『還って来た種馬』 その16      長安行幸:中日     もしくは       駆け引きは既に始まっていた   長安到着の翌日、数日振りにちゃんとした寝台で一人ゆっくりと眠る事の出来た一刀。前夜の宴で酒が少々入った事と、いくら  行軍速度が遅いとはいえ洛陽からの道中の疲れと慣れぬ地所での緊張もあってか、一刀に割り当てられた部屋に着くなり早々に眠っ  てしまっていた。行軍中の一般兵士に比べれば格段に豪華で上等な幕舎が曹孟徳こと華琳以下幹部達には用意されていたものの、  日中の行軍による体力的な疲労よりも夜間にまるで示し合わせた様に時間差をつけて入れ替わり立ち代り一刀の元に忍んで来る面々  を満足させたり、何処からかその話を聞きつけ拗ねている帝の御機嫌取りをしたり等と精神的な疲労も蓄積していたと言える。   そしてそんな一刀も顔に当たる朝日を感じて徐々に覚醒しかけたていた。流石に長安到着初日からは誰も忍んでは来はしまいと  一刀も思っていたが、何事にも例外はある。特に、行軍中出遅れ感のあった顔良こと斗詩辺りを怪しんでいたのだが、長安初日の  夜は誰も一刀の寝所に潜り込む者も無く穏やかな朝を迎えるに至った。   そんな事をぼんやりと考えていた一刀に声を掛ける者が居た。 「おはよう御座います、御遣い様」 「ああ、おはよう」   覚醒しかけているとは言え、半分寝ぼけた状態で答えた一刀。 「今、お湯を御用意いたします」 「うん、ありがとう」   再びの声に伸びをしながら答えた一刀は、自分に声を掛けてきた清楚な[めいど]服に身を包む少女をぼんやりと目で追ってい  る。最近ではこの様に屋敷の者等に起こされる事に慣れてきた一刀は今の状態を特に不思議には思っていない。   「長安の侍女さんの衣装は可愛いなぁ」等と半分寝ぼけたままの頭で思っていた一刀であったが、その侍女だと思い込んでいた  女性の顔を見た瞬間一気に眼が覚めた。 「とっ董卓さん! 何で……?! 何やってるんですか!!」   時は遡り、長安到着初日、対面の儀が行われた後に帝の御前に召し出された者達がいた。   それは董仲穎こと月と賈文和こと詠の両名。普段の[めいど]服ではなく正装で現れた両名を迎えたのは、帝を始めとした華琳  と劉玄徳こと桃香そして袁本初こと麗羽であった。   久方ぶりに再会した麗羽と月達。睨むでもなく微笑みかけるでもなく視線を交わす三人であったが、麗羽は一度目を伏せ小さく  会釈をするとおもむろに帝の方へと正対し『反董卓連合』のあらましについて話し始めた。   先ずは世間一般に知られている表向きの経緯を口にする麗羽。特に誇張する事も無く、世間に知られているであろう事を淡々と  話す麗羽に帝を始め華琳や桃香そして月と詠も口を挟むことなく黙って聞いている。かえって自分の事を大げさに賞賛する事もな  く落ち着いた様子で話す麗羽に、桃香や月と詠は少々違和感すら感じていた。   そして『反董卓連合』の顛末までを話し終えた後に、麗羽は一呼吸置いて『反董卓連合』の表に無い部分を口にし始める。それ  は、「董卓一派を人身御供とした、当時の朝廷内部の一派と有力諸侯との権力闘争」と言う事実であった。   その麗羽の話の内訳を聞いた詠の表情が険しいものへと変わる。だが、悔しさを滲ませる詠とは対照的に月は表情を変えぬまま  じっと正面を、帝や華琳達の方を見詰め続けていた。   続けて麗羽は「己の権力掌握と中央への返り咲きの為とその時中央にいた董卓への嫉妬から、董卓一派達を掌握しきれなくなり  始めていたその一派からの一計に乗じた」事を口にした。   そして続けて麗羽が口を開く。 「董相国に悪逆の汚名を着せたのは己の権力欲から発した卑しさからであり、もはや取り返しのつかぬ事とは言え聡明な陛下の御温  情に縋り、董相国の潔白と董相国の名誉の回復を袁本初伏して言上仕ります」   麗羽は帝にそう奏上した後に厳かに平伏した。続けて華琳と桃香もそれに習う。その上奏を聞いた帝が月に発言を促す。 「臣がこの様な顛末を迎えましたのも、これ単に臣の不徳の致すところ。結果として穏やかな今の時代を迎える事への臣が礎となり  ましたのなら、臣も以って瞑すものに御座います」   恨み言の一も口にせず今の運命を肯定的に受け入れているとも取れる言葉を口にした月。麗羽の話を表情を変える事無く聞いて  いた帝も、その月の言葉には大いに感服した様で深く頷いていた。同様にその言葉を聞いた麗羽も月の方に向き直し、今一度深々  と頭を下げている。   そんな月と麗羽二人の姿を目にし、従前には詠は不敬を承知で一家言申し述べる心算でいたものの、今は毒気を抜かれた様な表  情へと変わっていた。月が口にするであろう言葉は十分予測出来ていた詠であるが、麗羽の態度に関しては予想外であった。   詠にとって以前の麗羽は『四世三公を輩出した名門』を鼻に掛ける、よくある名門の負の部分を具象化した人物であると認識し  ていた。例えどのような名人が作った名品の器であっても、入れる中身によってはその価値は変わってくる。正直詠にしてみれば  見た目だけ着飾った汚物入れ程度にしか思っていなかった。   だが、今自分の前に居る麗羽は詠の今までの認識を覆すに十分であると言える。周りの人間を不愉快にさせる不遜な態度は身を  潜め、帝の御前でありながら昂然たる態度を見せる今の麗羽は正に『名門』たるに十分であった。「天の御遣いとの出会いで袁本  初は変わった」との風評を話半分で聞いていた詠であったが、今の麗羽を目の当たりにすれば納得出来る。もしこの変化がずっと  以前に起こっていれば今の世は変わったものになっていたかもしれないとも思う。あの麗羽をここまで変えた『天の御遣い』に益々  興味がわくとともに、何故『天の御遣い』は我々の下に現れなかったのかという複雑な気持ちも同時に浮かんでいた。   帝は魏王曹孟徳と蜀王劉玄徳の両名に今一度確認した後(呉王孫伯符には長安行幸前に話を通しており、彼女からは何ら依存は  無いとの言質を得ている)、この場において漢の皇帝劉協の名で董仲穎の名誉の回復を宣言した。そして、帝は月を追い詰めた責  が自分にもある事を詫び、そして今日まで汚名を甘受してきた月に労いの言葉を掛けるのであった。   唯一残念な事は、この宣言が世間に広く発せられない事である。朝敵の汚名は廃され、名誉の回復もなされた董仲穎が今となっ  ては公務に復帰する事もやぶさかではないが、月自信はそれを辞退した。   連合の内情については市井の者達の中にも実情を勘付いている者も多く見受ける事もできるが、あえてそれを口にする者は皆無  である。今の平安を甘受しているこの時に、あえてそれを表ざたにし均衡の取れた今を再び不安定な世にする事をだれも望んでは  いない。かえって、連合から数年が経過した現在では「董卓は巻き込まれただけ」との旧董卓陣営に対して同情論すら形成されて  いた(この噂については、意図的に流された形跡がある)。   大戦終了の直後にも、曹孟徳の魏を中心とした国の運営に「今の曹操と以前の董卓、どう違うのか」と言う意見は少なからず旧  皇族や戦後の国の運営の中心から外れた者達からは聞かれていたが、その後の大陸の安定と曹孟徳の正論な政の運営方針によりそ  の声は次第に小さくなり今は殆ど聞かれなくなっている。だが、今も表面では今の体勢に準じていても内心ではその考えを持ち続  けている者達が存在するのも事実であった。   事実として、あの連合の折には万を超える犠牲が払われてもいて、今董仲穎の潔白を大々的に宣言するのは権力者同士の茶番劇  と受け取られかねない。現状としては、既に旧董卓陣営の殆どは三国に吸収されており、今では何らの軋轢も無く運営に携わって  いる者達も多数いる。今更陣営を復活させようと言う気など無く、自分の下に居た事で犠牲となった者達へ贖罪の念を持つ月にとっ  て、自らが語った様に今の自分の置かれた状態を変える気等は持ち合わせていない。   そして、月をあの様な立ち位置に置いてしまったと言う自責の念と、今更あの様な場所へと戻す気の無い詠の思惑もある。詠に  してみれば、今更董卓陣営を復活させ三国鼎立の不安定化を起こしかねない要因となるよりも、宣言により以前に比べ自由に動け  る範囲が大きくなった事により、内部から三国の安定や発展に寄与する自負があるのかもしれない。   そして帝は華琳達三人がその場を辞した後、月と詠三人で暫しの間和やかに語らいの時を持つのであった。 「とっ董卓さん! 何で……?! 何やってるんですか!!」   目は覚めたが、今度は混乱したまま一刀は掛け布を跳ね除け寝台から起き上がろうとする。が、下着のみを身に付け眠っていた  事を思い出した一刀は慌てて再び賭け布を身に纏った。 「今、寝汗をお拭きしますね」   下着一枚の一刀を目にして顔を赤らめながらも笑顔でそう答えた月。 「いや……、でも……」   そう月への対応に苦慮している一刀であったが、いきなり耳を引っ張れれた。 「アンタ、何満更でもない様な顔してんのよ!」 「いっ、痛いって」   そう口にしながら一刀は耳を引っ張る張本人に顔を向ける。そこには未だ引っ張った耳を離そうとしない若干月とは意匠の異な  る[めいど]服に身を包む詠の姿があった。 「どう? 目は覚めた?」 「だめだよ詠ちゃん。そんな事したら」 「いいのよ月。こんなヤツ初めっから甘やかしてると絶対にいやらしい事要求してくるに決まってんだから」 「詠ちゃん」 「わかったわよ……。まぁ、いきなり月を押し倒さなかった事だけは、それだ・け・は評価したげるわよ……」   そう口にしながら渋々耳を引っ張っていた指を離す詠。引っ張られていた耳をさすりながら「俺の悪評の浸透具合は何なんだ」  等と毎度の事とはいえ今もそう心で呟く一刀であった。   観念したのか一刀は月に促されるまま寝汗を掻いた身体を拭ってもらい、髪を梳かれ、何時もの白い[ぽりえすてる]の制服の  着付けをされる。そして月の煎れてくれたお茶を口にしながら一息付いた。日頃、こんな風に傅かれる事に多少なりとも慣れてき  た一刀であったが、流石に相手があの董仲穎となれば勝手が違いかなり緊張していたといえる。   身体を拭ってくれた時のお湯に香油が混ぜられていたのか心地よい香りがしていた。 「何で董卓さんと賈駆さんがこんな事を?」   一刀は湯飲みを両手で持ったままそう二人に問いかける。そんな一刀の問いに月が屈託のない笑顔で答えた。 「はい、陛下と華琳さんに長安滞在の間の御遣い様のお世話をさせていただける様にお願いしたんです」 「へっ?」   月の言葉を聞いて、少々間抜けな顔をしている一刀に詠が言葉を返す。 「だから、月が陛下と華琳の前でそう言っちゃったの! べっ、別にわたしはどうでもよかったんだけど……」   そう口にして詠は少し頬を赤く染めながら横を向いてしまう。そんな詠と未だ微笑みを絶やさない月を見ながら一刀は思う。 「(この二人が董卓と賈駆なんだよな……)」   前日、対面の儀を終えた華琳を出迎えた時に二人を挨拶された一刀は衝撃を受けた。趙子龍こと星から二人の正体を知らされて  はいたし、その後程仲徳こと風や郭奉孝こと稟そして以前同じ陣営に居た張文遠こと霞からも話は聞いていた。   挨拶してきた二人を間近に見た時、確かに連合で洛陽に赴いた時に出会った二人であると再確認もした。   だが、気の強そうないかにも軍師らしい雰囲気の詠はまだしも、儚げで正に深窓の令嬢と言う文言が見事に当てはまるであろう  月があの董卓と結びつかない。どうしても一刀の中では、ひげ面で恰幅のよいいわゆる現代日本人が思い浮かべる定石通りの董卓  像を思い浮かべてしまう。今迄も自分の知る三国志の登場人物と、この外史における面々との大き過ぎる差異に面食らった事も多  かった一刀であるが、今ではもう一刀自信十分慣れていた心算であった。しかし、月については別格と言えた。 「へう……、御遣い様。御迷惑だったでしょうか……」   どうやら一刀が心に思っていた事が顔に出ていた様で、じっと顔を見詰められていた月がそれを「自分が一刀の身の回りを世話  をする事に不本意ではないか」と感じた様だ。困った様に柳眉を下げながらそう口にした月に対して一刀は慌てて言葉を返す。 「いっいや、別にそんな事は思ってません。本当です」   一刀の言葉を聞いて月の曇った表情が元の笑顔へと戻る。そして胸に手を当てながら口を開いた。 「洛陽で御遣い様に拾われたおかげでわたしは今こうして生きていられます。もしあの時、御遣い様以外に見付かっていればわたし  は既にこの世には居ないでしょう。その御恩をいくらかでもお返ししたいんです」   確かにあの時、月の正体に気付いていなかった一刀が桃香の陣営に預けなければ、もし華琳や麗羽の陣営に送っていれば正体の  露見した董卓はこの騒乱の責任を負わされ処刑されていた可能性が高い。いや、確実にそうされていただろう。   だが、一刀に言わせればそれは結果論である。 「いや、それはたまたまであって、オレ……自分はただ難儀していると思った二人を近くに居た劉備さんの陣営に引き渡しただけで  ……」   自分が特に考えもなく、正確に言えば早く董卓探索に戻る為にただの避難民だと思っていた女の子二人を劉備の陣営に押し付け  ただけの行動を、月が想像以上に一刀に感謝している事に居心地の悪さを感じる一刀。月の言う通り、一刀の行動が結果として月  と詠の命を救ったことに変わりは無いのだが、その時何の思惑も自覚も無かった一刀にしてみればただ恐縮するのみである。   だが、こうした一刀の無自覚の善意がその後の僥倖とも言える事態に結びつくところが『天の御遣い』と呼ばれる所以の一つで  もあるのかもしれない。 「ほら見なさい月。コイツは月が思ってる様な事は考えてなかったでしょう。どうせさっきも何かいやらしい事でも考えてたのよ」   そう口にしながら一刀のこめかみ辺りを指で突っつく詠。 「あ〜、賈文和殿」 「何よ」 「他人の事を指差すだけでなく、突っつくと言うのは少々御行儀が悪くありませんかな?」   横目で詠を見ながらそう口にした一刀に対し、詠は悪びれる素振りも見せず言葉を返した。 「そう? あの白蓮を人目も気にせず押し倒すような相手には、これでも礼を尽くしてる心算だけど?」 「押し倒すまではしていない! って、何で知ってるの?」 「はっ、アンタの悪行は全部筒抜けなのよ」 「全部?」 「ええ」 「マジで?」 「もちろん。悪の栄えた試しなしって言うじゃない」 「悪って……」   勝ち誇った様な詠と、頭を抱える一刀。そんな二人の軽口を笑顔で見ていた月が口を開く。 「詠ちゃん、もう御遣い様と打ち解けちゃったんだね」 「なっ、何言ってるの月……、ひっ!」 「…………」   傍から見ればただ朗らかに微笑んでいるだけの月であるが、付き合いの長い詠にはその笑顔の向こうに何か違うものを感じ取っ  た様だ。明らかに引き攣った顔を見せている。   そして一刀には朗らかに微笑む月の後ろに「黄色い衣を纏った恰幅の良いひげ面の男性」の影が見えた様な気がしていた。 「ゆっ月……。そっそうだ、そろそろ頼んでおいた朝げの準備が出来たんじゃないかな?」 「ああ、そうだね。わたし厨房に確認してくるよ」   詠の言葉で月が醸し出していた雰囲気が霧散する。それを確認した詠は、安心した様な落ち着いた様な顔で大きく息を吐いてい  た。そしてそう答えて扉の方へと向かう月に一刀が声を掛ける。 「あっ、董卓さん……」   声を掛けられた月は一刀の方へと振り向くと、両の手を体の前で合わせながら少しはにかんだ様な表情で口を開いた。 「御遣い様、どうかわたしの事は月とお呼び下さい」 「いや、でも」 「この様な事でしかわたしは恩をお返しする事が出来ません。ですから、どうか」   月にそう言われ、一刀はちらりと月の親友であると聞いていた詠の方へと視線を向ける。一刀と視線の合った詠は目を瞑って小  さく頷いた。そして一刀は少々不安そうな顔をしている月に笑顔で答える。 「判った、有り難く真名を預からしてもらうよ月」 「はい」 「それと、オレの事は北郷か一刀でいいよ、知っての通りオレは真名が無いから。それに『御遣い様』なんて柄でもないし」 「ではご主人さまと」 「えっ……? いや、だから……」 「ではご主人さま、朝げの準備が出来ているか確認して参ります」   そう満面の笑顔で答えた月は部屋を後にした。そんな月を呆然とした顔付きで見送る一刀と、やれやれと言った感で頭を掻く詠。 「何だか色々と凄い娘だね……。凄い迫力もあったし」   そうしみじみと言葉を漏らした一刀に詠が答える。 「普段は物分りもいいし、出過ぎた事もしないけど……。一度言い出したらきかないから。アンタの呼び方も随分考えてたみたいだ  し」 「なるほど。で、賈駆さん……」 「わたしの事も詠でいいわよ」 「いいの?」 「月だけに真名を呼ばせるわけにもいかないでしょ。それに、アンタに感謝してるのは本当よ。アンタがあの時どう思っていたとし  ても、わたし達を桃香の所へ引き渡してくれなかったら今ここにこうして居られなかったのは事実だし」 「…………」   月と同じ事を口にした詠。一刀としてはただの結果論に過ぎないと言う思いもあって、二人の気持ちを素直に受けにくい。そん  な事を思っている一刀から何かを感じたのか伝わったのか、詠は黙って頷くと話を変えた。 「で、本当はさっき何考えてたの?」 「えっ? 別にいやらしい事は何も」 「そんな事顔見てれば判るわよ。で、何考えてたのよ」   流石に董卓軍を支えていた軍師、とぼけた会話をしながらも内心ではよく見ているなと感心する一刀。 「いや、オレの国……君達の言う天の国に伝えられた董卓像と随分違う……、いや全然違うなぁって」 「へぇ、どの位違うの?」   一刀の口にした『天の国に伝えられた董卓像』と言う言葉に反応した詠が話の続きを促してくる。どの国の軍師も知識欲と言う  ものに差はないと一刀は感じながら話を続けた。 「ああ、先ずね……」   一刀は記憶と内容を吟味しながら話を始めるのであった。   城内の朝食の準備に大わらわの厨房で月と典韋こと流琉が話をしていた。帝の朝食の準備を流琉が担当するのを兼ねて厨房全体  の指揮も取っている。勿論、帝の朝食だけてなく一刀の朝食も流琉の手によるものである。 「では月さん、兄様をお願いします」 「はい、承りました」   そう笑顔で答えた月に流琉も笑顔を返すと、帝の朝食の準備へと流琉は戻る。流琉の手作りの朝食は毒見の必要が無く、出来立  ての暖かいものが食せる為に帝にも好評であると言う。   流琉が用意した一刀の朝食を眺めながら月は思案顔へと変わる。どうやら流琉は一刀の分だけでなく、月や詠のものまで一緒に  用意した様だ。流石に月一人だけでは運べない。 「へう……、困りました。わたし一人じゃ運べません。かと言って詠ちゃんを呼びに行こうにも、お料理から目を離す訳にもいかな  いし……。これは誰かに手伝ってもらった方が……」 「ここにいるぞっ!!」 「蒲公英ちゃん」   声の先には馬岱こと蒲公英の姿と、恥ずかしげに手を振る桃香の姿が見えた。 「桃香さんも……。お二人とも朝げですか?」 「うっ、うん」   どうも歯切れの悪い桃香を見て、月は小首を傾げる。 「これ、北郷さんの朝ごはん? 量、多すぎない?」 「はい。どうやら流琉さんがわたしや詠ちゃんの朝げも一緒に用意してくれたみたいで」 「なるほど……、それでこんな量に。よかったら手伝おうか?」 「はい、お願いします」   せっかくの出来立ての料理が冷めてしまうのを懸念した月は蒲公英の申し出を快諾する。そんな月と蒲公英の会話聞いていた桃  香がおずおずと口を開いた。 「あっ、あのさぁ月ちゃん」 「はい」 「わたしもご一緒させてもらっていいかなぁ?」   先程から桃香の何か煮え切らない様な姿を見ていた月が不思議そうな顔をした。 「昨日の宴でも北郷さんと余りお話し出来なくて……。会うまでは色んな事を考えてたんだけど、いざ北郷さんを目の前にしたら舞  い上がっちゃったのか何話していいのか判らなくなっちゃって……。でも、もっとお話したいって気持ちは本当で……」   そうもじもじとしながら話す桃香を見ながら月は「可愛らしい人だ」と思う。そんな桃香の気持ちを十分理解出来る月は笑顔で  言葉を返した。 「では、桃香さんもお手伝いお願いします」 「ありがとう月ちゃん!」   そう言って桃香は何時も通り感謝の気持ちを表す為に月を抱き締めた。その豊かな胸に月を抱き締めながら桃香は話を続ける。 「でも、ごめんね月ちゃん。北郷さんのお世話をする初日からお邪魔する事になっちゃって」   そう口にしながら、益々月を抱き締める腕に力を込める桃香。そして、それから何とか開放された月は大きく息を吐いてから口  を開いた。 「へう〜……。いえ、わたしはあの方の寝顔を拝見出来た事だけで……」 「んっ?」   月が小声で話す言葉が途中から上手く聞き取れなかった桃香が疑問を返す。そんな桃香の疑問に慌てた月は話を変えた。 「いっいえ……。そうです、桃香さんも蒲公英ちゃんも朝げがまだならご一緒しませんか?」 「いいのかなぁ?」   そう口にしながらも、「一刀とゆっくり話がしたい」と言う希望が叶いそうな事に嬉しさの表情が顔の端々に隠しきれない様子  の桃香と蒲公英。 「わたしや詠ちゃんの朝げも用意してくれたので、本当はわたしもご主人さまにお願いしようかと思ってたんです」   そう笑顔で話す月とは対照的に、桃香と蒲公英は明らかに希望が叶った嬉しさの表情から今聞いた言葉への驚愕の表情に変わる  のが目に見えた。 「どうかされたんですか?」 「うっううん、何でもないよ……(ご主人さま……ご主人さまかぁ……。白蓮ちゃんみたいに呼び捨てってのも距離が近く感じて良  いけど、ご主人さまって呼ぶのも良いかも……)」 「えっ? 別に……(翠姉さまみたいに一刀殿って堅苦しく呼ぶより、ご主人様って呼んで甘えたら優しくしてくれるかなぁ。北郷  さんの事兄さまって呼んでる子は他にも結構居るし)」 「桃香さん? 蒲公英ちゃん?」   何やら考え込んでいる風の二人に小首を傾げながら月が声を掛けた。月に声を掛けられた桃香が慌てた様に、そして照れた様な  顔で言葉を返す。 「ううん! じゃぁ、冷めないうちに運んじゃおう月ちゃん」   そう桃香に促され、朝食を一刀達の元へと運び始める月達であった。   そして壁を背にしながら桃香達の話を聞いていた者が一人。 「ふむ……、今度は桃香さまや蒲公英に先を越されるとは……。この趙子龍、まだまだ精進が足りぬと見える」   そう口にしながらも、表情の端々には少しの悔しさとどこかほっとした安堵の表情が見え隠れし、強がっているのは一目瞭然な  星であった。   朝食を運んでいた桃香や月達が一刀の部屋に近付いた時、その部屋から詠の明るい声が聞こえてきた。 「あっはははは! こっこれが桃香なの? さっきの愛紗のも笑ったけど、くっくっく……コッチのも……あっはははは!」   一刀と会話しているであろう詠の口から自分の名前が出た事に表情を変える桃香。しかし、会話の内容を知らない桃香は何故詠  が笑っているのかが判らず、怪訝な顔へと変わる。同様に月と蒲公英も顔を見合わせながら不思議そうな顔をしていた。 「失礼します、ご主人さま。朝げをお持ちしました」   そう一刀の部屋の扉の所で確認した月に一刀が答え、月は扉を開けて中へと入って来た。 「どうかされたのですか? 詠ちゃんの声が廊下にまで聞こえてましたけど」   そう尋ねた月に詠が笑いをかみ殺しながら答えた。 「月、これちょっと見てよ」 「何、詠ちゃん?」 「これが天の国の愛紗と桃香なんだって」   そう言って二枚の紙を見せ様とする詠。その時、一応一刀に確認を取るからと月に言われ廊下に控えていた桃香が顔を覗かせた。 「何、ナニ? 天の国のわたしと愛紗ちゃんて何のこと?」 「げっ、桃香!」   そう言って詠は月に渡そうとしていた紙を反射的に自分の体の後ろへと隠した。 「あれっ、劉備さんに馬岱ちゃん? ……何? どうかしたの」   そう口にしながら一刀も手元の紙と筆を何事も無かったの様にさりげなく片付ける。 「あっ、おはようございます北郷さん」   一刀に声を掛けられた桃香は慌てた様に改まり、朝の挨拶をする。そんな桃香につられる様に挨拶を返す一刀に月が厨房での経  緯を一刀に話す。一刀が桃香や月達と一緒に朝食をとる事に同意し、月が運んできた物を部屋の中に入れようとした時、蒲公英が  口を開いた。 「北郷さん、この耳が大きくて手の長いおじさん誰? それにこの髭の長い人相の悪い人は?」   左右の手にそれを持ちながら蒲公英がそう一刀に尋ねる。それを見た詠が慌てて後ろを振り向くが、そこに隠した物は無くなっ  ていた。 「そっそれは……」 「え〜! これわたしと愛紗ちゃんなんですか?!」   桃香の声に配膳をしていた月の手も一瞬止まる。桃香の横で蒲公英は肩を揺らしながら笑っていた。 「いっいや、こんな人だったて言い伝えられている……そう、想像図みたいなモノだよ」 「だって……、わたしこんなに耳も大きくないし手も長くないし……。それに、第一こんなおじさんじゃ……」 「まぁ、仕方が無いって言えば仕方が無いんだ。オレの居た国……君達の言う天の国では劉備って人物は男性で一八〇〇年以上昔に  生きていた人物だし、勿論彼を直接見た人なんてもう存在しない。詳しい人相なんて知る人が居ないし、何処まで本当の事が伝え  られたかなんて判らないんだから、彼の本当の特徴なんて判らないよ。劉備さんも黄巾の頃の天和の人相書き見た事あるでしょう。  あれと同じだよ、脚色もあっただろうし、余計な尾ひれや背びれが付いて訳の判らないものに……。だから気にする事無いって」 「でも〜……。えっ、天の国ではわたしって男の人なんですか?」 「うん。愛紗や鈴々、翠に朱里に雛里、それに月や詠も皆男性だね。ああ、もちろん華琳もだよ」 「…………」   一刀の言葉を聞いた桃香は固まっていた。同様に蒲公英や月も驚いた様な顔を見せている。唯一、先に話を聞いた詠だけが平静  を保っていた。 「う〜……」   一刀が描いた紙を見詰めながら、未だに桃香は何とも言えないような表情で小さく唸り声を上げている。そんな桃香に一刀は優  しく落ち着いた声で語りかける。 「こちらの世界の劉玄徳さまは可愛らしくて心根の優しい女性だってオレは知ってるから。もうそんな物に惑わされる事は無いよ」 「御遣いさま……」   そう笑顔で話し掛けながらじっと桃香を見詰める一刀と、一刀の言葉を聞いて頬を赤らめ呆けた様な表情で一刀を見詰める桃香。  そしてそんな二人を見ながら、詠と蒲公英は奇しくも似た様な事を心で思っていた。 「(コイツ無意識なの、それとも……。露骨な下心みたいないやらしさは感じないけど……、でこれをしてるんだったら天然のたら  しね……。だけど桃香も桃香よ。普段からぽややんとしてる娘だと思ってたけど、こんなにチョロいとは……。まぁ、あんな顔で  見詰められながらあんな事言われれば、ボクも気持ちは判らないでもないけど……。じゃなくて! これは余程ボクが気を引き締  めないと、月がコイツの毒牙に掛かるのも時間の問題じゃない)」 「(うわぁ〜、桃香さまこんな短時間でもうメロメロじゃん。これじゃぁお姉さまがイチコロなのも納得だね……。でも、ああやっ  て見詰められながらあんな事言われたら……いいなぁ桃香さま。とりあえずたんぽぽの事を子ども扱いするのを止めてもらうとこ  ろから始めないと、桃香さまやお姉さまと同じところに立てないよ。でも、そこを武器にするのもアリか……)」   そして、この部屋に居るもう一人の人物は、笑顔のまま優雅な仕草で朝げの椀を一刀の前に置いた。 「ご主人さま、せっかくの流琉さんが用意してくれた朝げが冷めてしまいますよ」 「ああ、うんそうだね、あり……が……とう……月」   月の顔を見た一刀は、背中に冷たいものを感じた。確かに目の前の月は笑っているはずなのに。月は笑顔で自分の朝げの用意を  しているはずなのに。その笑顔からは優しさや気遣いだけではなく、口では決して言い表せない何かを一刀は感じていた。  「ああ、戦場で春蘭とか恋を前にした兵士はこんな感じなんだろうなぁ」等と、一人納得する一刀である。   そんな挙動不審な一刀を、桃香と蒲公英は不思議そうな顔で、詠は生暖かい視線で眺めていた。   ちなみにこの後、桃香と蒲公英から一刀は無事真名を預かった事をここに付け足しておく。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   帝の長安行幸も二日目。前述した様に行事事態は簡素化され余計な行事は省かれており、過去に比べて進行自体に余裕がある。  それに、長安行幸の計画は魏の軍師達と朝廷の侍従達との間で一年以上をかけて綿密な協議が行われており、三国鼎立以降の平穏  さと大戦から数年が経った事による民達の落ち着きもあいまった現状により、余程の事がない限り破綻する事はないと言えた。   だが、いくら余裕のある工程とは言え皆が皆ゆっくりとしていられる訳ではなく、前述した各陣営との連絡役を受け持っている  者達や、帝以下皆の食事の準備等の監督を仰せつかっている流琉等は慌しく動き回っている。無論、華琳や桂花達もこの行幸を利  用した蜀を始めとする地方勢力との外交に勤しんでいた。西方との交易の拠点である西涼の安定支配は重要課題である為に、この  地方の有力豪族との友誼の為の顔見せ程度の会談から、西涼の安定支配の為のかなり突っ込んだ会談まで多種多様にわたっている。  特に秘密裏に周辺の五胡の特使まで招聘し、今後の関係改善や経済を始めとする交流についてまでも話し合われる予定であった。   帝の長安到着時の思いがけない出来事や帝の董卓に関する宣言も功を奏したのか、華琳や桂花達の想像以上に良い出だしとなっ  ているのも事実である。   皆が忙しくしている中、特に予定を聞いていない一刀は比較的手の開いている面々を連れ長安の市街へと繰り出そうかと画策し  ていた。そんな時、背後から稟に呼び止められる。 「どちらにお出かけですか、天の御遣い殿……。しかも、準備万端衣装まで取り替えて」   そこには式典用の甲冑でもなく、一刀のトレードマークの白い[ぽりえすてる]でもなく、市井の者達が着る普段着に近いもの  を着込んだ一刀が居た。そして、「チッ」っと舌打ちをしながら稟の方へと振り返る。 「今、舌打ちをしましたか?」   そう言いながらメガネの位置を直す稟。光の反射で稟の瞳が見えなくなり、稟から受ける圧力が増した様に一刀は感じていた。 「まっ、まさか……。いや、長安に導入されている洛陽様式の警備を確認に……」 「ではその様な服装ではなく何時もの[ぽりえすてる]の方がよろしくはありませんか?」 「ああ、でも目立つ格好では逆に長安の警備隊の邪魔に……」 「それに警護の者を付けた方がいいですね」   一刀の話を聞き入れる事無く話を進める稟。そんな稟に言い返そうとした一刀の出鼻を挫く様に稟が口を開く。 「それとこれは不必要ですね」   そう言って一刀に近付いた稟が一刀の懐から財布を抜き取った。 「ああっ、オレの財布!」 「巡察の最中に買い物はあり得ないでしょう。公務中なのですから」   稟は一刀の財布をサッサと自分の衣服の懐へとしまい込む。そして「取れるものなら取ってみろ」と言わんばかりの勝ち誇った  表情で一刀の顔を覗き込んでいた。流石の一刀も白昼堂々と城の廊下で稟の女性の懐を弄る訳にもいかず、口をへの字に曲げ抗議  の意思表示をするも稟の勝ち誇った表情が変わる事は無い。「こんな所で女性の懐に手を伸ばしてまで財布を取り戻そうとはしな  い」と一刀の性格を読んだ稟の勝ちである。 「ほら、月殿がお待ちですよ」   稟の示す先には月と詠が見える。 「ご主人さま、御召し換えをお手伝いいたします」 「早くしなさい、このおバカの遣い」   そう口にする二人を見て白旗を上げる一刀。一刀の行動を全て読んだ上での稟の登場であった様だ。 「まったく……、何様なのです白昼堂々と『ご主人さま』等と……。しかもあの二人を侍らしておいてよく平気な顔で……」 「ナニ?」 「何でもありません」 「そう……」   一刀を上目使いに見上げながら稟は小声でブツブツと呟いていた。その呟きが聞き取れなかった一刀が稟に尋ねるも、彼女は素っ  気無い返事を返す。そしてそれ以上追求する事も無く眉間に皺を寄せ渋い顔で一刀が稟の横を通り抜け様とした時、一刀の目の前  に一枚の紙を稟が差し出した。 「とりあえず、これをこなした後に時間がある様なら市街へ巡察に行くなり女性を物色するなりして下さい」 「へっ?」   一刀が受け取った紙にはぎっしりと文字が書かれている。よく見ればそれには名前と役職が書き込まれていた。 「一刀殿との会談希望者を綴ったものです。天の国では[りすと]と言うんでしたね」 「おいおい、何人居るんだよ……」 「これでも一刀殿の事を考えて必要最小限に吟味したのです。華琳さま等はこの数倍の人数をこなしておいでなのですから、逆に感  謝して欲しいぐらいです」 「いや、華琳と比べられても」   そう言って一刀は今一度稟に渡された紙に目をやる。そこには蜀の要人や文官から地方豪族の長、そして五胡の特使の名まで綴  られていた。   一刀とて、帝都洛陽の治安維持を預かる者として、そして『天の御遣い』として幾人かとの会談なり協議を持つであろう事は覚  悟していたが、稟から渡されたリストに綴られた人数は思ってもいない数であった。今更ながら、自分の置かれた立場や『天の御  遣い』と言う肩書きの大きさや重さを多少なりとも再確認する。 「早くこなしてしまえば市街見物に行く時間が取れるかもしれませんよ。先ずは蜀の桔梗殿と華雄殿からですね」 「了解……」   そう呟いた一刀は天井を仰ぎながら大きな溜息を吐く。そんな一刀を見た稟は追い討ちを掛ける様に口を開いた。 「以前にも言ったはずですよ。一刀殿に楽をさせる心算はないと」   そう再び勝ち誇った様な表情を見せる稟に対して、一刀は諦めにも似た表情を返す。 「何でウチにはこんな小姑みたいなのが……」 「今何と……」 「何も……、軍師殿の気のせいでしょう」   そう答えて月達の元へと向かおうとした時、一刀は一つ悪巧みを思いつく。稟に言われっぱなしと言うのも癪であった為、何か  一矢報いようと稟とのすれ違いざまに彼女の耳元で何事か呟いた。そして稟の表情が一変した事に満足したのか先程までとは打っ  て変わった表情で月達の方へと向かって行く。   一方の稟は、一刀から耳元で呟かれた直後に眼を大きく見開いた。身体は背筋を伸ばしたまま硬直し、視線はただ空中を焦点の  合っていないまま見詰めている。指先は細かく振るえ、唇もわなわなと細かく震わせながら開け閉めしてはいるものの言葉にはなっ  ていない。   丁度その時、そんな稟の元へ程仲徳こと風が現れた。風は稟から離れて月達の方へと向かっている一刀を確認すると稟に話し掛  けた。 「稟ちゃん、お兄さんにちゃんと伝えてくれたのですね。思った通りだったのですよ、お兄さんは一寸目を離すと……稟ちゃん?」   風の言葉に何も反応しない稟を不思議に思い、風は稟の上着の端を掴みながら稟の正面へ回り込みもう一度話し掛ける。 「稟ちゃん、どうしたの……」   風が稟の正面に回りこみそう話しかけた瞬間、「ぷはぁぁぁっ!」との稟の声と共に辺り一面を真っ赤な鮮血による霧に包まれ  た。   不覚にも正面からそれを浴びた風は、稟のそれで身体の前半分を真っ赤に染められている。そして掴んでいた上着の端から手を  離しながら口を開く。 「いやぁ、失念していました。最近はめっきり頻度が下がっていたので……。程仲徳一生の不覚ですねぇ。この恨み、晴らさでおく  ものか……」   そう呟いた風は「ジトッ」っとした目付きで再び一刀の方へと視線を向けた。その視線の先で一刀が風の視線に気が付いたのか  それとも偶々なのか風達の方へ振り返るのが見える。そして身体の前半分を赤く染めた風と、未だ流し続ける自らの鼻血の中で横  たわる稟を目にしながら、「してやったり」と言う様な表情を見せたのを風は見逃す事はなかった。   一刀は月達の側まで来た時、何の気なしに振り向いた。その視線の先には身体の半分を真っ赤に染めた風と自らの鼻血の海に横  たわる稟の姿が見える。「よしっ」と心の中で思った一刀であったが、一応とばっちりを受けた形となった風に関しては正直すま  ないと言う気持ちがある。風の身体前半分を赤く染めている中で、こちらを見詰める目だけが白くくっきりと浮き上がって見え、  正直かなり不気味であった。 「あっあの……ご主人さま……」 「ちょっと、大丈夫なのアレ……?」   赤く染まった稟と風の姿を目にした月と詠が絶句している。 「ああ。あれが洛陽名物、魏の誇る鼻血軍師だよ」   そう答えた一刀に月と詠は困惑気味の表情を見せながら視線を向けるが、直ぐに稟と風二人の方へ視線を戻した。そう答えた一  刀も再び風達の方へ視線を向けると、稟を介抱している風の姿が目に入る。その姿を見ながら一刀は口を開く。 「じゃぁ月、厳将軍を……」   そう一刀が口にした時、介抱している風の頭に居る宝ャがゆっくりと一刀達の方へと振り向いた。そして風と同様に体の前半分  を赤く染めた宝ャは左目を大きく見開き、普段とは違う血走った眼で一刀を見詰めている。彼と目を合わせてしまった一刀は、背  中に嫌な汗が流れている様な感覚に襲われていた。 「ねぇ……、今風の頭の人形勝手に動かなかった?」   そう神妙な顔付きで一刀に尋ねる詠。その横で月も不安そうな顔で一刀に縋る様にしている。どうやら宝ャが動いた事には二人  は気付いたが、彼が目を見開いたのは二人には見えていない様だ。だが、二人が気が付かなかったのか、一刀だけがそう感じたの  かは定かではない。現に今の宝ャは普段の表情に戻っている。 「んっ、ああ……詠の気のせいじゃないか? さぁ、厳将軍と華雄殿を待たせているみたいだから急ごうか」   若干棒読み気味の台詞回しでそう告げた一刀は月と詠に一刀の部屋へと向かう様に促す。本音を言えば、一刀は一刻も早くこの  場を離れたかったのであった。   自分に宛がわれている部屋に戻り普段の白い[ぽりえすてる]に着替えた一刀は、厳顔こと桔梗と華雄が待つ会談用の部屋へと  赴く。もちろんその着付けは月がおこなった。自分で出来るからと一応は断った一刀であるが、柳眉を下げ一途に懇願する月の顔  を見てしまっては、これ以上の抵抗は不可能である。嬉しそうに一刀の細かい衣装や髪のの乱れを直している月の姿を見ていると、  照れくさくもありがたくも感じる一刀であった。   戦の時前線に立つ事が無く、蜀での戦の後に早々に消えてしまった一刀にとって、桔梗と華雄両人とも先の大戦の折に遠目から  見ただけであるので実質的に初対面に近い。長安での宴の折に桔梗とは挨拶程度はかわしたものの、華雄はその宴に顔を見せなかっ  た事もあり時間は限られるものの向かい合って話しが出来る事を一刀は楽しみにしていた。   が、月に先導され二人の待つ部屋へ足を踏み入れた時、入り口の傍で平伏している華雄の姿に一刀は意表をつかれていた。 「えっ……? ナニ?」   思わずそう口にした一刀は部屋に用意された会談用の椅子に優雅に足を組みながら座っている桔梗とふてくされた様に睨み付け  る魏文長こと焔耶へと視線を向けた。視線の合った桔梗は呆れたような表情で肩を竦めると「先ずはそちらから」と示唆する様に  手のひらを一刀に向けながら華雄を指した。すると、平伏したままの華雄が口を開く。 「天の御遣いこと北郷一刀様に言上仕ります」 「あっ、はい」 「某、姓は華、名は雄と申します。字と真名はございません、御容赦下さいませ」 「うん……」 「某、董卓様の下で水関の守将を拝命仕るもその任を果たす事能わず。己の不徳故に董卓様を存亡の危機へと向かい参らしたのは  この華雄の責。この罪万死に値する事なれど、死にきれず俗世をうらぶれていたところ、蜀の厳顔殿より董卓様の存命を聞き及び  再会する事が叶い申した。その折、洛陽にて董卓様を存亡の危機からお救い下さったのが北郷様と董卓様より聞き及び、己の不明  を詫び北郷様には一言御礼申し上げたく恥を忍んでこの場へと罷り越しました次第に御座います」 「いや、華雄殿……そんな大仰な事では……」 「何を仰いますやら。北郷様の機転があったればこそに御座います。あの折、北郷様の機転があったればこそ某は再び董卓様と合間  見える事も叶い、今こうして北郷様にも御目文字いたす事叶いました。この様な機会を賜られた事、そして我が主君董卓様への数々  の御厚情この華雄伏して御礼申し上げまする」 「だから……」 「本来ならば、北郷様への謝辞としてこの命差し出すが道理なれど、某の余生董卓様が二度とあの様な窮地に向かい参らぬようお側  にてはべる存念。手前勝手ながらそればかりはどうか平に、平に御容赦下さいませ。先ずは某の真名を北郷様に呈するが常道では  御座いますが、某それを持たざる故にその儀は適いませぬ。それに替わるかは判りかねまするが、某幾ばくかの金品すら持ち合わ  せておらぬ素浪人にて、あるのはこの身体のみ。この貧相な某の身体では御座いまするが北郷様の御随意に……、某如何様な命に  も従う所存で御座ります。この様な老躯では御承知下さらないといたしまするならば、このそっ首北郷様に差し上げる事も厭いま  せぬが……」   途中から一刀は華雄の言をげんなりとしながら聞いていた。華雄の言や霞の人物評から一刀は華雄の実直な人柄に好感を持って  いたものの、今の極端な物言いに呆れてもいた。そして華雄が己の身体を云々と言い出した頃から周囲の一部の視線が生暖かいも  のに変わってきたのもげんなりとしていた一因でもある。   それに一刀には、今の華雄が過ぎた責任感と罪悪感から、少々熱を帯び暴走気味に話を進めているようにも思えていた。 「とりあえずは、某の身体をご覧になられてから……」   そう口にして華雄がおもむろに自分の衣装に手をかけ、その均整のとれた身体が露わになろうとした時、流石の一刀も慌てて口  を開いた。 「待って! 待って華雄さん、脱がないで!!」 「されど……」   一刀の言葉を聞いて一度はその手を止めるが、直ぐに再び手を動かし始める。そして小ぶりながら形の整った乳房が露になろう  とした瞬間、一刀は頭の中で何かが切れた様な衝動の元再び声を上げた。 「華雄!!」   今までの一刀の物言いとは違う語気の強まった言葉に華雄の手も完全に止まる。周りで事の成り行きを見守っていた面々も一刀  の一括を聞いて今までの雰囲気は霧散していた。 「誠意を伝える程度の為に、事もなげに己の命や身体を差し出すとは何事か! それとも、オレはその程度の者と馬鹿にしているの  か」   そう言い放った一刀の顔を目にした華雄は肌蹴た胸元を隠す事も忘れ平伏の姿勢に戻る。 「北郷様を馬鹿にするなど……滅相も……」   そこには狼狽した華雄の姿があった。   一括され再び改まった華雄と、それを厳しい形相で見下ろす一刀を見ながら桔梗は星が漏らしていた事を思い出していた。襄陽  で一刀と再会してから、酒の席で何度か漏らした言葉が星の偽らざる本心である事に得心している。   桔梗にしてみれば、『天の御遣い』に関しての風聞などは誇張された物であろうと少し醒めた見方をしていた。多かれ少なかれ  その類のものには尾ひれや背びれが追加されるものである。現に今の主君である劉玄徳に仕えようと決めたのは、劉玄徳本人に見  え言葉を交わした時であった。江州に流れ伝えられた桃香の風聞が興味を持つ切欠となった事は桔梗自信否定はしないが、焔耶の  ごとく会う以前から熱を上げる事等は無かったと言える。 「(なるほど、星がああも執着するのも得心がいったわ。今の御遣い殿と華雄の立場の差と言うのを抜きにしても、あの華雄がああ  も改まるとは……。丞相殿が側に置いておきたいと思うは必定か。あの魏の連中が骨抜きにされたのがよく判る)」   桔梗は一刀の立ち姿を見詰めながらそう思う。星の言うところの「あの時……、別の道を行かねば今と違う未来があったかも知  れぬ」と言う言葉が頭によぎっていた。 「(このお方は毒じゃな、紛う事なき猛毒じゃ。だが厄介なのは、御遣い殿と見えた女子は自らその甘美な毒に犯されたいと願う事  じゃな……)」   そう桔梗は思いながら、自分の身体の芯が熱く熱を帯びているのを自覚していた。   華雄は額を床に擦り付けながらかろうじて言葉を搾り出した。そんな華雄を見詰めながら一刀は彼女の前にしゃがみこむと、先  程とは変わって落ち着いた口調で話し始める。 「華雄さん、そんなに自分を安売りしない」 「はい……、あっ、いえ……」 「月や詠も言ってたけど、別にオレがやった事に特に自覚なんか無かったから、そんなにされても正直対応に困るんだ。あの時の状  態で月達が助かったのは天命って言うヤツだよ。」 「…………」   未だ平伏したままの華雄へと両の腕を伸ばしながら一刀は再び口を開いた。 「ほら、もう顔を上げて……」   華雄に顔を上げる様に促しながら一刀は言葉を続けた。一刀に促され、華雄は狼狽している様にも、一刀の手が両の頬に当てら  れている事に照れている様にもとれる表情を見せていた。 「百歩譲って、もしもオレがした事がその切欠となったって言うのなら善かったって事だし……、役に立ったのならそれで十分なん  だから」 「北郷様……」 「だからこの話しはこれでお終い。もう気にしないでいいから、いいね」 「はい」 「蒸し返さないんだよ」 「はい。年甲斐も無く舞い上がり聊爾な様を御見せいたした事、御許し下さいませ」 「うん。少し……いや、かなり驚いたけど、華雄さんの気持ちは伝わったから。ありがとう、華雄さん」 「いえ……、こちらこそ……」   一刀は華雄の返事に満足げに頷くと、腰を上げた。そして桔梗の待つ席の方へと視線を向ける。一方の華雄は、一刀の触れてい  た手が離れるのを名残惜しそうに目で追っていた。   そして、月に促され立ち上がった時には、華雄の表情はどこか晴れ晴れとしたものへと変わっている。一刀に退室する旨を伝え、  出口に近付いたところで振り返り、三度改まって口を開いた。 「北郷様、先程の言で御座いますが……。ただ勢いで口走ったと北郷様はお思いかもしれませぬが、あれらは全て本心からのもの。  二心は御座いませぬ。何時でも某をお召し下さいませ。如何様な御命令でも御要望にも従う所存で御座います。後、某の事は華雄  と呼び捨てて下さいませ」   そう口にした華雄は一刀に笑顔を見せる。それを見た一刀はゾクリとした。勿論、華雄の言葉を聞いたこの部屋にいる面々の再  びの生暖かい視線を感じただけではない。 「かっ、華雄……?」 「では北郷様、この場はこれにてお暇仕る」   結果に満足したのか、言うだけ言ってスッキリしたのか、意気揚々と退室する華雄と、それを無言で見送る一刀であった。 「いやはや、華雄にあそこまで言わせるとは……。恐れ入りましたぞ御遣い殿」   一刀が桔梗の対面の席に着いた時、開口一番そう口にする。そんな桔梗に一刀は溜息を一つ吐いて言葉を返した。 「やめて下さい、厳将軍。それに魏将軍も睨まないで……。後、月。そんな顔してると眉間の皺が戻らなくなっても知らないぞ」 「へう……。おっお茶を取りに行ってまいります」   自分の方を見る事もなく、そんな事を言われた月は慌てて一刀にそう告げる。そして、そそくさと詠を連れ部屋を後にした。 「本当に、見境無く誰でも口説くんだな……」   非難したげな顔付きでぼそりとそう呟いた焔耶に、一刀は眉間に皺を寄せながら言葉を返す。 「見境無くって……。で、厳将軍、お話とは?」   焔耶の視線から目を逸らしながら一刀は桔梗の方へと話を振る。そんな一刀と焔耶を笑顔で眺めていた桔梗であったが、一転畏  まって口を開いた。 「昨日の魏延の失礼を詫びに参った次第。昨日は真に御迷惑の数々、平に御容赦下され。焔耶、おぬしも頭を下げんか」   そう言って頭を下げる桔梗と、桔梗に頭を押さえつけられるも不満顔のまま頭を下げられる焔耶。そんな二人にに対して、一刀  は言葉を返した。 「厳将軍も、魏将軍も頭を上げて下さい。昨日の事でしたら謝って頂く事は何も……、煽ったのはこちらですし」 「聞きましたか、桔梗さま! やはりこの男が諸悪のこん……」 「ええい! お主は黙っておれ。されど、北郷殿に数々の暴言、しかも陛下のおわす城内で己の得物を抜く等と……」   桔梗の言葉に一刀はキョトンとした表情を返していた。それにつられる様に桔梗も小首を傾げる。 「いや、あの程度の事では特に……何か言ってきましたか?」 「いえ……、別段これと言って何も」 「うん……、ならば問題は無いでしょう。煽ったのはこちらですし、幸いこれと言って騒ぎにもなっていません。あの程度の事で今  迄も問題になった事はありませんが、一応こちらから探りは入れておきます。どうか気になさらないで下さい」 「そう……ですか。では、お言葉に甘えさせて頂きます」   そう答えた桔梗は笑顔で話す一刀を見ながら「やはり大物なのだな」と感じていた。『天の御遣い』と言う立場上、扱いが他の  魏の家臣達とのそれとは違うのだろうとは常々思っていたが、そう言う場合に往々として感じる異物感の様なものや鼻につく様な  ものがこの男からは見受けられない。天の国から来た事もあり、こちらの常識に疎い事もあるのだろうか等とも考えたが、昨夜の  酒宴や今話した事等からはこちらの常識から逸脱した者とは感じなかった。諸葛孔明こと朱里が口にした「普段は極めて常識人」  と言う発言に納得していた桔梗である。   だが、今の一刀は明らかにネコを被っている事は感じていた。 「されど、何故御遣い殿はあの様な事を? こやつの事何も聞いてはおりませんでしたか?」 「いやあの時、魏将軍が何だか落ち込んでいる様に見えまして……。それと、自分への対応が昔の春蘭や桂花に良く似ていたのが面  白くてつい……」   一刀の言葉に、桔梗だけでなく焔耶も興味を引かれたのか一刀の顔を不思議そうに見詰めていた。 「以前、春蘭や桂花も華琳大事でよくあんな風に突っかかってきたんですよ。それでこの子も……ああ、失礼。魏将軍も劉玄徳様を  大事に思っているんだなぁと感じて」   その言葉を聞いた焔耶は少し顔を赤らめ一刀から視線を外してしまう。そんな焔耶を桔梗は横目で一瞥すると笑顔を見せた。そ  して視線を一刀に戻すと桔梗は口を開いた。 「成程……。されど、こやつは桃香さまの事となると歯止めが効きませぬ。煽るのも大概にして下され」 「まぁ、あの時は側に雛里もいたし、秘密道具もあったから廊下まで逃げさえすれば大事無いかと。しかしあの時の魏将軍の殺気と  言うか気合は流石武人ですね。正直、自分もかなり慌てていました。甘く考えいた自分が間抜けだと言われても反論のしようがあ  りません」 「あっあんな事を言われれば誰だって怒る……。だからお前が悪い……」   思ってもいない一刀からの賞賛の言葉に再び視線を一刀へと戻すものの、焔耶は強がった風な事を口にしながらもバツの悪そう  な顔を見せながら言葉の最期の方は段々と声が小さくなっていた。   そう口にしていた焔耶も初めこそは一刀を正面で見ていたが、上目使いになり、最終的には下を向いてしまう。嫌味の一つでも  言われるかと思っていた焔耶であったが、今は何やら思わぬ居心地の悪さを感じている。だが、桔梗にお灸をすえられ、今は頭も  冷えており、感情に任せて言葉を発する事は無い。そして一刀の対応の仕方には居心地の悪さというよりも、くすぐったい様な、  星や蒲公英とは又違ったやり難さを感じていた。相手が明らかに年上の異性と言うのもあるのかもしれないし、星や蒲公英の様に  明らかに煽っている様な悪意を感じない為かもしれない。   そんなところに月と詠がお茶を携えて戻って来た。良い香りを漂わせながら各人の前にそれを置いていく月に一刀と桔梗は笑顔  で会釈する。そしてそれを口にしながら、桔梗はさも思い出した様に話の方向を変えた。 「そう言えば、『閃光弾』でしたかな、あの折目くらましに使われたのは」 「ええ、真桜の自信作です。存在を知らなかった魏将軍にとって、あの薄暗い部屋で使えば効果は覿面でした」 「あの後、こやつが御遣い殿は五胡の妖術使いだと騒ぎ立てましてな」 「桔梗さま!」 「はははっ……。そうだ、魏将軍」   一刀は焔耶の注意が自分に向いたのを確認すると、真面目な顔でおもむろに両手を顔の高さに上げた。桔梗達も一刀の声を聞き、  その手元に注目していた。 「うわっ! 指が!!」   一刀が見せたのは『親指が離れるマジック』。そして、一刀が想像した以上の反応が返ってきた事に思わず顔が綻ぶ。それを見  ていた面々は一刀の[まじっく]より、焔耶の声に驚いていた。 「うん、いい反応だ。こんなに魏将軍が喜んでくれるならもっと色々と持ってきたんだけど」   満足そうにそう話す一刀に、焔耶は顔を赤らめ慌てて抗議を口にする。 「おっ、驚いてなどいない! そんな子供だましに驚く訳が無い。それに、喜んでもいない!」   焔耶はそう口にするものの、あの反応を見せた後では説得力は無い。尚も焔耶は反論を続けるも、それを一刀は笑顔を絶やす事  無くいなしていく。そしてそんな一刀に益々焔耶はむきになっていった。   そんな二人を見ながら桔梗は思う。こんな短時間で焔耶が良くも悪くも感情をここまで表に出している事を良い変化だと。そし  て、今の焔耶を引き出した一刀に感心してもいた。桔梗に言わせれば、今の二人は何を言っても怒られないと判っている妹が兄に  甘えている様である。だが、焔耶が一皮向けるには未だ何か物足りないとも思う桔梗であった。襄陽で一刀と邂逅して以来、以前  とは一味違った技の冴えを見せている関雲長こと愛紗や呂奉先こと恋を目にしている桔梗にとって尚更である。   そんな事を考えていた桔梗に月が視線で合図を送ってきた。その意図を察した桔梗は未だに続く一刀と焔耶のじゃれ合いを見続  けたいと後ろ髪を引かれつつも話を切り出す。 「いやはや御遣い殿、お手間をとらせましたな。そろそろお暇させていただきます」   そう口にして桔梗は腰を上げた。桔梗の言葉に一刀は焔耶との会話を中断し、桔梗の方へと体の向きを向けながら同様に腰を上  げる。一刀が焔耶から視線を外した時、焔耶は一瞬残念そうな顔を見せたが、それを一刀をはじめとするこの部屋に居た皆が気が  付く事はなかった。ほんの一瞬の出来事だった為に、もしかすると焔耶本人も気が付いていないかもしれない。 「いえ。自分も厳将軍や魏将軍とお話し出来て嬉しかったです」 「御遣い殿にそう言っていただけるとは、長安まで来た甲斐があると言うもの。僥倖、僥倖。焔耶よ、お暇するぞ」 「あっ、はい」   桔梗はそう焔耶を促すと少々仰々しく一刀に対して礼を取った。勿論、そんな桔梗に一刀も苦笑いを浮かべながらも礼を返す。  そんな二人を見た焔耶も慌てて礼の姿勢をとる。今の焔耶には一刀が部屋に入って来た時の様な刺々しい雰囲気は微塵も無くなっ  ていた。   そんな焔耶が頭を上げる事無く口を開いた。 「北郷殿、この度の事悪かったと思っている」 「魏将軍、その事は……」 「いや、まだわたしは言葉にしていなかったから……。では、失礼する」   そう言って焔耶は今一度深々と頭を下げと、きびすを返し扉へと向かって行った。そんな焔耶を目で追っていた一刀は横に立っ  ている桔梗に視線を向ける。その視線の先にはニヤニヤと笑う顔を隠す事無く、一刀を見詰める桔梗の姿があった。 「あれがあの様な素直な物言いをするとは……。『百聞は一見に如かず』とは正にこの事。では御遣い殿、今後とも焔耶共々幾久し  くよろしくお願いいたしますぞ。今はこれにてお暇仕りまする」   そう満面の笑みで言い放った桔梗は、一刀の答えを聞く事も無く扉へと向かっていく。一刀もあえて何も口にする事も無く桔梗を見送っている。正直、何を言ってもやぶへびになる様な気がしていた。   そして、扉まで後一歩と言うところで振り向いた桔梗は妖艶な表情で口を開く。 「御遣い……いや、北郷殿。近々に改めて御礼に伺いまする。ああ、何も申されるな、焔耶の事とは別で御座います故。その折は二  人きりで、時も場所も改めて……。北郷殿には必ずや御満足頂ける所存。では……」   そう言って満足気な桔梗の後姿を、ただ黙って見送るしかなかった一刀であった。   桔梗達との対面も終わり、一刀は本格的に面会希望者達との会談を始める。   面会者達にとって、今回の事は先ず『天の御遣い』なる者の確認と、名と顔を売る程度の友誼を結ぶ事であった。政や経済等の  突っ込んだ話しは、海のものとも山のものとも判らぬ一刀よりも、桂花達三軍師と行うと言うのが極自然な事である。   だが、一刀と会談した者達は良い意味で興味を引かれる事となる。一刀と対しての話し易さや親しみ易さもさることながら、一  刀と同じ空間に居る事の心地良さを感じていた。   一族や部族の代表としてこの場に居る者は、漏れなく一廉の者達であり、この様な交渉事には精通している者が大半である。そ  んな海千山千なしたたかな者達が、気が付けば自分達の歩調ではなく一刀の歩調に乗せられていた。三軍師達や他の官僚達とは違っ  た今の状態に皆一様に違和感を感じるが、それを不快ではなく心地良いと感じている。中にはそれに警戒感を感じている者も少数  ではあるものの存在していたが、一刀に対し露骨な敵愾心を見せる者は皆無であった。   そして、今の状態を作り上げている要因の一つとして、月の存在も大きいとも言えた。面会者の呼び出しや時間の配分や調整等、  一刀の秘書的な役割を月が行ってたのである。月自身決して面談の内容に口を出したりはしないし面談の最中は同席等はしないが、  今回の面会者の殆どが西涼や蜀の者達である事から、月の存在は絶大な意味を持っていた。   西涼や蜀の者達にしてみれば、月の生存は今迄も公然の秘密であり今更驚く事ではない。だが、今迄決して表に出る事は無く蜀  でも裏方に徹していた月が、この様な場所でまるで一刀に傅いている様に振舞っていれば話しは違ってくる。魏や曹孟徳の威を借  りて無理やりやらせているのではなく、健気に一刀に尽くしている月の姿を見れば尚更であった。   そんな月の姿を見れば、特に西涼勢の一刀に対する印象は劇的に好転する。特に部族の長や地方豪族等は、独り身の一刀に自分  の娘や一族の年頃の娘を「嫁に」と言い出す始末であった。それを一刀がやんわりと断れば、「嫁がだめなら妾でも。いや、屋敷  の下女でも構わない」と食い下がる者までいて一刀は対応に苦慮していた。   実際会談が始まれば、当初不平を口にしていた一刀が今は楽しんで自らそれに対応しているのは周りの者から見ても明白である。  華琳や三軍師達程の高度な政治的な協議は無いが、地方勢力との友誼を結ぶと言う事に関しては当初の期待値以上の成果をあげて  いた。   特筆すべきは、一刀との面談後の相手の雰囲気である。華琳や三軍師達との協議が決裂した場合等は、かなり険悪な雰囲気で退  室する者が見受けられるのに対して、一刀の場合それが無い。例え相手が思うような発言を一刀から引き出せなかった場合も、例  え何一つ交渉が纏まらなかった場合も、友好的な雰囲気で会談の終了を見せる。かえって、一刀の側の方が有利な条件を引き出し  ていた等も多く見受けられ、魏に対してだけではなく一刀に対しても信頼を多く置く者まで現れていた。   この一刀の一連の対応から、後年魏国内外の地方勢力に対し絶大な信頼と影響力を持つ礎となるのだが、今の一刀には毛頭その  様な事を考えてはいない。今の一刀にあるのは、以前の自分が知らなかった周辺勢力に対しての純粋な興味と、未だ漠然とではあ  るもののこれからの魏の一翼を担う事への責任と自覚であろう。稟に言われた事を一刀なりに形にしようとしているのかもしれな  い。   勿論、会談の相手側も初めて見える天の御遣い相手にいきなり本格的な交渉を持ちかけてはこない。あくまでも今回はお互いに  顔見せ程度と割り切っているのもより良い出会いと結果を残しているのかもしれない。   そして、一刀に心地よい疲労を残しながら長安行幸の二日目は終わりを告げるのであった。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   長安行幸は当たり前のように何事も無く順調に進んでいた。もちろんそうなる様に下準備や根回しが行われた結果であるが、こ  こに集った者達が今の安定を破綻させる事無くこの先へと進もうとお互いの思惑が合致している事も大きい。誰も好き好んで戦を  したい訳ではない。   確かに今の安寧の世に馴染めていない者達も存在するが、大戦から三年も過ぎればさすがに思考の切り替えも出来つつある。三  国の下に付く事を善しとしない気骨を見せるものも存在したが、現在の帝を頂点とし三国が鼎立した今の秩序に逆らう事に意味は  無い。魏を中心とした今の正に正道とも言える大陸の運営を目の当たりにすれば尚更である。   だが、巨大で強大な魏に対して不安を持つ者がいるのも事実であった。三国が鼎立したとは言え、「実質は魏が中心となりこの  大陸を運営しているのは紛れも無い事実であり、帝であっても口出し出来ない部分もある」と外部には思われているが、実際は魏  が主導的立場には居るものの呉や蜀そして帝や朝廷の意向等もかなり取り入れられており、魏の提示した政策が他の二国や朝廷か  らの意向で修正又は撤回される事も多々あるのも事実である。ただどうしても魏が目立つ事には代わりないので、外部や市井の者  達がそう感じるのも致し方ない事でもあった。   魏内部に目を向ければ、曹孟徳を絶対の頂とし文武百冠がそれに付き従うと言う印象を外部の者が感じ実際もそうであるが、一  癖も二癖もある軍師達が華琳の意見にただ唯諾々と従う訳ではない。一度方向が決まればそれに邁進するものの、そうなるまでの  過程では稟等はかなり辛辣な意見を華琳に対し口にするし、あの桂花ですら華琳と激しい論戦を交える事もある。外部の者達が思  うほど全て華琳の思い通りという事は無い。   そして今は天の御遣いが居る。以前朱里が口にしたように、公私にわたり良くも悪くも魏に多大な影響を齎すこの男の存在は、  目に見えるところ目に見えないところで様々に魏を後押ししていると言えた。   一刀の実質的な外交デビューでもある今回の長安行幸であるが、これについては華琳達も不安が無かったと言えば嘘になる。一  刀の事は信頼も信用もしているが、やはり考え方の細かい部分に埋めようの無い差異があった。それはあちらの世界とこちらの世  界、置かれている状況も体制も隔絶していた為でもある。そして、周りが思っている以上に一刀の情に厚いところを危惧していた。   それは普段の暮らしの中では大いに賞賛できる事ではあるが、政の中では過ぎれば仇となる。使いどころを間違えたり、必要以  上にそれを用いれば問題となりえた。   だが、今のところはそれは杞憂に終わっている。会談初日の結果を見た華琳は、それに大いに満足していた。   長安行幸の三日目。一刀はついに「昼食をとる」と言う名目で長安市街に繰り出す事に成功していた。勿論、一人で繰り出す等  と言う無粋な事はしない。城内で暇そうにしていた幾人を連れていた。 「なぁ、そう言えば何で今回は美以達はここに来てないんだ?」 「そう言えばそうだよね。鈴々それ取って」 「うん、これか。鈴々は良く知らないけど、何でも龍にお供えがどうだとか言ってたのだ」 「へっ……、龍……? 南蛮には……いるの?」 「朱里ちゃんが言うには、南蛮では何年かに一度龍を鎮めるためにお供え物をするんだそうです。わたしは噂を聞いた事があるだけ  で、実物を見た事はないんですけど」   その答えを聞いた一刀は食べていた箸を止め、その声の主をじっと見詰めていた。 「んっ? 何かな一刀さん」 「蜀の国主さまが、こんな所でお昼食べてていいの?」 「うんっ、多分大丈夫」   屈託の無い笑顔でそう答えた桃香を見て一刀は小さく息を吐く。本当なら、西涼の食生活に詳しいであろう馬孟起こと翠や蒲公  英を連れて来たかったのだが、今回は二人にとってお里帰りの意味もあるので合う相手もそこそこに多く、連れ出すのには無理が  あった。よって、城内で暇そうにしていた鈴々と季衣を連れて行く事とした。そこに偶々かち合ったのが、早めの昼食をとろうと  していた桃香であった。   今回は蜀の面々は招待されている側なので、確かに華琳に比べれば桃香の会談は数が少ない。そして実務に関しては朱里や雛里、  そして愛紗や紫苑が多いとも一刀は聞いていた。だが、国主が不在でもいいかと言われればだめだろうと一刀は思う。桃香の持つ  『ほんわか』とした柔らかな雰囲気は会談相手に与える良い効果を持たらすであろうと一刀は考える為に尚更であった。 「そう言えば、一刀さんは長安行幸の後は直ぐに襄陽へ向かうんですか? それとも一旦洛陽へ?」 「んっ? ああ、一旦洛陽に戻るよ。どうして?」 「ううん。もしこのまま襄陽に向かうのなら、成都に寄って行って欲しいかなぁって」 「ああ、それは魅力的なお誘いだなぁ。前回はろくに見物する暇も無かったし」 「えっ、あっ、ごめんなさい……」   華琳から、一刀が消えたのは成都陥落の夜だと聞いていた事を思い出した桃香はすまなそうな表情を見せながら俯いてしまう。  そんな気を使ってくれる桃香が可愛らしく、そして嬉しく思った一刀はなんの躊躇いも無く自然に下を向いたままの桃香の頭を撫  ぜていた。そんな一刀の行動に驚いたのか、桃香はゆっくりと顔を上げる。その先には優しい表情で桃香を見詰める一刀の姿があっ  た。 「何も気にしないでいいよ。別にオレがこちらの世界から消えたのは桃香のせいじゃないから」 「一刀さん……」 「こうしてまた戻ってこれたし、あの頃とは違う形で桃香や蓮華とも知り合えた。ああなっちゃった原因はオレにあるし、薄々ああ  なるのはオレも感じてたし」 「そう……なんですか?」 「ああ。逆に、あの後の大変な時に居なかった俺の方がすまないって思ってるよ」 「そんな……」 「華琳や桂花達から聞いたよ。戦後の処理が大変だったって事は……」 「そんな事ないです。それは承知の上でしたから。後から考えたら、華琳さんは後の事も考えてああいう終わらせ方をしたんじゃな  いかって思うんです。そう考えたらやっぱり華琳さんは凄いなぁって……、わたしなんかよりずっと先を見てたんだなぁって……。  そんな事考えて落ち込んだりした時もあったんですけど」   そう言って照れたような笑顔を見せる桃香。そんな桃香に一刀は表情を変える事無く言葉を返す。 「そう自分を低く見る事はないよ。前に朱里も言ってたんだけど、華琳と桃香は目指すところは同じだったと思うんだ。そこにたど  り着く道筋と、それを思った時の立ち位置は少し違ったけどね」 「立ち位置……」 「そう。それに、華琳に春蘭や秋蘭が側に居たように、桃香には愛紗や鈴々が居た。そして華琳のところには桂花や霞をはじめとす  る仲間が集まって、桃香のところには朱里や雛里そして翠や紫苑達が集まった。よく似てると思わない?」 「そっ、それは……」 「彼女達英傑は魏でも呉でもなく桃香を選んだ。という事は、華琳には無くて桃香にだけ感じた何かがあったて事さ。だからもっと  自信を持って」 「あはっ。一刀さんにそう言われると何だか自信が沸いてきました」 「そう、まぁオレも出来る事なら手伝うからさ。何でも言ってよ」 「何でも? 何でもお願いしていいんですか?」 「何でもと言っても、オレの出来る事ならね。まぁ、政の事なんかは余り役には立たない……」 「じゃっ、じゃぁ。一刀さん! わたしを一刀さんのおよ……」 「桃香さま!」   桃香の言葉を遮る様に言葉を掛けてきた声の主に桃香は顔を向ける。その視線の先には、肩で息をする見慣れた顔があった。 「えっ? あっ、愛紗ちゃん?」 「何をこんな所で一刀殿と悠長にお昼を食べてるんですか!」   桃香と一刀のみに注意を向ける愛紗に対して、ある意味無視されていた同席している二人が声を上げる。 「愛紗、鈴々も居るのだ」 「ボクも居るよ」   その声に一旦は視線を向ける愛紗であったが、直ぐに元の視線に戻り再び口を開く。 「えっ、鈴々と季衣も居たのか。羨ましい……じゃ無くて、先方様がいらっしゃってるのですから城にお戻りください」 「一寸待って愛紗ちゃん。今、大事な話の途中……」 「一寸じゃありません、戻りますよ。では一刀殿、失礼致します」 「待って愛紗ちゃん、痛い! ああ、一刀さんまた後で、必ず! 痛いって、ちゃんと歩くから……」   桃香は襟首を掴まれ、愛紗に引きずられる様に連れて行かれている。とても一国の主に対する臣下のとる態度ではないが、何故  かその姿が奔放な姉と真面目な妹と言う風に見え、ほのぼのとした雰囲気を醸し出しているのは劉玄徳の人徳のなせる業なのかも  しれない。そんな二人を止める事無く手元の料理をその間も口に運び続けていた『桃園の三姉妹』の末妹こと鈴々もどうかとも思  われるが。 「やっぱり二人とも大きいよなぁ……」   長安の雑踏の中へ消えていった桃香と愛紗を目で追っていた季衣がぽつりとそう漏らした。 「んっ? 何か言った季衣」   季衣が漏らした言葉にそう言葉を返した一刀。そんな一刀に今度は鈴々が口を開いた。 「お兄ちゃんも大きい方がいいのか?」 「二人とも何言ってるんだ?」   一刀の言葉を聞いた季衣と鈴々はしばらく一刀の顔をじっと見ていたが、おもむろに二人顔を合わせると頷き声を上げた。 「おっちゃん! おかわり!!」 「鈴々もなのだ!」   そんな二人を見ながら、「持ち合わせで足りるかな?」等と見当違いの事を考えていた一刀であった。   その夜。 「おじさん、お昼食べに行くなら璃々も一緒に連れて行って欲しかったなぁ……」 「ん?とりあえず下見にね」 「そうよねぇ……。華琳もそう思うわ」 「いや、華琳はそんな暇なかっただろう」   夕食を済ませた後、帝のご機嫌伺いを済ませ部屋に戻って来た一刀を迎えたのは、少々機嫌の悪い璃々と華琳であった。既に一  刀が桃香を連れ市街に昼食を食べに城を抜け出した事は城内に知れ渡っており、一刀と顔を合わせた魏や蜀の面々は「やんわりと  釘を刺す者」「遠まわしに嫌味を口にする者」「露骨に文句を言う者」等様々であった。あの月でさえ一刀に出すお茶が「熱過ぎ  て」「渋く」「量も多過ぎる」物になっている始末である。 「天の御遣いさまは随分余裕のありますこと」 「ええっと、華琳さん……」   そう口にした一刀が華琳の方へと視線を向けると華琳はプイッと視線を外す。そして一刀が璃々の方や他に視線を向けると再び  視線を一刀へと戻していた。だが、一刀の右の袖をしっかりと掴んだまま離す事は無い。そんな華琳の挙動は流石の一刀でも気が  付いている。そんな華琳の可愛らしい拗ねた仕草を感じて思わず抱き締め様と一刀は思うのだが、今は隣に璃々が居る為にそう言  う訳にもいかない。璃々は璃々で、昼間の件でやきもちを焼いているのか、ただ甘えているのか、一刀の左腕にしがみ付いたまま  で一刀は身動きの出来ない状態である。   しばらくそんな状態が続いていたのだが、埒の明かない現状を打破するべく一刀は一念発起して行動に移そうとする。「このま  ま二人を抱き締めたまま、なし崩しに寝てしまえ」というある意味積極的ともやけくそとも言える対処であるが……。   その矢先、華琳が動いた。 「璃々、こんな薄情なおじさんほっといて、今夜はお姉ちゃんと寝ましょう」 「うん」   華琳の言葉に答えた璃々は二人を抱き締め様と量の腕に力を込めたままの一刀の上を跨いで華琳の横に潜り込む。そんな璃々の  場所を確保する為に、華琳は一刀を足で寝台の端へと押し出した。 「お休み、御遣いさま」 「おじさんお休み」   そう言った二人は直にすうすうと寝息を立て始める。そんな二人を恨めしそうに見詰めながら、一刀は少々……いや、かなり歪  な「川」の字の端で一人寂しく眠りに付くのであった。     長安行幸:中日 了   おまけ   一刀の桃香を連れての城抜け出しが城内に知れ渡った頃、一人風がある人物を探していた。 「多分この辺りに……、居ました居ました」   風の視線の先には、一人庭を眺めながらブツブツと独り言を口にしている星の姿があった。 「何故桃香さまなのだ。わたしが暇にしているだろうこと等一刀殿なら直ぐに調べがつくだろうに……」 「星ちゃん」 「おお風か……。何用だ?」   誰が見ても不機嫌な星がぶっきらぼうに風に顔を向ける事無くそう答える。今の星の状態を予測していた風であるが、そんな事  はおくびにも出さず何事も無い風で話を始めた。 「いやぁ、お兄さんにも困ったものですねぇ」 「…………」 「桃香さんだけでなく、月ちゃんには『ご主人さま』と呼ばせて悦に入っているし、華雄さんとは『手篭めにしていい』なんて約束  は取り付けるわ、桔梗さんには『礼は身体で返す』なんて言われても断らないし……」 「ぐぬぬ……」 「ああ、紫苑さんが璃々ちゃんをだしにお兄さんの寝込みを襲う算段をしているとか……」 「ああっ! ……もうっ!!」   そう声をあげ、星は鼻息も荒く大股でその場を後にする。そんな星を目で追いながら風は口を開いた。 「上手く焚き付けられました」 「何処が上手くです。やり過ぎですよ風」   そこに入れ違いに稟が現れた。どう考えても星が立ち去ったのを確認してから現れたのは明白である。 「いえいえ、何だか星ちゃんが背中を押してもらいたがっている様に見えたので」 「まぁ、彼女は口で言うほどには百戦錬磨と言う訳ではありませんし」 「本当の星ちゃんは初心で乙女さんですからねぇ。昔は一緒に旅もした仲ですから、星ちゃんも幸せになって欲しいのです」 「ですが彼女、思った以上に独占欲が強くてやきもち焼きですよ」 「まぁ、後はお兄さんにお任せなのです」 「ふむ、ですが風。口ではいい事を言っているのですが……、何なのですその顔は」 「ふふふ……、ただ呑気に楽しくこの長安行幸を終わらせる気は無いって事なのですよ。お兄さんにも多少の痛い目には合って貰わ  ないと」   そう口にした風の言葉に溜息を返す稟。そして二人は小さくなっていく星の後姿をぼんやりと眺めるのである。   暗雲立ち込める、ある日の長安の午後であった。   も一つおまけ 「よしっ!」   姿見の前で気合を入れているのは紫苑。あくまでも自然を装う薄化粧。身に着けている新品の夜着は身体の線が全て透けており、  正直衣装の体はなしていない。風呂で普段以上に時間をかけ磨き上げた身体には、洛陽から取り寄せたと言う香水を振りまいてい  た。 「そろそろね……」   そう口にした紫苑は上着をもう一枚肩に掛けると、今一度姿見に映る自分を見た。そして何か言い聞かせるように頷いた時、部  屋の外から声を掛ける者が居た。 「黄将軍は御在室でしょうか」 「この様な刻限に何事でしょう」 「警備隊の者です。北郷隊長からの伝言をお伝えに参りました」   その言葉を聞いた紫苑は扉を開ける。その先には見覚えのある顔が見えた。 「あら、あなたは洛陽で」 「あっ、はい。あの時は失礼しました」   紫苑が自分を覚えていてくれた事の喜びと、今自分の前の紫苑の艶姿を目にした事で彼女は顔を赤くしていた。 「でっでは北郷隊長からの伝言をお伝えします。『璃々ちゃんはこちらで寝かせるのでご心配なきよう』との事です」 「でも、御迷惑では……」 「それと、璃々さまからも」 「璃々から……」 「では、『璃々は今夜おじさんと一緒に寝るからお母さんは迎えに(邪魔しに)なんか来なくていいから』です。……でっでは失礼  します」   伝言を伝えた隊員は先程とは打って変わって血相を変えながらその場を後にする。まるで何か怖ろしげなものに出会ったが如く。 「璃々……。我が子ながら、末恐ろしい子……」   そう口にした紫苑はその場に力無く崩れ落ちたと言う。   璃々に成長に色々な意味で紫苑が涙した長安の夜であった。