 「ああ、そうか。ごめん」  素直に頭を下げ、彼は声を張った。 「行ってこい、愛紗。みんなのために、そして、俺のために戦い……勝って帰れ」 「はいっ! 一刀様!」  女は彼を信じ、彼は女を信じた。  そして、そうなった時、彼女は無敵だ。  多言を弄するまでもないだろう。  荊州白眉は決戦を挑み、そして負けた。  戦が終わる頃には魏軍が武陵に到着、呉軍の一部もまた上陸し、逃げ散る白眉を追撃したのだった。  そうして、二日の時が過ぎる。  8.外史 「天師道の三人が見つからない?」  本陣の天幕でほうぼうから寄せられる報告を処理していた一刀は、春蘭がそう言うのに首を傾げた。 「おかしいな。あれだけ囲んでいたのに」 「華琳様からは、出来るならば張三姉妹と同じく確保しておけと言われたのだが、参ったな」  見回りで疲れたのか、彼女はどっかと座りこみ、不機嫌そうに首を振る。 「ちぃたちと同じで、どこかの勢力が取り込んでるんじゃないのー?」  戦場で天師道たちと文字通りの歌合戦を繰り広げた地和が、天幕の隅でごろごろ転がりながら推測する。だいぶ疲れているらしい。 「どこかって呉や蜀か?」 「どこかが殺すとでも思っていればそういうことはあるかもしれませんが……。基本は拘束ですよね?」 「張三姉妹と同じく、表向きは即時処刑だけどね。実際の処分は三国で決めることにするはずなんだけど……」  愛紗に訊ねられ、一刀は一つ唸る。白眉は数が多いだけに一般兵に紛れて逃げられたのだろうか、と彼が考えているところで、やってきたのは詠。 「目撃者が出たわよ」 「目撃?」 「天師道の三人を最後に見た奴よ」  ほう、と天幕の中から声があがる。詠は肩をすくめながら彼らに説明した。 「ただ、どこまで信用して良いのか。どうも錯乱してるようなのよね。消えたってわめいてるのよ」 「なんだ、それは。私たちを混乱させようとでもしているのか?」  眉間に皺を寄せる愛紗の問いかけに、詠はぱたぱたと手を振る。 「いえ、白眉側じゃなくて、呉の兵士なのよ。まあ、内部工作って筋もあるけど、意図が読めないわ。それこそ、湖に身を投げたことにして逃がすとかならわかるんだけど」 「三国の人間か……」 「熱でもあるんじゃないの?」 「とりあえずそんな様子はないんだけどね。いま明命が再尋問してるわ。ただ……彼女も嘘とは思えないって。他に見つからないようなら朱里が薬を調合してみるって言ってたけど。あんまりそこまではしたくないわね」 「……で、どういう様子なんだ?」  一刀が慎重な声で訊ねる。彼と春蘭だけは詠の言うことを疑うのではなく、なにか見つけ出そうとでもするかのようにじっと聞いていた。 「んー、なんだかよくわからないけど、そいつが言うには姿がどんどん薄くなって、空気に溶けるように消えてしまったんですって」 「……そうか」 「北郷」  春蘭がすさまじい勢いで振り向いて一刀を見る。おそらくは華琳から聞いていたのだろう。 「うん。まあ、そういうことかもしれないな」  二人の間に幾度も視線が交わされる。驚愕の面持ちの春蘭に対し、一刀の顔は木彫りの面のように固まっていた。全ての表情をそぎ落とされた彼を見て、詠が青くなる。 「……ちょっと待って、まさか」 「そのあたりは、その目撃者から俺が話を聞いて……判断しよう」  一刀の表情と言葉は、それ以上の語りかけを許さなかった。  その後、兵士と一刀がどんな会話を交わしたか、知る者は陣中にいない。ただ、尋問用の天幕から出てきた彼の顔は疲れ切り、そして、張り詰めていた。 「華琳には……それに桃香と蓮華には俺から報告する。ともかく天師道はいなくなった」  それだけ宣言して、彼の様子にいぶかしげな皆を見回して、彼は小さく付け加える。 「詠、しばらく任せる」 「……了解」  彼女に礼を言うように力なく笑いかけ、ひらひらと手を振って、彼は歩み去ろうとする。 「一刀様?」  その背に声をかけようとして、愛紗は己の肩に手が乗るのを感じた。 「よせ、愛紗」 「春蘭?」 「いまは……いまだけは一人にしておいてやれ」  肩にかかった手に力は込められていない。しかし、もし彼女が動こうとすれば、確実にそれを止められるだろうと思わせるものがあった。 「どういうことだ?」 「ゆっくり説明してやる。ゆっくり……な」  酒でも持ってついてこい、と隻眼の将軍は暗い声で言うのだった。  自分の天幕の中、一刀は宙を睨んでいた。  なにをしているのでもなく、ただ、考えているのだ。  布一枚隔てた外には春蘭から知らされて駆けつけてきた流琉が立っている。彼が許さなければ誰一人中には入れないし、邪魔をされることもない。あるいは彼女に甘えたければいくらでもさせてくれるだろう。  ただ彼は灯りもつけず黙考していた。  そんな彼が寝転がっている敷物をなにかが揺らす。  地震か、と思って体を起こしてみれば、天幕の床に敷かれた布の一部がぽっこり盛り上がっていた。 「なんだ、土竜か?」  土を掘る生き物はいくらかいる。その類のものが陣中に紛れ込んだのかもしれない。掘った穴に兵が蹴躓いて怪我でもしたら大変だ。さっさと捕まえて、遠くに放り出そう。  そう考えた一刀は盛り上がっている場所に近づき、持ち上げられている布をひょいとはがした。  まさかそこに名状しがたいものがあるとは思わずに。 「なんだあっ!?」  そこに現れたのは、浅黒く光るてらてらとした曲面。  それは地中から突き出る禿頭に他ならなかった。      (玄朝秘史 第三部第四十二回 終/第四十三回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○曹下家の項抜粋 『曹下家は曹操の子らが開いた三つの皇家の一つで、曹沖に始まる皇家である。周知のことではあるが曹三家はそれぞれ優秀な人物を数多く輩出している。その中でも曹下家は主に自然科学にまつわる学者を多く出し、数学方面において郭家とその才を競い合う関係はいまも続いている。その傾向は初代曹沖の有名な『象の重さを量る話』に象徴されるが、実はこの話は元来仏教説話であったものがいつの間にか曹沖を主人公とした話に置き換わったといわれる。しかしながら、これほど曹下家の特徴を示す伝説も……(中略)……  このように学者の家系として知られる曹下家であるが、長い歴史の中では偉大な戦功をあげた武将も、史上に冠たる君主も輩出している。その中で一人挙げるとすれば、南朝の初代皇帝となった曹烈であろう。  曹烈が世に出る前の約百年――いわゆる『大失陥時代』において、後朝はキタイの圧力に負けて中原を失い、西方も侵略を受けて、古代の区分でいえば揚州と荊州の東半を維持するのが精一杯という状況であった。沿岸部を保持し、海外の皇家諸国との連絡を維持していたために国を保つ事は可能であったが、このように極端に領土を減らしたことにより、後朝は帝国を名乗ることができずにいた。この時期の後朝の主は、一方で世界に広がる皇家諸国の長たる『帝国』皇帝でありながら、中華本土の直轄地においては王しか名乗れないという奇妙なねじれが……(中略)……  その影響は皇族、ことに中華本土に残る者たちの間にも退廃的な思想を蔓延させる。様々な社会風潮の変化の中で、『北郷』の姓を外れ、臣籍に降る皇族が増え始めたのである。  これらの皇籍離脱皇族は皇籍を持たないために七選帝皇家の監視を外れる。また、様々な皇籍に伴う義務を脱する。その一方で彼らは各皇家の苗字を姓として名乗ることが許されており、皇家との血縁は明白で、さらに優れた教育を受けられるなどの有利な条件を持つため、官の世界で栄達を続けていた。  曹烈が後朝の総指揮官として荊州、益州及び交州の北辺を回復したのは、皇籍離脱皇族の官僚層が世襲貴族化しかけている、そんな時代であった。  帝政を復活させ、後代いうところの南朝を興した曹烈は、これらの皇籍離脱皇族の特権階級的な立場について問題を提起した。  彼女はそもそも北郷の姓を初めて失ったのは――婚姻、養子に入るなどの事情を除けば――彼女自身の祖曹操の第三子、巷間著名な廃太子であることを指摘した。彼は伝説によればけして無能な人間ではなかったかもしれないが、現実的に皇家を継ぐことも出来ず、それ以後の消息もあまり知られない人物である。そのような人物に倣う者が官僚として重い地位を占め、ましてやそれを子に受け継がせるなど以ての外であると主張したのだ。  これに対して官僚層は当然反発した。彼らは彼らなりに皇族の特権を捨て、自らその地位を得たと反論する。皇籍を外れてもなお帝国に忠誠を尽くし、力の限り仕えているのは、まさに皇家の血をひくからこそだと。  この問題は宮廷中を巻き込み、最終的に官僚機構から推薦された博士たち、皇家会議の代表者、民間から招かれた識者、皇帝自身という四勢力による公開答弁の会が開かれるまでに至る。  中断を挟みつつ、約十日の間繰り広げられた議論の中で、見事な論を披露した曹烈であったが、官僚側が主張する『北郷の血統の聖性』を否定することは難しかった。なぜなら、彼女もまた連綿と続くその血統に従って皇帝に選ばれたからである。  そこで、彼女は北郷の血統の尊さを認めた上で、こう宣言した。 『そのような聖なるものから諸君を切り離しているのは皇家五十家を束ねる身として非常に心苦しい。よって諸君には北郷の姓に復帰してもらうことにする』と。  もちろん、これを拒否することは出来なかった。なにしろ、それは彼ら自身が誇りであり、その基であると主張したことであったからだ。しかし、そうなれば皇族として選帝皇家の監視下に置かれ、皇族としての義務も与えられる。これまでさんざんやらかしてきた特権的振る舞いは厳しく査定されることが明らかであった。  進退窮まった者のうち幾人かが謀反の動きを見せたことで、事は決定的となる。  素直に皇族への復帰を望んだ一部の者たちを除いて彼らの大半は官から追放され、各皇家の姓を名乗ることも禁じられた。  民衆は拍手喝采してこの措置を歓迎した。そもそも、世間で敬意を向けられていた北郷の血統の尊さとは、皇家内にも監視機構を設置する自浄作用と時代に合わせた柔軟な対応力であり、保証のない無謬性などではなかったのだ。  これによって南朝は生まれ落ちると同時に体制の大改革を行い、この後の長い繁栄の基礎を……(後略)』