『還って来た種馬』 その19      満月の元で     もしくは       ハッピーエンディング?   近年に無く色々と大騒ぎであった年の瀬を終え、洛陽は新年を迎えていた。とは言え特に新年を迎えたからといって何かしらあ  るわけでもなく、大方例年通りの新年を迎えている。あえて違うと言えばこの度は董仲穎こと月の名誉の回復が洛陽で正式に宣言  されたが、世間に向けておおっぴらに執り行うわけではないので表立った変化とは言えない。世間的には何時も通りの年賀の公式  行事を淡々と終え一段落した極普通の普段の洛陽の日常である。   だが、今回は洛陽の城内に限っては少々勝手が違っていた。 「何時まで洛陽に留まる心算だ!」   もう何度言ったかも解らない台詞を夏侯元譲こと春蘭は口にする。しかし言われた相手は何処吹く風で、春蘭の言葉も何ら気に  していない表情で言葉を返した。 「え〜、だって部屋も空いてるし、居心地もいいし、流琉の作ってくれるご飯は美味しいし……」 「お前は国主だろうが!」 「そうじゃ、そうじゃ」 「何? 最近はえらく強気じゃない美羽」 「ぴぃぃぃっ……!!」   孫伯符こと雪蓮の言葉に反した確実な作り笑いを目にした袁公路こと美羽は声を上げて隣に居る袁本初こと麗羽の背中に隠れて  しまう。それを目にした雪蓮は破顔し、側に控えていた張勲こと七乃は助け舟を出すわけでもなくただ美羽をうっとりとしながら  眺めていた。 「美羽さん……」   そう口にした麗羽は、呆れた様な笑顔を見せながら自分の背中に隠れていた美羽を膝の上に載せてしまう。麗羽の膝の上に載り、  オドオドとした上目遣いで雪蓮を見ている美羽の頭を撫ぜながら麗羽は口を開く。 「本当によろしいのですか?」   そんな麗羽の言葉に雪蓮は春蘭とは違う真意を感じたのか、ニヤニヤと美羽を見ていた表情を改め言葉を返した。 「辞めるのが判ってる国主が居たって邪魔なだけじゃない……。それに国主が二月や三月国を空けた位でどうこうなっちゃう様なら  どのみち先は長くないわよ。人手が足りないって感は否めないけど、蓮華ならそれでも上手くやるわ」 「そうですか」 「ええ。……あなたもちょっと会わないうちに変わったわね」 「あなたこそ」 「ホント、天の御遣い様様ね……。今のあなたとなら盟約を結んでもいいわ」   そう言って目の前の机に身体を投げ出し、片肘を付きながら雪蓮は麗羽を見上げている。そんな雪蓮の姿を目にして麗羽は曹孟  徳こと華琳に対するのと同様に「お行儀が悪い」との意味を込めた視線を送る。その視線を感じた雪蓮は咳払いを一つしながら身  体を起こした。 「今の私には何の力もありませんわ。無位無官でその上一刀様の居候で浪人風情のこの私にそんな気を回す必要は無いんじゃありま  せんこと」 「よく言うわ……、ウチの軍師さまが苦い顔してたわよ。規模はたかが知れてるけど、要所要所を抑えてる。糸を辿れば必ず顔を見  せるって」   そう口にした麗羽と雪蓮は特に表情を変える事無くお互い目を合わせたままであったが、しばらくした後まるで示し合わせたか  の様に同時に「ニヤリ」と笑顔を見せる。そしてその笑顔を崩さぬまま雪蓮が口を開いた。 「そう言えば、うちの蓮華が濮陽の『資忠』って商人を家臣に迎えたがってたけど……知ってる?」 「さぁ……その様な御方は存じ上げませんけれど、それは御本人に伺ってはいかがでしょう?」 「ふ〜ん……、知らないって割には自信ありげね」   そう口にした雪蓮は少々表情を変えて麗羽を眺めていたが、当の本人はそんな事に動じる事も無く膝に乗せた美羽の髪を梳いて  いる。   そして正に「のれんに腕押し」「馬耳東風」を地で行く雪蓮と麗羽の問答に春蘭も呆れたのか、尖らせていた口も今は収め、気  だるそうに椅子に腰掛けながら二人を眺めていた。   三人のやり取りを少し離れた場所で黙って眺めていた夏侯妙才こと秋蘭が同様に眺めていた周公謹こと冥琳に顔を向ける事無く  呟く様に話しかける。 「しかし、本当にいいのか?」   そんな秋蘭の言葉に冥琳も同様に言葉を返した。 「何がだ?」 「ここに留まる事だ」   秋蘭の言葉を聞いて冥琳は一つ溜息を吐きながら達観した様な表情で口を開いた。 「ああ、どうせ今さら建業に戻っても直に三国会議で成都に向かわねばならん。火急に国許に戻らねばならぬ様な事態ではなし、移  動に日数を取られるよりもここに滞在していた方が有意義だろう。特に亞莎の教育には最適だ」 「そんなものか?」 「そんなものだ」 「ほう〜、亞莎ちゃんの教育ですか〜」 「なっ!?」   全く意識していないところに声を掛けられ思わず声を上げた冥琳。冥琳に気配すら感じさせず二人の会話に割り込んだのは程仲  徳こと風であった。 「おうおう、亜蒙の教育にかこつけて自分の事を棚に上げるとはいい根性じゃねぇか筆頭軍師さんよー」 「何の事だ?」 「いやぁ、あの騒動以降周軍師さまは肌艶も腰の辺りの充実感も中々のものと風は愚考するのですよぅ」   風の言葉を聞いた冥琳であったが、特に表情の変化などは無い。だが冥琳が何事か言葉を返そうとした時、それを遮る様に言葉  を発したのは彼であった。 「ぶっちゃけよう……、五人の居候のせいでこっちが割を食ってるって事よ。まぁあの味を覚えたら今更真桜印のオモチャなんかじゃ  もう満足出来ねぇだろうがな……」 「…………!?」   宝ャの言葉を聞いて、流石の冥琳も表情を変える。それを横で見ていた秋蘭も思わず噴出しそうになっていた。 「成程……、普段生真面目なお堅い者ほどはまれば抜けられなくなるという事か」 「秋蘭ちゃんもダメですよぅ、こんな所ではめるとか抜くなんてぇ」 「ああ、そうだな」   そして二人は顔を見合わせながら笑い始める。しかも見計らった様に同時に冥琳の顔に視線を向けると再び顔を見合わせ笑い始  めるというのを繰り返していた。   そんな二人を眼にしながら「全て筒抜けなのか?」と半ば諦めながらも冷静を装っている風の冥琳であったが、こめかみの辺り  を小さく震わせながら一応確認の為に口を開く。 「何処まで知っている……」 「向こう三軒両隣にまで響き渡る様な嬌声を夜な夜な上げているのに、気付かれていないと思うのは流石にどうかと……」 「なっ……ぁ……」 「うむ……、あの手の声は案外響くものだ。あの明命も対処に苦慮していたぞ。まぁ、明命自身もご他聞に漏れずと言うところでも  あるがな……」 「ぐっ……」   二人の言葉を聞いて絶句している冥琳を目にして再び笑い始める二人。肩を揺らしながら笑っている秋蘭と風に冥琳が凄むもの  の、そんな彼女を眼にしても二人は笑うのを止め様とはしない。冥琳がいくら凄んだ顔を見せようとも、赤く顔を染めたままでは  しまらない。   風は「こほん」とワザとらしく咳払いを一つした後に口を開いた。 「まあまぁ、そんなお盛んな冥琳さんに風は耳寄りなお知らせがあるのですよぉ」   上目遣いで口元を袖で隠しながら発した風の言葉に冥琳は一段と強く睨みつける。だがそんな視線にも何ら臆する事も無く風は  話を続けた。 「真桜印の大人のおもちゃの流通を一手に担っている古書組合の総元締は何を隠そうこの程仲徳なのですよぉ。特に以前雪蓮さんが  お求めになった[隊長くんぜっとしりーず]はほんの一握りの賓客にしかお譲りしていない逸品。この程仲徳、そんな賓客の皆様  の情報は全て把握しているのですよぉ」 「なっ……!」 「ああ、勿論その情報が外部に漏れるなどと言う事は在り得ませんのでご安心をなのです。今なら[一分の一隊長くんとりぷるぜっ  としりーず]を特別価格でご融通できますが如何です? 今回に限り無料で[特別台座付三点せっと]もお付けしますよ。これは  未だ魏上層部でも一部にしか出回っていない貴重品ですし、どのみち皆さん呉に戻るのは確定しているのですから一人寝の寂しい  夜には必須ではないかと……」   風の言葉に思わず生唾を飲み込む冥琳であった。 「何盛り上がってるのかしら冥琳達……」 「んっ……?」   雪蓮の言葉を聞いた春蘭がその視線の先に目を向ける。そこには何やら熱心に話し込む秋蘭と風そして冥琳の姿があった。 「文官同士何か話があるのだろう。わたしは軍師特有のあのもったいぶった言い回しは好かん」   そう言って春蘭は興味なさげに彼女達から視線を外す。そんな春蘭を雪蓮はちらりと横目で見ると直ぐに再び冥琳達の居る方へ  と視線を戻し口を開いた。 「ああ……、確かにそうね。わたしも解る気がする」 「だろう」 「でも、あなたの中では秋蘭も文官扱いなわけ?」   雪蓮の言葉を聞いた春蘭は一度小首を傾げるも一人納得した様な表情で頷くと言葉を返す。 「ああ、前に秋蘭が自分で言っていたのだ。これからは自分の立ち位置は文官寄りになると」 「ふぅ〜ん……、でもあなただって武官一本槍って訳ではないでしょ」 「それはそうだ。今は昔と違ってただ暴れていれば良いと言う訳にはいかないからな。……そう華琳さまや一刀も言っていた」 「一刀ねぇ……」 「何だ……」 「ううん、何だか可愛くなったなぁ……って」   雪蓮の言葉を聞いて何か思う事があったのか顔を赤らめながら雪蓮へと視線を向けている春蘭に、雪蓮はニヤニヤとした笑顔を  返している。決して善人の笑顔ではないが、かと言ってその表情から悪意の様なものは感じられない。   そんな雪蓮であったが、いきなり表情を一変させて口を開く。 「そうだ! 春蘭もわたしの事どうのこうの言うけど、華琳だって居ないじゃない。しかも朝眼を覚ましたらいきなり居なくなって  るって……」 「華琳さまがこの時期に休暇をとられる事は以前から決まっていた事だ。突然居なくなったわけではない」 「わたしは聞いてなかったわよ」 「当たり前だ。本来ならお前達は既に帰っているはずだろうが! 居ないはずの呉の連中に何で華琳さまの休暇の予定を話さねばな  らん。だからさっさと国に帰れ!!」 「あ〜……、やぶへびになった……」   話が一周してしまった事にげんなりとした表情を見せながら、机の上に身体を投げ出す雪蓮であった。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   時と場所は移り、ここは業の外れにある屋敷。後に『銅雀台』と呼ばれる建物である。それは未だ建設途中であり、一部は使用  可能であるがその全貌はまだ目にする事は出来ない。その使用可能な屋敷の一部と造営中の現場を目にするだけで、それがかなり  の規模で絢爛豪華なものになるであろう事は容易に想像出来る。 「まったく……、ここを造って初めての滞在が病人の面倒を見る事になるとは思ってもみなかったわ……」   そんな事を口にしながら華琳は呆れた様な表情で寝台に横たわる一刀を眺めていた。 「あはは……」   愛想笑いを返す一刀を目にして華琳は一つ溜息を吐くと水の入った桶を手にして部屋を後にする。しかし、その後姿からは表情  とは裏腹に間逆の感情を感じられた。誰の眼から見ても今の華琳は上機嫌なのである。   今は洛陽から連れて来た側仕えの者達を近づける事無く、華琳一人で一刀の世話の一切を行っている。そしてどの位機嫌が良い  様に見えるかと言えば、手を動かしながらも顔は自然とにやけ、無意識に鼻歌を口ずさむ位であった。市井の恋人同士であれば当  たり前に行うような事でも、立場の違う華琳にとっては新鮮な事なのである。   しかし、今の状態に成るまでには少なからずの動揺があった。   一刀が身体の不調を訴えたのは官渡そして白馬を過ぎ、江を渡っていた時であった。当初はただの船酔いであろうと思われたが、  船を下りても回復の兆しが無く、渡った先の津で用心のため地元の医者に診てもらう。   医者の見立てでは「特に身体の異常は無く疲労から来る一時的な身体の不調であろう」と言うものであった。医者の「休養を取  りさえすれば直に回復する」との言葉に一同は胸を撫で下ろすも、一人華琳の表情は芳しいものではなかった。   そう、一刀には前科がある。   前回、歴史の流れに逆らう様な事柄を起こした時、決まって一刀は体調を崩していた。そして歴史の流れを完全に変えてしまっ  たあの満月の夜、一刀はこの世界から姿を消した。   そして今回、天(未来)から戻って来た一刀がその天(未来)の知識を用いて襄陽の再開発を行っている。決して歴史的にあり  えないであろう事を今行っている。 「もうあちらに戻る事はない」   そう一刀本人の口から聞かされている華琳であっても、どうしても前回の事が頭を過ぎってしまう事は致し方ない。   騎馬で業へ向かう予定を変更して、急ごしらえの馬車を誂え業へと向かう事にした華琳達一行。洛陽に戻る事も提案されたが、  一刀の「直に良くなるからせっかくなので業に向かおう」との言葉と、運良く華佗と業で落ち会える事がわかった事も理由の一つ  であった。   業へと向かう道中、華琳が一刀の側を一時も離れなかったのは言うに及ばずである。その姿を同行している者達は微笑ましく見  ていたが、華琳の心中ではその疑念が簡単には払拭できないでいた。   業に到着する頃には多少の回復の兆しを見せた一刀。そして約束通りに華佗と落ち会い、華佗からも「疲れからきたもので、別  段心配ない」との一言を取り付けた事で華琳もやっと幾分かの安堵の表情と心持ちをを得る。   かと言って呑気に業見物等は許しが出るはずも無く、華琳に連れられ業の外れにあるここへと直行し今に至るわけである。屋敷  に到着してからは直ぐ一人で眠るには広過ぎる寝台に寝かしつけられ、この大陸では比類する者なき『覇王曹孟徳』にいたせりつ  くせりの看護を受けている一刀であった。   桶の水を新しいものに入れ替えてきた華琳。その華琳が寝所に戻ってきて寝台に眼を移した時、彼女は表情を一変させた。そこ  には体調を崩しながらも弱弱しく愛想笑いをしていた一刀の姿が無かったからである。 「一刀……!!」   そして悲壮な表情のまま思わず声を上げる華琳。華琳はまるで心臓を何かに鷲掴みにされた様な痛みを感じながら部屋の中を見  渡す。たった一つの動作、傍から見ればほんの一瞬の動作が華琳にとっては酷く長い時間に感じられる。そして頭の中にはあの満  月の夜の記憶が閃光の様に思い浮かんでくる。そんな絶望的な感覚の中、華琳は全身の血の気が引いていくのを感じていた。   そんな華琳の眼に飛び込んできたのは、庭に面した窓を開け放ち掛布を羽織ながら表を眺めている一刀の姿であった。 「なっ……何をしているの?」   華琳はそう口にしながら一刀の側へと今にも崩れ落ちそうな膝に無理矢理力を込めながら歩を進める。冷静を装った口ぶりで言  葉を発した心算であったが、桶を手にしている彼女の指先は白く血の気を失い尚且つ細かく震えていた。 「ああ、表に明かりが見えたから何だろうなって思って」   華琳の心の内を知らぬ一刀は何事も無かったかの様に穏やかな笑顔で言葉を返す。そんな一刀を見て思わず華琳は全身の力が抜  けそうになるも、側の机の上に桶を置くと一刀の直ぐ傍らに立つ。すると一刀は自分が羽織っている掛布の中へと自身の両の腕を  抱える様に立つ華琳を招き入れ、優しく抱きかかえた。 「こう何かを作ってるところを眺めるのは好きなんだ」 「……そう」   二人が眺める先には造成中の庭や建設途中の建物が広がっている。未だ基礎を造っている最中なのかかなり遠くまでが見渡せて  いた。その所々に篝火が炊かれており、その明かりが照らし出す造成中のそれらは昼間とは又違った幻想的な趣を醸し出している。   それらを眺めていた一刀は自分の腕の中に居る華琳の様子のおかしさに気付く。自分が体調を崩してからの華琳の立ち振る舞い  を思い起こすと、彼女が何を思っていたかが頭に朧気に浮かんでくる。   そして華琳を抱き締めている腕に力を込めながら穏やかな声で彼女の耳元で囁く。 「もしかして、オレが消えちゃったって思った?」   一刀の囁きを聞いた華琳は何も言葉を発する事無く、ただ『キッ』っとした表情で睨みつける。怒った様な表情を一刀に見せた  華琳であったが、その目尻には涙か浮かんでいて……そんな華琳に自分の思いを伝えようと一刀はただ一段と力を込めて抱き締め  た。 「言ったろ……、もうオレは消えたりしない。ずっと華琳や魏の皆の所に居るって」 「…………!」   一刀の言葉を聞いた華琳も一刀の身体に腕を回し自分の身体を押し付ける様に力を込めた。   まるで一刀がここに居る事を再確認するように……   まるで一刀を離さぬと言う意思表示のように……   そんな華琳に押し込まれ、一刀はその場にしりもちをついてしまう。だが、華琳が一刀から離れる事はなかった。   そう、何も心が深く傷付いていたのは楽文謙こと凪だけではない。表面に出す度合いに差こそあれ、魏の面々は皆傷ついていた。   華琳を除いて、成都陥落の翌朝一刀が天の国に帰ったと華琳に聞かされるまで誰一人として一刀が消えてしまうなど考えもしな  かった。これからもずっと今のまま続くと思っていた。   だがそれは満月の元、露と消えてしまった。   皆は、一刀を連れ去った何かに憤り、何も話さなかった一刀に憤った。別れの言葉すら、感謝の気持ちすら伝えることも出来ず、  突然に姿を消した一刀に裏切られたとすら思った。   だが、最期には何も出来なかった己が口惜しかった。それは失意のまま凱旋した洛陽で一刀の私室に残されていた書き物を見た  時、皆は改めて感じる事となる。そこに書かれていた文言は決して一刀が帰りたくて帰ったなどとは到底思えないものが書き綴ら  れていた。皆は一様に何故もう少しだけ周りを見る事が出来なかったのだろうかと自責の念に駆られた。   そして一時の魏の停滞が起こる。もちろん周りからはそんな事は微塵も感じられない。近しい者達だけが感じるささやかな違和  感。皆は悲しみを心深く押し込め、一刀と共に手に入れた今を守る為に仮面を被った。無理に笑い、淡々と政務に勤しむ。気持ち  を切り替えた心算の華琳ですら例外でなかった。   そしてそれはあの『先触れ』が届くまで続いたのである。だが、一刀が戻って来た今ですらその傷が全て癒えたとは言えない。   暫くそのまま抱き合っていた一刀と華琳の二人であったが、先に口を開いたのは華琳であった。 「わたしは弱くなったわ……」   華琳のそんな言葉に一刀はあえて何も言葉を返さない。 「あなたが消えて……、そして戻ってきてくれて……、嬉しかった……。でも……でも、もしあの時のように……またあなたが消え  てしまうかもと思うと……怖い。もう一度あんな気持ちは……味わいたくない……耐えられない……」 「だから弱くなった?」 「…………」   一刀の言葉に、ただ弱弱しく頷く華琳。そんな華琳を一刀はまるで幼子をあやす様に背中を優しく叩きながら口を開いた。 「それは弱くなったんじゃなくて、そうだな……人間に深みが出来たって言うんだよ」 「一刀……」 「強い華琳、弱い華琳、凛々しい華琳に淋しがりやの華琳。完璧な人間なんかこの世には居やしない。人間なんだから色んな面があ  る。強がりな華琳は見せたがらないだろうし隠してる心算だろうけど、皆知ってるよ。春蘭も秋蘭も、桂花や稟や風、そして凪も  真桜も沙和も霞も流琉も季衣も、それに麗羽や斗詩や猪々子も。きっと雪蓮や桃香も知ってる。  いろいろなものをひっくるめて華琳なんだから……、そんな華琳だからこそ皆好きなんだから」 「……うん」   華琳は見詰めていた一刀から視線を外すと、そのまま一刀の胸元に額を当てるとそう答えた。ほんの少し涙声ではあったが、そ  の声からは嬉しさや安堵感が伝わってくる。 「だから気にしなくていいから」 「うん」 「弱くなんてないから」 「うん」 「先頭を颯爽と進む華琳も格好いいけど、周りには皆居るから。無理して一人で突っ走らなくてもいいから。皆華琳に頼りにされる  のは嬉しいんだから」 「うん」 「背が小っちゃいのも、おっぱいがちっぱいなのも全部華琳なんだから……」 「うん?」 「歳の近い月よりは気持ち大きいし……。上ばっかり見てても仕方が無いし、まだまだ多少は希望もあるし……。オレはそんな華琳  が……」 「……何の話をしているの?」   華琳はその大きな瞳をめい一杯に見開きながら一刀を見詰めている。そしておもむろに華琳は一刀の襟を手で握った。   一方の一刀は、その全く笑っていない瞳を目の当たりにし華琳に負けず劣らず大きく目を見開き、こめかみ辺りに汗が流れるの  を感じている。一刀本人に言わせれば慰める……いや、冗談交じりに元気付けていた心算なのだが、今は調子に乗っていた空気を  読んでいなかったと言われても仕方が無い。身長と胸の事に関しては一刀が思っている以上に華琳は気にしていたのだ。 「えっ……?向こうでは貧乳も個性の……」 「あなたは……っ」   そう言葉を口にするや否や、華琳は一刀の襟を握っている腕に力を込める。その瞬間、それは一刀の首を締め上げ始めた。 「ギッ、ギブギブ……」 「[ぎぶ]? おあいにくさま、天界の言葉は解らないわ……」   今の状態を説明すれば、柔道で言うところの絞め技である[突込絞]を一刀が華琳から受けている。一刀は参ったの意味でもあ  る仕草を華琳に送るが、華琳はその意味を知ってか知らずか腕の力を緩めようとはしない。 「ごっ……ごめんなさい。調子に乗りました、言い過ぎました」   閉め続けられながらかすれた声でそう口にした一刀の言葉を聞いて華琳は力を抜く。そして小さく何事か呟くと一刀に背を向け  一刀の膝の上に座り込んだ。   華琳は自分を想ってくれる一刀の気持ちや言葉が嬉しかった。自分を『覇王曹孟徳』だけではなく、一人の女性[華琳]と見て  くれる事が嬉しかった。   だが、「何故余計な一言まで口にするのか」と言う一点が気に入らなかった。   一刀が洛陽で諸葛孔明こと朱里や鳳士元こと雛里と話した時や、長安の城の廊下で公孫伯珪こと白蓮を元気づけた(周りの人間  の認識では口説き落とした)時は、こんな軽口の様な余計な一言は無かったと聞いている。   もしもここにあちらの世界の一刀をよく知る『及川祐』が居れば、「女の子相手にあんな自然体なカズピーなんかめったに見ら  れへんよ」と弁護してくれたかもしれないが、あいにく彼はここには居ない。   呉の孫仲謀こと蓮華に言わせれば「そんな接し方はわたしには無かった」と拗ねるかもしれない。   蜀の劉玄徳こと桃香に言わせれば「もっとそんな風にわたしにも接して欲しい」とやきもちを妬くかもしれない。   身近な者にとっては身近過ぎるが故に逆に理解しにくい一刀流の接し方なのだろう。華琳が気付くには今迄が余りにも忙し過ぎ  て、余裕が出来るであろうこれからと言う矢先に一刀はこの世界から居なくなってしまった。   これからはそんな新たな一刀の一面を見付けたり、一刀との新たな関係を育んでいくのに十分な時間があるのだが、今の華琳は  急ぎ過ぎているのか、そんな部分だけ未だ少女のままなのか華琳本人も気付いていない。   あの手この手で何とか華琳の機嫌を回復させる事に成功した一刀は少し遅めの夕食にあり付けていた。未だ本調子ではない為に  業の市街でという訳にはいかなかったが、華琳自ら一刀の為だけの手作りの食事を食せるのであるから一刀本人も何ら異論も不満  も無い。口では未だ先程の一件に拘っている様な口ぶりではあるが、用意された料理は未だ本調子でない一刀の身体の事を慮った  「栄養価が高く」「消化に良く」「口当たりも良く」そして「一刀の好物」な物ばかりであるところを見れば、どうやらそれは照  れ隠しの様である。それらを寝所に運ばせると側仕えの者達を全て下がらせ、一刀と華琳の二人水入らずでの夕食となった。   食事も進み落ち着いた頃合になってくると、華琳は天の国の話を聞いてきた。これは華琳に限った事ではなく、魏の面々だけで  なく他国の全ての者達にも言えることである。確かに聞く人間によって話の程度や種類は様々であるが、殆どの者達が聞きたがる  ものであった。   当初は華琳や軍師の面々等はもっぱら天の国の社会制度や政治体系そして法律や説話等を、他の面々は天の国の暮らしぶりや風  俗そして武術等を。天の国から吸収できるものを判別する為もあり(制度やものによってはこちらの世界では再現が不可能なもの  もある)それは広範囲にわたっていたが、時が過ぎると話の内容は広く浅くからより暮らしに密着した身近なものへと変わってい  く。その中でも皆が共通していたのは、一刀がこちらから居なくなっていた六年間の暮らしぶりである。遠まわしに聞く者もあれ  ば直接本筋を聞く者も居たが、一刀も話せる限りそれに答えていた。   一刀をより深く理解しようとして前回以上に会話を増やしている彼女達。良い面も悪い面もひっくるめて全てを知りたいと思っ  てはいるが、どうしても気になるのは一刀の六年間の女性関係である。以前張文遠こと霞も口にしていたが、一刀がこちらに還っ  てくるまでに弛まぬ努力をしていた事は十二分に認めるし元居た天の国を捨てこちらを選んでくれた事を本当に嬉しく思うものの、  六年の間全く女っ気無しというのも又想像しにくかった。   「こちらの世界に戻ってくると二度とあちらには戻れない」と知っていた一刀が離別する事の確実な状態であちらの女性と情を  交わす様な事をする男とは思えないし、それを解った上で割り切って交わりを持つ様な男だとも思いたくない。一刀の口から聞く  あちらの話の中に女性の事と思われる話もしばしば現れるが、核心を上手く暈して一刀が話すために彼女達のモヤモヤは募るばか  りである。   霞がある程度聞き出してはいたが、それも上手く一刀にはぐらかされている様で全てを納得しきれてはいない彼女達であった。 「本当に……、話だけ聞くと本当にバケモノよねぇ……」   話の中で『貂蝉』の事について一刀から話を聞いていた華琳はしみじみとそう漏らすと杯の中身を一気に口の中へと運んだ。解  説しておくと、杯の中身は一刀の体調の事も鑑みて酒を多量の果汁で薄めたものである。 「まぁね、見た目がああだし口調もあんな感じだから確かに気持ち悪いって思うのは仕方ないけど、話すと案外いいヤツだぞ」 「ふ〜ん……」   言葉とは裏腹に、何やら考え込む様な仕草を見せる華琳に一刀は以前から思っていた疑問を口にする。 「なぁ、春蘭や霞それに他の連中もなんだけど、『貂蝉』って言葉に皆変な反応を見せるんだけど……。何か知ってるの?」   一刀の言葉に華琳は言葉を発しかけようとして口を噤む。そして一刀に向けていた視線を一旦逸らすと小さく頷き再び視線を一  刀へと戻し口を開く。 「別に隠そうとか、口止めされてるって訳ではないのだけれど……、その時が来たら話すわ。だからそれまで待ってちょうだい。か  と言って、余り多くのことを知っているって事ではないわ。彼? 彼女? についてわたし達が知っている情報はあなたが話して  くれた事が殆どよ。だけど、どうしても今は言えない……いえ、言い難い事があるのも確かなの。気を悪くしないでね、その時が  来たらちゃんと話すから」   そう思った以上に真面目な表情で言葉を返した華琳を見て、一刀はこの話はここで切り上げる事に決める。 「(華琳がそこまで言うのならそれまで待とう)」   そう思った一刀であったが、華琳の表情からは将来それを聞くのを怖いとも感じる一刀。そして一刀は話題を変える。 「そう言えば、オレお墓参りに行ったんだ」 「へぇ、あなたにしては殊勝じゃない。でも誰のお墓に?」   突然の話に華琳は面食らった様な面持ちでそう言葉を返す。だが同時に不思議に思う。「誰の墓参りなのだろう?」と。   陣営の近しい幹部達には幸いにも先の大戦で命を落とした者は居ない。北郷隊の隊員には多かれ少なかれその様な隊員は居るだ  ろうが、流石の華琳でも全てを把握しているわけではないし、果たしてそれを一刀が自分に話すかと言えば疑問がある。いくら北  郷隊の隊長である一刀であっても、赴いた先でその様な事があればやぶさかではないであろうが、隊員個別の墓参にはわざわざ赴  かないだろう。よって今話題にしたという事は、お互いに知っている人間であると推察できた。   他国に眼を移せば、一刀がその様な場に居たのは呉の黄公覆こと祭と西涼の馬騰だろう。しかし祭は存命が確認されているし、  馬騰の墓参りに一刀が西涼に赴いた等と言う報告はされていない。第一、西涼の馬騰の陵墓は非番の折に簡単に行って帰れる様な  場所でも距離でもない。   そんな事を思っていた華琳に一刀が返した答えは予想外のものであった。 「華琳の」 「はぁ?!」   その言葉に、華琳は手にしていた杯を落としそうになる。一刀は滅多に見せない華琳の本当に驚いた顔を眺めながら話を続けた。 「向こうの世界に居た時に、向こうの世界のこの大陸をさ……ああ、向こうでは中国、中華人民共和国って国名なんだけど……一月  位……向こうの一月は約三十日ね……旅行したんだよ。その時に華琳のお墓だって言われてる所にも足を伸ばしたわけ。ああ、春  蘭や秋蘭のお墓にも行ったぞ」 「…………」   流石の華琳も一刀の話を聞いて言葉を失っている。華琳達の言う『天の国』が未来の世界である事は知っている。冷静に考えれ  ば今から千八百年ほど先の世界なのだから、当然自分は生きては居ない。死んでいるのならば墓の一つぐらいあってもおかしくは  無いが、そこに一刀が参る等という事は想像すらしていなかった。 「まぁ、向こうでは華琳達は男性だから、『曹操』『夏侯惇』『夏侯淵』のお墓だけど……、どうした華琳? そんな顔して……」   驚いた顔を変える事無く話を聞いていた華琳であったが、一刀の言葉で我に返ったのか普段通りの表情に無理矢理取り戻して言  葉を返した。 「べっ、別になんでもないわ。……で、どんな感じなの?」 「ああ、正直言うと『曹操』の墓ではないかと言われていてまだ確定はしてないんだけどね。本人の希望で葬儀や墓に金を掛けるなっ  て言い残したらしいんだけど、かえってそれが決め手を欠いてるって言うか……まぁ、オレの居た時代の平均的なモノに比べれば  十分過ぎるぐらい大きいけど」 「そっそう……で、場所は何処なの?」 「オレが行ったのは安陽市ってとこだから……今で言えば、北海と濮陽の間ってトコかな?」   一刀の話を聞いた華琳は眼を伏せ何度か小さく首を横に振ると小首を傾げながら口を開いた。 「わたしならそんな所には造らせないわね」 「んっ? どう言う事?」 「何でもないわ」   そう口にしてニヤリと笑うと杯の中身を口に運ぶ華琳であった。 「でっ、話の途中で出てきた『くらぶのちぃまま』ってどんな人……いえ、女性なの?」 「えっ? ああ……、ええっとコッチで言う酒家の……」 「正直に話しなさい。今なら怒らないから……」   「前もこんな問答をしたなぁ」等と心に思いながら、「さて、何処まで話すか……」と落とし処を考える一刀である。   数日後には一刀の体調も開放に向かい、本来の目的でもある業の視察に赴く二人。将来的にはここが魏の新しい首都になる事は  表沙汰にはなってはいないがほぼ決定事項でもあり、己の目で見て現状を把握しておくと言う事は意味がある。活気のある市街や  ここの警備隊の仕事ぶりを眼にしながら満足気な顔を見せる二人であった。   実際はこの視察は華琳の休暇の意味合いが濃いのだが、表向きは業の視察となっている。しかし日数の割りに行う事は僅かであ  り、視察といっても大人数で市内を練り歩くわけではなく警護の者を辺りに伏せてはいるものの基本は一刀と華琳二人きりであっ  た。しかも二人とも普段とは装束を変えているために地元の者では二人が『魏王』曹孟徳と『天の御遣い』北郷一刀であるとは気  付かれる事もない。無論、洛陽や許昌から商売に来ている者達や以前そこに住んでいた者達等の内には二人に気が付く者も居たが、  そこは察したのか小さく会釈をする程度で名を口にする者や態度に出す者達等は居ない。   そして、今二人は業の城下を見渡せる城壁の上に居た。 「良い街だな」 「ええ、洛陽や許昌とも趣の違う良い所よ。麗羽の支配下だった時期もあったから以前は心配した事もあったのだけれど、本人はと  もかく部下は優秀だったようね」   そう話す華琳の言葉を聞いて一刀は納得する。確かに業の城内の装飾の一部は一刀の屋敷のそれと似通ったものが見受けられた。  そして一刀は以前何度か顔を合わせた麗羽の旧家臣達も思い起こす。   官渡以後に魏に下る事を善しとしなかった一部の者達は袁家の没落後一時期不遇を囲っていたが、逆に袁家と言う縛りから開放  された事がその者達には良い意味で思考の転換となったようだ。数年の後に戻って来た天の御遣いの元に麗羽が身を寄せている事  を知り、まるで申し合わせた様に散り散りになっていたその者達が麗羽の元に参集した時、皆晴れ晴れとした良い顔をしていた事  を一刀は思い出す。 「で、明日からは城外の視察に?」 「いえ、明日はここの太守達と意見交換をするから城外の視察はその後ね。事前の調査も依頼していたからその結果報告を聞かない  と」 「ならこの後は……」 「ええ、少し早いけれど食事にしましょう。あなたも病人食ばかりは飽きたでしょうから」 「いえいえ。丞相さま御手ずからの料理を飽きた等滅相も無い。でもせっかくだから業の市街で食事もいいと思うんだけど」   おどけた様な一刀の言葉に華琳は「ふふん」と鼻を鳴らす。一方の一刀はニコニコと笑顔を絶やす事無く、促す様に華琳に手を  伸ばしていた。 「まぁいいわ。そういう事にしてあげる」   そう答えた華琳は伸ばされた一刀の手を取るとその手を離す事無く二人は業の市街の雑踏の中へと歩を進めるのであった。   業の市街での食事を終え、屋敷へと戻って来た一刀と華琳。そして一刀は華琳に促され久しぶりの風呂へと向かった。この時代  自由に使える風呂と言うのはまだまだ贅沢なものと言えると十分認識している一刀ではあるが、未だあちらの世界での生活が抜け  きっていない一刀にとっては身体を拭うだけと言うのは物足りなさを感じるのも事実である。例え一刀の身体の不調が原因であっ  ても「風呂に入りたい」という欲求であったり身に付いた習慣は簡単に変わるものではなかった。   そして久方ぶりに湯船につかると言う事に満足した一刀は上気した顔のまま上機嫌で部屋の扉に手を掛けた。 「やっぱり風呂に入って湯につかるってのはいいよね。でも一番風呂をオレが……もらって……」   部屋に居るであろうと推察して華琳に話していた一刀であったが、窓辺に立ち一刀を迎えた華琳の姿を見て一刀は思わず言葉を  飲み込んだ。 「どう?」   一刀が今の自分の姿を見ているのを確認した華琳は少し腕を広げながらワザと今着ているものが翻る様に身体を回転させる。再  び一刀を正面に見る華琳の表情は妖艶なものへと変わっていた。 「華琳……」 「これをわたしに着せたかったのでしょう……。こんな姿にして、わたしに何をさせたいの……一刀」   そう口にした華琳は妖艶な笑みを浮かべながら一刀を誘う様に右腕を伸ばす。無論、一刀は誘われるがまま華琳へと近付いて行  く。   今華琳が身に付けている衣装は、春蘭が江夏で土産に買ってきたものである。その意匠を目にした華琳は「これを買い入れる様  唆したのは一刀だろう」と思い込んでいた。だが実際はこれを買い求めたのは春蘭であり、これに決めたのも春蘭である。今日初  めてそれを目にした一刀は、まるで魅入られた様に華琳を見詰めていた。 「ナニ? そんな顔をして。わたしにこんな格好をさせたかったのでしょう」   華琳は直ぐ側まで来た一刀の手を取ると寝台の方へと導いていく。そして寝台の直ぐ側まで近付くといきなり一刀の唇を奪い、  そのまま寝台に押し倒すと一刀を下にして馬乗りになった華琳が再び口を開く。 「あなたはわたしに服従したい? それともさせたい? そう、稟や七乃にしている様に……」   そう口にした華琳はニヤリと笑う。そこには今までの妖艶さだけでは無く、悪戯な笑顔も見せている。 「誰に聞いたか知らないけど、別に無理矢理させてるわけじゃないからな」 「そう?」   短く言葉を返した華琳は再び一刀に口付ける。しかし、今度は一刀が華琳を抱えたまま上下を入れ替え彼女を見下ろす形になっ  た。 「俺も聞きたい。華琳……、華琳はオレを従わせたい? それとも従いたい?」   そう口にした一刀は華琳の上半身を起き上がらせ、後ろ手に寝台の上に手をつかせる。急な動作の為か、華琳の胸を隠していた  布がずれ今は彼女の綺麗な形の乳房をさらけ出していた。一刀はおもむろに華琳の首筋に指を這わすと、そのまま乳房の間を、そ  して下腹部へえとなぞっていく。その指の動きに呼応する様に、華琳の乳首が硬く尖っていくのが見て取れた。一刀の指の動きに  反応して華琳は小さく声を漏らす。 「わたしは……」   縋る様な視線で、言葉を絞り出す様に口を開いた華琳であったが、それを遮る様に一刀が言葉を重ねた。 「どうしたい?」   一刀の指が華琳の敏感な部分に触れた時、華琳は眼を閉じ一段と大きな声を漏らす。 「んっ……! ああぁ……」   だが、華琳はそこで一刀の指がそこから離れるのを感じる。そして未だ眼を閉じていた華琳であったが、一刀が自分に触れる事  無く両手を寝台に着くのを感じていた。 「一刀?」   そう口にした華琳は閉じていた目を開く。するとそこには普段自分をいじめる時のような表情ではなく、優しく自分を見詰める  一刀の姿があった。 「オレは華琳の側に居たい。隣に立っていたい。どちらが上だとか下だとかじゃなくて、隣に居たい」 「一刀……」 「これがオレの嘘偽らざる気持ち。上手く言えたのか、華琳が望んだ答えかどうかは解らないけど……」 「うん……」   一刀の言葉に満足気な表情で華琳は頷いた。そして一刀と華琳はお互いに見詰めあったまま笑顔を見せ合う。   華琳は「この大陸に覇を唱える」と起った時から半ば諦めていたものを今手に入れたと確信していた。おそらく世間一般で言う  ものとは又違うであろうとも、自分自身では納得できている。   それは一度手に入れかけたものの、寸前で手から毀れていったもの。   そして二度と手にすることは無いだろうと諦めていたもの。   口にすれば陳腐な言葉になってしまうし、照れもあって口にしたいとも思わない。だが、それが己の心の中にしっかりと存在し  ている事に歓喜していた。   そして、三度一刀と口づけを交わす華琳。今の気持ちを確かめる様に、今の気持ちを伝える様に。   そんな華琳の気持ちが伝わったのか、一刀もその気持ちの入った口づけに答える。普段以上に情熱的に、真剣に。   そして長い口づけを終え見詰め合っていた二人であったが、先に口を開いたのは一刀であった。 「この服は?」 「春蘭が江夏で……」 「へぇ……春蘭、華琳にもこんな服買ってたんだ」 「えっ? これはあな……」   華琳はそこまで口にしたところで自分の勘違いに気が付く。   華琳はこの衣装はてっきり一刀が春蘭に買わせたものであろうと想像していた。そしてこれを自分に着せ何をさせようというの  だろうと。だが、今の口ぶりや態度そして表情からは一刀がこれの購入に関しては預かり知らぬ事だと思えた。   すると、華琳は頭に血が上り、顔が熱くなるのを感じた。そう、この衣装を纏い一刀に何をされるのだろうと考えていた自分は、  ただ先走った妄想をしていた事に他ならない。これでは普段妄想を暴走させ鼻血を吹いている稟と何ら変わりは無いではないかと。   華琳はそんな自分に呆れそして恥ずかしくなり、横を向いて小さく丸まってしまう。   一刀もいきなり百面相を始め、首筋から耳たぶまで真っ赤に染めた華琳がいきなり横を向いたのを不思議そうに眺めながら口を  開いた。 「んっ? どうかした華琳」 「何でもないわよ!」   少し怒った様な照れた様な返事を返す華琳。一刀は思わず桂花を相手にしている様な気分になったが、そんな拗ねた様な態度を  見せる華琳を可愛く思う。そして何か思い付いた様な顔をした後、華琳に顔を近づけると華琳の耳元で囁く。 「まぁ、華琳もあんなプレイがしたくなったのなら付き合うけど……さって……いっ痛いって……」 「なんで……あなたは……こう一言……」   そう口にしながら華琳は一刀の左の頬をつねり上げる。良くも悪くも自分の素を見せ始めていた一刀であるが、今の華琳にして  みれば『空気』を呼んでいないとしか思えない。しかし、一刀はそんな事はお構い無しに話を続けた。 「そんなこと言いながら、気になってるくせに」 「そんな事は……!」 「何なら今の格好で表に出てみる? 髪形を変えれば案外気付かれないし……」 「なっ……」 「ほら、その気になってきた」 「バカっ……!」   そして、寝台の上でじゃれ合う二人であった。   規則正しい寝息を立てながら眠っている一刀を生まれたままの姿で華琳は寝台にひじを立てながら穏やかな視線で眺めている。 「ナニが隣に居たいよ……、魏の皆はあなたのものよ……。解ってるのかしら……」   そう呟いて華琳は一刀の頬に触れる。一瞬表情を顰めるものの、一刀に眼を覚ます気配は無い。 「ほんと……普段は朴念仁の癖に、こんな時だけは……」   そして再び頬に触れた。 「どうせ他の国の娘達にも言ってるんでしょう……」   華琳は頬に触れていた指をそのまま一刀の肩の線に沿って滑らせていく。 「これが惚れた弱みって事なのかしら……」   そんな事を口にしながらも、華琳の表情は変わる事無く穏やかなままである。そしてふと外の景色に眼を移すと、そこにはあの  夜と同じ満月があった。   一刀が消えたあの夜以降、満月を眼にすると胸を掻き毟る様な焦燥感があった。だが、今は穏やかに落ち着いた心持ちでそれを  見詰めている自分がいる。 「(わたしもチョロいものね……)」   そんな事を思いながら一刀の腕を胸に収め眠りに付く華琳であった。 「明命、あなたももう寝なさい。これ以上は今夜は何も無いわよ」 「ニッ……ニャァ……」          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   場所は洛陽へと戻る。   華琳と一刀が不在と言う事で少々淋しい洛陽であったが、それを紛らわしていたのは張文遠こと霞と雪蓮の明るさであろう。皆  もそれを感じていたのか、仕事を終えると誰が言い出すわけでもなく一同は毎夜洛陽の城の食堂へと集い今宵も酒盛りに興じてい  る。当初は市街の店へと繰り出す事もあったのだが、一旦酔いが回ると間違っても市井の者達に聞かせられない魏や呉の幹部達の  艶話や一刀の醜聞等の暴露話を始めるために、魏のお目付け役秋蘭や呉の筆頭軍師冥琳の采配の下「城外での酒盛りは厳禁」と早々  にお達しが下っていた。   始めこそは『呉王孫伯符』に多少の遠慮や配慮も合ったが、今の酒の席では皆ほぼ同格の扱いとなっている。無論今の立場を雪  蓮は歓迎していた。 「なぁ雪蓮、王さまやめた後は何すんのん?」   何気ない霞の言葉に一瞬きょとんとした表情を見せた雪蓮であったが、直ぐに口端を歪めながらニヤリと笑った。 「ちゃ〜んと決めてるわよ」 「おおっ、ナニナニ?」 「一刀のお嫁さん!」   雪蓮の何気ない一言に其の部屋全体の雰囲気ががらりと変わる。呆れた様な視線から、刺す様な視線まで様々であるが、それら  の視線を受けて流石の雪蓮も居住いを正した。 「冗談よ……」 「せやな……、ちょっと笑われへんから他のにして」 「みたいね……」   霞の一段と低い声での答えに雪蓮はそう答えるとゆっくりと手元の杯を口に運んだ。   その場の雰囲気が変わったのには訳があった。それは北郷一刀の下に誰が嫁ぐかと言う事である。   魏の面々にしても、他の国の面々にしろ、皆が一門の武将や軍師達である。皆が一氏族、そして王族として家を盛り立てていく  事は間違いない。それは一刀も同様であり、北郷の名を家を継ぐ者が必要となる。この先、幾人もが一刀との間に子をなす事は容  易に想像出来る。しかしその子はそれぞれの家を継ぐ子である。特に魏の面々は名も売れており、おいそれと一刀に嫁ぐと言う訳  にはいかなくなってしまったと言うのが現状であった。特に「曹家」「夏侯家」「荀家」「郭家」等は言うに及ばずであるし、市  井の出身である三羽烏達や季衣そして流琉達も新たな一氏族としての独立を求められている。   だが、何時までも一刀を独り身のままにしておく事も問題であった。それは事あるごとに一刀の嫁取りの話が出る事である。長  安での事を見ても解るように、建前の上では独り身でもある『天の御遣い北郷一刀』に自分の娘や一族の娘を嫁がせ繋がりを持ち  たいと考えている有力者は少なくない。それは豪商から朝廷の高級官僚そして地方の有力豪族、果ては異民族から旧皇族までと多  種多様である。   今はのらりくらりと断ってはいるものの、中には「正妻がダメなら側室でも妾でも、何なら屋敷の女官や下女でも構わない」と  言い出す始末の者も多数であった。   だがこの先、もしも帝辺りから一刀にこの様な話でもいこうものなら打つ手がなくなる可能性もある。例え帝の由の者であろう  とも、彼女達から見れば何処の馬の骨か判らぬ様な者を一刀の正妻等と認めるわけにはいかないのである。(実際朝廷でもその話  が何度か取り出された事があったが、その度に帝の「何故朕が一刀の細君の世話なぞせねばならん」の一言で立ち消えとなってい  た。ちなみに、その話が出た後の帝は非情に機嫌が悪かったと言う)   それでも以前に一刀の正妻候補として二名の名が挙がった事があった。その二名とは「秋蘭」と「月」である。   「秋蘭」には双子の姉春蘭がおり、春蘭に夏侯の家督を継がせ秋蘭を一刀の正妻とする案。そして「月」は董卓の姓諱を捨てた  事によりこの先表舞台に立つ事もないが、ただ飼い殺すには惜しい人材でもあるからと言う理由で。(それに、彼女を巻き込んだ  利用したと言う負い目もあった)   だがこの二つの案も一刀の天の国への帰還により流れてしまう。それに一刀不在の三年の間で二人は名実共に存在感を増し、秋  蘭は魏の鎹として不可欠な存在となり、月も蜀の運営において外す事の出来ない存在となった。しかも今は月の名誉の回復がなさ  れていることもある。   裏話としては以前春蘭がその話を聞いた時の事。口ではその話を肯定していたが、その最中瞳が光を失った笑顔のまま涙をぽろ  ぽろと流し始めた。その姿を見た華琳と秋蘭は無言のまま春蘭を抱き締め、二度とその話を口にする事は無かったと言う。   そして今の三国でその可能性が高いのが、現在は無位無官の麗羽と美羽そして呉王を退く雪蓮であると言える。その為に皆が少々  過剰に反応したのだった。   杯の中身を空にした雪蓮は小首を傾げ、一度ニヤリと笑い眼を閉じ胸を張って再び口を開いた。 「わたしは、御隠居になるのよ」 「……御隠居?」   雪蓮の言葉に霞は正直何を言っているのかわからないと言う表情を見せている。 「一刀に聞いたんだけどさ……、やっぱり一度退いた人間が何時までも政に口を出すのはどうかと思って。まぁどうしても言うべき  事は言うけど、私自身目の上のこぶにはなりたくないのよ」 「それで御隠居?」 「そう。お供を連れて諸国を漫遊しながら悪いヤツがいたら懲らしめるの」 「それって、呉以外からするとめっちゃ迷惑なだけやん。まぁ確かに面白そうではあるけど……」 「でしょ!」   霞の言葉を自分の意見に賛同したと都合よく捉えた雪蓮は嬉しそうに答える。霞の表情を見れば決して霞の言葉は全面的に肯定  していない事は一目瞭然であるが、あえて雪蓮はそこには触れない。   だが、雪蓮の言葉を訂正しなければいけない人物が居た。公私共々に。 「一刀が言ったのは御隠居ではなく、大御所だ。御隠居は一刀が話してくれた講談だろうが……」   そう口にしながら冥琳は雪蓮の横に腰を掛ける。冥琳が腰を掛けるのを眉間に皺を寄せながら眼で追っていた雪蓮が言葉を返し  た。 「ええ〜っ、大御所より御隠居の方がい〜い」 「いい訳ないだろう。大体退いたとは言え元国主が他国の領内で勝手気ままに大立ち回りなぞしてみろ……、迷惑以外の何物でもな  いわ。それにお供の者とは誰のことだ」 「助さんが祭で、格さんが冥琳。お銀を穏にしたら八兵衛は誰になるのかしら? 思春は弥七? 飛猿? どっちがいいと思う?」 「知らん! それにお前は政を蓮華様一人に押し付ける心算か」   そう答えて手に持っていた酒瓶をワザと音を立てて置く冥琳。そんな冥琳を意に介す事も無く雪蓮は未だナニやら考え事をする  様にブツブツと呟いている。そして霞は冥琳の置いた酒瓶に手を伸ばしながら口を開いた。 「で、御隠居がはた迷惑なんは解ったけど」 「ぶ〜、ぶ〜」 「大御所て何なん?」   冥琳は霞が自分の杯に酒を注ぎ終わった酒瓶を取り返すと、自分の杯に酒を注ぎながら口を開く。 「一刀に聞いた話では、天の国の有名な国主が位を譲った後に国内の他の勢力の牽制に城を構えてそれに当たったそうだ。その時に  名乗っていたのが大御所。我国もそれに似た様なところがあるからな……、恭順の条件とは言え雪蓮を楽隠居させるほどの余裕は  ない」 「ふ〜ん、いざ王さま辞めるんだけでも簡単やないんやな」 「ああ……」   そう口にしながら二人は雪蓮へと視線を向ける。その視線の先には、未だ何かを考え込んでいる雪蓮の姿があった。そしてそん  な二人の視線に気が付いたのか、雪蓮も二人の方へ視線を向けると口を開いた。 「やっぱり、八兵衛は明命よりシャオの方がいいわよね?」   雪蓮の言葉を聞いた冥琳は杯を落としそうなほど大きな溜息を吐き、霞は乾いた愛想笑いを見せていた。 「一刀のお嫁さん!」   そんな雪蓮の言葉に少し彼女達から離れた場所に居たある人物が反応した。その人物がやおら立ち上がり、その声の主にナニや  ら言葉を発しようとした時、側に居たその人物の親友の手で元に座っていた場所へと引き戻されていた。 「月! 酔っ払いの戯言にいちいち反応しない。……って、月も十分に酔っ払いか」 「詠ちゃん、ここはハッキリと言っておいた方がいいと思うの!」 「月……それは柱、ボクはこっちね。ほら、呑んでばかりじゃなくて流琉の作ってくれた料理も食べなさいよ。美味しいんだから」 「詠ちゃんは危機感が無さ過ぎるよ! それにわたしは酔ってなんかいません」 「はいはい……」   酔っ払いの常套句をあしらっている詠の元に近付いて来る人影があった。 「いやぁ〜、いい感じに出来上がってますねぇ」 「二人とも今回は少し間が悪かったですね」   董仲穎こと月と賈文和こと詠の元に現れたのは風と郭奉孝こと稟。二人は酒ではなく流琉お手製の出来立ての料理を手に持って  いる。そしてその料理を二人の前に置きながら自分達も腰を下ろした。 「まぁ、華琳の久しぶりの休暇だって言われれば文句もないわよ」 「…………」   詠は半ば諦めた様な表情で二人に言葉を返す。一方の月は何か言いたそうであったが、特に口にする事無く口を尖らせながら手  に持った杯を眺めていた。 「いやぁ、こんなに早く月ちゃん達が陛下に返礼に来るとは思わなかったのですよぉ」 「まぁ以前に比べたら蜀も落ち着いてきたし、年が明けて忙しいのは桃香も勿論だけど、筆頭軍師の朱里や雛里それに紫苑達だから  ね。ボクはまだ正式な蜀の軍師ってワケじゃないから公式な行事の時は楽させてもらってるわ。  それに陛下にお伝えしておく事もあったし……」 「ほう……」 「ナニよ……」   賈文和こと詠の当たり障りのない返答を聞いた郭奉孝こと稟が、最期の一言は気になったのか眼鏡のずれを直しながらそう短く  口にする。詠を見る稟の挑発的な視線を正面から見返しながら詠が言葉を返すも、稟の表情が変わる事は無かった。だが、その間  に入ってきたのは風である。 「桃香さんのご養子の件ですかぁ。確か劉姓の女の方だと?」 「…………」   詠は「何処まで知っているのだろう」と惚けた表情で話す風を見ながらそう思うも、それを顔にも口にも出さなかった。だが、  あえて言葉を返さなかったのは肯定したのと同じ事であるが、へんに言い繕うよりましであると思い詠はこれ以上話を広げる気は  無い。それは稟も風も心得ている。   余談ではあるが、後年桃香の養女を紹介された華琳や魏の幹部達は、彼女とその配下の者を見て眼を丸くして驚いたと言われて  いる。   そんな気配を感じた稟が話を変えた。 「会いたかったのは陛下ではなく、かず……」   見透かした様な表情で稟が話しているのを遮ったのは、詠ではなく董仲穎こと月であった。 「稟さん! 何で華琳さんはこんな時に休暇なんかとったんですか? しかもご主人さまも一緒にだなんて……」 「ゆっ月殿……」   月の剣幕に流石の稟も表情を変える。だが、間髪いれず隣に座っている風の着物の裾を握った。 「風、何処へ行こうというのです」 「いや、風は持病の癪が出たので、部屋で休もうかと……」 「何時からそんな持病を持ったのです。ずるいですよ」 「この手は相手にすると長くなると相場が決まっているのですよぅ」 「聞いてますか? 稟さん! 風さん!」   月の言葉に稟と風は姿勢を正し月の方へと視線を向ける。その視線の先には顔を赤らめ視線をこちらに向けたまま杯の中身を飲  み干そうとしていた月の姿があった。そして飲み干した杯を口から放しながらゆっくりと視線を二人の方へと向ける月。その表情  を見て、稟と風は思わず姿勢を正す。 「確かに今回の上洛は陛下にお礼申し上げるためでした。ですがそれを終え……翌朝からお世話しようと思ったら、ご主人さまの姿  がないってどう言う事ですか!」   座った目付きで二人を見据えたまま話す月と、顔は月に向けてはいるものの決して目は合わせないようにしている二人。   月の名誉の回復を宣言されその返礼に二人がここを訪れるであろう事は十分予想していたが、こうも早く訪れるとは思っていな  かった。月達の来訪が予定外であり、華琳の休暇は前年から決まっていた事である。雪蓮と同様、他国からの予定外の来訪者にま  で予定を伝える義理はない。本来ならそんな事は百も承知な月であるが、どうやら今はそんな理屈は通りそうにない。   どうしたものかと思っている二人であるが、今はただ嵐の過ぎ去るのを大人しく待つ他ないと言うのが上策であろうと二人は推  察する。それに、やはり勢力の長を務めた者の持つ迫力に流石の二人とは言え気後れしている面もあった。今の月の呑む早さを考  えれば、直ぐに潰れてしまうであろう事は安易に予想できる。確か月はそんなに酒が強いとは聞いていないと思う二人は、月が早  く酔いつぶれることを期待して酒を勧めていく。 「聞いてますか! 稟さん! 風さん!」   突然の月の大きな声に、二人は思わず合わせないようにしていた眼を合わせてしまう。 「何で今なんですか? もっと暖かくなった頃でもいいじゃないですか? もっと良い季節でも良いじゃないですか?」 「はぁ、ごもっともで……」 「ですよねぇ……」   月の話に適度に話を会わせたり相槌を打つ二人。二人の抗議を込めた視線を向けた先の詠は始めこそすまなそうな表情を見せて  いたが、終わりの見えない状況に次第に視線を逸らす事が増えていく。   そして月が幾度目かの杯を空にした時、急に話すのを止めじっと稟を見詰めていた。 「ゆっ月殿、何か……?」 「稟さん、最近はやけに胸の開いた衣装を着られる様になってますよね……」 「えっ……」 「長安でお会いした時はそんなでも無かったはずですよね?」 「ああぁ……」   月の言葉に意味ありげな相槌を返す風。何かを思い出した様に何度も頷いていた。 「月ちゃんも詠ちゃんも、稟ちゃんのこの変化には聞くも涙語るも涙の深〜い理由があるのですよぅ」 「ふっ風……!」 「ご主人さまですね」 「あうぅぅぅ……」   稟の反応を見た月はおもむろに詠の持っていた酒瓶を取り上げると、手酌で自分の杯にその中身を並々と注ぐとそれを一気に煽  る。そしてそれをゆっくりと下ろすと再び口を開いた。 「では稟さん、全て話して下さい」   そう口にした月に稟は恐る恐る視線を合わせる。その視線の先には、何時もの月ではなく元漢の相国董仲穎の姿があった。   そんな月の気迫に押されたのか、稟は一度恨みがましい視線を風に送った後ボソリボソリと話し始める。その話を月と詠は食い  入る様に見詰めながら耳を傾けていた。稟も顔を赤らめながら途中何かを思い出した様に身体を悶えさせていたが、淡々と離し続  ける。   そして話に一段落付いた時、一番に声を上げたのは詠であった。 「あっ、あんた! バッッカッじゃないの! 何が体質改善のためよ、そんな口車に乗るなんて軍師としての矜持は何処に捨てちゃっ  たのよ!!」 「ご主人さま……そんなご趣味が……」 「いやぁ、これも惚れた弱みと言うやつですよねぇ。何処から聞きつけたのか途中からは七乃ちゃんまで加わって……、お兄さんが  洛陽の市街に緑地を造ろうって言ったのはこの為だったのかと疑ったぐらいなのですよぉ」   目線だけを向けながら風の話を聞いていた詠はふと表情を変える。そして目線を稟へと戻すと口を開いた。 「あんた……長安で鼻血吹いたのはそれを聞かされたからじゃぁ……」 「で、でも……一刀殿が……」   詠の問いに未だ真っ赤な顔のまま口ごもる稟。だが、そんな稟を見て詠は心の中で少し「カチン」ときた。それは先程口した  「軍師としての矜持が云々」ではなく、稟が口では大元は一刀にある風に話していたが、それを話す表情は何ら嫌がるではなく逆  に照れながら惚気ている様に見えたからである。   実際は、詠の深読みのし過ぎなのであるが、月に付き合ってそれなりに酔いが回っていた為の仕方の無い事でもあった。 「あんたバカ! 決定!!」 「でもでも、お兄さんの[天の国のぷれい]は中々に……」 「ハイ、あんたもバカ!」   何かにいらだっている様に見える詠を少し不思議そうな表情で見ていた月であったが、その視線を一度逸らし何やら考えた末に  おもむろに口を開いた。 「詠ちゃん……、私たちも蒲公英ちゃんが言ってた[裸えぷろん]で対抗……」 「あぁ! 身内にも居た……って月! 私たちもってなにさ……私たち「も」って、ボクを巻き込むのはやめてよね!」 「でも、詠ちゃんだってご主人様にもらった[ていしゃつ]に顔を埋めたり枕に着せて抱き締めたり……」 「わぁー! わぁー! わぁぁ〜!!」 「へっ変態!」 「アンタに言われたくないわよ!」   稟の言葉に間髪入れずに言葉を返す詠であった。 「雪蓮はん、どないしたん?」 「ん?」   李曼成こと真桜の言葉に雪蓮は眉間に皺を寄せながら言葉を返す。言葉を返すと言うより、真桜の言葉に反応したと言うのが近  い。つい先程までは皆の話に普通に応対していたのだが、急に黙り込んでしまったのを真桜が不思議に思ったからだ。 「何だ、まだお供の事でも考えていたのか?」 「なんじゃ策殿、どうかしたのか?」   冥琳に続いて黄公覆こと祭も声を掛ける。   先程までの面々に加えて、今は真桜と祭そして許仲康こと季衣や典韋こと流琉も合流してワイワイと話していた。霞や真桜には  騎馬隊の事や新造船の事について詳しく話を聞いたり、それらの事で愚痴をこぼしたりもしている。始めこそは「軍馬を融通して  くれるのはあり難いが、牝馬の数が少なすぎはせんか」とか「高速船の安定化に知恵を貸して欲しい」等と真面目な話であったが、  やはり酒が入っているせいかじきに下世話な話へと移っていった。お堅い話の時は話している者をただ眼で追っていただけの季衣  も河岸が変われば積極的に話しに加わっている。流琉はたまに余計な事まで口を滑らす季衣の袖を引っ張ってはいたが、基本ニコ  ニコとしながら話の聞き役に徹していた。   「春蘭が江夏でかなり際どい衣装を手に入れていたみたいだけど、それが一刀の好みなのかしら?」とか「帝の一刀への寵愛具  合が少々度が過ぎている様に思えるが、まさか男色の気もあるのではなかろうな?」とか「それはないんちゃいます。大きいのか  ら小さいの、年下からとし……んっん……年上まで、手広うこなしてはるお人やけど」とか「いんや、最近華佗とえらい仲ええの  んはちょっとおかしいと思わへん」とか「兄ちゃんペッタンコも可愛いって言ってくれたけど……まさかねぇ」等と本人不在をい  い事に無責任な話題で盛り上がっていた。   少しはなれた所で、楽文謙こと凪と呂子明こと亞莎がやけに熱を帯びた話をしているのを、于文則こと沙和が呆れた様な冷めた  様な視線で眺めていると言う一団もある。   そんな中、急に表情を変えあらぬ方向を見詰めている雪蓮に気付いた二人が声を掛けたのであった。 「何だか毛先がチリチリするって言うか……、例えるなら戦場でここに居たら危ういって感じ?」 「勘か?」 「勘よ……」   神妙な顔をした二人は申し合わせた様に同時に手にあった杯を煽る。それを眺めていた祭も一つ息を吐いて自分の杯を口に運ぼ  うとした時、ある方向を見詰めたまま突然動きを止めた。 「どうしちゃったの祭? 急に……」   そこまで口にした時、雪蓮は後方から何かが近付いて来る気配を感じる。その気配を感じた瞬間、雪蓮は冷や汗とも脂汗とも区  別のつかない汗が全身から噴出すのを感じた。隣に座っている冥琳も同様に動かないところを見れば同じものを感じているのだろ  う。   それが自分に近づいて来るのを全身全霊で感じながらも身体を動かす事が出来ない。そんな雪蓮が気力を振り絞り何とか動かす  事が出来たのは、立ち上がろうとした祭の腕を掴むことだけであった。 「姉様……」   その声を聞いた時、雪蓮は全身の毛穴が開いたような感覚に襲われる。祭の腕を握った手には益々力がこもり小さく震えてもい  た。だが、どうしても後ろだけは振り向けなかった。 「姉様……、長きに渡るお勤め……、この孫仲謀頭の下がる思いにございます」   その言葉を聞いた雪蓮は視線を隣の冥琳に向ける。が、冥琳も正面を見据えたまま微動だにしていない。手元から取り落とした  杯がくるくると回っているのが今の冥琳の精神状態を如実に表していた。 「姉様……、この孫仲謀にどうかお顔をお見せ下さいませ……」   その言葉に促され、雪蓮はまるで油も切れ錆付いたからくり人形の様に歪な動きで顔を向ける。そこには満面の笑みを浮かべ、  腰には孫尚香こと小蓮をぶら下げ、腕を組んで仁王立ちの孫仲謀こと蓮華の姿があった。 「れ、蓮華も来たの……?」   かろうじて雪蓮がそう口にした時、甘興覇こと思春が何処からとも無く現れて蓮華の隣に跪き口を開く。 「蓮華さま、北郷のヤツは屋敷には居りませんでした。穏さまは北郷の私室に乗り込んだまま動かなく……いえ、身悶える様な妙な  動きを始めましたので捨て置きました」 「そう……」 「思春も穏も来たんだ……。って事は建業はもぬけの殻……?」 「叔母様にお願いしてあります」 「だっ大胆ね……」 「姉様……」 「はい!!」   蓮華の静かで落ち着いた冷たい突き刺さる様な言葉を聞いて、雪蓮は背筋を伸ばす。その顔からは未だ留まる事も無く汗を流し  続けており、勿論祭の腕は握り続けたままである。 「姉様……この度の上洛、重要なお役目であることはこの孫仲謀重々承知しておりますが、滞在自体は余り長くはならないとの事こ  の孫仲謀聞き及んでおりましたがいかに?」   蓮華の抑揚の無い言葉に雪蓮は思わず生唾を飲み込む。意を決して口を開こうとした時、先に口を開いたのは冥琳であった。 「蓮華さま、この度は少々立て込んだ訳が……」 「詳細は明命からの報告書を読みました」   蓮華の言葉を聞いて誰が漏らしたのか『チッ』っと舌打ちが聞こえた。 「今余計なことを等と思いませんでしたか姉様?」 「めっ滅相もございません」 「では皆はそこに正座して下さい」 「へっ?」 「正座! 亞莎あなたもよ!!」   今、洛陽の城内では呉国の現国主と筆頭軍師そして宿老と次代の軍師と末妹が次期国主に正座させられ説教されているという不  思議な光景が繰り広げられている。他の者達はそれに巻き込まれない様に距離をとり遠巻きに眺めていた。 「姉さまズルイです!」   今迄とは変わり、蓮華は目尻に涙を溜めながら懇々と少々理不尽な説教を続けている。理不尽とは言え多少理論が破綻してはい  るものの、一々的を得ている為に雪蓮達も反論は無く、「仰るとおりです」「ごめんなさい」を皆は代わる代わる繰り返していた。   そこに今迄姿を見せていなかった荀文若こと桂花が姿を見せた。 「何なのコレ?」   眉を顰めながらそう口にした桂花に言葉を返したのは偶々入り口近くに立っていた春蘭であった。 「放蕩娘達を迎えに来た保護者がとりあえず説教をしているところだな。だから早く帰れと言ったのだ」 「ふ〜ん……」   桂花は特に興味なさげに言葉を返す。そんな桂花に春蘭と共に居た秋蘭が口を開いた。 「最近どうかしたのか? 酒宴にも余り顔を出さなかった様だが」 「何だか体調がおかしいのよ、最近」 「ふむ……」   そんな話をしている所に、今度は別の人物が飛び込んでくる。その人物は豊かな髪と胸を揺らしながら開口一番こう叫んだ。 「一刀さん! 白蓮ちゃんとの事は星ちゃんとの未遂の一件共々気にしない事にするけど……でも! やっぱり、順番って大切だと  思うの! だからわたしは蜀を預かる身としても、義姉としても、愛紗ちゃんや翠ちゃんましてや雛里ちゃん達に負けるわけには  ……!」   そこまで口にしたところで劉玄徳こと桃香は自分を見る様々な視線に気が付く。そして目当ての人物が居ない事にも。 「あれ? 一刀さん居ない? 華琳さんも……?」 「桃香さま! 御館は執務室には居ません! お前達! 御館を何処に隠した!!」   桃香の独白にはキョトンとした視線を返していた面々であったが、魏文長こと焔耶の言葉には思わず顔を顰める。中でも今の感  情を何ら隠す事無く一歩前に出た凪が焔耶を指差しながら口を開いた。 「何で隊長を隠さねばならん! この城に突然現れてのうのうと戯言を吐くとは余程命が要らぬ様だな……」   かなり酔いが回っているのか、そう凄みながら凪は焔耶との距離を詰めていく。一方の焔耶も興奮しているのかただテンパッて  いるのかそんな凪を眼にしても何ら怯む事無く、おもむろに右手を上げるとまるで挑発するようにクイックイッと手招く仕草を見  せてた。 「お姉ちゃん! お兄ちゃんはお家に居ないのだ! お兄ちゃんの部屋からは変な声と気配がしたから入らなかったけど、お家の人  に聞いたらお兄ちゃんはしばらく前から帰ってないって……」   入り口のところでそう話し始めた張翼徳こと鈴々であったが、そこに漂う異様な雰囲気に気後れしたのか最期まで口にすること  なく次第に声が小さくなっていく。そして本能的に危険を察知して後ずさりする鈴々に季衣が声を掛けた。 「鈴々、今はそこに入っちゃダメだ。コッチ来いよ」 「鈴々ちゃん今はダメ」   季衣に続いて流琉もそう声を掛ける。そして鈴々は涙目になりながら二人の方へと近寄っていく。 「何でこんな事になっているのだ?」 「よくわかんないけど、偉い人が集まちゃってこんな事に……。華琳さまも兄ちゃんも居ないのに」 「とりあえずもう直ぐ次の料理が出来上がるから、様子を見てそれを持っていこう。そうすれば皆の気も変わるかもしれないし」   流琉の言葉に季衣と鈴々が頷く。そしてそんな流琉達を眺めていたいち早く難を逃れる為にその場を離れた二人が口を開く。 「なぁ沙和、何でこんな偉い人らがここに来るまでウチらに何の報告もなかったんやろ」 「あの阿呆ぅ共……、後で血の小便が出るまでシゴキ倒してやるの。任務以外の事は考えられない身体にしてやるの」   真桜の疑問は尤もな事であるのだが、これには一つの幸運と一つの不運があった。   幸運の方は蓮華の側。北郷隊の幹部が国境の関に指導に訪れていた時、そこに蓮華が現れた。そして蓮華は何故か『資忠の妻』  を名乗る。それを聞いた北郷隊の幹部は『資忠』に反応する。一刀が江夏で名乗ったこの偽名を聞いたその幹部はこれが一刀の命  の「内密の行動」と勘違いをした。そして蓮華達以下数名の共周りの者達を何事も無く通してしまう。   『資忠』とは一刀が江夏で苦し紛れに使った偽名であり、本来ならそれ以上の意味は無い。だが今では北郷隊の中において『資  忠』と言う文言は「内密の行動」に用いられる符丁として認知されていた。勿論一刀がそう命じたり取り決めた訳ではないが、隊  員達が勝手に気を利かせただけである。その為その報告は届けられているのだが、それは洛陽の城ではなく一刀の屋敷に届けられ  ていた。   不運の方は桃香の側。桃香達は漢中から長安を経て洛陽に向かったのだが、途中の関にことごとく正式の騎馬隊の者が居なかっ  た。半ば強引に関を通過した桃香達であったが、その一報を伝える者達を桃香達は振り切ってしまったのである。それもそのはず  で、桃香達の使っていた馬は公孫伯珪こと白蓮麾下の白馬侍従のものであった。いくら騎兵の発達した魏と言えど、霞の部下なら  いざ知らずただの一兵卒の騎馬では馬の質の差で振り切られても仕方ない。   ちなみに、随伴していた白蓮が表で疲れきった馬達を泣きながら介抱している事は誰も知らない。   凪と焔耶の乱闘騒ぎはすんでのところで周りの者達に止められ、今は桃香共々雪蓮達の隣に正座させられ一緒に蓮華の説教を受  けていた。勿論凪も一緒である。   そして説教が一段落した頃を見計らって流琉達が新しい料理と共に現れた。その匂いに皆が気を向けた時、流琉達が口を開く。 「皆さん、新しい料理が届きました。冷めない内に頂きましょう」 「どれもこれも美味しそうなのだ。みんなで楽しく食べようなのだ」 「ほっほら、兄ちゃんが置いていった天のお酒もあるよ」   三人の言葉にその場の雰囲気も少し和む。今迄説教をしていた蓮華の顔も幾分穏やかなものになっていた。そして三々五々皆が  料理の下に集まっている時、その運ばれている料理の中から春蘭があるモノを一つひょいと手に取った。それを偶然目にした流琉  が「あっ」と言う風な表情を見せたが、春蘭は気にもせずそれを口へと運ぼうとしている。 「全く……、現金なやつらだ」   そう口にした春蘭は手にしたものに噛り付いた。そんな春蘭に桂花が声を掛ける。 「何よ、美味しそうじゃない。わたしにも寄越しなさいよ」   そんな桂花の言葉に春蘭は手にしたものを二つに分けると口にしていない方を桂花へと渡す。桂花もそれを受け取ると躊躇無く  それを口にした。   二人の行動を黙って見ていた流琉はおずおずと口を開く。 「お二人とも何ともないのですか?」 「何がだ?」 「何ともないわよ」   流琉の言葉に二人は何事もないといった顔で言葉を返す。流琉の質問に素直に答えた心算の二人であるが、答えを聞いた流琉の  釈然としない表情を見て二人も表情を変える。予想した答えが返ってこなかった流琉は得心できなかったのか再び口を開く。 「それは調味料代わりに使う果物で、香りは良いのですが味はただ酸っぱいだけですよ」 「そうか? 美味しいぞ」 「美味しいわよ……」 「で、でも……」   流琉の困惑した言葉と雰囲気に周りに居た者達も三人の方へと視線を向ける。そんな三人の会話を垣間見ていた秋蘭が口を開い  た。 「姉者、なんともないのか?」 「ああ、どうかしたのか秋蘭」 「桂花も」 「何よ……」 「そう言えば、桂花は最近体調があまり良くないと言っていたな」 「それがどうかしたのよ。良くないと言うより、おかしいのよ……」 「もしかして……」   秋蘭と春蘭、そして桂花の会話を聞いていた者達の中にも何かに気付いたのか表情を変える者が現れ始める。   最近体調がおかしいと言う桂花。そして二人はただ酸っぱいだけの果物を美味しいと言う。   それが導き出す答えとは……。 「流琉! 医者だ、急いで呼んで来てくれ」 「はい!」 「季衣は市街に行って華佗が戻ってきていないか確認してくれ! もし居たらここに連れて来てくれ、確認は多ければ多い方が良い」 「うん!」 「沙和! 業へ、一刀と華琳さまに急いで一報を届けなければならんかも知れん。準備しておいてくれ」 「はいなの!」   矢継ぎ早に指示を飛ばす秋蘭。その表情からはひどく興奮しているのが見て取れる。そして事の次第を理解した者達の顔が次々  へと笑顔に変わっていく。 「沙和、ウチの連中を使うたらええよ。少しは早う着くやろ。そっか、やっぱりあの二人が一番と二番か……。こりゃ先々楽しみや  なぁ」 「姉者、桂花。いいか落ち着け。こんな所に居てはダメだ。とりあえず寝所へ……ああ、身体を暖かくしてそれから……」 「落ち着くのはお前だ秋蘭」 「そっそうよ何なのよ」   全く気が付いていない春蘭。そして何かに気が付き照れ隠しか口では強気な事を言っているが、少々挙動不審な動きを見せる桂  花。二人は脇を固められ、仰々しく魏の皆に付き添われながらこの場所を後にした。   そしてそれを見送った他の面々は各々思った事を漏らし始める。 「ふえ〜、そうかぁ……。良いなぁ春蘭さんに桂花さん」 「あっ……、あかっ……、ああ……」   桃香は純粋に二人を羨ましく思う。そして次第に想像が膨らみ、自分がその状態になった事を思い始めたのか赤く染まった頬に  手を当てながら身をくねらしている。焔耶はただ唖然とした表情のまま言葉にならぬ言葉を口から漏らし続け、未だ事情の飲み込  めていない鈴々は一人料理に舌鼓を打っていた。 「これは賑やかな事に為りそうじゃの策殿」 「ええ」 「我らとて、ただ手を拱いているわけにはいかんな」 「そうね……直に一刀も戻ってくるでしょうから、ウチとしても遅れをとるわけにはいかないわね」 「姉さま!」 「シャオもがんばらないと」 「小蓮! ……って、あなた子ども扱いされて相手にされてないそうじゃじゃないの」 「うぐっ……。お姉ちゃんだって一刀におでこにチュッてされただけじゃない!」 「何故知っている!」 「わたしも何時かは一刀様の……」 「何を軟弱な……」 「思春さん、そんな顔では説得力は皆無です」 「うるさい……」   呉の面々もこのいきなりな展開に中てられたのか、妙な対抗心を燃やし始めている。雪蓮は皆の顔をゆっくりと見回したところ  で不敵な笑みを浮かべた。 「桃香じゃないけど、やっぱり順番て大事よね」 「姉さま、後はわたしに任せて国主としての本分を……」 「なっ、こんな時だけズルイいわよ蓮華。それに辞めるのがわかってる……」 「辞めると言っても、今日や明日の話ではないでしょう!」   子供の喧嘩のような言い争いを始める二人。そんな二人を呆れた表情で見る呉の面々であったが、普段なら二人を諌める役の冥  琳がそれを行う事無く何やら考え込んでいるのが印象的であった。   そしてそんな騒ぎを見詰める者達が他にも居た。 「ふむ、人間万事塞翁が馬……いや、禍福は糾える縄の如しと言うべきか」 「何堅苦しいこと言ってるのよん。あんな佳い男と健気な娘達の物語の締めはこう言うのよ。  『そして天の御遣いとお姫さま達は末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし』」 「なるほどの、善哉善哉」   卑弥呼と貂蝉はそう言いながら穏やかな表情を見せていた。そしてお互い示し合わせた様にきびすを返すと二人の身体が光に包  まれ始める。その時、貂蝉が口を開いた。 「さぁ、私達もやる事やらなくっちゃ。あと少しだものね」 「うむ。これほどの外史、消すには惜しい。いや、必ずや残さねばならん」   そう口にした二人の顔には揺るぎない決意が見て取れる。光は強さを増し、二人の姿がその中に溶け込むと光は形を変え二つの  珠になる。その二つの珠は窓から洛陽の夜空に吸い込まれる様に空高く舞い上がっていった。   その夜空には、満月が洛陽の城と街を優しく包み込む様に淡い光で照らしているのであった。 「でも、確認はしたほうがいいわよね」 「万全を期すにはそれが一番じゃな」     満月の元で 了  エピローグ 「父上!」 「父さま!」   貂蝉の腕に抱かれて光の中から現れた二人は、その腕を振り払うと大好きな父親の元へと一目散に駆けていく。 「おかえり、充。おかえり、ツ」   一刀はそう答えて二人を抱き締める。そして二人をそれぞれ左右の腕に抱きかかえると後ろを振り向いた。 「こう言う事だったのか華琳」   一刀の言葉に華琳は満面の笑みを湛えながら言葉を返す。 「ええ、あなたが戻ってくる半年ほど前だったかしら。この子達が訪ねてきてくれたのは」 「なるほど……。ならその時に貂蝉と会ってたのか。それで皆貂蝉の名前を聞いたら妙な反応を……」   一刀の言葉に華琳は黙って頷く。そして一刀が辺りを見回せば魏の面々も一様に頷いたり苦笑いを浮かべている。その時一刀は  ふと思い付いた疑問を口にした。 「あれ? その時に貂蝉は俺が戻ってくる事を話さなかったのか?」   一刀の疑問に貂蝉が笑顔で答える。 「ええ、この子達を見て華琳ちゃんはその事に、その事実に辿り付いたでしょうけど詳しい事は話さなかったの。あの時はそれを知  る事でこの先にどんな影響が出るかわからなかったから。今思えば……ご主人様がこちらに戻るのにあんなに時間が掛かったり、  出現地点がずれたのもこの影響かもしれないわね」   貂蝉の話を一刀は神妙な面持ちで聞いていた。一刀は何度か頷くと顔を挙げ、おどけたような表情で口を開く。 「まぁ、戻って来れたんだし、終わり良ければ全て良しってところか。なぁ、充、ツ」   急に話を振られた充とツは一刀の言葉の意味がよく判らない様な表情で小首を傾げていが、父親の笑顔に釣られて二人も笑顔を  見せる。そして上手くまとめた心算の一刀に満面の笑みのまま華琳が口を開いた。ただし、眼が笑っていない。 「そうね……。あの頃の皆の心持ちを考えれば、あなたの未来の活躍ぶりをこの子達から聞いた時は思わず眩暈を覚えたわね」   その刺さる様な視線を受けながら、一刀はただ乾いた笑い声をあげていた。そして子供達に顔を向けるとさも自然な雰囲気で話  を変える。 「充、ツ。昔の若い頃の華琳達はどうだった?」 「今でも十分若いわよ」   華琳の畳み込める様な返答にただ冷や汗を流す一刀。すると充は一刀の元を離れ、何を思ったのか華琳の元へ赴きいきなりその  胸に抱き付いた。 「どうしたの充?」   華琳の言葉に充は抱き付くのを止め一二歩距離をとると、今度はじっと華琳を見詰めている。そして顔を上げると「ニカッ」と  笑顔を見せ口を開く。 「大丈夫です華琳さま、大きくなってます」   親指を突きたてながら屈託のない笑顔でそう話す充。 「何の事かしら……充?」   充の行動と言葉を理解した華琳。しかし純粋に華琳の事を思ってその言葉を発した充を、まるで昔に華琳に褒められたくて空回  りしていた春蘭と充を重ね合わせた華琳は怒る訳にもいかない。 「こっ、コラ充!」   今迄黙って見守っていた春蘭も思わず声を上げる。以前ならここでいらぬ一言を発するのは春蘭の役目であったが、今はその役  を一手に引き受ける者がいる。そんな期待に応えるように、案の定一刀の悪い癖が出た。 「あはは、充。そんなに大きくはなってないぞ」   そう一刀が口にした時、その場の雰囲気ががらりと変わる。周りに居た面々も我が子を側に引き寄せながら一刀達から距離を置  き始めた。一刀は「やらかした」と思いながら射抜かれる様な華琳の視線から目を逸らし口を開く。 「そうだ……流琉がおやつを用意してくれてたはずだから、みんな城の中に入りなさい」   そう口にしながら一刀も皆と城の中へと向かい始める。その時、華琳が声を上げた。 「一刀!」   華琳の声に一刀は未だ側に居たツを抱き上げ走り始める。突然大好きな父に抱きかかえられたツは思わず歓声を上げた。その声  を聞いた他の子供達も口々に「わたしも」「だっこ」等と口にしながら一刀に纏わり始める。一刀が代わる代わる子供達を相手に  しているのを眼にしながら、華琳は毒気を抜かれた様な表情で大きく息を吐く。そして眼を細めながら華琳はその一団へと向かっ  て行く。   それはある穏やかな日の当たり前の情景。これからも当たり前に続く情景。   そしてこれがずっと続く当たり前の情景であると決して疑わない天の御遣いと恋姫達の姿がそこにはあった。     『還って来た種馬』 完