玄朝秘史  第三部 第四十一回  1.華北  洛陽で白眉が蜂起したその日の早暁。  冀州ではすでに動きがあった。 「くっ!」  敵襲を知らせる銅鑼の音に跳ね起きるのは、曹魏の誇る三軍師の一人、郭奉孝。だが、いまは別の呼び名で呼ぶべきかもしれない。華北から中原に名を馳せる歌姫として。  脇に置いていた眼鏡を取り上げて装着しながら、稟は外から聞こえる音に耳を澄ます。  銅鑼を打つ拍子は、続けて三打、間を置いて四打。緊急、そして、最大規模の軍勢。  事態を把握した彼女は普段着ではなく、歌姫としての衣装に手を伸ばした。手慣れた動作で早変わりのように寝間着からそれへと着替えてしまう。 「まったく、化粧をする暇もくれませんか」  そう言いながらも彼女は荷物の中から容器替わりの貝を取り出し、中の紅をその唇へと加える。ひかれた色は朱。白い肌を引き立てる、鮮やかな色であった。  貝を閉じて、わずかな間、彼女は掌の上のそれを見つめた。  それはかつては『けして使えぬもの』の象徴であった。なにしろとある男が彼女の前から姿を消す前にくれた、いわば形見とも言えるものだったから。  しかし、もはやそれにこだわる必要はない。戻ってきた男にねだれば、同じものでも違う色のものでもいくらでも贈ってもらえることだろう。 「ま、そんなことはしませんが」  誰に言うでもなくそう呟いて、彼女はそれをしっかりとしまい込んだ後、一つ頬を張る。 「さ、行きますよ。郭奉孝!」  自らへの叱咤と共に、彼女は己の天幕から駆けだした。 「揃ったわね」  彼女がたどり着いた先――覇王の本陣で、目の前に立つ三人の女性に向け、この陣の主は花のような笑みを浮かべてみせた。  美しい笑み――けれど、誰もがわかる。この花には棘があると。 「桂花」 「はっ。敵軍はおよそ十二万。現在、親衛隊に応戦させています。彼らを壁として、その他の部隊は下がらせ、援護に回すようにしました。ひとまず季衣はうまくやってくれていると言っていいのではないでしょうか」  名を呼ばれて、桂花が淀みなく現状を報告する。 「風」 「十二万はずいぶん大勢ですねー。おそらくは、冀州の白眉全軍とみてよろしいかと。秋蘭さまからの報せの通り、ここで大勝負をかけてきたものでしょう。沙和ちゃんの部隊が北に向かったことも彼らに決心させたものかとー」  次いで、風が敵軍について解析してみせる。 「稟」 「全て手筈通りに」  最後に稟が静かに答える。しかし、華琳はわずかに眉をひそめて、彼女を見やった。 「武人にとって先駆けは誉れ。しかし、知をもって戦に対するあなたたちにとって、それは同じ意味をもたない。それなのに……悪いわね」 「なにも問題はありません」  稟の答えは堂々としたものだ。彼女にとっても智者の誇りは尊いものだが、それに囚われるつもりはなかった。そもそも、『あいどる』なぞをやっている時点で腹はくくった。いや、華琳という覇王のその本質を知り、その横に立つ男のことを知ってから、もうずっとだろうか。 「そう。ありがとう」  ふんわりと柔らかな笑みを見せた華琳は、しかし、すぐに表情を引き締める。そこに現れたのは、まさに覇王の顔貌。 「では、行きなさい。我が民と我が国土を騒がす不埒者どもに、ふさわしい報いを!」 「はっ」 「御意」 「全ては華琳様のために!」  三つの熱の籠もった声が応じ、そうして、河北の地で覇王の戦が始まるのであった。 「なんだか変な気分ですねえ」  巨大な移動櫓の上で、そんなことをもらす女性がいた。白を基調とした派手な衣装に、肩に折れかかるほどの大きな帽子。くりくりとした瞳で眼下の戦場を見渡すのは歌姫の一人、七乃であった。 「なにがじゃ、七乃」  対して彼女の主の衣装は黄金に煌めく。その蜂蜜色の髪と相まって、美羽は太陽の化身のようにも見える。彼女の内に秘める活気もその体からにじみ出て輝くようであった。 「いえ、私たち、これから戦にいくんですよねえ。というか、もう白眉の人たち攻めてきてるんですよねー。季衣ちゃんが抑えてますけど。それなのに歌う準備ってのが変かなー、って。昔は逃げる準備ばっかりでしたけどねー」 「逃げるなど許されませんよ」  三人組のもう一人、稟は青の衣装に身を包む。  頭上に広がる空と、それにかかる陽、その合間に吹き渡る風を思わせる衣装の組み合わせであった。 「いや、さすがに逃げませんけどねぇ」  七乃の言わんとすることは稟にも理解出来る。なにしろ、彼女たちはこれから、『すてぇじ』を開催するのだから。 「これまでの戦のことは忘れましょう。貴殿がそれなりに指揮の才を持つことは重々承知した上で、いま必要とされていることは別なのです」 「そじゃぞ、七乃。兵たちが妾たちの歌を聴いて奮い立つとなれば、それでよいではないか。この高さでは矢も飛んでこんのじゃろ?」  この櫓は普通のものに比べると、飛び抜けて大きい。それは、張三姉妹と違って妖術を用いて歌声を増幅できない三人のために真桜麾下の工兵による工夫がたっぷりと詰め込まれているからであり、戦場のどこよりも目立つためであり、そして、美羽が言うとおり、狙撃の危険からも切り離すためであった。  張り出した舞台を支えるための柱の間には矢を絡め取る網が張られ、天蓋もまた、光は通すものの、矢は通さぬような複雑な構造で出来ている。敵に秋蘭に匹敵するほどの者がいたとしても彼女たちの歌い踊る場所に矢や投石は届かない。まして、槍や刀を持って登ってくることなど不可能であった。 「お嬢様がやるというなら、私はやりますけどねー。ま、ぱーっとやってばーんと響かせちゃいますか」 「うむうむ」  どう考えても感覚でしか通じ得ない会話をする二人を稟は苦笑で見守る。この二人にへそを曲げられるよりはましだが、あまりに暴走されても困りものなのだ。  しかし、そうなってしまった時、手綱をとろうと考えることが、本当に正しいのだろうか。これまでのつきあいで、それに疑問を持っている稟であった。 「心配するでないぞ、七乃。妾のこの美しい声に、敵の奴らも聞き惚れてしまうかもしれんしの」 「おー、さっすが、お嬢様ーっ」 「そうそう、その意気です。この戦、私たちが鍵なのですから」  これはもうのってしまいつつ制御するほうがよいだろうと割り切って、袁家の主従を鼓舞しながら、稟は奇妙な感慨を抱いている。  おそらくは彼女がこの二人と共に歌い踊り、大観衆から歓声を受けることは、もう数える程しかないだろう。今回の戦とその慰労のための公演がせいぜいだ。  そのことを、どこか残念に思う。作戦のためだと自分に言い聞かせていたくせに、思い切り声を張って皆を喜ばせることは、彼女にとっていつしか楽しみになっていたらしい。  そんな心の動きを彼女はおかしく思う。だが、嫌な気分ではなかった。  彼女は微笑む。  その透明な笑みの美しさは、ふと彼女の方を見やった美羽がどきりとしてしまうほどのものであった。 「さあ、行きましょう。私たちの戦場へ」 「お、おう。皆の者、妾の歌を聴くのじゃあっ!」  稟の声にどこかぎくしゃくと応じた美羽は、おなじみの台詞を吐く段になればもう慣れたもの。とてとてと彼女が近寄った拡声の絡繰を通じて、その声は櫓内部の絡繰へと伝わり、さらに増幅されて戦場へと響き渡る。  かわいらしいその声が、荒々しい突撃のきっかけとなった。  2.衝突 「はじまったわね」  緩やかに丸められた金の髪を揺らして、彼女はそう呟く。  その視線の先では、巨大な櫓が勇壮な音楽と柔らかな歌声と共に動き出していた。  飛天月翔――。  そう名付けられた歌は、まさに前に進みたくなるようなものであった。離れたところで聞く華琳がそう感じるのだから、直下でその声を浴びている『ふぁん』たちへの影響ときたら、これはもう凄まじいものであろう。  実際、歌櫓を囲む兵たちの進む勢いは眼を見張るものがある。新たに与えられたおそろいの濃紺の鎧を揺らして、親衛隊が支えている前線へと突進している。  とはいえ、勢いはすばらしくとも、全てを手放しに褒められるわけでもなかった。 「さすがの沙和でも時間が足りなかったか」  我先にと突進するのはいい。しかし、勢いのあまり前の者を追い越そうと兵たちが左右に滑り込もうとすれば、隊列は崩れる。華琳の眼には、彼らの部隊がわずかに横に膨らんでいるのが見て取れた。それは、まだ小さなものであるが、いつ決定的な崩壊に至らないとも限らない。そんな部隊としての力を損なうような戦い方を、魏の兵はしてはならないはずであった。  だが、濃紺の鎧を身につけた彼らは、いずれも元白眉の降兵である。中には三国の騒乱を経験した者もいるものの、そもそもまともな訓練など受けたこともないような連中も混じっている。沙和の即席訓練でまがりなりにも部隊としての行動が取れているのは、奇跡的とも言えた。それは、彼らが白眉をやめるきっかけとなった歌姫たちが間近で見ているという緊張感と無縁ではないだろう。  それでもやはり彼女たちの水準からすれば……。  しかしながら、果たすべき役割を考えれば、それでいいのだ。彼らはその熱気を敵に――元々の仲間に――叩きつけてくれればいい。白眉の無秩序なまでの情動へくさびを打ち込んでくれれば、あとはそれこそ精兵の出番となる。  訓練の行き届いていない兵につきものと言えば士気の低下であるが、これも心配する必要はない。そのために稟たちが自ら彼らを鼓舞し続けているのだから。  ただ一つ、華琳が気がかりなのは。 「どれだけ、生き残れるかしら」  一線級とはほど遠い練度。その上、相手にしてみれば裏切り者の集団。  猛烈な反撃が予想される中で、果たしてどれほどが生存できるものだろうか。おそらく、その損耗率は他の部隊に比べても突出するはずだ。  そのことを部隊の提唱者の稟はよくわかっていたはずだし、それを許した華琳もまた理解していた。  小柄な――少女とも言える姿の彼女は軽く首を振る。視線はけして部隊の進む先から外さずに。  わかっていたことだ。その上で決断したことだ。  いまさら考えても詮無いことだ。  妙なことに囚われるより、戦の流れを捉えよう。  彼女は目を凝らした。  兵たちは進んでいく。歌に背を押されるように。  そして、彼らの前で壁となっていた親衛隊が、左右へと退きはじめる。目の前が開けた白眉が躍り込み、それを濃紺の兵が槍で突き返す。あるいは横へ移動していく親衛隊を追おうとする白眉の群れに向けて、固められた槍の穂先の列が突っ込む。そんな光景が各所で展開しはじめた。  ついに本格的な衝突が始まったのだ。 「さて、私も準備するとしましょうか」  言いながら、彼女はまだ命を下さない。自らが動く時、つまりは本隊を戦場へとなだれ込ませる瞬間を見極めるべく、彼女はじっと戦場の流れを見つめ続けるのだった。  華琳が進撃の様子を見守り続けている頃、軍の左右ではほぼ同時に命が下されていた。 「右翼、前進するわよ!」 「左翼のみなさん、行きますよー」  張り切ったかけ声は桂花の、のんびりとした命令は風のもの。  進む方向はそれぞれ右斜め前方と、左斜め前方。つまり両側へ展開する――翼を広げる方向。  本隊で敵の主攻を受け止め、左右に部隊を広げて包囲する。陣形としても鶴翼の陣として知られる、実に基本的な戦術である。成功すれば効果は絶大で、なによりも戦に不慣れな白眉でもその脅威を推し量ることが出来るはずだ。一度部隊展開を終えてしまえば、相手の意気が崩れて自壊することも考えられる。 「それでも問題はあるのですよね」  戦場の喧騒の中では誰にも聞こえないような声で、風は独りごちる。周囲では兵たちがつっかかってくる白眉の小部隊をいなしつつ、指定された場所への移動を続けている。  足を止めてしまえば後続の部隊がつっかえてしまう。そのために兵たちは相手を完全に潰すという形ではなく、幾人かを突き倒したり、転倒させたりして相手の行動を乱しては先を急ぐというような行動を取っていた。体勢を立て直した敵はこちらが移動したのを穴と見て反撃を加えようとしてくるが、その頃には既に後の部隊がそこを目指している。そんな大変な連携を彼らはこなしていた。  そのことを風もわかっている。だが、彼女はなにも口を挟まない。それくらいの妨害と対処は想定済みなのだ。 「半包囲は完成するでしょう。でも、それでも……」  果たして白眉はそれで諦めてくれるだろうか。そこが風の懸念であった。  相手が軍ならばいい。指導者がよほどの愚物でもなければ殲滅を待つばかりとなれば退却か降伏を選ぶだろう。しかし、相手は烏合の衆。反応が読み切れない。 「ま、仕掛けはもう一つあるわけですし、そちらに期待するとしますか」  呟いて、風は掴み所の無い曖昧な表情で大きく手をあげる。合流した親衛隊の指揮官が馬よりも速く駆け寄ってくるのが見えたからだ。 「おーい、風ちゃん」 「はいはーい」  季衣の呼び声に答える風の頭の上で、宝ャがゆらゆらと揺れた。  3.危難  昼前には風の憂慮の通り、膠着状態が訪れていた。  半包囲は完成し、さらには歌姫たちを中心とした切り込み部隊が――本隊の支援もあって――予想以上の奮闘をみせ、敵の中央を食い散らかしているというのに、敵は退く気配も投降の気配も見せようとしなかった。そのため、戦は消耗戦へと移行している。このままいけば殲滅は間違いないが、それには時間も人的犠牲も必要となる。 「のう、稟よ」  舞台の袖で蜂蜜水を舐めるように飲んでいた美羽が、近くで体を休めている稟の所へと歩み寄る。蜂蜜水の入った竹筒はしっかりと握ったままで。 「なんですか?」  水に浸した布で喉と肩を覆って熱を取ろうとしていた稟は、一人舞台で歌い続ける七乃にちらと眼をやった後で答える。彼女たちは三人で歌うのが基本なのだが、喉と体を休めるために時折独唱を挟んでいた。 「白眉の奴らは何故にまだむかってくるのじゃ? かなり不利であろ? 妾でもわかるぞ」  稟はその問いに興味をひかれたように彼女を見、そして笑みを浮かべた。 「それがわからない、というのが一番大きいかもしれません」 「わからんじゃと?」 「ええ、わからないんですよ。彼らが素人である以上に、頭に血が上っていますからね」 「ふうむ?」  よくわからないという風情の美羽に稟はわずかに考え、次いで腕を広げて辺りの風景を示して見せた。 「まず第一に、貴殿はいまこうして高い場所で戦場全体を見渡すことが可能ですね? となれば、彼我の状況、勢い、その行く末を想像するのも容易い。翻って兵には己の狭い視界しかありません。ましてや戦闘中ならば、さらに限定的となります」 「むむ……」 「第二に、私たちの歌を聴いて熱狂する人々の、まさに熱を感じたことがあるでしょう。白眉もまた同じなのです。彼らの歌姫はここにはいないようですが、しかし、そのせいもあって、余計に彼らが戦の果てに求めるものへの思いは強く、鋭い。まさに宗教者のように忘我の状態にあると言ってもいい。冷静な者がいないとは言いませんが、しかし、大勢は狂乱のほうにある」  稟の解説を聞き、美羽はむむむと唸っていたが、ふと何かに気づいたように顔をあげた。 「じゃがのう。主の言うこともわかるが、指揮をしとる者は冷静なのではないのかや? そうでなくては、あのような軍勢は率いることができないと思うのじゃが……」  その指摘に感心したような、驚いたような表情を浮かべる稟。 「たしかにその通り。しかし、彼らは白眉であることを忘れてはいけません。他の軍とは異なり、その部分が非常に弱い。貧弱な指揮系統なのです」 「んー?」 「要は統制が取れていないのですよ。単純な、どこそこへ行けというような命令は通用しても、ここは危ないから退却しようなんていう命令は、うまくいかない」  それでも納得しがたいという顔をしている少女に向けて、稟は講義でもするかのように指を振る。 「いいですか? 人間というのは、恐がりなものです。死にたくないですし、負けるのも嫌いです。その心理が冷静な判断を歪めます。自分が死ぬなんてことは信じたくない。自分が不利だということは認識したくない。自分が戦えている間は、それがいかに局所的な勝利だろうとしがみつく。そういうものなのです。そして、限界を超えた時、なにもかも捨て去って潰走してしまう。だからこそ、戦は退くことが最も難しい」 「むう。そういうものかのう。妾は危ないと思ったら、さっさと逃げるがのう」 「それもどうかと思いますが……。ま、ここはそれも一つの強みと言っておきましょうか。しかし、ここで大事なのは、危ないと『思えない』ということなのです」  ゆっくりと強調されて、美羽は顔をしかめて考え込む。そろそろ七乃の歌は終盤にさしかかっていた。ここでしっかり結論を出しておかないと、よくわからないまま次の歌に入ることになる。  結局の所、稟が最初に言っていた、頭に血が上っているというのが問題なのだろう、と美羽は結論づける。  とにかく短絡的に、戦い続けていれば勝つかもしれない。そう考えてしまうのだと。 「むう。ならば、己らはもう危ないのだと気づかせねばならないのかや? 面倒じゃのう」 「ええ、面倒です。兵にまでしっかりわからせるには、相応に派手な出来事が必要ですしね」 「派手な? じゃが、そんなことができるような予備の部隊がおるとは聞いておらんぞ」  不思議そうに訊ねかける美羽に、稟は謎めいた笑みを浮かべてみせる。 「予備の部隊はいませんよ、予備の部隊は、ね」  立ち上がる稟の視線は、遥か遠方、北方の地平線に向く。美羽がつられてそちらを見た。同じように北を見据えて最後の部分を歌い上げていた七乃の表情が驚きに揺れた。それでも声に震えなど生じないのは、さすがと言えよう。 「けれど、別の部隊はいるのですよ」  その指さす先、地平線で砂塵がたなびいていた。  戦場となる平原からさらに北方八里。  黄色い土煙を巻き上げながら進む兵、その数二万。  その先頭で馬を走らせるのは、かわいらしいおへそを露わにする鎧をつけた、そばかす眼鏡の女性。 「うー、まさかまさか今日だとは思わなかったのー!」  顔中を焦りの色で染めて、彼女は馬を駆る。明るい茶色の髪を止めた骸骨型の髪飾りをかたかた鳴らしながら、必死の形相で沙和は軍を急がせる。 「戦の気配がしたら、適当なところで折り返せとは言われたけど、沙和が戦の気配なんてわかるわけないのーっ!」  もう二、三日は北行してから密かに戻るつもりが、華琳からの急使を受けて慌てて駆け戻ってきた沙和の隊であった。  もし、戦に間に合わなければ大変だ。戦場で功名を挙げるつもりは毛頭ないが、敬愛する華琳や他の友たちを危険な目に合わせたとなれば個人的にも悲しいし、北郷隊の名を汚したと凪に怒られることは必定だ。 「ま、まあ、沙和がいなくても、華琳様や風ちゃんなら大丈夫だと思うんだけどー」  言いながら、沙和はちらとなにか視界の隅で見えたことに気づく。彼女たち自身が巻き上げる土埃の合間から見えたのは、見覚えのある歌櫓。 「間に合ったのーっ」  司令官の歓喜の声に答え、兵たちの喊声が爆発した。  天地を轟かす声が吹き寄せてくるのに顔をあげ、華琳は塊となって近づいてくる兵の群れに気づいた。まだ旗は見えないが、于禁隊に違いあるまい。 「あの娘、どれだけ突撃するつもりよ」  彼女が気づいた段でもまだ六里、白眉の本陣の最も奥まった部隊までは、四里程ある。吶喊するには少々遠いと言えよう。  華琳は苦笑しつつも、心配はしていない。あの隊に実際の戦闘はそれほど期待していないのだから。  せいぜい派手に声をあげ、武器をふるって走ってきてくれる方がありがたい。 「詰み、ね」  後背に突如現れた敵軍。  それに気づく者はまだ少なかったが、後ろにいる者たちから動揺が広がろうとしていた。それこそ、華琳が望んでいたもの。  彼女は間近の親衛隊に合図し、自らを中心に馬で囲んだ空間を作らせる。その中で、彼女は愛用の絶を振り上げた。 「聞けえい、白眉の逆徒共よ!」  びぃんと空気を振るわせるその声に、魏兵は勢いを増し、白眉たちは虚を突かれたように力が抜ける。 「背後を見るがいい。我が軍は北方よりも近づいている。戦は終わりぞ! これ以上の戦いは無益。速やかに投降せよ!」  そこで彼女は一つ息を吸い、凛とした声で続ける。 「そして、曹魏の兵に告ぐ! 降る者に手出しは無用。いかに憎くとも、彼らもまた我が民。刃を下ろし、受け入れよ。しかし」  ざん。  空気を割って、大鎌が振り下ろされる。 「ここに至って歯向かう者は、全て首を刎ねよ!」  覇王の冷徹な宣告が下され、実質的に戦は終わる。  逃げ出した者たちの掃討や、捕虜のとりまとめなどに夜までかかりはしても、それは所詮後始末にすぎなかった。  4.混乱  事が起きた時、秋蘭は洛陽の城内で部下たちと打ち合わせの最中であった。  五十人ほどの部下は外の物音を聞いた途端、その顔を引き締めた。瞬時に戦場での武人の顔になる様を見て、秋蘭は内心で彼らを誇らしく思う。 「剣戟の音、ですな」 「矢が飛んでおります」  一人が確認するように言い、窓際に走った一人が外の光景を見て報告する。 「謀反、か」  秋蘭が立ち上がり言った途端、扉が蹴破られた。なだれ込んでくるのは、見慣れた鎧をつけた兵たち。その顔のいくつかは、秋蘭自身見たことのあるものであった。  抜き身の剣を持つ彼らを見て、なにかを問うなどと愚かしいことをする者はいなかった。 「炎(ほむら)の陣!」  号令一下、秋蘭の兵たちも揃って剣を抜く。扉を中心にまさに火の字が重なったような陣が部屋の中で組まれる。鶴翼の翼を何重にも連ねたと言ってもいいそれは、突入してきた兵をすりつぶし、殲滅するためのもの。  そして、捕虜を捕る必要はないとの宣言でもあった。 「奴らの正体は、殺してから聞けばいい!」  打ち合わされる鋼の音の中で、秋蘭は鋭く叫ぶ。手加減などしている余裕はなかった。彼女もまた細身の刀を振るう。柔らかく打たれたしなる刀を片手で鞭のように扱い、敵の首を五つばかり刎ね飛ばしたところで、戦闘は終わった。  怪我をした者はいたが、こちら側に死者はない。彼らは自らの無事を確認してから、敵の死体を検分する。扉は部下たちが既に閉じていた。 「白い眉ですな」 「しかし、塗っていない者もおります」  いくつかの死体をひっくり返し、顔を確かめた者たちが報告する。秋蘭自身も己が屠った死体を検めて、頷いていた。 「うむ。だが、白眉であろうな。眉が塗られていないのは、我らを惑わすためだろう」  白い眉は見る者にとっては、あの白眉が、と威圧にもなるだろうが、敵味方を見分けるのも楽にしてくれる。疑心暗鬼を引き出すためには眉を塗らずに動いた方が良い。  一度、味方だと思っていた相手が牙をむく経験をした者は、次にもまた疑いの目を向ける。たとえ、それが本当の味方だったとしても。そうして不安が蔓延すれば、白眉がなにも手を出さずとも国自体が崩壊しかねない。  秋蘭は死体の鎧を見回す。 「しかし、やはり近衛に紛れていたか」  そう、まして漢朝の近衛の兵にまで白眉が紛れているとなれば、疑念は一層濃くなることだろう。  近衛の部隊は、かつて起きた曹操暗殺未遂事件――同時に北郷一刀暗殺未遂事件でもある――以来、魏の影響が色濃い。魏の兵と全てを取り替えたわけではないが、その大半は魏の将たちに再訓練を施されている。  そこで刻み込まれた忠節――それが向かう先が魏であるにせよ漢であるにせよ――を考えれば、白眉に堕ちるなど考えられないはずの存在であった。  しかし、現実に、彼らは存在した。  魏への憤懣が白眉と結びついたか、あるいは、伝統ある近衛であるというのに軽んじられる現状への鬱憤が爆発したか。いずれにせよ彼らが背くならば他にも……と疑う者は出て来るであろう。  だが、秋蘭は、そもそもそんな疑念とは無縁であった。  彼女は、そして、魏の将は、自らが信じるに足る存在を常に知っているからだ。 「頼りに出来るのは、我が部隊と警備隊、親衛隊だな」  彼女は副官の一人を呼ぶと、自らの印を押した紙片を渡し、警備隊への命を伝えた。 「おそらく、城下でも何ごとか起きているはずだ」 「同時に、ですか」 「うむ。城内のことは私がなんとかする。警備隊は城下の動きに専念しろ、と伝えてくれ。……抜けられるな?」  ちらと窓の外を見やって、秋蘭は確認する。部下の答えはもちろん決まっていた。 「当然です」  彼は仲間から弓矢一式を借り受けると、素早い動きで外へと向かっていった。 「他はひとまず私についてこい」  秋蘭はそう告げて、部下を連れて部屋を出、混乱の城中へと歩を進めるのだった。  城内は見るからに混乱していた。  誰も彼もが走り回り、誰かとぶつかりそうになっては火に直接触れそうになったかのように驚いて逃げ回る。見渡す限り、剣を抜いている者など秋蘭の部下たちだけだというのに。  たしかに剣を打ち合わせる音はどこからか聞こえてくるし、火矢でも打ち込まれたのか、燃え上がる炎も小さく見える。さらには叫び声やわめき声はそこら中から聞こえてくる。恐怖を呼び起こすものはいくらもあるが、実際の危難という意味ではそこまで間近ではないはずだ。  それなのに、人々は逃げ惑っている。  ある者は何かの書類を大事そうに抱えて右往左往しているし、ある者は鞘に入ったままの剣を危なっかしく構えて物陰から物陰へ移動している。後者はへっぴり腰のために、まるで隠れてはいなかったが。 「恐慌状態ですな」  部下の一人が吐き捨てるように呟く。秋蘭はその声に苦笑するしかなかった。  洛陽にいる者もかつての戦乱を経験しているはずだし、逃げている者の中には黄巾の討伐に出た武官もいるはずだが、肝の据わり方では魏兵とは比べものにならない。 「まずはこいつらをどうにかせんといかんか……」  秋蘭は周囲の状況から白眉の出方を捉えようと考えていたのだが、それどころではなさそうだ。このように官たちが動き回っていては、まずもって、目的地にたどり着けそうにない。  考えている間に、暗がりから出てきた兵が彼女を狙って矛を突き出してくる。儀礼用の大ぶりな矛が彼女の体に届く前に、間近にいた部下がその持ち主の腕をはね飛ばしていた。  血しぶきをあげながらごろごろと地面を転がる白眉の喉から漏れる苦鳴が、秋蘭の部下たちによって断ち切られる。その様子に目もくれず、彼女は思案の中にあった。 「よし、まずは……」  何ごとか決断した彼女が声をあげたところで、その集団の中に飛び込んできた影があった。  思わず武器をとろうとする部下たちであったが、しかし、その人物は丸腰であった。男のくせになよなよとした宦官のような姿に部下たちも警戒を解く。 「た、助けてくれ!」  彼は持っていた本をどさどさと落とすと恐怖でいっぱいの声をあげた。その目が秋蘭にすがりつくように助けを求めている。 「おや」  秋蘭には彼の顔に見覚えがあった。たしか、書庫の文官の一人だったはずだ。しかし、どうにも名前が思い出せない。おそらくは思い出さなくていい程度の人間なのだろう。秋蘭はそう割り切った。 「夏侯淵将軍! どうか助けてくれ! 安全なところに連れていってくれ!」  彼女が反応したことで、彼の声の中に安堵の感情が混じる。だが、秋蘭のほうは、彼ではなく、廊下に落ちた本へと視線を向けていた。 「これらは貴重な書物であろう? これが無くなれば我らが丞相も悲しまれる」  部下たちが彼女の視線に気づき、男が手を出す前にさっさと本を拾い上げてしまう。彼は返してくれ、と身振りで示した。だが、部下たちはその時には書物の全てを袋の中に入れてしまっている。 「さ、これを持って書庫に戻れ」  渡された袋を、男に示してみせる秋蘭。しかし、彼はさっきまで返して欲しそうにしていたそれを受け取ろうとはしなかった。 「な、なにを言っているんだ。私は逃がしてくれと……」 「なぜ?」 「あ、あんたはこの事態が見えんのか!」  不思議そうに返す秋蘭に、男は金切り声をあげる。その声の高さに、やはり、こやつは追放を免れた宦官なのではないか、と疑いを持つ者が幾人もいた。 「逃げんほうがいいぞ」 「なに?」 「逃げないほうがいい、と言っている」 「な、な……」  言葉を失い、わなわなと震える男に、秋蘭はゆっくりと説明する。周囲ではいくつものわめき声が発せられていたが、しかし、その声は聞いている者たちに染みいるように伝わっていた。 「逃げるほうが危ない。どこに謀反人がいるかわからんからな。それよりは、部署に籠もって事が収まるのを――我らが収めるのを待つほうがいい。扉を閉め、叛徒を避けているのだな。文官の身なれば、武器も持たぬ方がよろしかろう。なんなら一人護衛につけてもいいが」  秋蘭は淡々と表情を変えることもなくそう告げる。本人としては忠言のつもりであったが、相手の方はそう受け取らなかったようだ。 「ば、莫迦にするな! たった一人だと? そんなものが役に立つものか! どけ! 守ってくれないというなら、せめて邪魔をするな!」  護衛もなしにここまで来たではないか、とは秋蘭は言わなかった。ただ、すっと目を細めただけだ。 「戻れ」 「誰が戻るか!」  身を翻し、走り去ろうとする男の首が消える。  すっぱりと断ち切られた断面から噴水のように血を溢れさせながら、首を失った体は数歩歩いて、どさりと倒れた。その体の上に、巻き上げられるように飛ばされていた首がごとりと落ちる。 「ふう」  刃についた血を一振りして払い落とした後で、秋蘭は書の入った袋を部下に手渡した。 「貴重なものだからな」  それだけ言いつけて、斃れ伏している死体をまたぎ越え、彼女は周囲の部下に指令を飛ばした。 「奴らを始末する前に、まず混乱を収拾するとしよう。お前たちは皆にふれて回れ。夏侯淵隊と親衛隊を除き、全ての武官、文官は活動を取りやめて己の部署を守れ、とな。それに従わぬ者は、全て叛徒とみなすことも同時に通達せよ。たとえ、眉の色がどうあろうとだ」 「はっ」  副官三人のうち残った二人とその部下十五人がその命を実行するために指名され、各所にいるはずの夏侯淵隊への連絡も受け持つよう言われる。 「よいか。余計な抵抗をする必要はない。それは私が指揮系統を回復してからじっくり進める。ともかく、敵を敵として浮かび上がらせることだ」  現状で最も敵に利するのは、混乱を深めることだ。  同じ鎧をつけ、同じ職場で働いていた者の中に、敵が生じている。ならば、ここでいたずらに兵を集めてもしかたない。  単純な戦力というだけではなく、統制の取れた部隊こそが必要なのだ。  だから、彼女は抗戦を命じない。  動くべきは彼女たちだけなのだ。 「ああ、いつまで、とか抜かす莫迦がいたら、私が命じるまで、と答えておけ」 「了解いたしました」  さらに秋蘭は諸葛瑾、黄忠という優先順位で他国の大使を保護するよう十五人に命じる。この順番となったからといって、紫苑が天宝舎にいることを彼女が知っていたわけではない。ただ、両者を比べた時、どちらがより己を守れるかという事情を考えたまでだ。  その後、残った者を引き連れて、秋蘭は歩みを再開する。その足の向かう方は内宮。 「我らはいずこに」  その問いかけの答えは、訊ねた者の想像を超えていた。 「帝をお守りする」 「帝を、ですか」  咄嗟に聞き返してから、彼女を護るように、彼らは歩みを早める。  親衛隊、夏侯惇隊、夏侯淵隊の三隊は、魏兵の中でもことに覇王曹操への傾倒、魏への帰属意識が強い。彼らにとって漢朝とは名目上でも仕える主ではなく、ただ利用するための存在であるはずだった。  だから、秋蘭の答えが意外でならない。そんなものよりも、他にもっと大事なものがあるのではないか、という意識があるのだ。 「うむ」  しかし、秋蘭の立場になってみれば別の思惑がある。  もしここで白眉に帝を奪われればそれはそれで痛手だし、今上が死にでもすれば、政治的混乱が起こりかねない。  最悪、白眉の騒ぎに紛れて魏が帝を害したなどと言われるかもしれないのだ。  だから、彼女は自らの手で帝を確保しておくつもりだった。ひとまず帝と皇后を安全なところに押し込めてしまえば、あとは叛徒どもを殲滅するだけだ。 「しかし、お子様が……」 「天宝舎か?」  部下の内の誰かが思わずといったように漏らした言葉に、彼女は笑いながら答える。 「あれは大丈夫さ」  なにしろあの場にいるのは、天下に名だたる美周郎なのだからな、と心の中だけで彼女は呟くのだった。  5.籠城  その天宝舎では、警護のためにおかれている親衛隊の兵たちが、秋蘭の信頼する仮面の将に率いられて、草刈りの真っ最中であった。  草刈り。そう、草刈りである。  彼らは草を切り払うのに剣を使い、土を掘り起こすのに楯を使って、建物の周囲から草を取り払い、土を被せて踏み固めているのだった。 「よいか、なにがあろうと火がつかぬように注意しろ!」  闇色の仮面を被る女性は小さな声でそう叱咤する。兵たちはその命を疑うことなく、草をまとめて建物の中に持ち込み、土を掘り起こし、踏みしめるのだった。  その行動をやりきる胆力はさすがと言えた。なにしろ、彼らを遠目に見ている者たちがいるのだから。  彼らが草を刈る場所から離れること距離にして百歩と少し。  そこには、草を刈る兵士たちを見張るようにしている近衛の鎧をつけた兵たちの姿があった。中には、眉を白く染めている者もわずかながら存在している。  白眉、つまりは天宝舎を守る親衛隊兵士やそれを指揮する冥琳の敵のはずである。  しかし、彼らはなぜだか戸惑うように草刈りをしている兵士たちを見つめるばかりで、それ以上の事をしようとしない。本来ならば天宝舎を襲うか、あるいは邪魔となる親衛隊に襲いかかるはずである。  人数が足りないというわけでもない。親衛隊は二十人に満たない程度だし、白眉の側も同程度の人数があった。圧倒的に不利というわけでもないのに、ぐずぐずとしているのはおかしかった。  その上、彼らの足元にはいくつかの死体があった。適当とはいえ布が被せられているところをみると、おそらくは仲間のものだ。  戦闘行動を取れば死者が出るのは当然だが、なぜそれがここにあるのか。そして、なぜ立ち止まっているのか。  これが各地の白眉なら、気後れするのもわからないでもない。賊くずれ程度の者ならば、世に名高い魏の親衛隊に打ち掛かりたいとは思わないだろう。しかし、洛陽で蜂起した白眉には、近衛兵も混じっているはずだ。近衛の鎧をつけているからといって全てが近衛兵とは限らないが、引き入れる側の人間がいなければ近衛に紛れるのも難しくなる。ある程度の割合で専門的訓練を受けた兵士がいるはずなのだ。  それなのに、無駄に過ごしているようにしか見えないのはなぜだろう。 「お前たち、こんなところでなにをしている!」  そこに声がかかる。剣を構えた面々が、相手を認めて肩の力を抜く。眉を白く染め抜いた兵士が二人、恐ろしい形相で近寄ってきていたのだった。 「あ、いや、その……」 「なにを時間を無駄にしている! さっさと建物を占拠せねば、やつらが巻き返すぞ!」 「いや、それはわかってるんだが、その……」 「ええい、莫迦どもめ!」  固まっている一団を臆病風に吹かれたと見たか、二人はそのまま槍を構え、大声をあげて走り始める。なし崩しといえども戦闘を始めてしまえば彼らも加勢するだろうと踏んでの行動であった。  だが、それをその一団は止めようとした。 「あ、おい。莫迦!」  声は間に合わなかった。  三人がある場所――天宝舎から百歩ちょうどの線から前に足を進めた途端、片方はその首に、もう一人は眼窩を貫いて、矢が生えた。 「げぐ」  破れた革袋から漏れ出るような奇妙な音が発せられる。そのまま、二人の兵士は糸が切れた人形のように倒れ込んだ。  そして、警告するように、固まっている白眉たちに向けて矢が放たれる。  矢は今度は誰かにあたることはなかったが、白眉たちはわっと散る。その間に駆け寄っていた親衛隊の兵士たちが死体を抱え上げ、逃げ去った白眉に向けて放り投げた。  その様子を満足げに見やって、闇色の仮面を被った女性は天宝舎の中に悠然と戻っていった。 「紫苑がいてくれたのはもっけの幸いだったな」  再びおずおずと近づいてくる白眉たちを眺めながら、新たな矢を弓に番えている紫苑の背に、冥琳はそう告げた。 「あら? 褒めてもなにも出ませんわよ?」  紫苑は振り向くことなく、周囲を見渡しながら返す。彼女は窓の端に尻をひっかけるようにして体を支えていた。その姿勢の優雅さに、冥琳は感心してしまう。戦闘のための姿勢をとっているというのになんともたおやかだ。 「協力してくれればそれで十分さ」 「それはもちろんですわ。子供のいる場所を襲うなんて……」  そう言った紫苑の瞳に炎が宿る。彼女がそこに込める感情を、冥琳も良く理解していた。なにしろ、彼女もここに娘たちがいるのだ。 「ともあれ、近づいてくる者は構うことはない。全て射てくれ。明らかな味方以外はな」 「よろしいのかしら?」 「誤射があったとしてもしかたない。これは戦だ」  冥琳ははっきりと言い切る。  そう、これは戦だ。敵だと明確にはわからない者を撃ってでも、勝つ必要があった。  己と、そして、最も大事な子供たちのために。  しばらく無言でいた紫苑は、こくん、と頷く。 「さて、改めて話しておこう。構えながら聞いてくれ」 「ええ」 「結局の所、我々は籠城をすればいい。ちなみに、水と食糧は下の兵を入れても三日はある。残る心配は乳の出くらいか」  それだけ言うだけで、紫苑には通じた。冥琳の意を汲んだのか、彼女の唇に微笑みが浮かぶ。 「外からやってくる味方は秋蘭さんですわね」  籠城戦は、そもそも援軍を期待して行うものである。今回の場合、天宝舎そのものを立て籠もる城と見立てるならば、その外から来る援軍は秋蘭であった。  もし彼女が事を収められないとなれば、そもそも立て籠もる意味がない。しかし、秋蘭が謀反を鎮圧できないなどとは、紫苑も冥琳もとても思えなかった。 「その通り。娘たちがいる以上、我々は動けん。となれば、救援を待つしかない」 「ですわね。璃々を連れてきていたのは幸運でしたわ」 「そうだな。引き離されていては……」  また敵が線を越えたのかひょうと矢を射た紫苑の言葉にその状況を想像し、冥琳はぶるりと身を震わせる。 「敵が狙っているのはそういうことでしょう」 「軍師のうち二人、さらには重鎮夏侯淵の娘、人質にとる価値はあるとみたのだろう」 「おぞましい」  震えた声で紫苑は言う。その調子に、冥琳は思わず苦笑いを浮かべていた。 「ああ、恐ろしいほどに阿呆だ。どれほどの報復があることか……。いや、そうならぬよう我らがいるのだな」 「そうですわ」  再び紫苑は頷く。冥琳も見えないとわかっていても、彼女の背に向けて頷いた。  そこに、大きな籠を二人で抱えた月と璃々が入ってくる。懸命に手を伸ばして月が持ち上げるのを手伝っている璃々の姿はとても愛らしいもので、現在の緊迫した状況には不釣り合いな程であった。 「おや、璃々ちゃん」 「璃々、お手伝いしたのー」  驚いたように名を呼ぶ冥琳に向けて、えへへーと笑う璃々。それを聞いて、紫苑が視線を外さず声をたてた。 「あらあら。お邪魔じゃなかったかしら」 「璃々ちゃん頑張ってくれましたよ」  よいしょよいしょと運んできた籠を、紫苑の足元に置く月。彼女が持ってきた籠の中には、布がまきつけられた矢がみっしりと立てられていた。しっかりと巻き付いている布にはたっぷりと油を染みこませている。  赤子たちのおしめを裂いてつくった即席の火矢であった。 「では、頼む」  用意が出来たのを確認し、冥琳は階下に戻る。兵たちの働き具合を確認し、彼女は宣言した。 「よし、草刈りも終わりだ。皆、中に入れ!」  彼女に呼ばれ、兵たちはみな警戒の面持ちで天宝舎の中に入っていく。全員が入りきったところで、冥琳は大きく手を振った。 「では、我が決意をご覧いただこう」  冥琳の合図と共に、いくつもの火矢が列をなして空を切る。  ちょうど百歩の距離で、轟々と炎が立ち上がった。  けして誰も近づかせないための炎の壁が。  6.驟雨  荊州の大地は、雨に煙っていた。  降り始めたのは日もとっぷりと暮れてからだ。おかげで月も星も隠れ、松明もいくつかは消えてしまって、あたりの闇は深くなっている。  そんな中を歩く人影がある。  見張りの兵が確認のためにその近くに寄ったが、正体を認識した途端、そそくさと離れていってしまう。  雨の中で影は一人だ。  煙る景色の中に溶けいるかのように、彼女は歩く。  まるで、世界に己しかいないように。 「どうしたの、愛紗」  だから、声をかけられて、彼女は驚いてしまった。  その声の温かさと、そして、それを発した人物を認識するその前に。  だが、それに気づいた途端、さらなる驚愕に彼女は襲われる。 「ご主人様こそどうなさったのですか!?」  雨の中から現れた影法師の片方は北郷一刀。それを驚きつつ見ているのは美しい黒髪に水滴を揺らす美髪公。 「いや、眠れなくてね」 「体力は大事ですよ」 「愛紗だって」  からからと笑われる。さすがに一刀はぽりえすてる姿ではなく、雨よけの羽織をひっかけているようだった。 「いえ。なにか……こう、胸騒ぎが」 「胸騒ぎ?」  一刀は首を傾げ、しかし、すぐに真剣な顔になって頷く。 「何かありそうかい?」 「いえ、そうはっきりしたものでは……」  二人は肩を並べて歩き出す。愛紗は雨で濡れた偃月刀の柄を滑らぬよう握りなおした。己だけならともかく、もう一人いるとなれば、警戒するにこしたことはない。  二人はなにを話すでもなく歩いていたが、ふと同じ瞬間に空を見上げた。 「上がりましたね」 「ああ、上がった」  雨滴がなくなった空に雲が流れゆくのを、二人はしばし見つめる。  膚に感じるものはないが、上空では風の勢いが強いらしい。黒雲はすぐに吹き払われ、薄い雲に取って代わられていった。 「おや、月が……」  ふと、雲間があく。  そこから真っ直ぐ差した光が、大地を照らした。  それに導かれるように落ちた視線の先。  二人は同じものを見つけていた。 「ご主人様!」 「うん」  二人はその場で身を翻す。  そうして、二人は陣中に駆け戻りつつ、警告の叫びをあげるのだった。 「敵襲!」  冀州で魏軍が襲撃を受けたその日。  洛陽で近衛に紛れた白眉が蜂起したその日。  同じその夜に。  荊州の大地も血に濡れようとしていた。      (玄朝秘史 第三部第四十一回 終/第四十二回に続く)  次回予告 「兵たちよ。我が友たちよ」  戦場に声が響く。 「我らは黄巾を生き抜いた。三国の大乱を戦い抜いた。そして、いま、再び大陸を騒がす者たちがいる」  歌姫でもなく。 「私を疑う者もいるだろう。私を嫌悪する者もいるだろう。まだ私を慕ってくれている者もいるかもしれない」  王でもなく。 「私のことは、どう思ってくれてもいい。ただ、いまは力を貸してくれ」  ただ一人の武将の声が響く。 「三国の勇士たちよ、力を貸してくれ。この関雲長に力を貸してくれ」  信じる道を歩むために己を殺した女の声が響く。 「我が魂と、我が武と共に、戦ってくれ」  彼女は逃げることも出来た。  彼女はその苦難よりもっと楽な道を選ぶことも出来た。  それでも、彼女はそれを選び、彼を知った。 「全軍、突撃ぃいいい!」  女は彼を信じ、彼は女を信じた。  そして、彼はついに自らの進む道を知る。 「己と、己の愛する者を信じて歩め。それがおのこの道ぞ」  ――人、至りて神となり  ――神、封じて皇となす  故に彼は征く。  故に彼女は待つ。  千年の戦(マツリ)を。  玄朝秘史第三部第四十二回――荊州決戦 北郷朝五十皇家列伝 ○小馬家の項抜粋 『小馬家は、馬岱に始まる皇家であり、馬超を祖とする王馬家に対して小馬家と呼ばれる。また、七選帝皇家の一つであり、武術全般の評価をおこなったと言われる。  ただし、皇家の人間、ことに皇帝に求められる個人的武技という点を考えると、その評価の重みはそれほど大きくない。身を守れる程度に鍛錬することは、皇家の人間ならば当然に要求されたことであるし、それ以上は必要なかった。  実際には武芸を通じて得られるその他の要素――たとえば集中力の育成など――を追求したとも言われるが、定かではない。皇帝選抜そのものではなく、将軍位などにふさわしい人間を選ぶ場合にこの家の評価が重視されていた可能性もあり……(中略)……  中華に存在する王朝としては珍しいことに、北郷朝の後継たる後朝(後北郷朝)、南朝(南北郷朝)は、いずれも中華統一にそれほど意欲を示さなかった。  一方、趙や楚は、名目上とはいえ、その国家の第一の目標として中華統一を掲げていた。これは、後に趙を滅ぼして華北に侵入するキタイ朝や、楚がチベット帝国の圧力を受けて分裂した後に勃興した諸国でも同様であった。  この傾向に関しては、結局の所、海外領土や皇家国家を多数持つ帝国にとって、中華という枠組みに固執する必要はそれほどなかったためと考えられる。それに対して、たとえ外部からの征服という経緯を経ていても、その他の各王朝は中華の中で伸長するには……(中略)……  そんな状況下でも、後朝は涼州に影響力を及ぼすことには積極的であり、特に、王馬家とこの小馬家はその強力な推進者であった。以下にその経緯を見ていこう。  涼州は後朝成立時、聖武帝によって放棄され、趙、楚の二国が領有することとなった。これは共に後朝を敵視する趙、楚を隣接させることでその関係を悪化させ、後朝に対する圧力を減じさせる目論見であり、その大目標自体は成功したと言っていい。  しかしながら、聖武帝といえど、成立後十数年で内部の主導権争いを終えた趙が、民衆の移動に関する厳重な抑圧政策を打ち出すことは読み切れなかった。これはそもそも、趙がその税の大半を農業生産から得ようとしたことからはじまる。趙の国家財政が重農主義ともいうべき体制になるにつれ、農地に所属する民を管理する必要性が強まると共に、商業蔑視の風潮が社会上層で広がり、遂には地つきの農民たちのみならず、商人たちの移動さえ制限するようになっていったのである。これについてははるか古代、秦漢帝国以前の、商人が罪人と同程度の存在と考えられていたような時代への復古思想とも……(中略)……  政権同士の戦いは続いていたとしても、商業的な繋がりは保たれていた華北と南方の関係はこれらの事態によって大きな影響を受ける。ことに楚は巴蜀の豊かな実りによって自足できていたとはいえ、対外戦争に関しては、貿易による収入は欠くべからざるものであり、涼州経路を閉ざされ、交易を不活性化させられるのは大打撃と言えた。もちろんそれは海洋交易路を別に保持していた後朝にとっても同じことで、趙によって涼州の商業流通が阻害され、華北の経済が沈滞するのを見過ごすことは出来なかった。  これらの思惑により、楚、後朝の二国は、南方においては諍いを続けつつも、涼州における趙の伸長に関しては協力してこれを撃退することになる。こういった経緯により、後に王馬家と小馬家はかつての西涼の西半を回復し、再度西涼国(歴史上は後涼と呼ばれる)を打ち立てることに……(後略)』