「無じる真√N82」  公孫賛軍の拠点、その城壁の上に袁紹は顔良と共に上っていた。  丁度、もう何度目になるかわらかない攻城戦をしかけられ、様子を伺っているところだった。  桃色の髪を頭の左右で結っている小柄な少女、許緒が馬鹿の一つ覚えのように攻めて来ている。  それを目視すると、顔良がお決まりの迎撃をするよう支持を与え、袁紹のもとへと来る。 「今回は、許緒さんが攻めてきてるみたいです」 「しぶといですわね……まったく」  袁紹はやれやれと肩をすくめて首を振る。城壁は地上より遙かに高いため風が少し強く、彼女の髪を揺らす。  普段なら袁紹も今吹いてるような風や日差しを多少なりとも気にするところだが、現在は髪のことなど考えてる余裕などない。  もっとも、それ以前にここのところまともに手入れも出来ていないため、今更髪の乱れなど気にしても仕方ない。  むしろ、今、彼女が最も気にしているのは目の前の脅威である。 「やはり交代で攻めてきておりますわね。どの方角からかもわからない、誰が出てくるかも予測不能……ホント面倒ですわね」  連日のごとく攻撃を仕掛けてきている曹操軍を見下ろしながら、袁紹はため息を零す。 「補給線が経たれていないということですよね。七乃さん、失敗したんですかね」  顔良が袁紹同様に敵軍の様子を伺う。 「そうかもしれませんわね。まあ、そうでなかったとしても、もう、それを頼りにしている場合ではなくなったのではなくて?」 「どういう手を使うか、ですよね……せいぜい、例の簡易投石機を急造したくらいじゃまだまだでしょうし」  防衛のために、袁紹たちはかつて自分たちを崩壊へと導いた兵器の簡易型を作成していた。  公孫賛のところにあったものよりは一回り以上小さく、遠投距離、積載量の制限も異なり、威力は格段に落ちてしまうのが欠点だった。  そして、その敵を蹴散らすには威力が欠けているというのが苦しい戦況を長引かせる結果に繋がっていた。 「猪々子の方はどうですの?」 「何度か補給物資を運ばせてはいるのですが、敵の襲撃を受けることもしばしばで」 「まともには行き渡っていないんですのね?」  袁紹は、一通り拠点の周囲を見回すと敵の放つ矢の標的とならないよう身を隠す。  顔良もそれに併せて身を潜める。 「はい。報告に寄れば、少しは成功してるようですけど……」 「参りましたわね……補給が滞れば、猪々子の遊撃数も減っていく一方でしょうし」  食は士気に直結で繋がってくる。特に文醜の場合はそれが顕著だと袁紹は思う。 「どうしたものかしらね」 「どうしましょう……このままじゃじり貧ですよ……」  顔良と顔を合わせて盛大にため息を吐く。  そこへ、一人の兵士が慌てた様子で城壁へと駆け上ってくる。 「が、顔良将軍! 袁紹さま! 西門の方に曹操軍の別動隊が押し寄せてきています! 旗からして楽進と思われます!」 「なんですって、同時攻撃を開始してきたんですの!?」  なんとなく、交代制に思考が固定されていた袁紹は言葉を失う。  顔良も報告を受けて厳しい表情を浮かべている。彼女は顎元に手を当てて考え込み始めた。 「そんな……防戦で士気も落ち気味なのに、いい加減厳しくなってきちゃう」 「簡易投石機では限界もありますし……城壁からの攻撃と連携して打って出ることも必要かもしれませんわね」  袁紹は頬に手を添えながら曹操軍を一瞥する。  長期戦狙いである以上、無駄な兵力損耗は命取りとなりかねないが、そうはいってられない状況である。 「そうですね。それじゃあ麗羽さま、こちらの指揮はお願いしますね」  顔良がにっこりと微笑みを袁紹へと向ける。  袁紹ははっとなって顔良の顔を見つめる。 「斗詩さん、貴女まさか……」 「はい。もうこれ以上文ちゃん一人に負担をかけるのも気が引けるので、敵の牽制は私が引き受けます」  顔良は微笑みを称えたまま、城壁を降りていく。 「隊の準備、してきますね」 「斗詩さん!」  袁紹は慌てて城壁の階段へと駆けていき、顔良へと声を掛けた。  一段一段歩を進めていた顔良が立ち止まり、上体だけ振り返る。 「なんですか、麗羽さま?」 「必ず戻ってくること。いいですわね!」 「はい! 文ちゃん共々、ちゃんと麗羽さまの元に戻ってきます」  はっきりと言い切ると顔良は袁紹から顔をそらし、再び歩き始める。  袁紹は空を仰ぐ、さんさんと降り注ぐ日差しが眩しい。  顔良も自分も……そして、恐らく文醜も、あの太陽のような人のために全てを振り絞っているのだと袁紹は思う。 「あの馬鹿男……つくづく罪作りですわね」  †  公孫賛軍の拠点の周りを移動しながら遊撃を行っていた文醜。現在、彼女とその部下たちは西門から南門にかけての移動中にその足を止めていた。  この戦が始まってから大分経過したが、この間に文醜隊は酷く消耗していた。  連日のように遊撃を実行しているが手応えが感じられず、そのうえ補給が上手くいっていないためである。  共に行動している兵たちも、皆一様に生気が感じられなくなっている。  装備や包帯などに汚れやシミがついているが、もうそれを気にして交換したりすることもままならない。気力的にも備品的にも。 「くっそぉ……敵の拠点は見つからないし、逆にこっちの位置はばれるし。ついてないぜ」  拠点に攻撃をしかける部隊にちょっかいを出しても拉致があかないと考えた文醜は、交代要員の待機している陣を叩く賭けに出て、ずっと探しているのだが一向に見つからない。  そして、そうこうしているうちにまた本日の拠点攻めが開始されてしまっていた。 「……あれ? 西門から出てるのあれって。斗詩?」  文醜は彼女のよく知る人物が歩兵を率いて曹操軍の楽進隊と激突しているのを遠目に目撃した。 「たしか、南門をずっと攻められていたはずじゃなかったのかよ。くそっ! 全員しっかりしろ! こうなったら、あたいたちも拠点を攻めてる敵をつっつくぞ」 「しかし……文醜将軍。兵たちの気力もそろそろ底をつきます」  よろよろと近寄ってきた副長がそう告げる。  だが、文醜はそんな相手をきっと睨み付けると声高らかに言う。 「ここが踏ん張りどころだ! 西門の相手を斗詩がする。なら、南門はあたいらの役目だろ!」  文醜は、そう言って拳を振り上げるが、やはり兵たちの反応は鈍い。 「よく聞いてくれ。南門のやつらを今日は蹴散らすまで粘れ。そうしたら、一度拠点に戻って補給だ!」 「補給……交代も?」  兵たちの間にどよめきが起こる。極限まで追い込まれた彼らにとって、文醜の言葉は非常に魅力的なのだろう。いや、むしろ蠱惑的ですらあるかもしれない。 「ああ、モチロンだぜ!」 「おおっ」  兵士たちの声に僅かに力が宿る。希望を持ち始めたのだろう。  文醜はそんな様子は特に気にせず、続ける。 「いいか、だから。あたいの賭けにお前らも一緒にのってくれ!」 「構いませんとも! なあ、みんな!」 「おおーっ!」  一斉に腕を掲げ、気合いを入れ合う兵士たち。  その様子に満足した文醜は、先頭に出て、先陣を切らんとばかりに飛び出ていく。 「よっしゃ、あたいについてきやがれー!」  一隊を率いて、曹操軍の隊を横合いから攻撃を開始する文醜隊。  急激な攻撃に曹操軍……楽進隊は動揺しているようだ。しかし、幾度も繰り返してきたことだからか、すぐに対処してくる。 「敵の遊撃だ! 左翼は転身、すぐにやつらの足を封じろ!」  楽進が、全体へと叫び指示する。  その隣に居た、小柄な少女が文醜の方へと向かってくる。 「いっちーの相手はボクがするよ! 凪ちゃんは、城攻めを続けて」 「おっ、くるか。きょっちー!」  突出してくる許緒と文醜は対峙する。二人は敵対する軍にいながら、何故か親しみを持ち始めていた。  互いの武勇を認めてか、はたまた気が合うからか……。 「向かってくる敵を突破ってのは流石にちょいと厳しいかもな。だけど、お前らならできる! だから、城攻めを続ける部隊へたどり着け!」 「おおー!」  無謀とも取れる文醜の呼びかけに兵士たちは勢いを増していく。  ここで多少の無理をしたとしても、城壁上の味方がいる。そして、西門を攻めている部隊は顔良と交戦中で背後を取られる心配も無い。  今はただ前進することだけを考えればいい。これは、文醜にとって最も性に合っている状況である。  兵卒の突撃を後押しする文醜は、迫り来る許緒へと視線を定め、目の前の武将に集中する。 「いっちー。今度こそボクが勝たせてもらうよ!」  剣玉の様な取っ手と、そこから棘つきの巨大な鉄球へと連なる鎖を手に持って岩打武反魔を構える許緒。  それに対して、不適な笑みで返す文醜もまた、斬馬刀のごとき大剣、斬山刀の持ち手を強く握りしめる。 「へっ、それはあたいの台詞だぜ! 今日こそ、決着をつけてやるぜっ」  二人の間に火花が飛び散る。拮抗した者同士であると考える文醜は強敵と相対することに軽い興奮状態になっていく。  抑えきれない熱を噴出するように文醜は大地を蹴り飛ばして、許緒へと突進する。 「おらぁぁぁぁ!」 「へへん、返り討ちだねっ」  許緒は自分へと向かってくる文醜に対して笑みを浮かべると、棘つきの鉄球を勢いよく投げつけてくる。  文醜は尋常ならざる速度で迫る鉄球をかがんで避け、さらに前進する。  射程範囲内に許緒をとらえると、文醜は力強く一歩を踏み込み、斬山刀を振り上げる。 「うっしゃおらぁぁぁぁぁぁ!」  そして、雄叫びとともに勢いよく許緒へ向けて振り下ろす。  だが、許緒は鎖で斬撃をいなすと後方へと飛び去る。 「へへっ、さすがの一撃だね、いっちー。でも、ボクの方が上手だったみたいだね!」  許緒が力任せに鎖を引き寄せる。それに連動して、文醜の背後から棘つき鉄球がせまる。 「うおっ!? あぶねぇな、ちくしょう」  文醜は、すんでの所で右へ跳躍して鉄球を交わし、勢いを殺すように数回転した後、立つ。  鉄球を手元にたぐり寄せた許緒が、軽い舌打ちをする。 「うぬぬ……やはり、いっちーは一筋縄じゃいかないみたいだね」 「当然だぜ。これでも袁紹軍で一二を争う武力を誇ってたんだ。あたいを舐めてもらっちゃ困る」  お互いに認め合い続ける二人。  この激戦がまだまだ続くだろうということを彼女たちの拮抗具合が物語っていた。  †  拠点城壁上で怒号のごとく指示が飛び交う中、袁紹は南門と西門から攻め込んでくる曹操軍を見下ろしながら闊歩していた。  普段は一方向からの攻撃だったが、今日になり二方向。流石に慌ててしまったが、今は顔良が出ていることで一先ずの安心はしていた。  また、南門側を攻めてくる曹操軍の向こうに見える土煙と喧騒は恐らく文醜の隊によるものだろう。 「猪々子も奮起しているようですわね」  袁紹は、左手で右肘を支え、右手の指を金髪の巻き髪に絡ませながら周囲の観察を続ける。  と、そこへ副長が血相を変えて駆け寄ってくる。 「え、袁紹さま! 東門へ敵の別動隊が迫ってきています!」 「なんですって! 南、西……更に東までとはどうなってますの」  連日、南門のみを目標と定めて攻撃を続けていた曹操軍が、今日になって急に三つを同時に攻め込んでくることは、流石に袁紹の予想の範疇を超えていた。  だが、慌てふためいてもしかたないと彼女は、流れ矢に気をつけつつ、すぐに東門側の城壁へと移動する。 「一体、今度は誰ですの?」 「旗印は李……李典と思われます」 「南門に楽進、許緒、西門に于禁。そして、東門に李典ですの……」  四方とは言わないまでも、南門は楽進のみが今は攻撃を受け続けており、西門の于禁は顔良がどれだけ持つかによるだろう。  かなり逼迫した状況となってしまっている拠点に、更に東門から李典が今こそその時とばかりに進軍して攻撃を仕掛けんとしている。  その光景を目視した袁紹は、副長へと命令を下す。 「すぐにこちらの守備も増強してくださるかしら」 「はっ! ただちに!」  副長は、軍令を取るとすぐさま立ち去る。  その後ろ姿には見向きもせず、袁紹は親指の爪を噛む。 「なんてことですの……いくら、増強してもこれでは長時間は持ちませんわ」  このまま李典に東門にとりつかれてはまずいと、袁紹はすぐに投石機の使用を命じる。  だが、李典隊を追い返すほどの効果は得られない。 「随分とけったいなもんやなぁ! ウチが作り直したろか?」  先頭で兵卒を率いているビキニにホットパンツといった薄着の少女、李典が高らかに言う。  袁紹は李典の姿を見据えながら、きーっと金切り声をあげる。 「やっかましい! 余計なお世話ですわ!」 「へへん。あんまり怒ると皺になるで……って、うわあぁぁぁぁぁぁ」  袁紹をからかおうと、上を見上げたままだった李典および、彼女の配下の兵卒が足を取られたように転倒し始める。  どうしたのだろうと、袁紹が言葉を無くして呆然としていると、北門側の城壁陰からわっと一軍が現れた。  †  宵闇に紛れて仕込んでいた罠に敵軍が引っかかったのを確認すると、男たちは一斉に攻勢に出た。  彼らは一様に黄色い布を躰のどこかに身につけていた。  そう、かつてこの大陸を震撼させ、後に青州をも制圧しかねない勢いを持っていた集団。  黄巾党。  その頭目たる男が、敵へと群がろうとする仲間たちを見守る。 「てめぇら! こいつは掃除だ! 命がけの大掃除!」  頭目ことアニキが、腕組みをしたまま大声で叫ぶと、仲間の男たちは力強い返事がある。 「おお! よくわかんねぇが、掃除だぁぁぁぁ!」 「いい返事だてめぇら。そんじゃあ、いいか! 敵の騎兵には数人で取り囲んで仕留めろ!」  アニキの号令に従って、黄巾兵たちが李典隊に対して規律よく囲いをつくりながら立ち向かう。  迫り来る黄巾党に李典が螺旋槍片手に喚き出す。 「な、なんやあんたら! 工作はウチの専売特許やっちゅうねんっ!」 「へっ、泥臭い戦いなら俺たちだって積み重ねてきたぜ。何せ、俺たちは」  チビが李典の言葉に応じる。そして、彼の言葉を継ぐようにアニキは言う。 「悪者だからな」 「悪者参上、なんだな」  デクがどっしりとした肉体を武器に敵の歩兵を振り回す。普段ののんびりとした口調とは裏腹の活躍ぶりである。 「悪者って……なに言うとんねん、自分ら」  他の兵卒たちとは違い、李典だけは螺旋槍で黄巾党の攻撃をものともしていないようだ。 「はっはっはーっ! 俺たちはいつだって悪者だったんだよ。青州のときも、てんほーちゃんたちのときも、そして……あのときの俺たちもな」 「はぁ? 何をわけをわからんことを宣っとんのや」  眉を顰める李典に対してアニキは不適な笑みを浮かべる。 「まあ、わからねぇだろうな。俺たちだって、未だに信じられない気分なんだからよ」  そう、自分でも現実とは思いがたい出来事に彼らは見舞われていた。  袁術の頼みを断り、彼女と別れた後のことだった。  一生懸命頼み込んできた袁術の姿が、かつて彼らがまだ野党と変わらない頃に襲撃した弱い民を思い起こささせ、アニキは大いに嫌な気分になった。  だが、そんな沸き起こる嫌悪感に対しても彼は「そもそも俺たちは悪党なんだから、酷い対応もするもんなんだよ」などと嘯いて振り払おうとした。そのときだった、アニキの脳裏をある記憶がかすめたのは。  それは、記憶の海の底に沈み込んでいた古の記憶。  自分が悪党である記憶。  もう一つの黄巾党の記憶。  彼は仲間に尋ねた。もう一つの黄巾党のことを。最初は冗談だと思い笑っていた仲間たちも次第に思い出していった。  そして、彼らは取り戻した。前の世界の自分たちを。 「俺たちの積んだ経験値は高いんだ! 相手が武将だろうと、そうそう一方的にやられるかよ!」  アニキは猛獣のごとく、吠える。だが、弱者に狙いを定めていたときとは違い、今の彼らは獣同様ではない。  人間だ。  勇気を持って強敵に挑む。人間なのだ。 「そして、俺たちを人間にしてくれたあの人のためにも、やっちまえ! てめぇら!」  袁術の必死に頼み込む姿がアニキにはもう一つ別の姿と重なって見えていた。それは、彼らが大アニキと敬う少年。  彼のバカ正直で真っ直ぐな意志と行動。それによってアニキたちは前の世界とは違う道筋をたどるに至った。  その恩を返すために、そして何より彼と別れる際に交わした約束が果たされるためにアニキは決起した。 「アニキ! すごいやる気っすね! わざわざ、あいつらどころか俺たちにまで協力してくれって土下座までしてたし」  チビがひひっと愉快そうに笑う。 「ふんっ、うっせぇ。どっかの誰かのバカがうつったんだろうよ……っと、しゃべってる暇があったら動け!」  アニキは怒鳴りつけると、曹操軍の兵を切り伏せる。  今、戦況がまた一つ盛り返されていく。だが、そんな中でも李典とその側近は手強い。 「おらぁ、シャキっとしいや! こんなやつらに負けてたら曹操軍の名折れやで!」  手に持つ螺旋槍で周囲の黄巾兵をなぎ払いながら、李典が怒声をあげる。  流石に曹操軍の精鋭というだけあり、李典は手強い。 「ちくしょう、踏ん張れてめーら!」 「なははは、さっきの言葉そっくり返したる。ウチを舐めたらあかん、これでも一応曹操軍の一端を担っとるんや」  李典が螺旋槍を横に一閃。それだけで、あっという間にアニキの仲間たちが吹き飛ばされる。 「ぐあああああああああ」 「ぐ……つ、強えぇ」  李典から離れた位置でじりじりと間合いを計る黄巾兵たち。迂闊に飛びかかると返り討ちとなることが明らかだった。 「どないしたん? 今までの勢いがないでぇー、ウチに挑もうっちゅう強者はもうおらへんのかいな?」  李典が挑発気味に笑みを浮かべながら誰にとも無く問いかける。  だが、李典の強さを実感した者たちは中々前に出れない。 「…………」  沈黙が風に乗って辺りを支配していく。その様子を見て、アニキが前にでようとする。  そのとき、 「ここにいるぞーっ!」  どこからともなく少女の声が聞こえてきた。  †  冀州で変移が起こっていた頃、徐州では公孫賛軍が徐州小城に一度退却して態勢を整え直していた。  動かないままだったはずの戦局が公孫賛軍、北郷一刀たちの気づかぬうちに曹操軍にじりじりと押されるという事態となっていた。  そこで、彼らはやむを得ず、徐州小城へとひとまず引き上げた。  月明かりも雲に遮られて届かなくなった夜空の元、時間を惜しむように諸将が本陣に顔を揃えていた。  曹操軍も追撃の姿勢は見せず、慎重ににじりよってきているということで時間的猶予はまだあるとはいえ、一同には緊張が続いたままだった。 「典韋に夏侯淵、そこへ指示をだす荀ケや曹操……やはり、そう簡単には打ち破れないか」  公孫賛が腕組みをしながら首を捻る。  一刀もまた、同じように腕組みをして、苦々しい声を絞り出す。 「西涼との戦で、結果的には兵力は増大してるから消耗続きの俺たちじゃきついものがあるな」 「……そうですね。曹操さんが驕ることなく堅実に行動指揮を執っていますから、戦況を逆転できそうにないですし」  鳳統は、肩を落としてそう言うと、眉尻を下げ、帽子のつばを手で握りしめる。  趙雲も顎に拳をあてながら頷く。 「雛里の言う通りですな。しかし、じわじわとこちらを追い詰めてくる嫌らしい程に粘着質な攻めとは曹操らしくない気もしますが」 「……いえ、勝てる戦をする。それこそ曹操さんと言えると思います」 「そうだなぁ……彼女は星の言う通りでもあり、雛里の観察通りでもあるから」  鳳統の発言にもっともと相づちを打ちながら、一刀はため息を吐く。  一刀が以前より思っていたことがある。  曹操という少女には、その内面を知ることが非常に難しいという特徴がある。片鱗や、様々な顔を見たことは彼にもある。だが、それが彼女の全てでもないだろう。 「何か含みのある顔だな、一刀ぉ?」  自己の内面へと深く入り込んでいた一刀を公孫賛が訝しむ。その顔には燭の灯りによって出来た影があり、少し一刀には怖く見える。 「は、はは。まさか、ちょっと彼女はどういう人間かって考えたというかなんというか……」 「ふふふ。それはまあ、致し方ありませんな。なにせ主は」 「ちょっと黙ろうか、星。な? な?」  一刀は、余計な事をわざと口走ろうとする趙雲の口を慌てて手で遮る。顔は必死の形相である。反対に趙雲の顔はあくどい笑みでいっぱいである。  そんな対極の二人の様子に華雄が首を傾げる。 「なんだなんだ、何を慌てておるんだ?」 「ふん。決まってるでしょ。そこにいるのはバカち●こなんだから、やましいことがあるのよ」  賈駆が呆れた、というよりは冷ややかさ十割増しの視線を一刀に向ける。  この場で趙雲を除けば、一刀と曹操の隠された関係を知るのは彼女だけ。それ故に、華雄たちと賈駆の反応の違いもまたやむなしではある。  しかし、だからといって別にこの差が一刀の助けとなる訳ではない。 「ほう、そのあたり……詳しく知りたいものだな。一刀?」  公孫賛が、指の骨を慣らしながら一刀の方へと歩を進める。 「うむ。珍しく気が合うではないか。どうせ、詠は何も言う気がないだろうからな、本人に聞くしかあるまい」  華雄も首を左右に倒し、こきこきと音を立てる。 「えっ、ちょっと待て……詠! 助けてくれ!」 「自業自得じゃないの。ボクは知らないわよ」  そう言うと、賈駆はぷいっと顔をそらしてしまった。  元々、よろしくない雰囲気をまとっていた賈駆だが、つい先ほどから急に険悪な空気を醸し出している。  その理由がわからない一刀に公孫賛と、華雄が詰め寄る。 「さあ吐け、一刀っ!」 「へるぷみー」 「何をわけのわからんことを言っておるのだ、貴様は!」  華雄と公孫賛が一刀を挟み込むようにして立つ。  いつの間にか、一刀の手をすり抜けていた趙雲はちゃっかり離れたところへと逃げていた。 「ふふ、観念なさった方がよろしいですぞ」 「あ、星! お前、火種をまき散らして逃げるな!」  一刀が離れた位置でにやける趙雲に抗議の声をあげるが、二人の修羅に阻まれる。 「うるさいぞ、一刀。さあ、良い機会だから、私や華雄の知らないことをあらいざらい聞かせてもらおうか?」 「ひいいいいいっ!? 普通に怖い! いや、普通だけど怖い……あ、違う……」 「おい、私をおちょくっているのか」  動揺した一刀の言葉で、公孫賛のこめかみに青筋が立つ。  鳳統が、半泣きの表情で全員を見回している。 「あわわわ……何がどうなってるんでしゅか」 「なに雛里よ、今は気にする必要ないぞ。大丈夫、いずれお主も関わるときが来よう……」  趙雲が、鳳統の肩に手を置いて首を振る。もちろん、鳳統には意味がさっぱりわからない。 「……え? そういうことでもなくてでしゅね」  鳳統が戸惑っていると、いつの間にか彼女たちの側に来ていた賈駆がふん、と鼻息を荒くして腕を組んだ。 「ようするに。今は、あのバカが処刑されるのを見届けてればいいのよ」 「お前らなぁー!」 「いいから、今はこっちだ一刀ぉ!」  公孫賛と華雄に左右両方から同時に言われた一刀は、思わず直立不動となる。  その姿勢のまま、冷や汗混じりに一刀が口を開こうとしたとき、本陣へと兵が駆け込んできた。 「申し訳ありません、ご報告が!」 「どうした?」  公孫賛が即座に普段の様子に戻り、報告のためにやってきた兵へと聞き返す。 「切り替え早いな……」  一刀は助かったとこそこそと抜けようとするが、華雄に捕まってしまう。 「逃がさんぞ、一刀」 「ひいっ」  だが、そんな二人の注意も次の瞬間には完全に兵の方へと向くこととなる。 「実は、斥候からの情報によると、我が軍とは別の部隊がこちらへ向かってきているとのこと」 「なに? それはもしかして、曹操軍の伏兵か何かということか?」  公孫賛が尋ねるが、兵は首を横に振る。 「いえ、どうやら。旗印は孫だということですので……おそらくは」 「孫呉の連中か!」  一刀は軍議机に両手を勢いよくついて、兵の顔を見る。  他の全員も驚き半分、待望していたものが来たことに対する安堵半分といった表情を浮かべている。 「使者を送ってからどうなっていたかとは思っていたが……まさかここにきて救援に駆けつけてくれるとは」  公孫賛が予想外の朗報に眼を輝かせている。  その様子に一刀は、微笑ましそうに口元を綻ばせる 「やっぱり来てくれたか……本当に律儀だな。彼女は」 「うむ。妙に頭の固いところがありましたが、こういう方面では助かりますな」  趙雲の言葉に一刀は頷く。そして、現在孫呉を率いる立場にあるであろう少女の姿を思い浮かべる。  孫権、字は仲謀。その少女は今、一刀たちが保護している孫策の妹であり、大喬の家族のいる孫呉の主となっているであろう人物である。  恐らくは今回の戦の前に孫呉へ送った使者から孫策保護の件を聞き、そのお礼とでも言うように救援に来てくれたのだろう。  それくらい生真面目で実直な性格なのである、孫権は。  そして、北郷一刀はそれをよく知っている。 「よし。それじゃあ俺がちょっとあちらさんに挨拶も兼ねて行ってくるとするよ」 「お待ちくだされ、それならば私も共に行きましょう。今は曹操軍の攻撃も見受けられない状態になっているとはいえ、お一人は危険ですぞ」  趙雲が一刀の肩に手を置いて、彼の顔を見る。一刀はそれに黙って頷く。  場をまとめるように公孫賛が、改めて、全員の目の届く位置へと移動する。 「それでは、一刀と星には孫権の元に行ってもらうとしよう。これからどうするかについても話をする必要はあるだろうからな」 「ああ、わかった。任せてくれ、それじゃあ……よろしく頼むな、星」  一刀は頷くと、趙雲の方を見やる。彼女はそれに対して軍令を返した。 「御意。主の身はしかと、この趙子龍がお守りいたしましょう」 「よーし。それじゃあ、すぐに準備して出立するよ。行こう」  一刀は公孫賛たちに挨拶をすると、準備に入るために軍議の場を後にしようと歩き出す。  その背を趙雲が足早に追いかけていく。 「ほほう、主はなんだかご機嫌な様子。どうやら、胸が弾む程に久しぶりに会えることが嬉しいようですな」 「ち、違うって! 何を言い出すかな……」  趙雲のにやけ顔による言葉に、一刀は苦笑を浮かべる。  そんな二人の後ろ姿を見ながら、鳳統だけが不安げな表情をしていた。  †  丁度夜ということもあり、一刀と趙雲は少数の護衛と共に闇に紛れて孫権の軍が駐屯するあたりへ向かった。  孫権が来てくれたことで、戦況は一変するだろうと趙雲と話し合っているうちに、一刀は目と鼻の先まで孫権軍の陣へと接近していた。  陣は松明の灯りで、夜の中でも概要を見て取ることができる。  曹操軍の伏兵に遭遇することもなくたどり着けたことに安堵のため息を零しながら、一刀は孫権がいるであろう陣へと馬を進めていく。  陣へと近づくにつれて、一刀は陣の前に軍が展開されていることに気がついた。 「あれ? どうなってるんだ……なんで、こんな真夜中に」  不思議に思う一刀を趙雲が手で制する。 「なにやらきなくさいですな。主、あまり前に出てはなりませぬぞ」 「そんな警戒しなくても大丈夫だろ……孫策がいる軍に危害を加えようなんて彼女たちが考えるとは思えないよ」  そう言って一刀が更に前進しようとしたとき、 「よくぞ、来たな。北郷一刀! そして、公孫賛軍の兵たちよ!」  一人の少女が居並ぶ兵卒の先頭に立ち、一刀たちの方を見据える。  それは間違いなく、孫家の次女、孫権だった。 「公孫賛はいないようだな」 「あ、ああ。流石にいつ曹操軍が来るかわからないからな。本陣に残っているよ」  月が出ておらず、松明頼りなため相手の顔もよく見えないまま一刀は孫権の方へと近づこうとする。  だが、孫権の腰元から抜き放たれた何かがほんの僅かな光を放ったのが目に入った。  不審に思い、一刀は馬の足を止め、よく眼をこらして観察する。 「孫権。君の手にあるそれは……剣じゃないのか」  一刀ははたと気がつく。孫権の手には、剣が握りしめられている。  それは、かつての世界での孫権が、そして彼女の姉であり孫呉の王、孫策が持っていた剣、南海覇王。  孫権は動揺する一刀とは反対に落ち着き払った様子のまま静かに首を小さく縦に振った。 「その通りだ。これは孫呉の王たる者の剣……そして、姉さまの形見!」  その言葉と共に孫権は南海覇王を肩の高さに掲げ、切っ先を一刀の方へ向ける。  実際には届かない距離を取ってはいるが、一刀はのど元に突きつけられたような緊張感を覚える。 「ど、どういうことだ……」 「自分の胸に聞いてみよ!」  その声と同時に一つの影が一刀の方へと駆けてくる。それは片手に曲刀を持ち、一刀を斬らんと殺気を放っている。  その凶刃が一刀に迫るのを防ぐように逆に白い影が、一刀の前へと瞬時に現れ影をなぎ払う。  刃のこすれる鈍い金属音と共に影は孫権の方へと距離を取るように後退した。 「ちいっ。すみません、蓮華様。しくじりました」  襲ってきた影は少女だった。一刀の記憶にもある孫呉の人物、甘寧、字は興覇。  彼女は主である孫権の傍らで片膝をついて頭を垂れている。 「思春……功を急いではだめよ」  孫権は甘寧をとがめることはせず、優しい眼差しをむける。だが、それも一瞬。  すぐに一刀の方へ、厳しい視線を向けてきた。  それを代わりに受けるかのように趙雲が龍牙を構える。 「我が主に刃を向けるとは不届き千万。この趙子龍、許しはせぬぞ!」 「悪い……助かったよ、星。でも、少し待ってくれないか」  自分を救ってくれた趙雲に礼を言うと一刀は孫権の顔を見据える。 「一体どうしてなんだ、孫権。何故、君たちはそんな目で俺を見るんだ。大体、形見って……」 「何故だと……」  一刀の問いかけに孫権が低い声を発する。影となっているのと距離があるため正確にはわからないが、彼女は顔を赤らめ激高しているように一刀には見える。  少なくとも、孫権はその躰を小刻みに震わせているのだけは明確にわかる。それが恐らくは怒りからきているということも。  不穏な空気が、辺りに流れている夜の冷たい空気を騎兵のごとき猛威を持って侵略していく。 「理由はただ一つ。貴様が姉さまの仇だからだ! 黄蓋!」 「御意。黄蓋隊、あの不届き者を射て! 我が孫呉の怨敵、逃がしてはならんぞ!」  黄蓋の号令と共に一斉に矢が空を切り、憎しみの対象をその念と共に貫かんとばかりに飛んでくる。  そんな恨みの念から一刀を守るように、趙雲が前へと進み出て、彼を狙う矢を一つ残らずたたき落とす。 「だから言っておるであろう! この趙子龍がいる限り、我が主には指一つ触れることまかりならぬ!」 「どうして……どうしてなんだ……」  一刀は理解が及ばないこの現状に茫然自失となっていた。  そんな彼の背中を龍牙の柄で趙雲が小突く。 「主! 間抜けな顔で呆けている場合ではありませぬ。ここは退却しますぞ」 「だ、だが」  戸惑う一刀に趙雲が切れ長の瞳を鋭くし、戦場で見せる厳しい表情を彼に向ける。 「主よ! ここで命を落とすようなことがあれば、この一件を解決する機会も失われますぞ!」 「ぐ……わかった。全員転進しろ! 本陣に戻る」  護衛の兵たちや趙雲と共に馬を返すと、一斉に駆けだした。  後方で「逃がすな、終え!」「首級を挙げろ!」「我らが怨敵討ちもらすな!」などの怒声が飛び交っている。 「なんで……どうしてこうなるんだよ。なんで……くそっ!」  受けたことのない強大な、そして数え切れないほどの殺意を向けられてか、はたまた死と隣り合わせの緊張からか震える躰に一括して一刀はひた走るのだった。