玄朝秘史  第四部第三十四回『漢中決戦 その七』  1.決着  孫呉の武将、周幼平こと明命は彼女の部下を引き連れて、戦場に潜み続けていた。  部隊を動かせば、その動きはどうしても周囲に認識される。  だが、ごくわずかな手勢だけならばどうか。  まして、それが鍛え上げられた諜者ばかりで構成されているとしたら。  亞莎の部隊とは異なり、明命の部隊は、そもそもが一般から募集された兵は配属されていない。全てが工作に長けた技巧者ばかりであった  彼らは呂蒙隊の兵たちが隠れ潜めるように指導し、進む道を探り、彼らの不用意な動作を抑えて、戦場への唐突な出現を可能としたのである。  亞莎の部隊が、この戦場で戦い抜き、死ぬための部隊であったとするならば、彼らはそれを見届け、孫呉にとって有益な情報を持ち帰るための部隊であった。  故に、亞莎と愛紗の一騎打ちが始まった後、明命は彼らをいくつもの集団に分けてその場を離れさせた。  一部はそのまま本国へ戻り、残りは戦場のそこかしこで蓬莱と蜀漢、両軍の兵に紛れて、戦場の推移の一部始終を確認している。  その中で明命とそれに追随できる選りすぐりの部下たちは、亞莎の様子を観察し続けるため、比較的元の場所から動かずにいた。  そこでは、呂蒙隊最後の突撃が始まっている。  いかに凄惨な場面を見慣れている密偵ばかりといえど、いや、常は孤独に活動する密偵であるからこそ、短い間とはいえ共に過ごした者たちが死に行く様を見守るのはつらいことであろう。  ましてや、すでに手傷を負う兵たちが挑む相手は、大陸中に名高い武人、関雲長である。  だが、彼らは一言もなく、五〇〇の友が死んでいくのを見つめ続けていた。  目も見えない様子で愛紗にすがりつくようにつっこみ、青龍偃月刀の一撃で叩き斬られる者。  腕を無くし、失血にふらつきながら、背後から迫る愛紗の部下たち――亞莎のほうが部下を投入しているのだが当然だが――を押しとどめるべく奮闘を続ける者。  愛紗の着物をつかんだ手を切り落とされ、すかさずがっきとかみついたところを切り落とされても、鎧に歯を食い込ませ、落ちようとしない生首。  自らの血を口に含み、敵兵に吹き付けて、その隙をぬって愛紗に突っ込み、頭を割られても、なお進もうとする男。  臓物がはじけ、腕が飛び、首が転がる。  目が見えずとも、武器を振るえずとも、彼らはひたすらに声をあげ、体全体を使い、その血や汚物すら用いて敵をひるませた。  百人が死ぬ間に十人が愛紗にたどり着けばいい。  十人が組み付き、そのうちの三人が残ればよい。  いや、三人である必要はない。  首が三つ、腕が六つ、足が六つ絡めば上出来だ。  亞莎の真名を預かったまま無様に生き残ることこそを恐れる兵たちの勢いを、愛紗の部下たちはとどめることができない。  たとえ三方から打ちかかろうと、槍が刺さったまま動く修羅に、足を切られても腕と歯を使って前に進もうとする悪鬼に対して、なんの意味があろうか。  けたけたと笑い、狂ったように――いや、狂いながら、突っ込んで、刃物を振り回しつつも、のど頸を食い破ってとどめを刺してくる獣に、どう対処すればいいというのか。  子供のように楽しげに笑いながら亞莎の真名を呼びつつ、戦友の遺骸を投げつけてくる魔物に、足をすくませずにいられようか。  数で言えば、愛紗の部下は、孫呉の兵をはるかに上回った。だが、その大半が他の部隊へ合流するために動き出していた上、一騎打ちを囲んでいた兵たちも、死兵の勢いには圧倒されてしまう。  結果、愛紗は数百の死骸に囲まれ、生首や死者の腕に絡みつかれ、ついにその動きを止めた。 「なんだ、なんなのだ、こやつらは!」  愛する者を守るため、生まれ故郷を守るため、その命を捨てる。そのことの意味はわかるし、その気概も十分に理解できる。  なによりも、愛紗自身、守りたいものがある。桃香や蜀の国のためなら、彼女とて命を捨ててかかるであろう。  だが、命には捨て時、使い時というものがある。  いかに自分を絡め取るためとはいえ、部隊をまるまる、しかも、その将の真名まで利用して死兵と化すなど、尋常の思考とは思えない。  とはいえ、その策によって彼女の動きが阻まれているのは事実だ。  死体が積み重なり、腰まで死者の中に埋もれたとなれば、いかに愛紗とて動けるはずもない。  これが生きている者ならば、かえってその動きを利用して吹き飛ばすことも簡単だ。だが、彼女の手足を縛るすでに生なき腕や足、顎に元々の動きなどあるはずもない。  まるで泥濘に埋もれているような状況であった。  いずれ、自分は部下たちによって『掘り出される』だろうが、それには、時がかかる。  なにより、まずはおののき腰が引けている部下たちに活を入れなくてはいけない。  果たして、それを亞莎が許すだろうか。  己が死地に追いやった仲間の屍を踏みつけ足場としながら、悠然と近づいてくるこの女が。 「見ましたか、これが孫呉の屍絡み」 「なんとおぞましい。これを孫呉の技と言うか」  愛紗は心底からの嫌悪を込めて、言葉をたたきつける。  その間もなんとか亞莎に一撃を入れることはできぬかと考えてみるが、愛用の得物である青龍偃月刀は、ある男のまさに決死の突撃で、その手を離れてしまっている。 「己らの醜さを戦場に曝しに来たというか?」 「いいのです。それで」  愛紗の挑発にも、亞莎は冷めた声で呟く。 「戦はおぞましく、恐ろしく、忌避されるものです。あなたのような英雄が喜び勇んで駆けつけるような場所ではもはやない」  涙の跡を隠しもせず、しかし、超然とした表情で、亞莎は続ける。 「戦場の英雄は。もはや必要ないのです」 「ならば貴様も要らぬということか」  亞莎はそこで小首を傾げ、愛紗の言葉に少し考え込んだようであった。 「そうですね。その通りかもしれません」  あっさりとうなずく姿は、もはや愛紗からは狂気しか感じられない。愛紗たちの常識では計り知れないなにかが彼女のなかにはあるというのだろうか。 「そもそも、戦乱の世を生み出すのは……」  そこまで言ったところで、亞莎はばっと後ろを振り返る。  風のように近づいてきた人物の気配を感じ取っていたというのに、彼女はその小柄な影に抱え上げられるのを防ぐことができなかった。 「なにをしているのですか。さっさと逃げますよ!」  肩からぶつかられ、すくいあげられるようにして持ち上げられる。そのまま、荷物のように背負われて、亞莎は運ばれていく。 「み、明命!?」  自分に近づいてくる人間が明命だと言うことくらいはわかっていたが、そのままつっこんでくることはもとより、抱えられたまま運ばれることなどさすがに想定もしていない。  亞莎が素っ頓狂な声をあげるのに、明命がしかりつける。 「どうせ、自分も討たれるつもりだったのでしょう! そんなこと許しません!」 「い、いえ、そんな……」  しかし、亞莎の反論はそこで途切れる。改めて言われてみて、そうでなかったとは言い切れないところが、どこかあった。  わざわざ部下を殺した責任はなんらかの形で果たさねばならないのだから。 「このまま一刀様の陣まで駆けます!」  言いながら、部下たちと共に、明命は駆ける。  その肩の上で揺られながら、これでよかったのかもしれないな、と亞莎は考えていた。  愛紗を殺したりすれば、その部下たちは狂乱するだろう。  かえって、あのまま屍の中に放置する方が、精鋭とは言え一般兵である愛紗の部下たちは、怖じ気づいてくれることだろう。  一騎打ちは終わりを告げた以上、時間稼ぎにはそのほうが向いている。  機をうかがっていた明命の乱入で、その場の局面は大きく変わった。  残されるのはあっけにとられる愛紗とその部下たちだ。 「あやつら、偃月刀まで持って行ったな……」  周囲を見回し、自らの青龍偃月刀がないのを確認して、死体の山の中、愛紗は小さくため息を吐くしかないのだった。  2.夢 「なに言ってんの?」  猪々子が、状況すら忘れてそう問いかけるほど、漢朝の帝、劉伯和の言葉は驚くべきものであった。 「この世は北郷一刀の夢だと言うた」  対する男はくっくとおかしげに喉を鳴らし、さきほどの言葉を繰り返す。  男を除くその場にいる者たちは、複雑な表情で目配せを交わす。桃香の問いかけるような視線に、紫苑も桔梗も小さく首を振るほかなかった。 「狂うたわけではないぞ」  誰かが言う前に、男は先回りしてそんなことを告げる。 「まあ、狂うたと思ってもよいがな。貴様らのようになにも知らずに踊るのも一興であろう。この目から見れば、いくら愚かであろうとな」  暗い瞳で、男は吐き捨てる。桔梗はやれやれと頭を振った。 「いったいなにをさえずっておるのか、さっぱりよな」 「桃香様。戦場に連れて行くというのはともかく、これは……付き添いの者を用意する方がいいかもしれません」  紫苑も困ったように顔をゆがめて、桃香に声をかける。焔耶はぶすっとだまりこくり、猪々子と斗詩は再び沈黙に隠れた。  だが、桃香はじっと男のことを見ていた。 「どういうことでしょう?」  皆が黙る中、桃香が尋ねかける。男は愉快そうにかすれた声をあげた。 「簡単なことよ。この世の理というものが、この書に書かれておる。まあ、これはその中の一巻でしかないがな」  男が懐から出したのは、一巻きの竹簡だった。  それは于吉という人物が書き、漢朝に納めた『太平清領書』のうちの一巻であるが、もちろん、桃香たちにそんなことはわからない。 「私たちの生きるこの世が一刀さんの夢だと?」  慎重に、桃香は確認するように問う。男はくふくふといやらしい息をもらしながら、続ける。 「そうはっきりと書かれているわけではない。ただ、この世を生み出したきっかけは北郷一刀に他ならぬ」 「わからぬな。いかにあの御仁が不思議な出自であろうと、わしらよりも年若い者が、どうしてこの世を作ることができるというのだ」 「さあて、そこまではわからぬよ」  独り言のように漏らす桔梗に、男はふんと鼻を鳴らして応じる。 「だが、あやつがこの世に現れてからのことを考えてもみよ。全てはあやつを中心に動いておった。それをおかしいとは思わなんだか」  曹家の跡取りとはいえ、所詮は一地方の実力者でしかなかった華琳が、一刀を拾った後に中央にまで名前がとどろくようになっていったのはたしかなことである。  だが、それはいくらなんでもこじつけに聞こえた。  なにしろ、黄巾党が出現し、それを討伐する各地の実力者たちが躍進するという時代のうねりがあったればこその話である。  いかに時機が一致しようと、それは一刀のおかげではなく、華琳の力と考えるのが当然であろう。 「曹孟徳に拾われたのですから、おかしなことではありませんでしょう。この何年かの大陸は、曹孟徳という人物によって動かされていたと言ってもいいのですから」 「たしかにな。だが、この書には、あやつが孟徳めに拾われるそのことすらも書かれておる。朕が帝位につく前から、な」  帝は……かつての陳留王としてそれを読んでいた男は、ゆっくりと竹簡を振った。 「いや、そもそも、朕がこの書を信じたのは、我が兄が廃され、帝となったそのことをもってだ。それまではたわけた作り話と思っておったわ。あまりに絵空事ばかりであったからな」  昔から信じておれば、もっと違ったのかもしれぬな、と男は誰にともなく呟いた。 「しかも、その後のことまで、全て書かれておった。孟徳が勝利することも、蜀が負け、三国にかりそめの平和が訪れることも。なによりも、北郷めが消えることもな」  そこで、男はなにか遠くを見るような顔つきになった。どこか自分でも納得できていないというような顔。 「不思議なことに、当初はそこで書は途切れていたはずであった。ところが、北郷めが戻ってきた途端、いつのまにか書は増えておった。そう、ずっと先のことまで記してな」  男は女性たちの顔を見回す。そして、そこに浮かぶ表情を見てとって、かふかふと喉をならした。  あるいは、それは彼なりのくすくす笑いだったのだろうか。 「妄言と思うか? それもよかろう。だが、面白いことを教えてやろう。朕は知っておる。馬超と公孫賛めが北郷旗を掲げてこの地を目指しておることも、南方の蛮族どもが巨大な獣に乗って押し寄せてくることも、孟徳めがなにやら奇っ怪な乗り物を作ってやってくることもな」  桔梗たちの顔がひきつる。それは秘中の秘たる情報であったからだ。  ましてや、美以たちの行動を、彼女たちは知らない。  重ねて、男は言葉を放つ。 「そうそう。疑うなら、これを、そこの二人に聞いてみよ。朕を帝に据えた張本人が、いまや襄陽で土を突き固める人足となっているかとな。そう、張譲のじじいのことよ」 「ええと、はい。まあ、そうですね」  ばっと一気に視線が集まり、斗詩が言いにくそうにうなずいた。  猪々子はよくわからないという顔しているだけだが、この中で、斗詩だけはこの時点で帝の話にはなにかの裏付けがあるのではないかと感じていた。  いかに間諜を放ったとしても、張譲たちが襄樊地区で人夫をやっているなど、なかなかわかるものではなかろう。  そもそも、興味を持つ人間が少なく、噂になりづらいからだ。 「いえ、しかし……。情報は集めればなんとでも……」  だが、そんなことを呟く紫苑や、その横で怒ったような顔をしている桔梗は、いまだ怪しいと考えている。  帝にあること無いことを吹き込む人間は多くいるのだから。  彼女たちには、暇な男が、それらの耳打ちから、なにかおかしな話を作りあげてしまったというような事態のほうがありそうに思えた。  どちらかといえば、彼女たちは帝の正気のほうを疑っているわけだ。  その中で、桃香は斗詩のようにも、桔梗たちのようにも思っていなかった。  彼女の関心は別にある。 「わかりました」  放っておくと、これ以上におかしなことを言い出しそうな男の話を打ち切り、彼女は自らの部下の一人に視線を向ける。 「焔耶ちゃん、ちょっと教えてくれるかな?」 「はい」  いきなり問いかけられた焔耶は、なぜ自分にと不審そうな顔つきながらも、しっかりと応じる。 「焔耶ちゃんは戦に行くよね」 「はい」 「死ぬことも考える?」 「それはもちろん」  武人であるからには、死ぬことを考えぬのは愚か者である。死を意識しつつも、自らが生き抜く術を探り、それを信じる。  己の生も死もみつめる。  それが戦場に立つ武人に課せられるさだめである。  だから、次に問われたことにも即座に答えられた。 「じゃあ、自分が死ぬことも考えて、それで……やめる?」 「やめません」  彼女はぐっと拳を握りしめて、言葉を続ける。 「たとえ、次の一歩で足下が消え、見えるものが失せ、命がなくなろうとも」  鋼の手甲がぎしぎしと音を立てる。そこに込められた力を、聞く者は感じた。 「ワタシは桃香様のために歩き続けます」  3.決意 「うん。ありがとう」  焔耶の答えをじっくりと味わうように、桃香の礼まではしばらくかかった。  にやりと桔梗が笑みを浮かべる。それは弟子への賞賛の証であったかもしれない。 「そうよな。朝、目を覚まさずに死ぬ者がどれほどおるか。死ねば、その者の世は終わる。この世が夢? そこに全てが書いてある? 夢で結構。あらかじめ書かれていて、わしにとって、なんの害がある。夢見る者が目を覚ますまでは、わしの好きにさせてもらおうさ」 「そうね。よくよく考えてみたら、未来なんてわからないもの。それに、一刀さんが見る夢なら、きっと楽しいわ」  鈴を転がすような笑い声をたてて、紫苑が言う。さすがにその言に、桔梗も焔耶も苦笑していた。  皆の……あほらしいといった様子の猪々子や、真剣に何事か考えている斗詩の顔つきまで眺めやって、桃香はうなずく。  そして、彼女は男のいる部屋へと歩を進めた。桔梗に顎で示されて、焔耶がその後ろにつく。  十歩ほどの距離まで近づいて、彼女は帝に声をかける。 「帝の言葉が、真実かどうか、私たちにはわかりません。いえ、真実かどうか、それを判断する必要もありません」 「なに?」  桃香はいっそ目の前の男に同情するかのような表情で尋ねる。 「この世が、一刀さんの夢だったとして……。帝は、私たちの行動を無意味だと言っておられませんでしたか?」 「無意味ではないか。全ては決まっているのだ。ならば、なにもかもが無意味だ!」  いらだちをぶつけるように帝は言い放つ。  あるいは、彼はずっとそれを呪いの言葉として心の中で唱えてきたのかも知れない。  意味がない、意味がない、全ては意味がない。  三国の王たちの成功も、自分が生きているということも、なにも意味は存在しないのだと。 「……そのお考えそのものが危険なのです」  ほう、と桃香はため息をつく。とても、つらく、悲しそうに。 「なんだと?」 「この世が一刀さんの見る夢であるかどうかなどということは、私にも、ここにいるみんなにも、そして、あなたにも、本当はどうでもいいことなんです」  ふるふると首を振りながら、彼女は告げる。 「全てが決まっていると言いますけど、それを動かしているのは私たちです。誰かが無駄だと思って全てを投げ捨てたなら、必ず迷惑する人が出ます。いえ、死ぬ人が出ます」  そのことを、桃香ほど、一刀ほど、三国の王ほど知る者はいない。  誰かが手を抜けば、それだけで人は死ぬ。  あっけなく、数十、数百の単位で。 「あなたは、それも決まっていることだと言われるかもしれません。あるいは、代わってくれる人が出てくるのかもしれませんね。それも、誰かが決めてくれているのかもしれない。でも、私は、自分にできることもせず、人が困るのを放っておくことはできないんです」  桃香は言って、手を広げる。誰かを抱きしめようとするかのように。 「ここにいる皆もそうです。蜀の人だけじゃない。みんな、そうなんです」  もう一歩、彼女は近づいた。  男が、じりと下がる。何かを恐れるように。 「無駄になることなんてありません。やってみて後悔することもあるでしょう。失敗することもあるでしょう」  桃香がもう一歩進み、帝が下がる。 「でも、やらずに見ていることなんてできるはずがない」  もう一歩。 「夢であろうと、変わりません。明日、この世が滅びようと変わりません。私は、やるべきことをやります。紫苑さんは璃々ちゃんにお話をしてあげるでしょう。桔梗さんは、兵たちを鍛えてくれるでしょう。焔耶ちゃんは私たちを守ってくれるでしょう」  また一歩。  「けれど、あなたは違う」  男の顔に汗がしたたる。それまで感情らしき感情は、さげすみしか見せていなかった男の顔に、恐怖がはっきりと現れていた。 「全てをあきらめて、全てがどうでもいいと思っている」  聞く者全てがこの頃には気づいていた。 「自分がなにをしようと変わらないと思っている。良くも悪くならないと」  桃香の怒りを、優しい彼女が抱く、悲しくも激しい怒りを。 「そんな人に、国は任せられません」  帝の足が、壁際に置かれた卓にまで到達する。がたんと音を立てて、彼は卓の上に乗り上げた。  そんな動揺しきりの男をまっすぐに見据え、彼女は宣言した。 「漢の……蜀漢の帝位は、私が引き継ぎます」  世にも名高き、一日、いや、半日皇帝の誕生であった。 (玄朝秘史 第四部第三十四回『漢中決戦 その七』終 /第四部第三十五回に続く)