「無じる真√N85」  夏侯淵が気づいたときには、荀ケが布陣していた付近に公孫賛の白馬隊が出現していた。  そこで荀ケは撤退しながらも公孫賛を罠に嵌めたらしい。  そして、すかさず曹仁を始めとした将が兵を率いて向かおうとしたようだが、曹操軍と公孫賛軍の間に突如として黒い一団が現れた。  罠にかかった公孫賛を迫る曹仁らの隊から守るように位置していることから、夏侯淵はその一団が敵に与する者であると判断し、馬を返す。  その際彼女は、華雄と何十合にも渡って打ち合いを続けている典韋を見た。 「流琉。私は少々、予定外の敵を討ちに向かう。華雄のことを任せても大丈夫か?」 「は、はい! 疲労してきているようですから、死力を尽くしてみれば大丈夫だと思います」  華雄の金剛爆斧に弾かれた伝磁葉々を手に戻しながら典韋が力強く頷く。  確かに華雄は、夏侯淵と典韋を相手取っていたために疲弊が見えてきている。  夏侯淵は典韋の瞳に宿る意思を信じようと決め、彼女から眼をそらす。 「ならば、ここはお前に一任しよう。夏侯淵隊、続け。謎の一隊を敵の増援とみなし、公孫賛共々討ってみせるのだ!」 「おうっ!」  華雄の相手を典韋に託し、夏侯淵は部下を率いて謎の集団の方へと馬を走らせる。  以前とは武人としての印象が異なり、強者の風格を纏う華雄を典韋一人にというのは、夏侯淵としても心配でもあるが、今はより本陣に近い公孫賛たちの方が捨て置けない。  状況からして、荀ケもおそらくは公孫賛の奇襲攻撃に追い払われたのだろうし食い止めないと戦況に影響を及ぼしかねない。 「一体何者なのだ……もしや、公孫賛の伏兵?」  左右に流れてゆく景色、その中心にいる黒い一段が徐々に近づいてくる。彼らの姿を睨めつけながら夏侯淵は考え込む。 「見た限り、公孫賛を救ったのは間違いない。だが……他の者たちより意気衝天というのは引っかかる」  これまで長期にわたって戦を繰り広げていたにしては、士気が高く。勢いもある。  どこからともなく現れた一団は今し方この戦に参戦したのではないか、夏侯淵にはそう思えてならない。  そうこうしている内に、距離は縮まり、黒い一団が彼女の射程範囲内に納める位置まで来ていた。  近づいてみてわかったが、黒い一団と思っていた彼らは黒一色でなく、中央には別の騎兵隊と思われる兵達がいる。 「混合部隊か? しかし、どちらにせよ夏侯妙才、容赦はせん!」  弓を構え、矢を引く。  馬上の揺れも考慮しながらしっかりと、一団を率いていると思われる将へと狙いを定める。  兵の中に混じっているため、その容姿を見定めることはできないものの、矢の軌道を遮るものがない瞬間を見極め、彼女は矢を放つ。 「貴様、何者だ!」  気合いのこもった夏侯淵の矢は対象の人物を貫くことなく、地面へと落ちていく。  彼女の技量だからこそできる複数の射撃、なのにそれはいなされた。  黒い斑の一団を率いている人物は、得物である一本の槍を華麗に動かしてそれを実践してみせたのだ。 「ほう……今のを撥ね除けたか」  相手が気骨ある人物と見受けて感嘆しつつも、夏侯淵は更に複数の矢を瞬時に射る。  しかし、その矢もやはり相手の肉体には届かず、払われてしまう。 「うっしゃ、おらああああああ!」  その将は逆に矢を射かけた夏侯淵に向かって突撃をしてくる。  そこでようやく、夏侯淵は相手の姿を完全に視界へと捉えることができた。 「なっ……なんだと、貴様。何故ここに」  夏侯淵は一驚を喫しながらも、自分にせまる槍を弓で器用にいなし、二つの隊はすれ違う。  微妙な動作を交えて、改めて互いに向き直ると、髪の毛を後ろで結わえている少女が特徴的な太い眉の尾を勇ましく吊り上げる。 「馬孟起、推参!」  銀閃という槍の柄を腋に挟みこみ、馬超が猛々しく名乗りを上げた。  意外なる人物の来訪に夏侯淵は驚きを隠せない。  ただ、両者のやりとりを蚊帳の外から眺めていた公孫賛までもが何故か驚嘆していたのが彼女には少々気になった。  †  馬超を見る公孫賛は、自分の目に映るものが信じられないといった様子だった。  呂布の麾下であるはずの黒い戦装束に身を包んだ兵と、見知らぬ兵の混合部隊、そしてそれを率いる馬超の存在がここにあるという事象、到底受け入れきれないのだろう。  しかし、この肌をなぞる風、巻き上がる砂が口に紛れ込んだときのじゃりっという感触、土の匂い、それらの戦場にいる誰しもが感じている生々しい感触はきっと彼女にこれが夢ではないことを教えてくれることだろう。 「って、惚けている場合じゃないな。すぐに馬超の援護に向かうぞ!」  予想通り、公孫賛が漸く体勢を整えた隊を振り返ってそう言い放ち、馬を走らせる。  それから流れるように馬超の隊と連携を取り、彼女たちは夏侯淵に向かって攻撃を仕掛けることになった。 「馬超。事情はよく知らんが、助かった。夏侯淵の兵力は我らと比して手薄、このまま押し込むぞ」 「おう! いくぜー」  呼びかけに威勢良く応じた馬超は、軌道を変えて夏侯淵を挟み込むように公孫賛と鏡のように対になり、速度を上げて突っ込んでいく。  公孫賛と馬超の二つの隊を相手取るのはいくら夏侯淵の隊といっても厳しいものがあるのだろう。彼らに動揺が走っているのが見て取れる。  好機来たれり、と公孫賛及び兵達は曹操軍の将兵を斬り捨てていく。迷いのある太刀筋をくぐり抜け、普通の剣の刃が燦めき舞い踊る。 「一気に畳みかけろ、流れは私たちの方にある!」 「おう! 曹操のやつにはあたしも借りがあるし……いくぜ!」  意気軒昂な二つの騎兵隊は黄河の激流のように夏侯淵隊を飲み込み浸食していこうとする。  さすがに不利とみたか、夏侯淵が慌てて、挟撃から逃れようとする。 「全員、一度敵との距離を取れ。まともに相手をしては圧倒されるだけだ」 「おっと、逃がすかよ」  馬超は、兵達に号令を出す夏侯淵にすかさず追撃をかけ、銀閃を振り上げる。 「うっしゃおらああああああああ!」  馬超の叫びと共に振り下ろされる銀閃。しかし、その刃を夏侯淵は紙一重で躱し、銀閃は速度を上げた彼女の馬の尻尾を掠めて空を切るだけに終わった。 「くそ、あと半歩踏み込みが足りなかったか!」  馬超が舌を打って、銀閃をくるりと何回転かさせると、その勢いを利用して背で構え直す。  馬上の夏侯淵は、半身で後ろを振り返り、馬超へと狙いを定めて弓を引く。 「馬超! その首、今度こそ落としてくれる」  そう言うやいなや、夏侯淵は矢を放つ。しかし、馬超が巧みに馬を操り、矢を躱す。 「おっと、危ねっ」 「く……よけられたか、だが、これならどうだ」  馬を操りながらも器用に矢を継ぎ、放ってくる。  馬超はそれを先ほど同様に馬を操りよけてみせる。だが、まるでそれを見越したように夏侯淵が密かに放っていた次の矢がその隙を狙ってくる。 「二本同時だと! うおおおお!」  馬超の平行気味な移動を予測して狙っていたのだろうか、二本目の矢が彼女に迫る。だが、馬超は半身になるよう体を捻り、ぎりぎりのところで避ける。  間髪を入れず、夏侯淵は次の矢を射かけようとするのを視認し、馬超は体を横に倒れるように傾け、そのまま馬の横腹に座るかのような姿勢を取る。  彼女の急な行動に夏侯淵が呆気にとられてしまう隙を馬超が付く。 「隙有りだぜ!」  馬超が低い位置から銀閃を横凪にし、夏侯淵の乗る馬の足を払う。  転倒する馬に振り落とされて落馬した夏侯淵が地面を転がっていく。そのときに舞った土埃に眼を細めながらも馬超は彼女に迫ろうとする。  夏侯淵が、落馬の衝撃や反動に顔を歪ませながらも直ぐに立ち上がってみせる。  だが、馬超や公孫賛が彼女に向けて馬を進めているのだから、夏侯淵にはもう逃げ場はない。  より近い位置にいた馬超は、夏侯淵の前で馬を止める。 「ここまでだぜ、夏侯淵!」 「お前を逃がさず捕えたとなれば、戦況も大きく変わるというものだな」  公孫賛も近づいてくる。矢で射抜けるかとも考えたのか、夏侯淵が矢を向けようとするが、護衛が上手く公孫賛の盾となっているようだ。  一矢報いることも適わずにこのまま捕縛されるのかと思うと口惜しくてならないのだろう、夏侯淵は顔を歪ませている。 「く、もはやこれまでか……」 「秋蘭さまー!」  声の方を馬超が振り返る。  遠くから、公孫賛隊の兵達を振り払い、かき分けるようにして、一人の少女が馬を駆って割り込んでこようとしているところだった。  †  豆粒くらいだった姿を夏侯淵がはっきりと視認できるくらいの距離まで少女が来たところで、馬超がその少女に一閃を向ける。 「邪魔させるかよ!」 「……相手をしてる場合じゃないんです!」  馬超の銀閃を伝磁葉々で受け、典韋は夏侯淵の元まで突っ込んでくる。  そして、彼女に向けて典韋が片手を伸ばす。 「すまない、流琉!」  夏侯淵は機を逃すまいと少女の手でなく腕をしっかと握る。 「いえ、これくらいのことは平気です!」  許緒と遜色ない怪力を誇る典韋はあっという間に夏侯淵を馬上へ引き上げ、自分の後ろに座らせる。  そのまま夏侯淵、典韋らは麾下に守られるように隊の中へと混じっていく。  命拾いをしたことに軽く安堵の息をこぼす夏侯淵が典韋の背中に訊ねる。 「流琉よ、助かったのはいいが。華雄の方はどうしたのだ?」 「あ、その……秋蘭さまにご変ありと見たので……そのぉ」  先ほどの勇ましさはどこへやら、典韋が眉尻を下げる。  夏侯淵は苦笑をすると、典韋の肩に手を置く。 「私の身を案じてのことだ、大いに感謝しているぞ」 「あ……はいっ」  典韋は叱咤されるとでも思っていたのだろうか、一瞬きょとんとした後、嬉しそうに顔を綻ばせる。  すこし和らいだ空気を引き裂くように、怒号が背後から近づいてくる。 「待てぇ! 夏侯淵、典韋! お前ら、あいつを逃すなよ!」 「ここで討っておくにこしたことはない! 皆、尽力せよ!」  馬超や公孫賛の追撃の号令と、それに応じる兵達の声が獲物を前にした獣の咆哮のごとく曹操軍の兵達の士気をくじかんとしている。  夏侯淵は弓矢を改めて構え直し、追撃部隊を少しでも排除しようと矢を放ち、敵兵を射貫いていく。  そのとき、別方向から来た隊が夏侯淵たちの元へと駆け寄ってくる。 「伝令! 体勢が崩れている以上、立て直しが必要と本隊は判断した模様。故に直ちに本陣へと引き返すように、とのこと!」 「帰陣か……まあ、やむを得ないだろう。全隊へと告ぐ。直ちに本陣へ撤退せよ。後ろは気にするな、一人でも多く逃げ切るのだ!」  伝令兵からの報告を受けた夏侯淵は兵達にそう言うと、典韋に馬を早めるよう促しつつ、自分は少しでも残存兵数を多くしようと後方への射撃を行うのだった。  †  夏侯淵たちの元で戦況がひっくり返るより少し前のことである。  冀州で既に戦況がひっくり返っていた。  李典隊の隙をついて兵器運用の遅延と、該当隊への攻撃を行った袁術隊が、あっという間に逆転されて一転窮地へと追いやられた後のこと。  兵達はもちろんのこと、李典も袁術を追い込んでいた。  風に舞う草や砂を気にとめることなく、李典は袁術の小さく頼りない後ろ姿を追いかける。 「なははは、ここまでやな。袁術!」 「ひーっ、助けてたも、七乃ぉー!」  風に乗り流れてくる袁術の涙。李典はそれを払いのけるように螺旋槍を地面へ向けて突き出す。  堅い大地が大きく抉れ、袁術がその衝撃で前方へと転ぶ。 「あうっ」 「きゃあああ! お嬢さまー!」  未だ遠くにいる張勲の悲痛な叫びがこだまする中、李典は笑みを浮かべながら袁術へと歩を進めていく。 「さて、もうここまでやな。流石にちぃっとばかし、おいたが過ぎたなぁ、自分」 「ひ、ひぃぃぃ、妾に何をする気じゃあ!」  がたがたと震えている袁術が涙で濡れた上目で睨んでくる。  李典はにたりと意味ありげな笑みを称えて、袁術を見下ろす。 「そらぁ、オシオキやろうなぁ。なんなら、ウチの絡繰りの実験台にでも」 「いーやーじゃー! そんな怪しげなこと容認できるわけがなかろう!」 「あんたには選ぶ権利はあらへんのや。さあ、覚悟せい!」  ぶんぶんと首を振っている袁術に向けて、とどめを刺そうと一歩を踏み込む李典の前に黒い影が瞬時に割り込んでくる。  あまりの衝撃に、李典は後ろへ倒れ尻餅をついてしまう。 「あつつ、急になんや……?」  獣でも飛び出してきたのかと見ると、そこには一人の少女が立ち塞がっていた。  方天画戟を片手に、考えの読めない瞳を李典に向けたままの少女。 「美羽は恋の友達。だから……させない」 「な、なななっ。あ、あんた……呂布!」  褐色の肌に紅色の髪、間違いなく呂布だった。曹操軍は彼女を要注意人物として考え、戦場への到来を恐れ、だからこそ呂布が来る前に戦を終結させようとしていた。  その当人が、呂奉先が今、李典の前に佇んでいる。 「どういうことや……報告じゃ、こんなすぐに来られるはずは……」 「大きな兵力を率いなければ早いってねねが言ってた」  強烈な一振りで李典隊の兵達を現実離れした勢いで吹き飛ばしていく呂布が汗一つ掻かずに平然と言う。  少数で速度重視でここまで来たのかと李典は辺りを見渡す。 「た、確かに兵数は増えとらんな……といっても」  袁術が連れてきた兵達が呂布の到来で士気向上し、勢いを取り戻している。そのため敵兵たちに李典隊が非常に圧倒されてしまっている。  李典はごくりとつばを飲もうとするが、のどに引っかかり上手く飲み込めない。張り付く喉を振るわせ、彼女は後退しながら全員に向けて叫ぶ。 「あかん! 呂布が来てもうた以上、ここに留まっとるんは非常にあかんで! 一端引くんや!」  そう言って、李典は消耗した隊を率いて撤退を開始する。  彼女の隊は敵の部隊を兵数で圧倒しているわけではない。更に、かつて都を守るために一人で黄巾党数万人を追い返したという呂布が現れてしまった。  どうひいき目に見ても李典には勝ち目が感じられない。 「逃がさない……美羽の連れてきた兵、借りる」  呂布が袁術にそう言って、袁術隊をつれて追撃の態勢に入る。  それに対して、またケロッと表情を変えた袁術が呂布に向けて両手を振って見送る。 「う、うむ。構わぬのじゃ! 恋よ、思いっきりやってやるのじゃー!」 「美羽は戻るといい……。呂奉先、推して参る」  台風のような呂布によって意気消沈してしまった李典隊。それを呂布隊が意気軒昂な様子で追いかけてくる。  まさに涙目に蜂といった状況に、李典は止めどなくあふれてくる汗を拭う。 「くそう、なんでこないなことになってしもたんやー!」  † 「ちいっ、やっぱり一筋縄じゃいかんなぁ」  飛龍偃月刀を持っているのとは別の手で額の汗を拭いながら張遼は目の前の武人を睨む。 「ふ、それは貴様もだろう。関羽といい……着実に腕を上げているとはな。どこまで伸びるのか興味は尽きぬな」  七星餓狼の切っ先を張遼に向けて警戒をしたまま夏侯惇が口端を上げてにやりと笑う。  突破をはかる張遼を通さず、かといって押しつぶすには至らず、そんな状態の中二人は己の武力を見せ合っていた。 「貴様以外の将は皆、まいっていそうだが……よくもまあ、戦意が持続するものだ」 「確かにあんたんとこの軍師の策で窮地やけど……あんたとて、もし同じ状況になったのならウチと一緒のはずやろ?」  自軍の敗色が濃厚となっているにも関わらず張遼は不適に笑う。彼女の闘志の炎は最後の最後、燃え尽きるまで勢いを落とさないのだろう。  確かに張遼の意志の強さに通ずる者が自分にあることは夏侯惇もわかる。 「ふ、それもそうだな。なら、その強固なる闘志を叩きつぶせたとき、わたしは更に強くなる!」 「言うやん。せやけど、ウチとて負けられへんのや。あいつのためにも、ちゅーか、あいつともう一回会うためにもなぁ!」  張遼が咆哮する。周囲の空気がびりびりと震え、夏侯惇の肌もぴりついてくる。 「たいした気迫だな。しかし、それでもこの夏侯元譲を打ち破ることはできぬ!」  七星餓狼を下段に構えた夏侯惇は大地を蹴り、張遼へ向けて突進する。  数歩分の距離を飛ばすように跳び、張遼の懐へと入り込み、七星餓狼を下から上へ振り上げていく。  張遼は上体を反らし、すんでのとこでそれを躱す。胸のサラシに僅かな切れ込みができるが張遼の肉体にはなんら支障はない。 「ホンマ、勢い頼りな攻撃やな。もっとも、惇ちゃんらしゅうてけっこうなことやけどな」  そう言って不敵に笑ってみせる張遼の頬を一筋の汗が流れ落ちる。  その汗が地面に滴り落ちる前に、張遼が素早く後方へ飛び去る。  夏侯惇は七星餓狼を引き寄せると、大きく息を吐き出す。 「余裕があるような態度だが……その実はぎりぎりなようだな。張遼」 「へへ、そんなことはあらへんよ。ウチはまだまだ元気満々や」  軽口をたたき合いながらも互いを強敵と認識している二人は、対峙したまま次の一手について思考を巡らせていく。  乾いた風が汗で濡れた肌を乾かしべたつかせるが、夏侯惇はそんなことなど一切気にはせず、張遼だけをじっと見据える。  そんな折、戦場を流れる風がざわつきはじめた。 「うわぁぁぁぁぁ!」 「に、逃げ、逃げろ!」  兵達の悲鳴混じりの声がじわじわと辺りを浸食し始めたのである。  何事かと夏侯惇は瞳を動かして声の発信源と思われる遠くの方を見やる。 「公孫賛軍を追い込んでいた両翼に異変でも生じたのか? 何事だというのだ」  そうそう状況が変わると言うことなどないと程cからも言われていた。そのため夏侯惇はこの急変を訝しむ。  何故か張遼も首を傾げているため、公孫賛軍が図った策というわけでもなさそうだ。 「おい、張遼! 貴様たちの仕業ではないのか、あれは!」  夏侯惇は七星餓狼の切っ先を向けて、張遼をきっと睨み付ける。  張遼はそんな彼女に対して肩をすくめてみせた。 「知らへんよ。ウチだって知りたいっちゅうねん」 「ぐぬぬぬ……まあいい、貴様との勝負に支障はあるまい」  そう言って夏侯惇は意識を張遼のみに向ける。だが、張遼の元に兵が駆けつけたため、空気がしらけてしまう。  張遼は兵士に何か言われると「なんやて!」と声をあげた。 「それ、ホンマか!」 「え、ええ。なので、ここは他の隊と足並みを揃えて欲しいとのことです」 「むーそか。まあ、しゃーないか」  子供のように眉尻を下げて口をとがらす張遼は、盛大にため息を吐くと夏侯惇の方を見る。 「悪いな、惇ちゃん。またもや、あんたの相手してられそうにないみたいや」 「は? 何を言っておるのだ」  意味がわからず夏侯惇が眉を顰める。  張遼は苦笑を浮かべながら踵を返して、後退していく。 「まあ、なんや。もし、あいつとやりおうて無事やったら、いずれまた一戦交えようや。じゃ、達者でなー」 「あ、おい! こら、せめて答えてから動け! く、こうなったら追撃……だ?」  すぐに張遼の後を追いかけようとする夏侯惇だが、両翼を務めていた許緒と于禁が戻ってくる姿を見つけて立ち止まる。  やってくる二人を夏侯惇は交互に見やる。両者ともに慌てた表情をしている。 「春蘭さま、大変なのー!」  半泣きの様子で于禁が駆けてくる。  その反対から夏侯惇の方へ向かってくる許緒は困惑を顔に出している。 「あれじゃあ、ボクたちの隊も長くはもちそうにないですよー」 「季衣に沙和、何があったというのだ!」  夏侯惇が二人に尋ねると、于禁が悲鳴気味に答える。 「呂布なのー!」 「なに!? 呂布だと! まさか、こんなに早く来るとは……」  夏侯惇は苦虫を噛み潰したような顔をする。  もう少し時間的猶予があると曹操軍では考えられていた。それだけに今呂布が訪れた事は混乱の源となってもおかしくはない。 「仕方ない。季衣、沙和……お前らは隊を纏め直したら逃げてくるだろう真桜を拾ってやれ。それが済んだら一度退却して風の判断を仰げ!」 「了解なのー!」  夏侯惇の指示に于禁が背筋を伸ばして頷く。 「でも、春蘭さまは?」  兵を集結させながら許緒が訊ねる。  夏侯惇は、迫り来る一団を睨めつけながら、許緒に言う。 「わたしは、殿を務める! 呂布の相手ができるとしたら、この夏侯元譲のみだろうからな」 「それならボクも!」  許緒がかわいらしいくりっとした瞳で夏侯惇を見つめる。  夏侯惇は首を振り、その申し出を拒否する。 「ならん。今は一人でも多くの兵を本陣に帰すことが大事なのだ。華琳さまの兵力、無駄に削らせるわけにはいかん!」 「それはそうかもしれないけど……」  許緒は納得できないようだ。  そんな彼女の頭を于禁が撫でながら宥める。 「季衣ちゃん、春蘭さまを困らせてはだめなのー」 「ここは春蘭さまの願いに応えるためにも兵を素早く引き下がらせるべきかと」  いつの間にか楽進が後続から合流してきていたらしく、于禁同様に申し立てる。  友人の存在に気づいた于禁が高めの声をあげる。 「あー、凪ちゃん!」 「こちらにも伝令が来た。恐れていた呂布の到来とは……春蘭さまにお任せして、我らは直ぐに引こう」  楽進は于禁にそう言って、それから許緒へと視線を向ける。  夏侯惇を心配そうに見ながらも、許緒は静かに頷く。 「うん……わかったよ」 「二人とも、季衣のことを頼むぞ」  夏侯惇はそう言うと、撤退を開始して後方へと流れていく兵士の川をさかのぼり、自分たちの方へと向かってこようとしている呂布へと向かっていく。 「呂布ー! わたしと勝負しろ!」 「…………?」  きょとんとした表情で首を傾げる呂布。  夏侯惇は七星餓狼を改めて握り直し、肩に担ぎ上げると片方だけの瞳で呂布を睨み付ける。 「折角の関羽との戦闘を妨害したこと、忘れたとは言わせんぞ!」 「妨害……?」  呂布が鋭い刃物のような瞳を小動物のようにぱちくりとさせる。  周囲の喧噪がウソのように静かな空気が流れる。 「……ま、まさか。本当に覚えていないというのか?」 「覚えてない」  こくりと頷いてみせる呂布に夏侯惇は妙に脱力する。  夏侯惇は全身をわなわなと震わせる。 「あのなぁ……お前らの主やら袁術やらのことがあった徐州の一件の際、関羽とわたしの間に入ってきたではないか」 「……?」 「ええい、思い出せ。劉備が華琳さまを裏切り逃亡したときのことだ!」 「そういえば……愛紗を止めた」  ようやく思い出したのか小さく頷く呂布。ただ、表情には変化が余り現れていないため本当に思いだしてるのかは疑わしい。  しかし、夏侯惇には表情よりも気になることがあった。 「なんだ、それは関羽の真名だろう? いつの間にか、それ程親密になっていたのか?」 「そうだけど……そうじゃない」  弱々しい声でそう言った呂布の表情は悲しみと憂いを帯びたものだった。  夏侯惇は眉を顰めながらも困惑する。 「な、何もそんな泣きそうな顔をしなくてもよかろう!」 「……うん」 「はぁ……もういい、余計な話はやめだ。それより刃で語り合おうではないか」 「わかった。恋、ご主人様の敵には容赦……しない」  表情を一変させ、鬼神のごとき気迫を放つ呂布だが、方天画戟を持つ手はぷらぷらと自由にしている。  構えをとらない相手に夏侯惇は若干かちんとくるが、こらえる。 「構えを取れ! さもなくば、どうなっても知らぬぞ」 「大丈夫。恋はやられない……それに、夏侯惇相手に本気を出しちゃだめ」  再び悲嘆めいた色を瞳に称えながら呂布が首を横に振る。  ますます夏侯惇の苛立ちは募る。 「貴様、わたしを馬鹿にしているのか……?」 「そうじゃない。きっとご主人様は……望んでないから……」  ふるふると呂布が首を左右に振る度に彼女の紅色の髪が揺れる。  夏侯惇は呂布の言っている意味がわからず顔を顰める。 「公孫賛がか? まったく意味がわからんな」 「違う」 「何が違うというのだ」 「恋のご主人様は白蓮じゃない……」 「はぁ? しかし、貴様は公孫賛軍の将なのだろう?」  ますます意味不明な呂布の言葉に夏侯惇の頭は疑問符でいっぱいになる。  そんな彼女を呂布がどこまでも真っ直ぐな瞳で見つめる。 「恋のご主人様は……北郷一刀だけ」 「北郷? ああ、あの天の御遣いとやらか。ふ、貴様のような手の付けられなさそうな存在を手懐けるとは……ただものではないのか」  呂布からこれだけ思われているということは、それなりに信望のある者なのだろうと夏侯惇は思う。  何故か、彼女は少し北郷一刀に興味を持ったがそれを表に出すことなく七星餓狼を呂布に突きつける。 「貴様が本気で来る気がないのはわかった。そのことは北郷一刀に会う機会があれば、そのときにでも問い詰めるとしよう」 「……そう」 「だが、今はそんなことはいい。とにかく、わたしはお前を討つ。それだけだ!」  夏侯惇は吠える。殺気も含めた闘気を放つ。 「それもご主人様は望まない……だから、負けない」  呂布も目つきを鋭くさせて、夏侯惇の闘気を正面から受ける。  まったくひるまないあたりはさすがだと思いながら夏侯惇は呂布へと突っ込む。 「舐めた戦いをしようとしている者に勝利などあるはずがなかろう!」  七星餓狼を振り上げ、振り下ろす。その動作を一拍の間にこなす夏侯惇。  だが、呂布の目にも見えない腕の動きによって振り回された方天画戟により刃が弾かれる。 「違う。夏侯惇のことを舐めてたりはしない……恋なりに全力」 「嘘をつけ! うおおおおおっ!」  親の敵のように呂布を睨み付けると夏侯惇は七星餓狼による乱撃をする。  だが、そのどれもが方天画戟に防がれてしまい、呂布へは届かない。 「くそっ! 何故だ、どうして貴様を超えることができんのだ!」  夏侯惇の中に自分に対する不甲斐なさと焦燥が沸き上がる。  目の前の大きな壁を越えられると自信を持っていたのに、それが崩れ去ってしまった。 「ぐ……くそぉ! だあああああっ!」  激情に身をゆだね夏侯惇は呂布へと飛びかかる。  何合も、何十合も打ち合うが、呂布は汗一つ掻かず、表情を崩さない。  必死な形相で汗だくになりつつある夏侯惇とは真逆である。  そして、終わりのないようにしか思えない戦闘が続き、百合近く交えた頃、楽進が彼女たちの方へと駆け寄ってくる。 「全軍の撤退完了! 春蘭さまの部隊もすぐにお戻りください!」 「そうか、凪。お前がわたしの隊の兵をつれて行け!」  楽進の方をまったく見ずに夏侯惇はそう言い放つ。  夏侯惇の気持ちは呂布に向けられたまま揺らぐことがないのだ。 「それでは……春蘭さまはどうなさるのですか!」  楽進が一際大きな声で叫ぶ。  夏侯惇はそちらをまったく見向きもせずに答える。 「わたしは、ここでこいつらの足を止める!」  七星餓狼を構え直し、呂布とその麾下を睨み付ける。  楽進の動揺する様子を背中で感じ取り、夏侯惇は強めに言う。 「さっさと行かんか! わたしも必ず遅れて戻る!」 「くっ……必ず、お戻りください。皆、私に続け、本陣へ引く!」  苦渋に満ちた声でそう言うと、楽進は夏侯惇隊の兵達を率いて撤退を開始する。  それを見送ることも一切せず、夏侯惇は正面を見据える。 「待たせたな、呂布」 「……逃げなくていいの?」 「ふっ、構わぬ……代わりに、貴様らのうち誰一人として先にはいかせん!」  夏侯惇は猛獣のように雄叫びを上げる。  敵の兵卒や将兵らの多くは身がすくんだのか尻込みするが、呂布だけは微動だにしない。 「やはり、恐るべきは呂布。ならば夏侯元譲、たとえこの身が朽ち果てようと華琳さまの覇道の妨げとなるであろう貴様をここで討つ!」  あまりに圧倒的すぎる呂布の存在は、紛れもなく本物。  後々、主である曹操を苦しめる存在になるは必定、そう思い夏侯惇は自分の命すらなげうつ覚悟で呂布へと立ち向かう。  そのときだった、彼女の上空から網が投下されたのは。 「皆の者、夏侯惇を召し捕るのですー!」 「んなっ!?」  網に気づくが時既に遅く、夏侯惇は網に絡め取られてしまう。  乱れる視界の中、確かに見えたのは何故今になって現れたのかはわからないが、まぎれもなく呂布と共にある軍師、陳宮だった。  †  冀州で終止符が打たれようとしていた頃、徐州でも戦の勝敗が決しようとしていた。  馬超、公孫賛らの追撃によって蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う曹操軍の姿が戦の終焉を物語っていた。  そんな中、本陣まで押し寄せんとする彼女たちの前に曹操が姿を見せた。 「随分とやってくれたわね、公孫賛」 「ふん。お前こそ、随分とあれこれ手を尽くしていたようだな」  余裕の中に僅かな憤りを滲ませる曹操の言葉に公孫賛も負けじと力強く応じる。  そんな彼女に眼を細めると、曹操は軽く鼻で笑い、次に眼を開いたときには馬超を一瞥していた。 「それよりも、そこにいるのは馬超よね。私が幻でも見てしまう程に気が参っていたりしてなければ」 「ああ、そうだ。あたしは馬孟起、既にお前とは顔は合わせてるだろ?」  馬超が自分を忘れたのかと憤然とした表情になる。  だが、曹操はそれ以上に憤怒の色を露わにして馬超を問い詰める。 「西涼の錦馬超がここにいること事態がおかしいけれど、何より……西涼はこの曹孟徳の麾下に加わったはず、それが何故刃を向ける!」 「そうだな。西涼はお前との戦に負けて降ったのは確かだろうさ。だが、あいにくだったな」  馬超は刺し貫くような刺々しい曹操の視線をものともせずに胸を張る。 「あたしは、もう西涼の錦馬超じゃない。北郷一刀の盾であり刃となることを決めた馬孟起!」 「そ、そうだったのか……」  公孫賛は馬超の参戦理由を知り、ぽかんと口を大開きする。  それを見逃さない曹操が呆れた顔をする。 「公孫賛、貴女……味方でありながら知らなかったの?」 「う、うるさい! なんの連絡もなしにこうなったから知る術などなかったんだよ!」 「結果が存在するのならば、その過程も存在するはずなのだからわかりそうなものでしょうに……」  曹操は、肩をすくめてやれやれと首を振ると、再び馬超の方を見やる。 「馬超、貴女の言い分は理解したわ。本来なら涼州にいる者たちに処罰を与えてもよいのだけど、貴女とは無関係である、ということにしておいてあげるわ」 「そうかい。そりゃ、ありがとうよ。だが、どっちにしても曹操、お前はここであたしに討たれる運命なんだ!」  馬超が銀閃を構え、曹操へと向かおうとする。  だが、彼女は数歩進んだところで牽制するように飛んできた矢によって行く手を遮られてしまう。  曹操の側に控えていた夏侯淵が馬超を睨み付け、目で威嚇している。 「我が主への狼藉は、この夏侯妙才が許しはしない」 「まあ、なんにしても。ここは引いてあげるわ、色々とあの男にひっくり返されてしまったようだからね」  己の負けだというのに悔しさを微塵も見せず、それどころか笑みを口元に称える曹操は、馬を返して公孫賛達の元を離れていく。  その際、彼女は公孫賛へ向けて言葉を残していく。 「ここで私の追撃をしようとするか、孫権に飲み干されかねない、あの男たちの救援に向かうか。よく考えることね」 「やっぱり、お前と孫権は手を結んでいたか!」  公孫賛はそう叫び、曹操を追いかけようとするが彼女の護衛に邪魔をされてそれも不可能となってしまった。 「ただ手を結んだというわけでもないわ。もっとも、そちらからすれば同じことでしょうけどね。それじゃあ、また会いましょう」  その言葉を最後に曹操の姿は群衆の中に紛れてしまい、公孫賛たちは彼女を見失ってしまうのだった。  撤退を素早く行う曹操軍。  それを前にしながら公孫賛は全軍へと振り返る。 「これ以上の深追いはするな!」 「なんでだよ。もう少しで曹操を……」  馬超が納得がいかないといった様子で公孫賛に尋ねる。  公孫賛はただ静かに首を横に振り、落ち着き払った声で答える。 「予測でしかないが、あいつは余力を残してる。なら、無理に追撃をするよりは一刀の救援に向かった方がいいだろう」 「そうか。まあ、いいか。孫権軍との衝突の方が開始は後みたいだしな。そう考えたら、向こうの方が厳しいかもしれないし……それじゃあ、先にあたしは行くぜ!」 「ああ、華雄たちの率いる歩兵隊が既に向かっているはずだから合流してくれ。すぐに私たちも向かう」  公孫賛の言葉に片腕を挙げて応えると、馬超は即座に騎兵隊を率いて反転し、徐州小城のある方へと逆走し始めた。  自分に手をさしのべてくれた存在、何故か気になってしょうがない少年に対する想いを馳せながら。