玄朝秘史  第四部第三十五回『漢中決戦 その八』+『終幕』  1.真実 「な、な、なにを言うか!」  卓の上に乗り上げるようにしながら、漢朝の帝だった男がわめき始める。 「わかっておらぬ。貴様はなにもわかっておらぬ!」  その場にいる全員から哀れみを込めた視線を向けられていることなど意識もせず、彼は甲高い声を放ち続ける。 「見ろ、これを見ろ!」  先ほど取り出した竹簡を、桃香たちに向けて開く。いっそ誇らしげに、彼はそれを彼女たちに向けて掲げてみせていた。 「これには此度の戦の終わり方まで全て書かれているのだ!」  しん、と部屋が静まりかえる。  それを、男は自らが掲げる竹簡を、女たちが熱心に見つめているものだとばかり思っていた。  だが、現実は違う。 「なあ」  猪々子は小声で誰にともなく言う。 「なあ、あたいの気のせいか? それとも眼が悪くなっちまったかな?」 「いや、おそらくは正常よな」 「ですわね」  応じるのは、桔梗と紫苑の二人。斗詩は猪々子の横でぽかんと口をあけてかたまってしまっていた。  そんな空気の中、怒ったような声を男にかけたのは、渋面の焔耶であった。 「おい。そこの狂人」 「焔耶ちゃん」  思わず桃香がたしなめるが、焔耶は竹簡を指さして声を荒らげる。 「しかし、狂っておりましょう、これは」 「な、なんだと?」  男にとってはなにがなんだかわからない。  せっかく彼がこの世の不思議を解き明かす貴重な文を示してやったというのに、目の前の女どもはそれを意に介さずに戯れ言を吐くばかり。  なんとおろかしいのだろうか。 「手に持っているものをもう一度よく見てみろ」  だが、焔耶に促され、竹簡をひっくり返してみて、男は驚愕に目を見開いた。  そこにあったのは、なにも書かれていない竹柵の数々。 「ない! ない、ない、ない!」  彼が開いていた場所だけではない。  竹簡をいくら繰り出し、最後まで広げてみても、そこには何も書かれていない。  古ぼけた表面には、墨のあと一つ無く、ただ、以前に彼が何度もその表面をこすった証拠に手垢だけが残っている。  誰かが削るなどということはあり得ない。  先ほどまでそれはずっと彼の懐にあり、そして、その前には彼自身それを眺めて内容を読んでいたのだから。  諳んじることすら出来るほど、何度も。 「な、う、あ……え……」  もはや言葉の意味をなさないなにかの音をはき出しながら、彼は慌てて壁に張り付く。そこに作り付けられた隠し戸を開け、中にあった竹簡を乱暴に取り出した。 「……くけ」  いくつもの竹簡を開いては捨て、開いては捨てする男の喉から、そんな声が漏れた。 「くへひゃひゃひゃ……!」  ぽすんと腰が抜けたようにへたりこみ、天を仰いで笑い声をあげ続ける男。  そんな彼の周りには、一文字も書かれていない竹簡の山ができあがっていた。 「……医者を手配します。それよりも、桃香様」  そう呟いて痛ましげに視線を外す者もいれば、軽蔑するように一瞥をくれた後はもはや見もせぬ者もあった。  だが、いずれにしてもそこに集う女たちはいずれも、この人物になにかの意味を見出すことをやめていた。  そこにいるのはかつて帝だった者ですらなく、ただ気のふれた憐れな男でしかなかった。 「桃香様」  紫苑が桃香に再び促す。悲しげな瞳を揺らしていた桃香はその言葉に、うんと力強くうなずいた。 「戦場に戻ろう」  それから、ちらと猪々子と斗詩のほうを見やり、ぐっと顎を引く。 「……蜀漢の帝として」  そうして、彼女は己に言い聞かせるように言って、歩を進めたのだった。  2.終焉  人々は進む。  賑やかに蓬莱の名を叫び、楽しげに一刀の名を呼びながら、彼らは進んでいく。  まるで踊るように、あるいは祭りで練り歩くかのように、わいわいと様々なことをしゃべりながら、彼らは行く。  男もいる、女もいる、子供も、杖をつくほどの老人すらいた。  その全てがにこやかに、にぎやかに、進んでいく。  鎧など着けている者はいない。いたはずなのだが、動きにくいと捨てられてしまった。  武器など持っている者はいない。あったはずなのだが、おそらくは焚き付けにでもされてしまった。 「ちょっと、どうすんのよ、これー!」  楽しげに騒ぎながら進んでいく人々の群れを追いかけながら、小蓮は馬上でばたばたと手足を振り回す。  ここは益州との境にほど近い、荊州の大地。  彼女の目の前で、数万を超える――そして、おそらくは続々と増えているらしい――人々の群れは、西へ西へと向かっていた。  彼らこそ、本来は彼女が治めるはずの人々である。  孫呉の代表として、蓬莱への恭順を示すために襄陽に入った小蓮が統治すべきということは、つまりは襄樊地区から発した人々なのである。  そんな彼らが軍に率いられるわけでもないのに、集団を作り、どんどん西へ向かっている。  小蓮とその配下の呉兵たちは、彼らを守るように周囲に広がりながら、人々の群れを追いかけている。  小蓮の横を走る馬車の上では、西進を続ける大集団を眺めながら、三人の娘たちが疲れたような表情を浮かべている。 「うーん……」 「そう言われてもねえ」 「……昔、私たちが、私たちを慕う人たちを抑えることが出来たなら、黄巾はたぶん負けなかった」 「あきらめるなーっ!」  天和、地和、人和の三姉妹の台詞に小蓮のかんしゃくが爆発する。だが、それは結局のところ、なんの役にも立たないのであった。 「あーもー、なんでこんなことにー!」  なにが悪かったかと言えば、やはり、時代の空気と答えるのが適当なのであろうか。  直接のきっかけは、小蓮とその配下となる孫呉の人々が襄陽に入ったことである。  蓬莱に属することを決めた蓮華は、孫呉の今後の立場を考え、かなりの人間を小蓮につけて送った。意図を誤解されぬよう兵は少なめにし、代わりに働き盛りの男たちを多数つけた。  襄樊地区で行われている大工事の足しになればという考えからであった。  だが、受け入れる方の人々はこう思った。  あの人々がやってくるなら、自分たちは帝を追いかけるべきではないか?  そう思わせてしまったのは、やはり、それまでの積み重ねであろう。  都でもないというのに比較的長い間帝がとどまったこともあって、襄陽の人々は一刀に対して一種の親近感を抱いていた。  ましてや荊州は三国の合間にあり、その支配が定まらぬ土地柄故に、重点的に数え役萬☆姉妹の公演が開かれた地でもある。  民の間には、一刀のためにいっちょ力を尽くしてみようじゃないか、という空気が十分に広がっていた。  大局的に考えれば、彼らは襄陽にとどまり、周囲の工事とその後の発展のために尽力するべきであろう。  だが、人は、とくに様々な状況で判断能力を失った人間は、わかりやすい道を選びがちである。  蓬莱という国は、けして人々に高圧的になにかを押しつける政をしていなかったが、それがかえって人々を困惑させ、彼らに派手な手段を選ばせた。  なにしろ、彼らは夫や父を兵として取り上げ、工事に若者を引きずり出し、田畑を荒らすことになっても顧みないような領主ばかりを経験してきたのである。  三国時代の穏やかな統治があったとはいえ、宦官と兵を連れてきて街の周囲で大工事を始めるような支配者の姿を知らなかった。  ましてや、大陸で一番の歌姫たちが支持し、毎日のように楽曲で楽しませてくれるのである。  一刀を助けなければ、荊州人の名が廃る、と考えてもおかしくはない。  その感情が、とある数え役萬☆姉妹の公演で、爆発した。  あるいは、天和の台詞に、少々過激なものがあったかもしれない。地和が煽る言葉を字義通り受け取りすぎたのかもしれない。  いずれにしても、人々は西方で『一人がんばっている』帝のため立ち上がった。  若者たちは武器を取り、鎧を着込み、女たちはなけなしの食料を持って、人々の列に参加した。  それが、もはや戦闘に向かうとは思えないような集団に変化していったのは、道すがらの人々がどんどん参加し始め、その数をふくれあがらせたためであろう。  後年、玄武の大西進と呼ばれる狂乱現象は、そうして始まり……いまも続いている。 「ともかく、もう少し整理しないと!」 「うーん……」 「無理だと思うなあ……」  兵たちを引き連れ、なんとか人々をまとめようとして、何度も失敗している小蓮がそれでもあきらめずに腕を振り上げる。  しかし、かつて黄巾の乱において、噂を聞きつけてやってきた人々を無制限に受け入れた結果、収拾がつけられず、組織自体を自壊させてしまった苦い経験を持つ地和たちは懐疑的だ。  あの時でも、一応は参加の承諾とそれに対する反応はあった。  それは、後から参加する集団が、武器や鎧、食料などが配られることをあてにしていたから、という事情はあるだろう。だが、それでも、一応は手続きのようなものがあったのだ。  進軍と言えるのかどうかもはなはだ怪しいこの西進は、それすらない。  人々は、楽しげに進んでいく人群れを見て、これは参加せねば損だとばかりに集まってくるのだから。  もはや、制御できる状態は既に超えていると見ている人和などは無駄だという言葉すら発していない。 「だって、このまんまじゃ漢中に連れてけないでしょ!」 「それはそうなんだけどねえ……」  地和がそんな風に首をひねった時であった。 「え?」  空が、割れた。 「いやー、やっぱ通い慣れてるとはいえ、騎兵にここを通過させるのはきついねえ」  山中の細い道に延々と続く馬と人の列を眺めやりながら、馬上でそんな言葉を漏らすのは蒲公英。  部下たちが馬を引いているのに対して、下手なところを踏めば馬に怪我をさせてしまいかねない狭い谷を進む間も、彼女は馬上にあった。  それでいて馬を下りて引いている面々よりよほどしっかりと進んでいるのだから、馬家の面目躍如と言ったところであろうか。 「うだうだ言ってないで、ちゃんと指揮しろ。蒲公英」  一方、こちらは愛馬から降りて、長くなった列の間を歩き回り、兵たちの様子を確認している翠。  彼女は蒲公英たちの部隊に通りかかったところで従妹の軽口を聞き、強い口調でたしなめる。 「わーかってるってば」 「まったく、白蓮が合流してからは気楽なもんなんだから……」 「まあまあ。うちは涼州騎兵にいろいろしてもらって、ほんと助かってるからさ」  ぶつぶつと文句を言う翠に、後ろから声をかける赤毛の女。漢中と中原を隔てるこの山地に入る直前で翠たちと合流した、白馬義従と烏桓の騎兵を率いる幽州の王、白蓮だ。  漢中にほど近く住む涼州の民と違い、幽州の烏桓たちにとって、この山地は険しく、深すぎる。白馬義従の一部は蜀に在住していたこともあり、この道行きにもそれほど支障はないが、烏桓を進ませるのに涼州の馬家の助けを借りることが出来たのは、正直ありがたかった。 「だからって……。まあ、いいや。漢中についたら一刀殿にしかってもらおう」 「ちょ、な、なんで一刀兄様に!?」  そこで慌てふためく様が、それが一番効く方策だと明確に示している。  従姉妹たちの戯れに白蓮が暖かな笑みを浮かべた、そんな時。  空が、割れた。 「なんだ!?」  暗転し、次いでとてつもない光に覆われる空。  人の目もくらませるほどの光に、馬たちが暴れ出す。  愛馬の動揺につられて慌てる兵たちをしかり飛ばし、三人は事態を把握しないまま、周囲の混乱を鎮めにかかる。  そんな三人の頭上で、空いっぱいに広がっていた光が、集い始めていた。 「なんと、出てきたか」  死体の山から解放された愛紗が部隊を立て直し、進軍を命じようとした時、彼女は見た。  煙を吐き出しながら進む、奇妙な鉄の塊を。  御料車、玄武。  それに乗るのは当然、北郷一刀に他ならない。  一刀の存在を意識した愛紗には、戦場の他の部分での成り行きなど気にならなくなっていた。  敵の首魁はここにいるのだから。  いきりたつ兵をまとめ、静かに待ち受ける愛紗。  いかに彼女とて、亞莎との一騎打ちに続いて数百人にまとわりつかれる等という経験をすれば、疲れも出る。  すぐにそれが取れるわけでもないが、あちらから近づいてきてくれる間くらいは息を整えておきたかった。  そして、ついに、御料車が止まる。  距離にして、数十歩。突撃するのには、なんの支障もない。 「出てこられましたか」 「ああ、そうだ。俺だ」  中から出てきたのは北郷一刀。彼は車の上に立ち、愛紗を見下ろしている。  そして、それに付き従って、同じように車上に立つのは、麗羽に美羽、七乃に音々音と非力な面々ばかり。  さらに言えば、十数騎の騎兵を除けば、供回りの兵も見当たらない。  本来ならば、帝が動くとなれば、本陣が丸ごとついてきているはずだというのに。 「兵はどうなされました?」 「もはや兵はいらないだろう?」 「ご冗談を」  皮肉げに顔をゆがめて応じる愛紗の言葉を、一刀は真剣な表情で受け止める。  冗談ではないとその態度がまさに示していた。  彼は車内から突き出された棒のようなものを両手で受け取り、力を込めて、それを投げた。  愛紗たちと御料車のちょうど真ん中あたりに落ち、地面に刺さったそれに、愛紗は見覚えがある。 「そこで会った明命からもらったよ」  それこそは、青龍偃月刀。  彼女が何度も命を預けてきた得物。 「それを取るか? 関雲長」  一刀が大仰な口調で尋ねるのに、愛紗の視線が偃月刀から彼へと向かう。 「愛紗、俺は、この大陸を獲り、海の向こうの大陸も獲る。この大地に生きる人たちを守るために、だ」 「ほう」  愛紗はあきれたように首を振りながら息を吐く。 「大言壮語ですな」 「それでもやらなけりゃいけない。なにしろ、敵は天のさらに向こうからやってくるんだから」  そう言って一刀がすっと天空を指さしたまさにその時。  空が、割れた。  3.天より来たる  人々はそれを見た。  空が割れ、暗闇と光がいっぺんに襲いかかり、そして、光が七つの大きな星に集まる光景を。  彼女はそれを見た。  蜀漢の帝となると心に決め、戦場に戻ろうとする彼女は、それを見た。  集った星が七つ、普通には考えられぬ奇妙な動きをもって、頭上で踊り狂う様を。  彼女はそれを見た。  巨大な象の背に乗り、仲間や娘たちと共にひたすらに漢中を目指す南蛮の王はそれを見た。  七つの星が一気に分かれ、七つの方角へと飛び去っていく様を。  彼女たちはそれを見た。  戦場で、本陣で、宮殿で、草原で、川辺で。  相手の得物を受け止めながら、兵の首を飛ばしながら、歩きながら、馬に乗りながら、言葉を交わしながら。  彼女たちはそれを見た。  彼女はそれを見た。  長いすに寝そべり、生まれたばかりの娘に乳を与えながら空を見上げていた彼女はそれを見た。 「星が、流れた」  かつて流れ星を見て不吉と呟き、その直後に人生を変える出会いを果たした少女。その時出会った男と結ばれいまや母となった華琳は、おののきを持ってそう呟く。  彼女の腕の中で曹昂――幼名は統(すばる)、真名は同じ読みで昴――と名付けられるはずの赤ん坊が、火がついたように泣き出した。  まるで、自らの人生に襲い来る宿命に気づいたかのように。  その日、戦は終わった。  蜀漢の玉座を襲った劉玄徳の降伏の申し出によって。  後に、軍事研究者は、史料に残る布陣を見て、蜀漢軍はあと二日は耐えられたはずだと主張した。  政治史家は、蜀漢という政治勢力そのものが、このとき限界に来ていたとの見解を示した。  天文を能くする者は、この時期に史料に大書されるような天文現象が起こるはずはなく、政治的な作り話であろうと持論を述べた。  彼らは知らない。  だが、それでいいのだ。  戦は、終わった。  そして、新たな戦が始まる。 終幕  凪いだ海を、船団が渡っていく。  十八隻の巨大船を中心に、百近い船の集ったその集団は、この時代にあっては実に異様であった。  本来、海を渡る船団など、そうそう作れるものではない。  なにしろ風任せ、潮任せにするしかないのだから。  百隻で出発し、同じ経路をたどっても、風の具合、舵の取り具合で、集団がばらけ、三々五々進んでいくというのがせいぜいだ。  整然とした艦隊行動などというものは、風や潮をあてにせず動ける船が出始めてから出来ることである。  その不可能事が、この船団には可能であった。  それは、中心を占める巨大船が、巨大な外輪を持ち、もくもくと煙を吐き出し続けていることでわかる。  なんと、この船団は――この時代にはあるまじき――巨大蒸気船を中心に動いているのだった。  それを作り上げたのが、誰であるかは明白であろう。  これこそ、史上に名高い大発明家、李典率いる東方殖民船団であった。 「出漁組が戻ってきたぞー」  船団に、威勢のいい声が響く。  見れば、船団の周囲に漕ぎ船が集まっている。魚を獲りに出た小舟が、船団に再合流したのであろう。  その中でも目を引くのが、船よりも大きな獲物をくくりつけた一隻だ。その黒光りする塊の上で、銀髪の女性が銛を掲げて呵々大笑している。 「旦那様ーっ! 見て下され、儂の獲物はひと味違いますぞー!」 「……小さめだけど、鯨だぞ、あれ」  これもまた真桜謹製の携帯望遠鏡を横にいる女性に渡しながら、男はあきれたように呟く。  年の頃は、五十ほどか。日焼けした膚の奥で、優しげに眼が笑っていた。  彼が鯨の上に立つ女に向けて――見えるかどうかはともかく――手を振る横で望遠鏡をのぞき込んでいた女性が小さく息を吐く。 「ねえ、一刀。祭ってもう七十近いんじゃなかった?」  その言葉が、彼の正体を否応なく暴き出す。  北郷一刀。  天の御使いとして知られ、大帝国の主となったその人物は、数年前に死去していたはずであった。  青龍にのせられているのは、彼を精巧に模した人形であるはずだった。  だが、今、彼はこうして楽しげに笑っている。 「ああ、うん。そのはずだな」 「……恐ろしいわね」  そう呟くのは、曹孟徳。かつて中華世界を統一した覇王。  少女だった彼女は成長して、いまや二十数人の子の母となった。それだけの子らを育て上げた力もまた傑出したものと言えるだろう。 「華琳だってその齢には全く見えないけどな。きれいなままだ」  一刀の言葉通り、華琳は幾人も子を産み、年を経たというのに、その美しさに磨きをかけているかのようであった。  ただし、やはり少女の時のふくよかさ、柔らかさはない。  だが、それを補って余りあるものを、彼女も、そして、他の妻たちも得ている、と夫である一刀は思っていた。 「あら、ありがとう。でも、まあ、いつまでも若いわけにもいかないし、いい齢のとりかたをしたいものね」  そこまで言って、華琳は獲ってきた鯨を船に上げるため解体し始める祭たちを眺めやる。 「さすがにあそこまで元気でいられるかはわからないけど」 「はは。まあ、俺は気楽なもんだけどな。なにせ、もう死んでる」 「形だけは、ね」  一刀に限らず、皇妃たちのうちにも何人か、すでに公式には死亡したことになっている人物が混じっている。  彼女たちの大半は、実際に歳経て病を得るに際し、公的な立場を全て捨てて療養するために、死亡したと偽っていた。  たとえ家督を譲っていたとしても、初代の帝の妃であるということは、それだけで重圧なのだ。  もちろん、政治的な要請という面もある。  混乱を起こすことなく平穏に代替わりを行うため、前世代の人間は徐々に引退するべきであり、それを確実にするためには、死んだことにしておくのが便利だったというわけ。  それは、生前に帝位を継承するという形式を採った、蓬莱ならではの現象であったかもしれない。  とはいえ、かつての仲間たちのなかで、真に死を迎えた者がいないわけでもない。 「最後まで、西に行くか、東に行くか、迷っていたんでしょう?」 「……霞が、死んだからな」  遡ること二年。  張皇妃は西方に進撃する最中、受けた矢傷がもとで陣中に没した。  その陣で死に行く彼女を抱きしめていた人物の名を、史書は記録しない。  ただ、その翌日、戦場には誰も見たことのない武者が出現した。  煙を吐く騎馬と、体中を白銀に輝く鎧に包んだその人物は、身の丈は仰ぎ見るほどで、その膂力は全盛期の典皇妃もかくやと思うほどであったという。  前当主の弔い合戦に燃える張家の軍勢の中で、その騎馬武者はまさに鬼神のごとき働きをみせ、屠った敵兵の数は数えることもかなわず、斬り伏せた敵将は十にのぼった。  いま、その戦場には武者の鎧を象った像が建てられている。だが、それは、実は、その武者が脱ぎ捨てた鎧そのものだという噂もまことしやかに流れていた。 「真桜が笑ってたわよ。何年もかけた動鎧が一日でくず鉄にされたって」 「……それでも許してくれたよ、あいつは」 「そうでしょうね」  寂しげに笑う夫の横顔をちらりと眺めやりながら、華琳は努めてなんでもないように言う。 「霞の戦死を聞いたときの、凪と沙和ったら……見ていられなかったもの」 「しかたないさ。悲しいものは悲しいんだ。俺みたいに直接憂さ晴らしが出来たわけでもない」  そこで一刀は肩をすくめる。 「とはいえ、霞は、自分で戦をやりたがる性質だろ? 俺にそれを押しつけようなんて望まんだろうと思ってな。あっちは任せて、こっちにしたよ」 「そして、各地の『星』と出会いに行くか」  不意にかかった声に、華琳も一刀も軽く視線をやるのみだ。  甲板のそのあたりには誰も近づかないよう人払いがされている。  ここで声をかけてくるような者は、蓬莱の国の理に組み込まれてはいない者たちだ。  すなわち、そこにあるのは二つの筋肉の塊。  一つは銀髪のみずら。一つは禿頭にお下げ。  一刀たちが青年であった頃からまるで変わらぬ、暑苦しいその姿。 「ああ、その通りだよ」  こいつらの変化の無さを見ていると、自分たちとは違うなにかなのだとよく納得出来る。そんなことを考えつつ、一刀は応じる。  漢中における決戦が終わったその日。  この世界に、七つの星が落ちた。  一つはブリテンに。  一つはローマの地に。  一つはインドの大地に。  一つはアラビアに。  一つは大洋の諸島部に。  一つは五大湖の畔に。  一つはアンデスの頂に。 「竜王に、キリストの再臨に、仏陀の再誕、ムハンマドの露払い、鮫の王、ウェンディゴに太陽神……だったか」  大仰な名乗りを、一刀はすらすらと言ってのける。それは、きっと、彼が脳裏で何度も何度もそれを繰り返し唱えていたからであろう。 「そうよん。ご主人様の『天の御遣い』なんて目じゃないわねん」  むきむきの筋肉を隠すこともなく、かえって誇るようにさらしながら言うのは貂蝉。  くねくねと体をくねらせるのが相変わらず気持ち悪いものだわ、と黙ったままの華琳は思っている。 「彼らを討つのか?」  これもまた衰えぬ筋肉をひくひく動かして卑弥呼が問うのに、一刀はにやりと笑みを浮かべてみせる。  その笑みが示す凄みが、かつてより遥かに増している。 「いや。ただ、会ってみたいだけさ。実際に会うのは俺の孫くらいかもしれないが」 「もっと先でしょう」  ふふんと笑ってみせる華琳のいたずらっぽい瞳はかつてと変わらず、しかし、そこに込められた信頼と自信は倍するものとなっている。 「そうかもな。いずれにせよ、それまでに、彼らがどうしようとこの世界を乱せないようにしておく。それが、俺の……俺と、俺の血を引く者たちの仕事だ」  中原世界の帝王を退いた男は、それだけ言って、もはや口を開こうとしなかった。  彼が見つめる先は、目の前に広がる大海原の、その先の先。  北郷一刀と、それを愛した者たちが背負う宿命の鎖は連綿と続いていく。  歴史に刻まれず、誰にも知られぬ戦いが、彼らの前には待ち受けている。 (玄朝秘史 終)