「無じる真√N89」  生命の危機を感じている。それが彼の嘘偽りのない現在の心境である。前準備一切ないまま戦場へと放り出されたような気分ともいえる。  殺気と殺気の板挟み状態。両側から首筋に刃物を押し当てられているような、そんな生きた心地のしない状況に彼はおかれていた。 「北郷一刀……」  両側から囁かれる言葉。第三者が自分を認識するために呼ぶ単語である。つまりは彼の名前ということである。  一刀は、ごくりと喉を鳴らせて震える口をゆっくりと動かず。 「な、なんでしょうか……」 「殺す」 「ひぃぃぃ」 「貴様ら、自分の立場をわかっているのか?」  一刀の背後にいる護衛役の華雄が左右の二人をじろりと睨む。武将であり武人でもあるため、女性ながらに頼もしいことこの上ない存在である。 「ふん」  二人が同時にそっぽを向く。  何故、このような状況になってしまっているのか、それは数日前に遡る。この冀州の本拠にある邸宅の庭園を北郷一刀がぷらぷらと歩いていたときのことである。  その日は、うららかな日差しでまさに散歩日和だった。静養中な彼としては貴重な気分転換の時間でもある。  珍しく誰に会うこともなく、庭園の整えられた草木や演出される美をなんとなく眺めていたところに公孫賛がやってきた。 「そろそろ調子も戻ってきたんじゃないか?」  そう尋ねられ、彼は頷いた。すると公孫賛はこう続けたのだ。 「なら、一つ仕事を頼まれてくれないか? なに、今していることとそこまで変化はないんだ」  買い出しか何かだろうかと思い、一刀は軽い気持ちで首を縦に振った。それがいけなかった。今にして思えば、そこが分岐点だったのだ。  あそこで首を横に振っていればという後悔が今でも一刀の中にはある。 「何をぼうっとしている。さっさと歩かんか」  夏侯惇が、一刀の横腹を突っつく。一刀はびくっと肩を跳ねさせた後、いつの間にか止めてしまっていた足を動かす。 「……とろい奴だ」  夏侯惇の反対側に陣取っている甘寧がぼそりと呟く。 「悪かったな……くそぅ。白蓮め、恨むぞ」 「何をぶつぶつと言っておるのだ!」 「暗いやつめ」 「いい加減にしろよ、貴様ら」  背から聞こえる声にちらりと首だけで振り返る。華雄の口もとがひくついている。 「華雄、少し落ち着けって……はぁ」  何故、こんな損な役回りをよりによって自分に回してくれたのだろうと一刀は思う。  夏侯惇と甘寧は言うなれば捕虜。その捕虜のためにあちこち案内しろという公孫賛のお達しをあのとき受けたのである。確かに実質的には歩いて回るわけで、散歩となんら違いはない。  だが、内面的な意味ではまったくの別物である。散歩は癒やしに包まれる時間としたら、今は針のむしろ状態、針地獄を歩かされるような時間である。 「安心しろ、一刀! この華雄がいる限り、こやつらに手出しはさせぬ!」  勇ましくそう宣言する華雄が心強くもあるが、そもそも両隣の二人に当然ながら武器はない。とはいえ、素手なら安心かと言われると、とてもじゃないが首を縦に振れないような二人である。故に一刀にはやはり支えといえる。 「あ、ありがとうな……ただ、なんだ……そのあふれ出る気迫はなんとかならいないのか?」 「仕方あるまい。今の私はお前の警備という任務を負った状態。そんな気を抜くようなことができるわけがなかろう」 「いや、そうはいってもだな。そんな威嚇するような程は必要ないだろう?」 「何をいう、夏侯惇に甘寧と名高い将が相手なのだ。気など抜けるものか」  華雄が荒々しく息を吐き出す。そんな彼女を半分かを振り返らせた夏侯惇と甘寧がじろりと横目で睨む。 「貴様ごとき、この夏侯元譲の相手になるとでも思っているのか?」 「なに?」 「まったくだ。我らも舐められたものだ。華雄ごときでどうにかなると見られているとは……」 「おい、貴様ら、そこに直れ! 首を叩き通してやる!」 「おちつけ、華雄!」 「ええい、黙れ! 地を舐めさせられるような侮辱を受けてこの華雄、黙ってはおれぬわ!」  血走った目で金剛爆斧を振り上げる華雄を一刀は羽交い締めにする。 「だから、やめろー! ここがどこだかよく考えろ!」  華雄を抱きしめたまま、一刀は必死の形相で叫ぶ。  なにしろ、彼らが現在いるのは街中なのである。それも大通り。日中という大抵の人間の活動時間であり、人通りの多い。まさに天下の往来。  実際、先ほどから老若男女がじろじろと一刀や周囲の三人の女性の顔を物珍しげに見ている。 「こんなところで暴れたら関係のない人たちにまで被害が及ぶだろ? な? だから、ここは矛を収めてくれ!」 「むむぅ、仕方があるまい……ここは一刀に免じて目を瞑ってやろう」 「そのような男に頭が下がるとは情けないやつだ」  甘寧がぼそりと呟く。それによって華雄のこめかみに青筋が立つ。 「…………」  彼女はなんとか我慢しているようだが、また爆発してもおかしない状況である。 「そ、そうだ! 飯にしよう、腹が減ってるから、みんな刺々しいんだな。うん」 「確かに腹は減っているな。だが、北郷。この街には私の舌を満足させるような店があるのか?」  先ほどまでの狼のような雰囲気から一転して腹を空かせた子犬のような顔で尋ねてくる夏侯惇。一刀は口を斜めにしながら頷く。 「もちろん。自信を持って紹介するに値する店くらいあるぞ」  そう答えたものの、実は一応の目星は既につけてあった。城の様子などを必要最低限ではあるが説明していく中で、その店もついでに紹介しようと一刀は頭の中で考えていたのである。  †  大通りから一本抜けて、飲食店の並ぶ区画へと一行はやってきた。一刀を中心とした並びはそのままに大通りよりは細い道を歩く。大通りと比べれば幾分か幅は狭まっているが、向かってくる人たちとすれ違うように通り過ぎることくらいはできる程度の広さはある。  そんな道の両端には屋台や食堂のような店が建ち並び、ちょうど昼食時ということもあり、非常に活気づいている。  このような人の多いところに甘寧や夏侯惇といった特殊な立場の人間を連れてくることなど、本来ならどの軍でもそうそうないことだろう。  だが、公孫賛や一刀をはじめとした者たちが決めた二人の待遇は非常に良いもので、こうして街へと繰り出すことも、見張りが同行するという形という条件付きでなら可能となっていた。 「随分といい匂いがしてきたではないか」  夏侯惇が鼻をくんくんと微動させる。通りに漂う様々な香りを愉しんでいるのだろう。実際、肉のこんがりと焼けた匂い、癖のある調味料と思われる香り、鼻腔を刺激するつんとした匂い。  そういった店ごとの匂いが混じりあい、甘寧の胃を先ほどからくすぐっている。 「大抵の飲食店は、この辺りに集まってるからな。食べたいものは大体ここで見つけられるだろうね」 「……ほう」  一刀の説明に甘寧も物珍しそうに辺りをキョロキョロと伺う。確かに言われてみれば飲食店が多い、というよりもほぼ飲食関係の店で埋め尽くされている。  一刀を挟んだ反対側にいる夏侯惇に甘寧は目を向ける。彼女は先ほどまでと変わらず鼻をひくつかせているが、視線の方も、店や屋台も気になっているのか、あちらこちらと忙しなく走らせている。  一同の食欲を引き出していく飲食区画の通りを暫く歩いた後、甘寧たちは食材の店と屋台の間を抜けるようにして通りを曲がり、一刀の先導に従うまま細い路地へと入っていく。  屋台や店の合間にできた入り組んだ道を幾度か右へ左へと曲がり、裏路地を突き進んだ先で、彼女たちは小さな店へとたどり着いた。  多少年季を感じさせる外観に第一印象としては少々不安を覚えるのも致し方ないといった風貌の店。その入口に立った一刀が一行を振り返る。 「さ、ここだよ。知る人ぞ知る、名店なんだ」 「何もこのような店をこやつらに教えることもなかろうに……」  店内へと促す一刀の後に続きながら華雄が一人でぶつくさと文句を言っているが、甘寧は無視しようと内心で決めると、一刀の誘導に従って店内へと入っていくことにした。  中は外観と比べると幾分かましなように思われる。卓も綺麗に清潔感を保っているし、床や壁もこまめに手入れがされているのか多くの店で感じるギトギトな油っぽさを感じない。 「さ、適当に座って座って」  一刀が四角い卓で向かい合うように並ぶ二対の椅子を轢いて、三人に座るよう手で示す。 「ここは俺が出すから。好きなものを食べてくれ」 「はっはっは、よい心がけではないか。私は今非常に空腹だからな、財布がすっからかんになるまで食ってやる!」 「おいこら、貴様。驕って貰う立場でなんだその不遜な態度は!」  夏侯惇と華雄がやかましく隣り合わせに椅子へと腰掛ける。甘寧はやむを得ず、反対側の席へと腰を下ろす。  三人の中で最後の甘寧が座ったのを見計らって一刀も席に着いた。甘寧の隣である。  四人全員が着席したところで、困惑気味の顔をした店員が水を置きにやってくる。丁度良いと、注文を済ませることになった。一刀は手慣れているのだろう、品書きも碌に見ずに注文を決めた。 「さて、と。甘寧も何か頼んだら? って、あのさ、品書きは二人で一緒に見てくれないか? で、一個はこっちに渡してくれ」 「ん? ああ、すまんな。ほれ」  じっと品書きに目を落としていた華雄が顔を上げて、持っていた品書きを一刀に渡す。  一つの品書きを二人でとなると、また夏侯惇と揉めるのではないかと思ったが甘寧には関係のないことなので、彼女は黙っておくことにした。 「どうする? 江東の方と比べると色々味や品目に違いはあるだろうけど、ここの料理は絶品だから大丈夫だと思うぞ」 「そうだな。それでは、青椒鶏丁にでもしておくか」 「へぇ、珍しいな。鶏か……」 「悪いか?」  じろりと横目で一刀を睨む。 「そんなことはないよ。ただ、豚か牛を頼むことが多いんだよ。俺の周りだと」 「そうか」 「う、うん」  一刀が眉を寄せて「うぅん」と唸る。何か困っているような顔だが、どうしたのだろうか。  よくわからないなと軽く息を吐き出すと、卓の向こうを見る。 「ええい、まだ全部見ておらんのだ。めくるんじゃない!」 「なんだとぉ! 少々遅すぎるのではないか? もっと、効率よく見たらどうだ!」 「一品一品を頭で思い描き、よく吟味していく。これが真に自分の食べたいものを判断するうえでだなぁ」  何やらよくわからない言い合いをしながら、華雄と夏侯惇が冊子型になっている品書きを取り合っている。どことなく似たところのある二人だが、どこだろうかと思う甘寧だったが、そうか猪か。とすぐに気づいた。 「あーもう、しょうがないなぁ。こっちは注文終わったから使っていいよ」  そう言って一刀は前屈みになって二人に品書きを渡す。彼の顔が斜め前になった。一瞬、その角度に既視感を覚えた。だが、気のせいだろうと甘寧は窓の外へと視線を移す。  裏路地の更に奥へと来たこともあって人通りは殆どない。よく、この店は繁盛しているものだと思う。それに、こんな人の目が届きにくそうな場所なのに、そこまで治安が乱れているという風でもない。 「意外だな……」 「ん? 何が意外なんだ?」 「貴様はいちいち、私に話しかけなくては気がすまんのか……」  のんきな顔を向けてくる一刀に甘寧は鋭い視線を向ける。すると、一刀が苦笑しながら頬をかく。 「いや、なんというか。ほら、甘寧との関係ってさ、非常に気まずいというか、誤解があるというか……だから、ここは一つ親交を深めていこうとだな」 「貴様となど仲良くてきると思うか? いや、貴様だけではない。公孫賛軍などと……」 「できるさ」  一刀の返答は端的だった。しかし、声には迷いがなく、とても真っ直ぐだ。甘寧は不思議に思い、眉を顰める。 「何故、そうも断言できる?」 「さてね。なんでだろうな、勘、かな?」  そういって微笑を浮かべる一刀の姿に重なるようにして、前の主君の姿を甘寧は垣間見る。彼女の今の主君である孫権、その姉である孫策、孫呉を率いる主君だった彼女もよく、そんなことを言っては孫権や周瑜を困惑させていた覚えがあった。  小さく溜息をこぼすと、再び甘寧は外へ視線を向ける。今隣に座っている男は本当に孫策を暗殺したのだろうか。ほんの僅かだが疑念が彼女の中に芽生えていた。  殺そうとしていたときは何も疑う事もなかった。  だが、捕縛され、移送されたりと色々なことを経て彼女が落ち着いた頃、一刀の顔を改めて見たときに違和感を覚えた。言動の端々から感じる自分や夏侯惇への気遣い。にじみ出る捕虜に対してとは思えないその春暖のような暖かみが甘寧の疑念を呼び、今も彼女を戸惑わせている。 「……幾度となく機会はあったというのにな」 「ん? 機会って?」  甘寧の言葉を聞き漏らさずに一刀が尋ねてくる。甘寧は彼の方へと視線をゆっくりと動かして、睨みつける。 「……貴様の首を掻ききる機会だ」 「ええっ!?」 「冗談だ……」 「わ、笑えないんだけど」  甘寧は「ふん」と鼻を鳴らすと、冷や汗を浮かべる一刀から顔を逸らす。  実際には冗談ではない。何度でも北郷一刀抹殺の機会はあった。それこそ刃物なんてなくてもやろうと思えばできたはずだった。しかし、甘寧にはできなかった。  その理由が、胸の奥に生じた戸惑いだということを彼女は自覚している。 「お、来たな。いい匂いではないか」  夏侯惇のその声で見てみると、丁度お盆を抱えた店員がやってくるところだった。  運ばれてきた料理を前にして夏侯惇は瞳を輝かせている。自分と同じ立場のくせに随分と気楽そうである。最も、主君を殺されたかどうかという肝心な点が違うが。 「それじゃ、さっそく……頂くとしようか」 「おう。もう待ちきれんからな!」 「やれやれ。お前は日々が楽しそうで羨ましいな」  一秒でももったいなとばかりに身軽な猫のような素早さで炒飯を口もとへ運ぶ夏侯惇を見ながら華雄が呆れた顔をする。  そんな二人に苦笑しながら一刀も取り皿へと飲茶などを移動させていく。 「元気があっていいことだとは思うんだけどな。ん? 甘寧も食べていいんだぞ?」  首を傾げながら一刀が青椒鶏丁を甘寧の前へと手で運ぶ。甘寧は一刀を一瞥した後、箸を手に取る。 「散々煽っていたのに味の方が……となれば、その時は覚悟しておけ?」 「ひぃっ、いや、大丈夫だから。うん、落胆はさせないよ、多分」 「ふん。まあいい……」  他人に勧めるくらいだから多少はマシな部類に入るくらいだろうと甘寧は予測する。少なくとも捕虜に対してそこまで良い店を紹介するとも思えない、この男はきっと無難なあたりをつけて連れてきたのだろう。  鶏肉を中心に青椒をはじめとした野菜などの具が多く食べ応えはありそうである。甘寧はすくって一口食べる。各具材が寸法的にも食べやすい小ささになっており、鶏肉の食感と青椒や玉葱のしゃきしゃき感がよく、それを濃い味の餡が一層引き立てている。 「……意外と美味いな」 「だろ? 俺も結構ここには通ってるんだ」  青椒鶏丁の美味しさに感心している甘寧に一刀が微笑みを浮かべる。 「まあ、もっとも……仕事の合間とかに来ても前もって先読みされる確率も高くて、白蓮や詠なんかに怒られたりするんだけどな」 「それは仕事を抜け出す方が悪いんじゃないのか」 「ごもっとも」  ばつが悪そうに一刀は頭を掻く。なんとも腹の内が読めない男だと甘寧は思う。  何故こんなにも自分に親しげにするのか、たとえひっくり返って考えても甘寧には理解出来そうにはない。一刀から視線を逸らすようにして外を眺めていると、またもうやいい匂いが彼女の鼻をくすぐる。  どうやら注文した炒飯が卓へと運ばれてきたらしい。夏侯惇の前に置かれた炒飯からゆらゆらと立ち上る湯気が焼けた卵のまろやかさと醤油を初めとした調味料の混じった香りを運んできていた。 「これは中々美味そうではないか」 「ここの炒飯は結構いけるぞ、俺のおすすめの一つだな」 「ほう……この私の舌は肥えているのだが、果たして満足させられるかな?」  夏侯惇がにやりと笑って蓮華を手に取る。一刀は目を細めながらその様子を見ている。 「曹操の元にいれば、そりゃそうなるよなぁ。彼女自身も相当な腕だし……ま、及第点は少なくとも達してると思うよ」 「華琳様のことをよく知っているような口ぶりだな。生意気な……まあいい、とにかく冷めては勿体ない、いただくとしよう」  夏侯惇はゆっくりとした動作で炒飯をすくった蓮華を口もとへと運ぶ。そして、口を大きく広げると一気にかぶりついた。甘寧は密かに夏侯惇は蓮華ごと噛み砕いてしまうのではと思った。 「ふむ……」  夏侯惇は目を閉じてじっくりと品定めするように咀嚼している。甘寧は隣に座っている一刀の顔を見る。彼はじっと夏侯惇の様子を伺っている。  夏侯惇の隣の華雄はというと、特に興味もみせず自分の料理をがっついている。よほど腹を空かせていたのだろう。 「ほう……これは意外と」  ため息交じりに夏侯惇が感嘆の声を漏らす。それを受けて一刀の顔が綻ぶ。  甘寧が見た限り、この男は本当にただ純粋に夏侯惇が喜ぶのを望んでいただけのようだ。 「よかったぁ、思いの外うまいだろ?」 「まあな。だが、これまで私が……もぐもぐ、食ってきた店と比べれば……もぐもぐ」 「食うか喋るかにしたら?」 「うむ……では、食う!」  そう宣言するやいなや夏侯惇はもの凄い勢いで炒飯を口へと頬張っていく。華雄と並んでいるため、まるで嵐のように激しい食事風景が甘寧の眼前で繰り広げられることになるのだった。  †  食事を終えた四人は店を後にすると再び大通りへと戻ってきた。しばらくは街の区画説明を一刀から受ける時間が続いていたが、あっという間に時は過ぎ去り日も沈みだした。  夕日を浴びて真っ赤に染まりながら帰路を歩く四人の周囲には相変わらずぎくしゃくとした空気が流れているが甘寧には別にどうでもよかった。  それよりもこれから自分はどうなるのか、ということの方が気になるなと甘寧が思っていると、不意に一刀が三人、というよりは捕虜の二人を顧みた。  少年の顔は夕日を受けて赤みを帯び、またそれによって影の黒さが際立っている。 「今日は一応ある程度の箇所を説明をしたけど、流石に覚えきれないだろうし、まだあるから。明日からも案内はするし、気になることは聞いてくれてかまわないからな、二人とも」 「うむ。良きにはからうがいい」 「なんで貴様は上から目線なのだ」  腕組みしてふんすと鼻を鳴らす夏侯惇に華雄が眉を顰める。少し気性が似ているためなのか今日のうちに二人は何かとぶつかっていた。  また揉めたとして自分は関わるまいと思いながら視線を一刀へと向けると、彼は待てを命じられた犬のように甘寧をじっと見ている。どうやら甘寧の反応を待っているらしい。  甘寧は盛大に溜息を吐くと、一刀の顔を視界の真ん中へと持ってくる。 「……好きにしろ」 「了解。そうさせてもらうよ。あ、それでも嫌なときは言ってくれてもいいんだからな?」 「ああ」  なけなしのお金のようなささやかな一言だけを吐き出すと甘寧はまた口を固く閉ざす。  下手に喋ればまた食らいついてきそうだと思ったからだった。  北郷一刀。第一印象こそ最悪だったが、ここで共に過ごして少しだけ甘寧の中で変化が生じていた。  彼は何かと甘寧や夏侯惇を気にかけてくれており、またそれが上辺だけのものでないことがよく伝わってくる。そのため彼女としては非常に複雑な気持ちを抱かざるを得なかった。 「わー強盗だーっ!」 「え? 強盗?」  どこからともなく聞こえてきた悲鳴に一刀がきょろきょろと当たりを見回す。甘寧たちもそれに倣いどの方向かとあちこちへと目を配る。  そしてすぐにその答えが判明した。既に彼女たちの瞳には通りの向こうから屈強な肉体をしたボロを纏った男たちが走ってくるのが映っている。 「北郷様! 危険です、お逃げ下さい!」  屈強軍団の後方を駆けている兵が一刀へと呼びかけるが、一刀は既に視線を自分の周りへと移動していた。 「お、これでいい。おばちゃん、この竿借りるよ!」 「北郷様! お逃げ下さい!」 「そうもいかないだろ。俺だって民を守る側のはしくれなんだからな」  歯切れ良く言い切ると一刀は手にした竿を構えて、屈強軍団を待ち構える。華雄がその隣で得物を握り直している。 「まったく。なっとらんな……やつらは特訓でしごき直しが必要そうだな」 「そうは言ってもなぁ……その訓練自体、あまり警邏には施せてないだろ。それに今日は確か新兵たちの研修も兼ねてたはずだぞ」 「そういえばそのようなことを言っておったな。どちらにしても鍛えてやる必要がありそうだ」  眉間に皺を寄せた華雄が軽く呆れの混じった舌打ちをする。そんな間にも強盗団は迫ってくる。 「何をごちゃごちゃと言ってやがる!」 「さっさとどきやがぁぁぁぁれぇ!」  ズタ袋を肩にしょった十数人の男たちの瞳は一つも残さず全て血走っている。  それを正面から受けながらも一刀は眉一つ動かさない。先ほどまでとはまるで別人の様だと甘寧は思った。  これがつい少し前まで自分や夏侯惇にへこへこしていた男なのかと目を疑いたくなるほどに彼の表情は真剣な者になっている。 「どくわけにもいかないんだよな。これがさ」 「不届き者にどけと言われて素直にどくバカがおるものか」  一刀と華雄はそれぞれが得物を構えて強盗たちを正面から迎え撃つ。  華雄は想像通り多くの強盗をなぎ払う。  一方の一刀は相手を一人ずつ対処しているようだ。 「ほう。多少は剣さばきに心得があるようだな」  隣で腕を組む夏侯惇の感心した風な口ぶりに華雄がちらりと首だけで振り返る。 「当然だ、この私直々に鍛えているのだからな!」 「よそ見している余裕があるのか?」 「舐めるな夏侯惇。こんなやつらごときで手一杯になる華雄ではない!」  その言葉に偽りはないらしく。隙を突こうとしてくる強盗たちを華雄は次々と打ち倒していく。  華雄に転がされては起き上がる強盗たちが少し哀れに見えるくらいだった。 「流石華雄……だなっと。俺は未だにこんなもんだけど」 「おらぁ、隙有り!」 「危ねっ!」  華雄の動きに気を取られていた一刀は皮一枚のところで強盗の攻撃を避ける。  どうにも彼はまだまだ甘いようだ。 「……うりゃあ!」  彼が油断して大けがしなければ良いがと思った甘寧が自分の感情に驚いて首をふったその時だった。  今まで傍観している人たちで出来た輪、その中から数人の男が飛び出て一刀に背後から襲いかかる。 「おい北郷、気をつけろ!」  華雄の声に一刀が振り返るが。間に合いそうにはない。 「もらった――うげぇっ!」  両手で青竜刀を振り上げた襲撃者の腹に木の棒がめり込んでいた。  棒のもう一方を辿っていくと、そこには一人の武将がいた。 「やれやれ……見ておれんな」 「しゅ……夏侯惇!」  一刀の顔がほっと緩んだかと思いきや水から氷に一瞬で変わってしまたかのように硬い表情になる。 「おい親父。この棒を少々借りるぞ、よいな?」 「え、ええ。予備用で余りもんですから、どうぞ」  一体何の棒だろうかと甘寧は思うが。特に追求はせず、それよりも周囲を見ることに気が向いていた。  近くの店などへ目を向けていき、肉屋で止まる。甘寧はその店へ駆け込み。  店主に話しかける。 「すまんが、叩き棒を貸して貰えるか?」 「おうよ! 御遣い様を助けてやってくんねえ!」  自分で戦っても十分通用しそうな店主から叩き棒を借りると甘寧は乱戦中の一同を振り返る。 「本望ではないが。この場合やむを得ん」  甘寧は普段の得物とは調子が違ってくるが臨時だから仕方ないと棒を握り直す。 「甘興覇、いざ参る」  † 「いやぁ、溜まっていた鬱憤が晴らせて満足だ」 「そりゃあ、あれだけ暴れればスッキリもするだろうさ」  強盗団を警邏隊に引き渡し甘寧たちは館へと戻ってきていた。  ちなみに甘寧や夏侯惇といった捕虜に対して、あまりにもまともな部屋が割り当てられていたりする。甘寧にはむしろ客人扱いされているのではと思えてしかたがない待遇だった。  門をくぐり、廊下を進んだところで一同は立ち止まった。夏侯惇の部屋の前だった。 「今日は実に面白い体験だった。また頼むぞ、北郷」 「そっか。それは良かった」  夏侯惇の言葉に一刀が苦笑じみた反応を示す。 「うむ。特にあの店に関しては是非とも華琳様に……はぁ」  主君のことをここに来て思い出したのか夏侯惇が伏し目がちに表情を曇らせる。  甘寧には今の彼女の気持ちがわからないことはなかった。似たような立場であるからだ。 「悪いね。できることなら、いつか曹操と再会させてあげたいんだけどな」 「その気持ちだけで十分だ、北郷。まがりなりにも、わたしは敗将なのだ。お前が下手な同情をすることもあるまい」 「その辺については俺にはよくわからないからなぁ。それに、なんというか……女の子が悲しい顔してるとやっぱり辛いしさ」 「お、女の子だと」 「そりゃあ、まあね。夏侯惇が剛強な武将ってのはわかってるよ。けど、それでも女の子だろ?」  一刀がそう言うと夏侯惇は瞳を閉じて肩をぷるぷると震わせる。言葉を失ったのだろう。  甘寧は流れをただ静観していた。なんとなく入り込めない感じがしたからだ。ふと隣の華雄を見ると、彼女は呆れた顔で外へ流し目を送っている。 「どうしたんだ?」  一刀が夏侯惇の顔をのぞき込む。が、それに反応するように夏侯惇がそっと下ろしていた瞼を上げ、そして目を丸くする。 「き、ききき貴様、なんだ! いつの間にそんなに間合いを詰めた!」 「え? いや普通にだけど。というか、気づいてなかったのか?」 「やかましい! それ以上わたしに近づくんじゃない!」 「怒ってるのか?」 「知るか! まったく、なんなんだ貴様は!」  夏侯惇は牙を剥いた獣のように一刀を怒鳴りつけると、そのまま部屋へと入ってしまった。  勢いよく閉められた戸が悲鳴を上げていた。きっと後ほど交換が必要になるだろう。  一方、取り残された一刀は口をあんぐりと開けて呆然としている。 「な、なんだったんだ……」 「阿呆か、お前は」 「なんだよ華雄……」 「自業自得というものだな」 「か、甘寧まで酷い!」  一刀が重荷を背負ったように肩をがっくりと落として項垂れる。よほど効いたらしい。  しかし、今のような一連の流れを見せられたら誰だって一言申したくはなるというものだろう。  その後も納得のいかない様子の一刀を中心に三人は再び廊下を歩いていく。中庭に面しているからか、すっかり日が沈んで当たりが暗くなっていることに気がつく。  松明と差し込んでくる白い月の光のおかげで足下に苦労はない。  それよりも甘寧には気になっていることがあった。 「すまぬが。一つ聞いてもよろしいか?」 「……ん?」 「これはどこへ向かっている?」  甘寧はわざと目を細めて一刀を見据える。自分は警戒しているのだというのを相手に伝えることがまず重要と判断したからだ。  そんな甘寧の眼差しを受けてなお一刀は涼しげな顔をしている。 「ああ、そっか。自分の部屋に戻るものと思ってたのか、ごめんごめん」 「ということはやはり意図的に異なる道を辿っていたわけだな」 「そういうこと。ちょっと甘寧に来て欲しいところがあってね」 「それは私も聞いておらんが、どういうことだ?」  一刀の隣で彼の身の警護をしている華雄が首を傾げる。側近にすら事前に伝えていないとは一体どういうことなのだろうか。甘寧の中で芽生えた疑惑の思いがますます首をもたげてくる。 「そんなに身構えなくても大丈夫だって。ああ、でも気構えは必要かもしれないか」 「何を考えている……貴様」  身の危険を感じて甘寧は半歩下がる。  華雄も一刀をじろりと睨みつけている。当の本人は頬を柿ながら苦笑を浮かべている。 「困ったな。俺が甘寧に何かするわけじゃないよ。もし俺がそういう行動に出たら好きにすればいいさ」 「……ならば、今は一時信用しておこう」 「ありがと。それじゃ行こうか。時間はあんまりないからな」  そう言うと一刀は再び前を向いてさっさと歩き出してしまう。何を考えているのかいまいちつかめず甘寧はただ険しい表情を浮かべることしかできなかった。  †  北郷一刀は非常に緊張していた。この地で目を覚ましてから数日、はっきりと頭が働くようになった頃から考えていたことをこれから実行しようとしていたのである。  甘寧がここにいること、そして、もう一つの情報を知って思い立ったことだった。  これから行うことが今後どういったことを起こすのかはわからない。それでも、一刀は実行したいと思っていた。  そして、幸いに今こうして機会が訪れたのである。彼の腋に控えるように歩いている華雄をちらりと覗く、彼女にも未だに話していないことだった。  というよりは、彼女とは中々話すことができなかっただけである。 「……うーん。視線が刺さる」  先ほどからずっと背後に感じているのは甘寧の視線だった。一刀を警戒して敵意を露わにしている。それも致し方ないことだろうとはわかっている。 「それでも、やっぱり……少し悲しいかな」 「……そう、気にするな」  そっと華雄が一刀の腕を取り、軽く抱擁する。面積の小さい服装をしているだけあって彼女の体温が伝わってくる。 「まあ貴様のことだ、そう言ったところで無駄なのだろうがな」 「はは、まあね。でも大丈夫だよ。今は仲間が、わかってくれる人たちが……華雄がいるから」  華雄の気遣いがありがたくて一刀は表情を崩しながら彼女に微笑みかける。  華雄が半歩遅れたようだが、気にせず一刀は空を見上げる。 「ホント、俺は幸せ者だよ……」  そう呟くと同時に対照的な状況にある夏侯惇、そして甘寧のことを痛ましく思う。  彼女たちは今や周りに頼れる者も、仲間もいないのだ。  夏侯惇に関しては可能性としてはあった。曹操軍の誰かだけを捕らえることになるかもとは一刀も思っていた。  もっと深刻なのは甘寧の方である。  正直、一刀にとっては、この外史に来て以来の中で初めてにも近い失敗だった。  苦戦したことも苦悩したこともあった。それでもずっとなんとかなってきたし、そうなるよう努めてきた。だからこそ、今回も大丈夫だと一刀は思っていた。  曹操のように敵対する意思を持つ者がいるのは初めからわかっているつもりだった。そして曹操などの別の一面を知るからこそ、一刀にはそのことを気にしないでいられる余裕があった。  だが、今回のことは完全に予想外だった。  孫権との敵対関係。孫呉との地球の中心にまで及んでいそうなほどの深い溝。  命を賭けた闘いに身を投じる覚悟はかつての外史で、愛した者との軋轢を受け入れる覚悟はこの外史で固めたはずだった。  それでもこのような形で彼女たちを引き裂くことも、これほどまでの憎悪を抱かれることも一刀の心には痛烈なものとして刻まれている。  ちらりと隣を歩く甘寧の顔を見やる。彼女も自分に対して底知れぬ怒りと憎しみを抱いているのだろうか。  そう考えるだけで胸が張り裂けそうだが一刀はぐっと堪える。今日一日だって、ずっとそうしてきたのだから。  色々と頭の中で考えているうちに目的地が見えてきた。 「ここだ、ここ」 「おい、北郷。ここは……」 「ん。まあ、そういうことだよ」  一刀は目を丸くして見つめてくる華雄に頷いて見せる。そして、未だ何のことかさっぱりだと顔に書いてある甘寧の方へと視線を向ける。  甘寧は長らく歩かされたからか、憮然とした顔をしている。 「ごめんな。黙ってついてきてもらって。んーそうだ、お詫びってわけじゃなけど。これ」  一刀は懐に潜ませておいた包みを甘寧に渡す。警戒心から躊躇しつつ甘寧がゆっくりとした動作で包みを受け取る。  包みを手の中に収めた甘寧が一刀の顔を見る。 「開けていいよ」 「む……これは」  甘寧が包みの中からそれを取りだす。予想していなかったのだろう、彼女は開口したまま固まっている。  何故か華雄が睨んできているが一刀は見ない振りをして、甘寧の様子を伺う。 「おい北郷。これはどういう意味だ?」  甘寧が包みから出したそれを握りしめながら問いかけてくる。  一刀は苦笑交じりに理由を答える。 「本来は今日のお礼だよ。さっき助けられたからな。それで何がいいかと考えて、甘寧といえば鈴かなと」  甘寧の通り名と言えば『鈴の甘寧』であり、鈴の音と共に彼女は現れるのだ。  だからこそ、一刀がまっさきに思いついたのがそれだったのだ。 「それで鈴を?」 「あとは偶には女の子したっていいじゃないのかってことで、簪にしたってところかな」  そう、甘寧の手に握られているのは鈴の飾りがついた簪だった。彼女の日頃の容姿を考えた場合に邪魔にならなそうだと一刀が思い選択したのだ。 「……要約すると貴様の女になれと?」 「違う! 全然違う! 違うからね! いや、睨むなって。華雄もその斬りかからんばかりの殺気を沈めろ!」 「信じがたいものだ」 「珍しく、気が合うではないか」 「そんなとこで意気投合するな!」  冷や汗をだらだらとかきながら一刀が二人に弁明をしていると、足音が背後から近づいてくる。  二人の方を向いていた一刀は踵を返して背後へと向き直る。 「一刀様……?」 「あれ? 外に出てたのか、大喬?」  彼の視線の先には桶を抱えた小柄な少女と警備兵。  大喬にしても警備兵にしても一刀が部屋の前にいることは予想外だったのだろう。口を開けたままぽかんとしている。  警備兵は、大喬の護衛をしてくれていたらしく、彼女が礼を言うと笑ってその場を後にして巡回に戻っていった。 「で、大喬は何をって、そうか水を取り替えに?」 「はい。大分症状も軽くなったようで、さほど必要ではなくなったんですけど。一応と思いまして」 「そっか。ずっとつきっきりなんだな。ここでも」  あまりにも真っ直ぐな心に感銘を受け、一刀は大喬の頭を撫でる。 「北郷」  短く一刀を呼んだのは甘寧。その視線は一刀ではなく、大喬の方に向いたままだった。  一刀は大喬の頭から名残惜しげに手を離すと、扉に手をかける。 「んー。まあ、事情については中に入ってから説明するよ。大丈夫かな?」  大喬にそう尋ねると、彼女は不思議そうな顔のまま、こくりと頷いた。  四人はそのまま部屋へと入っていく。  中は薄暗く、よく見えない。そんな中を先頭で踏み出していく一刀の後ろで会話が聞こえる。 「お前……大喬か。本物……なのか」 「え? あ、はい。こちらでお世話になっていますけど……えっと」  大喬の声色が困惑したものになっている。一刀が顔だけそちらへ向けると大喬が困った表情で見つめていた。  彼は大丈夫と目で語りかけながら大喬に対して頷くと、甘寧の肩に手を置く。  信じがたい真実を実感しているのだろう、彼女の肩は僅かな震えを帯びている。一刀は弱々しく感じる肩を労るように手を離しながらそっと語りかける。 「どうかな。これでわかってもらえたんじゃないかと思うんだけど……」 「……」  甘寧は下唇を噛みしめて複雑な顔をしている。戸惑い泣き叫びたいのを押し隠すような、それでいて何かに憤っているような表情から一刀が窺えたのは彼女の感情の高ぶりだけだった。  どう声をかけようかと一刀が言葉を探していると、甘寧は彼の横を通り、寝台の横で腰を折った。 「これは……やはり……」 「ああ、そうだよ。君たちの君主、孫策だ」  そう一刀は答えたが、部屋のどこからも返事は帰ってこない。唯一聞こえるのは、近づいたことで聞こえる孫策の寝息だけ。  重苦しい沈黙が部屋中に留まっている。  ひとしきり、その空気を堪能しきれたのではないかという頃、甘寧がぼそりと喋る。 「…………北郷」 「ん?」 「私は……いや、我ら孫呉はなんのために」  そこで黙ってしまう甘寧。その横顔を一刀はのぞきこむ。彼女はぎゅっと目を結んで唇を強く噛みしめている。何かを堪えるように顔を収縮させるような力の込め方をしている。 「えっと……だな」 「なんのために……なんのために我らは心を一つにして刃を抜いて立ち上がったのだ……」  甘寧が言葉を発し始めたため、一刀は口をつぐんで続きに耳を傾けることにする。  彼女の声に含まれる震え、揺らぎ、そんなものを一刀は感じ、共鳴するように胸が震えていることに気がついた。 「無駄骨だったと言うのか。いや、そんなものでもない……ありもしない幻想に苛まれて暴れたにすぎないのだ、なんなんだ、これは。我らの決死の思いはなんだったのだ、蓮華さまの決意は、周瑜殿の怒りとはなんだったのだ!」 「思春さま……」  大喬が心配そうに反対側から甘寧の顔を見つめる。  ここで一刀はふと思う。もしかしたら、こうなることも兼ねて公孫賛は自分に甘寧を連れて歩くことを命じたのかもしれない。  城内で一番自由がきき、そして孫呉ともある意味では縁のある存在といえば一刀だった。  それに自分の性格的にこうするというのを、公孫賛ならば予測出来たのではないか。  様々な要素を鑑みた結果、こうなるという可能性を見越して彼女は今回の一件を一刀に任せた。  考えすぎかもしれない。それでも一刀は、あの心優しき少女ならばと思う。 「今回の孫呉との一件は……俺にとっても、いや俺だからこそ、誰よりも他人事としておくことはできないしな」  ぽつりと呟く一刀を大喬が不思議そうに見つめる。一刀は苦笑を浮かべ「なんでもない」と答えると、寝台の端に置かれた甘寧の手を掴んで語りかける。 「…………甘寧。別に孫呉が悪いわけでもないと俺は思うし、愚かなことでもないんじゃないか?」 「貴様に何が分かるというのだ! なんと情けないことだ……我らの瞳は曇り、真実を見誤った。それに気づいたところで、最早、手遅れだ!」 「甘寧!」  手を振り払おうとする甘寧の腕を掴むと、一刀は彼女を自分の方へと向かせて両肩を掴む。 「甘寧……よく聞くんだ! 何かがおかしいんだ、孫呉と俺たちの間に起こった今回の一件。これには絶対に何かがある!」 「なん、だと……?」 「何と言ったらいいんだろうな……。そうだ、孫策のことだ。彼女のことだってそうだ。確かに保護したということで俺たちは彼女の存在を隠すようにしてきた。一国の主だ。それも暗殺されかけたとなれば無闇に表沙汰にはできないからな」  甘寧はただ黙って首を縦に振る。ちゃんと話は聞こえているようだ。 「だから、君たちの間諜が情報を拾えなかったんだとしても、しょうがないだろう。それから俺たちはすぐさま孫策のことを伝えようと使者を送った。だけど、どうにもそこから更に捻れてきた。きっと、そこに何かあるんじゃないか?」 「それは……」  甘寧が瞳を丸くする。この驚きぶりはよほどの衝撃を受けたということなのだろうか。そんなことを思いながらも一刀は続ける。 「恐らく、裏で俺たちを争わせようとしてるやつがいる。そいつと襲撃者は同一人物か、もしくは同じ集団に属するやつかもしれない。まあ、まだ公孫賛軍全体の見解というわけではないけど」 「なるほど……」 「そうなってくると、そもそも孫策の襲撃者とはって話になる。もちろん、俺たちは彼女の暗殺を企てたりはしていない。なら誰が? それは大喬から聞いておおよそのことはわかってる」 「……誰だ」 「多分、今の君に言ってもわからないだろうけど……。そいつのことを俺と事情を知る人たちはこう呼んでいる」  一刀はじっと甘寧を見つめる。甘寧も一刀の顔を、瞳を真っ直ぐに見据えている。その瞳は悔しさからか潤み、夜空に浮かぶ月を乱反射させ、星空のように輝いている。  今の甘寧をとても美しい、と一刀は場違いな感想を抱く自分に呆れながら、真剣な面持ちを崩さずにその名前を口にする。 「白装束」